Soranoha

橡の花

とちのはな

梶井 基次郎

一

この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜ろくまくを悪くしたのですが、此方こちらへ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然しやはり精神が不健康になります。感心なことを云うと云ってあなたは笑うかも知れませんが、学校へ行くのが実に億劫おっくうでした。電車に乗ります。電車は四十分かかるのです。気持が消極的になっているせいか、前に坐っている人が私の顔を見ているような気が常にします。それが私の独ひとり相撲だとは判っているのです。と云うのは、はじめは気がつきませんでしたが、まあ云えば私自身そんな視線を捜しているという工合なのです。何気ない眼附きをしようなど思うのが抑ゝそもそもの苦しむもとです。

また電車のなかの人に敵意とはゆかないまでも、棘々とげとげしい心を持ちます。これもどうかすると変に人びとのアラを捜しているようになるのです。学生の間に流行はやっているらしい太いズボン、変にべたっとした赤靴。その他。その他。私の弱った身体からだにかなわないのはその悪趣味です。なにげなくやっているのだったら腹も立ちません。必要に迫られてのことだったら好意すら持てます。然しそうだとは決して思えないのです。浅はかな気がします。

女の髪も段々堪たまらないのが多くなりました。――あなたにお貸しした化物の本のなかに、こんな絵があったのを御存じですか。それは女のお化けです。顔はあたり前ですが、後頭部に――その部分がお化けなのです。貪婪どんらんな口を持っています。そして解ほぐした髪の毛の先が触手の恰好に化けて、置いてある鉢から菓子をつかみ、その口へ持ってゆこうとしているのです。が、女はそれを知っているのか知らないのか、あたりまえの顔で前を向いています。――私はそれを見たときいやな気がしました。ところがこの頃の髪にはそれを思い出させるのがあります。わげがその口の形をしているのです。その絵に対する私の嫌悪けんおはこのわげを見てから急に強くなりました。

こんなことを一々気にしていては窮屈で仕方がありません。然しそう思ってみても逃げられないことがあります。それは不快の一つの「型」です。反省が入れば入る程尚更その窮屈がオークワードになります。ある日こんなことがありました。やはり私の前に坐っていた婦人の服装が、私の嫌悪を誘い出しました。私は憎みました。致命的にやっつけてやりたい気がしました。そして効果的に恥を与え得る言葉を捜しました。ややあって私はそれに成功することが出来ました。然しそれは効果的に過ぎた言葉でした。やっつけるばかりでなく、恐らくそのシャアシャアした婦人を暗く不幸にせずにはおかないように思えました。私はそんな言葉を捜し出したとき、直ぐそれを相手に投げつける場面を想像するのですが、この場合私にはそれが出来ませんでした。その婦人、その言葉。この二つの対立を考えただけでも既に惨酷でした。私のいら立った気持は段々冷えてゆきました。女の人の造作をとやかく思うのは男らしくないことだと思いました。もっと温かい心で見なければいけないと思いました。然し調和的な気持は永く続きませんでした。一人相撲が過ぎたのです。

私の眼がもう一度その婦人を掠かすめたとき、ふと私はその醜さのなかに恐らく私以上の健康を感じたのです。わる達者という言葉があります。そう云った意味でわるく健康な感じです。性しょうにおえない鉄道草という雑草があります。あの健康にも似ていましょうか。――私の一人相撲はそれとの対照で段々神経的な弱さを露あらわして来ました。

俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時いつも私自身の精神が弛ゆるんでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしているのを知りました。

電車に乗っていてもう一つ困るのは車の響きが音楽に聴えることです。(これはあなたも何時だったか同様経験をしていられることを話されました)私はその響きを利用していい音楽を聴いてやろうと企てたことがありました。そんなことから不知不識しらずしらずに自分を不快にする敵を作っていた訳です。「あれをやろう」と思うと私は直ぐその曲目を車の響き、街の響きの中に発見するようになりました。然し悪く疲れているときなどは、それが正確な音程で聞えない。――それはいいのです。困るのはそれがもう此方の勝手では止まらなくなっていることです。そればかりではありません。それは何時の間にか私の堪たまらなくなる種類のものをやります。先程の婦人がそれにつれて踊るであろうような音楽です。時には嘲笑ちょうしょう的にそしてわざと下品に。そしてそれが彼等の凱歌がいかのように聞える――と云えば話になってしまいますが、とにかく非常に不快なのです。

