Soranoha

右門捕物帖

うもんとりものちょう

佐々木 味津三

1

――今回は第八番てがらです。

それがまた因縁とでも申しますか、この八番てがらにおいても、右門はまたまたあの同僚のあばたの敬四郎とひきつづき第三回めの功名争いをすることになりましたが、事の起きたのは八月上旬でありました。

旧暦だからむろんひと月おくれで、現今の太陽暦に直すと、ほぼ九月の季節にあたりますが、だから暦の上ではすでに初秋ということになってはいるものの、日ざかりはかえって真夏よりしのぎにくいくらいな残暑です。加うるに厄日の二百十日がひとあらしあるとみえて、もよったままの降りみ降らずみな天候でしたから、その暑いこと暑いこと、五右衛門が油煎あぶらいりも遠くこれには及ぶまいと思われるほどの蒸しかたでしたが、しかし宮仕えするものの悲しさには、暑い寒いのぜいたくをいっていられなかったものでしたから、しかたなくおそめに起き上がると、ふきげんな顔つきで、ともかくもご番所へ出仕のしたくにとりかかりました。

けれども、したくはしたものの、いかにも出仕がおっくうでありました。暑いのもその一つの原因でありましたが、それよりも事件らしい事件のなかったことが気を腐らしたので、事実また前回の村正騒動が落着以来、かれこれ二十日近くにもなろうというのに、いっこう右門の出馬に値するような目ぼしい事件が持ち上がらなかったものでしたから、ちょうど、よく切れる刀には血を吸わしておかないとだんだんその切れ味がにぶるように、自然と右門の明知も使い場所のないところから内攻していって、そんなふうにお番所へお出仕することまでがおっくうになったのですが、そのためしたくはしたものの、なにかと出渋って、ぼんやりぬれ縁ぎわにたたずみながら、しきりとあごの無精ひげをまさぐっていると、ところへ息せききって鉄砲玉のように駆け込んできたものは、例のおしゃべり屋伝六でありました。

「ちえッ、あきれちまうな、人の気をもますにもほどがあるじゃござんせんか! とっくにもうお番所だと思いましたから、あっしゃご不浄の中までも捜したんですぜ。なにをそんなところでやにさがっていらっしゃるんですか!」

べつにやにさがっていたわけではないのですが、どうせご出仕しても、また一日控え席のすみっこであごのひげをまさぐっていなければなるまいと思いましたものでしたから、てこでも動くまいというように、ふり向きもしないでうずくまっていると、しかし伝六は不意にいいました。

「さ! ご出馬ですよ! ご出馬ですよ!」

いつも事をおおげさに注進する癖があるので、ふだんならば容易に伝六のことばぐらいでは動きだす右門ではなかったのですが、長いことしけつづきで気を腐らしていたやさきへ、突然出馬だといったものでしたから、ちょっと右門も目を輝かして色めきたちました。

「何か事件あなかい」

「事件かいの段じゃねえんですよ。お番所はひっくり返るような騒ぎですぜ」

「ほう。そいつあ豪儀なことになったものだな。三つ目小僧のつじ切りでもあったのかい」

「なんかいえばもうそれだ。いやがらせをおっしゃると、あっしだけでてがらしますぜ」

「大きく出たな。そのあんばいじゃ、おれが出る幕じゃねえらしいな」

「ところが、おめがね違い、足もとから火が出たんですよ。ね、平牢ひらろうにもう半月ごし密貿易の科とがで、打ち込まれていた若造があったでがしょう」

「ああ、知ってるよ。長崎のお奉行ぶぎょうから預かり中の科人とがにんだとかいってたっけが、そいつがくたばってでもしまったのかい」

「しまったのなら、なにもお番所の者がこぞって騒ぐにはあたらねえんだがね、そやつめが運わるくあばたのだんなのお係りだったものだから、かわいそうに毎日の痛め吟味でね、尋常なことではそんなまねなんぞできるからだではねえはずなのに、どうやってぬけ出やがったものか、まるきり跡かたも残さねえで、ゆうべ消えてなくなっちまったんですよ」

「破牢はろうしたのか」

「それがただの破牢じゃねえんですよ。牢番の者が三人もちゃんと目をさらにしていたのに、いつのまにか消えちまったっていうんだからね、もうお番所は上を下への騒ぎでさあ」

「じゃ、むろんあばたの大将おおあわてだな」

「おおあわても、おおあわても、血の色はござんせんぜ。なんしろ、よそからの預かり者を取り逃がしたんだから、事と場合によっちゃ、あっしども一統の名折れにもなるんだからね」

「よし、そう聞いちゃ、相手がちっと気に入らねえが、おれも一口買って出よう!」

「ほんとうですかい!」

「いったん買って出るといったからにゃ、おれもむっつり右門じゃねえか。まさかに唐天竺からてんじくまでもおっ走ったんじゃあるめえよ」

証跡を残さずに破牢したという事実も奇怪でしたが、それ以上に江戸八丁堀の一員として、こしゃくなまねをされたことが、ぐっと右門の癇かんにこたえたものでしたから、時機はよし、もうこうなるからには御意もよし、さっそうとしてその場に出動いたしました。

2

むろん、右門のただちに目ざした場所は伝馬町です。破牢当時の状態と、その罪状履歴をまずもって洗うことが第一のなすべき順序でしたから、さっそくにその夜当直だった牢番の者三人について、証跡収集に取りかかろうといたしました。

しかし、捜索順序はかく整然として用意されましたが、そうそう問屋はいつも右門にばかり味方するとはかぎっていないので、事実に直面してみると、まず第一の故障がそこに横たわっていました。いうまでもなく、それはあばたの敬四郎でしたが、一回ならず二度までも右門のために功名を奪われていたものでしたから、今度は必勝を期しているのか、右門がむっつりとしてそこに現われたのをみとめると、ろこつな敵意を示して、その出動を拒絶いたしました。

「せっかくだが、こりゃおれのなわ張りだからね。いらぬ手出しはやめにしてもらおうじゃねえか」

右門は敬四郎が当面の責任者である点からいって、ほぼそうあることを予期していたものでしたから、それほど気にかけませんでしたが、腹をたてたのは伝六で――。

「じゃなんですかい、だんなはあっしどもが八丁堀の人間じゃねえとおっしゃるんですかい」

「上役に向かって何をいうかッ」

「ちえッ、上役も時と場合によりけりですよ。これがつかまらなかったひにゃ、だんなはじめあっしども一統の恥っさらしなんだからね。せっかくおいらのだんながお出ましくだすったっていうのに、今のごあいさつあ、ちっと肝ったまが小さすぎるじゃござんせんか」

しきりと伝六が敬四郎に食ってかかっているのを、右門はあごをなでながら黙ってにやにややっていましたが、なに思ったかふいッとそこを立ち去ると、どんどん牢屋敷ろうやしきのほうへやって参りました。ついでだから、ここでちょっと当時の牢屋敷のもようについて簡単なご紹介をしておきますが、同じ伝馬町のお牢屋といっても、これにはだいたい三とおりの牢舎があって、すなわち第一は上がり座敷、別に揚がり座敷とも書きますが、読んで字のごとく身分あるもの、それも禄高ろくだかにして五百石以下、家格にしてお目見得以上のお旗本が罪人となった場合、この上がり座敷へ投獄するので、第二は揚がり屋と称され、お目見得以下の者、あるいは御家人ごけにんないし大名旗本の陪臣、それから僧侶そうりょ、山伏し等の囚罪人がこれに投ぜられるのならわしでありました。第三は俗称平牢と唱えられて、爾余じよの囚罪人が一列一体に投ぜられる追い込み牢でありますが、かくして刑の決まった者は、またそれぞれ処刑どおりその刑舎と刑期に服し、ご牢屋奉行配下の同心とその下男がこれの監視に当たり、今回の破牢罪人のごとき未審の者については、あばたの敬四郎がみずからおのれのなわ張りと称したように、町奉行付きの同心がその支配に当たり、万一これらの囚罪人の中から病気にかかったものの生じた場合は、別棟べつむねの病人だまりにこれを移獄して、形ながらもお牢屋付きのご官医がこれに投薬する習慣でありました。もっとも、これは名目ばかりで、多くの場合めんどうなところから、俗に一服盛りと称される官許ご免の毒殺手段によって、たいていあの世へ病気保養にかたづけられるのがしきたりでありましたが、だから右門は破牢罪人の禁獄中だった平牢へやって行くと、おりよくそこに牢番付きの下男が居合わしたものでしたから、さっそく問いを発しました。

「ゆうべの破牢罪人は何番牢じゃ」

「あっ! だんなもお出ましでござんすか。えらい騒ぎになったものでござんすが、いったいあっしゃ、あばたのだんながあんまりひどい痛め吟味に掛けすぎたと思うんでがすよ」

