Soranoha

半七捕物帳

はんしちとりものちょう

岡本 綺堂

一

大森の鶏の話が終っても、半七老人の話はやまない。今夜は特に調子が付いたとみえて、つづいて又話し出した。

「唯今お話をした大森の鶏、鈴ヶ森の人殺し……。それと同じ舞台で、また違った事件があるんですよ。まあ、ついでにお聴きください。御承知の通り、江戸時代の鈴ヶ森は仕置場で、磔刑はりつけや獄門の名所です。それですから江戸の悪党なんかは『おれの死ぬときは畳の上じゃあ死なねえ。三尺高い木の空そらで、安房上総あわかずさをひと目に見晴らしながら死ぬんだ』なんて大きなことを云ったもんです。鈴ヶ森で仕置になった人間もたくさんありますが、その中でも有名なのは、丸橋忠弥、八百屋お七、平井権八なぞでしょう。みんな芝居でおなじみの顔触れです。

その当時の東海道は品川から浜川、鮫洲さめずで、鮫洲から八幡さまのあたりまでは、農家や漁師町が続いていますが、それから大森までは人家が途切れて、一方は海、いわゆる安房上総をひと目に見晴らすことになる訳で、仕置場までの間を鈴ヶ森の縄手と呼んでいました。その縄手を越えて、仕置場の前を通りぬけて、大森の入口へ差しかかるのですから、昼は格別、夜はどうも心持のよくない所です。芝居で見ると、幡随院長兵衛と権八の出合いになって『江戸で噂の花川戸』なんて云うから、観客けんぶつも嬉しがって喝采するんですが、ほんとうの鈴ヶ森は決して嬉しい所じゃありませんでした。

なにしろ場所が場所ですから、日が暮れると縄手に追剥ぎが出るとか、仕置場の前を通ったら獄門の首が笑ったとか、とかくによくない噂が立つ。しかしこれが東海道の本道なんですから、忌いやでも応でもここを通らなければならない。この頃は汽車で通ってしまうので、今はどうなっているか知りませんが、その縄手の中ほどに一本の古い松がありまして、誰が云い出したものか、これを八百屋お七の睨にらみの松と云い伝えていました。お七が鈴ヶ森で火あぶりの仕置を受けるときに、引き廻しの馬に乗せられてここを通りかかって、その松を睨んだとか云うんです。なぜ睨んだのか判りませんが、まあ、そういうことになっているので、俗に睨みの松と呼ばれていました。

くどくも申す通り、場所が場所である上に、そういう因縁付きの松が突っ立っているんですから、その松の近所がとかくに物騒で、追剥ぎや人殺しや首縊くくりの舞台に使われ易いんです。

わたくしの話はいつも前口上が長いので恐れ入りますが、これだけの事をお話し申して置かないと、今どきのお方には呑み込みにくいだろうと思いますので……。いや、もうこのくらいにして、本文ほんもんに取りかかりましょう」

安政六年の春から夏にかけて、鈴ヶ森の縄手に悪い狐が出るという噂が立った。品川に碇泊している異国の黒船から狐を放したのだなどと、まことしやかに伝える者もあった。いずれにしても、その狐はいろいろの悪戯いたずらをして、往来の人々をたぶらかすというのである。さなきだに物騒の場所に、悪い噂が又ひとつ殖えて、気の弱い通行人をおびやかした。

四月二十八日の夜の五ツ(午後八時)を過ぎる頃に、巳之助みのすけという今年二十二の若い男がこの物騒な場所を通りかかった。芝の田町たまちに小伊勢という小料理屋がある。巳之助はそこの総領息子で、大森の親類をたずねた帰り道であった。この頃はいろいろの忌いやな噂があるから、今夜は泊まってゆけと勧められたのであるが、巳之助は若い元気と一杯機嫌とで、振り切って出て来た。

月は無いが、星の明るい夜であった。巳之助は提灯をふり照らしながら、今やこの縄手まで来かかると、睨みの松のあたりに人影がぼんやりと見えた。はっと思って提灯をさしつけると、それは白い手拭に顔をつつんだ女であった。今頃こんな処にうろついている女――さては例の狐かと、彼は更に進み寄って正体を見届けようとする途端に、女はするすると寄って来た。

「あら、巳之さんじゃないの」

「え、誰だ、誰だ」

「やつぱり巳之さんだ。あたしよ」

提灯のひかりに照らされながら、手拭を取った女の白い顔をみて、巳之助はおどろいた。

「おや、お糸か。どうしてこんな処にぼんやりしているのだ」

「まあ、御迷惑でも一緒に連れて行って下さいよ。あるきながら話しますから……」

女は巳之助が買いなじみの女郎で、品川の若狭わかさ屋のお糸というのであった。勤めの女が店をぬけ出して、今頃こんな処にさまよっているには、何かの仔細がなければならない。巳之助は一緒にあるきながら訊きいた。

「駈け落ちかえ。相手は誰だ」

「本当にあたしは馬鹿なのよ。あんな人にだまされて……」と、お糸はくやしそうに云った。「巳之さん、済みません。堪忍してください」

巳之助とお糸はまんざらの仲でもなかった。その巳之助を出し抜いて、ほかの男と駈け落ちをする。女が何とあやまっても、男の方では腹が立った。

「何もあやまるにゃあ及ばねえ。そんな約束の男があるなら、おれのような者と道連れは迷惑だろう。おめえはここで其の人を待っているがよかろう。おれは先へ行くよ」

女を振り捨てて、巳之助はすたすたと行きかかると、お糸は追って来て男の袖をとらえた。

「だから、あやまっているじゃあないか。巳之さん、まあ訳を訊いておくれというのに……」

「知らねえ、知らねえ。そんな狐にいつまで化かされているものか」

自分の口から狐と云い出して、巳之助はふと気がついた。この女はほんとうの狐であるかも知れない。悪い狐がお糸に化けておれをだますのかも知れない。これは油断がならない、と彼は俄かに警戒するようになった。

「ねえ、巳之さん。わたしはどんなにでも謝あやまるから、まあひと通りの話を聴いて下さいよ。ねえ、もし、巳之さん……」

口説きながら摺り寄って来た女の顔、それが気のせいか、眼も鼻も無い真っ白なのっぺらぼうの顔にみえたので、巳之助はぎょっとした。彼は夢中で提灯を投げ出して、両手で女の咽喉のどを絞めようとした。

「おまえさん、何をするの。あれ、人殺し……」

突き退けようとする女を押さえ付けて、巳之助は力まかせにその咽喉を絞めると、女はそのままぐったりと倒れた。

「こいつ、見そこなやあがって、ざまあ見ろ。憚りながら江戸っ子だ。狐や狸に馬鹿にされるような兄にいさんじゃあねえ」

投げ出すはずみに蝋燭は消えたので、提灯は無事であった。潮あかりに拾いあげたが、再び火をつける術すべもないので、巳之助はそのまま手に持って歩き出そうとする時、彼はどうしたのか忽ちすくんで声をも立てずに倒れてしまった。