電車の中で憂鬱になっているときの私の顔はきっと醜いにちがいありません。見る人が見ればきっとそれをよしとはしないだろうと私は思いました。私は自分の憂鬱の上に漠とした「悪」を感じたのです。私はその「悪」を避けたく思いました。然し電車には乗らないなどと云ってはいられません。毒も皿もそれが予あらかじめ命ぜられているものならひるむことはいらないことです。一人相撲もこれでおしまいです。あの海に実感を持たねばならぬと思います。

ある日私は年少の友と電車に乗っていました。この四月から私達に一年後おくれて東京に来た友でした。友は東京を不快がりました。そして京都のよかったことを云い云いしました。私にも少くともその気持に似た経験はありました。またやって来た匇々直ぐ東京が好きになるような人は不愉快です。然し私は友の言葉に同意を表しかねました。東京にもまた別種のよさがあることを云いました。そんなことをいう者さえ不愉快だ。友の調子にはこう云ったところさえ感ぜられます。そして二人は押し黙ってしまいました。それは変につらい沈黙でした。友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた――そんなことをした時もあったとその日云っておりました。そしてその話は私にとって無感覚なのでした。そんなことにも私自身がこだわりを持っていました。

二

或る日Oが訪ねてくれました。Oは健康そうな顔をしていました。そして種々いろいろ元気な話をしてゆきました。――

Oは私の机の上においてあった紙に眼をつけました。何枚もの紙の上に Waste という字が並べて書いてあるのです。

「これはなんだ。恋人でも出来たのか」と、Oはからかいました。恋人というようなあのOの口から出そうにもない言葉で、私は五六年も前の自分を不図ふと思い出しました。それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果であったことはあなたも少しは知っていられるでしょう。

――父の苦り切った声がその不面目な事件の結果を宣告しました。私は急にあたりが息苦しくなりました。自分でもわからない声を立てて寝床からとび出しました。後からは兄がついて来ておりました。私は母の鏡台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつっていました。何故なぜそこまで走ったのか――それは自分にも判然はっきりしません。その苦しさを眼で見ておこうとしたのかも知れません。鏡を見て或る場合心の激動の静まるときもあります。――両親、兄、O及びもう一人の友人がその時に手を焼いた連中です。そして家では今でもその娘の名を私の前では云わないのです。その名前を私は極くごく略した字で紙片の端などへ書いて見たことがありました。そしてそれを消した上こなごなに破らずにはいられなかったことがありました。――然しOが私にからかった紙の上には Waste という字が確実に一面に並んでいます。

「どうして、大ちがいだ」と私は云いました。そしてその訳を話しました。

その前晩私はやはり憂鬱に苦しめられていました。びしょびしょと雨が降っていました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたずら書きをしていました。その Waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらに直ぐ書く字がありますね――その字の一つなのです。私はそれを無暗むやみにたくさん書いていました。そのうちに私の耳はそのなかから機はたを織るような一定のリズムを聴きはじめたのです。手の調子がきまって来たためです。当然きこえる筈だったのです。なにかきこえると聴耳をたてはじめてから、それが一つの可愛いリズムだと思い当てたまでの私の気持は、緊張と云い喜びというにはあまりささやかなものでした。然し一時間前の倦怠けんたいではもうありませんでした。私はその衣きぬずれのようなまた小人国の汽車のような可愛いリズムに聴き入りました。それにも倦あくと今度はその音をなにかの言葉で真似て見たい欲望を起したのです。ほととぎすの声をてっぺんかけたかと聞くように。――然し私はとうとう発見出来ませんでした。サ行の音が多いにちがいないと思ったりする、その成心に妨げられたのです。然し私は小さいきれぎれの言葉を聴きました。そしてそれの暗示する言語が東京のそれでもなく、どこのそれでもなく、故郷の然も私の家族固有なアクセントであることを知りました。――おそらく私は一生懸命になっていたのでしょう。そうした心の純粋さがとうとう私をしてお里を出さしめたのだろうと思います。心から遠退とおのいていた故郷と、然も思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝ひざをつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいささか亢奮こうふんをしていたのです。

