Soranoha

私の生ひ立ち

わたしのおいたち

与謝野 晶子

私の生ひ立ち 一

学校へ行く私が、黒繻子くろじゆすの襟えりの懸つた、茶色地に白の筋違すぢかひ雨あめと紅べにの蔦の模様のある絹縮きぬちゞみの袢纏はんてんを着初めましたのは、八歳やつつ位のことのやうに思つて居ます。私はどんなにこの袢纏が嫌ひでしたらう。芝居で与一平よいちべいなどと云ふお爺ぢいさん役の着て居ますあの茶色と一所いつしよの茶なんですものね。それは私の姉ねえさんの袢纏だつたのを私が貰つたのだつたらうと思ひます。十一違ひと九つ違ひの姉ねえさんの何方どちらかが着て居ましたのは恐らく私の生れない時分だつたらうと思ひます。大阪へ出て古着を安く買つて来るのがお祖母ばあさんの自慢だつたやうですから、それも新しい切地きれぢで私の家うちへ買はれて来た物でないと認めるのが当然だと思ひます。で袢纏の絹縮は其その頃から二十年位前に織られて染められて呉服屋の店へ出されたものであらうと今から思へば思はれます。私はこの袢纏を二冬程ふたふゆほど着て居たやうに思ひます。私はこの時分程同級生にいぢめられたことはありません。私が鳳ほうと云ふ姓なものですから、

「鳳さんほほづき。」

「鳳さんほうらく。」

私をめぐつて起る声はこの嘲罵より外ほかにありませんでした。

「鳳さんほほづき、ほう十郎、ほらほつたがほうほ。」

塀の上や木の枝の上から私に浴びせかけて、かう云ふのは男の同級生でした。私が学校の黒い大門を入りますと、もう半町程向うにある石段の辺あたりではほほづき、ほうらくの姦かしましい叫びが起るのでしたから、私がこの悲い目に逢ふのも、一つは茶色のかうした目立つた厭な色の袢纏を着て居るからであると、朝毎あさごとに思はないでは居られませんでした。私は手織縞ておりじまの袢纏を着た友達を羨んで居ました。けれど私は絹縮の袢纏がぼろぼろに破れてしまひますまで、そんな話は母にしませんでした。私の母は店の商売の方に気を配らなければならないことが余りにあつて十分と沈着おちついて私達と向ひ合つて居るやうなことはありませんでした。また私とは違つて継母まゝはゝに育てられて居る私の姉達が、いろ〱なことを一人々々が心一つに忍んだ淋しい日送りをして居るのを見て居をりますから、私も苦しいことを辛抱し通すのが人間の役目であると云ふやうに思つて居たらしいのです。私に始終意地悪ばかりをした水谷みづたにと云ふ男の子の顔は今でも思ひ出す時があつて気持ちが悪くなります。朝早くその子が登校して居ない間に私が行つて、教場の薄暗い隅の方などに隠れて居れば比較的無事なのですが、私の家うちは朝の忙しい商売で、学校へ子供達を出すのも大方は時間かつ〱なのでしたから、どうしても私は水谷のひどい罵のゝしりを受けた後あとでなければ先生のお顔を見られませんでした。水谷は頭に腫物おできの跡が充満いつぱいある、何時いつも口から涎よだれの伝はつて居る厭な厭な子でした。そして水谷は子供のくせに千筋縞せんすぢしまの双子織ふたこおりの着物を着て居ました。帯は黒い毛繻子けじゆすのくけ帯を貝かひの口くちに結んで居ました。紺木綿こんもめんの前掛をして居ました。

これも二年生位の時、先生は修身しうしんの話をしておいでになりましたが、

「あなた方、此処ここに三羽のひよこがあるとしまして、二羽のひよこは今人から餌ゑを貰つて食べて居ます。一羽のひよこはそれを見てます。さうするとその一羽のひよこはどんなことを思つて居ると思ひますか。解わかつている人は手をお挙げなさい。」

とお云ひになりました。手を挙げたのは僅に三人でした。私はもとよりその中ではありません。一番の子と二番の子と三番の浅野あさのはんがそれです。

「浅野はん。」

と先生は指名をなさいました。私はこのむづかしい問題を説き得たと云ふ浅野はんをえらい人であると思つて、後うしろに居るその人の顔を振返つて眺めました。

「私も欲しいと思ひます。」

浅野はんはかう云つただけです。先生は可否をお云ひにならずに、外ほかの二人を立たせて答をお聞きになりました。

「私も欲しいと思ひます。」

皆この言葉を繰り返しただけです。私はつまらないことを考へる人達だと三人を思ひました。一羽のひよこが何を思つて居たかは、人間の子供の私達にさう容易たやすく解る筈はずはないが、何と云つてもそんな簡単なものでないと思つたのです。

「さうです。それに違ひありません。」

と先生はお云ひになりました。私はそれにも関らず一羽のひよこの真実ほんたうの心持が解りたいとばかり幾年か思ひ続けました。浅野はんの名はそのために今も頭に残つて居るのです。

私は満三歳みつつになつて直すぐ学校へ遣やられました。ですから遊びの方に心を引かれることが多くて、字を習ふ方のことを情けなく思つて居ました。私と同年おないどしの竹中たけなかはんが私の家うちへ遊びに来る約束をしてくれました。その日になりますと私は嬉しさに学校へ行く気になれませんでした。母がどんなに勧めても、私に附いて居る小い女中が促しても、私は今日は家うちで竹中はんと遊ぶのだとばかり云つて、学校へ出ようとはしませんでした。あなたがどんなに遊ばうと思つても、竹中はんは学校へおいでになるから、午後ひるからでなければ遊ばれませんよ、と女中が云ひましても、私はじつとして待つて居れば、楽しい時間の来ることが早いと云ふやうに信じて居るものですから、我儘わがまゝを云ひ張つて、お盆にお菓子を充満いつばい載せたのを持つて来させて、隠居所の二階の八畳に女中と二人で座つて居ました。そして時々欄干てすりの所へ行つて下の街を眺めました。それは竹中はんの影が見えないかと思ふからでした。そのうちに私はだん〱淋しい、心持になつて来ました。悔恨の悲みはもう私の胸にいつばいに広がつて居ました。竹中はんがおいでになつてから開けますと女中は云つて、庭向の方の雨戸はまだ閉めたまゝなのです。暗い縁側の方を向いて、こんな我儘をした私はもう本宅おもやへ行つて母にも姉にも逢はれないと云ふやうなことばかりを思ひました。そして昨日きのふの約束は、双方の女中同志がしてくれたものの、竹中はんは真実ほんたうに来てくれるのだらうかと云ふ不安も感じないでは居られませんでした。欄干てすりの所へ倚よつて見ますと、本宅おもやの煙突は午ひる近くなつてます〱濃い煙を吐くやうになり、窓の隙間から男女なんによの雇人やとひにんの烈しく働いて居る姿の見えるにつけて、私は我儘者、不勉強者であると云ふことばかりが思われるのでした。色の白い細面ほそおもての美くしい竹中はんが、女中と並んで十一時半頃に東の方から歩いて来るのを見ました時、私の胸にはどんなに高い動悸が打つたでせう。私の居る二階の下まで来ました時、竹中はんは上を一寸ちよつと見上げたまゝで、ずつと通つて行つてしまひました。失望して居る私に女中は午後ひるからを待てとも云ひませんでした。私も黙つて居ました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないとその刹那に感じました通り、その人とそれきり遊んだ覚えはありません。私はそれから満五歳いつつまでは、学校通ひを止やめさせようと云はれて家うちに置かれて居ました。

私の生ひ立ち 二 狸の安兵衛/お歌ちやん

狸の安兵衛

私の小い頃に始終家に出入りして居た車夫は、友吉ともきちと安兵衛やすべゑの二人でした。安兵衛は狸の安兵衛と云はれて居ました。私はその人を真実ほんたうの狸とも思つて居ませんでしたが、人間とは少し違ふもののやうに思つて居ました。安兵衛は肱ひぢに桃色をした花の刺青いれずみがしてありました。友吉は顔に黒子ほくろが幾つもある男でした。私の家うちではどう云ふ理由わけでか友吉の方を重んじて居ました。父と母が外出する時には、必ず父は友吉の方の車に乗りました。母が女中を供にして行く時には、女中が安兵衛の車に乗せられました。この二人の男は、ある時相談をして車夫を廃やめて新しい事業を起すことにしました。私は父母の前で、その計画に就ついて度々友吉の語つて居るのを聞きました。今から思つて見ますと、そんなことは大阪あたりで誰かの既にもうして居たことで、友吉等はその模倣者であつたのでせう。それは青や赤で塗つた箱馬車に子供を乗せて、一つの町を一廻ひとまはりして、降ろす時に豆と紙旗を与へるのでした。馬は真実ほんたうのでなく、紙ばかりでやはり赤や青で塗られたものでした。もとより自動車ではありませんから、誰かが押して歩いたものと思はれます。友吉と安兵衛は、揃ひの赤い洋服を着て居ました。友吉は御者台ぎよしやだいに居て喇叭らつぱを吹いて居ました。安やすは後うしろの板の上に立つて居ました。乗車賃は一銭位でしたらう。豆は三角の紙袋に入つて居ました。私は営業者の好意で、初めてから三日目位に、無賃でその馬車に乗せられました。ですから町々の辻を幾つ乗り越しても、乗車賃のかさむ心配はいらないのでした。私は入口の隅に腰を掛けて居ました。安兵衛の顔の近く見える方が心丈夫だつたのです。私の親しい同おなじ町内の子供達が、皆旗を貰つて馬車からばら〱と帰つて行き、薄見知うすみしりの顔の交つた隣町の子供等にも別れ、終しまひには誰一人馴染なじみのない子供等の中に、私だけが交つて行くことになつたのです。窓から外を眺めますと、人通りの少くて町幅の広い寺町てらまちに来て居ました。友吉はぱつぱつぱつ、ぱぱつ、ぱぱつと喇叭を吹きました。どんなにその音が私に悲しかつたでせう。車が停とまつた時に、安兵衛は私の淋しい顔を見て、

「嬢やん、豆あげまひよか。」

と云ひました。

「ちつとも欲しいことない。帰りたいのや。」

涙がほろほろと零こぼれました。

「いきまへんな。一番終ひに送つたげまつせ。」

私は仕方なしに点頭うなづいて居たのでせう。私の家うちのある方を背にして、車は南へ南へと行きました。私はそれきりその馬車に乗つた覚えはありません。何でも大人達の話で聞くと、友吉と安兵衛の仕事は一月ひとつきも続かなかつたのださうでした。損を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家うちの父や番頭の大阪行を引いて来た後あとを、銀場ぎんばの板いたの間まで向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満四歳よつつ位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母うばや女中が居ました。親類の小母をばさんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹ぼたんで名高い吉助園きちたすゑんと云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町うへほんまちの博物場へ廻るのです。中なかの島公園しまこうゑんへも行くのです。そして浪華橋なにはばしの下の生洲いけすの網彦あみひこと云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川よどがはの水をちやぶちやぶと手で弄もてあそぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私等に。

