Soranoha

氷雨

ひさめ

葉山 嘉樹

一

暗くなつて来た。十間許り下流で釣つてゐる男の子の姿も、夕暗に輪廓がぼやけて来た。女の子は堤の上で遊んでゐたが、さつき、

「お父さん、雨が降つて来たよ」

と、私に知らせに来た。

「どこかで雨を避けておいで」

と返事をしたまま、私は魚を釣り続けてゐたのだが、堤には小さな胡桃の木以外には生えてゐなかつた。それも秋も深んだ今では、すつかり葉を落してしまつて、裸で立つてゐるのだつた。

兄の方が、釣り竿を堤防の石垣の穴にさし込んどいて、

「かうして屋根を葺くんだよ」

と云つて、堤の上に乾してあつた乾草を胡桃の枝に渡して、屋根を葺いてやつた。

多分この乾草は、軍に献納した馬糧の残りであらう。その一ヶ月前位に、農民たちは腹までも川の水に浸つて、三角洲に生えた丈の長い草を苅りに、川を渡つて行つたのを私は見てゐたから。

いつもなら、子供たちは、「もう帰らうよ、暗くなつたぢやないか」だとか、「お父さんは未だお腹が空かないの」とか云つて帰りをせき立てるのだが、今日は「帰らう」とは云はなかつた。

高原の秋は寒かつた。日は暮れ、雨さへも降り出したので、寒さは又増した。子供たちの心の中にも心細さが増したであらう、と云ふことも私には分つてゐた。

私は尺に近い赤魚を、サンザン苦労して引つ張り上げ、魚籠ビクに入れる直前に落した。

私の心の中は「心細さ」と云ふやうな感じはなかつた。そんな風に一色では片附けられる感情ではなかつた。魚を落すのも、私の心が一と所に落ちついてゐないからだつた。

このやうな夕暮が、私たちの上に襲ひかかるであらう、と云ふことは、昨日や一昨日から予感してゐた事ではなかつた。もつともつと永い前から分つてゐた事であつた。だが、それに対応する策を個人的に取る事が出来ると云ふやうな事柄ではなかつた。

私は頭の中に湧き起つて来る、様々の懸念や妄想を、釣りをする、と云ふ事で追つ払ふ為になるべく人の居ない――たとひ魚は釣れなくとも――処を選んで、来るのが慣はしであつた。

その日は昼食を食つてから、私たち親子三人は、私と息子は釣りをする為に、娘は蝗を捕るために、家を出たのだつた。

そして、家を出る時に、小学校に今年上つた女の児が、

「お母あさん。もうお米がないのね」

と、米櫃を覗き込んで云つたのだつた。

日曜だつたので、小学校四年の男の子も、私もそれを聞いてゐた。私の場合では聞かなくても知つてゐた。その為の打開策を、もう三年以上も考へあぐんでゐたのだつた。

が、子供たちには、その日、米櫃が空になつてゐることが、何かギクッと来たらしかつた。

町中の雰囲気や、駅頭の雰囲気と、子供たちの生活の本拠の家の中の雰囲気とが、何か違つたものを感じたのであらう。

華々しいもの、潔いもの、勇壮なるもの、さう云つたものから、子供の家へ帰ると、ひつそりと沈んだ冷え冷えとしたものが、両親の体臭のやうに、家中を靄のやうに立ちこめてゐた。

子等は生れると直ぐから、決して裕福には育たなかつた。裕福などころか、転々として居を追はれる両親に附いて、町から村へ、山へ峡谷へと、土方や坑夫の間を、ひどく簡素な生活の間を生ひ育つた。米櫃が空だなどと云ふことは日常の事であつた。

だが、今度ばかりはどこか違ふ、と云ふことを、動物的に直感したらしかつた。その内容は子供等に解る訳もなかつた。その両親の私たちにも解らなかつたから。

二

雨が強くなつて来た。

自分の持つてゐる釣竿は未だ見えた。が、餌箱の中の餌の「チラ」がもう見えなくなつた。釣針も見えなくなつた。ピクッとかかつたので糸を上げても、どこに魚がかかつてゐるのかも見えなくなつた。

もう、釣りも駄目になつた。

私は、「親子心中」をする人たちの、その直前の心理を考へてゐたことに気がついた。

足の下には、日本の三大急流の一つが、セセラギ流れてゐた。減水してゐたので、豪宕たる感じはなかつた。が、それでも人間の十人や百人呑んだところで、慌てると云ふ風な河ではなかつた。

