Soranoha

真景累ヶ淵

しんけいかさねがふち

三遊亭 円朝

一

今日こんにちより怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃すたりまして、余り寄席せきで致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或あるいは流りゅう違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国しもふさのくに羽生村はにゅうむらと申す処の、累かさねの後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。なれども是はその昔、幽霊というものが有ると私共わたくしどもも存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おゝ怖い、変な物、ありゃア幽霊じゃアないかと驚きましたが、只今では幽霊がないものと諦めましたから、頓とんと怖い事はございません。狐にばかされるという事は有る訳のものでないから、神経病、又天狗に攫さらわれるという事も無いからやっぱり神経病と申して、何なんでも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在開ひらけたえらい方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッと云って臀餅しりもちをつくのは、やっぱり神経が些ちと怪しいのでございましょう。ところが或る物識ものしりの方は、「イヤ〱西洋にも幽霊がある、決して無いとは云われぬ、必ず有るに違いない」と仰しゃるから、私共は「ヘエ然そうでございますか、幽霊は矢張やっぱり有りますかな」と云うと、又外の物識の方は、「ナニ決して無い、幽霊なんというは有る訳のものではない」と仰しゃるから、「ヘエ左様でございますか、無いという方が本当でげしょう」と何方どちらへも寄らず障らず、只云うなり次第に、無いといえば無い、有るといえば有る、と云って居れば済みまするが、極ごく大昔に断見だんけんの論というが有って、是は今申す哲学という様なもので、此の派の論師の論には、眼に見え無い物は無いに違いない、何どんな物でも眼の前に有る物で無ければ有るとは云わせぬ、仮令たとえ何んな理論が有っても、眼に見えぬ物は無いに違いないという事を説きました。すると其処そこへ釈迦が出て、お前の云うのは間違っている、それに一体無いという方が迷っているのだ、と云い出したから、益々分らなくなりまして、「ヘエ、それでは有るのが無いので、無いのが有るのですか」と云うと、「イヤ然そうでも無い」と云うので、詰り何方どちらか慥たしかに分りません。釈迦と云ういたずら者が世に出いでて多くの人を迷わする哉かな、と申す狂歌も有りまする事で、私共は何方へでも智慧のある方かたが仰しゃる方ほうへ附いて参りまするが、詰り悪い事をせぬ方かたには幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有りまする。是が即ち神経病と云って、自分の幽霊を脊負しょって居いるような事を致します。例えば彼奴あいつを殺した時に斯こういう顔付をして睨にらんだが、若もしや己おれを怨うらんで居やアしないか、と云う事が一つ胸に有って胸に幽霊をこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。又その執念の深い人は、生きて居ながら幽霊になる事がございます。勿論死んでから出ると定きまっているが、私わたくしは見た事もございませんが、随分生きながら出る幽霊がございます。彼かの執念深いと申すのは恐しいもので、よく婦人が、嫉妬のために、散ちらし髪で仲人の処へ駈けて行ゆく途中で、巡査おまわりに出会でっくわしても、少しも巡査が目に入りませんから、突当るはずみに、巡査の顔にかぶり付くような事もございます。又金を溜めて大事にすると念が残るという事もあり、金を取る者へ念が取付いたなんという事も、よくある話でございます。

只今の事ではありませんが、昔根津ねづの七軒町しちけんちょうに皆川宗悦みながわそうえつと申す針医がございまして、この皆川宗悦が、ポツ〱と鼠が巣を造るように蓄めた金で、高利貸を初めたのが病みつきで、段々少しずつ溜るに従っていよ〱面白くなりますから、大たいした金ではありませんが、諸方へ高い利息で貸し付けてございます。ところが宗悦は五十の坂を越してから女房に別れ、娘が二人有って、姉は志賀と申して十九歳、妹は園と申して十七歳でございますから、其の二人を楽たのしみに、夜中やちゅうの寒いのも厭いとわず療治をしては僅わずかの金を取って参り、其の中から半分は除のけて置いて、少し溜ると是を五両一分で貸そうというのが楽みでございます。安永あんえい二年十二月二十日の事で、空は雪催しで一体に曇り、日光おろしの風は身に染しみて寒い日、すると宗悦は何か考えて居りましたが、

宗「姉あんねえや、姉えや」

志「あい……もっと火を入れて上げようかえ」

宗「ナニ火はもういゝが、追々押詰るから、小日向こびなたの方へ催促に行こうと思うのだが、又出て行ゆくのはおっくうだから、牛込うしごめの方へ行って由兵衞よしべえさんの処とこへも顔を出したいし、それから小日向のお屋敷へ行ったり四ツ谷へも廻ったりするから、泊り掛がけで五六軒遣やって来ようと思う、牛込は少し面倒で、今から行っちゃア遅いから明日あした行く事にしようと思うが、小日向のはずるいから早く行かないとなあ」

志「でもお父とっさん本当に寒いよ、若もし降って来るといけないから明日早くお出でなさいな」

宗「いや然そうでない、雪は催して居てもなか〱降らぬから、雪催しで些ちっと寒いが、降らぬ中うちに早く行って来よう、何を出してくんな、綿の沢山はいった半纒はんてんを、あれを引掛ひっかけて然うして奴やっこ蛇の目の傘を持って、傘は紐を付けて斜はすに脊負しょって行くようにしてくんな、ひょっと降ると困るから、なに頭巾をかぶれば寒くないよ」

志「だけれども今日は大層遅いから」

宗「いゝえそうでは無い」

と云うと妹のお園が、

園「お父とっさん早く帰っておくれ、本当に寒いから、遅いと心配だから」

宗「なに心配はない、お土産みやを買って来る」

と云って出ますると、所謂いわゆる虫が知らせると云うのか、宗悦の後影うしろかげを見送ります。宗悦は前鼻緒まえばなおのゆるんだ下駄を穿はいてガラ〱出て参りまして、牛込の懇意の家うちへ一二軒寄って、すこし遅くはなりましたが、小日向服部坂上はっとりさかうえの深見新左衞門ふかみしんざえもんと申すお屋敷へ廻って参ります。この深見新左衞門というのは、小普請組こぶしんぐみで、奉公人も少ない、至って貧乏なお屋敷で、殿様は毎日御酒ばかりあがって居るから、畳などは縁へりがズタ〱になって居おり、畳はたゞみばかりでたたは無いような訳でございます。

宗「お頼み申します〱」

新「おい誰たれか取次が有りますぜ、奥方、取次がありますよ」

奥「どうれ」

と云うので、奉公人が少ないから奥様が取次をなさる。

二

奥「おや、よくお出でだ、さア上あがんな、久しくお出でゞなかったねえ」

宗「ヘエこれは奥様お出向いで恐れ入ります」

奥「さアお上り、丁度殿様もお在宅いでで、今御酒をあがってる、さア通りな、燈光あかりを出しても無駄だから手を取ろう、さア」

宗「これは恐入ります、何か足に引掛ひっかゝりましたから一寸ちょっと」

奥「なにね畳がズタ〱になってるから足に引掛るのだよ……殿様宗悦が」

新「いや是は何どうも珍らしい、よく来た、誠に久しく逢わなかったな、この寒いのによく尋ねてくれた」

宗「ヘエ殿様御機嫌好よう、誠に其の後のちは御無沙汰を致しましてございます、何うも追々月迫げっぱく致しまして、お寒さが強うございますが何もお変りもございませんで、宗悦身に取りまして恐悦に存じます」

新「先頃は折角尋ねてくれた処が生憎あいにく不在で逢わなかったが何うも遠いからのう、なか〱尋ねるたって容易でない、よくそれでも心に掛けて尋ねてくれた、余り寒いから今一人で一杯始めて相手欲しやと思って居た処、遠慮は入らぬ、別懇べっこんの間ださア」

宗「ヘエ有難い事で、家内のお兼かねが御奉公を致した縁合えんあいで、盲人が上りましても、直々じき〱殿様がお逢い遊ばして下さると云うのは、誠に有難いことでございますが、ヘエ、なに何う致しまして」

奥「宗悦やお茶を此処こゝに置くよ」

宗「ヘエ是は何うも恐れ入ります」

新「奥方宗悦が久振ひさしぶりで来たから何なんでも有合ありあいで一つ、随分飲めるから飲まして遣やりましょう、エヽ奥方勘藏かんぞうは居らぬかえ、エ、ナニ何か一寸、少しは有ろう、まア〱宗悦此方こちらへ来な、却かえって鯣するめぐらいの方が好よい、随分酔うものだよ、さアずっと側へ来な、奥方頼みます」

奥「宗悦ゆるりと」

と云うので、別に奉公人が有りませんから、奥様が台所で拵こしらえるのでございます。

新「宗悦よく来た、さア一つ」

宗「ヘエ是は恐れ入ります、頂戴致します、ヘエもう…おッと溢こぼれます」

新「これは感心、何うもその猪口ちょくの中へ指を突込んで加減をはかると云うのは其処そこは盲人でも感服なもの、まア宗悦よく来たな、何なんと心得て来た」

宗「ヘエ何と云って殿様申し上げるのはお気の毒でげすが、先年御用達ごようだって置いたあの金子の事でございます、外ほかとは違いまして、兼が御奉公を致しましたお屋敷の事でございますから、外よりは利分りぶんをお廉やすく致しまして、十五両一分で御用達ったのは僅わずか三十金でございますが、あれ切ぎり何とも御沙汰がございませんから、再度参りました所が、何分なにぶん御不都合の御様子でございますから遠慮致して居おるうちに、もう丁度足掛け三年になります、エ誠に今年は不手廻ふてまわりで融通が悪うございます、ヘエ余り延引になりますから、ヘエ何どうか今日こんにちは御返金を願いたく出ましてございます、ヘエ何うか今日は是非半金でも戴きませんでは誠に困りますから」

新「そりゃア何うもいかん、誠に不都合だがのう、当家も続いて不如意でのう、何うも返したくは心得て居いるが、種々いろ〱その何うも入用が有って何分差支えるからもうちっと待てえ」

宗「殿様え、貴方あなたはいつ上あがっても都合が悪いから待てと仰しゃいますがね、何時いつ上れば御返金になるという事を確しっかり伺いませんでは困ります、ヘエ慥たしかに何時いつ幾日いっかと仰しゃいませんでは、私わたくしは斯こういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引張って山坂を越して来るのでげすから、只出来ぬとばかり仰しゃっては困ります。三年越しになってもまだ出来ぬと云うのは、余あんまり馬鹿々々しい、今日きょうは是非半分でも頂戴して帰らんければ帰られません、何なんぼ何でも余あんまり我儘でげすからなア」

新「我儘と云っても返せぬから致し方がない、エヽいくら振ろうとしても無い袖は振れぬという譬たとえの通りで、返せぬというものを無理に取ろうという道理はあるまい、返せなければ如何いかゞいたした」

宗「返せぬと仰しゃるが、人の物を借りて返さぬという事はありません、天下の直参じきさんの方が盲人の金を借りて居て出来ないから返せぬと仰しゃっては甚はなはだ迷惑を致します、そのうえ義理が重なって居りますから遠慮して催促も致しませんが、大抵四月縛よつきしばりか長くても五月いつゝきという所を、べん〲と廉やすい利で御用達ごようだて申して置いたのでげすから、ヘエ何うか今日こんにち御返金を願います、馬鹿々々しい、幾度来たって果はてしが附きませんからなア」

新「これ、何なんだ大声を致すな、何だ、痩せても枯れても天下の直参が、長らく奉公をした縁合を以もって、此の通り直々に目通りを許して、盃さかずきでも取らすわけだから、少しは遠慮という事が無ければならぬ、然しかるを何だ、余あまり馬鹿々々しいとは何どういう主意を以て斯かくの如く悪口あっこうを申すか、この呆漢たわけめ、何だ、無礼の事を申さば切捨てたってもよい訳だ」

宗「やア是は篦棒べらぼうらしゅうございます、こりゃアきっと承りましょう、余あんまりと云えば馬鹿々々しい、何なんでげすか、金を借りて置きながら催促に来ると、切捨てゝもよいと仰しゃるか、又金が返せぬから斬って仕舞うとは、余り理不尽じゃアありませんか、いくら旗下はたもとでも素町人すちょうにんでも、理に二つは有りません、さア切るなら斬って見ろ、旗下も犬の糞くそもあるものか」

と宗悦が猛たけり立って突っかゝると、此方こちらは元来御酒の上が悪いから、

新「ナニ不埓ふらちな事を」

と立上ろうとして、よろける途端に刀掛かたなかけの刀に手がかゝると、切る気ではありませんが、無我夢中でスラリと引抜き、

新「この糞たわけめが」

と浴せかけましたから、肩先深く切込みました。

三

新左衞門は少しもそれが目に入らぬと見えて、

新「何なんだこのたわけめ、これ此処こゝを何処どこと心得て居おる、天下の直参の宅へ参って何だ此の馬鹿者め、奥方、宗悦が飲たべ酔って参って兎とや角こう申して困るから帰して下さい、よう奥方」

と云われて奥方は少しも御存じございませんから手燭てしょくを点つけて殿様の処へ行って見ると、腕は冴さえ刃物は利よし、サッという機はずみに肩から乳の辺あたりまで斬込まれて居いる死骸を見て、奥方は只べた〲〲と畳の上にすわって、

奥「殿様、貴方何を遊ばしたのでございます、仮令たとえ宗悦が何どの様な悪い事がありましても別懇な間でございますのに、何なんでお手打に遊ばした、えゝ殿様」

新「ナニたゞ背打むねうちに」

と云って、見ると、持って居いる一刀が真赤に鮮血のりに染そみて居るので、ハッとお驚きになると酔えいが少し醒さめまして、

新「奥方心配せんでも宜よろしい、何も驚く事はありません、宗悦これが無礼を云い悪口たら〱申して捨置き難がたいから、一打ひとうちに致したのであるから、其の趣を一寸頭かしらへ届ければ宜しい」

ナニ人を殺してよい事があるものか、とは云うものゝ、此の事が表向になれば家にも障ると思いますから、自身に宗悦の死骸を油紙あぶらかみに包んで、すっぽり封印を附けて居りますると、何なんにも知りませんから田舎者の下男が、

男「ヘエ葛籠つゞらを買って参りました」

新「何なんだ」

男「ヘエ只今帰りました」

新「ウム三右衞門さんえもんか、さア此処こゝへ這入れ」

三「ヘエ、お申付の葛籠を買とって参りましたが何方どちらへ持って参ります」

新「あゝこれ三右衞門、幸い貴様に頼むがな実は貴様も存じて居る通り、宗悦から少しばかり借りて居おる、所が其の金の催促に来て、今日は出来ぬと云ったら不埓な悪口を云うから、捨置き難いによって一刀両断に斬ったのだ」

三「ヘエ、それは何どうも驚きました」

新「叱しっ、何も仔細はない、頭へ届けさえすれば仔細はない事だが、段々物入りが続いて居る上に又物入りでは実に迷惑を致す、殊ことには一時面倒と云うのは、もう追々月迫致して居おると云う訳で、手前は長く正当に勤めてくれたから誠に暇を出すのも厭だけれども、何うか此の死骸を、人知れず、丁度宜しい其の葛籠へ入れて何処どこかへ棄てゝ、然そうして貴様は在処の下総しもふさへ帰ってくれよ」

三「ヘエ、誠に、それはまあ困ります」

新「困るったって、多分に手当を遣やりたいが、何うも多分にはないから十金遣ろうが、決して口外をしてはならぬぞ、若もし口外すると、己おれの懐から十両貰った廉かどが有るから、貴様も同罪になるから然う思って居ろ、万一この事が漏れたら貴様の口から漏れたものと思うから、何処までも草を分けて尋ね出しても手打にせんければならぬ」

三「ヘエ棄てまするのはそれは棄ても致しましょうし、又人に知れぬ様にも致しますが、私わたくしは臆病で、仏の入った葛籠を、一人で脊負しょって行くのは気味が悪うございますから、誰たれかと差担さしにないで」

新「万一にも此の事が世間へ流布してはならぬから貴様に頼むのだ、若し脊負えぬと云えばよんどころない貴様も斬らんければならぬ」

三「エヽ脊負います〱」

と云うので十両貰いました。只今では何なんでもございませんが、其の頃十両と申すと中々大たいした金でございますから、死人を脊負って三右衞門がこの屋敷を出るは出ましたが、何どうしても是を棄てる事が出来ません、と申すは、臆病でございますから少し淋しい処を歩くと云うと、死人が脊中に有る事を思い出して身の毛が立つ程こわいから、なるたけ賑にぎやかな処ばかり歩いて居るから、何うしても棄てる事が出来ません、其の中うちに何処どこへ棄てたか葛籠を棄てゝ三右衞門は下総の在所へ帰って仕舞うと、根津七軒町の喜連川きつれがわ様のお屋敷の手前に、秋葉あきはの原があって、その原の側わきに自身番がござります。それから附いて廻って四五間参りますると、幅広の路次ろじがありまして、その裏に住すまって居りまするのは上方かみがたの人でござりますが、此の人は長屋中でも狡猾者こうかつものの大慾張だいよくばりと云うくらいの人、此の上方者が家主いえぬしの処へ参りまして、

上「ヘイ今日は、お早うござります」

家主女房「おや、お出いでなさい何か御用かえ」

上「ヘエ今日は、旦那はんはお留守でござりますか、ヘエ、それは何方どちらへ、左様でござりますか、実はなア私わたくしは昨夜盗賊に出逢いましたによって、お届とゞけをしようと思いましたが、何分なにぶん届をするのは心配でナア、世間へ知れてはよくあるまいから、どうもナア、その荷物が出さえすればよいと思うて居りました、実は私の嬶かゝの妹いもとがお屋敷奉公をしたところが、奥さんの気に入られて、お暇を戴く時に途方もない結構な物を品々戴いて、葛籠に一杯あるを、何処どこか行く処の定まるまで預かってくれえというのを預けられて、家うちに置くと、盗賊に出逢うて、その葛籠が無くなったによって、私はえらい心配を致しまして、もし、これからその義理ある妹へ何どうしようと、実は嬶に相談して居りますると、秋葉の傍わきに葛籠を捨てゝ有りますから、あれを引取って参りとうござりますが、旦那はんが居やはらんければ、引取られぬでござりましょうか」

女房「おや〱然そうかえ、それじゃアね、亭主うちは居りませんが、總助そうすけさんに頼んで引取ってお出いでなさい」

上「ヘイ有難うござります、それでは總助はんに頼んで引取りを入れまして」

と横着者で、これから總助と云う町代ちょうだいを頼んで、引取りを入れて、とう〱脊負って帰って来ました。

四

上「ヘエ只今總助はんにお頼み申して此の通り脊負せおうて参りました」

家主女房「おや大層立派な葛籠ですねえ」

上「ヘエ、これが無のうなってはならんと大層心配して居りました、ヘエ有難うござります」

女房「何どうして其処そこに棄てゝ行ったのでしょう」

上「それは私が不動の鉄縛かなしばりと云うのを遣りましたによって、身体が痺れて動かれないので、置いて行ったのでござりましょ、エヽ、ヘイ誠に有難いもので、旦那がお帰りになったら宜しゅうお礼の処を願います、ヘエ左様なら」

とこれから路次の角から四軒目しけんめに住んで居りますから、水口みずぐちの処を明けて、

上「おい一寸手を掛けてくれえ」

妻「あい、おや立派な葛籠じゃアないか」

上「どうじゃ、ちゃんと引取りを入れて脊負せおうて来たのじゃから、何処どこからも尻も宮も来きやへん、ヤ何なんでもこれは屋敷から盗んで来た物に違いないが、屋敷で取られたと云うては、家事不取締になるによって容易に届けまへん、又置いていった泥坊は私の葛籠だと云って訴える事は出来まへん、して見ればどこからも尻宮の来る気遣きづかいはないによって、私が引取りを入れて引取ったのじゃ、中にはえらい金目の縫模様ぬいもようや紋付もあるか知れんから、何様どのようにも売捌うりさばきが付いたら、多分の金を持って、ずっと上方へ二人で走ってしまえば決して知れる気遣はなしじゃ」

妻「そうかえ、まあ一寸明けて御覧な」

上「それでも葛籠を明けて中から出る品物がえらい紋付や熨斗目のしめや縫ぬいの裲襠うちかけでもあると、斯こう云う貧乏長屋に有る物でないと云う処から、偶然ひょっとして足を附けられてはならんから、夜よさり夜中に窃そっと明けて汝わぬしと二人で代物しろものを分けるが宜えゝワ」

妻「然そうだねえ嬉しいこと、お屋敷から出た物じゃア其様そんな物はないか知らぬが、若もし花色裏の着物が有ったら一つ取って置いてお呉れよ」

上「それは取って置くとも」

妻「若しちょいと私に揷させそうな櫛くし笄こうがいがあったら」

上「それも承知や」

妻「漸々よう〱運が向いて来たねえ」

上「まあ酒を買こうて」

と云うので是から楽酒たのしみざけを飲んで喜んで寝まする。すると一番奥の長屋に一人者があって其処そこに一人の食客いそうろうが居りましたが、これは其の頃遊人あそびにんと云って天下禁制の裸で燻くすぶって居る奴、

○「おい甚太じんた〱」

甚「ア、ア、ア、ハアー、ン、アーもう食えねえ」

○「おい寝惚けちゃアいけねえ、おい、起きねえか、エヽ静かにしろ、もう時刻は好いいぜ」

甚「何を」

○「何をじゃアねえ忘れちゃア仕様がねえなア、だから獣肉もゝんじいを奢おごったじゃアねえか」

甚「彼あの肉を食うと綿衣どてら一枚いちめえ違うというから半纒はんてんを質に置いてしまったが、オウ、滅法寒くなったから当てにゃアならねえぜ、本当に冗談じゃアねえ」

○「おい上方者の葛籠を盗むんだぜ」

甚「ウン、違ちげえねえ、そうだっけ、忘れてしまった、コウ彼奴あいつア太ふてえ奴だなア、畜生誰も引取人ひきとりてが無ねえと思ってずう〱しく引取りやアがって、中の代物を捌さばいて好いい正月をしようと云う了簡だが、本当に何処どこまで太えか知れねえなア」

○「ウン、彼奴あいつは今丁度食くらい酔って寝て居やアがる中うちに窃そっと持って来て中を発あばいて遣やろうじゃアねえか、後で気が附いて騒いだってもと〱彼奴の物でねえから、自分の身が剣呑けんのんで大きく云う事こたア出来ねえのさ」

甚「だがひょっと目を覚さましてキャアバアと云った時にゃア一つ長屋の者で面つらを知ってるぜ」

○「ナニそりゃア真黒まっくろに面を塗って頬冠ほっかぶりをしてナ、丹波の国から生獲いけどりましたと云う荒熊あらくまの様な妙な面になって往いきゃア仮令たとえ面を見られたって分りゃアしねえから、手前てめえと二人で面を塗って行って取って遣ろう」

甚「こりゃア宜いいや、サア遣ろう、墨を塗るかえ」

○「墨の欠かけぐれえは有るけれども墨を摺すってちゃア遅いから鍋煤なべずみか何か塗って行こう」

甚「そりゃア宜よかろう、何なんだって分りゃアしねえ」

○「釜の下へ手を突込んで釜の煤すゝを塗ろう、ナニ知れやアしねえ」

と云うので釜の煤を真黒に塗って、すっとこ冠かぶりを致しまして、

○「何どうだ是じゃア分るめえ」

甚「ウン」

○「ハ、ハヽ、妙な面だぜ」

甚「オイ〱笑いなさんな、気味が悪わりいや、目がピカ〱光って歯が白くって何なんとも云えねえ面だぜ」

○「ナニ手前てめえだって然そうだあナ」

とこれから窃そっと出掛けて上方者の家うちの水口の戸を明けてとう〱盗んで来ました。人が取ったのを又盗み出すと云う太い奴でございます。

甚「コウ、グウ〱〱〱寝て居やアがったなア、可笑おかしいじゃアねえか、寝て居る面は余あんまり慾張った面でも無ねえぜ」

○「オイ、表を締めねえ、人が見るとばつがわりいからよ、ソレ行燈あんどんを其方そっちへ遣っちまっちゃア見る事が出来やあしねえ、本当にこんな金目の物を一時いちどきに取った程楽たのしみな事こたアねえぜ、コウ余あんまり明る過ぎらア、行燈へ何か掛けねえ」

甚「何を掛けよう」

○「着物でも何なんでも宜いいから早く掛けやナ」

甚「着物だって着る物がありゃア何も心配しやアしねえ」

○「何なんでも薄ッ暗くなるようにその襤褸ぼろを引掛ひっかけろ、何でも暗くせえなれば宜いや、オ、封印が附いてらア、エヽ面を出すな、手前てめえは食客いそうろうだから主人あるじが見てそれから後で見やアがれ」

甚「ウン、ナニ食客でも主人でも露顕ろけんをして縛られるのは同罪だよ」

○「そりゃア云わなくっても定きまってるわ」

と云うので是から封印を切って、

○「何だか暗くって知れねえ」

甚「どれ見せや」

○「しッしッ」

五

甚「兄い何を考かんげえてるんだ」

○「何どうも妙だなア、中に油紙あぶらッかみがあるぜ」

甚「ナニ、油紙がある、そりゃア模様物や友禅ゆうぜんの染物が入へえってるから雨が掛ってもいゝ様に手当がして有あるんだ」

○「敷紙が二重になってるぜ」

と云いながら、四方が油紙の掛って居る此方こちらの片隅を明けて楽みそうに手を入れると、グニャリ、

○「おや」

甚「何なんだ〱」

○「変だなア」

甚「何だえ」

○「ふん、どうも変だ」

甚「然そう一人でぐず〱楽まずに些ちっと見せやな」

○「エヽ黙ってろ、何だか坊主の天窓あたまみた様な物があるぞ」

甚「ウン、ナニ些とも驚く事こたアねえ、結構じゃアねえか」

○「何が結構だ」

甚「そりゃアおめえ踊おどりの衣裳だろう、御殿の狂言の衣裳の上に坊主の髢かつらが載ってるんだ、それをお前めえが押えたんだアナ」

○「でも芝居で遣う坊主の髢はすべ〱してるが、此の坊主の髢はざら〱してるぜ」

甚「ナニざら〱してるならもじがふらと云うのがある、きっとそれだろう」

○「ウン然そうか」

甚「だから己おれに見せやと云うんだ」

○「でも坊主の天窓の有る道理はねえからなア、まア〱待ちねえ己が見るから」

とまた二度目に手を入れると今度はヒヤリ、

○「ウワ、ウワ、ウワ」

甚「おい何なんだ」

○「何どうも変だよ冷てえ人間の面アみた様な物がある」

甚「ナニ些とも驚くこたアねえやア、二十五座の衣裳で面めんが這入へえってるんだ、そりゃア大変に価値ねうちのある物で、一個ひとつでもって二百両ぐれえのがあるよ」

○「ウン、二十五座の面か」

甚「兄い、だから己に見せやと云うんだ」

と云われたから、今度は思い切って手を突込むとグシャリ、

○「ウワア」

と云うなり土間へ飛下りて無茶苦茶にしんばりを外して戸外おもてへ逃出しますから、

甚「オイ兄い、何処どこへ行ゆく、人に相談もしねえで、無暗むやみに驚いて逃出しやアがる、此の金目かねめのある物を知らずに」

と手を入れて見ると驚いたの驚かないの、

甚「ウアヽヽ」

と此奴こいつも同じく戸外へ逃出しました。すると其の途端に上方者が目を覚して、

上「さアお鶴つる起おきんかえ時刻は宜えいがナ、起んか」

と云うとお鶴と云う女房が、

鶴「お止しよ眠いよ」

上「おい、これ、起んかえ」

鶴「お止しよ、酒を飲むと本当にひちっくどい、気色きしょくが悪いから厭いやだよ、些ちっとお慎しみ」

上「何をいうのじゃ葛籠を」

鶴「葛籠、おや然そう」

と慾張って居りますから直すぐに目を覚して、

鶴「おや無いよ、葛籠が無いじゃアないか」

上「アヽ彼あの水口が明いとるのは泥坊が這入ったのじゃ、お長屋の衆〱」

と呶鳴どなりますから、長屋の者は何事か分りませんが吊提燈ぶらぢょうちんを点つけて出て参りますと、

上「貴方御存じか知りまへんが最前總助はんを頼んで引取りました葛籠を盗まれました、あの葛籠は妹いもとから預かって置いた大事の物で、盗賊に取られたのを漸ようよう取り遂おおせたら又泥坊が這入って持って行ゆきましたによって、同じお長屋の衆は掛かゝり合あいで御座りますナア」

△「ナニ掛り合の訳は有りません、路次の締りは固いのだがねえ、でも源八げんぱちさん葛籠を取られたと云うのだがどうしましょう」

源「どうしましょうって彼奴あいつは長屋の交際つきあいが悪くって、此方こっちから物を遣っても向むこうから返したこたア無いくらいだから、其様そんなに気を揉むこたア無いけれども、仕方がねえから大屋さんを起すが宜いい」

●「アノ奥の一人者の内に食客が居るから、彼処あすこへ行って彼あの人に行って貰うが宜ようございましょう」

△「じゃア連れて来ましょう」

と吊提燈を提げて奥へ行ゆくと、戸袋の脇から真黒な面で目ばかりピカ〱光る奴が二人這出したから、

△「ウワアヽヽ何なんだこれおどかしちゃアいけない」

と云う中うちに、二人とも一生懸命で路次の戸を打砕ぶちこわして逃出しました。

△「アヽ何なんだ、本当にモウ何どうも胸を痛くした、こりゃア彼奴あいつが泥坊だ、私は大きな犬が出たと思って恟びっくりした、あゝこれだ〱これだから一人者を置いてはならないと云うのだが、家主いえぬしが人が善いいから、追出すと意趣返しをすると云うので怖がって置くのだが宜よくない、此処こゝにちゃんと葛籠があるわ、上方者だと思って馬鹿にして図々しい奴だ、一つ長屋に居て斯こんな事をするのは頭隠して尻隠さず、葛籠を置いて行くから直ぐに知れて仕舞うんだ、何か代物しろものが残って居るかも知れねえから見てやろう、ウワアお長屋の衆」

と云うから驚いて外ほかの者が来て見ると、葛籠が有るから、

●「おゝ彼処あすこに葛籠がある、好いい塩梅あんばいだ、おや、中に、ウワア、お長屋の衆」

と来る奴も〱皆お長屋の衆と云う大騒ぎ。すると二つ長屋の事でございますから義理合ぎりあいに宗悦の娘お園が来て見ると恟びっくりして、

園「是は私のお父とっさんの死骸何どうしたのでございましょう、昨日きのう家うちを出て帰りませんから心配して居りましたが」

△「イヤそれは何どうもとんだ事」

というので是から訴えになりましたが、葛籠に記号しるしも無い事でございますから頓とんと何者の仕業しわざとも知れず、大屋さんが親切に世話を致しまして、谷中やなか日暮里にっぽりの青雲寺せいうんじへ野辺送りを致しました。これが怪談の発端でござります。

六

引続きまして申上げまする。深見新左衞門が宗悦を殺しました事は誰たれ有って知る者はござりません。葛籠に記号しるしもござりませんから、只つまらないのは盲人宗悦で、娘二人はいかにも愁傷致しまして泣いて居る様子が憫然ふびんだと云って、長屋の者が親切に世話を致します混雑の紛れに逃げました賭博打ばくちうち二人は、遂に足が付きまして直すぐに縄に掛って引かれまして御町おまちの調べになり、賭博兇状ばくちきょうじょうと強迫兇状ゆすりきょうじょうがありました故其の者は二人とも佃島つくだじまへ徒刑になりました。上方者は自分の物だと言って他人の物を引入れました廉かどは重罪でございますけれども格別のお慈悲を以て所払いを仰せ付けられまして其の一件ことは相済みましたが、深見新左衞門の奥方は、あゝ宗悦は憫然かわいそうな事をした、何どうも実に情ないお殿様がお手打に遊ばさないでも宜よいものを、別に怨うらみがある訳でもないに、御酒の上とは云いながら気の毒な事をしたと絶えず奥方が思います処から、所謂いわゆる只今申す神経病で、何となく塞いで少しも気が機はずみません事でございます。翌年になりまして安永三年二月あたりから奥方がぶら〱塩梅が悪くなり、乳が出なくなりましたから、門番の勘藏かんぞうがとって二歳ふたつになる新吉しんきち様と云う御次男を自分の懐へ入れて前町まえまちへ乳を貰いに往ゆきます。と云うものは乳母を置く程の手当がない程に窮して居るお屋敷、手が足りないからと云うので、市ヶ谷に一刀流の剣術の先生がありまして、後のちに仙台侯の御抱おかゝえになりました黒坂一齋くろさかいっさいと云う先生の処に、内弟子に参って居おる惣領そうりょうの新五郎しんごろうと云う者を家うちへ呼寄せて、病人の撫擦なでさすりをさせたり、或あるいは薬其の外ほかの手当もさせまする。其の頃新五郎は年は十九歳でございますが、よく母の枕辺まくらべに附添って親切に看病を致しますなれども、小児こどもはあり手が足りません。殿様はやっぱり相変らず寝酒を飲んで、奥方が呻うなると、

新「そうヒイ〱呻ってはいけません」

などと酔った紛れにわからんことを仰しゃる。手少なで困ると云って、中働なかばたらきの女を置きました。是は深川ふかゞわ網打場あみうちばの者でお熊くまと云う、年二十九歳で、美女よいおんなではないが、色の白いぽっちゃりした少し丸形まるがたちのまことに気の利いた、苦労人の果はてと見え、万事届きます。殿様の御酒の相手をすれば、

新「熊が酌をすれば旨い」

などと酔った紛れに冗談を仰しゃると、此方こちらはなか〱それ者しゃの果と見えてとう〱殿様にしなだれ寄りましてお手が付く。表向おもてむき届けは出来ませんがお妾と成って居る。するともと〱狡猾な女でございますから、奥方の纔訴ざんそを致し、又若様の纔訴を致すので、何となく斯こう家がもめます。いくら言っても殿様はお熊にまかれて、煩わずらって居る奥様を非道な事をしてぶち打擲ちょうちゃくを致します。もう十九にもなる若様をも煙管きせるを持って打ぶつ様な事でございますから、

新五郎「あゝ親父おやじは愚ぐな者である、こんな処にいては迚とても出世は出来ぬ」

と若気の至りで新五郎と云う惣領の若様はふいと家出を致しますると、お熊はもう此の上は奥様さえ死ねば自分が十分此処こゝの奥様になれると思い、

熊「わたしは何どうも懐妊した様でございます、四月から見るものを見ませぬ酸すッぱい物が食べたい」

何なんのと云うから殿様は猶更なおさらでれすけにおなり遊ばします。追々其の年も冬になりまして、十一月十二月となりますと、奥様の御病気が漸々だん〱悪くなり、その上寒さになりましてからキヤ〱さしこみが起り、またお熊は、漸々お腹が大きくなって身体が思う様にきゝませんと云って、勝手に寝てばかり居るので、殿様は奥方に薬一服も煎せんじて飲ませません。只勘藏ばかりあてにして、

新「これ〱勘藏」

勘「ヘエ、殿様貴方御酒ばかり召上って居て何どうも困りますなア奥様は御不快で余程御様子が悪いし、殊ことには又お熊様さんはあゝやって懐妊だからごろ〲して居り、折々おり〱奥様は差込むと仰しゃるから、少しは手伝って頂きませんじゃア、手が足りません、私わたくしは若様のお乳を貰いに往いくにも困ります」

新「困っても仕方がない、何か、さしこみには近辺の鍼医はりいを呼べ、鍼医を」

と云うと、丁度戸外おもてにピー、と按摩あんまの笛、

新「おゝ〱丁度按摩が通るようだ、素人しろうと療治ではいかんから彼あれを呼べ〱」

勘「ヘエ」

と按摩を呼入れて見ると、怪し気げなる黒の羽織を着て、

按摩「宜よろしゅう私わたくしが鍼をいたしましょう、鍼はお癪気しゃくきには宜しゅうございます」

というので鍼を致しますと、

奥方「誠に好よい心持に治まりがついたから何卒どうぞ明日あすの晩も来て呉れ」

と戸外を通る揉療治ではありますが、一時凌いっときしのぎに其の後のち五日ばかり続いて参ります。すると一番しまいの日に一本打ちました鍼が、何どう云うことかひどく痛いことでございましたが、是は鍼に動ずると云うので、

奥方「あゝ痛いた、アいたタ」

按摩「大層お痛みでございますか」

奥方「はいあゝ甚ひどく痛い、今迄斯こんなに痛いと思った事は無かったが、誠に此の鳩尾みずおちの所に打たれたのが立割られたようで」

按摩「ナニそれはお動じでございます、鍼が験きゝましたのでございますから御心配はございません、イエまア又明晩も参りましょうか」

奥方「はい、もう二三日鍼は止やめましょう、鍼はひどく痛いから」

按摩「直じき癒なおります、鍼が折れ込んだ訳でもないので、少しお動じですからナ、左様なら御機嫌よろしゅう」

と僅わずかの療治代を貰って帰りました。すると奥方は鍼を致した鳩尾の所が段々痛み出し、遂には爛ただれて鍼を打った口からジク〱と水が出るようで、猶更なおさら苦しみが増します。

七

新左衞門様は立腹して、

新「どうも怪けしからん鍼医だ、鍼を打ってその穴から水が出るなんという事は無い訳で、堀抜井戸ほりぬきいどじゃア有るまいし、痴呆たわけた話だ、全体何どう云うものかあれ限ぎり来ませんナ」

勘「奥方がもう来ないで宜よいと仰しゃいましたから」

新「間まが悪いから来ないに違いない、不埓至極な奴だ、今夜でも見たら呼べ」

と云われたから待って居りましたが、それぎり鍼医は参りません。すると十二月の二十日の夜よに、ピイー〱、と戸外おもてを通ります。

新「アヽあれ〱笛が聞える、あれを呼べ、勘藏呼んで来い」

勘「ハイ」

と駈出して按摩の手を取って連れて来て見ると、前の按摩とは違い、年をとって痩やせこけた按摩。

新「何なんだこれじゃア有るまい、勘藏違って居おるぞ」

按摩「ヘエお療治を致しますか」

新「何だ汝てまえではなかった、違った」

按摩「左様で、それはお生憎あいにく様でございますが何卒どうぞお療治を」

新「これ〱貴様鍼をいたすか」

按摩「私わたくしは俄盲人にわかめくらでございまして鍼は出来ません」

新「じゃア致方いたしかたが無い、按腹あんぷくは」

按摩「療治も馴れません事で中々上手に揉みます事は出来ませんが、丈夫な方ならば少しは揉めます」

新「何の事だ病人を揉む事はいかぬか、それは何にもならぬナ、でも呼んだものだから、勘藏、これ、何処どこへ行って居るかナ、じゃア、まア折角呼んだものだからおれの肩を少し揉め」

按摩「ヘエ誠に馴れませんから、何処が悪いと仰しゃって下さい、経絡けいらくが分りませんから、こゝを揉めと仰しゃれば揉みます」

と後うしろへ廻って探り療治を致しまするうち、奥方が側に居て、

奥方「アヽ痛いた、アヽ痛」

新「そう何どうもヒイ〱云っては困りますね、お前我慢が出来ませんか、武士の家に生れた者にも似合わぬ、痛い〱と云って我慢が出来ませんか、ウン〱然そう悶えては却かえって病に負けるから我慢して居なさい、アヽ痛、これ〱按摩待て、少し待て、アヽ痛い、成程此奴こいつは何うもひどい下手だナ、汝てまえは、エヽ骨の上などを揉む奴が有るものか、少しは考えて遣やれ、酷ひどく痛いワ、アヽ痛い堪たまらなく痛かった」

按摩「ヘエお痛みでござりますか、痛いと仰しゃるがまだ〱中々斯こんな事ではございませんからナ」

新「何を、こんな事でないとは、是より痛くっては堪らん、筋骨に響く程痛かった」

按摩「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから、痛いと云ってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処まで斯こう斬下げられました時の苦しみはこんな事では有りませんからナ」

新「エ、ナニ」

と振返って見ると、先年手打にした盲人もうじん宗悦が、骨と皮許ばかりに痩せた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ眼を斑まだらに開いて、斯う乗出した時は、深見新左衞門は酒の酔えいも醒さめ、ゾッと総毛だって、怖い紛れに側にあった一刀をとって、

新「己おのれ参ったか」

と力に任まかして斬りつけると、

按摩「アッ」

と云うその声に驚きまして、門番の勘藏が駈出して来て見ると、宗悦と思いの外ほか奥方の肩先深く斬りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、

新「ア、彼あの按摩は」

と見るともう按摩の影はありません。

新「宗悦め執しゅうねくもこれへ化けて参ったなと思って、思わず知らず斬りましたが、奥方だったか」

奥「あゝ誰たれを怨うらみましょう、私わたくしは宗悦に殺されるだろうと思って居りましたが、貴方御酒をお廃やめなさいませんと遂には家が潰れます」

と一二度虚空をつかんで苦しみましたが、奥方はそのまゝ息は絶えましたから如何いかんとも致し方がございませんが、この事は表向にも出来ません。殊ことには年末くれの事でございますから、これから頭かしらの宅へ内々参ってだん〲歎願をいたしまして、極ごく内分ないぶんの沙汰にして病死のつもりにいたしました。昔は能よく変死が有っても屏風びょうぶを立てゝ置いて、お頭が来て屏風の外そとで「遺言を」なんどゝ申しますが、もう当人は夙とっくに死んでいるから遺言も何も有りようはずはございません。この伝で病気にして置くことも徃々おうおう有りましたから、病死の体ていにいたして漸ようやくの事で野辺送りをいたしました。流石さすがの新左衞門も此の一事には大おおきに閉口いたして居りました。すると其の年も明けまして、一陽来復いちようらいふく、春を迎えましても、まことに屋敷は陰々いん〱といたして居りますが、別にお話もなく、夏も行ゆき秋も過ぎて、冬のとりつきになりました。すると本所ほんじょ北割下水きたわりげすいに、座光寺源三郎ざこうじげんざぶろうと云う旗下が有って、これが女太夫おんなだゆうのおこよと云う者を見初みそめ、浅草竜泉寺りゅうせんじ前の梶井主膳かじいしゅぜんと云う売卜者うらないしゃを頼み、其の家を里方にいたして奥方に入れた事が露見して、御不審がかゝり、家来共も召捕めしとり吟味中、深見新左衞門、諏訪部三十郎すわべさんじゅうろうと云う旗下の両家は宅番を仰せつけられたから、隔番かくばんの勤めでございます。すると十一月の二十日の晩には、深見新左衞門は自分は出ぬ事になりましたから、

新「熊や今晩は一杯飲んでらく〱休める」

と云うので御酒を召上ったが、少し飲過ぎて心持がわるいと小用場こようばへ徃いってから、

新「水を持て、嗽うがいをしなければならん」

と云うので手水鉢ちょうずばちのそばで手を洗って居りますると、庭の植込うえごみの処に、はっきりとは見えませんが、頬骨の尖とがった小鼻の落ちました、眼の所がポコンと凹くぼんだ頬これから頤これへ胡麻塩交ごましおまじりの髯ひげが生えて、頭はまだらに禿はげている痩せかれた坊主が、

坊「殿様〱」

と云う。

新「エヽ」

と見るやいなや其の儘トン〱〱〱と奥へ駈込んで来て、刀掛に有った一刀を引抜いて、

新「狸の所為しわざか」

と斬りつけますと、パッと立ちます一団の陰火が、髣髴ほうふつとして生垣いけがきを越えて隣の諏訪部三十郎様のお屋敷へ落ちました。

八

新左衞門はハテ狐狸こりの所為かと思いました。すると其の翌日から諏訪部三十郎様が御病気で、何をしてもお勤つとめが出来ませんから、二人して勤めべき所、お一方ひとかたが病気故、新左衞門お一方で座光寺源三郎の屋敷へ宅番に附いて居ると、或夜あるよ彼かの梶井主膳と云う者が同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身ぬきみの鎗やりで押寄せて、おこよ、源三郎を連れて行ゆこうと致しますから深見新左衞門は役柄で捨置かれず、直すぐに一刀を取って斬掛けましたが、多勢に無勢むぜいで、とう〱深見を突殺し、おこよ源三郎を引ひきさらって遠く逃げられました故、深見新左衞門は情なさけなくも売卜者の為に殺されてお屋敷は改易かいえきでございます。諏訪部三十郎は病気で御出役が無かったのだが公辺こうへんのお首尾が悪く、百日の間閉門仰付おおせつけられますると云う騒ぎ、座光寺源三郎は勿論深見の家も改易に相成りまして、致し方がないから産落うみおとした女の児こを連れて、お熊は深川の網打場へ引込ひきこみ、門番の勘藏は新左衞門の若様新吉と云うのを抱いて、自分の知己しるべの者が大門町だいもんちょうにございますから、それへ参って若様に貰い乳をして育てゝ居るという情ない成行なりゆき、此の通り無茶苦茶に屋敷の潰れた跡へ、帰って来たのは新五郎と云う惣領でございますが、是は下総の三右衞門の処へ参って少しの間厄介に成って居りましたが、素もとより若気の余りに家を飛出したので淋しい田舎には中々居られないから、故郷忘ぼうじがたく詫言わびごとをして帰ろうと江戸へ参って自分の屋敷へ来て見ると、改易と聞いて途方に暮れ、爰こゝと云う縁類えんるいも無いから何どうしたらよかろうと菩提所ぼだいしょへ行って聞くと、親父は突殺され、母親は親父が斬殺きりころしたと聞きまして少しのぼせたものか、

新五「これは怪けしからん事、何たる因果因縁か屋敷は改易になり、両親は非業の死を遂げ、今更世間の人に顔を見られるも恥かしい、もう迚とても武家奉公も出来ぬから寧いっそ切腹致そう」

と、青松院せいしょういんの墓所はかしょで腹を切ろうとする処へ、墓参りに来たのは、谷中やなか七面前しちめんまえの下總屋惣兵衞しもふさやそうべえと云う質屋の主人あるじで、これを見ると驚いて刄物をもぎとって何どう云う次第と聞くと、

新五「これ〱の訳」

というから、

惣「それなら何も心配なさるな、若い者が死ぬなんと云う心得違いをしてはいけぬ、無分別な事、独身ひとりみなれば何どうでもなりますから私の家うちへ入らっしゃい」

と親切に労いたわって家うちへ連れて来て見ると、人柄もよし、年二十一歳で手も書け算盤そろばんも出来るから質店しちみせへ置いて使って見るとじつめいで応対が本当なり、苦労した果はてで柔和で人交際ひとづきあいがよいから、

甲「あなたの処とこでは良い若い者を置当てなすった」

惣「いゝえ彼あれは少し訳があって」

と云って、内の奉公人にもその実じつを言わず、

惣「少し身寄から頼まれたのだと云ってあるから、あなたも本名を明してはなりません」

と云うので、誠に親切な人だから、新五郎もこゝに厄介になって居ると、この家うちにお園という中働なかばたらきの女中が居ります。これは宗悦の妹娘で、三年あとから奉公して、誠に真実に能く働きますから、主人の気に入られて居る。併しかし新五郎とは、敵かたき同士が此処こゝへ寄合ったので有りますが、互にそういう事とは知りません。

園「新どん」

新「お園どん」

と呼合いまする。新五郎は二十一歳で、誠に何どうも水の出端でばなでございます。又お園は柔和な好よい女、

新「あゝいう女を女房に持ちたい」

と思うと何どういう因果因縁か、新五郎がお園に死ぬほど惚れたので、お園の事というと、能く気を付けて手伝って親切にするから、男振おとこぶりは好よし応対も上手、其の上柔和で主人に気に入られて居るから、お園はあゝ優しい人だと、新どんに惚れそうなものだが、敵同士とはいいながら虫が知らせるか、お園は新五郎に側へ来られると身毛立みのけだつほど厭に思うが、それを知らずに、新五郎は無暗むやみに親切を尽しても、片方かた〱は碌ろくに口もききません。主人もその様子を見て、

惣「お園はまことに希代きたいだ、あれは感心な堅い娘だ、あれは女中のうちでも違って居る、姉は何だか、稽古の師匠で豐志賀とよしがというが、姉妹きょうだいとも堅い気象で、あの新五郎は頻しきりとお園に優しくするようだが」

と気は附いたけれども、なに両人ふたりとも堅いから大丈夫と思って居りまするくらいで、なか〱新五郎はお園の側へ寄付よりつく事も出来ませんが、ふとお園が感冐ひきかぜの様子で寝ました。すると新五郎は寝ずにお園の看病をいたします。薬を取りに行ったついでに氷砂糖を買って来たり、葛湯くずゆをしてくれたり、蜜柑みかんを買って来る、九年母くねんぼを買って来たりしてやります。主人も心配いたして、

惣「おきわ」

きわ「はい」

惣「お園は何も大した病気でもないから宿へ下げる程でもなし、あれも長く勤めておることだから、少しの病気なれば、医者は此方こっちで、山田さんが不都合なら、幸庵こうあんさんを頼んでもいゝが、何なんだね、誠にその、看病人が無くって困るね」

九

きわ「私わたくしが折おりに園の部屋へ見舞に参りますと、直ぐ布団の上へ起きなおりまして、もうなに大おおきに宜しゅうございますなどゝ云って、まことに快よい振ふりをして居るから、お前無理をしてはいけないから寝ておいでと申しましても、心配家しんぱいかでございますから私も誠に案じられます」

惣「そりゃア誠に困ったものだ、誰たれか看病人が無ければならん、成程己おれも時に行って見ると、ひょいと跳起はねおきるが、あれでは却かえってぶり返すといかんから看病人に姉でも呼ぼうか」

きわ「でも仕合せに新五郎が参っては寝ずに感心に看病致します、あれは誠に感心な男で、店がひけると薬を煎じたり何か買いに行ったり、何も彼かも一人で致します」

惣「なに新五郎がお園の部屋へ這入ると、それはいかん、それは女部屋のことはお前が気を附けて小言を云わなければなりません、それは何事も有りはしまいが」

きわ「有りはしまいたって新五郎はあの通りの堅人かたじんですし、お園も変人ですから、変人同士で大丈夫何事もありはしません」

惣「それはいかん、猫に鰹節で、何事がなくっても、店の者や出入でいりの者がおかしく噂でも立てると店の為にならぬから、きっと小言を云わんければならぬ」

きわ「それじゃア女中部屋へ出入を止とめます」

と云って居る所へ、何事も存じません新五郎が帰って来て、

新「ヘエ只今帰りました」

惣「何処どこへ往った」

新「番頭さんがそう仰しゃいますから、上野町うえのまちの越後屋えちごやさんの久七きゅうしちどんに流れの相談を致しまして、帰りにお薬を取って参りましたが、山田さんがそう仰しゃるには、お園さんは大分好よい塩梅だが、まだ中々大事にしなければならん、どうも少し傷寒しょうかんの性たちだから大事にするようにと仰しゃって、今日はお加減が違いましたからこれから煎じます」

惣「お前が看病致しますか」

新「ヘエ」

惣「お前の事だから何事もありますまいがネけれどもその、お前もそれ廿一、ね、お園は十九だ、お互に堅いから何事も無かろうが、一体男女なんにょの道はそういうものでない、私の家うちは極ごく堅い家であったけれども、やっぱりこれにナ許嫁いいなずけが有ったが、私がつい何して、貰うような事で」

きわ「何を仰しゃる」

惣「だから堅いが堅いに立たぬのは男女の間柄、何事もありはしまいが、店の若い者がおかしく嫉妬やきもちをいうとか、出入の者がいやに難癖を附けるとか、却って店の示しにならぬからよろしくないいかにも取締りが悪い様だからそれだけはナ」

新「ヘエ薩張さっぱり心付きませんかったが、店の者が女部屋へ這入っては悪うございますか、もうこれからは決して構いませんように心づけます、決して構いません」

惣「決して構わんでは困ります、看病人が無いから決して構わんと云ってはお園が憫然かわいそうだから、それはね、ま構ってもいゝがね、少しそこを何どうか構わぬ様に」

何だか一向分りませんが少しは構ってもよいという題が出ましたから、新五郎は悦びながら女部屋へ往って、

新「お園どん山田様へいってお薬を戴いてきたが、今日はお加減が違ったから、生姜しょうがを買ってくるのを忘れたが今直じきに買って来て煎じますが、水も只では悪いから氷砂糖を煎じて水で冷して上げよう、蜜柑も二つ買って来たが雲州うんしゅうのいゝのだからむいて上げよう、袋をたべてはいけないから只露つゆを吸って吐出はきだしておしまい、筋をとって食べられるようにするから」

園「有難う、新どん後生ごしょうだから女部屋へ来ないようにしておくんなさい、今もおかみさんと旦那様とのお話もよく聞えましたが、店の者が女部屋へ這入ってきては世間体が悪いと云っておいでだから、誠に思召おぼしめしは有難いが、後生だから来ないようにして下さい」

新「だから私が来ないようにしよう構わぬと云ったら、旦那が来なくっちゃア困る、お前さんが憫然かわいそうだから構ってやってくれと仰しゃったくらい、人は何といっても訝おかしい事がなければ宜しいから、今薬を煎じて上あげるから心配しないで、心配すると病気に障るからね」

園「あゝだもの新どんには本当に困るよ、厭だと思うのにつか〱這入って来てやれこれ彼様あんなに親切にしてくれるが、どういう訳かぞっとするほど厭だが、何どうしてあの人が厭なのか、気の毒な様だ」

と種々いろ〱心に思って居ると、杉戸すぎどを明けて、

新「お園どんお薬が出来たからお飲みなさい、余あんまり冷さますときかないから、丁度飲加減を持って来たが、後あとは二番を」

園「新どん、お願いだから彼方あっちへ行って下さいな、病気に障りますから」

新「ヘエ左様でげすか」

と締めて立って行ゆく。

園「どうも、来てはいけないと云うのに態わざと来るように思われる、何だか訝おかしい変な人だ」

と思って居ると、がらり、

新「お園どんお粥が出来たからね、是は大変に好いいでんぶを買って来たから食べてごらん、一寸ちょっといゝよ」

園「まア新どんお粥は私一人で煮られますから彼方あっちへ行って下さいよ、却って心配で病気に障るから」

新「じゃア用があったらお呼びよ」

園「あゝ」

というので拠よんどころなく出て行くかと思うと又来て、

新「お園どん〱」

とのべつに這入って来る。すると俗に申す一に看病二に薬で、新五郎の丹精が届きましたか、追々お園の病気も全快して、もう行燈あんどんの影で夜なべ仕事が出来るようになりました。丁度十一月十五日のことで、常にないこと、新五郎が何処どこで御馳走になったか真赤に酔って帰りますると、もう店は退ひけてしまった後あとで、何となく極りが悪いからそっと台所へ来て、大きい茶碗で瓶かめの水を汲んで二三杯飲んで酔えいをさまし、見ると、奥もしんとして退けた様子、女部屋へ来て明けて見ると、お園が一人行燈の下もとで仕事をしているから、

新「お園どん」

園「あらまア、新どん、何か御用」

十

新「ナニ、今日はね、あの伊勢茂いせもさんへ、番頭さんに言付けられてお使にいったら、伊勢茂の番頭さんは誠に親切な人で、お前は酒を飲まないから味淋みりんがいゝ、丁度流山ながれやまので甘いからお飲あがりでないかと云われて、つい口当りがいゝから飲過ぎて、大層酔って間まがわるいから、店へ知れては困りますが、真赤になって居るかえ」

園「大変赤くなって居ます。アノお店も退け奥も退けましたから、女部屋へお店の者が這入っては、悪うございますから早くお店へ行ってお寝やすみなさい」

新「エヽ寝ますが、まア一服呑みましょう」

園「早くお店へ行って下さいよ」

新「今行きますが一服やります」

と真鍮しんちゅうの潰れた煙管きせるを出して行燈の戸を上げて火をつけようと思うが、酔って居て手が慄ふるえておりますから灯ひが消えそう、

園「消してはいけませんよ、彼方あっちへ行ってお呉んなさい」

新「ハイ行きますよ、なに火が附きました、時にお園どん、お前の病気は大変に案じたが、本当にこう早く癒なおろうとは思わなかった、山田さんも丹精なすったし私も心配致しましたが、実に有難い、私は一生懸命に池いけの端はたの弁天様へ願掛がんがけをしました」

園「有難うございます、お前さんのお蔭で助かりました、もうお店が退けましたから早くお出でよ、新どん」

新「行きますよ、此の間ね、お前さんの姉様あねさん豊志賀さんが来てね、たった一人の妹でございますから大事に思うが、こんな稼業しょうばいをして居り、家うちも離れているから看病も届きませんでしたが、お前さんが丹精して下すって本当に有難い、その御親切は忘れません、お前さんの様な優しい人を園の亭主に持もたし度たいと思いますとこう云ってね、お前の姉あねさんが、流石さすがは芸人だけあって様子のいゝ事を云うと思ったが、余程よっぽど嬉しかったよ」

園「いけませんネ、奥も先刻さっきお退けになりましたからお店へお出でなさいよ」

新「行きますよ、お園どん誠に私は本当に案じたがね」

園「有難うござますよ」

新「弁天様へ一生懸命に二十一日の間私が精進して山田様も本当に親切にしてくれたがね、私は真赤に酔っていますか」

園「真赤でございますよ、彼方あっちへお出でなさいよ」

新「そんなに追出さんでもいゝやね、お園どん、伊勢茂の番頭さんが、流山の滅法よい味淋をお前にと云うので私は口当りがいゝから恐ろしく酔った、私はこんなに酔った事は初めてゞ私の顔は真赤でしょう」

園「真赤ですよ、先刻さっきお店も退けましたから早くお出でなさいよ」

新「そんなに追出さなくてもいゝやね、お園どん〱」

園「何なんですよ」

新「だがお園どん、本当にお前さんは大病で、随分私は大変案じて一時ひとっきりは六ヶむずかしかったから、私は夜も寝なかったよ」

園「有難うございますが、そんなに恩にかけると折角の御親切も水の泡になりますから、余あんまり諄くどく仰しゃると、その位なら世話をして下さらんければいゝにと済まないが思いますよ」

新「そう思っても私の方で勝手にしたのだからいゝが、ねえお園どん〱」

園「何ですよ」

新「私の心持はお前さん些ちっとも分らぬのだね、お園どん、本当に私は間が悪いけれどもね、お前さんに私は本当に惚れて居ますよ」

園「アラ、嫌いやな、あんな事をいうのだもの、お内儀かみさんに言告いッつけますよ」

新「言告るたって……そんなことを云うもんじゃアない、お前は私が来ると出て行け〱と、泥坊猫みた様に追出すから、迚とてもどう想ってもむだだとは思うが、寝ても覚めてもお前の事は忘れられないが、もう是からは因果と思ってふッつり女部屋へは来ませんが、けれども私を憫然かわいそうと思って、一晩お前の床の中へ寝かしておくんなさいよ、エお園どん」

園「アラ厭いやなネ、私とお前さんと寝れば、人が色だと申します」

新「イヽエ私もそれが知れゝば失敗しくじって此家こゝには居られないから、唯一寸ちょっと並んで寝るだけ、肌を一寸触ふれてすうっと出ればそれで断念あきらめる、唯ごろッと寝て直ぐに出て行ゆくから」

園「そんな事を云ってごろりと寝て直ぐに出て行いくったって、仕様がないねえ、行って下さいよ」

新「そんな事を云わずに」

園「いやだよ、新どん」

新「お願いだから」

園「お願いだって」

新「ごろり一寸寝るばかりだ、永らく寝る目も寝ずに看病したろうじゃアないか、其の義理にも一寸枕を並べて、直ぐに出て行ゆくから」

園「仕様がございませんね」

と云うが、永らく看病してくれた義理があってみれば無下むげに振払う事も出来ず、

園「新どん唯一寸寝る許ばかりにしておくんなさいよ」

新「アヽ一寸一度寝るばかりでも結構、半分でもよろしい」

と云うのでお園の床へ這入りますると、お園は厭だからぐるりと脊中を向けて固くなっているから、此方こっちも床へ這入りは這入ったが、ぎこちなくって布団の外へはみ出す様、お園はウンともスンとも云わないから、何なんだか極りが悪いので酔えいも醒さめて来て、

新「お園どん、誠に有難う、お前がそんなに厭がるものを無理無体に私がこんな事をして済まないが、其の代り人には決して云わない、私は是程惚れたからお前の肌に触れ一寸でも並んで寝れば私の想いも届いたのだから宜しいが、此家こゝに居ては面目めんぼくなくて顔が合せられず、又顔を合せては猶更なおさら忘れられないし、こんな心では御恩を受けた旦那様にも済まないから、私は此家を今夜にも明日あすにも出てしまって、私の行方ゆくえが知れなくなったら、私の出た日を命日と思って下され、もう私は思い遺のこす事もないから死しんでしまいます」

とすうッと出に掛る。口説くどき上手のどんづまりは大抵死ぬと云うから、今新五郎は死ぬと云ったら、まア新どんお待ちと来るかと思うと、お園は死ぬ程新五郎が厭だから何とも申しませんで、猶小衾かいまきを額の上までずうッと揺ゆすり上げて被かぶったなり口もきゝませんから、新五郎は手持無沙汰にお園の部屋を出ましたが、是が因果の始はじまりで、猶更お園に念がかゝり、敵かたき同士とは知らずして、遂に又お園に恋慕れんぼを云いかけまするという怪談のお話、一寸一息ひといき吐つきまして、

十一

深見新五郎がお園に惚れまするは物の因果で、敵同士の因縁という事は仏教の方では御出家様が御説教をなさるが、どういう訳か因縁と云うと大概の事は諦めがつきます。

甲「どうしてあの人はあんな死様しにざまをしただろうか」

乙「因縁でげすね」

甲「あの人はどうしてあア夫婦中がいゝか知らん、あの不器量だが」

乙「あれはナニ因縁だね」

甲「なぜかあの人はあアいう酷ひどい事をしても仕出したねえ」

乙「因縁が善いいのだ」

と大概は皆因縁に押附おっつけて、善いも悪いも因縁として諦めをつけますが、其の因縁が有るので幽霊というものが出て来ます。その眼に見えない処を仏教では説尽ときつくしてございまするそうで、外国には幽霊は無いかと存じて居りました処が、先達せんだって私わたくしの宅へさる外国人が婦人と通弁が附いて三人でお出いでになりまして、それは粋いきな外国人で、靴を穿いて来ましたが、其の靴をぬいで隠かくしから帛紗ふくさを取出しましたから何なんの風呂敷包かと思いますと、其の中から上靴を出してはきまして、畳の上へ其の上靴で坐布団の上へ横ッ倒しに坐りまして、

外「お前の家うちに百幅ぷく幽霊の掛物があるという事で疾とくより見たいと思って居たが、何卒どうぞ見せて下さい」

という事。是は私わたくしがふと怪談会と云う事を致した時に、諸先生方が画かいて下すった百幅の幽霊の軸がございますから、是を御覧に入れますと、外国人の事でございますから、一々是は何なんという名で何という人が画いたのかと云う事を、通弁に聞いて手帖に写し、是これは巧うまい、彼あれは拙まずいと評します所を見ると、中々眼の利いたもので、丁度其の中で眼に着きましたのは菊池容齋きくちようさい先生と柴田是眞しばたぜしん先生の画いたので、是は別して賞ほめられました。そのあとで茶を点いれて四方八方よもやまの話から、幽霊の有無ありなしの話をしましたが、

外「私は日本の語にうといから通弁から聞いて呉れ」

と云う。私わたくしも洋語は知りませんから通弁さんに聞くと、通弁さんの云うに、

通「お前の宅うちにこれだけの幽霊の掛物を聚あつめるには、幽霊というものが有るか無いかを確しかと知っての上でかように聚めたのでございましょう」

と云う問といでございました。所が有るか無いかと外国人に尋ねられて、私わたくしも当惑して、早速に答も出来ませんから、

圓「日本の国には昔から有るとのみ存じていますから、日本人には有るようで、貴方のお国には無いと云うことが学問上決して居るそうですから無いので、詰り無い人には無い有る人には有るのでございましょう」

と、仕方なしに答えましたが、此の答は固もとよりよろしくない様でございますが、何分無いとも有るとも定めはつきません。先達せんだってある博識ものしり先生に聞きますと

「幽霊は有るに違い無い、現在僕は蛇の幽霊を見たよ」

と仰しゃるから、

圓「どういう訳か」

と聞くと、蛇を壜びんの中へ入れてアルコールをつぎ込むと、蛇は苦しがって、出よう〱と思って口の所へ頭を上げて来るところを、グッとコロップを詰めると、出ようと云う念をぴったりおさえてしまう。アルコール漬だから形は残って居ても息は絶えて死んで居るのだが、それを二年許ばかり経って壜の口をポンと抜いたら、中から蛇がずうッと飛出して、栓を抜いた方の手頸てくびへ喰付いたから、ハッと思うと蛇の形は水になって、ダラ〱と落おちて消えたが、是は蛇の幽霊と云うものじゃ。と仰しゃりました。併しかし博識ものしりの仰しゃる事には、随分拵事こしらえごとも有って、尽こと〲く当あてにはなりませんが、出よう〱と云う気を止めて置きますと、其の気というものが早晩いつか屹度きっと出るというお話、又お寺様で聞いて見ますると気息いきが絶えて後のち形は無いが、霊魂と云うものは何処どこへ行ゆくか分らぬと申すこと、天国へ行ゆくとか地獄極楽とか云う説はあっても、まだ地獄から郵便の届いた試しもなし、又極楽の写真を見た事もございませんから当にはなりませんが、併し悪い事をすると怨念おんねんが取付くから悪事はするな、死んで地獄へ行ゆくと画えの如く牛頭ごず馬頭めずの鬼に責められて実にどうも苦くるしみをする、此の有様ありさまは如何どうじゃ、何と怖い事じゃアないか、と云うので、盆の十六日はお閻魔様えんまさまへ参詣致しますると、地獄の画が掛けてあるから、此の画を見て子供はおゝ怖い、悪い事はしまいと思う。昔は私共わたくしどもも彼あの画を見ると、もう決して悪い事はしまいと思いまして、女は子が出来ないと血の池地獄へ落ちて燈心で竹の根を掘らせられ、男は子が出来ないと提灯ちょうちんで餅を搗つかせられると云う、皆恐ろしい話で、実に悪い事は出来ませんものでございます。又因縁で性しょうを引きますというは仏説でございますが、深見新左衞門が斬殺きりころした宗悦の娘お園に、新左衞門の悴せがれ新五郎が惚れると云うはどういう訳でございましょうか、寝ても覚めても夢にも現うつゝにも忘れる事が出来ませんで、其の時は諦めますと云って出にかゝったが、お園が何とも云わぬから仕方がない、杉戸すぎどを閉たてゝ店へ往って寝てしまいましたが翌日になって見ると、まさか死ぬにも死なれず、矢張やっぱり顔を見合せて居ります。其の中うちに土蔵くらの塗直しが始まり、質屋さんでは土蔵を大事にあそばすので、土蔵の塗直しには冬が一番持もちがいゝと云うので、職人が這入ってどし〱日の暮れるまで仕事をして、早出はやで居残りと云うのでございます。職人方が帰り際には台所で夕飯時ゆうめしどきには主人が飯を喫たべさせ、寒い時分の事だから葱鮪ねぎまなどは上等で、或あるいは油揚に昆布などを入れたのがお商人あきんど衆の惣菜でございます。よく気をつけてくれまするから、台所で職人がどん〱這入って御膳を食べ、香の物がないといって、襷たすきを掛けて日の暮々くれ〲にお園が物置へ香の物を出しにゆきました。此の奥に土蔵が有ってその土蔵の脇は物置があり、其の此方こちらには職人が這入って居るから荒木田あらきだがあり、其の脇には藁わらが切ってあり、藁などが散ちらばっている間をうねって物置へ往って、今香の物を出そうとすると、新五郎が追っかけて来たから、見ると少し顔色も変って何だか気違きちがいじみて居る。もっとも惚れると云うと、馬鹿気ばかげて見えるものでございますが、

新「お園どん〱」

園「アラ、びっくりした、新どん、何なんでございます」

十二

新「アノお園さん、私はね、此の間お前と枕を並べて一度でも寝れば、死んでも宜いい、諦めますと云いました」

園「そんなことは存じませんよ」

新「存じませんと云ったって覚えてお居いでだろう、だがネ私はきっと諦めようと思って無理に頼んでお前の床へ這入って酔った紛れに一寸枕を並べたばかりだが、私はお前と一つ床の中へ這入ったから、猶なお諦めが付かなく成ったがね、お園どん、是程思って居るのだから唯たった一度ぐらいは云う事を聴いてもいゝじゃアないか」

園「何なんだネ新どん、気違じみて、お前さんも私も奉公して居る身の上でそんな事をして御主人に済みますか、其の事が知れたらお前さんは此の家うちを出ても行処ゆきどころが無いじゃアありませんか、若もし間違があったならば、私は身寄も親類も無い行処の無いという事は何時いつでも然そう云っておいでだのに、大恩のある御主人に済みませんよ」

新「済まないのは知って居るが、唯たった一度で諦めて是ッ切り猥いやらしい事は云う気遣きづかいないから」

園「アラおよしよ」

新「お前こんなに思って居るのに」

と夢中になりお園の手を取ってグッと引寄せる。

園「アレお止し」

と云ううち帯を取って後うしろへ引倒しますから、

園「アレ新どんが」

と高声たかごえを出して人を呼ぼうと思ったが、そこは病気の時に看病を受けました事があるから、其の親切に羈ほだされて、若もし私が呶鳴どなれば御主人に知れて、此の人が追出されたら何処どこへも行ゆく処も無し気の毒と思いますから、唯小声で、

園「新どんお止しよ〱」

と声を出すようで出さぬが、声を立てられてはならんと、袂たもとを口に当てがって、

新「此方こっちへお出で」

と藁の上へ押倒して上へ乗掛のりかゝるから、

園「アレ新どん、お前気違じみた、お前も私もしくじったら何どうなさる、新どん、新どん」

ともがくのを、無理無体に口を押え、夢中になって上へ乗掛ろうとすると、

園「アレ新どん〱」

ともがいているうちに、お園がウーンと身を慄ふるわして苦しみ、パッと息が止ったから恟びっくりして新五郎が見ると、今はどっぷり日が暮れた時で、定かには分りませんが、側にある苆すさが真赤に血だらけ、

新「何うしたのか」

と思って起上ろうとすると、苦し紛れに新五郎の袖に手をかけ、しがみ付いたなりに、新五郎と共にずうッと起おきたのを見ると真赤、

新「お園どん何うしたのだえ」

と襟えりに手をかけて抱起だきおこすと、情なさけないかな下にあったのは苆すさを切る押切おしきりと云うもの、是は畳屋さんの庖丁を仰向あおむけにした様な実に能よく切れるものでございますが、此の上へお園の乗った事を知らずに、男の力で、大声を立てさせまいと思い、口を押えてグックと押すから、お園はお止しよ〱と身体を踠もがくので、着物の上からゾク〱肋あばらへかけて切り込みましたから、お園は七転八倒の苦しみ、其の儘息の絶えたのを見て、新五郎は、

新「アヽ南無阿弥陀仏〱〱、お園どん堪忍しておくれ、全くお前と私は何たる悪縁か、お前が厭がるのを知りながら私が無理無体な事を云いかけて、怖ろしい刃物のあるを知らずにお前を此所こゝへ押倒して殺してしまったから、もう私は生きてはいられない、お園どん確しっかりしておくれ、私が死んでもお前を助けるから」

と無理に抱起だきおこして見ましたが、もう事が切れて居る。

新「ハア、もう是は迚とてもいかぬな」

と夢の覚めた様な心持で只茫然として居りましたが、もう迚も此処こゝの家うちには居られぬ、といって今更何処どこといって行ゆく処も無い新五郎、エヽ毒喰わば皿まで舐ねぶれ、もう是までというので、屎くそやけになる。若い中うちにはあることで、新五郎は暗やみに紛れてこっそり店へ這入って、此の家うちへ来る時差して来た大小を取出し、店に有合ありあわせの百金を盗み取って逐電いたしましたが、さて行ゆく処がないから、遥々はる〲奥州おうしゅうの仙台へ参り、仙台様のお抱かゝえになって居る、剣客者けんかくしゃ黒坂一齋と云う、元剣術の指南を受けた師匠の処へ参って塾に這入り、剣術の修業しゅうぎょうをして身を潜めて居りましたが、城中に居りましたから、頓とんと跡が付きません。なれども故郷忘じ難く、黒坂一齋の相果てゝからは、何どうも朋輩ほうばいの交際つきあいが悪うございますから、もう二三年も経ったから知れやしまいと思って、又奥州仙台から、江戸表へ出て来たのは、十一月の丁度二十日でございます。先まず浅草の観音様へ参って礼拝らいはいを致し、是から何処どこへ行ゆこうか、何どうしたらよかろうと考える中うちに、ふと胸に浮んだのは勇治ゆうじと云う元屋敷の下男で、我が十二歳ぐらいの頃まで居たが、其の者は本所辺に居ると云う事で、慥たしか松倉町と聞いたから、兎も角も此の者を尋ねて見ようと思い、吾妻橋あづまばしを渡って、松倉町へ行ゆきます。菅すげの深い三度笠を冠かぶりまして、半合羽はんがっぱに柄袋つかぶくろのかゝった大小を帯たいし、脚半甲きゃはんこうがけ草鞋穿わらじばきで、いかにも旅馴れて居りまする扮装いでたち、行李こうりを肩にかけ急いで松倉町から、斯こう細い横町へ曲りに掛ると、跡からバラ〱〱と五六人の人が駈けて来るから、是は手が廻ったか、しくじったと思い、振返って見ると、案の如く小田原提灯が見えて、紺足袋こんたびに雪駄穿せったばきで捕者とりものの様子だから、あわてゝ其処そこにある荒物屋の店の障子をがらりと明けて、飛上ったから、荒物屋さんでは驚きました。

女房「何ですねえ、恟びっくりしますね」

と云うと、

新「ハイ〱〱」

と云ってブル〱慄ふるえながら、ぴったり後うしろを締めて障子の破れから戸外そとを覗のぞいて居ります。

十三

女「まア何処どこの方です、突然いきなり人の家うちへ這入って、草鞋をはいたなりで坐ってサ、何どうしたんだえ」

新「是は〱何うも誠に相済まぬが、今間違で詰らぬ奴に喧嘩を仕掛けられ、私は田舎武士ざむらいで様子が知れぬから、面倒と思って、逃ると追掛おっかけたから、是は堪たまらんと思って当家へ駈込みお店を荒して済みませんが、今覗いて見れば追掛けたのではない酒屋の御用が犬を嗾けしかけたのだ、私は只怖いと思ったものだから追掛けられたと心得たので、誠に相済みません」