さびしいと云っても東海道であるから、狐のうわさを知らない旅びとは日暮れてここを通る者もあったが、あいにくに今夜は往来が絶えていた。巳之助が正気にかえったのは、それから二刻ふたときほどの後で、彼は何者にか真向まっこうを撃たれて昏倒したのである。ようよう這い起きて、闇のなかを探りまわると、提灯はそこに落ちていた。ふところをあらためると、紙入れも無事であった。

「お糸はどうしたか」

星あかりと潮あかりで其処らを透かして視ると、女の形はもう残っていないらしかった。自分をなぐった奴が女を運んで行ったのか、それとも消えてなくなったのか、巳之助にもその判断が付かなかった。第一、自分を殴り倒した奴は何者であろう。物取りならば懐中物を奪って立ち去りそうなものであるが、身に着けた物はすべて無事である。お糸はやはり狐の変化へんげで、その同類が自分に復讐を試みたのかと思うと、巳之助は急に怯気おじけが出て、惣身そうみが鳥肌になった。口では強そうなことを云っていても、彼は決して肚はらからの勇者でない。こうなると怖い方が先に立って、彼は怱々そうそうにそこを逃げ出した。

鈴ヶ森の縄手を通りぬけて、鮫洲から浜川のあたりまで来ると、巳之助は再び眼が眩くらんで歩かれなくなった。そこには丸子という同商売の店があるので、夜ふけの戸を叩いて転げ込んで、その晩は泊めて貰うことにした。ゆうべは余ほど強く撃たれたと見えて、夜が明けても頭が痛んだ。おまけに熱が出て起きられなかった。

丸子の店でも心配して医者を呼んだ。芝の家へも知らせてやった。巳之助は熱に浮かされて、囈語うわごとのように叫んだ。

「狐が来た……。狐が来た」

事情をよく知らない周囲の人々は薄気味悪くなった。これは夜ふけに鈴ヶ森を通って、このごろ評判の狐に取りつかれたに相違ないと思った。同商売の店に迷惑を掛けてはならないというので、小伊勢の店からは迎えの駕籠をよこして、病人の巳之助を引き取って行ったが、実家へ帰っても彼は「狐」を口走っていた。この場合、まず品川へ行ってお糸という女が無事に勤めているかどうかを確かめるべきであるが、それに就いて巳之助はなんにも云わないので、小伊勢の店の人々もそんなことには気がつかなかった。

それでも五、六日の後に、巳之助は次第に熱が下がって粥などをすするようになった。彼はここに初めて当夜の事情を打ち明けたので、両親は取りあえず品川の若狭屋に問い合わせると、巳之助が馴染のお糸という女は何事もなく勤めていて、駈け落ちなどは跡方もない事であると判った。

「では、やっぱり狐か」

これで鈴ヶ森の怪談がまた一つ殖えたのであった。

二

巳之助の一件から十日ほどの後である。京の織物商人あきんどの逢坂屋伝兵衛が手代と下男の三人づれで、鈴ヶ森を通りかかった。本来ならば川崎あたりで泊まって、あしたの朝のうちに江戸入りというのであるが、江戸を前に見て宿を取るには及ぶまい。急いで行けば四ツ(午後十時)過ぎには江戸へはいられると、一行三人は夜道をいとわずに進んで来た。彼らは例の狐の噂などを知らないのと、男三人という強味があるのとで、平気でこの縄手へさしかかると、今夜は陰って暗い宵で、波の音が常よりも物凄くきこえた。

伝兵衛は四十一歳で、これまで二度も京と江戸とのあいだを往復しているので、道中の勝手を知っていた。鈴ヶ森がさびしい所であることも承知していた。ここらに仕置場があるなどと話しながら歩いて来ると、暗いなかに一本の大きい松が見えた。それが彼かの睨みの松であることは伝兵衛もさすがに知らなかったが、そこに大きい松があるのを見て、何ごころなく提灯をさし付けた途端に、三人はぎょっとした。そこに奇怪な物のすがたを発見したのである。

「わあ、天狗……」

それでも三人はあとへ引っ返さずに前にむかって逃げた。彼らは顔の赤い、鼻の高い大天狗を見たのである。天狗は往来を睨みながら、口には火焔を吐いていた。彼らは京に育って、子供のときから鞍馬や愛宕あたごの天狗の話を聞かされているので、それに対する恐怖はまた一層であった。気も魂も身に添わずというのは全くこの事で、三人は文字通りに転こけつ転まろびつ、息のつづく限り駈け通すうちに、伝兵衛は石につまずいて倒れて、脾腹ひばらを強く打って気絶した。手代と下男はいよいよ驚いて、正体のない主人を肩にかけて、どうにかこうにか鮫洲の町まで逃げ延びた。

こうなっては江戸入りどころで無い。そこの旅籠屋はたごやへ主人をかつぎ込んで介抱すると、伝兵衛は幸いに蘇生した。その話を聞いて、宿の者どもは云った。

「あの辺に天狗などの出る筈がない。例の狐が天狗に化けて、おまえさん達を嚇かしたのだ」

こちらは大の男三人であるから、狐と知ったら叩きのめして、その正体をあらわしてやったものをと、今さら力りきんでも後あとの祭りで、又もや怪談の種を殖やすに過ぎなかった。女に化け、天狗に化け、この上は何に化けるであろうと、気の弱い者をいよいよおびえさせた。

鈴ヶ森の狐の噂はそれからそれへと伝えられて、江戸市中にも広まった。五月のなかばに、半七が八丁堀同心熊谷八十八くまがいやそはちの屋敷へ顔を出すと、熊谷は笑いながら云った。

「おい、半七、聞いたか。鈴ヶ森に狐が出るとよ」

「そんな噂です」

「一度行って化かされて来ねえか。品川の白い狐に化かされたと云うなら、話は判っているが、鈴ヶ森の狐はちっと判らねえな」

「あの辺には畑もあり、森や岡もたくさんありますから、狐や狸が棲んでいるに不思議はありませんが、そんな悪さをするということは今まで聞かないようです」と、半七は首をかしげた。「ともかくも化かされに行ってみますか」

「いずれ郡代ぐんだいの方からなんとか云って来るだろうから、今のうちに手廻しをして置く方がいいな。噂を聞くと、狐はいろいろの物に化けるらしい。今に忠信ただのぶや葛くずの葉はにも化けるだろう。どうも人騒がせでいけねえ。それも辺鄙へんぴな田舎なら、狐が化けようが狸が腹鼓はらつづみを打とうがいっさいお構いなしだが、東海道の入口でそんな噂が立つのはおだやかでねえ。早く狐狩りをしてしまった方がよかろう」