暗い中に流してゐたので、鉤が木工沈床の鉄筋か玉石の間か、流木かに引つかかつてとれなくなつた。

首筋には雨が伝はつて来た。

釣竿を寄せ、竿頭からテグスを掴むと、私は力まかせに引つ張つた。テグスは竿頭から三分の一位の処で切れたことが、手さぐりで分つた。

「サア、帰らうぜ」

と、私は子供たちに声をかけた。

「帰るの、帰らうねえ」

と、子供たちは下流から声を合せた。

だんだん強く降つて来た雨で、私たちは濡れてゐた。体が寒く凍えて来た。私はカジカンだ手で竿を畳み、子供たちの方へ堤の上を歩いて行つた。

兄妹は五尺にも足らぬ胡桃の木の下に、二尺角位に乾し草の屋根を葺いて、その下に雫で背中を濡らしながら、木の幹を抱き、向き合つて跼んでゐた。

「竿はどこへやつた?」

と、私が訊くと、

「ほら、そこにあるよ」

と、上の子が出て来た。

「ああ、分つた、分つた」

私は子供の竿を抜きにかかつたが、元の方の二本が固くて抜けなかつた。

「これは抜けないや、濡らしたから緊つちやつた。お前担いでおいでよ」

「うん」

「ほら、こんなに釣れたよ」

魚籠を解いて腰から外し、子等に持たせた。魚の形が割合に大きかつたので、数の割合ひに目方は重かつた。

暗い闇の中で、魚の腹が白く光つてゐた。

「サア帰らう。寒かつたかい」

私は「腹が空つたらう」と云ひかけて口をつぐんだ。

「ちつとも濡れなかつたよ。お父さん兄さんが小屋を拵らへてくれたから。ねえ、兄さん」

「いつ小屋を葺くことなんか覚えたんだい、お前は?」

「戦争ごつこの時にやるからね、もつと大きなのを葺くんだよ。炭俵なんかでね」

「さうかい。サア帰らう」

私たちは暗くなつた河の堤防を、下流に向つた。

男の子は先頭に立つた。女の児は私の後ろになつた。

コンクリートの橋があつて、そこで県道に出て、そこから私たちの家まで、約一里あつた。橋の袂に小屋があつた。橋を作る時に拵らへたセメント置場か何かのバラックである。

そこで上の子は、私たちを待つてゐた。

私は下の子の来るのを、上の子とそこで黙つて待つてゐた。

どう云ふものか、ふだんお喋舌りの子等がその夜は黙り込んでゐた。

無邪気な、詰らない疑問が飛び出して、私を煩さがらさなかつた。

――父ちゃんは考へるがいい。――

とでも、子等は思つてゐたのだらうか。

三人、一緒になつたので、

「お前たちはお父さんの先きにお歩き」

さう云つて、私たちは県道を歩き始めた。

県道は、電話線の埋設工事で掘り起されてあつた。いつも坦々たる道路なのに、その日は掘り起した泥と雨との為にぬかつてゐた。

その悪路を子等は驚く程、足早に歩いた。

暗闇の中で、私は子供たちの姿を見失つてしまつた。が、長い間、さうだ三十分位の間も、私は子等の先きに立つた姿を「見失つた」と云ふことに気がつかなかつた。

長い間、帰り途の半分位の道程を、私は何を考へてゐたのだらう、と、子供の姿の見えないことに気のついた途端に、考へたが、その時には、もう私は、先きに歩いてゐる、見えない子供たちに声をかけてゐた。

「おうい! 余んまり速いぞう、お父さんは附いて歩けないぞ」

道は林の坂道にかかつてゐた。

両側の林の樹々には、葉のある樹々が多かつたので、雨が、そこまで来ると急にひどくなりでもしたやうに、音を立てた。

その音にせき立てられて、子等の歩みも一層速くなつたんだらう。

が、私はノロくさく歩いた。子供たちに追ひつかうと試みたが、駄目な事が分つた。

私の体にも、私の心にも、私の歩みを速めるだけの力が残つてゐなかつた。速めると云ふだけで無く、一口に言つて終へば生命力が残つてゐなかつた、と云つてもよかつた。

嫌悪感、それが私の全体をひつ括んでゐた。それは自分の外に向つても、自分の内に向つても、粘り強い根を延ばしてゐた。

今までも、嫌悪感と云ふものは幾度か、殆んど数へ切れない位に私の首を締めつけた。が、今度程、それが長く、その上小憩みなしに続いたことはなかつた。

肉体の上の極度の疲労と、精神上の異常な打撃とが同時に起ると、「腰を抜かす」と云ふ現象が起ることがある。この状態が私を掴んでゐた。腰を抜かしながらも、私は子供たちを両手で捧げて、死の濁流へ呑まれないやうにしてゐたのである。

戦場で多くの死傷者が出た。それを新聞紙上で見てゐるうちに、私は、私の死をも考へるやうになつた。身に引きくらべて考へるのである。それが私の習慣になつた。死のあらゆる場合を考へ続けることが習慣になると、私の生活は生命へよりも、死の方へ近づいて行つた。

生命への嫌悪感!

