一

お<ruby><rb>米</rb><rt>よね</rt></ruby>と<ruby><rb>十吉</rb><rt>じゅうきち</rt></ruby>とは南向きの縁に仲よく肩をならべて、なんにも言わずに<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い空をうっとりと見あげていた。

<ruby><rb>天明</rb><rt>てんめい</rt></ruby>五年正月の<ruby><rb>門松</rb><rt>かどまつ</rt></ruby>ももう取られて、武家では具足びらき、町家では<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>びらきという十一日もきのうと過ぎた。おととしの<ruby><rb>浅間山</rb><rt>あさまやま</rt></ruby>の噴火以来、世の中が何となくさわがしくなって、江戸でも強いあらしが続く。諸国ではおそろしい<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>の噂がある。この二、三年はまことに<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>な年だったと言い暮らしているうち、暦はことしと改まって、元日から<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>っ風の吹く寒い日がつづいた。五日の夕方には少しばかりの雪が降った。

それから天気はすっかり持ち直して、世間は俄かに明るくなったように春めいて来た。十吉の庭も急に霜どけがして、竹垣の隅には白い梅がこぼれそうに咲き出した。

この話の舞台になっている天明のころの<ruby><rb>箕輪</rb><rt>みのわ</rt></ruby>は、<ruby><rb>龍泉寺</rb><rt>りゅうせんじ</rt></ruby>村の北につづいた寂しい村であった。そのむかしは御用木として<ruby><rb>日本堤</rb><rt>にほんづつみ</rt></ruby>に多く<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えられて、<ruby><rb>山谷</rb><rt>さんや</rt></ruby>がよいの若い男を<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>がらせたという<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>の木の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いがここにも微かに残って、そこらには漆のまばらな森があった。畑のほかには<ruby><rb>蓮池</rb><rt>はすいけ</rt></ruby>が多かった。

十吉の小さい家も北から西へかけて大きい蓮池に取り巻かれていた。

「いいお天気ね」と、お米はうららかな日に向かってまぶしそうな眼をしばだたきながら、思い出したように話しかけた。

「たいへん暖かくなったね。もうこんなに梅が咲いたんだもの、じきに<ruby><rb>初午</rb><rt>はつうま</rt></ruby>が来る」

「よし原の初午は賑やかだってね」

「むむ、そんな話だ」

箕輪から<ruby><rb>京間</rb><rt>きょうま</rt></ruby>で四百<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の土手を南へのぼれば、江戸じゅうの人を吸い込む吉原の<ruby><rb>大門</rb><rt>おおもん</rt></ruby>が口をあいている。<ruby><rb>東南</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の浮気な風が吹く夜には、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の唄や<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>のしらべが手に取るようにここまで歓楽のひびきを送って、冬枯れのままに沈んでいるこの村の空気を浮き立たせることもあるが、ことし十八とはいうものの、小柄で<ruby><rb>内端</rb><rt>うちわ</rt></ruby>で、肩揚げを取って去年元服したのが何だか不似合いのようにも見えるほどな、まだ子供らしい<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>の十吉にとっては、それがなんの問題にもならなかった。

たとい昼間は<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>や<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をかついでいても、夜は若い男の燃える血をおさえ切れないで、手拭を肩にそそり<ruby><rb>節</rb><rt>ぶし</rt></ruby>の一つもうなって、眼のまえの廓をひと廻りして来なければどうしても寝つかれないという村の若い衆の群れから、十吉は遠く懸け離れて生きていた。ありゃあまだ子供だとひとからも見なされていた。十六の秋、母のお時といっしょに廓の<ruby><rb>仁和賀</rb><rt>にわか</rt></ruby>を見物に行ったとき、<ruby><rb>海嘯</rb><rt>つなみ</rt></ruby>のように寄せて来る人波の渦に巻き込まれて、母にははぐれ、人には踏まれ、<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>を片足なくして、危うく命までもなくしそうになって逃げて帰って来たことがあった。十吉が吉原の明るい灯を近く見たのは、あとにもさきにもその一度で、<ruby><rb>仲</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の桜も、<ruby><rb>玉菊</rb><rt>たまぎく</rt></ruby>の燈籠も、まったく別の世界のうわさのように聞き流していた。

「あたし、まだ一度も吉原の初午へ行ったことがないから、ことしは見に行こうか知ら。え、<ruby><rb>十</rb><rt>じゅう</rt></ruby>さん、一緒に行かないか」

顔を覗いて少し甘えるように誘いかけられても、十吉はなんだか気の乗らないような返事をしているので、お米もしまいには面白くないような顔をして、子供らしくすねて見せた。

「お前、あたしと一緒に行くのはいやなの」

「いやじゃないけれども詰まらない。初午ならば向島へ行って、<ruby><rb>三囲</rb><rt>みめぐ</rt></ruby>りさまへでも一緒にお詣りをした方がいいよ」

「でも、吉原の方が賑やかだというじゃあないか」と、お米はまだ吉原の方に未練があった。

「賑やかでもあんなところはいやだ、詰まらない」

十吉は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに詰まらないと言った。二人は来月の初午について今から他愛なく争っていたが、結局らちが明かなかった。

「十さん、吉原は嫌いだね」

「むむ」

二人はまた黙って空を仰ぐと、消え残った雲のような白い雪が<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>屋根の上に高くふわりと浮かんでいた。遠い上野の森は酔ったように薄紅く霞んで、龍泉寺から金杉の村々には、小さな<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>が風のない空に二つ三つかかっていた。どこかで<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>が啼いていた。二人はさっきから一面の明るい日を浴びて、からだが少しだるくなるほどに肉も血も温まって来た。二人の若い顔は<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかに赤くのぼせた。

「<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんは遅いなあ」と、十吉は薄ら眠いような声でつぶやいた。

「<ruby><rb>番町</rb><rt>ばんちょう</rt></ruby>のお屋敷へ行ったの」

「むむ。もう帰るだろう」

こんな噂をしていたが、母は容易に帰らなかった。お時が家を出たのはけさの四つ（午前十時）であった。女の足で箕輪から山の手の番町まで往復するのであるから、時のかかるのは言うまでもないが、それにしてもちっと遅過ぎると十吉は案じ顔に言った。お米もなんだか不安に思われたので、<ruby><rb>七</rb><rt>なな</rt></ruby>つ（午後四時）過ぎまで一緒に待ち暮らしていると、お<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>は元気のない顔をして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぼとぼ</span>と帰って来た。

「おや、お米坊も一緒に留守番をしていておくれだったの」

「おばさん、又あした来ますよ」

母が無事に帰ったのを見とどけて、お米も自分の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へいそいで帰った。お米の家は同じ村のはずれにあった。今まで<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>そうにかかっていた<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>の影もいつか<ruby><rb>夕鴉</rb><rt>ゆうがらす</rt></ruby>の黒い影に変わって、うす寒い風が吹き出して来た。

お時は<ruby><rb>一張羅</rb><rt>いっちょうら</rt></ruby>の晴れ着をぬいで、ふだん着の<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>と着替えた。それから大事そうに抱えて来た大きい風呂敷包みをあけて、扇子や手拭や乾海苔や<ruby><rb>鯣</rb><rt>するめ</rt></ruby>などをたくさんに取り出した。

「お屋敷から頂いて来たんだね」と、十吉もありがたそうに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

お時は番町のお屋敷へあがるたびに、いろいろのお土産を頂いて帰るのが例であった。殊にきょうは初春の御年始に伺ったのであるから、何かの下され物はあるだろうと十吉は内々予期してはいたものの、いつもと違ってその分量の多いのに驚かされた。

日が落ちると急に冷えて来て、春のまだ浅い夕暮れの寒さは、江戸絵を貼った壁の破れから水のように流れ込んで来た。十吉は炉の火をかきおこして<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>の支度にかかった。お時は膳にむかったが、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>ろく箸もとらないでぼんやりしていた。

「きょうはお屋敷で御馳走でもあったのかね」と、十吉は笑いながら<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「どうも困ったことが出来たもんだよ」

溜め息をついている母の<ruby><rb>屈託</rb><rt>くったく</rt></ruby>らしい顔をのぞいて、十吉も思わず箸をやめた。

「なんだね。お屋敷に何か悪いことでもあったのかね」

「むむ。だが、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にひとに言うのじゃないぞ」と、お時は小声に力をこめて言った。

話さないさきから厳重に口止めをされて、十吉も変な顔をして黙っていた。

「番町の殿様、飛んでもない道楽者におなりなすったとよ。情けない」

お時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほろり</span>とした。十吉はまた箸をやめて、炉の火にひかる母の眼の白い<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>をうっかりと見つめていた。

この<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>がお屋敷というのは、<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby><ruby><rb>番町</rb><rt>ばんちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>藤枝外記</rb><rt>ふじえだげき</rt></ruby>の屋敷であった。藤枝の家は五百石の旗本で、先代の外記は御書院の<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんがしら</rt></ruby>を勤めていた。当代の外記が生まれた時に、縁があってこのお時が乳母に抱えられた。お時はそのときにお光という娘をもっていたが、生まれて一年ばかりで死んでしまったので、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は乳の出るのを幸いに藤枝家へ奉公することになった。それはお時が二十二の夏であった。

殿様も奥様も情けぶかい人であった。いい主人を取り当てたお時は奉公大事に勤め通して、若様が五つのお祝いが済んだとき無事にお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>が出た。それから三年目に奥様は更にお<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬい</rt></ruby>という嬢様を生んだが、その頃にはお時も丁度かの十吉を腹に宿していたので、乳母はほかの女をえらばれた。しかし<ruby><rb>御嫡子</rb><rt>ごちゃくし</rt></ruby>の若様にお<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>をあげたという深い縁故をもっている彼女は、その後も屋敷へお出入りを許されて御主人からは眼をかけられていた。正直いちずなお時はよくよくこれを有難いことに心得て、年頭や<ruby><rb>盂蘭盆</rb><rt>うらぼん</rt></ruby>には毎年かかさずお礼を申上げに出た。

そのうちに年が経って、殿様も奥様もお時に泣く泣く送られて、いずれも赤坂の<ruby><rb>菩提寺</rb><rt>ぼだいじ</rt></ruby>へ葬られてしまった。<ruby><rb>家督</rb><rt>かとく</rt></ruby>を嗣いだ嫡子の外記は十六歳で番入りをした。<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないが我が子のようにも思っている若様、どうぞ末長く御出世遊ばすようにと、お時は浅草の観音さまへ<ruby><rb>願</rb><rt>がん</rt></ruby>をかけて、月の<ruby><rb>朔日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>と十五日には必ず参詣を怠らなかった。

「おれが家督をとるようになったら、きっとお前の世話をしてやるぞ」

子供の時からそう言っていた外記は、約束を忘れるような男ではなかった。彼が家督を相続した頃には、運のわるいお時はもう<ruby><rb>嬬婦</rb><rt>ごけ</rt></ruby>になってしまって、まだ八つか九つの十吉を抱えて身の振り方にも迷っているのを、外記が救いの手をひろげて<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってくれた。そのおかげで先祖伝来の小さい田畑も人手に渡さずに取り留めて、十吉がともかくも一人前の男になるまで、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>が無事に生きて来たのであった。

「番町さまのありがたい御恩を忘れちゃ済まないぞ」と、お時は口癖のように我が子に言い聞かしていた。外記とはいわゆる<ruby><rb>乳兄弟</rb><rt>ちきょうだい</rt></ruby>のちなみもあるので、お時が番町の屋敷へ行くたびに、外記の方からも常に十吉の安否をたずねてくれた。それがまたお時に取っては此の上もない有難いことのように思われていた。

ことしは外記が二十五の春である。もうそろそろ奥様のお噂でもあることかと、お時はことしの御年始にあがるのを心待ちにしていたが、それでも相手は歴々のお武家であるから、具足びらきの御祝儀の済むまではわざと遠慮して、十二日のきょう急いで山の手へのぼったのである。行って見ると、主人の外記は留守であった。妹のお縫がいつもの通りに<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>よくもてなしてはくれたが、なんとなくその若い美しい顔に暗い影が<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>っていた。屋敷のうちも<ruby><rb>喪</rb><rt>も</rt></ruby>にこもったようにひっそりと沈んでいて、どこにも春らしい光りの見えないのがお時の眼についた。

久し振りに訪ねて来たお時に、春早々から悪い耳を聞かせたくないと思ったのであろう、お縫も初めはなんにも言わなかったが、話がだんだん進むにつれて、いくら武家育ちでも女は女の愚痴が出て、お縫の声は陰って来た。

お時もおどろいた。

外記は今まで番士を勤めていたが、去年の暮れに<ruby><rb>無役</rb><rt>むやく</rt></ruby>の<ruby><rb>小普請</rb><rt>こぶしん</rt></ruby>入りを仰せつかったというのであった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もお役を勤めていると余計な費用がかかるというので、自分から望んで小普請組にはいる者も無いではないが、無役では出世の見込みはない。一生うもれ木と覚悟しなければならない。年の若い外記が自分から進んで腰抜け役の小普請入りなどを願う筈がないのは、彼が日ごろの性質から考えても判っている。これには何か子細があるに相違ないと、さらに進んで詮索するとお時はまた驚かされた。外記が小普請入りの処分を受けたのは身持<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>の<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>であった。

お縫の話によると、外記はおととしの秋頃から吉原へかよい始めて、<ruby><rb>大菱屋</rb><rt>おおびしや</rt></ruby>の<ruby><rb>綾衣</rb><rt>あやぎぬ</rt></ruby>という遊女と深くなった。それについてはお縫も意見した。用人の堀部<ruby><rb>三左衛門</rb><rt>さんざえもん</rt></ruby>も<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めた。取り分けて叔父の吉田<ruby><rb>五郎三郎</rb><rt>ごろうさぶろう</rt></ruby>からは厳しく叱られたが、叔父や妹や家来どもの怒りも涙も心づかいも、情に狂っている若い馬一匹をひきとめる<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>にはならなかった。馬は張り切った勢いで<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れまわった。<ruby><rb>暴馬</rb><rt>あれうま</rt></ruby>は<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>に押しこめるよりほかはない。外記は支配<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>の沙汰として、小普請組という厩に追い込まれることになった。

家の面目と兄の未来とをしみじみ考えると、これだけのことを話すにも、お縫は涙がさきに立った。<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて一心に聴いているお時も、ただ無暗に悲しく情けなくなって、着物の膝のあたりが一面にぬれてしまうほどに熱い涙が止めどなしにこぼれた。

「まあ、どうしてそんな魔が<ruby><rb>魅</rb><rt>さ</rt></ruby>したのでござりましょう」

学問も出来、武芸も出来、情け深いのは親譲りで、義理も堅く、道理もわきまえている殿様が、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の遊女に武士のたましいを打ち込んで、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の首尾を損じるなどとは、どう考えても思い付かないことであった。魔が魅したとでも言うよりほかはなかった。

しかし今となっては、誰の力でもどうすることも出来ないのは判り切っていた。小普請入りといっても、必ず一生涯とばかりは限らない。本人の身持ちが改まって確かに見どころがあると決まれば、またお召出しとなるかも知れないというのをせめてもの頼みにして、お時はお縫に泣いて別れた。

帰りぎわに用人の三左衛門にも逢った。彼は<ruby><rb>譜代</rb><rt>ふだい</rt></ruby>の家来であった。五十以上の分別ありげな彼の顔にも、苦労の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がきざんでいるのがありありと見えた。

「いろいろ御苦労がございますそうで……」と、お時は涙を拭きながら挨拶した。

「お察し下さい」

三左衛門はこう言ったばかりで、さすがに愚痴らしいことはなんにも口に出さなかったが、<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の用人として定めて目に余る苦労の重荷があろう。それを思うと、お時は胸がまたいっぱいになった。

初めはまっすぐに帰る心づもりであったが、この話を聞いたお時は今にも藤枝のお<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>が亡びるようにも感じられたので、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は番町の屋敷を出ると、さらに市ヶ谷まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぼとぼ</span>と<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行った。

叔父の吉田の屋敷は市ヶ谷にあった。彼は三百五十石で、藤枝にくらべると小身ではあるが、先代の外記の肉身の弟で、いまの外記が番入りをするまでは後見人として支配頭にも届け出してあった。父なき後は叔父を父と思えというこの時代の習わしによっても、外記の頭をもっとも強くおさえる力をもっている人は、この吉田の叔父よりほかになかった。思いあまったお時は念のために吉田に一度逢って、その<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>をきいて置こうと思ったのである。

