Soranoha

根岸お行の松 因果塚の由来

ねぎしおゆきのまつ いんがづかのゆらい

三遊亭 円朝

一

昔はお武家が大小を帯さしてお歩きなすったものですが、廃刀以来幾星霜を経たる今日に至って、お虫干の時か何かに、刀箪笥から長い刀やつを取出とりいだして、これを兵児帯へこおびへ帯して見るが、何どうも腰の骨が痛くッて堪らぬ、昔は能よくこれを帯して歩けたものだと、御自分で駭おどろくと仰しゃった方がありましたが、成程是は左様でござりましょう。なれども昔のお武家は御気象が至って堅い、孔子や孟子の口真似をいたして、頻しきりに理窟を並べて居おるという、斯こういう堅人かたじんが妹に見込まれて、大事な一人娘を預かった。お宅は下根岸しもねぎし「しもねぎし」は底本では「しもねがし」と誤記もズッと末の方で極ごく閑静な処、屋敷の周囲まわりは矮ひくい生垣になって居まして、其の外は田甫たんぼ、其の向むこうに道灌山どうかんやまが見える。折しも弥生やよいの桜時、庭前にわさきの桜花おうかは一円に咲揃い、そよ〱春風の吹く毎たびに、一二輪ずつチラリ〱と散ちって居おる処は得も云われざる風情。一ト間の裡うちには預けられたお嬢さん、心に想う人があって旦暮あけくれ忘れる暇はないけれど、堅い気象の伯父様が頑張って居いるから、思うように逢う事も出来ず、唯くよ〱と案じ煩い、……今で言えば肺病でござりますが、其の頃は癆症ろうしょうと申しました、寝衣姿ねまきすがたで、扱帯しごきを乳の辺あたりまで固く締めて、縁先まで立出たちいでました途端、プーッと吹込む一陣の風に誘われて、花弁はなびらが一輪ヒラ〱〱と舞込みましたのをお嬢さんが、斯う持った……圓朝わたくしが此様こんな手附をすると、宿無やどなしが虱しらみでも取るようで可笑おかしいが、お嬢さんは吻ほっと溜息をつき、

娘「アヽ……、何うして伊之いのさんは音信たよりをしてくれぬことか、それにつけてお母様っかさまもあんまりな、お雛様を送って下すったのは嬉しいが、私を斯ういう窮屈な家うちへ預け、もう生涯彼あの人に逢えぬことか、あゝ情なさけない、何うかして今一度逢いたいもの……」

と恨めしげに涙ぐんで、斯う庭の面おもを見詰みつめますと、生垣の外に頬被ほゝかぶりをした男が佇たゝずんで居おる様子、能々よく〱透かして見ますると、飽かぬ別れをいたしたる恋人、伊之助いのすけさんではないかと思ったから、高褄たかづまをとって庭下駄を履き、飛石伝いに段々来きたって見ると、擬まごうかたなき伊之助でござりますから、

娘「おゝ伊之さん能くまア……」

と無理に手を把とって、庭内へ引込んだ。余あんまり慌てたものだから少し膝頭を摺毀すりこわした。

娘「まア〱此方こっちへ」

手を把っておのれの居間へ引入れましたが、余あんまり嬉しいので何も言うことが出来ませぬ。伊之助の膝へ手を突いてホロリと泣いたのは真の涙で、去年こぞ別れ今年逢う身の嬉しさに先立つものはなみだなりけり。是よりいたして雨の降る夜よも風の夜も、首尾を合図にお若わかの計らい、通える数も積りつゝ、今は互たがいに棄てかねて、其の情なか漆うるし膠にかわの如くなり。良しや清水に居おるとても、離れまじとの誓いごとは、反故ほごにはせまじと現うつゝを抜かして通わせました。伊勢の海阿漕あこぎヶ浦に引く網もたび重なればあらわれにけりで、何時いつしか伯父様が気附いた。

伯父「ハテナ、何うしたのだろう、若は脹満ちょうまんか知ら」

世間を知らぬ老人は是だからいけませぬ。もうお胤たねが留とまっては隠すことは出来ない。彼あれは内から膨れて漸々だん〱前の方へ糶出せりだして来るから仕様がない。何うも変だ、様子が訝おかしいと注意をいたして居ました。すると其の夜よ八やツの鐘が鳴るを合図に、トン〱トンと雨戸を叩くものがある。お若は嬉しそうに起上って、そっと音せぬように戸を開けて引入れた。男はずっと被かむりし手拭を脱とり、小火鉢の向うへ坐した様子を見ると、何うも見覚みおぼえのある菅野すがの伊之助らしい。伯父さんは堅い方かただから、直すぐに大刀だいとうを揮ふるって躍込おどりこみ、打斬うちきろうかとは思いましたが、もう六十の坂を越した御老体、前後の御分別がありますから、じっと忍耐がまんをして夜明を待ちました。夜が明けると直すぐに塾の書生さんを走らせて鳶頭かしらを呼びにやる。何事ならんと勝五郎かつごろうは駭おどろいて飛んで来ました。

