## 一

――その第三話です。

江戸年代記に依りますと、丁度この第三話が起きた月――即ち元禄七年の四月に至って、お<ruby><rb>犬公方</rb><rt>いぬくぼう</rt></ruby>と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>をつけられている時の将軍<ruby><rb>綱吉</rb><rt>つなよし</rt></ruby>の逆上は愈々その極点に達し、妖僧<ruby><rb>護持院隆光</rb><rt>ごうじいんりゅうこう</rt></ruby>の言語道断な献言によって発令された、ご存じのあの軽蔑すべき<ruby><rb>生類憐</rb><rt>しょうるいあわれ</rt></ruby>みの令が、ついに<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>うべき結果を当然のごとく招致しまして、みつかり次第に拾って飼っておいた野良犬が、とうとう二万頭の多数に及び、到底最早江戸城内の犬小屋だけでは、おびただしいそれらのお犬様を取締ることが出来なくなりましたので、西郊中野と大久保に、それぞれ十万坪ずつの広大なお犬小屋をしつらえ、これに一万頭ずつをふり分けてお移し申しあげ、専任のお犬奉行なる者を新たに任命いたしまして、笑止千万なことにはこれらの犬の中で、最も多く子供を生産する奴には、筑前守おクロ様とか、或はまた尾張守おアカ様とか言うような名前をつけたと書かれてありますが、しかし、そういう逆上した一面があるにはあっても、さすがに江戸八百万石の主、天下兵馬の統領たる本来の面目を失わないのは<ruby><rb>豪気</rb><rt>ごうき</rt></ruby>なものです。

と言うのは、年々歳々、日を追うて次第に士風の遊惰に傾くのを痛嘆いたしまして、士気振興武道奨励の意味から、毎年この四月の月の<ruby><rb>黄道吉日</rb><rt>こうどうきちにち</rt></ruby>を選んで、何等か一つずつ御前試合を催す習慣であったのがそれですが、犬にのぼせ上がっていても、感心にその年中行事だけは忘れないとみえ、この年も亦二十四日の晴天を期して、恒例通り御前試合のお催しがある旨発表になりました。

――試合項目は槍に馬術。

――場所は小石川<ruby><rb>小日向台町</rb><rt>こひなただいまち</rt></ruby>の御用馬場。

毎年その例でしたが、士気振興の意味でのお催しですから、諸侯旗本が義務的にこれへ列席を命ぜられるのは言う迄もないことなので、あたかも当日はお誂え向の将軍<ruby><rb>日和</rb><rt>びより</rt></ruby>――。無役なりとも歴歴の旗本である以上、勿論退屈男にもその御沙汰書がありましたものでしたから、伸びた<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>は無礼講というお許しに御免を蒙って着流しのまま、あの威嚇の武器である三日月疵を愈々<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>にくっきりと青い額に浮き上がらせて、京弥いち人を供に召連れながら台町馬場へ行きついたときは、丁度試合始めのお太鼓が今しドロドロドンと鳴り出しかけたときでした。

犬公方はすでにお出座なさったあとで、そのお座席の左側は紀、尾、水、お三家の方々を筆頭に、雲州松平、会津松平、桑名松平なぞ御連枝の十八松平御一統がずらりと居並び、右側は<ruby><rb>寵臣</rb><rt>ちょうしん</rt></ruby>柳沢美濃守を筆頭の閣老諸公。それらの群星に取り巻かれつつ、江戸八百万石の御威厳をお示しなさっている征夷大将軍が、お虫のせいとは言いながらお膝の近くに、あまり種のよろしくない野良犬上がりらしい雑種の犬を<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らしているのは、少しお酔狂が過ぎるように思われますが、然るにも拘わらず、三百諸侯八万騎の直参旗本共が、おのれらよりも畜生を上座に坐らせられて、一向腹も立てず不平も言わないところが、どう見てもやはり元禄の泰平振りでした。

それもいく分気に入らないためもありましたが、刻限も少しおくれていましたので、退屈男はわざと旗本席をさけて、諸侯の<ruby><rb>陪臣</rb><rt>ばいしん</rt></ruby>共が見物を差し許されている一般席の、それもなるべく目立たないうしろへこっそりと席をとりました。

そのまにも試合は番組通りに開始されて、最初の十二番の槍術が<ruby><rb>滞</rb><rt>とどこお</rt></ruby>りなく終ってから、呼びものの馬術にかかったのが丁度お<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>。これがやはり十二番あって、その中でも当日の白眉とされていた四頭立ての早駈けにとりかかったのが、かれこれ八ツ前でした。

乗り手は先ず第一に<ruby><rb>肥前家</rb><rt>ひぜんけ</rt></ruby>の臣で、<ruby><rb>大坪流</rb><rt>おおつぼりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>古高新兵衛</rb><rt>ふるたかしんべえ</rt></ruby>。

第二には<ruby><rb>宇都宮藩士</rb><rt>うつのみやはんし</rt></ruby>で、八条流の<ruby><rb>黒住団七</rb><rt>くろずみだんしち</rt></ruby>。

第三には<ruby><rb>南部家</rb><rt>なんぶけ</rt></ruby>の家臣で、上田流の<ruby><rb>兵藤</rb><rt>ひょうどう</rt></ruby>十兵衛。

