Soranoha

右門捕物帖

うもんとりものちょう

佐々木 味津三

1

――今回は第三番てがらです。

しかし、今回の三番てがらは、前回と同様捕物とりもの怪異談は怪異談でございますが、少々ばかり方角が変わりまして、場所はおひざもとの江戸でなく、武州忍おしのご城下に移ります。江戸八丁堀はっちょうぼりの同心が不意になわ張りを離れて、方面違いも方面違いの武州くんだりまでも飛び移るんですから、なかにはさだめし不審に思われるおかたもございましょうが、不審に思った者はなにもあなたがたばかりではなく、本人のむっつり右門もまた同様で、あの生首事件――前回に詳しくご紹介いたしましたあの生首事件がかたづいてちょうど八日めのお昼すぎでした。いいこころもちで右門がお組屋敷の日当たりのいい縁側にとぐろを巻きながら、しきりと例のように無精ひげをまさぐっていると、突然数寄屋橋すきやばしから急使があって、旅のしたくをととのえ即刻ご番所まで出頭しろという寝耳に水のお達しがあったものでしたから、めったには物に動じないむっつり右門も、少々ばかりめんくらったことでした。

「近ごろのだんなの色男ぶりときちゃ業平なりひらもはだしの人気なんだから、ひょっとするとなんですぜ、だんなに首ったけというどこかの箱入り娘が、ご番所の名まえをかたって、だんなを道行きにおびき出したのかもしれませんぜ」

むろん、そばにはおなじみのおしゃべり屋伝六が影の形に添うごとくさし控えていたものでしたから、ちらりとそのお達しを小耳にはさんで、聞く下からもう例のごとくお株を始めながら、右門ともどもに不審を打ったのは無理からぬことでしたが、いずれにしても火急にというお達しでありましたから、伝六にも長旅の用意をさせて、さっそくご奉行所ぶぎょうしょまでやって参りますと、それがつまり忍おし行きの命令だったのです。しかも、今から取り急ぎ出立いたせという火のつくようなお奉行の命令で、命令だけは足もとから鳥の立つような気ぜわしなさでありましたが、肝心の内容についてはどういう事件がいったい起きたものか、そもそもだれの差し金であるか、少しもその辺の事を明かしてくれなかったものでしたから、明哲神のごときわがむっつり右門も、少なからずめんくらってしまいました。だが、めんくらうことはめんくらいましたが、もとよりそれは一瞬間だけのことで、右門はどこまでもわれわれの尊敬すべき立て役者です。あごの無精ひげを指先でつんつんとひっぱりながら、じっとご奉行神尾元勝の顔を見ているうちに、かれの玻璃板はりばんのごとき心鏡は、玲瓏れいろうとして澄み渡ってまいりました。と同時に、心鏡へまず映ったものは、今から火急に出立いたせというその忍藩が、ほかならぬ松平伊豆守の邑封ゆうほうであるという一事でありました。松平伊豆守とは、いうまでもなくご存じの知恵伊豆ですが、その知恵伊豆も身は大徳川の宿老という権勢並びなき地位にありながら、当時はまだその忍藩三万石だけが領邑りょうゆうで、右門は早くもそのことに気がつきましたものでしたから、もうあとは宛然えんぜんたなごころをさすがごとし、奉行神尾元勝の目色によっておおよその見当がつきましたので、よどまずにさぐりを入れました。

「察しまするに、伊豆守様ご帰藩中でござりますな」

「しッ、声が高い! そちのことじゃから、忍まで参れといえばだいたいの見当がつくだろうと思って、わざとおしかくしていたが、察しのとおり、つい四、五日ほどまえにご帰国なさったばかりじゃ」

「といたしますると、むろんのこと、このたびのお招き状も、伊豆守様がご内密でのお召しでござりましょうな」

「さようじゃ」

「よろしゅうござります。そうとわからば、さっそくただいまから出立いたしましょうが――」

言いかけてしばらくなにごとかを考えていましたが、右門は突然驚くべきことを、奉行神尾元勝にいいました。

「――ついては、わたくしめにご官金壱百両ほどをお貸しくださりませ」

徳川もお三代のころ壱百両といえば、四、五年くわえようじで寝ていられるほどの大金なんでしたから、お奉行の目を丸くしたのは当然で――。

「そんな大金をまた何にいたす?」

ぎょっとしたようにきいたのを、右門はきわめておちつきはらいながら答えました。

「伊豆守様は当代名うての知恵者。その知恵袋をもってしましてもお始末がつかなくて、はるばるてまえごとき者までをもお召しでござりましょうから、これはよほどの重大事に相違ございませぬ。百両どころか、しだいによっては千両がほども必要かと存じまするが、あとあとはまたあとあとで急飛脚でも立てましょうゆえ、さしあたり百金ほどご貸与くださりませ」

「いかにものう」

おねだりをする人間が、じゃりを食ったり、鉄道を食べたりするような当節のお役人だったら、百両は夢おろか、穴あき銭一枚だって容易に出すんではないのだが、なにしろ、むっつり右門というわれわれの信頼すべき大立て者がぜひに必要というんだから、これは出さないほうがまちがっているので、さっそく奉行元勝が切りもち包みを四つ手文庫から取り出してくれたものでしたから、右門のそばで目をみはりながらきょときょとしていた伝六にそれを懐中させると、ただちに武州めがけてわらじをはきました。むろん、喜んだのは伝六で、

「ちえッ、ありがてえな。近ごろばかに耳たぶがあったけえと思っていたら、必定こういう福の神が舞い込むんだからね。忍おしっていや、日光さまにもう半分っていう近くじゃごわせんか。てっとり早く仕事をかたづけて、けえりにゃ官費の日光参りなんて寸法はどうですかね」

不意に切りもち包みが四つふところに飛び込んでまいりましたものでしたから、すっかりもう有頂天、出るからほんとうに日光参りにでも行くようなはしゃぎ方でいましたが、右門はしかしちょっとばかり不思議だったのです。わらじを締めてすたすたと足を早めるには早めましたが、忍のお城下を目がけるならば、当然板橋口から奥州街道かいどうへ向けて北上すべきなのに、気がついてみると新宿を通りすぎて、いつのまにか甲州口を西へ西へとこころざしていましたものでしたから、すっかり有頂天になっていた伝六は少々興ざめしたとみえて、ふところの百両をぽんぽんと上から平手でたたきながら、不服そうに呼びかけました。

「だんなえ? ね、だんなえったら! こっちへ来たんじゃ、ちっとばかり方角が違うように思いやすが、まさかにこの百両は、堀ほりの内うちのお祖師さまへお賽銭さいせんにあげるっていうんじゃござんすまいね」

だのに、右門はごくすましたものです。金看板どおりにむっつりおし黙って、すたすたと甲州口を西へ西へと急いでいましたが、行くことおよそ十町ばかり、道を少し左へ切れて武蔵野むさしの特有の疎林に囲まれながらわびしく営まれていた幽光院というお寺を見つけると、さもわが家のごとく、すうと奥へはいってまいりました。

「な、な、なあるほどね。このまえのときにゃ御嶽教おんたけきょうの行者になったんだが、今度は虚無僧こむそうになろうていうんですね」

その幽光院というのは元和げんな元年の建立こんりゅうにかかるもので、慶安四年の由比ゆい正雪騒動のときまで前後三十年間ほど関八州一円に名をうたわれていた虚無僧寺でしたから、鈍いようには見えてもさすがに伝六も右門の手下、早くもここへ回り道した理由がわかったのですが、それよりも賛賞すべきは右門のここへ立ち寄って虚無僧に変装していこうと気のついた点で、呼び招いた相手が知恵伊豆だから、こいつ尋常一様の事件ではないな、ということがいち早くもかれの脳裏に予断されたからでした。まことに賛賞どころか、三嘆にあたいする推断というべきですが、だからおしゃべり屋の伝六の喜び方は、もうひととおりやふたとおりのものではありませんでした。

「こいつあおつだ。おしばやに出る虚無僧だって、こんないきな虚無僧なんてものはふたりとごわせんぜ。天蓋てんがいの下をのぞくと、だんなが業平なりひら、あっしが名古屋山左衛門さんざえもんていう美男子だからね。ときに、この尺八ゃどこへどう差すんですかい」