女「困りますね、草鞋を脱いで下さい、泥だらけになって仕様がございませんね、アレ塩煎餅しおせんべいの壺へ足を踏みかけて、まアお前さん大変樽柿たるがきを潰したよ」

新「誠に済まないが、ツイ踏んで二つ潰したから、是は私が買って、あとは元の様に積んで置きます、あの出刃庖丁は何なんでげすな」

女「あれは柿の皮を剥むくのでございますよ、何どうも困りますね、だが買って下さればそれで宜ようございますが、けれども貴方草鞋をおとんなさいナ」

新「何どうか、樽柿は幾個いくつでも買いますが、何うかお茶でも水でも下さい」

女「お茶は冷つめとうございますが、ナニ沢山買って下さらないでも、潰れただけの代を下さればようございます」

新「えゝ御家内此処こゝは何なんと云う処でございますえ」

女「此処は本所松倉町でございます」

新「あゝ左様かえ、少しお聞き申すが、前々ぜん〲小日向服部坂はっとりざかの屋敷に奉公を致して居った勇治と云う者が此の近処きんじょに居りませんか、年は今年で五十八九になりましょうか、慥たしか娘が一人あって其の娘の夫は*喿掻こまいかきと聞きましたが」

*「壁下地の小竹をとりつける職人」

女「貴方は、なんでございますか、深見新左衞門様の若様でございますか」

新「えゝ何あのお前は勇治を御存知かえ」

女「ハイ私は勇治の娘でございますよ、春と申しまして」

新「はあ然そう」

春「私はね、もうねお屋敷へ一度参った事がございますがね、其の時分は幼少の時で、まアお見違みそれ申しました、まだ貴方のお小さい時分でございましたからさっぱり存じませんで、大層お立派におなり遊ばしたこと、お幾才いくつにおなり遊ばした」

新「今年二十三になります」

春「まアお屋敷もね、何だか不祥いやな事になりまして、昨年私の親父も亡なりましたが、お屋敷はあゝなったが、若様は何どうなされたかお行方が知れぬが、ひょっとして尋ねていらっしゃったら、永々なが〱御恩を受けたお屋敷の若様だから何どんなにもして上げなければならん、と死際しにぎわに遺言して亡なりましたが、貴方が若様なれば何うか此方こちらへ一晩でもお泊め申さんでは済すみませんから」

新「やれ〱是は〱左様かね、図らず勇治の処へ来たのは何より幸さいわいで、拙者は深見新五郎であるが、仔細あって暫く遠方へ参って居たが、今度此方へ出て参っても何処どこと云って頼る処も無し、何処か知れぬ処へ奉公住ほうこうずみを致したいが、請人うけにんがなければならんから当家で世話をして請人になってくれんか」

春「お世話どころじゃアございません、是非ともお世話を為しなければ済みません、まア能く入らっしゃいました、貴方それじゃアまア脚半や草鞋をお取りなすって、なに御心配はございません、今水を汲んで来ます、ナニその汚れた処は雑巾で拭きますから、まア合羽などはお取りなさいまし」

と云うから新五郎はホット息を吐つきます。すると、

春「まア此方こちらへ」

と云うので何か親切に手当を致し、大小は風呂敷に包み箪笥たんすの抽斗ひきだしへ入れてピンと錠を卸おろし、

春「貴方これとお着かえなさいましな」

新「イヤ着換は持って居るから」

と包の中から出して着物を着かえ、

新「何うか空腹であるから御飯を」

春「ハイ宜しゅうございます、貴方御酒を召上るならば取って参りましょう、此の辺は田舎同様場末でございますから何なんにもよいものはありませんが、貴方鰻を召上りますなら鰻でも」

新「鰻は結構、私が代を出すから何どうか買って貰いたい」

春「そんなら跡を願いますよ」

と是からガラリ障子を明けて戸外そとへ出ました。すると此の女房は、実は深見新五郎が来たら是々と、亭主に言付けられているから、亭主の行って居る処へ行って話をする。此の亭主は石河伴作いしかわばんさくと云う旦那衆しゅの手先で、森田の金太郎と云う捕者の上手、かねて網を張って待っていた処だから、それは丁度好いいと、それ〲手配てくばりをしたが、併しかし剣客者てしゃと聞いているから刃物を取上げなければならんが、何どうしたものだろうと云うと女房が聞いて、刃物は是々してちゃんと箪笥の抽斗へ入れて錠を卸して仕舞って、鰻を誂あつらえに行ゆくつもりにして来たと云う。

金「そんなら宜しい」

と云って直すぐに鰻屋の半纏はんてんを引掛ひっかけて若者の姿で金太郎が遣やって来て、

金「エヽ鰻屋でございます」

と云うと、此方こちらは気が附きませんから、

新「ハイ大きに御苦労」

金「お誂えが出来ました、あゝ山椒さんしょの袋を忘れた」

と云いながら新五郎の受取うけとりに来る処を飛上って、

金「御用だ神妙にしろ」

と手を取って逆に捻伏ねじふせられたから起おきる事が出来ません。

十四

金「手前てめえは深見新五郎だろう、谷中の下總屋でお園を殺し、主人の金を百両盗んで逐電した大泥坊め」

新「イヤ手前は左様なものではござらん」

とは云ったが、あゝ残念なことをした、それでは此処こゝの女房もぐるであったと見える、刃物を仕舞われたから是はもう迚とても遁のがれぬ。と思いました。いゝ悪党なれば、斯こう云う時の為に懐にどすといって一本匕首あいくちをのんで居るが、それ程商売人の泥的どろてきではありませんから、用意をいたしておりません。もう天命究きわまったと思うと、一寸指の先へ障りましたのは、先刻さっきふと女房に聞いた柿の皮を剥く庖丁と云う鯵切あじきりの様な物が、これが手に障ったのを幸さいわいと、

新「左様な覚おぼえはない、人違ひとちがいでござる」

と云って、起上おきあがりながらズンと金太郎の額へ突掛つっかけたから、

金「アッ」

と後あとへ下さがって傷口を押えると、額から血がダラ〱流れて真赤になり、真実ほんとうの金太郎の様になります。続いて逃にげたらと隠れていた捕者の上手な富藏とみぞうと云う者が、

富「神妙にしろ、御用だ」

と十手を振上げて打って掛るやつを取って抉えぐったから、ヒョロ〱とひょろついて台所の竈へっついでボッカリ膝を打って、裏口へ蹌踉よろけ出したから、しめたと裏口の戸をしめ、辛張しんばりをかって置いて表を覗のぞくと人が居る様子だから、確しっかり鑰かきがねを掛けて燈光あかりを消し、庖丁の先で箪笥の錠をガチ〱やって漸ようやく錠を明け、取出した衣類を身に纒まとい、大小を差して、サア出ようと思ったが、迚とても表からは出られませんから、屋根伝いにして逃げようと、階子はしごを上あがって裏手の小窓を開けて見ると、ずうっと棟割むねわり長屋になって物干が繋つながって居て、一軒毎ごとに一間ばかりの丸太がありそれへ小割こわりが打って物干竿ものほしざおの掛る様になっているから、此の物干伝いに伝わって行ゆけば、何処どこへか逃げられるとは思ったが、なか〱油断は出来ませんから、長物ながものを抜いて新五郎が度胸をすえ、小窓から物干へ這出して来ます。すると捕手とりての方も手当は十分に附いているから、もし此の窓から逃出したら頭脳あたまを打破うちわろうと、勝藏かつぞうと云う者が木太刀きだちを振上げて待って居る所へ、新五郎は斯こう腹這はらばいになって頸くびをそうッと出した。すると、

勝「御用だ」

ピュッーと「ピュッーと」はママ来るやつを、身を退ひき身体を逆に反かえして、肋あばらの所へ斬込んだから、勝藏は捕者は上手だが物干から致してガラ〱〱どうと転がり落ちる。其の間に飛下りようとする。所が下には十分手当が届いているから下りる事が出来ません。すると丁度隣の土蔵が塗直しで足場が掛けてあって笘とまが掛っているから、それを潜くゞって段々参ると、下の方ではワア〱と云う人声ひとごえ、もう然そうなると、人が十人居ても五十人も居る様に思われますから、新五郎は窃そっと音のしない様に笘を潜り抜けて、段々横へ廻って参り、此の空地あきちへ飛下り、彼方あちらの板塀を毀こわして、向むこうの寺へ出れば逃のがれられようと思い、足場を段々に下りまして、もう宜よかろう、と下を見ると藁わらがある。しめたと思ってドンと其処そこへ飛下りると、

新「ア痛タ……」

と臀餅しりもちをつく筈はずです、其の下にあったのは押切おしぎりと云う物で、土踏まずの処を深く切込みましたから、新五郎ももう是までと覚悟しました。跛びっこになっては、迚とても遁のがれる事も出来ませんから、到頭とうとう縄に掛って引かれます。

新「あゝ因縁は恐しいもの、三年跡あとにお園を殺したも押切、今又押切へ踏掛けてそのために己おれが縄に掛って引かれるとは、お園の怨うらみが身に纒まとって斯かくの如くになること」

と実に新五郎も夢の覚めた様になりましたが、是が丁度三年目の十一月二十日、お園の三回忌の祥月命日しょうつきめいにちに、遂に新五郎が縄目に掛って南の御役宅へ引かれると云う、是より追々怪談のお話に相成ります。

十五

引続きまして真景累が淵、前回よりは十九年経ちましてのお話に相成りますが、根津七軒町の富本とみもとの師匠豐志賀とよしがは、年卅九歳で、誠に堅い師匠でございまして、先年妹お園を谷中七面前の下總屋と云う質屋へ奉公に遣やって置きました処、図らぬ災難で押切の上へ押倒され、新五郎の為に非業の死を遂げましたが、それからは稽古をする気もなく、同胞きょうだい思いの豊志賀は懇ねんごろに妹お園の追福を営み、追々月日も経ちまするので気を取直し、又矢張やっぱり稽古をする方が気が紛れていゝから、と世間の人も勧めまするので、押っ張って富本の稽古を致す様になりましたが、女の師匠と云う者は、堅くないとお弟子がつきません。彼処あすこの師匠は娘を遣って置いても行儀もよし、言葉遣いもよし、真まことに堅いから、あの師匠なら遣るが宜いい、実に堅い人だ、と云うので大家たいけの娘も稽古に参ります。すると、男嫌いで堅いと云うから、男は来そうもないものでございますが、堅い師匠だと云うと、妙に男が稽古に参ります。

「師匠是は妙な手桶で、台所で遣つかうのには手で持つ処が小さくって軽くって、師匠などが水を汲むにいゝから、私が一つ桶屋に拵こしらえさして持って来た」

とか、又朝早く行って、瓶かめへ水を汲んで流しを掃除しようなどと手伝いに参ります。中には内々ない〱張子連はりこれんなどと申しまして、師匠が何どうかしてお世辞の一言ひとことも云うと、それに附込んで口説落くどきおとそうなどと云う連中れんじゅう、経師屋きょうじや連だの、或あるいは狼連などと云う、転んだら喰おうと云う連中が来るのでありますから、種々いろ〱親切に世話を致します。時々浚さらいや何か致しますと、皆みんな此の男の弟子が手伝いに参りますが、ふと手伝いに来た男は、下谷したや大門町だいもんちょうに烟草屋たばこやを致して居おる勘藏と云う人の甥おい、新吉と云うのでございますが、ぶら〱遊んで居るから本石町ほんこくちょう四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣やりましたが、松田が微禄いたして、伯父の処へ帰って遊んでいるから、少し烟草を売るがいゝと云うので、掴つかみ煙草を風呂敷に包み、処々ところ〲売って歩きますが、素もとより稽古が好きで、閑ひまの時は、水を汲みましょうお湯を沸わかしましょうなどと、ヘエ〱云ってまめに働きます。年二十一でございますが、一寸子抦こがらの好よい愛敬のあると云うので、大層師匠の気に入り、其の中うちに手少なだから私の家うちに居て手伝ってと云うと、新吉も伯父の処に居るよりは、芸人の家うちに居るのは粋いきで面白いから楽たのしみも楽みだし、芸を覚えるにも都合がいゝから、豊志賀の処へ来て手伝いをして居ります。其の年十一月二十日の晩には、霙みぞれがバラ〱降って参りまして、極ごく寒いから、新吉は食客いそうろうの悲しさで二階へ上あがって寝ますが、五布蒲団いつのぶとんの柏餅かしわもちでもまだ寒いと、肩の処へ股引などを引摺込ひきずりこんで寝まするが、霙はざあ〱と窓へ当ります。其の内に少し寒さが緩ゆるみましたかして、夜よが更けてから雨になりまして、どっとと降って参ります。師匠は堅いから下に一人で寝て居りますが、何なんだか此の晩は鼠がガタ〱して豐志賀は寝られません。

豐「新吉さん〱」

新「ヘエ何なんでげすね」

豐「お前まだ眼が覚めていますかえ」

新「ヘエ、私はまだ覚めて居ります」

豐「そうかえ私も今夜は何だか雨の音が気になって少しも寝られないよ」

新「私も気になって些ちっとも寝られません」

豐「何だか誠に訝おかしく淋しい晩だね」

新「ヘエー訝しく淋しい晩でげすね」

豐「寒いじゃアないか」

新「何だかひどく寒うございますね」

豐「なんだね同じ様なことばかり云って、誠に淋しくっていけない、お前さん下へ下りて寝ておくれな、どうも気になっていけないから」

新「そうですか、私も淋しいから下へ下りましょう」

と五布蒲団と枕を抱えて、危い階子はしごを下りて来ました。

豐「お前、新吉さん其方そっちへ行って柏餅では寒かないかえ」

新「ヘエ、柏餅が一番宜いいんです、布団の両端りょうはじを取って巻付けて両足を束そくに立って向むこうの方に枕を据すえて、これなりにドンと寝ると、好いい塩梅に枕の処へ参りますが、そのかわり寝像ねぞうが悪いと餡あんがはみ出します」

豐「お前寒くっていけまい、斯こうしておくれな、私も淋しくっていけないから、私のネこの上掛うわがけの四布蒲団よのぶとんを下に敷いて、私の掻巻かいまきの中へお前一緒に這入って、其の上へ五布蒲団を掛けると温あったかいから、一緒にお寝な」

新「それはいけません、どうして勿体ない、お師匠さんの中へ這入って、お師匠さんの身体から御光ごこうが射すと大変ですからな」

豐「御光だって、寒いからサ」

新「寒うございますがね、明日あしたの朝お弟子が早く来ましょう、然そうするとお師匠さんの中へ這入って寝てえれば、新吉はお師匠さんと色だなどと云いますからねえ」

豐「宜いいわね、私の堅い気象は皆みんなが知って居るし、私とお前と年を比べると、私は阿母おっかさんみた様で、お前の様な若い子みたいな者と何どう斯こう云う訳は有りませんから一緒にお寝よ」

新「そうでげすか、でも極りが悪いから、中に仕切を入れて寝ましょうか」

豐「仕切を入れたって痛くっていけませんよ、お前間まがわるければ脊中合せなかあわせにして寝ましょう」

と到頭同衾ひとつねをしましたが、決して男女なんにょ同衾はするものでございません。

十六

日頃堅いと云う評判の豐志賀が、どう云う悪縁か新吉と同衾をしてから、不図ふと深い中になりましたが、三十九歳になる者が、二十一歳になる若い男と訳があって見ると、息子のような、亭主のような、情夫いろおとこの様な、弟の様な情が合併して、さあ新吉が段々かわいゝから、無茶苦茶新吉へ自分の着物を直して着せたり何か致します、もと食客いそうろうだから新吉が先へ起きて飯拵めしごしらえをしましたが、此の頃は豐志賀が先へ起きてお飯まんまを炊くようになり、枕元で一服つけて

豐「さア一服お上あがりよ」

新「ヘエ有難う」

豐「何なんだよヘエなんて、もうお起きよ」

新「あいよ」

などと追々増長して、師匠の布子どてらを着て大胡坐おおあぐらをかいて、師匠が楊枝箱ようじばこをあてがうと坐ってゝ楊枝を遣つかい嗽うがいをするなどと、どんな紙屑買が見ても情夫いゝひととしか見えません。誠に中よく致し、新吉も別に行ゆく処も無い事でございますから、少し年をとった女房を持った心持でいましたが、此家こゝへ稽古に参りまする娘が一人ありまして、名をお久ひさと云って、総門口そうもんぐちの小間物屋の娘でございます。羽生屋三五郎はにゅうやさんごろうと云う田舎堅気かたぎの家うちでございまするが、母親が死んで、継母まゝはゝに育てられているから、娘は家うちに居るより師匠の処に居る方がいゝと云うので、能よく精出して稽古に参ります。すると隠す事程結句けっくは自然と人に知れるもので、何どうも訝おかしい様子だが、新吉と師匠と訳がありゃアしないかと云う噂が立つと、堅気の家うちでは、其の様な師匠では娘の為にならんと云って、好いい弟子はばら〱下さがってしまい、追々お座敷も無くなります。そうすると、張子連は憤おこり出して、

「分らねえじゃアねえか、師匠は何なんの事だ、新吉などと云う青二歳を、了簡違いな、また新吉の野郎もいやに亭主ぶりやアがって、銜煙管くわえぎせるでもってハイお出で、なんと云ってやがる、本当に呆れけえらア、下さがれ〱」

と。ばら〱張子連は下ります。其の他たの弟子も追々其の事を聞いて下りますと、詰つまって来るのは師匠に新吉。けれどもお久ばかりは相変らず稽古に来る、と云うものは家うちに居ると、継母に苛いじめられるからで、此のお久は愛嬌のある娘で、年は十八でございますが、一寸笑うと口の脇へ靨えくぼと云って穴があきます。何もずぬけて美女いゝおんなではないが、一寸男惚おとこぼれのする愛らしい娘。新吉の顔を見てはにこ〱笑うから、新吉も嬉しいからニヤリと笑う。其の互たがいに笑うのを師匠が見ると外面うわべへは顕あらわさないが、何か訳が有るかと思って心では妬やきます。この心で妬くのは一番毒で、むや〱修羅しゅらを燃もやして胸に燃火たくひの絶える間まがございませんから、逆上のぼせて頭痛がするとか、血の道が起おこるとか云う事のみでございます。と云って外ほかに意趣返しの仕様がないから稽古の時にお久を苛めます。

豐「本当に此の娘こは何てえ物覚ものおぼえが悪い娘だろう、其処そこがいけないよ、此様こんなじれったい娘はないよ」

と無暗むやみに捻つねるけれども、お久は何も知らぬから、芸が上あがると思いまして、幾ら捻られてもせっせと来ます。それは来る訳で、家うちに居ると継母に捻られるから、お母っかさんよりはお師匠さんの方が数が少いと思って近く来ると、猶なお師匠は修羅を燃もやして、わく〱悋気りんきの焔ほむらは絶える間は無く、益々逆上して、眼の下へポツリと訝おかしな腫物できものが出来て、其の腫物が段々腫上はれあがって来ると、紫色に少し赤味がかって、爛たゞれて膿うみがジク〲出ます、眼は一方腫塞はれふさがって、其の顔の醜いやな事と云うものは何なんとも云いようが無い。一体少し師匠は額の処が抜上ぬけあがって居る性たちで、毛が薄い上に鬢びんが腫上っているのだから、実に芝居で致す累かさねとかお岩とか云うような顔付でございます。医者が来て脈を取って見る。豊志賀が、是は気の凝こりでございましょうか、と云うと、イヤ然そうでない是は面疔めんちょうに相違ないなどゝ云うが、それは全く見立違みたてちがいで、只今の様に上手なお医者はございません時分で、只今なら佐藤先生の処へ行ゆけば、切断して毒を取って跡は他人の肉で継合つぎあわせると云う、飴細工の様な事も出来るから造作はないが、其の頃は医術が開けませんから、十分に療治も届きません。それ故段々痛いたみが烈はげしくなり、随したがって気分も悪くなり、終ついにはどっと寝ました。ところが食しょくは固もとより咽喉のどへ通りませんし、湯水も通らぬ様になりましたから、師匠は益々痩やせるばかり、けれども顔の腫物できものは段々に腫上って来まするが、新吉はもと師匠の世話になった事を思って、能よく親切に看病致します。

新「師匠〱、あのね、薬の二番が出来たから飲んで、それから少し腫物の先へ布薬ひきぐすりを為しよう、えゝおい、寝て居るのかえ」

豐「あい」

と膝に手を突いて起上りますると、鼠小紋ねずみこもんの常着ふだんぎを寝着ねまきにおろして居るのが、汚れッ気けが来ており、お納戸色なんどいろの下〆したじめを乳の下に堅く〆しめ、溢くびれたように痩せて居ります。骨と皮ばかりの手を膝に突いて漸ようやくの事で薬を服のみ、

豐「ほッ、ほッ」

と息を吐つく処を、新吉は横眼でじろりと見ると、もう〱二眼ふためと見られない醜いやな顔。

新「些ちっとは快いゝかえ」

豐「あい、新吉さん、私はね何どうも死度しにたいよ、私のような斯こんなお婆さんを、お前が能く看病をしておくれで、私はお前の様な若い奇麗きれいな人に看病されるのは気の毒だ〱と思うと、猶なお病気が重おもって来る、ね、私が死んだら嘸さぞお前が楽々らく〱すると思うから、本当に私は一時いちじも早く楽に死度いと思うが、何うも死切しにきれないね」

新「詰らない事を云うもんじゃアない、お前が死んだら私が楽をしようなどゝそんなことで看病が出来るものでは無い、わく〱そんな事を思うから上のぼせるんだ、腫物できものさえ癒なおって仕舞やア宜いいのだ」

豐「でもお前が厭いやだろうと思って、私はお前唯たゞの病人なら仕方もないけれども、私は斯こんな顔になって居るのだもの」

新「斯んな顔だって腫物だから癒なおれば元の通りになるから」

豐「癒ればあとが引釣ひっつりになると思ってね」

新「そんなに気を揉もんではいけない、少しは腫はれが退ひいたようだよ」

豐「嘘をお吐つきよ、私は鏡で毎日見て居るよ、お前は口と心と違って居るよ」

新「なに違うものか、私は心配して居るのだ」

豐「あゝもう私は早く死度い」

新「お廃よしよ、死しにたい〱って気がひけるじゃアないか、些ちっとは看病する身になって御覧、何なんだってそんなに死度いのだえ」

豐「私が早く死んだら、お前の真底しんそこから惚れているお久さんとも逢われるだろうと思うからサ」

十七

新「あゝいう事を云う、お前は何なんぞと云うとお久さんを疑うたぐって、ばんごと云うがね、私とお久さんと何か訳があると思って居るのかえ」

豐「それはないわね」

新「ないものを兎や角云わなくっても宜いいじゃアないか」

豐「ないからったっても、私と云うものがあるから、お前が惚れているという事を、口にも出さず、情夫いろにもなれぬと思うと、私は本当に気の毒だから私は早く死んで上げて、そうして二人を夫婦にして上げたいよ」

新「およしな、そんな詰らぬ事を、仕様がないな、本当にお前も分らないね、お久さんだって一人娘で、婿を取ろうと云う大事な娘だのに、そんな訳もない事を云って疵きずを附けては、向むこうの親父さんの耳にでも入ると悪いやね、あの娘のお母っかさんは継母で喧やかましいから可愛かわいそうだわね」

豐「可愛そうでございましょう、お前はお久さんの事ばかりかわいそうで案じられるだろうが、私が死んでもお前は可愛そうだと思う気遣きづかいはないよ」

新「あ、あゝいう事を、お前仕様がないね、よく考えて御覧な、全体私は家うちの者じゃアないか、仮令たとえ訳があっても隠すが当然だろう、それを訳のない者を疑って、ある〱と云うと、世間の人まで有ると思って私が困るよ」

豐「御尤ごもっともでございますよ、でも何どうせあるのはあるのだね、私が死ねば添われるから、何卒どうぞ添わして上げたいから云うのだよ、新吉さん本当に私は因果だよ、私は何うも死切れないよ」

新「あゝ云う事を云う、何を証拠に…えゝそれはね……彼様あんな事を…又あゝいう事を……お前そう疑るからいけない、此の頃来たお弟子ではなし、家うちの為になるからそれはお前、お天気がいゝとか、寒うございますとか、芝居へおいでなすったか位のお世辞は云わなければならないやね、それも家の為だと思うから云おうじゃアないか、あれサ仕様がないね、別に何も……此の間も見舞物を持って来たから台所へ行って葢物ふたものを明けて返す、あれサそれを、あゝいう分らぬ事を云う仕様がねえなア」

とこぼして居る所へ這入って来たのは何も知らないお久でございます。何か三組みつぐみの葢物へおいしいものを入れて、

久「新吉さん、今日こんにちは」

新「ヘエ、お出いでなさい、此方こちらへお這入りなすって、ヘエ有難う、まア大きに落付おちつきました様で」

久「あのお母っかさんが上あがるのですが、つい店が明けられませんで御無沙汰を致しますが、慥たしかお師匠さんがお好すきでございますから、よくは出来ませんが何卒どうぞ召上って」

新「有難うございます、毎度お前さんの処から心にかけて持って来て下すって有難う、錦手にしきでの佳いい葢物ですね、是は師匠が大好だいすきでげす、煎豆腐いりどうふの中へ鶏卵たまごが入って黄色くなったの、誠に有難う、師匠が大好、おい師匠〱あのねお久さんの処からお前の好な物を煮て持って来ておくんなすったよ、お久さんが来たよ」

豐「あい」

とお久と云う声を聞くと、こくり起上って手を膝について、お久の顔を見詰めて居ります。

久「お師匠さんいけませんね、お母っかさんがお見舞に上るのですが、つい店が明けられませんで、些ちっとはお快よろしゅうございますか」

豐「はい、お久さん度々たび〲御親切に有難うございます。お久さん、お前と私とは何なんだえ」

新「何を詰らない事を云うのだよ」

豐「黙っておいでなさい、お前の知った事じゃアない、お久さんに云いたい事があるのだよ、お久さん私とお前とは弟子師匠の間じゃアないか、何故お見舞にお出でゞない」

新「何を云うのだよ、お久さんは毎日お見舞に来たり、何どうかすると日に二度ぐらいも来るのに」

豐「黙っておいで、其様そんなにお久さんの贔屓ひいきばかりおしでない、それは私が斯こうしているから案じられて来るのじゃア無い、お久さんはお前の顔を見たいから度々来るので」

新「仕様がないナ詰らぬ事を云って、お久さん堪忍してね、師匠は逆上して居るのだから」

久「誠にいけませんね」

とお久は少し怖くなりましたから、こそ〱と台所から帰ってしまいました。

新「困るね、えゝ、おい師匠何うしたんだ、冗談じゃアねえ、顔から火が出たぜ、生娘きむすめのうぶな娘こに彼様あんな事を云って、面目無めんぼくなくって居られやアしない」

豐「居られますまいよ、顔が見たけりゃア早く追駈おっかけてお出で」

新「あゝいう事を云うのだもの」

豐「私の顔は斯んな顔になったからって、お前がそういう不人情な心とは私は知りませんだったよ」

新「何を云うのだね、誠に仕様がねえな、些ちっと落付いてお寝よ」

豐「はい寝ましょうよ」

新吉は仕方がないから足を摩さすって居りますと、すや〱疲れて寝た様子だから、いゝ塩梅だ、此の間に御飯でも喫たべようと膳立ぜんだてをしていると這出して、

豐「新吉さん」

新「何なんだい、肝きもを潰つぶしたねえ」

豐「私が斯んな顔で」

新「仕様がねえな冷ひえるといけないからお這入りよ」

と云う塩梅、よる夜中よなかでも、いゝ塩梅に寝附いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると、

豐「新吉さん〱」

と揺ゆり起すから新吉が眼を覚さますと、ヒョイと起上って胸倉むなぐらを取って、

豐「新吉さん、お前は私が死ぬとねえ」

と云うから、新吉は二十一二で何を見ても怖がって尻餅をつくと云う臆病な性たちでございますから、是は不人情のようだが迚とても此処こゝには居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総の羽生村に知って居る者があるから、其処そこへ行ってしまおうかと、種々いろ〱考えて居る中うちに、師匠は寝付いた様子だから、その間まに新吉はふらりと戸外そとへ出ましたが、若い時分には気の変りやすいもので、茅町かやちょうへ出て片側町かたかわまちまでかゝると、向むこうから提灯を点つけて来たのは羽生屋の娘お久と云う別嬪べっぴん、

久「おや新吉さん」

十八

新「これはお久さん何処どこへ」

久「あの日野屋へ買物に」

新「思いがけない処でお目にかゝりましたね」

久「新吉さん何方どちらへ」

新「私は一寸大門町まで」

久「お師匠さんは」

新「誠にいけません、此の間はお気の毒でね、あんな事を云って何どうもお前さんにはお気の毒様で」

久「何う致しまして、丁度好よい処でお目に掛って嬉しいこと」

新「お久さん何処へ」

久「日野屋へ買物に」

新「本当にあんな事を云われると厭いやなものでね、私は男だから構いませんが、お前さんは嘸さぞ腹が立ったろうが、お母っかさんには黙って」

久「何ういたしまして、私の方ではあゝ云われると、冥加みょうがに余って嬉しいと思いますが、お前さんの方で、外聞がわるかろうと思って、誠にお気の毒様」

新「うまく云って、お久さん何処へ」

久「日野屋へ買物に」

新「あの師匠の枕元でお飯まんまを喫たべると、おち〱咽喉のどへ通りませんから、何処かへ徃いってお飯を喫べようと思うが、一人では極りが悪いから一緒に往っておくんなさいませんか」

久「私の様な者をおつれなさると外聞が悪うございますよ」

新「まア宜いいからお出でなさい、蓮見鮨はすみずしへ参りましょう」

久「ようございますか」

新「宜いからお出でなさい」

と下心があると見え、お久の手を取って五目鮨ごもくずしへ引張ひっぱり込むと、鮨屋でもさしで来たから訝おかしいと思って、

鮨「いらっしゃい、お二階へ〱、あの四畳半がいゝよ」

と云うのでとん〱〱〱と上あがって見ると、天井が低くって立っては歩かれません。

新「何なんだか極りが悪うございますね」

久「私は何どうも思いません、お前さんと差向いでお茶を一つ頂く事も出来ぬと思って居ましたが、今夜は嬉しゅうございますよ」

新「調子のいゝことを」

女「誠に今日こんにちはお生憎あいにく様、握鮓にぎりばかりで何なんにも出来ません、お吸物も、なんでございます、詰らない種でございますから、海苔のりでも焼いて上げましょうか」

新「あゝ海苔で、吸物は何か一寸見計みはからって、あとは握鮓がいゝ、おい〱、お酒は、お前いけないねえ、しかし極りが悪いから、沢山は飲みませんが、五勺ごしゃくばかり味醂みりんでも何でも」

女「畏かしこまりました、御用がありましたらお呼びなすって、此処こゝは誠に暗うございますが」

新「何ようございます、其処そこをぴったり〆しめて」

女「ハイ御用があったらお手を、此の開きは内から鎖鑰かきがねが掛りますから」

新「お前さんとさしで来たから、女がおかしいと思って内から鎖鑰が掛るなんて、一寸*たかいね、お久さん何処へ」

*「たかい目が高いの略」

久「日野屋へ来たの」

新「あ然そう〱、此の間はお気の毒様で、お母っかさんのお耳へ這入ったら嘸さぞ怒りなさりやアしないかと思って大変心配しましたが、師匠は彼あの通り仕様がないので」

久「何どうも私共の母なども然そう云っておりますよ、お師匠さんがあんな御病気になるのも、やっぱり新吉さん故だから、新吉さんも仕方がない、何様どんなにも看病しなければならないが、若いから嘸お厭いやだろうけれども、まアお年に比あわしては能よく看病なさるってお母っかさんも誉めて居ますよ」

新「此方こっちも一生懸命ですがね、只煩って看病するばかりならいゝけれども、何うも夜中に胸倉を取って、醜いやな顔で変な事を云うには困ります、私は寝惚ねぼけて度々たび〱恟びっくりしますから、誠に済まないがね、思い切って斯こうふいと何処どこかへ行って仕舞しまおうかと思って、それには下総に些すこしの知己しるべが有りますから其処そこへ行ゆこうかと思うので」

久「おやお前さんの田舎はあの下総なの」

新「下総と云う訳じゃアないが些ちっと知って居る……伯母さんがあるので」

久「おやまあ。私の田舎も下総ですよ」

新「ヘエお前さんの田舎は下総ですか、世には似た事があるものですね、然そう云えば成程お前さんの処の屋号いえなは羽生屋と云うが、それじゃア羽生村ですか」

久「私の伯父さんは三藏さんぞうと云うので、親父は三九郎と云いますが、伯父さんが下総に行って居るの、私は意気地いくじなしだから迚とても継母の気に入る事は出来ないけれども、余あんまりぶち打擲ちょうちゃくされると腹が立つから、私が伯父さんの処とこへ手紙を出したら、そんな処に居らんでも下総へ来てしまえと云うから、私は事によったら下総へ参りたいと思います」

新「ヘエ然そうでございますか、本当に二人が情夫いろか何かなれば、ずうっと行くが、何なんでもなくっては然そうはいきませんが、下総と云えば、何なんですね、累かさねの出た処を羽生村と云うが、家うちの師匠などはまるで累も同様で、私をこづいたり腕を持って引張ひっぱったりして余程変ですよ、それに二人の中は色でも何なんでもないのに、色の様に云うのだから困ります、何どうせ云われるくらいなれば色になって、然そうしてずうっと、二人で下総へ逃にげると云うような粋いきな世界なら、何なんと云われても云われ甲斐がありますが」

久「うまく仰しゃる、新吉さんは実じつがあるから、お師匠さんを可愛いと思うからこそ辛い看病も出来るが、私のような意気地なしの者をつれて下総へ行ゆきたいなんと、冗談にも然そう仰しゃってはお師匠さんに済みませんよ」

新「済まないのは知ってるが、迚とても家うちには居られませんもの」

久「居られなくっても貴方が下総へ行ってしまうとお師匠さんの看病人がありません、家うちのお母っかさんでも近所でも然そう云って居りますよ、あの新吉さんが逃出して、看病人が無ければ、お師匠さんは野倒死のたれじにになると云って居ります、それを知ってお師匠さんを置いて行っては義理が済みません」

新「そりゃア義理は済みませんがね、お前さんが逃げると云えば、義理にも何なんにも構わず無茶苦茶に逃げるね」

久「えゝ、新吉さん、お前さんほんとうに然そう云って下さるの」

新「ほんとうとも」

久「じゃアほんとうにお師匠さんが野倒死をしても私を連れて逃げて下さいますか」

新「お前が行ゆくと云えば野倒死は平気だから」

久「本当に豊志賀さんが野倒死になってもお前さん私を連れて行いきますか」

新「本当に連れて行きます」

久「えゝ、お前さんと云う方は不実な方ですねえ」

と胸倉を取られたから、フト見詰めて居ると、綺麗な此の娘の眼の下にポツリと一つ腫物できものが出来たかと思うと、見る間まに紫立って膨はれ上り、斯こう新吉の胸倉を取った時には、新吉が怖いとも怖くないともグッと息が止とまるようで、唯ただ無茶苦茶に三尺の開戸ひらきどを打毀うちこわして駈出したが、階子段はしごだんを下りたのか転がり落おちたのか些ちっとも分りません。夢中で鮨屋を駈出し、トットと大門町の伯父の処へ来て見ると、ぴったり閉しまって居るからトン〱〱〱、

新「伯父さん〱〱」

十九

勘「オイ騒々しいなア、新吉か」

新「えゝ一寸早く明けて、早く明けておくんなさい」

勘「今明ける、戸が毀こわれるワ、篦棒べらぼうな、少し待ちな、えゝ仕様がねえ、さあ這入んな」

新「跡をピッタリ締めて、南無阿弥陀仏〱」

勘「何なんだって己おれを拝む」

新「お前さんを拝むのではない、ハア何どうも驚きましたネ」

勘「お前のように子供みたいにあどけなくっちゃア困るね、えゝ、オイ何故師匠が彼程あれほどの大病で居るのを一人置いて、ヒョコ〱看病人が外へ出て歩くよ、済まねえじゃアないか」

新「済まねえが迚とても家うちには居られねえ、お前さんは知らぬからだが其の様子を見せたいや」

勘「様子だって、何どんな事があっても、己おれが貧乏して居るのに、汝てめえは師匠の家うちへ手伝いに往いってから、羽織でも着る様になって、新吉さん〱と云われるのは皆みんな豊志賀さんのお蔭だ、その恩義を忘れて、看病をするお前がヒョコ〱出歩いては師匠に気の毒で仕様がねえ、全体師匠の云う事はよく筋がわかっているよ、伯父さん誠に面目ないが、打明けてお話を致しまするが、新吉さんと去年から訝おかしなわけになって、何なんだか私も何どう云う縁だか新吉さんが可愛いから、それで詰らん事に気を揉みまして、斯こんな煩わずらいになりました、就ついては段々弟子も無くなり、座敷も無くなって、実ほんとにこんな貧乏になりましたも皆みんな私の心柄で、新吉さんも嘸さぞこんな姿で悋気りんきらしい事を云われたら厭いやでございましょう、それで新吉さんが駈出してしまったのでございますから、私はもうプッヽリ新吉さんの事は思い切りまして、元の通り、尼になった心持で堅気の師匠を遣やりさえすれば、お弟子も捩よりを戻して来てくれましょうから、新吉さんには何どんな処へでも世帯しょたいを持たせて、自分の好すいた女房を持たせ、それには沢山のことも出来ませんが、病気が癒なおれば世帯を持つだけは手伝いをする積り、又新吉さんが煙草屋をして居ては足りなかろうから、月々二両や三両位はすけるから、何卒どうぞ伯父さん立会たちあいの上、話合はなしあいで、表向おもてむきプッヽリと縁を切る様にしたいから何卒どうか願います、と云うのだが、気の毒でならねえ、あの利かねえ身体で、*四つ手校注に乗って広袖どてらを着て、きっとお前が此家こゝに居ると思って、奥に先刻さっきから師匠は来て待って居るから、行って逢いな、気の毒だあナ」

*「四つ手かごの略。戸はまれに引戸ものあれど多くは垂れなり。」

新「冗談云っちゃアいけない、伯父さんからかっちゃアいけません」

勘「からかいも何もしねえ、師匠、今新吉が来ましたよ」

豐「おやマア大層遅く何処どこへ行っておいでだった」

勘「新吉、此方こっちへ来なよ」

新「ヘエ、逢っちゃアいけねえ」

と怖々こわ〲奥の障子を明けると、寝衣ねまきの上へ広袖を羽織ったなり、片手を突いて坐って居て、

豐「新吉さんお出いでなすったの」

新「エヽド何どうして来た」

豐「何うして来たってね、私が眼を覚さまして見るとお前がいないから、是は新吉さんは愛想が尽きて、私が種々いろ〱な事を云って困らせるから、お前が逃げたのだと思って気が付くと、ホッと夢の覚めたようであゝ悪い事をして嘸さぞ新吉さんも困ったろう、厭いやだったろうと思って、それから伯父さんにね、打明けて話をして、私も今迄の心得違いは伯父さんに種々詫言わびことをしたが、お前とは年も違うし、お弟子は下さがり、世間の評判になってお座敷もなくなり、仮令たとえ二人で中よくして居ても食方くいかたに困るから、お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々沢山たんとは出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り、伯父さんの前でフッヽリ縁を切るつもりで私が来たんだよ、利かない身体で漸やっと来たのでございます、何卒どうぞ私が今まで了簡違いをした事は、お前腹も立つだろうが堪忍して、元の通りあかの他人とも、又姉弟きょうだいとも思って、末長くねえ、私も別に血縁たよりがないから、塩梅の悪い時はお前と、お前のお内儀かみさんが出来たら、夫婦で看病でもしておくれ、死水しにみずだけは取って貰いたいと思って」

勘「師匠、此の通り誠に子供同様で、私も誠に心配して居る、またお前さんに恩になった事は私が知って居る、おい新吉冗談じゃアねえ、お師匠さんに義理が悪いよ、本当にお前めえには困るナ」

新「なアニ師匠お前が種々な事を云いさえしなければいゝけれども…お前先刻さっき何処どこかの二階へ来やアしないかえ」

豐「何処へ」

新「鮨屋の二階へ」

豐「いゝえ」

新「なんだ、そうすると矢張やっぱりあれは気のせえかしらん」

勘「何をぐず〱云うのだ、お前めえ附いて早く送って行きな、ね、師匠そこはお前さんの病気が癒なおってからの話合だ、今其の塩梅の悪い中で別れると云ったって仕様がねえ、私も見舞に行きたいが、一人の身体で、つまらねえ店でも斯こうして張ってるから、店を明ける事も出来ねえから、病気の癒る間新吉を上げて置くから、ゆっくり養生して、全快の上で何どうとも話合をする事にね、師匠……ナニお前めえ送って行きねえ、師匠、お前さん四つ手でお出いでなすったが、彼あれじゃア乗りにくいと思って今*あんぽつをそう言ったから、あんぽつでお帰りなさいよ、エ、何なんだい」

*「町人の用うるかごの一種四つ手より上等にして戸は引戸」

駕籠屋「此方こっちから這入りますか駕籠屋でげすが」

勘「ア駕籠屋さんか、アノ裏へ廻って、二軒目だよ、其の材木が立掛けて有る処から漬物屋の裏へ這入って、右へ附いて井戸端を廻ってネ、少し…二間けんばかり真直まっすぐに這入ると、己おれの家うちの裏口へ出るから、エ、なに、知れるよ、あんぽつぐらいは這入るよ」

駕「ヘエ」

勘「じゃア師匠、私が送りたいが今云う通り明ける事が出来ないから、新吉が附いて帰るから、ね、師匠、新吉の届かねえ処は、年もいかねえから勘弁して、ね、私が附いてるからもう不実な事はさせません、今迄の事は私が詫わびるから……冗談じゃアねえ……新吉、お送り申しな、オイ今明あけるよ、裏口へ駕籠屋が来たから明けて遣やりな、おい御苦労、さア師匠、広袖を羽織っていゝかえ」

豐「ハイ伯父さんとんだ事をお耳に入れて誠に」

勘「宜いいからさア掴つかまって、いゝかえ、おい若衆わかいしゅお頼申すよ、病人だから静かに上げておくれ、いゝかえ緩ゆっくりと、此の引戸を立てるからね、いいかえ」

と云うので引戸を〆しめてしまうと、

新「じゃア伯父さん提灯を一つ貸して下さいな、弓張でもぶらでも何なんでも宜いいから、え、蝋燭ろうそくが無けりゃア三ツばかりつないで、え、箸を入れてはいけませんよ、焙あぶればようございます」

男「御免なさい」

トン〱。

勘「ヘエ、何方どなたでげす」

男「新吉さんは此方こちらですか、新吉さんの声の様ですね、え、新吉さんかえ」

勘「ヘエ何方でげすえ、ヘエ…ねえ新吉、誰かお前の名を云って逢いたいと云ってるから明けねえ」

新「おやお出でなさい」

男「おやお出でじゃアねえ、新吉さん困りますね、病人を置いて出て歩いては困りますね、本当に何様どんなに捜したか知れない、時にお気の毒様なこと、お前さんの留守に師匠はおめでたくなってしまったが、何どうも質すじの悪い腫物できものだねえ」

二十

新「何を詰らない事を、善六さん極きまりを云ってらア」

善「極りじゃアねえ」

新「そんな冗談云って、いやに気味が悪いなア」

善「冗談じゃアねえ、家内がお見舞に徃った処が、お師匠さんが寝てえると思って呼んで見ても答がねえので、驚いて知らせて来たから私も行ゆき彦六さんも皆みんな来て、何どう斯こうと云った処が何うしても仕ようがねえ、新吉さん、お前めえが肝腎の当人だから漸ようやく捜して来たんだが、あのくらいな大病人たいびょうにんを置いて出歩いちゃアいけませんぜ」

新「ウー、ナン、伯父さん〱」

勘「何なんだよお前めえ、御挨拶もしねえで、お茶でも上げな」

新「お茶どころじゃアねえ、師匠が死んだって長屋の善六さんが知らせに来てくれたんだ」

勘「何を馬鹿な事を云うのだ、師匠は来て居るじゃアねえか」

新「あのね、御冗談仰しゃっちゃアいけません、師匠は先刻さっきから此方こっちへ来て居て、是から私が送って帰ろうとする処、何なんの間違いでげしょう」

善「冗談を云っちゃアいけません」

彦「是は何なんだぜ、善六さんの前だが、師匠が新吉さんの跡を慕って来たかも知れないよ、南無阿弥陀仏〱」

新「そんな念仏などを云っちゃアいけないやねえ」

善「じゃアね新吉さん、彦六さんの云う通りお前めえの跡を慕って師匠が来たかも知れねえ」

新「伯父さん〱」

勘「うるさいな、ナニ稀代きたいだって、師匠は来てえるに違ちげえねえ、今連れて行くんじゃアねえか」

と云いながらも、なんだか訝おかしいと思うから裏へ廻って、

勘「若衆わかいしゅ少し待っておくんなさい」

新「長屋の彦六さんがからかうのだから」

勘「師匠〱」

新「伯父さん〱」

勘「えゝよく呼ぶな、何なんだえ」

新「若衆少し待っておくれ、師匠〱」

と云いながら駕籠の引戸を明けて見ると、今乗ったばかりの豊志賀の姿が見えないので、新吉はゾッと肩から水を掛けられる様な心持で、ブル〱慄ふるえながら引戸をバタリと立てゝ台所へ這上はいあがりました。

勘「何なんて真似をして居るのだ、ぐず〱して何なんだ」

新「伯父さん、駕籠の中に師匠は居ないよ」

勘「エヽ居ねえか本当か」

新「今明けて見たら居ねえ、南無阿弥陀仏〱」

勘「厭いやだな、本当に涙をこぼして師匠が己おれに頼んだが、お前めえが家うちを出なければ斯こんな事にはならねえ、お前めえが出て歩くから斯んな事に、オイ表に人が待って居るじゃアねいか己おれが出よう」

と云うので店へ出て参りまして、

勘「お長屋の衆、大きに御苦労様で、実は新吉は、私に拠よんどころない用事があって、此方こちらへ参って居る留守中に師匠が亡なりまして、皆さん方が態々わざ〱知らして下すって有難うございます、生憎あいにく死目しにめに逢いませんで、貴方がたも誠にお困こまりでございましょう、実に新吉も残惜のこりおしく思います、何いずれ只今私も新吉と同道で参りますから、ヘエ有難う、誠に御苦労様で」

長屋の者「左様で、じゃアお早くお出いでなすって」

勘「只今私が連れて参ります、誠に御苦労様、馬鹿」

新「其様そんなに叱っちゃアいけません、怖い中で叱られて堪たまるものか」

勘「己おれだって怖いや、若衆大きに御苦労だったが、待賃まちちんは上げるがもう宜しいから帰っておくんなさい」

駕籠屋「ヘエ、何方どなたかお乗りなすったが、駕籠は何処どこへ参ります」

勘「駕籠はもう宜しいからお帰りよ」

駕「でも何方かお女中が一人お召しなすったが」

勘「エヽナニ乗ったと見せてそれで乗らぬのだ、種々いろ〱訳があるから帰っておくれ」

駕「左様でげすか、ナ、オイ駕籠はもう宜いいと仰しゃるぜ」

駕「いゝったって今明けてお這入んなすった様だった、女中がネ、然そうでないのですか、何なんだか訝おかしいな、じゃア行ゆこうよ」

と駕籠を上げに掛ると、

駕「若もし〱、お女中が中に這入って居るに違いございません、駕籠が重うございますから」

新「エヽ、南無阿弥陀仏〱」

勘「オイ駕籠屋さん、戸を明けて見な」

駕「左様そうでげすか、オヤ〱〱成程居ない、気の故せえで重おもてえと思ったと見える、成程何方どなたも入らっしゃいません、左様さようなら」

勘「これ新吉、表を締めなよ手前てめえのお蔭で本当に此の年になって初めて斯こんな怖い目に遇あった、家うちは閉めて行ゆくから一緒に行いきな」

新「伯父さん〱」

勘「何なんだよ、いやに続けて呼ぶな、跡の始末を附けなければならねえ」

と云うので是から家うちの戸締りをして弓張を点つけて隣へ頼んで置いて大門町から出かけて行ゆきます。新吉は小さくなって慄ふるえながら仕方なしに提灯を持って行ゆく、

勘「さア新吉、然そう後あとへ退さがっては暗くって仕様がねえ、提灯持は先へ出なよ」

新「伯父さん〱」

勘「なぜ然う続けて呼ぶよ」

新「伯父さん、師匠は全く私を怨んで来たのに違いございませんね」

勘「怨んで出るとも、手前てめえ考えて見ろ、彼あれまでお前めえが世話になって、表向おもてむき亭主ではねえが、大事にしてくれたから、どんな無理な事があっても看病しなければならねえ、それをお前が置いて出りゃア、口惜くやしいと思って死んだから、其の念が来たのだ、死んで念の来る事は昔から幾らも聞いている」

新「伯父さん私は師匠が死んだとは思いません、先刻さっき逢ったら、矢張やっぱり平常ふだん着て居る小紋の寝衣ねまきを着て、涙をボロ〱翻こぼして、私が悪いのだから元の様に綺麗さっぱりとあかの他人になって交際つきあいます、又月々幾ら送りますから姉だと思ってくれと、師匠が膝へ手を突いて云ったぜ、ワア」

勘「ア、何なんだ〱、エヽ胆きもを潰した」

新「ナニ白犬が飛出しました」

勘「アヽ胆を潰した、其の声は何だ、本当に魂消たまげるね、胸が痛くなる」

と慄ふるえながら新吉は伯父と同道で七軒町へ帰りまして、是これから先まず早桶を誂あつらえ湯灌ゆかんをする事になって、蒲団を上げ様とすると、蒲団の間に揷はさんであったのは豊志賀の書置かきおきで、此の書置を見て新吉は身の毛もよだつ程驚きましたが、此の書置は事細かに書遺かきのこしました一通で是には何なんと書いてございますか、此の次に申し上げます。

二十一

ちと模様違いの怪談話を筆記致しまする事になりまして、怪談話には取わけ小相こあいさんがよかろうと云うのでございますが、傍聴筆記でも、怪談のお話は早く致しますと大きに不都合でもあり、又怪談はネンバリ〱と、静かにお話をすると、却かえって怖いものでございますが、話を早く致しますと、怖みを消すと云う事を仰しゃる方がございます。処が私わたくしは至って不弁で、ネト〱話を致す所から、怪談話がよかろうと云う社中のお思い付でございます。只今では大抵の事は神経病と云ってしまって少しも怪しい事はござりません。明あきらかな世の中でございますが、昔は幽霊が出るのは祟たゝりがあるからだ怨うらみの一念三世さんぜに伝わると申す因縁話を度々たび〲承まわりました事がございます。豊志賀は実に執念深い女で、前まえ申上げた通り皆川宗悦の惣領娘でございます。此処こゝに食客いそうろうに参っていて夫婦同様になって居た新吉と云うのは、深見新左衞門の二男、是も敵かたき同士の因縁で斯様かようなる事に相成ります。豊志賀は深く新吉を怨んで相果てましたから、其の書遺かきのこした一通を新吉が一人で開いて見ますると、病人のことで筆も思う様には廻りませんから、慄ふるえる手で漸々よう〱書きましたと見え、その文には『心得違いにも、弟か息子の様な年下の男と深い中になり、是まで親切を尽したが、其の男に実意が有ればの事、私が大病で看病人も無いものを振捨てゝ出る様なる不実意な新吉と知らずに、是まで亭主と思い真実を尽したのは、実に口惜しいから、仮令たとえ此の儘死ねばとて、この怨は新吉の身体に纒まつわって、此の後ご女房を持てば七人まではきっと取殺すから然そう思え』と云う書置で、新吉は是を見てゾッとする程驚きましたが、斯様かような書置を他人に見せる事も出来ません、さればと申して、懐へ入れて居ても何なんだか怖くって気味が悪いし、何どうする事も出来ませんから、湯灌の時に窃そっとごまかして棺桶の中へ入れて、小石川戸崎町とさきまち清松院せいしょういんと云う寺へ葬りました。伯父は、何なんでも法事供養をよく為しなければいかないから、墓参りに往いけよ〱と云うけれども、新吉は墓所はかしょへ行ゆくのは怖いから、成なるたけ昼間往ゆこうと思って、昼ばかり墓参りに往ゆきます。八月二十六日が丁度三七日みなのかで、其の日には都合が悪く墓参りが遅くなり、申刻なゝつ下さがりに墓参りをするものでないと其の頃申しましたが、其の日は空が少し曇って居るから、急ぎ足で参ったのは、只今の三時少し廻った時刻、寺の前でお花を買って、あの辺は井戸が深いから、漸ようやくの事で二つの手桶へ水を汲んで、両方の手に提さげ、お花を抱えて石坂を上あがって、豊志賀の墓場へ来ると、誰たれか先に一人拝んで居る者が在あるから誰たれかと思ってヒョイと見ると、羽生屋の娘お久、

久「おや〱新吉さん」

新「おや〱お久さん、誠に何どうも、何うしてお出でなすった、恟びっくりしました」

久「私はね、アノお師匠さんのお墓参りをして上げたいと心に掛けて、間まさえあれば七日〱には屹度きっと参ります」

新「そうですか、それは御親切に有難う」

久「お師匠さんは可哀相な事でして、其の後のちお目に掛りませんが、貴方は嘸さぞお力落しでございましょう」

新「ヘエ、もう何どうも落胆がっかりしました、是は大層結構なお花を有難う、何うも弱りましたよお久さん」

久「アノお前さん此の間蓮見鮨の二階で、私を置放おきっぱなしにして帰ってお仕まいなすって」

新「えゝナニ急に用が出来ましてそれから私が慌あわてゝ帰ったので、つい御挨拶もしないで」

久「何なんだか私は恟りしましたよ、私をポンと突飛ばして二階からドン〱駈下かけおりて、私はまア何どうなすったかと思って居りましたら、それ切ぎりでお帰りも無し、私は本当に鮨屋へ間まが悪うございますから、急に御用が出来て帰ったと云いましたが、それから一人ですから、お鮨が出来て来たのを折おりへ入れて提げて帰りました」

新「それは誠にお気の毒様で、然そう見えたので……気の故せいで見えたのだね……眼に付いて居て眼の前に見えたのだナ彼あれは……斯こんな綺麗な顔を」

久「何を」

新「エヽ何サ宜ようございます」

久「新吉さんいゝ処でお目に掛りました、私は疾とうからお前さんにお話をしようと思って居りましたが、私の処のお母っかさんは継母まゝはゝでございますから、お前さんと私と、何なんでも訳があるように云って責折檻せめせっかんをします、何でも屹度きっと新吉さんと訳が有るだろう、何なんにも訳がなくって、お師匠さんが彼様あんなに悋気りんきらしい事を云って死ぬ気遣いは無い、屹度訳があるのだろうから云えと云うから、いゝえお母さんそんな事があっては済みませんから、決して然そう云う事はありませんと云うのも聴かずに、此の頃はぶち打擲ちょうちゃくするので、私は誠に辛いから、いっそ家を駈出して、淵川ふちかわへでも身を沈めて、死のうと思う事が度々たび〲ございますが、それも余あんまり無分別だから、下総の伯父さんの処へ逃げて行きたいが、まさかに女一人で行かれもしませんからね」

二十二

新「それじゃア下総へ一緒に行きましょうか」

と又怖いのも忘れて行ゆく気になると、

久「新吉さん本当に私を連れて行って下さるなら、私は何様どのようにも致します、屹度、お前さん末すえ始終然そう云う心なら、彼方あっちへ行けば、伯父さんに頼んで、お前さん一人位何どうにでも致しますから、何卒どうぞ連れて行って」

と若い同士とは云いながら、そんなら逃げよう、と直すぐに墓場から駈落かけおちをして、其の晩は遅いから松戸まつどへ泊り、翌日宿屋を立って、あれから古賀崎こがざきの堤どてへかゝり、流山から花輪村はなわむら鰭ヶ崎ひれがさきへ出て、鰭ヶ崎の渡わたしを越えて水街道みずかいどうへかゝり、少し遅くはなりましたが、もう直じきに羽生村だと云う事だから、行ゆくことにしよう、併しかし彼方あちらで直すぐに御飯をたべるも極りが悪いから、此方こゝで夜食をして行いこうと云うので、麹屋こうじやと云う家で夜食をして道を聞くと、これ〱で渡しを渡れば羽生村だ、土手に付いて行ゆくと近いと云うので親切に教えてくれたから、お久の手を引いて此処こゝを出ましたのが八月二十七日の晩で、鼻を撮つままれるのも知れませんと云う真の闇、殊ことに風が吹いて、顔へポツリと雨がかゝります。あの辺は筑波山つくばやまから雲が出ますので、是からダラ〱と河原へ下おりまして、渡しを渡って横曾根村よこぞねむらへ着き、土手伝いに廻って行ゆくと羽生村へ出ますが、其所そこは只今以もって累ヶ淵と申します。何どう云う訳かと彼方あちらで聞きましたら、累が殺された所で、與右衞門よえもんが鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶そだを沢山どっさり脊負しょわして置いて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込めりこむようにして、上から與右衞門が乗掛って、砂で息を窒とめて殺したと云うが本説だと申す事、また祐天和尚ゆうてんおしょうが其の頃脩行中しゅぎょうちゅうの事でございますから、頼まれて、累が淵へ莚むしろを敷いて鉦かねを叩いて念仏供養を致した、其の功力くりきに依よって累が成仏得脱とくだつしたと云う、累が死んで後のち絶えず絹川の辺ほとりには鉦の音が聞えたと云う事でございますが、これは祐天和尚がカン〱〱〱叩いて居たのでございましょう。それから土手伝いで参ると、左りへ下りるダラ〱下り口があって、此処こゝに用水があり、其の用水辺べりにボサッカと云うものがあります。是は何どう云う訳か、田舎ではボサッカと云って、樹きか草か分りません物が生えて何なんだかボサッカ〱致して居る。其所そこは入合いりあいになって居る。丁度土手伝いにダラ〱下おりに掛ると、雨はポツリ〱降って来て、少したつとハラ〱〱と烈しく降出しそうな気色けしきでございます。すると遠くでゴロ〱と云う雷鳴で、ピカリ〱と時々電光いなびかりが致します。

久「新吉さん〱」

新「えゝ」

久「怖いじゃアないか、雷様が鳴ってね」

新「ナニ先刻さっき聞いたには、土手を廻って下りさえすれば直すぐに羽生村だと云うから、早く行って伯父さんに能よく話をしてね」

久「行きさえすれば大丈夫、伯父さんに話をするから宜いいが、暗くって怖くって些ちっとも歩けやしません」

新「サ此方こっちだよ」

久「はい」

と下りようとすると、土手の上からツル〱と滑って、お久が膝を突くと、

久「ア痛タヽヽ」

新「何どうした」

久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」

新「どう〲、おゝ〱大層血が出る、何どうしたんだ、何なんの上へ転んだ、石かえ」

と手を遣やると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣まぐさを苅りに出て、帰り掛がけに草の中へ標しるしに鎌を突込つっこんで置いて帰り、翌日来て、其処そこから其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥おびたゞしく血が流れる。

二十三

新「こりゃア、困ったものですね、今お待ち手拭で縛るから」

久「何どうも痛くって耐たまらないこと」

新「痛いたって真暗まっくらで些ちっとも分らない、まアお待ち、此の手拭で縛って上げるから又一つ斯こう縛るから」

久「あゝ大きに痛みも去った様でございますよ」

新「我慢してお出でよ、私が負おぶい度たいが、包を脊負しょってるから負おぶう事が出来ないが、私の肩へ確しっかり攫つかまってお出でな」

と、びっこ引きながら、

久「あい有難う、新吉さん、私はまア本当に願いが届いて、お前さんと二人で斯こう遣やって斯んな田舎へ逃げて来ましたが、是から世帯しょたいを持って夫婦中能なかよく暮せれば、是程嬉しい事はないけれども、お前さんは男振おとこぶりは好よし、浮気者と云う事も知って居るから、ひょっとして外ほかの女と浮気をして、お前さんが私に愛想が尽きて見捨てられたら其の時は何どうしようと思うと、今から苦労でなりませんわ」

新「何なんだね、見捨てるの見捨てないのと、昨夜ゆうべ初めて松戸へ泊ったばかりで、見捨てるも何も無いじゃアないか、訝おかしく疑るね」

久「いゝえ貴方は見捨てるよ、見捨てるような人だもの」

新「何なんでそんな、お前の伯父さんを便たよって厄介になろうと云うのだから、決して見捨てる気遣きづかいはないわね、見捨てれば此方こっちが困るからね」

久「旨く云って、見捨てるよ」

新「何故そう思うんだね」

久「何故だって、新吉さん私は斯こんな顔になったよ」

新「えゝ」

と新吉が見ると、お久の綺麗な顔の、眼の下にポツリと一つの腫物しゅもつが出来たかと思うと、忽たちまち腫れ上ってまるで死んだ豊志賀の通りの顔になり、膝に手を突いて居る所が、鼻を撮つままれるも知れない真の闇に、顔ばかりあり〱と見えた時は、新吉は怖い三眛ざんまい、一生懸命無茶苦茶に鎌で打ぶちましたが、はずみとは云いながら、逃げに掛りましたお久の咽喉のどぶえへ掛りましたから、

久「あっ」

と前へのめる途端に、研澄とぎすました鎌で咽喉を斬られたことでございますから、お久は前へのめって、草を掴んで七転八倒の苦しみ、

久「うゝン恨めしい」

と云う一声ひとこえで息は絶えました。新吉は鎌を持ったなり

新「南無阿弥陀仏〱〱」

と一生懸命に口の中うちで念仏を唱えまする途端に、ドウ〱と云う車軸を流すような大雨、ガラ〱〱〱〱と云う雷鳴頻しきりに轟とゞろき渡るから、知らぬ土地で人を殺し、殊ことに大雨に雷鳴かみなりゆえ、新吉は怖い一三眛いっさんまい、早く逃げようと包を脊負しょって、ひょっと人に見られてはならぬと慄ふるえる足を踏締めながらあせります。すると雨で粘土ねばつちが滑るから、ズルリ滑って落ちると、ボサッカの脇の処へズデンドウと臀餅しりもちを搗きまする、とボサッカの中から頬冠ほゝかぶりをした奴がニョコリと立った。此の時は新吉が驚きましたの驚きませんのではない。

新「ア」

と息が止るようで、後あとへ退さがって向むこうを見透みすかすと、向の奴も怖かったと見えて此方こっちを覗のぞく、互たがいに見合いましたが、何様なにさま真の闇で、互に睨にらみあった処が何方どっちも顔を見る事が出来ません。新吉は電光いなびかりの時に顔を見られないようにすると、其の野郎も雷らいが嫌いだと見えて能よく見る事も致しません。電光の後で闇くらくなると、

男「この泥坊」

と云うので新吉の襟を掴みましたが、是は土手下の甚藏じんぞうと云う悪漢わるもの、只今小博奕こばくちをして居る処へ突然いきなり手が這入り、其処そこを潜くゞり抜けたが、烈しく追手おってが掛りますから、用水の中を潜り抜けてボサッカの中へ小さくなって居る処へ、新吉が落ちたから、驚いてニョコリと此の野郎が立ったから、新吉は又怪物ばけものが出たかと思って驚きましたが、新吉は襟がみを取られた時は、もう天命極きわまったとは思ったが、死物狂いで無茶苦茶に掻毟かきむしるから、此の土手の甚藏が手を放すと、新吉は逃げに掛る途端、腹這に倒れました。すると甚藏は是を追駈おっかけようとして新吉に躓つまづき向むこうの方へコロ〱と転がって、甚藏はボサッカの用水の中へ転がり落ちたから、此の間に逃げようとする。又後うしろから、

甚「此の野郎」

と足を取ってすくわれたから仰向に倒れる処へ、甚藏が乗掛って掴まえようとする処を、新吉が足を挙げて股を蹴けったのが睾丸きんたまに当ったから、

甚「ア痛タ」

と倒れる処を新吉が掴み付こうと思ったが、イヤ〱荷物を脇へ落したからと荷物を探す途端に、甚藏の面つらへ毟むしり付いたから、

甚「此の野郎」

と組付いた処を其の手を取って逆に捻ねじると、ズル〱ズデンと滑って転げると云う騒ぎで、二人とも泥ぼっけになると、三町ばかり先へ落雷でガラ〱〱〱〱ビューと火の棒の様なる物が下さがると、丁度浄禅寺じょうぜんじヶ淵辺りへピシーリと落雷、其の響ひゞきに驚いて、土手の甚藏は、体なりは大兵だいひょうで度胸も好いい男だが、虫が嫌うと見え、落雷に驚いてボサッカの中へ倒れました。すると新吉は雷よりも甚藏が怖いから、此の間まに包を抱えて土手へ這上はいあがり、無茶苦茶に何処どこを何どう逃げたか覚え無しに、畑の中や堤どてを越して無法に逃げて行ゆく、と一軒茅葺かやぶきの家の中で焚物たきものをすると見え、戸外おもてへ火光あかりが映さすから、何卒どうぞ助けて呉れと叩き起しましたが、其の家うちは土手の甚藏の家うち、間抜な奴で、新吉再び土手の甚藏に取って押えられると云う。是から追々おい〱怪談になりますが、一寸一息つきまして。

二十四

一席引続きましてお聞きゝに入れますは、累が淵のお話でございます。新吉は土手の甚藏に引留められ、既に危あやうい処へ、浄禅寺ヶ淵へ落雷した音に驚き、甚藏が手を放したのを幸い、其の紛れに逃延びましたが、何分なにぶんにも初めて参った田舎道、勝手を心得ませんから、たゞ畑の中でも田の中でも、無茶苦茶に泥だらけになって逃げ出しまして、土手伝いでなだれを下おり、鼻を撮つままれるも知れません二十七日の晩でございますが、透すかして見ると一軒茅葺屋根の棟むねが見えましたから、是は好いい塩梅だ、此処こゝに人家があったと云うので、駈下りて覗くと、チラ〱焚火たきびの明あかりが見えます。

新「ヘエ、御免なさい〱、少し御免なさい、お願いでございます」

男「誰だか」

新「ヘイ、私わたくしは江戸の者でございますが、御当地へ参りまして、此の大雨に雷鳴かみなりで、誠に道も分りませんで難儀を致しますが、少しの間お置きなすって下さる訳には参りますまいか、雨の晴れます間でげすがナ」

男「ハア大雨に雷鳴で困るてえ、それだら明けて這入りなせい、明あける戸だに」

新「ヘエ左様でげすか、御免なさい、慌あわてゝ居りますから戸が隙すいて居りますのも夢中でね、ヘイ何どうも初めて参りましたが、泊とまりで聞き〱参りました者で、勝手を知りませんから難儀致しまして、もう川へ落ちたり田の中へ落ちましたりして、漸々よう〱の事で此方こちらまで参りましたが、何うか一晩お泊めなすって下されますれば有難い事で」

男「泊めるたって泊めねえたって己おれの家うちじゃアねえ、己も通り掛って雷鳴が嫌いで、大雨は降るし、仕様が無なえが、此処こゝナ家いえへ駈込んで、主あるじは留守だが雨止あまやみをする間、火の気が無なえから些ちっとばかり麁朶そだを突燻つっくべて燃もやして居るだが、己が家うちでなえから泊める訳にはいきませんが、今主あるじが帰けえるかも知んねえ、困るなれば、此処こゝへ来て、囲炉裡いろりの傍はたで濡れた着物を炙あぶって、煙草でも呑んで緩ゆっくり休みなさえ」

新「ヘエ貴方の家うちでないので」

男「私わしが家では無なえが、同村どうそんの者だが雨で仕様がねえから来ただ」

新「左様で、此方こちらの御主人様は御用でも有ってお出掛になったので」

男「なアに主あるじは十日も廿日はつかも帰らぬ事もある、まア上りなさえ」

新「有難うございますが泥だらけになりまして」

男「泥だらけだって己も泥足で駈込んだ、此方こっちへ上りなさえ、江戸の者が在郷へ来ては泊る処に困る、宿を取るには水街道へ行がねえば無ねえからよ」

新「はい水街道の方から参ったので、有難うございます、実に驚きました、酷ひどい雨で、此様こんなに降ろうとは思いませんでした、実に雨は一番困りますな」

男「今雨が降らんでは作さくの為によく無なえから、私わしの方じゃア降ふるも些ちっとはよいちゃア」

新「成程そうでしょうねえ、雷鳴かみなりには実に驚きまして、此地こっちは筑波つくば近ぢかいので雷鳴は酷ひどうございますね」

男「雷も鳴る時に鳴らぬと作の為によく無なえから鳴るもえゝだよ」

新「ヘエー、然そうでげすか、此方こちらの旦那様は何時頃いつごろ帰りましょうか」

男「何時いつ帰けえるか知れぬが、まア、何時帰ると私等わしらに断って出た訳で無ねえから受合えねえが、明けると大概七なゝ八日ようかぐれえ帰らぬ男で」

新「ヘエ、困りますな、何どう云う御商売で」

男「何うだって遊人あそびにんだ、彼方あっち此方こっち二晩三晩と何処どこから何処へ行くか知れねえ男で、やくざ野郎サ」

新「左様で、道楽なお方でございますので」

男「道楽だって村じゃア蝮まむしと云う男だけれども、又用に立つ男さ」

と悪口わるくちをきいて居る処へ、ガラリと戸を明けて帰って来たが、ずぶ濡ぬれで、

甚「あゝ酷ひどかった」

男「帰けえったか」

甚「ムヽ今帰けえった、誰だ清せいさんか、今帰ったが、松まつが賀かで詰らねえ小博奕こばくちへ手を出して打って居ると、突然だしぬけに手が這入へえって、一生懸命に逃げたが、仕様がねえから用水の中へ這入って、ボサッカの中へ隠れて居た」

清「己おれは今通り掛がゝって雨に遇あって逃げる処がねえのに、雷様らいさまが鳴って来たから魂消たまげてお前めえらが家うちへ駈込んで、今囲炉裡へ麁朶ア一燻ひとくべしたゞ」

甚「いゝや何どうせ開あけッ放ぱなしの家うちだアから、是は何処どこの者だ、何なんだいお前めえは」

清「此家ここな主人あるじで、挨拶さっせえ、是は江戸の者だが雨が降って雷鳴かみなりに驚き泊めてくれと云うが、己おれが家うちでねえからと話して居る処だ、是が主人だ」

新「左様で、初めまして、私わたくしは江戸の者で、小商こあきないを致します新吉と申す不調法者、此地こちらへ参りましたが、雷鳴かみなりが嫌いで此方様こちらさまへ駈込んだ処が、お留守様でございますから泊とめる訳にはいかぬと仰しゃって、お話をして居る処で、よくお帰りで、何卒どうぞ今晩一晩お泊め下されば有難い事で、追々夜が更けますから、何卒一晩何様どんな処でも寝かして下されば宜しいので」

甚「好いい若わけえ者もんだ、いゝや、まア泊って行きねえ、何どうせ着て寝る物はねえ、留守勝るすがちだから食物くいものもねえ、鍋は脇へ預けてしまったしするから、コロリと寝て明日あした行きねえ、己と一緒に寝ねえ」

新「ヘエ、有難う存じます」

清「己おらア帰けえるよ」

甚「まア〱宜いいやな」

清「己ア帰るべい、何か、手が這入へえったか」

甚「困ったからボサッカの中へ隠れて居たので、お前めえ帰けえるならうっかり往いっちゃアいけねえ、今夜ボサッカの脇に人殺しが有った」

清「何処どこに」

甚「己がボサッカの中に隠れて居ると、暗くって分らぬが、きゃアと云う声がノウ女の殺される声だねえ、まア本当に殺される声は今迄知らねえが、劇場しばいで女が切殺される時、きゃアとかあれイとか云うが、そんな事を云ったってお前めえには分らねえが、凄すごいものだ、己も怖かった」

清「怖おっかねえ、女をまア、何なんてエ、人を殺すったって村方むらかたの土手じゃアねえか、ウーン怖かなかんべえ、ウーン何どうした」

甚「何うしたって凄いやア、うっかり通って怪我けがでもするといけねえから、其の野郎は刀や何かで殺す程の者でもねえ奴で、鎌で殺しゃアがったのよ、女の死骸は川へ投ほうり込んだ様子、忌々いめえましい畜生ちきしょうだ、此の村へも盗人ぬすっとに這入へえりやアがるだろうと思うから、其の野郎の襟首えりくびを取って引摺ひきずり倒した、すると雷が落ちて、己はどんな事にも驚きゃアしねえが雷には驚く、きゃアと云って田の畔くろへ転げると、其の機はずみに逃げられたが、忌々しい事をした」

二十五

清「怖おっかねえナ、然そうか怖かなくて通れねえ」

甚「気を付けて行きねえ」

清「まだ居るかなア」

甚「もう居やアしめえ、大丈夫でえじょうぶだ、美人いゝおんななら殺すだろうが、お前めえのような爺さんを殺す気遣いはねえ」

清「じゃア己おれ帰けえる、エヽ、じゃア又些ちっとべえ畑の物が出来たらくれべえ」

甚「何か持って来て呉れても煮て食う間まがねえから、左様なら、ピッタリ締めて行ってくれ、若者わけえのもっと此方こっちへ来きねえ」

新「ヘエ」

甚「お前めえ江戸から来るにゃア水街道から来たか、船でか」

新「ヘエ渡わたしを越して、弘教寺くぎょうじと云うお寺の脇から土手へ掛って参りました」

甚「此方こっちへ来る土手で能よく人殺しに出会でっくわさなかったな」

新「私わたくしは運よく出会しませんでした」

甚「まア斯こう、見ねえ、是はノ、其の女を殺した奴が投ほうり出した鎌を拾って来たが、見ねえ」

と鎌の刄はに巻付けてあった手拭をぐる〱と取って、

甚「此の鎌で殺しゃアがった、酷ひどい雨で段々血のりは無くなったが、見ねえ、血ちが滅多に落おちねえ物とみえて染込しみこんで居らア、磨澄とぎすました鎌で殺しゃアがった、是で遣やりゃアがった」

新「ヘエー誠に何どうも怖おっかない事でげすナ」

甚「ナニ」

新「ヘエ怖こわい事ですねえ」

甚「怖いたって、此の鎌で是れで遣りゃアがった」

新「ヘエ」

と鎌と甚藏を見ると、先刻さっき襟首を取って引摺り倒した奴は此奴こいつだな、と思うと、身体が慄ふるえて顔色がんしょくが違うから、甚藏は物をも言わず新吉の顔を見詰めて居りましたが、鎌をだしぬけに前へ投ほうり付けたから、新吉は恟びっくりした。

甚「おい〱余あんまり薄気味うすっきみがよくねえ、今夜は泊って行きねえ」

新「ヘイ大きに雨が小降こぶりになりました様子で、是で私わたくしはお暇いとまを致そうと存じます」

甚「是から行ったって泊める処とこもねえ小村こむらだから、水街道へ行かなけりゃア泊る旅籠屋はたごやはねえ、まア宜いいやナ、江戸子えどっこなれば懐かしいや、己も本郷菊坂生れで、無懶やくざでぐずッかして居るが、小博奕が出来るから此処こゝに居るのだが、お前めえも子柄こがらはよし、今の若気わかぎでこんな片田舎へ来て、儲かる処どころか苦労するな、些ちっとは訳があって来たろうが、お前が此処で小商こあきないでも仕ようと云うなら己おらが家うちて居に貰いてえ「家て居に貰いてえ」はママ、江戸子てエ者は、田舎へ来て江戸子に遇あうと、親類にでも逢った心持がして懐かしいから、江戸と云うと、肩書ばかりで、身寄でも親類でもねえが其処そこア情合じょうあいだ、己は遊んで歩くから、家はまるで留守じゃアあるし、お前此処に居て留守居をして荒物や駄菓子でも并ならべて居りゃア、此処は花売や野菜物せんざいものを売る者が来て休む処で、何なんでもポカ〱捌はけるが、おいお前留守居をしながら商売あきねえして居てくれゝば己も安心して家をお前に預けて明あけるが、何も盗まれる物はねえが、一軒の主あるじだから、おいお前此処でそうして留守居をしてくれゝば、己が帰けえって来ても火は有るし、茶は沸いて居るし、帰って来ても心持がいゝ、己ア土手の甚藏と云う者だが、村の者に憎まれて居るのよ、それがノ口をきくのが江戸子同士でなけりゃア何どうしても話が合わねえ、己は兄弟も身寄もねえし、江戸を喰詰めて帰れる訳でもねえから、己と兄弟分になってくんねえ」