第四には加賀百万石の藩士で、荒木流の江田島勘介。

いずれもこれ等が、各流派々々の達人同士で、同じ早駈けは早駈けであっても、今の競馬とはいささか趣きを異にして、それぞれの流派々々に基づく奥儀振りを、将軍家御面前で名騎士達が駈け競うというのでしたから、なにさま当日第一の呼びものとなったのもゆえあることでしたが、やがてのことに試合始めの太鼓につれて、大坪流の古高新兵衛は<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい<ruby><rb>黒鹿毛</rb><rt>くろかげ</rt></ruby>、八条流の黒住団七は<ruby><rb>連銭葦毛</rb><rt>れんせんあしげ</rt></ruby>、上田流の兵藤十兵衛は<ruby><rb>剽悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>な三<ruby><rb>歳</rb><rt>さい</rt></ruby><ruby><rb>栗毛</rb><rt>くりげ</rt></ruby>、最後に荒木流の江田島勘介は、ひと際逞しい<ruby><rb>鼻白鹿毛</rb><rt>はなじろかげ</rt></ruby>に打跨りつつ、いずれも必勝の気をその<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>にみなぎらして、ずらりそこに馬首を打ち揃えましたものでしたから、犬公方初め場内一統のものが、等しくどよめき立ったのは当然なことでした。

剣を取っては江戸御免の退屈男も、馬術はまた畠違いでしたから、ひと膝乗り出して京弥に囁きました。

「打ち見たところいずれも二十七八の若者揃いのようじゃが、こうしてみると一段とまた馬術も勇ましい事よ喃」

「御意にござります。中でも葦毛の黒住団七殿と、黒鹿毛の古高殿がひと際すぐれているように存じられますな」

「左様、あの両名の気組はなにか知らぬが少し殺気立っているようじゃな」

言っているとき、場内の者が一斉にざわめき立ったので、ふと、目を転ずると、これ迄はどこにひとりも<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>の影すら見えなかったのに、今となって、どうしたと言うのであろう？――大奥付の腰元らしい者は者でしたが、ようよう<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>になるやならずの、目ざめるばかりの<ruby><rb>美形</rb><rt>びけい</rt></ruby>がいち人、突如として正面お座席近くに姿をみせて、文字通り万緑叢中紅一点のあでやかさを添えましたので、いぶかしさに打たれながら主水之介も目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>っていると、四人の騎士がさらに奇態でした。美人現るると見ると、色めき立ちつつ、一斉に気負い出したので、早くもそれと推定がついたもののごとく、微笑をみせたのは退屈男です。

「ほほう、ちとこれは面白うなったかな。御酔狂な犬公方様の事ゆえ、あれなる美形に何ぞ謎がかかっているかも知れぬぞ」

呟いたとき――、ドドンと打ち鳴らされたものは、馬首揃えろ！　の締め太鼓です。つづいてドンと一つ、大きく鳴るや一緒で、おお見よ！――四つの馬は、<ruby><rb>鞍上</rb><rt>あんじょう</rt></ruby><ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>なく、<ruby><rb>鞍下</rb><rt>あんか</rt></ruby>に馬なく、青葉ゆらぐ台町馬場の芝草燃ゆる大馬場を、投げ出された黒白取り取りの<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>のように駈け出しました。

第一周は優劣なし！

第二周目も亦同じ。

しかし、第三周目に及んだとき、断然八条流の黒住団七と、大坪流の古高新兵衛の両頭が、三馬身ずつあとの二人を抜きました。つづいて第四周目に及んだとき、さらに両名は二馬身ずつうしろの二人を抜いて、黒白両頭の名馬は、一進一退馬首を前後させながら、次第に第五周目の決勝点に迫りつつあったので、大坪流の古高勝名乗りをうけるか、八条流の黒住勝つか、場内の者等しく手に汗を握ったとき！　――だが、突如としてここに、予想だにもしなかった呪うべき<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>が勃発したのです。先頭を切りつつあった古高、黒住の両名が、あと半周りで最後の決勝点へ這入ろうとしたその曲り目の一般席前までさしかかった時でしたが、見物席中からであったか、それともうしろの<ruby><rb>幔幕外</rb><rt>まんまくそと</rt></ruby>からであったか、一本の鉄扇がヒュウと唸りを発しつつ、たしかに葦毛の黒住団七めがけて、突如矢のように飛んで来ると、あわやと思ったあいだに、結果は意外以上の意外でした。気がついたものかそれとも偶然からか、狙われた団七がふと首をすくめたので、危うく鉄扇がその身体の上を通り越しながら、丁度並行して大坪流の秘術をつくしつつあった右側向うの、黒住団七ならぬ古高新兵衛の脇腹に、はッしと命中いたしました。

ために古高新兵衛はドウと<ruby><rb>顛落</rb><rt>てんらく</rt></ruby>落馬したことは勿論のこと、そのまに危うく難を避け得た黒住団七が凱旋将軍のように決勝点へ駈け入りましたが、しかし、場内はこの思いもかけぬ椿事のためにいずれも総立ちとなって、将軍家におかせられては御不興気にすぐさま御退出、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby><ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えろッ、古高新兵衛を介抱しろッ、どうしたッ、何だッ、と言うようなわめき声が八方に上がりまして、ついに折角の御前試合も、忽ち騒然、右往左往と人が飛び交いつつ、見る見るうちに場内はおぞましき修羅の巷と化してしまいました。

