Soranoha

かなしみの日より

かなしみのひより

素木 しづ

彼女は、遠くの方でしたやうな、細い糸のやうな赤ん坊の泣き声を、ふと耳にしてうつゝのやうに瞳を開けた。もはや部屋のなかには電気がついてゝ戸は立てられてあった、そして淡黄色うすきいろい光りが茫然ぼんやりと部屋の中程を浮かさるゝやうになって見えた。

『一寸もお苦しくは御座いませんか。気が遠くなるやうじゃ御座いませんか。』

彼女の瞳がうっすらと開いたのを見て、色の黒い目っかちのやうな産婆がすぐ声をかけた。彼女はなんにも見なかった。そしてその声ばかりを耳元で静かに聞いた。

『いゝえ、一寸も苦しくないの。それはいゝ気持。』

そして彼女は夢のなかで一人ごとを云ふやうに、快よさそうに云った。するとまた、

『大丈夫ですか、まだすんだのじゃありませんからね。もう一度、ほんのちょっと苦しみさへすればそれでいゝんですからね。』とやさしい声がきこえて来た。

「おゝ、私は非常に苦しんだのだった。あの時は障子に明るい日があたってちらちらしてゐた。そして私が、寒さと冷汗と烈しい痛みのなかにふるへてゐた私が、くらやみの中に閉ぢた眼をふと開けて、あの障子にちらちら踊ってた日を見たのだった。外はまばゆい程明るかった。そして私は本当にすべてが消滅するかと思はれるほど苦しんだのだった。」

彼女は、ふと頭のなかですべてのことを思ひ浮べたやうだった。あの恐ろしい発作のやうななやみを、そして彼女はぼんやりと、どこかに非常にあはれな小さな赤ん坊がゐるに違ひないと思った。彼女はぼんやりと再び瞳を開けた。

すると、目の前にいつも髪を結ひに来る赤い顏の肥えた髪結さんの、まんまるい大きな眼が不安そうに光ってゐた。

『ね、奥様、ちょっと起き上って見ちゃどうですか。私がそっとこう大切に手をかけて見てあげますから、あゝ私はどうしたらいゝか気が気ぢゃない。奥様、後のちのものが下りないと、大変なんですがねえ、どうしたらいゝだらう。血が頭に上ってしまったら。ね、奥様一寸起き上って見なすっちゃどうですか。そうするとすぐ下りるんですけれどもね。第一寝てお産するのがいけないのだ。』

『髪結さんなの。』

彼女は低い声で気のなさそうに聞いた。

『えゝ、奥様がなんだといふ事を聞いたもんですから、まあ一寸と思って急いで来たんですがね、赤さんが出てしまったのに後のものが下りないなんていふもんだから、私しゃ吃驚びっくりしてしまった。』

『いゝの、私はこのまゝでいゝの。』

彼女は、そばであはたゞしく大声で話しかけられたので目覚めかけたやうな頭が、またぼうとなって来た。そしてまたうっすらと瞳を閉ぢてしまった。

彼女はたゞ夢のやうである。そして彼女はこの夢のやうな淡いふんわりと浮き上ってるやうな心持を、なぜか多くの人々が気づかひそうに見守ってゐることが感じられた。けれども彼女はどうしようとも思はなかった。そして彼女の心は只茫然ぼんやりと時々遠くの方へ引づられてゆくやうな気がした。

やがて玄関の戸が強く開く音がして部屋の襖ふすまが開けられると、ふっと冷たい空気が流れ込んで来た。そして外から帰って来た男が、つめたそうな顔をして不安にうるんでる瞳を見はりながら入って来た。