然しそれが芸術に於てのほんとう、殊に詩に於てのほんとうを暗示していはしないかなどOには話しました。Oはそんなことをもおだやかな微笑で聴いてくれました。

鉛筆の秀ほをとがらして私はOにもその音をきかせました。Oは眼を細くして「きこえる、きこえる」と云いました。そして自身でも試みて字を変え紙質を変えたりしたら面白そうだと云いました。また手加減が窮屈になったりすると音が変る。それを「声がわり」だと云って笑ったりしました。家族の中でも誰の声らしいと云いますから末の弟の声だろうと云ったのに関聯かんれんしてです。私は弟の変声期を想像するのがなにかむごい気がするときがあります。次の話もこの日のOとの話です。そして手紙に書いておきたいことです。

Oはその前の日曜に鶴見の花月園というところへ親類の子供を連れて行ったと云いました。そして面白そうにその模様を話して聞かせました。花月園というのは京都にあったパラダイスというようなところらしいです。いろいろ面白かったがその中でも愉快だったのは備えつけてある大きなすべり台だと云いました。そしてそれをすべる面白さを力説しました。ほんとうに面白かったらしいのです。今もその愉快が身体のどこかに残っていると云った話振りなのです。とうとう私も「行って見たいなあ」と云わされました。変な云い方ですがこのなあのあはOの「すべり台面白いぞお」のおと釣合っています。そしてそんな釣合いはOという人間の魅力からやって来ます。Oは嘘の云えない素直な男で彼の云うことはこちらも素直に信じられます。そのことはあまり素直ではない私にとって少くとも嬉しいことです。

そして話はその娯楽場の驢馬ろばの話になりました。それは子供を乗せて柵さくを回る驢馬で、よく馴れていて、子供が乗るとひとりで一周して帰って来るのだといいます。私はその動物を可愛いものに思いました。

ところがそのなかの一匹が途中で立留ったと云います。Oは見ていたのだそうです。するとその立留った奴はそのまま小便をはじめたのだそうです。乗っていた子供――女の児だったそうですが――はもじもじし出し顔が段々赤くなって来てしまいには泣きそうになったと云います。――私達は大いに笑いました。私の眼の前にはその光景がありありと浮びました。人のいい驢馬の稚気に富んだ尾籠びろう、そしてその尾籠の犠牲になった子供の可愛い困惑。それはほんとうに可愛い困惑です。然し笑い笑いしていた私はへんに笑えなくなって来たのです。笑うべく均衡されたその情景のなかから、女の児の気持だけがにわかに押し寄せて来たのです。「こんな御行儀の悪いことをして。わたしははずかしい」

私は笑えなくなってしまいました。前晩の寐ね不足のため変に心が誘われ易く、物に即し易くなっていたのです。私はそれを感じました。そして少しの間不快が去りませんでした。気軽にOにそのことを云えばよかったのです。口にさえ出せば再びそれを可愛い滑稽おどけなこと」として笑い直せたのです。然し私は変にそれが云えなかったのです。そして健康な感情の均整をいつも失わないOを羨うらやましく思いました。

三

私の部屋はいい部屋です。難を云えば造りが薄手に出来ていて湿気などに敏感なことです。一つの窓は樹木とそして崖がけとに近く、一つの窓は奥狸穴おくまみあななどの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎しいの老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わたしたところ一番大きな見事なながめです。一体椎という樹は梅雨期に葉が赤くなるものなのでしょうか。最初はなにか夕焼の反射をでも受けているのじゃないかなど疑いました。そんな赤さなのです。然し雨の日になってもそれは同じ。いつも同じでした。やはり樹自身の現象なのです。私は古人の「五月雨さみだれの降り残してや光堂」の句を、日を距へだててではありましたが、思い出しました。そして椎茜しいあかねという言葉を造って下の五におきかえ嬉しい気がしました。中の七が降り残したるではなく、降り残してやだったことも新しい眼で見得た気がしました。