奥様に恐る恐る目通りを願ったのであるが、ちょうど非番で屋敷に居合せた主人の五郎三郎はこころよく逢ってくれた。

お時の<ruby><rb>主</rb><rt>しゅう</rt></ruby>思いは五郎三郎もかねて知っているので、打ち明けていろいろの内輪話をしてくれた。今となっては仕方がない。それもおれが監督不行届きからで、お前たちにも面目ないと五郎三郎はしみじみと言った。しかし本人の性根さえ入れ替われば再び世に出る望みがないでもない。今度の不首尾に懲りて彼がきっと謹慎するようになれば、毒がかえって薬になるかも知れない。しばらくは其のままにして彼の<ruby><rb>行状</rb><rt>ぎょうじょう</rt></ruby>を見張っているつもりだと、五郎三郎はまた言い聞かした。奥様もお時に同情して親切に慰めてくれた上に、帰る時には品々の土産物までくれた。有難いと悲しいとで、お時はここでも泣いて帰った。

母が帰りの遅かったのも、土産物の多かったのも、こうした訳と初めて判って見ると、十吉も悠々と飯を食っている気にはなれなかった。食いかけの飯に湯をぶっかけて、夢中ですすり込んでしまった。膳を片付けてお時が炉の前にしょんぼりと坐ると、十吉はうす暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどう</rt></ruby>を持ち出して来た。

母子は寂しい心持ちで行燈の火の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらちら</span>と揺れるのを黙って見つめていた。日が暮れて東の風がだいぶ吹き出したらしい。軒にかけてある<ruby><rb>蕪菁</rb><rt>かぶら</rt></ruby>の葉が乾いた紙を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>むように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさがさ</span>と鳴った。

「風が出たようだね。昼間と夜とは陽気が大違いだ」と、お時は寒そうに肩をすくめて雨戸を閉めに出た。

今夜は悪い風が吹くので、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の騒ぎ唄が人の心をそそり立てるように、ここらまで近くながれて来た。暗い長い堤には駕籠屋の提灯が狐火のように宙に飛んでいた。その火の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふい</span>と消えて行くあたりに、廓の華やかな灯が一つに溶け合って、幾千人の恋の焔が天をこがすかとばかりに、闇夜の空をまぼろしのように<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くぼかしていた。

殿様は今夜もあの灯の中に溺れているのではあるまいかと、お時は寒い夜風にひたいを吹かれながら、いつまでも廓の紅い空をじっと眺めていた。

二

お時が案じていた通り、外記は丁度そのころ吉原の<ruby><rb>駿河屋</rb><rt>するがや</rt></ruby>という<ruby><rb>引手茶屋</rb><rt>ひきてぢゃや</rt></ruby>に酔っていた。

二階座敷の八畳の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>は襖も窓も締め切って、大きい火鉢には炭火が青い舌を吐いていた。外の寒さを<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>き止められて、なまあたたかく淀んだ空気のなかに、二つの燭台の紅い灯はさながら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって、懐ろ手の外記がうしろにしている<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の山水の一軸をおぼろに照らしていた。<ruby><rb>青銅</rb><rt>からかね</rt></ruby>のうす黒い花瓶の中から<ruby><rb>花心</rb><rt>しべ</rt></ruby>もあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いが<ruby><rb>淡</rb><rt>あわ</rt></ruby>くただよっていた。外記の前には盃台が置かれて、吸物椀や<ruby><rb>硯蓋</rb><rt>すずりぶた</rt></ruby>が型の如くに<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べてあった。

相手になっているのは眉の痕のまだ青い女房で、口は軽くても行儀のいいのが、こうした稼業の女の誇りであった。茶色の<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の薄い着物に黒い帯をしゃんと結んで、おとなしやかに控えていた。

「<ruby><rb>花魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>ももうお見えでござりましょう。まずちっとお重ねなされまし」と、彼女が銚子をとろうとすると、外記は笑いながら<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>をふった。

「知っての通り、おれは余り酒は飲まないのだから、まあ堪忍してくれ。このうえ酔ったらもう動けないかも知れない」

男には惜しいような外記の白い頬には、うすい<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>が流れていた。

「よろしゅうござります。殿様が動けなくおなり遊ばしたら、<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>衆が抱いて行って進ぜましょう。たまにはそれも面白うござります」と、女房は口に手を当てて同じように笑っていた。

「いや、まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よいよい</span>にはなりたくない」と、外記も同じように笑っていた。

「それにしても花魁の遅いこと、もう一度お迎いにやりましょう」

女房は<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>して<ruby><rb>階子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を軽く降りて行った。

「ああ、そんなに<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てるには及ばない」と、外記がうしろから声をかけた時には、女房の姿はもう見えなかった。

実際そんなに急ぐには及ばない。急ぐと思われては茶屋の女房の手前、さすがにきまりが悪いようにも外記は思った。きのうは<ruby><rb>具足</rb><rt>ぐそく</rt></ruby>開きの祝儀というので、よんどころなしに窮屈な一日を屋敷に暮らしたが、灯のつくのを待ちかねて、彼は吉原へ駕籠を飛ばした。きょうも<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>して<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎに茶屋へかえって来た。この場合、ふた晩つづけて屋敷を明けては、用人の意見、叔父の<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>、それが随分うるさいと思ったので、彼は日の暮れるまでにひとまず帰ろうとしたのであった。

彼は少しく酔っていたので、茶屋から駕籠にゆられながら<ruby><rb>快</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うとうと</span>と眠って行くと、夢かうつつか、温かい柔かい手が蛇のように彼の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にからみ付いた。女のなめらかな髪の毛が彼の頬をなでた。白粉の匂いがむせるように鼻や口をついた。眼の大きい、眉の<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>んだ女の顔がありありと眼の前にうき出した。

と思う途端に、駕籠の<ruby><rb>先棒</rb><rt>さきぼう</rt></ruby>がだしぬけに頓狂な声で、「おい、この駕籠は<ruby><rb>滅法界</rb><rt>めっぽうかい</rt></ruby>に重くなったぜ」と、呶鳴った。

外記は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と正気にかえった。そうして、駕籠が重くなったということを何かの意味があるように深く考えた。

今までは自分一人が乗っていた。そこへまぼろしのように女が現われて来た。駕籠が急に重くなった。眼に見えない女のたましいが何処までも自分の後を追って来るのではあるまいか。

「なんの、ばかばかしい。なんとか名を付けて<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>た<ruby><rb>増</rb><rt>ま</rt></ruby>しでも取ろうとするのは駕籠屋の癖だ」と、外記は直ぐに思い直して笑った。

しかしそれが動機となって、彼は再び吉原が恋しくなった。駕籠屋の言うのは嘘と知りつつも、彼は無理にそれを本当にして、もしや女の身に変った事でも起った<ruby><rb>暗示</rb><rt>しらせ</rt></ruby>ではあるまいかなどと自分勝手の理屈をこしらえて見たりした。そうして、自分でわざと不安の種を作って、このままには捨てて置かれないように<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>して見たりした。駕籠がだんだんに吉原から遠くなって行くのが、何だか心さびしいように思われてならなかった。

「ここはどこだ」と、彼は駕籠の中から声をかけた。

「<ruby><rb>山下</rb><rt>やました</rt></ruby>でございます」

まだ上野か、と外記は案外に<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>の行かないのを不思議に思った。と同時に、これから屋敷へ帰るよりも、吉原へ引っ返した方が早いというような、意味のわからない理屈が彼の胸にふとうかんだ。

「これ、駕籠を戻せ」

「へえ、どちらへ……」

「よし原へ……」と、彼は思い切って言った。

駕籠はふたたび<ruby><rb>大門</rb><rt>おおもん</rt></ruby>をくぐって茶屋の女房を面食らわした。茶屋では直ぐに大菱屋へ綾衣を<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いにやった。そんな訳であるから、さっき帰ってからまだ<ruby><rb>二晌</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>とは過ぎていないのに、女の迎いを<ruby><rb>急</rb><rt>いそ</rt></ruby>がせる。むこうは稼業だから口へ出してこそ言わないが、殿様もあんまりきついのぼせ方だと茶屋の女房たちに蔭で笑われるのも、さすがに恥かしいように思われた。

表は次第に賑やかになって、灯の影の明るい仲の町には人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が忙がしくきこえた。誰を呼ぶのか、女の<ruby><rb>甲走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>った声もおちこちにひびいた。いなせな地廻りのそそり<ruby><rb>節</rb><rt>ぶし</rt></ruby>もきこえた。軽い<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の調べや重い<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>の音や、それもこれも一つになって、人をそそり立てる廓の夜の気分をだんだんに作って来た。外記も落ち着いてはいられないような浮かれ心になった。

急ぐには及ばないと思いながらも、彼の腰は次第に浮いて来た。手酌で一杯飲んで見たが、まだ落ち着いてはいられないので、ふらふらと<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って障子をあけると、まだ宵ながら仲の町には黒い人影がつながって動いていた。松が取れてもやっぱり正月だと、外記はいよいよ春めいた心持ちになった。酒の酔いが一度に発したように、<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>がむずがゆくほてって来た。

その混雑のなかを押し分けて、<ruby><rb>箱提灯</rb><rt>はこぢょうちん</rt></ruby>がゆらりゆらりと往ったり来たりしているのが外記の眼についた。彼は提灯の紋どころを<ruby><rb>一々</rb><rt>いちいち</rt></ruby>にすかして視た。足かけ三年この廓に入りびたっていても、いわゆる<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby>にはとても成り得そうもない外記は、そこらに迷っている提灯の紋をうかがっても、鶴の丸は何屋の誰だか、かたばみはどこの何という女だか、一向に見分けが付かなかった。しかし綾衣の紋が下がり藤であるということだけは、確かに知っていた。

自分が上野まで往復している間に、ほかの客が来たのではあるまいかとも考えた。自分は今夜来ない筈になっていたのであるから、先客に座敷を占められても苦情はいえない。しかし馴染みの客が茶屋に来ているのに、今まで迎いに来ないという法はない。

「今夜の客というのは侍か町人か、どんな奴だろう」と、外記は軽い<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>みをおぼえた。

さっきから女房が再び顔を見せないのは、何か向うに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごたごた</span>が起ったのではあるまいかとも考えて見た。座敷を明けろとか明けないとかいう掛け合いで、茶屋が自分のために骨を折っていてくれるのではないかとも善意に解釈して見た。外がだんだんに賑わって来るにつれて、外記はいよいよ苛々して来た。迎いの来るのを待たずに、自分から大菱屋へ出掛けて行こうかとも思った。

女房は息を切って<ruby><rb>階子</rb><rt>はしご</rt></ruby>をあがって来た。

「どうもお待たせ申しました。花魁は宵に早く帰るお客がござりましたもんですから、それを送り出すのでお手間が取れまして……。いえ、もう直ぐにお見えになります」

綾衣の遅いのには少し面倒な<ruby><rb>子細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があった。駿河屋の女中は外記の顔を見ると、すぐに綾衣を仕舞いに行ったが、たったひと足の違いでほかの茶屋からも<ruby><rb>初会</rb><rt>しょかい</rt></ruby>の客をしらせて来た。そういうことに眼のはやい女中は、二階の階子をあがる途中で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>と相手を駈けぬけて綾衣の部屋へ飛び込んでしまった。そこへ続いてほかの茶屋の女中もあがって来た。そこで、いよいよお引けという場合にはどっちが本座敷へはいるかという問題について、茶屋と茶屋との間にまず衝突が起った。

たとい初会であろうとも、自分の方がひと足さきへ<ruby><rb>大菱屋</rb><rt>おおびしや</rt></ruby>のしきいを<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、帳場にも声をかけてある以上は、自分のうちの客が本座敷へはいるのは当然の権利であると、ほかの茶屋の女中は主張した。

駿河屋の女中は相手の理を非にまげて、こっちは昼間からちゃんと花魁に通して座敷を仕舞ってあると強情を張った。

どちらも自分のうちの客を大事に思う人情と商売上の意気張りとで、たがいに負けず劣らずに言い争っているので、<ruby><rb>番頭新造</rb><rt>ばんとうしんぞう</rt></ruby>の手にも負えなくなって来た。駿河屋の女中は自分の方の旗色がどうも悪いと見て、急いで<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ飛んで帰って、女房にこの始末を訴えた。女房も直ぐに出て行った。事はいよいよ<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れてむずかしくなったが、肝腎の綾衣はいうまでもなく駿河屋の味方であった。

彼女はさっき帰ったばかりの外記がまた引っ返して来たのを不思議のように思ったが、そんなことはどうでもいい。当座をつくろうでたらめに、外記はまたすぐ出直して来ると確かに言い置いて行ったのを、誰にも言わずにうっかりしていたのはわたしが重々の<ruby><rb>不念</rb><rt>ぶねん</rt></ruby>であったと、彼女は自分ひとりで罪をかぶってしまった。

それ見たことかと駿河屋の側では<ruby><rb>凱歌</rb><rt>かちどき</rt></ruby>をあげたが、理を非にまげられた相手の女中は面白くなかった。殊に綾衣が駿河屋の肩を持っているらしく見えたので、彼女はいよいよ不平であった。結局今夜のその客はほかの花魁へ振り替えて、綾衣のところへは送らないということで<ruby><rb>落着</rb><rt>らくぢゃく</rt></ruby>した。たとい初会の客にせよ、こうした<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごたごた</span>で、綾衣は今夜一人の客を失ってしまった。

外記が茶屋の二階で苛々している間に、女房や女中はこれだけの働きをしていたのであったが、それは茶屋が当然の勤めと心得て、別に手柄らしく<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>しようとも思わなかった。かえってそんな面倒は客の耳に入れない方がいい位に考えていたので、女房はいい加減に外記の手前を取りつくろって置いたのであった。

なんにも知らない外記は唯うなずいていると、女中がつづいてあがって来た。

「綾衣さんの花魁がもう見えます」

「そうかえ」

女房は二階の障子をあけて、待ちかねたように表をみおろした。外記も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うかうか</span>と起って覗いた。外にも風がよほど強くなったと見えて、茶屋の軒行燈の灯は一度に驚いてゆらめいていた。浮かれながらも寒そうに固まって歩いている人たちの<ruby><rb>裳</rb><rt>すそ</rt></ruby>に這いまつわって、砂の<ruby><rb>烟</rb><rt>けぶ</rt></ruby>りが小さい渦のようにころげてゆくのが夜目にもほの白く見えた。春の夜の寒さを呼び出すような按摩の笛が、ふるえた<ruby><rb>余音</rb><rt>よいん</rt></ruby>を長くひいて横町の方から遠くきこえた。

江戸<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の角から箱提灯のかげが浮いて出た。下がり藤の紋があざやかに見えた。戦場の勇士が目ざす敵の旗じるしを望んだ時のように、外記は一種の緊張した気分になって、ひとみを据えてきっと見おろしていた。提灯が次第にここへ近づくと、女房も女中もあわてて階子を駈けおりて行った。

「さあ、花魁、おあがりなされまし」

口々に迎えられて、若い者のさげた提灯の灯は駿河屋の前にとまった。<ruby><rb>振袖新造</rb><rt>ふりそでしんぞう</rt></ruby>の綾鶴と、番頭新造の綾浪と、<ruby><rb>満野</rb><rt>みつの</rt></ruby>という七つの<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>とに囲まれながら、綾衣は重い下駄を軽くひいて、店の縁さきに腰をおろした。

「皆さん、さっきはお世話でありんした」

<ruby><rb>立兵庫</rb><rt>たてひょうご</rt></ruby>に結った頭を少しゆるがせて、型ばかり会釈した彼女は鷹揚に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっこり</span>笑った。綾衣は俗にいう若衆顔のたぐいで、長い眉の男らしく力んだ、眼の大きい、口もとの引きしまった点は、優しい美女というよりもむしろ<ruby><rb>凛</rb><rt>りん</rt></ruby>とした美少年のおもかげを見せていた。金糸で大きい<ruby><rb>鰕</rb><rt>えび</rt></ruby>を<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>にした<ruby><rb>縹色繻子</rb><rt>はないろじゅす</rt></ruby>の厚い<ruby><rb>裲襠</rb><rt>しかけ</rt></ruby>は、痩せてすらりとした彼女の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にうつりがよかった。頭に輝いている二枚櫛と八本の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>とは、やや驕慢に見える彼女の顔をさらに<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しく飾っていた。