「かしこまりました」

熊谷は勿論この怪談を信じないで、何者かのいたずらと認めているらしかった。半七の見込みもほぼ同様であったが、普通のいたずらにしては少しく念入りのようにも思われた。

三河町の家へ帰って、半七は直ぐ子分の松吉を呼んだ。

「おい、松。おめえと庄太に手伝って貰って、大森の鶏や鈴ヶ森の人殺し一件を片付けたのは、もう七、八年前のことだな」

「そうですね。たぶん嘉永の頃でしょう」と、松吉は答えた。

半七は自分の控え帳を繰ってみた。

「成程、おめえは覚えがいい。嘉永四年の春のことだ。その鈴ヶ森で、また少し働いて貰いてえことが出来たのだが……」

「狐じゃあありませんか」と、松吉が笑った。「わっしも何だか変だと思っていたのですがね」

「その狐よ。熊谷の旦那から声がかかった以上は、笑ってもいられねえ。なんとか正体を見届けなけりゃあなるめえが、おめえ達に心あたりはねえか」

「今のところ、心あたりもありませんが、早速やって見ましょう」

松吉は受け合って帰ったが、その翌日の夕がたに顔を出して、自分が鈴ヶ森方面で聞き出して来た材料をそれからそれへと列ならべて報告した。

「この一件の始まりは、なんでも三月の始めだそうです。漁師町の若い者が酒に酔って鈴ヶ森を通ると、暗いなかで変な女に逢った。こっちは酔ったまぎれに何か戯からかったらしい。そうすると、赤い火の玉がばらばら飛んで来て、若い者の顔や手足に降りかかったので、きゃっと驚いて逃げ出した。その噂が序開きで、それからいろいろの怪談が流行り出したのです」

田町の料理屋小伊勢のせがれ巳之助が何者にか殴り倒されたこと、京の逢坂屋伝兵衛一行が天狗に嚇された事、まだそのほかに浜川の漁師が魚さかなを取られた事、大森の茶屋の女が髪の毛を切られた事、誰が化かされて田のなかへ引っ込まれた事、誰が幽霊に出逢って気絶したこと、誰が顔を引っ掻かれた事、およそ十箇条をかぞえ立てた後に、彼はひと息ついた。

「一々洗い立てをしたら、まだ何かあるでしょうが、どれも大抵は同じような事ばかりで、そのなかには嘘で固めた作り話もありそうですから、まあいい加減に切り上げて来ました。まず一番骨っぽいのは、小伊勢のせがれの件で、なにしろそのお糸という女は駈け落ちなんぞをしないで、平気で若狭屋に勤めているのが面白いじゃあありませんか」

「むむ」と、半七は考えていた。「そりゃあ人違いだな」

「だって、巳之助と口を利きいたのですよ。口をきいて一緒にあるいて……」

「いや、それでも人違いだ。女は若狭屋のお糸じゃあねえ」

「そうでしょうか」と、松吉は不得心らしい顔をしていた。

「といって、まさかに狐でもあるめえ。それにしても、巳之助をなぐった奴は何者だろうな」と、半七は又かんがえた。「それから京の奴らをおどかしたのは、天狗だと云ったな。まさかに仮面めんをかぶっていたのじゃああるめえ」

「いくら臆病でも、大の男が三人揃って、みんな提灯を持っていたというんですから、仮面をかぶっていたらさすがに気がつく筈ですが……」

「理窟はそうだが、世の中には理窟に合わねえことが幾らもあるからな。まあ、おれも一度踏み出してみよう。あしたの朝、一緒に行ってくれ」

あくる朝はいわゆる皐月さつき晴れで、江戸の空は蒼々と晴れ渡っていた。朝の六ツ半(午前七時)頃に松吉が誘いに来たので、半七は連れ立って出た。

「出がけに小伊勢に寄りますか」と、松吉は訊きいた。

「狐に化かされた野郎の詮議はまあ後廻しだ。真っ直ぐに浜川まで行こう」

品川を通り過ぎて浜川へかかると、丸子という小料理屋がある。ここは先夜、小伊勢の巳之助が転げ込んだ家である。半七はここへ寄って、当夜の模様などを詳しく訊いた。これから鈴ヶ森をひと廻りして来ると云い置いて、二人は又そこを出ると、五月なかばの真昼の日は暑かった。

「東海道は砂が立たなくっていいが、風が吹かねえと随分暑いな」と、半七は眩まぶしそうに空をみあげた。

海辺うみべづたいに鈴ヶ森の縄手へ行き着いて、二人はかの睨みの松あたりに、ひと先ず立ちどまった。きょうは海の上もおだやかに光って、水鳥の白い群れが低く飛んでいた。

「ここらだな」

半七はひたいの汗をふきながら其処らを見まわした。松吉も見まわした。二人は又しゃがんで煙草をすいはじめた。やがて半七が煙管きせるをぽんと掃はたくと、吸い殻の火玉は転げて松のうしろに落ちたので、その火玉を追って二度目の煙草をすい付けようとする時、草のあいだに何物をか見付けた。すぐに拾いあげて透かして視て、半七は忽ち笑い出した。

「今まで誰か気が付きそうなものだが、ここらの人間もうっかりしているぜ。それだから狐に化かされるのだ。おい、松。これを見ろよ」

「なんですね、煙草のような物だが……」と、松吉は覗き込んだ。

「ような物じゃあねえ。煙草だよ。これは異人のすう巻煙草というものの吸い殻だ。おれも天狗の話を聴いた時に、ふっと胸に浮かんだのだが……。おい、松。もう一度あすこを見ろよ」

きせるの先で指さす品川の沖には、先月からイギリスとアメリカの黒船くろふねが一艘ずつ碇泊しているのが、大きい鯨のように見えた。巻煙草のぬしがその船の乗組員であることを、松吉はすぐに覚った。

「成程、こりゃあ親分の云う通りだ。そうすると、異人の奴らがあがって来て、悪戯いたずらをするのかね」

「そうかも知れねえ」

「だれが云い出したのか知らねえが、品川の黒船から狐を放したのだという噂も、こうなると嘘でもねえ」と、松吉は海をながめながら云った。「異人め、悪いたずらをしやがる。だが、まったく異人の仕業だと、むやみに手を着けるわけにも行かねえので、ちっと面倒ですね」

「いくら異人でも、そんな悪戯を根よくやっている筈がねえ。これには何か訳があるだろう」

巻煙草の吸い殻を手のひらに乗せて、半七は又しばらく考えていた。

三

半七と松吉は鈴ヶ森を一旦引き揚げて、浜川の丸子へ戻って来ると、店では待ち受けていてすぐに二階座敷へ通された。前から頼んであったので、酒肴の膳も運び出された。

「なあ、松。ここの家うちできいても判るめえが、小伊勢の巳之という伜が睨みの松の下でお糸という女に逢った時に、その女はどんな装なりをしていたのかな。まさか芝居でするお女郎の道行みちゆきのように、部屋着をきて、重ね草履をはいて、手拭を吹き流しに被かぶっていたわけでもあるめえが……」