新「有難う存じますな、私わたくしも身寄兄弟も無い者で、少し訳があって参りました者でございますが、少し頼る処が有って参りました者で、此方こちらへ参ってから、だしぬけに亡なくなりましたので」

甚「死んだのかえ」

新「ヘエ其処そこが、ヘエ何なんで、変になりましたので、ヘエ、何処どこへも参る処は無いのでございますから、お宅を貸して下すって商いでもさして下されば有難い事で、私わたくしは新吉と申す者で、何分なにぶん親分御贔屓ごひいきにお引立を願います」

甚「話は早いがいゝが、其処そこは江戸子えどこだからのう、兄弟分の固めを仕なければならねえが、おいお前めえ田舎は堅えから、己の弟分だと云えば、何様どんな間違まちげえが有ったってもお前他人にけじめを食う気遣きづけえねえ、己の事を云やア他人ひとが嫌がって居るくれえだからナ、其方そっちの強身つよみよ、さア兄弟分きょうでいぶんの固めをして、お互たげえにのう」

新「ヘイ有難うございます、何分どうか、其の替り身体で働きます事は厭いといませんから、どんな事でも仰しゃり付けて下さればお役には立ちませんでも骨を折ります」

甚「お前めえ幾才いくつだ」

新「ヘエ二十二でございます」

甚「色の白しれえ好男いゝおとこだね、女が惚れるたちだね、酒が無ねえから兄弟分きょうでえぶんの固めには、先刻さっき一燻ひとくべしたばかりだから、微温ぬるまになって居るが、此の番茶を替りに、己が先へ飲むから是を半分飲みな」

新「ヘエー有難うございます、恰ちょうど咽喉のども乾いて居りますから、エヽ有難うございます、誠に私わたくしも力を得ました」

甚「おい兄弟分きょうでえぶんだよ、いゝかえ」

新「ヘエ」

甚「兄弟分に成ったから兄に物を隠しちゃアいけねえぜ」

新「ヘエ〱」

甚「お互たげえに悪い事も善いい事も打明けて話し合うのが兄弟分だ、いゝか」

新「ヘエ〱」

甚「今夜土手で女を殺したのはお前めえだのう」

新「イヽエ」

甚「とぼけやアがるなエ此畜生こんちきしょう、云いねえ、云えよ」

新「な、何を被仰おっしゃるので」

甚「とぼけやアがって此畜生め、先刻さっき鎌を出したら手前てめえの面付つらつきは変ったぜ、殺したら殺したと云えよ」

新「何どうもトヽ飛んでもない事を仰しゃる、私わたくしは何うもそんな、外ほかの事と違い人を殺すなぞと、苟かりにも私は、どうも此方様こちらさまには居おられません、ヘエ」

甚「居られなければ出て行け、さア居られなければ出て行きや、無理に置こうとは云わねえ、兄弟分きょうだいぶんになれば善いい悪いを明あかしあうのが兄弟分だ、兄分あにぶんの己の口から縛らせる気遣きづけえねえ、殺したから殺したと云えと云うに」

新「何うもそれは困りますね、何なにもそんな事を、何うも是は、何うも外の事と違いますからねエ、何うもヘエ、人を殺すなぞと、そんな私わたくしども、ヘエ何うも」

甚「此畜生分らねえ才槌さいづちだな、間抜め、殺したに相違ねえ、そんな奴を置くと村の難儀になるから、手前てめえを追出す代りに、己の口から訴人して、踏縛ふんじばって代官所へでも役所へでも引くから然そう思え」

二十六

新「何うも私わたくしはもうお暇いとま致します」

甚「行きねえ、己が踏縛ふんじばるからいゝか」

新「そんな、何うも、無理を仰しゃって、私わたくしが何なんで、何うも」

甚「分らねえ畜生だナ、手前てめえ殺したと打明けて云えよ、手前の悪事を、己は兄分あにぶんだから云う気遣きづけえはねえ、お互たげえに、悪事を云ってくれるなと隠し合うのが兄弟分きょうだいぶんのよしみだから、是っぱかりも云わねえから云えよ、云わなければ代官所へ引張ひっぱって行くぞ、さア云え」

新「ヘエ、何うも、ち…些ちっとばかり、こ…殺しました」

甚「些とばかり殺す奴があるものかえ、女を殺して手前てめえ金を幾ら取った」

新「幾らにも何も取りは致しません」

甚「分らねえ事を云うな、金を取らねえで何なんで殺した、金があるから殺して取ったろう、懐ふところに有ったろう」

新「金も何も無いので」

甚「有ると思ったのが無ねえのか」

新「ナニ然そうじゃアございません、あれは私わたくしの女房でございます」

甚「分らねえ事を云う、ナニ此畜生こんちきしょう、女房かゝあを何なんで殺した、外ほかに浮気な事でもして邪魔になるから殺したのか」

新「ナニ然そうじゃア無いので」

甚「何どう云う訳だ」

新「困りますナ、じゃア私わたくしが打明けてお話致しますが、貴方決して口外して下さるな」

甚「なに、口外しねえから云えよ」

新「本当でげすか」

甚「為しないよ」

新「じゃア申しますが実は私わたくしはその、殺す気も何もなく彼処あすこへ参りますと、あれがその、お化ばけでな」

甚「何がお化だ」

新「私わたくしの身体へ附纒つきまとうので」

甚「薄気味の悪い事を云うな、何が附纒うのだ」

新「詳しい事を申しますが、私わたくしは根津七軒町の富本豊志賀と申す師匠の処へ食客いそうろうに居りますと、豊志賀が年は三十を越した女でげすが、堅い師匠で、評判もよかったが、私が食客になりまして、豊志賀が私の様な者に一寸ちょっと岡惚おかぼれをしたのでな」

甚「いやな畜生だ惚気のろけを聞くんじゃアねえ、女を殺した訳を云えよ」

新「それから私わたくしも心得違いをして、表向おもてむきは師匠と食客ですが、内所ないしょは夫婦同様で只ぶら〱と一緒に居りました、そうすると此処こゝへ稽古に参ります根津の総門内の羽生屋と申す小間物屋の娘がその、私に何なんだか惚れた様に師匠に見えますので」

甚「うん、それから」

新「それを師匠が嫉妬やきもちをやきまして、何も怪しい事も無いのにワク〱して、眼の縁ふちへポツリと腫物できものが出来まして、それが斯こう膨はれまして、こんな顔になり其の顔で私の胸倉を取って悋気りんきをしますから居いられませんので、私が豊志賀の家うちを駈出した跡で師匠が狂い死じにに死にましたので、死ぬ時の書置かきおきに、新吉と夫婦になる女は七人まで取殺すと云う書置がありましたので」

甚「ふうん執念深しゅうねんぶけえ女だな、成程ふうん」

新「それで、師匠が亡なくなりましたから、お久と云う土手で殺した娘が、連れて逃げてくれと云い、伯父が羽生村に居るから伯父を尋ねて世帯しょたいを持とうと云うので、それなら田舎へ行って、倶ともに夫婦になろうと云う約束で出て参ったので」

甚「出て来てそれから」

新「先刻さっき彼処あすこへ掛ると雨は降出します、土手を下りるにも、鼻を撮つままれるも知れません真の闇で、すると、お久の眼の下へポツリと腫物できものみたような物が出来たかと思うと、見て居るうちに急に腫れ上りましてねえ、ヘエ、貴方死んだ師匠の通りの顔になりまして、膝に手を付きまして私わたくしの顔をじいッと見詰めて居ました時は私は慄ぞっと致しましたので、ヘエ怖い一生懸命に私が斯こう鎌で殺す気も何なんにもなく殺してしまって見ると、其様そんな顔でも何なんでもないので、私がしょっちゅう師匠の事ばかり夢に見るくらいでございますから、顔が眼に付いて居るので、殺す気もなくお久と云う娘を殺しましたが、綺麗な顔の娘が然そう云うように見えたので、見えたから師匠が化けたと思って、鎌でやったので、ヘエ、やっぱり死んだ豊志賀が祟たゝって居りますので、七人まで取殺すと云うのだから私の手をもって殺さしたと思うと、実に身の毛がよだちまして、怖かったの何なんのと、其の時お前さんが来て泥坊、と襟首を掴んだから一生懸命に身を振払って逃げ、まア宜いいと思うと、一軒家いっけんやが有ったから来たら、やっぱり貴方の家うちへ来たから、泡をくったのでねえ」

甚「ふうんそれじゃア其の師匠は手前てめえに惚れて、狂死くるいじにに死んで、外ほかの女を女房にすれば取殺すと云う書置の通り祟って居るのだな」

新「祟って居るったって私わたくしの身体は幽霊が離れないのでヘエ」

甚「気味きびの悪い奴が飛込んで来たな、薄気味うすきびの悪い、鎌を手前てめえが持って居るから悪わりいのだ」

新「鎌も其処そこに落ちて有ったので、其処へお久が転んだので、膝の処へ少し疵きずが付き、介抱して居るうち然そう見えたので、それで無茶苦茶にやったので、拾った鎌です」

甚「そうか、此の鎌は村の者の鎌だ、そんならそれで宜いいや、宜いが、おい幾ら金を取ったよう」

新「金は取りは致しません」

甚「女を連れて逃げる時、お前めえの云うにア小間物屋の娘だお嬢さんだと云うのだ、連れて逃げるにゃア、路銀ろぎんがなければいかねえから幾らか持出せと智慧を付けて盗ましたろう」

新「金も何も、私わたくしは卵塔場らんとうばから逃げたので」

甚「気味きびの悪い事ばかり云やアがって、何なんで」

新「私わたくしは師匠の墓詣はかまいりに参りますと、お久も墓詣りに参って居りまして、墓場でおやお久さんおや新吉さんかと云う訳で」

甚「そんな事は何どうでもいゝやア」

新「それから逃げて私わたくしは一分ぶ三朱しゅと二百五十六文、女は三朱と四十八文ばかり有ったので、其の外ほかにはお花と線香を持って居るばかり、それから松戸で一晩泊りましたから、些ちっとばかり残って居ります」

甚「一文なしか」

新「ヘエー」

二十七

甚「詰らねえ奴が飛込みやアがったな、仕方がねえ、じゃアまア居ろ」

新「ヘエ何どうぞ置いておくんなすって、其の事は何うか仰しゃってはいけませんから」

甚「厄介な奴だ、畜生ちきしょうめ、銭ぜにが無くて幽霊を脊負しょって来やアがって仕様がねえ、其処そこへ寝ろ」

と仕方が無いから其の夜よは寝ましたが、翌朝よくあさから土鍋で飯は焚たきまして、お菜かずは外そとから買って来まして喰いますような事で、此処こゝに居おります。甚藏はぶら〱遊び歩きます。すると、此処から村までは彼是かれこれ四五丁程もある土手下で、花や野菜物せんざいものを担かついで来たり、肥桶こいおけなぞをおろして百姓衆の休所やすみどこで、

農夫「太左衞門たざえもん何処どこへ行くだ」

太「今帰りよ」

農「そうか」

太「此間こねえだ勘右衞門かんえもんの所とけへ頼んで置いた、些ちっとベエ午房種ごぼうだねを貰うベエと思ってノウ」

農「然そうか、何なんとハア此の村でも段々人気にんきが悪くなって、人の心も変ったが、徳野郎あれはあのくれえ太ふてえ奴はねえノ」

太「あの野郎何なんでも口の先で他人ひとを瞞だまして銭を借かりる事は上手だが、大でけえ声では云えねえが、此処こゝな甚藏は蝮野郎まむしやろうでよくねえ怖おっかねえ野郎でのう」

太「今日は大分だいぶ婆ばア様が通るが何処どこへ行くだ」

農夫「三藏どんの処とこで法事があるで、此間こねえだ此処こゝに女が殺されて川へ投ほうり込まれて有って、引揚げて見たら、守まもりの中に名前書なめえがきが這入へえって居たので、段々調べたら三藏どんが家うちの姪めいに当る女子おんなこで、母様かゝさまが継母まゝはゝで、苛いじめられて居られなくって尋ねて来ただが、些ちっとは小遣こづかいも持って居ただが、泥坊が附いて来て突落つきおとして逃げたと云う訳で、三藏どんは親切な人で、引揚げて届ける所へ届けて、漸ようやく事済んで、葬りも済んで、今日は七日なぬかでお寺様へ婆ア様達を聘ほじって御馳走するてえので、久し振で米の飯が食えると云って悦んで往いきやしッけ、法蔵寺ほうぞうじ様へ葬りに成っただ」

太「然そうか、それで婆ア様ア悦んで行くのだ、久しく尋ねねえだが秋口は用が多えで此の間買った馬は二両五粒だが、高たけえ馬だ、見毛みけは宜いいが、何どうも膝頭ひざっこ突く馬で下り坂は危ねえの、嚏くしゃみばかりして屁へベエたれ通しで肉おっぴり出す程だによ、婆ア様に宜しく云って下せえ、左様だら」

新吉は内で此の話を聞いて居りましたが、お久を葬むったと云うから参詣さんけいしなければ悪いと思い、

新「もし〱」

農「あゝ魂消たまげた、何処どこから出ただ」

新「私わたしは此処こゝに居いるので」

農「誰たれも居ねえと思ったが何なんだか」

新「只今お聞き申しましたが土手の脇で殺されました女の死骸は、何なんと云うお寺へ葬りになりました、三藏さんてえお方が追福ついふくなさると聞きましたが、何と云うお寺へ葬りましたか」

農「法蔵寺様てえ寺で、累かさねの葬ってある寺と聞けば直じきに知れます」

新「ヘエー成程」

農「何なんだね、なに其様そんな事を聞くのか」

新「私は無尽むじんのまじないに、なにそう云う仏様に線香を上げると無尽が当ると云うので、ヘエ有難う存じます」

と、是から段々尋ねて、花と線香を持って墓場へ参りました。寺で聞けば宜しいに、己おのれが殺した女の墓所はかしょ、事によったら、咎とがめられはしないか、と脚疵すねきずで、手桶を提さげて墓場でまご〱して居る。

新「これだろう、これに違いない、是だ〱、花を揷さして置きさえすれば宜しい、何処どこへ葬っても同おんなじだが、因縁とか何なんとか云うので、お久の伯父さんを便たよって二人で逃げて来て、師匠の祟りで殺したくもねえ可愛い女房を殺したのだが、お久は此処こゝへ葬りになり、己おれは、逃げれば甚藏が訴人するから、やっぱり羽生村に足を止めて墓詣はかまいりに来られる。是もやっぱり因縁の深いのだ。南無阿弥陀仏〱、エヽと法月童女ほうげつどうにょと、何なんだ是は子供の戒名だ」

と、頻しきりにまご〱して居る処へ、這入って来ました娘は、二十才はたちを一つも越したかと云う年頃、まだ元服前の大島田、色の白い鼻筋の通った二重瞼ふたえまぶちの、大柄ではございますが人柄の好いい、衣装なりは常着ふだんぎだから好よくはございませんが、なれども村方でも大尽だいじんの娘と思う拵こしらえ、一人付添って来たのは肩の張ったお臀しりの大きな下婢おんな、肥ふとっちょうで赤ら顔、手織ておりの単衣ひとえに紫中形むらさきちゅうがたの腹合はらあわせの帯、手桶を提げてヒョコ〱遣やって来て、

下女「お嬢様此方こちらへお出でなさえまし、此処こゝだよ、貴方あんたヨ待ちなさえヨ、私わし能よく洗うだからねえ、本当に可哀想だって、己おらア旦那様泣いた事はないけれども、お久様が尋ねて来て、顔も見ねえでおッ死ちんでしまって憫然ふびんだって泣いただ、本当に可哀想に、南無阿弥陀仏〱〱」

新「これだ、えゝ少々物が承りとうございます」

下女「何なんだかい」

新「ヘエ」

下女「何だかい」

新「真中まんなかですとえ」

下女「イヽヤ何なんだか聞くのは何だかというのよ」

新「ヘエと成程、この何なんですかお墓は慥たしか川端で殺されて此の間お検死が済んで葬りになりました娘子様むすめごさんの御墓所ごぼしょでございますか」

下女「御墓所てえ何なんだか」

新「このお墓は」

下女「ヘエ此の間川端で殺されたお久さんと云うのを葬った墓場で」

新「ヘエ左様で、私にお花を上げさして拝まして下さいませんか」

下女「お前様まえさま知って居る人か」

新「イヽエ無尽の呪咀まじないに樒しきみの葉を三枚盗むと当るので」

下女「そう云う鬮引くじびきが当るのか、沢山花ア上げて下さえ」

新「ヘエ〱有難う、戒名は分りませんが、あとでお寺様で承りましょう、大きに有難う」

と、ヒョイと後あとへ下さがりそうにすると、娘が側に立って居りまして、ジロリと横目で見ると、新吉は二十二でも小造こづくりの性たちで、色白の可愛気のある何処どことなく好いい男、悪縁とは云いながら、此の娘も、何どうしてこんな片田舎にこんな好い男が来たろうと思うと、恥かしくなりましたから、顔を横にしながら横眼で見る。新吉も美いい女だと思って立止って見て居りました。

二十八

新「もしお嬢さん、このお墓へお葬りになりました仏様の貴方はお身内でございますかえ」

娘「はい私わたくしの身寄でございます」

新「ヘエ道理でよく似ていらっしゃると思いました、イエ何、あのよく似たこともあるもので、江戸にも此様こんな事が有りましたから」

下女「あんた、何処どこに居るお方だい」

新「私はあの直じき近処きんじょの者でげす、ヘエ土手の少し変な処とこに一寸ちょっと這入って居ります」

下女「土手の変な処とこてえ蒲鉾小屋かまぼこごやかえ」

新「乞食ではございません、其処そこに懇意な者が有って厄介になって居るので」

下女「そうかネ、それだら些ちっと遊びにお出でなさえ、直じき此の先の三藏と云うと知れますよ、質屋の三藏てえば直き知れやす」

娘は頻しきりに新吉の顔を横眼で見惚みとれて居ると、何どう云う事でございますか、お久の墓場の樒の揷して有る間から一匹出ました蛇の、長さ彼かれ是これ三尺さんじゃくばかりもあるくちなわが、鎌首を立てゝズーッと娘の足元まで這って来た時は、田舎に馴れません娘で、

娘「あッ」

と飛び退のいて新吉の手へすがりつくと、新吉も恟びっくりしたが、蛇はまた元の様に、墓の周囲まわりを廻って草の茂りし間へ這入りました。娘は怖いと思いましたから、思わず知らず飛退とびのく機はずみで、新吉の手へ縋すがりましたが、蛇が居なくなりましたから手を放せばよいのだが、其の手が何時迄いつまでも放れません。思い内に有れば色外に顕あらわれて、ジロリ、と互たがいに横眼で見合いながら、ニヤリと笑う情じょうと云うものは、何なんとも申されません。女中は何も知りませんから、

下女「お前さん、在郷の人には珍らしい人だ、些ちっとまた遊びに来て、何処どこに居るだえ、エヽ甚藏が処とこに、彼あの野郎評判の悪わりい奴で、彼処あすこに、そうかえ些と遊びにお出でなさえ、嬢様お屋敷奉公に江戸へ行ってゝ、此の頃帰けえっても友達がねえで、話はなししても言葉が分んねえてエ、食物くいものが違って淋しくってなんねえテ、長く屋敷奉公したから種々いろ〱な芸事がある、三味さみイおっ引ぴいたり、それに本や錦絵があるから見にお出でなさえ、此の間見たが、本の間に役者の人相書の絵が有るからね…雨が降って来た」

新「其処そこまで御一緒に」

娘「何どうせお帰り遊ばすなれば私わたくしの屋敷の横をお通りになりますから御一緒に、あの傘を一本お寺様で借りてお出でよ」

下女「ハイ」

と下女がお寺で番傘を借りて、是から相合傘あい〱がさで帰りましたが、娘は新吉の顔が眼先を離れず、くよ〱して、兄に悟られまいと思って部屋へ這入って居ります。新吉の居場処いばしょも聞いたがうっかり逢う訳に参りません、段々だん〱日数ひかずも重かさなると娘はくよ〱欝ふさぎ始めました。すると或夜日暮から降出した雨に、少し風が荒く降っかけましたが、門口かどぐちから、

甚「御免なさい〱」

三「誰だい」

甚「ヘエ旦那御無沙汰致しました」

三「おゝ甚藏か」

甚「ヘエ、からもう酷ひどく降出しまして」

三「傘なしか」

甚「ヘエ傘の無いのでびしょ濡ぬれになりました、何どうも悪い日和ひよりで、日和癖で時々だしぬけに降出して困ります…エヽお母様っかさん御機嫌よう」

三「コウ甚藏、お前もう能いい加減に馬鹿も廃やめてナ、大分だいぶ評判が悪いぜ、何なんとかにも釣方つりかたで、お前の事も案じるよ、大勢に悪にくまれちゃア仕方がねえ、名主様も睨にらんで居るよ」

甚「怖おっかねえ、からもう憎まれ口ぐちを利くから村の者は誰たれも私わっしをかまって呉れません、ヘエ、御免なすって、えゝ此の間一寸ちょっと嬢ねえさんを見ましたが、えゝ彼あれはあのお妹御様いもうとごさまで、いゝ器量で大柄で人柄の好いいお嬢こでげすね、お前さんが時々異見いけんを云って下さるから、何どうか止してえと思うが、資本もとでは無し借金は有るし何うする事も出来ねえ、此の二三日にさんちは何うにも斯こうにも仕様がねえから、些ちっと許ばかり質を取って貰いてえと思って、此方様こちらさまは質屋さんで、価値ねうちだけの物を借りるのは当然あたりまえだが、些とくどいから上手を遣わなければならねえが、質を取ってお貰もれえ申してえので」

三「取っても宜よい何なんだイ」

甚「詰らねえ此様こんな物で」

と三尺さんじゃくの間へ揷はさんで来た物に巻いて有る手拭をくる〱と取り、前へ突付けたのは百姓の持つ利鎌とがまの錆さびの付いたのでございます。

三「是か、是か」

甚「へえ是で」

三「此様こんな物を持って来たって仕様がねえ、買ったって百か二百で買える物を持って来て、是で幾許いくらばかり欲しいのだ」

甚「二十両なくっては追附おっつかねえので、何どうか二十両にね」

三「極きまりを云って居るぜ、戯ふざけるナ、お前めえはそれだからいけねえ、評判が悪い、五十か百で買える物を持って来て二十両貸せなんてエ強迫ゆすり騙かたりみた様な事を云っては困る、此様こんな鎌は幾許いくらもある、冗談じゃアねえ、だから村にも居られなくなるのだよ」

甚「旦那、只の鎌と思ってはいけねえ、只の鎌ではねえ、百姓の使うただの鎌とお前めえさん見てはいけねえ」

三「誰が見たって百姓の使う鎌だ、錆だらけだア」

甚「錆びた処が価値ねうちで、能よっく見て、錆びたところに価値が有るので」

三「何どう」

と手に把とって見ると、鎌の柄に丸の中に三の字の焼印やきいんが捺おしてあるのを見て、

三「甚藏、是は己おれの家うちの鎌だ、此の間與吉よきちに持たして遣やった、是は與吉の鎌だ」

甚「だから與吉が持ってればお前まえさんの処とこの鎌でしょう」

三「左様」

甚「それだから」

三「何が」

甚「何がって、旦那此の鎌はね、奥に誰たれも居やアしませんか」

三「誰たれも居やアせん」

甚「此の鎌に就ついて何どうしてもお前さんが二十両私わっちにくれて宜いい、私の親切をネ、鎌は詰らねえが私の親切を買って」

二十両何うしてもくれても宜い訳を話を致しますが、一寸一息吐きまして。

二十九

引続きまして申上げました羽生村で三藏と申すは、質屋をして居りまして、田地でんじの七八十石も持って居ります可かなりの暮しで、斯様かように良い暮しを致しますのは、三右衞門と云う親父おやじが屋敷奉公致して居るうち、深見新左衞門に二拾両の金を貰って、死骸の這入りました葛籠つゞらを捨てまして国へ帰り、是が資本もとでで只今は可なりに暮して居る。一体三藏と云う人は信実しんじつな人で、江戸の谷中七面前の下總屋と云う質屋の番頭奉公致して、事柄の解わかった男でございますから、

三「コウお前まえそう極きまりで其様そんな分らねえ事を云うが、己だから云うが、いゝか、何が親切で何どう云う訳が有ったって草苅鎌を持って来て二十両金を貸せなどと云って、村の者もお前めえを置いては為にならねえと云う、此の間何なんと云った、私は此の村を離れましては何処どこでも鼻撮はなッつまみで居処いどころもございませんから、元の如く此の村に居られる様にして呉れと云うから、名主へ行って話をして、彼あれは外面うわべは瓦落がら〱して、鼻先ばかり悪徒あくとうじみて居りますが、腹の中はそれほど巧たくみのある奴では無いと、斯こう己が執成とりなして置いたから居いられる、云はゞ恩人だ、それを背くかお前めえ、何なんで鎌を、何どう云う訳で親切などと下らぬ事を云うんだえ」

甚「それなら打明けてお話申しますが此の間松村で一寸ちょっと小博奕こばくちへ手を出して居るとだしぬけに御用と云うのでバラ〱逃げて入江の用水の中へ這入って、水の中を潜くゞり込んで土手下のボサッカの中へ隠れて居ると、其処そこで人殺しがあり、キアッと云う女の声で、私わっちも薄気味うすきびが悪いから首を上げて見たが暗くって訳が分らず、土砂降だが、稲光がピカ〱する度たび時々斯こう様子が見えると、女を殺して金を盗んだ奴がある、宜ようがすか、判然はっきり分りませんが、其の跡へ私が来て見ると、此の鎌が落ちて居る、此の鎌で殺したか、柄えにベッタリ黒いものが付いて有るのは血のりじみサ、取上げて見ると丸に三の字の焼印が捺して有る、宜うがすか、旦那の家うちの鎌、ひょっとして他ほかの奴が、此の鎌が女を殺した処とこに落ちて有るからにゃア此の鎌で殺したと、もしやお前まえさんが何様どんな係り合になるめえ物でもねえと思い、幸い旦那の御恩返ごおんげえしと思って、私が拾って家うちへ帰けえって今迄隠して居た、宜うがすか、お前めえさんの処ところで死骸しげえを引取って己の家うちの姪めえと云うので法事も有ったのだから、お前めえさんの処で女を殺して物を取った訳はねえが、悪わりい奴が拾いでもすると、お前めえさんは善いい人と思っては居るが、そう村中みんなお前めえさんを誉ほめる者ばかりじゃアねえ、其の中うちには五人や八人は彼様あんなになれる訳はねえと、工面が良いいと憎まれる事も有りましょう、それから中には悪く云う奴もある私と斯こう中好なかよく、お前まえさんは江戸に奉公して江戸子えどっこ同様と云うので、甚藏や悪わりい事はするナ、と番毎ばんごとに斯こう云ってお呉くんなさるは有難ありがてえと思って居るが、私がお前めえさんに平生ふだんお世話に成って居りますから、娘を殺して金を取るような人でねえ事は知って居りますが、宜うがすか、お前めえさんと若もし私が中が悪くって、忌々いめえましい奴だ、何どうかしてと思って居いれば、私が鎌を持って、斯こうだ此の鎌が落ちて有った是は三藏の処とこの鎌だと振廻して役所へでも持出せば、お前めえさんの腰へ否いやでも縄が付く、然そうでないまでも、十日でも二十日でも身動きが出来ねえ、然うすりゃア年をとったお母様ふくろさまはじめ妹御いもうとごも心配だ、其の心配を掛けさせ度たくねえからねえ、然う云う馬鹿があるめえものでもねえのサ、私などは随分遣やり兼かねねえ性質たちだ、忌々いめえましいと思えば遣る性質だけれども、御恩になって居るから、旦那が殺したと思う気遣きづけえもねえけれども、理屈を付ければまア何どうでもなるのサ、彼様あんなに身代くめんのよくなるのも、些ちっとは悪い事をして居るだろうぐらいの話をして居る奴もあるから、殺した跡で世間体が悪わりいから、死骸でも引取って、姪めえとか何なんとか名を付けて、とい弔いをしなければ成るめえと、さ、訝おかしく勘繰かんぐるといかねえから、他人に拾われねえ様に持って来たのだから、十日でも二十日でも留められて、引出されゝば入費にゅうひが掛ると思って、只私の親切を二十両に買っておくんなさりゃア、是で博奕は止やめるから、ねえモシ旦那え」

三「コレ〱甚藏、然そう汝きさまが云うと己が殺して死骸を引取って、葬りでもした様に疑うたぐって、訝おかしくそんな事を云うのか」

甚「お前めえさん私わっちが然う思うくれえなら、鎌は振廻して仕舞わア、大きな声じゃア云えねえが、是は旦那世間の人に知れねえように、私が黙って持って居るその親切を買って二十両、ね、もし、鎌は詰らねえが宜うがすか、お前めえさんと中が悪ければ、酷ひどい畜生ちきしょうだなんて遣やり兼ねえ性質たちだが、旦那にゃア時々小遣こづけえを貰ってる私だから、何なんとも思やアしねえがネ、厭いやに世間の人が思うから鎌を拾って持って来た、其の親切を買って、えゝ旦那、お前めえさん否いやと云えば無理にゃア頼まねえが、私は草苅鎌を二十両に売ろうと云う訳ではねえのサ、親切ずくだからネ、達たってとは云わねえ、そうじゃアねえか、此の村に居てお前めえの呼吸いきが掛らなけりゃア村にも居られねえ、其の時はいやに悪わりい仕事をして逃げる、そうなりゃア何どうでも宜いいやア、ねえ、否いやでげすか、え、もし」

と厭に絡からんで云いがゝりますも、蝮まむしと綽名あだなをされる甚藏でございますから、うっかりすれば喰付かれますゆえ、仕方なく、

三「詰らぬ口を利かぬが宜いいぜ、金は遣やるから辛抱をしねえよ」

とただ取られると知りながら、二十両の金を遣りまして甚藏を帰しますと、其の夜よ三藏の妹お累るいが寝て居ります座敷へ、二尺余りもある蛇が出ました。九月中旬なかばになりましては田舎でも余り蛇は出ぬものでございますが、二度程出ましたので、墓場で驚きましたから何が出ても蛇と思い只今申す神経病、

累「アレー」

と駈出して逃にげる途端母親おふくろが止め様とした機はずみ、田舎では大きな囲炉裏が切ってあります、上からは自在が掛って薬鑵やかんの湯が沸たぎって居た処へ双もろに反かえりまして、片面これから肩これへ熱湯を浴びました。

三十

お累が熱湯を浴びましたので、家中うちじゅう大騒ぎで、医者を呼びまして種々いろ〱と手当を致しましたが何どうしてもいかんもので、火傷やけどの痕あとが出来ました。追々全快も致しましょうが、二十一二になる色盛いろざかりの娘、顔にポツリと腫物できものが出来ましても、何うしたら宜よかろうなどと大騒ぎを致すものでございますのに、お累は半面紫色に黒み掛りました上、片鬢かたびん兀はげるようになりましたから、当人は素もとより母親おふくろも心配して居ります。

累「あゝ情なさけない、この顔では此の間法蔵寺で逢った新吉さんにもう再び逢う事も出来ぬ」

と思いますと是が気病きやみになり、食も進まず、奥へ引籠ひきこもったきり出ません、母親おふくろは心配するが、兄三藏は中々分った人でございますから、

三「お母様っかさん、えーお累は何様どんな塩梅でございますねえ」

母「はアただ胸が支つかえて飯が喰えねえって幾ら勧めても喰えねえ〱と云う、疲れるといかねえから些ちっと食ったら宜よかんべえと勧めるが、涙ア翻こぼして己おらア此様こんな顔に成ったから駄目だ、何どうせ此様な顔になった位くれえなら、おッ死ちんだ方が宜ええ。と其様そんな事べえ云ってハア手におえねえのサ、もっと大でけえ負傷けがアして片輪になる者さえあるだに、左様そう心配しんぺえしねえが宜ええと云うが、彼あれは幼ちっけえ時から内気だから、ハア、泣なくことばかりで何どうしべえと思ってよ」

三「困りますね私も心配するなと云い聞きかせて置きますが、何どう云うものか彼処あすこへ引籠った切ぎりで、気が霽はれぬから庭でも見たら宜よかろうと云うと、彼処は薄暗くって病気に宜うございますからと云いますが詰らん事を気に病むから何うも困ります」

と話をして居ります。折から、お累は次の間の処へ参りましたから、

母「おゝ此方こっちへ出ろとよう、出な」

三「あ、漸やっと出て来た」

母「此方へ来てナ、畑の花でも見て居たら些ちったア気が霽はれようと、今兄あにきどんと相談して居たゞ、えゝ、さア此処こゝへ坐ってヨウ、よく出て来きいッけナ、心配しんぺえしてはいけぬ、気を晴らさなければいかねえヨウ、兄どんの云うのにも、火傷しても火の中へ坐燻つっくばったではねえ、湯気だから段々癒なおるとよ、少しぐれえ薄く痕あとが付くべえけれども、平常いつもの白粉おしろいを着ければ知れねえ様になり段々薄くなるから心配しんぺえしねえがえゝよ」

三「お前お母っかさんに斯こう心配しんぱいを掛けて、お母様っかさんがお食を勧めるのにお前は何故喫たべない、段々疲れるよ、詰らん事をくよ〱してはいけませんよ、お前と私と是れから只たった一人のお母様だから孝行を尽さなければならないのに、お前がお母様に心配を掛けちゃア孝行に成りません、顔は何様どんなに成ったって構わぬ、それならば片輪女には亭主がないと云うものでも有るまい、何様な跛びっこでもてんぼうでも皆みんな亭主を持って居ります、えゝ火傷したくらいで気落きおちして、お飯まんまも喫べられないなんて、気落してはなりません、お母様が勧めるからお食あがりなさい、喫べられないなんて其様そんな事はありませんよ」

母「喫べなせえヨウ、久右衞門きゅうえもんどんが、是なれば宜よかろうって水街道へ行って生魚なまうおを買って来たゞ、随分旨い物もんだ常ふだんなら食べるだけれど、やア食えよウ」

三「お喫あがりなさい何どう云う様子だ、容体ようだいを云いなさい、えゝ、何か云うとお前は下を向いてホロ〱泣いてばかり居て、お母様に御心配かけて仕様がないじゃアありませんか、え、十二三の小娘じゃアあるまいし、よウ、えゝ、何う云うものだ」

母「そんなに小言云わねえが宜ええってに、其処そこが病やめえだからハア手におえねえだよ、兄あにきどんの側に居ると小言を云われるから己おれが側へ来い、さア此方こっちへ来い、〱」

と手を引いて病間びょうまへ参ります。三藏も是は一通りの病気ではないと思いますから。

三「おせな」

下女せな「ヒえー」

三「何なんの事こった、立って居て返辞をする奴が有るものか」

せな「何なんだか」

三「坐りな」

せな「何だか、呼よばるのは何だかてえに」

三「コレ家うちのお累の病気は何どうも火傷をした許ばかりでねえ、心に思う処が有るのでそれが気になってからの煩わずらいと思って居るが、汝てめえお久の寺詣てらまいりに行った帰りは遅かったが、年頃で無理じゃアねえから他処わきへ寄ったか、隠さずと云いな」

せな「ナアニ寄りは為しません、お寺様へ行ってお花上げて拝んで、雨降って来たからお寺様で借かりべえって法蔵寺様で傘借りて帰けえって来ただ」

三「汝てめえなぜ隠す」

せな「隠すにも隠さねえにも知んねえノ」

三「主人に物を隠すような者は奉公さしては置きません、なぜ隠す、云いなよ」

せな「隠しも何どうもしねえ、知んねえのに無理な事を云って、知って居れば知って居るって云うが、知んねえから知んねえと云うんだ」

三「コレ段々お累を責めて聞くに、実は兄様にいさん済まないが是々と云うから、なぜ早く云わんのだ、年頃で当然あたりまえの事だ、と云って残らず打明けて己に話した、其の時はおせなが一緒に行って斯こう〱と残らず話した、お累が云うのに汝てめえは隠して居る、汝はなぜ然そうだ、幼ちいさい中うちから面倒を見て遣やったのに」

せな「アレまア、何なんて云うたろうか、よウお累様ア云ったか」

三「皆みんな云った」

せな「アレまア、汝われせえ云わなければ知れる気遣きづけえねえから云うじゃアねえよと、己おらを口止くちどめして、自分からおッ饒舌ちゃべるって、何なんてえこった」

三「皆みんないいな、有体ありていに云いナ」

せな「有体ッたって別に無ねえだ、墓参りに行って年頃二十二三になる好いい男が来て居て、お前めえさん何処どこの者だと云ったら江戸の者だと云って、近処きんじょに居る者だがお墓参りして無尽鬮引くじびきの呪まじねえにするって、エー、雨降って来たから傘借りてお累さんと二人手え引きながら帰けえって来て、お累さんが云うにゃア、おせな彼様あんな好いい男は無ねいやア、彼様な柔やさしげな人はねえ、己おれがに亭主ていしを持たせるなれば彼あア云う人を亭主に持度もちたいと云って、内所で云う事が有ったけえ、其の中うちに火傷してからもう駄目だ彼あの人に逢いたくもこんな顔になっては駄目だって、それから飯も喰えねえだ」

三「然そうか何どうも訝おかしいと思った、様子がナ、汝てめえに云われて漸ようやく分った」

せな「あれ、横着者め、お累様云わねえのか」

三「なにお累が云うものか」

せな「彼あれだアもの、累も云ったから汝てめえも云えってえ、己に云わして己云ったで事が分ったてえ、そんな事があるもんだ」

三「騒々しい、早く彼方あっちへ往けよ」

とこれから村方に作右衞門と云う口利くちきゝが有ります、これを頼んで土手の甚藏の処へ掛合いに遣やりました。

三十一

作「御免なせえ」

甚「イヤお出でなせえ」

作「ハイ少し相談ぶちに参めえりましたがなア」

甚「能よくお出いでなせえました」

作「私わしイ頼まれて少し相談ぶちに参めえったが、お前等めえらの家うちに此の頃年齢としごろ二十二三の若わけえ色の白しれえ江戸者が来て居ると云う話、それに就ついて少し訳あって参めえった」

甚「左様で、出ちゃアいけねえ引込ひっこんで居ねえ」

新吉は薄気味が悪いから蒲団の積んで有る蔭へ潜り込んで仕舞いました。

甚「ヘエ、な、何なんです」

作「エヽ、今日少しな、訳が有って三藏どんが己おらが処とけえ頭を下げて来て、偖さて作右衞門どん、何どうも他たの者に話をしては迚とても埓らちが明かねえ、人一人は大事な者なれども、何うも是非がねえから無理にも始末を着けなければなんねえから、お前等めえらをば頼むと云うまアーづ訳になって見れば、己おれも頼まれゝば後あとへも退ひけねえ訳だから、己おれが五十石の田地でんじをぶち放っても此の話を着けねばなんねえ訳に成ったが其の男の事に付いて参めえっただ」

甚「ヘエーそうで、其の男と云うなア身寄でも親類でもねえ奴ですが、困るてえから私わっちの処に食客いそうろうだけれども、何を不調法しましたか、旦那堪忍しておくんなえ、田舎珍らしいから、柿なんぞをピョコ〱取って喰いかねゝえ奴だが、何なんでしょうか生埋いきうめにするなどというと、私わっちも人情として誠に困りますがねえ、何を悪い事をしたか、何どう云う訳ですえ」

作「誰だりが柿イ取ったて」

甚「食客が柿を盗んだんでしょう」

作「柿など盗んだ何なんのと云う訳でねえ、そうでねえ、それ、お前めえ知って居るが、三藏どんの妹娘いもとむすめは屋敷奉公して帰けえって来て居た処、お前等めえらア家うちのノウ、其の若わけえ男を見て、何処どこかで一緒になったで口でもきゝ合った訳だんべえ、それでまア娘が気に、彼あア云う人を何卒どうか亭主ていしに為したいとか内儀かみさんになりてえとか云う訳で、心に思っても兄あにさまが堅かてえから八釜やかましい事云うので、処から段々胸へ詰って、飯まゝも食べずに泣いてばかり居るから、医者どんも見放し、大切だいじの一人娘だから金えぶっ積んでも好いた男なら貰って遣やりてえが、他ほかの者では頼まれねえが、作右衞門どん行ってくれと云う訳で、己おれが媒妁人役なこうどやくしなければなんねえてえ訳で来ただ」

甚「そんなら早くそう云ってくれゝば宜いいに、胆きもを潰つぶした、私わっちは柿でも盗んだかと思って、そうか、それは有難ありがてえ、じゃア何なんだね、妹娘が思い染めて恋煩こいわずらいで、医者も見放すくれえで、何どうでも聟むこに貰おうと云うのかね、是は有難え、新吉出や、ア此処こゝへ出ろ、ごうぎな事をしやアがった、此処へ来や、旦那是は私の弟分おとゝぶんで新吉てえます、是は作右衞門さんと云うお方でな、名主様から三番目に坐る方だ、此の方に頭を押えられちゃア村に居憎いにくいやア、旦那に親眤ちかづきになって置きねえ」

新「ヘエ初めまして、私わたくしは新吉と申す不調法者で、お見知り置かれまして御贔屓ごひいきに願います」

作「是はまず〱お手をお上げなすって、まず〱、それでは何どうも、エヽ石田作右衞門と申して至って不調法者で、お見知り置かれやして、此の後のちも御別懇ごべっこんに願ねげえます」

甚「旦那、其様そんな叮嚀ていねいな事を云っちゃアいけねえ、マア早い話が宜いい、新吉、三藏さんと云ってな、小質こしちを取って居る家うちの一人娘、江戸で屋敷奉公して十一二年も勤めたから、江戸子えどっこも同おんなし事で、器量は滅法好いい娘だ、宜いいか、其のお嬢さんが手前てめえを見てからくよ〱と恋煩いだ、冗談じゃアねえ、此畜生こんちきしょうめ、えゝ、こう、其の娘が塩梅が悪わりいんで、手前に逢わねえじゃア病に障るから貰もれえてえと云う訳だ、有難ありがてえ、好い女房かゝあを持つのだ、手前運が向いて来たのだ」

新「成程、三藏さんの妹娘で、成程、存じて居ります、一度お目に掛りました、然そう云って来るだろうと思って居た」

甚「此畜生、生意気な事を云やアがる、増長して居やアがる、旦那腹ア立っちゃアいけねえ、若わけえからうっかり云うので、大層を云って居やアがらア、手前てめえ己惚うぬぼれるな、男が好いいたって田舎だから目に立つのだ、江戸へ行けば手前の様な面はいけえ事有らア、此様こんな田舎だから少し色が白いと目に立つのだ、田舎には此様な色の黒い人ばかりだから、イヤサお前めえさんは年をとって居るから色は黒いがね、此様な有難ありがてえ事はねえ、冗談じゃアねえ」

新「誠に有難い事でございます」

作「私わしもヤアぶち出し悪にくかったが、お前様めえさまが承知なら頼まれげえが有って有難ありがてえだ、然そうなれば私わしイ及ばずながら媒妁なこうどする了簡だ、それじゃア大丈夫だろうネ、仔細しせえ無ねえね」

甚「ヘエ仔細しせえ有りません、有りませんが困る事には此の野郎の身体に少し借金が有るね」

作「なに借財が」

甚「ヘエ誠に何どうもね、これが向むこうが堅気かたぎでなければ宜いいが、彼あア云う三藏さん、此の野郎が行ゆきそう〱方々から借金取が来て、新吉に〱と居催促いざいそくでもされちゃア、此の野郎も行った当坐とうざ極りが悪く、居たたまらねえで駈出す風な奴だから、行かねえ前に綺麗薩張さっぱり借金を片付ければ私わっちも宜よし、宜うがすか、私が請人うけにんになって居るからね、其の借金だけは向むこうで払ってくれましょうか」

作「でかく有れば困るが何どのくれえ」

甚「何どのくれえたって、なア新吉、彼方あっちへ縁付かたづいてから借金取が方々から来られちゃア極りが悪わりいやア、其の極りを付けて貰うのだから借金の高を云いねえよ、さ、借金をよう」

新「ヘエ借金は有りません」

甚「何を云うのだ」

新「ヘエ」

甚「隠すな、え借金をよう」

新「借金はありません」

甚「分らねえ事を云うな、此の間もゴタ〱来るじゃアねえか」

三十二

甚「手前てめえ此処こゝに居るのたア違わア、三藏さんの親類になるのだ、それに可愛いお嬢さんが塩梅が悪くって可哀想だから貰うと云うのだ、手前を貰わなければ命に障る大事でえじな娘の貰うのだから、借金が有るなれば有ると云って、借金を片付けて貰えるからよ、然そうして仕度したくして行かなければならねえ、借金が有ると云え、エヽおい」

新「ヘエ、成程、ヘエ〱成程、それは気が付きませんでした、成程是は、随分借金は有るので、是で中々有るので」

甚「有るなれば有ると云え、よう幾らある」

新「左様五両ばかり」

甚「カラ何どうも云う事は子供でげすねえ、幾らア五拾両、けれども、エヽと、二拾両ばかり私わっちが目の出た時返けえして、三拾両あります」

作「ほう、三拾両、巨でけえなア、まア相談ぶって見ましょう」

とこれから帰って話をすると、

三「相手が甚藏だから其の位の事は云うに違いない、宜よろしい、其の代り、土手の甚藏が親類のような気になって出這入ではいりされては困るから、甚藏とは縁切えんきりで貰おう」

と云い、甚藏は縁切でも何なんでも金さえ取ればいゝ、と話が付き、先まず作右衞門が媒妁人なこうどで、十一月三日に婚礼致しました。田舎では妙なもので、婚礼の時は餅を搗つく、村方の者は皆来て手伝をいたします。媒妁人が三々九度の盃をさして、それから、村で年重としかさな婆ばアさんが二人来て麦搗唄むぎつきうたを唄います。「目出度めでたいものは芋いもの種」と申す文句でございます。「目出度いものは芋の種葉広く茎長く子供夥多あまたにエヽ」と詰らん唄で、それを婆アさんが二人並んで大きな声で唄い、目出度めでたく祝しゅくして帰る。これから新吉が花婿の床入とこいりになる。ところが何時いつまでたっても嫁お累が出て来ませんので、極りが悪いから嫌われたかと思いまして、

新「もう来そうなもの」

と見ると屏風びょうぶの外に行燈あんどうが有ります。その行燈の側に、欝ふさいで向むこうを向いて居るから、

新「何なんだね、其処そこに居るのかえ、冗談じゃアない、極りが悪いねえ、何どうしたのだえ、間が悪いね、其処に引込ひっこんで居ては極りが悪い、此方こっちへ来て、よう、私は来たばかりで極りが悪い、お前ばかり便たよりに思うのに、初めてじゃアなし、法蔵寺で逢って知って居るから、先刻さっきお前さんが白い綿帽子を冠かぶって居たが、田舎は堅いと思って、顔を見度みたいと思っても、綿を冠って居るから顔も見られず、間違じゃアねえかと思い、心配して居た、早く来て顔を見せて、よう、此方へ来ておくれな」

累「こんな処とこへ来て下すって、誠に私はお気の毒様で先刻さっきから種々いろ〱考えて居りました」

新「気の毒も何もない、土手の甚藏の云うのだから、訳も分らねえ借金まで払って、お兄あにいさんが私の様な者を貰って下すって有難いと思って、私はこれから辛抱して身を堅める了簡で居るからね、よう、傍そばへ来てお寝な」

累「作右衞門さんを頼んで、お嫌いやながらいらしって下すっても、私の様な者だから、もう三日もいらっしゃると、愛想あいそが尽きて直じきお見捨なさろうと思って、そればっかり私は心に掛って、悲しくって先刻さっきから泣いてばかり居りました」

新「見捨てるにも見捨てないにも、今来たばかりで、其様そんな詰らんことを云って、私は身寄便たよりもないから、お前の方で可愛がってくれゝば何処どこへも行ゆきません、見捨てるなどと此方こっちが云う事で」

累「だって私はね、貴方、斯こんな顔になりましたもの」

新「エ、あの私はね、此様こんな顔と云う口上は大嫌いなので、ド、何どんな顔に」

累「はい此の間火傷を致しましてね」

と恥かしそうに行燈あんどうの処へ顔を出すのを、新吉が熟々つく〲見ると、此の間法蔵寺で見たとは大違い、半面火傷の傷、額ひたえから頬へ片鬢かたびん抜上ぬけあがりまして相が変ったのだから、あっと新吉は身の毛立ちました。

新「何どうして、お前まア恐ろしい怪我をして、エヽ、なに何なんだか判然はっきりと云わなければ、もっと傍へ来て、え、囲炉裡いろりへ落ちて、何うも火傷するたって、何うも恐ろしい怪我じゃアないか、まアえゝ」

と云いながら新吉は熟々と考えて見れば、累が淵で殺したお久の為には、伯母に当るお累の処へ私が、養子に来る事になり、此の間まで美くしい娘が、急に私と縁組をする時になり、此様こんな顔形かおかたちになると云うのも、やっぱり豐志賀が祟たゝり性しょうを引いて、飽くまでも己おれを怨うらむ事か、アヽ飛んだ処へ縁付いて来た、と新吉が思いますると、途端に、ざら〱と云う、屋根裏で厭いやな音が致しますから、ヒョイと見ると、縁側の障子が明いて居ります、と其の外は縁側で、茅葺かやぶき屋根の裏に弁慶と云うものが釣ってある。それへずぶりと斜はすに揷さして有るは草苅鎌、甚藏が二十両に売付けた鎌を與助と云う下男が磨澄とぎすまして、弁慶へ揷して置いたので、其の鎌の処へ、屋根裏を伝わって来た蛇が纏まとい付き、二三度搦からまりました、すると不思議なのは蛇がポツリと二つに切れて、縁側へ落ると、蛇の頭は胴から切れたなりに、床とこの処へ這入って来た時は、お累は驚きまして、

累「アレ蛇が」

と云う。新吉もぞっとする程身の毛立ったから、煙管きせるを持って蛇の頭かしらを無暗むやみに撲うつと、蛇の形は見えずなりました。怖い紛まぎれにお累は新吉に縋すがり付く、その手を取って新枕にいまくら、悪縁とは云いながら、たった一晩でお累が身重になります。これが怪談の始はじめでございます。

三十三

新吉とお累は悪縁でございますが、夫婦になりましてからは、新吉が改心致しました、と申すのは、熟々つく〲考えれば唯たゞ不思議な事で、十月からは蛇が穴に入いると云うに、十一月に成って大きな蛇が出たり、又先頃墓場で見た時、身の毛立つ程驚いたのも、是は皆心の迷まよいで有ったか、あゝ見えたのは怖い〱と思う私が気から引出したのか、お累も見たと云い殊ことに此の家うちは累が淵で手に掛けたお久の縁合えんあい、其の家へ養子に来ると云うは、如何いかなる深き因縁の、今まで数々罪を作った此の新吉、是からは改心して、此家こゝを出れば外ほかに身寄便たよりも無い身の上、お累が彼様あんな怪我をすると云うのも皆みんな私故、これは女房お累を可愛がり、三藏親子に孝行を尽したならば、是までの罪も消えるであろうと云うので、新吉は薩張さっぱりと改心致しました。それからは誠に親切に致すから、三藏も、

三「新吉は感心な男だ、年のいかんに似合わぬ、何なんにしろ夫婦中さえ宜よければ何より安心、殊に片輪のお累を能よく目を掛けて愛してくれる」

と、家内は睦むつましく、翌年になりますと、八月が産月うみづきと云うのでございますから、先まず高い処へ手を上げてはいかぬ、井戸端へ出てはならぬとか、食物しょくもつを大事に為しなければならんと、初子ういごだから母も心配致しまする。と江戸から早飛脚はやびきゃくで、下谷大門町の伯父勘藏が九死一生で是非新吉に逢いたいと云うのでございますが、只今の郵便の様には早く参りませんから、新吉も心配して、兄三藏と相談致しますと、たった一人の伯父さん、年が年だから死水しにみずを取るが宜いいと、三藏は気の付く人だから、多分の手当をくれましたから、暇いとまを告げ出立しゅったつを致しまして、江戸へ着いたのは丁度八月の十六日の事でございます。長屋の人が皆寄り集って看病致します。身寄便もない、女房はなし、歳は六十六になります爺おやじで、一人で寝て居りますが、長屋に久しく居る者で有りますから、近所の者の丹精で、漸々よう〱に生延びて居ります処、

男「オヤ新吉さんか、さア〱何卒どうぞお上あがりなすって、おかね、盥たらいへ水を汲んで、足をお洗わし申して、荷や何かは此方こっちへ置いて、能よくお出いでなすった、お待申しておりました、さア此方こちらへ」

新「ヘエ何どうも誠に久しく御無沙汰致しました、御機嫌宜しゅう、田舎へ引込ひきこみましてからは手紙ばかりが頼りで、頓とんと出る事も出来ません、養子の身の上でございますからな、此の度たびは伯父が大病でございまして、さぞお長屋の衆の御厄介だろうと思い実は彼方あちらの兄とも申し暮しておりました、急いで参る積つもりでございますが何分にも道路みちが悪うございまして、捗取はかどりませんで遅う成りました」

男「何どう致しまして、大層お見違え申す様に立派にお成りなすって、お噂ばかりでね、伯父さんも悦んでね、彼あれも身が定まり、田舎だけれども良い処へ縁付かたづき、子供も出来たってお噂ばかりして、実に何うも一番古くお長屋にお住いなさるから、看病だって届かぬながら、お長屋の者が替り〱来て見ても、あゝ云う気性だから、お前さんばかり案じて、能よくマア早くお出いでなすった、さア此方こっちへ」

新「ヘエ、是はお婆さん、其の後ごは御無沙汰致しました」

婆「おやまア誠に暫しばらく、まア、めっきり尤もっともらしくおなりなすったね、勘藏さんも然そう云って居なすった、彼あれも女房を持ちまして、児こが出来て、何月が産月だって、指を折って楽たのしみにして、病気中もお前さんの事ばかり云って、外ほかに身寄親類はなし、手許てもとへ置いて育てたから、新吉はたった一人の甥おいだし、子も同じだと云って、今もお前さんの噂をして、楽みにしておいでなさるからね、此度こんどばかりはもう年が年だから、大した事はない様だが、長屋の者も相談してね、だけども養子では有るし、お呼び申して出て来て、何なんだ是っぱかりの病気に、遠い処から呼んでくれなくも宜よさそうなもんだなどと云って、長屋の者も余あんまりだと、新吉さんに思われても、何なんだと云って、長屋の者、行事の衆と種々いろ〱相談してね、私の夫うちの云うには、然そうでない、年が年だからもしもの事が有った日にゃア、長屋の者も付いて居ながら知らして呉れそうなものと、又新吉さんに思われても成らんとか何なんとか云って、長屋の者も心配して居て、能よくねえ、何どうも、然うだって、大層だってね、勘藏さんがねえ、彼あれもマア田舎へ行って結構な暮しをして、然うだって、前の川へ往いけば顔も洗え鍋釜も洗えるってねえ、噂を聞いて何うか見度みたいと思って、あの畑へ何か蒔まいて置けば出来るってねえ、然うだって、まアお前さんの気性で鍬くわを把とって、と云ったら、なアに鍬は把らない、向むこうは質屋で其処そこの旦那様に成ったってね、と云うからおやそう田舎にもそう云う処が有るのかねえなんてね、お噂をして居ましたよそれにね」

男「コレサお前一人で喋しゃべって居ちゃアいけねえ、病人に逢わせねえな」

婆「さア此方こちらへ」

新「ヘエ有難う」

と寝て居る病間へ通って見ると、木綿の薄ッぺらな五布布団いつのぶとんが二つに折って敷いて有ります上に、勘藏は横になり、枕に坐布団をぐる〱巻いて、胴中どうなかから独楽こまの紐で縛って、括くゝり枕の代りにして、寝衣ねまきの単物ひとえものにぼろ袷あわせを重ね、三尺帯を締めまして、少し頭痛がする事もあると見えて鉢巻もしては居るが、禿頭で時々辷すべっては輪の形なりで抜けますから手で嵌はめて置おきますが、箝たがの様でございます。

新「伯父さん〱」

勘「あい」

新「私だよ」

男「勘藏さん、新吉さんが来たよ」

勘「有難ありがてえ〱、あゝ待って居た、能よく来た」

新「伯父さんもう大丈夫だよ、大きに遅くなったがお長屋の方が親切に手紙を遣よこして下すったから取敢とりあえず来たがねえ、もう私が来たから案じずに、お前気丈夫にしなければならねえ、もう一遍丈夫に成ってお前に楽をさせなければ済まないよ」

勘「能く来た、病気はそう呼びに遣やる程悪いんじゃアねえが、年が年だから何卒どうぞ呼んでおくんなせえと云うと、呼んじゃア悪かろうの何なんだの彼かだのと云って、評議の方が長なげえのよ、長屋の奴等ア気が利かねえ」

新「これサ、其様そんな事を云うもんじゃアねえ、お長屋の衆も親切にして下すって、遠くの親類より近くの他人だ、お長屋の衆で助かったに、其様な事を云うもんじゃアねえ」

三十四

勘「お前はそう云うが、ただ枕元で喋るばかりで些ちっとも手が届かねえ、奥の肥ふとったお金きんさんと云うかみさんは、己おれを引立ひったって、虎子おまるへしなせえってコウ引立ひきたって居てズンと下おろすから、虎子で臀しりを打ぶつので痛いてえやな、あゝ人情がねえからな」

新「其様な事を云うもんじゃアねえ、何なんでもお前の好きな物を食べるが宜いい」

勘「有難ありがてえ、もうねえ、新吉が来たから長屋の衆は帰けえってくれ」

新「其様な事を云うもんじゃアねえ」

長屋の者「じゃア、マア新吉さんが来たからお暇致します、左様なら」

新「左様ですか、何どうも有難うございます、お金さん有難うお婆さん有難う、ヘエ大丈夫で、又何うか願います、ヘエ、なにお締めなさらんでも宜よろしゅう、伯父さん長屋の人がねエ、親切にしてくれるのに、彼様あんな事を云うと心持を悪くするといかねえよ」

勘「ナアニ心持を悪くしたって構うものか、己おらの頑固いっこくは知って居るしなあ、能よく来た、一昨日おとゝいから逢いたくって〱堪たまらねえ、何卒どうぞして逢いてえと思って、もう逢えば死んでも宜いいやア、もう死んでも宜い」

新「其様な事を云わずに確しっかりして、よう、もう一遍丈夫になって駕籠にでも乗せて田舎へ連れて行って、暢気のんきな処へ隠居さしてえと思うのだ、随分寿命も延々のび〲するから彼方あっちへお引込ひっこみよう」

勘「独身ひとりみで煙草を刻きざんで居るも、骨が折れてもう出来ねえ、アヽ、お前めえ嫁に子供あかんぼうが出来たてえが、男か女か」

新「何なんだか知れねえ是から生れるのだ」

勘「初めては女の児こが宜い、お前めえの顔を見たら形見かたみを遣やろうと思ってねえ、己おれは枕元へ出したり引込ひっこましたりして、他人ひとに見られねえ様に布団の間へ揷込さしこんだり、種々いろ〱な事をして見付からねえように、懐で手拭で包くるんだりして居た」

新「まだ〱大丈夫だよ伯父さん、だけれども形見は生きているうち貰って置く方が宜い、形見だって何をお前がくれるのだか知れねえが、何なんだい、大事にして持つよ」

勘「是を見てくんねえ」

と布団の間から漸ようやく引摺出ひきずりだしたは汚れた風呂敷包。

勘「これだ」

新「何なんだい」

と新吉は僅少わずかの金でも溜めて置いて呉れるのかと思いまして、手に取上げて見ると迷子札まいごふだ。

新「何なんだ是は迷子札だ」

勘「迷子札を今迄肌身離さず持って居たよ、是が形見だ」

新「是はいゝやア、今度生れる子が男だと丁度いゝ、若もし女の子か知らないが、今度生れる坊のに仕よう」

勘「坊なぞと云わねえでお前めえ着けねえ」

新「少し篐たががゆるんだね、大きな形なりをしてお守を下げて歩けやアしねえ」

勘「まア読んで見ねえ」

新「エヽ読んで」

と手に取上げて熟々よく〱見ると、唐真鍮とうしんちゅうの金色かねいろは錆さびて見えまする。が、深彫ふかぼりで、小日向服部坂深見新左衞門二男新吉、と彫付けてある故、

新「伯父さん是は何なんだねえ私の名だね」

勘「アイ、そのねえ、汚れたね其の布団の上へ坐っておくれ」

新「いゝよう」

勘「イヽエ坐ってお呉れ、お願いだから」

新「はい〱さア私が坐りました」

勘「それから私は布団から下おりるよ」

新「アヽ、下りないでも宜いよ、冷ひえるといけねえよ」

勘「何卒どうかお前に逢ってねえ、一言ひとこと此の事を云って死にてえと思って心に掛けて居たがねえ、お前様まえさんは、小日向服部坂上で三百五十石取った、深見新左衞門様と云う、天下のお旗下のお前は若様だよ」

新「ヘエ、私がかえ」

勘「ウムお前の兄様あにさまは新五郎様と云ってね、親父様おとっさまはもうお酒好でねえ、お前が生れると間もなく、奥様は深い訳が有ってお逝去かくれになり、其の以前から、お熊と云う中働なかばたらきの下婢おんなにお手が付いて、此の女が悪い奴で、それで揉めて十八九の時兄様は行方知れず、するとねえ、本所北割下水に、座光寺源三郎と云う、矢張やっぱり旗下が有って、其の旗下が女太夫おんなだゆうを奥方にした事が露あらわれて、お宅番が付き、そのお宅番が諏訪部三十郎様にお前の親父様おとっさんの深見深左衞門様だ「深見深左衞門様だ」はママ、すると梶井主膳と云う竜泉寺前の売卜者うらないしゃがねえ、諏訪部様が病気で退ひいて居て、親父様が一人で宅番して居るを附込んで、駕籠を釣らして来て源三郎とおこよと云う女太夫を引攫ひっさらって逃げようとする、遣やるめえとする、争って鎗で突かれて親父様はお逝去かくれだから、お家は改易になり、座光寺の家も潰つぶれたがね、其の時にお熊は何なんでもお胤たねを孕はらんで居たがね、屋敷は潰れたから、仕方がねえので深川へ引取ひきとり、跡は御家督ごかとくもねえお前さんばかり、ちょうどお前が三歳みっつの時だが、私が下谷大門町へ連れて来て貰い乳して丹精して育てたのさ、手前てめえの親父おやじや母親おふくろは小さいうち死んで、己おれが育てたと云って、刻煙草きざみたばこをする中で丹精して、本石町四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣りましたが実は、己はお前の処に居た門番の勘藏と申す、旧来御恩を頂いた者で、家来で居ながら、お前さんはお旗下の若様だと慦なまじい若い人に知らせると、己は世が世なら殿様だが、と自暴やけになって道楽をされると困るから、新吉々々と使い廻して、馬鹿野郎、間抜野郎と、御主人様の若様に悪たい吐ついて、実の伯父甥の様にしてお前さんを育てたから、心安立こゝろやすだてが過ぎてお前さんを打ぶった事も有りましたが、誠に済まない事を致しました、私はもう死にますから此の事だけお知らせ申して死度しにたいと思い、殊ことにお前さんは親類みより縁者たよりは無いけれども、たゞ新五郎様と云う御惣領ごそうりょうの若様が有ったが、今居れば三十八九になったろうけれども行方知れず覚えて居て下さい、鼻の高い色の白い好いい男子おとこだ、目の下に大きな黒痣ほくろが有ったよ、其の方に逢うにも、お前さんがこの迷子札を証拠に云えば知れます、アヽもう何も云う事は有りませんが、唯たゞ馬鹿野郎などと悪態を吐つきました事は何卒どうぞ真平まっぴら御免なすって、仏壇ほとけさまにお前様まえさんの親父様おとッつぁまの位牌いはいを小さくして飾って有ります、新光院しんこういん様と云って其の戒名だけ覚えて居ります、其の位牌を持って往って下さい」

三十五

新「然そうかい、私は初めて伯父さん聞いたがねえ、だがねえ、私が旗下の二男でも、家が潰れて三歳みっつの時から育てゝくれゝば親よりは大事な伯父さんだから、もう一度ひとたび快よくなって恩報おんがえしに、お前を親の様に、尚更なおさら私が楽たのしみをさしてから見送り度たいから、もう一二年達者になってねえ、決して家来とは思わない、我儘わがまゝをすれば殴打擲ぶちたゝきは当然あたりまえで、貰い乳をして能よく育てゝくれた、有難い、其の恩は忘れませんよ、決して家来とは思いません、真実の伯父さんよりは大事でございます」

勘「はい〱有難ありがてえ〱、それを聞けば直すぐに死んでも宜いい、ヤア、有難えねえ、サア死にましょうか、唯死度しにたくもねえが、松魚かつおの刺身で暖あったけえ炊立たきたての飯まんまを喫たべてえ」

新「さア〱何なんでも」

と云う。当人も安心したか間もなく眠る様にして臨終致しました。それからはまず小石川の菩提所へ野辺送りをして、長く居たいが養子の身の上殊ことには女房は懐妊、早く帰ろうと、長屋の者に引留められましたが、初七日までも居りませんで、精進物で馳走をして初七日を取越して供養をいたし、伯父が住すまいました其の家は他人に譲りましたから、早々そう〱立ちまして、せめて今夜は遅くも亀有まで行きたいと出かけまする。折悪しく降出して来ました雨は、どう降ぶりで、車軸を流す様で、菊屋橋の際きわまで来て蕎麦屋で雨止あまやみをしておりましたが、更に止やむ気色けしきがございませんから、仕方がなしに其の頃だから駕籠を一挺いっちょう雇い、四ツ手駕籠に桐油とうゆをかけて、

新「何卒どうか亀有まで遣やって、亀有の渡わたしを越して新宿にいじゅく泊りとしますから、四ツ木通りへ出る方が近いから、吾妻橋を渡って小梅へ遣ってくんねえ」

駕籠屋「畏かしこまりました」

と駕籠屋はビショ〱出かける。雨は横降りでどう〱と云う。往来が止りまするくらい。其の降る中をビショ〱担かつがれて行ゆくうち、新吉は看病疲れか、トロ〱眠気ざし、遂には大鼾おおいびきになり、駕籠の中でグウ〱と眠ねて居る。

駕籠屋「押ちゃアいけねえ、歩けやアしねえ」

新「アヽ、若衆わかいしゅもう来たのか」

駕「ヘエ」

新吉「もう来たのか」

駕「ヘエ、まだ参りません」

新「あゝ、トロ〱と中で寝た様だ、何処どこだか薩張さっぱり分らねえが何処だい」

駕「何処だか些ちっとも分りませんが、鼻を撮つままれるも知れません、たゞ妙な事には、なア棒組、妙だなア、此方こっちの左ひだり手に見える燈火あかりは何どうしてもあれは吉原土手の何なんだ、茶屋の燈火に違ちげえねえ、そうして見れば此方にこの森が見えるのは橋場の総泉寺馬場そうせんじばゞの森だろう、して見ると此処こゝは小塚ッ原かしらん」

新「若衆〱妙な方へ担いで来たナ、吾妻橋を渡ってと話したじゃアねえか」

駕「それは然そう云うつもりで参めえりましたが、ひとりでに此処へ来たので」

新「吾妻橋を渡ったか何なんだか分りそうなものだ」

駕「渡ったつもりでございますがね、今夜は何だか変な晩で、何どうも、変で、なア棒組、変だなア」

駕「些ちッとも足が運べねえ様だな」

駕「妙ですねえ旦那」

新「妙だってお前達めえたちは訝おかしいぜ、何どうかして居るぜ急いで遣やってくんねえ、小塚ッ原などへ来て仕様がねえ、千住へでも泊るから本宿ほんじゅくまで遣っておくれ」

駕「ヘエ〱」

と又ビショ〱担ぎ出した。新吉はまた中でトロ〱と眠気ざします。

駕「アヽ恟びっくりすらア、棒組そう急いだって先が一寸ちょっとも見えねえ」

新「あゝ大きな声だナア、もう来たのか若衆」

駕「それが、些ちっとも何処どこだか分りませんので」

新「何処だ」

駕「何処だか少しも見当みあてが付きませんが、おい〱、先刻さっき左に見えた土手の燈火あかりが、此度こんどア右手こっちに見える様になった、おや〱右の方の森が左になったが、そうすると突当りが山谷の燈火か」

新「若衆、何どうも変だぜ、跡へ帰って来たな」

駕「帰けえる気も何もねえが、何うも変でございます」

新「戯ふざけちゃア困るぜ冗談じゃアねえ、お前達めえたちは訝おかしいぜ」

駕「旦那、お前さん何か腥なまぐさい物を持っておいでなさりゃアしませんか、此処こかア狐が出ますからねえ」

新「腥い物処どころか仏の精進日だよ、しっかりしねえな、もう雨は上ったな」

駕「ヘエ、上りました」

新「下おろしておくれよ」

駕「何うもお気の毒で」

新「冗談じゃアねえ、お前達めえたちは変だぜ」

駕「ヘエ何うも、此様こんな事は、今迄長く渡世しょうべえしますが、今夜のような変な駕籠を担いだ事がねえ、行くと思って歩いても後あとへ帰けえる様な心持がするがねえ」

新「戯けなさんな、包を出して」

と駕籠から出て包を脊負しょい、

新「好いい塩梅に星が出たな」

駕「ヘエ奴蛇の目の傘はこゝにございます」

新「いゝやア、まア路みちを拾いながら跣足はだしでも何なんでも構わねえ行こう」

駕「低い下駄なれば飛々とび〱行ゆかれましょう」

新「まアいゝや、さっ〱と行いきねえ」

駕「ヘエ左様なら」

新「仕様がねえな、何処だか些とも分りゃアしねえ」

と云いながら出かけて見ると、更ふけましたから人の往来はございません。路を拾い〱参りますと、此方こっちの藪垣やぶがきの側に一人人が立って居りまして、新吉が行ゆき過すぎると、

男「おい若わけえの、其処そこへ行いく若わけえの」

新「ソリャ、此処こゝは何なんでも何か出るに違ちげえねえと思った、畜生ちきしょう〱彼方あっちへ行いけ畜生〱」

男「おい若わけえの〱コレ若えの」

新「ヘエ、ヘエ」

と怖々こわ〲其の人を透すかして見ると、藪の処に立って居るは年の頃三十八九の、色の白い鼻筋の通って眉毛の濃い、月代さかやきが斯こう森のように生えて、左右へつや〱しく割り、今御牢内から出たろうと云うお仕着せの姿なりで、跛びっこを引きながらヒョコ〱遣って来たから、新吉は驚きまして、

新「ヘエ〱御免なさい」

男「何を仰しゃる、これは貴公が駕籠から出る時落したのだ、是は貴公様のか」

新「ヘエ〱、恟びっくり致しました何なんだかと思いました、ヘエ」

と見ると迷子札。

新「おや是は迷子札、是は有難う存じます、駕籠の中でトロ〱と寝まして落しましたか、御親切に有難う存じます、是は私わたくしの大事な物で、伯父の形見で、伯父が丹精してくれたので、何どうも有難うございます」

男「其の迷子札に深見新吉と有るが、貴公様のお名前は何なんと申します」

新「手前が新吉と申します」

男「貴公様が新吉か、深見新左衞門の二男新吉はお前だの」

新「ヘエ私わたくしで」

男「イヤ何どうも図らざる処で懐かしい、何うも是は」

と新吉の手を取った時は驚きまして、

新「真平まっぴら何うか、私わたくしは金も何もございません」

男「コレ、私をお前は知らぬは尤もっとも、お前が生れると間もなく別れた、私はお前の兄の新五郎だ、何卒どうかして其方そちに逢い度たいと思い居りしが、これも逢われる時節兄弟縁の尽きぬので、斯様かような処で逢うのは実に不思議な事で有った、私は深見の惣領新五郎と申す者でな」

三十六

新「ヘエ、成程鼻の高い好いい男子おとこだ、眼の下に黒痣ほくろが有りますか、おゝ成程、だが新五郎様と云う証拠が何か有りますか」

新五郎「証拠と云って別にないが、此の迷子札はお前伯父に貰ったと云うが、それは伯父ではない勘藏と云う門番で、それが私わしの弟を抱いて散り散ぢりになったと云う事を仄ほのかに聞きました、其の門番の勘藏を伯父と云うが、それを知って居るより外ほかに証拠はない、尤も外に証拠物もあったが、永らく牢屋の住居すまいにして、実に斯様かような身の上に成ったから」

新「それじゃアお兄様あにいさま、顔は知りませんが、勘藏が亡なくなります前、枕元へ呼んで遺言して、是を形見として貴方の物語り、此処こゝでお目に掛れましたのは勘藏が草葉の影で守って居たのでしょう、それに付いても貴方のお身形みなりは何どう云う訳で」

新五郎「イヤ面目ないが、若気の至り、実は一人の女を殺あやめて駈落したれど露顕して追手おってがかゝり、片足斯かくのごとく怪我をした故逃げ遂おおせず、遂々とう〱お縄にかゝって、永い間牢に居て、いかなる責せめに逢うと云えど飽くまでも白状せずに居たれど、迚とても免のがるゝ道はないが、一度娑婆しゃばを見度みたいと思って、牢を破って、隠れ遂せて丁度二年越し、実は手前に逢うとは図らざる事で有った、手前は只今何処いずこに居おるぞ」

新「私わたくしはねえ、只今は百姓の家うちへ養子に往いきました、先は下総の羽生村で、三藏と云う者の妹娘いもとむすめを女房にして居ります、三藏と申すのは百姓もしますが質屋もし、中々の身代、殊ことに江戸に奉公をした者で気の利いた者ですが、貴方は牢を破ったなどゝとんだ悪事をなさいました、知れたら大事で、早く改心なすって頭を剃すって衣に着替え、姿を変えて私と一緒に国へお連れ申しましょう、貴方何様どんなにもお世話を致しましょうから、悪い心を止やめてください、えゝ」