いや、この言葉は嘘だ! が、何かしら、生きて行くのに大骨を折ると云ふことに、熱意を欠いたとでも云ふのであらうか。これは私にとつては生れて最初の現象である。

自殺を思つたことも幾度かあつた。それを企てたと自分で思ひ込んだこともあつた。

が、これ程、怖れなく、と云ふよりも生への執着を抛棄して、死の方へ引つ張られるやうにズルズルと考へ込んで、あらゆる生への努力を、六ヶ月間も打つ棄つてしまつたことは初めてであつた。

三

子供たちは、余程急いで歩いたと見えた。

私の呶鳴つた声にも返答がなかつた。

私は感じてゐた。

「子供たちは俺の考へを感じてゐるに違ひない」と。

子供が急いで急坂を上るのは、私の身心から発散する墓場の雰囲気が恐ろしかつたのだと、私は考へた。

無理もない話であつた。私は全三ヶ月間、生と死との事ばかり考へてゐた。それに附随して湧き起つて来る問題を考へてゐた。さう云ふ風な考へ事に没頭してゐれば、具体的な、現実的な生活からも、生活手段からも離れて行くことは自明の理であつた。

私たちは「死」を売り物にする訳には行かなかつた。坊さんでさへ、昔のやうには「死」を売りものに出来ない時代なのだ。

「生」を売りものにするのも、私の場合では至難であつた。生命そのものすら売り物にしにくい場合に、生命とは何ぞや、と云ふやうなことを、無学無智な私などが、どのやうに堂々巡りをして考へたつて、それが商品にならないのも分り切つたことだつた。

生命とは「馬鹿気たものだ」と云ふ途方もない結論に到達することを、私は怖れた。まして生命とは苦痛だ、と云ふ風な結論に私は絶対に入りたくなかつた。

かう云ふ風な考へ方が、かう云ふ風な文章、又は言葉で、私の頭の中で考へられた訳ではなかつた。

「もう政治とは絶対に縁を切る!」

と云つた風な想念の断片が、私の頭をかすめるのであつた。

だが、私は今まで一度だつて、政治家になつたことはないし、なりたかつた事もないのだ。まして、私が政治と縁を切ると決めようが、決めまいが私の一時一瞬の生活も、政治の下にあるのだ。私の考へや決心などは全つ切り問題にはならないのだ。

要するに生命と云ふものは、動物的なものなのだ。この動物的な生命を、生き甲斐のあるやうにするのには、動物的な生活態度が必要なのだ。

兎や雷鳥が、雪の降る時に白色に変り、草の萌え茂る時に、その色に変るやうに、カメレオンのやうに、絶えず変色したり、尺取り虫見たいに、枯枝と同じ色をして、力んでピンと立つてゐれば、生命と云ふものは保つものなのだ。

それは何等卑下する必要のないことなのだ。大体、命と云ふものがそんなふうなものなのだからだ。

だが、動物も人間となると、勿体をつける必要が生じて来るのだ。余りアッサリし過ぎてもいけないし、正直過ぎても困るのだ。

かう云ふ風なことを考へてゐる人間は、子供と喜を共にすることが、時とすると困難になつて来る。

四

私はもう、私には見切りをつけた。

何の才能もないし、学問もないし、社会人類、国家に尽す方法も持たないし、詰り人生の食ひ潰しであることを自認したのだつた。

自認すると同時に、他からもさう認められてゐたのだから、結果は明白だつた。

そこで、子供たちには、子供たちが「面白い」として喜ぶことを、させてやらうと思つた。と云つても、収入が途絶してしまつてゐるのだから、その範囲は極めて狭く局限されるのだつた。

その日の釣り兼蝗取りも、その催しの一つだつた。これなら金がかからないで、子等の弁当のお菜が取れる。その上川魚は頭ごと食へるから、第二の国民の骨骼を大きくする為のカルシウム分もフンダンにある。外の栄養分は知らないが、悪いことはないに決つてゐる。

そんなことはどうだつて、さうだ、どうだつてよくはない。が、それよりも、釣りをすることを子供たちが、果して喜んだかどうかなのだつた。私が居なくなつて、子供たちが成長してから、その日を快よい、生き甲斐のある一日として思ひ出の種にし得るかどうか、が問題であつた。