竹しらべひとつ吹けないくせに、もういっぱしの虚無僧になったつもりで、ことごとく大喜びでしたが、右門はむろんむっつりと唖おしでした。隠してしまうには惜しいくらいな明眸皓歯めいぼうこうしのりりしい男まえを深々と天蓋におおって、間道を今度こそは板橋口へ一刻を争うように足を早めました。坂東太郎を暮れ六つに渡って、浦和へ宿をとったのが、もうとっぷりと春の夜もふけた五ツ過ぎ。――大宮を一本道に熊谷くまがやへ出て右に忍まで行くほうがずっと近いことを知っていましたが、右門はわざと反対に久喜から羽生はにゅうへ回り道をいたしました。この回り道をした点が、やはりむっつり右門の少しばかりほかの連中とは違った偉いところで、今までもしばしば紹介いたしましたからめての戦法――事にのぞんでつねにかれの選ぶあのからめての戦法にもとづいたものでした。というのは、知恵伊豆といわれるほどの大人物がわざわざ自分を江戸から呼ぶくらいだから、必ずやこの犯罪は忍一藩だけのものであるまいとにらんだからで、とすれば、なにか江戸とも連絡がある犯行に相違あるまいから、あるならばそういう場合の犯罪者の心理として、江戸との連絡通信網をだれにも選びやすい近道の熊谷街道かいどうへおかずに、かえって人の選びにくい遠道の羽生はにゅう街道へ置くに相違あるまいという考えが起こりましたものでしたから、むろんまだどういう犯罪が起きているのかまるで見当さえもついていなかったのでしたが、万が一の場合にと思って裏の裏をかいていこうという計画から、わざと羽生街道を迂回うかいしてみる気になったのでした。だから、右門は道々をなんの気なさそうに歩いていながらも、何か目をひくような旅人でも通りかかりはしないかと思って、たえず注意をつづけてまいりました。久喜の宿へはいったのが翌日の午うまの下刻――。

「おっ、こいつあめっけものだ。ね、だんな、ごらんなせえよ、あそこに名物いなりずしとありますぜ。あっしゃもう三里も前から、とんと腹が北山しぐれなんですから、早いところ二十ばかりつまんでめえりましょうよ」

右門も少々空腹でしたから、伝六の動議に従って、天蓋のままずいと茶店の中へはいっていきました。と、そのとき、ちらりと右門の目をひいた異様な二組みの旅人がありました。いずれも四十まえの年配で、秩父ちちぶ名物のさるまわしなんですが、それぞれ、一匹ずつのさるをひざにかかえながら、しきりといなりずしをつまんでいるのに、眼光が少しばかり烱々けいけいとして底光りがありすぎるのです。この目というやつは、人間の五官のうちでおよそいちばん的確にその人の職業を物語るものですが、たとえばすりの目はたえずおちつきがなく、うどんやの目はのし棒のように横へ長く動き、糸屋さんだったらくるくると糸車のように動くのが定じょうなものですが、しかるに、ふたりのさるまわしたちの目の色は、そのすわり方といい眼の配りといい、どうも一刀流ぐらいはつかいそうな底光りをもっていたものでしたから、右門の探偵眼たんていがんは天蓋の中において瞬間に武装をととのえ、ぎろりと両人の挙動の上にそそがれていきました。

――と、いかにも不思議です。それぞれさるのえさは各自が各自の分だけを持っているはずなのに、茶店を立ちぎわになると、互いに飯籠はんごをあけて、中にあった椎しいの実を、なにかのまじないででもあるかのように、一つかみずつ相手のほうへ移しあったものでしたから、伝六はむろんのことにむしゃむしゃとまだいなりずしをほおばっていましたが、右門はもうすしどころではなくなりました。きわめつけの慧眼けいがんによって、こいつ変なまねをしたなと思いましたから、じっと様子を見守っていると、ではおかせぎなせえよ――互いにそう言いかわしながら、ひとりは江戸の方角へ、ひとりは反対の羽生はにゅう街道へわかれわかれになってすたすたと足を早めだしましたので、右門はまをおかず羽生へいったほうのあとをつけだしました。

「あっ! だんな、だんな! ほんとうにあきれちまうね。旅に出てまでも、またあの癖を出すんだからね。あっしをひとりおいてきぼりにしておいて、ねずみにでも引かしてしまうつもりですかい」

うろたえながら伝六が追ってきたのを右門はちいさな声でしかっておくと、二町ほどの間隔をおいて見えずがくれに、くだんのさるまわしをつけていきました。

と――、いよいよどうもこのさるまわしなる旅の者が不審なのです。ちゃんと太鼓もかかえ、さるも背に負っているんですから、道々商売をかせぎそうなものなんですが、いっこうにそういうけはいはなくて、一直線にずんずんと羽生めがけてやって参りましたものでしたから、右門の秀抜きわまりなき探偵眼は、ますますさえだしました。羽生へついたのがもうかれこれ夕暮れどきで、普通ならばそこへ一宿するんですが、前をやって行く怪しのさるまわしが泊まるけはいのなかったばかりではなく、今はもうはっきりと忍のご城下をこころざして、ぐんぐんと歩度をのばしだしたものでしたから、事態はいよいよ不審、右門もわらじにしめりを与えて、ひたすらにあとをつけました。忍の城下へようようにたどりついたのは、ぬんめりとくもり空の五つ少しまえ、いずれにしても様子のわかるのはもう一息でしたから、勢いこんで城下の町へまっすぐにはいろうとすると――。

「まてッ」

不意に、やみの左右からそういう声です。同時に、ばらばらっと両三人が行く手を立ちふさぎましたものでしたから、右門もおもわず体をひらいて尺八に片手をかけようとすると、龕燈がんどうがぎらりと光って、底力のある声がつづいて横から聞こえました。

「役儀によって面を改める。その天蓋てんがいをおとりめされよッ」

課役の藩士だなとわかりましたから、しずかに天蓋をはねあげると、相手は深々と御用龕燈をつきつけて、しげしげ右門の顔をのぞき込んでいましたが、がらりそのことばが変わりました。

「どうやら、ご人相が伊豆守様おことばに生き写しでござりまするが、もしやご貴殿は江戸からおこしの近藤右門どのではござらぬか」

「いかにも、さようにござる」

「やっばり、ご貴殿でござったか! 実は、殿さまがかようにお申されましてな。右門のことゆえ、察するに姿を変えて、わざわざ羽生回りをしてくるにちがいあるまいから、それとのう出迎えいたせと、かようにお申されましたのでな。かくは失礼も顧みず、人体改めをしたのでござる」

明知はよく明知を知るというべきで、さすが伊豆守は知恵伊豆といわれるだけがものはあり、よくも右門の変装と回り道をにらんだものですが、しかし右門はそのことよりも、今つけてきた怪しのさるまわしが気になったものでしたから、急いでやみの向こうを見透かすと、あっ! おもわず声をあげてせき込みながら、ご番士たちに尋ねました。

「いましがた、たしかにここをさるまわしが通りすぎたはずでござるが、お気づきではござりませなんだか!」

「えっ⁉」

おどろいたようにぎょっとなって、番士たちがいっせいに左右を見まわしたときでした。

「ちッ、いてえい! おう、いてえい!」

つい七、八間向こうのやみの中で突然悲鳴をあげた者がありましたので、すかさずに駆けつけていってみると、意外にも悲鳴の主は伝六で、いつそこへやっていって、いつのまにそんなことをされたものか、両手の甲をばらがきにされながら、くやしそうにつっ立っていましたものでしたから、右門はすぐにそれと気づいてたたみかけました。

「逃がしちまったか!」

「え、このとおり。あいつ、ちっとばかしくせえやつだなと思いましたんでね。なにかは知らぬがしょっぴいていってやろうと思って、せっかくえり首をつかまえたんですが、さるのやつめが手の甲をひっかきむしったそのすきに、逃げうせちまったんでげすよ」

「なるほど、血がにじんでいるな。しかし、それにしても、あいつをしょっぴいていこうと気がついたなあ、さすがおめえも江戸の岡おかっ引ぴきだな。そのおてがらに免じて、逃げたものならほっとくさ。いずれ二、三日うちに、またあいつにもお目にかかるような筋になるだろうからな。――いや、これはこれは、どうもとんだお手間をとらせました。さぞかし伊豆守様お待ちかねにござりましょうから、ではご案内くださりませい」