「番町の殿様お待ちかねでござります」と、女房は笑顔を<ruby><rb>粧</rb><rt>つく</rt></ruby>った。「すぐにお連れ申しましょうか」

「あい」と、綾衣はふたたび鷹揚にうなずいた。

「では、お頼み申します」

若い者は提灯を消してひと足さきに帰ると、茶屋の女中は送りの提灯に<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を入れた。

「きつい風になった。気をつけや」と、女房が声をかけた。

寒い風が仲の町を走るように吹いて通った。この風におどろいた一匹の小犬が、吹き飛ばされたようにここの軒下へ転げ込んで悲鳴をあげた。

「あれ、怖い」

禿は新造にすがって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わっ</span>と泣き出した。

「これ、おとなしくしや」

綾衣にやさしく睨まれて、禿は新造の長い<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の下に小さい泣き顔を押し込んでしまった。

三

あくる朝は四つ頃（十時）から雪になった。

この四、五日は暖かい<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>がつづいたので、もう春が来たものと油断していると、きのうの夕方から急に東の風が吹き出して、それが又いつか北に変った。吉原は去年の四月丸焼けになった。橋場今戸の仮宅から元地へ帰ってまだ間もない<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の人びとは、去年のおそろしい夢におそわれながら<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えた心持ちで一夜を明かした。毎晩聞きなれた火の用心の<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>の音も、今夜は枕にひびいてすさまじく聞えた。幸いに暁け方から風もやんだが、灰を流したような凍った雲が一面に低く垂れて来た。

「雪が降ればいいのう」と、禿どもは雪釣りを楽しみに空を眺めていた。

こんな朝に外記は帰るはずはなかった。綾衣も帰すはずはなかった。「居続客不仕候」などと廊下にしかつめらしい貼札があっても、それはほんの形式に過ぎないことは言うまでもない。こういう朝にこそ居続けの楽しみはあるものを、外記は綾衣に送られて茶屋へ帰らなければならなかった。

<ruby><rb>金龍山</rb><rt>きんりゅうざん</rt></ruby>の明け六つが鳴るのを待ち兼ねていたように、藤枝の屋敷から<ruby><rb>中間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の角助が仲の町の駿河屋へ迎いに来た。ゆうべあいにく市ヶ谷の叔父さまがお屋敷へお越しなされて、また留守かときつい御立腹であった。お嬢さまも御用人もいろいろに取りつくろって其の場はどうにか納まったものの、明日もまだ帰らぬようであったらおれにもちっと考えがある、必ずおれの屋敷まで知らせに参れと、叔父さまがくれぐれも念を押して帰られた。就いてはきょうもお留守とあっては、どのような面倒が<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>いたさぬとも限られませねば、是非とも一度お帰り下さるようにと、お縫と三左衛門との口上を一緒に列べ立てた。

「叔父にも困ったものだ」

外記はさも<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さそうに顔をしかめたが、ともかくもひとまず茶屋へ帰って角助に逢った。角助は渡り<ruby><rb>中間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>で、道楽の味もひと通りは知っている男であった。主人のお伴をして廓へ入り込んで、自分は<ruby><rb>羅生門河岸</rb><rt>らしょうもんがし</rt></ruby>で遊んで帰るくらいのことは、かねて心得ている男であった。その方からいうと、彼はむしろ外記の味方であったが、きょうばかりはお帰りになる方がよろしゅうござりますと、彼もしきりに勧めた。お嬢さまはゆうべお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みにならないほど御心配の御様子でござりましたとも言った。

「お縫までが……。揃いもそろって困ったやつらだ。よし、よし、きょうは帰る」と、外記は叱るように言った。

腹立ちまぎれに支度さして外記はすぐに駕籠に乗った。寝足らない眼に沁みる朝の空気は無数の針を含んでいるようで、店の前の打ち水も白い氷になっていた。

「お寒うござりましょう。お羽織の上にこれをお召しなされまし」と、女房は気を利かして、綿の厚い貸羽織を肩からふわりと着せかけてくれたが、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れて、焦れ切っている外記には容易に手が袖へ通らないので、彼はますます焦れた。曲がったうしろ襟を直してくれようとする女房の手を払いのけるようにして、彼は思い切りよく駕籠にひらりと乗り移った。

「気をつけてお出でなんし」

綾衣が駕籠の<ruby><rb>垂簾</rb><rt>たれ</rt></ruby>を覗こうとする時に、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>のはげた彼女の襟もとに鳥の胸毛のような軽い雪がふわりふわりと落ちて来た。

けさのこうした別れのありさまを思いうかべながら、綾衣は十畳の座敷につづいた八畳の居間に唯ぼんやりと夢みるように坐っていた。<ruby><rb>大籬</rb><rt>おおまがき</rt></ruby>に育てられた彼女は、浮世絵に描かれた遊女のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しだら</span>のない立て膝をしてはいなかったが、疲れたからだを少しく<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>にして、桐の手あぶりの柔かいふちへ白い指さきを<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>むきに突いたまま、見るともなしに向うの小さい<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を見入っていた。床には一面の琴が立ててあった。なまめかしい緋縮緬の胴抜きの部屋着は、その襟から抜け出した白い頸筋をひとしお白く見せて、ゆるく結んだ水色のしごきのはしは、崩れかかった膝の上にしどけなく流れていた。

入り口の六畳には新造や<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>が長火鉢を取り巻いて、<ruby><rb>竹邑</rb><rt>たけむら</rt></ruby>の<ruby><rb>巻煎餅</rb><rt>まきせんべい</rt></ruby>か何かをかじりながら、さっきまで他愛もなく笑ってしゃべっていたが、金龍山の四つの鐘が雪に沈んできこえる頃からそろそろ鎮まって、禿の声はもう寝息と変った。新造たちもうたた寝でもしているらしかった。

入り口と座敷とに挟まれた綾衣の居間は、昼でも陰気で隅々は薄暗かった。一旦ちらちらと落ちて来てまた降りやんだと思った雪が、とうとう本降りになって来た。奥二階の<ruby><rb>夕雛</rb><rt>ゆうひな</rt></ruby>の座敷には居続けの客があるらしく、夕雛が自慢の琴の音が静かな二階じゅうに冴えてきこえた。しかしその夕雛がほんとうに思っている人は、このごろ遠い<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へさすらいの身となっていることを考えると、その指さきから弾き出される優しい爪音にも、悲しいやるせない女の恨みが籠っているようで、じっと聴いている客は、馬鹿らしくもあり、また憎らしくも思われた。

自分もいつか一度は夕雛さんと同じような悲しい目に逢うのではあるまいか。綾衣はそんなことも考えずにはいられなかった。

六つの時に禿に売られて来て、十六の春から店へ出た。そうして、ことしも二十二の正月を廓で迎えた。<ruby><rb>苦海</rb><rt>くがい</rt></ruby>十年の波を半分以上も泳ぎ越すうちに、あとにもさきにもたった一度の恋をした相手は立派な<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>である。五百石の旗本である。どんなに両方が慕っても泣いてもこがれても、吉原の遊女が天下のお旗本の奥様になれないのは、誰が決めたか知らないが此の世のむごい<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>であった。旗本には限らない、そうじて遊女や<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>と武士との間には、越えることのできない関が据えられていた。人は<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>、なぜ傾城に<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>がられるかというと、一つには末の目当てがないからであった。恋はもちろん打算的から成り立つものではないが、しょせん添われぬと決まっている人と真剣の恋をするほど盲目な女は廓にも少ない。遊女が恋の相手を武士に求めなかったのも自然の道理であった。綾衣もおととしの秋まではそう思っていた。

それがどうしてこうなったか、自分にも夢のようでよく判らないが、その晩のありさまはきのうのことのように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まざまざ</span>と眼に残っている。

たなばた祭りの笹の葉をそよそよと吹きわたる夕暮れの風の色から、廓にも物悲しい秋のすがたが白じろと見えて、十日の<ruby><rb>四万六千日</rb><rt>しまんろくせんにち</rt></ruby>に浅草から青ほおずきを買って帰る仲の町芸妓の袂にも、夜露がしっとりと沁みるのが知れて来る。十二日も十三日も盂蘭盆の<ruby><rb>草市</rb><rt>くさいち</rt></ruby>で、廓も大門口から<ruby><rb>水道尻</rb><rt>すいどうじり</rt></ruby>へかけて人の世の秋の哀れを一つに集めたような寂しい草の花や草の実を売りに出る。遊女もそぞろ歩きを許されて、今夜ばかりは武蔵野に変ったような廓の草の露を踏み分けながら、思い思いに連れ立ってゆく。禿の袂にきりぎりすの籠を忍ばせて帰るのもこの夜である。

綾衣はおととしのこの夜に、初めて外記に逢った。

その晩は星の多い夜であった。仲の町の両側に隙き間もなく積み重ねられた<ruby><rb>真菰</rb><rt>まこも</rt></ruby>や蓮の葉には初秋の涼しい露が流れて、うるんだ<ruby><rb>鼠尾草</rb><rt>みそはぎ</rt></ruby>のしょんぼりした花の上に、亡き<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>の仮りの宿ともいいそうな小さい燈籠がうす暗い影を投げていた。綾衣は新造の綾鶴と禿の満野とを連れて、宵のうちに仲の町へ出た。その途中でかの夕雛に逢った。夕雛は<ruby><rb>起請</rb><rt>きしょう</rt></ruby>を取りかわしている日本橋辺のあきんどの若い息子と、睦まじそうに手をひかれて歩いていた。綾衣も笑いながらその肩を叩いて行き違った。

<ruby><rb>京町</rb><rt>きょうまち</rt></ruby>の角は取り分けて賑わっていた。またその混雑を面白いことにして、わざと人を押して歩く浮かれた男たちも多かった。その中には喧嘩でも売りそうな生酔いもあった。生酔いの一人は綾衣の前に立ちふさがって、酒臭い息をふきながら穴の明くようにじっとその顔を覗き込んだ。こんな人も珍らしくない。綾衣も煩さそうに顔をそむけながら、角を右へ曲がろうとする出逢いがしらに、むこうから来た二人連れの侍に突き当らないばかりに摺れ合って行き違った。と思うと、彼女は不意に袖を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まれてひと足よろけた。すれ違うはずみに綾衣の袖が一人の侍の刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に引っかかって、中身は危うくするりと抜け出そうとしたのを、相手はあわてて押さえようとして、女の袖も一緒に掴んでしまったのであった。

よろけた綾衣は顔と顔とが触れ合うほどに、侍の胸のあたりへ倒れかかった。相手は侍、しかも<ruby><rb>粗相</rb><rt>そそう</rt></ruby>はこっちにある。それと気がついて綾鶴は<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>にあやまった。綾衣も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっこり</span>笑って会釈した。侍も黙ってほほえんで行き過ぎた。人に押されて我知らずふた足三足あるき出してから、綾衣がふと見かえると、先きでもこっちを見返っているらしい、黒く動いている人ごみのあいだに、かの侍の白い顔が浮いて見えた。

「玉琴さんのお客ですよ」と、綾鶴がささやいた。綾衣はあんな侍客を見たことはないと思った。だんだん聞いてみると、刀を引っかけた侍ではない、もう一人の連れの侍がやはり大菱屋の客であるということが判った。

その晩、駿河屋から二人の客が送られて来た。それはさっきの侍で、一人は果たして玉琴の客であった。一人は<ruby><rb>初会</rb><rt>しょかい</rt></ruby>で綾衣を指して来た。

不思議な<ruby><rb>御縁</rb><rt>ごえん</rt></ruby>でおざんしたと、綾衣は笑って言った。今も昔も初会から苗字をあかす者はない。まして侍はお定まりの<ruby><rb>赤井御門守</rb><rt>あかいごもんのかみ</rt></ruby>か何かで押し通すのが習いであったが、一方の連れが馴染みであるだけに、綾衣の客の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>も容易に知れた。番町の旗本藤枝外記とすぐに判った。外記は同役に誘われて、今夜初めて吉原の草市を見物に入り込んだのであった。

連れのひとりは此の時代の江戸の侍にありがちな<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な男であった。<ruby><rb>相方</rb><rt>あいかた</rt></ruby>の玉琴にも面白がられていた。外記は初めてこの里の土を踏んだ<ruby><rb>初心</rb><rt>しょしん</rt></ruby>の男であった。しかし、これも面白く遊ばしてもらって帰った。

「すっきりとしたお侍でおざんすね」と、番頭新造の綾浪も言った。

綾衣はただ笑っていた。

その後も外記は遊びに来た。<ruby><rb>二回</rb><rt>うら</rt></ruby>にはやはり玉琴の客と一緒に来た。<ruby><rb>三回</rb><rt>なじみ</rt></ruby>を過ぎてからは一人でたびたび来るようになった。

玉琴の客はいつか遠ざかってしまったが、外記だけは相変らずかよって来た。綾衣の方でも呼ばずには置かなかった。しょせん添われぬときまっている人が、綾衣の恋の相手となってしまった。これも神のむごいいたずらであろう。もうこうなると、綾衣も<ruby><rb>盲目</rb><rt>もうもく</rt></ruby>になった。末のことなどを見透している<ruby><rb>余裕</rb><rt>ゆとり</rt></ruby>はなかった。その日送りに面白い逢う瀬を重ねているのが、若い二人の楽しい恋のいのちであった。

夕雛の男というのは程を越えた道楽が両親や親類の眼にも余って、去年から勘当同様に大坂の縁者へ預けられてしまった。夕雛は西の空を見て毎日泣いている。それを気の毒とも可哀そうとも思うにつけて、足かけ三年越しもつづいて来た自分たちの恋仲も、やがてこうした破滅に近づくのではあるまいかと、綾衣も薄々おびやかされないでもなかった。

いくら天下のお旗本でも、その年々の<ruby><rb>取米</rb><rt>とりまい</rt></ruby>は決まっている。まして今の江戸の世界では武家よりも町人の方が<ruby><rb>富貴</rb><rt>ふっき</rt></ruby>であることは、客商売の廓の者はよく知り抜いている。たとい遊びの上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼろ</span>を出さずとも、男の内証のだんだんに詰まって来るらしいのは、綾衣の眼にも見えていた。殊に去年の暮れには小普請入りとなった。男の影がいよいよ痩せて衰えてゆくのは明らかになった。それに連れて男の周囲からいろいろの叱責や意見や迫害が湧いて来ることも綾衣は知っていた。神か人か、何者かの強い手によって二人は無慈悲に引き裂かれねばならぬ情けない運命が、ひと足ずつに忍び寄って来ることも綾衣は覚悟していた。

そうなったら仕方がないと、悲しく諦めてしまうことの出来るような綾衣ではなかった。彼女は自分が一度つかんだ男の手は、死んでも放すまいという根強い執着をもっていた。

たとい世間晴れて藤枝家の奥様と呼ばれずとも、妾ならば子細はない。男の家さえ繁昌していれば、江戸のどこかの隅に囲われて、一生をあわれな日蔭者で過そうとも、暗いなかに生きている楽しみはある。綾衣もそのあきらめだけは余儀なくもっていた。しかし、男と永久に手を振り切るというのは、どうしても思い付かないことであった。男の方でも承知する筈がないと綾衣は信じ切っていた。

その望みも危ういものになって来たではないか。考えると彼女も胸が痛んで来た。夕雛の男はいよいよ上方へ発つという前の晩にそっと逢いに来た。二人は泣きたいだけ泣いて別れた。自分も一緒に貰い泣きをしたものの、今夜別れたらもういつ逢われるか知れない男を、無事に見送って帰してやった夕雛の仕方が歯がゆいように思われてならなかった。女も女なら男も男だと、綾衣はひそかにその男の薄情を憎んだ。そうしてまた、ふたりの弱い心を<ruby><rb>憫</rb><rt>あわ</rt></ruby>れんだ。実際、夕雛は気の弱いおとなしい女であった。その<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の気質から考えると、大事の男をおめおめ手放してしまって、今更とらえようもない昔の夢にあこがれて、毎日泣いているのも無理はないとも思われた。いじらしい夕雛の泣き顔を見れば、綾衣も涙がこぼれた。