崖に面した窓の近くには手にとどく程の距離にかなひでという木があります。朴ほおの一種だそうです。この花も五月闇さつきやみのなかにふさわなくはないものだと思いました。然しなんと云っても堪らないのは梅雨期です。雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎわなどが濡れてしまっているのを見たりすると全く憂鬱になりました。変に腹が立って来るのです。空はただ重苦しく垂れ下っています。

「チョッ。ぼろ船の底」

或る日も私はそんな言葉で自分の部屋をののしって見ました。そしてそのののしり方が自分がでに面白くて気は変りました。母が私にがみがみおこって来るときがあります。そしてしまいに突拍子もないののしり方をして笑ってしまうことがあります。ちょっとそう云った気持でした。私の空想はその言葉でぼろ船の底に畳を敷いて大きな川を旅している自分を空想させました。実際こんなときにこそ鬱陶うっとうしい梅雨つゆの響きも面白さを添えるのだと思いました。

四

それもやはり雨の降った或る日の午後でした。私は赤坂のAの家へ出かけました。京都時代の私達の会合――その席へはあなたも一度来られたことがありますね――憶おぼえていらっしゃればその時いたAです。

この四月には私達の後、やはりあの会合を維持していた人びとが、三人も巣立って来ました。そしてもともと話のあったこととて、既に東京へ来ていた五人と共に、再び東京に於ての会合が始まりました。そして来年の一月から同人雑誌を出すこと、その費用と原稿を月々貯ためてゆくことに相談が定ったのです。私がAの家へ行ったのはその積立金を持ってゆくためでした。

最近Aは家との間に或る悶着もんちゃくを起していました。それは結婚問題なのです。Aが自分の欲している道をゆけば父母を捨てたことになります。少くも父母にとってはそうです。Aの問題は自おのずから友人である私の態度を要求しました。私は当初彼を冷そうとさえ思いました。少くとも私が彼の心を熱しさせてゆく存在であることを避けようと努めました。問題がそういう風に大きくなればなる程そうしなければならぬと思ったのです。――然しそれがどちらの旗色であれ、他人のたてたどんな旗色にも動かされる人間でないことを彼は段々証して来ております。普段にぼんやりとしかわからなかった人間の性格と云うものがこう云うときに際してこそその輪郭をはっきりあらわすものだということを私は今に於て知ります。彼もまたこの試練によってそれを深めてゆくのでしょう。私はそれを美しいと思います。

Aの家へ私が着いたときは偶然新らしく東京へ来た連中が来ていました。そしてAの問題でAと家との間へ入った調停者の手紙に就て論じ合っていました。Aはその人達をおいて買物に出ていました。その日も私は気持がまるでふさいでいました。その話をききながらひとりぼっちの気持で黙り込んでいました。するとそのうちに何かのきっかけで「Aの気持もよくわかっていると云うのならなぜ此方こっちを骨折ろうとしないんだ」という言葉を聞きました。調子のきびしい言葉でした。それが調停者に就て云われている言葉であることは申すまでもありません。

私の心はなんだかびりりとしました。知るということと行うということとに何ら距りをつけないと云った生活態度の強さが私を圧迫したのです。単にそればかりではありません。私は心のなかで暗にその調停者の態度を是認していました。更に云えば「その人の気持もわかる」と思っていたからです。私は両方共わかっているというのは両方とも知らないのだと反省しないではいられませんでした。便りにしていたものが崩れてゆく何とも云えないいやな気持です。Aの両親さえ私にはそっぽを向けるだろうと思いました。一方の極へおとされてゆく私の気持は、然し、本能的な逆の力と争いはじめました。そしてAの家を出る頃ようやく調和したくつろぎに帰ることが出来ました。Aが使つかいから帰って来てからは皆の話も変って専もっぱら来年の計画の上に落ちました。Rのつけた雑誌の名前を繰り返し繰り返し喜び、それと定まるまでの苦心を滑稽化して笑いました。私の興味深く感じるのはその名前によって表現を得た私達の精神が、今度はその名前から再び鼓舞され整理されてくるということです。