「じゃ、きさま、あらましのことは知ってるな」

「知らないでどうしますかい。ずっともうひと月ごし、病人だまりにいたんですからね」

「ほう、それは耳よりな話じゃが、ではどこぞわずらっていたのじゃな」

「そこがつまり、あばたのだんなのひどすぎるところだというんでがすがね。なにしろ、あのとおり吟味といや、きまって拷問に掛けるのがお得意のだんななんだから、ずいぶんとかわいそうな責め折檻せっかんをしましたとみえましてね、もうここのところずっと半死半生の病人でしたよ」

「どんな科とがでそんなに責められたのか、耳にしていることはないか」

「あっしどもは下人だから詳しい様子は知りませんが、密貿易をやった仲間がまだ三、四人とか御用弁にならないのでね、そいつらのいどころを吐かせるためにお責めなすったとかいいましたがね」

耳よりなことを聞いたものでしたから、右門の活気づいたことはもとよりのことで、ただちに昨夜まで禁獄中だったという病人たまりへやって行くと、ちらりと中の様子をのぞいていたようでしたが、不意に莞爾かんじとしながら伝六にいいました。

「なんでえ、ぞうさのねえことじゃねえか。おめえがちっとこれから忙しくなるぜ」

「えッ! じゃ、もうほしがついたんですかい」

「おれがにらみゃ、はずれっこはねえや」

「ありがてえッ。じゃ、すぐにひとっ走り出かけましょうが、方角はどっちですかい」

「まあ、そうせくなよ。こうなりゃもうこっちのものだから、あばたの大将にさっきの礼をいってけえろうじゃねえか」

皮肉そうににやにやと笑いながら、牢番詰め所の中へはいっていったと見えましたが、そこにあばたの敬四郎が必死のあぶら汗を流して、ゆうべ当直だった三人の牢番を吟味にかけながら、証跡収集に目の色変えているのを見ると、きわめていんぎんな先輩への礼をとりながら、ごく静かにいったことでした。

「お暑い中を、ご心配なことでござりますな。では、お先に失礼」

何かののしろうとしてつっ立ち上がりながら、二足三足追っかけてまいりましたが、右門はもうそのとき白扇で涼風を招きながら、さっさとお牢屋敷の表門を往来へ踏み出しているときでありました。

しかし、出ると同時に、伝六へいったもので――。

「さ、きさまは非人をあげてくるんだ」

「非人――? 非人が何かこの事件あなにからまっているんですかい」

「じゃ、きさまは、あそこに清め塩の盛ってあったことも気がつかなかったんだな」

「そんなものが、どこにござんした?」

「病人たまりのこうし口に、ちゃんと盛ってあったよ」

「するてえと、ゆうべあそこから死骸しがいになって、かつぎ出されたものがあったんですね」

「まずそんなところさ。一つ屋根にいた者に死んで出られりゃ、いくら科人とがにんどもだってあんまり縁起のいい話じゃねえんだからな。どやつか牢番に鼻薬をかがして、清め塩を盛らしたんだろうよ」

「じゃ、破牢罪人の野郎め、そのすきになんか細工をしやがったんですね」

「穴も掘らず、壁も破らずに破牢したっていや、牢役人どもとぐるでのことか、でなきゃ死骸を運び出すときに細工したとしか、にらみようがねえじゃねえか。聞いてみりゃ、足腰も立たねえほどな半病人だったというから、なおさらこいつは腕ずくの破牢じゃねえよ」

「ちげえねえ! 神さまにしたって、だんなほど目はきかねえや、あそこの係りの非人どもは、日本橋のさらし場にいるはずだから、じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。どっちへしょっぴいてまいりましょうね」

「八丁堀へつれてきなよ」

命じておくと、右門は伝六とたもとを分かって、ただちにお牢屋づきの官医、玄庵げんあん先生のお組屋敷へたち向かいました。にらんだごとくに、病囚人が死骸となって、定法どおり非人に下げ渡されたとしたら、必ずやその以前に玄庵先生の手を通じていたはずでしたから、事実の有無を確かめてみようというのがその第一の目的でしたが、それとともに、もう一つの目的は、破牢罪人も病人たまりにいた以上、少なくも両三度ぐらいは玄庵先生のおみたてにあずかっているに相違ないので、敬四郎のいこじのために知ることをえなかったそれなる罪人の人相風体を、からめてからかぎ出そうという計画のためでした。

3

計画はとどこおりなく運ばれて、玄庵先生は気軽に右門を請じ上げましたものでしたから、ただちに目的の中心へ触れていきました。

「ちょっと承りたいことがありまして参じましたが、もしや、ゆうべ伝馬町の平牢から、死人となって出た者はござりませなんだか」

「ああ、ありましたよ、ありましたよ。まだ宵よいのうちじゃったがな。もう長いこと労咳ろうがいでわしがめんどうみていた無宿者の老人が、急にゆうべ変が来たというて呼び迎いに参ったのでな。行くにはあたるまいとも存じたが、役儀のてまえそうもなるまいから、検診してさっそく非人どものほうへ下げ渡させましたわい」

「そのとき、なんぞお気づきのことはござりませなんだか」

「さようのう。死因はたしかに病気じゃったし、ほかに不審とも思われた節はないが、身寄りもない無宿者に、だれがそんな手回しのいいことをしたものか、棺にして運び出したようでござりましたよ」

「え? 棺でござりましたとな!」

「さよう、それもふたり分ぐらいはゆっくりはいれそうな大きい寝棺でしたよ」

引き取り人のあった場合ならば格別でしたが、この場合の死囚人のごとく非人の手に下げ渡すときは、普通こも包みのままであるのが慣例であるのに、意外にもふたりぐらいはいれそうな大寝棺によって運搬したといったものでしたから、右門のまなこは聞くと同時にらんらんとして、異状なる輝きを呈しました。推察してみるまでもなく、その大寝棺になにか細工がしてあったと思われましたので、ただちにかれは次の目的に向かって質問の矢を放ちました。

「では、もう一つ承らせていただきまするが、あの病人たまりに若造の囚人が居合わしたはずでござりまするが、なんぞお気づきではござりませなんだか」

「ああ、存じてますよ。よく存じていますよ。わしが二、三度脈をとったことがござりますでな」

「どのような風体の男でござりましたか」

「さようのう。まず、ああいうふうのが中肉中背ちゅうぜいと申そうが、娑婆しゃばにいたときはよほどの荒仕事に従事いたしおったとみえて、骨格なぞは珍しいくらいがんじょうでござったわい」

「年は?」

「二十七、八ででもござりましたろうかな」

「顔に特徴はござりませなんだか」

「さようのう、まず四角な面だちとでもいうほうかな。目が少しおちくぼんで、鼻がとても大きいだんご鼻でござったから、それがなによりな目じるしでござるよ」

「ほかにはなんぞ変わったところはござりませなんだか」

「それがさ、妙なところに妙なものがあるのでな。実は、てまえもいぶかしく思うておるが、右乳の下に卍まんじのほりものがありましたんですよ」

「卍というと、あのお寺の印のあれでござりまするか」

「さようさよう。それも、腕にあるとか背にあるとか申すなら格別、世の中にはずいぶんと変わったいれずみをする者がござるのでな、愚老もべつに不思議とは思わぬが、右乳の下に、ほんのちょっぴりと朱彫りにいたしおったのでな、いまだにいぶかしく思うているのじゃわい」

右門もよい目印を知ることができたものでしたから、もう飛び立つほどの思いで、厚く礼を述べると、伝六の首尾やいかにと心をおどらしながら、すぐさまおのがお組屋敷にたちかえりました。

ところが、帰りついてみると、予想とは反対に、伝六がしょんぼりとそこの縁側のところにうなだれていたものでしたから、右門は不快な予感をうけて、少しあわてながら尋ねました。