とみて、わが退屈男の色めき立ったのも勿論です。

「のう、京弥！」

「はッ」

「最初からそれなる両名、特に殺気立っていたようじゃったが、先程試合前にあの美形が天降ったあたりといい、何ぞまた退屈払いが出来るやも知れぬぞ」

「いかさま様子ありげにござりまするな。念のために一見致しましょうか」

「おお、参ってみようぞ。要らぬ詮議立てじゃが、この木の芽どきに<ruby><rb>生欠伸</rb><rt>なまあくび</rt></ruby>ばかりしているも芸のない話じゃからな。ちょっとのぞいてみるか」

いかにも出来事が奇怪でしたので、のっそり立ち上がると、あの三日月形の疵痕に、無限の威嚇を示しつつ、のっそり場内へおりていきました。

## 二

行ってみると、予期せぬ<ruby><rb>災禍</rb><rt>さいか</rt></ruby>に会って落馬した古高新兵衛は、場内取締りの任に当っていた町方役人七八人と、同藩家中の藩士達両三名に守られながら、必死と介抱手当をうけているところでした。

然るに、これが先ず第一の不審でした。よし重量のある鉄扇で急所の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を襲われたとしても、距離は少なくも六七間以上離れた遠方からでしたから、どんなに心得ある達人が打ったにしても、鉄扇の一撃ぐらいでそう造作なく落命する筈はあるまいと思われたのに、意外やすでに古高新兵衛の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は、この世のものでなかったので、介抱手当に当ったものの打ち驚いたのは言う迄もないことでしたが、退屈男も殊のほか不審に打たれて、移すともなく目を移しながら、ふとそこにつながれている新兵衛乗馬の黒鹿毛にまなこを注ぐと、こはそも奇怪！　ちらりと目についたものは、<ruby><rb>鎧</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>の外に、べっとり流れ垂れている紛れなき生血です。

「ほほう。鉄扇をうけた位で、生血が垂れているとは少し奇怪じゃな」

勃然として大きな不審が湧き上がりましたので、うろたえ騒いでいる人々を押し分けると、構わずにずいと死骸の傍らへ近よりました。

と知って、町方役人共が、要らぬおせっかいとばかりに鋭く咎めました。

「用もない者が、誰じゃ誰じゃ！　行けッ。行けッ。あちらへ行かぬかッ」

見ただけでも分りそうなものなのに、悉く逆上しきっているのか、二度も三度も<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>に役人風を吹かしましたので、仕方なくあの傷痕を静かにふりむけると、微笑しながら言いました。

「わしじゃ、分らぬか」

「おッ。早乙女の御殿様でござりまするな。この者、御前の御身寄りでござりますか」

「身寄りでなくば、のぞいてはわるいか」

「と言うわけではござりませぬが、お役柄違いの方々が、御酔狂にお手出しなさいましても無駄かと存じますゆえ、御注意申しあげただけにござります」

<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>が手出しするな、と言わぬばかりな冷笑を浴びせかけましたので、退屈男の一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>が下ったのは勿論の事です。

「控えろ。笑止がましい大言を申しおるが、その方共はあれなる鎧に生血の垂れおるを存じおるか」

「えッ？」

「それみい！　それ程ののぼせ方で、主水之介に酔狂呼ばわりは片腹痛いわ」

にわかにうろたえ出した町役人共を尻目にかけて、怪死を遂げた古高新兵衛の<ruby><rb>骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>に近よりながら、先ず鉄扇で打たれた脇腹を打ち調べてみると、然るにこれがますます不審です。当然そこが血の出所でなければならぬと思われたのに、肝腎な脇腹には一向それらしい傷跡すらも見えなくて、全然予想以外の丁度鞍壺に当る内股のところから、それも馬乗り袴を通して、べっとりと疑問の生血が滲み出ていましたので、愈々いぶかりながら見調べると、事実はますます出でてますます不思議！　生々と血の垂れ滲み出ているその傷口が、袴の外から何物かに、あんぐりと噛み切られでもしたかのような形をしていましたので、主水之介の目の鋭く光ったのは当然でした。

ただちに馬の鞍壺を見改めると、愈々出でて愈々奇怪！――思うだにぞっと身の毛のよだつ毒毒しい生蛇が、置き鞍の二枚皮の間から、にょっきりと鎌首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げていたのです。しかも、それが只の毒蛇ではなく、ひと噛みそれに襲われたならば、忽ち生命を奪われると称されている大島産の恐るべき毒蛇金色ハブでしたから、いかな退屈男も、これにはしたたかぎょっとなりました。無理もない。ぎょっとなったのも、またおよそ無理のないことでした。事実は計らずもここに至って、二つの奇怪な謎を生じたわけだからです。第一は黒住団七を狙った鉄扇の投げ手。第二は毒蛇を潜ませて、古高新兵衛を<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めた下手人。しかも、それが同一人の手によって行なわれたものか、全然目的を異にした二つの見えざる敵が、めいめい別々に二人の騎士を狙って、それが危害を加えようとしたものか、謎は俄然いくつかの疑問を生んで参りましたので、退屈男の蒼白だった面に、ほのぼのと血の色がみなぎりのぼりました。

「のう、こりゃ、町役人」

「………」

畠違いの者が邪魔っけだと言わぬばかりに罵ったその広言の手前、いたたまれない程に恥ずかしくなったものか、さしうつむいて返事も出来ずにいるのを、笑い笑い近よると、揶揄するように言いました。