『どうした、大丈夫か。』

そして彼は彼の冷え切った大きな手で、彼女のやはらかな疲れ切って投げ出され、忘られたやうな小さな手をかたく握りしめた。

『大丈夫か、しっかりしてくれ。』

男は静かに、彼女の生へ際のみだれた毛をなで上げてやった。

彼女はぢっと彼の顔を見て居たが、急に力強いはっきりした意識が目覚めて来た。そうだ。彼女はなにか云はなければならない。

『赤ちゃんが生れましたの。』

『うむ。』男はあはれそうに彼女を慰めようとして、笑ひを浮べながら、

『うむ、赤ちゃんを見て来たよ。赤ちゃんは大丈夫だ。さ、もう少しだ、しっかりしてゝくれ。』

お葉は静かにうなづいた。そして、もう一度なにかを云はふと、男が瞳に眼を上げた時お腹と、腰との間へんが、しめるやうに痛み出した。

『おゝ。』彼女は顔をゆがめた。男は、

『がまんしてくれ。』と力をそへるやうに彼女の腕首をつよくおさへた。

『痛み出しましたか。今度はすぐ下りるでせう。』産婆は、あはたゞしく彼女の腰やお腹をさすり初めた。

けれどもやがてその痛みは、すっと逃れるやうに消えてしまった。そして彼女はまた茫然と夢のなかに浮かされたやうな快さのなかに、うっとりと瞳を閉ぢてしまった。お葉の身体はなんでもないやうな厚い夢の衣につゝまれてしまったやうであった。

男はほっと深く息を吸ひ込むやうにして、窓の方をにらむやうに眼を見はった。

いま彼の神経は、帆のやうに張りきって、また次の瞬間には木の葉のやうに、ふるへてゐるのであった。真白な殆んど冷たそうな色をして静かに目を閉ぢてるこの可哀想な女が、不自由な肉体でどれ丈の苦しみをしたことだらう。妊娠中に知らない旅から旅へと歩いて少しの慰安も与へることが出来ずに、彼女の心がなやみに疲れ、かなしみにおぼれて、なんの用意もない所に、不意にそしてあまりに早くお産をしなければならなくなったのだ。

『ゆるしてくれ。すべてのことをゆるしてやってくれ。』

男は小さな声で、彼女の顔に息をふきかけるやうに云った。その時彼はふとむこうの部屋で、そうだ、あのあはれな生物がうすい眼を開いてたあの小さなうす暗い部屋の方で、さわぐやうな声を聞いた。男は急に立ち上って部屋を出た。

うす暗い部屋のなかに三人の女が、かたまるやうによりあつまってゐた。そしていまうす赤黒くほそく痩せた赤ん坊が、布団の上から抱き上げられやうとしていた。女だちの手があはてゝ布団をまくり上げてゐた。

『赤ちゃんが、おゝすっかり冷たくなってしまって、どうしませう。』

と若い近所の子持の奥さんが、あはてゝ赤坊を抱き上げた。赤坊は少しも泣かなかった。そして白いやうな眼をうっすりと細目にあけてゐた。赤坊は毛布にかたくつゝまれて、湯たんぽの湯がかへられたりした。そして赤坊は再び寝かされたが、若い子持の奥さんは心配そうに、その細くうっすらと開いた白い眼を見つめてゐた。

『旦那、大変ですね。』と柱にぶらさがるやうにした女があった。

『私しゃ驚いてるんですよ。旦那、赤ん坊はどうでもいゝとして、奥様がですよ。赤ん坊は明るいうちに出てしまって、そしてまだ後のものが降りないって云ふじゃありませんか。このまゝでゐるともう奥様は死んじゃいますよ。旦那どうかなさいましよ。だから私しゃあの産婆さんはいけないって云ふんだ。』

『あゝ髪結さんかい。ありがたう。』

彼はあはてゝまた産室に戻った。

彼女は茫然と瞳を見開いて不思議なやうに部屋の壁や天井を見てゐた。そして産婆は平然と彼女の傍にその目っかちのやうな瞳をかたよせて坐ってゐた。

『大丈夫かい。本当にしっかりしてくれ。』

彼は入るなり云って彼女の枕元に坐った。産婆は片目にしわくちゃな皺をよせて笑った。

『どうでせうか。本当に心配はないでせうか。医者をよびませうか。』

彼はやがて哀願するやうに産婆に云った。

『えゝ大丈夫です。この位なら私でも少し無理をすればたりるんですけれどもね。まあ、もう少し様子を見ることにしませう。』

沈黙がつゞいた。そして彼はじっとうつゝのやうな彼女の顔を一秒でも見のがさないやうにと深く見つめてゐた。死は、どんなにひそかに表はれて来るものだらうか。そして死はいかなるかげにひそんでゐるものだかわからない。

やがて、次第に夜がふけて来たやうだった。真暗な夜の空の冷たさが、どこからともなくひそやかに流れて来たやうだ。そして、部屋の空気がいつとなくひえ〲として来た。けれども彼女の後産はまだ下りなかった。そして彼女はつめたそうな顔をして、うつゝともなく瞳をとぢたまゝでゐる。