このだらしのない、子等に対して申し訳なく、相済まなく思つてゐる父の心が、そんな釣りの半日で子供の心に通じるかどうか、これは寧ろ逆効果でありはしないか。

私より遙かに先きに立つて、暗闇の中に姿を消してしもうた子供たちの心の中に、私は入らうと努めた。

――何をあの子等は考へてゐるであらう――

だが、私は子等の心の中へだけ入り込んで終ふと云ふことは出来なかつた。子等の心の中に入り切る事は出来なかつたが、あの子たちよりも、もつともつと不幸な子供たちが沢山あるし、又、これからはもつと、ずつと殖えるに違ひない、と私は思つた。

坂の中途に、檜の造林が道を挾んで、昼もなほ暗い処がある。そこの入口で子供たちは私を待つてゐた。

「速いねえ。もつと悠くり歩かなけや、父ちやんは附いて行けないよ」

「引つ張つて上げようか」

と、一年生の女の児が、私の手を引つ張つて、グイグイと先きに立つた。

強い力だ。私の心はスパークのやうに、一瞬間青白い光を放ち、熱を持つた。が、次の歩みの時には、もう元の闇に帰つてゐた。

急坂を登り切らうとする所、村の部落外れに、荒ら屋がある。

その家の子供の一人が、私の男の子と同級である。

ある夜、私は釣りの帰りに、硝子のない硝子戸から、その家の有様を通りすがりに眺めた。

亭主は手を膝にキチンと揃へ、正坐して俯向いてゐた。細君は亭主と正面に向き合つて、「論告」を下してゐた。

傍聴席には、その両親の子供たちが、ハッキリ数へることは出来なかつたが、七八人、或は十人もゐたかもしれなかつた。

「お前だけ酒を飲んで面白いかもしれないが……」

それだけ私は聞きとつた。

その夜は、囲炉裏の自在鍵には鍋がかかつてゐなかつた。火も燃えてゐなかつた。

「さては米代を飲んぢまやがつたな」

と腹の中で云つて、私は首をすくめた。

屋根板を削るのや、頼まれて日雇に行くのが、その家の業だつた。

私はその夫婦の両方に同情した。

セリフは私の家でも同じだ。日本中、いや世界中、このセリフは共通してゐるだらう。そしてこのセリフ位、古くならないで、何時も鋭い実感を伴つて、亭主野郎の頭上に落ちて来るものも少ないだらう。

ジグスのやうに、パンのし棒でのされるにしても、あのやうに朗に飲めるのならば、酒は確かに百薬の長だが。

親子心中を一日延ばすために、飲んだとなると、効き目が一寸あらたか過ぎる。

「どんな子だい。あの家の子は?」

と、私が男の子に訊くと、

「あだ名をダルマつて云ふんだよ。憤ると頬つぺたを膨らませるんでね。それでダルマつて云ふんだよ」

「さうかい。お前だつて憤ると頬つぺたを膨らせやしないかい」

「とつても膨らませるんだよ。眼玉を大きくしてね」

「余まり憤らせない方がいいね」

五

農村は萎びてゐる。

身心共に萎びてゐる。

枠が小さくて、一寸堅過ぎる。

人の考へる通りを考へ、人の感じる通りを感じる。さうしないと喰み出して終ふ。

喰み出したらお終ひではないか。喰み出さなくても、暮しは苦しい。

私たちは家へ帰り着いた。

子供たちは濡れた服を脱いで、コタツに入り、夕食を摂つた。日頃健啖なのに、下の女の児は一杯食つた切りで、「御馳走様」と云つて、サッサと寝床にもぐり込んだ。

男の子は三杯目に、

「御飯未だあるの」

と女房に訊いた。

魚釣りも、蝗取りも、米櫃の空なことを忘れさせなかつたのだ。

私の教育方針もよろしきを得てゐる。

「兵隊さんたちは、三日二夜食もなくつて軍歌にあるだらう。苦労してゐるんだからね、お前たちも贅沢を云つてはいけないよ」

と、ふだんから云つてあるのだ。

子供たちが食事が済み、寝床に入つてから、私は米を借りに出かけた。

村の町は、夜九時になると死んだやうになる、偶然飛び込んだ旅人を泊める宿屋までも、十時になると眠り込む。

出征を祝す、の征旗も、旗を取り込んで、てつぺんに葉を少し残した旗竿だけが、淋しく軒先きに立つてゐる。

明日はどうなるであらう。

(昭和十二年十二月)

底本 / Source edition

底本:「筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集」筑摩書房
1979(昭和54)年2月25日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野裕
校正:高橋真也
1999年10月17日公開
2006年2月2日修正
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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葉山 嘉樹「氷雨」(新字旧仮名)、底本『筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集』筑摩書房、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000379_000031, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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