「真赤になっているところをみると、少しは人がましいところがあるとみゆるな。わしはなにもそち達の邪魔をしようというのではない。只、退屈払いになりさえすればよいゆえ、手伝うてつかわすが、どちらの番所の者じゃ。北町か、南町か」

「………」

「食物が悪いとみえて、疑ぐり深う育っている喃。そち達の瘠せ手柄横取りしたとて、何の足しにもなる退屈男でないわ。姓名を名乗らば下手人見つかり次第進物にしてつかわすが、何と申す奴じゃ」

「南町御番所の<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>、水島宇右衛門と申しまするでござります」

「現金な奴めが。了見の狭いところが少し気に入らぬが、力を貸してつかわすゆえに、家へ帰ったならば家内共に<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>でもつけさせて、首長う待っていろよ」

退屈男らしく皮肉を残しておくと、京弥を随えながら、なにはともかくと、中間馬丁達の詰め所にやって行きました。

無論その目的は、疑問の怪死を遂げた古高新兵衛の馬丁について、何等かあの<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>ハブの手掛りを嗅ぎつけようと言うつもりからでしたが、然るに、それなる馬丁が甚だ不都合でした。主人が横死をしたというのに、その現場へ姿を見せない事からして大きな不審でした。行ってみるとさらに大きな疑雲を残して、いずれかへ逸早く姿をかくしたあとでしたから、退屈男の言葉の鋭く冴えたのは言うまでもないことでした。

「いつ頃<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>いたしたか存ぜぬか！」

「ほんの今しがたでござりましたよ」

「今しがたにも色々あるわ。いつ頃の今しがたじゃか、存ぜぬか」

「古高様のあのお騒ぎが起きますとすぐでござりましたよ。どうした事か急に色を変えて、まごまごしていたようでござりましたが、気がついて見ましたら、もう姿が見えませんでしたゆえ、手前共もいぶかしんでいる次第でござります」

突如としてここに疑惑の雲が漂って参りましたので、あの凄艶な疵跡に、不気味な威嚇を示しながら、わけもなく打ちふるえている馬丁共をじろじろと見眺めていましたが、その時ふと退屈男の目を鋭く射たものは、そこに置き忘れでもしたかのごとくころがっている本場<ruby><rb>鹿皮印伝</rb><rt>しかがわいんでん</rt></ruby>の煙草入でした。中間馬丁と言えば、いかに裕福な主人についていたにしても、精々先ず年額六両か七両が関の山の給料です。然るにも拘わらず、まがい物ならぬ本物の印伝皮で<ruby><rb>揉</rb><rt>な</rt></ruby>めしこしらえた贅沢きわまる煙草入がころがっていましたものでしたから、いかで退屈男の逃すべき！

「これなる煙草入は何者の持ち品じゃ！」

「おやッ。野郎め、あんなに自慢していやがったのに、よっぽど慌てやがったとみえて、<ruby><rb>大切</rb><rt>たいじ</rt></ruby>な品を忘れて行きやがったね。古高様の中間の六松めが、さっき見せびらかしていた品でごぜえますよ」

もっけもない事を言いましたので、何気なく手にとりあげて、とみつこうみつ打ち調べているとき、ころり、と<ruby><rb>叺</rb><rt>かます</rt></ruby>の中から下におちたものは、丁半バクチに用いる象牙細工の小さな<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>ころです。

「ほほう、そろそろ筋書通りになって参ったな」

言いつつ、うそうそと微笑を見せていましたが、実に猪突でした。

「<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>というものは仕方がのうてな、身共も至ってこの賽ころが大好物じゃが、その方共が用いるところはどこの寺場じゃ」

「ふえい？……」

「なにもそのように頓狂な声を発して、おどろくには当らないよ。こればッかりは知ったが病、久しぶりでちと<ruby><rb>弄</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>みたいが、いつもどこの寺場で用いおるか」

「ご冗談でござりましょう。お見かけすればお小姓をお召し連れなさいまして、ご身分ありげなお殿様が、賽ころもねえものでごぜえますよ。いい加減なお<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>りはおよしなせえましな」

「疑ごうていると見ゆるな。身分は身分、好物は好物じゃ。ほら、この通りここに五十両程用意して参っているが、これだけでは<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>に不足か」

ちゃりちゃりと山吹色を鳴らしてみせましたので、笑止なことには根が<ruby><rb>下司</rb><rt>げす</rt></ruby>な中間共です。

「はあてね。いい色していやがるね。じゃ、あの、本当にこれがお好きなんでごぜえますかい」

小判の色に誘惑でもされたもののごとく、ついうっかりと警戒を解きながら、乗り気になって来たので、すかさずに退屈男が油をそそぎかけました。

「下手の横好きと言う奴でな。ついせんだっても牛込の賭場で、三百両捲き上げられたが、持ったが病で致し方のないものさ。これだけで足りずば屋敷へ使いを立てて、あと二三百両程取り寄せても苦しゅうないが、存じていたら、そち達の寺場に案内せぬか」

「そりゃ、ぜひにと言えばお教え申さねえわけでもござんせぬが、実あ、こないだうちここへ御主人のお供致しまして、馬馴らしに参りますうちに六松と<ruby><rb>昵懇</rb><rt>じっこん</rt></ruby>になって、あいつの手引で行くようになったんでごぜえますからね。そうたびたび<ruby><rb>弄</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>みに参ったわけじゃござんせんが、寺場って言うのがちっと風変りな穴なんでごぜえますよ」