しかしあの人と自分とは性根の据え方が違うと、彼女はいつも誇るように考えていた。

どんなに性根を強く据えていても、さすがは人間の悲しさに、綾衣はだんだん薄れてゆく自分のさびしい影を、じっと見つめているのは苦しかった。この頃は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こめかみ</span>の痛む日が多かった。胸の痛む日が多かった。取り分けてきょうは雪冷えのせいか、<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>から胸へかけて差し込みが来るように思われた。

「綾鶴さん、綾鶴さん」

低い声で呼んだが、次の間で返事がなかった。二度も三度も呼ばれて、綾鶴はようように寝ぼけたような声を出した。

「花魁。なんざいますね」

「お湯を一杯おくんなんし」

「あい、あい」

藤の<ruby><rb>比翼絞</rb><rt>ひよくもん</rt></ruby>を染めた湯呑みを盆にのせて、綾鶴は<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れぼったい眼をしてはいって来た。いつもの薬を煎じようかと言ったが、綾衣はいらないと言った。明けても暮れても薬ばかり飲んでいては生きている甲斐がないと、彼女はさびしく笑った。

「それでも、こうして起きていなんしては悪うおす。ちっと横におなりなんし」

綾鶴は次の間の夜具棚から<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>や蒲団を重そうに抱え出して来て敷いた。そうして、人形を扱うように綾衣を抱え、蒲団の上にちゃんと坐らせた。綾衣はおとなしくして湯を飲んでいた。

「花魁。いつの間にか積もりんしたね」

座敷の<ruby><rb>櫺子窓</rb><rt>れんじまど</rt></ruby>をあけて外を眺めていた綾鶴が、中の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の方へ向いて声をかけた。ちっとの間に雪がたくさん積もったから、ちょいと来て見ろと<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>らしく言うので、綾衣はしずかに起って座敷へ行った。白い<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>にからむ部屋着の裾にも雪の日の寒さは沁みて、去年の暮れに入れ替えたばかりの新しい畳は、馴れた素足にも冷たかった。

雪は綿と灰とをまぜたように、大きく細かく入りみだれて横に縦に飛んでいた。<ruby><rb>田町</rb><rt>たまち</rt></ruby>から<ruby><rb>馬道</rb><rt>うまみち</rt></ruby>につづいた家も土蔵ももう一面の白い<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>をなすられて、<ruby><rb>待乳</rb><rt>まつち</rt></ruby>の森はいつもよりもひときわ浮きあがって白かった。傘のかげは一つも見えない浅草田圃の果てに、<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>の大池ばかりが薄墨色にどんよりとよどんで、まわりの竹藪は白い重荷の下にたわみかかっているらしかった。朝夕に見る五重の塔は薄い雲に隔てられたように、高い<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>が吹雪の白いかげに見えつ隠れつしていた。

こんなに美しく降り積もっていても、あしたは<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>なく消えてしまうのかと思うと、春の雪のあわれさが今更のように綾衣の心をいたましめた。ことし初めて降る雪ではない。そうとは知っていながらも、物に感じ易くなった此の頃の彼女の眼には、きょうの雪が如何にも美しく、果敢なく悲しく映った。

彼女はいつまでも櫺子にすがって、眼の痛むほどに白い雪を眺めていた。

四

雪はその日の<ruby><rb>夕</rb><rt>くれ</rt></ruby>にやんだが、外記は来なかった。その明くる夜も<ruby><rb>畳算</rb><rt>たたみざん</rt></ruby>のしるしがなかった。その次の日に<ruby><rb>中間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の角助が手紙を持って来た。あの朝の寒さから風邪の心地で寝ているので、三日四日は顔を見せられないというのであった。

返事をくれと言って待っている角助に綾衣は自身で逢って、殿様はほんとうに御病気か、それとも何かほかに御都合があるのかと念を押して<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。いや、ほかになんにも子細はない、ほんとうの御病気であるという角助の返事を聞いて、綾衣は少しく安心した。

それから此の頃の屋敷の様子や、外記にかかわる親類たちの噂などを根掘り葉掘りいろいろ聞きただしたが、世間慣れている角助は<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>ない受け答えをして、綾衣に聞かして悪いようなことはなんにも言わなかった。彼は綾衣が返事の<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>といくらかの使い賃とを貰って帰った。

ほかに子細はないというので少しは安心したものの、ぬしの病気と聞けば、また気がかりであった。綾衣はすぐに<ruby><rb>遣手</rb><rt>やりて</rt></ruby>のお<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>を浅草の観音さまへ病気平癒の代参にやった。その帰りに<ruby><rb>田町</rb><rt>たまち</rt></ruby>の占い者へも寄って来てくれと頼んだ。

雪どけのぬかるみをふんで、お金は浅草へ参詣に行った。田町には名高い占い者があって、人相も観る、<ruby><rb>墨色</rb><rt>すみいろ</rt></ruby>判断もする、人の生年月日を聴いただけでもその<ruby><rb>吉凶</rb><rt>きっきょう</rt></ruby>を言い当てる。お金は帰りにここへも寄って、外記の生まれ年月をいって判断を頼んだ。占い者は首をひねって、今度の病気はすぐに<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>る。しかし、この人は半年のうちに大難があると<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>すように言った。

迷信のつよい<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>の女は身の毛が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よだ</span>って早々に帰って来た。しかし綾衣にむかって正直に天機を洩らすのを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って、今度の病気だけのうらないを報告しておいた。それでも此のおそろしい秘密を自分ひとりの胸に抱えているのは何だか不安なので、ある時そっと新造の綾鶴にささやいた。それが又いつか綾衣の耳へもはいった。

「そんなら、わたしのも見てもらっておくんなんし」

お金は薄気味わるがって毎日ゆきしぶっているので、今度は綾衣がふだんから贔屓にしているお<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>という仲の町の芸妓が頼まれた。お静は田町へ行って綾衣の生まれ月日を言うと、占い者は又もひたいに皺を寄せて、この女には剣難の<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>があると言った。お静も真っ蒼になってふるえて帰った。綾衣にむかって何と答えてよかろうか、お静も一時はひどく困ったが、もう四十に近い女だけに彼女は考え直した。

花魁は夜毎に変った客に逢う身である。どんな酔狂人か気まぐれ者に出逢って、いつどんな災難を受けまいものでもない。当人が平生からその用心をしていれば、なんにつけても油断がなく、まさかの時にも危うい災難を逃がれることができるというもの。これはいっそ正直に打ち明けて、当人に注意を与えておいた方が却ってその身のためであろう。こう思って、お静は占い者の判断をいつわらず綾衣に報告した。

「ですから、気をおつけなせえましよ。そうして、<ruby><rb>神信心</rb><rt>かみしんじん</rt></ruby>を怠っちゃあなりやせん」と、お静は親切に言った。

こんな話は当人ぎりで、誰の耳へもひびく筈ではないのであるが、お静が仲の町の茶屋へ遊びに行って、何かの話をしているうちに、かの占い者の噂が出た。そのときに自分が或る花魁に頼まれて行ったら、剣難の相があると言われてびっくりしたというようなことを、うっかりしゃべった。勿論、お静は綾衣の名を指しはしなかった。しかし前後の話の工合いから、それはどうも綾衣らしいという噂が立った。大菱屋の亭主も心配し出した。廓という世界に生きている人たちに対しては、うらないやお<ruby><rb>神籤</rb><rt>みくじ</rt></ruby>が無限の権力をもっていた。

亭主は綾衣を呼んでそれとなく注意を与えた。綾衣は黙って聴いていた。

剣難といえば先ずひとに斬られるか、みずからそこなうかの二つである。呪われたる人の多い世ではあるが、遊女にはこの二つの危険が比較的に多かった。取り分けて遊女屋の主人に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いするのは、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>に最も多い心中沙汰であった。恋にとけあった男と女とのたましいが、なにかの邪魔を突き破って無理に一つに寄り合おうとすれば、人間を離れたよその世界へ行くよりほかなかった。

法律の力で<ruby><rb>心中</rb><rt>しんじゅう</rt></ruby>の名を<ruby><rb>相対死</rb><rt>あいたいじに</rt></ruby>と呼び替えても、人間の情を焼き尽くさない限りは何の防ぎにもならなかった。吉原で心中を仕損じた者は、日本橋へ三日<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>した上で非人の<ruby><rb>手下</rb><rt>てか</rt></ruby>へ引き渡すと定めても、それは何のおどしにもならなかった。心中のなきがらは赤裸にして手足を縛って、<ruby><rb>荒菰</rb><rt>あらごも</rt></ruby>に巻いて<ruby><rb>浄閑寺</rb><rt>じょうかんじ</rt></ruby>へ投げ込むという犬猫以上の怖ろしい仕置きを加えても、それはいわゆる「<ruby><rb>亡八</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の者」の残酷を証明するに過ぎなかった。情に生きて情に死ぬ男と女とは、切支丹の殉教者と同じ勇気と満足とをもって、この迫害の前に笑って立った。

遊女屋の座敷で心中した者があると、主人はその遊女一人を失ったばかりでない、検視の費用、その座敷の改築などに、おびただしい損害と迷惑とを引き受けなければならないので、彼らは心中を毒蛇よりも恐れた。大菱屋の亭主も自分の抱え遊女のうちから剣難の相があるという綾衣を見いだした時に、彼は未来の恐るべき禍いを想像するに堪えなかった。

綾衣には外記という男がある。それが普通一遍の客でないことは、大菱屋の二階はいうまでもなく廓じゅうにももう拡まっている。それがために綾衣の客は次第に薄くなってゆく。それだけでも亭主としては忌な顔をせずにはいられなかった。外記の小普請入りも亭主はもう知っていた。その矢先きへ、綾衣のひたいに剣難の<ruby><rb>極印</rb><rt>ごくいん</rt></ruby>が打たれたと聞いては、彼がおびえたのも無理はなかった。

こうした場合の予防手段は、その客を「<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>く」よりほかはなかった。しかし外記はかつて茶屋の支払いをとどこおらせたこともなかった。綾衣が<ruby><rb>身揚</rb><rt>みあが</rt></ruby>りするという様子も見えなかった。大菱屋ではいかに未来の危険を恐れていても、差し当っては外記をことわる口実を見いだすのに苦しんで、単に注意人物として遠巻きに警戒しているに過ぎなかった。

その注意人物は病気で十日ほども遠退いたが、その後は相変らず足近くかよいつめて、亭主のひたいにいよいよ深い皺を織り込ませた。二月の<ruby><rb>初午</rb><rt>はつうま</rt></ruby>は雨にさびれて、廓の梅も雪の消えるように散ったかと思う間に、見返り柳はいつかやわらかい芽を吹いて、春のうららかな影は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たわわ</span>になびく枝から枝に動いた。

雛の節句の前夜に外記は来た。大抵のよい客はあしたの<ruby><rb>紋日</rb><rt>もんび</rt></ruby>を約束して今夜は来ない。引け過ぎの廓はひっそりと沈んで、絹糸のような春雨は音もせずに軒を流れていた。

「お<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の首尾はどうでありんすえ」

綾衣に訊かれても男はただ笑っていた。

内そとの首尾の悪いのは今さら言うまでもない。部屋住みの身分でもなし、隠居の親たちがあるのではなし、自分は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">れっき</span>とした一家の主人でありながらも、物堅い武家屋敷にはそれぞれに窮屈な掟がある。いくら家来でも譜代の用人どもには相当遠慮もしなければならない。外には市ヶ谷の叔父を始めとして大勢のうるさい親類縁者が取り巻いている。これらがきのう今日は一つになって、内と外から外記の<ruby><rb>不行跡</rb><rt>ふぎょうせき</rt></ruby>を責め立てている。味方は一人もない。四方八方はみな敵であった。

しかしそれを恐れるような弱い外記ではなかった。何百人の囲みを衝いても、自分は自分のゆくべき道をまっすぐに行こうとしていた。自分はそう覚悟していればそれでよい。詰まらない愚痴めいたことを言って、可愛い女によけいな苦労をさせるには及ばないと、彼は努めてなんにも言うまいと心に誓っていた。綾衣が何を訊いても、彼はいつも晴れやかな笑いにまぎらして取り合わなかった。

その心づかいは神経のするどい綾衣によく判っていた。殊に外記が今夜の笑い顔には、拭き消すことのできない陰った汚点が濃くにじんでいるのを認めていた。

「なんだか今夜は顔の色が悪うおす。また風邪でも引きなんしたかえ」

綾衣は枕もとの煙草盆を引き寄せて、<ruby><rb>朱羅宇</rb><rt>しゅらお</rt></ruby>の<ruby><rb>長煙管</rb><rt>ながきせる</rt></ruby>に一服吸い付けて男に渡した。

外記は<ruby><rb>天鵝絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>に緋縮緬のふちを付けた三つ蒲団の上に坐っていた。うしろに<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけられた<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>は同じく緋縮緬の裏を見せて、燃えるような真っ紅な口を大きくあいていた。綾衣は床の中へは入らずに、酔いざめのやや蒼ざめた横顔をうす暗い行燈に照らさせながら、枕もとにきちんと坐っていた。

「いや、おれは別にどうでもない。お前こそこの頃は顔の色がよくないようだが、また血の道でも起ったのか」

「いいえ」

外記のくゆらす煙りは立て廻した金屏風に淡い雲を描いて、さらに枕もとの床の間の方へ軽くなびいて行った。綾衣は雛を祭らなかったが、床の間には源平の桃の花が生けてあった。外記は夜目に黒ずんだその花を見るともなしに眺めていた。二人は又しばらく黙っていた。

女は男の心の奥を測りかねていた。男は言うに言われない苦労を胸に抱えているらしく思われるのに、なぜあらわに打ち明けてくれないのか。それが水臭いような、恨めしいようにも思われてならなかった。どんな事でもいい、聞けば聞いたように自分にも覚悟がある。たとい天が落ちて来ようとも地が裂けようとも、今更おどろくような意気地なしの自分ではない。それは<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>知っている筈の外記がなぜ卑怯に隠し立てをするのか、それが憎いほどに怨めしかった。今となって男の心が疑わしくもなった。

「ぬしは奥様でもお貰いなんすのかえ」

途方もない不意撃ちを喰らわして探りを入れると、外記は思わず噴きだした。

「馬鹿を言え、そんな気楽な沙汰かい」

「気楽でないと言わんすなら、また新しい苦労でも殖えなんしたかえ。<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>はなぜそのように物を隠しなんす。お前、ひと<ruby><rb>間住居</rb><rt>まずまい</rt></ruby>とやらにでもなりんすのかえ」と、綾衣は厚い<ruby><rb>三栖紙</rb><rt>みすがみ</rt></ruby>を膝に突いて摺り寄った。

一間住居というのは座敷牢である。武家で手にあまる道楽者などがあると、<ruby><rb>戸障子</rb><rt>としょうじ</rt></ruby>を釘づけにした暗いひと間をあらかじめ作っておいて、親類一同が立会いで本人に一間住居を言い渡す。そうなったら否も応もない。大勢がまずその大小を奪い取って、<ruby><rb>手籠</rb><rt>てご</rt></ruby>めにしてその暗いひと間へ監禁してしまうのである。廓へ深入りした若侍でこの仕置きを受けた者がしばしばあることは、綾衣もかねて聞いていた。

「実はそんな相談もあったらしい」と、外記ももう隠していられなくなった。口では苦笑いをしながらも、すぐにそのくちびるから軽い溜め息がもれた。

「おや、そんなら何どきそのむごい目に逢わんすかも知れんすまいに、おまえ、その時はどうしなんす」

「それは当分沙汰止みになったらしい、市ヶ谷の叔父が不承知で……。叔父はずいぶん口<ruby><rb>喧</rb><rt>やか</rt></ruby>ましいのでうるさいが、又やさしい人情もある。もう少し仕置きを延ばして、当人の成り行きを見届けるというような意見で、ほかの親類共もまず見合せたらしい。こんなことはみんなおれに隠しているが、角助めがどこからか聞き出して来る。なかなか抜け目のない奴だ」

笑う顔のいよいよ寂しいのが綾衣の眼には悲しく見えた。この頃は少しく細ったような男の白い頬に、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のおくれ毛が微かにふるえているのも美しいようでいじらしかった。