何が何やら解しかねるといったおももちで、ぽかんとそこに番士たちが待ちあぐんでいましたものでしたから、右門は改まって声をかけると、城中への案内を促しました。

2

石高はわずか三万石の小藩ではありましたが、さすがは天下の執権松平伊豆守の居城だけあって、とわに栄える松の緑は夜目にもそれと青み、水は満々と外濠そとぼり内濠の兵備の深さを示して、下馬門、二の門、内の門と見付け見付けの張り番もきびしく、内外ともに水ももらさぬ厳重な警備でした。むろん、伊豆守はことごとくお待ちかねでしたので、右門参着と聞くやただちにご寝所へ通して、刻下に人払いを命ずると、すわるもおそしと声をかけました。

「遠路のところわざわざ呼びだていたして、きのどくじゃった。そちのことであるゆえ、重大事とにらんで参ったことであろうが、実は少しばかり奇っ怪なできごとが突発いたしよってな」

思いに余ったもののごとく、すぐと事件の内容に触れてこられましたものでしたから、右門も相手が大徳川の顕職にあることも忘れて、ひざをすすめながらざっくばらんに尋ねました。

「なにかは存じませぬが、その奇っ怪事とやらは、殿さまご帰国ののちに起こったのでござりまするか、それとも以前からあったのでござりまするか」

「それがわしの帰国と同時に起こりよったのでな、不審にたえかね、そうそうにそのほうを呼び招いたのじゃわ」

「といたしますると、何かご帰国に関係があるようにも思われまするが、いったいどのような事件にござります?」

「一口に申さば、つじ切りなのじゃ」

「つじ切り……? つじ切りと申しますると、いくらでも世の中にためしのあることでござりますゆえ、別段事変わっているようには思われませぬが、なんぞ奇怪な節でもがござりまするか」

「大ありなのじゃ。難に会うた者は、奇怪なことに、いずれも予が家中での腕っききばかりでの、最初の晩にやられた者は西口流やわらの達人、次の晩は小太刀こだちの指南役、三日めは家中きってのつかい手が、一夜に三人までもやられたのじゃ。しかも、それらが、――」

「一太刀たちでぱっさりと袈裟掛けさがけにでもされたのでござりまするか」

「いや、ぱっさりはぱっさりなんじゃが、奇怪なことには、どれもこれもが一様にみんなそろって右腕ばかりを切りとられたんじゃから、ちっとばかりいぶかしいつじ切りではないか」

「なるほど、少し不思議でござりまするな」

口では少し不思議でござりまするなというにはいいましたが、右門はしかしそのとき、心の中でいささか失望を感じました。家中の者の腕っききばかりをねらって、その右腕をのみ切り取るという点は、いかにも不思議に思えば思えないこともありませんでしたが、なにしろたくさんある流儀のことでしたから、考えようによれば剣法の中にだって右腕ばかりを切るというような一派が全然ないとは保証できなかったからです。かりに一歩を譲って、そういうような流儀がなかったにしても、剣士によってずいぶんと右小手のみを得意とするつかい手がないとは断言できないんですから、むやみと奇怪がるのも少々考えもので、してみれば何か江戸と連絡のある犯罪ではあるまいかなぞと先っ走りをして考えたことも全然の思いすごしであり、したがってわざわざ羽生街道を迂回うかいしたことも、久喜の茶店からご苦労さまにさるまわしのあとをつけてきたことも、今となってはとんだお笑いぐさとしか考えられなくなったものでしたから、右門はその二つの理由からして、大いに失望を感じないわけにはいかなくなりました。

「なるほど、奇怪でござりまするな。奇怪と考えれば奇怪に考えられぬわけもござりませぬな」

少し不平がましい口つきで、皮肉ととれば皮肉ともとられるようなつぶやきを、うわのそらでそんなふうにくり返していましたが、そのときしかし、右門の心鏡は、突如ぴかり――と例のように裏側からさえ渡ってまいりました。しばしば申しあげましたかれ独特の見込み捜索、すなわちあのからめての戦法なんで、まてよ、そうかんたんに失望するのはまだ早すぎるぞ、と思いつきましたもんでしたから、ふいっと顔をあげると、遠くからまじまじ伊豆守のおもてを穴のあくほど見つめました。見ているうちに、かれの緻密ちみつこのうえもなき明知は利刃のごとくにさえ渡って、犯行のあった土地が徳川宿老のご城下であるという点と、さながらその犯行が伊豆守の帰藩を待つようにして突発したというその二つの点に、ふと大きな疑問がわいてまいりましたものでしたから、右門は猪突ちょとつにことばをかけました。

「ぶしつけなお尋ねにござりまするが、お多忙なおからだをもちまして、なにゆえまた殿さまはかように突然ご帰国なさったのでござりまするか」

「えっ? 帰国の理由……?」

と――どうしたことか、不意に伊豆守が不思議なほどな狼狽ろうばいの色を見せて、右門の鋭い凝視をあわててさけながら、濁すともなくことばを濁されましたので、あれかこれかと心の中にその理由についての推断を下していましたが、まもなくはッと思い当たったものがありましたから、右門は突然にやにやと微笑すると、ずぼしをさすよういいました。

「上さまは――将軍さまは、この二、三年とんと日光ご社参を仰せいだしになりませぬが、もうそろそろことしあたりがご順年でござりまするな」

「そ、そ、そうのう。そういえば、もう仰せいだしになるころじゃのう……」

案の定、ずぼしが命中したか、日光ご社参と聞くと伊豆守の顔色にいっそうの狼狽が見えましたので、もうこうなれば右門の独擅場どくせんじょうでした。いつも公表するのが例であるご社参を、なにがゆえに今回にかぎりかくも厳秘に付しているか、まずその点についての見込みをつけて、しかるうえに伊豆守の突然な帰国の事実と、同時のように突発したこの事件とを結びつけて推断したなら、おそらく二日とたたないうちに下手人の摘発ができるだろうという自信がついたものでしたから、右門はもうまことに余裕しゃくしゃくたるもので、少しとぼけながら、伊豆守にいいました。

「旅であう春の夜というものは、また格別でござりまするな。では、もうおいとまをちょうだいしとうござりまするが、よろしゅうござりまするか」

「お! そうか! ならば、もう確信がついたと申すんじゃな」

「ご賢察にまかしとう存じまする」

「では、何もこれ以上申さなくとも、そちにはわしの胸中にある秘事も、見込みも、ついたのじゃな」

「はっ。万事は胸にござります。なれども、わたくしが捜査に従うということは、なるべく厳秘に願わしゅうござります」

「そうか。それきいて、松平伊豆やっと安堵あんどいたした。では、今後の捜査なぞについて不自由があってはならぬゆえ、この手札をそちにつかわそう。遠慮なく持ってまいれ」

さし出された手札を見ると、この者の命令は予が命令と思うべし、松平伊豆守――と大きく書かれてあったものでしたから、まったくもう右門は鬼に金棒で、躍然としながら城中を辞し去りました。出ると、これもつるの一声。表にはご番士のひとりがちゃんと待ち構えていて、城中からほど遠からぬ数寄屋すきや造りの一構えに案内してくれましたものでしたから、まだ虚無僧姿のままの伝六の喜ぶこと、喜ぶこと――。

「ちえッ、ありがてえな、人間はまったく何によらず偉物になっておくもんさね。くたぶれた足をひきずってくると、このとおりちゃんともう向こうさまがお宿をこしらえておいてくだすって、ね、ほら、お座ぶとんは絹布でしょう。火おけは南部桐ぎりのお丸胴でね。水屋があって、風炉ふろには松風の音がたぎっているし、これはまたどうでがす。気がきいてるじゃござんせんか。だんなが知恵をひねり出すときにゃ碁を打つことを日本じゅうのみなさんがもうご存じとみえて、このとおり榧かやの碁盤が備えつけてありますぜ。それから、あっしのほうには――待ちなってことよ、江戸っ子にも似合わねえ意地のきたねえ腹の虫だな。はじめて酒の顔を拝んだんじゃあるめえし、そうぐうぐう鳴き音をあげるねえ。まだちっとぬるいようじゃねえか」