「まさかに、取り逃がしたのではあるまいな」

すると、どうしたことか、伝六が急にぽろぽろと栃とちのようなやつをはふりおとしていたようでしたが、突然妙なことをいいました。

「なんにもいわずに、あっしへお暇をくだせえましよ」

「なんじゃい、不意にまた、おめえらしくもねえこというじゃねえか」

「ちっともあっしらしくねえこたあねえんです。さっきからいっしょうけんめい考えたんでがすが、それよりほかにゃ行く道がねえんだから、お願いするんですよ」

「じゃ、おめえ、今になっておれにあいそがつきたのか」

「めっそうもねえことおっしゃいますな! ここらがご恩返しのしどころと思うからこそ、命も的にしようって覚悟をしたんです」

「ウッフフ、そうか。じゃ、敬四郎の野郎にでもじゃまされたんだな」

「じゃまどころの段じゃねえんです。いかに上役だからって、あんまりあばたのだんなもくやしいことをするじゃござんせんか」

「どんなまねやりゃがった」

「お尋ねの非人はすぐめっかりましたからね、出すぎたこととも思いましたが、ちっとばかりあっしも里心出して、野郎どもにかまをかけてみたんですよ。するてえと――」

「破牢罪人から酒手をもらって、ふたり分へえれる寝棺を、ゆうべあそこへかつぎ込んだといったろ」

「ええ、そう、そうなんですが、だんなはどこでお調べなすったんですかい」

「ご官医の玄庵先生だよ。こもで運び出すのが定じょうなのに、ぜいたくな棺で運搬したといったのでな、おおかた破牢罪人の野郎が非人どもに金をばらまいて、そんな細工をやりやがったんだろうと、たったいましがた、にらみがついたところさ」

「そんなら詳しいことは申しますまいが、死人が出たから取りに来いというお達しがあったんで、野郎たちふたりで始末に出かけていったら、破牢罪人の若造が酒手を一両はずんで、寝棺を買ってこいといったんで、すっかりそいつに目がくらんじまって、おおかた破牢だろうと特別でけいやつをかつぎ込んだというんですがね。それをまた牢番たちもどじなやつらだが、そばについてでもいりゃいいのに、ぼんやり格子口こうしぐちに立っていたもんだから、すばやくこの死人といっしょに寝棺の中へへえってしまって、まんまと破獄させてやったというんですよ」

「じゃ、どこへ飛んだか、行き先もたいてい見当がついたんだろ」

「だから、あっしゃ、くやしいっていうんですよ。こいつ、いいねたあげたと思ったからね、まずだんなのところへ連れてこなくちゃと、おおいばりで非人どもしょっぴいてけえりかかったら、あばたのだんなが息を切りながら駆けつけてきて、いきなりぽかりとくらわしたんですよ」

「おめえをぽかりとやったのか」

「そ、そうなんです。だから、あっしも食ってかかったらね、下人が何を生意気なことぬかすんだとおっしゃって、せっかくあっしがつかまえた非人を腕ずくで横取りしたんですよ」

「じゃ、あばたの野郎も、牢番の者から寝棺のことを聞き込んだんだな」

「だろうと思うんですがね。でなくちゃ、いくらあばたのだんなが上役だからって、あっしの眉間みけんにこんなこぶをこしらえるはずあござんせんからね。いいえ、そいつもときによっちゃいいんですよ。どうせ、あっしゃましゃくにも合わねえ下人だからね、なぐろうと、けろうと、それがあっしたち下人どもの模範ともなるべき上役のかたのおやりなすってもいいことでしたら、いっせえあっしもみれんたらしい愚痴はこぼしませんがね。でも、それじゃ、せっかく今までご恩をうけただんなに合わす顔がねえんじゃござんせんか。あばたの野郎になぐられました、非人も途中で横取りされました、といってすごすごけえってきたんじゃ、あっしがだんなに二度と合わす顔がねえじゃござんせんか……だから、あっしゃ、だからあっしゃ……」

「よし、わかった、わかった。うすみっともねえ、大の男がおいおいと手放しでなんでえ! 泣くな! 泣くな! 泣くなったら泣くなよ!」

「だって、あっしゃ、こんなくやしいこたあねえんです。平生はだんなをずいぶんとそまつにもした口のきき方をいたしますが、あっしがだんなを思っている心持ちは、どこのどやつが来たって負けやしねえんです。だから、だから、命を的にしても、あっしゃ、あばたの野郎と刺し違えます! 刺し違えて死んでやります! ええ! やりますとも! やらいでいられますか! それも、よその国の者でしたら、ときにとってはてがらの横取りもいいんですが、同じおひざもとで、同じお番所のおまんまいただいている仲間うちじゃござんせんか! それになんぞや、肝ったまの小せえまねしやがって、このうえそんな野郎を生かしておかれますか! ええ! やりますよ 殺してみせますよ! きっと刺し違えてみせますよ! だから……だから……きょうかぎりあっしにおいとまをくだせえまし……そして、そして、早くだんなも美しい奥さまをお迎えなさいましよ。なにより、それがあっしの気がかりでござんすからね。草葉のかげでお待ちしましょうよ……」

面に真情あふれた一句一句に、したたか右門も心を打たれながら、しばらくじっと伝六のくやしさに嗚咽おえつするその男涙をうち見まもっていましたが、しかし右門はつねに右門でありました。不意に、かんからと大笑すると、光風霽月せいげつな声音でいいました。

「虫けらみたいな了見のせめえ野郎を相手に、刺し違えたってしようがねえや。それより、はぜつりにでもいこうぜ」

「えッ。じゃ、じゃ、だんなはどうあっても、あっしにおいとまをくださらないんですかい!」

「あたりめえだ。非人を横取りされたからって、なにもまだ勝負に負けたわけじゃねえんだからな。品川辺へでも夕づりに出かけようよ。ざらにつれるさかなだから、みんな小バカにしているようだが、秋口のはぜのてり焼きときたら、川魚みたいでちょっとおつだぜ」

「でも、そんなのんきなまねをしなすって、もしあばたの野郎にてがらされっちまったら、だんなまでがいい恥さらしじゃござんせんか」

「負けたら恥っさらしかもしらねえが、寝棺で破牢した手口なんぞから見るてえと、このほしゃあばたのやつの知恵だけじゃ、ちっともてあますかもしれねえよ。どうやら、向こうのほうが一枚役者が上のようだからな。知者は寝て暮らせといってな、そのうちにまた何かおれでなくちゃ判断のつかねえようなことが起きるかもしれねえから、大船に乗った気で、ゆっくりはぜつりでもするさ」

「そうでござんすか、じゃ、ついでにあの変な立て札をもってきて、お目にかけておきゃあようござんしたね」

すると、不意に伝六が、右門のそのことばではからずも思い出したといったように、変な立て札といったものでしたから、おれでなくちゃ判断がつかねえと、みずから折り紙をつけた右門のその別あつらえな明知が、突然ぴかぴかとさえ渡ってまいりました。

「なんじゃい、なんじゃい。いま変なこといったが、その立て札とかいうやつは、どこにあったしろものじゃい」

「なあにね、日本橋のたもとに立っていたやつを、来がけにちらりと見たんですがね。文句は忘れちまいましたが、おかしな符丁を書いてあったんで、ちょっと妙に思っているんですがね」

「どんな符丁だ」

「そら――、なんとかいいましたっけな。よくお寺のちょうちんなんかに染めてあるじゃござんせんか」

「寺のちょうちん……? じゃ、卍まんじじゃねえか!」

「そうそう、その卍が、立て札の文句のおしまいに、たった一つちょっぴりと書いてあったんですよ」

事実としたら、その符丁こそは、先刻ご官医玄庵げんあん先生から耳に入れた、あの破牢罪人の右乳の下にあったといういぶかしき卍のいれずみと一致すべきものでしたから、右門の眼の烱々けいけいと火を発したことはいうまでもないことで――。

「すばらしいねただ! やっぱり、天道正直者を見捨てずというやつだよ。ひとっ走り行って引きぬいてこい!」

「じゃ、何かそいつが糸を引いているんですかい!」

「右門の知恵は、できあいの安物じゃねえよ!」

ずばりと小気味のいい折り紙をつけたものでしたから、いま泣いたからすはたちまち笑顔えがおになって、その早いこと早いこと、からだじゅう足になったかと思われるようなはやさで、駆けだしたかと見えましたが、まもなく帰ってくると、

「さ! これがその立て札だ! こんなものがねたになるなら、早いところあばたの野郎のかたきとっておくんなせえよ!」

いいざま、こわきにしていた立て札をぐいと右門の目の前にさしつけましたものでしたから、右門も胸をおどらしながら目をそそぎました。見ると、それには次のような文言が書かれてありました。

「――諸兄よ。恒藤権右衛門つねとうごんえもんはみごとわれら天誅てんちゅうを加えたれば、意を安んじて可なり――卍」

文言はなんの変哲もなさそうに見える簡潔なものでしたが、これを読んだ読み手がただの読み手ではなかったものでしたから、瞬時も待たずに、鋭い声が右門の口から飛んだので――。

「さ、伝六! 例のとおり駕籠かごだ! 駕籠だ!」

「えッ? だって、恒藤権右衛門が殺されたことはわかっていますが、どこの恒藤権右衛門だか、居どころはわからねえじゃござんせんか」

「だから、おめえは少し正直すぎるんだよ。日本橋へ立て札を掲げるほどの人殺しがあって、お番所へ殺された身内の者から訴えが来ていねえはずはねえんだ。訴状箱ひっくり返してみりゃ、どこの権右衛門だかすぐとわからあ」