「どこじゃ。町奴共の住いででもあるか」

「いいえ、手習いの師匠のうちなんでごぜえますよ」

「なに！　手習いの師匠とな！　では、浪人者じゃな」

「へえ。元あ、宇都宮藩のお歴々だったとか言いましたが、表向きゃ、手習いの看板出して、内証にはガラガラポンをやるようなご浪人衆でごぜえますもの、なんか曰くのある<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>でごぜえましょうよ」

「住いはいずこじゃ」

「<ruby><rb>根津権現</rb><rt>ねずごんげん</rt></ruby>の丁度真裏でごぜえますがね」

きくや同時でした。

「馬鹿者共めがッ」

言いざま、前に居合わした中間二人を、ぱんぱんと取って押えておくと、鋭く京弥に命じました。

「急いでそち、あとの二人を取って押えろッ。こ奴共も、六松とやらいうた怪しい下郎と同じ穴の<ruby><rb>貉</rb><rt>むじな</rt></ruby>やも知れぬ。いぶかしい手習師匠の住いさえ分らば、もうあとは<ruby><rb>足手纒</rb><rt>あしでまとい</rt></ruby>の奴等じゃ。押えたならば、どこぞそこらへくくりつけておけッ」

自身の押えた二人をも、手早くそこの柱に<ruby><rb>窮命</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>させておくと、六松の<ruby><rb>逐電先</rb><rt>ちくでんさき</rt></ruby>をつき止めるべく、ただちに根津権現裏目ざして足を早めました。

## 三

行きついてみると、いかさま言葉の通り、算数手習い伝授、市毛甚之丞と看板の見える一軒が労せずして見つかりましたので、在否やいかにと、先ず玄関口にそっと歩みよりながら、家内の様子を見調べました。

と――、いぶかしや、そこに見えたのは、八足ばかりの雪駄です。子供のものならば商売柄不思議はないが、いずれも<ruby><rb>大人履</rb><rt>おとなば</rt></ruby>きでしたから、退屈男に何の躊躇があるべき――案内も乞わず、ずかずか上って行くと、さッと奥の一間の襖を押しあけながら、黙然と敷居ごしに佇んだままでぐるり部屋の内を見眺めました。

一緒に目を射た八人の者の姿！　いずれも<ruby><rb>五分月代</rb><rt>ごぶさかやき</rt></ruby>の伸び切った<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>なる浪人者です。その八人に取り巻かれて、床の間を背にしているのが、目ざした手習い師匠の市毛甚之丞であるらしく、そしてまたその市毛甚之丞の傍らに<ruby><rb>奴姿</rb><rt>やっこすがた</rt></ruby>をして控えているのが、これぞ逐電先を追い求めてやって来たところの、古高新兵衛馬丁六松であることは、一目にして瞭然でした。

然るに、それなる十人の者どもが、殊のほか不審でした。ぐるりと車座になっていましたので、聞いて来た通り、丁半開帳の最中ででもあるかと思いのほかに、中間六松をのぞいての九人の者が、何をこれからどうしようというのか、いずれも腰の<ruby><rb>業物</rb><rt>わざもの</rt></ruby>を抜きつれて、各自それぞれに刀身へ見入りつつ、見るから妖々とした殺気をそこにみなぎらしていましたので、退屈男のいぶかしく思ったのは当然、いや、より以上に打ちおどろいたのは、十人の面々でした。ぎょッとたじろいだようにいずれも<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をあげて、一斉に退屈男の上から下を見あげ見おろしていましたが、中なるひとりが早くもあの額際のぐっと深く抉られた三日月形で気がついたものか、その顔を蒼めて言い叫びました。

「さては、早乙女主水之介じゃな！」

しかし、退屈男は無言でした。黙然と両手を懐中にしたままで、じっと九人の者を静かに只にらめすえたばかり――。

とみて、苛立ったごとくに、いな、むしろ、無言のその威嚇に不気味さが募りまさったもののごとくに、甚之丞がじろじろと今迄見改めていた強刀を引きよせると、同じく唇まで蒼めながら叫びました。

「案内も乞わず何しに参った！」

きくや、依然ふところ手のままで、ほのぼのとした微笑をその唇にのせていましたが、冷たく錆のある太い声が、ようやく主水之介の口から重々しく放たれました。

「退屈払いに参ったのじゃ、びっくり致したか」

「なにッ？　何の用があってうしゃがったんだ！」

「血のめぐりがわるい下郎共よ喃。退屈男が御手ずから参ったからには、只用ではない。それなる中間の六松に用があるのじゃ」

途端――。

市毛甚之丞が、ちらり八人の者になにか目くばせしたかと見えましたが、同時でした。

「そうか。六松に用あってうしゃがったと分りゃ、あの毒蛇の一件を嗅ぎつけやがったに相違ねえ。各々ッ、いずれはこんなことにもなるじゃろうと存じて、今、お腰の物にも研ぎを入れて貰うたのじゃ。出がけの駄賃に、それッ、抜かり給うなッ」

問いもしないうちに、うろたえながら毒蛇の一件を言い叫ぶと、下知と共に素早く六松をうしろへ<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いながら、八人の者へ助勢を促したので、退屈男の色めき立ったのは言う迄もないことでしたが、しかし、両手は依然懐中のまま――。そして、静かに威嚇いたしました。