ひょいとみると、銅あかの銅壺どうこに好物がにょっきりと一本かま首をもたげていたものでしたから、ことごとくもう上きげんで、とくりのしりをなでなで燗かんかげんを計っていると、突然でした。風のようにお次の間のふすまがあいたかと思うと、見るからにういういしい高桃割れに結って、年のころならやっと十五、六くらいの楚々そそとした小女が、いま咲いた山ゆりででもあるかのように、つつましくもそこへ三つ指をついていたものでしたから、口ではいろいろときいたふうなことをいうにはいいますが、面と女に向かうと、うれしいことに、からもういくじのなくなるたちでしたので、まことにどうも笑止千万、すっかり伝六はこちこちになってしまって、あわてながらひざ小僧をかき合わせると、しかられたかめの子のように、そこへちまちまとかしこまってしまいました。同時に、右門も隣のへやから気がついたのですが、さすが右門は右門だけのことがあったものでしたから、べつに顔の色もかえず、静かに問いかけました。

「どうやら、ここはどなたかのご茶寮さりょうのようにも思われまするが、あなたさまは?」

「はっ……あの……わたくしは……」

いいかけましたが、まこと陰陽おんようの摂理というものはあやかなものとみえて、小娘ながらも右門のごとき天下執心の美丈夫をかいま見ては、ちいさな胸もおののかずにはおかれなかったのでしたか、伝六を見たときはちっとも異状を現わさなかったその顔に、ぱっといちめんのもみじを散らして、ことばもとぎれがちにうつむいてしまいましたので、右門は少し微笑をみせながら、はじらいを救ってやるようにやわらかく尋ねました。

「わかりました、わかりました。なんでござりまするな。伊豆様からのおいいつけで、お越しなされたのでござりますな」

「はっ……なにかといろいろご不自由もござりましょうゆえ、旅の宿のつれづれなぞをお慰めに参れとかようにお申されましたので、ふつつかながら参じましてござります……」

「それはお奇特なこと。お名まえはなんと申されまするか」

「ゆみ――あの、弓と申しまする……」

「ほほう、お弓様と申されまするか、いちだんとよいお名まえでござりまするな。さいわい、わたくしめは白羽矢之助やのすけと申しますゆえ、弓に白羽の矢では、ちょうどよい取り合わせでござりまするな」

珍しくむっつり右門が浮かれ屋右門になって、そんな冗談をいっていましたが、しかし、かれのまなこはそういう間にも絶えず小娘の身辺に鋭くそそがれ、その耳はまた絶えずなにものかを探るように表のほうに傾けられたままでした。

と――夜陰にこもって、おりからちょうど、ごうんごうんと、遠寺のときの鐘です。数えると、まさに九ツ! 同時に、右門の態度ががらり変わりました。

「さ! 伝六! ひとかせぎしような」

突然鋭く言いすてると、不意にすっくと立ち上がったものでしたから、こちこちになっていた伝六は、はじめて毒気が抜けたようにお株を取りもどして、すっかり生地のままの伝六となりました。

「まただんなの病気が始まりましたね。きょう来てきょう着いたというのに、突然人聞きのわるいことおっしゃいまして、ご金蔵でも破るんじゃあるまいし、ひとかせぎたあなんですか」

しかし、右門は凛然りんぜんとして、もはやむっつり右門にかえり、江戸から用意の雪駄せったをうがち、天蓋てんがいを深々と面におおい、腰には尺八をただ一つおとし差しにしたままで、すうと表のやみの中へ、吸われるように歩きだしたものでしたから、ようやく伝六もそれと察しがついたものか、朱ぶさの十手をこっそりとふところに忍ばせて、すぐあとから同じ虚無僧姿をやみの中へ包ませてしまいました。

3

孟春もうしゅん四月の半ばをすぎた城下の夜半は、しんとぬばたまのやみに眠って、まこと家の棟むねも三寸下がらんばかりな、底気味のわるい静けさでした。あらぬつじ切りのうわさは、城下の町のもののおびえやすい心をいよいよおびえさせたとみえて、行く道はげに死せるがごとく、人っ子ひとり見かけない寂しさでした。――その寂しい大路小路を、どうしたことか、右門はわざとちゃらちゃら雪駄の音を特別高くちゃらつかせて、ふらりふらりとやって参りました。下手人を捕えようとするなら、少なくも息ぐらい殺していくのが定じょうなんですから、だのにことさら高めだした雪駄の音は、どうみても少し不思議なんですが、いかにもそれがなにか自信でもありそうに見えましたものでしたから、何かは知らず伝六もそのとおりまねをしてやっていくと、果然! いや、突然でありました。

「そこのふたり、待てッ!」

叫びながら路地口から飛び出してきて、さッと行く先をさえぎった七、八人の一団がありました。もちろん、おっとり刀で、――だが、右門はおどろくと思いのほかに、さながらそれを心に期したるもののごとく静かに近づいていくと、さびのある声で、鷹揚おうようにいったものです。

「ご苦労でござる。ご異状はござりませぬかな」

「なにッ、ご異状? なれなれしゅう申しおるが、いずこの何やつじゃ!」

いかにも右門のことばつきがつら憎いほどおちついていたものでしたから、おっ取り刀の面々のおこって詰めよったのはあたりまえなことでしたが、しかし右門は綽然しゃくぜんたるものでした。

「不審はごもっとも、てまえはこういうものでござる」

静かにいって、そして先ほど城中を退きがけにちょうだいいたしました例の手札を――この者の命令は予の命令と思うべし、松平伊豆守と、釜かまのような書き判のある例の一札を、ずいと龕燈がんどうの下に突き出して見せましたものでしたから、いやはや、どうもおっ取り刀の面々のめんくらったこと。うへッとばかりに声をそろえながら、塩だらのように堅くなりながら、こちこちとそこへ棒立ちになってしまいました。それをきのどくそうにながめながら、右門は天蓋の中から鷹揚おうようにいいました。

「例のやつをご警戒中と思われまするが、このあたりはどなたのお屋敷つづきでござる」

「はっ、このうち四、五町がほどは、当家中一流のつかい手ばかりがお屋敷を賜わっていますゆえ、例のつじ切りめ腕ききばかりの藩士をねらう由承りましたから、かく宵よいのうちから一団となって、このかいわいを警固中にござります」

「それはご殊勝なこと、ずいぶんとごゆだんめさるなよ。では、ごめん――」

いうと、右門はことさらまた雪駄の音を例のように高めながら、ちゃらちゃらと向こう町のやみの中へ消え去ってしまいました。だが、まことに不思議です。二、三十間やっていくと、今まで高かった雪駄の音を突然ころして、ぴたりとそこの築地ついじべいに平ぐものごとく身をよせてしまいましたので、伝六はいぶかって、首をちぢめながらささやきました。

「ね、――あいつが出たんですかい?」

しかし、右門はひとことも答えないで、じっと同じかっこうをつづけていたようでしたが、それから五分とたたないまもなくでした。不意に、やみの向こうの屋敷の中から、けたたましくわめき叫ぶ声が聞こえました。

「おのおのがた、お出会いそうらえ! 例のくせ者が押し入ってござるぞ! お早くお出会いそうらえ!」

それを聞くと、右門ははじめてわが意をえたりというように、ぱんぱんと手についた土ほこりをはたきながら、涼しい声でいいました。

「やっぱり、おれのにらんだとおり、下手人は気のきいた知恵者だよ。警固の者をまんまとやりすごしておいて、そのあとからすぐに裏をかいて押し入るなんてところは、なかなかあっぱれ者だよ」

「なるほどね。どうりで、だんながまたさっきからばかにちゃらちゃらと雪駄せったの音をさせると思ってましたが、じゃだんなが、またそやつの裏の裏をかこうとしたんですね」

「そうさ。ああやって、わざと雪駄をちゃらつかせて、いま通ったぞと知らして歩いたら、気のきいた下手人だったら、きっとそのすきに何かしでかすと思ったからな、ちょっとばかり誘いのすきをこしらえてやったのさ。災難に会ったご藩士にはおきのどくだが、おれはまだ一度も手口の現場を見ていないんだからな――どうやら警固の面々も駆けつけたようだから、ではひとつ検分に行くかな」

騒がずにゆうゆうとして、いま声のあった屋敷のほうへ参りましたものでしたから、伝六もすっかり江戸っ子かぜを肩に切りながらあとに従ってまいりますると、案の定、屋敷うちは上を下への混雑で、右往左往とやみの中を、先ほどの警固の者が、下手人いずこと捜しまわっているところでした。しかし、右門はそれらの面々なぞには目もくれないで、ずいと座敷の中へ上がってまいりました。