私達はAの国から送って来たもので夕飯を御馳走になりました。部屋へ帰ると窓近い樫かしの木の花が重い匂いを部屋中にみなぎらせていました。Aは私の知識の中で名と物とが別であった菩提樹ぼだいじゅをその窓から教えてくれました。私はまた皆に飯倉の通りにある木は七葉樹とちのきだったと告げました。数日前RやAや二三人でその美しい花を見、マロニエという花じゃないかなど云い合っていたのです。私はその名をその中の一本に釣られていた「街路樹は大切にいたしましょう」の札で読んで来たのです。

積立金の話をしている間に私はその中の一人がそれの為の金を、全く自分で働いているのだという事を知りました。親からの金の中では出したくないと云うのです。――私は今更ながらいい伴侶はんりょと共に発足する自分であることを知りました。気持もかなり調和的になっていたのでこの友の行為から私自身を責め過ぎることはありませんでした。

しばらくして私達はAの家を出ました。外は快い雨あがりでした。まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通って帰って来ました。私の処へ寄って本を借りて帰るというのです。ついでに七葉樹の花を見ると云います。この友一人がそれを見はぐしていたからです。

道々私は唱うたいにくい音諧おんかいを大声で歌ってその友人にきかせました。それが歌えるのは私の気持のいい時に限るのです。我善坊の方へ来たとき私達は一つの面白い事件に打ぶつかりました。それは螢ほたるを捕まえた一人の男です。だしぬけに「これ螢ですか」と云って組合せた両の掌の隙を私達の鼻先に突出しました。螢がそのなかに美しい光を灯していました。「あそこで捕とったんだ」と聞きもしないのに説明しています。私と友は顔を見合せて変な笑顔になりました。やや遠離とおざかってから私達はお互いに笑い合ったことです。「きっと捕まえてあがってしまったんだよ」と私は云いました。なにか云わずにはいられなかったのだと思いました。

飯倉の通りは雨後の美しさで輝いていました。友と共に見上げた七葉樹には飾燈ネオンのような美しい花が咲いていました。私はまた五六年前の自分を振返る気持でした。私の眼が自然の美しさに対して開き初めたのも丁度その頃からだと思いました。電燈の光が透いて見えるその葉うらの色は、私が夜になれば誘惑を感じた娘の家の近くの小公園にもあったのです。私はその娘の家のぐるりを歩いてはその下のベンチで休むのがきまりになっていました。

(私の美に対する情熱が娘に対する情熱と胎たいを共にした双生児だったことが確かに信じられる今、私は窃盗に近いこと詐欺に等しいことをまだ年少だった自分がその末犯したことを、あなたにうちあけて、あとで困るようなことはないと思います。それ等は実に今日まで私の思い出を曇らせる雲翳うんえいだったのです)

街を走る電車はその晩電車固有の美しさで私の眼に映りました。雨後の空気のなかに窓を明け放ち、乗客も程よい電車の内部は、暗い路を通って来た私達の前を、あたかも幸福そのものが運ばれて其処にあるのだと思わせるような光で照されていました。乗っている女の人もただ往来からの一瞥べつで直ちに美しい人達のように思えました。何台もの電車を私達は見送りました。そのなかには美しい西洋人の姿も見えました。友もその晩は快かったにちがいありません。

「電車のなかでは顔が見難にくいが往来からだとかすれちがうときだとかは、かなり長い間見ていられるものだね」と云いました。なにげなく友の云った言葉に、私は前の日に無感覚だったことを美しい実感で思い直しました。

五

これはあなたにこの手紙を書こうと思い立った日の出来事です。私は久し振りに手拭をさげて銭湯へ行きました。やはり雨後でした。垣根のきこくがぷんぷん快い匂いを放っていました。

銭湯のなかで私は時たま一緒になる老人とその孫らしい女の児とを見かけました。花月園へ連れて行ってやりたいような可愛い児です。その日私は湯槽ゆぶねの上にかかっているペンキの風景画を見ながら「温泉のつもりなんだな」という小さい発見をして微笑ほほえまされました。湯は温泉でそのうえ電気浴という仕掛がしてあります。ひっそりした昼の湯槽には若い衆が二人入っていました。私がその中に混ってやや温まった頃その装置がビビビビビビと働きはじめました。