「馬鹿者共めがッ。江戸御免の篠崎流正眼崩しを存ぜぬかッ。その<ruby><rb>菜切</rb><rt>なっき</rt></ruby>り庖丁をおとなしゅう引けッ」

だのに、身の程もわきまえぬ<ruby><rb>鼠輩共</rb><rt>そはいども</rt></ruby>です。<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の<ruby><rb>竜車</rb><rt>りゅうしゃ</rt></ruby>に刄向うよりもなお<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>かしき手向いだてと思われるのに、引きもせずじりじりと、爪先立ちになって、九本の刄を<ruby><rb>矢来目陣</rb><rt>やらいめじん</rt></ruby>に備えながら、退屈男に押し迫ろうとしましたので、京弥が伺い顔に傍らから言いました。

「手間どってはあとが面倒にござりますゆえ、ちょっと眠らしてつかわしましょうか」

「そうのう、では、揚心流小出しにせい」

「はッ。――ちと痛いかも知れぬが、暫くの間じゃ。お辛抱召されよ」

言いつつ、<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>なす濡れ羽色の前髪をちらちらとゆり動かして、すいすいと右と左へ体を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>しつつ、駈け違ったかと見えましたが、左の及び腰になっていたのっぽを先ずぱったり、右のしゃちこばっていた薄汚ない奴をつづいてばたり、前の、目を血走らせていた<ruby><rb>蟹股</rb><rt>がにまた</rt></ruby>を同じくばたり、いと鮮かに揚心流遠当てで、そこにのけぞらしました。

とみて、笑止千万な者共です。はや腰を抜かして、へたへたと縁側に這いつくばりつつ逃げおくれた六松をひとり残して、誰先にとなく裏口へ逃げ走り去ったので、あとから追いかけようとした京弥を、退屈男は慌てて制しつつ呼び止めました。

「すておけ、すておけッ。六松さえ押え取らば、どこまで逃げ伸びようと、いずれはこちらのものじゃわ。深追いするな」

逃げるままに逃がしておいて、やおら六松のところへ歩みよると、鋭くきき訊ねました。

「主人と言えば、親にもまさる大切なご恩人、然るにあの素浪人共の手先となって、毒蛇など仕掛けるとは何事じゃ。かくさず<ruby><rb>有体</rb><rt>ありてい</rt></ruby>に申し立てろ」

「へえい……」

「へえいでは分らぬ。何の仔細あって、あのような憎むべき所業致しおった」

「………」

「強情を張りおるな。そら、ちと痛いぞ。どうじゃ、どうじゃ。まだ申さぬか」

「ち、ち、ち……、申します、申します。もう申しますゆえ、その<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>をお押えなさっていらっしゃるお手を、お放し下されませ。――ああ痛てえ！　いかにも、三十両の小判に目が<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>みまして、つい大それたことを致しましたが、しかし、毒蛇を頼まれましたのは、今のあの市毛の旦那様じゃござんせんよ。そもそものお頼み手は、あの時うちの旦那様と先着を争ってでござりました、あの八条流の黒住団七様でござりまするよ」

「なにッ⁉　そもそもの頼み手は黒住団七とな！　いぶかしい事を申しおるが、まことの事かッ」

「なんの嘘偽りがござりましょうぞ。あの黒住の旦那様が、昔宇都宮藩で御同役だったとかいう市毛の旦那様と二人して、ゆうべこっそり手前を訪れ、あの毒蛇を鞍壺に仕掛けるよう、三十両の小判の山を積んで、手前を欲の地獄に陥し入れたのでござります。あの時鉄扇を投げつけたのも、やっぱりお二人様の企らみですぜ」

「なに⁉　鉄扇も二人の企らみとな？　でも、あの時狙われた対手は、たしかに黒住団七と見えたが、それはまたどうした仔細じゃ」

「それがあの方達の<ruby><rb>悪智慧</rb><rt>わるぢえ</rt></ruby>でごぜえますよ。もし、仕掛けた毒蛇でうまく行かねえようだったら、鉄扇でうちの旦那様を仕止めようと、前からお二人がちゃんと<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合って、今、ここにい合せた八人のご浪人衆に、それぞれ鉄扇を持たせて、どこからでも投げられるように、<ruby><rb>幔幕外</rb><rt>まんまくそと</rt></ruby>のところどころへ忍ばせておいたのでござります。だからこそ、黒住の旦那様は、初めからそれをご存じでごぜえましたので、うまくご自身は身を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したんでごぜえますよ。さもあの方が狙われたように見せかけた事にしてからが、黒住の旦那様の悪智慧なんでごぜえまさあ。ああしてご自身をさもさも狙ったように見せかけて投げつけりゃ、事が起った場合、御番所の方々のお見込みが狂うだろうというんだね、なかなか抜け目のない悪企みをしたんでごぜえますよ」

「きけば聞く程奇怪な事ばかりじゃが、何のためにまた黒住団七めは、そのような悪企み致しおった」

「知れた事でござんさあ、あの時、降って湧いたように姿をお見せなすった、あの<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>の女の子が目あてだったのでごぜえますよ」