「どなたでござる!」

型のごとく身内の者らしい若侍が血相変えてさえぎったのを、右門は用意のあのお手札を示して身のあかしをたてておくと、むっつりとして災難に会った主人のうち倒れている奥座敷へやって参りました。見ると、なるほどうわさにたがわず、あるじは右腕をすっぽりと切ってとられて、あけに染まりながらそこにうめきつづけていたものでしたから、右門は黙って近よると、まずその切り口をとっくりと改めました。よほどのわざ師が、よほどのわざ物で、ただ一刀にすぽりとやったとみえて、いかにも切れ味がみごとです。しかも、主人のまくら刀はそこに置かれたままで、一太刀ひとたちも抜き合わしたらしいけはいがなかったものでしたから、右門は聞くのが少しきのどくでしたが、正直に思ったとおりを尋ねました。

「貴殿とて一流のつかい手でござりましょうが、抜き合わす暇のなかったところを見ると、よほど不意を打たれたとみえまするな」

「面目しだいもござらぬ。つじ切りはしても、まさかにこのように夜中寝所まで押し入ろうとは思いもよらなかったゆえ、つい心を許して寝入っていたところを、不意にやられたのでござる」

「しかし、なんぞそのまえほかに気を奪われたようなことはござりませなんだか」

「さよう、たしかにお尋ねのようなことがあったゆえ、ちと不思議でござる。なんでも、何かばりばりとひっかくような音がありましたのでな――」

「なにッ。ばりばりとかく音がござりましたとな! すりゃ、まことでござるか!」

「まこととも、まこととも、真もってまことでござる。その廊下のあたりで、何かこうばりばりとかきむしるような音が耳にはいったのでな、不審と思って、そのほうへつい気をとられた拍子に、あれなるうしろのふすまを不意に押しあけて、覆面の武者わらじをはいたやつが、いきなりおどり入りさま、物をもいわずに、このとおり腕を切りとったのでござるわ」

「ふうむ、さようでござるか。そうするとそろそろほしが当たりかけてきたな」

ばりばりという音がしたといったその一語によって、すでになにものかの推定がついたもののごとく、腹の底から絞り出したようなうめき声を発して、じっと廊下先の障子を一本一本巨細こさいに見まわしていましたが、と――果然、その痕跡こんせきがあった。歴然としてそこの障子の一本に何かつめでひっかきむしったような紙の破れのあとがあったものでしたから、右門の声は突如として力に満ちながらさえだしました。

「切られたその腕は、どうしたのでござる!」

「え! 腕ですかい。腕なら、だんな、ここにころがってますぜ」

さすが伝六もおひざもとの岡っ引き、さしずをうけないうちに先回りして、犯跡の証拠収集に努めていたものか、右門のことばに応じて、庭先からそういう声があったものでしたから、まをおかずに、やっていってみると、いかにも手首はまっかに血を吹いて、これがつい数分まえに人のからだへくっついていたんだろうかと怪しまれるようなぶきみな姿をしながら、縁側つづきの便所のわきに投げすてられてありました。しかも、ひょっと見ると、そこの便所の白壁になにやらべったりと黒い跡がついていたものでしたから、右門はあかりをとりよせて、なにげなくのぞき入りました。と同時に、さすがの右門も、おもわず少しばかりぎょっとなりました。見ると、その黒い色とみえたのは紛れもなく生き血の色で、さながらやつでの葉かなんかを押したように歴然と、切り取った手首のてのひらの跡が押されてあったからです。のみならず、その手形の下には、同じ生き血をもって、次のごとき文字がはっきりと書きしるされてありました。

――あと少なくも十本はこのように手首ちょうだいいたすべくそうろう。

「おそろしくおちついたやつじゃな」

おもわずうなりながら、じっとそこにころがっている腕首を見改めていましたが、と――不意に、右門の鼻先へぷんとにおってきたえもいわれぬかぐわしい不思議な高いかおりがありました。はてな、と思いましたので、腕首を取り上げて鼻先へもっていきながらかいでみると、いかにも不思議! かつて聞いたこともないようなすばらしく上等の香のにおいがするのです。しかも、あきらかにそれが移り香なんでしたから、右門はあわてて腕を切り取られた当の主人のところへやっていって、それとなく身体をかぎためしました。しかるに、奇怪とも奇怪、その移り香はあるじの身についていたものではないのです。とすると、むろん下手人の身についていた移り香で、ただ一度それをつかんだだけでもこんなにかおりの強く乗り移ったところを見れば、よほど高価な香ということが推察できたものでしたから、もう一度丹念にかいでいると、まさにそのときでした。

「くせ者じゃッ。くせ者じゃッ。例のやつめがこちらにも押し入りましてござりますゆえ、お早くお出会いめされい!」

不意にまた二、三軒向こうの屋敷の中から、やみをついてそう呼び叫ぶ声がありました。まだこちらの始末がつききらないうちでしたから、居合わした警固の面々のいまさらのごとくに二度青ざめたのはいうまでもないことでしたが、伝六もぎょっとなって、血相変えながら警固の面々のあとを追おうとしましたので、すばやくそれを認めた右門が、おちついた声でうしろから呼びとめました。

「まてッ」

「だって、逃げちまうじゃござんせんか!」

「どじだな。今から追っかけていったって、おめえたちの手にかかるしろものじゃねえんだよ。こっちを騒がしておいて、そのすきに隣へ押し入る大胆な手口だけだって、相手の一筋なわじゃねえしろものってことがわかりそうなものじゃねえか。それよりか、ほら、これをな――」

「えっ?」

「わからんか、な、ほら、ぷんといい女の膚みたいなかおりがするんじゃねえか。おそらく、向こうの手首にもこれと同じ移り香があるにちげえねえから、ちょっといってかいでこい」

「なるほどね。ようがす、心得ました。じゃ、それだけでいいんですね」

「しかり――だが、みんなにけどられねえようにしろよ。騒ぎたてると、ぼんくらどもがろくでもない腕だてをして、せっかくのほしをぶちこわしてしまうからな」

「念にや及ぶだ。あっしもだんなの一の子分じゃごわせんか。どっかそこらの路地口であごひげでもまさぐりながら、待っていなせえよ」

自分のてがらででもあるかのように伝六が駆けだしたものでしたから、右門は災難に会った一家の者に悠揚ゆうようとして黙礼を残しながら立ち去ると、門を出たそこの路地口のところで、いったとおりあごひげをまさぐりまさぐり、伝六のかえりを待ちうけました。まもなく駈けもどってきた伝六の報告によると、果然切り取られた手首には同じ香のにおいがあったばかりでなく、血の手形の跡もばりばりと何か障子をひっかいた手口も、全然両者が同様であるということがわかったものでしたから、もうそれからの右門は例のごとし――いいこころもちにふところ手で宿に引き揚げていくと、すっぽりと郡内かなんかの柔らかいやつをひっかむって、すやすやとすぐに快い寝息をたてだしました。

4

しかし、朝になると、右門はまだ朝飯さえもとらないうちから、反対におそろしく疾風迅雷的しっぷうじんらいてきな命令を伝六に与えました。

「きさまこれからお城下じゅうの宿屋という宿屋を一軒のこらず当たって、例のきのうつけてきたあのさるまわしな、あいつの泊まったところを突きとめてこい!」

「なるほどね、やっぱりそうでしたか。ありゃあれっきりのお茶番と思ってましたが、じゃいくらかあいつにほしのにおいがするんですね」

「においどころか、ばりばり障子をひっかいた音っていうのは、そのさるなんだよ。とんだ古手の忍術つかいもあったものだが、しかし、さるをつかってまず注意をそのほうへ集めておいてから、ぱっさりと腕首を盗むなんていうのは、ちょっとおつな忍術つかいだよ。石川五右衛門ごえもんだって知るめえからな」

「石川五右衛門はようござんしたね。そうと決まりゃ、もうしめこのうさぎだ。じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。だんなはそのるす中に、あの、なんとかいいましたね、そうそう、お弓さんか、まだけさは姿を見せませんが、おっつけご入来になりましょうからね。江戸へのみやげ話に、ちょっぴりとねんごろになっておきなせえ。ゆうべの赤い顔は、まんざらな様子でもなかったようでがしたからね」