「さあ」と、松吉は猪口ちょこを下におきながら云った。「そりゃあ本人の巳之助に訊いてみなけりゃあ判りますめえ。だが、親分。どうしても人違いでしょうか」

「論より証拠、そのお糸という女は無事に若狭屋に勤めていると云うじゃあねえか」

「そりゃあそうですが……」

云う時に、女中が二階へあがって来たので、半七は酌をさせながら訊きいた。

「品川にかかっている黒船から、マドロスがここらへあがって来ることがあるかえ」

「ええ、時々に二、三人連れでここらを見物して歩いていることがあります」

「ここらの家うちへ飲みに来るかえ」

「ここへは来ませんが、鮫洲の坂井屋へはちょいちょい遊びに来るそうです。川崎屋なんぞでは異人は断わっていますが、坂井屋では構わずに上げて飲ませるんです。異人はみんなお金を持っているそうで、どこで両替えして来るのか知りませんが、二歩金や一歩銀をざくざく掴み出してくれるという話で、馬鹿に景気がいいんです」と、女中は嫉ねたむような嘲るような口吻くちぶりで話した。

「なんでも慾の世の中だ。異人でもマドロスでも構わねえ、銭のある奴は相手にして、ふところを肥やすのが当世かも知れねえ」と、松吉は笑った。

「まあ、そうかも知れませんね」と、女中も笑っていた。

「その坂井屋さんにお糸という女はいねえかえ」と、半七は突然に訊いた。

「お糸さん……。居りましたよ」

「もういねえかえ」

「ええ、先月の末から見えなくなって……。どっかへ駈け落ちでもしたような噂ですが……」

半七と松吉は顔をみあわせた。

「坂井屋じゃあ異人を泊めるのかえ」と、半七はまた訊いた。

「泊めやあしません。坂井屋は宿屋じゃありませんから……。それに異人は船へ帰る刻限がやかましいので、その刻限になるとみんな早々に帰ってしまうそうで……。どんなに酔っていても、感心にさっさと引き揚げて行くそうです」

「そんなに金放れがよくっちゃあ、今も云う慾の世の中だ。その異人に係り合いでも出来た女があるかえ」

「さあ、それはどうですか。いくら金放れがよくっても、まさかに異人じゃあ……」と、女中はまた笑った。「誰だって相手になる者はありますまい」

「手を握らせるぐらいが関の山かな」と、松吉も笑った。「それで一歩も二歩も貰えりゃあいい商法だ」

「ほほほほほほ」

女中は銚子をかえに立った。そのうしろ姿を見送って、松吉はささやいた。

「成程、親分の眼は高けえ。人ちがいの相手は坂井屋のお糸ですね」

「まあ、そうだろう。そのお糸が黒船のマドロスと出来合って逃げたらしいな」

「それを自分の馴染の女と間違えるというのは、巳之助という奴もよっぽどそそっかしい野郎だ」

「野郎もそそっかしいが、女も女だ。まあ、待て。それには何か訳があるだろう」

女中が再びあがって来たので、半七はまた訊き始めた。

「おい、姐さん。駈け落ちをしたお糸には、なにか色男でもあったのかえ」

「それはよく知りませんが、近所の伊之さんと……」

「伊之さん……。伊之助というのか」

「そうです。建具屋の息子で……。その伊之さんと可怪おかしいような噂もありましたが、伊之さんは相変らず自分の家うちで仕事をしていますから、一緒に逃げたわけでも無いでしょう」

「お糸の宿はどこだ」

「知りません」

まったく知らないのか、知っていても云わないのか、女中はその以上のことを口外しないので、半七も先ずそれだけで詮議を打ち切った。しかもここへ来て判ったことは、若狭屋のお糸は坂井屋のお糸の間違いである。小伊勢の巳之助は建具屋の伊之助の間違いで、伊之さんを巳之さんと聞き違えたのである。勿論、両方ともにそそっかしいには相違ないが、薄暗いところで見違えたのが始まりで、両方の名が同じであるために、いよいよ念入りの間違いを生じたらしい。女の顔がのっぺらぼうに見えたなどは、巳之助の錯覚であろう。

京の商人あきんどが睨みの松で天狗にあったというのは、黒船のマドロスを見たに相違ない。口から火を噴いていたというのも、恐らく巻煙草のけむりであろう。それを思うと、半七も松吉も肚はらの中でおかしくなった。

二人はいい加減に酒を切り上げて、遅い午飯ひるめしの箸を取っていると、町家の夫婦らしい男女と、若い男ひとりの三人連れが二階へあがって来た。ここの二階は広い座敷の入れ込みで、ところどころに小さい衝立ついたてが置いてあるだけであるから、あとから来た客の顔も見え、話し声もよくきこえた。三人は女中にあつらえ物をして、煙草をのみながら話していた。

「どうも驚いてしまった。あれだから油断が出来ないね」と、女房らしい女が云った。

「まったく驚いた。世間にはああいう事があるから恐ろしい」と、亭主らしい男も云った。

「藤さんなんぞは若いから、よく気をつけなけりゃあいけない」と、女はまた云った。

それから此の三人が、だんだん話しているのを聴くと、芝の両替屋の店さきで何事か起こったらしい。半七に眼配めくばせされて、松吉は衝立越しに声をかけた。

「あの、だしぬけに失礼ですが、芝の方に何事があったのですかえ」

「ええ」と、若い男は答えた。「わたし達は別に係り合いがあるわけじゃあない、通りがかって見ただけなんですが、どうも悪い奴がありますね」

「悪い奴……。一体どうしたのです」と、松吉は訊いた。

「それがお前さん」と、男は衝立を少し片寄せて向き直った。「芝の田町たまちに三島という両替屋があります。そこへ二十歳はたちばかりの若い男が来て、小判一両を小粒と小銭に取り換えてくれと云うので、店の者が銭勘定をしていると、そこへ又ひとりの女が来て、いきなりに其の若い男をつかまえて、この野郎め、家の金を又持ち出してどうするのだ。親泣かせ兄弟泣かせもいい加減にしろ。それほど道楽がしたければ、自分の腕で稼ぐがいい。親兄弟の金を一文でも持ち出すことはならないぞ。さあ、その金をかえせと若い男を引き摺り倒して、手に持っている小判を取り上げて、さっさと立ち去ってしまいました。それを見ている両替屋の店の者も、通りがかりの人達も、これは世間によくあることで、道楽息子が家の金を持ち出したのを、おふくろか叔母さんが追っかけて来て、取り返して行ったのだろうと思って、誰もそのままに眺めていると、倒れた男はいつまでも起きないので、不思議に思って引き起こすと、男は気を失っているらしい。さあ、大騒ぎになって介抱すると、男はようよう息を吹き返したのですが、よくよく訊いてみると、自分をつかまえて文句を云った女は、まるで知らない人間で、そんなことを云って一両の小判を掻っさらって逃げたのだそうです。何か道楽息子を叱り付けるようなことを云って、そこらの人たちに油断させて、平気でまっ昼間、大通りの店さきで掻っ攫いを働くとは、女のくせに実に大胆な奴じゃあありませんか」