「なに⁉　では、あれなる腰元、あの早駈けに勝を占めた者へお下しなさるとでも賭けがしてあったか」

「へえい。ご存じかどうか知りませぬが、あの別嬪の女の子は<ruby><rb>御台様付</rb><rt>みだいさまつき</rt></ruby>の腰元中で、一番のご<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしじゃとか申しましてな、お上様をあしざまに申し上げるようでごぜえますが、あの通り、御酔狂な御公方様の事でごぜえますので、ほかに何か下されりゃいいのに、別嬪を下げつかわすとおっしゃったものでごぜえますから、お腹黒い黒住の旦那が、女ほしさに、とうとうあんな悪企みをしたんでごぜえますよ。それっていうのが、手前方の旦那様があの四人のうちじゃ、一番の御名手でごぜえましたからね、それがおっかなくて、うちの旦那様だけを、ほかには罪もねえのにあんなむごい目にも遭わせる気になったんでごぜえます」

「馬鹿者ッ」

「へえい？」

「ずうずうしゅう、へえいとは何ごとじゃ。主人に危難来ると知らば、身を楯にしても防ぐべきが当り前なのに、自ら手伝って、死に至らしむるとは不埓者めがッ」

「へえい。それもこれも元はと言えば、バクチが好きのさせたわざ――、たった三十両の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>た<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>に目が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>みまして、何ともはや面目次第もごぜえませぬ。この通り、もう後悔してござりますゆえ、お手やわらかに願います」

「虫のよい事申すな！　立てッ」

「へえい？」

「立てと申すに立たぬか」

「痛えい！　立ちますよ。立ちますよ。そんなにお手荒な事をなさらずとも、立てと言えば立ちますが、一体どこへ御引立てなさるんでござりますか」

「くどう申すな。行けッ」

引立てながら道の途中で見つかったそこの自身番へ、小突き入れると、事もなげに言いました。

「この下郎めは、三十両の目腐れ金で、大切な主人の命を売った<ruby><rb>不埓者</rb><rt>ふらちもの</rt></ruby>じゃ。早乙女主水之介、約束通り土産一匹つかわすとこのように申し伝えて、今ただちに南町御番所の水島宇右衛門なる与力の許へ引立てて参れ」

言いおくと、通り合わせた町駕籠を急ぎに急いで仕立てながら、京弥いち人のみを引き随えて、ただちに黒住団七の禄を<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>む、宇都宮九万石の主、<ruby><rb>奥平美作守昌章</rb><rt>おくだいらみまさかのかみまさあき</rt></ruby>の上屋敷に行き向いました。またこれが許しておかれる筈はない。わが江戸旗本中の旗本男たる早乙女主水之介の三河ながらなる正義観において、憎むべき黒住団七が許しておかれる筈はないのです。よし仮りに、奥平美作守が、九万石封主の力を借りて、これを<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>い立てすることあるも、われわれにはまた直参旗本の威権あり！　篠崎流奥義の腕にかけても、やわか許すまじと、真に颯爽としながら打ち乗って、一路、美作守上屋敷なる<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>六本木へ急がせました。

## 四

行くほどに青葉がくれの陽はおちて、ひたひたと押し迫ったものは、夕六ツ下がりの紫紺流した宵闇です。

然るに、こはそも何ごとぞ！――まだそんな門限の刻限ではないのに、さながら退屈男の乗り込んで行くのを看破りでもしたかのごとく、奥平屋敷の江戸詰藩士小屋を抱え込んだお長屋門が、ぴたりと閉じられてありましたので、乗りつけるや、<ruby><rb>怒髪</rb><rt>どはつ</rt></ruby>して退屈男が呼び叫びました。

「早乙女主水之介、直参旗本の格式以て<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>りこした。早々に開門せい！」

だのに、答えがないのです。

とみるや、ひらり一<ruby><rb>蹴</rb><rt>しゅう</rt></ruby>！

「面倒じゃ。開けねばこうして参るぞ！」

ぱッと土を蹴って、片手<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えに、五尺の<ruby><rb>築地塀</rb><rt>ついじべい</rt></ruby><ruby><rb>上</rb><rt>うえ</rt></ruby>におどり上がりながら、ふと、足元の門奥に目をおとしたとき！

――見よ！

そこに<ruby><rb>擬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>せられているのは、意外にも、十数本の槍先でした。それに交って六本の<ruby><rb>刄襖</rb><rt>はぶすま</rt></ruby>！　しかも、その六本の<ruby><rb>白刄</rb><rt>はくじん</rt></ruby>を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。

「のう京弥々々！　ちとこれは面白うなったぞ。早うそちもここへ駈け上がってみい！」

「心得ました。お手かし下されませ」

退屈男のさしのべた手にすがりついて、これも身軽にひらり塀の上におどり上がったとみえましたが、中の意外な光景に打たれたとみえて、ややおどろきながら叫びました。

「よおッ。あの六人が先廻りしておりまするな！」

「のう。よくよく斬って貰いたいと見ゆるわ。久しぶりに篠崎流を存分用いるか」

「はッ。けっこうでござりまするが、うしろの槍はなんとした者共でござりましょうな」

「言うがまでもない。あの真中にいるのが、確かに昼間見かけた黒住団七じゃ。思うに、同藩のよしみじゃとか何とか申して、はき違うべからざる武士道をはき違えおる愚か者共じゃろうよ」

「笑止千万な！　では、手前も久方ぶりに揚心流を存分用いて見とうござりますゆえ、お助勢お許し下されませ」

「ならぬ」

「なぜでござります」

「退屈男の名前が<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>るわ。そちはこれにてゆるゆる見物致せ」