新五郎「下総の羽生村で三藏と云うは、何かえ、それは前に谷中七面前の下總屋へ番頭奉公した三藏ではないか」

新「えゝ能よく貴方は御存知で」

新五郎「飛んだ処とこへ手前縁付かたづいたな、其の三藏と言うは前々まえ〱朋輩ほうばいで、私わしが下總屋に居いるうち、お園という女を若気の至りで殺し、それを訴人したは三藏、それから斯様な身の上に成ったるも三藏故、白洲でも幾度いくたびも争った憎い奴で其の憎い念は今だに忘れん、始終憎い奴と眼を付けて居るが、そういう処へ其の方が縁付かたづくとは如何いかにも残念、其の方もそういう処へは拙者が遣らぬ、決して行くな、是から一緒に逃去って、永なげえ浮世に短みじけえ命、己と一緒に賊を働き、栄耀栄華えようえいがの仕放題しほうだいを致すがよい、心を広く持って盗賊になれ」

新「これは驚きました〱、兄上考えて御覧なさい、世が世なれば旗下の家督相続もする貴方が、盗賊をしろなぞと弟に勧めるという事が有りましょうか、マア其様そんな事を言ったって、貴方が悪いから訴人されたので、三藏は中々其様な者ではございませぬ」

新五郎「手前女房の縁に引かされて三藏の贔屓ひいきをするが、其の家を相続して己を仇あだに思うか、サア然そうなれば免ゆるさぬぞ」

新「免さぬってえ、お前さんそれは無理で、それだから一遍牢へ這入ると人間が猶々なお〱悪くなるというのはこれだな、手前の居る処は田舎ではありますが不自由はさせませんから一緒に来て下さい」

新五郎「手前は兄の言葉を背き居るな、よし〱有って甲斐なき弟故殺してしまう覚悟しろ」

新「其様そんな理不尽な事を云って」

新五郎「なに」

と懐に隠し持ったる短刀どすを引抜きましたから、新吉は「アレー」と逃げましたが、雨降あめふり揚句あげくで、ビショ〱頭まではねの上りますのに、後うしろから新五郎は跛びっこを引きながら、ピョコ〱追駈おっかけまするが、足が悪いだけに駈かけるのも遅いから、新吉は逃げようとするが、何分なにぶんにも道路みちがぬかって歩けません。滑ってズーンと横に転がると、後あとから新五郎は跛で駈けて来て、新吉の前の処へポンと転がりましたはずみに新吉を取って押え付ける。

新五郎「不埓至極ふらちしごくの奴殺してしまう」

と云うに、新吉は一生懸命、無理に跳ね起きようとして足を抄すくうと、新五郎は仰向に倒れる、新吉は其の間まに逃げようとする、新五郎は新吉の帯を取って引くと、仰向に倒れる、新吉も死物狂いで組付く、ベッタリ泥田の中へ転がり込む、なれども新五郎は柔術やわらも習った腕前、力に任して引倒し、

新五郎「不埓至極な、女房の縁に引かれて真実の兄が言葉を背く奴」

と押伏せて咽喉笛のどぶえをズブリッと刺した。

新「情ない兄あにさん…」

駕籠屋「モシ〱旦那〱大そう魘うなされて居なさるが、雨はもう上りましたから桐油を上げましょう」

新「エ、アヽ危うい処だ、アヽ、ハアヽ、此処こゝは何処どこだえ」

駕「ちょうど小塚ッ原の土手でごぜえやす」

新「えい、じゃア夢ではねえか、吾妻橋を渡って四ツ木通りと頼んだじゃアねえか」

駕「ヘエ、然そう仰しゃったが、乗出してちょうど門跡前へ来たら、雨が降るから千住へ行って泊るからと仰しゃるので、それから此方こっちへ参めえりました」

新「なんだ、エヽ長なげえ夢を見るもんだ、迷子札は、お、有る〱、何なんだなア、え、おい若衆わかいしゅ〱、咽喉は何なんともねえか」

駕「ヘエ、何どうか夢でも御覧でごぜえましたか、魘されておいでなせえました」

新「小用こようがたしてえが」

駕「ヘエ」

新「星が出たな」

駕「ヘエ、好いい塩梅あんべえ星が出ました」

新「じゃア下駄を出しねえ」

駕「是で天気は定さだまりますねえ」

新「好い塩梅だねえ、おや此処こゝはお仕置場だな」

と見ると二ツ足の捨札に獄門の次第が書いて有りますが、始めに当時無宿新五郎と書いて有るを見て、恟びっくりして、新吉が、段々怖々こわ〲ながら細かに読下すと、今夢に見た通り、谷中七面前、下總屋の中働お園に懸想けそうして、無理無体に殺害せつがいして、百両を盗んで逃げ、後のちお捕方とりかたに手向いして、重々不届至極に付獄門に行うものなりとあり。新吉はこれぞ正夢なり、妙な事も有るものだと、兄新五郎の顔が眼に残りしは不思議なれど、勘藏の話で想ったから然そう見えたか、何なんにしても稀有けうな事が有れば有るものだ、と身の毛だちて、気味悪く思いますから、是より千住へ参って一晩泊り、翌日早々下総へ帰る。新吉の顔を見ると女房お累が虫気付むしけづきまして、オギャア〱と産落したは男の子でございます。此の子が不思議な事には、新吉が夢に見た兄新五郎の顔に生写いきうつしで、鼻の高い眼の細い、気味の悪い小児こどもが生れると云う怪談の始めでございます。

三十七

引続きまして真景累が淵と外題げだいを附しまして怪談話でございます。新吉は旅駕籠に揺ゆられて帰りましたが、駕籠の中で怪しい夢を見まして、何彼なにかと心に掛る事のみ、取急いで宅うちへ帰りますると、新吉の顔を見ると女房お累は虫気付き、産落したは玉のような男の児ことはいかない、小児こどもの癖に鼻がいやにツンと高く、眼は細いくせにいやに斯こう大きな眼で、頬肉が落ちまして瘠衰やせおとろえた骨と皮ばかりの男の児が生れました。其の顔を新吉が熟々つく〲見ると夢に見ました兄新五郎の顔に生写いきうつしで、新吉はぞっとする程身の毛立って、

新「然そうなれば此の家うちは敵同士かたきどうしと、夢にも兄貴が怨みたら〱云ったが、兄貴がお仕置に成りながらも、三藏に怨みを懸けたと見えて、その仇あだの家いえへ私が養子に来たと夢で其の事を知らせ、早く縁を切らなければ三藏の家うちへ祟たゝると云ったが、扨さては兄貴が生れ変って来たのか、但たゞしは又祟りで斯こう云う小児こどもが生れた事か、何どうも不思議な事だ」

と其の頃は怨み祟りと云う事があるの或あるいは生れ変ると云う事も有るなどと、人が迷いを生じまして、種々いろ〱に心配を致したり、除よけを致すような事が有りました時分の事で、所謂いわゆる只今申す神経病でございますから、新吉は唯ただ其の事がくよ〱心に掛りまして、

新「あゝもう悪い事は出来ぬ、ふッつり今迄の念を断って、改心致して正道しょうどうに稼ぐより外ほかに致し方はない、始終女房の身の上小児こどもの上まで、斯こう云う祟りのあるのは、皆是も己の因果が報う事で有るか」

と様々の事を思うから猶更なおさら気分が悪うございまして、宅うちに居りましても食も進みません。女房お累は心配して、

累「御酒ごしゅでもお飲みなすったらお気晴しになりましょう」

と云うが、何どうも宅に居いれば居る程気分が悪いから、寺参りにでも行ゆく方が宜よかろうというので、寺参りに出掛けます。三藏も心配して、

三「一緒に居ると気が晴れぬ、姑しゅうとなどと云う者は誠に気詰りな者だと云うから、一軒家うちを別にしたら宜かろう」

と羽生村の北坂きたざかと云う処へ一軒新たに建てまして、三藏方で何も不足なく仕送ってくれまする。新吉は別に稼かせぎもなく、殊ことには塩梅が悪いので、少しずつ酒でも飲んではぶら〱土手でも歩いたり、また大宝たいほうの八幡様へ参詣に行ゆくとか、今日は水街道、或は大生郷おおなごうの天神様へ行くなどと、諸方を歩いて居りますが、まア寺まいりの方へ自然行く気になります。翌年寛政八年恰ちょうど二月三日の事でございましたが、法蔵寺へ参詣に来ると、和尚が熟々つく〲新吉を見まして、

和尚「お前は死霊の祟りのある人で、病気は癒なおらぬ」

新「ヘエ何どうしたら癒りましょう」

和尚「無縁墓の掃除をして香花こうはなを手向たむけるのは大功徳だいくどくなもので、これを行ったら宜かろう」

新「癒りますれば何様どんな事でも致しますが、無縁の墓が有りましょうか」

和尚「無縁の墓は幾らも有るから、能よく掃除をして水を上げ、香花を手向けるのはよい功徳になると仏の教えにもある、昔から譬たとえにも、千本の石塔を磨くと忍術が行えるとも云うから、其様そんな事も有るまいが功徳になるから参詣なさい」

と和尚さんが有難く説きつけるから、新吉は是から願がんに掛けて、法蔵寺へ行っては無縁の墓を掃除して水を上げ香花を手向けまする。と其処そこが気の故せいか、神経病だから段々数を掃除するに従って気分も快くなって参ります。三月の二十七日に新吉が例の通り墓参りをして出に掛ると、這入って来ました婦人は年の頃二十一二にもなりましょうか、達摩返しと云う結髪むすびがみで、一寸ちょっといたした藍あいの万筋まんすじの小袖に黒の唐繻子とうじゅすの帯で、上に葡萄鼠ぶどうねずみに小さい一紋ひとつもんを付けました縮緬ちりめんの半纏羽織はんてんばおりを着まして、其の頃流行はやった吾妻下駄を穿いて這入って来る。跡からついて参るのが馬方の作藏と申す男で、

作「お賤しずさん是が累かさねの墓だ」

賤「おやまア累の墓と云うと、名高いからもっと大きいと思ったら大層小さいね」

作「小さいって、是が何どうも何なんと二十六年祟ったからねえ、執念深しゅうねんぶけえ阿魔あまも有るもので、此の前めえに助すけと書いてあるが、是は何う云う訳か累の子だと云うが、子でねえてねえ、助と云うのは先代の與右衞門の子で、是が継母まゝはゝに虐いじめられ川の中へ打流ぶちながされたんだと云う、それが祟って累が出来たと云うが、何なんだか判然はっきりしねえが、村の者も墓参りに来れば、是が累の墓だと云って皆みんな線香の一本も上げるだ、それに願掛がんがけが利くだねえ、亭主が道楽ぶって他の女に耽はまって家うちへ帰けえらぬ時は、女房が心配しんぺえして、何うか手の切れる様に願ねげえますと願掛すると利くてえ、妙なもので」

賤「そうかね、私はまア斯こうやって羽生村へ来て、旦那の女房おかみさんに、私の手が切れる様に願掛をされて、旦那に見捨てられては困るねえ」

作「なに心配しんぺえしねえが宜いいだ、大丈夫でえじょうぶ、内儀おかみさんは分った者もんで、それに若旦那が彼あア遣やって堅くするし、それに小さいけれども惣吉様も居るから其様そんな事はねえ、旦那は年い取ってるから、たゞ気に入ったで連れて来て、別に夢中になるてえ訳でもねえから、それに己連れて来たゞと云って話して、本家でも知ってるから心配しんぺえねえ、家うちも旦那どんの何なんで、貴方あんたが斯こうしてと云って、旦那の誂あつらえだから家も立派に出来たゞのう」

賤「何なんだか茅葺かやぶきで、妙な尖とがった屋根なぞ、其様そんな広い事はいらないといったんだが、一寸ちょっと離れて寝る座敷がないといけないからってねえ、土手から川の見える処は景色が好いいよ」

作「好ようがすね。ヤア新吉さん」

新「おや作さん久しくお目に掛りませんで」

作「塩梅あんべいが悪わりいてえが何どうかえ」

新「何うも快よくなくって困ります」

作「はア然そうかえ能よくまア心に掛けて寺参りするてえ、お前めえの様な若わけえ人に似合わねえて、然う云って居る、えゝなアに彼あれは名主様の妾よ」

新「ウン、アヽ江戸者か」

三十八

作「深川の櫓下やぐらしたに居たって、名前なめえはおしずさんと云って如才じょさいねえ女子あまっこよ、年は二十二だと云うが、口の利き様は旨うめえもんだ、旦那様が連れて来たゞが、家うちにも置かれねえから若旦那や御新造様と話合で別に土手下へ小さく一軒家いええ造って江戸風に出来ただ、まア旦那が行かない晩は淋しくっていけねえから遊びに来こうと云うから、己が詰らねえ馬子唄アやったり麦搗唄むぎつきうたは斯こう云うもんだって唄って相手をすると、面白がって、それえ己がに教えてくれろなどと云ってなア、妙に馬士唄まごうたを覚えるだ、三味線さみせん弾いて踊りを踊るなア、食物くいものア江戸口で、お前めえ塩の甘たっけえのを、江戸では斯う云う旨うめえ物もん喰って居るからって、食物くいもなア大変八釜やかましい、鰹節かつぶしなどを山の様に掻いて、煮汁にしるを取って、後あとは勿体ないと云うのに打棄うっちゃって仕まうだ、己淋しくねえように、行って三味線弾いては踊りを踊ったり何かするのだがね彼処あすこは淋しい土手下で、余あんまり三味線弾いて騒ぐから、狸が浮れて腹太鼓を敲たゝきやアがって夜が明けて戸を明けて見ると、三匹位ぐれえ腹ア敲き破ってひっくり返けえって居る」

新「嘘ばっかり」

作「本当だよ」

賤「一寸ちょいと〱作さん、何なんにも見る処とこが無いから、もう行こう」

作「えゝ参めえりましょう」

賤「一寸ちょいと作さん今話をして居た人は何所どこの人」

作「彼あれは村の新吉さんてえので」

賤「私は見たような人だよ」

作「見たかも知んねえ江戸者だよ」

賤「おや然そうかい、一寸ちょっと気の利いたおつな人だね」

作「えゝ極ごく柔和おとなしい人で、墓参はかめえりばかりして居てね、身体が悪わりいから墓参りして、何なんでも無縁様の墓ア磨けば幻術が使えるとか何とか云ってね、願掛がんがけえして」

賤「おや気味の悪い、幻術使いかえ」

作「今是から幻術使いになるべえと云うのだろう」

賤「然うかえ妙な事が田舎には有るものだねえ、何かえ江戸の者で此方こっちへ来たのかえ」

作「ヘエ上かみの三藏さんてえ人の妹娘いもとむすめお累てえが、お前めえさん、新吉が此方へ来たので娘心に惚れたゞ、何どうか聟に貰えてえって恋煩いして塩梅が悪くなって、兄様も母親様おっかさまも見兼ねて金出した恋聟よ」

賤「然うかえ、新吉様さんと、おや新吉さんというので思い出したが、見た訳だよ私がね櫓下に下地子したじっこに成って紅葉屋もみじやに居る時分、彼あの人は本石町の松田とか桝田とか云う貸本屋の家うちに奉公して居て、貸本を脊負しょって来たから、私は年のいかない頃だけども、度々たび〲見て知って居るよ、大層芸者衆しゅもヤレコレ云って可愛がって、そう〱中々愛敬者で、知って居るよ」

作「アヽマア新吉さん〱、おい此方こっちへ来なせえ、アノ御新造様がお前めえを知って居るてねえ」

新「何方様どなたさまでげすえ」

賤「ちょいと新吉さんですか、私は誠にお見違みそれ申しましたよ、慥たしか深川櫓下の紅葉屋へ貸本を脊負ってお出でなすった新吉さんでは有りませんか」

新「ヘエ、私もねえ先刻さっきからお見掛け申したような方と思ったが、若もしも間違ってはいけねえと思って言葉を掛けませんでしたが、慥かお賤さんで」

作「それだから知って居るだ何処どこで何様どんな人に逢うか知んねえ、嘘は吐つけねえもんだ」

賤「私は此の頃此方こっちへ来て、斯こういう処にいるけれども、馴染はなし、洒落を云ったって向むこうに通じもしないし、些ちっとも面白くないから、作藏さんが毎晩来て遊んでくれるので、些とは気晴しになるんだが、新吉さん本当に好いい処で、些とお出でなさいな、ちょうど旦那が遊びに来て居るから、変な淋しい処だけれども、閑静しずかで好いから一寸ちょいとお寄りな」

新「ヘエ有難うございます、私はね此方こっちへ参りまして未まだ名主様へ染々しみ〲お近付にもなりませんで、兄貴が連れてお近付に参ると云って居りますが、何なんだか気が詰ると思ってツイ御無沙汰をして参りませんので」

賤「なに気が詰る所どころじゃア無い、さっくり能よく解わかった人だよ、私を娘の様に可愛がって呉れるから一寸ちょいとお寄りな、ねえ作さん」

作「それが好いい、新吉さんお出でよ、何なんでもお出で」

と勧められるから新吉は、幸い名主に逢おうと行ゆきましたが、少し田甫たんぼを離れて庭があって、囲かこいは生垣になって、一寸ちょいとした門の形が有る中に花壇などがある。

賤「さア新吉さん此方こっちへ」

惣「大層遅かったな」

賤「遅いったって見る処がないから累かさねの墓を見て来ましたが、気味が悪くて面白くないから帰って来たの」

作「只今」

惣「大きに作藏御苦労、誰か一緒か」

賤「彼あの人は新吉さんと云って私が櫓下に居る時分、貸本屋の小僧さんで居て、その時分に本を脊負って来て馴染なので、思い掛けなく逢いましたら、まだ旦那様にお目に掛らないから、何卒どうかお目通りがしたいと云うから、それは丁度好よい、旦那様は家うちに来て居らっしゃるからと云って、無理に連れて来たので」

惣「おや〱そうか、さア此方こちらへ」

新「ヘエ初めまして、私わたくしはえゝ三藏の家うちへ養子に参りました新吉と申す不調法者で、何卒どうぞ一遍は旦那様にお目通りしたいと思いましたが、掛違いましてお目通りを致しません、今日こんにちは好よい折柄おりがらお賤さんにお目に掛って出ましたが、ついお土産も持参致しませんで」

惣「いゝえ、話には聞いたが、大層心掛の善い人だって、お前さん墓参りに能よく行くってね」

新「ヘエ身体が悪いので法蔵寺の和尚様が、無縁の墓へ香花を上げると、身体が丈夫になると云うから、初めは貶けなしましたが、それでも親切な勧めだと思って参りますが、妙なもので此の頃は其の功徳かして大きに丈夫に成りました」

惣「うん成程然そうかえ、能く墓参はかめえりをする、中々温順おとなしやかな実銘じつめいな男だと云って、村でも評判が好いい」

賤「本当に極くおとなしい人で、貸本屋に居て本を脊負ってくる時分にも、一寸ちょっと来ても、新吉さん手伝っておくれなんて云うと、冬などは障子を張替えたり、水を汲んだり、外を掃除したり、誠に一寸人柄は好よしねえ、若い芸者衆は大騒ぎやったので、新吉さん遠慮しないで、窮屈になると却かえって旦那は困るから、ねえ旦那、初めてゞすからお土産などと云ったんだけれども止とめましたが、初めてですからお金を一寸少しばかり遣やって下さいな」

惣「お金を、幾ら」

賤「幾らだって少しばかりは見っともないし、貴方は名主だからヘエ〱あやまってるし、初めてですから三両もお遣んなさいよ」

惣「三両、余あんまり多いや一両で宜よかろう」

賤「お遣りなさいよ、向むこうは目下だから、それに、旦那あの博多の帯はお前さんに似合いませんから彼あの帯もお遣りなさいよう」

惣「帯を、種々いろ〱な物を取られるなア」

と是が始はじまりで新吉は近しく来ます。

三十九

お賤は調子が宜し、酒が出ると一寸小声で一中節いっちゅうぶしでもやるから、新吉は面白いから猶なお近しく来る。其の中うちに悪縁とは申しながら、新吉とお賤と深い中に成りましたのは、誰たれ有って知る者はございませんけれども、自然と様子がおかしいので村の者も勘付いて来ました。新吉は家うちへ帰ると女房が、火傷の痕あとで片鬢かたびん兀はげちょろになって居り、真黒な痣あざの中からピカリと眼が光るお化ばけの様な顔に、赤ん坊は獄門の首に似て居るから、新吉は家へ帰り度たい事はない。又それに打って代って、お賤の処へ来ると弁天様か乙姫の様な別嬪べっぴんがチヤホヤ云うから、新吉はこそ〱抜けては旦那の来ない晩には近くしけ込んで、作藏に少し銭を遣れば自由に媾曳あいびきが出来まするが、偖さて悪い事は出来ぬもので、兄貴は心配しても、新吉に意見を云う事は出来ませんから、お累に内々ない〱意見を云わせます、意見を云わないと為にならぬ向むこうが名主様だから知れてはならぬという、それを思うから、女房お累が少し意見がましい事をいうと、新吉は腹を立てゝ打ち打擲ちょうちゃく致しまするので、今迄と違って実に荒々しい事を致しては家を出て行ゆきまするような事なれども、人が善よいから、お累は心配する所から段々病気に成りまして、遂には頭かしらが破わられる様に痛いとか、胸が裂ける様だとか、癪しゃくという事を覚えて、只おろ〱泣いてばかりおります。兄貴は改って枕元へ来て、

三「段々村方の者の耳に這入り、今日は老母としよりの耳にも這入って、捨てゝは置かれず、私わしが附いて居て名主様に済まない、殊ことに家うちの物を洗いざらい持出して質に置き、水街道の方で遊んで、家うちへ帰らずに、夜になればお賤の処へしけ込んでおり、お前が塩梅が悪くっても、子供が虫が発おこっても薬一服呑ませる了簡りょうけんもない不人情な新吉、金を遣やれば手が切れるから手を切ってしまえ」

と兄が申しまする。所がお累は

「何どうも相済みませんが、仮令たとえ親や兄弟に見捨てられても夫に附くが女の道、殊には子供も有りますから、お母様っかさんやお兄様あにいさまには不孝で有りますが、私は何うも新吉さんの事は思い断きられません」

と、ぴったり云い切ったから、

三「然そうなれば兄妹あにいもとの縁を切るぞ」

と云渡して、纏まとめて三十両の金を出すと、新吉は幸い金が欲ほしいから、兄と縁を切って仕舞って、行通ゆきかよいなし。新吉は此の金を持って遊び歩いて家うちへ帰らぬから、自分は却かえって面白いが、只憫然かわいそうなのは女房お累、次第〱に胸の焔ほむらは沸にえ返る様になります。殊に子供は虫が出て、ピイ〱泣立てられ、糸の様に痩せても薬一服呑ませません。なれども三藏の手が切れたから村方の者も見舞に来る人もござりません。新吉は能いい気になりまして、種々いろ〱な物を持出しては売払い、布団どころではない、遂ついには根太板ねだいたまで剥はがして持出すような事でございますから、お累は泣入っておりますが、三藏は兄妹の情じょうで、縁を切っても片時も忘れる暇ひまは有りません故、或日用達ようたしに参って帰りがけ、旧来居ります與助よすけと云う奉公人を連れて、窃そうっと忍んで参り、お累の家うちの軒下に立って、

三「與助や」

與「ヘエ」

三「新吉が居る様なれば寄らねえが、新吉が居なければ一寸ちょっと逢って行ゆきたいから窃そっと覗のぞいて様子を見て、新吉が居ては迚とても顔出しは出来ぬ」

與「マア大概てえげえ留守勝だと云うから、寄って上げておくんなさえ、ねえ、憫然かわいそうで、貴方あんたの手が切れてから誰たれも見舞みめえにも行いかぬ、仮令たとえ貴方あなたの手が切れても、塩梅あんべえが悪わりいから村の者は見舞みめえに行ったっても宜ええが、それを行かぬてえから大概てえげえ人の不人情も分っていまさア、何どうか寄って顔を見て遣やっておくんなさえ、私わしもお累さんが小せえうちから居りやすから、訪ねてえと思うが、訪ねる事が出来ねえが、表で逢っても、新吉さんお累さんの塩梅あんべえは何うで、と云うと、何なんだ汝われは縁の切れた所とこの奉公人だ、くたばろうと何うしようと世話にはならねえ、と斯こう云うので、彼あの野郎彼様あんな奴ではなかったが、魔がさしたのか、始終はハア碌ろくな事はねえ、お累さんに咎とがはねえけれどもそれえ聞くと遂つい足遠くなる訳で」

三「何なんたる因果でお累は彼様な悪党の不人情な奴を思い断きれないというのは何かの業ごうだ、よ、覗いて見なよ」

與「覗けませんよ」

三「なぜ」

與「何どうも檐先のきさきへ顔を出すと蚊が舞って来て、鼻孔はなめどから這入へえって口から飛出しそうな蚊で、アヽ何うもえれえ蚊だ、誰も居ねえようで」

三「然そうか、じゃア這入って見よう」

と日暮方で薄暗いから土間の所から探り〱上って参ると、煎餅せんべいの様な薄っぺらの布団を一枚敷いて、其の上へ赤ん坊を抱いてゴロリと寝ております。蚊の多いに蚊帳かやもなし、蚊燻かいぶしもなし、暗くって薩張さっぱり分りません。

三「ハイ御免よ、おッ、此処こゝに寝て居る、えゝお累〱私だよ兄だよ…三藏だよ」

累「は……はい」

四十

三「アヽ危ない、起きなくってもいゝよ、そうしていなよ、然そうしてね、お前とは縁切えんきりに成って仕舞ったから、私が出這入りをする訳じゃアないが、縁は断きれても血筋は断れぬと云う譬たとえで何なんとなく、お前の迷まよいから此様こんな難儀をする、何どうかしてお前の迷が晴れて新吉と手が切れて家うちへ帰る様にしたいと思って居るから、もう一応お前の胸を聞きに来たので、新吉も居ない様子だから話に来た、エヽちょうど與助が供でね、あれもお前が小さい時分からの馴染だから、何どうぞ一目逢って来度きたいと云って、與助此方こっちへ這入りな」

與「ヘエ有難う、お累さん與助でござえますよ、お訪ね申してえけれども、旦那にも云う通り、新吉さんが憎まれ口ぐちイきくので、つい足イ遠くなって訪ねませんで、長なげえ間塩梅あんべえが悪くってお困りだろう、何様どんな塩梅あんべえで、エヽ暗くって薩張分りませんが、些ちっとお擦さすり申しましょう、おゝおゝ其様そんなに痩やせもしねえ」

三「それは己だよ」

與「然そうかえお前めえさんか、暗くって分らねえから」

三「何しろ暗くって仕様がない、灯あかりを点つけなければならん、新吉は何処どこへ行ったえ」

累「はい有難う、兄あにさん能よく入らしって下さいました、お目に掛られた義理ではありませんが、何卒どうかもう私も長い事はございますまいから、一眼ひとめお目に掛って死にたいと存じましても、心がらでお招よび申す事も出来ない身の上に成りましたも、皆お兄様あにいさまやお母様っかさまの罰ばちでございますが、心に掛けておりました願いが届きまして、能く入らしって下さいました、與助能く来てお呉れだね」

與「ヘエ、来てえけれどもねえ、何どうも来られねえだ、新吉が憎まれ口きくでなア、実にはア仕様がねえだ、蚊が多いなア、まア」

三「新吉は何処へ行った、なに友達に誘われて遊びに行ったと、作藏と云う馬方と一緒に遊んで居やアがる、忌々いめえましい奴だ、蚊帳は何処にある、蚊帳を釣りましょう、なに無いのかえ」

累「はい蚊帳どころではございません、着ております物を引剥ひんむいて持出しまして、売りますか質に入れますか、もう蚊帳も持出して売りました様子で」

三「呆あきれますな何どうも、蚊帳を持出して売って仕舞ったと、この蚊の多いのによ」

與「だから鬼だって、自分は勝手三眛かってざんまいして居るから痒かいくもねえが、それはお累様ア憎いたって、現在赤ん坊が蚊に喰殺されても構わねえて云うなア心が鬼だねえ」

三「與助や家うちへ行って蚊帳を取って来て呉んな、家の六畳で釣る蚊帳が丁度宜いい、あれは六七ろくしちの蚊帳だから、あれで丁度よかろう、若もしあれでなければ七八しちはちの大きいので宜い病人の中へ這入って擦さする者も広い方が宜いから」

與「直じき往って来ましょう」

三「早く往って」

與「ヘエ、お累様直じき往って参めえりますよ」

と親切な男で、飛ぶようにして蚊帳を取りに行ゆきました。

三「暗くっていかぬから灯あかりを点つけましょう、何処どこに火打箱はあるのだえ、何所どこに、え、竈かまどを持出して売ったア、呆れます何どうも、家うちではお飯まんまも喰わねえ了簡、左様そう云う悪にくい奴だ」

と段々手探りで台所の隅へ行って、

三「アヽ茲こゝに在あった〱」

と漸ようやく火打箱を取出しましてカチ〱打ちまするが、石は丸くなって火が出ない、漸くの事で火を附木つけぎに移し、破れ行燈あんどうを引出して灯あかりを点つけ、善々よく〱お累の顔を見ると、実に今にも死のうかと思うほど痩衰えて、見る影はありませんから、兄三藏は驚きまして、

三「あゝお累、お前是は一通りの病気ではない余程の大病だよ、此の前に来た時は此様こんなに瘠やせてはいなかったが、何も食べさせはせず、薬一服煎せんじて呑ませる了簡もなく、出歩いてばっかり居る奴だから、自分には煮炊にたきも出来ずお前が此様な病気でも見舞に来る人もないから知らせる人もなし、物を食べなけりゃア力が附かないから、是では仮令たとえ病気でなくとも死にます、見れば畳も持出して売りやアがったと見えて、根太ねだが処々ところ〲剥はがれて、まア縁の下から草が出ているぜ、実に何どうも酷ひどいじゃアないか、えゝおい、彼あの非道な新吉を何処どこまでもお前亭主と思って慕う了簡かえ、お前は罰ばちがあたって居るのだよ、私がお母様っかさんにお気の毒だと思って種々いろ〱云うと、お母様は私への義理だから、何なんの親同胞きょうだいを捨てゝ出る様な者は娘とは思わぬ、敵かたき同士だ、病気見舞にも行ってくれるな、彼様あんな奴は早く死ねばいゝ、と口では仰しゃるけれども、朝晩如来様に向って看経かんきんの末には、お累は大病でございます、何卒どうかお累の病気全快を願います、新吉と手を切りまして、一つ処へ親子三人寄って笑顔わらいがおを見て私も死度しにとうございます、何卒お護まもりなすって下さいまし、と神様や仏様に無理な願掛がんがけをなさるも、お前が可愛いからで、親の心子知らずと云うのはお前の事で、さア今日は新吉とフッヽリ縁を切ります諦めますとお前が云えば、彼様な奴だから三十両か四十両の端金はしたがねで手を切って、お前を家うちへ連れて行って、身体さえ丈夫になれば立派な処へ縁附ける、左さも無ければ別家べっけをしても宜いい、彼奴あいつに面当つらあてだからな、えゝ、今日は諦めますと云わなければなりませんよ、さア諦めたと云いなさい、えゝ、おい、云えないかえ、今日諦めなければ私はもう二度と再び顔は見ません、もう決して足踏あしぶみは致しません、もう兄妹の是が別れだ、外ほかに兄弟があるじゃアなし、お前と私ばかり、お前亭主を持たないうち何なんと云った、私が他わきへ縁付きましても、子というは兄あにさんと私ぎりだから、二人でお母様に孝行しようと云ったじゃアないか、して見れば親の有難い事も知っているだろう、さア、お前の身が大事だからいうのだよ、返答が出来ませんかよ、えゝお累、返答しなければ私は二度と再び来ませんよ」

四十一

累「はい〱」

と利かない手を漸やっと突いてガックリ起上り、兄三藏の膝の上へ手を載せて兄の顔を見る眼に溜たまる涙の雨はら〱と膝に翻こぼれるのを、

三「これ〱たゞ泣いていては却かえって病やまいに障るよ」

累「はいお兄様あにいさまどうも重々じゅう〱の不孝でございました、まア是迄御丹精を受けました私わたくしが、お兄様のお言葉を背きましては、お母様っかさまへ猶々なお〱不孝を重ねまする因果者、此の節のように新吉が打って変って邪慳では、迚とても側には居られません、少しばかり意見がましい事を申せば、手にあたる物でぶち打擲致しますから、小児あかが可愛かわゆくないかと膝の上へ此の坊を載せますと、エヽうるせえ、とこんな病身の小児を畳の上へ放り出します、それほど気に入らぬ女房なれば離縁して下さい、兄の方へ帰りましょうと申しますと、男の子は男に付くものだから、此の與之助は置いて行ゆけと申します、彼様あんな鬼の様な人の側へ此の坊を置きましては、見す〱見殺しに致しまするようなものと、つい此の小僧に心が引かされて、お兄様やお母様に不孝を致します、せめて此の與之助が四歳よっつか五歳いつゝに成ります迄何卒どうぞお待ち遊ばして」

三「其様そんな分らぬ事を云っては困りますよ、お前何どうも、四歳か五歳になる迄お前の身体が保もちゃアしませんよ、能く考えて御覧、子を捨てる藪はあるが身を捨てる藪はないと云う譬たとえの通りだ、置いて行いけと云うなら置いて行って御覧、乳はなし、困るからやっぱりお前の方へ帰って来るよ、エヽ、私の云う事を聴かれませんか、是程に訳を云ってもお前は聴かれませんかえ、悪魔が魅入ったのだ、お前そんな心ではなかったが情なさけない了簡だ、私はもう二度と再び来ません、思えばお前は馬鹿になって了しまったのだ、呆れます」

と腹が立つのでは有りませんが、妹いもとが可愛い紛れに荒い意見をいうと、お累は取詰めて来まして癪しゃくを起し、

累「ウーン」

と虚空を掴んで横にぱったり倒れましたから、三藏は驚きまして、

三「エヽ困ったなア、少し小言を云うと癪を起すような小さい心でありながら、何どう云うもので、此様こんなに強情を張るのだろう、新吉の野郎め、困ったな、水はねえかな、何卒どうかこれ、お累確しっかりしてくれよ、心を慥たしかに持たなければならんよ、此の大病の中で差込が来ては堪たまらん、確かりして」

と一人で手に余る処へ、帰って来たは與助、風呂敷包に蚊帳の大きなのを持って、

與「旦那取って来ました」

三「蚊帳を取って来たか、今お累が癪を起して気絶してしまった」

與「えゝまア、そりゃ、お累さん〱何どうしただ、これお累さん、あゝまア歯ア喰いしばって、えらい顔になって、是はまア死んだに違ちげえねえ、骨と皮ばかりで」

三「死んだのじゃアねえ今塞とじて来たのだが、アヽこれっ切りに成るかしら、あゝもうとても助かるまい」

與「助からねえッてえ可哀そうに、これマア迚とても駄目だねえ、お累さん私わしイ小せえうちから馴染ではござえませんか、私イ今ア蚊帳かやア取りに行く間待っても宜よかんべえがそれにマア死んでしまうとは情ねえ、彼様あんな悪徒あくと野郎が側に附いて居るから、近所の者も見舞にも来ず、薬一服煎じて飲ませる看病人も無い、此様こんなになって死ぬのは誠に情ねえ訳で、何どうして死んだかなア」

三「其様そんなに泣いたって仕様があるものか、命数が尽きれば仕方がねえ、其様に女々しく泣くな、男らしくもねえ、腹一杯親同胞きょうだいに不孝をして苦労を掛けて是で先立つたア此様こんな憎い奴はねえ、憫然かわいそうとは思わない、悪にくいと思え、泣く事はねえ、泣くな」

與「泣くなって、泣いたって宜よかんべえ、死んだ時でも泣かなきゃア泣く時はねえ、私わしい憫然でなんねえだよ、斯こんな立派な兄あにさんがあっても、薬一服煎じて飲ませねえで憫然だと思うから泣くのだ、お前さんも我慢しずに泣くが宜ええ」

三「まア水でも飲まして見ようか」

與「まだ水も何も飲ませねえのかえ」

三「オイ己おれが水を飲ませるから其処そこを押えて、首を斯こうやって、固く成って居るからの、力一ぱい、なに腕が折れると、死んで居るから構やアしねえ、宜いいか、今水を飲ませるから、ウグ〱〱〱」

與「何だか云う事が分んねえ」

三「いけねえ、己が飲んでしまった」

與「仕様がねえな、含くゝんでゝ喋れば飲込むだ、喋らずに」

と漸ようやく三藏が口移しにすると、水が通ったと見えて、

累「ウム」

という。

三「アヽ與助、漸く水が通った」

與「通ったか、通れば助かります、お累様ア、確しっかりして、水が通ったから確かりして、お累さん〱」

三「お累確かりしろ、兄あにさんが此処こゝに附いて居るから確かりしろよ」

與「お累様確かりおしなさえよ、與助が此処へ参めえって居りますから、お累様、確かりおしなさえよ」

累「ア…………」

三「其方そっちへ退どきなさい、頭を出すから、アヽ痛い」

與「大丈夫でえじょうぶ己来たからよう、アヽ好いい塩梅あんべえだ気が付いた、アヽ……」

三「何なんだ手前てめえ気が付きゃアそれで好いや、気が付いて泣く奴があるものか」

與「嬉し涙で、もう大丈夫でえじょうぶだ」

三「もう一杯飲むかえ、さア〱水を飲みなさい」

四十二

累「ハイ……気が付きました、何卒どうぞ御免なされて下さい」

三「私が余あんまり小言を云ったのは悪うございました、ついお前の身の上を思うばっかりに愚痴が出て、病人に小言を云って、病に障る様な事をして、兄あにさんが思い切りが悪いのだから、皆定まる約束と思って、もう何なんにも云いますまい、小言を云ったのは悪かった、堪忍して」

與「誰エ小言云った、能くねえ事こった、貴方あんた正直だから悪わりい、此の大病人たいびょうにんに小言を云うってえ、此の馬鹿野郎め」

三「何なんだ馬鹿野郎とは」

與「けれども小言を云ったって、旦那様もお前様めえさまの身を案じてねえ、新吉さんと手が切れて家うちへ帰けえれるようにしたいと思うから意見を云うので、悪く思わねえ様に、よう〱」

三「蚊帳を持って来たから釣りましょう、恐ろしく蚊に喰われた、釣手があるかえ」

累「釣手は売られないから掛って居ります」

三「そうか」

と漸ようやく二人で蚊帳を釣って病人の枕元を広くして、

三「あのね、今帰り掛けで持合せが少ないが、三両許ばかりあるから是を小遣に置いて行ゆきましょう、私も諦らめてもう何も云いません、若もし小遣が無くなったら誰たれか頼んで取りによこしなよう、大事にしなよう、蚊帳を釣ったから、もういゝ、何も、もう其様そんな事を云うなえ、サ、行ゆきましょう〱」

與「ヘエ参めえりましょう、じゃアねえ、お累さん行いきますよ、旦那様が帰けえるというから私わしも帰けえるが、大事にしてお呉んなさえよ、よう、くよ〱思わなえが宜ええ、エヽ何どうも仕様がねえ、帰けえりますよ」

三「ぐず〱云わずに先へ出なよ、出なったら出なよ、先へ出なてえに」

と兄が立ちに掛ると、利かない手を突いて漸ようやくに這出して、蚊帳を斯こう捲まくってお累が出まして、行ゆきに掛る兄の裾すそを押えたなり、声を振わして泣倒れまする。

三「其様そんなにお前泣いたり何かすると毒だよ、さア蚊帳の中へ這入りな、坊が泣くよ、さア泣いているから這入んな」

累「お兄様あにいさま只今まで重々の不孝を致しました、先立って済みませんが、迚とても私は助かりません、何卒どうぞ御立腹でもございましょうがお母様っかさまに只たった一目お目に掛って、お詫をして死にとう存じますが、お母様にお出いで下さる様に貴方からお詫をなすって下さいませんか」

三「もうそんな事をおいいでないよ、お母様もまた是非来たがって居るのだからお連れ申す様にしましょう、其様そんな事をいわずにくよ〱せずに、さア〱蚊帳の中へ這入って居なよ」

與「大丈夫でえじょうぶだよ、お母様ア己が連れて来るよ、其様な事を云うと悲しくって帰けえれねえから這入ってお呉んなさえよ、ア、赤ん坊が泣くよ、憫然かわいそうに本当に泣けねえ」

三「アヽ鼻血が出た、與助、男の鼻血だから仔細はあるまいけれども、盆凹ぼんのくぼの毛を一本抜いて、ちり毛を抜くのは呪まじねえだから、アヽ痛いてえ、其様そんなに沢山抜く奴があるか、一掴ひとつかみ抜いて」

與「沢山たんと抜けば沢山験きくと思って」

三「えゝ痛いワ、さあ〱行きますよ」

と名残なごり惜おしいが、二人とも外へ出ると生憎あいにく気になる事ばかり。

三「アヽ痛」

與「何どうかしましたかえ」

三「下駄の鼻緒が切れた」

與「横鼻緒が切れましたか、ヘエ」

三「與助何うも気になるなア、お累の病気はとても助かるまいよ」

與「ヘエ助かりませんか、憫然かわいそうにねえ、早くお母様アおよこし申す様にしましょうか」

三「何しろ早く帰ろう」

と三藏が帰ると、入違えて帰って来たのは深見新吉。酒の機嫌で作藏を連れてヒョロ〱踉よろけながら帰って来て、

新「オイ作藏、今夜行かなければ悪かろうなア」

作「悪わりいって悪くねえって行かねば己叱られるだ、行って遣って下せえ、出掛でがけに己おらア肩叩たてえてなア、作さん今夜新吉さんを連れて来ないと打敲ぶったゝくよ、と云って斯こう脊中ア打ぶったから、なに大丈夫でえじょうぶだ、一杯いっぺえ飲んで日が暮れると来るから大丈夫だと云って、声掛けて来ただ」

新「いつも行ゆく度たびに向むこうで散財して、酒肴さけさかなを取って貰って、余あんまり気が利かねえ、些ちっとは旨うめえ物でも買って行いこうと思うが、金がねえから仕方がねえ」

作「金エなくったって、向でもって小遣も己おれに呉れて、何うもハア新吉さんなら命までも入れ上げる積りだよ、と姉御あねごが云ってるから、行って逢ってお遣やりなせえよ」

新「明日あしたはまた大生郷辺で一杯いっぺえ遣って日を暮さなければ成らねえ、仕方がねえから今日は家うちに寝ようと思って」

作「家に寝るって、己おらが困るから行ってよう」

新「コウ〱見ねえ〱」

作「何なんだか」

新「妙な事がある、己おれの家に蚊帳が釣ってある」

作「ハテ是は珍らしいなア、是は評判すべえ」

四十三

新「其様そんな余計な憎まれ口をきくなえ、今行違ゆきちがったなア三藏だ、己が留守に来やアがって蚊帳ア釣って行いきやアがったのだな、斯こんな大きな蚊帳が入いるもんじゃアねえ、蚊帳を窃そっと畳んで、離れた処とけえ持って行って質に入れゝば、二両や三両は貸すから、病人に知れねえ様に持出そう」

作「だから金と云うものは何処どこから来るか知れねえなア、取るべえ」

新「手前てめえひょろ〱していていけねえ、病人が眼を覚さますといけねえから」

と云うが、酔っておりますから階子はしごに打突ぶっつかって、ドタリバタリ。是では誰にでも知れますが、新吉が病人の頭の上からソックリ蚊帳を取って持出そうとすると、お累は存じて居りますから、

累「旦那様お帰り遊ばせ」

新「アヽ眼が覚めたか」

累「はい、貴方此の蚊帳を何どうなさいます」

新「何うするたって暑ッ苦しいよ、今友達を連れて来たが、狭い家うちにだゞっ広ぴろい大きな蚊帳を引摺り引廻ひんまアして、風が這入らねえのか、暑くって仕様がねえから取るのだ」

累「坊が蚊に螫くわれて憫然かわいそうでございますから、何卒どうかそれだけはお釣り遊ばして」

新「少し金が入用いりようだからよ、これを持って行って金を借りるんだ、友達の交際つきあいで仕様がねえから持って行くよ」

累「はい、それをお持遊ばしては困りますから何卒どうぞお願いで」

新「お願いだって誰がこんな狭い家うちへ大きな蚊帳を引摺り引廻ひんまわせと云った、茲こゝは己の家うちだ、誰が蚊帳を釣った」

累「はい今日こんにち兄が通り掛りまして、手前は憎い奴だが如何にも坊が憫然だ、蚊ッ喰くいだらけになるから釣って遣ろうと申して家から取寄せて釣ってくれましたので」

新「それが己の気に入らねえのだ、よ、兄と己は縁が切れて居る、手前てめえは己の女房だ、親同胞きょうだいを捨てゝも亭主に附くと手前云った廉かどがあるだろう、然そうじゃアねえか、え、おい、縁の切れた兄を何故なぜ敷居を跨またがせて入れた、それが己の気に入らねえ、兄の釣った蚊帳なれば猶なお気に入らねえ、気色が悪わりいから是を売って他の蚊帳にするのだ」

累「何卒どうぞお金子かねがお入用いりようなれば兄が金を三両程置いて参りましたから、是をお持ち遊ばして、蚊帳だけは何卒どうか」

新「金を置いて行った、そうか、どれ見せろ」

作「だから金は何処どこから出るか知んねえ、富貴ふうき天にあり牡丹餅ぼたもち棚にありと神道者しんどうしゃが云う通りだ、おいサア行くべえ」

新「行くったって三両許ばかりじゃア、塩噌えんそに足りねえといけねえ、蚊帳も序ついでに持って行って質に入れ様じゃアねえか」

作「マア蚊帳は止せよ、子供が蚊に喰われるからと姉御が云うから、三両取ったら堪忍して遣って、子供が憫然だから蚊帳は止せよ」

新「何なんだ弱よええ事を云うな」

作「弱えたって人間だから、お内儀かみさんが塩梅あんべえの悪わりいのに憫然ぐれえ知って居らア、止せよ」

新「憫然も何も有るもんか、何を云やアがるのだ此ン畜生ちきしょう、蚊帳を放さねえか」

累「それは旦那様お情のうございます、金をお持ち遊ばして其の上蚊帳までも持って行っては私わたくしは構いませんが坊が憫然で」

新「何なんだ坊は己の餓鬼だ、何だ放さねえかよう、此畜生こんちきしょうめ」

と拳こぶしを固めて病人の頬をポカリ〱撲ぶつから、是を見て居る作藏も身の毛立だつようで、

作「止せよ兄貴、己酒の酔えいも何も醒さめて仕舞った、兄貴止せよ、姉御、見込んだら放さねえ男だから、なア、仕方がねえから放しなさえ、だが、敲くのは止せよ」

新「なに、此畜生め、オイ頭の兀はげてる所とこを打ぶつと、手が粘って変な心持がするから、棒か何か無ねえか、其処そこに麁朶そだがあらア、其の麁朶を取ってくんな」

作「止せよ〱、麁朶はお願いだから止せよ」

新「なに此畜生撲なぐるぞ」

作「姉御麁朶を取って出さねえと己おらを撲るから、放すが宜ええ、見込まれたら蚊帳は助からねえからよ」

新「サア出せ、出さねえと撲るぞ、厭でも撲るぞ、此度こんだア手じゃアねえ薪まきだぞ、放さねえか」

累「アヽお情ない、新吉さん此の蚊帳は私が死んでも放しません」

と縋すがりつくのを五つ六つ続け打うちにする。泣転なきころがる処を無理に取ろうとするから、ピリ〱と蚊帳が裂ける生爪が剥はがれる。作藏は、

作「南無阿弥陀仏〱、酷ひどい事をするなア、顔は綺麗だが、怖おっかねえ事をする、怖こええなア」

新「サア此の蚊帳かやア持って行ゆこう」

作「アレ〱」

新「なに」

作「爪がよう」

新「どう、違ちげえねえ縋り付きやアがるから生爪が剥がれた、厭な色だな、血が付いて居らア、作藏舐なめろ」

作「厭だ、よせ、虫持むしもちじゃア有るめえし、爪え喰う奴があるもんか」

新「此の蚊帳かやア持って往ったら三両か五両も貸すか」

作「貸つくもんか」

新「爪を込んで借りよう」

作「琴の爪じゃアあるめえし」

とずう〱しい奴で、其の蚊帳を肩に引掛ひっかけて出て行ゆきます。お累は出口へ斯こう這出したが、口惜くやしいと見えて、

累「エヽ新吉さん」

と云うと、

新「何をいやアがる」

とツカ〱と立ち戻って来て、脇に掛って有った薬鑵やかんを取って沸湯にえゆを口から掛けると、現在我が子與之助の顔へ掛ったから、子供は、

子供「ヒー」

と二声ふたこえ三声みこえ泣入ったのが此の世のなごり。

累「鬼の様なるお前さん」

新「何をいやアがるのだ」

と持って居た薬鑵を投げると、双もろに頭から肩へ沸湯を浴あびせたからお累は泣倒れる。新吉は構わずに作藏を連れて出て参りましたが、斯う憎くなると云うのは、仏説でいう悪因縁で、心から鬼は有りませんが、憎い〱と思って居る処から自然と斯様かような事になります。

四十四

新吉は蚊帳を持って出まして、是を金にして作藏と二人でお賤の宅へしけ込み、こっそり酒宴さかもりを致して居ります、其の内に段々と作藏が酔って来ると、馬方でございますから、野良で話を為しつけて居りますから、つい声が大きくなる。

新「おい作、手前てめえ酔うと大きな声を出して困る、些ちっと静かにしろ」

作「静かにたって、大丈夫でえじょうぶだ人子ひとっこ一人通らねえ土手下の一軒家田や畑で懸隔かけへだって誰も通りゃアしねえから心配しんぺえねえよ」

賤「いゝよ、私はまた作さんの酔ったのは可笑しいよ余念が無くって、お前さん慾の無い人だよ」

作「慾が無ねい事こたアねえ、是で慾張って居るだが、何方どっちかというと足癖の悪わりい馬ア曳張ひっぱって、下り坂を歩くより、兄いと二人で此処こけえ来て、斯う遣って酔って居れば好いいからね、先刻さっきは己おらア酔えいが醒めたね」

新「止せえ、先刻の話は止せよ」

作「止せたってお賤さん、お前めえマア新吉さんは可愛いゝ人だと思って居るから、首尾して、他人ひとにも知んねえように白しらばっくれて寄せるけれども、新吉さんが此処こけえ来るってえ心配しんぺえは是こりア己おれが魂消たまげた事がある、今日ね」

新「そんな詰らねえ事をいうな手前てめえは酔うとお喋しゃべりをしていけねえ」

作「お喋りったって、一杯いっぺえ飲んで図に乗っていうのだ、エヽ、おい、それでねえ、マア一杯飲んで帰けえった処が、銭イなえと云うから、無くったって好いいや、何なんでもお賤さんの処とこへ行ってお呉んなせえというと、いつも行って馳走になって小遣こづけえ貰って帰けえるべえ能でもねえじゃアねえか、何卒どうか己も偶たまにア旨うめえ物でも買って行って、お賤に食わしてえって、其処そこはソレ情合じょうあいだからそんな事を云ったゞが、いゝや旨え物持って行くたって無ねえものはハア駄目だ、お賤さんの方が、旨え物拵こしれえて待って居るから今夜呼んで来てくんなせえよと、己が頼まれたから構わねえじゃアねえかと云っても、金が無ければてえので家うちへ帰けえると、家に蚊帳が釣って有るだ」

新「よせ〱、そんな話は止せよ」

作「話したって宜よかんべえ、それで其の蚊帳かやア質屋へ持って行こうって取りに掛ると、女房かみさんは塩梅あんべえが悪わりいし赤ん坊は寝て居るし」

新「コレよせ、よさねえか」

作「云ったって宜ええ、そんなに小言云わねえが宜え、蚊帳へ縋すがり付いて、己おらア宜えが子供が蚊に喰われて憫然かわいそうだから何卒どうかよう、と云ってハア蚊帳に縋り付くだ、それを無理に引張ったから、お前めえ生爪エ剥したゞ」

新「おい冗談じゃアねえ、折角の興が醒めらア、止せ、擽くすぐるぞ」

作「擽ぐッちゃアいけねえ」

新「お喋りはよせ」

作「宜えやな」

新「冗談云うな、喋ると口を押おせえるぞ」

作「よせ、口を押おせえちゃアいけねえ、エ、おいお賤さん、其の爪を己おれがに喰えって、誰が爪エ食う奴が有るもんかてえと、己が口へおッぺし込んだゞ、そりゃアまア宜えが、お前めえ薬鑵を」

新「冗談はよせ」

作「いゝや、よせよ擽ぐってえ」

新「寝ッちまいな〱」

と無理に欺だまして部屋へ連れて行って寝かしてしまいました。それから二人も寝る仕度になりますと、何どう云う事か其の晩は酒の機嫌でお賤がすや〱能く寝ます。雨はどうどと車軸を流す様に降って来ました。彼是八ツ時でもあろうと云う時刻に、表の戸をトン〱。

「御免なさい〱」

新「お賤〱誰か表を叩くよ、能く寝るなア、お賤〱」

賤「あいよ、あゝ眠い、何どうしたのか今夜の様に眠いと思った事はないよ」

新「誰か表を叩いて居る」

賤「はい、何方どなた」

「一寸ちょっと御免なすって、私わたくしでございます」

新「何なんだ庭の方から来たようだぜ」

賤「今明けますよ、何方でございますか名を云って下さらないでは困りますが」

「ヘイ新吉の家内、累でございます」

賤「え、お内儀かみさんが来たとさア、はい只今」

新「よしねえ、来る訳はねえ、病人で居るのだもの」

賤「お前逢って」

新「来る気遣きづけえねえよ」

賤「気遣きづかえがないったって、お内儀が迎いに来たのだから嬉しそうな顔付をしてさ」

新「冗談じゃアねえ、嬉しい事も何もあるもんか、来る気遣きづけえねえよ」

賤「只今開けますよ、大事な御亭主を引留めて済みませんねえ」

と仇口あだぐちをきゝながら、がらりと明けますと、どん〱降る中をびしょ濡になって、利かない身体で赤ん坊を抱いて漸々よう〱と縁側から、

累「御免なさい」

と這入ったから、

新「何なんだって此の降る中を来たのだなア何どうしたのだ」

累「貴方がお賤さんでございますか、駈違かけちがってお目に掛りませんが、毎度新吉が上りまして、御厄介様になりますから、何卒どうか一度はお目に掛ってお礼を申し度たいと存じておりましても、何分にも子供はございますし、私わたくしも疾とうより不快でおりました故、御無沙汰を致しました」

賤「誠にまア何うも降る中を夜中やちゅうにお出いでなすって、そんな事を仰しゃっては困りますねえ、新吉さんも江戸からのお馴染でございますから、私は此方こっちへ参っても馴染も無いもんでございますから、遊びにお出なすって下さいと、私が申しました、それから旦那も誠に贔屓ひいきにして、斯こうやってお出なさるが、御亭主を引留めて遊ばしたと云えば、お前さんも心持が快よくは有りますまいけれども、是に付いては種々いろ〱深い訳がある事でございますが、それは只今何も云いません、新吉さん折角迎いにお出でなすったからお帰りよ」

新「帰けえることはねえ、おい、お前めえ冗談じゃアねえ、そんな形なりをして来て見っとも無い、亭主の恥を晒さらしに来る様なものだ、エ何なんだなア、おい、此の降る中を、お前なんだ逆上のぼせて居るぜ、*たじれて居るなア」

*「のぼせて気が変になる。むちゅうになって気ちがいじみる」

四十五

累「はい、たじれたか知りません、私は何どうなっても宜しゅうございますが、貴方の児こだから殺とすも「殺とすも」はママ何共どうとも勝手になさいだが、表向には出来ませんから、此の坊やアだけは今晩夜よが明けないうち法蔵寺様へでも願って埋葬ともらいを致したいと存じます、誰も宅うちへ参り人てはなし、私が此の病人では何う致す事も出来ませんから、何卒どうぞ一寸お帰りなすって、お埋葬とむらいだけをなすって、然そうして又此方こちらへ遊びに入らしって下さい、お賤さん、私が申しますと宅やどが立腹致しますから、何卒どうかあなたから、今夜だけ帰って子供の始末を付けてやれと仰しゃって」

賤「はい、お帰りよ新吉さんよう」

新「帰けえれたって夜中に仕様がねえ」

賤「夜中だって用があって迎いに来たのだからお帰りよ、旨く云って居ても本木もときに優まさる梢木うらきは無いという事だからねえ、お内儀かみさんに迎いに来られゝば心持が宜いいねえ、旨く云ったってにこ〱顔付に見えるよ」

新「何がにこ〱、冗談じゃアねえ、帰けえらねえ、おい」

累「はい、何卒どうかお前さん坊の始末を」

新「始末も何もねえ、行ゆかねえか」

賤「其様そんなに云わずにお前お帰りよ、折角お迎いにお出いでなすったに誠にお気の毒様、大事な御亭主を引留めてね、さアお帰りよ、手を引かれてよ」

新「何を云うのだ、帰けえらねえか」

と、さア癇癪に障ったから新吉は、突然いきなり利かない身体の女房お累の胸倉を取るが早いか、どんと突くと縁側から赤ん坊を抱いたなりコロ〱と転がり落ち、

累「あゝ情ない、新吉さん、今夜帰って下さらんと此の児この始末が出来ません」

と泥だらけの姿で這上るところを突飛ばすと仰向に倒れる、と構わずピタリと戸を閉たてゝ、下おろし桟ざんをして仕舞ったから、表ではお累がワッと泣き倒れまする。此の時雨は愈々いよ〱烈はげしくドウドッと降出します。

新「エヽ気色が悪わりい、酒を出しねえ」

賤「酒をったって私は困るよ、彼様あんな酷ひどいことをして、一寸帰ってお遣やりよ」

新「うまく云ってやアがる、酒を出しねえ、冷たくっても宜いいや」

と燗冷かんざましの酒を湯呑に八分目ばかりも酌ついで飲み、

新「お前めえも飲みねえ」

と互に飲んで床につくと、何どういう訳か其の晩は、お賤が枕を付けると、常になくすや〱能く寝ます。小川から雨の落込んで来る音がどう〱といいます。夜は深ふけて一際ひときわしんと致しますと、新吉は何うも寝付かれません。もう小一時こいっときも経たったかと思うと、二畳の部屋に寝て居りました馬方の作藏が魘うなされる声が、

作「ウーン、アア……」

新「忌いめえましい奴だな、此畜生こんちきしょう、作藏〱おい作や、魘れて居るぜ、作藏、眼を覚まさねえかよ、作藏、夢を見て居るのだ」

作「エ、ウウ、ウンア」

新「忌えましい畜生だ、やい」

作「ヘエ、あゝ」

新「胆きもを潰さア、冗談じゃアねえ寝惚けるな、お賤が眼を覚さア」

作「寝惚けたのじゃアねえよ」

新「何うした」

作「己おれが彼処あすこに寝て居るとお前めえ、裏の方の竹を打付ぶっつけた窓がある、彼処のお前雨戸を明けて、何うして這入へえったかと見ると、お前の処の姉御、お累さんが赤ん坊を抱いて、ずぶ濡れで、痩せた手を己の胸の上へ載せて、よう新吉さんを帰けえしておくんなさいよ、新吉さんを帰しておくんなさいよと云って、己が胸を押圧おっぺしょれる時の、怖こええの怖くねえのって、己はせつなくって口イ利けなかった」

新「夢を見たのだよ、種々いろんな事で気を揉むから然そう云う夢を見るのだ、夢だよ」

作「夢で無ねえよ、あゝ彼処の二畳の隅に樽があるだろう」

新「ウン」

作「樽の上に簑みのが掛けてある」

新「ウン、ある」

作「簑の掛けてある処に赤ん坊を抱いて立って居るよう」

新「よせ畜生、気の故せいだ」

作「気の故じゃア無え、あゝ怖おっかねえ、あれ〱」

新「おい潜り込んで己の処へ這入へえって来ちゃアいけねえ、仕様がねえなア」

とん〱、

「御免なさい〱」

新「誰だい」

作「また来た、あゝ怖っかねえ〱」

新「誰だい」

男「えゝ新吉さんは此方こちらにお出いでなさいますか、ちょっくら帰けえって、家うちは騒ぎが出来ました、お累さんが飛んだ事になりましたから方々ほう〲捜して居たんだ、直すぐに帰けえって下せえ」

作「誰だか」

新「誰だか見な」

作「怖くって外へは出られねえ、皆みんな此処こゝに居るだけれども、中々歩く訳にいかねえ、足イすくんで歩かれねえ」

四十六

新「何方どなたでございます」

とガラリと明けて見ると村の者。

男「やア新吉さん、居たか、あゝ好よかった、さア帰けえって、気の毒とも何なんとも姉御の始末が付かねえ、何どうも捜したの捜さねえのって直ぐ帰けえらないではいけねえ、届ける所へ届けて、名主様へも話イしてね、困るから、さア帰けえって」

と云われ、新吉は何なんの事だかとんと分りませんが、致し方なく夜明け方に帰りますると、情ないかな、女房お累は、草苅鎌の研澄とぎすましたので咽喉笛のどぶえを掻かき切って、片手に子供を抱いたなり死んで居るから、ぞっとする程凄かったが、仕方がないから気が狂ちがってなどと云立て、先まず名主へも届けて野辺送りをする事になりました。それからは懲りて三藏も中々容易に寄り付きません。新吉もお累が死んで仕舞った後あとは、三藏から内所で金を送る事もなし、別に見当みあてがないから宿替やどがえをしようと、欲しがる人に悉皆そっくり家を譲って、時々お賤の処へしけ込みます。其の間は仕方がないから、水街道へ参って宿屋へ泊り、大生郷の宇治の里へ参って泊りなどして、惣右衞門が留守だと近々ちか〲しけ込みます。世間でもかんづいて居るから新吉は憎まれ者で、誰たれも付合う人がない。横曾根辺あたりの者は新吉に逢っても挨拶もせぬようになりました。新吉はどん〱降る中を潜そっと忍んでお賤の処とこへ来ました。

新「おい〱お賤さん」

賤「あい新吉さんかえ」

新「あゝ明けておくれな」

賤「あい能くお出いでだね、傘なしかえ」

新「傘は有ったが借傘かりがさで、柄漏えもりがして、差しても差さねえでも同じ事でずぶ濡だ、旦那の病気は何どうだえ」

賤「お前がちょい〱見舞に来てくれるので、新吉は親切な者だ心に掛けてちょく〱来て呉れるが感心だって、悦んで居るが、年が年だからねえ、何なんだって五十五だもの、病気疲れですっかり寝付いて居るからお上あがりよ」

新「そうかえ夜来るのも極りが悪い様だが、実は少し小遣こづけえが無くなって、外ほかへ泊る訳にいかねえから、看病かた〲来たのだが、能く御新造さんが承知で旦那を此方こっちへよこして置くね」

賤「なに碌ろくな看病もしないけれども、お宅うちでは気に入らないと云ってね、気に入った処で看病をして貰う方がよいと人が来ると憎まれ口を利くから、お内儀かみさんも若旦那も此の二三日来ないから、私一人で看病するのだから実は困るよ、困るけれども其の代りには首尾がよくって、種々いろ〱旦那に話して置いた事もあるのだからね、遺言状まで私は頼んで書いて貰って置いたから、今能く寝付いて居るし、遊んでおいでな、揺ゆさぶっても病気疲れで能く寝て居るから、茲こゝで何を云っても旦那に聞える気遣きづかいは無し、他に誰も居ないから、真に差向いで話しするがね、私は旦那に受出されて此処こゝへ来て、お前とは江戸に居る時分から、まア心易こゝろやすいが、私の方で彼様あんな事を云出してから、お前も厭々ながらお内儀かみさんまであゝ云う訳になって苦労さした事も忘れやアしないから、私は何処どこ迄もお前に厭がられても縋すがりつく了簡だが、若もしお前に厭がられ、見捨てられると困るが、見捨てないというお前の証拠が見度みたいわ」

新「見捨てるも見捨てないも実はお前己だって身寄頼りもない身体、今は斯こうなって誰も鼻撮はなッつまみで新吉と云うと他人は恐気おぞけを振ふるって居るのだ、長く此処こゝに居る気もないから、寧いっそ土地を変えて常陸ひたちの方へでも行ゆこうか、上州の方へ行こうか、それとも江戸へ帰けえろうかと思う事も有るが、お前が此処に居る中うちは何どうしても離れる事は出来ないが、村中むらじゅうで憎まれてるから土手に待伏でもして居て向臑むこうずねでも引払ひっぱらわれやアしねえかと心配でのう」

賤「私も一緒に行って仕舞い度たいが、今旦那が死掛って居るから、旦那が死んで仕舞えば行いかれるが、今直すぐには行けない、大きな声では云えないけれども、私は形見分かたみわけの事も遺言状に書かして置いたし、お前の事も書かしてね、其処そこは旨く行って居るけれども、旦那が癒なおればまだ五十五だもの、其様そんなにお爺さんでもないから、達者になりゃア何時いつ迄も一緒に居て、ベン〱とおん爺じいの機嫌を取らなければならないが、新吉さん無理な事を頼む様だが、お前私を見捨てないと云う証拠を見せるならば今夜見せてお呉れ」

新「何どうしよう」

賤「うちの旦那を殺してお呉れな」

四十七

新「殺せって其様そんな事は出来ねえ」

賤「なぜ〱なぜ出来ないの」

新「人情として出来ねえ、お前の執成とりなしが宜いいから、旦那は己が来ると、新吉手前てめえの様に親切な者はねえ、小遣こづけえを持って行け、独身ひとりみでは困るだろう、此の帯は手前に遣やる着物も遣ると、仮令たとえ着古した物でも真に親切にして呉れて、旦那の顔を見ては何どうしても殺せないよ」

賤「殺せます、だから新吉さん、私はお前が可愛いと云う情じょうのない事を知って居るよ」

新「情がないとは」

賤「情が有るなら殺してお呉れよ」

新「情が有るから殺せないのだ」

賤「何を云うのだね、じれったいよ、お出でったらお出でよ」

然そうなると婦人の方が度胸の能よいもので、新吉の手を引いて病間へ窃そうっと忍んで参りますと、惣右衞門は病気疲れでグッスリと寝入端ねいりばなでございます。ブル〱慄ふるえて居る新吉に構わず、細引ほそびきを取って向むこうの柱へ結び付け、惣右衞門の側へ来て寝息を窺うかがって、起るか起きぬか試ためしに小声で、

賤「旦那〱」

と二声ふたこえ三声みこえ呼んでみたが、グウ〲と鼾いびきが途断とぎれませんから、窃そっと襟の間へ細引を挟み、また此方こちらへ綾あやに取って、お賤は新吉に眼くばせをするから、新吉ももう仕方がないと度胸を据すえて、細引を手に捲まき付けて足を踏張ふんばる。お賤は枕を押えて、

賤「旦那え〱」

と云いながら、枕を引く途端、新吉は力に任まかして、

新「うーム」

と引くと仰向に寝たなり虚空を掴んで、

惣「ウーン」

賤「じれったいね新吉さん、グッと斯こうお引きよ、もう一つお引きよ」

新「うむ」

と又引く途端新吉は滑って後うしろの柱で頭をコツン。

新「アイタ」

賤「アヽじれったいね」

と有合ありあわせた小杉紙こすぎがみを台処だいどころで三帖さんじょうばかり濡して来て、ピッタリと惣右衞門の顔へ当てがって暫く置いた。新吉はそれ程の悪党でもないからブル〱慄ふるえて居りまする。濡紙を取って呼吸を見るとパッタリ息は絶えた様子細引を取って見ると、咽喉頸のどくびに細引で縊くゝりました痕きずが二本付いて居りますから、手の掌ひらで水を付けては頻しきりに揉療治を始めました。すると此の痕は少し消えた様な塩梅。

賤「さアもう大丈夫だ、新吉さんお前は今夜帰って、そうしてこれ〱にするのだから、明日あしたお前悟られない様に度胸を据すえて来てお呉れよ」

といって新吉を帰して、すっぱり跡方の始末を付けて、直すぐに自分は本家へ跣足はだしで駈込んで行ゆきまして

賤「旦那様がむずかしくなりましたからお出いでなすって、まだ息は有りますが御様子が変ったから」

というと驚きまして、本家では悴せがれ惣二郎そうじろうから弟息子の惣吉そうきちにお内儀かみさん村の年寄が駈けて来て見ると間に合いません間に合わない訳で、殺した奴が知らしたのでございますから。是非なく是から遺言状をというので出して見ると、其の書置かきおきに、私は老年の病気だから明日あすが日も知れん、若もし私が亡ない後のちは家督相続は惣二郎、又弟惣吉は相当の処へ惣二郎の眼識めがねを以て養子に遣って呉れ、形見分かたみわけは是々、何事も年寄作右衞門と相談の上事を謀はかる様、お賤は身寄頼りもない者、無理無体に身請をして連れて来た者であるから、私が死ねば皆みんなに憎まれて此の土地にいられまいから、元々の通り江戸へ帰して遣ってくれ、帰る時は必ず金を五十両付けて帰してくれ、形見分はお賤に是々、新吉は折々見舞に来る親切な男なれども、お賤と中がよいから、村方の者は密通でもしている様に思うが、彼あれは江戸からの親ちかしい男で、左様な訳はない、親切な者で有る事は見抜いているから、己が葬式は、本葬は後あとでしても、遺骸を埋うずめるのは内葬にして、湯灌ゆかんは新吉一人に申し付ける、外ほかの者は親類でも手を付ける事は相成らぬ。という妙な書置でございますが、田舎は堅いから、其の通りに先まずお寺様へ知らせに遣り、夜よに入いり内葬だから湯灌に成りましても新吉一人、湯灌は一人では出来ぬもので、早桶を湯灌場に置いて、誰たれも手を付けては成らぬというのだから、

新「皆さん入らしっては困りますよ、遺言に背きますから」

「実にお前は仕合しやわせだ」

と年寄から親類の者も本堂に控えて居る。是から早桶の蓋を取ると合掌を組んだなり、惣右衞門の仏様は斯こう首を垂れて居るのを見ると、新吉は現在自分が殺したと思うとおど〱して手が附けられません。殊ことに一人では出来ないがと思って居る処へ、土手の甚藏という男、是は新吉と一旦兄弟分に成りました悪漢わる。

甚「新吉〱」

新「兄いか」

甚「一寸ちょっと顔出しをしたのだが、本家へ行ったらお内儀かみさんが泣いているし、誠にお愁傷でのう、惜しい旦那を殺した、えゝ此の位くれえ物の解わかったあんな名主は近村きんそんにねえ善いい人だが、新吉、手前てめえ仕合しやわせだな、一人で湯灌を言付けられて、形見分もたんまりと、エおい、おつう遣っているぜ」

新「却かえって有難迷惑で一人で困ってるのだ」

甚「困るたって新吉、一人で湯灌は馴れなくっては出来ねえ、おい、それじゃアいかねえ、内所で己が手伝って遣ろうか」

新「じゃア内所で遣ってくんねえ」

四十八

甚「弓張ゆみはりなざア其方そっちの羽目へ指しねえな、提灯ちょうちんをよ、盥たれえを伏せて置いて、仏様の腋わきの下へ手を入れて、ずうッと遣って、盥の際きわで早桶を横にするとずうッと足が出る、足を盥の上へ載せて、胡坐あぐらをかゝせて膝で押おせえるのだ、自分の胸の処へ仏様の頭を押付おっつけて、肋骨あばらぼねまで洗うのだ」

新「一人じゃア出来ねえ」

甚「己は馴れていらア、手伝って遣ろう」

新「何どう」

甚「何うだって盥たれえを伏せるのだよ、提灯ちょうちんを其方そっちへ、えゝ暗くれえ心しんを切りねえ、えゝ出しねえ、出た〱オヽ冷てえなア、お手伝いでござえ、早桶をグッと引くのだ」

新「何う」

甚「何うたってグッと力に任して、えゝ気味を悪がるな」

新「あゝ出た〱」

甚「出たって出したのだ、さア胡座あぐらをかゝせな、盥たれえの上へ、宜よし〱そりゃ来た水を、水だよ、湯灌をするのに水が汲んでねえのか、仕様がねえなア、早く水を持って来きねえ」

と云うから新吉はブル〱慄ふるえながら二つの手桶を提さげて井戸端へ行ゆく。

甚「旦那お手伝でげすよ」

と抱上げて見ると、仏様の首がガックリ垂れると、何どう云うものか惣右衞門の鼻からタラ〱と鼻血が流れました。

甚「おや血が出た、身寄か親類が来ると血が出るというが己は身寄親類でもねえが、何うして血が出るか、おゝ恐ろしく片方かたっぽから出るなア」

と仰向にして仏様の首を見ると、時過たったから前よりは判然はっきりと黒ずんだ紫色に細引の痕あとが二本有るから、甚藏はジーッと暫く見て居る処へ手桶を提げて新吉がヒョロ〱遣って来て、

新「兄い水を持って来たよ」

甚「水を持って来たか此方こっちへ入れて戸を締めなよ」

新「な何なんだ」

甚「此処こけへ来て見やア、仏様の顔を見やア」

新「見たって仕様がねえ」

甚「見やア此の鼻血をよ」

新「いけねえなア、其様そんなものを見たって仕様がねえ、悪わりい悪戯いたずらアするなア」

甚「悪わりいたって己がしたのじゃアねえ、自然ひとりでに出たのだ新吉咽喉頸のどっくびに筋が出て居るな、此の筋を見や」

新「エ、筋が有ったっても構わねえ、水を掛けて早く埋めよう、おい早く納めよう」

甚「納められるもんかえ、やい、是こりゃア旦那は病気で死んだのじゃアねえ変死だ、咽喉頸に筋があり、鼻血が出れば何奴どいつか縊くびり殺した奴が有るに違ちげえねえ」

新「何なんだ人聴ひとぎきが悪わりいや、大きな声をしなさんな、仏様の為にならねえ」

甚「手前てめえも己も旦那には御恩があらア、其の旦那の変死を此の儘に埋めちゃア済まねえ、誰たれか此の村に居る奴が殺したに違ちげえねえから、敵かたきを捜して、手前も己も旦那の敵を取って恩返おんげえしを仕なけりゃア済まねえ、代官へでも何処どこへでも引張ひっぱって行くのだ、本堂に若旦那が居るから若旦那に一寸ちょいとと云って呼んで……」

新「何なんだな其様そんな事をして兄い困るよ、藪を突付つっついて蛇を出す様な事をいっちゃア困らアな、今お経を誦あげてるから、エーおい兄い、それはそれにして埋めて仕舞おう」

甚「埋められるもんかえ、それとも新吉、実は兄い私わっちが殺したんだと一言ひとこと云やア黙って埋めて遣ろう」

新「何を詰らねえ事を、な何を、思い掛けねえ事をいうじゃアねえか何なんだって旦那を」

甚「手前てめえが殺したんでなけりゃア外ほかに敵が有るのだから敵討をしようじゃアねえか、手前お賤と疾とうから深ふけえ中で逢引するなア種が上って居るが、手前は度胸がなくっても彼あの女あまア度胸が宜いいから殺してくれエといい兼ねゝえ、キュウと遣ったな」

新「何どうも、な何なんだってそれは、何うも、エおい兄あんにい外の事と違って大恩人だもの、何ういう訳で思い違ちげえて其様そんな事を、え、おい兄あんにい」

甚「何をいやアがるのだ、手前てめえが殺さなけりゃア殺さねえで宜いいやア、手前と己は兄弟分の誼よしみが有るから打明けて殺したと云やア黙って口を拭ふいて埋めるが、外に敵が有れば敵討だ、マア仏様を本堂へ持って行こう」