お歌ちやん

お照てるさんは向ひの仏師屋ぶつしやの子で、私より二つの歳上としうへでしたが、背丈は私の方が高いのでした。お春はるさんはその人の姉ねえさんでした。隣の藍玉屋あゐだまやには、より江えさんと云ふ子がありました。それは私に同年おないどしでした。その姉ねえさんが茂江しげえさんで、そのもう一つ上が幾江いくえさんでした。斜向すぢむかひの角の泉勇いづゆうと云ふ仕立屋の子は、お歌うたちやんと、名を云ひました。お歌ちやんは優しくて女のやうな気のする兄にいさんと、菊石あばたの顔にある嫂あによめに育てられて居るのでした。両親はもうありませんでした。私が学校へ行き初めた頃、力にしたのはこのお歌ちやんでした。小い姉がお歌ちやんによく頼んで置いたと云つてくれませんでしたら、七歳なゝつになつて再入学をしました私は、また学校を恐がつたかも知れません。お歌ちやんは三歳みつつ位は私より大きい子供でした。前髪と後毛を円まるく残したあとを青々と剃つた頭をして居ました。私は毎朝お歌ちやんを誘ひに寄りました。

「お歌ちやん、おていらへ。」

かう呼ぶのです。寺子屋へ行く子供等の習慣ならはしが、まだ私の小い頃にまで残つて居たのです。私はお歌ちやんの家うちへもよく遊びに行きました。苔で青くなつた石の手水鉢てうづばちに家形やかたの置いてあるのがある庭も、奥の室まも、静かな静かなものでしたが、店の方には若いお針子はりこが大勢来て居ましたから、絶えず笑ひ声がするのでした。恥しがりの私も、遠慮がちなお歌ちやんも、その仕事場へは一度も行つたことがありませんでした。私の小い姉も、其処そこへ稽古に来て居ました。仏師屋のお春さんや藍玉屋の茂江さんは、よくお歌ちやんをいぢめました。私はある時どうしたのかいぢめる連中に交つて居ました。私の家うちの軒下にお春さんが参謀長のやうに立つて居て、泉勇のお歌ちやんの居る窓の下へ、いろいろとお歌ちやんの悪口を云つて遣やらせるのです。私は通りを横ぎつて向ふへ走つて行き、歌のやうなことを云ふのが唯たゞ面白かつたのです。このことが姉から母に聞えまして、母は私をひどく叱りました。

「お歌ちやんのやうないい子に、意地わるをするやうな子は、子やない。」

とも云はれました。私が悪いことと知りながらした罪に就ついて、また可かなり大きい後悔をしないでは居られませんでした。お歌ちやんに詫あやまりますと、

「そんなこと云ひなはらんでもええ。」

と云つて私の肩を撫でてくれました。ある日姉が、

「お歌ちやんが死にやはつた。」

と私に話しました。悲しく思つたに違ひありませんが、その時の心持などはよく覚えません。お歌ちやんは、十歳とをだつたと云ふことです。

「薄倖ふしあはせなお歌ちやん。」

「賢い子やつた。」

誰も皆かう云つてました。お歌ちやんが居なくなつてから、私はどうしてもお照さんや茂江さんの仲間へ入つて遊んで貰はなければなりませんでした。その中で意地悪でない人は、私と同年おないどしのより江さんだけでした。

私の生ひ立ち 三 お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠

お師匠さん

藤間ふぢまのお師匠さんは私の家の貸家かしやに居ました。その隣には私の母の両親が隠居をして居ました。私はそれから間もなく死別れたその母方の祖父の顔は、唯たゞ白髪しらがを長くして後撫うしろなでにした頭つきと、中風ちゆうぶになつて居たために何時いつも杖を突いて居たその腰つき位が記憶にあるだけですが、お師匠さんの顔ははつきりと覚えて居ます。大きい目や、油ぎつたやうな色をした広い額や、薄い髪の生際はえぎはやは、今も電車の中などで類似の顔に逢ふと思ひ出されるのです。私はお師匠さんに何年程踊をどりを習つて居たのでせう、それとも幾月と云ふ程だつたのでせうか。舞扇まひあふぎを使ひ壊して新しく買ふことはかなり幾度もありました。私の大きくなつてからはありませんでしたが、その頃舞扇を売つて居た家の店のことなども私はよく覚えて居ます。新しくて美しい飾りのしてある店でした。私が扇屋へ行く使つかひの丁稚でつちに随ついて行つた時、丁稚の渡す買物帳を其処そこの手代てだいが後うしろの帳場へ投げました。そしてかちかちと音をさせて扇箱から出した五六本の扇が私の丁稚に渡されました。私はその扇が母の前へ持つて来られて、開いて見せて貰ふのがどんなに楽みだつたか知れません。私は稽古朋輩ほうばいの持つて居るやうな塗骨ぬりぼねの扇が欲しいと心に願つて居たのでした。私はさうして塗骨の銀の扇の持主になりました。絵は桜の花で、四分通りの地が薄紅うすべににつぶされて居ました。母は舞扇が買はれる度に、扇の上に切地きれぢで縁を附けるのが好きでした。好きと云ふよりもせねばならないこととして母はさうしたのです。扇が畳目たゝみめから早く切れて破扇やれあふぎになるのを惜んだのです。けれどその体裁は極めてよくないものでした。扇を襟えりの間にさした時、私の扇は他人の三倍もかさがありました。銀地の扇に母の附けた縁は紫のめりんすでした。私が生地骨きぢぼねで赤地の扇に金銀の箔の絵を置いたのを持つて居たこともありました。絵は御簾みすにそれも桜で、裏に蝶が二つ白抜きで附いて居ました。それには桃色の縁がとられてました。桔梗ききやうの花の扇は大阪の誰かから貰つた物でした。

「かうして縁を取りやはるとよう持つんだつせ、この嬢やんのお母かあはんの新案だつせ。」

お師匠さんは私の扇を弟子入に来る子の母親などに開いて見せたりしました。私はそれを恥しく思ひました。

師匠の家のさらへ講に私が踊ることになつたのは「流しの枝」と云ふ曲でした。私は黒地の友染いうぜんの着物を着て出ました。模様の中に赤い巴ともゑのあつたことを覚えて居ます。丁度ちやうどその日に私の家ではお祖母ばあさんが報恩講ほうおんかうと云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所よそにして踊の場へ行くのが厭いやだつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方ぢかたの座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。

お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因もとになつて、死んでしまはれたのではないでせうか。

屏風と障子

西洋好せいやうずきの私の父は西洋から来た石版画せきばんゑで屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆あはうな子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢らうひはよく私に教へました。さう云はれます度に私は身慄みぶるひがしました。またその横に、母親に招かれて笑ひながら走り寄つて来る子供の絵もありました。私はそれを家中で大騒ぎをされて可愛がられて居る弟のやうな子だと思つて居ました。口の傍そばに厭な線を充満いつぱい寄せて泣いて居る子の方は、人から見て自分になぞらへられるのではあるまいかと思ふやうなひがみを私は意識せずに持つて居たかも知れません。和蘭陀オランダの風車かざぐるま小屋の沢山並んだ野を描いた褐色の勝つた風景画は誰が悪戯いたづらをしたのか下の四分通りが引きちぎられてました。私の父はまた色硝子いろがらすをいろいろ交ぜた障子を造つて縁えんへはめました。廊下にもはめました。欄間らんまもそれにしました。一家の者が開閉あけたての重い不便さを訴へるので、父は仕方なしにそれを浜の道具蔵へしまはせてしまひました。けれど欄間だけは長く其儘そのまゝでした。私は欧州へ見物に行きました時、古い大寺のかずかずを巡つたのでしたが、その色硝子で飾られた窓の明りを仰ぎます度に、私は父のことや幼い日のことが思はれるのでした。

西瓜燈籠

これはもう大分だいぶ大きくなつてからのことです。藤間のお師匠さんの所へ通つて居た頃から云へば、五年も後のちの十歳とをか十一の時の夏の日に、父が突然私のために西瓜燈籠すいくわどうろうを拵こしらへてやらうと云ひ出しました。どんなに嬉しかつたか知れません。老婢は早速八百屋へ走つて行つて、ころあひの小い西瓜を選えつて買つて来ました。父は私にどんな模様がいゝかと尋ねましたが、私は何でもいゝと云つて居ました。出来上りましたのは一面に匍はつた朝顔の花の青白く光つて透き通る美しさの限りもなく思はれる燈籠でした。その晩軒に吊して置きますと通る人で振返つて賞めて行かないものはない程でした。父は翌日また弟に馬の絵を彫つた燈籠を作つてやりました。その夜の涼台すゞみだいの上には朝顔のとそれが並んで吊されました。三疋びきの馬が勢よく飛び上つて居る図がらの好いいのを、また街を通る人々が賞めて行きました。私は少し自分のがけなされたやうな悲みを感じました。三日目に父は妹のために楓の葉と短冊を彫つた燈籠を作りました。それは朝顔などの線の細い模様とちがつて、くつきりと浮き出したやうな鮮明あざやかさは何にも比べやうもない美しいものでした。三つの燈籠はまたその夜涼台の上に吊されました。老婢が気を附けて、萎しなびぬやうにと井戸端の水桶の中に、私の燈籠は前夜もその前夜も入れられてあつたのですが、それにも関らず青白かつた彫跡ほりあとは錆色さびいろを帯び、青い地は黒い色になつて居るのです。形も小くなり丸かつたものが細長いものに変つて居るのです。私は生れて初めて老おいと云ふことと死と云ふことをその夜の涼台で考へました。早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬やるせないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをして下おろさうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。

次の年には父は誰のとも決めずに流ながれを鮎の上る燈籠を西瓜で彫つてくれました。私はその時にはもう生命いのちの悲みなどは忘れて、早く自分も何かの絵を西瓜に彫つて、燈籠を作るやうになりたいとばかり思つてました。

私の生ひ立ち 四 夏祭

夏祭

お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓はらひが幾月と幾日いくかすれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡ひろげます度に、私等姉妹きやうだいに由よつてさゝやかれました。大祓祭おほはらひまつりは摂津せつつの住吉すみよし神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿みこしの渡御とぎよが堺さかひのお旅所たびしよへある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉いづみの鳳村おほとりむらにある大鳥おほとり神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭よみやまつりになるわけなのです。大阪であつても、私の郷里であつても、彼方あちらの地方の人は、万人共通に何事かの場合に着る着物の質の標準と云ふものが決まつて居ます。それで宵宮の日には、大抵の人は其その年新調した浴衣ゆかたの中の、最も善いものを着るのです。唯たゞ一枚よりその夏は拵こしらへなかつたものは、大人でも子供でも、その日まで着ずにしまつて置くのです。