「なるほど、それにちげえねえ。そういわれてみりゃ、きょうはまたいっぺんもお番所へ顔を出さねえや。じゃ、お待ちなせえよ、四丁肩で勇ましいところをひっぱってめえりますからね」

まをおかずに、そこへ替え肩づきのたくましいところを二丁ひっぱって帰りましたので、ただちに右門は息づえをあげさせると、まず第一着手に数寄屋橋すきやばしお番所へ駕籠先を向けさせました。

4

行ってみると、果然、訴状箱の中には、恒藤権右衛門とこそ明記はしてありませんでしたが、朝ほど子どもを連れた女が、夫の討たれた旨を訴えに来たことがちゃんとご記録帳にのせられてありました。幸運なことには、破牢事件の騒ぎのために、まだだれもご検視にすらついていないことがわかりましたものでしたから、道灌山裏どうかんやまうらとしるされてあったその居どころをたよりに、右門主従は一路駕籠を飛ばしました。

今でこそ道灌山かいわいは市内のうちになっておりますが、当時はむろんわびしい武蔵むさしガ原はらで、旗本、小大名のお茶寮が三、四軒、ぽつりぽつりと森の中に見えるばかりといったような江戸郊外でしたから、訴えのごとき殺傷事件のあった家はただちにわかりました。何を職業としていたものか、一見分限ぶげん者らしい別邸構えが、ちょっと右門に不審をいだかせましたが、事の急はそれなる家が立て札に指名されてある災難者であるかどうかが先でしたから、ずいと中へ通ると、出迎えた妻女に向かって、おもむろに問いを発しました。

「けさほどお訴えに来られたかたは、そなたでござったか」

「はっ……では、あの、お番所のおかたさまにござりまするか」

「さよう、近藤右門と申す八丁堀同心でござる」

「まあ、あなたさまが右門様でござりましたか、よいおかたのお越しを願えまして、仏となった者もしあわせにござりましょう」

「では、もちろんそなたが恒藤権右衛門どののご妻女でござるな」

「はっ……このとおり、もう今年六歳になるかわいい者までなした仲にござります」

夫を討たれた者の妻女としては、ことばの応対なぞがややおちつきすぎていると思われましたが、しかし、それはおそらく、恒藤権右衛門とその姓名の示すとおり、士籍にある者の妻ゆえのおちつきであろうと思われましたので、念のために右門は尋ねました。

「どうやら、由緒ゆいしょあるらしいかたがたのように思われるが、ご主人はご浪人中ででもござったか」

「はっ……さよう……さようにござります」

すると、どうしたことか、妻女がちょっとぎくりとしながら、ことばを濁しぎみにためらいを見せましたので、右門は追っかけて尋ねました。

「いや、ご藩名やご浪人をなさった子細までも聞こうというのではござらぬ。士籍にあられたかたかどうか承ればよろしゅうござるから、もっとはっきり申されませい」

「では申します。いかにも権右衛門は父の代までさるご家中で、相当由緒ある家門をつづけていた者にござりまするが、仕官をきらい、もう十年このかた浪人してでござります」

「さようか。では、不慮の災に会われたことも、なんぞ恨みの節とか、かたきの筋とかがあってのことでござったか」

「それがあんまり理不尽にござりますので、訴えに参ったわけでござります」

「ほう、理不尽とな。では、なんの恨みもうける覚えがないのに、討たれたと申さるるか」

「はっ、わたくし主人にかぎっては、なに一つ人さまから恨みなぞうける覚えはござりませぬのに、昨夜四つ過ぎでござりました。このあたりでは珍しいつじうら売りが流してまいりましたものでしたから、なにげなく権右衛門がそれなる者を呼び入れましたら、やにわに主人へ飛びかかりまして、長年の恨み思い知れと呼ばわりながら、ひきょうな不意打ちを食わしたのでござります」

「いかにもの。して、それなるつじうら売りは、どのくらいの年輩でござった」

「二十七、八くらいでござりました。そのうえ、つい今までご牢屋ろうやにでもつながれていたというような節の見うけられたかたでござりました」

にらんで駆けつけたとおり、破牢罪人と恒藤権右衛門を理不尽に討ったつじうら売りとが、いちいち符節を合わしていたものでしたから、右門はもはや事の容易なるを知って、こおどりしながら尋ねつづけました。

「いや、よいことをお聞かせくだされた。では、それなるつじうら売りは、ご主人を理不尽に切りつけて、そのまま立ち去ったと申さるるのでござるな」

「いいえ、それが切り倒しておきまして、このとおり家内はわたくしとこの子どもとのふたりきりでござりましたから、無人の様子を知って急に気が強くでもなりましたものか、今より中仙道なかせんどうへ参るから、路用の金を二十両ばかり出せとおどしつけまして、金をうけとるとすぐに逃げ出しましてござります」

「ほほう、さような大胆不敵なことまでいたしおりましたか。――いや、なによりなことを承って重畳ちょうじょうでござる。下手人の人相書きはすでに上がっているゆえ、二日ふつかとたたぬうちに、きっとこの右門が、ご主人のかたきを討ってしんぜましょうよ。では、念のために、仏をちょっと拝見させていただきますかな」

「はっ、どうぞ……」

ただちに妻女が仏間へ案内いたしましたので、伝六ともどもついてまいりましたが、しかし、右門はひと目その死骸しがいを見ると、おもわずあっと顔をそむけました。――なんたる残虐な切り方だったでありましょうぞ! 腰に見舞われたふた太刀たちの致命傷はそれほどでもなかったが、何がゆえそこまでも残虐をほしいままにする必要があったものか、恒藤権右衛門の顔は、目も鼻も口も、どこにあるかわからないほど、めったやたらに切りさいなまれてあったからです。

「いや、おきのどくなことでござった」

あまりのむごたらしさに、さすがの右門も長居に忍びなかったものでしたから、そうそうに悔やみを述べて引き揚げると、それだけに下手人の残虐を強く憎んで、断固としながら伝六にいいました。

「ちくしょう! むだな殺生せっしょうをやっていやがらあ。牢ろう疲れで足腰もまだ不自由なはずだから、そう遠くへは行くめえよ。さっそくお奉行さまに遠出のお届けをしておいて、すぐにも中仙道を追っかけようじゃねえか」

「ちえッ、ありがてえや、まだ夏場の旅でちっと暑くるしいが、久しぶりに江戸を離れるんだから、わるい気持ちじゃねえや」

官費の旅行だから、大きにそれにちがいないが、しかし、十町と行かないうちに、いっこうそれがいい気持ちでないことになりました。というのは、ちょうど加賀さまのお屋敷前までやって行くと、はからずも、向こうから意気揚々と、旅のしたくをしながら、こちらへやって来る一団にばったりと出会ったからです。しかも、それが余人ではなく、あばたの敬四郎とその一党であることがはっきりとわかったものでしたから、右門もぎょっとなったが、伝六のいっそうぎょっとなったのは当然なことでした。

「ちくしょうめ、いやなかっこうで来やがるが、かぎつけたんでしょうかね」

「そうよな。どうやら、遠出の旅じたくらしいな」

「そうだったら、野郎め、あの非人からかぎ出したにちげえねえから、あっしゃあいつらと刺しちげえて死にますぜ」

「むやみと死にてえやつだな。まだかぎつけたかどうだかもわからねえじゃねえか」

たとえ足はついたにしても、まさかに中仙道へ落ちたことまでは知るまい、と思いましたから、右門はかれらの知らぬ恒藤権右衛門虐殺事件の証跡を持っているだけに、安心していましたが、しかし、それが少し意外でありました。ばったり両方が顔を合わすと、いつにもなくあばたの敬四郎が勝ち誇って、尋ねもしないのにべらべらとやりだしたからです。

「おきのどくだが、今度はお先に失礼するよ。これからもあることだから、参考のためにいっておくがな、さきほどはせっかくあげた非人をこちらへいただいてしまって、ごちそうさまだったよ。おかげで、あいつらの口からほしの野郎が、刀屋でわきざしを買い入れ、本郷方面へ駕籠かごでつっ走ったと聞いたからね。いまさっき駆けつけて、すっかり洗いあげたら、途中でつじうら売りに化けやがって、中仙道口を落ちたと足がついたから、このとおりお奉行のお手札をいただいて、おつな道行きとしゃれてるところさ。おおかた、そのあわて方じゃ貴公たちも足を見つけたらしいが、今度はおれがお先に失礼するよ。では、せいぜいあごの無精ひげでも抜いていねえな」