「成程ひどい奴ですね」と、松吉はうなずいた。「それにしても、相手は女だというのに、その若い男がどうして素直に金を渡したのでしょうね」

「それが又不思議なことには、その女が男をひき摺り倒すときに、なんでも頸筋のあたりの脈所みゃくどこを強く掴んだらしいので、男は痛くって口が利けない。おまけに脾腹ひばらへ当て身を食わされて、気が遠くなってしまったのだそうです。それがなかなかの早業はやわざで、見ている人たちも気が付かなかったと云いますから、女も唯者ではあるまいとみんなが噂をしていましたよ」

「そうですか。そんな女に出逢っちゃあ、大抵の男は敵かないませんね」

松吉はわざとらしく顔をしかめて見せた。

「その騒ぎで、両替屋の前は黒山のような人立ちで……」と、女房は入れ代って話した。「その店でも後で気が付いたのですが、十日ほど前の夕がたに外国のドルを両替えに来た女がある。それがきょうの女らしくも思われるが、前に来たときは夕方で薄暗かったので、その顔をはっきりと見覚えていないと云うのです」

半七と松吉は顔をみあわせた。二人の眼は光っていた。

四

丸子の店を出て、半七は松吉に別れた。

「じゃあ頼むよ」と、半七は小声で云った。「おめえはこれから坂井屋へ行って、お糸という女のことを調べてくれ。それから伊之助という建具屋のことも宜しく頼むぜ。おれは芝の両替屋へ行って、その女の詮議をしなけりゃあならねえ。外国のドルを持っているというのが気になるからな」

鮫洲方面探索を松吉にあずけて、半七は品川から芝の方角へ真っ直ぐに引っ返した。田町の三島という両替屋へ行って訊ききただすと、事件は聞いた通りであった。一両の金を取られた若い男は、おなじ芝ではあるが神明前の絵草紙屋の道楽息子で、自身番でいろいろと詮議の末に、実は自分の家の金を内証で持ち出したのであることを白状した。してみると、かの女の云ったのも満更の嘘ではない。こんな災難に出逢ったのも所詮しょせんは親の罰であろうと、彼は自身番でさんざんに膏あぶらをしぼられて帰った。

それを聞いて、半七はおかしくもあり、可哀そうでもあった。

「それから、ここの店へドルを両替えに来た女があったと云うが、本当かえ」

「十日ほど前の夕がたに来ました。しかし手前どもでは外国のドルの両替えは致さないからと云って断わりました」と、店の者は答えた。

「それがきょうの女とおなじ奴かえ」

「さあ、それがよく判りませんので……。前に来たときは夕方で、断わるとすぐに帰ってしまったもんですから、その顔をよく見覚えて居りません。きょうの女は三十七八で、色のあさ黒い、眼の強きつい女でした。どこか似ているようにも思うのですが、確かな証拠もございませんので、なんとも申し上げかねます」

「おなじ店へ二度とは来めえと思うが、その女がもし立ちまわったらば、すぐに自身番へ届けてくれ」

店の者に云い置いて、半七は更に愛宕下あたごしたの藪の湯をたずねた。藪の湯は女房が商売をしていて、その亭主の熊蔵は半七の子分である。そこで熊蔵の通称を湯屋熊といい、一名を法螺熊ということはかつて紹介した。その湯屋熊をたずねると、彼はあたかも居合わせて表二階へ案内した。

「丁度だれも来ていねえようです」

二階番の女を下へ追いやって、二人は差しむかいになった。

「そこで、親分。なにか御用ですか」

「お此このはこのごろどうしている」

「お此……。入墨者ですか」

「そうだ。片門前かたもんぜんに巣を食っていた奴だ」

「女のくせに草鞋わらじをはきゃあがって、甲府から郡内の方をうろ付いて、それから相州の厚木の方へ流れ込んで、去年の秋頃から江戸辺へ舞い戻っていますよ」

「馬鹿にくわしいな。例の法螺熊じゃあねえか」

「いや、大丈夫ですよ。わっしだって商売だから、入墨者の出入りぐれえは心得ています。あいつ、又なにかやりましたか」

「どうもお此らしい。実はきょう午前ひるまえに、田町の両替屋で悪さをしやあがった」

三島屋の一件を聞かされて、熊蔵は眼を丸くした。

「ちげえねえ。あいつだ、あいつだ。お此という奴は、前にも一度その手を用いた事があります。あいつは此の頃、鮫洲の茶屋に出這入りしているとかいう噂だったが、田町の方へ乗り込んで来やあがったかな。おれの縄張り近所へ羽はねを伸のして来やあがると、只は置かねえぞ。ねえ、親分。松の野郎を出し抜くわけじゃあねえが、この一件はどうぞわっしに任せておくんなせえ。わっしがきっと埒をあけて見せます」

「お此は鮫洲の茶屋にいるのか」と、半七は少し考えていた。「その茶屋は坂井屋というのじゃあねえか」

「そこまでは突き留めていませんが……。なに、そりゃあすぐに判りますよ」

「出し抜くも出し抜かねえもねえ。松はもう鮫洲へ出張っているのだ」

「そりゃあいけねえ。下手に荒らされると、こっちの仕事が仕難しにくくなる。じゃあ御免なせえ。わっしもすぐに出かけます」

気の早い熊蔵は早々に身支度をして飛び出した。女房に茶を出されて、世間話を二つ三つして、半七もつづいて出た。もうこの上は松吉と熊蔵の報告を待つほかは無いので、彼はそれから八丁堀へまわって、熊谷八十八の屋敷へ再び顔を出すと、熊谷はもう奉行所から帰っていた。

「やあ、御苦労。何かちっとは星が付いたか」と、熊谷は待ちかねたように訊いた。

「まだ御返事をする段には行きませんが、ちっとばかり手がかりは出来たようです」

きょうの探索の結果を聞かされて、熊谷は一々うなずいていたが、かの三島屋の話を聞くと、彼はいよいよ熱心に耳を傾けていた。

「じゃあ、三島屋へも外国のドルを両替えに行った奴があるのか。実は半七、奉行所の方へもこういう訴えが出たのだ」

おとといから昨日きのうへかけて、日本橋で二軒、京橋で一軒の大きい両替屋へ外国のドルを両替えに来た者がある。全体の金高は十二三両であるが、あとで調べてみると其の三分の二は贋金にせがねである。最初の見せ金には本物を見せて油断させ、それから贋金をまぜて出すのである。つまりは本物と贋物とをまぜて使うのであるが、しょせんは一種の贋金使いであることは云うまでもない。贋金づかいは磔刑はりつけの重罪であるから、その詮議は厳重である。その両替えに行った者はいずれも三十七八の女であると云えば、三島屋へ云ったのも同じ者であるに相違ない。こうなると、狐の探索などは二の次で、贋金づかいの探索が大事であると、熊谷は云った。