「でも、いつまでもこの通りでいなんしたら、遅かれ速かれ、やっぱり一間住居に決まりんしょうが……」

「一間住居は蹴破っても出る」と、男の眼には反抗の強い光りがひらめいた。

綾衣はぞっとするほど嬉しかった。彼女はいつもこの強いひとみに魅せられるのであった。

「しかし<ruby><rb>甲府勝手</rb><rt>こうふがって</rt></ruby>と来ると、少しむずかしい」と、男はまた投げ出すように言った。

「甲府勝手とは何でありんすえ」

「遠い甲州へ追いやられるのだ。つまり山流しの格だ」

もうどうしても手に負えないと見ると、支配頭から甲府勝手というのを申し渡される。表向きは甲府の城に在番という名儀ではあるが、まず一種の島流し同様で、大抵は生きて再び江戸へ帰られる目当てはない。一生を暗い山奥に終らなければならないので、さすがの道楽者も甲府勝手と聞くとふるえあがって、余儀なく兜を脱ぐのが習いであった。

一間住居から甲府勝手、こうだんだんに運命を畳み込んで来れば、その身の滅亡は決まっている。勿論、出世の見込みなどがあろう筈はない。外記はそれすらも<ruby><rb>敢</rb><rt>あ</rt></ruby>えて恐れなかったが、万一遠い甲州へ追いやられたら、しょせん綾衣に逢うすべはない。二人を結び合わせた堅いきずなも永久に断たれてしまわなければならない。男に取ってはそれが何よりも苦痛であった。

黙って聴いている女の思いも、やはり同じどん底へ落ちて行った。半年のうちには大難があると言った占い者の予言は、<ruby><rb>焼金</rb><rt>やきがね</rt></ruby>のように女の胸をじりじりとただらして来た。

綾衣の膝からすべり落ちた<ruby><rb>三栖紙</rb><rt>みすがみ</rt></ruby>は白くくずれて、彼女は懐ろ手の襟に<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を埋めた。何か言いたい大事なことが喉まで突っかけて来ていても、今はまだ言うべき時節でないと無理に呑み込んで、彼女はきっと口を結んでいた。

やわらかい雨の音はささやくように低くひびいた。近所の<ruby><rb>小店</rb><rt>こみせ</rt></ruby>で時を打つ<ruby><rb>柝</rb><rt>き</rt></ruby>の音が拍子を取って遠くきこえるのも寂しかった。行燈の暗いのに気がついて、綾衣は袂をくわえながら、片手で燈心をかかげた。その片明かりに映った外記の顔はいよいよ蒼白かった。

「まあ、いい。その時はその時のことだ。取り越し苦労をするだけが馬鹿というものだ」と、外記は捨て鉢になったように言った。

「ほんとうに、どうなるやら知れない先きのことを、前から苦労するのは馬鹿らしゅうありんすね」

運命の力が強く圧しつけて来るのを十分に意識していながら、男も女も<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えられるだけは堪えて見ようと、冷やかに白い歯を見せていた。しかもその歯を洩れる息は<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>であった。

五

団十郎の芝居にありそうな仲の町の華麗な桜も、ゆく春と共にあわただしく散ってしまって、<ruby><rb>待乳</rb><rt>まつち</rt></ruby>の森をほととぎすが啼いて通る<ruby><rb>広重</rb><rt>ひろしげ</rt></ruby>の絵のような涼しい夏が来た。五月には廓で<ruby><rb>菖蒲</rb><rt>しょうぶ</rt></ruby>を<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えたという噂が箕輪の若い衆たちの間にも珍らしそうに伝えられたが、十吉は行って見ようとも思わなかった。

五月のなかごろから暗い日がつづいた。箕輪田圃では<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>がやかましく鳴き出した。十吉の家を取り巻いた蓮池には青い葉が一面に浮き出して来て、ここでも蛙が毎日鳴いた。

「蛙がたくさん鳴く年には<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>がたくさん降る」

お時が言った通り、ことしの梅雨は雨の量が多かった。

ここらの藁屋根が腐るほどに毎日降った。<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>というものがまるで<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くなってしまったのではないというしるしに、時どきうすい影を投げることもあるが、それは忽ち暗い雲の袖に隠れてしまった。

「<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん。よく降るねえ」

十吉は縁側から空を仰いで、つくづく飽き果てたように言った。五月末の夏の日も小やみのない雨に早く暮れて、古い家の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>ずみには藪蚊が人をおどすように唸っていた。

「あんまり雨が降るので、きのうも今日もお米坊が見えないね」

「むむ」と、十吉はなんだかきまりの悪いような返事をしていた。お米と十吉とはゆくゆく夫婦にするつもりで、お時も承知、お米の親たちも承知しているのであった。お米の噂が出ると、年の若い十吉はいつも顔を赤くしていた。

雨戸を閉めてしまって、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は炉の前にむかい合った。降りつづいた梅雨の夜はうすら寒かった。雨は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざあざあ</span>と降っている。近所の田川が溢れるように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごぼごぼ</span>と流れる音が雨にまじってさわがしく聞えた。

明けても暮れても母子さし向いのこの一家では、別に新しい夜話の種もなかった。二人は黙って別々に自分の思うことを考えていた。若い十吉はお米のことを思うよりほかはなかった。お時はさすがに思うことが多かった。わが子のこと、嫁のこと、それから殿様のこと、それからそれへと毎日同じことがいろいろに考えられた。そのうちでもこの頃のお時の胸をいっぱいに埋めているのは、番町の殿様の問題であった。箕輪と山の手と懸け離れていては、そうたびたびたずねて行く訳にはいかない。たとい近いとしても、うるさく出這入りはできない。ただ、よそながら案じているばかりである。

先月そっとお屋敷をたずねた時にも、殿様はやはりお留守であった。お嬢さまの顔はいよいよ<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れていた。ことしになっても殿様の放埒はちっともやまないとのことであった。お時は又もや涙ぐんで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぼとぼ</span>と帰って来た。

自分の力ではどうにもならないとは知りながらも、自然の成り行きに任して置くということは考えるさえも怖ろしかった。

万々一いよいよ甲府勝手でも仰せ付けられたら、藤枝のお<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>はつぶれたも同様である。お時は自分の乳をあげた若様がそんな不心得な人間になったということは、なんだか自分にも重い責任があるようで、心苦しくってならなかった。

今夜もそれを繰り返していると、十吉は退屈そうに<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた天井を仰いでいた眼を表の方に向けて、雨の音に耳を引っ立てた。

「おお、降る、降る。まるで嵐のようだ」

なるほど、雨は土砂降りであった。風も少しまじって来たと見えて、庭の若葉が掻き廻されるようにざわめいていた。<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>もさすがに鳴く音を止めてしまった。

<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>は雨のひびきに消されて聞えなかったが、人が<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に近寄ったらしい。雨戸を叩く音が低くきこえた。母子は眼を見合せた。

「この降るのに誰だろう」

十吉は起って縁さきに出た。戸を叩く音は又きこえた。

「あい、あい。今あける」

きしむ雨戸をこじあけて覗くと、闇のなかには竹の子笠をかぶって<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>を着た人が突っ立っていた。人はしずくの<ruby><rb>滴</rb><rt>た</rt></ruby>れる笠をぬぐと、行燈を持って出たお時がまず驚かされた。それは今も胸に描いていた番町の殿様であった。

十吉もやっと気がついてびっくりした。なにしろこちらへと慌てて招じ入れると、外記は更にうしろを見返って無言で招いた。

今まで見いださなかったが、暗い雨の中にはまだ一人の蓑と笠とが忍んでいた。ぬれた蓑の袖からは溶けるような紅の色がこぼれ出していた。

「お前さまもどうぞこちらへ」と、誰だか知らないがお時は取りあえず会釈した。十吉は急いで<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の水を持って来た。二人は蓑をぬいで足を洗った。

外記は浅黄色の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>の裾を高くからげて、大小を落し差しにしていた。女は緋の長襦袢の上に黒ずんだ縮緬を<ruby><rb>端折</rb><rt>はしょ</rt></ruby>って、水色の<ruby><rb>細紐</rb><rt>しごき</rt></ruby>を結んでいた。顔を包むためか、白い手拭を吹き流しにかぶって手に笠を持っていた。二人とも素足であった。女の白い<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>に紅い襦袢がぬれてねばり着いているのは<ruby><rb>媚</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしいというよりも痛々しかった。

この雨の夜に殿様と連れ立って来た美しい女が誰であるかは、お時にもたいてい想像されたので、彼女は十吉に眼くばせして雨戸をぴったり閉めさせた。男はすぐに炉のそばへ寄って来て、ぬれた袂を乾かした。女は手拭をとって、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のしずくが玉と散るのを払ったりしていた。

「殿様。いらっしゃりませ」

母子がうやうやしく手をついて、ひたいを畳に摺り付けるのを、外記は手をあげて制した。

「いや、その挨拶はやめてくれ。乳母はおれの留守にたびたび来たそうだから、大抵の話は聴いているだろう。くどくは言わない。当分この女を預かってくれ」

言う尾について女も軽く会釈した。

「わたしは大菱屋の綾衣でおざんす。お前がたの頼もしいことは、<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>からもかねて承わっていやんした。どうぞよろしく頼みんす」

お時は挨拶に困って、ただ「はい、はい」と、幾たびか頭を下げていた。十吉は<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られて、透き通るように白い女の顔をぼんやりと眺めていた。

箕輪田圃の雨にぬれて、この百姓家へ不意に押し掛けて来た二人は、言うまでもなく駈落ち者であった。大菱屋では綾衣の客はますます落ちる。外記はしげしげかよって来る。二人がだんだんに行き詰まって来るのはもう眼に見えているので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はらはら</span>しながら見張っていると、綾衣が新造の綾浪に頼んで<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の櫛と<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>とを質に入れさせた。それは外記のためであるということが判ったので、かねて機会を待っていた大菱屋ではこれを<ruby><rb>究竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の口実にして、すぐに茶屋に通じて外記を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>いた。

茶屋は年来の馴染みであるから一応は抗議を申し込むべきであったが、これも二人が昨今の突き詰めた有様に不安を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていたので、当分は足をお抜きになった方がお二人さんのお為でござりましょうと、外記にも意見した。もうこの上は理屈をいっても仕方がない。外記はとうとう大菱屋の二階を堰かれてしまった。

この場合に外記のために働く者は中間の角助のほかはなかった。彼は主人の内意を受けて、仲の町の茶屋へ行ってうまく口説いた。そうして、外記から綾衣に宛てた手紙を届けてくれと頼んだ。頼まれた茶屋では迷惑したが、断わるにもことわり切れないで、ともかくも其の手紙をそっと綾衣に取次いだ。綾衣からも返事があった。

今夜の雨を幸いに、外記はおはぐろ<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の外に待っていた。宵の口の混雑にまぎれて、綾衣は<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>窓を破って屋根伝いに抜け出した。外記は用意して来た蓑笠に二人の姿を忍ばせて、女を曳いて日本堤を北へ、箕輪の里に一旦の隠れ家を求めに来たのであった。

この話を聴いて、お時は困った事ができたと<ruby><rb>吐胸</rb><rt>とむね</rt></ruby>をついた。困ったとは思いながらも、今さら殿様を責める気にもなれなかった。綾衣を憎む気にもなれなかった。かえって何だか<ruby><rb>惨</rb><rt>いじ</rt></ruby>らしいような気にもなって、二人を列べて見ている彼女の眼がおのずとうるんで来た。

五百石の殿様と吉原の花魁がこの雨の中を<ruby><rb>徒跣足</rb><rt>かちはだし</rt></ruby>で落ちて来るとは、よくよく思い合っていればこそで、ただひと口に無分別の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふしだら</span>のと悪くばかり言う訳にもいくまい。二人の身になって見たらば、又どんなに悲しい切ない事情が<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んでいるかも知れない。お<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>も勿論大切ではあるが、こうまで思い詰めている若い二人を無理に引き裂くのは、小雀の眼に針を刺すという世の<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>よりも、猶更むごい痛々しい仕方ではあるまいか。

困ったことではあるが、もう仕方がない。無理もない。後はともあれ、差しあたってはお世話するよりほかはあるまいと、お時も迷わずに思案を決めた。

「よろしゅうござります。綾衣さまは確かにお預かり申しました。しかし殿様はお屋敷へお帰り下さりませ。お判りになりましたか」

「むむ。おれまでが厄介になろうとは思わない。女だけをなにぶん頼むぞ」

「かしこまりました」

外の雨は<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>としぶいて、古い雨戸は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がたがた</span>と揺れた。

「<ruby><rb>湿</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて来たせいか寒くなった。もう少し炉をくべてくれ」と、外記は肩をすくめて言った。

「ほんに気がつかずに居りました。お二人ともそのぬれた召し物ではお冷えなさりましょう。まずお召し替えをなされませ」

お時は戸棚の<ruby><rb>古葛籠</rb><rt>ふるつづら</rt></ruby>の底を探したが、小柄の十吉の着物では間に合いそうもないので、彼女は二枚の女物を引き出した。縞の銘仙の一枚は、外記が五つの<ruby><rb>袴着</rb><rt>はかまぎ</rt></ruby>の祝儀の時にお屋敷から新しくこしらえて頂いたのを、物持ちのいい彼女は丹念に保存して置いたのである。もう一枚の<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>は奥様のお形見として頂戴したもので、いずれも薄綿であった。

「女物ではござりますが、奥様のお形見でござります」と、彼女は外記に紬を着せてやった。綾衣は銘仙を羽織った。

母の形見に手を通して、外記も懐かしいような寂しいような、なんだか暗い心持ちになった。そのお形見がこういう時の役に立とうとは、お時も夢にも思わなかった。彼女は急に悲しくなって、訳もなしに涙が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほろほろ</span>とこぼれた。

六

外記は明くる朝早く帰った。帰るときにも綾衣のことをくれぐれも頼んで行った。

頼まれたお時おやこの気苦労はひと通りでなかった。それも普通の人でない、くるわの駈落ち者である。しかも眼と鼻のあいだに廓を控えているここらあたりに、その駈落ち者をかくまって置くのは、燈台もと暗しとはいえ、随分あやうい仕事であった。それでも<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は大胆にその役目を果たそうとした。

狭い家ではあるが奥に四畳半の<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>がある。お時も綾衣に因果をふくめて、そのひと間の内に封じ込めてしまった。昼は一歩も外へ出ないで、幽霊のように夜を待って綾衣はそっと炉のそばへ這い出して来た。外記も夜道を忍んで時どきに逢いに来たが、箕輪田圃で蛍を追う子供たちにも怪しまれないのは<ruby><rb>僥倖</rb><rt>さいわい</rt></ruby>であった。

それが七、八日はまず無事にすごしたが、こういううしろ暗いことをしているのは、根が正直の母子に取って堪えられない苦痛であった。かれらは急に世間が怖ろしくなった。物の音にも胸をはずませて、おびえた心持ちで日を送ることが多かった。かれらは明るい夏の日の光りを見るのを恐れて、いつまでもこの暗い天気がつづけばいいと祈っているようになった。

それに付けても、その後の廓の模様が知りたかった。馬道に住んでいる廓まわりの女髪結の一人を、お時はかねて識っているのを幸いに、これを訪ねてよそながら様子を探ろうと、彼女は雨の小やみを待って<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎから出て行った。

空を染めている薄墨の色も少し<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げて、ちぎれて迷う雲の間から、時どき思い出したようにうす明かるい初夏の光りが洩れた。しめり切って重そうにうなだれている庭の若葉は、そよ吹く風に身ぶるいをして青いしずくを振るいおとした。田圃でも池でも蛙がまた鳴き出した。十吉は縁に腰をかけて、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた土に三つ四つころげている青梅の実を眺めていたが、やがてふいと眼をあげて表を見た。

まばらな<ruby><rb>竹籬</rb><rt>たけがき</rt></ruby>の外に立って、お米は息を殺したようなふうで一心に内を覗いていた。いつもは遠慮なしにはいって来るのに、きょうは竹籬を境にして迂闊に庭へ踏み込もうとはしなかった。十吉があごで招いても、彼女は無言で<ruby><rb>情</rb><rt>すげ</rt></ruby>なく<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>をふった。