新「これドヽ何どうも困るナアおい兄あんにい、え、兄い表向にすれば大変な事に成るよ」

甚「え、成ったって宜いや、不人情な事をいうな、手前てめえが殺したなら黙って埋うめるてえのだ、殺したら殺したと云いねえ、殺したか」

新「仕様がねえな、何どうも己が殺したという訳じゃアねえが、それは、困って仕舞ったなア、唯ただ一寸ちょいと手伝ったのだ」

甚「なに手伝った、じゃアお賤が遣ったか」

新「それには種々いろ〱訳が有るので、唯縄を引張ったばかりで」

甚「それで宜しい、引張ったばかりで沢山だ、お賤が引くなア女の力じゃア足りねえから、新吉さん此の縄を締めてなざア能く有る形だ、宜しい、よし〱早く水を掛けやア」

とザブリ水を打掛ぶっかけて其の儘なりにお香剃こうずりの真似をして、暗いうちに葬りに成りましたから、誰有って知る者はございませんが、此の種を知っている者は土手の甚藏ばかり、七日が過すぎると土手の甚藏が賭博ばくちに負けて素すっ裸体ぱだかになり、寒いから犢鼻褌ふんどしの上に馬の腹掛を引掛ひっかけて妙な形なりに成りまして、お賤の処へ参り、

甚「え、御免なせえ」

と是から強請ゆすりになる処、一寸一息吐きまして。

四十九

土手の甚藏がお賤の宅へ参りましたのは、七日も過ぎましてから、ほとぼりの冷めた時分行ゆくのは巧たくみの深い奴でございます。丁度九月十一日で、余程寒いから素肌へ馬の腹掛を巻付けましたから、太輪ふとわに抱茗荷だきみょうがの紋が肩の処へ出て居ります、妙な姿なりを致して、

甚「ヘエ御免なせえ、ヘエ今日こんにちは」

賤「ハイ何方どなたえ」

甚「ヘエお賤さん御免なさえ、今日は」

賤「おや、新吉さん土手の甚藏さんが来たよ」

新「えゝ土手の甚藏」

新吉は他人ひとが来ると火鉢の側に食客いそうろうの様な風をして居るが、人が帰って仕舞えば亭主振ていしぶって居りますが、甚藏と聞くと慄ぞっとする程で、心の中うちで驚きましたが、眼をパチ〱して火鉢の側に小さく成って居りますと、

甚「誠に続いて好いい塩梅にお天気で」

賤「はい、さア、まア一服お喫あがりなさいよ」

甚「ヘエ御免なさえ、斯こういう始末でねえお賤さん、御本家へもお悔くやみに上あがりましたが、旦那がお亡なくなりで嘸さぞもう御愁傷でございましょう、ヘエ私わっちも世話に成った旦那で、平常ふだん優しくして甚藏や悪い事をすると村へ置かねえぞと、親切に意見をいって、喧やかましい事は喧しいけれども、時々小遣こづけえもおくんなすってね、善いい人で、惜まれる人は早く死ぬと云うが、五十五じゃア定命じょうみょうとは云われねえ位くれえで嘸お前さんもお力落しで、新吉此処こゝに居るのか手前てめえ、え、おい」

新「兄い此方こちらへお上りなさい」

甚「お賤さん、新吉がお前さんの処へ来て御厄介で、家うちは彼様あんな塩梅に成って此方こちらより外ほかに居る処が無ねえから、宜いい事にして、新吉が寝泊りをして居るというのだが、私わっちも新吉もお賤さんもお互に江戸子えどっこで、妙なもので、村の者じゃア話しが合わねえから新吉と私は兄弟分きょうでえぶんになり、兄弟分の誼よしみで、互たげえに銭がねえといやア、ソレ持ってけというように腹の中をサックリ割った間柄、新吉の事を悪くいう奴が有ると、何なんでえといって喧嘩もする様な訳で、ヘエ有難う、カラもう何どうも仕様がねえ、新吉、物がヘマに行ってな、此の通り人間が馬の腹掛を借りて着て居る様に成っちゃア意気地いくじはねえ、馬の腹掛で寒さを凌しのぐので、ヘエ有がとう、好いいお宅でげすねえ、私は初めて来たので」

賤「然そうですか、なに好い家うちを拵こしらえて下すっても仕方がござりませんよ、斯こう急に、旦那様がお逝去かくれに成ろうとは思いませんでねえ、何時いつまでも此処こゝに住んで居る了簡で居りましたが、旦那が亡なられては仕方が有りません。他ほかに行ゆく処はなし、まア生れ故郷の江戸へ帰る様な事に成りますが、本当に夢の様な心持で、あゝ詰らないものだと考え出すと悲しく成ってね」

甚「そうでしょう、是は何どうも実になア、新吉お賤さんは何どの位くれえ力落だか知れやアしねえ、ナア、ヘエ有難う良いいお茶だねえ、此様こんな良い茶を村の奴に飲のましたって分らねえ、ヘエ有難う、お賤さん誠に申し兼ねた訳でげすがねえ、旦那が達者でいらっしゃれば黙って御無心申すのだが、此の通りの始末で、からモウ仕様がねえ、何うかお願いでございますが些ちっと許ばかり小遣こづけえをお貰もれえ申し度てえが、何うか些と許り借金を返けえして江戸へでも帰けえりてえ了簡も有るのですが、何うか新吉誠に無理だがお賤さんに願ってねえ、姉さんお願いでげすが些とばかり小遣こづけえをねえ」

賤「はい困りますねえ、旦那が亡なりまして私は小遣こづかいも何もないのですが、沢山の事は出来ませんが、真ほんの志こゝろばかりで誠に少しばかりでございますが」

甚「イヽエもう」

賤「真の少しばかりでお足たしには成りますまいが、一杯召上って」

甚「ヘエ有難う、ヘエ」

と開けて見ると二朱金で二個ふたつ。

甚「是はお賤さんたった一分いちぶで」

賤「はい」

甚「一分や二分じゃア借りたって私わっちの身の行立ゆきたつ訳は有りませんねえ、借金だらけだから些と眼鼻めはなを付けて私も何うか堅気かたきに成りてえと思ってお願い申すのだが、それを一分ばかり貰っても法が付かねえから、少し眼鼻の付く様にモウ些とばかり何うかね」

賤「おや一分では少ないと仰しゃるの、そう、お気の毒様出来ません、私どもは深川に居ります時にも随分銭貰ぜにもらいは来ましたが、一分遣れば大概帰りました、一分より余計たんとは上あげる訳にゃア参りません、はい女の身の上で有りますからねハイ、一分で少ないと仰しゃれば、身寄親類ではなし上げる訳は有りませんが、そうして幾ら欲ほしいと仰しゃるのでございますえ」

甚「幾らカクラてえお強請ねだり申すのでげすから貰う方で限りはねえ、幾ら多くっても宜いいが、お賤さんの方は沢山たんと遣りたくねえというのが当然あたりめえの話だが、借金の眼鼻を付けて身の立つ様にして貰うにゃア、何様どんな事をしても三拾両貰わなけりゃア追付おっつかねえから、三拾両お借り申してえのさ、ねえ何うか」

賤「何なんだえ三拾両呆れ返って仕舞うよ、女と思って馬鹿にしてお呉れでないよ、何だエお前さんは、お前さんと私は何だエ、碌にお目に掛った事も有りませんよ、女一人と思って馬鹿にして三拾両、ハイ、そうですかと誰が貸しますえ、訝おかしな事をいって、なん、なん、なん何をお前さんに三拾両お金を貸す縁がないでは有りませんか」

五十

甚「それは縁はない、縁はないがね、縁を付けりゃア付かねえ事も有りますめえ、ねえ新吉と私わっちは兄弟分、ねえ其の新吉が此方様こちらさまへ御厄介に成って居るもの其の縁で来た私さ」

賤「新吉さんは兄弟分か知りませんが、私はお前さんを知りません、新吉さん帰ってお呉んなさいヨウ、呆れらア馬鹿〱しい、人を馬鹿にして三拾両なんて誰たれが貸す奴が有るものか、三拾両貸す様な私はお前さんに弱い尻尾しっぽを見られて居れば仕方がないが、私の家うちで情交いろの仲宿なかやどをしたとか博奕ばくちの堂敷どうじきでも為したなら、怖いから貸す事も有るが、何もお前さん方に三拾両の大金を強請いたぶられる因縁は有りません、帰ってお呉れ、出来ませんよ、ハイ三文も出来ませんよ」

甚「然そう腹を立っちゃア仕様がねえ、え、おい、だがねえお賤さん、人間が馬の腹掛を着て来る位くれえの恥を明かしてお前さんに頼むのだ、私わっちも此の大だいの野郎が両手を突いて斯こんな様ざまアしてお頼み申すのだから能々よく〱の事、宜いいかね、それにたった一分じゃア法が付かねえ、私の様な大きな野郎が手を突いてのお頼みだね、此の身体を打毀ぶっこわして薪まきにしても一分や二分のものはあらアね、馬の腹掛を着て頼むのだから、お前さん三拾両貸して呉れても宜よかろうと思う」

賤「何が宜いいのだえ、何が宜いのだよ、何もお前さん方に三拾両の四拾両のと借りられる縁が有りません、悪い事をした覚えは有りません、博奕の宿や地獄の宿はしませんから貸されませんよ」

甚「じゃア何どう有ってもいけねえのかえ」

賤「帰ってお呉んなさい」

甚「そうか無理にお借り申そうという訳じゃアねえ、じゃア帰けえりましょう、新吉黙って引込ひっこんで居るなえ此処こゝへ出ろ、借りて呉れ、ヤイ」

新「其様そんな大きな声をしてはいけねえやな兄あんにい仕方がねえな、お賤さん仕方がねえ貸しねえ」

賤「何なんだえ、お前さんは心易こゝろやすいか知りませんが、私は存じません、何様どんな事が有っても出来ませんよ、帰ってお呉んなさい」

甚「何どう有っても貸せねえってものア無理にゃア借りねえ、じゃア云って聞かせるが、コレ女だと思うから優しく出りゃア宜いい気に成りやアがって、太ふてえ事をしやアがって、色の仲宿や博奕の堂敷が何程の罪だ、世の中に悪わりい事と云うなア人殺しに間男と盗賊ぬすっとだ」

賤「何をいうのだ」

甚「なに、何どうしたも斯こうしたもねえ、新吉此処こゝへ出ろ、エヽおい、咽喉頸のどっくびの筋が一本拾両にしても二十両が物アあらア」

新「マア黙って兄あんにい」

甚「何なんでえ篦棒べらぼうめ、己が柔和おとなしくして居るのだから文句なしに出すが当然あたりめえだ、手前等てめえらが此の村に居ると村が穢けがれらア、手前等を此処こけえ置くもんか篦棒め、今に逆磔刑さかばりつけにしようと簀巻すまきにして絹川へ投ほうり込こもうと己が口一つだから然そう思ってろえ」

新「おい、其様そんな事を人に」

甚「人に知れたって構うもんかえ」

新「マア〱待ちねえ、知らねえのだお賤さんは、一件の事を知らねえのだよ、だから己が何どうか才覚して持って行いこう、今夜屹度きっと三拾両持って行ゆくよ」

甚「間抜め、黙って引込ひっこんで居る奴が有るもんか、そんなら直すぐに出せ」

新「今は無いから晩方までに持って行ゆくよ」

甚「じゃア屹度持って来い」

新「今に持って行ゆくから、ギャア〱騒がねえで、実は、己がまだお賤に喋らねえからだよ、当人が知らねえのだからよ」

甚「コレ、博奕の仲宿とは何なんだ、太ふてえ女あまっちょだ」

新「そんな大きな声を」

甚「屹度持って来い、来ねえと了簡が有るぞ」

新「何ごと置いても屹度金は持って行ゆくよ、驚いたねえ」

賤「おい新吉さん、何なんだって彼奴あいつにへえつくもうつくするのだよ、お前がヘラ〱すると猶なお増長すらアね」

新「何どうしてもいけないよ、貸さなけりゃア成らねえ」

賤「何なんで彼奴あいつに貸すのだえ」

新「何なんだって、いけねえ事に成って仕舞った、旦那の湯灌の時彼奴あいつが来やアがって、一人じゃア出来ねえから手伝うといって、仏様を見ると、咽喉頸のどっくびに筋が有るのを見付けやがって、ア屹度きっと殺したろう、殺したといやア黙ってるが云わなけりゃア仏様を本堂へ持って行って詮議方あらいかたするというから、驚いて否応いやおうなしに種を明あかした」

賤「アレ〱あれだもの、新吉さん、それだもの、本当に仕方がないよ、彼あれまでにするにゃア、旦那の達者の時分から丹精したに、彼あの悪党に種を明して仕舞って何どうするのだよ、幾ら貸したって役に立つものかね、側から借りに来るよ彼奴あいつがさ」

新「だけれども隠すにも何も仕様がない、本堂へ持って行かれりゃア直すぐに悪事ぼくが露われるじゃアねえか、黙って埋めて遣るから云えというので」

賤「本当に仕様がないよ、何処どこへでも持って行けと云えばいゝじゃアないか」

新「然そういうと直すぐに彼奴あいつが持って行ゆくよ」

賤「持って行ったっていゝじゃアないか、何処どこまでも覚えは有りませんと私も云い張ろうじゃアないか」

新「云い張れないよ、彼奴あいつア中々の奴でそれに彼あアいう時は口が利けないからねえ、脛疵すねきずだからお前のいう様な訳にゃアいかねえ、金で口止めするより外ほかに仕方はないよ」

賤「でも三拾両貸すと、ばんごと〱来ては大きな声で呶鳴ると、何なんで甚藏が呶鳴るかと他人ひとの耳にも這入り、目明めあかしが居るから、おかしく勘付かれて、あいつが縛られて叩かれると喋るから、何どの道新吉さん仕方がない、土手の甚藏を何うかして殺してお仕舞いよう」

五十一

新「何どうして〱中々彼奴あいつア己より強い奴で、滅法力が有るから、彼奴は撲ぶたれても痛くねえってえので、五人位掛らねえじゃアおっ付かねえ」

賤「何どうか工夫が有るだろうじゃアないか」

新「工夫が中々いかないよ」

賤「ちょいと〱新吉さん耳をお貸し」

新「エ、うんうん成程是は旨うめえ」

賤「だからさア、それより外に仕方がないよ、悟られるといけない、悪党だから悟られない様に確しっかり男らしくよ」

と何か囁さゝやき、新吉が得心して、旦那の短い脇差をさして、新吉が日が暮れて少したって土手の甚藏の家うちへ来て、土間口から、

新「はい御免」

甚「サア上あがりゃア、マア下駄を穿いたなりで上りゃア、草履ぞうりか、構わねえ、畳がねえから掃除も何もしねえから其の儘上りゃ」

新「兄あんにい、先刻さっきの様に高声たかごえであんな事を云ってくれちゃア困るじゃアねえか、己はどうしようかと思った、表に人でも立って居たら」

甚「何故、いゝじゃアねえか、己が面つらを出したら黙って金を出すかと思ったら、まご〱して居やアがって、手前てめえお賤に惚れていやアがる、馬鹿、彼女あいつめいゝ気に成りやアがって、呶鳴り付けるから仕方なしに云ったんだ、此畜生こんちきしょう金え持って来たか」

新「彼あれから後あとでお賤に話をして実は是々で明あかしたと云ったら、それは済まない事を云った、知らなかったから誠に悪い事を云ったが、甚藏さんに悪く思わねえ様に然そういってくれというのだ」

甚「手前てめえ湯灌場の事を云ったか」

新「云ったよ、云ったら驚いてお賤は甚藏さんに済まなかった、然ういう訳なら何故早く私に然う云わないで、だが土手の甚藏さんに茲こゝで三拾や四拾や上げても焼石に水で駄目だから、纏まとまった金を上げようから、何どうかそれで堅気になり、此方こっちも江戸へ行って小世帯こじょたいを持つから、お互に此の事は云わねえという証拠の書付かきつけでも貰って、たんとは上げられないが百両上げるから、百両で堅気に成ったら宜かろうと云うので、長く彼様あんな事をしていても甚藏さんも詰らねえじゃアないか、兄弟分の友誼よしみで此の事はいわないと達引たてひいて呉れるなら、生涯食える様に百両遣ろうというのだ、百両貰って堅気に成りねえ」

甚「然うか、有難ありがてえ、百両呉れゝば生涯お互たげえに堅気に成りてえ、己も馬鹿は廃やめてえや」

新「然う極きめてくんねえ」

甚「じゃアまア金さえ持って来りゃア」

新「今茲こゝにはねえ」

甚「何をいうんだ馬鹿」

新「マア人のいう事を聞きねえ、旦那が達者のうちお賤に己が死んだら食方くいかたに困るだろうから、死んでも食方の付く様にといって、実は根本ねもとの聖天山しょうでんやまの手水鉢ちょうずばちの根に金が埋めて有るから、それを以もってと言付けて有るのだ、えゝ二百両あると思いねえ、聖天山の左の手水鉢の側に二百両埋めて有るのだから、それを百両ずつ分けて江戸へ持って行って、お互に悪事は云わねえ云いますめえと約束して、堅気になって、親類になろうじゃアねえか」

甚「然うか、新吉、旦那もお賤にゃア惚れて居たなア、二百両という金を埋めて置いて是で食えよとなア、若旦那にもいわねえで金を埋めて置くてえのは金持は違わア」

新「早く堀らねえと彼処あすこの山は自然薯じねんじょうを堀りに行ゆく奴が有るから、無暗むやみに遣やられるといけねえ」

甚「じゃア早く」

新「鋤すきか鍬くわはねえか」

甚「丁度鋤が有るから」

と有合ありあいの鋤を担かついで是から二十丁もある根本の聖天山へ上あがって見ると、四辺あたりは森々しん〱と樹木が茂って居り、裏手は絹川の流ながれはどう〱と、此の頃ごろの雨気あまけに水増して急に落おとす河水の音高く、月は皎々こう〱と隈くまなく冴さえて流へ映る、誠に好よい景色だが、高い処は寒うございますので、

甚「新吉此処こゝは滅法寒いナア」

新「なに穴を堀ると暖あったかくなって汗が出るよ、穴を堀りねえ」

甚「余計な事をいうな」

新「此処だ〱」

と差図さしずを致しますから、

甚「よし〱」

といいながら新吉と土手の甚藏がポカ〱堀りまする、所が金は出ません、幾ら堀っても金は出ない訳で固もとより無い金、びっしょり汗をかいて、

甚「新吉金は無ねえぜ」

新「無ねいね」

甚「何をいうんだ、無駄っ骨ぽねを折おらしやアがって金は有りゃアしねえ」

五十二

新「左と云ったが、ひょっとしたら向って左かしら」

甚「何を云うんだ仕様がねえな此畜生咽喉のどが渇いて仕様がねえ、斯こんなにびっしょりに成った」

新「己も咽喉が渇くから水を飲みてえと思っても、手水鉢は殻からで柄杓ひしゃくはから〱だが、誰もお参りに来ないと見えるな、うんそう〱、此方こっちへ来な、聖天山の裏手に清水の湧わく処がある、社やしろの裏手で崖の中段にちょろ〱煙管きせるの羅宇らうから出る様な清水が溜って、月が映っている、兄あにい彼処あすこの水は旨うめえな」

甚「旨えが怖くって下おりられねえ」

新「下りられねえって何どうかして下りられるだろう、待ちねえあの杉だか松だか柏かしわだかの根方に成って居る処とこに藤蔓ふじつるに蔦つたや何か縄の様になってあるから、兄い此奴こいつに吊下ぶらさがって行けば大丈夫でえじょうぶだが己は行った事がねえからお前めえ行ってくんねえな」

甚「此奴ア旨え事を考えやアがった、新吉の智慧ちえじゃアねえ様だ、此奴ア旨え、柄杓は有るか」

と手水鉢の柄杓を口に啣くわえて、土手の甚藏が蔦蔓つたかつらに掴まって段々下りて行くと、ちょうど松柏の根方ねがたの匍はっている処に足掛りを拵こしらえて、段々と谷間たにあいへ下りまして、

甚「アヽ斯こうやって見ると高いナア、新吉ヤイ〱水は充分あらア」

新「早くお前めえ飲んだら一杯持って来て呉んねえ」

甚「手前てめえ下りやアな、持って行く訳にアいかねえ、ポタ〱柄杓が漏らア、カラ〱になっていたからナア、アヽ旨うめえ〱甘露だ、いゝ水だ、アヽ旨え、なに持って行くのは騒ぎだよ」

新「後生だから、お願いだから少しでも手拭に浸ひたして持って来て呉んねえ咽喉が干ひっ付きそうだから」

甚「忌いめえましい奴だな、待ちャア」

と一杯掬すくい上げて澪こぼれない様に、平たいらに柄杓の柄えを啣くわえて蔦蔓つたかづらに縋すがり、松柏の根方を足掛りにして、揺れても澪れない様にして段々登って来る処を、足掛りの無い処を狙いすまして新吉が腰に帯さしたる小刀しょうとうを引抜き、力一ぱいにプツリと藤蔓ふじづる蔦蔓つたかつらを切ると、ズル〱ズーッと真逆まっさかさまに落ちましたが、何どうして松柏の根方は張っているし、山石の角かどが出張でっぱっておりますから、頭を打破うちやぶって、落ちまするととても助かり様はございませんが、新吉は側にある石をごろ〱谷間たにあいへ転がし落おとしました、其のうちむら〱と雲が出て月が暗く成りましたから、それを幸いに新吉は脇差を鞘に納めて、さっさと帰って来て、

新「おゝ〱お賤さん〱明けてお呉れ〱」

賤「誰たれだえ」

新「己おいらだよ」

賤「ア新吉さんかえ、能く帰って来てお呉れだねえ、案じていたよさアお這入り」

新「アヽびしょ濡だ、何か斯こう単物ひとえものか何か着てえもんだ」

賤「袷あわせと単物と重ねて置いたよ、さア是をお着、旨く行ったかえ」

新「すっぱり行った」

賤「私の云った通り後あとから石を投やったのかえ」

新「投った〱、気が付いたから後から石を二つばかり投った、あれが頭へ当りゃア直すぐに阿陀仏おだぶつだ」

賤「いゝね、今脊中を拭くから一服おしよ、熱い湯で拭く方が好いいから」

と銅盥かなだらいへ湯を汲んで新吉の脊中を拭いてやり、

賤「袷におなり」

新「大きにさば〱した」

と其のうち此方こっちへ膳を持って来て酒の燗を付け、月を見ながら一猪口ひとちょく始めて、

賤「もう是で二人とも怖い者はないよ」

新「何どうも実に旨うめえ事を考えて、一寸彼奴あいつも気が付かねえが、藤蔓に伝わって下りろといった時に、手前てめえの智慧じゃアねえ様だといった時、胸がどきりとしたが、真逆まっさかさまになって落おちる上から側に在あった石をごろ〱、あの石で頭を打破ぶちわったに違ちげえねえが、彼奴は悪党の罰ばちだ。己うぬが悪党の癖に」

是から二人で中好なかよく酒盛をしているうち空は段々雲が出て来て薄暗くなり、

賤「もう寝ようじゃアないか」

というので戸締りをしに掛りましたが、

新「また曇って来たぜ、早く仕ねえ」

賤「今お待ち」

と床を敷く間新吉は煙草を喫のんでいると、戸外おもての処は細い土手に成って下に生垣いけがきが有り、土手下の葮よし蘆あしが茂っております小溝こみぞの処をバリ〱〱という音。

新「何なんだか音がするぜ」

賤「お前様まえさんは臆病だよ、少し音がすると」

新「デモ何だかバリ〱」

賤「なアに犬だよ」

新「何だか大変にバリ付くよ、何だろう」

と怖々こわ〲庭を見る途端に、叢雲むらくもが断きれて月があり〱と照り渡り、映さす月影で見ると、生垣を割って出ましたのは、頭髪かみは乱れて肩に掛り、頭蓋あたまは打裂ぶっさけて面部これから肩これへ血だらけになり、素肌へ馬の腹掛を巻付けた形なりで、何処どこを何どう助かったか土手の甚藏が庭に出た時は、驚きましたの驚きませんのではござりませぬ、是から悪事露見という処、一寸一息吐きまして。

五十三

引続きお聴きに入れました新吉お賤は、我わが罪を隠そうが為に、土手の甚藏を欺あざむいて根本の聖天山の谷へ突落つきおとし、上から大石たいせきを突転がしましたから、もう甚藏の助かる気遣きづかいは無いと安心して、二人差向いで、堤下どてしたの新家しんやで一口飲んで、是これから寝ようと思って雨戸を締めようという所へ、土手の生垣を破って出たのは土手の甚藏、頭脳は破れて眉間これから頤これへ掛けて血は流れ、素肌に馬の腹掛を巻付けた姿なりで庭口の所へ斯こう片足踏出して、小座敷の方を睨にらみました其の顔色がんしょくは実に二ふタ眼とは見られぬ恐しい怖い姿すがたでござりますから、新吉お賤は驚いたの驚かないの、ゾッと致しました。座敷へ上あがってキャア〱騒がれては大変と思いましたが、新吉はもとよりそれ程悪徒わるものという程でも有りませんから、たゞ甚藏の見相けんそうに驚きぶる〱慓ふるえて「慓えて」はママいるから、

賤「新吉さんお前爰こゝにいてはいけないよ、どんな事が有っても詮方しかたがないから土手へ連れて行って彼奴あいつを斬払ぶっぱらっておしまいよ」

新「斬払えたって出れば殺される」

賤「大丈夫だよ、戸外おもてへ連れて行って堤どての上で」

とぐず〲云っているうちずか〲と飛込んで縁側へ片足踏かけました甚藏は、出ようとする新吉の胸ぐらを把とって

甚「己うぬ、いけッ太ぷてえ奴、能くも彼あの谷へ突落しやアがったな、お賤も助けちゃア置かねえ能くも己おれを騙だましやアがったな、サア出ろ、いけッ太え奴だ、お賤の女あまも今見ていろ」

と堤の上へ引摺ひきずって行ゆこうとする、此方こちらは出ようとする、向むこうは引くから、ずる〱と土手下へ落ちたから、

新「ウム、後生だから助けて、兄い苦しい、己の持っている金は皆みんなお前めえに、これさ兄い、何も彼かもみんなお前にやるから何どうか堪忍して、然そういう訳じゃアねえ、行間違ゆきまちがいだから」

甚「糞でも喰くらえ、なに痛いてえと、ふざけやアがるな」

と力を入れて新吉の手を逆に把とって捻ねじり、拳固げんこを振り上げてコツ〱撲ぶったから痛いの痛くないのって、眼から火の出るようでございます。

新「兄い助けて呉れ〱」

と喚わめきますのを、

甚「うぬ助けるものか、お賤のあまッちょも今後あとからだ」

と腰から出刄庖丁を取出して新吉の胸下むなもとを目懸けて突こうとすると、新吉は仰向に成って、

新「己が悪かった堪忍して、兄い後生だから助けてよう」

というも大きな声を出しては事が露顕しようと思いますから、小声で助けて呉んねえと呼ぶばかりでございます。すると何処どこから飛んで来ましたかズドンと一発鉄砲の流丸それだまが、甚藏が今新吉を殺そうと出刃庖丁を振り翳かざしている胸元へ中あたりましたから、ばったり前へのめりましたが、片手に出刃庖丁を持ち、片手は土手の草に取つき、ずーと立上ったが爪立つまだってブル〱っと反身そりみに成る途端にがら〱〱〱と口から血反吐ちへどを吐きながらドンと前へ倒れた時は、新吉も鉄砲の音に驚き呆気あっけに取られて一向訳が分らないから、身分が「身分が」はママ殺された心がしましてたゞ南無阿弥陀仏〱と申しましたが、暫くして漸ようやくに気が付き起上りまして四辺あたりを見廻し、

新「アヽ何処から飛んで来たか鉄砲の流丸それだま、お蔭で己は助かったが猟師が兎でも打とうと思って弾丸たまが反それたか、アヽ僥倖さいわい命強いのちづよかった、危ない処を遁のがれた、誰たれが鉄砲を打ったか有難いことだ」

併しかし猟夫かりゅうどが此の様子を見て居りはせぬかと絹川の方を眺めますれど、只水音のみでございまして往来は絶えた真の夜中でございます。此方こちらの庭の生垣の方からちらり〱と火縄の火が見える様だから、油断をせず透すかして見ますると、寝衣帯ねまきおびの姿なりで小鳥を打ちまする種が島を持って漸くに草に縋すがって登って来たのはお賤、

賤「新吉さんお前に怪我は無かったかえ」

新「お賤、手前てめえはマア何どうした」

賤「私はモウ途方に暮れて仕舞って、お前に怪我をさしてはならないから何うしようかと思っても、女が刃物三昧ざんまいしても彼奴あいつには敵かなわないし、何うしようかと考えたら、ふいと気がついたんだよ、此の間ね旦那が鉄砲を出して小鳥をうつ時手前てまえもやって見ろッてんでね、やっと引金に指を当あてる事だけネ教わって覚えたので、時々やって見た事がある、今も丸たまが込めて有る事を思い出したから、直すぐに旦那の手箱の中うちから取出してね、思い切って遣やって見たんだけれども、好いい塩梅に近くで発はなしただけに狙いも狂わず行やって、お前に怪我さえ無ければ私はマア有難い斯こんな嬉しい事は無いよ」

新「何しろ何どうせ此の事が露顕せずにはいねえ、甚藏を撲殺ぶっころして仕舞ってお前めえと己と一緒に成っていられる訳のものじゃアねえから、今のうち身を隠してえものだ」

賤「アヽ私もね茲こゝにいる気はさら〱無いから、形見分かたみわけのお金も有るのだけれども、四十九日まで待ってはいられないから、少しは私の貯たくわえも有るから、それを持って二人で直すぐに逃げようじゃアないか」

新「ウム、少しも早く今宵こよいの内に」

というので、是から衣類や櫛くし笄こうがい貯えの金子までも一ひト風呂敷として跡を暗くらまし、明あけ近い頃に逐電して仕舞いました。また甚藏の死骸は絹川べりにありましたが、夜よが明けて百姓が通り掛って騒ぎ、名主へも届けたが、甚藏は平素ふだん悪にくまれもの、何うか死んで呉れゝばいゝと思っていた処、甚藏が絹川べりで鉄砲で撃殺うちころされているというのを村の人達が聞込んで、アヽ是からは安心だ、甚藏が死ねば村の者が助かるまでよと歓び、其の儘名主様へ届けて法蔵寺に葬ったが、投込み同様、生きている中うちの悪事の罰で、勿論悪徒わるものですから誰の所業しわざと詮議して呉れる者も有りません。新吉お賤の逃去りましたのは固もとより不義淫奔いたずらをしていて名主様が没なくなると、自分達は衣類や手廻りの小道具何や彼かやを盗んでいなく成ったに相違ない。彼あれは素もとより浮気をしていた者の駈落だから左さもあるべしと、是も尋ねる者もないので何事も有りませんが、名主惣右衞門の変死は誰たれ有って知る者は無い。肝腎の知っている甚藏が殺されましたから、惣右衞門は全く病死したのだと心得て居りますが、中には疑がっている者も有りまして、様々いうが、マア名主の跡目は忰せがれ惣次郎、誠に柔和温順の人でお父とっさんは道楽のみを致しましたが、それには引きかえ惣次郎は堅くって内気ですから他たに出たことも無い人でございますが、或時村の友達に誘われまして水街道へ参って、麹屋こうじやという家うちで一猪口ひとちょこやりました、其の時、酌に出た婦人が名をお隅すみと申しまして、齢としは廿歳はたちですが誠に人柄の好よい大人しやかの婦人でございます。

五十四

水街道あたりでは皆枕附まくらつきといいまして、働き女がお客に身を任せるが多く有りますが、此のお隅は唯無事に勤めを致し、余程人柄の好よい立振舞から物の言い様、裾捌すそさばきまで一点の申分のない女ですから、惣次郎は麹屋の亭主を呼んで、是は定めし出の宜しい者だろうと聞合せますと、元は谷出羽守たにでわのかみ様の御家来で、神崎定右衞門かんざきさだえもんという人の子で、お父様とっさまと一緒に浪人して此の水街道を通り、此の家に泊り合せると定右衞門が生憎あいにく病気で長く煩らって没なくなり、後あとで薬代くすりしろや葬式料に困って居ります故、宿の主人あるじが金を出して世話を致しましたから恩報じかた〲此の家に奉公致し、外ほかに身寄親類もない心細い身の上でございますから、何分願います、外の女とは違いまして真面目に奉公を致して居りますもの、贔屓ひいきにして下さいというので、惣次郎の気に入りまして、度々たび〱遊びに来る、其の頃の名主と申しては中々幅の利いた者ですから、名主様の座敷へ出る時は、働き女でも芸妓げいしゃでも、まア名主様に出たよなどと申して見得みえにしたものでございます。惣次郎もお隅には多分の祝義を遣わし折節は反物たんものなどを持って来て遣る事も有るから、男振といい気立きだてといい柔和温順で親切な名主様と、お隅も大切に致し、何どうも有難いと思い、或日の事、

隅「私は外に参る処もない身の上でございますから、何分御贔屓なすって下さい」

というので、惣次郎も近々ちか〲来る中うちに、不図した縁で此のお隅と深くなりました事で、今迄堅い人が急に浮うかれ出すと是は又格別でございまして、此の頃は家を外そとに致す様な事が度々でございますから、お母様っかさんも心配する、弟御おとうとごもございますが、是はまだ九歳で、何も役にたつ訳でもございませぬから、お母様も種々いろ〱心配なさるが、常に堅い人だから、うっかり意見がましい事もいわれませんので控えている。すると其の翌年寛政かんせい十年となり、大生郷村の天神様から左ひだりに曲ると法恩寺ほうおんじ村という、其の法恩寺の境内に相撲が有ります。此の相撲場は細川越中守ほそかわえっちゅうのかみ様御免の相撲場ということで、木村權六きむらごんろくという人が只今以もって住んで居ります、縮緬ちりめんの幕張まくばりを致して、田舎相撲でも立派な者で近郷からも随分見物が参ります、此処こゝに参っている関取は花車重吉はなぐるまじゅうきちという、先達せんだって私わたくし古い番附を見ましたが、成程西の二段目の末から二番目に居ります。是は信州飯山いいやまの人で十一の時初めて羽生村へ来て、名主方に二年ばかり奉公している其の中うちに、力もあり体格もいゝので、自分も好きの処から、法恩寺村の場所へ飛入りに這入ると、若いにしては強い、此の間は三段目の角力すもうを投げたなどゝ賞ほめられましたから、自分も一層相撲に成ろうと、其の頃の源氏山げんじやまという年寄の弟子となったが、是より花車が来たといえば土地の者が贔屓にして見物に来る。惣次郎も何時いつも多分の祝義を遣わしましたが、今度もお隅を伴つれて見物しようと思い、相撲は附けたり、お隅に逢いたいからそこ〱支度を致しますと、母が心配して

母「アノ帰るなら今夜は些ちと早く帰って貰もれえ度てえ、明日あすは少し用が有るからのう」

惣次郎「少しは遅く成るかも知れません、若もし遅くなれば喜右衞門きえもんどんに何彼なにかと頼んで置いたから御心配は無いが、万一ひょっとして花車も一抔「一抔」はママやり度たいなどゝ云うと、些ちっとは私も遣り度い物も有りますから、又帰る迄に着物でも持たして遣りとうございますし、そんな事で種々いろ〱又相談も致しますから、若し遅く成りましたら、何どうかお先にお寝やすみなすって下さいまし」

母「ハイ遅くならば先さきに寝てもいゝだけれど、まア此の頃は他ほかへ出ると泊って来る事もあり、今迄旦那様が達者の時分にはお前が家うちを明けた事はねえ、あんな堅かてえ若旦那様はねえ、今の世は逆さかさまだ、親が女郎を買って子が後生を願うと云う唄の通りだ、惣次郎様の様なあんな若旦那ア持ちながら、惣右衞門どんはいゝ年いして道楽するなどと村の者がいうから、鼻が高たけえと思ったが、旦那殿が死んで仕舞って見ると、今ではお前めえの身代だから、まア家うちの為え思ってお前も今迄骨折って呉れただが、去年あたりから大分でえぶ泊りがけに出かけるものだから、村の者も今迄は堅かてえ人だったが、何どう言う訳だがな泊り歩くが、役柄もしながらハアよくねえ事こッたア年老としとった親を置いて、なんて悪口わるくちを利きく者もあるで、成なるだけ他人ひとには能く云わしたいが、是は親の慾だからお前の事だから間違まちげえはなかんべえが、成たけまア帰けえれるだら帰けえって貰もれえてえだ心配しんぺいだからのう」

惣次郎「イエなに、然そう御心配なれば参らんでも宜しゅう、是非参り度たい訳ではありません、花車も来た事だから聊いさゝかでも祝義も遣り度いと思いましたが、そういう訳なら参らんでも宜しいので、新右衞門しんえもんも同道する積りでしたが、左様なれば往いかないでも先方むこうで咎とがめるでもなし、怒おこりもしますまい、それでは止やめましょう」

母「そういえばハア困るべえじゃアねえか、行くなアとはいわねえが、出れば泊りがけの事も有るし、帰けえらねえ事も有るから、それで私わしが案じるからいうので、行くなアとはいわねえ、行っても能いゝから早く帰けえって来こうというのだ、お前めえは今迄親に暴あれえ言ことをいい掛けた事はねえが、此の頃は様子が異ちがって意見らしい事をいえば顔色かおいろが違うからいうだ、私は段々年を取り惣吉はまだ子供なり、役には立たねえから、お前も堅くって今まで人に云われる事もなかっただから、間違まちげえはなかろうけれども、若わけえ者の噂にあんなハア美うつくしい女子おなごがあるから家うちへ帰けえるは厭いやだんべえ、婆様ばあさまの顔見るも太儀たいぎだろうなどという者もあるから、そんな事を聞くと心配しんぺいで成んねえもんだから、少しも能く思わせてえのが親の慾でござらア、行くなという訳ではねえ往ってもいゝから帰けえれたら早く帰けえって来こうというと胆きもいれてそんたら往くめえなどと、年寄ればハア然そうお前めえにまでいわれて邪魔になるかと思って早くおっ死度ちにてえなどと愚痴も出るものでのう」

五十五

惣次郎「イエ左様なれば早く帰って参ります、思わず言過ぎて何どうも悪いことを申しまして今夜は早く帰って参ります、大おおきに余計な御心配を懸けまして誠に済みません」

母「然そうなれば宜しい、機嫌を直して往いくがいいよ、これ〱多助たすけや」

多「ハイ」

母「汝われ行くか」

多「ヘエ、関取が出るてえから行って見ようと思って」

母「汝口が苛えらいから人中へ入って詰らねえ口利いては旦那様の顔に障るから気イ付けて能く柔和おとなしく慎しんで往いてこうよ」

多「ヘエ、畏かしこまりました、私わしが行けば大丈夫でいじょうぶだ、そんなら往って参めえります、左様なら」

と、惣次郎は是から水街道の麹屋に行って彼かのお隅を連れて、法恩寺村の場所に行こうと思ったが、今日は大たいした入りだというから、それよりは花車を他ほかへ招よんで酒を飲ました方が宜しい、それに女連おんなづれで雑沓ざっとうの中で間違でも有っては成らぬ、殊ことにお隅を連れて行くは心配でもあり役柄をも考えたから、大生郷の天神前の宇治の里という料理屋へ上あがり、此処こゝの奥で一猪口ひとちょこ遣やっていると、間が悪い時は仕方のないもので、彼かのお隅にぞっこん惚れて口説いて弾はじかれた、安田一角やすだいっかくという横曾根村の剣術家、自みずから道場を建てゝ近村きんそんの人達が稽古に参る、腕前は鈍くも田舎者を嚇おどかしている、見た処は強そうな、散髪を撫付なでつけて、肩の幅が三尺もあり、腕などに毛が生えて筋骨逞たくましい男で、一寸ちょっと見れば名人らしく見える先生でございます。無反むぞりの小長こながいのを帯さし、襠高まちだかの袴はかまをだゞッ広ぴろく穿き、大先生の様に思われますが、賭博打ばくちうちのお手伝でもしようという浪人者を二人連れて、宇治の里の下座敷で一口遣っていると、奥に惣次郎がお隅を連れて来ている事を聞くと、ぐッぐッと癪に障り、何か有ったら関係かゝりあいを付けようと思っている。此方こちらでは御飯が済んだから帰り掛がけに花車の家いえに往ゆこうというので急いで出る、お隅も安田が来ているのを認めましたから気味が悪く早く帰ろうと思うので、奥から出て廊下へ来ると、何どうしても其処そこを通らなければ出られないから、安田はわざと三人の刀の鐺こじりを出して置きますと、長い刀の柄前つかまえにお隅が躓つまづきましたのを見ると、

安「コレ〱待て、コレ其処へ行ゆく者待て」

惣「ヘエ〱私わたくしでございますか」

安「手前何処どこの者か知らんけれども、人の前を通る時に挨拶して通れ、殊ことにコレ武士の腰に帯たいして歩く腰の物の柄前に足をかけて、麁忽そこつでござると一言ひとことの謝言わびごとも致さず、無暗むやみに参ることが有るか、必定心有ってのことだろう」

惣「ヘイ頓とんと心得ませんで…お前疎忽そこつだからいけない、お武家様のお腰の物に足をかけて何なんのことだね、ヘイ何どうも相済みませんでございました、つい取急ぎまして飛んだ不調法を致しました、当人に成代りましてお詫わびを申上げます、何分御勘弁を願います」

安「なに詫を申すなら何処の者か姓名も云わず、人に物を詫びるには姓名を申せ、白痴たわけめ」

惣「ヘエ、手前は羽生村の惣次郎と申す何も弁わきまえませぬ百姓でございます」

安「なに、羽生村の惣次郎、うむ名主だな、イヽヤ名主だ、羽生村にて外ほかに惣次郎と云う名前の者は無い様だ、名主役をも勤むる者が人の前を通る時には御免なさいとかお先さきに参るとか何なんとか聊いさゝか礼儀会釈を知らぬ事も有るまい、小前こまえの分らぬ者などには理解をも云い聞けべき名主役では無いか、それが殊ことに武士さむらいの腰の物を足下そっかにかけて黙って行いくと云う法が有るか、咎とがめたらこそ詫もするが、咎めずば此の儘まゝ行ゆき過ぎるであろう、無礼至極の奴、左様ではござらんか仁村にむら氏うじ」

仁「是はお腹立の処御尤ごもっとも是は何も横合から指出さしでて兎や角いうではないが、けれども斯こういう席だから、何も先生だって大したお咎をなさる訳でもあるまいが、今仰せの如く名主役をも勤むる者が、少しは其の辺の心得がなくては勤まらぬ、小前の者が分らん事でもいう時は、呼寄せて理解をも云い聞けべきの役柄だ、然しかるにずん〱行ゆくという法はない、是は、イヤ先生御立腹御尤もだ是は幾ら被仰おっしゃっても宜しい、お腹立御尤もの次第で」

惣「重々御尤もで相済みません、御尤至極でござります、どうか御勘弁を願います」

安「只勘弁だけでは済むまい、苟かりにも武士の魂とも云う大切の物、手前達は何か武士が腰に帯たいして居る物は人斬庖丁ひときりぼうちょうなどゝ悪口あっこうをいうのは手前の様な者だろうが、人を無暗むやみに斬る刀でないわ、えゝ戦場の折には敵を断切たちきるから太刀たちとも云い、片手撲なぐりにするから片刀かたなともいい、又短いのを鎧通しとも云う、武士たるものが功名こうみょう手柄を致す処の道具、太平の御代に、一事一点間違を致せば直すぐにも切腹しなければならぬ大切の腰の物じゃ、それを人斬庖丁など悪口をいいおるから挨拶もせずに行ったのだ、それに違いなかろう、ナア」

連の男「是は先生至極御尤も、怪けしからんこと、何なんだ、え、何どうもその、武士たるべき者の腰に帯たいするものを人斬庖丁などゝは以もっての外ほかだ、太平なればこそよいが、若し戦場往来の時是をエヽ、太刀とも唱える、片刀ともいう、今一つ短いのは何なんでしたッけ、うむ鎧通しともいう、一事一点間違があれば切腹致すべき尊とうとい処の腰の物、それを何なんだ無礼至極、どの様に仰しゃっても宜しい」

惣「重々恐入りましたが何分御勘弁になります事なれば、どの様にお詫を致して宜しいか頓と心得ませんが」

安「刀を浄きよめて返せ、浄まれば許して遣つかわす」

惣「どの様に致せば浄まります事か、百姓風情ふぜいで何も存じませんで」

安「知らんという事が有るか、浄めて返さんうちは勘弁罷まかり相成らぬ」

惣次郎もつく〲困りましたが、お隅は平素ふだんから一角は酒の上が悪く我儘わがまゝなのを知っております、また女が出ると柔やわらかになる事も存じているから、却かえって斯こう云う時は女の方が宜よかろうと思って、後あとの方からつか〱と進み出まして、

隅「先生誠に暫く」

安「何なんだ」

五十六

隅「麹屋の隅でございますが、只今私わたくしが旦那様のお供をして来て、つい例いつもの麁忽者そこつもので駈出して躓つまづきまして、足で蹴けたの踏んだのという訳ではありませんが、一寸ちょっと足が触りましたので、貴方と知っていれば宜しいのに、うっかり足が出ましたので、それ故先生様の御立腹で誠に私わたしがお供に来て済みませんから、不調法でございますが何卒どうぞ御勘弁なすって下さいな決して蹴たの踏んだのという訳でもなし、お供をして来て不調法が有っては、羽生村の旦那様に済みませんし、あの私わたくしの麁忽者そゝッかしやの事は先生も御存じで入らっしゃいますから、お馴染なじみ甲斐に不調法の処は重々お詫を致しますから御勘弁を」

安「黙れ、なに馴染がどうした、馴染なら如何いかに無礼致しても済むと思うか、手前には聊いさゝか祝義を遣わした事も有るが、どれ程の馴染だ、又拙者は料理屋の働女はたらきおんなに馴染は持たん、無礼を働いても馴染なら許して貰えると思うか、鼻を殺そぎ耳を斬って馴染だから御免とそれで済むか無礼至極な奴、女の足に刀を踏まれては猶更なおさら汚けがれた、浄めて返せ」

仁「是は先生至極御尤、御尤もだが酒も何もまずくなったなア、是はどう云う身分柄か知らんが馴染だから勘弁という詫の仕様はないが、誰かあゝお隅か妙な処で出会でくわしたなア、先生〱麹屋の隅でございます、能く来たなア、え隅か、是は何どうも詫あやまれ〱、重々何うも済まぬ、先生〱お隅でございます、貴公知らなんだ、あはゝゝゝどうも麁相そそうはねえ詫びるより外に仕方がない、詫びて勘弁ならんという事は無い、重々恐入ったと詫びろ、能く来た、あの先生、先生〱勘弁してお遣りなさいお隅でござる」

安「な何を戯言たわこと、勘弁相ならん」

と猶更額に筋を出して中々承知しませんから、惣次郎もまさか其の儘に逃出す訳には往ゆかず、困り果てゝおりますと、奥の離座敷の方に客人に連れられて参って居たは花車重吉、客人は至急の用が出来て帰りましたから、花車は遥はるかに此の様子を聞いて、惣次郎とは固もとより馴染なり兄弟分の契約かためを致した花車でございますから心配しておりまする。

多「もし旦那様〱」

惣「何なんだ」

多「関取がねえ奥に来ているだ、大きに心配しているだが、ちょっくら旦那にお目に掛りてえというが」

惣「なに花車が、それは宜よかった関取に詫をして貰おう、一寸」

安「これ〱逃出す事はならぬ」

惣「いえ逃げは致しませんが、主意を立てましてお詫を申上げます暫く御免を」

というのでこそ〱と後あとにさがる。此の隙ひまに宇治の里の亭主手代なども交かわる〱詫びますけれども一向に聞入れがありません。

惣「関取は此方こちらかえ」

花車「はい」

惣「誠にどうも此処こゝで逢うとは思わなかった」

花「えゝ今皆聞きました、何しろ相手が悪いがねえ、何か是には仔細があってだアと鑑定しているが、何しろ筋の悪い奴で、是は私わしがねエなり代って詫びて見ましょう」

惣「何卒どうぞ、関取なら愛敬を売るお前だから厭いやでもあろうが、先の機嫌を直す様に」

花「案じねえでもいゝよ」

多「私わしイ宿を出る時に間違えでも出かすとなんねえから、名前なめえに掛るからってお内儀かみさんに言付かって汝われ行って詰らねえ口い利いて間違え出かしてはなんねえと、気い付けられたんだが、こうなっては私や出先で済まねえ事だから関取頼むぞえ」

花「心配しねえでもいゝよ、私わしが請合った宜しい」

と落着払って花車、齢としは二十八でありますが至って賢い男、大形おおがたの縮緬ちりめんの単衣ひとえものの上に黒縮緬の羽織を着て大きな鎖付の烟草入たばこいれを握り、頭は櫓落やぐらおとしという髪あたま、一体角力取すもうとりの愛敬というものは大きい形なりで怖こわらしい姿で太い声の中に、何なんとなく一寸ちょっと愛敬のあるものでのさり〱と歩いて参りまして、

花「はい御免なさい、先生しぇんしぇい今日は」

安「何なんだ、誰だい」

花「はい法恩寺の場所に来ております花車重吉という弱い角力取で、何卒どうぞお見知り置おかれて皆様御贔屓に願います」

安「はい左様か、私わしは相撲は元来嫌いで遂ついぞ見に往った事も無いが、関取何なんぞ用でござるかい」

花「はい只今承りますれば、羽生村の旦那が、貴君方あなたがたに対して飛んだ不調法をしたと申す事だが、何分にもお聞済みがないので、私わしは馴染の事でもあるに由よって、重吉手前は顔売る商売じゃ、なり代って詫びてくれいって頼まれまして、見兼て中に這入りましたがねえ、重々御立腹でもございましょうが、斯こういう料理屋で商売柄の処でごた〱すれば、此家こちらも迷惑なり、お互に一杯ずつも飲もうと思うに酒も旨うない、先生しぇんしぇいも旨うない訳だから、成り代ってお詫しますから、花車に花を持たせて御勘弁を願います」

安「誠にお気の毒だが勘弁は致されんて、勘弁致し難がたい訳があるからで、勘弁しないというは武士の腰物こしのものを女の足下そっかに掛けられては此の儘に所持もされぬから浄めて返せと先刻さっきから申して居おるのだ」

花「それは然そうでありましょう、併しかし出来でけない処を無理に頼むので、出来難でけにくい処をするが勘弁だア、然そうじゃアありませんか」

安「無理な事は聴かれませんよ、お前が仲に這入っては尚更なおさら勘弁は出来ぬではないか」

花「はア私わしが這入って、なぜね」

安「花車重吉という有名なうての角力取が這入っては勘弁ならん、是が七十八十になる水鼻みずっぱなを半分クッ垂たらして腰の曲った水呑百姓が、年に免じて何卒どうぞ堪忍かんにんして下されと頭を下げれば堪忍する事も出来ようが、立派な角力取、天下に顔を売る者に安田一角が勘弁したとあれば力士に恐れて勘弁したと云われては、今井田流の表札に関わるから猶更勘弁は出来んからなあ」

花「それは困りますねえ、それじゃア物に角が立ちます、先生しぇんしぇい私わしは天下の力士でも何なんでもないわ、まア長袖の身の上で、皆さんの贔屓を受けなければならん、裸体はだかで、お前さん取まわし一つでもってから大勢様の前に出て、まア勝つも負まけるも時の運次第でごろ〱砂の中へ転がって着物を投ほうって貰い勝ったとか負けたとかいう処が愛敬じゃア、然そうして見れば皆様みなさんの御贔屓を受けなければならん、貴方が勘弁して下されば、それ花車彼奴あいつは愛敬者じゃア、先生が勘弁出来でけない処を花車を贔屓なればこそ勘弁したといえば、それで私は先生のお蔭で又売出します、然うじゃアございませんか、勘弁しておくんなさい」

安「堪忍は出来ぬ」

花「出来ぬでは困ります」

安「イヤ勘弁出来ぬ、武士に二言はないわ」

五十七

花車「そんな事云うて対手あいてが武士か剣術遣なれば兎も角も、高が女の事だからよ、大概にしろよ」

安田「大概にしろよとは何なんだ」

花「これは言損いいそこなった、これは角力取はこういう口の利きようでうっかり云った、勘弁しろよう」

安「勘弁しろよとは何だ」

花「ほいまた言損なった」

安「勘弁しろよとは何だ、手前も大名高家こうけの前に出てお盃さかずきを頂く力士では無いか、挨拶の仕様を存ぜぬ事はない、大概にしろの勘弁しろよのという云い様があるか、猶更勘弁ならん、無礼至極不埓な奴だ」

と側にある飲冷のみざましの大盃おおさかずきを把とってぽんと放ると、花車の顔から肩へ掛けてぴっしり埃だらけの酒を浴あびせました。

花「先生しぇんしぇいお前さん酒を打掛ぶっかけたね、じゃアどうあっても勘弁出来でけないと極めたか、それでは仕方がないが、先生私わしも花車とか何なんとか肩書のある力士の端くれ、人に頼まれ、中に這入って勘弁ならん、はアそうでございますかと指をくわえて引込ひっこむ事は出来でけぬ、私は馬鹿だ智慧が足りねえから挨拶の仕様を知らぬ、何卒どうかこうせいと教えて下せえ、お前のいう通り行やりましょう、ねえ、どうなとお顔を立てようから斯こうしろと教えて下せえ」

安「これは面白い、予の顔を立てる、主意を立てるなれば勘弁致す、無礼を働いたお隅と云う女は不届至極だから、彼あの婦人を惣次郎から貰い切って予に引渡して下さい、道場に連れて参って存じ寄り通りにする」

花「それは出来でけない、彼あれは御存知の水街道の麹屋の女中で、高い給金で抱えて置く女だ、今日一日羽生村の名主様が借かりて来たんだ、それを無礼した勘弁出来でけないといって道場へ連れて行ゆく、はいと云って遣られぬ、私わしにしても然そうです、道場へ引かれゝば煮て喰うか焼いて喰うか頭から塩をつけて喰われるか知れねえものを、それは出来でけぬ、出来でけない相談、それじゃア仕様がねえわ」

安「それじゃアなぜ主意を立てるといった、お前は力士、たゞの男とは違う、一旦云った事を反故ほごにする事はない、武士に二言はない、刀に掛けても女を貰いましょう」

花「是は仕様がねえ、じゃア、まアお前さんが剣術遣だから刀に掛けても貰おうというだら私わしは角力取だから力に掛けても遣る事は出来でけぬと極めた、それより外ほかは出来でけませんわ」

というと一角も額に青筋を張って中々聴きません。此の家うちへお飯まんまを喫たべに這入った人達も驚きましたが中には角力好ずきで江戸の勇み肌の人も居りまして、

客「どうだもう帰けえろうじゃアねえか、因業いんごうな武士さむれえだ彼あの畜生ちきしょう」

客「ウム己達おらっちが彌平やへいどんの処へ来るたって深ふかしい親類でもねえが、場所中ばしょちゅう関取が出るから来ているのだが、本当に好いい関取だなア、体格からだが出来て愛敬相撲だ一寸ちょっと手取てとりで、大概てえげえ角力取が出れば勘弁するものだが、彼奴あいつめ酒を打掛ぶっかけやアがって酷ひどい事しやアがる」

客「相手の武士さむれえは三人だ、関取がどっと起たって暴れると根太ねだが抜けるよ」

客「斯こうしようじゃアねえか、折おりを然そういっても間に合うめえし残して往っても無駄だから、此の生鮭なまじゃけと玉子焼とア持って行こう」

などゝ横着な奴は手拭の上に紙を布しいて徐々そろ〱肴さかなを包み始めた。

花「じゃア先生しぇんしぇいこうしましょう、此処こゝの家うちでごたすたいった処が此の家へ迷惑かけて、外ほかに客があるから怪我でもさしてはなりません、戸外おもてに出て広々とした天神前の田甫たんぼ中でやりましょう、私わしも男だ逃げ隠れはしません」

安「面白い出ろ」

というので三人づんと起たった。

客「喧嘩だア〱」

と他ほかの客はバラ〱逃げ出したが、代を払って行ゆく者は一人もない、横着者は刺身皿を懐に隠して持って行ゆく者もあり、中には料理番の処へ駈込んで、生鮭を三本も持って逃出す者もあり、宇治の里では驚きましたが、安田一角は二人の助けを頼みとして袴の股立ちを取って、長いのを引抜き振翳ふりかざしたから、二人の武士も義理で長いのを引抜き三人の武士さむらいが長い閃きらつくのを持って立並んでいるから、近辺の者は驚きました。惣次郎は猶更心配でございますから、

惣「関取お前に怪我をさせては親方に済まぬから」

花「いゝよ、親方も何もない、お前さん彼方あっちへ行って下せえよ、己が引受けたからは世間へ顔出しが出来ませんから退ひく事は出来ない、何卒どうか事なく遣る積つもりで、お前さんは心配をしねえでいゝよお隅さんを連れて構わず往って下さい、多助さんも行って下さい、旦那様が茲こゝにいては悪いから帰って下さえ」

惣次郎は帰れたッて帰られませんし、此の儘にはされず、怖さは怖しどうしようかとおど〱して居ると、花車はスッと羽織と単物ひとえものを脱ぎましたが、角力取の喧嘩は大抵裸体はだかのもので、花車は衣服を脱ぐと下には取り廻しをしめている、ウーンと腹を揺ゆり上あげると腹の大きさは斯様こんなになります、飴細工の狸みた様で、取廻しの処へ銀拵ぎんごしらえの銅金どうがねの刀を帯さし白地の手拭で向鉢巻むこうはちまきをして飛下とびおりると、ズーンと地響きがする、腕なぞは松の樹きの様で腹を立ったから力は満ちて居る、スーと飛出すと見物人は「ワアー関取しっかりしろ」という。安田一角は袴の股立を取って、

安「サア来い」

と長いのを振上げている、此の中へ素裸すはだで、花車重吉が飛込むというところ、一寸一ト息吐きまして。

五十八

引続きまして角力と剣術遣の喧嘩で、角力という者は愛敬を持ちました者でございまして、只今では開けた世の中でございますから、見識を取りませんで、関取衆しゅが芸者の中へ這入って甚句じんくを踊り、或あるいは錆声さびごえで端唄はうたをやるなどと開けましたが、前から天下の力士という名があり、お大名の抱えでありますから、だん〱承って見ますると、菅原家けから系図を引いて正しいもので、幕の内と称となえるは、お大名がお軍いくさの時、角力取を連れて入らしって旗持はたもちにしたという事でございます、旗持には力が要りますので力士が出まする者で、お見附みつけなどの幕の内には角力取が五人ぐらいずつ勤めて居ります。其の幕の内に居たから幕の内という、お弁当を喫つかって居るのが小結という、然そういう訳でもありますまいが、見た処は見上げる様で、胸毛があって膏薬こうやくの痕あとなぞがあって怖こわらしい様でありますが、愛敬のあるものでございます。一寸起たって踊りますと、重い身体からだで軽く甚句などを踊りますと姉さん達は、綺麗じゃアないか可愛いじゃアないか、踊る姿が好いい事、あれで角力を取らないと宜いい事などと、それでは角力でも何なんでもありません。芝居でも稻川いながわ秋津島あきつしまなどゝいうといゝ俳優やくしゃが致します、極ごくむかし二段目三段目ぐらいに立派な角力がありましたが、花車などは西の方二段目の慥たしか末すえから二三枚目におりました、其の頃愛敬角力で贔屓もあります角力上手でございますから評判が宜よい、今に幕の内に登るという噂がありまして、花車重吉は誠に固い男、殊ことには羽生村の名主の家うちに三年も奉公して、角力になりましてからは大たいして惣次郎も贔屓にして小さい時分からの馴染で、兄弟分の約束をして酒を飲み合った事もありますから恩返しというので割って中へ這入りましたが、剣術遣は重ね厚あつの新刀を引抜いて三人が大生郷の鳥居前の所へびらつくのを提さげて出ましたから、大概な者は驚いて逃げるくらいでありますが、逃げなどは致しません、ズッと出て太い手をついて斯こう拳を握り詰めますると、力瘤ちからこぶというのが腕一ぱいに満ちます、見物けんぶつは今角力と剣術遣との喧嘩が有るというので近村の者まで喧嘩を見に参る、田甫たんぼの処畦道あぜみちに立って伸上って見ている。

花「先生しぇんしぇい此処こゝは天神前で、私わしはお前めえさんと喧嘩する事は、斯こうなったからは私は引ひくに引かれぬから、お前さん方三人に掛かゝられた其の時は是非が無ねえ事じゃが、御朱印付の天神様境内で喧嘩してもお前さんも立派な先生、私も角力の端くれ、事訳ことわけ知らぬ奴じゃ、天神様の社内を穢けがした物を知らぬといわれてはお互に恥じゃ、ねエ死恥しにはじかきたくねえから鳥居の外へ出なせえ」

是は理の当然で、

安「うん宜しい、よく覚悟して…鳥居外へ参ろう」

と三人出たから見物は段々後あとへ退さがる、抜刀ぬきみではどんな人でも退る、豆蔵が水を撒まくのとは違う、怖おっかないからはら〱と人が退のきます。

見物「何どうだ本当に力士てえ者は感心じゃアねえか、たった一人に三人掛りやアがって、大概てえげえに彼奴あいつ勘弁しやアがるが宜いい、何なんだしと詫言わびごとしたら恥じゃアあるめえし畜生ちきしょう、関取確しっかりやって、己おらアお前めえの角力を見に来たので、お前が喧嘩に負けると江戸へ帰けえれねえ、冗談じゃアねえ剣術遣を踏殺ふみころせ」

安「何なんだ」

見物「危険けんのんだ、確かりやって呉れ」

花「逃げも隠れもしねえ、長崎へ逃げようと仙台へ逃げようと花車重吉駈落は出来ぬから卑怯な事はしねえが、茲こゝでお前めえさんに切られて死ねばもう湯も茶も飲めません、喧嘩は緩ゆっくら出来ますから一服やる間暫らく待って」

安「なに、これ喧嘩する端はなに一服やるなどと、何なんだ愚弄ぐろうするな」

花「心配しんぺえありません末期まつごの煙草だ、死んだら呑めませんワ、一服やりましょう、誰たれか火を貸しておくんなせえ」

見物の中から煙草の火をあてがう奴がある。パクリ〱脂下やにさがりに呑んで居る。

花「まア緩くり行やりましょう、エ先生しぇんしぇい逃げ隠れはせぬぜ」

とパクリ〱と吸やって居る。見物は、

見物「気が長なげえじゃアねえか、喧嘩の中で煙草を呑んで沈着おちついて居る豪えれえじゃアねえか」

見物「豪えばかりでねえ、己おれが考えじゃア関取は怜悧りこうだから、対手あいては剣術者遣けんじゅつつかいで危ねえから怪我アしても詰らねえ、関取が手間取っているうち、法恩寺村場所へ人を遣ったろうと思う、若もし然そうだと二拾人も角力取が押おして来れば踏潰ふみつぶして了しまう、然うだろうよ」

花「サア先生しぇんしぇい喧嘩致しますが、私わしも一本帯さしているから剣術は知らぬながらも切合きりあいを致すが、私が鞘さやを払ってからお前様方めえさんがた斬ってお出いでなせえ」

安「尤もっとも左様だ、卑怯はしない、サア出ろ」

花「ヘエ出ます、まア私わしも此の近辺で生立おいたった者じゃアが、此の大生郷の天神様の鳥居といったら大きな者じゃア」

と見上げ

花「これまア私わしが抱えても一抱えある鳥居、此の鳥居も今日が見納めじゃア」

と鳥居を抱えて、

花「大きな鳥居じゃアないか」

と金剛力を出して一振ひとふりすると恐ろしい力、鳥居は笠木かさぎと一文字いちもんじが諸もろにドンと落ちた。剣術遣が一刀を振上げて居る頭の処へ真一文字に倒れ落ちたから、驚きましたの驚きませんのと、胆きもを挫ひしがれてパッと後あとへ退さがる。見物はわい〱いう。其の勢いに驚き何どのくらいの力かと安田は迚とても敵かなわぬと思って抜刀ぬきみを持ってばら〱逃にげると、弥次馬に、農業を仕掛けて居た百姓衆が各々おの〱鋤すき鍬くわを持って、

百姓「撲殺ぶちころしてしまえ」

とわい〱騒ぐから、三人の剣客者は雲霞かすみと林を潜くぐって逃げました。

五十九

花車「ハ、逃げやアがった弱よわえ奴だ、サア案じはねえ、私わしが送って行ゆきましょう」

と脱いだ衣服を着て煙草入を提げ、惣次郎を送って自分は法恩寺村の場所へ帰った。角力は五日間首尾能く打って帰る時に、

花「鳥居の笠木を落おとしたから、旦那様鳥居を上げて下さらんでは困る」

と云うので惣次郎が金を出して鳥居を以前の通りにしました、其の鳥居は只今では木なれども花車の納めました石の鳥居は天神山に今にあります。場所をしまって花車は江戸へ帰らんければならんから、帰ってしまった後あとは惣次郎は怖くって他たへは出られません、安田一角は喧嘩の遺恨いこん、衆人の中で恥を掻いたから惣次郎は助けて置かぬ、などと嚇おどしに人に逢うと喋るから怖くって惣次郎は頓とんと外出そとでを致しません、力に思う花車がいないから村の者も心配しております。余り家うちに許ばかり蟄ちっしておりますから、母も心配して、惣次郎が深く言交いいかわした女故間違も出来、其の女の身の上はどうかと聞くに、元武士さむらいの娘で親父おやじもろ共浪人して水街道へ来て、親の石塔料の為奉公していると聞き、其の頃は武士を尊たっとぶから母は感心して、然そういう者なれば金を出して、当人が気に適いったならどうせ嫁を貰わんではならんから貰い度たいと、水街道の麹屋へ話してお隅を金で身受みうけして家うちへ連れて来てまず様子を見るとしとやかで、器量といい、誠に母へもよく事つかえます故、母の気にも適いって村方のものを聘よんで取極とりきめをして、内祝言ないしゅうげんだけを済まして内儀おかみさんになり、翌年になりますと、丁度この真桑瓜まくわうり時分下総瓜しもふさうりといって彼方あちらは早く出来ます。惣次郎の瓜畑を通り掛った人は山倉富五郎やまくらとみごろうという座光寺源三郎の用人役であって、放蕩無頼にして親には勘当され、其の中うち座光寺源三郎の家は潰れ、常陸ひたちの国に知己しるべがあるから金の無心に行ったが当あては外れ、少しでも金があれば素もとより女郎でも買おうという質たち、一文なしで腹が空へって怪しい物を着て、小短いのを帯さして、心しんの出た二重廻ふたえまわりの帯をしめて暑くて照り付くから頭へ置手拭をして時々流れ川の冷たい水で冷ひやして載せ、日除ひよけに手を出せば手が熱くなり、腕組みをすれば腕が熱し、仕様がなくぶらり〱と参りました。

富「あゝ、進退茲こゝに谷きわまったなア、どうも世の中に何がせつないといって腹の空るくらいせつない事はないが、どうも鳥目ちょうもくがなくって食えないと猶更空るねえ、天草の戦いくさでも、兵糧責では敵かなわぬから、高松の水責と雖いえども彼も兵糧責、天草でも駒木根八兵衞こまきねはちべえ、鷲塚忠右衞門わしづかちゅうえもん、天草玄札あまくさげんさつなどという勇士がいても兵糧責には叶かなわぬあゝ大きな声をすると腹へ響ける、大層真桑瓜がなっているなあ、真桑瓜は腹の空すいた時の凌しのぎになる腹に溜たまる物だが、うっかり取る処を人に見られゝば、野暴のあらしの刑で生埋いきうめにするか川に簀巻すまきにして投ほうり込まれるか知れんから、一個ひとつ揉もぎって食う事も出来ぬが、大層なって熟しているけれども、真桑瓜を黙って持って行くはよろしくないというが、一寸此処こゝで食う位ぐらいの事は何も野暴のあらしでもないからよかろう、一つ揉ぎって食おうか」

と怖々こわ〲四辺あたりを見ると、瓜番小屋に人もいない様だから、まア好いい塩梅と腹が空へって堪たまらぬから真桑瓜を食しましたが、庖丁がないから皮ごと喫かじり、空腹だから続けて五個いつつばかり喫たべ、それで往いけば宜しいのに、先へ行って腹が空ってはならんから二つ三つ用意に持って行こうと、右袂こちらへ二つ左袂こちらへ三つ懐から背中へ突込つっこんだり何かして、盗んだなりこう起たつと、向むこうの畑の間から百姓がにょこりと出た時は驚きました。

百姓「何なんだか、われは何んだか」

富「ヘエ、誠にどうも厳しい暑さでお暑い事で」

百「此の野郎め、まア生空なまぞら遣つかやアがって、此処こゝを瓜の皮だらけにしやアがった、汝われ瓜食ったな」

富「どう致しまして、腹痛でございますから押えて少し屈こゞんでおりましたが、暑気しょきに中あたっておりますので、先せんから瓜の皮はありますが、取りは致しませぬて」

百「此の野郎懐へ入れやアがって、生空つかやアがって、瓜盗んでお暑うございますなどと此の野郎」

ポカリ撲倒はりたおしますと、

富「あ痛いたたゝ」

と蹌よろける途端に袂たもとや懐から瓜が出る。其の内に又二三人百姓が出て来て、忽たちまち山倉は名主へ引かれ、間が悪い事に名主の瓜畑だから八釜やかましく、庭へ引かれ、麻縄で縛られますと、廃よせばよいに名主惣次郎は情深い人だから縁側へ煙草盆を持ち出して参って、

惣「此奴こいつかノ真桑瓜を食ったのは」

男「ヘエ此の野郎で、草むしりに出ておりますと、瓜畑の中からにょこりと起たちアがったから、何するといったら厳しいお暑さなんてこきアがって、誰たれもいやすめえと思って、瓜の皮があるから盗んだんべえと撲ぶつと懐からも袂からも瓜が出たゞ何処どこの者か江戸らしい言葉だ」

惣「お前が真桑瓜を盗んだか」

六十

富「ヘエ〱恥入りました事で、手前主名しゅめいは明あかし兼ねまするが、胡乱うろんと思召おぼしめすなれば主名も申し上げまするが、手前事は元千百五十石を取った天下の旗下はたもとの用人役をした山倉富右衞門の忰せがれ富五郎と申す者主家しゅか改易になり、常陸に知己しるべがある為是へ金才覚に参って見るに、先方は行方知れず、余儀なく、旅費を遣い果してより、実は食事も致しませんで、空腹の余り悪い事とは知りながら二つ三つ瓜を盗みたべました処をお咎とがめで、何なんとも恥入りました事で、武士たる者が縄に掛り、此の上もない恥で、どうか憫然ふびんと思召してお許し下されば、此の後ごは慎みまする、どうかお情をもってお許しを願いたく存じます」

惣「真桑瓜を盗んだからといって何も殺しはしない、真桑瓜と人間とは一つにはならん、殺しはせんが、茲こゝで助けても、是から何処どこへ行ゆきなさる、当所あてどがありますかえ」

富「ヘエ〱、何処といって当も何もないので、といってすご〱江戸表へ立帰る了簡もございません、空腹の余り悪いと知りながら斯様かようなる悪事をして恐れ入ります」

惣「じゃア茲で許して上げても他わきへ行って腹が空ると、また盗まなければならん、私わしの村で許しても外ほかでは許さぬ、今度は簀巻にして川へ投り込むか、生埋にするか知れぬから、私が茲で助けても親切が届かんでは詰らん、お前さんの言葉の様子では武家に相違ない様だが、私の処は秋口で書物かきものなどが忙がしいが、どうだね、許して上げますが、私の家うちに恩報おんがえしと思って半年ばかり書物の手伝いをしていて貰い度たいがどうだね」

富「ヘエどうも恐入りました事で、斯様なるどうも罪を犯した者をお助け下さるのみならず、半年も置いてお養い下さるとは、何なんともどうも恐れ入りました、此の御恩は死んでも忘却は致しません、何どの様なる事でも実に寝る眼も寝ずに致しますから、何卒どうかお助けを願います」

惣「よろしい、縄を解け」

と解かしまして、

惣「お腹なかが空すいたろう、サア御膳をお喫あがり」

とサア是から富五郎が食ったの食わないのって山盛にして八杯ばかり食置くいおきをする気でもありますまいが沢山食べました。書物を遣らして見ると帳面ぐらいはつけ、算盤そろばんも遣り調法でべんちゃらの男で、百姓を武家言葉で嚇おどしますから用が足りる、黒の羽織なぞを貰い、一本帯さして居る、其のうち

富「古い袴はかまが欲しい、小前こまえの者を制しますには是でなければ」

などとべんちゃらをいう。惣次郎の顔があるから富さん〱と大事にする。段々臀しりが暖まると増長して、素もとより好きな酒だから幾ら止やめろといっても外そとで飲みます。すると或日あるひの事で、ずぶろくに酔って帰ると、惣次郎はおりません。母は寺参りに往ってお隅が一人奥で裁縫しごとをしている。

富「只今帰りました」

隅「おやまア早くお帰りで、今日は大層酔って何処へ」

富「ヘエ、水街道から戸頭とがしらまで、早朝から出まして一寸帰りに水街道の麹屋へ寄りましたら能く来たというので、彼あの麹屋の亭主が一杯というので有物ありもので馳走になりまして大おおきに遅くなりました」

隅「大層真赤に酔って、旦那様はまだお帰りはありますまい、お母様っかさまは寺参りに」

富「左様で、御老体になりますとどうもお墓参りより外楽たのしみはないと見えて毎日いらっしゃいますが恐入ります、また旦那様の御様子てえなねえ、誠にド、どうも恐入りますねえ、あんたはお家うちで柔和おとなしやかに裁縫しごとをなすっていらっしゃるは、どうも恐入りますねえ、ド、どうも富五郎どうも頂きました」

隅「大層真赤になって些ちっとお寝やすみな」

富「中々寝度ねたくない、一服頂戴、お母様はお寺参り、また和尚さんと長話し、和尚様はべら〱有難そうにいいますね、だが貴方あんたがお裁縫しごと姿の柔和おとなしやかなるは実に恐れ入りますねえ」

隅「少しお寝みよ、富さん」

富「ヘエ〱寝度ねたくないので、貴方は段々承ると、然しかるべき処の、お高も沢山お取り遊ばしたお武家の嬢様だが、御運悪く水街道へいらっしゃいまして、御親父様ごしんぷさまがお歿かくれになって、余儀なく斯こういう処へ入らしって、其の内彼あゝいう杜漏ずろうな商売の中にいて貴方あんたが正しく私は武士さむらいの娘だがという行いを、当家の主人がちゃんと見上げて、是こそ女房という訳で、此方こちらへいらしったのだが、貴方あなただってもまア、私わたくしの考えが間違ったか知れんが、武士たる者の娘が何も生涯という訳ではなし、此の家うちは真ほんの腰掛で、詰らんといっては済みませんが、けれども貴方生涯此家こゝにいる思召おぼしめしはありますまい、手前それを心得て居るが、拙者も止むを得ず此処こゝにいる、致し方がないから、半年はんねんも助すけろ、来年迄いろよ、有難うと御主命でね、長く居る気はありません、貴方も真ほんの当座の腰掛でいらっしゃるが口に出せんでも心中に在あるね、内祝言ないしゅうげんは済んでも別に貴方の披露ひろめもなし披露をなさる訳もない、貴方も故郷こきょう懐しゅうございましょう、故郷忘じ難し、御府内で生れた者はねえ、然そうではございませんかね」