勝「ヘイ、誠に御無沙汰を…」

主人「サ、此方こっちへお這入り、久しく逢わなかったが、何時いつも貴公は壮健で宜よいノ」

勝「ヘイ、先生もお達者で何より結構でがす、何うも存じながら大おお御無沙汰をいたしやした」

主人「まア此方へお出いで、何うも忙しい処を妨げて済まぬナ」

勝「何ういたしまして、能々よく〱の御用だろうと思って飛んで来やしたが、お嬢様がお加減でもお悪いのでがすか」

主人「ヤ、其の事だテ、去年お前が若を駕籠に乗せて連れて来た時、先方から取った書付、彼あれは今だに取ってあるだろうノ、妹の縁家えんか堺屋さかいやと云う薬店やくてんへ出入でいりの菅野伊之助と云う一中節いっちゅうぶしの師匠と姪めいの若が不義をいたし、斯様かようなことが世間へ聞えてはならぬと云うので、大金を出して手を切った、尤もっとも其の時お前が仲へ這入ったのだから、何も間違はあるまいけれど、どうか当分若を預かってくれと云う手紙を持って、若同道でお前が来たから、その時私わしが妹の処へ返詞へんじを書いてやったのだ、手前方へ預あずかれば石の唐櫃かろうとへ入れたも同然と御安心下さるべく候そろと書いてやった」

勝「ヘイ〱成程」

主人「何なんでも伊之助と手を切る時、お前の扱いで二百両とか三百両とか先方へやったそうだナ」

勝「エ、左様で、三百両確かにやりました」

主人「其の伊之助がもしも若の許もとへ来て逢引でもする様な事があったら貴様済むまいナ」

勝「そりゃア何うも先生の前めえでげすが、アヽやってお嬢さんもぶらぶら塩梅あんべえが悪くッてお在いでなさるし、何うかお気の紛れるようにと思って、私わっしア身許みもとから知ってる堅かてえ芸人でげすから、私が勧めて堺屋のお店たなへ出入でいりをするようになると、あんな優しい男だもんだから、皆さんにも可愛かあいがられ、お内儀かみさんも飛んだ良い人間だと誉めて居らしったから、お世話効がいがあったと思って居ました、処がアヽ云う訳になったもんですから、お内儀さんが、此金これで堺屋の閾しきいを跨またがせない様にして呉れと仰しゃって、金子かねをお出しなすったから、ナニ金子なんざア要りませぬ、私が行ゆくなと云えば上あがる気遣いはごぜえませんと云うのに、何なんでもと仰しゃるから、金子を請取うけとって伊之助に渡し、因果を含めて証文を取り、お嬢さんのお供をしてお宅へ出ましたッ切きりで、何うも大きに御無沙汰になってますので」

主人「ナニ無沙汰の事は何うでも宜よい、が、其の大金を取って横山町よこやまちょうの横と云う字にも足は踏掛ふんがけまいと誓った伊之助が、若の許へ来て逢引をしては済むまいナ」

勝「ヘエー、だッて来る訳がねえので」

主人「処が昨夜ゆうべ己おれが確たしかに認めた、余り憎い奴だから、一思いに打斬ぶちきろうかと思ったけれど、イヤ〱仲に勝五郎が這入って居るのに、貴様に無断で伊之助を、無暗むやみに己が打ぶつも縛るも出来ぬから、そこで貴様を呼びにやったんだ、だから其処そこで立派に申開もうしひらきをしろ」

勝「ヘエー、それは何うも済まねえ訳で、本当に何うも見損った奴で」

主人「まア己の方で見ると、貴様は金子かねを伊之助にやりはすまい、好よい加減な事を云って金子を取って使っちまったろうと疑られても仕様がないじゃアないか、店たなの主人あるじは女の事だから」

勝「エ、御尤もで、じゃア私わっしは是から直すぐに行って参ります、申訳がありませぬから、あの野郎、本当に何うも戯ふざけやアがって、引張って来て横ずっ頬ぽうを撲飛はりとばして、屹度きっと申訳をいたします」