「その女は黒船の異人に頼まれて両替えに来たのだと云ったそうだ」と、熊谷は付け加えた。「異人の奴が贋金づかいで、女は知らずに持って来たのか。それとも女が贋金づかいか。おれにもはっきりとした判断は付かなかったが、三島屋でそんな掻っ攫いをやるようじゃあ、女はなかなかの曲物で、何もかも承知の上でやった仕事に相違ねえ。お此という入墨者はどんな奴だか忘れてしまったが、そいつに心あたりがあるなら早く挙げてしまえ」

「承知しました」

半七は請け合って帰った。事件はいよいよ複雑になって来たのである。しかもそれらの事件はすべて同一の系統であるらしいと、半七は鑑定した。次から次へと湧いて来る事件も、そのみなもとを探り当てれば自然にすらすらと解決するように思われたので、彼は専ら熊蔵と松吉の報告を待っていた。

あくる日の早朝に、熊蔵が先ず来た。松吉もつづいて来た。二人の報告を綜合すると、入墨者のお此は江戸へ舞い戻って、浜川の塩煎餅屋の二階に住んでいる。彼女は小間物類の箱をさげて、品川の女郎屋へ出商であきないに廻っている。浜川や鮫洲の茶屋へも廻って、そこらの女中たちにも商いをしている。店の忙がしいときには、女中の手伝いに頼まれて行くこともある。そんなことで女ひとりの暮らしには不自由も無いらしく、身なりも小綺麗にしていると云うのであった。

「お此は商売の小間物を日本橋の問屋へ仕入れに行くと云って、ときどき江戸辺へ出かけるそうです」と、熊蔵は云った。

「現にきのうも朝から出て行ったと云いますから、三島屋の一件は彼女あれに相違ありませんよ」

「それから坂井屋のお糸の一件ですがねえ」と、松吉が入れ代って話し出した。「お糸は先月の二十八日の宵から何処どっかへ影を隠してしまったそうです。建具屋のせがれの伊之助を詮議すると、職人のくせに意気地のねえ野郎で、無闇におどおどしていて埒が明かねえのを、さんざん嚇し付けて白状させましたが、やっぱりお糸にかかり合いがあったのです。そこで、当人はいい色男ぶっていると、お糸は伊之助にだんまりで姿をかくしたので、色男も器量を下げてぼんやりしている……。いや、大笑いです。お糸の相手は誰か判らねえが、黒船のマドロスにだまされて、船へでも引っ張り込まれたのじゃあねえかという噂です。小伊勢の巳之助が狐と間違えてお糸の咽喉を絞めたときに、暗やみから出て来て巳之助をなぐり付けた奴は、そのマドロスかも知れませんよ。こうなると、わっしの方はもう種切れで、この上にどうにも仕様が無いようですが……。親分、どうしますかね」

「お此は鮫洲の茶屋へも手伝いに行くそうだが、坂井屋へも出這入りをするのだろうな」と、半七は熊蔵に訊きいた。

「出這入りをする処か、坂井屋へは黒船の異人が大勢あつまって来て金かねビラを切るので、お此は商売をそっちのけにして、この頃は毎日のように這入り込んでいるそうです」と、熊蔵は答えた。

「そうすると、お糸とも懇意だろう」と、半七は云った。「お糸の駈け落ちにもお此が係り合っているのじゃあねえか」

「そうかも知れません。ともかくもお此を挙げてしまいましょうか」

「熊谷の旦那からもお指図があったのだ。女ひとりに大勢が出張るほどの事もあるめえが、もし仕損じて高飛びでもされると、旦那のお目玉だ。おれも一緒に行くとしよう」

きょうも幸いに晴れていた。三人は揃って神田の家を出た。

五

三人が品川の宿しゅくへはいると、往来で三十前後の男に逢った。それが女郎屋の妓夫ぎゆうであることは一見して知られた。彼は熊蔵に挨拶した。

「きょうもお出かけですか」

「むむ。親分も一緒だ」と、熊蔵は云った。

親分と聞いて、彼は俄かに形をあらためて半七に会釈えしゃくした。熊蔵の紹介によると、彼はここの不二屋に勤めている権七というもので、お此が浜川に住んでいることは彼の口から洩らされたのである。半七も会釈した。

「おめえはいいことを教えてくれたそうだ。まあ、何分たのむぜ」

「いっこうお役に立ちませんで……」と、権七は再び頭を下げた。「お此はさっきここを通りましたよ。江戸辺へ行ったのでしょう」

「そうか」

半七は少し失望した。お此はきょうも江戸辺へ仕事に行ったのかも知れない。さりとて、今更むなしく引っ返すわけにも行かないので、権七に別れて三人は浜川へむかった。

「お此が留守じゃあ困りましたね」と、熊蔵はあるきながら云った。

「まあ、いい。おれに考えがある」と、半七は答えた。「建具屋の伊之助というのは何処だ。案内してくれ」

「ようがす」

松吉は先に立ってゆくと、かの丸子の店から遠くないところに小さい建具屋が見いだされた。松吉の説明によると、親父の和助は中気のような工合ぐあいでぶらぶらしているので、店の仕事は伜の伊之助と小僧ひとりが引き受けているというのである。勿論、貸家普請ぶしんの建具ぐらいの仕事が精々と思われるような店付きであった。表から覗くと、伊之助は小僧を相手に、安物の格子戸を削っていた。松吉は声をかけた。

「おい、伊之。親分がおめえに用がある。三河町の半七親分だ。すぐ出て来てくれ」

「はい、はい」と、伊之助は鉋屑かんなくずをかき分けながら出て来た。彼はきのうも松吉に嚇されているので、きょうはその親分が直々じきじきの出張にいよいよおびえているらしかった。

「ここじゃあ話が出来ねえ。ちょいと其処らまで足を運んでくれ」

松吉と熊蔵を店に待たせて置いて、半七は伊之助ひとりを連れて出た。五、六軒行くと細い横町がある。その横町を右に切れるとすぐに畑地で、路ばたに石の庚申像こうしんぞうが立っている。それを掩うような楓かえでの大樹が恰好の日かげを作っているので、半七はそこに立ちどまった。

「早速だが、おめえはまったく坂井屋のお糸のゆくえを知らねえのか」

「知りません」と、伊之助はうつむきながら答えた。

「お糸は坂井屋へ遊びに来る異人に馴染でもあった様子か」

「坂井屋へは異人が大勢来ますが、お糸に馴染があるかどうだか、それは存じません」

「おめえは異人に自分の女を取られたのじゃあねえか」

伊之助は黙っていた。

「おめえは坂井屋へ手伝いに来るお此という女を知っているだろうな」

「知っています」

伊之助の声が少しふるえているのを、半七は聞き逃がさなかった。

「あの女も異人を知っているのだろうな」

「さあ、それはどうですか」

「お此はお糸と心安くしていたか」

「どうですか」

「お糸はお此が誘い出したのじゃあねえか」

「そんな事はあるまいと思いますが……」

「おい、伊之。顔を見せろ」

「え」

「まあ、明るいところで正面を向いて見せろよ。おれが人相を見てやるから……」

伊之助はやはりうつむいたままで、すぐには顔をあげなかった。半七はその頤あごに手をかけて、無理にあおむかせた。

「これ、隠すな。おめえはお此と訳があるだろう。お此は年上の女で入墨者だ。あんな者に可愛がられていると、碌なことはねえぞ。お糸はお此に誘い出されて、売り飛ばされたか、殺されたか。はっきり云え」