浴衣を着て涼台すゞみだいへ出ますと、もう祭提灯まつりちやうちんで街々が明くなつて居ます。私の町内の提灯は、皆冑かぶとの絵がかいてあるのでした。隣町は大と云ふ字、そのまた隣町は鳥居とりゐと玉垣たまがきの絵だつたと覚えて居ます。私は正月の来る前の大三十日おほみそかの日よりも、この宵宮の晩の方が、どれ程嬉しかつたか知れません。紀州の和歌山から、国境の峠を越して来る祭客の中に交つて来る少女をとめ達、大阪から来る親類の少女をとめ達、其等それらは何いづれも平常ふだんに逢ふことが稀で、大方は一年振で祭に出逢ふ人達なのですから、その一行かう一行かうが、明日から明後日あさつてへかけて、続続家へ着くことを想像するだけでも嬉しいのでした。何事に就つきましても、正月からもう指折ゆびをり数へて毎日引き寄せたく思つた日が、いよいよ目の前に現はれて来るのですもの、来たらじつと捉とらへて放つまいと云ふやうに気が上あがるのです。大人達も皆嬉し相さうで、その夜は例よりも、長く長く涼台が門かどに出されてあります。一度蚊帳かやの中へ入つても、祭の当日の話が大人達の中に余りはづみ上ると、また帯をして外へ飛び出したくなつたり私はしました。そしていよ〱大鳥さんの日になります。私の家のやうな商買をして居ない人の所では、朝からもうお祭のことばかりをして居ていゝのですが、私の家などは、さうは行かないのです。得意先の注文の殊に多いのがさうした日の常ですから、午前中は私も店の手伝ひに、勇気を出して働かねばなりませんでした。丁稚でつちに交つて水餅みづもちを笹の葉へ包んだりすることも、手早にせねばなりませんでした。けれどもその騒ぎは、何時いつの間にか土蔵くらから屏風や、燭台や、煙草盆や、碁盤やを運び出す忙しさに変つて居るのが例でした。幕が門かどに張られ、黒と白の石畳みになつた上敷うはしきが店に敷かれ、その上へ毛氈もうせんが更に敷かれ、屏風が立てられますと、私等は麻のじんべゑ姿がきまり悪くなりまして、半巾はんはゞの袖を胸で合せて、早く湯の湧くやうにして欲しいと女中に頼みました。そのうち空の雷鳴が遠くから次第に近い所へ寄つて来るやうに響いて、地車だんじりの音がして来ます。大海浜だいかいはま、宿院浜しゆくゐんはま、熊野浜くまのはまなどと組々の名の書いた団扇うちはを持つて、後鉢巻うしろはちまきをした地車だんじり曳きの子供等が、幾十人となく裸足はだしで道を通ります。風呂に入りますと、浴槽ゆぶねの湯が温泉でも下に湧き出して居るやうに、地車だんじりの響で波立ちます。大鳥さんの日の着物は、大抵紺地か黒地の透綾上布すきやじやうふです。襦袢じゆばんの袖は桃色の練絹ねりぎぬです。姉は水色、母は白です。男作をとこづくりと云つて小い時から、赤気の少い姿をさせられて居る私等のやうな子のさせられる帯は、浅黄繻子あさぎじゆすと大抵決まつて居ました。襦袢の襟えりもそれです。頭はおたばこぼんですから、簪かんざしの挿しやうもありません。そして私等はその年方々の取引先から贈られました団扇の中で一番気に入つたのをしまつて置いたそれを持つて、新しい下駄を穿はいて門かどへ出ます。何方どちらを向いても桟敷欄干さじきてすりに緋毛氈の掛けられた大通りは、昨日きのふと同じ道であるとも思はれないのでした。友も連立つてまた其処そこ此処ここの友の家を訪ねる私等の得意さは、天へも上のぼつた程なのです。正月から待ちに待つた日が来たのだからと、心の中では云ふものがありました。私等は時々家を覗きに来ます。それは余所よそからのお客が、もう幾人殖えたかと見るのが楽みなのです。四五時頃には、もう大鳥さんの太鼓の音が、どん、どおん、と南の方に聞え出します。祭列は四町程で尽きます。続いて神輿も通ります。全堺の町が湧き立つやうな騒ぎになるのは、この時から後のちなのです。いよいよ大鳥さんの渡御が済んで、人々は真実ほんたうのお祓の宵宮の心もちにこの時からなるからです。誰も眠る者などはないと云ふのはこの晩のことでした。家の中には幾十となく燭台が点ともされますが、外を通る人々の手に手にした灯ひの明りの方が、更に幾倍した明さを見せて居ました。魚の夜市が初まると云ふので、誰も皆浜辺の方を向いて歩いて行くのです。私の家うちのお客様は、皆その夜市を見に行きます。私等は翌朝の住吉詣まうでの用意をさせられます。汽車があつても祭の各町を眺めて通るのが面白いために、住吉までを車で行くのが多いのでした。夜明の社やしろの御灯みあかしの美くしさ、ほのぼのと晴れる朝霧の中の、神輿倉の七八つも並んだ神輿の金のきらきらと光つて居るのを見る快さは、忘れられないものです。蓮池の蓮を見たり、鯉に餌ゑを遣やつたりしますことも、何時いつも程落ついては出来ません。気が急いで大和川やまとがはを渡る時も、川上の景色、川口の水の色を眺めたりすることも出来ません。朝御飯を食べますともう住吉踊が来ます。

すみようしさんまいの

と拍子ごとに云ふ踊で、姿は白衣びやくえに腰衣こしごろもを穿いた所化しよけを装つて居るのです。踊手は三人程で、音頭とりが長い傘をさして真中に立ち、その傘の柄を木で叩くのが拍子なのです。私等はこの時には大鳥さんの宵宮の晩に着た浴衣を着て居ます。昼間浴衣を着て人の怪まないのは夏中でこの日だけ位なものです。この日も晴着に着替へますのは、やはり二三時頃のことです。縮緬ちりめんが多く着られます。薄色の透綾も着られます。錦にしきの帯、繻珍しゆちんの帯が多くしめられます。緋縮緬や水色縮緬のしごきがその帯の上から多く結ばれます。けれども私等のやうな男作りの子は割合軽々とした姿で居ます。扇を今日は皆持ちます。子供心にあらゆる諸国の人が集つたかと思はれた程この日には遠い田舎ゐなかからも見物に出て来る人で道が埋つてしまひます。私等はもう昨日のやうに、芝居の花道を歩くやうに、大道を練つて歩くことも出来ないのです。だんだんと街々の騒ぎは高くなつて行きます。新柚しんゆの香が台所から立ちます。祭列を見るのは夜の十時頃です。海のやうに灯の点つた町を通るのでありながら、やはり夜のことですから、お稚児ちごさんの顔などは灰白はひじろく見えるだけです。馬上の鼻高はなだかさんの赤い面も黒く見えるのです。私は刻々不安が募つて行きます。それは今日に変る明日の淋しい日の影が目に見えるからです。

私の生ひ立ち 五 嘘

嘘

九歳こゝのつ位で私の居た級では継子話まゝこばなしが流行はやりました。石盤へ箱を幾つも積み重ねたやうな四階五階の家を描いて、草書の下と云ふ字のやうなものを人だとして描いて、蒲団ふとん底本では「薄団」と誤植の中へ針を入れて置いたりする鬼のやうな継母まゝはゝの話ばかりを、友達等は毎日しました。一人が話し出しますと、大抵七八つの首がその石盤を覗く、そんなかたまりが教場の彼方此方あちこちで出来ると云ふのが、遊び時間の光景でした。継子と本子ほんこの名には、大抵おぎん小ぎんが用ゐられて居ました。私はもうそれに飽き飽きしました。今日もまた厭いやな話を聞かされるかと云ふやうな悲みをさへ登校する途々みち〱覚えました。私はもとより一度も話者はなしてにはなりませんでした。ところが或日の昼の長い遊び時間に私は、

「今日は私がお話をして上げます。けれど絵は描きません。自分の真実ほんたうの話なんですから。」

こんなことを突発的に云ひました。そしてそれから私の話したことは嘘ばかりです。私はその時もう父に伴つれられまして、京都を見て来て居ました。外ほかの人達にはその経験がないのです。けれど皆祖父母や親達の口から、西京さいきやうと云ふ大きい都、美くしい都の話だけは聞いて居て、多少の憬あこがれを持つて居ない者はないのです。一度行つたことのある私は、その以後人の話に注意をして、京でまだ自分の知らぬ名所や区の名などを覚えたり、或いは想像して見たりすることがあつたのです。

「皆さん、私は京都に家うちがあるのです。今迄隠して居ましたけれど。」

誰一人真実ほんたうかと問ふ者もありません。皆驚きの目を見張つて居るだけです。

「では継子なんですか。」

「ええ、けれど私は京に居ても、継母を持つてたのですよ。初めから継子ですよ。」

「可哀相なこと。」

と口々に云つて、私の背を撫でたりする人もありました。何時いつの間まにか外ほかの継子話に寄つた人達も私の傍そばへ皆出て来ました。

「私の家は京の三条通りなんです。横町は松原通りです。」

松原も三条も東西の通りですが、私はこんなことを云つてました。

「そして家うちの左の方は加茂川かもがはなのです。綺麗きれいな川なのですよ、白い石が充満いつぱいあつてね、銀のやうな水が流れて居るのです。東山ひがしやまも西山にしやまも北山きたやまも映ります。八坂やさかの塔だの、東寺とうじの塔だの、知恩院ちおんゐんだの、金閣寺きんかくじだの銀閣寺ぎんかくじだのがきらきらと映ります。」

「まあそんなにいゝとこだすか。」

「ええ、家うちの裏の木戸を開けて、石段を下りて、それから小い橋をとん〱と踏んで行くと、河原なのです。河原は夏なんか涼しくつてねえ。」

「継母は。」

「継母はこはいこはい継母でしたよ。こはいこはいこはい。」

私はかう云つて、次に云ふことを考へなければなりませんでした。

「私の家うちは友染屋いうぜんやなのです。縮緬ちりめんの友染屋なのですよ。あれはね、染めた後あとで川で洗はなければならないのです。私なんかも洗うのですよ。ぢやあないと継母が叱りますからねえ。」

「まあえらい、洗濯をしなはつたの。」

「ええ、日に二十反たん位洗つては河原へ乾ほしますの。」

「雨が降つたらどうするのだす。」

「そしたら雨が降つて来たのです。困つてねえ、私は。雨の水と川が一緒になつて、縮緬が流れるでせう。私は継母に叱られますから、何でも拾はうと思つてね、ずん〱加茂川の岸を走つて追つかけたのです。走つて走つて一晩走つて居ると、伏見ふしみへ来たのです。」

「拾へたのだすか。」

「いいえ。」

「まあ。」

「たうとう見失つてしまつたのでせう。継母に叱られたらどうしようと思つて私が泣いて居ると、親切なお婆さんが来てね、私をその家うちへ伴つれて行つてくれたのですよ、私の子におなりなさいつてね。」

「まあよかつたこと。」

「けれど貧乏でね、お米ではなくて藁わらでお餅なんか拵こしらへて食べるだけなんです。」

「藁でお餅が出来でけるんですか。」

「出来できるんですよ。それにね豆の粉こを附けてお婆さんは売りにも行くのです。清水きよみづさんの滝の傍へ茶店を出してねえ。」

「清水さんは京だすか。」

「ええ、滝が三本になつて落ちて居てね、人が何時いつも水を浴びてます。」

自分の見た時がさうだつたものですから。

「その人が藁のお餅を買ふのだすか。」

「もつと外ほかの人も買ふのです。よく売れてね、忙しくつてね、夜分まで家うちへ帰れないのです。お婆さんが先に帰つて、私が後あとで店をしまつて帰るのでしたがね、大谷おほたにさんと云ふお墓のいつばいある山を通るのですから、恐くつてねえ。」

「こはいこと、まあ。」

「さうしたらある時人取ひととりが出て来たのですよ、頬かぶりして刀を差してね、それから手下が二人です。手下は槍を持つて居るのです。」

「刺されたんだすか。」

「ええ、突かれたけれど、もう癒りました。」

「何処どこだすか。」

「此処ここです。」

私は脇腹を手で押へました。

「盗賊どろぼうは私を箱へ入れて、支那しなへ伴つれて行かうと思ひましてねえ。乗せられたのですよ船へ、船に酔ふと苦しいものですよ。目が赤くなつて、足がひよろひよろになつてしまふのです。」

私は酒酔さかゑひと船暈ふなゑひを同じやうに思つて居たのです。

「そしたらひどい浪が起つて来てね、私の乗つた船が壊れてしまつたのです。私の入れられて居た箱も割れたので、丁度ちやうどよかつたけれど。私はそれでもう気を失つて居たのですがねえ、今度目を開いて見ると堺さかひの浜だつたのです。」