『大丈夫かい。なんでもない?』

彼は一生懸命に云った。彼女は茫然とうなづいて瞳を見開いたが、その瞳の底が淋しさうに光った。すると産婆が身ぶるひをしながらせはしさうに口を利いた。

『でも御心配なら産科の医者をおよびになってもよござんすよ。あの野田さんがよござんせう。』

男はあはてゝ医者を呼びにやった。彼女はふと驚いたやうに瞳を見開いて聞いた。

『お医者さまが来るの。』

『うん、只来てこゝにゐて貰ふだけなんだからね。なにも心配しない方がいゝよ。』

彼女は黙ってうなづいたが、どこか苦しそうに肩をひそめた。

まもなく寒い外に俥くるまの鈴べるがなりひゞいて、背の小さな青い顔の、黒い服を着た男が入って来た。すると産婆が急に席をうごいて、口をゆがめて笑ひながら医者に長い挨拶をした。そして彼女は話し出した。

『私も一度拝見しましたばかりで、よく身体の様子はわからないので御座いますが、かすかな痛みは今朝からあったやうで御座いまして、私の参りましたのが丁度お昼、それからすぐに陣痛がだんだん烈しくなって来まして、午後三時頃には三銭銅貨大ほど子宮孔が開いて来まして、四時半にはもう生まれてしまったのですが。』

『あ、もう赤さんは出てしまったのですか。』

医者はどんよりした眼を開けて聞いた。

『え、お産は案外早かったので御座いますよ。』

『女でしたか、男でしたか。』

『お嬢さんで入らっしゃいましたが、なにしろお月が早いので。』産婆が云ひかけようとすると医者がそれをさへ切るやうにして云った。

『それで、出ないといふのは後産なのですな。』

そして、彼は立上った。

医者は彼女の身体を診察した、そして、心配そうに坐ってゐる男の方に向って、

『なに、私が一寸手をかけますと、じきに出ます。なにか消毒液、アルコールがありますか。なかったら一寸取って下さい。』

男は一寸と云って、あはてゝ家を出て行った。

医者は、やがて腕をまくり上げて、ふと隅にあった石炭酸を見つけだして。そして、『これでいゝ。』と云ひながら、熱湯にまぜて、手を指の先から腕まで一心に洗ひ出した。彼女はそっと上目を開けて悲しそうに医者を見た。

医者は、アルコールが来ないうちに、もはや彼女の肉体にふれてゐた。彼女は思はず寒さの為めにふるへるやうに、身ぶるひした。まだ男は帰って来ない。そして枕元には誰れもゐなかった。

それは、我慢すべき痛みであったらう。けれども痛みは戦慄すべきものであった。彼女は産婆のざらざらした皺のよったやせた手にすがりついた。

男がいそがしく外から白い瓶をさげて帰って来た時には、手術が終ってたのだった。彼は冷たい外からあはたゞしく部屋のなかに入って来て、ぢっと眼を閉ぢてる彼女を不安そうに眺めた。

『もう終りましたか、なんとなく。』

彼は手を洗ってる医者を見た。

『え、石炭酸がたくさんありましたから、それで十分でした。なに御心配なさることはない。』

医者が手をふいて座りなほした時に、彼女はぼっと眼を開いて夢でも見たかのやうに、

『赤ちゃんは。』と聞いた。

『あゝ、赤ちゃんを拝見いたしませう。あちらの方ですか。』医者は立ちかけた。すると、彼女は急に泣き出しそうな顔をした。

『赤ちゃんをこゝに置いちゃいけないのでせうか。』彼女は小さな声で云った。

やがて赤ん坊は布団のまゝ運ばれて、彼女の枕元に来た。なんといふあはれないたましい生き物なのだらう。医者は、赤ん坊を見て、

『よほど大切になさらないといけませんな、そして暖かく。育たないかも知れませんから。』

灰色の顔がふとゆがんだ。そして医者は、寒い戸口から消えて行った。

産婆は、ほっと息をついてあはてゝ帰り仕度を初めた。そして明朝早く来ると云ひおいて、やせた髪の毛の少ない彼女もまた戸口から消え去ってしまった。

部屋のなかは急につめたく澄んで来た。もはや夜中だ。疲れ切って、魂を奪はれてしまったやうな彼女がうすく膜のかゝったやうな瞳を上むけてゐた。そして不安と気づかいと恐れと驚きと、すべての肉体の疲労との為めに頭が煙りのやうになって茫然と男は立ちつくした。面を伏せて見たならばあのあはれな赤黒い小さな生き物も、かすかなため息をもらしてゐるだらう。