つまらんさしずをしながらかいがいしく伝六が命を奉じて駆けだしたので、右門はそのあとに寝そべりながら、例のごとくあごの無精ひげをでもつまみそうに思われましたが、どうして、かれもまた今は文字どおり疾風迅雷でした。すぐに裏口伝いを濠ほりに沿って城中へ参向すると、ようやくお目ざめになったばかりの伊豆守に向かって、猪突ちょとつに不思議なことを申し入れました。

「つかぬことをお願いいたしまするが、ただいますぐと、ご城中にお使いのお腰元たちのこらず、わたくしにかがしてくださりませぬか」

「なに、かぐ?――不思議なことを申すが、腰元たちのどこをかぐのじゃ」

「膚でござります」

「そちには珍しいいきな所望をまた申し出たものじゃな。よいよい。なんぞ捜査の手づるにでもいたすことじゃろうから、安心してかがしてつかわそうわい。こりゃこりゃ、誰たそあるか」

すぐと右門の目的がよめたものか、お手を鳴らしたので、つるの一声はひびきの物に応ずるごとく、たちまち後宮の千姫せんきに伝わって、間をおかず色とりどり腰元たちがぞろぞろとそこへ現われてまいりましたので、冗談かと思うと、ほんとうに右門は鼻をもっていって、ひとりひとり彼女らの招かばなびかんばかりな色香も深い膚のにおいを順々にかいでいましたが、すべてでおよそ七十人、しかしかぎ終わったかれの面には、来たときと違って、どうしたことか、はなはだしい失望の色が見えました。少し見込みがはずれたかな――というように首をひねりながら、しばらく考えていましたが、やがてぷいと立ち上がると、ややうなだれて、あっけにとられている腰元たちをしり目にかけながら、さっと引きさがってしまいました。

だが、かえりつくと、そこに三つ指ついてつつましく待っていたものは、前夜来から旅寝の間の侍女として伊豆守がお貸しさげくださったあのゆみで、右門はまだ朝食もとっていなかったものでしたから、ゆみは右門のむっつりとしておし黙りながら考え込んでいる姿を見ると、ことばをかけるのを恐れるように、おずおずといいました。

「あの……朝のものが整ってでござりまするが……」

「おう、そうか! では、いただかしてもらいましょう」

なにげなくお茶わんを差し出して、なにげなくそれをお給仕盆に受け取ったおゆみの腕首をちらりと見守ったときでした。実に意外! たしかに前夜見たときはなかったはずの腕首に、まっかなばらがきのあとが――さるかねこにでもひっかかれたように、赤いみみずばれの跡がはっきりとついていたものでしたから、突然右門の胸はどきどきと高鳴りました。しかも、それがまだ新しいつめの跡らしかったのでしたから、右門はやや鋭く尋ねました。

「そなた、けさほど姿を見せなかったようじゃが、どこへ行ってこられた」

「えっ!」

「おどろかんでもいい。見れば、手首にみみずばれの跡があるが、さるにでもひっかかれましたか!」

と――ぎくりとなったようにうろたえて、その腕首をあわてながらそでにおし隠したものでしたから、右門は心の底までをも見抜くようにじっと彼女の顔を射すくめていましたが、はしもつけないで突然ぷいと立ち上がりました。目ざしたところは、いうまでもなく城中で、ふたたび例のようにどんどんと大奥までも参向すると、突如として伊豆守にいったものです。

「ゆうべお貸し下げの弓とか申すあの小女は、殿さまのお腰元でござりまするか」

「さようじゃ。城中第一の美姫びき、まだつぼみのままじゃが、所望ならば江戸へのみやげにつかわしてもよいぞ」

「またしてもご冗談でござりますか、そのような浮いた話ではござりませぬ。あの者の素姓をご存じにござりまするか」

「よくは存ぜぬが、ついこの濠ほり向こうの仁念寺にんねんじという寺の養女じゃそうな」

「えっ! お寺! お寺でござりまするとな!」

「さよう――住持が大の碁気違いじゃそうでの。それから、なんでもあの小女に、もうひとり有名なおくびょう者じゃそうなが唖の兄とかがあって、どういうつごうでか、その兄もいっしょに養われているとかいうことじゃわ」

濠向こうの寺、そしてその寺の養女とおくびょう者の唖おしの兄? ――なにものか胸中に明察のついたもののごとく、ぴくりとまゆを動かして考え込んでいましたが、そのまま右門はおし黙って、ぷいと立ち去りました。ただにぷいと城中を立ち去ったばかりではなく、実に不思議――それっきりむっつり右門の姿は、どこへ行ったものか、皆目行くえがわからなくなってしまいました。宿へもかえらず、おしゃべり屋の伝六もそこへ置いてきぼりにしたままで、さながら地へもぐりでもしたかのように、煙のごとく城下からぷいと消えてなくなってしまいました。

5

けれども、そのかわりに、同じ日の夕暮れどきから、むっつり右門のいなくなったのに安心でもしたかのごとく、ぽっかりとどこからかひとりの怪しい秩父ちちぶ名物のさるまわしが、忍おしの城下の羽生街道口に現われてまいりました。見ると、そのさるまわしはもう五十をすぎた老人で、腰はよぼよぼと弓のごとく曲がり、目にはいっぱいの目やにがたまって、顔は赤黒く日にやけ、いかにも見すぼらしいかっこうでした。だのに、怪しいそのさるまわしは、たえず何者かを恐れつつ、それでいてたえず何者かを捜し求めでもするかのように、きょときょととまわりを見まわしながら、どっかりと道ばたに腰をすえると、道ゆく城下の人たちを集めて、一文二文のお鳥目を請い受けながら、じょうずにさるをあやつりました。さるもきわめて手なれたもののごとく、よくさるつかいの命に従いましたが、しかし、さるつかいの目は、さるを踊らしながらも、不断に城下のほうへそそがれました。そして、ちらりとでも虚無僧姿の男が見えると、よぼよぼの腰でありながら、すばらしい早さでどこともなく姿をかくし、見えなくなるとまたどこからか現われて、同じところに陣取りながら、今度はしきりと羽生街道口のほうにその目をそそぎました。しかも、それが一日ばかりではなく、二日三日と、きまって夕暮れどきに同じ場所へ陣取りますので、しだいに怪しさが加わってまいりましたが、かれがそこへ姿を見せだしましてからちょうど四日め――ふいと今度は別なひとりの秩父名物さるまわしが、羽生街道のほうからやって参りました。新しく来たそのさるまわしの姿をよく見ると、どうやら右門と伝六が先の日、久喜のあのいなりずし屋で見かけたうちのひとりの、江戸へ行ったほうのに似ているらしいのですが、不思議なことに、くだんの新しいさるまわしは、そこにうずくまって商売を開いていたまえからの老人のさるまわしのところにやって来ると、突然腰をこごめて、ひどく何かを恐れながら、あのとき久喜の宿でもしたように、飯籠はんごをあけて、ひとつかみ中の椎しいの実を老人のほうへ移しました。と同時に、老人の目は怪しく輝き、いま移されたその椎の実の中から、ひときわ大きい一つを捜し出して、やにわにそれを歯でこわし、意外なことにはその椎の実の中から小さく丸めた紙切れを取り出すと、手早く押し開きながら、そこに書かれた通信の文句を読んでいたらしいようでしたが、そうか、事急だ――突然そうつぶやくと、大急ぎにさるを背負って、あとから来たのといっしょに足を早めながら、いずこにともなく城下の夕暮れやみに消え去りました。

それとも知らずに、その怪しいできごとがあって一刻ときほどすぎたのち――。今、忍おしのご城内では、何か高貴のおかたでもこよい城中に迎えるらしく、熨斗目麻裃のしめあさかみしもの家臣たちが右往左往しながら、しきりとその準備に多忙をきわめているさいちゅうでした。しかし、よほどそれは内密のお来客とみえて、準備に当たっている者はいずれも黙々と口をとじたきりでした。しかも、不思議なことに、高貴のおかたと見えるそのお来客の接待場所は、ついふた月ほどまえに松平伊豆守がわざわざそのために造営さしたお庭つづきのお濠ほりばたの、ほんとうに文字どおりお濠ばたの数寄すきをきわめたちいさな東亭あずまやでした。唐来とおぼしき金具造りの短檠たんけいにはあかあかとあかりがとぼされ、座にはきんらんのおしとねが二枚、蒔絵まきえ模様のけっこうやかなおタバコ盆には、馥郁ふくいくとして沈香入りの練り炭が小笠原流おがさわらりゅうにほどよくいけられ、今は、ただもうそのお来客と城主伊豆守のご入来を待つばかりでした。