「燈台が見えたのだすか。」

「ええ、夜でしたから青い青い灯が点ともつて居ましたよ。」

「それから鳳ほうさんの子になりやはつたのだすか。」

「ええ。」

「まあ可哀相な方かた。」

「継子なんて、ちつとも知りまへんだした。」

「気の毒だすなあ。」

私の傍に居る人が四五人泣き出しました。さうすると誰も誰も誘ひ出されたやうに涙を零こぼしました。嘘を云つた私までが熱い涙の流るのを覚えました。

私の生ひ立ち 六 火事

火事

ある夏の晩に、私は兄弟や従兄いとこ等と一所いつしよに、大屋根の上の火の見台で涼んで居ました。

「お月様とお星様が近くにある晩には火事がある。」

十歳とをばかりの私よりは余程大きい誰かの口から、こんなことが云はれました。そのうち一人降り二人降りして、火の見台には私と弟の二人だけが残されました。

「籌ちうさん、あのお星様はお月様に近いのね。そら、あるでせう一つ。」

「さうやなあ、火事があるやら知れまへんなあ、面白い。」

「私は恐い。火事だつたら。」

「弱虫やなあ。」

弟はかう云つてずんずん下へ降りて行きました。私はその後あとで唯たゞ一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で、そして此処ここまで焼けて来るかも知れないのであるからと心配をして居ました。

その晩の夜中のことでした。私の蚊帳かやの外で、

「火事や。」

「火事、火事。」

と云ふ声が起りました。耳を澄まして見ますと、家の外をほい〱と云ふやうな駆声かけごゑで走る人が数知れずあるのです。家の中にはまた彼方此方あちこちをばたばたと人の走り歩く音が高くして居るのです。私は何時いつの間まにか座つて居ました。蚊帳も一隅が外はづされて三角になつて居ました。灯の明あかく点ともつた隣の茶の間で、

「袢纏はんてんを出しとくなはれ、早う頼みます。」

と云つて居るのは番頭でした。柳行李やなぎかうりから云はれた物を出して居るのは妹の乳母うばでした。私はまた何時いつの間まにか蚊帳を出て、定七さだしちの火事装束をする傍そばに立つて居ました。定七が弓張提灯ゆみはりちやうちんを取つて茶の間を出ようとしますと、帯のやうなものを手に持つて見せながら乳母は、

「まありやん、まありやん。」

と云ひました。私は子供心にも乳母は恐ろしさに舌が廻らなくなつて居るのであらう、待つてくれと云ふつもりであらうと思ひました。母が傍へ来まして、

「母様かあさんは姉様ねえさんのお家うちが危いから行つて来ます。お父様とうさんももうおいでになつたのです。家うちは大丈夫だから安心しておいで。」

と云ひました。そのうち私は店へ歩いて行きました。土間の戸が二方とも開けられてあつて、外の通りをお祭の晩の賑やかな灯明ひあかりが思はれる程、沢山の人々は手に手に提灯を持つて走つて行くのでした。見舞に来て従兄と話をして居る人も三四人ありました。私は火元を二町北の半町程西寄りになつた具清ぐせいと云ふ酒屋であると知りました。火の見台で兄弟や奉公人の大勢が、話し合ふ声のするのをたよりに、私は暗い二階を手捜てさぐりで通つて火の見台へ出ました。火の色には赤と黄と青が交つて居ました。半町四方程をつつんで真直まつすぐに天を貫く勢で上つて居ました。火の子はまかれる水のやうに近い家々の上へ落ちるのでした。女中の顔も、丁稚でつちの顔も金太郎のやうに赤く見えました。具清の家と私の姉の家とは道を一つ隔てた地続きなのでしたから、私は姉の家の蔵が、今にも焼けるのではないかと思つて、悲んで居ました。この時もう月は落ちて上の空にはありませんでした。階下したへ降りますと御飯から立つ湯気の香かが夜の家いつぱいに満ちて匂つて居ました。これは竹村たけむらと云ふ姉の家へ贈る弁当の焚出たきだしをして居るからなのでした。

「具清の家の人は一人も逃げて居ない。皆死んだのらしい。」

「妹さんが女中に助けられて飛び出したと云ふことを誰かが云ふてた。外ほかは皆死んだのやろけど。」

こんな気味の悪いことを私は聞かないでは居られませんでした。人はことを大きく噂にするものであるとは、子供でももう知つて居ましたが、先刻さつき火の見で誰かが、具清は金持だから、大きい家が焼ける位のことは何でもないと云つて居たやうな、そんなのんきなことはもう思つて居られないと思ひました。

具清の家の住居すまゐと酒蔵の幾つかが焼けただけで、他家よそへ火は伸びずに鎮火しました。ほい〱と門かどを走る人は、皆先刻さつきと反対の方を向いて行くやうになりました。

「焼けた死骸に長い髪が附いて居たので娘さんと云ふことが解わかつた。」

「丁稚の死骸が可哀想やつた。」

道行く人は口々にこんなことを云つて行きました。具清の家は両親のない二人の娘さんが主人だつたのです。その娘さんを番頭が余りに大切にして、家の戸閉りなどを厳重にしすぎてあつたために、誰も外へは出られなかつたのださうです。鍵を持つて居る老番頭が、最初に死んだので、外ほかの人はどうしやうもなかつたらしいと云ふことでした。けれど三十位の一人の女中は、妹娘さんをやつとのことで伴つれ出したと云ふことでした。けれど高い塀から飛んだので、大怪我おほけがをして居ると云ふことでした。

朝になつてから、私の父母は姉の家を引き上げて来ました。

「竹村さんに別条がなくておめでたう御座ございます。」

と番頭が云ひますと、

「おかげでめでたいうちや。」

と父は云ふのでしたが、私は竹村の蔵が焼けてもよかつた、具清の娘さんが黒焦くろこげの死骸などにならない方がよかつたと悲しがつて居ました。具清の死んだ若い女中の話も可哀想でした。前の晩に母親に送られて、実家からその主家へ帰つたのは、死に帰つたのだと云はれる丁稚も可哀想でなりませんでした。眼病をして居て逃げ惑つたらしいと云ふ若い手代てだいも哀れでした。具清の家は大きくて、城のやうな家なのでしたが、丁度ちやうど夏で酒作りをする蔵男くらをとこの何百人は、播州ばんしうへ皆帰つて居た時だつたのださうです。娘さんの箪笥たんすが幾つも並んで焼けた所には、友染いうぜんの着物が、模様をそつくり濃淡で見せた灰になつて居たのが、幾重ねもあつたとか人は云ひました。焼跡は何年も何年も囲ひもせずそのままで置かれてありました。夏の夕方などに散歩して居ますと、焼けた壁の小山のやうになつた中から、酒の香かが立つやうなことも幾年かの後のちにまでありました。終しまひには雑草が充満いつぱいに生えて居ました。

火事の時分に、大阪地方ではへらへら踊をどりと云ふ手踊の興業が流行はやつて居ました。赤い頬かぶりをして袴はかまを穿はいた女が扇を持つて並んで踊をするのです。へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処どこでも堺さかひの大火と云ふやうな芸題げだいで、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。道を歩いて居て、その無惨な看板の眼に入るたびに、私は逃げて走りました。

具清の妹さんが、忠義な女中に手を引かれて医師の家へ通ふ姿を、私は火事の後あとでよく見ました。美しい人でした。

私の生ひ立ち 七 狐の子供

狐の子供

三阪みさか先生は私を三年級から四年級へ掛けて教へて下すつた先生でした。人一倍羞恥はにかみの強い私には、小学校から女学校を通じて十幾年間に、真底から馴れて愛して頂くことが出来たのは、この先生だけでした。その優しい三阪先生を上に頂いて居をります時に、私は思ひ出しても不快な脅迫者を前に置いた日送りをして居ました。先生はもとより夢にも御存じのないことです。それはまだ三年生の時のことでした。時間が来て教場へ入るために砂利の敷かれた前の庭で私等は列を作るのでしたが、その時まで運動に夢中になつて居る人達なのですから、それがかなり入り乱れて混雑なものになるのです。私はある日のその時に友達の足を踏みました。その人は靴を穿はいて居て私は草履穿ざうりばきだつたのです。

「あつ、痛いた、鳳ほうさん。」

はつと思つてその人の顔を見ますと、それは柴田しばたと云ふ子でした。

「ひどい、これ見なはれ。」

私がおづおづと柴田の前へ出した足を見ますと、それ程強く踏んだとも感じませんでしたのに、靴の先の釘が少し上へ上つて居ました。

「御免なさいな。」

と私は頭を下げました。

「先生。」

と柴田は先生をお呼びして、そして私の不都合を訴へました。こんなに迄と云つてその靴の先も見せました。

「靴がそんなになる程とは少しひどい。」

と先生は私を見てお云ひになりました。けれどもそれは唯ただ原告を宥なだめるのに有効なために私へお云ひになつただけでしたから、私自身は罰らしい苦しい気持でお受けしませんでした。私はそのために一層柴田さんに済まない気がしたのでしたから、時間後に更に詫あやまらうとしました。

「堪忍かにして上げない。」

と柴田は云ふのですから私は仕方がないとそんな場合には思はなければなりませんのに、要のない努力をして心を貫かうとしました。

「ほんなら私の云ふこと聞きまつか。」

「聞きます。何んでも。」

かう云ひながらも私は限りない不安を感じて居ました。

「あんた毎日おやつを貰ふでせう、お菓子やなんぞ。」

「はあ。」

「それを残して置いてその翌日あくるひ学校へ持つて来て私に頂戴ちやうだい。毎日よ。」

「はあ。」

私はよくも考へずに認諾を与へてしまひました。

私はその日からおやつを半分より食べられないことになりました。半紙で小く包んで翌朝学校へ持つて行つて柴田に渡しました時、その人はどんなに喜んだか知れません。私は半月程の後あとにもう義務は済んだかと思ひますので、

「もう堪忍かにして下さつて。」

と問ひました。

「もうお菓子を持つて来るのが厭いやなんだつか。」

柴田は恐い顔をした。

「厭と云ふのぢやありませんけれど。」

「鳳さん、私が先生に云ふたらあんた困ることがありますよ。」

「何です。」

「あんた学校へお菓子を持つて来ていゝのだすか。あんたはそないに悪いことしてなはるやないか。」

私は貢物のやうにして毎日柴田の手へ運んで居る物は、学校で厳禁されて居るものであると云ふことを此この時まで気附かずに居たのでせう。どんなに柴田のこの脅迫は私を苦しめたものであつたか知れません。私はものもよう云はずにじつと相手の顔を眺めて居ました。

「悪いことしてなはるのやろ。先生に知れたらどないなことになるか知つてますか。」

私は泣き出しました。そしたら柴田は背せなを撫でました。

「泣かんでもええわ。私云へへんわ。あんたさへもつと何時いつ迄もお菓子をくれたなら。」

「また学校へ持つて来るのですか。」

私は呆れながら云ひました。

「かうしますわ、これから私が毎日あんたの家うちへ貰ひに行くわ。三時半頃にきつと拵こしらへておいとくなはれ。」

「さう、そんならよろしいわ。」

私はまたうまうまとこんな約束をさせられてしまひました。

三時半頃に私が店へ出てのれんの間から外を見て居ますと色の白いひどい吊目の口の前へでた、丁度ちやうど狐のお面のやうな、柴田はにこ〱笑ひながら川端筋かはばたすぢを東から出て来るのでした。電信柱の横で私から紙包を受取ると、狐の子供はまた飛ぶやうに帰つて行くのでした。

一月ひとつきも立つて後のちに私はまた新しい苦痛に合はなければなりませんでした。私と柴田の秘密を何時いつの間まにか知つた人が出て来たのです。それは和田わだと云ふ人でした。

「あんたは柴田さんに毎日お菓子を上げてなはるんだすな。」

私は黙つて居ました。

「隠しても知つてます。あんたあんな人にお菓子なんぞ取られてないで私におくなはれ。そやないと先生に云ふ。」

これもまた脅迫者だつたのです。

「柴田さんには初めに私が悪いことをしたのでしたから。」

「私にさへくれゝば柴田さんがあんたに意地悪をしても私があんたに附いて上げる。」

「かうしませう、私、柴田さんとあなたの二人に上げませう。」

心弱い私はまたこんな約束をしてしまひました。それから後のちの私はもうお菓子も果物も見るだけでした。柴田の方ではもうちやんと和田のことを知つて居ました。そして私への要求がだん〱烈しくなつて来ました。

「お金を包へ入れて頂戴。」

かう柴田はある時云ひました。私はまたこれを行ふ道を考へねばなりませんでした。私はお祖母ばあさんなどに貰つてありましたお金の中の銅貨を、二三枚だけ更に小銭に変へて貰ひました。毎日二厘りんづつ柴田の菓子包へ入れてやりました。私は自分は弱者で強いものにいぢめられて居るのであるとは思ひながら、お銭ぜにの入つた包などを貰ひに来るのは、丁度年越しの晩の厄払ひの乞食のやうで、下等な子供であると狐の子供に対する侮蔑は、もとより十分持つて居ました。和田もお銭を入れてくれと云ひ出しました。これも必然の結果のやうに私は思つてゐました。その三月みつき程のうちに私は心理的にいろ〱の経験をしました。ある日、

「私は今日までのことが悪かつたと思ひますから先生に自分から申してお詫びをしますからさう思つて下さい。」

私はかう柴田に云ひました。私にはもうそれを云ひ出すだけの勇気が出来て居たのです。その時柴田が許してくれと云ふのにどんなに骨を折つたでせう。

私は女学校へ行つて居る頃に、一度街で柴田に逢ひました。柴田は島田を結ゆつて居ましたが顔は昔のあの顔でした。

私の生ひ立ち 八 たけ狩

たけ狩

和泉いづみの山の茸狩たけがりの思ひ出は、十二三の年になりますまで四五年の間は一日も忘れることが出来なかつた程の面白いことでした。他家よその子には唯事たゞごとのやうなそんなことも、遊山ゆさんなどの経験の乏しい私には、珍しくて嬉しくてならなかつたのです。誰も誰も堺さかひの子供が親達や身内の人に伴はれてする春の浜行きも、私は殆どしたことがありませんでした。私は友染いうぜんの着物なども着ないうちに、身体からだの方が大きくなつてしまふことが多かつたのです。

あの茸狩は牡丹ぼたん模様の紫地の友染に初めて手を通した時です。帯は緋繻子ひじゆすの半巾帯はんはゞおびでした。大戸は下されたままで、横町よこまちに附いた土間の四枚の戸が開けられ、外に待つて居る車の傍そばへ歩んで出ました頃、まだ街は真暗でした。四時頃だつたと後のちに母は云つてました。真先まつさきの車は父で、それには弟が伴はれて乗つて居ました。私は母の膝の横に居ました。お菊きくさんと云ふ知つた女の人と、その子のお政まささん、私の従兄いとこ二人、兄、番頭、その外ほかの人は忘れましたが何でも十何輌と云ふ車でした。両側の家の軒燈けんどうのまたたいて居る大道だいだうを、南へ南へと引いて行かれるのでした。湊みなとの橋を渡りますと正面に見える大きい家で鶏にはとりが啼なきました。何時いつの間まにか私は母に倚よりかかつて眠りました。

「これ、これ大鳥様おほとりさまのお社やしろだよ。」

肩を叩かれて私が目を見上げますと左手に大きい鳥居とりゐがあるのでした。母は車上で手を合せて拝はいをして居ました。まだ薄暗いのですが、奥の方へ立ち並んで燈籠の胴が、ほのぼの白く木この間まから見えました。その暁あかつきの大鳥神社の鳥居の大きかつたことは、全まるで人間世界を超越したもののやうに九歳こゝのつの私には思はれたのです。帰りには上までもつとよく眺めませうと通つてしまつた後あとでは思つて居ました。自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。何いづれ国境の山なのでせうが、紀州境ひなのか、河内かはち境ひなのか知りませんでした。道の細くなつたり、坂になつた所になりますと私等は車を降りて歩きました。ある丘のやうになつた村では、従兄が母に命令いひつかつて湯葉ゆばを買ひに行きました。それから薪屋まきやの金右衛門きんゑもんさんの家までは、もう半里程だつたやうに思ひます。畑の間の路が少し広がつたと思ひますと、もう其処そこが私の行く家の座敷の庭だつたのです。車を降りた所に縁側があるのでせう、座蒲団ざぶとんの並んだ畳が見えるのでせう、私は驚きました。門口かどぐちをくぐらないで直ぐ道からお座敷になつて居る家などを、町家育ちの私は初めて見たのです。

「何処どこに松茸が出来て居るのでせう。」

と私はお政さんにそつと云つたりして居ました。

「山までは十町程御座います。」

と金右衛門さんは人々に云つて居ました。お茶を飲んで居ますと縁側の前へ村の子供が大勢集つて来ました。母は袋から用意して来たらしい餅菓子を出して、その子等へ二つづつ程分けて遣やりました。どんなに田舎ゐなかの子は喜んだでせう。私は初めて母のするいいことを見たと云ふやうにその時は思ひました。下駄を藁草履わらざうりに穿はき変へて、山へと云つて伴はれた時は、天へ上のぼるやうな気分になつて居ました。

「此処ここから上つて頂くのです。」

かう金右衛門さんに云はれました時、私はその絶壁のやうな山を、どんなに驚いた目で見上げたでせう。何かの木のやゝ細い幹を持つて伝ひ歩きをするやうにして人々は上りました。私などは一番後あとだつたのでせう、傍そばにはお菊さんとお政さんが居ました。二三間げん上ると松葉を上に被かぶつた松茸が一本苔から出て居ました。

「あつ。」

と云つたのは三人一所いつしよでしたが、

「さあおとりやす。」

と譲つてくれましたのが、私にはもの足りませんでした。そのうちもう私は私、お政さんはお政さんと、いくらでも松茸の取ることの出来る所へ来ました。山の外側から内側の窪んだ所へ入つたのでせう。従兄の声や番頭の声がとんきやうに渓々たに〱から聞えて来ました。物を云つて山響やまびこの答へるのを聞くのも面白く思はれました。松茸は取つても取つてもあるのですもの、嬉しさは何とも云ひやうがありません。母が何処どこに居るか、弟がどうして居るかとも私は思つて見る間がありませんでした。

「お茶ですよ。」

と呼ぶ声が何処どこからとなしに聞えて来ましたので、私等は暗い木の中から少し上の明るい、幾分道のやうになつた所へ出て来ました。後うしろや横から一人来、二人来して呼び声の起つて居る所を皆がさして行きました。其処そこは山の最も高い所と云ふことでしたが外輪の一角なのです。呼んで居た人、席を二三枚の毛布けつとで作つて居る人は、皆金右衛門さんの家の下男でした。大きい松の木の下で、瓦を囲つて枯枝を焚いた上には大きい釜が掛けられてあつて、松茸御飯の湯気がぶうぶうと蓋の間から、秋の青空めがけて上つて居るのでした。其処そこへまた下男の一人は大きい重箱二つを一荷にして舁かついで来ました。

「さあお子様こさん方、お子さん方。」

と呼ばれて毛布けつとの上へ草履を脱いで上つた私達は、お重の中のお萩はぎをお皿なしに箸で一つ一つ摘んで食べようとしました。小い従兄は、

「あツ辛から。」

と云つて、後うしろ向いて木の間から渓の方へ食べかけたお萩の餅を捨てました。塩餡しほあんだつたのです。私も面白半分に、

「辛い。」

と真似をして捨てましたが、悪いことをしたと直ぐ思ひました。松茸の御飯や、お汁や、それから堺から待つて来た料理やでおいしいお昼飯は食べましたが、父やその外ほかの人の酒宴さかもりが、何時いつ果てるとも見えませんのが困ることと思はれました。松の木の間からは遠い村里や、続きに続いた山脈の青が眺められました。心が悲しいやうな寂しいやうなものになつて居るのでしたから、弟を誘つたり、従兄を呼んだりして、もう一度松茸を捜しに行くこともしたくないのでした。金右衛門さんの指図で、私等はやつと山を下りることになりました。蜜柑畑へ更に伴はれるのです。酒宴さかもりの所で踊をどりを見せたりして居たお政さんも一所に行くことになりました。大人達は外ほかの道から帰ると云ふことでした。低い山に見渡す果てもない程に多くの蜜柑の木が植つて居ました。青い中に星のやうな斑点が蜜柑に出来た頃です。

「いくらでもおとりなさい。」

と云はれても誰も皆十五六よりは手に持てませんでした。手拭てぬぐひの端へ包んで田舎者のやうに肩へ掛けて歩くのが、どんなに面白く思はれたでせう。しかも私のなどは帰り途みちの細い道で、大かたはころ〱と落ちてしまひました。今度の路は金右衛門さんの家の正面でなしに、座敷の左手の庭へ附いて居るのでした。其処そこには鳥兜とりかぶとの紫の花が沢山咲いて居ました。

私の生ひ立ち 九 堺の市街

堺の市街

私はこの話のおしまひに私の生れた堺さかひと云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟ちぬの海に面した和泉国いづみのくにの一小都市です。堺の街端はづれは即ち和泉の国端れになつて居る程に、和泉の最北端にあるのです。摂津せつつの国とは昔は地続きでしたが、今は新大和川しんやまとがはと云ふ運河が隔てになつて居ます。大和橋やまとばしはそれにかかつた唯一の橋です。水に流されて仮橋かりばしになつて居たことが二度程ありました。仮橋は低くて水と擦すれ擦すれでしたから、子供心にはその方を渡るのが面白かつたのでした。河原の蘆あしや月見草は橋よりもずつと高く伸びて両側から小い私の髪にさはる程でした。私には年に一度その河原でお弁当を食べる日がありました。それは蚊帳かやの洗濯に伴つれて行つて貰ふ日のことです。五張いつはり、六張むはりの蚊帳を積んだ車の上に私等の兄弟は載せられます。下男やら店の丁稚でつちやらがそれを引いて行きますが、さすがに大通りは通らずに、六軒筋ろくけんすぢと云つて両側に酒屋の蔵ばかりの建ち並んだ細い道を行きます。それでも道で人に逢ふと、

「するがやはんの蚊帳洗濯や。」

かう云はれるのでした。一行かうには母などは居ません。手伝ひ人の小母をばさん位が重おもな人で、女中や雇ひお婆さんなどばかりです。綺麗な水のしやぶしやぶと云ふ音と人々の笑ひさゞめく声と河原の白い砂と川口の向うに見える武庫むこの連山が聯想されます。街の東の仕切になつて居るのは農人町川のうにんまちがはです。これは運河と言ふよりも溝の大きいやうなもので、黒い泥の所々にぶく〱と泡立つ水が溜つた臭い厭いやな所です。然しかしそれには関りもない広い快い田圃たんぼはどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内かはちの生駒山いこまやまや金剛山こんがうざんの麓まで眺める目はものに遮られません。南は国境の葛城かつらぎ山脈になつて居ます。近い所には大仙陵だいせんりようが青色の一かたまりになつて居ます。後うしろを向いて街の方を見ますと、ずつと北の方に浅香山あさかやまの丘が見え、妙国寺めうこくじの塔が見え、中央に開口あぐち神社の塔が見えます。私等が実を拾つて遊ぶ廻り二三丈ぢやうもある開口神社の大木の樟くすが塔よりも高く見えます。塔は北にあるのも南のも三重屋根です。私はある時友達と一所いつしよに、田圃へ螽斯いなごを取りに行つて狐に化された風ふうをしました。初めは戯談じようだんでしたのですが、皆がもうそれにしてしまふので仕方なしに続けてお芝居をして居ました。私は最初赤いしぶと花をいくつもいくつも取つてお煙草盆たばこぼんに結ゆつた髪へ挿しました。

「皆さんも私と一所にあの御殿へ行きませうね。」

と云つて、御陵ごりようの樋ひの口くちに続いた森を指さしたりしました。私だけは父が迷信を極端に排斥したものですから、狐や狸のばかし話は嘘であると信じて居るのですが、友達は一人残らず住吉すみよし参りをした吉きつつあんの話を真実ほんたうのことと思つて居たやうです。私もお菓子を持つて居るから狐が化すといけないと云つて、それを捨てる人、蜜柑は大丈夫だらうと云つて一旦捨てたのを拾ふ人、そんなことはをかしかつたのですが、榎茶屋えのきちややの植木屋に親類のある人が水を汲んで来てくれたのを見まして、私は初めて悪いと思つて誤りました。天王様てんわうさまのお社やしろは町から十町程離れてあるのです。堺の人の多くが春の花見をしに行く処です。山桜が社前に十二三本と、後うしろの池を廻つて八重の桜が十本程もある位に過ぎないのですから、まあ大家たいけの庭にも、ある程の春色とも云ふべきものなのですが、其その頃の和泉河内の野を一様の金色こんじきにして居る菜の花の香にひたらうとするのには好いい場所です。其処そこを一町程北西へ隔つた所に方違かたたがへ神社があります。方かたちがひさんと堺の人は皆云つてます。立春の日に鶴の羽を髪に挿した女達の参詣する所です。方違神社から真直まつすぐに田圃の中を通つた道を町へ入つて来ますと、其処そこは大小路おほせうぢと云つて堺で一番広い町幅を持つた東西の道路になつて居ます。柳の木が並木とは云へないほどちらほらと植わつて居ます。大小路の東西十町の真中を十字形に通つた南北の通とほりが大道だいだうと云はれる所です。北は大和橋に続いて居ます。和歌山県の方へ大阪から続いた国道です。大小路の西の堀割ほりわりに掛つた吾妻橋あづまばしを渡ると、其処そこには南海鉄道の停車場があるのです。堀割の水はもう海へ近い所ですから、引潮の頃にはまるでありませんが、さし潮になると小船をふかふかと動かすやうな浪も立つて居ます。停車場の横に泉洲紡績せんしうばうせきの工場があります。赤錬瓦塀の上に地獄のやうな硝子がらすかけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くづを附けた哀れな工女が街々から通つて行く所は其処そこなのです。その前は新田しんでんと云つて、埋立地の田畑になつて居ます。停車場から南へ行くと堀割が折れて海へでる所にかかつた勇橋いさみばしに出ます。此処ここから北西へかけての海辺を北坡戸きたばとと云ふのです。橋の南を真面に行きますと大浜おほはまの海岸通になります。旭館あさひくわんと云ふ富豪の遊場所あそびばしよの石垣の長いのを通り越すと、もう漁師の家や貝細工を売る小家こいへが並んで居ます。真直に真直に行けば海の中へ突出た燈台に出るまでその道は続いて居ます。昔は大きな船の入つた港だつた堺の海は、新大和川が川上の大和から無遠慮に砂を押し流して来るので、年々に浅くなるばかりで、今は貝を拾ふのに適した波らしい波も立たない所になつたのです。海辺には松も何も生えて居ません。大津おほつの崎が淡路あはぢとすれすれになつて見える遠い景色を好いいと見て居るだけの所です。旅館の建ち並んだ後うしろに昔のお台場だいばがあります。品川のと同じ式で唯たゞ海の中にないだけです。春は菫すみれが沢山咲いて居ます。旭館の隣で、何とか云ふ名の小い丘の下に附いた道を曲つて街へ入つて来ますと、其処そこの大道の角に私の家うちがあります。大道をまた一町南へ行きますと宿院しゆくゐんと云ふ住吉神社のお旅所たびしよがあります。私の通つた小学校は宿院小学校と云つて、その境内けいだいの一部にあるのです。芝居や勧工場くわんこうばがあつて、堺では一番繁華な所になつて居るのです。小学校の横を半町も東へ行きますと寺町てらまちへ出ます。大小路に次ぐ大きい町幅の所で、南へ七八町伸びて居ますが、寺ばかりと云つてよい程の街ですから静かです。向うの突当りが南宗寺なんしゆうじです。千利久が建てたと云ふ茶室があります。私など少し大きくなりましてからは、折々お茶の会に行つたりしました。その隣は大安寺だいあんじで私の祖母の墓があつたのでしたが、今では父も母も其処そこへ葬られてしまひました。旧もとは納屋助左衛門なやすけざゑもんと云ふ人の家だつたのださうです。南宗寺の智禅庵ちぜんあんの丘の下を東から堀割が廻つて流れて居まして海へ出るやうになつて居ます。其その海辺は出島でじまと云ひます。もとより漁師ばかりが住んで居る所です。蘆が沢山生えて居る所です。蘆原あしはらとも云ひます。堀割の向う岸からはもう少しづつ松が生えて居まして、ずつと向うが浜寺はまでらの松原になるのです。木綿もめんを晒す石津川いしづがはの清い流もあります。私はこんな所に居て大都会を思ひ、山の渓間たにまのやうな所を思ひ、静かな湖と云ふやうなものに憧憬して大きくなつて行きました。

私の見た少女 南さん

南さん

南みなみみち子さんは丈の短い襟掛羽織えりかけばおりを着た人でした。今から三十年に近い昔の其その頃の風俗は、総ての子供が冬はさうした形の襟掛羽織を着て居たに違ひありませんのに、私が特に南さんの羽織の短かさばかりを、その人のなつかしさと共に何時いつも思ひ出さずに居ないのは、南さんの着た羽織は誰のよりも綺麗きれいなものだつたからだらうと思ひます。外ほかの子は双子ふたこや綿秩父めんちゝぶや、更紗さらさきやらこや、手織木綿ておりもめんの物を着て居ます中で、南さんは銘仙めいせんやめりんすを着て居ました。藍あゐがちな紫地に小い紅色の花模様のあつたものや、紺地に葡萄茶えびちやのあらい縞しまのあるものやを南さんの着て居た姿は今も目にはつきりと残つて居ます。それに南さんは色の飽あくまで白い、毛の濃い人でしたから、どんなものでも似合つて見えたのであらうと思はれます。目の細い、鼻の高い、そしてよく締しまつた口元で、唇の紅あかい人でした。南さんは大分だいぶに大きくなるまでおけし頭でした。併しかし私がまだおたばこぼんを結ゆつて居た時分に、南さんはおけしの中を取つて蝶々髷てふ〱まげに結つて居ました。ですからもう差櫛さしぐしが出来たり、簪かんざしがさせたり、その時分から出来たのでした。南みち子と言ふ一人の生徒を羨まないのは、学校の中でも極めて小い組の人達だけだつたであらうと思ひます。どの先生も南さんを大事な生徒としておあつかひになるのでしたが、生駒いこまさんと云ふ校長先生にはそれが甚しかつたやうでした。私の小学校は千人近い生徒を収容して居て、大きい校舎を持つて居ましたが、その応接室は卓ていぶるを初め卓掛ていぶるかけ、書物棚、花瓶までが南家の寄附になるものだと校長が生徒を集めて云つてお聞かせになつたこともありました。南さんは家の通称を孫太夫まごだいふと云ふ大地主の一人娘だつたのです。南さんの家のある所は堺さかひの街ではなく向村むかふむらと云ふのですが、それはいくらも遠い所ではなく、ほんの堀割ほりわり一つで街と別になつて居る村なのです。南さんの家は薄黄うすきの高い土塀の外を更に高い松の木立がぐるりと囲つて居ました。また庭の中には何蓋松なんがいまつとか云ふ絵に描いたやうな松の木や、花咲く木の梢こずゑの立ち並んで居るのが外から見えました。野からその南さんの家の見えますことは一二里りの先へ行つても同じだらうと思はれる程大きいものでした。私の同級生の幾人かは日曜日毎に南さんの家へ遊びに行きました。私はそんな人達から一尺程の金魚の沢山沢山居ると云ふ池やら、綺麗な花の咲いた築山つきやまやら、梯子段はしごだんの幾つにも折曲つたと云ふ二階や、中二階、離座敷の話をして貰ふのが楽みでした。けれど私は人並を越した恥しがりでしたから一度も自身で行つて見たことはありません。南さんには何時いつも一人の女中が附いて居ました。その時分の生徒が茶番ちやばんさんと云つた小使こづかひの部屋で女中はお嬢さんのお人形を造つたりして何時いつも待つて居ました。帯をだらりに結んで、白丈長しろたけながを掛けた島田の女中は四五年の間何時いつも変らぬ同じ人だつたやうに思つてましたが、真実ほんたうは幾度か変つた別の女中だつたのかも知れません。

ある時に先生は、

「あなた方室暖まぬくめと云ふものを知つて居ますか。」

と云ふことから暖炉すとーぶの話をして下さいましたが、

「南さんのお家うちにだけはあるでせう。」

こんなことをお云ひになりました。私はこの時受くべき理由なき侮辱を私達は受けたと胸が鳴りました。ところが、

「私の家うちにそんなもの御座いません。先生。」

かう淡泊に南さんの答へたのを聞いて、私は瞬間の厭いやな心持が一掃されました。私はそれから一層南さんをなつかしく思ふやうになりました。その学校では、何か式をしたりするときには、先生から生徒へ、

「皆さんのお家うちの庭に花が咲いて居ましたら、それを少しづつ持つて来て下さい。」

こんな注文をなさいました。堺は古い昔から商業地になつて居まして、店や工場を重おもにして建築した家が多いのですから、庭はあつて常磐木ときはぎの幾本かは大抵の大きい家にはあるとしても、底花の木や草花を養ふ日光が入りやうもありませんから、こんな時に生徒は花屋へ駆け附けるより外ほかの方法はなかつたのです。母に頼んで五銭せん程の支出をして貰ひまして菊の花の二三本、春なら芍薬しやくやくの一つぐらゐを持つて行くやうな人ばかりでしたが、そんな時に南さんの家からは大きい車に花の切枝きりえだを積んで下男に学校へ曳かせて来ました。南さんは行者久ぎやうじやきうさんと云ふ盲目めしひで名高い音曲おんぎよくの師匠の弟子の一人でした。小いうちから琴も三味線も胡弓こきゆうも上手だつたのです。その師匠の大ざらへに沢山刺繍ぬひのした着物を着た南さんが三四人の附添ひと一緒に舞台へ行くのを会場の廊下で見ました時、私は南さんをお姫様のやうな人だと思ひました。学校の成績せいせきも私より南さんの方が確かに好よかつたと思つて居ます。南さんは私によく、