其の儘戸外おもてへ飛出して直に腕車くるま「くるま」は底本では「くまる」と誤記に乗り、ガラ〱ガラ〱と両国元柳橋もとやなぎばしへ来まして、

勝「師匠、在宅うちか」

伊「おや、さお這入んなさい」

勝「冗談じゃアねえぜ、生空なまぞらア使って、悠々とお前めえ此処こゝに坐って居られる義理か」

伊「え、何なんで」

勝「何なにもねえ、え、おい、本当に己はお前めえのために、何様どんなにか面皮めんぴを欠いたか知れやアしねえ、折角己が親切に世話アしてやった結構なお店たなを、お嬢さんゆえにしくじって仕まい、其の時お内儀さんが此金これをと云って下すったから、ソックリお前の許とこへ持もって来てやったら、お前が気の毒がって、以来はモウ横山町の横と云う字にも足は踏かけめえと云って、書付まで出して置きながら、何なんで根岸くんだりまで出かけて行ゆくんだよ」

伊「え、誰がお嬢さんに逢ったんです」

勝「とぼけるなイ、お前めえが行ったんじゃアねえか」

伊「まアあなた、そう腹立紛れに、人の言う事ばかり聴いてお出いでなすっちゃア困りますナ、まア行ったなら行ったになりましょうが……」

勝「昨夜ゆうべお前めえは、既すんでに捕捉とっつかまって、ポカリとやられちまう処だッたんだ、以前もとはお武家さむらいで、剣術やっとうの先生だから、処がモウ年を取ってお在いでなさるから、忍耐がまんをして今朝己を呼びによこしたんだが、何うしたッて己が何なんとも言訳がねえじゃアねえか」

伊「マヽ行ったと仰しゃるなら行ったにもなりましょうが、昨夜は何うしても行けませぬ、其の証人は貴方です」

勝「己が……何ういう」

伊「何うだッて、日暮方から来て、川長かわちょうへでも行ってお飯まんまを喰いに一緒に行ゆけと仰しゃるから、お供をしてお飯を戴き、あれから腕車くるまを雇ってガラ〱〱と仲へ行って、山口巴やまぐちどもえのお鹽しおの許とこへ上あがって、大層お浮れなすって、伊之や〱と仰しゃって少しもお前さんの側を離れず夜通し居た私が、何うして根岸まで行ゆける訳がないじゃアありませぬか」

勝「ウム、違ちげえねえ、側に居たなア、何を云やアがるんで、耄碌もうろくウしてえるんだ、あん畜生ちきしょう、ま師匠腹を立たっちゃア往いけねえヨ、己「己」は底本では「已」と誤記は遂つい慌あわてるもんだから凹へこまされたんだ、己がお前めえに渡す金を取って使ったろうと吐ぬかしやアがった、ヘン、憚はゞかりながら己だッて五百両や六百両、他人ひとの金子かねを預かることもあるが、三文だッて手を着けたことはありゃアしねえ、其様そんな事は大嫌でえきれえな人間なんだ、ちょいと行って来らア、少し待って居ねえ」

また腕車くるまを急がせて根岸のはずれまで引返ひっかえして来た。

勝「ヘイ唯今」

主人「イヤ、大きに御苦労、何うだ伊之助は居たか」

勝「エヽ先生は昨夜ゆうべ伊之が此方こちらへ来たと仰しゃいますが、昨夜じゃアありますめえ」

主人「ナニ、昨夜確たしかに見たから、今朝貴様の許とこへ人をやったんだ」

勝「ヘエー、昨夜なら何うしても来る訳がねえので」

主人「何故なぜ」

勝「何故ったッて、何うも誠に先生の前めえでは、些ちっときまりの悪い話でげすが、実は彼奴あいつを連れて吉原なかへ遊びに行ったんでげすから、何うしても此方こちらへ来る筈がごぜえませんので」

主人「ウム、それなれば何故、最初己が尋ねた時に爾そう云わぬのじゃ」

勝「ヘイ、何うもそれがあわてちまいましたもんだから、誠に何うも面目次第もない訳で」

主人「吉原よしわらへ行ったと云うのか」

勝「ヘイ」

主人「宵から行ったか」

勝「ヘイ」

主人「それじゃア、まだ貴様欺だまされて居るのじゃ、吉原の引ひけと云うのは十二時であろう」

勝「左様、一時から二時ぐらいが大引おおびけなんで」

主人「其の時に貴様を寝こかして置いて、自分は用達ようたしに行ゆくとか何なんとか云って、スーッと腕車くるまに乗って来て夜明まで十分若に逢って帰れるじゃアないか、貴様は伊之助に寝こかしにされたことを知らぬか」