彼女は、うとうとと眠りにおちて行った。

やがて男は、赤ん坊の傍に彼の床をならべて敷いた。

そして彼は床のなかに静かにすべり込んだが、彼の瞳はなかなかとじられなかった。そして彼にはたへず赤ん坊の糸のやうな、細いかすかな泣き声が耳についてはなれなかった。赤ん坊は度々小さなそして、かすかな泣き声をわずかばかり立てた。男はまた幾度となく静かに赤ん坊の顔をのぞき込んだ。

小さなあはれな生き物は、なんといふ悲しい物あはれな息をしてゐるのだらう。本当に物あはれなかなしい、彼の瞳は涙にくもらうとして来た。なにが故に、この小さな赤ん坊が、云ひしれないかなしみを彼に与へるのだらうか。「可哀想に、おゝ可哀想に」彼は心のなかでくりかへした。そうだ、かなしみの日だ、なんといふかなしみの日だらう。この小さな一箇の生物が生れて来たといふこと、生れて来たといふ日を彼はけっしてよろこびの日として、よろこびのことゝして記憶することが出来ない。すべての人間は真にかなしみの日としてのみ己の生れた日を記憶するであらう、可哀想にすべての生物は生れる。そして死ぬのだ。世の中にかなしみは泉のやうに、流れて絶えないだらう。

彼は今朝、彼女のかすかな腹痛が起って産婆が来た時から、急な金策の為めに寒い冷たい賑にぎやかな街の白い道を、あてもなく急いで、彼女に対するあはれみと不安とにいらだちながら、くらくらと目眩めまひに倒れようとして殆んど夕方まで歩きつゞけた自分の姿が目に浮んで来た。そして自分が夜になって、やうやく自分の家に帰って来た時、家のなかの静けさは彼に云ひしれない恐怖を与へた。そしてふるへながら入って来た部屋に、おゝあのかつて見なかった所の、あはれなあはれな赤黒い小さな生き物が、あまりに小さな生き物が白い瞳を糸のやうに開いて、本当にほのかなかすかな息をついてゐたのだった。

どんなに早くっても今夜おそくか、明朝にきっとなるだらうと産婆が云ったために、彼は幾分か安心したのであったけれども、自分の留守にこのあまりに不思議な怖ろしい奇蹟が彼女に行はれたといふことが彼には、どうしたことだといふやうに、只驚かされてしまったのだった。彼女は、一体どうなったか。

やがて彼女は、どこからともなくかなしげなほそ〲とひゞく唄の声を聞いた。そしてその唄が、彼女のうつゝな心のなかに次第次第に目覚めかゝらうとして来た時、彼女の心が急になんともしれない非常な気づかいの為めに驚いたやうに瞳を見開いた。

人が歩いてゐる。この部屋のなかをひそかにそっと、何物かを抱へながら静かに唄を歌ってるのだ。

『ねんねんねんねん――ねんねんや。』

その声がどんなに物あはれに、その声がかなしみからやうやうぬけ出たやうにきこえたことだらう。唄ってるのは男だった。彼のいづこからその細やかな、すき通るやうな声が出て来るのであらうか。彼は一生懸命だった。赤ん坊を両手に抱へ込んで、静かに瞳をふせながら折々糸のやうに細く声を立てゝ泣くのをなだめようと、歩いてるのであった。そして赤ん坊のあまりに物あはれなその顔に、彼のくぼんだ深い瞳をうるませながら、なぐさめがたい悲しみにふるえながら、ひそかに歩いてゐたのであった。

『あゝ、赤ちゃんは。』

彼女の不思議な気がゝりが、彼女が目覚めると同時に声を立てた。そして彼女は赤ん坊をかゝへてゐる男の後姿をながめた。

『あゝ、赤ちゃんが泣くの。』

けれども、彼女の声はひくかった。彼は静かに唄を歌ってゐた。

『ねんねんねんねん――ねんねんや――赤ちゃんはおりこうだ、ねんねしな――』

彼女はふと、その唄を聞くと、涙がぼうと浮んで来た。そしてそのかなしみのなかに、彼女は茫然と沈んでしまった。動かされない身体の痛みとだるさを、そして彼女は急に感じたのだった。