「私の府会議員の叔父さんはおどけものですよ。私をからかつてばかりいらつしやるのですよ。」

「そのお方の家うちは何処どこ。」

「私の家うちの中よ、別になつて居ますけれど。それからね、その叔母さんもあるのですよ、その人はものを云はない人よ。叔母さんは母様かあさんが私を大阪へ伴つれていらつしやる時には本家へ来て留守番をして下さるの。」

こんな話をして聞かせました。またその父や母に就ついての暖い噂も始終聞かせてくれました。兄弟のない一人子ひとりごと云ふものの羨しさを私の子等と一緒に思ふことが多かつたのです。お金持でなくても一人子なら好いいとも思ひました。私などは一月ひとつきのうち三言も父が言葉を掛けてくれるやうなことは稀有だつた程ですから物足りなかつたのです。私と南さんは女学校でも一緒の教場に居ました。此処ここでは小学生の私がお姫様のやうに思つて居ました南さんよりも更に綺麗な着物を着たり、華やかな風采をもつた友達が多く出来ましたけれど、やはり私の一番なつかしい人は南さんでした。朝は時間を云ひ合せて街角で出合つて登校をして、帰りも必ず一緒に校門を出ました。杏あんずの木の下の空井戸からゐどの竹簀たけずの蓋にもたれて昼の休時間は二人で話ばかりして過しました。

「大阪に梅うめの助すけと云ふ役者があるの、綺麗な顔ですよ。この間あひだね、お小姓こしやうになつたの、桃色のお振袖ふりそでを着てましたよ。」

かう一度南さんの噂に出ました役者はそれから間もなく死んだと云ふことです。私等は十五の歳としに女学校を卒業しましたが、南さんはそのまゝお下さがりになり、私は補習科に残りましたから、淋しく物足らない思ひをすることも屡しば〱ありました。後のちに聞きますと一人子だと羨んだ南さんは養父母に育てられて居た人だつたのださうです。議員の叔父さんと云ふのが真実ほんたうのお父様だつたのださうです。

私の見た少女 楠さん

楠さん

楠くすのきさんは真宗寺しんしゆうでらの慈光寺じくわうじの娘さんでした。私はかう書き初めて其その頃楠さんの年齢としはいくつぐらゐであつたのであらうと思つて見ますが解わかりません。これは忘れたのではなくて、私と楠さんが一級の中で最も親しかつた時にも知らずに過ぎたことだつたのです。唯ただ私より年上であつたことを云つて置きませう。私の居ました堺さかひ女学校と云ひますのは小学校の四年級から直ぐに入れる程度の学校でしたが、本科と裁縫科の二つに分けられて居ました。裁縫科の生徒は一週間のうち三四度本科の教場で修身しうしんと家政の講話だけを私等と一緒になつて聞くのでした。どう云ふわけか裁縫科の生徒は本科の生徒に比べて大人らしくなつて居ました。ですから最も初めに楠さんと逢ひました時の私がおけし頭であつたのに比べて楠さんは大きい銀杏返いてふがへしにも結ゆつて居ました。楠さんは裁縫科の生徒だつたのです。顔だけを見知つて居まして私と楠さんは物を一言云つたこともないままで二年生になつてしまひました。丁度ちやうど其その頃高等師範をお出になつた遠山とほやまさんと云ふ方が東京から私等の先生になりに来て下さいました。遠山先生はおいでになつて間もなく修身の時間に、今日は裁縫科の方に希望を述べるとお云ひになりまして、

「あなた方は裁縫を重おもに習つてお家うちの手助けを早く出来るやうになるのを楽みにしておいでになるのでせうが、私は少しあなた方に考へて頂きたいことがあるのです。女は裁縫をさへ上手にすれば好いいと思ふのは昔風な考へで、世界にはいろいろな国があつて知慧の進んだ人の多いこと、日本もそれに負けて居てはならないと云ふことを思ふことの出来る人なら、智慧を磨くための学問の必要はないなどとは思へない筈はずだと思ひます。」

こんなことからお説き出しになつて、一身上の事情が本科を修めてもいい人なら皆本科にお変りなさいと云ふことをお云ひになりました。その次の週に今迄本科の教場で誰かの空席を借りて講義を聞いた裁縫科の生徒の二人が私達の机の傍そばに自席を持つやうになりました。その一人は楠さんでした。感心な方かただと思ひながらも人一倍はにかみの強い私は楠さんに特に接近をしようとも思ひませんでした。今一人の人のことは忘れてしまひましたが楠さんは其その次の学期試験に一番になりました。其その時の皆の嫉妬はひどいものでした。楠さんは気の毒なやうに憎まれました。私は楠さんの年齢としを自分達よりも六つ七つも上のやうに噂をする者があつても、そんな筈はないと理性で否定をして居ました。遠山先生の所へ学科の復習をして頂きに行つたと云ふことを聞いた時にはまた、そんなことも必要ならしてもさしつかへはない、楠さんは自己のために善を行つたのだと判断をしました。席順で並べられてあつた机も私のと楠さんのとは極く近かつたのですから、其その時分から私は楠さんと交際をし初めました。或時私は楠さんに、

「今月のせわだ文学と云ふ雑誌に面白いことが載つて居ました。」

こんなことを云ひました。

「せわだ文学、せわだ文学。」

と楠さんは首を傾けました。

「早いと云ふ字と、稲と云ふ字と、田と云ふ字を書くのです。」

「それではわせだ文学でせう。」

「それをせわだ文学と読むのですよ。」

「さうでしたか、私はわせだ文学だと思つてました。さう読むのでしたかねえ。」

「さうらしいですよ。」

私はそれから裁縫の教場へ入りましたが、早稲田をせわだと云つた自分の説に不安の起つて来るのを感じました。私の頬はもう熱くなつて居ました。誤つたと思ふよりも先に恥を感じたのです。早く実の出来る稲は早稲わせではないか、それに田が附いて居るからわせだなのだ、私は最初にふと誤つた読癖よみぐせを附けてしまつて誤りを知らずに居たので。楠さんの云つたことが正しいのだ、楠さんにはそれが解つて居るのに私を反省させるために譲つてお置きになつた、真実ほんたうに楠さんに済まないと思ひました私は、裁縫の教場では私等よりずつと高い級に居る楠さんの所へ走つて行きました。

「楠さん、先刻さつきの雑誌の名はやつぱし早稲田わせだ文学でしたわ。」

大決心をして詫びようと思ひましたことも口ではこれだけより云へませんでした。私はそれから少し経つてからある日曜に寺町の大安寺だいあんじへお祖母ばあさんのお墓参りをしました時に楠さんを訪ねて行きました。その慈光寺の門には金の大きい菊水きくすいの紋が打たれて居て、其その下に売薬の古い看板がかゝつて居ました。

「お上りなさいな。本なんか出して遊びませう。」

暗くて広い庫裏くりの土間の上り口で楠さんは頻りに勧めてくれましたが、友人の家と云ふ所へ其その時初めて行つた私は思ひ切つて楠さんの居間へ通ることをようしませんでした。向うの室へやで機はたを織つておいでになつた楠さんの母様かあさんも出て来て私をいたはつて下さいました。

「では庭ででも遊びませう。」

と云ふ楠さんに伴はれて私は鐘樓の横やら本堂の前やらの草木の花の中を歩きました。今思へばそれ程のこともありませんが其その頃の私には慈光寺の庭程美しい趣の多い所はないやうに思はれました。

「私の姉ねえさんは薔薇があれば香水を拵こしらへると云つてます。」

こんなことを私が云ひますと、

「薔薇の花を切つて上げませうか。」

と楠さんは云ひました。私は驚異の目を見張て、

「お父様とうさんのお花を切つてもいいのですか、あなたが。」

と云ひました。

「いゝのですとも。ちつとも叱られませんよ。」

「まあ。」

私は楠さんの得て居る自由を羨まずには居られませんでした。私のために鋏はさみを取つて来て薔薇の花をしよきしよきと切つて落しました。鉢植のも花壇のも高い木に倚よつて咲いたのも好いいのは皆切つてくれました。赤いのなどは香かが悪いと云つて白や薄黄や薄水色やばかりを切つてくれました。其その日私が姉の前で開きました包から百ばかりの薔薇の出ました時の心もちは今思ひ出しましても興奮される程嬉しいことでした。二人がお茶の稽古に行きます日、その初はじめに師家へ納めます金のことで、

「束脩そくしうと云ふのでせう。」

と楠さんは云ひ、私はまた、

「脩束しうそくぢやなかつたかしら。」

こんな間違ひを云つた記憶もあります。河井酔茗かはゐすいめいさんなどの仲間へ私を紹介した人もそれから幾年か後のちの楠さんでした。

私の見た少女 おさやん

おさやん

おさやんと私は従妹いとこです。真実ほんたうの名前は龍野たつのさくと云ふのです。私とおさやんは同年おないどしでしたけれども、おさやんは三月に生れて私は十二月に生れたからまあ一歳ひとつ違ひのやうなものだと私の母であるおさやんの叔母が何時いつも云ひますのを、私は小い時分から真似して其その通りのことを云つて居ました。それにおさやんは龍源たつげんの叔母の子として一番大きい子で、私は兄弟の中で末つ子に近い方でしたから、一方は大人びて私は子供々々しくて三月と十二月の違ひばかりでなくおさやんは私を妹あつかひにして居ました。おさやんの家は酒屋でした。なつかしい、気の好いい遊び相手だつたおさやんを思ひますとまづ目に山のやうに高い大きい酒樽さかだるの並んだ幻影まばろしが見えます。光線を多く取つてない私の郷里などの古い建築法で造られた家は、中の土間へ入ると冬でも夏でも冷々ひや〱とした風が裾から起つて来るのでした。中浜通りの小林寺町せうりんじちやうと云ふ所にそのおさやんの家はありました。私は大抵の場合自分の家の「べい」と私が極く小い時分から私だけの特殊な呼名を附けて居た老いた女中と一所いつしよに龍源へ行きました。もう一人の叔母の家がその二三町先にありまして、私は其処そこへ行つた帰りを龍源へ寄るのが例でした。黒くなつた大きい酒屋看板を遠くから見て私の小い胸は先づ轟とゞろいたものです。而しかし私は恥しがりの子でしたから鹿喰しゝくひと云ふ叔母の家ででも龍源ででも余り座敷へ上つて遊ぶやうなことはありませんでした。鹿喰では金魚池の傍そばまで庭口から行つて見るだけで、龍源の家ででもお雛様の時の外ほかは大抵遊ぶのは裏庭の蔵の蔭で、筵むしろを敷いて小樽を幾つも並べたり、二つの樽に板を渡したりした上で玩具おもちやを弄もてあそんで居たのでした。おさやんと私の小学校はもとより違つて居ました。おさやんは晴々とした顔で、色の白い目の大きい口元の美くしい人形のやうな少女でした。友染いうぜんの着物に白茶錦しらちやにしきの帯を矢やの字じ結むすびにして、まだ小い頃から蝶々髷てふ〱まげやら桃割もゝわれを結ゆつて、銀の薄すゝきの簪かんざしなどを挿して、住吉祭すみよしまつりの神輿みこしの行列を私の家へ見物に来て居る時などは人が皆表の道に立留つておさやんを眺めました。私は髪もお煙草盆たばこぼんで、縞しまの着物に水色の襟えりを重ねて黒繻子くろじゆすの帯をさせられて居ました。私と私の妹とおさやんの三人で堺さかひの街の北の西の端の海船かいせんと云ふ所へ、それも夏祭などのおよばれに行つて居ますと、同じ堺でも其処等辺そこらへんの人は私等を見知つて居ませんから、