「おい動力来たね」と一人の若い衆が云いました。

「動力じゃねえよ」ともう一人が答えました。

湯を出た私はその女の児の近くへ座を持ってゆきました。そして身体を洗いながらときどきその女の児の顔を見ました。可愛い顔をしていました。老人は自分を洗い終ると次にはその児にかかりました。幼い手つきで使っていた石鹸のついた手拭は老人にとりあげられました。老人の顔があちら向きになりましたので私は、自分の方へその子の目を誘うのを予期して、じっと女の児の顔を見ました。やがてその子の顔がこちらを向いたので私は微笑みかけました。然し女の児は笑って来ません。然し首を洗われる段になって、眼を向け難にくくなっても上眼を使って私を見ようとします。しまいには「ウウウ」と云いながらも私の作り笑顔に苦しい上眼を張ろうとします。そのウウウはなかなか可愛く見えました。

「サア」突然老人の何も知らない手がその子の首を俯向うつむかせてしまいました。

しばらくしてその女の子の首は楽になりました。私はそれを待っていたのです。そして今度は滑稽な作り顔をして見せました。そして段々それをひどく歪ゆがめてゆきました。

「おじいちゃん」女の子がとうとう物を云いました。私の顔を見ながらです。「これどこの人」「それゃあよそのおっちゃん」振向きもせず相変らずせっせと老人はその児を洗っていました。

珍しく永い湯の後、私は全く伸々のびのびした気持で湯をあがりました。私は風呂のなかである一つの問題を考えてしまって気が軽く晴々していました。その問題というのはこうです。ある友人の腕の皮膚が不健康な皺しわを持っているのを、ある腕の太さ比べをしたとき私が指摘したことがありました。すると友人は「死んでやろうと思うときがときどきあるんだ」と激しく云いました。自分のどこかに醜いところが少しでもあれば我慢出来ないというのです。それは単なる皺でした。然し私の気がついたのはそれが一時的の皺ではないことでした。とにかく些細ささいなことでした。然し私はそのときも自分のなにかがつかれたような気がしたのです。私は自分にもいつかそんなことを思ったときがあると思いました。確かにあったと思うのですが思い出せないのです。そしてその時は淋しい気がしました。風呂のなかでふと思い出したのはそれです。思い出して見れば確かに私にもありました。それは何歳位だったか覚えませんが、自分の顔の醜いことを知った頃です。もう一つは家に南京虫が湧わいた時です。家全体が焼いてしまいたくなるのです。も一つは新らしい筆記帳の使いはじめ字を書き損ねたときのことです。筆記帳を捨ててしまいたくなるのです。そんなことを思い出した末、私はその年少の友の反省の為に、大切に使われよく繕われた古い器具の奥床しさを折があれば云って見たいと思いました。ひびへ漆を入れた茶器を現に二人が讃ほめたことがあったのです。

紅潮した身体には細い血管までがうっすら膨ふくれあがっていました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したようにおどけた表情で歪ませて見ました。

Hysterica Passio ――そう云って私はとうとう笑い出しました。

一年中で私の最もいやな時期ももう過ぎようとしています。思い出してみれば、どうにも心の動きがつかなかったような日が多かったなかにも、南葵なんき文庫の庭で忍冬すいかずらの高い香を知ったようなときもあります。霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に来ているのだと思ったような晩もあります。妄想で自らを卑屈にすることなく、戦うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持をお伝えしたくこの筆をとりました。

――一九二五年十月――

底本 / Source edition

底本:「檸檬」新潮文庫、新潮社
1967(昭和42)年12月10日初版発行
1990(平成2)年1月20日46刷
初出:「青空」
1925(大正14)年11月
入力:田中久太郎
校正:久保あきら
1999年8月31日公開
2011年6月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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梶井 基次郎「橡の花」(新字新仮名)、底本『檸檬』新潮文庫、新潮社、1967年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000431_000074, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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