と――警蹕けいひつの声とともに、家臣たちがひらめのごとく土下座している中を、伊豆守とおぼしき人が先頭で、うしろに一見高貴と見ゆるおんかたを導きながら、しずしずと東亭へおなりになりました。そして、今おんふたかたがおしとねにつかれようとしたとき! 突如、真に突如、意外な大珍事がそこに持ち上がりました。床が没落したのです! がばッ! という大音響とともに、堅固なるべきはずの東亭の床が、めりめりとおんふたかたをのせたままで、突然地の中へ没落してしまったのです。

「わあッ! 一大事! 一大事! 将軍家と伊豆守様とのお命をちぢめまいらした不敵なくせ者がござりまするぞッ。それッ。おのおの、ぬかりたまうな! 城内要所要所の配備におんつきそうらえ!」

すわ、事おこりしと見えましたので、家老とおぼしき者の叫びとともに、どッと城中が騒乱のちまたに化そうとしたとき――だが、そこへいま没落した床の下の抜け穴らしいところから、ぬうと現われてきたひとりの怪しき男の姿があったのです。手に手にともしたあかりのまばゆい光でよくよく見ると、これは意外! その男こそはだれあろう、あの老人の怪しきさるまわしでした。四日まえの晩からお城下の羽生街道口に陣取って、怪しの別なさるまわしから椎の実をうけとり、かき消すように姿をかくしたあの老人のさるまわしでした。

「それッ、あいつだ! くせ者はあの者だ! めしとれ! めしとれッ」

むろん、下手人はそれにちがいないことがわかりましたので、さっと左右から家臣の者が迫ろうとすると、しかし意外! さらに意外! 老人の曲がった腰はまずしゃっきりと若者のごとくに伸び直り、そして悠揚ゆうようとそこの泉水で面を洗うと、りりしくもくっきりとした美丈夫の姿と変わったのです。と同時でした。たち騒いでいる人々の中から鉄砲玉のように飛んできて、すがりつくようにいった声がありました。

「おっ? おいらのだんなじゃごわせんか! 右門のだんなじゃごわせんか! よくまあ、よくまあ生きていてくれましたね。あっしゃ、てっきりあのつじ切りのやつに殺されたと思いましてね、だから、もう、このとおり、このとおり――ああ、ちくしょう、うれしくて泣けやがるなあ! 泣けやがるなあ。ね! どうしたんです。いったいこりゃ、どうしたんです!」

まことにそれは忽焉こつえんとして先の日消えてなくなったむっつり右門で、右門は伝六のうれし泣きに泣いている姿を静かに見おろすと、涼しそうにいいました。

「さ、伝六、あの穴の中からくくされて出てくるやつを、ご城中のかたがたに引き渡してやりな」

「え? 地の下にはまだ人間がいるんですかい」

「例のさるまわしたちさ。七人ばかりを一網にして、今くくしておいたからな、みなさまがたに引き渡してやりな」

いう下から、前髪立ちの美少年姿をしたさるまわしを先頭に、高手小手の七人が、ぞろぞろと穴の中から送り出されて、しかもそのうしろからは、先ほどの将軍家と伊豆守に見えた両名が、そのなわじりをとって現われ出ましたものでしたから、伝六もおどろきましたが、家中の者はいっせいにあっと声を放ちました。それを冷ややかに見ながめながら、右門はいっそう涼しい声で家臣の者たちにいいました。

「とんだお人騒がせをつかまつり、恐縮いたしました。ごほんものの将軍家と伊豆様は、今ごろご城中でご安泰におくつろぎでござりましょうから、ご安心くださりませい。これなる七人の者の素姓も、つじ切りの下手人も万事伊豆守様がもうご承知でござりますから、ゆるゆるとお聞きになりましてな、それからなわじりをとっているそこの両名は、ご城下で興行中の江戸の旅役者どもでござりますから、こよいの命を的にした大役をじゅうぶんおねぎらいなされて、ごちそうなとなされましたらよろしゅうござりましょう――では、伝六、宿へかえってまた虚無僧になるかな」

いうと、べつに功を誇る顔もせず、さっさと引き揚げました。けれども、今度ばかりはさすがの右門も事件の重大さにいくぶん興奮していたか、いつになくむっつり屋のお株を忘れて、珍しいほどのおしゃべりになりながら、伝六のきかない先に自分からねたを割りました。

「きさまも驚いたろうが、おれもちっとばかり今度という今度は知恵を絞ったよ。なにしろ、恐れ多い話だが、上さまと伊豆さまを一時になきものにしようとしていたんだからな」

「大きにそうでがしょう。あっしもおおよその見当がつきやしたが、察するにあの七人のやつは、豊臣とよとみの残党じゃごわせんかい」

「さすがにきさまだけのことがあるな。残党じゃねえが、いずれも豊家恩顧の血を引いたやつばらさ。あくまでも徳川にふくしゅうしようっていう魂胆で、まずそれには、というところから伊豆さまのご藩中へ先に巣を造り、巧みに所所ほうぼうへあのとおりのさるまわしとなって駆けまわり、将軍家の日光ご社参の機会を探っていたというわけさ。ところが、伊豆様はさすがに知恵者、早くもにおいでかぎ知ったとみえて、今度の日光ご社参ばかりはこのおれにさえ隠すほど絶対にご内密を守り、ああやってこっそりとお先にご帰藩もして、それから今夜のようにごく密々で上さまを城中へお迎えするつもりだったんだが、じょうずの手から水が漏れるというやつで、あべこべにそのおん密事をかぎ取ったやつがあの七人組のほかにもうひとりあったものだから、それと知ってさるまわしたちが久喜の宿でも会ったように、たちまち八方へ飛び、まずつじ切り事件が最初に起きたというわけさ」

「なるほどね。じゃ、そろいもそろって腕っききばかりの右腕を切り取ったっていうのも、ねたを割りゃ、いざ事露見というときの用心に、まえもって力をそいでおくつもりなんですね」

「そのとおり、そのとおり。なにしろ、てめえたちの仲間はたった七人しきゃねえんだからな。目抜きのつかい手の肝心な腕切ってかたわにしておきゃ、雑兵ぞうひょうばらの二、三百は物の数じゃねえんだから、さすが真田幸村さなだゆきむらの息がかかった連中だけあって、しゃれたまねしたものだが、ところがそれが大笑いさ。なま兵法びょうほうはなま兵法だけのことしかできねえとみえて、きさまもかいだあの香の移り香を残しておいたことが、そもそもねたの割れた真のもとだよ」

「ちょっと待ってくだせえよ。だって、だんなはまだ、その香の持ち主をひっくくったとも、捕えたとも聞きませんが、あの七人組の中にそやつもござんしたかい」

「いたとも、いたとも。まっさきに穴の中から出てきたあの前髪のまだ若いやつがその香の持ち主で、つじ切りの下手人なんだよ。おくびょう者と見せかけて、その実は一刀流の達人、しかもかわいそうに、生まれつきの唖おしさ」