伊之助は身をすくめたままで、唖おしのように黙っていた。

「さあ、云え。正直に云えばお慈悲を願ってやる。お此は贋金づかいで召し捕られて、もう何もかも白状しているのだ。それを知らずに隠し立てをしていると、おめえも飛んだ係り合いになるぞ。贋金づかいの同類と見なされて、この鈴ヶ森で磔刑はりつけになりてえのか。女にばかり義理を立てて、病人の親に泣きを見せるな。この親不孝野郎め」

伊之助は真っ蒼になって、その眼から白い涙が糸を引いて流れ出した。

「さあ、どうだ」と、半七は畳みかけて云った。「お此の白状ばかりじゃあねえ。四相しそうを覚さとるこの重忠しげただが貴様の人相を見抜いてしまったのだ。これ、よく聞け。貴様は前から坂井屋のお糸と出来ていた。そこへ横合いからお此という女が出て来て、貴様は又そいつに生け捕られてしまった。お此は年上で、おまけに質たちのよくねえ奴だから、邪魔者のお糸を遠ざけようとして悪法をたくらんだ。さあ、それに相違あるめえ」

腕をつかんで一つ小突かれて、伊之助は危く倒れそうになった。半七は暫く黙ってその顔を睨んでいた。

この時、横町の入口から一人の女が駈け込んで来た。そのあとから熊蔵と松吉が追って来た。女がお此であることをすぐに察して、半七はその前にひらりと飛んで出ると、前後を挟まれて彼女は帯のあいだから剃刀かみそりをとり出して、死に物狂いに振りまわした。しかもそれを叩き落とされて、更に麦畑のなかへ逃げ込もうとする処を、半七は帯をとらえて曳き戻した。熊蔵と松吉が追い付いて取り押さえた。

「ここじゃ仕様がねえ。品川まで連れて行け」と、半七は先に立って歩き出した。

男と女は子分ふたりに追い立てられて行った。お此の顔には汗が流れていた。伊之助の顔には涙が流れていた。

「芝居ならば、ここでチョンと柝きがはいる幕切れです」と、半七老人は云った。「お此という奴はわる強情で、ずいぶん手古摺らせましたが、伊之助が意気地がないので、その方からだんだんに口が明いて、古狐もとうとう尻尾しっぽを出しましたよ」

「古狐……。その狐の騒ぎはみんなお此の仕業しわざなんですか」と、私は訊いた。

「そこが判じ物で……。まずお此という女についてお話をしましょう。こいつの家うちは芝の片門前で、若い時から明神の矢場の矢取り女をしたり、旦那取りをしたりしていたんですが、元来が身持ちのよくない奴で、板の間稼ぎやちょっくら持ちや万引きや、いろいろの悪いことをして、女のくせに入墨者、甲州から相州を股にかけて、流れ渡った揚げ句に、再び江戸へ舞い戻って、前にも申す通り、小間物の荷をさげて歩いたり、近所の茶屋の手伝いをしたりして、まあ無事に暮らしていたんですが、それでおとなしくしているような女じゃあありません。お此はことし三十八、相当の亭主でも持って堅気かたぎに世を送ればいいんですが、いつか近所の建具屋のせがれの伊之助に係り合いを付けて……。伊之助は二十一で、親子ほども年が違うのですが、お此のような女に限ってとかくに若い男を玩具おもちゃにしたがるものです。ところが伊之助には坂井屋のお糸という女が付いている。お糸は年も若し、渋皮のむけた女ですから、お此は何とかしてこれを遠ざけて、男を自分ひとりの物にしようと内心ひそかに牙きばをみがいているうちに、外国の軍艦が品川へ乗り込んで来て、イギリスが一艘、アメリカが一艘、いずれも錨をおろしました。

幕府はもう開港の運びになっているんですから、戦争になるような心配はありません。軍艦の水兵らは上陸して方々を見物する。しかし、江戸市中にむやみにはいることを許されませんでしたから、高輪の大木戸を境にして、品川、鮫洲、大森のあたりを遊び歩いていました。品川の貸座敷などを素見ひやかすのもありましたが、その頃はどこでも外国人を客にしません。料理屋でも大抵のうちでは断わる。ところが、鮫洲の坂井屋では構わずに外国人をあげて、酒を飲ませたり料理を食わせたりするので、世間の評判はよくないが、店は繁昌する。相手は船の人間で、遠い日本まで渡って来たんですから、金放れはいい。坂井屋はこれらの外国人を相手にして、いい金儲けをしたに相違ありません。その給仕に出る女中たちも相当の金になったわけです。

坂井屋では決してそんな事はないと云い張っていましたが、女中のなかには船の連中と関係の出来たものもあったらしいんです。現にお糸という女は、ジョージという男と関係が出来てしまった。それは手伝いに来ているお此の取り持ちで、最初はもちろん慾から出たことですが、どういう縁かお糸もジョージも互いに離れにくいような仲になりました。お此はうまく両方を焚きつけて、お糸にむかってはジョージさんの家うちは大金持だなどと吹き込んだので、お糸はいよいよ本気になってしまったんです。その頃は外国の事情も判らず、外国人はみんな金持だと思っているような人間が多かったんですから、お糸が一途いちずに信用するのも無理はありません。

しかしジョージは軍艦の乗組員ですから、勝手に上陸することは出来ません。結局お糸が恋しさに上陸してしまいました。わたくしは其の当時のことをよく知りませんが、恐らく脱艦したのだろうと思います。そこで、船が品川を立ち去るまでは隠れていなければいけないというので、お此が手引きをして、ひと先ずジョージを大森在の九兵衛という百姓の家へ忍ばせて置きました。

さあ、ここまではお話が出来るんですが、それから先は少しお茶番じみていて、いつぞやお話をした『ズウフラ怪談』の型にはいるんです。お此の申し立てによると、三月はじめの晩に、なにかの用があって鈴ヶ森の縄手を通りかかると、漁師らしい若い男の二人連れに摺れ違った。二人は一杯機嫌でお此にからかって、その袂などを引っ張るので、お此はうるさいのと癪に障るのとで、一つ嚇かしてやろうと思って、袂から西洋マッチをとり出して、手早く摺りつけて二、三本飛ばせると、二人は火が飛んで来るのにびっくりして、忽々に逃げ出した。そのマッチは黒船のお客から貰って、お此が袂に入れていたんです。今から考えると、実に子供だましのような話ですが、マッチというものを知らない時代には、火の玉がばらばら飛んで来るのに胆きもを潰したわけです」