彼女は、やがてまた耳についてるやうな、細くかなしげな声の為めに目覚めた。そしてそっと彼女の隣りの夜具に瞳をやると、大きな夜具の上が心地こゝろもち動いたとも思はれないほど、動いて、すき通るやうな小さな声はそこから洩れてゐたのであった。

『おゝ、赤ちゃんや。』

彼女は、力なく夜具のなかから手を出した。そして隣りの夜具の上にやうやくその指をのばした。そして彼女の口は自然に開かれて彼女がかつて唄ったことのない唄が口から出て来た。

『ねんねんねんねん――ねんねんな。ねんねんねん――ねんねしな――。』

とぎれとぎれに彼女は力なく唄って、その疲れたやうな白い小さな指先で、夜具の上を静かに打ちはじめた。

彼女はつかれた。そして彼女の手は赤ん坊の夜具の上にしほれたやうに投げ出されたまゝ動かなくなった。そして彼女の瞳がぼんやりと閉ぢられてしまったけれども、彼女はなほ唄ってゐた。

『ねんねんねんねん、ねんねんな――、赤ちゃんはねんねしな、ねんねしな――』

男は、ふとつめたい床のなかから唄の声を聞いて飛び立つやうに目覚めた。そして見るとねてるやうな彼女の唇から、歌がとぎれとぎれに聞えてゐたのであった。そして赤ん坊は小さな顔に皺をよせて、細い細い声を立てゝ泣いてゐた。

しら〲と白い光りが部屋のなかにどこともなくたゞよって、いつのまにか部屋は暁の冷たい空気にみたされた。そして彼等の夢のやうな夜が明けたのであった。そして、彼も彼女も淋しく床のなかにめざめた。

赤ん坊は、一人赤ん坊のみは、やうやく平和のかなしみのなかに瞳を閉ぢて、静かな息をついてゐた。

お葉は、初めて、やうやく、彼と自分との間にかつて見なかった所の、そしていづこから来たとも知れないこの小さな生き物が横へられてあるのを見て驚いた。彼女はしみじみと、半ば布団のかげに、半ば白い光りをあびてる幼な児の顔を不思議なものゝやうに見つめた。

「私から、私からこの生き物が生れた?」どうしてそんな事を信ずることが出来よう。おゝそして、それが我子、我子と云はねばならないか。どうして、そんな事を信ずることが出来やうか。」

あの苦しいなやみ、あの苦しい痛みのうちにこの赤ん坊が生れたとしたならば、それは神か悪魔でなければならない。けれども、この生れ出たこの悪魔は、神はどうしてあはれむべきものであらうか。

『私は、私が赤ちゃんを生んだのでせうか。そうして、この赤ちゃんは、一体誰れのものなのでせう。』

彼女は男の目覚めてるのを見て云った。

『可哀想だ、俺はたゞ可哀想でならない。そして、この生れて来たあはれな小さなものは俺だち二人のなかに生れ、俺だち二人の間にゐるのだからね、なんといふ可愛いやつだらう。大切にしなければならない、なにしろ、しかしどうしたらいゝものだらう「句点脱落」はママ』

男はそっと赤ん坊の布団をのぞき込んだ。そして三人が顔を見合せた時に、なんとはなしに底の方から微笑が浮び上って来た。

そのほゝ笑みは、一体なんであったらう。人間の悲しみの日からは、やがて微笑や、希望が浮び出て来る。またやがて朝の日光も、ばら色に輝くことだらう。男は新たに、この幼なきものゝために、山の如くつまれた雑務をとりかたづける為めに起き上った。

(『婦人公論』大正5・5)

底本 / Source edition

底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房版
1970(昭和45)年6月15日発行
底本の親本:「婦人公論」
1916(大正5)年5月号
初出:「婦人公論」
1916(大正5)年5月号
入力:小林徹
校正:福地博文
1999年7月15日公開
2005年12月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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素木 しづ「かなしみの日より」(新字旧仮名)、底本『素木しづ作品集』札幌・北書房、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000435_000012, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite