一

<ruby><rb>暗欝</rb><rt>あんうつ</rt></ruby>な空が低く垂れていて家の中はどことなく薄暗かった。父親の<ruby><rb>嘉三郎</rb><rt>かさぶろう</rt></ruby>は鏡と<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>とをもって<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>へ出て行った。併し、縁側にも、暗い空の影が動いていて、植え込みの緑が<ruby><rb>板敷</rb><rt>いたじき</rt></ruby>の上一面に溶けているのであった。

「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」

嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>かに尻を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、すぐ頬の<ruby><rb>無精髭</rb><rt>ぶしょうひげ</rt></ruby>を剃りにかかった。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん！　<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、鼻の下の方も、剃ってしまいなせえよ。」

<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の中から母親の松代がそう声をかけた。

「余計な口出しをするな！」

嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。

「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……」

「笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」

「お父さんがその気だから、<ruby><rb>美津</rb><rt>みつ</rt></ruby>なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が（お嬢さんお嬢さんて！）言われていた時の気で髭ばかり<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。」

「馬鹿っ！　貧乏はしても嘉三郎だぞ！　そこえらの<ruby><rb>水呑</rb><rt>みずのみ</rt></ruby>百姓と<ruby><rb>縁組</rb><rt>えんぐみ</rt></ruby>が出来ると思うのか！　痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ！　何百人という人間を髭を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>り稔り<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で使って来てる<ruby><rb>大請負師</rb><rt>おおうけおいし</rt></ruby>だぞ。何は無くっても<ruby><rb>家柄</rb><rt>いえがら</rt></ruby>ってものだけは残っているんだ。」

「家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。<ruby><rb>俊三郎</rb><rt>しゅんざぶろう</rt></ruby>なんかも、家柄のために、なんぼ苦労しているだか。自分じゃあ気楽に百姓していたがるものを、お父さんが（<ruby><rb>俺家</rb><rt>おらがうち</rt></ruby>の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>も東京へ勉強に出ていますがな！）って言って髭を稔っていてえばかりに、銭の一文も送れねえのに無理に苦学になど出してやって……」

松代はそう涙声になりながら続けた。

「馬鹿！　俊や美津のことなど言うなっ！　黙っていろ！」

嘉三郎は又そう怒鳴った。それで二人の間の争いはぷっつりと消えた。重い沈黙がそして<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がって来た。

そこへ庭から郵便配達が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来て、嘉三郎の膝のところへ、一通の封書をぽんと投げて行った。嘉三郎は髭を剃るのをやめて封書を取り上げた。そして、嘉三郎は、驚異の眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>りながら、大急ぎで封を切った。

二

嘉三郎は手紙を読みながら、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をごくりごくりと鳴らして、何度も唾を<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み下した。そのうちに両手がわなわなと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え出して来た。そして彼の<ruby><rb>眼頭</rb><rt>めがしら</rt></ruby>には、ちかちかと涙さえ光って来た。

「郵便が来たんじゃねえかね？」

松代がそう言いながらそこへ出て来た。

「美津の畜生め！」

嘉三郎は突然そう怒鳴って、手にしていた手紙を<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>に引き裂いた。

「何をするんだね？　お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんは！　それで美津は、どこにいるんだね？」

「美津の畜生め？　俺の顔に泥を塗りやがって、いくらなんでも鼻の先にいべえとあ思わなかった。」

「美津はどこにいるんだね？」

「忠太郎の野郎と一緒に<ruby><rb>高清水</rb><rt>たかしみず</rt></ruby>にいやがるで、忠太の恩知らず野郎め！　泥足で俺の顔を踏みつけやがって。」

「忠太郎と一緒にいるのかね？　最初からそんなような気がしていたよ。忠太郎ならいいじゃねえかね？」

「馬鹿！」

嘉三郎はまたそう怒鳴った。そして髭を剃るのをやめて、<ruby><rb>黙々</rb><rt>もくもく</rt></ruby>と、<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>へ行って坐った。松代は<ruby><rb>怖々</rb><rt>おずおず</rt></ruby>と、炉端へ寄って行った。そしてお互いにしばらく<ruby><rb>凝</rb><rt>じ</rt></ruby>っと黙っていた。嘉三郎は眼を伏せるようにして、溜め息をつきながら炉の上に屈み込んでいたが、灰の上にぽとりと涙が落ちた。嘉三郎は、涙をそっと押し隠すようにしながら静かに顔を上げた。

「松！　着物を出せ！」

嘉三郎は<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>な調子で言って、固く唇を結んだ。

「着物をね？　忠太郎と一緒なら、行かねえで、構わねえで置いたらいいじゃねえかね。美津が好きで一緒になっているものなら。」

「投げて置けるか？　早く着物を出せ！　畜生共め！」

「好きで一緒になって、どうやら暮らしているのなら、構わねえで置けばいいものを……」

松代はそう独り言のように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら着物を出して来た。

「暮らしがつかねえでるのだ。忠太は何も仕事がねえのに、美津は美津で、病気をして寝てるってんだ。畜生共め！いっそのこと死んでしめえばいいんだ。俺の顔さ泥を塗りやがって。」

嘉三郎はそう言ってもう一度そこへ坐った。

「そんなに困ってるどこさ、<ruby><rb>空手</rb><rt>からて</rt></ruby>で行ったって、仕方があんめえがね。金を都合して行くとか……」

「なんで金など？」

嘉三郎は追い<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せるように言って、またぐっと口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。再び重い沈黙が割り込んで来た。そして嘉三郎は暫くしてから、松代をぐっと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけるようにして言った。

「松！　<ruby><rb>兼元</rb><rt>かねもと</rt></ruby>を出して<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>う。<ruby><rb>刀</rb><rt>かたな</rt></ruby>をさ。」

「刀をね？　刀なんか何するんだね？　お父さんは！」

「畜生どもめ！　叩き切ってやる。先祖の面を汚しやがって。」

「何を言うんだね？　お父さんは！　<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のようなことを言ったりして……」

「なんでもいいから早く出して来う。<ruby><rb>俺家</rb><rt>おらがうち</rt></ruby>は、<ruby><rb>代々</rb><rt>だいだい</rt></ruby>、<ruby><rb>駆落者</rb><rt>かけおちもの</rt></ruby>なんか出したことのねえ家だ。犬共め！」

「それはそうかも知んねえが、代々、こんなに<ruby><rb>零落</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れたこともあんめえから。」

「出して来ねえのか？　そんなら自分で出して来るからいいで。<ruby><rb>貴様</rb><rt>きさま</rt></ruby>まで<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>が腐りやがった。」

嘉三郎は叫ぶように言って座敷へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。

「お父さんてば！」

松代は泣きそうにして嘉三郎の手に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>った。併し嘉三郎は、ぐんぐんと<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の前へ寄って行って<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>しを開けた。同時に、どこから飛び出して来たのか、次女の<ruby><rb>嘉津子</rb><rt>かつこ</rt></ruby>も父親の腕に縋った。

「お父さん！　お父さんたら！　お父さん！」

併し、嘉三郎は、左手に刀を握りながら、右手でぐっと、松代と嘉津子とを払い除けた。

「男のすることにあ、例えどんなことにもしろ、女どもが口出しをするもんじゃねえ。」

嘉三郎は二人を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけるようにして言った。その眼はぎらぎらと涙で濡れていた。頬にまで涙は流れて来ていた。

「嘉津！　お前もよく覚えて置けよ。」

父親の嘉三郎はそう言って出て行った。松代は、<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る<ruby><rb>瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>なさそうに、嘉津子の頭を自分の胸へぐっと<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えた。嘉津子は母親の胸の中で静かに<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>を始めた。

「殺すようなことまでしねえよ。<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>すだけさ。お父さんの気持ちになれば無理のねえことだし……」

松代は漸くそれだけを言った。

三

暗くなるまでには四時間あまりもあった。<ruby><rb>高清水</rb><rt>たかしみず</rt></ruby>は、歩いて行っても、三時間で行けるところだった。汽車もあるにはあるが、<ruby><rb>小牛田</rb><rt>こごた</rt></ruby>で東北本線に乗り換え、<ruby><rb>瀬峯</rb><rt>せみね</rt></ruby>まで行ってから軽便鉄道で<ruby><rb>築館</rb><rt>つきたて</rt></ruby>まで行き、そから高清水まで歩くとなると、乗り換え時間の都合や何かで、三時間ぐらいで行けるかどうかわからなかった。それに、嘉三郎は、<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>をもたずに家を出て来てしまったのだ。併し、汽車のあるところを、てくてく歩いて行くなどということは、嘉三郎の気持ちの、どうしても許さないことだった。そればかりではなく、例えどこまでにもしろ、無一文で旅をするということは、嘉三郎にはどうしても出来なかった。

嘉三郎は、途中、しばらく<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>してから、<ruby><rb>米問屋</rb><rt>こめどんや</rt></ruby>に這入った。ちょうど折よく主人は家にいた。そして嘉三郎はすぐ茶の間へ通された。

「嘉三郎さん！　それはいつかの<ruby><rb>兼元</rb><rt>かねもと</rt></ruby>じゃねえかねえ？」

細長い風呂敷包みに眼をやりながら、米問屋の主人は、<ruby><rb>微笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を含んで言った。

「兼元でがすよ。これだけは手放すめえと思ってたんでがすが、東京へ勉強に行っている<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>から、金を送れって言って来たんで、とにかく、持って来たわけなんですがな。いつかの話を思い出して……」