勝「エ、寝こかし、成程、アン畜生ちきしょう」

主人「吉原と根岸では道程みちのりも僅わずかだろう」

勝「左様、何うもあの野郎、太ふてえ畜生だ、今直じきに腕をおっぺしょって来ます」

又出かけて来た。

勝「師匠、在宅うちか」

伊「先刻さっきの事は冗談でしたろう」

勝「ナニ冗談も糞もあるもんか、え、おい、お前めえ吉原から根岸まで道程は僅だぜ、何なんでえ、白しらばっくれやアがって、人を寝こかしに仕やアがって、行きやアがったんだろう、枕許へ来てお寝やすみなせえとか何なんとか云やアがって」

伊「ウフヽヽ寝こかしにも何なににも極りを云って居らっしゃる、昨夜ゆうべは些ちっとも寝やアしないじゃありませんか、あなたが皺枯声しわがれごえで一中節を唸うなって、衣洗きぬあらいから、童子対面までやった時には、皆みんなが欠伸あくびをしましたよ、本当に可愛かあいそうに、酷ひどいじゃアありませぬか」

勝「ウム成程、寝ねえナ」

伊「それから夜が明けると朝湯に這入って腕車くるまで宅たくへ帰る間もなくお前さんが来たんですよ」

勝「成程、何を云やアがるんだ、あん畜生ちきしょう、ま師匠、堪忍して呉んな、己おらア一寸ちょっと行って来くらア」

又慌てゝやって来た。

勝「ヘイ先生行って来ました」

主人「何うした」

勝「何うにも斯うにも、何うあっても昨夜ゆうべは来こねえてんです、彼奴あいつも私わっしも昨夜は些ちっとも寝ねえんですもの、ガラリ夜が明ける、家うちへ帰けえるとお人だから、直すぐに来やしたんで」

主人「エー、徹夜をした、ウヽム、私わしも老眼ゆえ見損いと云うこともあり、又世間には肖にた者もないと限らねえ、見違いかも知れぬから、今夜貴様私の許とこへ泊って、若に内証ないしょで、様子を見て呉れぬか」

勝「じゃアそう為しましょう」

と其の夜は根岸の家うちへ泊込み、酒肴さけさかなで御馳走になり大酩酊おおめいていをいたして褥とこに就くが早いかグウクウと高鼾たかいびきで寝込んで了しまいました。夜よは深々しん〱と更渡ふけわたり、八ツの鐘がボーンと響く途端に、主人あるじが勝五郎を揺起ゆりおこしました。

主人「オイ、勝五郎〱」

勝「ヘイ、ハアー、ヘイ〱、アー、お早う」

主人「まだ夜半よなかだヨ、サ此方こっちへ来なさい」

と廊下づたいに参り、襖ふすまの建附たてつけへ小柄こづかを入れて、ギュッと逆に捻ねじると、建具屋さんが上手であったものと見えて、すうと開あいた。

主人「サあれだ」

勝「ヘイ」

と睡ねむい目をこすりながら勝五郎は覗いて見ますと、火鉢を中に差向に坐って居るは伊之助に相違ないから、

勝「アヽ何うも誠に済みませぬ、慥たしかに伊之の野郎に違ちげえごぜえませぬ」

主人「それ見ろ、然しかるに何なんで昨夜ゆうべは来る筈がないと申した」

勝「イエ、昨夜は何うしても来る訳がごぜえませんので」

主人「今夜のは確たしかに伊之助に相違ないナ」

勝「ヘイ、伊之の野郎で」

主人「それが間違うと大事おおごとになるぞよ」

勝「イエ、何様どんな事があっても、よ宜しゅうごぜえます」

主人「ウム宜よし」

ソッと抜足ぬきあしをして自分の居間へ戻り、六連発銃を持来もちきたり、襖の間から斯こう狙いを附けたから勝五郎は恟びっくりして、

勝「まゝ先生乱暴な事をなすっちゃアいけませぬ、伊之の野郎は打殺ぶちころしても構やアしませぬが、もしもお嬢さんにお怪我でもありましては済みませぬから」

主人「イヽヤ気遣いない」

伯父の高根たかねの晋齋しんさいは、片手に六連発銃を持ち襖の間から狙いを定め、カチリと弾金ひきがねを引く途端、ドーンと弾丸たまがはじき出る、キャー、ウーンと娘は気絶をした様子。