隅「それはお前江戸で生れた者は江戸の結構は知っているから、江戸は見度みたいし懐かしいわね」

富「有難い、其のお言葉で私わたくしはすっかり安心してしまった、それがなければ詰らんで、ねえ武士さむらいの娘、それそこが武士の娘、手前ども少禄者しょうろくものだけれども、此処こゝにへえつくしているが世が世なればという訳だが…お母様はまだ…法蔵寺様へお参りに入いらしったので…ですがねえ貴方、此家こゝにこう遣って腰掛けで居るは富五郎心得ております、故郷は忘じ難し、江戸は懐かしゅうございましょう」

隅「あいよ、懐かしいは当然あたりまえだわね」

六十一

富「ド何どうも有難い、それさえ聞けば私わたくしは安心致すが、誰でも然そうで私も早く江戸へ行ゆき度たいが、マアお隅さん私が少し道楽をして出まして、親類もあるけれども、私が道楽を行やったから私の身の上が定まらんでは世話は出来ぬというので、女房でも持って、斯こういう女と夫婦になったと身の上が定まれば、御家人ごけにんの株位は買ってくれる親類もあるが、詰らん女を連れて行っては親類では得心しませんが、是はこう〱いう武士さむらいの娘、こういう身柄で今は零落おちぶれて斯う、心底しんていも是々というので、私が貴方の様なる方と一緒に行って何なんすれば親類でも得心致します、お前さんの御心底から器量は好よし、こういう人を見立てゝ来る様になったら富五郎も心底は定まった、然うなれば力になって遣やろうというので、名主株位買ってくれますよ、構わずズーッと」

隅「何処どこへ」

富「何処って、だが、貴方ア腰掛で居る、故郷は何どうしても懐かしゅうございましょう」

隅「何なんだか分りません、一つ言ことをいって故郷の懐かしい事は知れて居ります」

富「まア、宜しい、それを聞けば宜しい一寸〱」

隅「何なんだよ」

富「いゝじゃアありませんか二人でズーッと」

隅「いけないよ、其様そんな事をして」

富「それ、然そういうお堅いから二人で夫婦養子にどんな処へでも可かなり高たかのある処へ行けます、お隅さん」

と何なんと心得違いしたか富五郎、無闇にお隅の手を取って髯ひげだらけの顔を押付ける処へ、母が帰って来て、此の体ていを見て驚きましたから、傍そばにある麁朶そだを取って突然いきなりポンと撲ぶった。

富「これは痛い」

母「呆れかえった奴だ」

隅「よくお帰りでございまして」

母「今帰けえって来たゞが、彼あの野郎ふざけ廻りやアがって、富五郎茲こゝへ出ろ」

富「ヘエ、これは恐入りました、どうも些ちっともお帰りを知らんで、前後忘却致し、どうも何なんとも誠にどうも、何なんで御打擲ごちょうちゃくですか薩張さっぱり分りません」

母「今見ていれば何なんだお隅にあの挙動まねは何だ、えゝ、厭がる者を無理にかじり付いて、髯だらけの面つらを擦こすり付けて、お隅をどうしようというだ、お隅は何なんだえ、惣次郎の女房という事を知らずにいるか、汝われ知っているか、返答ぶて」

富「どうも、私わたくし前後忘却致し、酔っておりまして、はっというとお隅さんで、恐入りました、無暗むやみに御打擲で血が出ます」

母「頭ア打砕ぶっくだいても構わねえだ、汝われ恩を忘れたか、此の夏の取付とりつけに瓜畑へ這入へえって瓜イ盗んで、生埋にされる処を、家うちの惣次郎が情け深ぶけえから助けて、行ゆく処もねえ者に羽織イ着せたり、袴はかまア穿かして、脇へ出ても富さん〱といわれるは誰がお蔭か、皆みんな惣次郎が情深なさけぶけえからだ、それを惣次郎の女房に対して調戯からかって縋付すがりついて、まア何なんとも呆れて物ういわれねえ、義理も恩も知らねえ、幾ら酔よっぱらったって親の腹へ乗る者ア無ねえぞ呆れた、酒は飲むなよ好よくねえ酒癖だから廃よせというに聴かねえで酔ぱらっては帰けえって来きやアがって、只たった今逐出おいだすから出ろえ、怖おっかねえ、お前の様な者ア間違まちげえを出かします、こんな奴は只た今出て行ゆけ」

富「お腹立様では何なんですが、お隅様さんに只今の様な事をしたは富五郎本心でしたと思召しての御立腹なれば御尤もでございます」

母「尤もと思うなら出て行いけ」

富「私わたくしは大変酔ってはおりますが富五郎も武士ぶしでげす、御当家の旦那様に助けられた事は忘却致しません、あゝ有難い事であゝ簀巻にして川へ投り込まれる処を助けられ、斯かくの如く面倒を見て下すって、江戸へ帰る時は是々すると仰しゃって、実に有難い事で、江戸へ行っても御当家の御恩報じお家いえの為になる様心得ております」

母「そう心得ておるなればなぜお隅にあゝいう挙動まねエする」

富「其処そこを申します、其処が旦那様のお為を思う処、旦那様は世間見ずの方、江戸へも余り入らしった事もない、殊ことにはあなた様は其の通り田舎気質かたぎの結構な方、惣吉様は子供衆で仔細ないが、お隅様も結構な方でございますが、前々まえ〱承れば、水街道の麹屋で客の相手に出た方、縁あって御当家へいらっしゃったが、お隅様のまえで申しては済みませんが、若もしお隅様が不実意な浮気心でもあっては惣次郎様のお為にもならぬと思って、どういう御心底か一寸只今気を引いた処、どうもお隅様の御心底是には実に恐れ入りました、富五郎安心しましたが、処をどうも薪まきでもってポンと頭をどうも情なさけない思召しと思う」

母「あゝ云う言抜いいぬけを吐こきゃアがる、気い引ひいて見たなどゝ猶更置く事は出来ねえから出て行け」

隅「お母様お腹立でございましょう、御気性だから、富さん、お前は酒が悪いよ、お酒さえ慎めば宜しい、旦那様のお耳に入れない様にするから」

富「エ、もう飲みませんとも」

母「まアお前彼方そっちへ引込ひきこんで、私わしが勘弁出来ぬ、本当なればお隅が先へ立って追出すというが当然あたりまいだが、こういう優しげな気性だから勘弁というお隅の心根エ聞けば、一度は許すが、今度彼様あんな挙動まねエすれば直すぐ追出すからそう思え」

富「恐入りました」

と是からこそ〱部屋へ這入って、と見ると頭に血が染にじみました。

富「お隅は万更まんざらでもねえ了簡であるのに、あゝ太ふてえ婆アだ」

なに自分が太い癖に何卒どうかしてお隅を手に入れ様と思ううち、ふと思い出して胸へ浮んだのは、噂に聞けば去年の秋大生郷の天神前で、安田一角と花車重吉の喧嘩の起因もとはお隅から、よし彼奴あいつを力に頼んでと是これからべら〱の怪しい羽織を着て、ちょこ〱横曾根村へ来て安田一角の玄関へ掛り、

富「お頼み申す〱」

六十二

門弟「どうーれ、何方どちらから」

富「手前は隣村りんそんに居おる山倉富五郎と申す浪人で、先生御在宅なれば面会致し度たく態々わざ〱参りました、是は此方様こなたさまへほんのお土産で」

門「少々お控えなさい、先生」

安田「はい」

門「近村の山倉富五郎と申す者が面会致し度たいと、是は土産で」

安「山倉とは知らぬが、此方こちらへお通し申せ」

門「此方へお通りなすって」

富「成程是は結構なお住居すまいで、成程是は御道場でげすな…ようがすな御道場の向うが…丁度是から畑の見える処が…是はどうもまた違いますな」

安「さア〱是へ、何卒どうぞ、是は〱」

富「えゝ、山倉富五郎と申す疎忽者そこつもの此の後ごとも御別懇に」

安「拙者が安田一角と申す至って武骨者此の後とも、えー只今はお土産を有難う」

富「いゝえ詰らん物で、ほんのしるしで御笑納下さい、大きに冷気になりましたが日中にっちゅうは余程お暑い様で」

安「左様で、今日こんにちはまた些ちっとお暑い様で、よくお出いでゝ、えー何か御用で」

富「はい少々内々ない〱で申し上げ度たい事が有って、彼あの方は御門弟で」

安「はい」

富「少々お遠ざけを願います」

安「はい、慶治けいじ御内談があって他聞たぶんを憚はゞかると仰しゃる事だから、彼方あちらへ行っておれ、えー用があれば呼ぶから」

慶「へえ左様で」

富「え、もうお構いなく、先生お幾歳いくつでげす」

安「手前ですか、もういけません、何なんで、四十一歳で」

富「へえお若わこうげすね、御気力がお慥たしかだからお若く見える、頭髪おぐしの光沢つやも好よし、立派な惜しい先生だ、此方こちらに置くのは惜しい、江戸へ入らっしゃれば諸侯方が抱えます立派なお身の上」

安「何なんの御用か承り度たい」

富「手前打明けたお話を致しますが、只今では羽生村の名主惣次郎方の厄介になっておる者でござるが、惣次郎の只今女房という訳でない、まア妾同様のお隅と申す婦人、彼あれは御案内の水街道の麹屋に奉公致した酌取女しゃくとりおんな、彼あの隅なるものに先生思召おぼしめしがあったのでげすな、前に惚れていらしったのでげすな貴方」

安「これは初めてお出でゞ、他人の女房に惚れているなどといや挨拶の仕様がない、麹屋にいた時分には贔屓にした女だから祝儀も遣って随分引張ひっぱって見た事もあるのさ」

富「恐れ入ったね、それが然そう云えぬもので恐入りました、其処そこが大先生で、えーえらい」

安「何しにお出でなすった、安田一角を嘲哢ちょうろうなさりにお出でなすったか、初めてお出でゞ左様なる事を仰しゃる事がありますか」

富「御立腹ではどうも、中々左様な訳ではない、手前剣道の師とお頼み申し、師弟の契約をしたい心得で罷まかり出ましたので、実は彼あのお隅と申すは同家どうけにいるから、段々それまア江戸子えどっこ同士で、打明けた話をするとお前さん此処こゝに長くいる気はあるまい、此処は腰掛だろう、故郷忘じ難かろう、私と一緒に江戸へ、というと、私も実は江戸へ行き度たい、殊ことに江戸には可かなりの親類もあり、仮令たとえ名主でも百姓の家うちへ縁付いたといわれては親類の聞きこえも悪い、然そうなればといって御新造ごしんぞという訳ではなし、へえ〱云って姑しゅうとの機嫌も取らなければならんから実は江戸へ行ゆき度いというから、然うなれば何故一角先生の処へいかぬ、向むこうは何なんでも大先生、弟子衆こも出這入り、名主などは皆弟子だから、彼処あすこへ行って御新造になれば江戸へ行っても今井田流の大先生、彼処の御新造になれば結構だになぜ行かぬというと、夫それには種々いろ〱義理もあって、親父の借金も名主惣次郎が金を出してくれた恩もあるから、先生の処へ行かれもしないというから、それなら先生が斯こうと云ったらお前行く気があるかと云ったら、私は行き度いが、先生には色々綾があるから行ゆかれないというから、然そうなれば私わしが行って話し、私も江戸へ帰る土産に剣道を覚えて帰り度い、よい師匠を頼もうと思っていた処だというので、然うなればと頼まれて参ったので、先生彼あれを御新造になさい、どうでげす」

安「お帰んなさい、何なんだお前は、これ汝てまえは何だ、惣次郎方の厄介になっている者なれば、惣次郎がどうかして安田を馬鹿にして遣やれというので来たな、初めて逢って他人の女房を貰えなどと、はい願いますと誰たれがいう、殊ことに惣次郎には、去年の秋聊いさゝかの間違で互たがいに遺恨もあり、私わしも恨みに思っている、其の敵かたき同士の処へ来て女房に世話をしましょうなどと、はい願いますと誰たれがいう、白痴たわけめ、帰れ〱」

富「成程是は至極御尤も、どうもお気分に障るべき事を申したが、まア」

安「騒々しい、帰れったら帰れ」

富「まア〱重々御尤も、是には一つの訳がある、ようがすか、手前が打明けた話を致しましょう、手前も武士で二言はない手前は本所北割下水で千百五十石を取った座光寺源三郎の用人山倉富右衞門の忰富五郎、主人は女太夫を奥方にした馬鹿ですから家は改易、仕方なし、手前は常陸に知己しるべがあるから参ったが、ふとした縁で惣次郎方の厄介、処が惣次郎人遣いを知らず、名主というを権けんにかって酷ひどい取扱いをするは如何いかにも心外で、手前は浪人でも土民どみんなぞにへえつくする事はない、残念に心得ているが、打明話を致すが、江戸に親類どもゝある身の上、江戸へ帰るにも何か土産がないが、実は今まで道楽をして親類でも採上とりあげませんから、貴方の内弟子になってお側で剣道を教えて頂いて、免許目録を貰って帰ると、親類でも今まで放蕩をしても田舎へ行って、是々いう先生の弟子になってと書付かきつけを持って帰れば、それが価値ねうちになって何処どこへでも養子に行かれる、処が、御門人にといっても、月々の物を差上げる事も出来ません身の上でございますが、それを承知で貴方の弟子に取って下さるなれば、私わたくしは弟子入の目録代りに、御意ぎょいに適かなったお隅を、御新造に、長熨斗ながのしを付けて持って来ましょう」

六十三

安田「是は面白いぞ、惣次郎という主ぬしのある者をどうして持って来られます」

富「惣次郎が有ってはいけませんが、惣次郎を一ひト刀かたなに斬って下さい」

安「黙れ、馬鹿をいうな、帰れ、帰れ、汝われは惣次郎と同意して手前の気を引きに来たな、うゝん帰れ〱」

富「これは成程、至極御尤もですが、まア」

安「騒々しい行け〱」

富「じゃア有体ありていに申します、正直なお話を致しますが、貴方の遺恨ある角力取の花車重吉が来て、法恩寺村の場所が始まるので、去年の礼というので、明晩になりますと、惣次郎が金かね三十両遣ると、ようがすか、用をしまうのは日の暮方まで掛りましょう、帳合ちょうあいなどを致しますからな、用が終って飯を食ってはどうしても夜よの六つ過すぎになります、其処そこで三拾両持って出掛ける、富五郎がお供でげす、ずうっと河原へ出て、それから弘行寺ぐぎょうじの松の林の処へ出て黒門の処までは長い道でございますから其処へ出て来ましたら、貴方は顔を包んで芒畳すゝきだゝみの影に隠れていて、手前が合図に提灯ちょうちんを消すと、途端に貴方が出てずぷりと遣り、惣次郎を殺すと金が三十両あるから持って宅うちへ帰り、構わず寝て入らっしゃい、まアさお聞きなさい、手前は面部へ疵きずを付けて帰って、今狼藉者ろうぜきものが十四五人出て、旦那も切合って私も切合ったが、多勢に無勢ぶぜい敵かなわぬ、早く百姓をというので大勢来て見ると、貴方は宅へ帰って寝て居る時分だから分らぬてえ、気の毒なといって死骸を引取り、野辺送りをしてしまってから、ようがすか、其の後ごは旦那様が入らっしゃりませんでは私がいても済みません、殊ことには彼あアいう処へお供をして、旦那が彼アなれば猶更どうも思い出して泣く許ばかりでございますから、江戸表へという、惣次郎が死ねばお隅さんも旦那様がいなければ此の家うちにいても余計者だから私わたくしも江戸へ帰るという、江戸へ行ゆくなれば一緒にというので、お隅を連れて来てずうっと貴方の処へ長熨斗を付けて差上げる工風くふう、富五郎の才覚、惚れた女を御新造にして金を三拾両只取れるという、是迄種を明あかしてこれでも疑念に思召おぼしめすか、えゝどうでげす」

安「成程是は面白い、それに相違ないか」

富「相違あるもないも身の上を明してかくお話をして、是をどうも疑念てえ事はない、宜しい手前も武士さむらいで金打きんちょう致します…今日はいけません…木刀を帯さして来たから今日は金打は出来ませんが、外ほかに何どの様なる証拠でも致します」

安「じゃア明晩酉刻むつというのか」

富「手前供を致します、彼処あすこは日中にっちゅうも人は通りませんから、酉刻を打って参り、ふッと提灯を消すのが合図」

安「よろしい、相違なければ」

と約束して帰りました。安田一角は馬鹿でもない奴なれども、お隅にぞっこん惚れているから、全く然そういう了簡で連れて来るのではないかと思い、是から胸に包んで翌日仕度したくをして早くから家を出て、諸方を廻って、夜よに入いって弘行寺の裏手林芒畳へ蹲しゃがんで待っている事とは知りません、此方こちらは富五郎が、お隅を手に入れるに惣次郎が邪魔になりますが、惣次郎は剣術も心得ておりますから、自分に殺す事が出来ぬから、一角を欺だまして惣次郎を殺させて後のち、お隅を連出して女房にしようという企たくみでございます、実に悪い奴もあるものでございます。富五郎は書物かきものが分りませんから眼を通してと、惣次郎へ帳面を見せ、態わざと手間取るから遅くなります。是から夜食を食べて支度をして提灯を点つけて出かけようとする、何か虫が知らせるかして母親もお隅も遣やりたくない、

隅「何なんだか遅いから、明日あした先方むこうから参りますから今日はお止やめなさいな」

惣「なアに直ぐ帰るから」

隅「そうでございますか、富五郎お前一緒にどうか気を付けておくれよ」

富「ヘエ大丈夫、どんな事があっても旦那様にお怪我をさせる様な事はございません、手前も剣道を心得ておりますから」

と空そらを遣つかって惣次郎の供をして出掛けましたが、笠阿弥陀を横に見て、林の処へ出て参りますと、左右は芒畳で見えませんが、左の方の土手向うは絹川の流れドウ〱とする、ぽつり〱と雨が顔にかゝって来る。

惣「富五郎降って来たようだ」

富「大した事もありません、恐れ入りましたが一寸小用こようを致しますから」

惣「小便ちょうずをするなれば提灯は持ていて遣る、これ〱何処どこへ行ゆく提灯を持って行っては困る」

という中うち富五郎はふっと提灯を吹消しました。

惣「提灯が消えては真暗まっくらでいかぬのう」

富「今小用致しますから」

という折から安田一角は大松おおまつの蔭に忍んでおりましたが提灯が消えるを合図にスックと立って透すかし見るに、真暗ではございますが、晃きらつく長いのを引抜いてこう透して居ります。

惣「富や、おい富〱、何なんだかこそ〱して後うしろにいるのは、富や〱」

という声を当あてにして安田一角が振被ふりかぶる折から、向むこうの方から来る者がありますが、大きな傘を引担ひっかついで、下駄も途中で借りたと見えて、降る中を此処こゝに来合わせましたは、花車重吉という角力取すもうとりでござります。是からは芝居なればだんまり場でございます。

六十四

引き続きお聞きゝに入れまするは、羽生村の名主惣次郎を山倉富五郎が手引をして、安田一角と申す者に殺させます。是は富五郎が惣次郎の女房お隅に心底ぞっこん惚れておりましても、惣次郎があるので邪魔になりますから、寧いっそかたづけて自分の手に入れようという悪心でござりますが、田舎にいて名主を勤めるくらいであるから惣次郎も剣術の免許ぐらい取って居ります。富五郎は放蕩無頼で屋敷を出る位で、少しも剣術を知りませんから、自分で殺す事は出来ません、茲こゝで下手でも安田一角という者は、剣術の先生で弟子も持っているから、丁度お隅に惚れているのを幸い、一角を*おいやって惣次郎を殺し、惣次郎の歿ない後のちにお隅を無理に口説いて江戸へ連れて行って女房にしようという企たくみを考え、やまで嚇おどして上手に見えるが田舎廻りの剣術遣だから、安田一角が惣次郎より腕が鈍くて、若もし惣次郎が一角を殺すような事になれば、此の企は空しくなるというので、惣次郎が常に帯さして出ます脇差の鞘を払って、其の中へ松脂まつやにを詰めて止めを致して置きました、実に悪い奴でございます。惣次郎は神ならぬ身の、左様な企を存じませんから富五郎を連れて、彼かの脇差を帯して家を出て、丁度弘行寺の裏林へ掛りますと、富五郎がこそ〱匐はって行ゆくようですから、なぜかと思って後うしろを振り返える、とたんに出たのは安田一角、面部を深く包み、端折はしょりを高く取って重ね厚あつの新刀を引き抜き、力に任せてプスーリ一刀いっとうあびせ掛けましたから、惣次郎もひらりと身を転じて、脇差の柄に手を掛け抜こうとすると、松脂をつぎ込んでから一日たって居るので粘って抜けない、脇差の抜けませんのにいら立つ処を又また一刀ひとかたなバッサリと骨を切れるくらいに切り込まれて、向むこうへ倒れる処を、又一刀ひとかたなあびせたから惣次郎は残念と心得て、脇差の鞘ごと投げ付けました、一角がツと身を交かわすと肩の処をすれて、薄すゝきの根方ねがたへずぽんと刀が突立つったったから、一角は血のりを拭いて鞘に収め、懐中へ手を入れて三十両の金を胴巻ぐるみ盗んで逃げようとすると、向の方から蛇の目の傘を指さし、高足駄たかあしだを穿いて、花車重吉という角力が参りました時には、一筋道ひとすじみちで何処どこへも避さけることが出来ません、一角は狽うろたえて後あとへ帰ろうとすれば村が近い、仕方がないからさっさっと側の薄畳の蔭の処へ身を潜め、小さくなって隠れて居ります。此方こちらは富五郎はバッサリ切った音を聞いて、直すぐに家うちへ駈けて行ゆく、其の道すがら茨いばらか何かで態わざと蚯蚓腫みみずばれの傷を拵こしらえましてせッ〱と息を切って家うちへ帰り

*「けしかけるおだてるそゝのかす」

富「只今帰りました」

という。処が富五郎ばかり帰ったから恟びっくりして、

隅「おや富さんお帰りかい何どうかおしかえ」

富「ヘエもう騒動が出来ました、あの弘行寺の裏林へ掛ったら悪漢わるものが十四五人ででで出まして、二人とも懐中の金を出せ身ぐるみ脱いで置いて行ゆけと申しましたから、驚いて旦那に怪我をさせまいと思いまして、松の木を小楯こだてに取りまして、不埓至極な奴だ、旦那を何なんと心得る、羽生村の名主様であるぞ、粗相をすると許さんぞというと、大勢で得物えもの〱を持って切って掛るから、手前も大勢を相手に切り結び、旦那も刀を抜いて切り結びまして、二人で大勢を相手にチョン〱切結んでおりましたが、何分多勢に無勢旦那に怪我があってはならぬと思って、やっと一方を切り抜けて参りました、此の通り顔を傷だらけにして…早くお若衆わかいしゅ早く〱」

と誠しやかにせえ〱息を切っていいますから、お隅は驚いて、それ早く〱というので、村の百姓を頼んで手分てわけをして、どろ〱押して参りましたが、もう間に合いは致しません、斬った奴は疾とうに家うちへ帰って寝ている時分、百姓衆しゅが大勢行って見ると、情ない哉かな惣次郎は血に染って倒れておりますから、百姓衆も気の毒に思い、死骸を戸板に載せて引き取り、此の事を代官へ訴え、先まず検視も済み、仕方なく野辺送りも内葬の沙汰で法蔵寺へ葬りました。是程の騒ぎで村の者は出掛けて追剥おいはぎの行方を詮議致し、又四方八方八州の手が廻ったが、殺した一角は横曾根村に枕を高く寝ておりまするので容易に知れません。惣次郎と兄弟分になった花車重吉という角力は法恩寺村にいて、場所を開こうという処へ此の騒ぎがあるのに、とんと悔くやみにも参りませんから、母も愚痴が出て

母「あゝ家うちの心棒しんぼうがなくなれば然そうしたもんか、情ないもの」

と愚痴たら〲。そうこうすると九月八日は三七日みなのかでござります、花車重吉が細長い風呂敷に包んだ物を提げて土間の処から這入って参りまして、

花「はい御免なせい」

多「いやお出でなさえまし」

花「誠に大分だいぶ御無沙汰致しました」

多「家うちでもまア何どうしたかってえねえ、一寸知らせるだったが、家がまア忙せわしくって手が廻らないだで、まア一人で歩いてることも出来なえから誠に無沙汰アしましたが、旦那様ア殺された事は貴方あんた知って居るだね」

花「誠にまア何なんとも申そう様ようはございません、知って居りましたが旦那と私わしとは別懇の間柄だから、私が行って顔を見ればお母様っかさまやお隅さんに尚更歎なげきを増させるような者だから、夫故それゆえまア知っていながら遅くなりました、多助さん、飛んだ事になりましたね」

多「飛んだにも何なんにも魂消たまげてしまってね、お内儀様かみさんはハア年い取ってるだから愚痴イいうだ、花車は内に奉公をした者で、殊に角力になる時前の旦那様の御丹精もあるとねえ、惣次郎とは兄弟じゃアねえか、それで此の騒ぎが法恩寺村迄知んねえ訳ア無ねえ、知って来ないは不実だが、それとも知んねえか、江戸へでも帰けえった事かとお内儀かみさんあんたの事をば云って、ただ騒いでいるだ、どうか行って心が落ち着くように気やすめを云って下さえ、泣いてばいいるだからねえ」

花「はい、来たいとは思いながら少し訳があって遅く参りました、まア御免なせえ」

多「さア此方こっちへお這入り」

というので風呂敷包を提げたなり奥へ参ります。来てみると香花こうはなは始終絶えませぬから其処そこらが線香臭くそうございます。

多「お内儀さん法恩寺の関取が参りましたよ」

母「やア花車が来たかい、さア此方こっちへ這入っておくんなせえ」

花「はい、お内儀さん何なんとも此の度たびは申そう様もございません、さぞ御愁傷様でございましょう」

六十五

母「はい只どうもね魂消たまげてばいいます、お前も知っている通り小ちいせえ時分から親孝行で父様とっさまアとは違って道楽もぶたなえ、こんな堅い人はなえ、小前こまえの者にも情なさけを掛けて親切にする、あゝいう人がこんなハア殺され様をするというは神も仏もないかと村の者が泣いて騒ぐ、私わしもハア此の年になって跡目相続をする大事な忰にはア死別しにわかれ、それも畳の上で長煩ながわずらいして看病をした上の臨終でないだから、何なんたる因果かと思えましてね、愚痴い出て泣いてばいいます、それにお隅は自分の部屋にばい這入って泣いて居るから、此間こねえだもお寺へ行ったら法蔵寺の和尚様ア因果経というお経を読んで聴かせて、因果という者アあるだから諦めねばなんねえて意見をいわれましたが、はアどうも諦めが付かなえで、只どうも魂消てしまって、どうかまアこういう事なら父とッつアんの死んだ時一緒に死なれりゃア死にたかったと思えますくらいで」

花「はい、私わしもねえお寺詣りには度々たび〱参ります、それも一人で、実は人に知れない様に参りました、是には深い訳のあることで、私が不実で来ないと思って定めて腹を立てゝお出でなさるとは知っていますが、少し来ては都合の悪い事があって来ませぬ、お前さん私は今まで泣いたことはありません、又大きな身体なりをして泣くのは見っともねえから、めろ〱泣きはしませんけれども、外ほかに身寄兄弟もなし、重吉手前とは兄弟分となって、何なんでもお互に胸にある事を打ち明けて話をしよう、力になり合おうといっておくんなさいました、其のお前さん力に思う方に別れて、実に今度ばかりは力が落ちました、墓場へ行って花を上げて水を手向たむけるときにも、どうも愚痴の様だけれども諦めが付かないでついはア泣きます、まア何んともいい様がありません、嘸さぞお前さんには一ひと通りではありますまい、お察し申しております、お隅さんも嘸御愁傷でしょう」

母「はい私わしの泣くのは当り前のことだが、あのお隅は人にも逢わなえで泣いてばいおるから、そう泣いてばいいると身体に障るから、些ちっと気い紛まぎらすが宜ええ、幾ら泣いても生返いきけえる訳でなえというけれども、只彼処あすこへ蹲つくなんで線香を上げ、水を上げちゃア泣いてるだ、誠にハア困ります」

花「はいお隅さんを一寸茲こゝへお呼びなすって下さい」

母「お隅やちょっくり此処こゝへ来こうや、関取が来たから来うや」

隅「はい〱」

母「さア此処こけへ来きや、待ってるだ」

隅「関取おいでなさい」

花「はいお隅さんまア何なんとも申そう様はありません、とんだことになりました、嘸さぞお力落しでございましょう」

隅「はい、もうね毎日お母っかさんと貴方の噂ばかり致しまして、どうしておいでなさいませんか、何かお心持でも悪いことがありはしまいか、よもや知れない事もあるまいが、何か訳のある事だろうと、お噂を致しておりましたが実に夢の様な心持でございましてねえ、それは貴方とは別段に中が好よくってねえ、旦那が毎いつも疳癪かんしゃくを起しておいでなさる時にも、関取がおいでなさいますと、直すぐに御機嫌が直って笑い顔をなさる、こうやって関取が来ても旦那様がお達者でいらしったら嘸お喜びだと存じまして、私は旦那の笑顔が目に付きます」

母「これ泣かないが宜ええ、そう泣かば病に障るからというのに聞かなえで、彼あの様に泣いてばいいるから、汝われが泣くから己おらがも共に悲しくなる、泣いたって生返いきけえる訳エなえから諦めろというだ、ねえ関取」

花「ヘエ、御愁傷の処は御尤でございますが、お隅さん、旦那をば何者が殺したという処の手掛てがゝりは些ちっとはございますか」

隅「もう関取の処へ早く行ゆき度たいというのが、御用があって二日ばかり遅くなりましたから、是から富五郎を供に連れて関取にお目に掛りに参ると仰しゃるから、今日は大分だいぶ遅いから明日あすになすったら好よかろうといっても、是非今日はといって、何どういう事か大層急せいてお出でになりました、処が丁度弘行寺の裏林へ通り掛りますと、十四五人の狼藉者ろうぜきものが出まして、得物〱を持って切り付けましたから、旦那はお手利てきゝでございますから直すぐに脇差を抜いて向うと、富五郎も元は武士で剣術も存じておりますから、二人で十四五人を相手に切り結んだけれども、幾ら旦那が御手練ごしゅれんでも向むこうは大勢たいぜいでございますから、仕方なく、富五郎が旦那にお怪我をさしてはならぬとやっと切り抜け駈け付けて来ました、直すぐに村の若い衆しゅも大勢おおぜい参りましたけれども、其の甲斐もなくもう間に合いませんで、誠に情ないことでございます」

花「じゃア富五郎さんが一緒に附いて行って弘行寺の裏林へ掛った処が十四五人狼藉者が出て取巻いたから、旦那も切結び、富五郎も切り合ったという処を誰も見た者はないので、富五郎が帰って其の事を話したのですね」

隅「左様でございます」

花「うん、富五郎という人は内におりますか」

隅「お母っかさん、今日は富五郎は何処どこかへ使いに参りましたか」

母「今何まで使つかいに遣やったゞ、何処まで行ったかのう、又水街道の方へ廻ったか知んなえ、じき横曾根まで遣ったがね」

花「御新造さん、留守かえ、そんなら話をしますが、あの富五郎という奴は、べちゃくちゃ世辞をいう口前くちまえの好いい人だね、実は私わしはね、人には云わないが旦那の殺されたばかりの処へ通り掛った処が、丁度廿五日で真暗まっくらだ、私がずん〱行ゆくと、向むこうから頭巾を被かぶった奴が来やアがる様子だから、はて斯こんな林に胡散うさんな奴がおる、ことに依よったら盗賊かと思うたから、油断せずに透すかして見ると、其奴そいつが脇道へ曲って、向むこうへこそ〱這入って行ゆくから、何なんでもこれは怪しいと思うて、急いで来ると、私の下駄で蹴付けつけたのは脇差じゃ、はて是は脇差じゃが何どうして此処こゝに在あるかと思うて、見ると向からワイ〱とお百姓が来まして、高声たかごえ上げて、あゝ情ないもう少し早かったらこんな事にはならぬ、無惨なことをした、情ないことをしたというから、こいつしまった、そんなら頭巾を被った奴が旦那を殺したと思って、其の事を皆の中で話をしようかと思ったが、旦那と私と深い中のことは知って居るし、若もし角力が加勢をすると思って、遠く逃げてしまわれたら手掛りはないから、是は知らぬ積りで家うちへ帰ったが好いと思うて、其の脇差を提さげて帰ってからは何処どこへも出ず、外ほかの者にも黙ってろ知らぬ積りでいろといい付けて来ずにいましたが、今日は斯こうして脇差を持って来ました」

母「あれやまア、どうも不思議なこんだ、殺された処へ通り掛って脇差い拾ったって、其の斬った奴は何様どんな奴だかね」

花「お隅さん、それはね此の脇差はどうしたのか知れないが、ちょっくり抜けない、私わしの力でもちょっくり抜けない、何なんでも松脂まつやにか何か附いてると見えて粘ねば〱してるから、ひっついて抜けないが、これは旦那の不断差す脇差で私も能く知っております」

母「あれやまアどうも、お前が知ってるのが手に這入るのは不思議だねえ」

六十六

隅「お母様っかさん、もう少し関取が早かったら助かりましたものを」

花車「此の通り抜けない、抜けないから脇差を投ほうり付けたのを盗賊どろぼうが置いて行ったか、其処そこは分らんが、今富五郎が私わしも切り合い旦那も切合ったが、相手が大勢で敵かなわんというので駈付けて来て知らしたというのは、それはどうも私は胡散なことと思う、仮令たとえ相手が多かろうが少なかろうが、旦那様さんが危あぶないのを一人措おいて逃げて来るという訳はないねえ、然そうじゃないか、大切な主人と思えばどこ迄も助けるには側にいなければならぬ、それを措いて来るとは、怖いから逃げたとしか思えない、旦那が脇差を抜いて切合ったというが抜けやしない、ねえ、どうしても抜けない刀を抜いて切合ったという道理がないから、どうも富五郎という奴が怪しい、という訳は、お隅さん、去年の秋大生郷の天神前で喧嘩を仕掛けた奴がお隅さんが麹屋に居た時分お前さんに惚れて居て冗談をいった奴がある、処がお隅さんは堅いから、いう事を聞かんで撥付はねつけたのを遺恨に思うているということを知っている、事に依よったら安田一角が旦那を切って逃げやアしないかと考えた、就ついては山倉富五郎という野郎は、口前は好いい奴だが心に情なさけのない慾張った奴だから、事に依ったら一角にお出で〱をされて鼻薬を貰うて、一角の方に付いて、彼奴あいつが手引をして殺させやアせんかと思う、それ此の通り抜けぬのに抜いて切合ったというのが第一おかしいじゃないか」

母「あれやまア其処そこらには気が付かんで、只まア魂消てばいいました、ほんにそうかもしんねえよ、其の頭巾冠かぶったのはどんな恰好だっきゃア」

花「それは暗やみだから確しっかり分らんが、一角じゃないかと私わしの心に浮うかんだ、斯こうしておくんなさい、私は黙って帰るが、富五郎が帰ったら、今日花車が悔くやみに来て種々いろ〱取とりこんだ事があって遅くなった、就ついては他わきへ二百両ばかり貸したが、どう掛合っても取れないから、どうかして取ろうと中へ人を入れたが、何分なにぶん取れないが、若もし富五郎さんが間へ這入ったら向むこうの奴も怖いから返すだろう、若しお前の腕から二百両取れたら半分は礼に遣るが、どうか催促の掛合に往ってくれまいかと、花車が頼んだが行って遣らんかといえば、慾張よくばっているから屹度きっと遣って来るに違いない、法恩寺村の私の処へ来たら富五郎さん〱というて富五郎を側に寄せ、腕を押えてさア白状しろ、一角に頼まれて鼻薬を貰って、惣次郎さんを殺したと云え、どうだ〱いわなけりゃア土性骨どしょうぼねを殴どやして飯を吐かせるぞ、白状すれば、命は助けて遣るというたら、痛いから白状するに違いない、実は是れ〱〱〱であると喋ったら旨いもんで然そうしたら富五郎はくり〱坊主にして助けても好よし、物置へ投ほうり込んでも好いいが、愈々いよ〱一角と決ったらお隅様さんは繊細かぼそい女、お母様っかさんは年を取って居り、惣吉様さんはまだ子供だから私が先へ行きます、一角の処へ行って、偖さて先生大生郷の天神前で、飛んだ不調法を致しましたが何卒どうか堪忍しておくんなさいと只管ひたすら詫びる、然そうすれば斬ることは出来ぬからうっかり近寄る近寄ったら両方の腕を押えて動かさぬ、さア手前てめえが惣次郎を殺した事は富五郎が白状した、敵かたきを取るから覚悟をしろと腕を押えた処へ、お前様さんが来て小刀こがたなでも錐きりでも構わぬからずぶ〱突つッついて一角を殺すが好いいどうじゃ」

隅「本当に有難いこと、嘸さぞ旦那様が草葉の蔭でお喜びでございましょう、関取私は殺されてもいゝから旦那様の敵かたきを取って」

母「何分にもよろしくねがえます」

花「余り敵〱と云わないがいゝ、私わしは先へ帰りますから」

と脇差を元の如く包んで帰りました。後あとへ入いり替って帰りましたのは山倉富五郎、

富「ヘエ只今帰りました」

母「富や、大層帰けえりが遅かったね」

富「なに帰り掛けに法蔵寺様へ廻りまして、幸い好いい花がありましたからお花を手向たむけましたが、お墓に向いましてなア、実に残念でございまして、何なんだか此間こないだまで富〱と仰しゃったお方がまアどうも、石の下へお這入りなすったかと存じましたら胸が痛くなりまして、嫌な心持で、又家うちへ帰って貴方がたのお顔を見ると、胸が裂さける様な心持、仏間に向って御回向ごえこう致しますると落涙らくるいするばかりで、誠にはや何なんとも申そう様はありません」

母「まア能く心に掛けて汝われが墓参はかめえりするって、嘸さぞ草葉の蔭で喜んでいるベエ」

富「どうも別に御恩返しの仕方がありませんから、お墓参りでもするより外ほか仕方がありません、仏様にはお念仏や花を手向けるくらいで、御恩返しにはなりませんが、それより外に仕方がありません、ヘエ」

隅「あの富さん先刻さっき花車関が悔みに参りましたよ」

富「おや〱〱左様でござりましたか、ヘエ成程何どうなすったか、御存じないのかと思いましたが」

母「ナニ知ってたてや、知ってたけれども早く来て顔を見せたら、深ふけえ馴染の中だで思出おめえだして歎なげきが増して母様かゝさまが泣くべえ、それに種々いろ〱用があって来きねえでいたが悪く思ってくれるなって、大でかい身体アして泣いただ」

富「そうでげしょう、兄弟の義を約束した方でございますから嘸さぞ御愁傷でげしょうお察し申します」

母「就ついてねえ、あの関取が他わきへ金え二百両貸した処が、向むこうの奴がずりい奴で、返さなえで誠に困るから、どうか富さんを頼んで掛合って貰もれえてえ、富さんの口前で二百両取れたら百両礼をするてえいうだ、どうだい、帰けえったばかりで草臥くたびれて居るだろうが、行って遣やってくんろよ」

富「ヘエ成程関取が用立った処が向の奴が返さんのですか、なに直すぐ取って上げましょう、造作もありません、百両……百両……なアに金なんぞお礼に戴かぬでも御懇意の間でげすから直ぐに行って参ります」

と止せばよいのに黒い羽織を着て、一本帯さして、ひょこ〱遣って来ましたのが天命。

富「はい御免なさい、関取のお宅うちは此方こちらでげすか、頼みます〱」

弟子「おーい此処こゝだい」

花「これ〱一寸此処へ来い、富五郎という人が来たら奥へ通して己が段々掛合いになるのだで、切迫せっぱ詰って彼奴あいつが逃げ出すかも知れないから、逃げたらば表に二人も待ってゝ、逃にげやがったら生捕いけどって逃がしてはならぬぞ、えゝ、初めは柔和な顔をして掛合うから」

弟子「逃げたら襟首を押えて」

花「こう〱そんな大きな声を、此方こちらへお這入りなさいといえ」

六十七

弟子「此方こっちへお這入んなせい」

富「御免を蒙こうむります」

花「さア富さん此方こっちへ、取次も何もなしにずか〱上あがって好いいじゃないか、さア此方へ来て下さい」

富「えー其の後ごは存外御無沙汰を、えー毎いつも御壮健で益々御出精ごしゅっせいで蔭ながら大悦たいえつ致します、関取は大層評判が好ようげすから場所が始まりましたら、是非一度は見物致そうと心得ていましたが、御案内の通りさん〲の取込で、つい一寸の見物も出来ません、併しかし御評判は高いものでござります、昨年から見ると大した事で、お羨うらやましゅう、実に関取は身体も出来て入いらっしゃるし、殊ことには角力が巧手じょうずで、愛敬があり、実に自力のある処の関取だから、今に日の下開山かいざん横綱の許しを取るのはあの関取ばかりだといって居ます」

花「余計な世辞は止して下せい、私わしは余計な世辞は大嫌いだから」

富「いや世辞は申しません、これは譬たとえの通り人情で、好きなものは一遍顔を見た者には、知らぬ人でも勝たせたいと思うのが人間の情じょうでげしょう、況まして旦那とは兄弟分でこうやって近々ちか〲拝顔を得ますから、場所中は、どうか関取がお勝になる様にと神信心をしていますよ」

花「それは有り難い、仮令たとえ虚言うそでも日の下開山横綱と云って貰えば何なんとなく心嬉しい、やア、お茶を上げろよ、さア此方こっちへ」

富「関取、さぞ御愁傷で」

花「やアお互のことで、嘸さぞお前さんもお力落しでございましょう」

富「イヤ此度こんどは実に弱りまして、只もうどうも富五郎は両親ふたおやに別れたような心持が致しますなア」

花「然そうでございましょう、私わしも実は片腕もがれた様だといいましょうか」

富「然うでげしょう、私も実に弱りましたね」

花「就ついて富さん、お前さんが供に行ったのだとねえ」

富「左様」

花「どんな奴でございますえ、切った奴は」

富「それはもう何なんとも残念千万、弘行寺の裏林へ掛ると、面部を包んで長い物をぶち込んだ奴が十四五人でずっと取り巻いて、旦那が金を三十両持っているのを知って、出せ身ぐるみ脱いで置いてけというから、旦那に怪我をさせまいと思って、旦那を何なんと心得る、旦那は羽生村の名主様だぞ、若もし無礼をすれば引縛ひっくゝって引くから左様そう心得ろというと、なに、と突然いきなり竹槍をもって突いて来るから、私も刀を抜いて竹槍を切って落し、杉の木を小楯に取ってちょん〱〱〱暫く大勢たいぜいを相手に切合いました、すると旦那も黙っている気性でないから、すらり引抜いて一生懸命に大勢おおぜいを相手にちゃん〱切合いましたから、刀の尖先とっさきから火が出ました、真に火花を散ちらすとはこの事でしょう、けれども多勢に無勢と云う譬えの通りで、迚とても敵かなわぬから、旦那に怪我があってはならぬと、危うい処を切抜けて駈込んで知らせたから、そら早くというので大勢の若い衆しゅがどっと来て見ましたが、間に合いません、実に残念で、どうも」

花「お前さん供をしたから、嘸さぞ残念だったろうねえ」

富「実にどうも此の上ない残念で」

花「そこで、何なんですかい、向は十四五人で、其の内一人か二人捕つかまえるとよかったね」

富「処が向が大勢おおぜいでげすから、此方こっちが剣術を知っていても、大勢で刃物を持って切付けるから敵かないません」

花「じゃア旦那が刀を抜いて切合った処をお前さんは見ただろうねえ」

富「そりゃア見ましたとも、旦那はお手利てきゝでげすからちょん〱〱〱切合いました」

花「それに相違ないねえ」

富「相違も何もありません、現在私わしが見ておったから」

花「うん然そうかえ、富さん、もっと側へお出でなさい、今日は一抔「一抔」はママ飲みましょう」

富「それは誠に有難いことで、時に何かお頼みがあるという事でげすが早速取立てましょう、なに造作もないことで」

花「それに付いて種々いろ〱話があるのだがもっと側へ」

富「じゃア御免を蒙こうむって」

花「さて富さん、人と長く付合うには嘘を吐ついてはいかないねえ」

富「それは誠に其の通り信がなくてはいけませぬねえ」

花「今お前のいったのは皆嘘と考えて居る、旦那様が脇差を抜いてちょん〱切合い、お前も切結んだと、そんな出鱈目でたらめの事をいわずに正直なことをいってしまいねえ」

富「な何なんだ、これは恐入ったね、どうも怪けしからん事を、ど、どういう訳でな何んで」

花「やい、それよりも正直に、慾に目が眩くらんで一角に頼まれて恩人の惣次郎を私わしが手引で殺させましたといっちまいねえ」

富「これは怪しからん、怪しからん事があるものだね、関取外の事とは違います、私わしは一角という者は存じませぬ、知りもしない奴に仮令たとえどの様な慾があっても、頼まれて旦那様を殺させたろうという御疑念は何等なんらの廉かどを取って左様なことを仰しゃる、と関取で無ければ捨置けぬ一言いちごん、手前も元は武士でござる、何を証拠に左様な事を仰せられるか、関取承りたいな」

花「嘘そらつくない、正直にいってしまいな、手前てめえが鼻薬を貰って、一角に頼まれて旦那を引き出したといってしまえば、命許ばかりは助けてやる、相手は一角だから敵かたきを打たせる積りだが、何処迄どこまでも隠せば、拠よんどころなくお前めえの脊骨を殴どやして飯を吐かしても云わせにゃならん」

富「これはどうも怪しからん、関取の力で打たれりゃア飯も吐きましょうが、ど、どういう訳で、怪しからん、なな何を証拠に」

花「そんなら見せてやろう、是は其の時旦那の帯さして行った脇差だろう、これを帯して出た事は聞いて来たのだ、さどうだ」

富「左様どうして是を」

花「是は手前てまえが刀を抜いてちょん〱切合ったという後あとで丁度其の側を通り掛って此の刀を拾うたが、些ちっとも抜けない、此の抜けない脇差をどうして抜いて切合ったかそれを聴こう」

富「それア、それア私わしが転倒てんどう致した」

花「何が転倒した」

富「それは私わしは大勢を相手に切結んでおり、夜分でげすから能く分りませぬが、全く鞘の光を見て抜身と心得ましたかも知れませぬが、私が手引をして…是は怪けしからん事でげす、どうも左様な御疑念を蒙りましては残念に心得ます」

花「そら〱手前てめえのいうことは皆みんな間違っていらア、鞘の光を見て抜身で切合ったと思ったというが、鞘ごと切れば鞘に疵がなけれアならねえ、芒尖きっさきから火花を散ちらしたというが鞘ごと切合ってどうして火花が出るい」

富「じゃア全く転倒致したのでげす、全く向むこう同士ちょん〱切合って火花が出たのでげしょう、大勢の暗撃やみうちで向同士…どうも左様な手引をして殺したという御疑念は手前少しも覚おぼえがございません」

花「なに云わなけりゃア脊骨を殴どやして飯を吐はかせても云わせるぞ」

富「アヽ痛い〱痛うござります、アヽ痛い、腕が折れます、ア痛い」

花「さ、云って了しまえ、云わなければ殴すぞ」

富「アヽ痛うござります」

花「やい能く考えて見ろ、実は大恩があるのに済みませぬが、旦那は私わしが手引をして殺させました、其の申訳もうしわけの為に私は坊主になって旦那の追善供養を致しますといえば、お内儀様かみさんに命乞いのちごいをして命だけは助けて遣るから、一角が殺したと云ってしまえよ」

富「云って了しまえと仰しゃっても、あゝ痛い痛うございます、だから私わしは申しますがね、あ痛い是はどうも恐入ったね、あゝ痛い、腕が折れます、あゝ申します〱、申しますからお放し下さい然そう手をぐっと関取の力で押えられると骨が折れてしまいますから、アヽ痛いどうも情ないとんだ災難でげす、無実の罪という事は致し方がないなア、関取能くお考えください、私わたしは恥をお話し致しますよ、昨年夏の取付とッつきでげしたが、瓜畑を通り掛りまして、真桑瓜を盗んで食いまして、既すでに縛られて生埋になる処を、旦那様が通り掛って助けて家うちに置いて下さるお蔭で以もって、黒い羽織を着て、村でも富さん〱といわれるのは全く旦那の御恩でげす、其の御恩のある旦那を、悪心ある者の為に手引をして殺させるという様な事は、どの様なことがあっても覚えはござりませぬが、アヽ痛いたたゝゝアヽ痛うござります、腕が折れてしまいます」

花「なに痛いと、腕を折ろうと脊骨を折ろうと己の了簡だ、己が兄弟分になった旦那を、殺した奴を捜して敵かたきを討たにゃならぬ、手前てまえ一人に換えられないから云わなけれア殺してしまう、それとも殺させたといえば助けて遣るが、云わないか此の野郎」

と松の木の様な拳こぶしを振上げて打とうと致しました時には、実に鷲わしに捕つかまった小鳥の様なもので、逃げるも退ひくも出来ません、此の時に富五郎がどう言訳を致しますか、一寸一息つきまして。

六十八

富五郎が花車に取って押えられましたは天命で、己おのれが企たくみで、惣次郎の差料さしりょうの脇差へ松脂を注つぎ込んで置きながら、其の脇差を抜いて惣次郎がちょん〱切合ったという処から事が顕あらわれて、富五郎は何なんといっても遁のがれ難がとうございます。殊ことに相手は角力取り、富五郎の片手を取って逆に押えて拳を振上げられた時には、どうにもこうにも遁途にげどがありませぬ、表の玄関には二人の弟子とりてきが張番をしていて、若もし逃げ出せば頸くびを取って押えようと待っておりますから、此の時は富五郎が真青まっさおになって、寧いっそ白状しようかと胸に思いましたが、其処そこは素もとより悪才に長たけた奴。

富「関取、御疑念の程重々御尤も、もうこうなれば包まず申します、申しますからお放し下さい」

花「申しますと、云ってしまえばそれでよい」

富「云ってしまいます、是迄の事を残らずお話し致します、致しますが関取、そう手を押えていては痛くって〱喋ることが出来ません、こうなった以上は遁にげも隠れも致しませぬ、有体ありていに申すから其の手を放して下さい、あゝ痛い」

花「云ってしまえばよい、さア残らず云ってしまえ」

と押えた手を放しますと、側に大きな火鉢がありまして、かん〱と火が起おこっております。それに掛っている大薬鑵おおやかんを取って、

富「申上げまする」

といいながら顛覆ひっくりかえしましたから、ばっと灰神楽はいかぐらが上あがりまして、真暗まっくらになりました。なれども角力取等らは大様おおようなもので、胡坐あぐらをかいたなり立上りも致しません。

花「何をするぞ」

という内に富五郎は遁出にげだしましたが、悪運の強い奴で、表へ遁げれば弟子でしが頑張っているから直すぐに取って押えられるのでございますが、裏口の方から駈出し、畑を踏んで逃げたの逃げないの、一生懸命になってドン〱〱〱遁げましたが、羽生村へは逃げて行かれませぬから、直に安田一角の処へ駈込んで行って、

富「ハ、ハ、先生〱」

安「なんだ、サア此方こちらへ」

富「は…ア水を一杯頂戴ちょうだい」

安「なんだ、ナニ水をくれと、どうしたんだ、喧嘩でもしたか」

富「いいえ、どうも喧嘩どこではございませぬ、脊骨をどやして飯を吐かせるて、実にどうも驚きました」

安「誰だれが飯を吐いたか」

富「なに私わしが吐くので、先生運好よく此処こゝまで逃げたが、もう此処にもおられぬので、直に私は逃げますから、路銀を二三十金拝借致し度たい」

安「どうしたか、そう騒いではいかない」

富「どうも先生、これ〱でげす」

と一部始終の話をしますると、相手は角力取ですから一角も不気味ぶきびでございますが、

安「然そうか、驚くことはない、私わしが殺したという事を云いはしまい」

富「何なんで…それはいいませぬ、足下そっかとちゃんとお約束を致した廉かどがありますから、仮令たとえ脊骨をどやされて骨が折れてもそれは云わん、云わぬに依よってこんな苦しい目を致したから、可哀そうと思って二三十金ください、直に私わしは逃げますから」

安「何なんだ、何んにも怖いことはない」

富「怖いことはないと仰しゃるが、足下知らないからだ、何どうも彼奴あいつの力は無法な力で、只握られたばかりでもこんなに痣あざになるのだもの」

安「じゃア貴公に路銀を遣るから逃げるがよい」

富「足下も早く、直に跡から遣って来ますよ」

安「遣って来ても云いさえせんければ宜しい」

富「理不尽に…」

安「幾ら理不尽でも白状せぬのに踏込ふんごんでどうこうという訳にはいかぬ」

富「無法に打ぶちますよ」

安「なに打たれはせぬ、仔細ない」

富「仔細ないと仰しゃるが、私わしの跡を追掛おっかけて来て富五郎はいるか、慝かくまったろう、イエ慝まわぬ、居ないといえばじゃア戸棚に居ましょうというので捜しましょう、そうで無いにしても表で暴れて家を揺ゆすぶると家が潰れるでしょう、奴の力は大した者だから、やアというと家うちに地震が揺いって打潰ぶっつぶされて了しまいます、何なんにしても家うちにいると面倒だから迯にげて下さい、え、先生」

安「じゃア路銀を遣るから先へ逃げな」

富「迯げるなら一緒に迯げたいものです」

安「一緒に迯げては人の目に立ってよくない、己が手紙を一本付けるから之これを持って、常陸の大方村おおかたむらという処に私わしの弟子があるから、其処そこへ行って隠れておれば知れる訳は無いから、ほとぼりが冷めたら又出て来い、私は一足後あとから、ナニ暴れても仔細ない、逢い度たいといえば余義ない用事が出来て上総かずさへ行ったとか、江戸へ行ったとか、出鱈目を云っておれば取り附く島が無いから仕方が無い、貴公は先へ行きな」

富「じゃア路銀を頂戴、私わしはすぐ行ゆきます」

安「そう急がずに」

と落着いて手紙一本書いて、路銀を附けて遣ると、富五郎は其の手紙を持って人に知れぬ様に姿を隠し、間道かんどう〱と到頭とうとう逃げ遂おおせて常陸へ参りました。安田一角も引続いて迯げる、花車重吉は、

花「おのれ迯げやアがったか」

と直すぐに後あとを追掛けましたけれども、羽生村では此方こっちへは来ないというから、サテ怪しいと諸方を尋ねたが何分手掛りがありません。一角の様子を聞くと是は私用があって上総まで出たというので、頓とんと手掛りが無い、風を食くらって二人とも迯げてしまったから、もう帰る気遣いはないが、安田一角の家うちは其の儘になって弟子が一人留守番に残っている。どういう訳か分らぬが何なんでも怪しいから取とって押えんければならぬが、それには先まず第一富五郎をどうかして押えなければならぬと心得、

花「残念な事をしました、これ〱これ〱で押えた奴を迯げられました」

というと、お隅も母も残念がって歎きますけれども致方いたしかたがない。翌月よくげつの十月の声を聞くと、花車は江戸へ参らなければならぬから、花車重吉が暇乞いとまごいに来て、

花「私わしはこれ〱で江戸へ参りますが、何事があっても手紙さえ下されば直に出て来て力に成って上げますから、心丈夫に思ってお出でなさい」

と二人にいい聞かして、花車重吉は江戸へ帰りました。跡方は惣吉という取って十歳の子供とお隅に母親と、多助という旧来此の家にいる番頭様ようの者ばかりで、何なんと無く心細い。十一月の三日の事で、空は雪催しで、曇りまして、筑波下おろしの大風が吹き立てゝ、身を裂さかれるほど寒うございます。

母「あゝ寒いてえ、年イ取ると風が身に泌しみるだ、そこを閉たってくんろよ、何なんだか今年に成って一時いちじに年イ取った様な心持がするだ、酷ひどく寒いのう、多助やぴったり其処そこを閉ってくんろよ」

多「なにあんた、そんなに年イ取った〱といわなえがいゝ、若わけえ者もんでも寒いだ、何なんだかハア雪イ降るばいと思う様に空ア雲って参めえりました」

母「其処そこを閉って呉んろよ、お隅は何処どこへか行ったか」

隅「はい」

と部屋から着物を着換え、乱れた髪を撫付けて小包を持って参りましたから、

母「このまア寒いのに何処へか行ゆくかイ」

隅「はい、改めてお願いがござります」

六十九

隅「不思議な御縁で、水街道から此方こちらへ縁付いて参りました処が、旦那様もあゝいう訳でおかくれになりました、旦那がおいでならお側で御用を達たして、仮令たとえ表向の披露ひろめはなくとも、私も今迄は女房の心持で働いておりましたけれども、斯様こうなって旦那のない後のちは余計者で、却かえって御厄介になる許ばかりでございますし、江戸には大小を帯さす者も親類でもございますから、何卒どうか江戸へ参り度たいと思いまして、私もべん〱と斯こうやっても居おられません今の内なら、何どうか親類が里になって縁付かたづく口も出来ましょうと思いまして、私は江戸へ帰りますから、どうか親子の縁を切って、旦那はいなくっても貴方の手で離縁に成ったという証拠を戴きませぬと、親類へも話が出来ませぬから、御面倒でも一寸お書きなすって、誠に永々なが〱お世話さまになりまして」

母「それアはア困りますな、今お前めえに行かれてしまうと心細こゝろぼせえばかりでなく、跡が仕様が無ねえだ、惣吉は年イ行かなえで、惣次郎のなえ後のちはお前めえが何も彼かもしてくれたから任して置いて、己おらアまア家内うちの勝手も知んなくなったくれえだね、何どうかまアそんなことを云わずに、どうかお前めえがいてくれねえば困りますから」

隅「有難う存じますけれども、どうも居いられませぬ、居たって仕方がありませんもの、ほんの余計者になりましたから、どうか御面倒でも…今日直ぐと帰ります、水街道の麹屋に話をして帰りますから」

母「そりゃアハア間違った訳じゃアねえか、お前めえは今迄まア外ほかの女と違って信実な者もんで、己おらア家うちへ縁付かたづいても惣次郎を大切でえじにして、姑しゅうとへは孝行尽し、小前こめえの者もんにも思われる位くれえで、流石さすがお武家さむれえさんの娘だけ違ったもんだ、婆様ばアさまア家うちは好いい嫁え貰ったって村の者もんが誰も褒めねえ者もんはなえ、惣次郎が無なえ後のちも僅わずかハア夫婦になった許ばかりでも、亭主と思えば敵かたきイ打ぶたねえばなんなえて、流石侍さむれえの娘は違った者もんだと村の者もんも魂消たまげて、なんとまア感心な心掛けだって涙ア溢こぼして噂アするだ、今に富五郎や安田一角の行方は関取が探してどんな事をしても草ア分けて探し出して、敵かたきイ打ぶたせるって是迄丹精したものを、お前めえがフッと行ってしめえば、跡は老人としよりと子供で仕様がなえだ、ねえ困るから何どうか居てくんなよ」

隅「嫌いやですねえ、江戸で生れた者がこんな処に這入って、実に夫婦の情でいましたけれども、斯こうなって見ると寂しくっていられませぬもの、田舎といっても宿場と違って本当に寂しくって居いられませんからねえ、何卒どうか直すぐに遣って下さいな、此処こゝに居たって仕方が有りません、江戸へ行ゆけば親類は武士でございますから、相当な処へ縁付えんづけて貰います、私も未まだそう取る年でもございませぬから、何時いつまでもべん〱としてはいられませぬ、お前さんはどうせ先へ行ゆく人、惣吉さんは兄弟といった処が元をいえば赤の他人でございますからねえ、考えて見ると行末ゆくすえの身が案じられますから」

母「じゃアどうあっても子供や年寄が難儀イぶっても構わなえで置いて行ゆくというかい、今迄敵かたきイ討ぶつといったじゃアなえか、今それに敵イ討たなえで縁切になって行くとア訝おかしかんべい、敵イ討つといった廉かどがなえというもんじゃア無なえか」

隅「初はじまりは敵かたきを討うとうと思いましたけれども、誰が敵だか分らぬじゃアありませんか、善々よく〱考えて見ますと、富五郎を押えて白状さして、愈々いよ〱一角が殺したと決ったら討とうというのだが、屹度きっと富五郎、一角ということも分らず、それも関取が附いていればようございますが、関取もいず、して見れば敵が分っても女の細腕では敵に返討かえりうちになりますからねえ、又それ程何方どなたにも此方様こちらさまに義理はありません、漸ようやく嫁かたづいて半年位のとで「半年位のとで」はママ、命を捨てゝ敵を討つという程の深い夫婦の間柄でもありませんから、返討にでもなっては馬鹿〱しゅうございますから、敵討かたきうちはお止やめにして江戸へ帰ります」

母「魂消たまげたなアまア、それじゃア何なんだア今迄敵イ討ぶつと云ったことア水街道の麹屋でお客に世辞をいう様に、心にもなえ出鱈でたらまえをいったのだな、世辞だな」

隅「いゝえ世辞ではない、関取を頼みにして大丈夫と思っていましたが、関取もいなければ私は厭いやだもの、そんな返討になるのは詰りませぬからねえ」

母「呆れたよまア、何なんと魂消たなア、汝われがそんな心と知んなえで惣次郎が大でかい金え使って、家うちい連れて来て、真実な女と思って魅ばかされたのが悔しいだ、そういう畜生ちきしょうの様な心なら只たった今出て行ゆけやい、縁切状を書きゃえてくれるから」

隅「出て行かなくって、当り前だアね」

多「お隅さんまア待っておくんなさえ、お内儀かみさん貴方あんた人が善いいから直じき腹ア立つがお隅さんはそんな人でなえ、私わしが知っているから、さてお隅さん、此処こゝなア母様はゝさまア江戸を見たこともなし、大生の八幡はちまんへも行ったことアなえという田舎気質かたぎの母様だから、一々気に障る事こたアあるだろうが、実はこういう事があって気色が悪いとか、あゝいう事をいわれてはならぬという事があるなら、私がに話いしておくんなさえ、まア旦那が彼あアなってからは力に思うのはお前様さんの外に誰もないのだ、惣吉様さんだって彼あの通り真実ほんとうの姉様さんか母様かゝさまアの様に思って縋すがっているし、敵の行方は八州へも頼んでえたから、今に関取が出て来れば手分てわけえして富五郎を押えて敲たゝいたら、大概たいがい敵は一角に違ちげえねえと思ってるくらいだから、機嫌の悪い事が有るなら私にそういって、どうか機嫌直してくださえ、ねえお隅さん」

隅「何をいうのだね、お前は何も気を揉むことはないやね、お母っかさんも呆れて出て行ゆけというから離縁状を貰っておくんなさい、私は仇打あだうちは出来ません、仕方なしに仇を打つと云ったので実は義理があるからさ、よく〱考えて見れば馬鹿げている、それ程深い夫婦でもありませぬからねえ」

多「それじゃアお隅さん、本当に旦那の敵い打ぶつてえ考かんげえもなえ、惣吉さんもお母様っかさまも置いて行ゆくというのかア」

隅「左様さ」

多「魂消たね本当ほんとかア」

隅「嘘にこんなことがいえるものか、今日出て行ゆこうというのだよ」

多「呆れたなア、そんだら己えいうが」

隅「何をいうの」

七十

多「旦那が麹屋へ遊びに行った時酌に出て、器量は好えゝし、人柄に見えるが、何処どこの者もんだというと、元は由よしある武士さむれえの娘で、これ〱で奉公しております、外の女ア皆みんな枕付まくらつきでいる中に私わしは堅気で奉公をしようというんだが、どうも辛くってならねえて涙ア澪こぼして云うだから、旦那が憫然かわいそうだというので、金えくれたのが初まり、それから旦那が貰もれえ切ってくれべいといった時、手を合せて、誠に然そうなれア浮びます助かりますと悦よろこんだじゃアなえか、それに又旦那様ア斬殺きりころされたというのも、早はええ話が一角という奴がお前めえに惚れていたのを此方こっちへ嫁付かたづいたから、それを遺恨に思って旦那ア殺したんだ、して見れアお前めえが殺したも同し事じゃアなえか、それを弁わきまえなえでお母様っかさまや惣吉さんを置いて出れば、義理も何も知んねえだ、狸阿魔たぬきあまめ」

隅「何なんだい狸阿魔とは、失礼な事をお云いで無い、そりゃア頼みもしましたから恩も義理もあるには違いないけれども、それだけの勤めをして御祝義を戴いたので当然あたりまえの事だアね、それから私を貰い切って遣るから来い、諾はいといって来ただけの事だから、旦那が殺されたって、敵を討つ程の義理もないじゃアないか、表向披露ひろめをした女房というでもなし、いわば妾も同様だから、旦那がいなけりゃア帰りますよ」

多「此の阿魔どうも助けられなえ阿魔だ、打ぶつぞ、出るなら出ろ」

隅「なんだい手を振上げてどうする積りだい、怖い人だね、さ打ぶつなら打って御覧、是程の傷が出来ても水街道の麹屋が打捨うっちゃっては置かないよ」

多「ナニ麹屋……金をくれた事アあるけど麹屋がどうした」

隅「此の間お寺へ行ゆくといって、路銀を借りようと思って麹屋へ行って話をして、江戸へ行けば親類もありますから、江戸へ行きたいと思いますが、行くには少し身装みなりも拵こしらえて行きたいから、まア此処こゝで、三年も奉公して行きますからお願い申しますといって、証文の取極めをして、前金ぜんきんも借りて来てあるのだから、是から行って麹屋で稼ぎ取りをして行こうと思うのだ、もう私の身体は麹屋の奉公人になっているのだから、少しでも傷が附けば麹屋で打捨っておかないよ、願って出たら済むまい、さ、打ぶつなら打って御覧」

多「呆れたア、此奴こいつ何どうも、お内儀様かみさん此間こねえだお寺へ墓参はかめえりに行ゆく振ふりいして麹屋へ行って証文ぶって来たてえ、此の阿魔こりゃア打ぶてねえ、えゝ内儀様かみさま、義理も人情も、あゝこれエ本当に何うも打てねえ阿魔だ」

母「やア、もう宜いいワイ、恩も義理も知んなえ様な畜生と知らずに、惣次郎が騙だまされて命まで捨すてる事になったなア何なんぞの約束だんばい、そんな心なら居て貰っても駄目だから、さア此処こけえ来こう、離縁状書えたから持たしてやれ」

多「さア持ってけ、此の阿魔ア、これエ打てねえ奴だ」

隅「持ってかなくってどうするものか」

とお隅は離縁状を開ひらいて見まして、苦笑にがわらいをして懐へ入れ、

隅「有難い、アヽこれでさっぱりした」

多「ア、さっぱりしたと云やアがる、どうも悪にくい口い敲きやアがるなア此の阿魔」

隅「なんだねえ、ぎゃア〱おいいでない、長々御厄介様になりました、お寒さの時分ですから随分御機嫌よう」

多「えゝぐず〱云わずにサッサと早く行かなえかい」

隅「行かなくって何どうするものか、縁の切れた処にいろっても居やアしない」

と悪口あっこうをいいながらつか〱と台所へ出て来ますと、惣吉は取って十歳、田舎育ちでも名主の息子でございますから、何処どこか人品じんぴんが違います、可愛がってくれたから真実の姉の様に思っておりますから、前へ廻ってピッタリ袂たもとに縋すがって、

惣「姉様ア、お母っかアが悪ければ己があやまるから居てくんなよ、多助があんなこと云っても、あれは誰がにもいう男だから、己があやまるから、姉あねさん居てくんなえ、困るからヨウ」

隅「何なんだい、其方そっちへお出でよ、うるさいからお出でよ、袂へ取ッつかまって仕ようが無いヨウ、其方へお出でッたらお出でよ」

多「惣吉さん、此方こっちへお出でなさえ、今迄坊ぼうちゃんを可愛がったなア、世辞で可愛がった狸阿魔だから、側へ行かないが好ええ」

母「惣吉や、此処こけえ来こう、幾ら縋っても皆みんな世辞で可愛がったでえ、心にもない世辞イいって汝われがを可愛がる振ふりいしたゞ、それでも子供心に優しくされりゃア、真実姉と思って己があやまるから居てくんろというだ、其処そけえらを考えたって中々出て行かれる訳のものでアなえ、呆れた阿魔だ、惣吉此処こけえ来い」

多「此方こっちいお出でなさえ、坊ぼうちゃん駄目だから」

隅「来いというから彼方あっちへお出でよ、今までお前を可愛がったのもね、お母っかさんのいう通り拠よんどころなく兄弟の義理を結んだからお世辞に可愛がったので、皆みんな本当に可愛がったのじゃアないよ、彼方へお出で、行っておくれ、行かないか」

多「あれ坊ぼっちゃんを突き飛とばしやアがる、惣吉さんお出でなさえ…此奴こいつア…又打てねえ…さっ〱と行けい」

隅「行かなくってどうするものか」

とお隅は土間へ下おり、庭へ出まして門かどの榎えのきの下に立つと、ピューピューという筑波颪おろしが身に染みます。

隅「あゝもう覚悟をして思い切って愛想づかしを云わなけりゃア為にならんと思って彼迄あれまでにいって見たけれども、何も知らない惣吉が、私の片袖に縋って、どうぞ姉あねさん私があやまるから居ておくれ、坊が困るといわれた時には、実はこれ〱と打ち明けて云おうかと思ったが、慦なまじい云えばお母っかさんや惣吉の為にならんと思って思い切って、心にもない悪体あくたいを云って出て来たが、是まで真実に親子の様に私に目を掛けておくんなすった姑しゅうとに対して実に済まない、お母さん、其のかわり屹度きっと、旦那様の仇あだを今年の中うちに捜し出して、本望ほんもうを遂とげた上でお詫びいたします、あゝ勿体ない、口が曲ります、御免なすってください」

と手を合せ、耐こらえ兼てお隅がわっと声の出るまでに泣いております。

多「まだ立ってやアがる、彼処あすこに立って悪体口をきいていやアがる、早く行け」

隅「大きな声をするない、手前の様な土百姓どびゃくしょうに用はないのだ、漸やっとサバ〱した」

と故意わざと口穢くちぎたないことを云って、是から麹屋へ来て亭主に此の話をすると、

亭「能く思い切って云った、よし、己がどこ迄も心得たから、心配するな、先まず手拭でも染めて、すぐ披露ひろめをするが好よい、これ〱これ〱拵こしらえて」

というので、手拭等とうを染めて、残らず雲助や馬方に配りました。

亭「今までとは違ってお隅は拠よんどころない訳が有って客を取らなくっちゃアならん、皆みんなと同じに、枕付で出るから方々へ触れてくれ」

というと、此の評判がぱっとして、今までは堅い奉公人で、殊ことに名主の女房にもなった者が枕付で出る、金さえ出せば自由になるというので大層客がありまして、近在の名主や大尽だいじんが、せっせとお隅の処へ遊びに来ますけれども、中々お隅は枕を交かわしません。お隅の評判が大変になりますると、常陸にいる富五郎が、此の事を聞きまして、

富「しめた、金で自由になる枕附きで出れば、望みは十分だ」

と天命とはいいながら、富五郎が浮々うか〱とお隅の処へ遊びに参るという、これから仇打あだうちになりまするが、一寸一息。

七十一

お隅は霜月の八日から披露ひろめを致しまして、客を取る様になりました。なれどもお隅は貞心ていしんな者でございますから、能いいように切り脱ぬけては客と一つ寝をする様なことは致しません、素もとより器量は好よし、様子は好し、其の上世辞がありまするので、大して客がござります。丁度十二月十六日ちら〱雪の降る日に山倉富五郎が遣やって参りましたが、客が多いので何時いつまで待ってもお隅が来ません、其の内に追々と夜よが更けて来ますが、お隅は外の客で来ることが出来ませぬから、代りの女が時々来ては酌をして参り、其の間には手酌で飲みましたから、余程酒の廻っている処へ、隔へだての襖ふすまを明けて這入った人の扮装なりはじゃがらっぽい縞しまの小袖にて、まア其の頃は御召縮緬おめしちりめんが相場で、頭髪あたまは達磨返しに、一寸した玉の附いた簪かんざしを揷さし散斑ばらふの斑ふのきれた櫛くしを横の方へよけて揷しており、襟には濃こっくり白粉おしろいを附け、顔は薄化粧の処へ、酒の相手でほんのりと桜色になっております、帯がじだらくになりましたから白縮緬の湯巻がちら〱見えるという、前ぜんとはすっぱり違った拵こしらえで、

隅「富さん」

富「イヤこれはどうも、どうも是は」

隅「私ゃアね富さんじゃないかと思って、内々ない〱見世で斯こう〱いう人じゃアないかというと然そうだというから、早く来度きたいと思うけれども、長ッ尻ちりのお客でねえ、今やっと脱ぬけて来たの、本当に能く来たね」

富「これはどうも、甚はなはだ何どうも御無沙汰を、実は其の不慮の災難で御疑念を蒙むりました、それ故お宅へ参ることも出来ない、こんな詰らぬ事はないと存じて、存じながら御無沙汰を、只今まで重々御恩になりました貴方が、御離縁になって、此方こちらへ入らっしゃった事を聞いて尋ねて参りました、どうも妙でげすねえ、御様子がずうッと違いましたね」

隅「お前さんも知ってる通りべん〱とあゝやっていたっても、先の見当みあてがないし、そんならばといって生涯楽に暮せるといった処が、あんな百姓家やで何なんにも見る処も聞く事もなし、只一生楽に暮すというばかりじゃア仕様がないから、江戸へ行こうと思って、江戸には親類が有って大小を帯さす身の上だから、些ちっとも早く頼んで身を固め度たいと思って離縁を頼むと、不人情者だって腹を立って、狐阿魔だの狸阿魔だのというから、忌々いま〱しいから強情に無理無体に縁切状を取って出て来ましたの、江戸へ行くにも、小遣がないもんだから、こんな真似をして身装みなりも拵こしらえたり、金の少しも持って行き度いと思って、遂ついに斯こんな処へ落ちたから笑っておくんなさい」

富「笑う処か誠にどうも、なに必ず私は買いに来たという訳ではありませんから、決して御立腹下さるな、そんな失敬の次第ではないが、何どういう訳で羽生村をお出で遊ばしたかと存じて御様子を伺おうと思って参った処が、数献すうこん傾けて大酩酊おおめいてい」

隅「まア是から二人で楽々と一杯飲もうじゃアないか、早く来て久振りで、昔話をしたいと思っても、長ッ尻のお客で滅多に帰らぬからいろ〱心配して、やっとお客を外して来たの、まア嬉しいこと、大層お前若くなったことね」