のみならず、つら憎そうなせせら笑いを残すと、手下の者三人を引き連れて、揚々と過ぎ去っていったものでしたから、せっかくこれまで証跡を洗い出していたのに、いま一歩という手前でみんごと先鞭せんべんを打たれましたので、常勝将軍の右門もおもわず歯ぎしりをかんでしまいました。それも、洗った証跡があばたの敬四郎と一致していなかったならば、まだ右門一流の疾風迅雷的な行動と、人の意表をつく機知奇策によって、多分に乗ずべきすきがないでもなかったが、恒藤権右衛門を理由なくして虐殺したことすらも、刀屋でわきざしを買いととのえた事実とともに総合してみれば、中仙道へ走るための路用金略奪に行なった犯跡に考えられましたものでしたから、これではもう右門とてさじを投げるより道はないので、加うるにご奉行のお手札までも、すでにあばたの敬四郎に占取されていることがわかったものでしたから、回天動地の大事件ならば格別、たったひとりの破牢罪人ぐらいのめしとりで、そう何人もの出動は許されないことを知っている右門は、とうとう苦笑して、つぶやくように言いました。

「珍しいこともあるもんだ。おれがあばたのやつに負かされるなんて、さるが木からおっこちたより、もっとおかしいよ」

でも、右門にはまだしゃくしゃくとして、それをつぶやくだけの余裕がありましたが、伝六は黙然と歯ぎしりをかみつづけたままで、さながらふたりの位置は、むっつり屋とおしゃべり屋とが、入れ替わったようなかっこうでありました。

5

しかし、八丁堀へ引き揚げてしまうと、右門は今までのむだぼねに対する落胆と疲労とがいちじに発したものか、時刻はちょうどお昼どきだというのに、昼食をとろうともしないで、ぐったりそこにうち倒れてしまいました。伝六のそれにならったのはもとよりのことでしたが、するとまもなく、うるさいことには、表でしきりとどなる声がありました。

「もし、どなたもおりませんか! わっちゃ急ぎの使いで来た者ですがね、この家ゃあき家ですか!」

「べらぼうめ! あき家じゃねえや、なに寝ぼけたことぬかすんでえ」

しかたがないので、伝六がぶりぶりしながら取り次ぎに出向きましたが、帰ってくると黙って右門に一本の手紙をさしつけました。

「うるせいや、きさま読め!」

「じゃ、封を切りますぜ」

寝そべったままで右門がうけとろうともしなかったものでしたから、代わって伝六が読みあげました。

「ええと、前略、先刻は遠路のところをわざわざご苦労さまにそろ。その節ご検死くだされそうらえども、埋葬ご許可のおことば承り漏れそうろうあいだ、使いの者をもっておん伺い申し上げそろ。なにぶん、いまだ夏場のことにそうらえば、仏の始末なぞも火急に取り行ないたく、ご許可くださらば今夕にも急々に式葬つかまつりたくそうろうあいだ、右おん許し願いたく、貴意伺い上げそろ。頓首とんしゅ不宣。恒藤権右衛門家内より、近藤右門様おんもとへ――」

「こめんどうくせえこといってくるじゃねえか。検死を済ましゃ、埋葬許可をしたも同然だから、そういって追っ払いなよ!」

少し雲行きのよろしくないところへ、ご念の入りすぎた手紙でしたから、吐き出すようにいっていましたが、伝六が使いの者を追い返して帰ってきたのを見ると、がぜん、右門が何思いついたか、むくりとはね起きながらいいました。

「今の手紙はどこへやった!」

「これこれ、ここにありますよ」

「使いに来た者はさかな屋だな」

「そう、そう、そうですよ。魚勘と染めたはっぴを着ていましたからね、たぶん、そこの家のわけえ者でがしょうが、会いもしねえのに、どうしてまたそれがわかりますかい」

「手紙にさかなのにおいがしみてるじゃねえか」

そろそろ右門一流の気味がわるいほどな明知のさえを小出しにしかけて、じっとその手紙の文字と、まだそばにころがしたままであるさきほどの、伝六が日本橋から引き抜いてきた、あの立て札の文字とを見比べていたようでしたが、真に突然でありました。にやりと意味ありげな笑いをうかべると、不意に妙なことをまたいいはじめました。

「なあ、伝六、人間の心持ちってものは、おかしな働きをするもんじゃねえか」

「気味のわるい。突然変なことおっしゃって、坊主にでもなるご了見ですかい」

「いいやね、おれ自身じゃちっともあせったつもりはねえんだが、どうもあばたの野郎が向こうに回るたびに、こういうしくじりがあるんだから、いつのまにかおれもあせるらしいよ」

「じゃ、何かお見おとしでもあったんですかい」

「それが大ありだから、おれにも似合わねえって話さ。まあ、おめえもよく考えてみなよ。だいいち、おかしいのはこの立て札なんだが、中仙道へ突っ走ったやつが、いつのまにこいつを日本橋へもってこられるんだい」

「なるほどね。考えてみりゃ、足の二十本ぐれえもあるやつでなきぁできねえや」

「だから、そいつがまず第一の不審さ。第二の不審は、この立て札の文句だよ。念のために、もういっぺんおめえも読み直してみるといいが、諸君よ、恒藤権右衛門はみごとわれら天誅てんちゅうを加えたれば、意を安んじて可なり、としてあるぜ」

「ちげえねえ。いくら無学でも、あっしだって天誅という文句ぐれえは知ってらあ。天に代わって討ったってえ意味じゃござんせんか」

「しかるにだ、権右衛門のおかみは、理不尽に切りつけたといったぞ」

「なるほど、少しくせえね」

「まだあるよ。第三の不審は、いま使いがもってきたこの手紙の筆跡と、こっちの立て札の筆跡だが、実に奇妙なこともあるじゃねえか。棒の引き方、点の打ちぐあい、まるで二つが同じ人間の書いたほどに似ているぜ」

「なるほどね、墨色までがそっくりでござんすね」

「しかも、恒藤権右衛門家内といや、女でなくちゃならねえはずなのに、だれが書いたものか、この手紙はそっちの立て札の筆跡同様、れきぜんと男文字だよ」

「ちげえねえ。じゃ、また駕籠ですかい」

「いや、まだ早いよ。それから、第四の不審は、恒藤夫人自身だがな、おめえもなにか思い出すことはねえのかい」

「あるんですよ、あるんですよ。あっしゃ行ったときから変に思ってるんだがね。あの家の構えは、浪人者親子三人にしちゃ、すこしぜいたくすぎゃしませんか」

「しかり。まだあるはずだが、気のついたことはねえかい」

「あのおかみさんのおちつきぐあいじゃござんせんかい」

「そうだよ、そうだよ。おれゃさっき、あのおちつきかたを実あ感心したんだがね。日ごろの身だしなみがいいために、あんな非常時に出会っても取りみだした様子を見せないところは、さすが侍の妻女だなあと思ってな、つい今まで感服していたんだが、考えてみりゃ、ちっとおさまりすぎているぜ。しかもだ、それほどの巴ともえ板額ごときおちつきのある侍の勇夫人が、目の前で夫の殺されるのを指くわえて見ているはずもねえじゃねえか。あまつさえ、路用の金を二十両もみすみす強奪されたというにいたっては、ちっとあの恒藤夫人くわせ者だぜ」

「しかり、しかりだ。それに、あの恒藤権右衛門も、切られ方がちっと不思議じゃござんせんか。物取り強盗が時のはずみで人を殺したにしても、あれまで顔をめった切りにする必要はねえんだからね」

「だからよ、急におら腹がへってきたから、まずお昼でもいただこうよ」

「気に入りやした。いわれて、あっしも急にげっそりとしましたから、さっそく用いましょうが、なんかお菜がござんしたかね」

「くさやの干物があったはずだから、そいつを焼きなよ。それから、奈良ならづけのいいところをふんだんに出してな。そっちの南部のお鉄でゆっくりお湯を沸かして、玉露のとろりとしたやつで奈良茶づけとはどんなものだい」

「聞いただけでもうめえや。じゃ、お待ちなせいよ。伝六さまの腕のいいところを、ちょっくらお目にかけますからね」

にわかにほのぼのとして事件に曙光しょこうが見えだしたものでしたから、伝六はもうおおはしゃぎで、ふうふうとひとりで暑がりながら、右門のいわゆる奈良茶づけのしたくをととのえていましたが、かくてじゅうぶんに満腹するほどとってしまうと、ふたたび主従は道灌山どうかんやま裏の恒藤権右衛門宅に向かって、駕籠かごを走らせました。むろん、それは今にして新しく疑問のわいた権右衛門の横死と、その妻女の陳述のうちに潜んでいる不審な点をあばこうためで、それにはまず第一に、さきほどろくに調べもしなかったあの横死死体を、いま一度入念に点検する必要がありましたものでしたから、案内も請わずに玄関へかかると、右門はずかずかと奥へ通っていきました。