嘉三郎は坐りながら挨拶代わりにそう言った。

「そりゃあ、もちろん、送って上げなくちゃなんねえね。私が売ってもらいますべえよ。いつか私が言った値でいいかね？」

「それがですね。私の気持ちでは、出来るなら、売り切りにしたくねえんでね。先祖から伝わってるもので、どうせ私から伜へ伝わって行くものだし、伜の学資のために売ったとなれば、伜も何も文句はねえと思うんですが、伜が成功でもしたとき、またそれが欲しくなるかも知れねえですからね。それでですね。今は、あの半分だけ借りて置いて、一応は伜と相談してから売り切りにしたいんですがね。」

嘉三郎は<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りながら言った。

「そりゃあ承知です。半分でなくたって、元金に利子せえ添えて下さりゃあ、私あいつでも返しますよ。それなら相談するまでもありますめえで。」

「それなら伜になど相談しねえんでいいんですがね。併し、沢山借りるのも気になりますから、それじゃあ、百円だけ……」

「百円。百円でいいかね。」

「売り切りじゃねえですよ。」

「承知です。」

頭をさげるようにしながら米問屋の主人は店の方へ立って行った。

「伜を一人、東京へ勉強に出して置くと、金がかかりますでね。私もそのためにあ、先祖から伝わっている刀まで手放さねえなんねえんでね。今はこうして半分だけ借りて行っても、すぐ又はあ、伜から金が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るって言って来れば、残りの半分を借りて、売り切りになるかも知れませんで。」

嘉三郎は髭を捻りながらそう米問屋の主人の背後に語りかけた。

「そりゃあ、東京へなど勉強に出して置いたら、随分とかかりましょうなあ。」

そんな風に言いながら、米問屋の主人は幾枚かの<ruby><rb>紙幣</rb><rt>さつ</rt></ruby>を握って、すぐ戻って来た。そしてその紙幣を、嘉三郎の前へ置いて<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>にその横から細長い包みを取った。嘉三郎は、自分の前に置かれた何枚かの紙幣を、数えても見ずに<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の中へ押し込んだ。

「立派なものだなあ。」

<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払って<ruby><rb>刀身</rb><rt>とうしん</rt></ruby>を<ruby><rb>凝</rb><rt>じ</rt></ruby>っと眺めながら米問屋の主人は言った。

「何ぶんにも<ruby><rb>大業物</rb><rt>おおわざもの</rt></ruby>ですからな。」

「嘉三郎さん！　今日中に送るのなら、早く行かないと、郵便局が閉まりますで。待っていなさるんだべが……」

「それさね。」

嘉三郎はそう言いながらも、悠長に立ち上がって、<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>の往来へ出たが、何故かもう、汽車で行く気にはなれなくなっていた。

四

高清水へ着いたときにはもう薄暗くなっていた。嘉三郎は、以前、商用で何度も来たことがあったが、詳しくは知らなかった。それに、<ruby><rb>素面</rb><rt>しらふ</rt></ruby>で会うのも、何となく<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な気がした。嘉三郎は<ruby><rb>町外</rb><rt>まちはず</rt></ruby>れの居酒屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。

「<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>てえのを茶碗でくんねえかね。」

嘉三郎はぽっそりと言った。同時に、二三人の客の眼が、嘉三郎の方へ一斉に集まって来た。嘉三郎は手で髭を隠すようにした。

「あの、高橋治平さんという人の家は、どの辺だね？」

嘉三郎は、そう酒を運んで来た茶屋女に、髭を隠すようにしながら訊いた。

「すぐこの先でがす。三軒、四軒、五軒、六軒目の家でがす。<ruby><rb>饂飩屋</rb><rt>うどんや</rt></ruby>ですぐ判ります。」

「その家には、<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>でも、別にあるのかね？」

「離室って、前に、馬車宿をしてたもんだから、そん時の待合所を奥さ引っ込んで、どうにか人が寝泊まり出来るように<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたのがあるにはあんのでがすけど、今のどころ、<ruby><rb>他所者</rb><rt>よそもの</rt></ruby>の若夫婦が借りてるようでがす。」

「お！　一栗の嘉三郎<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>じゃねえかね？」

突然、そう誰かが、薄暗い土間から立ちあがった。

「私かね？　私は古川の者ですよ。古川の<ruby><rb>繭商人</rb><rt>まゆあきんど</rt></ruby>ですよ。」

嘉三郎はぎょっとしながら、髭を隠して、<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>を使ってそう言った。

「併し、よく似た人だがなあ。」

<ruby><rb>印半纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>の土工風の男は首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げながら言った。

併し、嘉三郎は、そのまま何も言わずに、残っている<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひやざけ</rt></ruby>を一息にあおると、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しく勘定をして、<ruby><rb>梅雨</rb><rt>ばいう</rt></ruby>の暗い往来へ出て行った。