「おっかさんはいない。おはいりよ」と、十吉は小声で呼んだ。が、お米はやはり<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねたようにためらっていた。

十吉は低い下駄を突っかけて、庭の水溜りを蛙のように飛び越えながら竹籬の外へ出た。そうして、まだ素直に来そうもないお米の手を取って、無理に内へ連れ込んで来たが、お米はやはり立ったままで縁に腰をおろそうともしなかった。

「この頃ちっとも来なかったね」

「来るとお邪魔だろうと思って……」と、お米はことし十六の小娘に似合わない、怖い眼をして十吉を睨んだ。その眼がしらには涙が浮いていた。

十吉には理屈が判らなかった。

「どうかしたの」と、彼は不思議そうにお米の顔をのぞくと、相手は顔をそむけて手拭を眼に当てた。すすり泣きをしているらしい。十吉も手が着けられなかった。しかし、打っちゃっても置かれないので女の肩に手をかけて無理に縁に押し据えて、いろいろに<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めながら子細を訊くと、お米の小さい胸には思いも付かない妬みの火が燃えていた。<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の奥に封じ込めておいた美しい駈落ち者を、お米はいつか見つけ出していたのであった。

なんにも知らない、まして歳の行かないお米は、その美しい女をいちずに自分の仇と呪って、あわせてお時を怨んだ、取り分けて十吉を恨んだ。もう二度とここの家へは足踏みをしまいと思ったが、その位でとても堪忍のできることではなかった。彼女はこの頃の雨にぬれながら時どきに様子を窺いに来たが、懸け違って外記の姿を見つける機会はなくて、あいにくにいつもお時や十吉がその憎い女と睦まじそうに語らっているところばかりが、彼女の疑いの眼に映った。お米の胸は妬みの火にやけただれた。

きょうも自分の家の前でお時に逢ったが、お米はわざと顔をそむけていた。田圃づたいに長い堤をあがってゆくお時のうしろ影を腹立たしいような心持ちでしばらく見送っていたお米は、母の留守を幸いに女と差し向かいになっている十吉のことを考えると、総身の血が沸き上がって頭が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐらぐら</span>して来た。彼女は前後の分別もなしに家を駈け出して、垣根越しに内の様子を覗きに来たのであった。

「そりゃあ飛んでもない間違いだ」

十吉は呆れたような、困ったような眼をみはって、しばらく黙っていた。お米は縁に俯伏したままで肩をゆすって泣いていた。

「ありゃあ少しわけがあって、よそから預かっているお人だ」と、十吉はお米の耳に低くささやいたが、疑いに凝り固まっているお米は容易に<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。

あの女はどこの何者で、誰に頼まれて預かってあるということを、十吉は詳しく説明するのを恐れた。殿様を大事に思う正直<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>の心から、お時は固く十吉を戒めて、誰にもこの秘密を明かしてはならない、お米にも決して明かしてはならないと言い含めて置いた。母の血を受けて生まれた十吉は、この戒めを破るには余りに正直過ぎていた。ましてこういう場合のあることを夢にも予想していなかった彼は、お米の疑いを解くに適当な手段を考え出すことができなかった。

「わたしが何でほかの女なぞを連れて来るものか、積もって見ても知れたことだ。まあ、黙って見ているがいい。あとで自然に判るから」

十吉はこんなことを小声で繰り返していた。一方にはお米をなだめながら、また一方にはこんなことを奥の人の耳に入れるのも恥かしいように思ったので、お米の泣き声が高くなるほど、彼は奥を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はらはら</span>していた。

あの女はどこの誰だとお米は執念ぶかく問い詰めたが、十吉ははっきり答えることができないで、相変らずおどおどしているので、<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>に突き詰めた若い女の胸はもう張り切って破れそうになった。

「覚えているがいい」

持っていた手拭を男に叩き付けてお米は<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>と起った。顔いっぱいの涙を丸めた袂で強く拭いたかと思うと、彼女は忽ち<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になって、横手の蓮池を目ざして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つかつか</span>と駈け出した。池はこの頃の雨に<ruby><rb>水嵩</rb><rt>みずかさ</rt></ruby>をおびただしく増して、蓮の浮き葉は濁った泥の浪に沈んでいた。

十吉はおどろいた。これも跣足になって駈け出して、もうひと足のところを<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>から危うく曳き戻した。お米は狂人のように身をもがいたが、男の力にはかなわないで再び縁さきまで泣きながらよろけて帰った。

奥にひそんでいる問題の人はこの争いをさっきから窺っていて、出ようか出まいかと躊躇していたが、もう堪まらなくなって<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>をあけた。彼女はしずかに縁さきに出て、そこに泣き倒れているお米の肩をやさしくなでた。

「もし、お米さんとかいう子、お前も短気はやめなんし。わたしはこう見えてもほかに立派な男がおざんす。ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のお嫁かなんぞのように疑われては、十さんも迷惑、わたしも馬鹿らしゅうおす。もういい加減に泣くのを止めて、十さんと仲好くおしなんし」

まだ腑に落ちないような恨み顔をしているお米にむかって、綾衣はしみじみと言って聞かせた。相手の名はあらわには明かされないが、自分は廓にいる時から或る武家と言い交して、それがために駈落ちの日かげ者となってこの家に隠まわれている。十さんがそれを<ruby><rb>秘</rb><rt>かく</rt></ruby>しているのは、つまりわたし達のためを思うからのことで、お前の疑うのは無理もないが、疑われた十さんは実に気の毒である。決して思い違いをしてはならないと言った。

お米も<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く疑いがほぐれて来た。今までは垣覗きの遠目でよく判らなかったが、こうして顔と顔とを突き合わせて親しくその人をみあげると、その鈴を張ったような大きい眼、しっかりと結んでいる口もとに、犯し難い一種の威をもっているようにも思われて、お米はなんだかまぶしく感じられた。しかもその眼には偽らない誠の光りがひそんで、その口には優しいなさけがこもっていることも、彼女の心を惹き付けた。この人が自分を<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>そうとはお米もさすがに思われなかった。彼女はおとなしく聴いていた。

綾衣は又こんなことを言った。

お前が十さんと約束のあることは、わたしもここの<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんから聴いて知っている。こうして列べて見たところが丁度似合いの夫婦である。お前さん達は羨ましい。たとい一生を藁ぶき屋根の下に送っても、思い合った同士が仲よく添い遂げれば、世に生きている甲斐がある。いくら花魁の、太夫のと、うわべばかりに<ruby><rb>綺羅</rb><rt>きら</rt></ruby>を飾っても、わたし達の身の果てはどう成り行くやら。仕合せに生まれた人たちと不仕合せに生まれた者とは、こうも人間の運が違うものか。返すがえすもお前さん達が羨ましくてならない。

こう言ううちにも綾衣はやるせないように胸を抱えて、しばたたく<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>には白い露が忍んでいた。深いわけは知らないながらも、お米もなんだか引き入れられるように心さびしくなって、さっきの恨みとはまた違った悲しみに、あたらしい涙がおのずと湧き出るのを押さえることができなかった。

「実はそういう訳なんだから、このお人のことを決して誰にも言うんじゃないぜ」と、十吉は固く念を押した。お米は決して他言はしないといった。両親にさえも言わないと誓った。

世間をおそれる身が長く<ruby><rb>端居</rb><rt>はしい</rt></ruby>はできないので、二人の仲直りを見とどけて綾衣は早々に奥へはいった。昼でも暗い納戸には<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>って<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>臭い空気がみなぎっていた。人を慕ってすぐに襲って来る藪蚊の唸り声におびやかされて、綾衣はあわてて<ruby><rb>渋団扇</rb><rt>しぶうちわ</rt></ruby>を手にとった。

間違って人に妬まれた我が身が、今はかえって人を妬ましいように思わなければならなかった。綾衣は実にお米と十吉とを妬ましいほどに羨ましく思った。彼女は時どきに団扇の手を休めて、二人のささやきに耳を引き立てた。

怨む、怒る、泣く、笑う、それが覗きからくりのように瞬くうちに変ってゆく若い同士の<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>なさを、綾衣はただ馬鹿らしいとばかりは思えなかった。外記と馴染みそめたその当座は、自分たちの間にもそうしたおさない他愛ない<ruby><rb>痴話</rb><rt>ちわ</rt></ruby>や<ruby><rb>口説</rb><rt>くぜつ</rt></ruby>の繰り返されたことを思い出して、三年前の自分がそぞろに懐かしくなった。

「盂蘭盆が過ぎたら……」と、十吉の声がきこえた。

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のおっかさんもそう言っていた」と、お米の声も低くきこえた。

盂蘭盆が過ぎたらいよいよ祝言をするというのではあるまいかと、綾衣は想像した。自分はその盂蘭盆まで生きていられる命だろうか。綾衣の肉は微かにおののいた。剣難の相があると言われたことも今更のように思い出された。

遠くで<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>の音がひびいた。かみなり嫌いの綾衣はいよいよ神経が鋭くなった。

自分にも恋はある。あの子供らしい人たちがもっているのよりも、更に深い強い<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>の入ったものをもっている。なんでよその恋が羨ましかろう。妬ましかろう。しかし自分たちは<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣にかかった蝶や<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>のように、苦しい、切ない、むごい、やがては命をとられそうな怖ろしいきずなに手足をくくられて<ruby><rb>悶</rb><rt>もが</rt></ruby>いている。それに引き替えて、あの人たちは自由である。花野を自由自在に飛びまわる蝶や蜻蛉である。綾衣はその自由が羨ましく妬ましく思われてならなかった。妬み深いのは廓の女の癖であると、彼女は自分で自分を戒めて、ひとを羨むのは恥かしいとも思った。妬むのはおとなげないとも思い直した。そうは思いながらも、二人の低い笑い声などが耳にはいると、綾衣は襖越しに何か皮肉なことばでも投げつけてやりたいような気がしないでもなかった。

「ほんに馬鹿らしい」と、綾衣は自分をまた叱った。外記の来る夜のことを考えたら、十吉の邪魔などのできた義理ではない。自分はなぜこう心がひがんで来たのかと、彼女はおのれを卑しみながら心はやっぱり二人の話し声の方に惹きつけられていた。

<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>じゅうが急に暗くなったと思うと、窓に近い蓮池に雨の音が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばらばら</span>と聞えた。

「また降って来た」という十吉の声といっしょに、激しい雷が屋根の上をころげ廻るように鳴って通った。綾衣は思わず両手で耳をふさいだ。雨は滝のように降って来た。雷はつづけて鳴った。

こういう時に外記が来あわせていて、二人が抱き合ったままでこの雷に撃たれて死んだら、いっそ思い切りがよかろうと綾衣はかんがえた。

お時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずぶ</span>濡れになって帰って来た。

七

廓をぬけ出した綾衣のゆくえは大菱屋でも手を分けて詮議していた。相手が外記であることは大抵察しているものの、痩せても枯れても天下の旗本という名に対して迂闊に懸け合いはできない。こっちに確かな証拠を握っていない以上は、<ruby><rb>逆捻</rb><rt>さかね</rt></ruby>じに言いがかりを付けられて、飛んだ目に逢うことがある。<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>をどこへか忍ばして置いて、抱え主から懸け合いの来るのを待っているなどは、この頃の<ruby><rb>悪</rb><rt>わる</rt></ruby>旗本や悪<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>には珍らしくない。大菱屋でもそれを懸念して、外記の屋敷の方へは容易に取ってかからなかった。

女は屋敷内に隠れていそうもない、きっと他に忍ばしてあることと大菱屋では睨んだ。今は<ruby><rb>両親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>とも死に絶えてしまったが、綾衣は神田の生まれで、そこには遠縁の者があるとか聞いているので、まずそこらへ探りを入れているがまだ手がかりはない。

お時が馬道から聞き出して来た噂はこれだけに過ぎなかったが、とにかくに屋敷の方へは直接に懸け合い込まないというので、綾衣も安心した。お時も十吉もほっとした。ある晩、外記が来た時にその話をすると、外記は面白そうに笑っていた。

「おれも悪旗本かも知れないよ」

用心深いお時おやこと正直なお米との間に秘密は固く守られて、くるわに近いこの隠れ家に大菱屋の眼はとどかなかった。こうしてひと月余りも送るうちに、六月の土用も明けて、七月の秋が来た。

きょうは盂蘭盆の十三日で、昼の暑さはまだ水売りの声に残っているが、陰るともなしに薄い日影が山の手の古びた屋敷町を灰色に沈ませて、<ruby><rb>辻番</rb><rt>つじばん</rt></ruby>のおやじが手作りの鉢の朝顔も蔓ばかり無暗に伸びて来たのが眼に立った。番町の藤枝の屋敷もひっそりと門を閉じて、塀の中からは<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>の声ばかりがきこえた。

小普請入りとなれば暮らし向きも幾らか詰まって来る。殊に主人の放埒からいよいよ内証は苦しくなっているので、藤枝の屋敷でもこの春から家来や下女を減らした。さらぬでも陰気な屋敷の内が、このごろはますます寂しくなった。外記はこの五月頃から夜泊まりをしなくなって、夕方から屋敷を出ても夜ふけには必ず帰って来た。しかし放埒の噂はやはり消えないで、いよいよ甲府勝手を仰せ付けられるかも知れないなどという風説がお縫や三左衛門の胸を冷やした。

外記はそんなことに頓着しないらしかった。おととしまではこの日に墓参を欠かさなかったが、きょうは居間に閉じ籠って碌ろく口も利かなかった。<ruby><rb>午飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>を食ってしまっても何かぼんやりと考え暮らしていたが、やがて用人を呼びつけた。

「三左衛門。少し金子入用だが、<ruby><rb>知行所</rb><rt>ちぎょうしょ</rt></ruby>から取り立てる工夫はないか」

おととし以来、これは毎々のことであるので、用人も手強く断わった。

「いかにご自分の<ruby><rb>御</rb><rt>ご</rt></ruby>知行所でも、さだめのほかに無体の御用金などけしからぬ儀でござります」

「では、蔵の中から不用の<ruby><rb>鎧兜</rb><rt>よろいかぶと</rt></ruby>太刀などを持ち出して、売り払ってはどうだ」

「鎧兜太刀などは武士の表道具、まして御先祖伝来の大切な品々、お前さまの御自由には<ruby><rb>相成</rb><rt>あいな</rt></ruby>りませぬ」

何を言っても取り合わないばかりか、あべこべに主人を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り込めるような調子に、外記はむっとした。彼は黙って起ちあがって、床の間の<ruby><rb>鎧櫃</rb><rt>よろいびつ</rt></ruby>から一領の鎧を引き摺り出して来た。

「これ、三左衛門。おれが今この鎧を持ち出して勝手に売り払ったらどうする」

三左衛門は形を改めて、唯今も申す通り、お前さまのお持ち物でもお前さまの御自由には相成りませぬと言い切った。その鎧は御先祖さまが慶長元和<ruby><rb>度々</rb><rt>どど</rt></ruby>の戦場に敵の血をそそいだ名誉のお形見で、お<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>に取っては何物にも替え難い宝でござる。藤枝五百石のお家は、その鎧と太刀さきの<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>であるということをお忘れなされたかと、彼は叱るように言った。

もうこうなったら主人でも容赦はない。手討ちになろうと勘当されようと、言うだけのことは言わなければならないと彼はあわれにも覚悟の胸を決めていた。

外記は白い歯を見せて笑い出した。

「慶長元和の血なまぐさい世の中と、太平百余年の<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>とは、世のありさまも違えば人の心入れも違うぞ。鎧刀を武士の魂などと自慢する時代はもう過ぎた。おれも以前は武芸に凝り固まって、やれ剣術の柔術のと脂汗を流して苦しんだものだが、今さら思えば馬鹿であった。歴々の武士が<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>の持ちようも知らず、弓の引きようも知らず、それでも立派にお役を勤めて家繁昌する世の中に、なんの役にも立たない鎧や刀は、五月の節句の飾り具足や<ruby><rb>菖蒲刀</rb><rt>しょうぶがたな</rt></ruby>も同様だ。家重代の宝でもいい値に引き取る者があれば、なんどきでも売り放すぞ」