仏間ではすでに死体を棺に納め、いましちょうど僧侶そうりょの読経どきょうが始まろうとしていましたので、右門はまずそこに居合わす会葬者の、あまりにも少なすぎるのに目を光らせました。へや数にしたら十間以上もあろうというお屋敷住まいをしながら、家具調度なぞも分限者らしい贅ぜいをつくしているのに、居合わした会葬者は、先刻の恒藤夫人と、ことし六歳になるとかいった子どもをのぞいてはたった六人きりで、しかもその六人が士籍にある者はひとりもなく、ことごとく町人ばかりでしたから、まず右門の鋭い尋問がそれに向かって飛んでいきました。

「みりゃあみなさんいずれも町家の者らしいが、これが恒藤家のご親戚しんせき衆でござるか」

突然また右門が姿を見せて、不意に鋭い質問をしたものでしたから、恒藤夫人はぎょっとなったようでしたが、しかし弁舌さわやかに申し開きをいたしました。

「いいえ、これはみな、出入りの町人ばかりでござります」

「では、ご親戚のかたがたをなぜお呼び召さらなかったか」

「いずれも遠国にござりますので、急の間には招きかねたゆえにござります」

「知人も江戸にはござらぬか」

「はっ、一人も居合わしませぬ」

「では、その六人に相尋ねる。そちらのいちばんはじにいるやつは何商売だ」

「てまえは米屋にござります」

「次はなんじゃ」

「やお屋の喜作と申します」

「その次の顔の長いのはなんじゃ」

「なげえ顔だからそんな名まえをつけたんじゃござんせんが、あっしゃ炭屋の馬吉と申しやす」

「人を食ったこと申すやつじゃな。お次はなんじゃ」

「酒屋の甚兵衛じんべえめにござります」

「その隣のくりくり頭をしたおやじは何者じゃ。按摩あんまでもいたしおるか」

「じょ、じょうだんじゃござんせんぜ、こうみえても、この家の家主でござんすよ」

「さようか、失敬失敬。では、そちらのいちばんはじにいるいなせな若い者は何商売じゃ」

「うれしいな、わっちのことばかりゃ、いなせな若い者とおっしゃってくだせえましたね。それに免じて名を名のりてえが、ところで、どいつにしましょうかね」

「そんなにいくつもあるのか」

「ざっと三つばかり。うちの親方はぬけ作というんですがね。河岸かしのやつらはぽん助というんでげすよ」

「よし、もうあいわかった。さては、きさまがさっき手紙の使者に参った魚勘とかの若い者だな」

「へえ、そうなんですが、どうしてまたそれがおわかりなすったんですかい」

「きさま今、河岸といったじゃねえか」

「ちえッ、おっかねえことまで見ぬいてしまうだんなだな。してみるてえと、おれが隣のお美代みよ坊に去年から夢中になっていることも、もうねたがあがっているんかな――」

とんだところで魚勘の若い者は、あだ名どおりのぬけ作たる馬脚を現わしてしまいましたが、右門はもはや第一段の尋問を了しましたので、ずかずかと棺のそばに歩みよると、ぶきみさにもひるまずに、そのうわぶたをはねあげて、死者の白衣をはだけながら、第二の死体点検にとりかかりました。

と同時に、右門のまなこを最初にはげしく射たものは、その胸の右乳下に見えるあの卍まんじのいれずみ――たしかに破牢罪人の同じ右乳下にもあったはずの、あのいぶかしき卍の朱彫りでありました。だから、なんじょうその慧眼けいがんの光らないでいらるべき、烱々けいけいとしてまなこより火を発しさせると、突き刺すごとくに鋭い質問が夫人のところに飛んでいきました。

「少しくいぶかしい節があるが、これなる仏は、たしかにご主人恒藤権右衛門どのに相違ないか」

夫人はぎょっとなったようでしたが、間をおかずに、なじるごとく答えました。

「死者をお恥ずかしめなさりまするな! 浪人者ながらも武士の妻にござります。たしかに主人の死体と申しあげましたら、それに相違ござりませぬ」

「では、この右乳下の、卍のいれずみは何の印でござる!」

「それあればこそ、恒藤権右衛門のなによりな証拠にござりますゆえ、お疑いにござりますなら、お立ち会いのかたがたにもお尋ねくださりませ」

他の立証を求めるように、居合わした者たちへの尋問を迫りましたものでしたから、右門は一同に矢を向けました。

「そのほうどもも聞いてのとおりじゃが、権右衛門どのの右乳下に卍のいれずみのあったことを、だれぞ存じおるか」

すると、待ってましたというように、魚勘の若い者が、威勢よくいいました。

「知ってますよ、知ってますよ。こないだ、だんながこの縁側で、もろはだ脱ぎでいたところを見やしたからね。わっちが妙ないれずみでござんすねと尋ねたら、なあに、お寺の娘と昔約束をしてな、忘れねえように彫っておいたのさって、こんなふうにおっしゃいましたぜ」

事もなげに立証したものでしたから、右門はいよいよ事件の迷宮にはいったのを知って、まゆを強く一文字によせ、そのやや蒼白そうはくな面に沈吟の色を見せながら、雲霧の中に小さな玉を探ろうとするように、じっとくちびるを結んでいましたが、と、――ちょうどそのときでありました。突然、天井裏で、何かねこかいたちのようなものの、けたたましく走りまわる音があったと思われましたが、さっと一匹の黒ねこが、それも特別大きい黒ねこが、なにやら口にくわえて、梁はりを伝わりながら、おどり逃げるようにそこの庭先へ天井裏から飛び出してきたので、右門のまなこはのがさずに、口へくわえているその品物に鋭くそそがれました。見ると、それはなんたるいぶかしさでありましたろうぞ! ねずみでもあろうと思われたのに、意外や、一匹の頭も尾もあるりっぱなさかなだったのです。しかも、生ではなく焼いたさかなで、あまつさえおしょうゆらしいもののつゆしるがしたたっていたものでしたから、右門のまなこは、ここにみたびらんらんと輝きを呈しました。なにをいうにも、くわえ出してきた場所は天井裏です。それも、古いさかなならば格別ですが、今、食膳しょくぜんにでものせようとしていたらしくみえる、たべごろの焼きざかなでしたから、右門のまなこはらんらんと輝くと同時に、その口のあたりにはにたりと会心の笑えみが浮かんで見られましたが、突然、いんぎんに恒藤夫人へわびをいいました。

「いや、つまらないことを申し立てまして、いかい失礼をいたしました。さぞお腹だちでござりましたろうが、お奉行に上申いたすおりに、何かと手落ちがあっては役儀の面目が相立ちませぬによって、かくいま一度検視に参ったまででござるから、なにとぞ失礼の段はひらにお許しくださりまするように……。ついででござるが、ご主人権右衛門殿に不慮の災を与えた憎むべきつじうら売りの下手人は、さきほど同僚の者が板橋口でめしとりましてな。それなる者が自白いたしましたによって、よくそのことも仏に申しきけ、ねんごろにお弔いなさりませよ。では、伝六、きさまもちょっとお参りしておきな」

いうと、死者に向かってしばし黙礼を与えていたようでしたが、そのままなにごともなかったような面持ちで、さっさと八丁堀へ引き揚げてしまいました。

6

さて、引き揚げてしまってからの右門が、そろそろとまたむっつり右門の右門たるところを遠慮なく発揮しだしましたので、毛抜きを取り出しながらあごひげの捜索を始めたのもその一つですが、それよりもっと変なことは、ときどきにやりとひとりで思い出し笑いをやりながら、

「もう来そうなものだな。まだかえらんのかな」

そういっては、だれかを待ちでもするかのように、しきりとひとりごとをつぶやきつづけましたものでしたから、伝六がまた伝六の本来に返って、右門を右門とも思わぬ、粗略な言を無遠慮に弄ろうしはじめたのは当然なことでありました。

「ちえッ、うすっ気味がわるい! 思い出し笑いなんぞおよしなせえよ。どなたさまをお待ちかねか知らねえが、あっしにないしょでそんな隠し女をこしらえたりなんかすりゃ、だんなにおぼしめしのある江戸じゅうの女を狩りたててきて、娘一揆いっきを起こさせますぜ」

しかるに、右門は依然あごひげをまさぐりながら、にたりにたりとやっては、その日一日、まだ来ないか、まだ帰らんかをつぶやきつづけたのみならず、それが翌朝にまでも及びましたものでしたから、伝六がさらに右門をそまつにした言を弄しました。