五

<ruby><rb>饂飩屋</rb><rt>うどんや</rt></ruby>の横を、嘉三郎は、黙って奥へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。庭に栗の木が一本あって、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>葉</rb><rt>ば</rt></ruby>がばらばらと、顔に触れた。そして、栗の花の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>が鼻に<ruby><rb>泌</rb><rt>し</rt></ruby>みた。

ちょうどそこへ、忠太郎がどこかへ出るのらしく、立て付けの悪い板戸を開けたので、薄い光が、<ruby><rb>幅広</rb><rt>はばひろ</rt></ruby>い縞になつて流れ出して来た。

「忠太郎！」

嘉三郎はそう声をかけた。

「あれ！　お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんだぞ。美津！　お父さんが来た。起きろ。」

忠太郎は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>しながら言った。

「美津の病気はどういう具合だ？」

嘉三郎はそう言いながら中へ這入った。

「お父さん！」

美津子は寝床の上へ起き上がって<ruby><rb>凝</rb><rt>じ</rt></ruby>っと父親の顔を<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「寝てろ！　お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ？起きてでいいのか？」

「<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を少し引いて……」

横から忠太郎がそう言った。

「今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。<ruby><rb>母親</rb><rt>かかあ</rt></ruby>が心配してたぞ。」

「お父さん！」

美津子はそう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る<ruby><rb>瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>ないように叫びながら、<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>に顔を押し当てて、静かに<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりな</rt></ruby>いた。

「美津！　俺が来たのに泣いたりするなあ。泣くなら帰るで。」

併し、嘉三郎の頬にも、涙が伝わって来ていた。

「そこに栗の木があるな？　<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るどき、葉の<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだれ</rt></ruby>が顔さかかって……」

嘉三郎はそう言って眼のあたりを拭った。

「お父さん！　今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして……」

「何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか？　こんなどこで俺の恥まで<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>すより、東京さでも行けばいいじゃねえか？　馬鹿な奴等だっ！　東京さでも行って立派になって<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>う！　忠太郎！」

「それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>がいなくなるごと考えたりして……」

「馬鹿なっ！　稼がせるために忠太郎を美津の<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>にしたとなると、それこそ、世間さ顔向けが出来なくなる。何も心配しねえで、自分達だけ、立派になって来う。」

「それより、お父さんさ、酒でも買って来たら？」

美津子は漸く顔を上げて言った。

「酒か？　酒なら呑んで来たばかりだ。酒より話でもする方がいいで。」

嘉三郎はそう言ってとめたが、忠太郎は黙って、そそくさと出て行った。

「お父さん？　本当に悪いことして。」

美津子は又そう言って布団に顔を当てた。

「何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえが、お前がこんな豚小屋のようなところにいてあ、俺だって気持ちがよくねえからなあ。お前の病気が<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったらすぐ東京の方さでも行くさ。」

「ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも……」

「旅費を<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ溜めるって、何か、仕事があんのか、金なら、百円は少し欠けるけども、持って来てやった。これで、どこへでも、落ち着くんだな。」

父親の嘉三郎はそう言って<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>からそこへ金を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み出した。美津子はぎらぎらと濡れた眼に驚異の表情を含んで<ruby><rb>凝</rb><rt>じ</rt></ruby>っと父親の顔を見た。二人ともそして何も言うことが出来なかった。

「美津！　お前は少し痩せたでねえか？」

嘉三郎は、しばらくしてから娘の手を握った。

六

雨の中を、嘉三郎は、朝飯前に自分の家へ帰って、炉端へ坐ったまま黙っていた。

「美津はどうしていたかね？」

松代は不安そうにして聞いた。

「何も心配しねえでいいだ。」

嘉三郎はそう言ったきりで、また<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>りつづけた。

そこへ、近所の百姓女が来て、<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へ腰をおろした。

「美津ちゃんは、近頃、どこかへ行ってますか？」

百姓女はそう突然に聞いた。

「東京へ勉強にやりましたよ。今時は、女でも、学問がないと馬鹿にされますでなあ。<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>で行ってるんですあ。」

嘉三郎はそう髭を稔りながら言った。そのとき、ふと嘉三郎は、昨日、<ruby><rb>頬髭</rb><rt>ほおひげ</rt></ruby>の<ruby><rb>逆剃</rb><rt>さかぞり</rt></ruby>をしていないのに気がついた。彼は髭を捻りながら立ち上がった。

「馬鹿に栗の花の匂いがするなあ。松や！　今年の秋は、栗を沢山採って、東京さ勉強に行っている奴等に送ってやれよ。」

嘉三郎はそう言いながら、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>と鏡とをもって、縁側へ出て行った。

――昭和七年（一九三二年）『若草』八月号――