「えっ、唖⁉ 唖がまたなんだってかたわのくせに、あんな上等の香なんぞからだにたきこめていたんですかい」

「それがあのとおりの美少年だけあって、うれしいといえばうれしい話だが、つまり武士のたしなみなんだよ。いつ不覚な最期を遂げないともわからないっていうんで、つね日ごろ身にたきこめていたらしいんだが、そいつが伊豆守様のお話で、そら、あそこの濠ほりの向こうに見えるお寺があるだろう、あの仁念寺というお寺に養われていると聞いたものだから、そこの住持が碁気違いだというのをさいわい、江戸上りの碁打ちに化け込んで様子を確かめに行ってみるてえと、仁念寺というお寺そのものが、だいいち臭いんだ。おびただしい新土が裏口に山のごとく盛り上がっているから、よく見ると、つまりその土の正体は、さきほどおれが地中の下からはい出てきたあの抜け穴の入り口なんだよ。さっきの東亭あずまやというのが、そもそも上さまを迎えるためにこしらえたということがきゃつらにわかっていたものだから、二カ月かかってあの穴をお寺から濠ほりの下をくぐって掘りぬき、しかるうえでさきほどの珍事のように、いちじにおふたかたのお命をちぢめようって魂胆だったのさ。そのからくりがまずだいたいわかったところへ、案の定、唖がさるを飼ってはいる、あまつさえぷんと例の香のにおいがしたものだから、もうあとはぞうさがないさ。いかな一刀流の達人でも、おれの草香流やわらの逆腕にかかっちゃ、赤子の手をねじるのと同然だからな。まずやっこめをひっくくっておいて、きさまも久喜の宿でとくと見届けたはずだが、あの椎の実のやりとり一件をはからず思い出したから、唖に白状させる手数よりか、あの手品を先にあばいたほうが早手まわしと思って、飯籠はんごをかっさばいてみるてえと、あるわあるわ、椎の実を割ってみると中に仕込んで無数の江戸から届いた手紙があったものだから、それによってあいつらの頭目が年寄りの腰の曲がったさるまわしに化けているのをかぎだし、ちょっとばかりしばいをうって、羽生街道口のところに陣取っていたんだよ。そのとききさまの天蓋姿を見つけて、いっぺんは逃げたが、とうとうほしどおりおれのしばいが当たって、江戸から飛んできた新しいさるまわしのやつをまんまとわなにひっかけて、椎の実の中の手品から今夜上さまのお忍びで江戸からご入城のこともわかり、あいつらの計画もいっさいがっさいねたがあがっちまったから、それからの大車輪っちゃなかったよ。あとの五人をてっとり早くおびき出して、ひと網にくくしあげる。そのあとで伊豆様とお打ち合わせをする、それからお城下をとびまわって、江戸を出がけのときにお奉行様からいただいた百両で役者をふたり見つけ出し、うまうまとおんふたかたに化けさせて、ようやっと豊家ほうけの残党をあのとおり根だやしにしおわせたというわけさ。思えば、でけえ大しばいさな」

しかし、右門が語り終わったとき、しきりと伝六がまだ何かふにおちないように首をひねっていましたが、ふいっと尋ねました。

「でも、不思議じゃごわせんか。七人組のほかにもうひとり、伊豆様のおん密事をかぎ知ったやつがあると、たしかにさっきだんながおっしゃいましたが、そいつあいったいどこのだれですい」

いわれて、ぎくりとなったように、右門は珍しくうろたえながら、ややその顔を赤らめていましたが、やがてぽつりと念を押しました。

「きさま、一生一度の内密に必ず他言しないことを先に誓うか」

「ちえッ、うたぐり深いだんなだな。あっしだって、おしゃべり屋ばかりが一枚看板じゃござんせんよ。意気と意気が合ったとなりゃ、これでなかなかがっちりとした野郎なんだから、ええ、ようがす、いかにも八幡はちまんやわたにかけて、誓言しようじゃごわせんか」

「さようか。では、こっそりとその者を見せてやろう」

いいながら、ちょうどそのとき帰りついた宿の中へ、静かにはいっていったようでしたが、そこのほの暗い朱あんどんのそばで、いじらしくも可憐かれんにうつ伏しながら、よよとばかり泣きくずれていたあの小女のお弓の姿をみとめると、右門は黙ってそのほうを目顔でさし示しました。

「えっ⁉ あの、このお弓さんが、そのちっこく美しいお弓さんが、将軍のお社参までもかぎつけて、そもそもこんなだいそれた陰謀をたくらました張本人なんでがすかい⁉」

「さようじゃ。お腰元としてお城中へ上がりこみ、怜悧れいりにもご城内の様子までかぎ出したのだろうわい。おれときさまの江戸から下ることまでをもかぎ出してな。それから伊豆様にわざと願って、おれたちの小間使いになられたものとみえるよ」

「ちくしょう? じゃ、豊臣とよとみがたの犬も同然じゃごわせんか。おっかねえべっぴんに、またおまんまのお給仕までもしてもらったもんだね。ようがす、あっしがだんなの代わりに、料ってやりましょう」

飛びかかろうとした伝六のきき腕をむんずと捕えて、どうしたことか、右門が突然ぽろりと栃とちのような涙を落としながら、やや悲しげにいいました。

「まてッ。わしがきさまに内聞にしろといったのは、この手の傷だ。美しい人の美しい心ざし、よくみてやりな」

そして、なおよよとばかりに泣き伏していたお弓のむっちりと美しい右手を取りあげながら、そおっと伝六の目の先につきつけたものでしたから、伝六はいぶかって、まじまじと見ながめていましたが、やがて吐き出すようにいいました。

「こんなもの、なにもありがてえ傷あとでもなんでもねえんじゃごわせんか。ねこかさるにでもひっかかれたつめのあとじゃごわせんか」

その伝六の不平そうなことばを聞いて、右門はしばし瞑黙めいもくしながら考えていましたが、わからなければしかたがない、知らせてやろう、といったように、そっと一枚のちいさな紙きれをふところから取り出して、伝六の鼻先へ黙々とさし出しました。見ると、紙片には次のようなうるわしい女文字の水茎のあとが、はっきりと書かれてありました。

「――おあにいさま、おあにいさま。お美しいおかたをはじめてかいま見て、女が恋を――一生一度の恋をいたしまするのは、おわるいことでございましょうか! おあにいさまはおりがあったら江戸からお下りのおかたのお命を奪えとのおいいつけでございましたけれど、そのかたが、そのかたがお美しすぎるためにわたくしの心がみだれましたら、人としてまちがった道でござりましょうか! いいえ、人の道としてではござりませぬ。女として、そのおかたさまにはじめての恋をおぼえましたために、お命をいただくことができませなんだら、わるいことでござりましょうか! おわるいことでござりましょうか!」

繰り返し繰り返し読み直していたようでしたが、ようやくいっさいがわかりましたものか、伝六が打って変わって、うめくようにいいました。

「いや、とっくりとわかりました。あっしももらい泣きをいたしやした。じゃ、このお弓さんが唖とかいった先ほどのあのお寺の若衆のお妹御でござんしたんですね。この手紙を書いて、その唖のおあにいさんとご筆談をしたときにおしかりなさられて、さるめにひっかかれたんですね。そいつをだんなが、あそこであの唖の下手人をくくし上げたときに、お手にでも入れたんですね」

右門は黙ってうなずいていましたが、伝六のそのことばを聞いてたえ入るもののようにひときわ泣きむせびだしたお弓のいじらしい姿をみると、決心したかのごとく、はっきりと最後のことばをいいました。

「のう、お弓どの、よくご納得なさるがよろしゅうござりますぞ。そなたがわたくしへの美しいお心根は、右門一生の思い出としてうれしくちょうだいいたしまするが、不幸なことに、そなたは豊臣恩顧のお血筋、わたくしは徳川の禄ろくをはむ武士でござる。武道のおきてとして、そなたのお心根を受納することはなりかねまするによって、悲しい因縁とおあきらめなさりませえよ。のう、ようござりまするか。そのかわりに、そなたのことは右門一生の秘事として、堅く口外はいたしませぬによって、ご不幸なお兄上はじめお七人のかたがたの菩提ぼだいなとお弔いなさるがよろしゅうござりまするぞ。のう、わかりましたか。おわかりになりましたか」

はい――というように、ちいさくかぶりをふって、嗚咽おえつしながら身をよじらしているお弓のいじらしい姿を、じっとしばらく見守っていましたが、やがて右門はこらえかねたように、ぽろぽろと涙をぬぐいすてると、黙々として天蓋てんがいを面におおい、忍び去るようにして城下の町のやみに消え去りました。珍しや、こよいばかりはむっつりとうち沈んでうなだれた伝六をそのうしろに従えて、そしてふりかえりふりかえり、泣きくずれたままでいるお弓のほうを見返しながら、右門はあとにみれんの残るかのように、黙々と暗い城下の道のやみの中を江戸へ向けて立ち去りました。

底本 / Source edition

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:ごまごま
1999年9月25日公開
2005年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000558_000111/

佐々木 味津三「右門捕物帖──03 血染めの手形」(新字新仮名)、底本『右門捕物帖(一)』春陽文庫、春陽堂書店、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000558_000111, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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