「兄弟やらうけれど、姉ねえさんが一番綺麗きれいな子やな。」

などと云つたりして居ました。おさやんは私の母から私よりも大切なのかと思ふ程に可愛かはゆがられて居ました。おさやんは庭から帰るやうなことをせずに私の家では家の人のやうに用の手伝ひなどをして居ました。

私はおさやんに関りのあることで恥しいことをお話ししなければなりません。私の七歳ななつか八歳やつつぐらゐの時に、私の母の両親は極く近い所にある私の家の借家を隠居所にして居ました。龍源の叔母はよくおさやんを伴つれて其その隠居所へ来て居ました。私もよく其処そこへ行つて居ました。其その時分に女の子が江戸紫えどむらさきの無地の帯をすることが流行はやつて居たと見えまして、或時二人は自身達の帯の色が同じであることを発見して喜びました。けれどもおさやんのは縮緬ちりめんで私のはメリンス地でした。二人はまた其その事にも気が附いて来ました。けれど何とも口に出しては云ひませんでした。それは今した喜びを直ちに打ち壊すやうなものであると思つたからでした。二人は其その日に限つてお祖母ばあさんが入れて上げようと云ふものですから隠居所のお湯に入りました。そして上つて出た時に、私は縮緬の方のおさやんの帯が一寸ちよつとして見たくなりました。もとより意識して私はおさやんの帯で貝かひの口くちを結んで後うしろへ廻しましたそしておさやんの気の附かないうちにまた解いて置かうと思つて居ます所へもうおさやんが出て来ました。私は顔が真紅まつかになつてどうすることも出来ませんのでしたがおさやんはしらずに着物の紐をしめたりなどして居ました。

「それあんたの帯。」

「……」

「私の帯やわ。」

「………」

「かへしとくなはれ。」

私は黙つたまゝ帯を解いておさやんに渡しましたが悲しくてなりませんでした。恥しくてなりませんでした。淋しい心持がしてなりませんでした。三十年経つた今でもおさやんの方の帯をして後うしろへ廻してから前の方を撫でて見た時の縮緬の手触りがまた忘れられもしません。

女学校へ入つたらおさやんと私は一所の教場になるのだとよく二人で云ひ会つて居ましまたが、おさやんは町の裁縫師匠の処へ縫物子ぬひものこになつて行くことになりましたから二人は終しまひまで一所の学校へは通へませんでした。それからも月のうちに一度二度は逢つて居ましたがだんだん昔のやうに心から笑ひ会つたり泣き会つたりすることが出来なくなつて来ました。それは二人の考へが余程離れたものになつて居たからです。そのうちおさやんの家が蔵を壊して其処そこで緞通だんつうを織り初めたと云ふことを出入の人などが噂しました。

「お気の毒なことだす。龍源さんでは嬢さんも職工と一所に緞通を織つておいでになります。お悧好りかうな方かただすよつてもう機持はたもちにおなりになつて、一本おきの二本などと大きい声で云つておいでになるのが聞えます。嬢はんはさうして朝から晩まで働いておいでになります。」

私はこれを聞いて悲しがりました。逢つた時に慰めようと思つて居ましたが、私の家うちへ来てはゆめにもそんなことをして居るとおさやんは云はないのですから、私の方から云ひ出すことも出来ませんでした。そして芝居の噂などばかりをおさやんはしました。私はおさやんの家の蔵のある六軒筋ろくけんすぢの道から二本おきの幾本などと云ふおさやんの声を聞いて見ようかともよく思ひました。かなり感傷的になつて居ましたから其その声を聞いて泣いて見たいやうな気があつたらしく思はれます。其その時分からおさやんの美くしさは月々減じて行くやうに見えました。私にはそれも悲しいことであつたに違ひありません。私はおさやんが私よりも醜くなつて来たと聞くことが厭いやでなりませんでした。龍源の叔父が中浜なかはまの家を売ると言ふことで親類達が私の家などに寄つて相談して居るのを聞きまして、親類の人が皆可愛ゆがつて居たおさやんの家のさうなるのを誰か一人でも助けてやる人はないのかなどと思つて大人を憎くさへ思ひました。おさやんは手紙などをちつとも書かない人ですからどうして此頃このごろは居るのか私は知りません。もう堺には居ないのでせうか、気の好いい遊び相手だつたおさやん。

私の見た少女 山太郎のおみきさん

山太郎のおみきさん

私がこれまで少女時代のことを書きまして、初めて見た美しい友達と云ふやうなことがもう誰かのことに云つてありましたら、それはそれを書いた時の思ひ違ひで、私の小さい時に初めて知つた優しい美くしい少女は加賀田かがたおみきさんの外ほかにはありません。二人は何時いつ頃から一所いつしよの組になつたのでせう、それはもう余程小さい頃のことで、何年級制にならない何級制だつた頃のことかと思ひます。其その時分の私は外ほかにお友達があることは全まるで知らないやうに、学校の遊び時間には加賀田さんとばかり遊んで居ました。

加賀田さんの家うちは堺さかひの最も旧ふるい家でした。山太郎やまたらうとその家のことを呼んで居ました。 余りに勧められまして、私は或時初めての友人訪問に加賀田さんの家うちへ行きました。玄関へ加賀田さんが出て来て、上れと云はれて憶おくし心を隠して其その人に随ついて行きますと、幾室かを通つてそれから出た所は明るい庭の前でした。その縁側は一間けん以上もある幅で、そして何処どこまで行けばしまひになるのか一寸ちよつと解わからないやうに思はれるほど長く続いて居るのです。築山つきやまも池も花の植つた所も子供の目には見渡し切れなく思はれました。自分などの家と此処こことの懸隔が余りに甚しいので、初めの廊下を曲つて更にまた折れた所の廊下がまた長く、然しかも庭の向うにはまだ幾棟かの建物があるのですから、それを見まして、心細いやうな一種の悲哀を覚えまして、

「私もう帰ります。帰りたくなつて来ました。」

と私は云ひました。

「何故なぜ。」

と加賀田さんは失望したやうに云ひました。

「何故でも帰りたくなつたの。」

「私の部屋がまだ遠いからだすか。帰りには彼方あちらから行けば直ぐ玄関へ出られます。」

と云はれましたけれど、私は、

「また来ますから今日は帰らせて下さいな。」

と云ひ通して、何千石かの酒の造られる匂ひの何処どこからとなくする加賀田さんの家うちを出て来ました。それから間まもなしに、加賀田さんが私の家へ来てくれたことがありました。私はそれまで外の方かたの処へ行つたことも尠すくない代りに友達を家に迎へたのもこれが初めでした。ですからこんな時にはどうして遊ぶものか、友達も自分も面白いやうにするのはどうするのかが私の経験のないことで解らないのです。街の中の狭い家ですから庭などは四坪つぼか五坪位よりもないのですからどうしても室内で何かをしなければならないのです。人形を並べたり、小切こぎれを出して見せたりはしても直ぐまた二人は膝の上へ手を重ねて置いて、今に楽みと云ふものが二人の傍そばへ自然に現れて出て来るはずだと云ふ風ふうに待たれるのでした。加賀田さんが、

「私もう帰ります。」

と云ひ出しました。

「さう。」

私は悲しくなりました。

「帰りたうなりましたから。」

「そんならお帰りなさいな。」

前の時に私がしたことを思ふと留とめることは出来ないのでした。かうして二人の会合は二度とも失敗に終つたのです。

それから一年か二年か経つてのことだと思ひます。次のやうなこともありました。学校のお午ひるに生徒の半分程は自家うちへ帰つて食事をする人でしたが、私も加賀田さんもその仲間でした。それで或時私は、

「ねえ加賀田さん、学校では好きぢやない方かたも交つて遊ぶのですから、私それよりもいゝことはないかと考へましたの、あのお午ひるに帰りました時ね、学校の太鼓のなるまでお旅所たびの処の大きい燈籠とうろうへ上つて遊ばないこと。」

こんな提議を加賀田さんにしました。

「さうだすな、二人でお家うちごつこなんてして遊んだら面白うおますやろ、今日行きませう、燈籠へ。」

加賀田さんは直ぐに賛成をしたのでした。私は其その日のお昼飯を平生の半分の時間も使はず済ませて、急いで加賀田さんの門口かどぐちまで行きますと、もうおみきさんは先刻さつきから待つて居たと云ふのでした。二人は手を引き合つて住吉すみよし神社の宿院しゆくゐんのお旅所たびしよの隣にある大燈籠の所へ行きました。石段が五六段あつて、二つの燈籠の並んだ廻りの石も二尺位の幅のあるものなのです。その二三日前に見知らない子が二三人その上へ上つて遊んで居るのを見て私は羨しく思つたのです。初めて上へ上つて見ますと、地上からは一丈ぢやうも離れて居て、向うの青物市場あをものいちばなどがよく見えて面白いのです。二人は燈籠と燈籠の間をお廊下だと云つて通つたり、二階から降りませうと云つて下へ降りたり、花園へ行くと云つて玉垣たまがきの傍そばに生えた草を摘んだりして居ました。丁度ちやうど二人が上に居て燈籠の脚元あしもとへ腰を掛けて居ます時に、突然わあつと云ふ声がして、ばらばらと穢きたない物が寄つて来ました。それは乞食なのです。

「おい、何をしてる。」

「阿呆あはう。」

「降おれ、降おれ。」

「此処ここは此方こつちの仲間のやで、おまん等らの上る所やないで、阿呆。」

「えらい目に合せてやる。」

男も女も混つた子供の乞食なのですが、その着物のぼろ〱さは東京の乞食のやうなものではないのです。山蔭やまかげの土に四月つきも五月つきもひつゝいて居る落葉のやうなものを着て居るのです。竹の棒やら、木の片はしやらを皆持つて居て私等の足に近い所を叩いて居るのです。私等二人は余りの驚きに物が云へなくなつて居ました。手をしつかりと取り合つて二人が狭い石段を降りますのに、下駄の先ががた〱と鳴つてなりませんでした。慄ふるへて居たのでせう。もう走つて行けばいゝのであると二人が思つて居ますと、

「おい。」

「唖おしか。」

二人は首を振りました。

「そんなら銭を持つてるやろからおくれ。」

二人はまた首を振りました。

「持つてへんで、阿呆やな。」

と一番大きい女の乞食が云ひました。

「そんならお菓子でもえゝやないか。」

と仲間の顔を見廻して云ふ乞食もあるのでした。

「鉛筆でもえゝ。色紙はないのか。」

何物かを私等から取り上げないでは済まさないと云ふ風ふうなのです。二人は唯たゞ胸をわくわくさせて居るばかりでしたが、そのうち巡査の影が見えたのでせう、乞食はまたばら〱と逃げて走りました。

加賀田おみきさんが病気か何かで暫しばらく休んで居たせゐなのですか何時いつの間まにか二人は一級違ひになつて居ました。おみきさんは小さい頃は習字などが私よりもずつと上手で大抵の試験に一番の席を取つて居た人でした。人形のやうに毛の厚いおけしを頭に置いた、色の白い目の切れの長いおみきさんは小さい声で物を云ふ人でした。

底本 / Source edition

底本:「私の生ひ立ち」刊行社
1985(昭和60)年5月10日発行
入力:武田秀男
校正:福地博文
1999年3月3日公開
2001年11月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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与謝野 晶子「私の生ひ立ち」(新字旧仮名)、底本『私の生ひ立ち』刊行社、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000668_000885, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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