言うや、ひらり、体を浮かしたとみえましたが、およそ不敵無双です。槍、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>、合わしたならば二十本にも余る白刄の林の中へ、恐るる色もなくぱッとおどりおりました。

しかも<ruby><rb>自若</rb><rt>じじゃく</rt></ruby>としてそこに生えたるもののごとくおり立つと、腰の物を抜き合わそうともせず、あの<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>無比な額なる三日月形の疵痕を、まばたく星あかりにくっきり浮き上がらせながら、静かに威嚇して言いました。

「よくみい！　この疵痕がだんだん怖うなって参るぞ。抜かば斬らずにおけぬが篠崎流の奥義じゃ。いってもよいか」

しかし、相手の前衛を勤める六人の浪人共は、今、もう必死とみえて、いずれも呼吸のみ荒めながら無言でした。

「ほほう。大分、胸に波を打たせて喘ぎおるな。しかし、真中の市毛甚之丞！　そちには小塚ッ原で、獄門台が待っているゆえ、今宵は生かしておいてつかわすぞ。では、左の二人、参るぞ」

物静かに呟きながら、大きく腰がひねられたかと見えた途端！――きらり、玉散る銀蛇が、星月宵にしゅッと閃めいたと見えるや、実にぞっと胸のすく程な早技でした。声もなく左の二人が、言った通りそこへぱたり、ぱたりとのけぞりました。同時に退屈男の涼しげな威嚇――。

「みい！――今度は右側の三人じゃ。参るぞ」

言いつつ、片手正眼に得物を擬して、すい、すい、と一二歩近よったかと思われましたが、殆んどそれと同時でした。

「生兵法を致すゆえ、大切な命をおとさねばならぬのじゃ。そら！　一緒に遠いところへ参れ」

一歩、さらにずいと歩みよって、右へ一閃。

「早うそちも行けッ」

つづいてまたすいと歩みよって、さらに一閃。

「主水之介とは段が違うわ。急いでそちも地獄へ参れ！」

そして、不敵にも<ruby><rb>刄</rb><rt>やいば</rt></ruby>を引きながら、しゅッしゅッと一二遍、血のりの<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を振り切っておきながら、至って物静かに市毛甚之丞に言いました。

「みい！　これが主水之介の正眼くずしじゃ。段々とあとへ下がりおるが、怖うなったか」

威嚇しながら、同じくすいすいと歩み近よったかと思われましたが、同時に<ruby><rb>大喝</rb><rt>だいかつ</rt></ruby>！

「馬鹿者ッ。今、御番所へ<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に持たしてやるゆえ、暫くここで休息せい！」

峯を返しながら、急所の<ruby><rb>脳天</rb><rt>のうてん</rt></ruby>を軽く打っておいて、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>と打ち笑いながら、うしろに控えていた<ruby><rb>真槍隊</rb><rt>しんそうたい</rt></ruby>に言い呼ばわりました。

「江戸旗本は、斬ると言うたら必ず斬るぞ。主君の馬前に役立てなければならぬ命を、無用な意地立てで粗末に致すつもりかッ。逃ぐる者は追わぬ。逃げたくば今のうちに早う逃げえいッ」

「………」

いずれもやや暫し無言でしたが、退屈男の冷厳な訓戒と、その<ruby><rb>眉間傷</rb><rt>みけんきず</rt></ruby>の何にもまさる威嚇におじ毛立ったか、じり、じりと、どこからとなく槍の林が、うしろに逃げ足立ったかとみるまに、ばらばらと隊形が総崩れとなりました。

しかし、それと知った一瞬！

「余の者は逃がしてつかわすが、その方だけは退屈男の武道が許せぬわ」

痛烈に叫びざま、黒住団七のあとに追い近づいたかと思われましたが、およそ団七こそは武人の<ruby><rb>風上</rb><rt>かざかみ</rt></ruby>にもおけぬ奴でした。笑止や武士には第一の恥辱たる後傷をだッとその背に浴びて、声もなくどったりとそこにうっ伏しました。

――ほっと息をついて、退屈男はやや暫し黙然。ほんとうに、黙然とやや暫し、そこに<ruby><rb>佇</rb><rt>ただず</rt></ruby>みながら、血刀をさげたままで、何ごとか沈吟しているもののようでしたが、と見て、塀の上からおどりおりつつ、駈けよって来た京弥を見迎えながら、突如、わびしげに、呟くごとく言いました。

「あそこに倒れおる市毛甚之丞と、これなる死骸となった黒住団七の両名を、駕籠にでも拾い入れて、約束通り南町御番所の水島宇右衛門めへ土産に送ってつかわせ」

「送るはよろしゅうござりまするが、お殿様はいかがなさろうとおっしゃるのでござります」

「少し寂しゅうなったわ。退屈じゃ、退屈じゃと思うていたが、今となって思い返してみると、やはり人が斬りたかったからじゃわ。――しかし、もう斬った。久方ぶりにずい分斬った。そのためか、わしはなんとのう心寂しい！　――では、ずい分堅固で暮らせよ。菊路をも天下晴れて存分にいとしんでつかわせよ」

「ま！　おまち下されませ！……どこへお越しになるのでござります。お待ち下されませ！　どこへお越しになるのでござります！」

おろおろして、後を京弥が追いかけましたが、しかし、江戸名物旗本退屈男は、ふり返ろうともしないで、黙然と打ちうなだれながら、とぼとぼと闇の向うへ歩み去りました。