鎧は面当てらしく家来の眼の前にがらりと投げ出された。

三左衛門はあわててその鎧を引き寄せて押し戴くようにして自分の膝の上に抱きあげたが、勿体ないと情けないとが一つにもつれて、<ruby><rb>卯花縅</rb><rt>うのはなおどし</rt></ruby>の袖の糸に彼の涙の痕がにじんだ。

お縫がはいって来て、市ヶ谷の叔父さまがお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でになりましたと言った。外記は又かと顔をしかめたが、今さら留守ともいえない。病気ともいえない。まさか逃げることもできないと思っているうちに、背の高い叔父の姿がもう眼の前に現われた。

吉田五郎三郎は四十前後で、あさ黒い頬のあたりはやや寂しいが、鼻の高い、口もとのきっと引き締まった、さすがに争われない肉縁の証拠を外記とよく似た男らしい顔にもっていた。質素な家風と見え、鼠の<ruby><rb>狭布</rb><rt>さよみ</rt></ruby>の薄羽織に短い袴を穿いて、長い刀を手に持っていた。

「朝夕は余ほど<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎよくなったが、日のなかはまだ残暑が強い。一同変ることもないか」

五郎三郎は機嫌よくみんなに挨拶して、腰から<ruby><rb>白扇</rb><rt>はくせん</rt></ruby>を取り出して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はらはら</span>と使った。庭には薄い日がどんよりとさしていた。低い<ruby><rb>四目垣</rb><rt>よつめがき</rt></ruby>にかぶさっている萩の葉の軽いそよぎにも、どこにか冷たい秋風のかよっているのが知られて、大きいとんぼが縁のさきへ流れるように飛んで来た。

お縫が運んで来た茶を飲みながら、五郎三郎は世間話などを二つ三つした上で、ふだんから好きな碁の話に移った。

「おれもこのあいだは御用繁多であったが、幸い今日は非番だ。といって、屋敷に唯<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくねん</span>としていても退屈だから、久し振りでひと勝負しようかとわざわざ出かけて来た。どうだ、外記。この頃は少しは強くなったか。三左衛門、盤を持ってまいれ」

三左衛門はすぐに碁盤を持ち出して来たが、外記はとてもそんな悠長な落ち着いた気分にはなれなかった。

「わたくしはこのごろ暫く盤にむかいませんので、とても叔父さまのお相手にはなれませぬ。どうかきょうは御免を……」

「見れば顔色もよくないようだが、気分でもすぐれぬのか」

「いえ、別に病気という訳でもござりませぬが……」

「病気でなくば一局まいれ。かえって暑さを忘れるものだ」

叔父はもう石を取り始めたので、外記も断わり切れなくなって、いやいやながら盤にむかった。五郎三郎も面白づくで碁を打っているのではなかった。いやいや相手になっている外記よりも、もっと<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>な、苦しい、悲しい、<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ない思いを胸の奥に畳み込んで、無理に悠長らしい顔をつくっているのであった。

妹や家来たちが恐れていた通り、外記はいよいよ募る放埒のたたりで、近いうちにかの甲府勝手を仰せ付けられることになった。本人はまだ知らないが、支配頭から叔父にはもう<ruby><rb>内達</rb><rt>ないたつ</rt></ruby>があった。この一家の上を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>っていた黒雲から、とうとう怖ろしい<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>が落ちた。こうなることは内々予期していないでもなかったが、それを聞いた五郎三郎は今更のようにがっかりした。もうどうすることも出来ない。

藤枝の家はつぶされたも同然である。甥の身の上は<ruby><rb>自業自得</rb><rt>じごうじとく</rt></ruby>の因果で是非ないとしても、自分の<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>たる藤枝の家をこのまま亡ぼしてしまっては、先祖に対しても申し訳がない、死んだ兄に対しても申し訳がない。五郎三郎は二日ほども胸を痛めた末に、思えばむごい、しかしこの時代の武士としてはまことにやむを得ない或る非常手段を考え出した。

彼は外記を自滅させようと覚悟した。表向きは頓死と披露して、妹のお縫に相当の婿を取れば、藤枝の家にも<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>が付かず、親類縁者一同も世間に恥をさらさずに済むであろう。殺される甥は不憫であるが、家には替えられない、親類縁者の<ruby><rb>大勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>には替えられないと、こう決心した五郎三郎の眼からは煮え湯のような涙がこぼれた。鬼のような自分の心が情けなくも思われた。

きょうは盂蘭盆というので、五郎三郎は赤坂の菩提寺に参詣した。墓場には昼でも虫が鳴いていた。彼は先祖代々の墓に<ruby><rb>香花</rb><rt>こうばな</rt></ruby>や水をたむけて、苔の蒸した石にむかって甥を殺す余儀ない事情を訴えて、その足ですぐに番町へ廻って来たのである。彼は初めに甥を説得して詰め腹を切らせようかとも考えたが、もし不承知で四の五のいうと却って面倒である。いっそ不意に斬り殺してしまおうと思案を変えて、なにげない眼は碁盤の上に配っていながらも、張り詰めた心は相手の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>ばかりを狙っていた。

叔父にも思惑がある。甥にも思う事がある。二人の打つ石は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しどろ</span>であった。そばに観ている者があっては気が散っていけないと言って、五郎三郎は何かの邪魔になるお縫や三左衛門を追い払ってしまった。力のない石の音はしずかな部屋のなかに暫くひびいていた。

「これはだいぶ暑くなって来た」

五郎三郎は羽織を脱いだ。その途端に、自分の膝のそばに引き寄せてある長い刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に眼が触れると、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっ</span>とした。これで眼の前にいる肉親の甥を切るのかと思うと、彼の胸は俄かに大きい波を打って、盤の上は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼう</span>と暗くなった。石を取る指さきもおのずと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>われた。

殺すのも余り無慈悲だ、もう一度考え直して見ようと、五郎三郎は張り詰めた心が少しゆるんだ。彼は手を鳴らしてお縫を呼んで、もう一杯くれと茶を所望した。それから手拭を取り出して気味の悪い腋の下の冷汗を拭いた。

そのあいだ、外記はうっとりとした眼をあげて黙って天井を眺めていた。何かに気を取られて、魂はうつろになっているような其のとろけた眼づかいが、五郎三郎の気に入らなかった。こいつ、よくよく性根を女に奪われているのだと思うと、慈悲も情けも無駄なように考えられて、一旦ゆるんだこぶしの肉がまた動いて来た。

甥を生かすか殺すかに迷っている叔父は、盤の上の生き死になどには到底もう眼がとどかなくなった。彼の打っている石は乱れた。

「叔父さま。それでは違います」と、外記は眠そうな声で注意した。

「何が違う」と、五郎三郎も眼が醒めたように盤を睨んだ。

「お前さまのこの石はもう死んでおります」

「馬鹿を申すな。なんでこれが死ぬものか」

「でも、これは……」と、外記も行きがかりで争った。

「ええ、卑怯なことを申すな」

こう言い募って来るうちに、五郎三郎の血はのぼって来た。機会は今だ、と心の奥からささやかれて、彼は再び盤を指した。

「これ、よく見ろ。この石はこう切ったのだ」

切るという自分のことばで、自分にはずみを付けて、五郎三郎の手が刀の柄にかかったかと思うと彼は抜き撃ちに切り付けた。外記も武芸の心得はある。<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したからだに<ruby><rb>初太刀</rb><rt>しょだち</rt></ruby>は空を撃たせて、二度目の切っさきは碁盤で受け留めた。茶を持って来たお縫は驚いて声を立てた。三左衛門も駈けつけて来た。

五郎三郎ももう隠す訳にも行かなくなって、盤の上の一目二目の争いから、分別盛りの侍がおとなげない刃物<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>をしたと思うな、家のため、親類縁者のためには、どうしても甥一人を殺すよりほかはないのだという自分の決心を明かして聞かせた。そうして外記にむかって、この上は尋常に腹を切れ、叔父が介錯してやると迫った。

外記はまだ命が惜しいと言った。お手討ちも詰め腹も<ruby><rb>真平御免</rb><rt>まっぴらごめん</rt></ruby>だとことわった。叔父は卑怯な奴だといきまいた。甥は卑怯でないと冷やかに答えた。叔父と甥との考えはまるで食い違っていた。

叔父のいう理屈は、ひとつも外記の胸に落ちなかった。彼はむしろ腹立たしくなった。手討ちにするの、腹を切れのと、ひとの命を自分の勝手に取扱おうとするのが既に無理な注文ではないか。自分の命には自分という持ち主がある。家のためや親類縁者のためや、そうした事情のいけにえとして、罪もない自分のいのちを安価に売り買いされるのは自分の堪え得ることでない。それを<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むのは決して卑怯でないと外記は思った。彼はどうしても死ぬのは<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>だと言い切った。

お縫や三左衛門にも外記の料簡は理解し得られなかった。しかし、かれらもさすがに兄や主人を殺そうとは思いも付かないので、泣いて縋って五郎三郎をさえぎった。二人はまつわられて五郎三郎も持て余した。

「では、きょうのところはともかくも<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>して置くから、よく分別して見ろ。卑怯者め」

ふた口目には卑怯呼ばわりをする叔父のむかし<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>を、外記は<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中であざわらった。命を惜しむ卑怯者といちずに自分を認めるのは間違っている。勿論、自分は人のために死のうとは決して思わないが、自分のためならなんどきでも命を捨てて見せる。外記は死を恐れる卑怯者か臆病者か、いまに叔父にもよく判る時節があろうと、彼は口をむすんで再びなんにも言わなかった。

刀を<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に納めたものの、五郎三郎はもうここに長居もできなかった。すぐに帰り支度をして、彼はお縫と三左衛門とに送られて出た。玄関を出るときに五郎三郎は二人にささやいて、外記は魂のぬけた奴、この上にどんな<ruby><rb>曲事</rb><rt>きょくじ</rt></ruby>を<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>そうも知れない。お前たちも油断なく気をくばって、もし思案に<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わぬことがあったら直ぐにおれのところへ知らせて来いと言った。

「おのれの心ひとつで一家一門、家来にまで苦労をかける。困った奴だ」

五郎三郎の眼には涙が浮かんだ。草履取りを連れて出てゆくその人のうしろ姿を、お縫も三左衛門も陰った顔でいつまでも見送っていた。

それから<ruby><rb>半晌</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほども過ぎた。塀の内には蝉の声もいつか衰えて、初秋のうすい日影は霧につつまれたように暮れかかった。屋敷町の門前にも盆燈籠を売るあきんどが通った。

白い<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>に水色の羽織を着た外記が門を出た。

八

箕輪のお時の家でも仏壇に<ruby><rb>精霊棚</rb><rt>しょうりょうだな</rt></ruby>を作って、<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>の牛や<ruby><rb>瓜</rb><rt>うり</rt></ruby>の馬が供えられた。かわらけの<ruby><rb>油皿</rb><rt>あぶらざら</rt></ruby>には燈心の灯が微かに揺らめいていた。六十ばかりの痩せた僧が仏壇の前で<ruby><rb>棚経</rb><rt>たなぎょう</rt></ruby>を読んでいた。

<ruby><rb>回向</rb><rt>えこう</rt></ruby>が済むと、僧は十吉が汲んで来た番茶を飲みながら、きょうは朝から湯島神田<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>浅草の檀家を七、八軒、それから<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>を五、六軒まわって来たが、なかなか暑いことであったなどと口では忙がしそうなことを言いながら、悠々と腰を据えて話し込んでいた。寺は下谷にあるが、今どきに珍らしい無欲の僧で、ここらは閑静でいいと<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに羨ましそうに言った。

「おお、池の蓮が見事に開きましたのう」

彼は帰るきわに蓮池をしばらく眺めていた。いつも気軽な和尚さまだと、帰ったあとでお時が噂をしていた。

〽ぼんぼん盆はきょうあすばかり、あしたは嫁のしおれ草。

村の子供たちがこんな盆唄をうたって通った。その群れのあとからお米も来た。

「十さん。まだお寺へ行かないの」

盆の十三日には<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>迎えとして<ruby><rb>菩提寺</rb><rt>ぼだいじ</rt></ruby>へ詣るのが習わしである。いつもお時が詣るのであるが、ことしは十吉が代って行くことになって、お米も夕方から一緒に行く約束であった。

「じゃあ、おっかさん。もうそろそろ行こうかね」と、十吉が言った。

「ああ、暗くならないうちに行っておいで。和尚さまは池の蓮をたいそう褒めていなすったから、ついでに少し取って行って上げたらよかろう」

十吉は蓮池のそばへ行って紅と白とを取りまぜて五、六本の花を折った。涼しい風は水の上に渡って、夕暮れの色は青い巻き葉のゆらめく蔭からおぼろに浮かんで来た。お米と十吉とは仲よく肩をならべて出て行った。やがて自分の嫁にする娘かと思うと、歳よりもませたようなお米のうしろ姿がお時の眼にはかえって可愛らしくも見えて、彼女は思わずほほえまれた。二人が出て行くとき、綾衣も襖を細目にあけて見送っていた。

秋をうながすような盆唄の声がまた聞えた。近くきくと<ruby><rb>騒々</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>しい唄のこえも、遠くとおく流れて来るとなんだか寂しい哀れな思いを誘い出されて、お時は暮れかかる軒の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>を仰いだ。軒には大きい<ruby><rb>切子燈籠</rb><rt>きりこどうろう</rt></ruby>が長い尾を力なくなびかせて、ゆう闇の中にしょんぼりと白い影を迷わせていた。

ここらは冬の初めまで蚊を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>わなければならなかった。お時は<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の形をした土の蚊いぶしを縁に持ち出して、枯れた松葉や杉の葉などをくべた。それから切子燈籠に灯を入れた。

こうして働いているうちも、彼女はお米と十吉とのほかに、絶えず思うことが胸の奥にまつわっていた。

綾衣が廓に近いこの箕輪に隠れてからもうひと月余りにもなる。大菱屋の眼がここにとどかないのはむしろ不思議といってもいい位で、その不思議がいつまで続くかは疑問であった。いくら奥深く忍んでいても、元来が狭いあばら家である。ここらに見馴れない彼女の<ruby><rb>媚</rb><rt>なまめ</rt></ruby>いた<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>すがたはいつか人の眼について、十吉の家にはこのごろ妙な泊まり客がいるようだと、村の若い衆たちの<ruby><rb>茶話</rb><rt>ちゃばなし</rt></ruby>にものぼっていることを、お米からそっと知らされて、母子は寿命が縮まるほどに気を痛めた。決して邪魔にする気ではないが、綾衣をこうして預かっていることは、火の中にある<ruby><rb>毬栗</rb><rt>いがぐり</rt></ruby>を守っているよりも更にあぶないと思われた。しょせんは時間の問題で、永久に破裂を防ぐことの出来ないのは母子もあらかじめ覚悟していなければならなかった。

秘密が破裂したあかつきは第一に殿様のおためにならない。大菱屋から<ruby><rb>拐引</rb><rt>かどわかし</rt></ruby>を言い立てられたら、あるいは殿様の御身分にかかわるようなことが<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>しないとも限らない。母子は何よりも先ずこれを恐れていた。

そうなれば殿様ばかりでない。綾衣の為にもならないのは知れている。ひいては自分たちも迷惑を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>るに相違ない。それとこれとを考え合わせると、不人情のようではあるが、お時はどうかして綾衣を遠ざけたいように思った。さりとてほかに行く所のないのは判っているので、彼女は綾衣にむかって、いっそ廓へ帰るようにそれとなく意見したこともあった。

殿様を大事と思うならば、どうか廓へ帰ってくれと、お時もしまいには打ち明けて言った。遅かれ速かれこの事が露顕したら、殿様の御身分にもかかわる、五百石のお家にも瑕が付く、そこを察してくれと、彼女は涙を流して口説いたが、綾衣は<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>こうともしなかった。

なるほどお前の心では五百石のお家が大切でもあろうが、くるわに育った自分の眼から見れば、五百石や千石はおはぐろ溝へ流す白粉の水も同じことである。百万石でも買われないのは廓の女の誠ではないか。それほど尊い女の誠を五百石で買ったと思えば<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いもので、ちっとも惜しいことはあるまいと、彼女は誇り<ruby><rb>顔</rb><rt>が</rt></ruby>に言い放してお時を驚かした。