「成程、ズウフラ怪談ですね」

「探偵話にほんとうの凄い怪談は少ないもので、種を洗えばみんなズウフラ式ですよ」と、老人は笑った。「さてその噂が忽ちぱっと拡がって、鈴ヶ森の縄手に狐が出るという評判になりました。その狐は黒船の異人が放したのだなぞと云う者もある。現にその前年、即ち安政五年の大コロリの時にも、異人が狐を放したのだという噂がありました。そこで、今度の狐も品川の黒船から出て来たというような噂が立つ。それを聞くと、お此はおかしくってたまらない。一体、犯罪者には一種の茶目気分のある奴が多いもので、お此も世間をさわがすのが面白さに、それを手始めにマッチの悪戯をちょいちょいやる。時には靴を磨くブラッシに靴墨を塗って置いて、暗やみで摺れ違いながら人の顔を撫でたりしたそうです。いつの代もそうですが、そんな噂が拡がると、いろいろに尾鰭を添えて云い触らす者が出て来るので、狐の怪談が大問題になってしまったんですが、お此がほんとうに悪戯をしたのは七、八回に過ぎないと自分では云っていました」

わたしも狐に化かされたような心持で聴いていた。

六

それにしても、私にはまだ判らないことがあった。

「小伊勢という料理屋の息子が出逢ったのは、ほんとうのお糸ですか。それとも例の狐ですか」と、私は顔を撫でながら訊いた。

「はは、眉毛を湿ぬらすほどの事はありません。それは狐でも何でもない、本当のお糸なんですよ」と、老人は又笑った。「しかし、それが不思議と云えば不思議でないことも無い。むかしは不思議のように云われたんですが、こんにちで云えば何かの精神作用でしょう。四月二十八日の宵に、お糸が坂井屋の店さきに立っていると、どこからか自分の名を呼ぶ者がある。それが彼かのジョージの声らしく聞えたので、呼ばれるままにふらふら歩き出して、半分は夢のように鈴ヶ森まで行ってしまったんだそうです。そうして、睨みの松あたりをうろついているところへ、小伊勢の巳之助が通りかかった。さあ、そこで間違いが出来しゅったいしたので……。

坂井屋のお糸と若狭屋のお糸とは、その名が同じばかりでなく、格好も年頃も似ているので、薄暗いなかで巳之助はその女を若狭屋のお糸と間違えた。お糸の方では巳之助を建具屋の伊之助と間違えた。巳之助は少し酔っていたので、伊之さんと呼ばれたのを巳之さんと早合点してしまったらしい。人違いとは気がつかずにお糸が巳之助にあやまっていたのは、かのジョージの一件があるからでしょう。お糸の顔が眼鼻もないのっぺらぼうに見えたなぞというのは、巳之助の眼の迷いで、もしや狐じゃあないかという疑いから、そんな顔に見えたのだろうと思われます」

「巳之助を殴ったのは誰ですか」

「ジョージです。前に云ったようなわけですから、昼間は表へ出ることが出来ないので、暗くなると散歩に出る。今夜も丁度にそこへ来合わせて、巳之助をなぐり倒してお糸を救ったんです。それから自分の隠れ家へお糸をかかえて行って介抱すると、お糸は息を吹き返しました。そこで、どういう相談が出来たのか、お糸は坂井屋へ帰らずに、ジョージのところへ一緒に隠れることになりました。

ジョージを隠まった九兵衛という百姓は、別に悪い奴ではありませんが、ひどく慾張っている。その慾からお此に抱き込まれて、ジョージを隠まったのが身の禍わざわいとなったのです。お糸が転げ込んで来たことを九兵衛から知らされて、お此は思う壷だと喜びました。こうなれば、お糸も伊之助とは確かに手切れで、男は自分の独り占めだと喜んだのですが、唯それだけでは済ませません。その隠れ家へ時々に押し掛けて行って、云わば一種の強請ゆすりのように、なんとか彼とか名を付けてジョージから金を引き出していました。

しかしジョージも日本の金をたくさん持っている筈はありませんから、渡してくれるのは外国のドルです。そこでお此の申し立てによると、外国のお金であるから本物か贋物か自分にも判らない、ジョージから受け取った物をそのまま両替屋へ持って行っただけの事で、贋金を使う料簡なぞは毛頭もなかったと云うんです。又ジョージがどうして贋金を持っていたのか判りません。恐らく支那へ奇港した時に、向うの奴に贋金を掴ませられ、本人も気がつかずにいたんだろうという話でした。そんなわけで、贋金づかいの方は証拠不十分でしたが、三島の店で絵草紙屋のせがれから小判一枚を掻っさらったことは、お此も恐れ入って白状に及びました。入墨者ですから罪が重く、今度は遠島になったように聞きました」

「ジョージとお糸はどうなりました」

「それについて、又ひとつのお話があります。お此の白状で二人のかくれ家は判ったんですが、ジョージは外国人ですから迂濶に手が着けられません。町奉行所から外国奉行の方へ申達して、外国係から更に外国公使へ通知するというような手続きがなかなか面倒です。それやこれやで小半月もそのままに過ぎていると、どこでどう聞き込んだものか、浪士ふうの侍ふたりが九兵衛の家へ突然に押し込んで来て、ここの家に外国人が隠まってある筈だから逢わせてくれと云うんです。そのころ流行の攘夷家と見ましたから、九兵衛は飽くまでも知らないと云う。いや、隠してあるに相違ないと云う。その押し問答の末に、九兵衛と伜の九十郎は斬られました。九十郎は浅手でしたが、九兵衛は死んでしまいました。ジョージはピストルを続け撃ちにして、あぶないところを逃がれましたが、それっきり姿を晦まして何処へ行ったのか判りません。あとで聞くと、羽田あたりの漁船を頼んで、品川沖の元船もとぶねへ戻ったらしいんです。九兵衛親子を斬った浪士は何者だか判りません。

お糸は構い無しというので坂井屋へ戻されました。建具屋の伊之助はわたくし共にひどく嚇かされた上に、お此が贋金づかいであると聞いて一時は真っ蒼になったんですが、これも無事に還されました。熊蔵の話によると、お糸と伊之助は再び撚りを戻して、結局夫婦めおとになったということです。狐の正体は先ずこの通り、あなたも化かされましたか。あはははははは」

老人は又笑った。狐が人を化かすのでない、人が人を化かすのであるとは、昔から誰も云うことであるが、まったく其の通りで、わたしも半七老人に化かされたらしい。帰るときに老人は云った。

「御安心なさい。山王下さんのうしたに狐は出ませんから……」

思えばそれも三十余年の昔である。その欝憤うっぷんを今ここで晴らさんが為に、わたしが再び読者諸君を化かしたわけではない。

底本 / Source edition

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年8月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:菅野朋子
2000年2月9日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/000483_000082/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000483_000082/

岡本 綺堂「半七捕物帳──52 妖狐伝」(新字新仮名)、底本『時代推理小説 半七捕物帳(四)』光文社時代小説文庫、光文社、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000483_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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