富「恐入ります、あなたの御様子が変ったには驚きましたねえどうも、前とはすっかり違いましたねえ」

隅「さお酌致しましょう」

富「これはどうも、まア一寸一杯、左様ですか」

隅「私は大きな物でなくっちゃア酔わないから、大きな物でほっと酔って胸を晴したいの、いやな客の機嫌気褄きづまを取って、いやな気分だからねえ、富さん今夜は世話をやかせますよ」

富「大きな物で、え湯呑で上りますか、御酒は些ちっとも飲あがらなかったんですが、血に交われば赤くなるとか、妙でげすなア、お酌を致しましょう、これは妙だ、どうも大きな物でぐうと上れるのは妙でげすな、是は恐入りましたな」

隅「私は酔って富さんに我儘な事をいうけれども、富さんや聞いておくれな」

富「うゝんお隅さん必ず御疑念はお晴しなすって、惣次郎さんを私が手引して殺させたというので花車の関取が私の背中をどやして、飯を吐はかせるというから、私は驚いて、あの腕前では迚とても叶かなわぬから一生懸命逃げたんだが、あのくらい苦しいことはありませぬ、それ故御無沙汰になって、あなたが枕附で客をお取りになるという事を聞いて、今日口を掛けたのは相済みませぬが、実はどういう訳かと存じて只御様子を伺いたいというので参っただけで」

隅「まアそんな事は好いいじゃアないか、今夜私は酔うよ」

富「お相手をいたしましょう」

隅「お相手も何もいるものか」

と大きな湯呑に一杯受けて息も吐つかずにぐっと飲んで、

隅「さア富さん」

富「私はもう数献すこん…えお酌でげすか、置注おきつぎには驚きましたね…それだけは…妙なものでげすな、貴方はお酒はもとから上りましたか」

隅「なに旦那の側にいる時分には謹んで飲まなかったんだが、此家こゝへ来てから戴く様になりました」

富「へえ有難う、もう……お隅さんどうか御疑念をね…これだけはどうか…私は詰らん災難で、私が何なんぼ何なんでも、一角は知らない奴、逢った事もない奴に何なんで此かくの如く、な、御疑念が掛るか、私も元は大小を帯たいした者、此の儘には捨置けぬと、余程よっぽど争いましたが、関取が無暗むやみに打ぶつというから、あの力で打たれては堪らぬから逃げると云う訳で、実に手前詰らぬ災難でげして……」

隅「好いいじゃ無いか、私に何も心配はありゃアしないやね、羽生に居る時分には、悔しい、敵打かたきうちをするというから私も連れて然そういったけれども、もう彼処あすこを出てしまやア、何なんにも義理はないから私に心配はいらないが、只聞きたいのは富さん忘れもしない羽生にいる時、お前が酔って帰ったことがあったろう、其の時お前が旦那のいない所で私の手を掴まえて、江戸へ連れて行って女房にして遣ろう、うんといえば私が身の立つようにするが、江戸へ一緒に行って呉れぬかと云っておくれの事があったねえ、あれは本当の心から出て云ったのか、私が名主の女房になってたから、お世辞に云ったのか聞きたいねえ」

七十二

富「これは恐れ入りました、こりゃア何どうも御返答に差支さしつかえる……こりゃア恐入ったね、富五郎困りましたね…………おや〱またいっぱいになった、貴方そばから置き注ぎはいけません………余程よほど酔って居るからもう御免なさい……あれはお隅さん、貴方が恩人の内宝ないほうになっているから、食客いそうろうの身として、酔ったまぎれで、女房になれ……江戸へ連れて行こうといったのは実に済まない……済まないが、心にないことは云われん様な者で、富五郎深く貴方を胸に思っているから酔った紛れに口に出たので、どうも実に御無礼を致しました、どうか平ひらに御免を……」

隅「あやまらなくっても宜いいじゃアないか、本当にお前が心に思ってくれるといえば嘘にも嬉しいよ、富さん、私もね、何時いつまでもこんな姿なりをしていたくない……江戸へ知れては外聞が悪いからねえ……江戸へ行くったって親類は絶えて音信いんしんがないし、真実ほんとうの兄弟もないから何なんだか心細くって、それには男でなければ力にならぬが、こういう汚けがれた身体になったから、今更いけない、いけないけれどもお前がねえ、私の様な者でも連れて行って女房にすると云っておくれなら、私も親類へ行って、この人も元はこれ〱のお侍でございましたが、運が悪くってこういう訳になったからといって頼むにも、二人ながら武士の家に生れた者だから、親類へも話が仕好しいい、よう富さん、本当にお前、私がこういう処へ這入ったからいけないかえ……前にいったことは嘘かえ」

富「こりゃアなんとも恐れ入ったね……旨いことを仰しゃるなア……又一ぱいになった、そう注いじゃあいけない……えゝ…本当にそんな事をする気遣いは無いて…どうか御疑念の処は…私は困るよ……どうも理不尽に私を疑うたぐって、脊骨をどやすというから、驚いて、言訳する間まは無いから逃げたのだが、神かけて富五郎そんな事はないので……」

隅「そんな心配は無いじゃアないか、何なんだねえ、お前、私がこんな身の上になっていても、敵とか何なんとか云って騒ぐと思ってるのかえ、私は表向き披露ひろめをした訳でもなし、敵を討つという程な深い夫婦でもない、それ程何も義理はないと思うから、悪体を吐ついて出たのだもの」

富「そりゃア義理はありましょうが、私はあなたが、あんな愚痴婆ばゝあの機嫌を、よく取ってお在いでなさると思っていました。あなたがこれを出るのは本当でげす、御尤もでげすねえ」

隅「だからさ、お前がいやなら仕方がないけれども、本当なら、お前の為にどんな苦労をしても、いやな客を取っても、張合があると思っているのさ、それには、判人はんにんがないといけないから、お前が判人になって、そうして私が稼いだのをお前に預けるから、私を江戸へ連れて行っておくれな」

富「本当ですか」

隅「あら本当かって、私が嘘をいうものかね、悪にくらしいよ」

富「あゝ痛い、捻つねってはいけない、そういう……又充溢いっぱいになってしまった……いけないねえ……だが、お隅さん、本当に御疑念はお晴らしください、富五郎迷惑至極だてねえ」

隅「どうも、うるさいよ、未まだ何処どこまで疑うたぐるのだね、そんなに疑るなら証拠を出して見せようじゃないか、そら、是が羽生村から取って来た離縁状と、是はお客に貰った三十両あるのだよ、お前が真実女房に持ってくれる気なら、此のお金と離縁状を預けるがお前も確たしかな証拠を見せておくれよ、富さん」

富「本当ですか、本当なら私だって、親類もあるから、お前さんと二人で行って、話しをすればすぐだね、そりゃア、小さくも御家人の株ぐらいは買ってくれるだろう、お隅さん本当なら、生涯嘘はつかないねえ」

隅「まア嬉しいじゃアないか、富さん本当かい」

富「そりゃア本当」

隅「有難いねえ、じゃア証拠を見せておくれな」

富「別に証拠はない」

隅「だから悪にくらしいよ」

富「悪らしいってあれば出すけどもないもの、じゃア外に仕方がないから斯こうしよう、そう話がきまれば、此処こゝに永く奉公さして置きたくないからね、どこまでも金の才覚をして早く江戸へ行こう、富五郎浪人はしていても、百や二百の金は直すぐに出来るから」

隅「そう、そんなに入らないが、路銀と土産ぐらい買って行きたいねえ」

富「こう仕よう」

隅「だって急にお前に苦労させては済まないから、此処で私が二年も稼いでから」

富「なに宜いい、いゝから、斯こうしよう、一角を騙だまして百両取ろう」

隅「おや一角さんは何処どこにいるの」

富「うん、まあいゝや、お隅さん本当に御疑念の処は」

隅「又そんなことを、本当にお前は悪らしいよ、じゃアお前は一角となれあって殺したことがあるから、私がどこまでも仇かたきを狙っていると疑るのだろう、そんな疑りがあって、私を女房にしようというのは余程よっぽど分らない、恐い人だね、もう止しましょう、書付かきつけまで見せて、生涯身を任して力になろうと思う人がそう疑ってはお金も書付も渡されないから。止しにしましょう」

富「そういう訳ではない、決して疑る訳ではない、決して疑る訳では無いがね」

隅「だからさ疑る心が無ければ、一角さんは何処どこにいると云ったって好いいじゃないか、どうして騙だまして金を取るのか、それをお云いよ」

富「うーん、それは一角がお前に惚れているのだから」

隅「そうかい」

富「前から惚れてる、それだから一角の処へ行って、お前がこう〱でございますから貴方御新造にしてお遣りなさい、就ついては内証ないしょうに百両借金がありますから、之を払って遣れば直すぐに此処こゝへ来られる訳だ、出して下さいといえば是非金を出す…いゝえ出るに極っているのだから、出したら借金を払ってお前と二人で、ねえ、江戸へ行こう、こいつが宜いいじゃないか」

隅「どうも嬉しいことねえ、一角さんは何処にいるの」

富「うーン、それ」

隅「おかしいねえ、もう夫婦になってお前は亭主だよ、添ってしまって、今夜一晩でも枕を交せば大事な生涯身を任せる亭主だもの、前の亭主の敵かたきといって、刄やいばが向けられますか、私も武士の娘、決して嘘はつきませぬよ」

七十三

富「こりゃア驚いた、流石さすがは武士の御息女、嬉しいな…又充溢いっぱいになってしまった……こりゃア有難い、それじゃア云おうねえ、実は私は、お前にぞっこん惚れていたが、惣次郎があっては仕様がない、邪魔になるといっても、富五郎の手に負いない、所が幸い安田一角がお前に惚れているから、一角をおいやって弘行寺の裏林で殺させて置いて、顔に傷を拵こさえて家うちへ駈込んだが、あの通り花車が感付きやアがって、打ぶつというから、此方こっちは殺されては堪たまらぬから、逃げてしまった、全く一角が殺しは殺したんだが、実は私がおいやって遣らしたのだ」

隅「私もそう思ってたけれどもね、羽生にいる時は義理だから敵といっていたけれども、こう出てしまえば義理も糸瓜へちまもない他人だアね、あんな窮屈な処にいるのはいやだと思って出たんだが、富さんこうなるのは深い縁だねえ、どうしても夫婦になる深い約束だよ」

富「是は妙なもんだね、不思議なもので、羽生村にいる時から私が真に惚れゝばこそ色々な策をして、惣次郎を討うたせたのも皆みんなお前故だねえ」

隅「一角さんは何処どこにいるの」

富「一昨日おとといの晩三人で来て前の家うちは策で売らしてしまったから、笠阿弥陀堂かさあみだどうの横手に交遊庵こうゆうあんという庵室あんしつがありましょう、二間ふたま室まがあって、庭も些ちっとあり、林の中で人に知れないからというので其処そこを借りていて、今夜私に様子を見て来いというので、私が来たのだから、こう〱といえば、えゝというので百両出す、なに大丈夫だ、其れで借金を片付けて行って了しまやア彼奴あいつは何なんともいえない、人を殺した事を知って居るから何ともいえやアしないから、烟けぶに巻かれてしまわア、追掛おっかけようといっても彼奴江戸へ出られる奴でないから大丈夫」

隅「そう、本当に嬉しいねえ、真底お前の了簡が知れたよ」

富「これ程お前を思ってるのに其れを疑ぐるということはない、誠に詰らぬこと…」

隅「此処こゝで寝るといけないから彼方あっちへおいでよ、彼方に床が取ってあるから、さ此のお金と書付を」

富「やアそんなもの」

隅「落おっことすといけないからお出し」

と、金と書付を引ひったくって、無暗むやみに手を引いて、細廊下の処を連れて行ゆくと、六畳ばかりの小間こまがありまして、其処そこに床がちゃんと敷いてある。

隅「さ、お寝と云ったらお寝、あら俯伏つっぷしちゃいけないから仰向けにお成り」

と仰向に寝かし、枕をさして、

隅「さ、寒いから夜具これを」

富「あゝ有難い、こっちイ這入って寝なよ」

隅「今寝るが、寒いから掻巻かいまきを」

富「好いいよ、雪は何どうしたえ」

隅「なに雪は降っているよ、夫婦の固めに雪が降るのは縁が深いとかいう事があるねえ」

富「うーん、そりゃア深雪みゆきというのだ」

隅「富さん、私はいう事があるよ」

富「どう」

隅「あら顔を見られると恥かしいから被かぶっておいでよ」

とお隅は掻巻を富五郎の目の上まで被せて其の上へ乗りました。

隅「私は馬乗りに乗るわ」

富「何をするのだ、息が出なくって苦しい、何をする、切ないよ」

隅「本当に富さん不思議な縁だね」

といいながら隠してあった匕首あいくちを抜いて、

隅「惣次郎を殺したとは感付いていたけども、お前が手引で…一角の隠れ家まで…こういう事になるというのは神仏のお引合せだね」

富「実に神の結ぶ縁だねえ」

隅「斯こういう事があろうと思って、私は此の上ない辛い思いをして、恩ある姑しゅうとや義理ある弟に愛想尽あいそづかしを云って出たのも全くお前を引寄せる為、亭主の敵かたき罰当ばちあたりの富五郎覚悟しろ、亭主の敵」

と富五郎の咽喉のどへ突込つッこむ。

富「うーん」

というのを突込んだなり呑口を明ける様にぐッぐッと抉えぐると、天命とはいいながら富五郎はばた〱苦しみまして、其の儘うーんと呼吸いきは絶えました様子。お隅はほっと息を吐つき、匕首の血のりを拭ぬぐって鞘に納め、

隅「南無阿弥陀仏〱」

と念仏を唱え、惣次郎の戒名を唱えて回向えこうを致します。お隅は沈着おちついた女で、直すぐに硯箱すゞりばこを取出し、事細かに二通の書置を認したゝめて、一通は花車へ、一通は羽生村の惣吉親子の者へ、実は旦那の仇あだを討ち度たい許ばかりで、心にもない愛想尽しを申して家うちを出て、麹屋へ参って恥かしい身の上になりましたが、幸いに富五郎が来て、これ〱の訳と残らず自分の口から申して、一角の隠家かくれがもこれ〱と知れましたから、女ながらも富五郎は首尾能く打留うちとめたから、今夜直ぐに一角の隠家へ踏込んで恨みを晴し、本望ほんもうを遂とげる積り、なれども女の細腕、若もし返り討になる様な事があったならば、惣吉が成人の上、関取に助太刀を頼んで旦那と私の恨うらみを晴らして下さい、敵かたきは一角に相違ない事は富五郎の白状で定きまりましたという、関取と母親の方へ二通の書置を残して傍そばに掛っている湯沸しの湯を呑み、懐へ匕首を隠して庭の方の雨戸を明けると、雪は小降になった様でもふッ〱と吹っかける中を跣足はだしで駈出して、交遊庵という一角の隠家へ踏込みまするというお隅仇打あだうちのお話を次回に。

七十四

申し続きまする累ヶ淵のお話で、お隅が交遊庵という庵室に隠れている一角の処へ斬り込みまするという、女ながらもお隅は一生懸命でござりまして、雪の降る中を傘もなしに手拭を冠かぶりまして跣足はだしで駈けて参って、笠阿弥陀堂から右に切れると左右は雑木山でござります、此の山の間を段々と爪先上あがりに登って参りますると、裏手は杉檜などの樹木がこう〱と生い茂って居りまする処へ、門の入口の処に交遊庵の三字を題しました額が掛っております。門の締りは厳重になっておりまするなれども、家へは近ちこうござります、何処どこか外ほかから這入口はいりぐちはなかろうかと横手に廻って見ても外に入口いりくちはない様子、暫しばらく門の処に立って内の様子を窺うかゞっていると、丁度一角が寝酒を始めて、貞藏ていぞうという内弟子を相手にぐび〱と遣やりましたから、門弟も大分酩酊致しておりまする様子。

隅「御免なさいまし、御免なさいまし、一寸此所こゝを明けて下さいまし、あの、先生は此方こちらにいらっしゃいますか」

というと戸締りは厳重にしてあり、近いといっても門から家までは余程隔へだって居りますが、雪の夜よで粛然しんとしているから、遥はるかに聞える女の声。

安「貞藏〱誰たれか門を叩いている様子じゃ」

貞「いや大分雪が降って参りました、私わたくし先程台所を明けたらぷっと吹込みました、どうして中々余程の雪になりましたから、此の夜中やちゅう殊ことに雪中せっちゅうに誰たれも参る筈はございませぬ」

安「でも、それ門を叩く様子じゃ」

貞「いゝえ大丈夫」

安「いや左様でない…それそれ見ろ…あの通り…それ叩くだろう」

貞「へえ成程えゝ見て参りましょう、えゝ少々御免遊ばして、大層酩酊致しました、ひょろ〱致して歩けませぬ、えゝ少々…なに誰だれだい、誰たれか門を叩くかい…誰だれだい」

隅「はい、あの安田一角先生は此方こちらにいらっしゃいますか」

貞「安田と、安田先生ということを知って来たのは誰だい」

隅「はい私は麹屋の隅でございますが、一寸先生にお目に掛り度たいと存じまして、わざ〱雪の降る中を参りましたが、一寸此処こゝをお明け遊ばして下さいませんか」

貞「あ、少々控えていな」

とよろよろしながら一角の前へ来て、

貞「へえ先生」

安「来たのは誰だ」

貞「麹屋のお隅が、先生にお目に掛ってお話し申し度い事があって、雪の降る中を態々わざ〱参ったといいます」

安「隅が来たか、はて、うっかり明けるな、えゝ彼かれは此の一角を予かねて敵かたきと附狙つけねらうことは風説にも聞いていたが、全く左様と見える、うっかり明けて、角力取すもうとりなどを連れてずか〱這入られては困るから能く気を附けろ、えゝ全く一人か、一人なら入れたっても好いいが」

貞「これ、お隅、何かえ、お前誰か同伴つれがありますかい、大勢連れてお出でかい、角力取は来ましたのかい」

隅「いゝえ私一人でございます、一寸ちょいと此処こゝを明けて下さいませんか、お前さん貞藏さんじゃアありませんか」

貞「なに貞藏、己の名を知ってるな、うん成程知ってる訳だ、私わしが水街道へ先生のお供にいった事があるから、今明けるよ、妙なもんだなア、おう好よい塩梅にこれ雪が上って来た、大層積ったなア、おゝおゝ、ふッ、足の甲までずか〱踏み込む様だ、待ちな今明けるぞ、待ちな、閂かんぬきがかって締りが厳重にしてあるから、や、そら、おや一人で傘なしかい」

隅「はい少しは降っておりましたが、気が急せきましたから、跣足はだしで参りました」

貞「おゝ〱私わしはやっと此処こゝまで雪を渉わたって来たのだが、能く夜中やちゅうに渡しの船が出たねえ」

隅「はい、あの、船頭は馴染でございますから、頼んで渡して貰って、漸やっとのことで参りました」

貞「それはえらい、さア此方こっちへ、先生たった一人で渡を渡って跣足で参ったと云うので」

安「それは思い掛けない、なに傘なしで、それはそれは、雪中といい、どうも夜中といい、一人でえらいのう、誠にどうも、さア此方こっちへ」

隅「先生誠に暫くお目に掛りませんで」

安「いや誠にこれは、うーん己は無沙汰をしております、暫く常陸へ参った処が、彼方あちらで些ちっと門弟も出来たから、近郷の名主庄屋などへ出稽古を致して、久しく彼方にいて、今度又此方こちらへ来た処が、先せんに住すまった家は人に譲ったから、まア家の出来るまで、当期此の庵室におる積りで、だが手前能く尋ねて来たねえ」

隅「誠にどうも御無沙汰を致しまして」

安「此の夜中雪の降る中を踏分けて何どうして来た」

七十五

隅「あの今日富五郎が来ましてね、何か先生に頼まれた事があると云って、私の処へ客になって来まして、お酒に酔って何なんだか種々いろ〱な事を云いますの、けれども其の様子がさっぱり分りませんから、其の事に付いて先生にお目に掛らなければ様子が分りませんから」

安「それはどうも、富五郎が行ったかい、貞藏、富五郎が往ったって」

貞「だから私が先生に申上げて置きました、彼奴あいつは誠にあゝいう処ばかり遊びに参るのが好きでげす、全体道楽者でげすからなア、彼奴余程よっぽど婦人好ずきでげすよ」

安「で、富五郎が往って何どういう話し振の、まア一抔「一抔」はママ飲め」

隅「有難うございます、まアお酌を」

安「イヤ一抔「一抔」はママ飲め」

隅「左様でございますか、貞藏さん、お酌を、恐れ入ります」

貞「いや久し振りでお酌をする、私わしの名を心得ているから妙でげすな、久しい前に一度先生のお供を致しましたが、其の時逢った一度で私の名まで覚えているというのは、商売柄は又別なものでげす、お隅さん相変らず美しゅうございますな」

安「これお隅、手前名主の手を切って麹屋の稼ぎ女になったとか、枕附で出るとかいう噂があったが嘘だろうな」

隅「いゝえ嘘ではございません、誠にお恥かしゅうございますけれどもべん〱とあゝ遣ってもいられませんから、種々いろ〱考えました処が、江戸には親類もありますから、何卒どうぞ江戸へ参り度たいと思いまして、故郷こきょうが懐かしいまゝ無理に離縁を取って出ましたが、手振り編笠あみがさ、姑しゅうとが腹を立って追出すくらいでございますから、何一つもくれませぬ、それ故少しは身形みなりも拵こさえたり、江戸へ行ゆくには土産でも持って行ゆかなければなりませぬ、それには普通たゞの奉公では埓らちが明きませんから、いや〱ながら先生お恥かしい事になりました」

安「オヽ左様か、じゃア自みずから稼いで苦しみ、金を貯めてなにかい身形を拵えて江戸へ行いこうと云う訳か、どうも能く離縁が出たのう」

隅「それが向むこうで出さないのを此方こっちから強情に取りましたので、先生誠に久し振でございますねえ」

安「ウンそれは妙だなア」

貞「これは先生妙でげすな、貴方の方でお呼び遊ばさぬのにお隅さんが此の雪の降る中を尋ねて来るなんて、自然にどうも貴方の…実に感服でげすなア」

安「なにそう云う訳でもなかろう、何か是には訳があって来たんだろう、なにかい富五郎がどういう事を云ったい」

隅「はい、富さんの云うには、べん〱とこんなア卑いやしい奉公をするよりも、一角先生の御新造にならないかといいますから、馬鹿なことをお云いでない、一旦名主の家うちへ縁付かたづいたのだから、披露ひろめはしないでも、今度行ゆけば再縁をする訳じゃアないか、それだから先生は決して御新造になさる訳はない、妾にすると仰しゃればまだしもの事だけれども、御新造にというのは訝おかしいじゃアないかというと、いゝえ全くお前さえよければ先生は御新造になさる思召おぼしめしがあるのだから、お前がたって…頼みたいと思うなら、骨を折って宜よいように執成とりなすから了簡を決めろといいますから、それは誠に思掛おもいがけない有難いこと、私の様な者を先生が仮令たとえ妾にでもなすって下さるなら、私は本当に浮ぶ訳で、べん〱とこんな処にいたくないから、屹度きっと執成とりなしておくれかというと、お酒が始まって、すると彼あの人の癖で直すぐに酔ってしまって、まア馬鹿らしいじゃアありませんか、先生に取持つ代りにおれの云う事を聞けといって口説き始めたんでございますよ」

安「こりア怪けしからん奴だ、どうだい貞藏」

貞「でげすから彼あれは先生いけませぬ、先生は彼奴あいつを御贔屓になさいますが、全体よくない奴で、そういう了簡違いな奴でげすからなア、一体先生が余り贔屓になさり過ぎると思っていましたが、どうも御新造に取持とうという者、いわば仲人なこうどが一旦自分のいう事をきかして、それから縁付かたづけると、そんな事がありましょうか、だから彼あれはもう、お置きなさらん方が宜よい、お為になりませぬからなア、彼奴が来てから私は彼奴に使われるような訳で、先生もう彼奴はお止し遊ばした方がようございますよ」

安「お隅、それからどうしたい」

隅「それで、私が馬鹿な事をおいいでないと云うと、そんな詰らんことを云わんでも宜いいじゃアないかといいますから、宜いじゃアないかって、お前さんのいう事を聞いた上で先生の処へ妾に行ゆけるか行けないか考えて御覧、富さん酔うにも程がある、冗談は大概におしよと云って居りましたら、終しまいには甚ひどく酔って来まして、短かいのを抜いて、いう事を聞かなければ是だと嚇おどし始めましたから、私も勃然むっとして、大概におしなさい、お前は腕ずくで強淫ごういんをする積りか、馬鹿な事をする怖い人だ、いやだよと云って行ゆこうとすると、そうはやらぬと私の裾すそを押えて離さない処へ、お兼かねさんやお力りきさんが出て参りまして取押える拍子に、お兼さんが指に怪我をするやら、金どんも親指に怪我をしまして、漸ようやくの事で宥なだめて刄物を抉取もぎとったんでございますが、全く先生の処から来たのなら、明日あすの朝先生が入らっしゃるであろう、其の上当人も酒が醒さめるだろうから、まア縛って置くが好いいというので縛って置きました」

七十六

安「こりゃアどうも怪けしからん、白刃はくじんを振ふるっておどすなぞとは、えゝ貞藏」

貞「どうも怪しからん、彼奴あいつはいけません、彼奴一体そういう質たちの奴でげす、何どうも怪しからん、抜刀ぬきみで口説くなんて、実に詰らん訳でげすなア、だから先生もう彼奴はお止しなすって家うちに置かぬ方が宜しい、何うもそういう……」

安「お隅、貴様はなにか主人に話をして来たか」

隅「はい何なんともいいませんけれども、お力さんに頼んで置きまして、何しろ先生の御様子を聞かなければ分らない、誠に恥かしいことでございますけれども、先生の処へ行って御様子を聞いて、そうして先生に宥なだめて戴き度たいと思って出て参りました」

安「左様か、雪の夜よではあるし、是から行ゆくといっても大変だがあんな馬鹿にからかわないが「からかわないが」はママ宜いいよ」

隅「なにもう明日あしたでも宜ようございますけれども、私は是から一人で帰るのは辛くって、参る時は一生懸命で来ましたが、帰るとなると怖くっていけませんが、どうかお邪魔様でも今夜一晩泊めて下さる訳にはいきますまいか」

安「うん、それは宜よい、泊って往いくなら、なア貞藏」

貞「是は先生御恐悦でげすなア、お隅さんの方から泊って宜いいかと云うのは、こりゃア自然のお授かりでげすな」

安「なにお授かりな事があるものか、のうお隅、だが貴様には何どうも分らぬことが一つある、というのは惣次郎の女房になって何ういう間違いかは知らんけれども、安田一角が惣次郎を殺害せつがい致したというので、私わしを夫の敵かたきと狙って、花車重吉を頼んで何処どこまでも討たんければならぬと云って、一頻ひとしきり私を狙って居るという事を慥たしかに人を以もって聞いたそう云う手前が心で居たものが、又また此処こゝに来て、一角の女房になろうとは些ちっと受取れぬじゃないか、のう貞藏」

隅「いゝえ、ねえ貞藏さん考えて御覧、羽生村に居るうちは義理だから敵を討つとか何なんとか云いましたけれども、なにもねえ元々私が麹屋に奉公をして居て、あの時分枕付ではありませんが、彼あの名主に受出うけだされて行って、妾同様表向の披露ひろめをした訳でもなし、ほんの半年か一年亭主にしただけでございますから、母親おふくろの前や村の人や角力取の前で義理を立って、敵を討つといいは云いましたが、よく〱考えてみた処が、貴方が屹度きっと殺したということが分りもしない、こんな的あてもないのに敵を討つといったっても仕方がない訳だから、寧いっそ敵討かたきうちという事は止やめてしまおう、それにしては何時いつまでもべん〱としてもいられませんから、思い切って暇を貰って出たのでございますから、もう今になれば些ちっともそんな心は有りゃアしません、ねえ、貞藏さん」

貞「成程是こりゃア本当でげしょう、先生は人を殺す様な方でないし、只お前さんへ執心が有った処から角力取と喧嘩、ありゃア一体角力の方がいけないよ、変に力が有ってねえ、あれだけは先生甚ひどく野暮やぼになりますな」

安「詰らん疑念を受けて飛んだ災難と思ったが、此方こっちに居ては面倒だから暫く常陸へ行って居たんだが、手前全くか」

隅「本当でございますから疑りを晴はらして一献ひとつ戴きましょう」

安「手前飲めるか」

隅「はい、何なんだか寒くっていけません、跣足はだしで雪の中を駈けて来たもんですから、足が氷の様になっていますもの」

安「うーん中々飲める様になったのう」

隅「勤つとめをして居て仕方なしに相手をするので上りましたよ」

安「ふん妙だのう貞藏」

貞「是は〱お隅さん貴方御酒を飲あがりますか、お酌を致しましょう」

隅「はい有難うございます」

と大杯たいはいに受けたのをグイと飲んで、

隅「貴方何なんだか真面目でいけないから、私がお酌を致しましょう」

と横目でじっと一角の顔を見ながら酌をする。一角は素もとより惚れている女が酌をしてくれるから快く大杯で二三杯傾けると、下地の有った処でござりますからグッスリ酔えいが廻って来ます、貞藏も大変酩酊致しまして、

貞「私わたくしもう大層戴きました、お隅さん私わたしは御免を蒙こうむりまして、長く斯こういう処にいるべきものでありませんから、左様なら先生御機嫌よう」

隅「まアお待ちなさいよ、先生がお酔いなすったから、おや〱次の方に床が取ってありますねえ」

貞「いゝえ私わたくし床を取って置いて、先生がぐっと召上ってしまうと直すぐにお寝やすみという都合にして置きました、えゝ誠に有難う」

隅「じゃア先生一寸貞藏さんを寝かして来ますからお床の中に居てねえ、寝てしまってはいけませんよ」

安「なに貞藏などは棄てゝ置けよ」

隅「いゝえ、そうで有りません、ひょっとして貴方が私の様な者でも娶よんで下さいますと、禍わざわいは下しもからといって、あゝいう人に胡麻を摺られると堪たまりませんからねえ」

安「なに心配せんでも宜よい、じゃア己此処こゝに、なに寝やあせんよ、おゝ酔った、貞藏隅が送って遣るとよ」

貞「いや是は恐れ入ります、じゃア先生御機嫌よう、お隅さんようございます」

隅「いゝえ、よくないよ、そら〱危ない、何処どこへ、彼方あっちがお台所だいどこかえ」

と蹌よろける貞藏の手を取って台所だいどころの折廻おりまわった処の杉戸を明けると、三畳の部屋がござります。

隅「さ、貞藏さん此処こゝかえ、おや〱お床が展のべてあるの」

貞「いゝえ私の床は参ってから敷しきっぱなしで、いつも上げたことはないから、ずっと遣るとこう潜り込むので、へえ有難う」

隅「恐ろしい堅そうな夜具ですねえ」

貞「えゝなに薄っぺらでげすが、此の上へ布団を掛けます、寒けりゃア富五郎のが有りますから其れを掛けてもいゝので、へえ有難う」

隅「さア仰向におなり、よく掛けて上げるから」

貞「是は恐れ入ります、へえ恐れ入ります、御新造に掛けて戴いて勿体至極もない」

隅「さ、掛けますよ、寒いから額まですっかり掛けますよ、そう見たり何かすると間が悪いわね、さ、襟の処とこを」

貞「あゝ有難う」

隅「どうも重たいねえ」

貞「へえ有難う暖あったかでげす」

隅「何なんだか寒そうだこと、何か重い物を裾すその方に押付おっつけると暖あったかいから」

というので台所を捜すと醤油樽がある、丁度昨日さくじつ取ったばかりの重いやつを提さげて来て裾の方に載せ、沢庵石と石の七輪を掻巻かいまきの袖に載せると、

貞「アヽ有難う、大層暖あったかで、些ちっと重たいくらいでげす」

といったが是は成程重たい訳、石の七輪や沢庵石や醤油樽が載っておりますから、当人は押付おしつけられる様な心持。

貞「へえ有難う、暖あったかでげす」

といったぎりぐう〱と好よい心持に寝付きました。

七十七

お隅はそっと奥の様子を見ると、一角が蹌よろけながら、四畳半の床の上に横になった様子でございますから、そっと中仕切なかじきりの襖ふすまを閉たって、台所の杉戸を締め、男部屋の杉戸を静しずかに閉って懐中から出して抜いたのは富五郎を殺害せつがいして血に染まった儘なりの匕首あいくち、此の貞藏があっては敵討の妨げをする一人だから、先まず貞藏これから片付けようというので、仰向に寝て居る貞藏の口の処へどんと腰を掛けながら、力任せに咽喉のどを突きましたから、

貞「ワーッ」

といったが掻巻と布団が掛って居りますから、苦くるしむ声が口籠くちごもって外そとへ漏れませぬ。一抉ひとえぐり抉ると足をばた〱〱とやったきり貞藏は呼吸いきが絶えました。お隅はほっと息を吐ついて掻巻の袖で匕首の血を拭ぬぐって鞘に納め、そっと杉戸を明けて台所へ来て、柄杓ひしゃくで水をぐっと呑み、はッはッという息づかい、もう是これで二人の人を殺しましたなれども、夫の仇あだを討とうという一心でござりますから、顔色かおいろの変ったのを見せまいと、一角の寝床へそっと来て、顔を横に致しまして、

隅「先生〱もうお寝やすみなすったか」

安「うーん貞藏は寝たか」

隅「はい能く寝ました、大層酔いましてねえ」

安「酔っても宜いいから、あんな奴に構うな、寝ろよ」

隅「寝ろって夜具がありません、私は食客いそうろうでございますから此処こゝに坐っています」

安「そんな詰らぬ遠慮にはおよばぬ、全く疑念が晴れて、己の女房になる気なら真実可愛いと思うから、手前に楽をさして真実尽つくすぞ」

隅「誠に有難いこと、勿体ないけれども、そんなら此の掻巻の袖の方から少し許ばかり這入りまして」

安「いや少し許りでなくって、たんと這入れ」

隅「それじゃア御免なさいまし」

と夜着よぎの袖をはねて、懐中から出した匕首を布団の下に揷はさんで、足で踏んで鞘を払いながら、

隅「じゃア御免遊ばせ、横になりますから」

安「さア這入れ」

と一角が夜着の袖を自ら揚げる処を、

隅「亭主の敵」

と死物狂いに突掛つっかゝるという。お話二つに別れまして麹屋では更に斯様かような事は存じません。暁方あけがたになってお隅がいない処から家中うちじゅう捜しても居ない、六畳の小間が血だらけになっているから掻巻を撥はねると、富五郎が非業な死に様よう、傍わきの処に書置が二通あって、これにお隅の名が書いてあるから、亭主は驚きまして、直すぐに是を開いて読んで見ると、富五郎の白状に依よって夫の敵は一角と定まり、女ながらも富五郎は容易たやすく仕止めたから、直に一角の隠れ家交遊庵へ踏込ふんごんで、首尾よく往いけば立帰って参りますが、女の細腕、若もし返り討になりました時は、羽生村へ話をして此の書置を遣り、又関取へもお便りなすって、惣吉成人の後のち関取を頼んで旦那と私の敵を討たして下さい、証拠は富五郎の白状に依って手引をした者は富五郎、斬った者は一角と定まりました、夫故それゆえに今晩交遊庵に忍び入ります、永々なが〱お世話様になりました、有難い。という重ね〲の礼まで書残してあるから、それッというので、麹屋の亭主は大勢の人を頼んで恐々こわ〲ながら交遊庵に参ったのは丁度夜よの暁方あけがた、参って見ると戸が半ば明いて居ります、何事か分りません、小座敷には酒さけ肴さかなが散ちらかって居り、四畳半の部屋に来て見ると情ない哉かなお隅は返り討に逢って非業な死に様よう。

主「あゝ気の毒なこと、可哀そうに、でも女一人で往ゆくのは実に不覚であった」

もう今更どうも仕方が無いが一角はというと、一角は此処こゝを遁のがれて行方知れず二畳の部屋を明けて見ると沢庵石だの、醤油樽だの七輪の載せてある夜具の下に死んで居る者が一人ござりますから、是から直すぐに麹屋から慥たしかに証拠があって敵討をしようと思って返討に成ったという事を訴えになり、直にお隅の書置を羽生村へ持たせて遣りました時には、母も惣吉も多助も

「アヽ左様そうとは知らずに犬畜生いぬちきしょうの様な恩知らずの女と悪にくんだのは悪かった、あゝいう愛想尽あいそづかしをいったのも、全く敵が討ちたいばっかりでお隅が家うちを出たのであったか、憫然かわいそうなことをしたが、お隅が心配して命を棄てたばかりに敵は一角と定まり先まず富五郎は討止めたが、一角の為に返り討になって死んだといえば悪にくいは一角、早く討ち度たい」

と思いまするが、何しろ年を取った母と子供の惣吉許ばかりでございますから、関取を頼んでと、もう名主役も勤まりませんから、作右衞門という人に名主役を預けて置き、花車重吉が上総の東金とうがねの角力に往ったということを聞きましたから、直すぐに其所そこに行ゆこうというので旅立の支度を致し、永く羽生村の名主を致して居りましたから金は随分ござります、これを胴巻に入れたり、襦袢じゅばんの襟に縫附けたり、種々いろ〱に致して旅の用意を致します、其の内に荷拵にごしらえが出来ると、これを作右衞門の蔵へ運んで預けると云う訳で、只今まで名主を勤めて盛んであったのが、ぱったり火の消えた様でござります。

七十八

母「多助や」

多「ヘエ」

母「作右衞門が処とけえ行って来たかい」

多「ヘエ行って参めえりました、蔵の方にゃ預かる者があるから心配しんぺいしなえが好ええ、何時いつでも帰けえったら直ぐに出すばいて、蔵の下は湿しけるから湿なえ高たけえ処とこに上げて置くばいといってね、作右衞門どんも旧来きゅうれえの馴染ではア何どうか止め度たいと思うが、敵を討ちに行くてえのだから止められねえッて名残なごりイ惜おしがってるでがんす、村の者もねえ皆みんな御恩になったゞから渡口わたしぐちまで送り度てえといってますが、あなたそういうから年い取った者ア来ないで好ええといって置きましたが、私わしだけは戸頭とがしらまで送り度てえと思って支度ウしました」

母「汝われも送らなえで好えいから若わけえ者もんを止めて呉んろよ、汝が送ると若え者も義理だから戸頭まで送りばいと云って来るだ、そうすりゃア送られると送られる程名残い惜いから、汝も送らなえでも好えいよ」

多「だけンどもはア村の者もんは兎も角も私わしはこれ十四歳の時から御厄介ごやっけえになって居りまして、お前様めえさんのお蔭でこれ種々いろ〱覚えたり、此の頃じゃアハア手紙の一本位ぐれえ書ける様になったのア前めえの旦那の御厄介ごやっけえでがんすから、お家うちがこうなって遠い処とけえ行くてえ事こったら私わしも附いて行かないばなんねえが、婆様ばあさまア塩梅あんべいが悪うござえまして、見棄てちゃアなんねえというから、あなたのお心へ任して送りはしねえが、切せめて戸頭まで送りてえと思って居ります、塚前つかさきの彌右衞門やえもんどんは死んだかどうか知んねえが、通り道から少し這入へいるばかりだから、ちょっくり塚前へも寄ったが宜えい」

母「それもどうするかも知んなえが、汝われは送らなえが好えいよ」

多「でも戸頭まで送るばいと思って居ります」

母「送らんで宜えいというに何故そうだかなア、汝われア死んだ爺様とっさまの時分から随分世話も焼かしたが家うちの用も能く働いたから、何なんぞ呉れ度てえと思うけれども何も無なえだ、是ア惣次郎が居る時分に祝儀不祝儀に着た紋附もんつきだ、汝も是これから己おらア家うちが無くなれば一人前の百姓に成るだから、祝儀不祝儀にゃアこういう物も入いるから、此の紋附一つくればいと云う訳だよ、それから金も沢山呉れ度てえが、茲こゝに金が七両あるだ、是ア少し訳があって己おらが手許てもとにあるだから是を汝がにくればい、此の紬縞つむぎじまア余あんまり良くなえが丹精して捻よりをかけて織らした紬縞で、ちょく〱阿弥陀様へお参めえりに往ったり寺参てらめえりに着て往った着物だから、是を汝がに呉れるから仕立直して時々出して着るが好ええ、三日でも旅という譬たとえがあるが、子供を連れて年寄が敵討かたきぶちに行くだから、一角の行方が知んなえば何時いつ帰けえって来るか知んなえ、長なげえ旅で死ななえともいわれなえ、是ア己が形見だから、己が無なえ後のちも時々これを着て己がに逢う心持で永く着てくんろ、よ」

多「はい、私わし戸頭まで送るばいと思ったに…どうも是これいりません…形見……形見なんて心細こゝろぼせえこといわずにの、あんたも惣吉さんも達者で帰けえって、もう一度名主役を惣吉さんが勤めなえば私の顔が立ちませんから、どうか達者で帰けえっておくんなさえよ、惣吉さん今迄とア違うから、母様かゝさまに世話ア焼やかせねえ様に、母様ア大事でえじにしなえばなんねえよ、惣吉さん、好いいかえ、今迄の様なだだいっちゃアなりませんよ、いゝかえ、どうか私は戸頭まで」

母「送らんで好ええというに汝われが送るてえば皆みんな若わけえ者もんも送りたがるから、誰か来たじゃなえか」

作「ヘエ御免」

多「やア作右衞門どんが」

母「さア此方こっちへお這入りなさえ」

作「誠にどうも、魂消たまげて、どういう訳で急に立つことになったか、村の者もどうか止め度てえというから、馬鹿アいうな、止められるもんか、今度ア物見遊山でなえ、敵討かたきぶちに行くだというと、成程それじゃア止められねえが、まア名残い惜おしいってね、若わけえ者もんば皆恩おんになってるだから心配しんぺえぶっております、留守中は役にア立たないがお帰けえりまでア慥たしかに荷物は皆みんな蔵へ入れて置きましたが、何卒どうかまア早く帰けえってお出でなさる様に願ねげえ度てえもんで」

母「はい、お前方も旧ふりい馴染でがんしたけんども、今度が別れになります、はい有難うござえます、多助や誰か若わけえ者もんが大勢来たよ」

多「やア兼かねか、さア此方こっちへ這入へえれ、お、太七郎たしちろう此方へ」

太「はい有難う、誠にまアどうも明日あした立つだって、魂消て来たでがんす、どうもこれ名残い惜くって渡口まで送るという者もんが沢山ござえます」

母「ありゃまア、送らねえでも好ええよ、用がえれえに」

太「なに用はなえだから皆みな送り度てえと思おめえまして、名残い惜いが寒さみい時分だから大事にしてねえ」

母「はい有難う、又祝いの餅い呉れたって気の毒なのう、どうか婆様ばあさまア大事にして」

太「ヘエ婆ばゝアもどうかお目に掛り度てえといっております」

母「おゝ誰だい、さア此方こっちへ這入りな」

甲「ヘエ、誠にはア、魂消まして、どうかまア止め度てえといったら止めてはなんねえって叱られた、随分道中を大事に」

九「ヘエ御免」

母「誰だい」

九「九八郎で、誠にどうもさっぱり心得ませんで、急にお立だと云うこッて、お名残い惜おしゅうござえます」

母「おや〱上かみの婆様ばゞさま、あんた出でで来きなえで好ええによ」

婆「はい御免なさえ、誠にまアどうも只お名残い惜いから、どうぞ碌に見えない眼だが、ちょっくりお顔を見てえと思ってお暇乞いとまごえに参めえりました、明日あした立つだッて、なんだかあっけなえこったって、私わしの嫁なんざア泣ねえてばいいるだ、随分大事でえじになえ」

母「はい有難うござえます、お前めえも随分大事でいじにして、毎いつも丈夫で能くねえ」

乙「ヘエ誠にどうもお力落しでがんす」

丙「おい〱何なんだってお力落しなんていうんだ」

乙「でも飛んだ事だと云うじゃアなえか」

丙「馬鹿いえ、敵討かたきぶちにお出でなさるのに力落しという奴があるか」

乙「ヘエ誠にそれはアお目出度めでてえこって」

丙「これ〱お目出度えでなえ」

乙「なんでも好いいじゃアなえか」

という騒ぎで、村中餅を搗きましたり、蕎麦を打ったり致して一同出立を祝するという、惣吉仇討あだうちに出立の処は一寸一息。

七十九

さて時は寛政十一年十二月十四日の朝早く起きまして、旅仕度を致しますなれども、三代も続きました名主役、仮令たとえ小村こむらでも村方を離れて知らぬ他国へ参りますものは快くないもので、殊ことには年を取りました惣右衞門の未亡人びぼうじんが、十歳になる惣吉という子供の手を曳いて敵討かたきうちの旅立でありますから、村方一同も止める事も出来ず、名残を惜んでおります、皆小前の者がぞろ〱と大勢川端まで送って参ります。

母「さア作右衞門さんこれで別れましょうよ、何処どこまで送っても同じ事こッたからこれで」

作「だけんども船へ乗るまで送り申し度ていと皆こういっている」

母「だけんども却けえって船に私わし乗っかって、皆みんなが土手の処にいかい事皆が立っていると、私快くねえ、名残惜くって皆が昨宵ゆうべから止められるのでね、誠に立度たちたくござえませんよ、何卒どうぞお前が差図さしずして帰しておくんなさいましよ」

作「はい、それじゃア皆みんな是これにてお別れとしましょうよ、えゝ送れば送られる程御新造は心持い悪いてえからよう」

村方の者「左様ならまア随分お大事に」

村方の者「左様ならハアお大事でえじに」

村方の者「左様ならお大事でえじに、早くお帰りなさいましよ」

作「何卒どうぞ早くお帰けえりをお待ち申しますよ」

母「さアよ多助どうしたもんだ、汝われ其所こゝに立っているから皆みんな立っていべえじゃアねえか、汝から先さき帰けえろというに」

多「おれだけは戸頭まで送る」

母「送らねえでも宜ええてえに」

多「送らねえでも宜えたって、村の者もんと己とは違う、己はあんた十四の時から側にいるので、何所どこまで送っても村の者ものは兎や角云う気遣きづけえねえから送り申しますよ」

母「あゝいう馬鹿野郎だもの、汝われが送ると云えば皆みんなが送ると云うから汝帰けえれてえに、昨宵ゆうべいったこと分らなえか」

多「ヘエ、じゃア御機嫌よく行っておいでなせえ、惣吉様道中でお母様っかさまに世話やかしてはいけませんよ、今までは草臥くたびれゝば多助が負おぶって上げたが、もう負って上げる者もんはねえよ、エヽ気の毒でもあんた歩いてまいらなえばならんだ、永旅だから我儘してお母様に心配しんぺえかけてはなりませんよ、大事でえじに行っておいでなさえましよ」

惣「うーん、大丈夫だよ、多助も丈夫で」

多「こんな別れの辛い事こたア今迄ねえね」

母「別れエ辛つれえたッておっ死ちぬじゃアなし、関取がに逢って敵い討ぶって目出度く帰けえって来たら宜ええじゃアねえか」

多「それまア楽たのしみにするだが、あんた昨宵ゆうべも人間は老少不定ろうしょうふじょうだなんていわれると心持よくねえからね」

母「これで別れましょうよ」

多「左様なら気い付けてね、初めから余あんまりたんと歩かねえようにしてねえ、早く泊る様にしなければなんねえ、寒い時分だから遅く立って早く宿へ着かなけんばいけませんぞ…アヽ押おさねえでも宜ええ危あぶねえだ、前めえは川じゃアねえか、此処こゝへ打箝ぶちはまったらどうする…何卒どうぞ大事でえじに行って来てお呉んなせえましよ…なに笑うだ、名残い惜いから声かけるになんだ馬鹿野郎、情合じょうええのねえ奴だ、笑やアがって……あれまア肥料桶こいたご担かたげ出しやアがった、桶たごをかたせ、アヽ桶を下おろして挨拶しているが……あゝ兼だ新田しんでんの兼だ、御厄介ごやっけいになった男だからなア、あの男も……惣吉様小ちっせえだけんども怜悧りこうだから矢張やっぱり名残い惜がって、昨宵ゆうべも己おいらは行くのは厭いやだけんども母様かゝさまが行くから仕方がねえ行くだって得心したが、後うしろを振返ふりけえり〱行く………見ろよ…………あゝ誰か大でけえ馬ア引出しやアがって、馬の蔭で見えなくなった、馬を田の畦くろへ押付おッつけろや…あれまア大え庚申塚こうしんづかが建ったな、彼あれア昔からある石だが、あんなもの建てなけりゃアいゝに、庚申塚が有って見えやアしねえ、庚申塚取除かたせ」

村方の者「そんなことが出来よかえ」

と伸上のびあがり〱見送って暇いとまを告げる者はどろ〱帰る。此方こちらは後あとに心が引かされるから振返り〱、漸々よう〱のことで渡を越して水街道から戸頭へさして行ゆきます。すると其の翌年になりまして花車重吉という関取は行違ゆきちがいになりましたことで、毎年まいねん春になると年始に参りますが、惣次郎の墓詣はかまいりをしたいと出て来ましたが、取急ぎ水街道の麹屋へも寄らず、直すぐに菩提所へ参りまして和尚様に逢うと、是これ〱といい、つい話も長くなりましたが、墓場に香花を沢山あげて、

花車「あゝお隅様情ない事になった、敵かたきを打つなれば私わしに一言ひとこと話をして呉れゝばお前様さんにこんな難儀もさせまいに、今いうは愚痴だが、だが能くお前が死んで呉れた許ばかりで敵は安田一角という事が分りましたから、惣吉様に助太刀して屹度きっと花車がお前様さんの恨うらみを晴します、アヽ入違いになり上総の東金へ行ゆきなすったか、嘸さぞ情ない事だと思いなすったろうが、私はこれから跡追掛てお目に掛り、何処どこに隠れ住すまうとも草を分けても引摺り出して屹度敵を討たせますから」

と活いきている者に物をいう様に分らぬ事を繰返し大きに遅れたと帰ろうとすると、ばら〱降出して来て、他ほかに行ゆく処もないから水街道の麹屋へ行ゆこうとすると、和尚様は

「少し破れてはいるがこれをさして、穿きにくかろうがこの下駄を」

というので下駄と傘を借りて、これから近道を杉山の間の処からなだれを通って、田を廻ってこう東の方へ付いて行ゆくと、大きな庚申塚が建てゝ在あって、うしろには赤松がこう四五本ありまして、前には沼があり其の辺ほとりに枯れ蘆あしが生えております、ずうッと見渡すばかりの田畑、淋しい処へばら〱降っかけて来る中をのそり〱やって来ると、突然だしぬけに茂みからばら〱と出た武士さむらいが、皆面部を包み、端折はしおりを高くして小長こながい大小を落し差しにしてつか〱と来て物をもいわず花車の片方かた〱の手を一人が押える、一人は前から胸倉を押えた、一人は背後うしろから羽交責はがいぜめに組付こうとしたが、関取は下駄を穿いており、大きな形なりで下駄穿げたばきだから羽交責処どころではない、漸ようやく腰の処へ小さい武士ぶしが組付きました。

八十

花車は恟びっくりしたが、左の手に傘を持って居り、右の手は明いて居りましたが、おさえ付けられ困りました。

花車「なんだい、何をなさる」

武士「我々は浪人者で食方くいかたに困る、天下の力士と見かけてお頼み申すが、路銀を拝借したい」

花「路銀だって、あんた、私わしはお前さん角力取で金も何もありはしないが、困りますよ、そんなことして金持と見たは眼違いで、金も何もない、角力取だよ」

武「金がなければ気の毒だが帯さして居る胴金どうがねから煙草入から身ぐるみ脱いで行って貰い度たい」

花「そんなこといって困りますよ、身幅みはゞの広いこんな着物を持って行ったって役に立ちはしません、煙草入だって、こんな大きな物持って行ったって提げられやあせん、売ったって銭にもならぬに困りますよ、然そう胴突どうづいては困るよ〱」

といいながら段々花車は後あとへ下さがると、後うしろの見上げる様な庚申塚の処へこう寄り掛りました。前の奴は二人で、一人は右の腕を押おさえ、一人は胸倉を取って押える、後うしろの奴はせつない、庚申塚と関取の間にはさまれ、

「もっと前に」

といっても同類の名をいうことが出来ない。此の三人は安田一角の廻し者、花車を素っぱだかにしてなぶり殺しに致すようにすれば、是これだけの手当を遣るということに疾とうより頼まれて居る処、出会って丁度幸い、いゝ正月をしようという強慾非道の武士三人、漸やっと捕とらまいたが、花車は怜悧りこうものだから、此奴こやつらは悪くしたら廻し者だろうと思い、

花「まアそんなに押えられては困りますね、待ちなさい上げますよ、達たってと云えば上げますよ〱」

武「呉れぬといえば許さぬ、浪人の身の上切取きりとり強盗は武士の習い、云い出しては後あとへ引かぬからお気の毒ながら切り刻んでもお前の物は残らず剥はぐぜ、遁のがれぬ事と諦めて出しな、裸体はだかはお前の商売だ、裸体で行ゆくのは何なんでもないわ」

花「だから上げるけれども、待ちなさいよ」

と左の手に持って居た傘をぽんと投出し前から胸倉を取って押えて居る一人の帯を押えて、

花「お前さん、そう胸倉を押していては私わしは着物を脱ぐことが出来ぬから、胸倉を緩ゆるめて、裸体はだかになりますよ、私も災難じゃア、寒くはないから、私に裸体になれてえばなりますから、胸倉を押えていては脱げませんから緩めて」

前の奴のうっかり緩める処を見て、

花「なにをなさる」

といいながら一人の奴の帯を取ってぽんと投げると、庚申塚を飛越して、後うしろの沼の中へ、ぽかんと薄氷うすごおりの張った泥の中へ這入った。すると右の手を押えた奴は驚きバラ〱逃げ出した。

花「悪い奴じゃ、こんな村境むらざかいの処へ出やアがって追剥おいはぎをしやアがって悪い奴じゃ、今度こんだ此辺こゝらアうろ〱しやアがると打殺ぶちころすぞ、いや後うしろに誰たれか居やアがるな、此奴こいつ組付くみついて居やアがったか」

武「誠にどうも恐入った」

花「誠にも糞もいらん、これ汝てまえの様な奴が出ると村の者が難儀するから此の後のち為しないか」

武「為する処どころではござらぬ、誠にどうも」

花「悪いことするな、是からは為ないかどうだ此の野郎」

と押付けると、

武「うーん」

と息が止った。

花「野郎死にやアがったか、くたばったか、野郎死しんだか、アヽ死にやアがった、馬鹿な奴だ」

と捻ひねり倒すと、尾籠びろうのお話だが鼻血が出ました。

花「みっともねえ面つらだなア、此奴こいつも投込んで遣れ」

と襟髪えりがみを取って沼へ投ほうり込み、傘を持ってのそり〱水街道の麹屋へ帰るという、角力取という者はおおまかなもので。扨さてお話は二つに分れて此方こちらは惣吉の手を引き、漸々よう〱のことで宿屋へ着きましたなれども、心配を致しました揚句あげくで、母親がきり〱癪しゃくが起りまして、寸白すばくの様で、宿屋を頼んでも近辺に良い医者もございませんから、思う様に癒なおりません、マア癒るまではというので、逗留とうりゅう致して居りました。其の内に追々と病気も癒る様子なれども、時々きや〱痛み、固い物は食われませんから、お粥かゆを拵こしらえてこれを食い、其のうち年も果て正月となり、丁度元日で、元日に寝ていては年の始め縁起が悪いと、田舎の人は縁起を祝ったもので、身体が悪いくせに我慢して惣吉の手を引いて出立致し、小金ヶ原こがねがはらへ掛り、塚前村の知己しるべの処へ寄って病気の間厄介になろうと、小金の原から三里許ばかり参ると、大きな観音堂がございますが、霙みぞれがぱら〱降出して来て、子供に婆様ばあさまで道は捗取はかどりません、とっぷり日は暮れる、すると頻しきりに痛くなりました。

惣吉「母様かゝさままた痛いかえ」

母「アヽ痛い、あゝあのお医者様から貰ったお薬は小さえ手包の中へ入れて置いたが、彼処あすけえ上げて置いたが、あれ汝われ持って来たか」

惣「あれ己おれ置いて来た」

母「困るなア、子供だア、母様塩梅あんべえ悪わりいだから、薬大事でいじだからてえ考かんげえもなえで」

惣「だって、己もう宜いいてえから、よかんべえと思って何も持って来きなかった」

母「困ったなア、あゝ痛い〱」

惣「母様雪降って来た様だから、此処こゝに居ると冷てえから、此の観音様の御堂に這入って些ちっと己おっぺそう」

母「そうだなア、押してくれ」

惣「あい」

母「おゝ、大でけえ観音様のお堂だ、南無大慈大悲の観世音菩薩様少々此処こゝを拝借しまして、此処で少し養生致します。さア惣吉力一ぺえ押せよ」

惣「母様此処な処かえ」

母「もっとこっち」

惣「もっと塩梅あんべえが悪くなると困るよう、しっかりしてよう、多助爺じいやアを連れて来ると宜よかった」

と可愛らしい紅葉もみじの様な手を出して母の看病をして、此処を押せと云われて押しても力が足りません。

母「あゝ痛い〱、そう撫なでても駄目だから拳骨で力一ぺえおっぺせよ、拳骨でよ、あゝ痛い〱」

八十一

女「何なんだか大層呻うなる声が聞えるが……貴方かえ」

母「へえ、旅の者もんでござえますが、道中で塩梅あんべえが悪くなりましてね、快くなえうち歩いて来ましたから、原中なけえ掛って寸白が起って痛いとうごぜえますから、観音様のお堂をお借り申しました」

女「それはお困りだろう、お待ち、どれ〱此方こっちへ這入りなさい」

と観音堂の木連格子きつれごうしを明けると、畳が四畳敷いてございます。其の奥は板の間になって居ります、年の頃五十八九にもなりましょう、色白のでっぷりした尼様、鼠木綿の無地の衣を着て、

尼「さア此方こちらへお這入りさア〱擦さすって上げましょう憫然かわいそうに、此の子が小さい手で押しても、擦っても利きはしない、おゝ酷ひどく差込んで来る様だ」

母「有難うごぜえます、痛くって堪たまらねえでね、宿屋へ一寸泊りましたが癒らねえで」

尼「こう苦くるしむに子供を連れて何処どこまで……なに塚前まで、是から三里ばかりで近くはない、薬はお持ちかえ」

母「はい、薬は有ったが惣吉これがにいい付けて置いたら、慌あわてゝ、包の中へ入れて置いたのを置いて参めえりまして」

尼「薬がなくっては困ったもの、斯こういう時は苦い物でなければいけない、だらすけが宜いいが、今此の先にねえ、あの榎えのきの出て居る家うちが有る、あれから左の方へ構わず曲って行ゆくと、家が五六軒ある、其処そこの前に丸太が立って、家根やねの上に葮簀よしずが掛って居て、其処に看板が出てあったよ、癪だの寸白疝気せんきなぞに利く何なんとか云う丸薬で、*黒丸子くろがんじの様なもので苦い薬で、だらすけみたいなもので、癪には能く利くよ、お前ねえ、知れまいかねえ、行って買って来ないか、安い薬だが利く薬だが、先刻さっき通った時榎があって、一寸休む処とこが有って、掛茶屋かけぢゃやではないが、あれから曲って一町ばかり行いくと四五軒家うちがあるが、何どうか行って買って来て、私が行って上げたいが手が放されないから」

*「漢方医の調剤する腹痛の丸薬。こくがんし」

惣「有難う」

尼「茲こゝにお銭あしがあるから是を持って行っておいで、心配せずに」

惣「じゃア母様かゝさま私わしが薬買って来るから」

母「よくお聞き申して早く行って来こうよ」

惣「はい、御出家様お願ねげえ申しますよ」

尼「あいよ心配せずに行っておいで、憫然かわいそうに年もいかぬに旅だからおろ〱して涙ぐんで、いゝかえ知れたかえ、先刻さっき通った四五町先の榎から左に曲るのだよ」

惣「あい」

とおろ〱しながら、惣吉は年は十とおだが親孝心で発明な性質うまれつき、急いで降る中を四五町先を見当みあてにして参りました。先刻通りました処は覚えて居りまして、榎の所から曲ると成程四五軒家うちがある、其処そこへ来て、

惣「此辺こゝらに癪に利く薬でだらすけという様な薬は何処どこで売って居おりますか」

と聞くと、

男「此辺に薬を売る処はない、小金こがねまで行かなければない」

惣「小金と云うのは」

男「小金までは子供で是からは迚とても行かれない、其の中うちには暗くなって原中で犬でも出れば何どうする、早くお帰り」

と云われ心細いから惣吉は帰って観音堂へ駈上かけあがって見ると情ないかな母親は、咽喉のどを二巻ふたまき程丸ぐけで括くゝられて、虚空を掴んで死んで居る。脊負せおった物も亦また母が持って居た多分の金も引浚ひきさらって彼かの尼が逃げました。

惣「アヽお母様っかさま、何どうして絞殺しめころされたかねえ」

と頸くびに縛り付けてある丸ぐけを慄ふるえながら解いて居る処へ、通り掛った者は、藤心村ふじごゝろむらの観音寺の和尚道恩どうおんと申しまして年とって居りますが、村方では用いられる和尚様、隣村に法事があって男を一人連れて帰りがけ、

和尚「急がんじゃアいかん」

男「何なんだかヒイ〱という声が聞える様に思うだ」

和「ヒイ〱と」

男「怖おっかねえと思って、此処こゝはね化物が出る処とこだからねえ」

和「化物なぞは出やせん」

男「けれども原中でヒイ〱という声が訝おかしかんべえ」

和「何も出やアしない」

男「あれ冗談じゃアねえ、だん〱、あれ〱」

和「彼あれは観音様のお堂だ、彼処あすこに人が居るのではないか、暗くって見えはせん提灯ちょうちん出しな」

と提灯を引ったくって和尚様が来て見ると、縊くびり殺された母に縋すがり付いて泣いて居る。

和「どういう訳か」

と聞くと泣いてばかり居て頓とんと分りません。漸ようやくだまして聞くと是れ〱という。

和「飛んだ事だ」

と直すぐに供の男を走らして村方へ知らせますと、百姓が二三人来て死骸と共に惣吉を藤心村の観音寺へ連れて来て、段々聞くと、便たよる処もない実に哀れの身の上でありますから、

和「誠に因縁の悪いので、親の菩提の為、私わしが丹精して遣るから、仇かたきを討つなぞということは思わぬが宜いい、私の弟子になって、母親や兄あにさんの為に追善供養を吊うが宜い」

と此の和尚が丹精して漸ようやく弟子となり、頭を剃そりこぼち、惣吉が宗觀そうかんと名を替えて観音寺に居る処から、はからずも敵かたきの様子が知れると云うお長いお話。一寸一息吐きまして。

八十二

扨さて一席申上げます、久しく休み居りました累ヶ淵のお話は、私わたくしも昨冬さくふゆより咽喉加答児いんこうかたるでさっぱり音声が出ませんから、寄席せきを休む様な訳で、なれども此の程は大分咽喉加答児の方は宜ようございますが、また風を引き風声かざごえになりまして、風声と咽喉加答児とが掛持かけもちを致して居りますると云う訳でもござりませんが、何時いつまでもお話を致さずにも居おられませんから、此の程は漸ようやく少々よろしゅうございますから、申し残りの処を一席お聞きに入れます。さてお話が二つに分れまして、ちょうど時は享和きょうわの二年七月廿一日の事でございまする。下総の松戸まつどの傍わきに、戸ヶ崎とがさき村と申す処がございまして、其処そこに小僧弁天というのがありまするが、何どういう訳で小僧弁天と申しますか、敢あえて弁天様が小さいという訳でもなし、弁天様が使いに往いく訳でもないが、小僧弁天と申します。境内は樹木が繁茂致しまして、頓とんと掃除などを致したことはなく、破やれ切れた弁天堂の縁えんは朽ちて、間から草が生えて居り、堂の傍わきには落葉おちばで埋うずもれた古井があり、手水鉢ちょうずばちの屋根は打ぶっ壊れて、向うの方に飛んで居ります。石塚は苔の花が咲いて横倒よこッたおしになって居りまする程の処、其の少し手前に葮簀張よしずッぱりがあって、住すまいではありません、店の端には駄菓子の箱があります、中にはお市いち、微塵棒みじんぼう、達磨だるまに玉兎たまうさぎに狸の糞くそなどという汚きたない菓子に塩煎餅がありまするが、田舎のは塩を入れまするから、見た処では色が白くて旨そうだが、矢張やはりこっくり黒い焼方の方が旨いようです。田舎の塩煎餅は薄っぺらで軽くてべら〱して居りまする、大きな煎餅壺に一杯這入って居りまする、それから鳥でも追う為か、渋団扇しぶうちわが吊下ぶらさがり、風を受けてフラ〱煽あおって居りまする、これは蠅除はえよけであると申す事で。袖無そでなしを着た婆ばアさまが塵埃除ほこりよけの為に頭へ手拭を巻き附け、土竈どぺッついの下を焚たき附けて居りまする。破れた葮簀の衝立ついたてが立ってあり、看板を見ると御休所おんやすみどころ煮染にしめ酒と書いてありまするのは、いかさま一膳飯ぐらいは売るのでござりまする。丁度其の日の申刻なゝつ下さがり、日はもう西へ傾いた頃、此の茶見世へ来て休んでいる武士さむらいは、廻し合羽がっぱを着て、柄袋の掛った大小を差し、半股引の少し破やれたのを穿いて、盲縞めくらじまの山なしの脚半きゃはんに丁寧に刺した紺足袋、切緒きれおの草鞋わらじを穿き、傍かたわらに振り分け荷を置き、菅すげの雪下ゆきおろしの三度笠を深く冠かぶり、煙草をパクリ〱呑んで居りますると、門口から這入って参りました馬方は馬を軒の傍へ繋つないで這入って来ながら、

馬「婆ばアさま、お茶ア一杯いっぺえくんねえ、今の、お客を一人新高野しんこうやまで乗のっけて来た」

婆「おめえさまは何時いつもよい機嫌だのう」

馬「いゝ機嫌だって、機嫌悪くしたって銭の儲かる訳でもねえから仕ようがねえのよ」

といいながら彼かの縁台に腰を掛けていたる客人を見て、

馬「お客さん御免なせえ、あんた何方どちらへおいでゝごぜえやすねえ、もうハア日イ暮れ掛って来やしたから、お泊とまりは流山か松戸泊どまりが近くってようごぜえましょう、川を越してのお泊は御難渋でけえようだが、今夜は何処どこへお泊りか知りやせんが、廉やすくやんべえかな」

士「馬は欲しくない」

馬「どうせ帰けえり馬でごぜえやす、今ね新高野までお客ウ二人案内してね、また是から向むこうへ往いくのでごぜえやすが、手間がとれるから、鰭ヶ崎の東福寺とうふくじ泊どまりと云うのだが、幾らでもいゝから廉く遣るべえじゃアねえか」

士「馬は欲しくないよ」

馬「欲しくねえたって廉かったら宜ええじゃアねえか」

士「廉くっても乗り度たくないというのに」

馬「そんな事を云わずに我慢して乗ってッて下せえな」

士「うるさい、乗り度くないから乗らんというのだ」

馬「乗り度くねえたって乗ってお呉んなせえな、馬にも旨うめえ物を喰わして遣りてえさ、立派な旦那様、や、貴方あんたア安田さまじゃありやせんか」

士「誰だ」

馬「おゝ先生かえ、誠に久しく会わねえ、まア本当に思えがけねえ、横曾根村にいた安田先生だね」

士「大きな声をするな、己は少々仔細有って隠れている身の上だが、突然だしぬけに姓名をいわれては困る、貴様は誰だ」

馬「誰だって先生、一つ処とこにいた作藏でごぜえやすわね」

士「なに作藏だと、おゝ然そう〱」

作「えゝ誠にお久しくお目に懸りやせんが、何時いつもお達者で若わけえねえ、最早もう慥たしか四十五六になったかえ」

士「汝てめえも何時も若いな」

作「己おらアもう仕様がねえ、貴方あんた実はね私わしも先刻さっきから見た様な人だと思ってたが、安田一角先生とは気が附かなかったよ」

士「己の名を云ってくれるなというに」

作「だッて、知んねえだから気イ附かずに云ったのさ、併しかし何どうも一角先生に似て居ると思ったよ」

安「これ名を云うなよ」

作「成程善々よく〱視みれば先生だ、何なんでも隠し事は出来ねえねえ、笠ア冠かぶっているから知れなかったが安田先生だった」

安「これ〱困るな、名を云うなと云うに」

作「つい惘然うっかりいうだが、もう云わねえ様にしやしょう、実に思え掛けねえ、貴方あんた今何処どこにいるだ」

安「少し仔細あって此の近辺に身を隠しているが、汝てめえ何どうして彼方あっちを出て来た」

作「仕様がねえだ、己おらアこんなむかっ腹を立てる気象だが、詰らねえ事で人に難癖え附けられたから、此所こゝばかり日は照らねえと思って出て来たのさ」

安「汝てめえは慥たしか森藏もりぞうの宅うちに厄介になっていたじゃアねえか」

作「はい、森藏といっちゃア彼処あすこでは少しは賭博打ばくちうちの仲間じゃア好いい親分だが、何なんてってももう年い取ってしまって、親分は耄碌もうろくしていやすから、若わけえ奴等もいけえこといやすから、私わしも厄介やっけえになってると、金松かねまつと云う奴がいて、其奴そいつか「其奴か」はママ毀こわれた碌でもねえ行李こりを持っていて、自分の物は犢鼻褌ふんどしでも古手拭でも皆みんな其ん中なけえ置くだ、或時己おれが其の行李を棚から下おろしてね、明けて見ると、財布せえふが這入へえってゝ金が一分二朱と六百あったから出して使ってしまうと、其奴がいうには、此の行李の中へ入れて置いた財布の金が無ねえ、手前てめえ取ったろうというから、己ア取りゃアしねえが只黙って使ったのだというと、此の泥坊野郎と云うから私が合点がってんしねえ、泥坊とは何なんだ、何どういう理窟で人の事を泥坊と云うのだ、只汝われが金え出して使ったばかりで、黙って人の物を出して使ったって泥坊と云う理合りあいが何処どこに在あるかと、喧嘩をおっ始ぱじめたというわけさ」

安「矢張やはり泥坊の様だな」

八十三

馬「親分のいうには、泥坊に違ちげえねえとッて己の頭ア打擲ぶんなぐって、汝われの様な解らねえものアねえと、親分まで共に己に泥坊の名を附けただが、盗んだじゃアねえ只無断で使ったものを泥坊なんぞという様な気の利かねえ親分じゃ仕様がねえと思って、おッ奔ぱしって了しまったが仕様がねえから今じゃア馬小屋見てえな家うちを持って、こう遣って、馬子になって僅わずかな飲代のみしろを取って歩いてるんだが、ほんの命を繋つないでるばかりで仕様がねえのさ、賭博打の仲間へ這入る事も出来ねえから、只もう馬と首引くびっぴきだ、馬ばかり引いてるから脊骨へないらが起おこるかと思ってるよ、昔馴染に、小遣こづけえを少しばかりおくんなさえな」

安「そんなら汝てまえは風来で遊んでるのか」

作「遊人あそびにんという訳でもねえが、馬を引いてるから、賭博を打ぶって歩く事も出来ねえのさ」

安「少し汝てまえに話があるから婆アを烟草でも買いに遣ってくれねえか」

作「はア宜ようごぜえやす、婆ばアさま、旦那さま烟草買ってくんろと仰しゃるから買って来て上げなよ、此の旦那は好いゝんでなけりゃア気に入るめえ、唯の方ではねえ安田一角先生てえ」

安「これ〱」

作「はア宜うござえやす、立派な先生だから悪わりい烟草なんぞア呑まねえから、大急ぎで好いゝのを買って来きなせえ……あんた銭有りますかえ」

安「さ、これを」

作「サ婆さま是で買って来て上げな」

安「使い賃は遣るよ」

婆「はい畏かしこまりました、直じきにいって参まえりまする」

と婆ばあさんは使賃という事を聞いて悦んで、烟草を買いに出て参りました。後あとは両人差向さしむかいで、

安「汝てまえ馬を引いてるのが幸いだ、己は木卸きおろしへ上あがる五助街道の間道に、藤ヶ谷ふじがやという処の明神山みょうじんやまに当時隠れているんだ」

作「へー、あの巨大でっけえ森のある明神さまの、彼処あすこに隠れているのかえ、人の往来おうれえもねえ位くれえの処とこだから定めて不自由だんべえ、彼処は生街道なまかいどうてえので、松戸へ通つン抜けるに余程近ちけえから、夏になると魚ア車に打積ぶッつんで少しは人も通るが何なんだってあんな処に居るんだえ」

安「それには少し訳があるのだ、己も横曾根にいられんで当地へ出たのだ」

馬「何なんだか名主の惣次郎を先生が打斬ぶっきったてえ噂があるが、えゝ先生の事こったから随分やり兼かねねえ、殺やったんべえ此の横着もの奴め、そんな噂がたって居難いづらくなったもんだからおっ走ぱしって来たんだろう」

安「そんな事はねえが武士さむらいの果は外に致方いたしかたもなく、旨い酒も飲めないから、どうせ永い浮世に短い命、斬り取どり強盗は武士ぶしの習ならいだ、今じゃア十四五人も手下が出来て、生街道に隠れていて追剥おいはぎをしているのだ」

作「えゝ追剥を、えれえウーン怖おっかねえウーン、おれ剥ぐなよ」

安「汝てまえなぞを剥いでも仕様がないが、汝は馬を引いてるんだから、偶たまには随分多分の金を持ってるよい旅人りょじんが、佐原さはらや潮来いたこ辺あたりから出て来るから、汝其の金のありそうな客を見たら、なりたけ駄賃を廉やすくして馬に乗せ、此処こゝは近道でございますと旨く騙だまかして生街道へ引張り込み、藤ヶ谷の明神山の処まで連れて来てくれ、併しかし薄暗くならなくっちゃア仕事が出来ねえから、宜いい加減に何処どこかで時を移すか、のさ〱歩けば自然と時が遅れるから、そうして連れて来て呉れゝば、多勢おおぜいで取巻いて金を出せといえば驚いてしまう、汝は馬を置おきっ放ぱなしてなり引張ってなり逃げてしまいねえ、そうして百両金があったら其の内一割とか二割とか汝に礼をしようから、おれの仲間にならねえか」

作「そんなら礼が二割といえば百両ありゃア二十両己にくれるのか」

安「そうよ」

作「うめえなア、只馬を引張って百五十文ばかりの駄賃を取って、酒が二合に鰊にしんの二本も喰えば、後あとに銭が残らねえ様な事をするより宜いいが、同類になって、若もし知れた時は首を打斬ぶっきられるのかよ」