「あきれちまうな、きのうくさやの干物で奈良づけをたべるまでは、とても調子のいいだんなでしたが、あれからこっち、また少し気が変のようじゃござんせんか。奈良づけの粕かすにまだ酔ってらっしゃるんですかい」

ところが、お昼ちょっとまえでありました。ぶつぶつと言い通しだった伝六が、真に意外なる来訪者を取り次ぐことになりました。ほかでもなく、それは、きのう意気揚々と中仙道なかせんどうへ追っかけていったあのあばたの敬四郎なので、だから伝六は犬ころのように、玄関から座敷へ引きかえしてくると、そこにごろりと寝ころびながらまだ二日ごしにあごひげをまさぐっている右門へ、事重大とばかりに声をひそめてささやきました。

「ね、だんなだんな! なにか知らぬが、あばたの野郎がまっさおな顔つきで、目をまっかにしながら、しょんぼりとしてたずねてきましたぜ」

「そうか! やっといま来たか」

すると、右門は、やっといま来たかといって、何を隠そう、きのうからの待ち人こそはその敬四郎であったことを裏書きしながら、自身玄関まで出迎えにいって、あまつさえ丁重に上座へ直すと、伝六が目をぱちくりするほどのいんぎんさをもって、大海のごとき虚心坦懐たんかいな淡泊さを示しながら、笑い笑いいいました。

「さぞ暑かったでござりましょう。昨日来、拙者は心してご貴殿の帰来をお待ちうけしていたところでござりますから、お気安くおくつろぎくださるように――」

導かれてきたときは、すっかり青ざめて、なにかまだおどおどしながら、警戒している節がみえましたが、右門の坦々たんたんたること清らかな水のごとき心の広さに、あれほど意地のくね曲がっていたあばたの敬四郎も、ぐんと胸を打たれたものか、かつてない神妙さをもって口を開きました。

「いや、おことば、いまさらのごとくてまえも恥じ入ってござる。貴殿にそう淡泊に出られると、てまえも大いに勇気づいてお願いができるしだいじゃが、どうでござろう。今度という今度は、ほとほとてまえも肝に銘じてござるから、今までの失礼暴言はさらりと水にお流しくだすって、てまえの命をお助けくださるわけにはいくまいかな。このとおり、手をついての願いでござるが……」

「もったいない。お手をあげくだされませ。もうじゅうぶんにてまえには、こうやってご貴殿のお越しなさることまでもわかってでござりますによって、どうぞもうそれ以上はおっしゃらずに――、中仙道はどこまでお越しでござったか存じませぬが、暑い中を、ひどいめにお会いでござりましたな」

「そう申さるるところをみると、では破牢罪人の行く先、ご貴殿にはもうわかってでござるか!」

「さようにござります。中仙道へ参ろうと、東海道へ参ろうと、ことによったら唐天竺からてんじくまでお捜しなすっても、ちょっとあいつめを見つけること困難でござりましょうよ」

「さようか、ありがたい! では、敬四郎一期のお願いじゃ。なにとぞ、お力をお貸しくださらぬか。貴殿のことだからもうご存じでござろうが、あいつめをてまえが逃がすと、切腹ものでござるからな」

「ええ、ようわかってでござります。ひょっとしたら、へびといっしょに蛇じゃが飛び出すかもしれませぬから、どうぞ今からごいっしょにお越しくだされませ」

いうと、いよいよ右門の右門たるところをお目にかけましょうといわんばかりに、莞爾かんじとうち笑えみながら立ち上がったようでしたが、不意に伝六へ意外なものの用意を命じました。

「どこか、ご近所のお組屋敷に槍やりをお持ちのかたがあるだろうから、急いで一本借りてこい!」

「えッ? 槍……? 槍というと、あの人を突く槍ですかい」

「あたりめえだ。槍に幾色もはねえはずじゃねえか、なるべく長いやつがよいぞ」

めんくらいながら駆けだしていって、伝六がどこで見つけたものか長槍を借り出してきたものでしたから、右門はそれを高々とかつがせると、意表をつかれて目をぱちくりしている敬四郎に、ごくさばさばとしながらいいました。

「さ、参りましょうよ。おひろいではちっとまだ暑うござるが、小者に槍をかつがせておひざもとの町中を歩くのも、にわか大名のようで近ごろおつな道中でござりますからな。ゆっくりと楽しみ楽しみ参りまするかな」

そして、みずから先にたちながら、行き向かったところは、きのうことさら安心させるようなことばを残したままで引き揚げたあの道灌山裏の恒藤権右衛門宅でした。

むろん、敬四郎も伝六も鼻をつままれたような面持ちでしたが、それよりぎょっとなったのは恒藤夫人で、おそるべき右門がみたび案内も請わずに、ぬうとまた訪れたばかりでなく、そこには長いやつを一本伝六にかつがせていたものでしたから、青ざおと青ざめて、震えるくちびるに虚勢を張っているもののごとく、とがめだていたしました。

「白昼許しもなく女こどもばかりの住まいに長物持参で押しかけ、なにごとにござりまするか!」

「いや、どらねこ退治に参ってな」

しかし、右門は相手にもせずに、にやにやとうち笑みながら、伝六からくだんの長槍をうけとると、さッと石突きをふるって毛鞘けざやをはねとばしたと見えたが、えい! とばかり気合いを放つと、意外や、そこの天井めがけて、ぶすりとそのどきどきととぎすまされた九尺柄の穂先を突きさしました。しかも、そのへやの天井一カ所ばかりではなく、次々と疾風の早さをもって、残らずのへやの天井を同じく長槍の穂先を突き刺してまわったと見えましたが、突然、真に突然、意外な人の姓名を大音声だいおんじょうで天井めがけながら呼びました。

「さ! 恒藤権右衛門、降りてこぬと、右門の槍先がこのとおり見舞っていくぞ!」

伝六のおどろいたことはもちろんでしたが、それよりも妻女の青ざめたことはいっそうのもので、へたへたとそこにうずくまってしまったのをみると、右門はさらに勢い鋭く天井を突き刺してまわりながら、ふたたび大音声で叫びました。

「さ! 権右衛門! 男らしく正体を現わさぬか! 降りてこぬと、ほんとうに突き刺すぞ!」

すると、まことに意外でありました。右門のその慧眼けいがんを裏書きして、天井裏から答える声がありました。

「恐れ入りました。いかにも正体は現わしまするによって、どうぞ気味のわるい穂先だけはもうお控えくださいまし」

つづいて、みしみしという音とともに、押し入れの中の出入り口を伝わって、果然そこに姿を見せたものは、二日の天井裏籠城ろうじょうで、ほこりとすすによごれ染まっている死んだはずの恒藤権右衛門でしたから、右門は会心そうな笑えみをみせていましたが、しかし不平そうなのはあばたの敬四郎で、ややなじるがごとくにいいました。

「拙者の尋ねるものは、恒藤某なぞではござらぬよ。破牢罪人の源内でござるよ」

すると、右門が莞爾かんじとばかりうち笑みながらいいました。

「その源内とやら申す破牢罪人は、こやつが殺して、おのれの身代わりとなし、もうきのう土の下へうずめてしまいましたよ」

「なに⁉ 殺した⁉ 殺した⁉ なぜ、てまえのたいせつな罪人をかってに殺しおったか、さ! 子細を申せ! 申さぬか!」

あまりな意外のために、つい本性が出たものか、あばたの敬四郎が権右衛門に飛びかかって、その首筋を締めあげながら、いまにも悪い癖の痛め吟味を始めようとしたものでしたから、右門はあわててさえぎると、痛いところを一本刺していいました。

「いや、お待ちめされ! 拷問ばかりが吟味の手ではござらぬ。物には順序と道理があるはずじゃから、理詰めに調べたてれば、実を吐かぬというはずはござらぬ。てまえが代わって吟味つかまつろう。――さ、権右衛門、上には目のある者も、慈悲を持つ者もあるゆえ、ありていに申すがよいぞ。何がゆえに、なんじは源内を一昨夜かようにむごたらしき死に落とし、おのれの死骸しがいのごとくによそおって、人目をたぶらかそうといたしおった。このうえ白を黒と申しても、八丁堀にむっつり右門といわるる拙者の目が光っているかぎり、偽りは申させぬぞ!」

敬四郎ならば一言も自白しまいとするかのように見えた恒藤権右衛門も、右門の慈悲あるらしい様子とことばに隠すことの愚を知ったものか、神妙に恐れ入って尋ねました。

「おことば身にしみてござります。いかにも白状いたしましょうが、それより、どうしてだんなは、あの死体がてまえの替え玉であるとおにらみでござりましたか」

「いうまでもないことじゃ。きのうあのような愚かしき手紙を持たしてよこしたによって、不審がわいたのじゃ。それも、日本橋にさらした立て札と手紙とは別々に、どちらか妻女にでも代筆させたら、まだ不審はわかなかったかもしれぬが、両方ともにそのほうが書くとは、りこうそうにみえても愚かなやつじゃ」