綾衣はまたこうも言った。

殿様がこうなったのは無論わたしの為であるが、わたしがこうなったのもまた殿様の為である。いわば両方が五分五分で<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>にかけたら重い軽いはないはずである。殿様に死ぬようなことがあればわたしも死ぬ。わたしに死ぬようなことがあれば殿様も死ぬ。それよりほかにはもう二人の行く道はないので、わたしの為に殿様が家を亡ぼしたとか、身を滅したとかいう風に思い違いをされては困る。わたしはこの末たといどうなろうとも、露ほども殿様を恨もうとは思わない。殿様もまたわたしに不足をいう道理がない。まあ、お前がたは黙って見物していてくれというのであった。

そのことばの裏には或る怖ろしい覚悟が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるらしく思われたので、お時はさらに胸を冷やした。この上になおも無理なことを言い出したら、二人はいよいよ突き詰めてどんなことを仕でかすかも知れない。お時はそれを想像するさえ身の毛がよだった。もうこうなったら黙って成り行きを窺っているよりほかはないと、お時は腫れものに<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>るようなおびえた心持ちで、遠くからそっと二人を眺めていた。

しかし、どう考えても此のままで済もうとは思われなかった。やがて廓の<ruby><rb>颶風</rb><rt>はやて</rt></ruby>がここへ舞い込んで来て、それからいろいろの渦を巻き起すことはありありと眼に見えているので、お時は毎朝の空を眺めて、きょうが其の破滅の<ruby><rb>悪日</rb><rt>あくび</rt></ruby>ではないかと、いつも怖ろしい予覚におびやかされていた。

きょうは盆の十三日で、亡き人の<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>がこの世に迷って来るという日である。亡き魂と死と、こんなことを考えるとお時の心はいよいよ暗くなった。多年住み馴れているわが家も今夜に限ってなんだか薄ら寂しく、十吉が早く帰って来ればいいと待ち侘びしかった。

<ruby><rb>堤下</rb><rt>どてした</rt></ruby>の<ruby><rb>浄閑寺</rb><rt>じょうかんじ</rt></ruby>で<ruby><rb>夕</rb><rt>くれ</rt></ruby>の勤めの<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>が途切れとぎれに聞えた。

さっき<ruby><rb>行水</rb><rt>ぎょうずい</rt></ruby>を終った綾衣は、これも寂しい思いで鉦の音を聴いていた。微かにきざんでゆく鉦の音は胸に沁みるようであった。浄閑寺は廓の女の捨て場所であるということも、今更のように考えられた。運の悪い病気の女は日の目も見えないような部屋へ押し込まれて、碌々に薬も飲まされないで<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え死にする。その哀れな<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>は粗末な早桶を<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>ひとりに送られて、浄閑寺の暗い墓穴に投げ込まれる。そうした悲惨な例は彼女も今までにしばしば見たり聞いたりしていた。それでも寿命がつきて死んだ者はまだいい。心中してわれから命を縮めた者は、同じ浄閑寺の土に埋められながらも、手足を縛って荒菰に巻かれて、犬猫にも劣った<ruby><rb>辱</rb><rt>はず</rt></ruby>かしめを受けるのである。

その人たちの迷った魂は今夜の魂迎えにどこへ招かれて行くであろう。自分のからだも、やがては浄閑寺へ送られて、土の下からあの鉦の音を聴くようになるのかと思うと、綾衣もなんだか気が沈んで、生きながら暗いところへ引き入れられるようにも感じた。おさない時に死に別れた父母のことも思い出された。十九の歳に芝のあきんどから身請けの相談があったが、抱え主は金で折り合わず、自分も気に入らないので断わったが、あの時に請け出されていたら今頃はどうなっているだろうなどとも考えた。お米と十吉とがやっぱり羨ましくも思われた。

表はすっかり暮れてしまって、暗い空にはかぞえるほどの少ない星が弱々しく光っていた。露のおもい夜の空気は冷やびやと人の肌に触れた。村の家々では迎い火を焚きはじめた。<ruby><rb>竹籬</rb><rt>たけがき</rt></ruby>のあいだや軒下に寂しい火の光りが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらちら</span>ひらめいて、黒い人影や白い浴衣が薄暗いなかに動いていた。お時も<ruby><rb>焙烙</rb><rt>ほうろく</rt></ruby>に<ruby><rb>苧殻</rb><rt>おがら</rt></ruby>を入れて庭の入り口に持ち出した。やがて火打ちの音がやむと、お時の手を合わせている姿が火の前にぼんやりと浮き出した。

白い<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>を着ている外記が、いつの間にか苧殻の白い煙りの中に立っていた。お時はようよう気がついた。

「ああ、殿様」と、彼女は表を窺いながら小声で言った。「ほかに誰もおりませぬ。さあ、お通り遊ばしませ」

外記は<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>をぬいで縁にあがった。お時は迎い火を消して、同じく内にはいった。

外記がはいって来た気配を知ると、綾衣は眼が醒めたように俄かに晴れやかな気分になって、今まで何を考えていたかも忘れてしまった。浄閑寺の鉦も耳へははいらなくなった。彼女はついと起って襖を明けて、男の顔を見て眼で笑った。

「相変らず藪蚊がひどうござります」と、お時は奥へ<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>を吊りに行ったあいだに、綾衣は縁に近いところへ出て坐った。そこにある渋団扇をとって軽くあおぐと、薄化粧の白粉の匂いはほんのりと流れて、やわらかい風をそよそよと男に送った。

「今夜は廓の<ruby><rb>騒唄</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>が一向きこえないようだな」と、外記は縁の柱にもたれながら耳を傾けた。

綾衣は笑い出した。

「ほほ、ぬしにも似合わないことを言いなんす。きょうは盆の十三日で、廓は休みでおざんすものを……」

「なるほど今日は十三日か」と、外記も笑った。

綾衣もまた笑った。

他愛もないことが堪まらなくおかしいように笑う女の声があまり華やかに聞えるので、お時は表に眼をくばった。彼女は追い立てるように二人を蚊帳の中へ送り込んで、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の襖を閉め切った。

お米も十吉もまだ帰らなかった。

九

お時が再び蚊いぶしの火を吹いていると、蚊帳の中から外記が声をかけた。

「気の毒だがいつもの通り、なにか酒と肴を見つくろって来てくれ」

「はい、はい。この辺には碌なものもござりませんから、<ruby><rb>田町</rb><rt>たまち</rt></ruby>までひと走り行ってまいります」

お時は金を受取ってすぐに出て行った。秋の夜のくせで、雨もない空から稲妻が折りおりに走った。

ここの家では古い蚊帳がひと張りしかなかったのを、綾衣を預かるようになってから、外記が金を出して品のいい蚊帳を買わせたのである。見るからすがすがしいような新しい蚊帳は<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>の波を打たせて、うす<ruby><rb>穢</rb><rt>ぎたな</rt></ruby>いこの部屋に不釣合いなのもかえって寂しかった。その蚊帳越しのあかりに照らされた二人の顔も蒼く見えた。

「おれはいよいよ甲府勝手になりそうだ」

口ではむぞうさに言っているが、そのひとみの据えかたで綾衣ももうさとった。

「たしかにそう決まりなんしたか」

落ち着いているつもりでも、彼女の声は少し顫えていた。男はすぐにうなずいた。

「きょう叔父が来て言った。嘘ではあるまい。ひと間住居などと騒いでいるうちに、<ruby><rb>一足</rb><rt>いっそく</rt></ruby>飛びに地獄が来た。親類共も驚くのは無理がない。叔父はおれを手討ちにすると言ったよ」

「ぬしを殺そうとしなんしたか」と、綾衣は呆れたような顔をした。「まあ、馬鹿らしい。それでもよく怪我もありんせんでしたね」

「むやみに切られて堪まるものか。これでも命が惜しい」と、外記はほほえんだ。「いくら叔父でも無法の成敗をしようとすれば、おれもこれを持っている」

外記は蚊帳の外へ手をのばして枕もとの刀を引き寄せた。遊女屋に大小は禁物で、腰の物はいつも茶屋に預けて来るので、綾衣は一度も外記の刀を見たことはなかった。ここへ来てからも別に気にも止めなかったが、今夜はふと思い出した。

「もし、いつか仲の町の草市で摺れちがった時の刀というのは、やっぱりこれでありんしたかえ」

「むむ、そうだ。お前の袖に引っかかった刀はこれだ。鍛えは<ruby><rb>国俊</rb><rt>くにとし</rt></ruby>、家重代。先祖はこれで武名をあげたと、年寄りどもからたびたび聞かされたものだ」

「その刀は二人のためには結ぶの神とでも言うのでおざんしょう。わたしにもよく見せておくんなんし」

綾衣は袖の上に刀をのせて、鞘のままでじっと見入っているうちに、不思議な縁ということも考えられた。その晩、草市を見物に出た遊女も<ruby><rb>大勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>あった。<ruby><rb>大門</rb><rt>おおもん</rt></ruby>をくぐった侍も大勢あった。その大勢と大勢とのなかで、外記と自分とが偶然に行きちがって、偶然に自分の袖がこの刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んだ。そうして、二人を恋におとして、さらに暗いところへ導いてゆく。たとい二人が摺れちがっても、この刀さえなかったらなんにも起らずに済んだかも知れない。

それを思うと、この刀と自分たちの間には、人には判らない一種の不思議が絡み付いているらしく、自分たちはどうしてもこの刀で亡ぼされなければならない因縁をもっているようにも信じられた。剣難の相があると言った占い者の予言が、いよいよ嘘でないように思い当られてきた。

「今だから打ち明けて話しんすが、わたしには剣難の相があると上手な<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>い者さんが言いんした。そんなことがあるかも知れえせんね」

「そんなことがあるかも知れない」

外記は綾衣のような宿命論をもってはいなかった。占い者を信ずることも出来なかった。彼はただ、燃えるような熱い情けにただれて、そのままとろけて消えてしまいたかった。

「いよいよ甲府勝手とやらに決まりなんしたら、ぬしに再び逢う瀬はありんせんね」と、綾衣はもう判り切っていることに念を押した。

彼女の眼は吸い付けられたように刀を離れなかった。蚊帳の波は少しゆらいで、水のような夜風が窓から流れて来た。二人の襟もとは冷たかった。もうなんにも言うことはない。今更どう考える余地もない。二人は迷わずに自分たちの行くべき道を歩むよりほかはなかった。まっすぐな路が彼らの前に開かれていた。

「ごめんください」

不意に案内を乞われて二人は少しくあわてた。お時も十吉もあいにくに留守である。二人は息をのんで暫く黙っていた。

「ごめんください、お留守ですか、もし、ごめんください。どなたも居ないんですか」

外ではつづけて呼んだ。そうして何かささやくような声もきこえた。綾衣は一種の不安におそわれて、男の手を思わず固く握りしめた。

「裏口を用心しろ」と、外ではささやく声が又きこえた。外記は無言で女の手を振り払って、蚊帳をするりと<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。片手には刀を持って、しずかに襖をあけて出ると、一人の男が縁に腰をかけていた。ほかにも提灯を持った男が二人立っていた。

「あ、殿様でございましたか」

腰をかけている男が案外丁寧に挨拶した。彼は大菱屋の喜介という若い者であった。

「おお、喜介か。なにしにまいった」

外記はわざと落ち着いて訊いた。相手も<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の憎いほどに落ち着いていた。

「へえ、花魁のお迎いにまいりました」

「花魁とは誰だ」

「へへへへへ」と、喜介は<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>に笑った。「先々月駈け出したぎりで、音沙汰なしの花魁でございます。相手も大体見当が付いてはおりますが、表沙汰にしましてはまた御迷惑をする方もあるだろうと、<ruby><rb>内所</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で手分けをして探していましたが、眼と鼻の間のこんなところに隠れていようとは、今の今までちっとも知りませんでした。まことに恐れ入りますが、どうかあなた様から花魁によく仰しゃって、ここはまあ一旦素直に帰るように願いとうございます」

「いや、綾衣はここにはおらぬ」

外記は居ないと言った。喜介は居るに相違ないと言い張って、しまいには<ruby><rb>家探</rb><rt>やさが</rt></ruby>しをするとまで言い出したので、外記ももう面倒になった。

「たとい綾衣が隠れて居ようとも連れて帰ることは相成らぬ。外記が不承知だと、立ち帰って主人に申せ」

喜介はせせら笑った。

「へへ、子供の使いじゃございません。じゃあ、殿様、どうしても綾衣さんの花魁を渡しちゃあ下さいませんか」

「知れたことだ。帰れ、帰れ」

「へえ、さようでございますか」

こんなことを言いながら、喜介の料簡ではまず不意に相手の刀を取りあげてしまって、そのすきに奥から女を奪い出そうとする魂胆であったらしいが、外記の方にも油断はなかった。喜介が蛇のような手をそっと伸ばすと同時に、彼の腕はもう外記にしっかりと掴まれていた。

「武士の腰の物に眼をかける、おのれは盗賊だな」

掴まれた腕が外記の手を離れた時には、彼は<ruby><rb>狗</rb><rt>いぬ</rt></ruby>ころのように庭さきに投げ出されていた。

つづいて外記の手は刀の柄にかかったので、彼はうろたえて這い廻って逃げた。ほかの二人も度を失って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばらばら</span>と逃げ出した。<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>駕籠をおろして<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に待っていた駕籠屋も面食らって逃げた。

もとより斬る気はないが、おどしのために外記は縁を飛び降りて門口まで追って出た。彼らの遠くなったのを見とどけて再び内へ引っ返して、<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>の水で足の泥を洗っていると、綾衣は手拭を持って来て綺麗に拭いてやった。

一旦はおどして追い返しても、ここの隠れ家を突き留めた以上は、大菱屋が泣き寝入りに済まそう筈がない。また出直して押して来るか、あるいは思い切って表沙汰にするかも知れない。女はもう眼に見えない網にかかっているのであった。

二人は黙って顔を見合せた。浄閑寺の鉦がまたきこえた。

綾衣は起って仏壇の燈明をかき立てると、白地に<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>を大きく染め出した<ruby><rb>艶</rb><rt>はで</rt></ruby>な浴衣が裾の方から消えて、痩せた肩や細った腰が影のようにほの白く浮いて見えた。仏壇の花生けには蓮の花が供えてあった。綾衣はそのひと枝を押し戴いてとって、重なり合った花びらをしずかにむしり取ると、匂いのある白い花は彼女の袖に触れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほろほろ</span>とこぼれて、うす暗い畳の上に雪を敷いた。

外記は無言で笑った。

星は隠れていよいよ暗い夜になった。お米と十吉は帰って来た。途中で折りおりに稲妻が飛ぶので、お米は怖がっていた。

内へはいって二人は更に怖いものを見せられた。蒼い蚊帳のなかに、外記は腹を切っていた。綾衣は喉を突いていた。男も女も書置きらしいものは一通も残していなかった。多くの場合、書置きというたぐいのものは、この世に未練のある者が亡き後をかんがえて愚痴を書き残すか、あるいはこの世に罪のある者が詫び状がわりに書いて行くのであるが、二人はこの世に未練はなかった。また<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>するような罪もないと信じていた。褒めようが笑おうが、それは世間の人の心まかせで、二人の心は二人だけが知っていればいいと思っていたらしい。

お時もやがて帰って来た。かねて彼女をおびやかしていた悪夢がいよいよ現実となったのを知った時に、お時は正体もなく泣きくずれた。死んだ二人の唇に微かな笑みを含んでいるのを見いだしたときに、彼女はいよいよ堪まらなくなって声をあげて泣き叫んだ。

外記の死骸は藤枝家に引き取られたが、綾衣の死骸は浄閑寺に埋められた。新造の綾浪も綾鶴も一応の吟味を受けたが、綾衣の駈落ちや心中に就いて自分たちはいっさい知らないと申し立てた。<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>の満野も調べられたが、七つの彼女は勿論なんにも知ろう筈はなかった。調べられた時に、彼女はなんにも答えずに、姉さまが恋しいと泣き出して、居あわした人びとの眼をうるませた。

江戸時代にも五百石の旗本と廓の遊女との相対死には珍らしかった。五百石は五千石と誇張されて、その噂はいよいよ高くなった。無名の詩人が二人の恋を唄い出して、その声は江戸の町々に広く伝えられた。

〽君と寝やろか、五千石取ろか。なんの五千石、君と寝よ。