安「そうよ」

作「ウーン、それだけだな、己はもうこれで五十を越してるんだから百両で二十両になるのなら、こんな首は打斬られても惜くもねえから行やるべえか」

安「汝てまえ馬を引いておれの隠家かくれがまで来い、あの明神山の五本杉の中に一本大きな楠くすのきがある、其の裏の小山がある処に、少しばかり同類を集めているんだ」

馬「じゃア彼あのもと三峰山みつみねさんのお堂のあった処だね、よくまア彼様あんな処にいるねえ、彼処あすこは狼や蟒うわばみが出た処とこなんだから、尤もっとも泥坊になれば狼や蟒を怖がっていちゃア出来ねえが、そうかえ」

一角は懐から金を取出し作藏に渡しながら、

安「これは汝てまえが同類になった証拠の為、少しだが小遣銭に遣るから取って置け」

作「え、有難ありがてえ、これは五両だね、今日は本当に思え掛けねえで五両二分になった」

安「なぜ」

作「不思議な事もあるものだ、今日はね、あのもさの三藏に逢ったよ、羽生村の質屋で金かした婆ばア様が死んだって、其の白骨を高野へ納めるてえ来たが、今日は廿一日だから新高野山へお参めえりをするてえので、與助を供に伴つれて、己が先刻さっき東福寺まで送ってッたが、昔馴染だから二分くれるッて云ったが、有難うござえやす、実に今日は思え掛けねえ金儲けが出来た」

安「其の五両を取って見ると、もう同類だから是切り藤ヶ谷へ来ずにいて、若もし汝てまえの口から己の悪事を訴人しても汝は矢張やっぱり同罪だ、仮令たとえ五両でも貰って見れば同類だから然そう思え」

作「己も覚悟を極めて行やるからには屹度きっと遣りやすよ、それは宜いいが、あんた直すぐに独りで往いくか、馬に乗って往かないか、歩いて往く、そうか、左様なら……あゝ其方そっちへ往ってア損だから、其の土橋どばしを渡って真直まっすぐにおいでなせえ、道い悪いから気い付けて往きなさえ、なア安田先生も剣術遣いだから、どうして剣術遣いじゃア飯まんまア喰えねえ、あの人は旧時もとから随分盗賊どろぼうぐれえ遣やったかも知んねえ、今己がに五両呉れたは宜いが、是を取って見れば同類に落すといったが、困ったな、あゝもう往ってしまったか、立派な男だ、婆アさまは何処どこまで烟草を買けえに往ったんだろう尤も要いらないのだ、人払ひとばれえの為に買えに遣ったんだが余あんまり長なげえなア」

と独言ひとりごとをいっている後うしろから、

男「おい作」

作「え、誰だえ己を呼ばるのア誰だ」

男「お、己だ、久しく逢わねえのう」

八十四

作「誰だ、人が何処どこにいるのだ」

と云いながら、方々見廻し、振返って見ると、二枚折にまいおりの葮よしの屏風の蔭に、蛇形じゃがたの単物ひとえものに紺献上の帯を神田に結び、結城平ゆうきひらの半合羽を着、傍わきの方に振分ふりわけの小包を置き、年頃三十ばかりの男で、色はくっきりと白く眼のぱっちりとした、鼻筋の通った、口元の締った美いい男で、其の側に居るのは女房と見え、二十七八の女で、頭髪あたまは達磨返しに結び、鳴海なるみの単衣ひとえに黒繻子の帯をひっかけに締め、一杯飲んで居る夫婦連づれの旅人りょじんで、

男「作や、此方こっちへ這入へえんねえ」

といいながら、葭屏風よしびょうぶを明けて出て来た男の顔を見て、

作「イヤア兄いか、何どうした新吉さん珍らしいなア、久し振りだ、これは何うも珍らしい、実に思え掛けねえ」

新「汝てめえ、大きな声で呶鳴どなって居たが相変らずだなア」

作「おやお賤さん、誠にお久し振でござえやした」

賤「おや作藏さんお前の噂は時々していたが、相変らず宜いい機嫌だね」

作「本当にお賤さん、見違える様になった、少しふけたね、旅をしたもんだから色が黒くなったが、思え思った新吉さんととう〱夫婦になって彼処あすこをおッ走ぱしったのかえ、今まア何処どこにいるだえ」

新「彼方此方あちこちと身の置き処どころのねえ風来人間で仕方がねえが、是も皆みんな人に難儀を掛け、悪い事をした報むくいと思って諦めているが、何商売を仕度したくも資本もとでがないのだ、汝てめえまぶな仕事を安田と相談していたが、己も半口載せねえか」

作「お前めえあの事を聞いたか、是ハア困ったなア、実は銭がねえで困るから這入へえる真似しただア、だが余り這入へえり度たくはねえんだ」

新「旨くいってるぜ、併しかし三藏は何処どこへ往ったんだ」

作「三藏かえ、彼あれはね婆ばアさまが死んだから其の白骨を本当の紀州の高野へ納めに往くって、祠堂金しどうきんも沢山持ってる様子だ、お累さんもあゝいう死様しにようをしたのも矢張やっぱりお前めえら二人でした様なものだぜ」

新「汝てめえ是から新高野へ馬を引いて往くのなら矢張やっぱり帰けえりは此処こゝを通るだろう」

作「鰭ヶ崎の方へ廻るのだが此方こっちへ来ても宜いい」

新「そうか、おい作」

作「え何なんだ」

新「一寸耳を貸せ」

作「ふーん、怖い事だな」

新「汝てめえ馬を引いて先方むこうへ往って、三藏を此処こゝ迄乗せて連れて来たら、何か急に用が出来たと云って、馬を置おきっ放ぱなして逃げてしまってくれねえか、併しかし馬を置いて往かれちゃア三藏に逢って仕事をする邪魔になるから、引いてってくれ、其の代り金を三十両やらア」

作「え、三十両本当に己ア金運かねうんが向いて来た、じゃア金をくんろえ、してどういう理窟だ」

新「三藏とは一旦兄弟とまでなったが、お累が死んでからは、互たげえに敵かたき同志の様になったのだ」

作「敵同志だって汝おめえが三藏を怨むのアそりゃア兄い些ちと無理だんべえ、成程お賤さんの前めえもあるから、そういうか知んねえが、三藏を敵と思おめえば無理だぞ、お前めえが養子に往っても男振が宜いいもんだから、お賤さんに見染められ、互たげえに死ぬの生いきるのと騒ぎ合い、お累さんを振捨てゝお賤さんとこういう事になったから、お累さんも上のぼせて顔が彼様あんなに腫れ出して死んで了しまったのだから、却かえって三藏の方でお前を怨んでいるだろうが、何もお前の方で三藏を悪にくみ返すという理合りあいはあんめえぜ」

新「汝てめえは深い事を知らねえからそんな事をいうんだが、何なんでも構わねえ、己が三藏に逢って、百両でも二百両でも無心をいって見ようと思うのだ」

作「三藏殿どんがお前めえに金を貸す縁があるかえ」

新「貸しても宜いい訳があるのだよ」

作「三十両呉くれるなら遣附やっつけやしょう」

新「若もし與助の野郎が邪魔でもしたら、汝てめえ打擲ぶんなぐってくれなくっちゃアいけねえぜ」

作「與助爺おやじなんざアヒョロ〱してるから川の中へ投ほっぽり込んで了しまうがそれも矢張やっぱり金づくだがね」

新「強請事ねだりごとをいわずに遣って呉れ、其の代り首尾よく遣って利を見た上で汝おめえに又礼をしよう」

作「それじゃア三藏に貸してくれといっても貸さねえといえば礼はねえか、困ったな、じゃア後あとの礼の処は当あてにはならねえな」

新「まア其様そんなものだが、多分旨く往ゆくに違ちげえねえ、若もしぐず〱して貸さねえなんどゝいったら、三藏與助の二人を殴たゝっ殺して川の中へ投ほうり込んでしまう積りだ、己も安田の提灯持位ぐれえは遣る了簡だ」

作「お賤さん新吉さんが彼様あんな事を云うぜ」

賤「お前度胸をお据すえ仕方がないよ、私も板の間稼ぎぐらいは遣るよ」

作「アレマア彼様あんな綺麗な顔をしていながら、あんな事をいうのも皆みんな新吉さんが教えたんだろう、己はどうせ安田の同類にされたから、知れゝば首は打斬ぶっきられる様になってるんだから仕方がねえ、やるべえ〱、おゝ婆ばゞアが帰けえって来やアがった」

新「それじゃア手前てめえ馬を引いて早く往いけ」

作「ハイ、そんなら直すぐに馬ア引いて新高野へ三藏を迎むけえに参めえりやしょう」

と出て行ゆきました。これから新吉お賤も茶代を払って其処そこを立出たちいでました。其の内もう日はとっぷりと暮れましたが、葮簀張よしずッぱりもしまい川端の葦よしの繁った中へ新吉お賤は身を隠して待って居ると、向むこうから三藏が作藏の馬に乗って参りました。

作「與助さん貴方あんたもう何歳いくつになるねえ、まだ若わけえのう、長く奉公してるが五十を一つ二つも越したかえ」

與「そうでねえ、もう六十に近くなったから滅切めっきり年を取って仕舞った」

作「羽生村の旦那ちょっくら下りてお呉んなせえ」

三「なんだ」

作「なんでも宜いいから」

三「坂を上あがったり下りたりするので己も余程草臥くたびれたが、馬へ乗って少し息を吐ついたが、馬へ乗ると又矢張やっぱり腰が痛いのう」

作「旦那誠に御無心だが、私わしはね、少し用があるのを忘れて居たが、実は此の先へ往って炭俵を六俵積んで来て呉れと頼まれてるんだが、どうしても積んで往いかねばなんねえ事があるだ、誠にお気の毒だが此処こゝで下りて下せえな、もう此処から先は平たいらな道だから歩いても造作ねえんですが」

三「それじゃア何どうでもいゝ汝てめえが困るなら下りて歩いて往こう」

と云いながら馬から下りる。

作「私わしは少し急ぎますから御免なせえ」

と大急ぎで横道の林の蔭へ馬を引込ひきこみました。

八十五

日はどっぷりと暮れ、往来も止とまりますと、戸ヶ崎の小僧弁天堂の裏手の草の茂みからごそ〱と葦あしを分けながら出て来た新吉は、ものをもいわず突然いきなり與助の腰を突きましたから堪たまりません、與助は翻筋斗もんどりを打って、利根の枝川へどぶんと水音高く逆さかとんぼうを打って投げ込まれましたから、アッといって三藏が驚いている後うしろから、新吉が胴金を引抜いて突然だしぬけに三藏の脇腹へ突込つきこみました、アッといって倒れる処へ乗掛り、胸先を抉えぐりましたが、一刀いっぽんや二刀にほんでは容易に死ねません、死物狂い一生懸命に三藏は起上り、新吉の髻たぶさをとって引き倒す、其の内與助は年こそ取って居りまするが、田舎漢いなかもので小力こぢからもあるものでございますから、川中から這い上あがって参りながら、短いのを引き抜き、

與「此の野郎なにをしやアがる」

と斬って掛る様子を見るよりお賤は驚き、新吉に怪我をさせまいと思い、窃そっと後うしろから出て参り、與助の髻を取って後の方へ引倒すと、何をしやアがるといいながら、手に障った石だか土の塊かたまりだか分りません、それを取って突然いきなりお賤の顔を打ちました。お賤は顔から火が出た様に思い「アッ」といって倒れると、乗のし掛り斬ろうとする処へ、馬子の作藏が與助の傍わきから飛び出して、突然いきなり足を上げて與助を蹴りましたから堪たまりません、與助はウンといって倒れました。新吉は刀を取直して又また一刀いっとう三藏の脇腹をこじりましたから、三藏も遂ついに其の儘息が絶えました。すると手早く三藏の懐へ手を入れ、胴巻の金を抜き取って死骸を川の中へ投げ込んで仕舞い、

新「お賤〱」

賤「アイ、アヽ痛い、どうも酷ひどい事をしやアがった、石か何か取って、いやという程私の顔を打ぶちやアがった」

新「手出しをするからだ、黙って見ていればいゝに」

賤「見て居いればお前が殺されて仕舞ったのだよ、與助の野郎がお前の後うしろから斬りに掛ったから、私が一生懸命に手伝ったのだが、もう少しでお前斬られる処だったよ」

新「そうか、夢中でいたから、ちっとも知らなかった」

賤「與助をよく蹴倒したのう」

作「え、なに己だ、林の蔭に隠れていたが、危ねえ様子だから飛び出して来て、與助野郎の肋骨あばらを蹴折って仕舞った、兄い無心処どころじゃねえ突然いきなりに行やったんだな」

新「汝てめえはもう帰けえったのかと思った」

作「林の蔭に隠れていて、何どうだかと様子を見ていたのよ」

新「誰か人は来やアしねえか、汝てめえ気を附けて呉れ」

作「大丈夫でえじょうぶだ、誰も来る気遣きづけえはねえが、割合わりえゝを貰もれえ度てえなア」

新「汝てめえはよく嘘を吐つく奴だな、三藏が高野へ納める祠堂金を持ってるというから、懐を探して見たが、金なんぞ持っていやアしねえ、漸ようやく紙入の中に二両か三両しかありゃアしねえ」

作「冗談じゃアねえぜ、そんな事があるもんか」

新「だって汝てめえ嘘を吐いたんだ」

作「なに己が嘘なんぞ吐くものか、此の野郎殺して置いて其の金を取って仕舞ったに違ちげえねえ、そんな事をいっても駄目だ」

新「なに本当だよ」

作「死骸しげえはどうした」

新「川の中へ投ほうり込んでしまった」

作「嘘をいえ、戯ふざけずに早くよこせよ、戯けるなよ」

新「なに戯けやアしねえ」

といわれ、作藏は少し怒気どきを含み、訛声だみごえを張上げ、

作「手前てめえの懐を改めて見よう、己だって手伝って、姐あねさんを斬ろうとする與助を己が蹴殺して、罪を造っているんだ、裸体はだかになって見せろやい、出せってばやい」

といいながら新吉に取縋とりすがる。

新「遣るよ、遣るから待てというに、戯けるな、放せ」

作「なんだ、人を欺だまして、金え出せよう」

新「遣るから待てよ、遣るというに、お賤、その柳行李やなぎごりの中に少し許ばかり金が這入へえってるから出して作藏に遣んな、三藏の懐には無ねえんだから沢山たんとは遣れねえ、十両ばかり遣ろう」

と気休めをいいながら隙すきを覘ねらってどんと作藏の腰を突くと、どぶりと用水へ落ちましたが、がば〲と直すぐに上あがって参りまする処を見て、ずーんと脳を割附わりつけると、アッ、といってがば〲と沈みましたが、又這上りながら、

作「斬りやアがったなア此の野郎」

と云う声がりーんと谺こだまがして川に響きました。尚なおも這上ろうとする処を、また一つ突きましたから、仰むけにひっくりかえりましたが、又這上って来るのを無暗むやみに斬り附けましたから、馬方の作藏は是迄の悪事の報いにや遂ついに息が止ったと見え、其の儘土手の草を攫つかんだなり川の中へのめり込んで仕舞いました。

賤「お前まア恐ろしい酷ひどい事をするねえ」

新「此の野郎はお饒舌しゃべりをする奴だから、罪な様だが五両でも八両でも金を遣るのは費ついえだから切殺して仕舞ったが、もう此処こゝにぐず〱してはいられねえ」

賤「私はどうも殴ぶたれた処とこが痛くって堪たまらないよ」

新「何なんだか暗くって判然はっきり分らねえ」

といいながら透すかして見ると、石だか土塊どろだか分りませんが、機はずみとはいいながら打ぶたれた痣あざは半面紫色に黒み掛り、腫はれ上っていましたから、新吉がぞっとしたと申すは、丁度七年後あとの七月廿一日の夜よ、お累が己を怨うらみ、鎌で自殺をした彼あの時に、蚊帳の傍そばへ坐って己の顔を怨めしそうに睨にらめた貌かおが、実に此の通りの貌だが、今お賤が思い掛ない怪我をして、半面変相へんそうになるというのも、飽あくまでお累が己の身体に附纒つきまつわって祟たゝりをなす事ではないかと、流石さすがの悪党も怖気立こわげたち、ものをも言わず暫くは茫然ぼんやりと立って居りましたが、お賤は気が附きませんから、

賤「お前早く人の来ない中うちに何処どこかへ往って泊らなくっちゃアいけない」

といわれ、漸々よう〱心附き、これからお賤の手を取って松戸へ出まして、松新まつしんという宿屋へ泊り、翌日雨の降る中を立出たちいでて本郷山ほんごうやまを越し、塚前村にかゝり、観音堂に参詣を致し、図はからずお賤が、実の母に出逢いまするお話は一息つきまして。

八十六

申続きました新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、為する事為なす事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々たび〱になりまする。扨さて二人は松戸へ泊り、翌廿二日の朝立とうと致しますると、秋の空の変り易やすく、朝からどんどと抜ける程降りますから立つ事が出来ませんで、ぐず〲して晴れ間を待っている中うちに丁度午刻過ひるすぎになって雨が上りましたから、昼飯ひるはんを食べて其処を立ちましたなれども、本街道を通るのも疵きず持つ脛すねでございまするから、却かえって人通りのない処がよいというので、是から本郷山を抜け、塚前村へ掛りました時分は、もう日が暮れかゝり、又吹掛ふっかけ降ぶりに雨がざア〱と降って来ましたから、

新「アヽ困ったもんだ」

と云いつゝ二三町参りますと傍かたわらの林の処に小さい門構もんがまえの家うちに、ちらりと燈火あかりが見えましたから、

新「兎も角も彼処あすこへ往って雨止あまやみをしよう」

といいながら門の中へ這入って見ると、木連格子きつれごうしに成っている庵室で、村方の者が奉納したものか、丹たんで塗った提灯が幾つも掛けてあります。正面には正観世音しょうかんぜおんと書いた額が掛けてあります。

新「お賤」

賤「あい」

新「こんな処に宿屋はなし、仕方がないから此の御堂おどうで少し休んで往こう、お賽銭さいせんを上げたらよかろう、坊さんがいるだろう」

といいながら格子の間から覘のぞいて見ると、向むこうに本尊が飾って有りまする。正観世音の像を小さいお厨子ずしの中へ入れてあるのですが、余り良い作ではありません、田舎仏師の拵こしらえたものでございましょう、なれ共金箔を置き直したと見え、ぴか〲と光って居りまする、其の前に供えた三みつ具足は此の頃納まったものか、まだ新しく村名むらなが鏤ほり附けてあり、坊さんが畠から切って来たものか黄菊きぎくに草花が上あがって居ります、すると鼠の単物ひとえものを着、腰衣こしごろもを着けた六十近い尼が御燈明おとうみょうを点つけに参りましたから、

新「少々お願いがございますが、私共わたくしどもは旅のもので此の通りの雨で難渋致しますが、どうか少々の間雨止あまやみを仕度したいと存じますが、お邪魔でも此の軒下を拝借願い度たいものでございまする」

尼「はい、御参詣のお方でございますかえ」

新「いえ通り掛りの者ですが、此の雨に降りこめられました、尤もっとも有験あらたかな観音様だと聞いておりますからお参りもする積りでございまする」

尼「吹掛ふっかけ降ぶりですから其処そこに立ってお出でゞは嘸さぞお困りでございましょう、すぐ前に井戸もありまするから足を洗って此方こちらへ上あがって、お茶でも飲みながら雨止をなすっていらっしゃいまし」

新「有難う存じます、えお賤、金か何か遣れば宜いいから上あがんねえ、じゃア御免なさい、誠に有難う存じます」

尼「其処そこに盥たらいもありますから、小さい方を持って往って足を洗ってお出でなさい」

新「へえ」

と是これから足を洗い、

新「誠にお蔭様で有難うございます」

と上りましたが、新吉もお賤もあつかましいから、囲炉裡いろりの側へ参り、

新「お蔭様で助かりました」

賤「誠にどうもとんだ御厄介さまでございました」

尼「おや〱御夫婦連づれで旅をなさいますの、藤心村まで出るとお茶漬屋ぐらいはありますが、此の辺には宿屋がございませんから定めてお困りでしょう、遠慮なしにもっと囲炉裡の側へお寄んなさい」

新吉は何程か金子を紙に包んで尼の前へ差出し、

新「是は誠に少し許ばかりでございますが、お蔭で助かりましたから、お茶代ではありませんが、どうかこれで観音様へお経でもお上げなすって下さいまし」

尼「いえ〱それは決して戴きません、先刻さっき貴方あんたは本堂へお賽銭をお上げなすったから、それでもう沢山でございます、御参詣の方は皆みんなお馴染になって、他村たそんのお方が来ても上あがり込んで、私の様な婆ばゞあでも久しく話をして入らっしゃいますのですから御心配なく寛ゆっくりとお休みなすって入らっしゃいまし」

と云われ、新吉はお賤の顔を見ながら小声にて、

新「だって、きまりが悪わりいな、これはほんの私の心許りでございますから、貴方後あとでお茶請ちゃうけでも買って下さいまし」

尼「いえ私は喰物たべものは少しも欲しくはありませんお賽銭を上あげたからもうお金などは宜ようございますよ」

新「そんな事をいわずに何卒どうか取って置いて下さいまし」

尼「そうでございますか、又気になすっては悪いし、折角の思召おぼしめしですから戴いて置きましょう、日が暮れると雨の降る時は寒うございます、直じきに本郷山が側ですから山冷やまびえがしますから、もっと其の麁朶そだをお焚くべなさいまし」

新「へい有難う存じます」

といいながら松葉や麁朶を焚べ、ちょろ〱と火が移り、燃え上りました光で、お賤が尼の顔を熟々つく〲見ていましたが、

賤「おやお前はお母っかアじゃないか」

八十七

尼「はい、どなたえ」

賤「あれまア何どうもお母アだよ、まア何うしてお前尼におなりだか知らないが、本当に見違えて仕舞ったよ、十三年後あとに深川の櫓下の花屋へ置去おきざりにして往いかれた娘のお賤だよ」

と云われて尼は恟びっくりし、

尼「えゝ、まアどうも、誠に面目次第もない、私も先刻さっきから見た様な人だと思ってたが、顔貌かおかたちが違ったから黙ってたが、どうも実に私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃアありませんが、頭髪あたまを剃すって斯こんな身の上になったから逢われますものゝ、定めて不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍して下さいあやまります」

賤「それでも能く後悔してね」

尼「此の通りの姿になって、まア此の庵室に這入って、今では毎日お経を上げた後あとでは観音様へ向って、若い時分の悪事を懺悔してお詫び申していますけれども、中々罪は消えませんが、頭髪あたまを剃すって衣を着たお蔭で、村の衆しゅがお比丘びく様とか尼様とか云って、種々いろ〱喰物たべものを持って来て呉れるので、何どうやら斯こうやら命を繋つないでいるというだけのことで、此の頃は漸々よう〱心附いて、十六の時置去にしたお賤はどうしたかと案じていても、親子で有ありながら訪ねる事も出来ないというのは皆みんな罰ばちと思って後悔しているのだよ」

賤「どうもね本当に、それでも能くまア法衣ころもを着る了簡になったね」

といいながら、新吉に向い、

賤「お前さんにも話をした深川櫓下の花屋の、それね……お前さんの様な親子の情合じょうあいのない人はないけれ共能くまア後悔してお比丘におなりだね」

尼「比丘なんぞになり度たい事はないが、是も皆みんな私の作った悪事の罰ばちで、世話のして呉れ人てもなくなり、段々老とる年で病み煩いでもした時に看病人もない始末、あゝ何どうしたら宜よかろう、あゝ是も皆みんな罰ではないかと身体のきかない時には、真ほんに其の後悔というものが出て来るものでのうお賤、して此のお方はお前の良人おつれあいかえ」

賤「あゝ」

新「いつでも此女これから話は聞いていました、一人お母様っかさんがあるけれ共生死いきしにが分らない、併しかし丈夫な人で、若い気象だったから達者でいるかとお噂は能くしますが、私は新吉と云う不調法ものでございますが、今から何分幾久しゅう願います」

尼「此のお賤は私の方では娘とも云えません、又親とは思いますまい、憎くってねえ、あゝ実にお前に会うのも皆みんな神仏かみほとけのお叱りだと思うと、身を切られる程つらいと云う事を此の頃始めて覚えました、云わない事は解りますまいが、私は此の頃は誰が来ても身の懺悔をして若い時の悪事の話を致しますと、遊びに来る老爺おじいさんや老婆おばあさんも、おゝ〱そうだのう、悪い事は出来ないものだと云って、又其の人達が若い時分の罪を懺悔して後悔なさる事があるから、私が懺悔をしますと人さまもそれに就ついて後悔して下されば私の身の為にもなろうと思って、逢う人毎ごとに私の若い時分の悪事を懺悔してお話を致します、私も若い時分の放蕩と云うものは、お賤は知りませんが中々一通りじゃアありませんでしたよ」

新「お母っかさん、なんですか、お前さんは元もと何処どこの出のお方でございます、多分江戸子えどっこでしょう」

尼「いえ私の産れは下総の古河こがの土井さまの藩中の娘で、親父おやじは百二十石の高たかを戴いた柴田勘六しばたかんろくと申して、少々ばかりは宜よい役を勤めた事もある身分でございましたからお嬢様育ちで居たのですが、身性みじょうが悪うございまして、私が十六の時家来の宇田金五郎うだきんごろうという者と若気の至りで私通いたずらをし、金五郎に連れられて実家を逃出し江戸へ参り、本郷菊坂に世帯しょたいを持って居りましたが丁度あの午年うまどしの大火事のあった時、宝暦ほうれき十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、十七や十八で児こを拵こしらえる位だから碌なものではありません、其の翌年金五郎は傷寒しょうかんを煩わずらって遂ついに亡なくなりましたが、年端としはもゆかぬに亭主には死別しにわかれ、子持ではどうする事も出来ませんのさ、其の子供には名を甚藏と附けましたが、何なんに肖あやかったのか肩の処に黒い毛が生えて、気味の悪い痣あざがあって、私も若い時分の事だから気色が悪く、殊ことに亭主に死なれて喰い方にも困るから、菊坂下の豆腐屋の水船みずぶねの上へ捨児すてごにして、私は直すぐ上総の東金へ往って料理茶屋の働き女に雇われて居る内に、船頭の長八ちょうはちという者といゝ交情なかとなって、また其処そこをかけ出して出るような事に成って、深川相川町あいかわちょうの島屋しまやと云う船宿を頼み、亭主は船頭をし、私は客の相手をして僅わずかな御祝儀を貰って何どうやら斯こうやらやって居る中うちに、私は亭主運がないと見え、長八がまた不図ふと煩いついたのが原因もとで、是も又死別れ、どうする事も出事ないから「出事ないから」はママ心配して居ると、島屋の姐ねえさんのいうには、迚とてもお前には辛抱は出事まいが「出事まいが」はママ、思い切って堅気にならないかと云われ、小日向の方のお旗下の奥様がお塩梅が悪いので、中働なかばたらきに住み込んだ処が、これでも若い時分は此様こんな汚ない婆ばゞアでもなかったから、殿様のお手が附いて、僅わずかな中うちに出来たのは此のお賤」

八十八

尼「此娘これも世が世ならばお旗下のお嬢さまといわれる身の上だが、運の悪いというものは仕方がないもので、此のお賤が二歳ふたつの時、其のお屋敷が直じきに改易に成ってしまい、仕様がないから深川櫓下の花屋へ此の娘こを頼んで芸妓げいしゃに出して、私の喰い物にしようと云う了簡でしたが、又私が網打場の船頭の喜太郎きたろうという者と私通いたずらをして、船で房州ぼうしゅうの天津あまつへ逃げましたがね、それからというものは悪い事だらけさ、手こそ下おろして殺さないでも口先で人を殺すような事が度々たび〱で、私の為に身を投げたり首を縊くゝって死んだ男も二三人あるから、皆みんな其の罰ばちで今斯こう遣って居るのも、彼あの時に斯ういう事をしたから其の報いだと諦め、漸々よう〱改心をしましたのさ、仕方がないから頭髪あたまを剃そりこかし破れ衣を古着屋で買ってね、方々托鉢して歩いて居る中うち、此の観音様のお堂には留守居がないからお比丘さん這入って居ないかと村の衆に頼まれるから、仮名附のお経を買って心経しんぎょうから始め、どうやら斯うやら今では観音経ぐらいは読めるように成ったが、此の節は若い時分の罪滅つみほろぼしと思い、自分に余計な物でもあると困る人にやって仕舞うくらいだから、何も物は欲しくありません、村の衆が時々畠の物なぞを提げて来てくれるから、もう別にうまい物を喰度たべたいという気もなし、只観音様へ向ってお詫事をして居るせえか、胸の中うちの雲霧くもきりが晴れて善に赴おもむいたものだから、皆さんがお比丘様〱と云って呉れ、此の観音様も段々繁昌して参り、お比丘さんにお灸きゅうを据すえて貰えのお呪まじないをして貰い度たいのといって頼みに来るから、私も何も知らないが、若い時分から疝気せんきなら何処どこが能いいとか歯の痛いのには此処こゝが能よいとか聞いてるから据えて遣ると、向むこうから名を附けて観音様の御夢想ごむそうだなぞと云って、今ではお前さん何不足なく斯こう遣って居ますが今日図はからずお前達に逢って、私は尚なお、観音様の持って入らっしゃる蓮はすの蕾つぼみで脊中を打たれる様に思いますよ、まだ二人とも若い身の上だから、是から先さき悪い事はなさらないように何卒どうぞ気をお附けなさい、年を老とると屹度きっと報むくって参ります、輪回応報りんねおうほうという事はないではありませんよ」

と云われ新吉は打萎うちしおれ溜息を吐つきながらお賤に向い、

新「何どうだえお賤」

賤「私も始めて聞いたよ、そんならお母っかさんお前がお屋敷へ奉公に上あがったら、殿様のお手が附いて私が出来たといえば、其のお屋敷が改易にさえならなければ私はお嬢様、お前は愛妾めかけとか何なんとか云われて居るのだね」

尼「お前はお嬢様に違いないが、私は追出されてでも仕舞う位の訝おかしな訳でね」

新「へい其の小日向の旗下とは何処どこだえ」

尼「はい、服部坂上の深見新左衞門様というお旗下でございます」

といわれて新吉は恟びっくりし、

新「エヽ、そんなら此のお賤は其の新左衞門と云う人の胤たねだね」

尼「左様」

新「そうか」

と口ではいえど慄ぞっと身の毛がよだつ程恐ろしく思いましたは、八年前ぜん門番の勘藏が死際いまわに、我が身の上の物語を聞けば、己は深見新左衞門の次男にて、深見家改易の前まえに妾が這入り、間もなく、其の妾のお熊というものゝ腹へ孕やどしたは女の子それを産落すとまもなく家が改易に成ったと聞いて居たが、して見ればお賤は腹違いの兄弟であったか、今迄知らずに夫婦に成って、もう今年で足掛七年、あゝ飛んだ事をしたと身体に油の如き汗を流し、殊ことには又其の本郷菊坂下へ捨児すてごにしたというのは、七年以前、お賤が鉄砲にて殺した土手の甚藏に違いない、右の二の腕に痣あざがあり、それにべったり黒い毛が生えて居たるを問いし時、我は本郷菊坂へ捨児にされたものである、と私への話し、さては聖天山へ連れ出して殺した甚藏は矢張やっぱりお賤の為には血統ちすじの兄であったか、実に因縁の深い事、アヽお累が自害の後のち此のお賤が又斯こう云う変相になるというのも、九ヶ年前ぜん狂死なしたる豊志賀の祟たゝりなるか、成程悪い事は出来ぬもの、己は畜生ちくしょう同様兄弟同志で夫婦に成り、此の年月としつき互に連れ添って居たは、あさましい事だと思うと総毛立ちましたから、新吉は物をも云わず小さくかたまって坐り、只ポロ〱涙を落して居りました。

八十九

尼「とんだ面白くもない話をお聞かせ申したが、まア緩ゆっくりお休みなさい」

新「実に貴方の話を聞いて、私わっちも若い時分にした悪事を考えますと身の毛がよだちますよ」

尼「お前さん何をいうのです、若い時分などと云ってまだ若い盛りじゃアないか、是から罪を作らん様にするのだ」

新「お母様っかさん、私わたしは真しん以もって改心して見ると生きては居られない程辛いから、私を貴方の弟子にして下さいな、外ほかに往き処どこもないから、お前様さんの側へ置いて下されば、本堂や墓場の掃除でもして罪滅しをして一生を送り度たいので、段々のお話で私は悉皆すっかり精神たましいを洗い、誠の人になりましたから、どうか私をお弟子にして下さいまし」

尼「よくね、私の懴悔話を聞いて、一図いちずにアヽ悪い事をしたと云って、お前さんのような事を仰しゃるお方も有りますが、其の心持が永く続かないものですから、そんな事を云わなくっても、只アヽ悪い事をしたと思えば、其所そこが善いので」

新「お賤、お前とは不思義の悪縁と知らず、是まで夫婦になって居たけれ共、表向盃をしたという訳でもないから、夫婦の縁も今日限りとし、己は頭髪あたまを剃すって、お前のお母っかさんだが、己はお母さんとは思わない、己を改心させてくれた導きの師匠と思い、此のお比丘さんに事つかえて、生涯出家を遂とげる心に成ったから、もう己を亭主と思って呉れるな、己もまたお前を女房とは思わねえから、何卒どうかそう思って呉れ」

賤「おい何をいうんだ、極りを云ってるよ、話を聞いた時には一図に悪い事をしたと思うが、少し経たつと直じきに忘れて仕舞うもの、一寸精進をしても、七日仕ようと思っても三日も経つともう宜かろうと喰たべるのが当前あたりまえじゃアないか」

新「今迄の魂の汚よごれたのを悉皆すっかり洗って本心になったのだから、もう己の傍そばへ寄って呉れるな」

賤「おや新吉さん何をいうのだよお前どうしたんだえ」

新「お前めえはまア本当に………どうして羽生村なんぞへ来たんだなア」

賤「新吉さん、お前まえ何をいうのだ、来たって、あゝいう訳で来たんじゃアないか、それが何どうしたんだえ」

新「お前めえは何も解らねえのだ、アヽ厭いやだ、ふつ〱厭だ、どうぞ後生だから己の側へ寄ってくんなさんな」

といわれてお賤は少しムッとした顔付になり、

賤「あゝ厭ならおよしなさい、だが私もね、お前と二人で悪い事を仕度したくもないが、喰い方に困るものだから一緒にしたが、昨日きのう私が斯こんな怪我をして、恐ろしい顔になったもんだから、他ほかの女と乗り替える了簡で、旨くごまかして、私を此寺こゝへ押附おっつけ、お前はそんな事をいって逃げる心だろう」

新「決してそういう訳じゃアないが、お前まえどうして女に生れたんだなア」

賤「何を無理な事をいうの、女に生れたって、気違じみ切って居るよ」

新「お前に口を利かれても総毛立つよ」

尼「喧嘩をしてはいけません、私もお賤の為には親だから死水しにみずを取って貰い度たいが親子でありながらそうも云われず、又お賤も私の死水を取る気はありますまい」

新「まだ此のお賤は色気がある、此畜生奴こんちきしょうめ、本当にお前や己は、尻尾しっぽが生えて四つん這になって椀わんの中へ面ア突込つっこんで、肴さかなの骨でもかじる様な因果に二人とも生れたのだから、お賤手前てめえも本当にお経でも覚えて、観音さまへ其の身の罪を詫る為に尼に成り、衣を着て、一文ずつ貰って歩く気になんな、今更外に仕方がないからよ」

賤「なんだね厭だよ、そんな事が出来るものか」

新「そう側へ寄って呉れるなよ、どうか私の頭髪あたまを剃すって下さい」

尼「まア〱三四日此寺こゝに泊っておいでなさい、又心の変るものだから、互に喧嘩をしないで、私はお経をあげに往ってくるから、少し待っておいでなさい」

新「私も一緒に参りましょう」

賤「おい新吉さんお前本当にどうしたんだえ、私は何どうしてもお前の傍そばは離れないよ」

新吉はもう誠に仏心ぶっしんと成りまして、

新「お前はまだ色気の有る人間だ、己は真しんに改心する気に成った」

賤「本当にお前どうしたんだよ」

と云いながら取り縋すがるのを、新吉は突放つきはなし、

新「此ん畜生奴、己の側へ来ると蹴飛すぞ」

といわれお賤は腹の中にて、私の顔貌かおかたちが斯こんなに成ったものだから捨てゝ逃げるのだと思うから油断を致しませんで、此寺こゝに四五日居りまする中うちに、因果のむくいは恐ろしいもので、惣右衞門の忰惣吉が此の庵室を尋ねて参るという処から、新吉はもう耐こらえ兼ねて、草苅鎌を以て自殺致しますという、新吉改心の端緒いとぐちでございます。

九十

偖さて申し続きました深見新吉は、お賤を連れて足かけ五年間の旅中たびちゅうの悪行あくぎょうでございまする、不図ふと下総の塚前村と申しまする処の、観音堂の庵室に足を留とめる事に成りました。是は藤心村の観音寺という真言寺しんごんでら持もちでございまして、一切の事は観音寺で引受けて致しまする。村の取附とりつきにある観音堂で、霊験れいげん顕著あらたかというので信心を致しまする者があって種々いろ〱の物を納めまするが、堂守どうもりを置くと種々の悪い事をしていなくなり、村方のものも困って居る処で、通り掛った尼は身性みじょうも善いという処から、これを堂守に頼んで置きました。是へ新吉お賤が泊りましたので、比丘尼びくには前名ぜんみょうを熊と申す女に似気にげない放蕩無頼を致しました悪婆あくばでございまするが、今はもう改心致しまして、頭髪あたまを剃そり落し、鼠の着物に腰衣を着け、観音様のお堂守をして居る程の善心に成りまして、新吉お賤に向って、昔の懴悔話をして聴かせると、新吉が身の毛のよだつ程驚きましたは、門番の勘藏の遺言に、お前は小日向服部坂上の深見新左衞門という御旗下の次男だが、生れると間もなくお家改易になったから、私が抱いて下谷大門町へ立退たちのいて育てたのだが、お家改易の時お熊という妾があって、其の腹へ出来たは女という事を物語ったが、そんなら七ヶ年以来このかた夫婦の如く暮して来たお賤は、我が為には異腹はらちがいの妹いもとであったかと、総身そうしんから冷つめたい汗を流して、新吉が、あゝ悪い事をしたと真しん以もって改心致しました。人は三十歳位に成りませんければ、身の立たないものでございまする。お賤は二十八、新吉は三十になり、悪い事は悉こと〲く仕尽した奴だけあって、善にも早く立帰りまして、出家を遂とげ、尼さまの弟子と思って下さい、夫婦の縁は是限りと思って呉れお賤汝てめえも能く考えて見ろ、今までの悪業あくごうの罪障消滅つみほろぼしの為に頭を剃りこぼって、何どの様な辛苦修行でもし、カン〱坊主に成って今迄の罪を滅ほろぼさなくっちゃア往いく処へも往かれねえから、己の事は諦めて呉れとはいいましたが、汝は己の真実の妹だとはいい兼て居り、尼が本堂へ往けば、お熊比丘尼の後あとに附いて参り、墓場へ往けば墓場へ附いて往く、斎ときが有ればお供を致しましょうと出て参り、兎角にお賤の傍そばへ寄るを嫌いますから、お賤は腹の中にて、思いがけない怪我をして半面変相になり、斯こんな恐ろしい貌かおに成ったから、新吉さんは私を嫌い、大方母親おふくろが此の庵主に成っているから、私を此処こゝへ置去りにして逃げる心ではないかと、まだ色気がありますから愚痴許ばかりいって苦情が絶えません。新吉の能く働きまする事というものは、朝は暗い内から起きて、墓場の掃除をしたり、門前を掃いたり、畠へ往って花を切って参って供えたり、遠い処まで餅菓子を買いに往って本堂へ供えたり、お斎が有るとお比丘さんの供をして参り、仮名振の心経や観音経を買って来て覚えようとして居りますのを見て、

尼「誠に新吉さんは感心な事では有るが、一時いちじに思い詰めた心はまた解ほごれるもの、まア〱気永にしているが宜よい、只悪い事をしたと思えばまだお前なんぞは若いから罪滅しは幾らも出来ましょう」

と優しくいわれるだけ身に応えまする。ちょうど七月二十一日の事でございまする、新吉は表の草を刈って居り、お賤は台所で働いて居りまする処へ這入って参りましたのは、十二三になる可愛らしい白色いろじろなお小僧さんで、名を宗觀と申して観音寺に居りまする、此の小坊主を案内して来ましたは音助おとすけという寺男で、二人連づれで這入って参り、

音「御免なせえ」

新「おいでなさい、観音寺様でございまするか」

音「上かみの繁右衞門しげえもん殿どんの宅で二十三回忌の法事があるんで、己おらア旦那様も往くんだが、何どうか尼さんにもというので迎むけえに参めえったのだ」

新「今尼さんは他わきのお斎に招よばれて往ったから、帰ったらそう云いましょう」

音「能く掃除仕やすねえ、墓の間の草ア取って、跨まてえで向うへ出ようとする時にゃアよく向脛むこうずねを打ぶッつけ、飛とびっ返けえるように痛いてえもんだが、若わけえに能く掃除しなさるのう」

新「お小僧さんはお小さいに能く出家を成さいましたね、お幾歳いくつでございまする」

宗「はい十二に成ります」

九十一

新「十二に、善いお小僧さんだね、十一二位から頭髪あたまを剃すって出家になるのも仏の結縁けちえんが深いので、誠に善い御因縁で、通常なみの人間で居ると悪い事許ばかりするのだが、斯こう遣って小さい内から寺へ這入ってれば、悪い事をしても高が知れてるが、お父様とっさんやお母っかさんも御承知で出家なすったのですか」

宗「そうじゃアありません、拠よんどころなく坊さんに成りました」

新「拠なく、それじゃアお父とっさんもお母さんも、お前さんの小さい中うちに死んで仕舞って、身寄頼りもなく、世話の仕手もないのでお寺へ這入ったという事もありまするが、そうですか」

音「なにそういう訳じゃアなえが、此のまア宗觀様ぐらえ憫然かわえそうな人はねえだ」

新「じゃアお父さんやお母さんは無いのでございますか」

宗「はい、親父おやじは七年前に死にました」

といいながらメソ〱泣出しました。

音「泣かねえが宜ええと云うに、いつでも父様とっさまや母様かゝさまの事を聞かれると宗觀様さんは直すぐに泣き出すだ、親孝行な事だが、出家になるのは其処そこを諦める為だから泣くなと和尚様がよくいわっしゃるが、矢張やっぱり直じきに泣くだが、併しかし泣くも無理はねえだ」

新「へえ、それは何どういう因縁に成って居りますのです」

音「ねえ宗觀様さん、お前の父様は早く死んだっけ」

宗「七年前の八月死にました」

音「それから此の人の兄様あにさんが跡をとって村の名主役を勤めて居ると、其処そこへ嫁子よめっこが這入へえって何なんともハヤ云い様のなえ程心も器量も善いい嫁子だったそうだが、其所そこに安田八角か、え、一角とか云う剣術遣つけえが居て其の嫁子に惚れた処が、思う様にならねえもんだから、剣術遣の一角が恋の遺恨でもってからに此の人の兄さんをぶっ斬って逃げたとよ、其奴そいつに同類が一人有って、何なんとか云ったのう、ウン富五郎か、其の野郎が共謀ぐるになって、殺したのだ、すると此の人の宅うちの嫁子が仮令たとえ何なんでも亭主の敵かたきい討ぶたねえでは置かねえって、お武家さむれえさんの娘だけにきかねえ、なんでも仇討かたきぶちをするって心にもねえ愛想づかしをして、羽生村から離縁状を取り、縁切に成って出て、敵の富五郎を欺だまして同類の様子を聴いたら、一角は横堀の阿弥陀堂の後うしろの林の中へ来ているというから、亭主の仇かたきを討うちぶっ切るべえと思って林の中へ這入へえったが、先方むこうは何なんてッても剣術の先生だ女ぐれえに切られる事はねえから、憫然かわいそうに其の剣術遣えが、此の人の姉様あねさまをひどくぶっ切って逃げたとよ、だから口惜しくってなんねえ、子心にも兄さんや姉あねさんの敵が討ぶちてえッて心易い相撲取が有るんだ…風車か…え…花車、そうかそれが、力量ちからアえれえから其の相撲取をたのむより仕様がねえと、母親おふくろは年い老とってるが、此の人をつれて江戸へ往いくべえと出て来る途みちで、小金原こがねっぱらの観音堂で以てからに塩梅あんべえが悪くなったから、種々いろ〱介抱けえほうして、此の人が薬い買けえに往った後あとで母親さんを泥坊が縊くびり殺し、路銀を奪とって逃げた跡へ、此の人が帰けえってみると、母様かゝさまは喉のどを締められておっ死ちんでいたもんだから、ワア〱泣なえてる処へ己おらア旦那が通り掛り、飛んだことだが、皆みんな因縁だ、泣くなと、兄あにさんと云い姉あねさんと云い母かゝさままでもそういう死しにざまをするというのは約束事だから、敵討かたきうちなぞを仕様といわねえで兎も角も己おらア弟子に成って父とっさまや母さまや兄さん姉さまの追善供養を弔ともらったが宜よかろうと勧めて、坊主になれといってもならねえだから、和尚様も段々可愛がって、気永に遣ったもんだから、遂ついには坊様になるべえとッて漸ようやく去年の二月頭をおっ剃つったのさ」

新「ヘエ、そうでございますか、何なんですか、此のお小僧さんのお宅うちは何方どちらでございますと」

音「え岡田郡ごおりか……岡田郡羽生村という処だ」

新「え、羽生村、へえ其の羽生村で父とっさんは何なんというお方でございます」

音「羽生村の名主役をした惣右衞門と云う人の子の、惣吉さまというのだ」

と云われ新吉は大きに驚いた様子にて、

新「えゝ、そうでございますか、是はどうも思い掛けねえ事で」

音「なんだ、お前めえさん知ってるのか」

九十二

新「なに知って居やア仕ませんがね、私も方々旅をしたものだから、何処どこの村方には何なんという名主があるかぐらいは知って居ます、惣右衞門さんには、水街道辺で一二度お目に掛った事がございますが、それはまアおいとしい事でございましたな」

というものゝ、音助の話を聞く度たびに新吉が身の毛のよだつ程辛いのは、丁度今年で七年前、忘れもしねえ八月廿一日の雨の夜よに、お賤が此の人の親惣右衞門の妾に成って居たのを、己と密通し、剰あまつさえ病中に縊くびり殺し、病死の体ていで葬りはしたなれ共、様子をけどった甚藏奴めは捨てゝは置かれねえとお賤が鉄砲で打殺うちころしたのだが土手の甚藏は三十四年以前にお熊が捨児にした総領の甚藏でお賤が為には胤違たねちがいの現在の兄を、女の身として鉄砲で打殺すとは、敵同士の寄合、これも皆因縁だ、此の惣吉殿のいう事を聞けば聞く程脊筋へ白刄しらはを当てられるより尚なお辛い、アヽ悪い事は出来ないものだと、再び油の様な汗を流して、暫くは草刈鎌を手に持ったなり黙然もくねんとして居りました。

音「あんた、どうしたアだ、塩梅あんべえでも悪わりいか、酷ひどく顔色が善よくねえぜ」

新「ヘエ、なアに私はまだ種々いろ〱罪があって出家を遂とげ度たいと思って、此の庵室に参って居りまするが、此のお小僧さんの様に年もいかないで出家をなさるお方を見ると、本当に羨ましくなって成りませんから、私も早く出家になろうと思って、尼さんに頼んでも、まだ罪障つみが有ると見えて出家にさせて呉れませんから、斯こう遣って毎日無縁の墓を掃除すると功徳になると思って居りまするが、今日は陽気の為か苦患くげんでございまして、酷く気色が悪いようで」

音「お前さんの鎌は甚えらく錆びて居やすね、研とげねえのかえ」

新「まだ研ぎようを本当に知りませんが、此間こないだお百姓が来た時聞いて教わったばかりでまだ研がないので」

音「己おらア一つ鎌をもうけたが、是を見な、古い鎌だが鍛きてえが宜いいと見えて、研げば研ぐ程よく切れるだ、全体ぜんてえ此の鎌はね惣吉どんの村に三藏という質屋があるとよ、其家そこが死絶えて仕舞ったから、家は取毀とりこわして仕舞ったのだ、すると己おらア友達が羽生村に居て、此方こっちへ来たときに貰っただアが、汝われ使って見ねえか宜よく切れるだが」

と云いながら差出す。

新「成程是は宜いい、切れそうだが大層古い鎌ですね」

と云いながら取り上げて見ると、柄えの処に山形に三の字の焼印がありまするから驚いて、

新「これは羽生村から出たのですと」

音「そうさ羽生村の三藏と云う人が持って居た鎌だ」

と云われた時、新吉は肝きもに応えて恟びっくり致し、草刈鎌を握り詰め、あゝ丁度今年で九ヶ年以前、累ヶ淵でおひさを此の鎌で殺し、続つゞいてお累は此の鎌で自殺し、廻り廻って今また我手へ此の鎌が来るとは、あゝ神仏かみほとけが私わしの様な悪人をなに助けて置こうぞ、此の鎌で自殺しろと云わぬばかりの懲こらしめかあゝ恐ろしい事だと思い詰めて居りましたが、

新「お賤一寸来きねえ、お賤一寸来ねえ」

賤「あい、何なんだよ、今往くよ」

と此の頃疎々うと〱しくされて居た新吉に呼ばれた事でございますから、心嬉しくずか〱と出て来ました。

新「お賤、此処こゝにおいでなさるお小僧さんの顔を汝てめえ見覚えて居るか」

と云われお賤はけゞんな顔をしながら、

賤「そう云われて見ると此のお小僧さんは見た様だが何なんだか薩張さっぱり解らない」

新「羽生村の惣右衞門様さんのお子で、惣吉様さんといって七歳なゝつか八歳やッつだったろう」

賤「おやあの惣吉様さま」

新「此の鎌は三藏どんから出たのだが、汝てめえのめ〱と知らずに居やアがる」

と云いながら突然いきなりお賤の髻たぶさを捉とって引倒す。

賤「あれー、お前何をするんだ」

というも構わず手元へ引寄せ、お賤の咽喉のどぶえへ鎌を当てプツリと刺し貫きましたから堪たまりません、お賤は悲鳴を揚げて七顛八倒の苦しみ、宗觀と音助は恟びっくりし、

音「お前めえ気でも違ったのか、怖おっかねえ人だ、誰か来て呉れやー」

と騒いで居る処へお熊比丘尼が帰って参り、此の体ていを見て同じく驚きまして、

尼「お前は此間こないだから様子が訝おかしいと思ってた、変な事ばかりいって、少したじれた様子だが、何なんだって科とがもないお賤を此の鎌で殺すと云う了簡になったのだねえ、確しっかりしないじゃいけないよ」

九十三

新「いえ〱決して気は違いません、正気でございますが、お比丘さん、お賤も私わっちも斯こう遣って居られない訳があるのでございます、お賤汝てめえは己を本当の亭主と思ってるが、汝は定めて口惜しいと思うだろうが、汝一人は殺さねえ、汝を殺して置き、己も死なねばならぬ訳があるんだ、汝は知るめえが、あゝ悪い事は出来ねえものだ、此の庵室へ来た時にはお前さんの懴悔話を聞くと若わけえ時に小日向服部坂上の深見という旗下へ奉公して、殿の手がついて出来たのがお賤だと仰しゃったが、私わたしも其の深見新左衞門の次男に生れ、小さい時に家は改易と成ったので町家ちょうかで育ったもの、腹は違えど胤たねは一つ、自分の妹とも知らないで七年跡から互に深く成った畜生同様の両人ふたり、此の宗觀様さんのお父様とっさんは羽生村の名主役で惣右衞門というお方でしたが、お賤を深川から見受けして別に家うちを持たせ楽に暮させてお置きなすったものを私は悪い事をするのみならず、申すも恐ろしい事だが、惣右衞門様さんをお賤と私とで縊くびり殺したのでございます、さ、斯こう申したら嘸さぞお驚きでございましょう、誰も知った者はありません、病死の積りで葬って仕舞ったが、人は知らずとも此の新吉とお賤の心には能ようく知って居りまする、畜生のような兄弟が斯こうやって罪滅しの為夫婦の縁を切って、出家を遂げようと思いました処へ宗觀様さんがおいでなすって、これ〱と話を聞いて見れば迚とても生きては居おられません、此の鎌は女房のお累が自害をし、私わっちが人を殺あやめた草苅鎌だが、廻り廻って私わっちの手へ来たのは此の鎌で死ねという神仏かみほとけの懲こらしめでございまするから、其のいましめを背かないで自害致しまする、私共わたくしども夫婦のものは、あなたの親の敵でございます、嘸さぞ悪にくい奴と思召おぼしめしましょうから何卒どうぞ此の鎌でズタ〱に斬って下さいまし、お詫びの為ため一ひと言こと申し上げますが、お前まいさんの兄あにさん姉あねさんの敵と尋ねる剣術遣の安田一角は、五助街道の藤ヶ谷の明神山に隠れて居るという事は、妙な訳で戸ヶ崎の葮簀張よしずッぱりで聞いたのですが、敵を討ちたければ、其の相撲取を頼み、其処そこへ往って敵をお討ちなさい、安田一角が他の者へ話しているのを私わっちが傍そばで聴いて居たから事実たねを知ってるのでございます、お賤、汝てまえと己が兄弟ということを知らないで畜生同様夫婦に成って、永い間悪い事をしたが、もう命の納め時だ、己も今直すぐに後あとから往くよ、お賤宗觀様さんにお詫を申し上げな」

賤「あい〱」

と血に染ったお賤は聴く毎ごとにそうであったかと善に帰って、よう〱と血だらけの手を合せ、苦しき息の下から、

賤「惣吉様さん誠に済まない事をしました、堪忍して下さいまし、新吉さん早く惣吉さんの手に掛って死度しにたい、あゝ、お母っかさん堪忍して下さい」

と苦しいから早く自殺しようと鎌の柄に取り縋すがるを新吉は振り払って、鎌を取直し、我わが左の腹へグッと突き立て、柄つかを引いて腹を掻切かききり、夫婦とも息は絶々たえ〲に成りました時に、宗觀は、

宗「あゝ、お父とっさんを殺したのはお前たち二人とは知らなかったが、思い掛けなくお父さんの敵が知れると云うのは不思議な事、また兄あにさんや姉あねさんを殺した安田一角の隠れ家を知らせて下され、斯こんな嬉しい事はありませんから決して悪にくいとは思いません、早く苦痛のないようにして上げ度たい」

と云いながら後うしろをふりかえると、音助はブル〱して腰も立たないように成って居ました。

宗「お父とっさんや兄さん姉さんの敵は知れたが、小金原の観音堂でお母っかさんを殺した敵はいまだに分らないが、悪い事をする奴の末始終は皆斯こういう事に成りましょう」

というのを最前から聞いていましたお熊比丘は、袖もて涙を拭ぬぐいながら宗觀の前へ来て、

尼「誠に思い掛けない、宗觀様さんお前まいさんかえ」

宗「へえ」

尼「忘れもしない三年跡の七月小金原の観音堂でお前まいさんのお母さんを縊くびり殺し、百二十両と云う金を取ったは此のお熊比丘尼でございますよ」

宗「エヽこれは」

と宗觀も音助も恟びっくり致しました。絶え〲に成っていました新吉は血のりに染った手を突き、耳を欹たって聞いております。

尼「私も種々いろ〱悪い事をした揚句、一度出家はしたが路銀に困っている処へ通り合せた親子連の旅人りょじん小金原の観音堂で病に苦しんで居る様子だから、此の宗觀様さんをだまして薬を買いに遣った跡で、お母様ふくろさんを縊殺くびりころしたは此のお熊、私はお前様さんのお母様っかさんの敵だから私の首を斬って下さい」

と新吉が持っていました鎌を取って、お熊比丘尼は喉を掻切って相果てました。其の内村の者も参り、観音寺の和尚様も来て、何しろ捨すてては置かれないと早速此の由よしを名主から代官へ訴え検死済の上、三人の死骸は観音堂の傍わきへ穴を掘って埋め、大きな墓標はかじるしを立てました。是が今世に残っておりまする因果塚で、此の血に染った鎌は藤心村の観音寺に納まりました。扨さて宗觀は敵の行方が知れた処から、還俗げんぞくして花車を頼み、敵討が仕度したいと和尚に無理頼みをして観音寺を出立するという、是から敵討に成ります。

九十四

塚前村観音堂へ因果塚を建立致し、観音寺の和尚道恩どうおんが尽ことごとく此の因縁を説いて回向を致しましたから、村方の者が寄集まって餅を搗き、大した施餓鬼せがきが納まりました。斯かくて八月十八日施餓鬼祭まつりを致しますと、観音寺の弟子宗觀が方丈の前へ参りまして、

宗「旦那様」

道「いや宗觀か、なんじゃ」

宗「私はお願いがありますが、旦那さまには永々なが〱御厄介に相成りましたが、私は羽生村へ帰り度とうございます」

道「ウン、どうも貴様は剃髪ていはつする時も厭がったが、出家になる因縁が無いと見える、何故羽生村へ帰り度たいか、帰った処が親も兄弟もないし、別に知るものもない哀れな身の上じゃないか、よし帰った処が農夫ひゃくしょうになるだけの事、実じつ何どうしても出家は遂とげられんか」

宗「はい私は兄と姉の敵が討ちとうございます」

道「これ、此間こないだもちらりと其の事も聞いたから、音助にも宜よう宗觀にいうてくれと言附けて置いたが、敵討という心は悪い心じゃ、其の念を断きらんければいかん、執念して飽くまでも向むこうを怨むには及ばん、貴様の親父を殺した新吉夫婦と母親おふくろを殺したお熊比丘尼は永らく出家を遂げて改心したが、人を殺した悪事の報いは自滅するから討つがものは無い、己おのれと死ぬものじゃから其の念を断つ処が出家の修行で、飽く迄も怨む執念を断きらんければいかん、それに貴様は幾歳いくつじゃ、十二や十三の小坊主が、敵手あいては剣術遣じゃないか、みす〱返り討になるは知れてある、出家を遂げれば其の返り討になる因縁を免のがれて、亡なられた両親やまた兄嫂あによめの菩提を吊うが死なれた人の為じゃ、え」

宗「ハイ毎度方丈様さんから御意見を伺っておりまするが、此の頃は毎晩〱兄あにさんや姉あねさんの夢ばかり見ております、昨夜ゆうべも兄さんと姉さんが私の枕元へ来まして、新吉が敵の隠家かくれがを教えて知っているに、お前が斯こう遣ってべん〲と寺にいてはならん、兄さん姉さんも草葉の蔭で成仏する事が出来ないから敵を討って浮ばして呉れろと、あり〱と枕元へ来て申しました、実に夢とは思われません、してみると兄様あにさんや姉様あねさんも迷っていると思いますから、敵を討って罪作りを致しますようでございますけれども、どうか両人ふたりの怨みを晴して遣り度とうございます」

道「それがいかん、それは貴様の念が断きれんからじゃ、平常ふだん敵を討ち度たい、兄さんは怨んではせんか、姉さんも怨んではせんか、と思う念が重なるに依って夢に見るのじゃ、それを仏書に睡眠と説いて有る、睡は現うつゝ眠はねむる汝てまいは睡ねむってばかり居るから夢に見るのじゃ、敵討の事ばかり思うているから、迷いの眠りじゃ、それを避ける処が仏の説かれた予かねていう教えじゃ、元は何も有りはせんものじゃ、真言の阿字を考えたら宜よかろう、此の寺に居て其の位な事を知らん筈は無いから諦めえ」

宗「ハイ、何どうしても諦められません、永らく御厄介に成りまして誠に相済みません、敵討を致した上は出家に成りませんでも屹度きっと御恩報じを致しますから、どうかお遣んなすって下さいまし、強たって遣って下さいませんければお寺を逃出し黙って羽生村へ帰ります」

道「いや〱そんならば無理に止めやせん、皆因縁じゃからそれも宜かろう、やるが宜かろうが、確しっかりした助太刀を頼むが宜い、先方さきは立派な剣術遣い、殊ことに同類も有ろうから」

宗「はい親父の時に奉公をしたもので、今江戸で花車という強いお相撲さんが有りますから。其の人を頼みます積りで」

道「若もし其の花車が死んでいたら何どうする、人間は老少不定ろうしょうふじょうじゃから、昨日きのう死にましたといわれたら何うする、人間の命は果敢はかないものじゃが、あゝ仕方がない、往いくなら往けじゃが、首尾好く本懐を遂げて念が断きれたらまた会いに来てくれ」

と実子のような心持で親切に申しまする。

宗「これがお別れとなるかも知れません、誠にお言葉を背きまして相済みません」

道「いや〱念が断きれんと却かえって罪障つみになる、これは小遣に遣るから持って往ゆけ」

と、三年此の方世話をしたものゆえ実子のように思いまして、和尚は遣りともながるのを、強たってというので、音助に言付け万事出立の用意が整いましたから立たせて遣り、漸ようやく五日目に羽生村へ着ちゃく致しましたが、聞けば家宅うちは空屋あきやに成ってしまい、作右衞門という老人としよりが名主役を勤めており、多助は北阪きたさかの村はずれの堤下どてしたに独身活計ひとりぐらしをしているというから遣って参り、

宗「多助さん〱、多助爺じいやア」

多「あい、なんだ坊様か、今日は些ちとべえ志が有るから、銭い呉れるから此方こっちへ這入へえんな」

宗「修行に来たんじゃアない、お前は何時いつも達者で誠に嬉しいね」

多「誰だ〱」

宗「はいお前忘れたかえ、私わしは惣吉だアね、お前の世話に成った惣右衞門の忰の惣吉だよ」

九十五

多「おい成程えかくなったねえ、まア、坊様に成ったアもんだから些ちっとも知んねえだ、能くまア来たあねえ」

と嬉し涙に泣き沈み漸々よう〱涙を拭いながら、

多「あゝ三年前にお前さまが宅うちを出て往いく時はせつなかったが、敵討だというから仕方がねえと思って出して上げたが後あとで思え出しては泣いてばかりいたが、作右衞門様の世話でもって、何どうやら斯こうやら取附いて此処こゝにいやすが、お前様を訪ねてえっても訪ねられねえだが、お母様ふくろさんは小金原で殺されてからお前様が坊様に成ったという事ア聞いたから、チョックラ往きてえと思っても出られねえので無沙汰アしやしたが、能くまア来て下せえやした、本当に見違えるような大でかく成ったね」

惣「爺じいやア、私は和尚様に願い無理に暇ひまを戴いて、兄さんや姉さんの敵が討ちたくって来たが、お父様とっさんお母様っかさんの敵は知れました」

とお熊比丘尼の懺悔をば新吉夫婦が細こまやかに聞き、遂に三人共自殺した処から、村方の者が寄集まって因果塚を建立した事までを話すと、多助も不思議の思いをなして、是から作右衞門にも相談の上敵討に出ましたが、そういう処に隠れて泥坊をしているからには同類も有ろうから、私とお前さんと江戸へ往って、花車関を頼もうと頓やがて多助と惣吉は江戸へ遣って参り、花車を便たよりて此の話を致して頼みました。此の花車という人は追々おい〱出世をして今では二段目の中央なかばまで来ているから、師匠の源氏山も出したがりませんのを、義に依よってお暇いとまを下さいまし、前に私が奉公をした主人の惣右衞門様の敵討をするのでございますからと、義に依っての頼みに、源氏山も得心して芽出度めでたく出立いたし、日を経て彼かの五助街道へ掛りましたのが十月中旬なかば過ぎた頃もう日暮れ近く空合そらあいはドンヨリと曇っておりまする。三人はトットと急いで藤ヶ谷の明神山を段々なだれに登って参りますると、樹本「樹本」はママ生茂おいしげり、昼でさえ薄暗い処殊ことには曇っておりまするから漸々よう〱足元が見えるくらい、落葉おちばの堆うずもれている上をザク〱踏みながら花車が先へ立って向むこうを見ると、破やれ果てたる社殿が有ってズーッと石の玉垣が見え、五六本の高い樹きの有る処でポッポと焚火たきびをしている様子ゆえ、彼処あすこらが隠れ家ではないかと思いながら傍わきの方を見ると、白いものが動いておりまするが、なんだか遠くで確しかと解りません。

花「多助さん確しっかりしなせえ」

多「もう参めえったかねえ、私わしはね剣術も何なんにも知んねえが此の坊様に怪我アさせ度たくねえと思うから一生懸命に遣るが、あんたア確かり遣って下せえ」

花「私わしイ神明様しんめいさんや明神様さんに誓ちかいを立てゝるから、私が殺されても構わねえが、坊様に怪我アさせ度たくねえ心持だから、お前度胸を据すえなければいかんぜ」

多「度胸据えてる心持だアけんども、ひとりでに足がブル〱顫ふるえるよ」

花「気を沈着おちつけたが好ええ」

多「気イ沈着ける心持で力ア入れて踏張ふんばれば踏張る程足イ顫えるが、何どういうもんだろう、私わしイ斯こんなに身体顫った事アねえ、四年前に瘧おこりイふるった事が有ったがね、其の時は幾ら上から布団をかけても顫ったが、丁度其の時のように身体が動くだ」

花「ハテナ、白い物が此方こっちへころがって来るようだが何なんだろう、多助さん先へ立って往きなよ」

多「冗談いっちゃアいけねえ、あの林の処とこに悪漢わるものが隠れているかも知れねえから、お前めえさん先へ往ってくんねえ」

と云いながら、やがて三人が彼かの白い物の処とこへ近附いて見ると、大杉の根元の処ところに一人の僧が素裸体すっぱだかにされて縛られていまして、傍わきの方に笠が投げ出して有ります。

九十六

花「おい多助さん」

多「え」

花「憫然かわいそうに、坊様だが泥坊に縛られて災難に逢あわしゃッたと見え素裸体だ」

多「なにしても足がふるえて困る」

花「そう顫えてはいけねえ」

と云いながら彼かの僧に近づき、

花「お前さん〱泥坊のために素裸体にされたのですか」

僧「はい、災難に逢いました、木颪きおろしまで参りまする途中でもって馬方が此道こゝが近いからと云うて此処こゝを抜けて参りますと、悪漢わるものが出ましたものじゃから、馬方は馬を放り出した儘逃げて了しまうと、私は大勢に取巻かれて衣服きものを剥はがれ、直すぐ逃がして遣ると此方こっちの勝手が悪い、己おいら達が逃げる間此処に辛抱していろと申して、私は此の木の根方へ縛り附けられ、何どうも斯こうも寒くって成りません、お前さんたちも先へ往くと大勢で剥がれるから、後あとへお返りなさい」

花「なにしろ縄を解いて上げましょう、貴僧あなたは何処どこの人だえ」

僧「有難うございます、私は藤心村の観音寺の道恩というものです」

と聞くより惣吉は打驚き駈けて参り、

惣「え、旦那様か、飛んだ目にお逢いなされました」

道「おゝ〱宗觀か、お前此の山へ敵討に来たか」

惣「はいお言葉に背いて参りました、多助や、私が御恩に成った観音寺の方丈様だよ」

多「え、それはマア飛んだ目にお逢いなせえやしたね」

道「酷ひどい事をする、人の手は折れようと儘、酷く縛って、あゝ痛い」

と両腕を摩さすりながら、

道「中々同類が多勢おおぜい居いる様子じゃから帰るが宜よい」

花「なにしても風を引くといけないから、それじゃア斯こうと、私の合羽に多助様さんお前の羽織を和尚様さまにお貸し申そう、さア和尚様、これをお着なさい、それから多助様さん此処こゝを下おりて人家のある処まで和尚様さんを送ってお上げなさい」

多「己此処まで惣吉様さんの供をして、今坊様さまを連れて山を下りては四年五年心配しんぺえ打ぶった甲斐けえがねえ」

花「惣吉様さまが永らく御厄介に成った方丈様だから連れてって上げなさいな」

多「敵も討ぶたねえで、己山を下りるという理合りえゝはねえから己おらア往かねえ、坊様に怪我アさせてはなんねえから」

花「そんな事をいわずに往っておくんなせえ」

惣「爺じいやア、どうか和尚様をお送り申してお呉れ、お前が往かなけりゃア私が送り申さなければならないのだから、往っておくれな」

多「じゃア何どうしても往くか、己此処まで来て敵も討ぶたずに後あとへ引返すのか、なんだッて此の坊様はおっ縛ちばられて居たんだナア」

とブツ〱いいながら道恩和尚の手を引いて段々山を下り、影が見えなくなると樹立こだちの間から二人の悪漢わるものが出て参り、

甲「手前てめえたちは何なんだ」

花「はい私共は安田一角先生しぇんしぇいが此方こちらにお出いでなさると聞きまして、お目にかゝり度たく出ましたもので」

乙「一角先生などという方はおいでではないワ」

花「私共はおいでの事を知って参りましたものですが、一寸お目にかゝり度とうございます」

乙「少し控えて居ろ」

と二人の悪漢は、互に顔を見合せ耳こすりして、林の中へ這入って、一角に此の由を告げると、一角は心の中うちにて、己の名を知っているのは何奴なにやつか、事に依ったら、花車が来たかも知れないと思うから、油断は致しませんで、大刀だいとうの目釘を霑しめし、遠くに様子を伺って居りますと、子分がそれへ出て、

甲「やい手前てめえは何者だ」

九十七

花「いえ私わしは花車重吉という相撲取でございますが、先生しぇんしぇいは立派なお侍さんだから、逃げ隠れはなさるまい、慥たしかに此処こゝにいなさる事を聞いて来たんだから、尋常に此の惣吉様の兄あにさんの敵と名のって下せい、討つ人は十二三の小坊主様さんだ、私は義に依って助太刀をしに参ったものだから、何十人でも相手になるから出てお呉んなせい」

といわれ、悪漢わるものどもは、あゝ予かねて先生から話のあった相撲取は此奴こいつだなと思いましたから、直すぐに一角の前へ行きまして此の事を告げました。一角も最早観念いたしておりまするから、

安「そうか、よい〱、手前達先へ出て腕前を見せてやれ」

といわれ、悪漢どもも相撲取だから力は強かろうが、剣術は知るめえから引包ひっつゝんで餓鬼諸共打ってしまえ、とまず四人ばかり其処そこへ出ましたが、怖いと見えまして、

甲「尊公そんこう先へ出ろ」

乙「尊公から先へ」

丙「相撲取だから無闇にそういう訳にもいかない、中々油断がならない、尊公から先へ」

丁「じゃア四人一緒に出よう」

と四人均ひとしく刀を抜きつれ切ってかゝる、花車は傍かたわらに在あった手頃の杉の樹きを抱えて、総身そうしんに力を入れ、ウーンと揺ゆすりました、人間が一生懸命になる時は鉄門でも破ると申すことがございます。花車は手頃の杉の樹をモリ〱〱と拗ねじり切って取直し、満面朱を灌そゝぎ、掴み殺さんず勢いにて、

花「此の野郎ども」

といいながら杉の幹を振上げた勇気に恐れ、皆近寄る事が出来ません。花車は力にまかせ杉の幹をビュウ〱振廻し、二人を叩き倒す、一人が逃げにかゝる処を飛込んで打倒ぶちたおし、一人が急いで林の中へ逃げ込みますから、跡を追って参ると、安田一角が野袴のばかまを穿き、長い大小を差し、長髪に撫で附け、片手に種ヶ島の短銃たんづゝに火縄を巻き附けたのを持って、

安「近寄れば撃ってしまうぞ、速すみやかに刀を投出して恐れ入るか、手前てめえは力が強くても此れでは仕方があるめえ」

と鼻の先へ飛道具を突き附けられ、花車はギョッとしたが、惣吉を後うしろへ囲んで前へ彼かの杉の幹を立てたなりで、

花「卑怯だ〱」

と相撲取が一生懸命に呶鳴る声だから木霊こだま致してピーンと山間やまあいに響きました。

花「手前てめえも立派な侍じゃアねえか、斬り合うとも打合うともせえ、飛道具を持つとは卑怯だ、飛道具を置いて斬合うとも打合うともせえ」

一角もうっかり引金を引く事が出来ませんから威おどしの為に花車の鼻の先へ覘ねらいを附けておりますから、何程力があっても仕様がありません、進むも退ひくも出来ず、進退谷きわまって花車は只ウーン〱と呻うなっておりまする。多助は彼かの道恩を送っていきせき帰って来ましたが、此の体ていを見て驚きましてブル〱顫えております。すると天の助たすけでございますか、時雨空しぐれぞらの癖として、今まで霽はれていたのが俄にわかにドットと車軸を流すばかりの雨に成りました。そう致しますと生茂おいしげった木葉このはに溜った雨水が固まってダラ〱と落おちて参って、一角の持っていた火縄に当って火が消えたから、一角は驚いて逃げにかゝる処を、花車は火が消えればもう百人力と、飛び込んで無茶苦茶に安田一角を打据うちすえました、これを見た悪漢わるものどもは「それ先生が」と駈出して来ましたが側へ進みません、花車は傍かたえを見向き、

花「此の野郎共傍そばへ来やアがると捻ひねり潰すぞ」

という勢いに驚いて樹立こだちの間へ逃げ込んで仕舞いました。

花「サア惣吉様さん遣ってお仕舞いなせえ、多助様さん、お前助太刀じゃアねえか確しっかりしなせえ」

惣吉は走り寄り、

惣「関取誠に有難う、此の安田一角め兄あにさん姉あねさんの敵思い知ったか」

多「此の野郎助太刀だぞ」

と惣吉と両人ふたりで無茶苦茶に突くばかり、其のうち一角の息が止ると、二人共がっかりしてペタ〱と坐って暫らくは口が利けません。花車は安田一角の髻たぶさを取り、拳を固めてポカ〱打ち、

花「よくも汝われは恩人の旦那様を斬りやアがった、お隅様さんを返討かえりうちにしやアがったな此の野郎」

といいながら鬢びんの毛を引抜きました。同類は皆ちり〲に逃げてしまったから、其の村方の名主へ訴え、名主からまたそれ〲へ訴え、だん〱取調べになると、全く兄あに姉あねの仇討かたきうちに相違ないことが分り、花車は再び江戸へ引返し、惣吉は十六歳の時に名主役となり、惣右衞門の名を相続いたし、多助を後見といたしました。花車が手玉にいたしました石へ花車と彫り附け、之を花車石と申しまして今に下総の法恩寺中ちゅうに残りおりまする。是で先まずお芽出度めでたく累ヶ淵のお話は終りました。

(拠小相英太郎速記)

底本 / Source edition

底本:「定本 圓朝全集 巻の一」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年6月10日発行
底本の親本:「圓朝全集卷の一」春陽堂
1926(大正15)年9月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。同の字点「々」と同様に用いられている二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」にかえました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼《あ》の」と「彼《あの》」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「*」は注釈記号です。その内容は底本では上部欄外に書かれています。
※表題は底本では、「真景《しんけい》累《かさね》ヶ|淵《ふち》」となっています。
入力:小林繁雄
校正:かとうかおり
2000年4月18日公開
2016年4月21日修正
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TEI
/works/000350_000989/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/000350_000989/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/000350_000989/

三遊亭 円朝「真景累ヶ淵」(新字新仮名)、底本『定本 圓朝全集 巻の一』近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫、1963年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000350_000989, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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