「なるほど、とんだしくじりでござりましたが、でも、てまえが天井裏に潜みおること、よくおにらみでござりましたな」

「あれなるねこに焼きざかなを取られたことが、そちの運のつきじゃったわい。人間がいなくば、天井裏に食べごろの焼きざかななぞあるはずはないからな」

「さようでござりましたか。いや、かさねがさね慧眼けいがん恐れ入りました。では、いかにも、神妙に白状いたしましょうが、何をかくそう、てまえは、もと、あれなる非業の死をとげしめた破牢罪人の源内などとともに、長崎ながさき表に根城を構えて、遠くは呂宋るそん、天竺てんじくあたりまでへもご法度はっとの密貿易におもむく卍組まんじぐみの一味にござりました。しかるうちに、これなる妻女となじみましてな、はじめのうちは船の帰るたびに相会うだけで、てまえも妻女も満足してござりましたが、いつかあれなるかわいいせがれができまして、それからというもの、急に妻女にもせがれにもいとしさがつのり、いろいろと考えましたところ、上の目をおかすめたてまつって、いつまでもご法度の密貿易なぞに従っていましたのでは、いずれ遠からずご用弁になって打ち首にでもなり、家内はおろか、せっかく設けたかわいいせがれとも、死に別れいたさねばなるまいと存じましたによって、お恥ずかしいことながら、妻子たちのかわいさゆえに、死すとも友は売るまじと神に誓って、あのようにめいめい右乳下へ卍まんじのいれずみすらしておいた身にかかわらず、つい仲間の者にそむいて、長崎奉行に密告したのでござります。それも、密告すればお奉行さまがてまえの罪をお許しくださるというご内達でござりましたから、せがれのために行く末長いてまえの命ほしさで、ついつい、血をすすり合った兄弟を裏切ったのでござりまするが、いや、わるいことはできないものでござる。兄弟たちが極度にてまえを恨み、いかにしても裏切り者のてまえに天誅てんちゅうを加えねばと、一度長崎表でご用弁となったにかかわらず、仲間のうちの四人が決死隊となって破牢はろうを企て、どこでどうかぎつけたものか、てまえが江戸に潜んでいることを聞きつけまして討っ手に向かったと知りましたので、じゅうぶんてまえも気をつけまして、ついひと月ほどまえに、わざわざこんなへんぴな土地へ逃げかくれ、首尾よく身を隠しおおせていたつもりでござりましたが、それが一昨夜でござりました。その四人のうちのひとりのあれなる源内が、長崎表からのお達しでこちらのだんなにご用弁となり、運よくというか、入牢していたうちにだれからか、はからずもてまえがここにいるということをかぎつけ、あのように破牢いたしましてつじうら売りとなり、てまえを討ち取りに参りましてござるが、昔とったきねづかに、てまえのほうが少しばかり力があまっているため、かえってきゃつめを討ち取ってしまったのでござります。そのとき、ふとこれなる妻女が知恵をつけてくれましたので、てまえも急に替え玉のことを思いつき、さいわい右乳下には源内にもてまえにも同じ卍のいれずみがござりましたから、源内の面をあのようにめった切りといたしまして、その卍のいれずみをなによりの証拠のようにみせかけるつもりで、ひとしばい打ってみたのでござります。そうして、上のお目をかすめ、あの日本橋へかかげた立て札によって、いずこにいるか、たしかにまだこの江戸の中にてまえをねらって潜んでいるはずの、残る三人の卍組刺客しかくたちにも、てまえがもう死んだごとくに装って、その凶刃から一生安楽にのがれるつもりでござりましたが、右門のだんなの慧眼けいがんに、とうとうこのように正体を見現わされたのでござります。かくのとおり、なにもかも包まずに申し上げましたによって、さいわいに、あれなるてまえのせがれのために、特別のお慈悲あるおさばきをいただければしあわせにござります……」

長い自白の陳述をようやく終わると、子ゆえに一味の者すらも売り、子の愛ゆえに今はまた死体の替え玉すらも思い決し行なった不憫ふびんなる父恒藤権右衛門は、そこにじっと両手をつきながら、右門の慈悲を願うようにその顔を見仰ぎました。仰がれて右門もじっとしばらく裁断を考えまよっているかのようでしたが、やがて断固としていいました。

「情状不憫ふびんにも思うが、天下のご法度はっとをまげることは相成らぬ。遠島申しつけられるよう上へ上申するから、さよう心得ろ!」

「えッ! 遠島――あの、遠島でござりまするか!」

「不服か」

「でも、てまえの密貿易の科とがは、すでに長崎お奉行さまからご赦免になっているではござりませぬか!」

「囚人とはいいじょう、許しなくして人をむごたらしくあやめた罪じゃ」

「でも、それは、それは、わが身を守ったがための科でござります。そのうえ、てまえは今こそ浪々の身でござりまするが、れっきとした士籍にある身ではござりませぬか!」

「愚かなやつじゃな。これほどいうても、まだわしの慈悲がわからぬか。そちは今なんと申した、子のかわいさゆえに人も切ったと申したではないか。さればこそ、その子ゆえに、そちの命の長かるべきよう慈悲をたれて、縛り首打ち首にもすべきところを遠島に上申すると申すのじゃ。それも、島流しすべきものはそちひとりではない。それなる妻女も、夫の罪業を手助けいたした罪により、同罪の遠島じゃ。せがれは――上の席にあるものとして教ゆることはならぬが、係り役人なぞに用いてはならぬそでの下を使って、手荷物なぞに装い、うまいこと船に積み込んだりしてはあいならぬぞ。どうじゃ、まだそれでもわしの慈悲がわからぬか」

「はッ……よくわかってござります。せがれの手荷物のことも、よく胸におちてござります。ありがとうござりました。ありがとうござりました」

なぞの手荷物のことすらもわかったごとく、権右衛門夫婦がひれふしましたものでしたから、右門はかたわらの敬四郎を顧みると、さわやかな面持ちでいいました。

「これでてまえの八番てがらは、九分どおりかたづいてござる。知恵をお貸し申すといったのでは失礼にござるが、ついでに卍組残りの三人をもめしとられるよう、てまえがちょっと一しばい書いてしんぜますから、それをご貴殿のてがらになされい」

そして、伝六に立て札を五枚ほど急場にこしらえるよう命じていましたが、ほど経てできあがったのを受け取ると、さらさらと次のごとき文言をその五枚の表に書きつけました。

「諸兄よ、恒藤権右衛門の居どころ判明したり。

明六日夜、五つ下がりに道灌山どうかんやま裏の森まで参集されよ。――卍」

「この五枚を、日本橋とか浅草といったような、人出の個所へすぐさまお立てなすって、夜この時刻に、あの森のあたりにでも張り込んでいたら、十中八、九逐電中の三人をも、ご貴殿のてがらにめしとることができましょうよ」

立て札を手渡しながら敬四郎に注意をしておくと、右門はさらに権右衛門夫妻に言い渡しました。

「わしの慈悲が肝に銘じたならば、逃ぐるようなこともあるまいによって、流罪のおさばきが決まるまでこのまま当屋敷に起きふしをさし許すから、その間にじゅうぶん島へ渡るしたくなど整えておくがよいぞ。――では、伝六、そろそろまた主従ふたりきりの大名道中いたそうかな」

そして、伝六に槍をかつがせると、さっさと表へ出ていってしまいました。

――その翌々日の朝でありました。右門の貸してやったあの立て札の機知によって、案の定残りの卍組三人をめしとって、あばたの敬四郎がほくほくしながらお組屋敷を訪れると、精いっぱいの感謝を現わしながらいいました。

「いや、おかげで、えらいてがらにありつき、お礼のいいようもござらぬ。どうしたらよろしいか、てまえにはくふうもつかぬが、何をお礼にしたらよろしゅうござろうな」

すると、右門が言下に答えました。

「拙者へのお礼よりも、これから先、ここにいる伝六なぞを、あまりむごく扱わぬことがなによりでござりまするな。お互いこういうかわいい小者があってこそ、お上のご用も勤まるのでござりまするからな」

そして、そこに敬四郎がいるというのに、右門はたったそれだけいってしまうと、なにごともなかったような顔つきで、もうつんとあごのひげをまさぐりだしました。

底本 / Source edition

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2000年4月10日公開
2005年6月30日修正
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書誌 / Bibliography
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佐々木 味津三「右門捕物帖──08 卍のいれずみ」(新字新仮名)、底本『右門捕物帖(一)』春陽文庫、春陽堂書店、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000577_000111, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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