晋「ソレ若が気絶をした、早く〱」

此の物音に駭おどろいて、門弟衆がドヤ〱と来きたり、

○「先生何事でござります、狼藉者でも乱入致しましたか」

晋「コレ〱静しずかにいたせ〱、兎も角早う若を次の間へ連れて行ゆき、介抱いたして遣つかわせ」

是から灯火あかりを点けて見ると恟びっくりしました。其処そこに倒れて居たのは幾百年と星霜を経ましたる古狸であった。お若が伊之助を恋しい恋しいと慕うて居た情じょうを悟り、古狸が伊之助の姿に化けお若を誑たぶらかしたものと見えまする。併しかし斯かような事が世間へ知れてはならぬとあって、庭の小高い処へ狸の死骸を埋うずめて了しまったという。さりながら娘お若が懐妊して居る様子であるから、

晋「アヽとんだ事になった、畜生の胤たねを宿すなんテ」

と心配をして居るうちに、十月とつき経っても産気附かず、十二ヶ月つき目に生れましたのが、珠たまのような男の児こ、続いて後あとから女の児が生れました。其の後のち悪因縁の夤まつわる処か、同胞きょうだいにて夫婦になるという、根岸の因果塚のお物語でござりまする。

二

何事も究理のつんで居ります明治の今日、離魂病りこんびょうなんかてえ病気があるもんか、篦棒べらぼうくせえこたア言わねえもんだ、大方支那の小説でも拾読ひろいよみしアがッて、高慢らしい顔しアがるんだろう、と仰しゃるお客様もありましょうが、中々もって左様そういうわけではございません。早い譬たとえが幽霊でございます、私わたくしなどが考えましても何うしても有るべき道理がないと存じます。先まず当今のところでは誰方どなたでも之には御賛成遊ばすだろうと存じますが、扨さてこゝでございます、お客様方も御承知で居らせられる幽霊博士はかせ……では恐れ入りまするが、あの井上圓了いのうええんりょう先生でございます。この先生の仰しゃるには幽霊というものは必ず無い物でない、世の中には理外に理のあるもので、それを研究するのが哲学の蘊奥うんおうだとやら申されますそうでございます、そうして見ると離魂病と申し人間の身体が二個ふたつになって、そして別々に思い〱の事が出来るというような不思議な病気も一概にないとは申されません、斯こういう誠に便利な病気には私わたくしどもは是非一度罹かゝりとうございます、まア考えて御覧遊ばせ、一人の私が遊んで居りまして、もう一人の私がせッせと稼いで居りますれば、まア米櫃こめびつの心配はないようなもので、誠に結構な訳なんですが、何うも左様そうは問屋といやで卸してはくれず致し方がございません。

さてお若でございますが、恋こがれている伊之助が尋ねて来たので、伯父晋齋の目を掠かすめ危うい逢瀬に密会を遂げ、懐妊までした男は真実まことの伊之助でなく、見るも怖しき狸でありましたから、身の淫奔いたずらを悔いて唯々たゞ〱歎なげきに月日を送り、十二ヶ月目で産みおとしたは世間でいう畜生腹。男と女の双児ふたごでございますので、いよ〱其の身の因果と諦め、浮世のことはプッヽリ思い切って仕舞いました。伯父もお若の様子を見て可愛そうでなりませんが、何うも仕様がないので困り切って居ります。何なんぼ狸の胤だからッて人間に生れて来た二人に名を付けずにも置かれぬから、男は伊之吉いのきち女はお米よねと名を付ける事になりました。茲こゝに一つ不思議なことには伊之吉お米で、双児というものは身体の好格かっこうから顔立までが似ているものだそうで、他人の空似とか申して能く似ているものを見ると、あゝ彼あの人は双児のようだと申しますから、真物ほんものの双児は似る筈ではございますが、男と女のお印が違っているばかり、一寸ちょっと見ると何方どちらが何方かさっぱり分りかねるくらい、瓜二つとは斯こういうのを云うだろうと思われ、其の上両児ふたりとも左の眼尻にぽッつり黒痣ほくろが寸分違わぬ所にあります。これが泣き黒痣という奴で、この黒痣があるものは何うも末が好よくないと仰しゃる方もあり、親が子の行末を案じるは人情左様そうありそうな事で、お若はそんなこんなで大層両児ふたりを可愛がりますから、伯父の晋齋はます〱心を痛め、或日あるひお若が前に来て、

晋「赤児あかは何うしたね」

若「はい、今すや〱寝つきましたよ、伯父さん本当ほんとに妙ですことねえ、この児達は、泣き出すと両児一緒に泣きますし、また斯うやって寝るときもおんなしように寝るんですもの、双児てえものア斯ういうもんでしょうか、私ゃ不思議でならないんですわ」

晋「そうさな、己も双児を手にかけたこともなし、人から聞いたこともないから知らないよハヽヽヽヽ、赤児あかが寝ているこそ丁度幸いだ、今日はお前に些ちっと相談することがあるがの、それも外のことじゃアない矢ッ張赤児の事に就ついてな、此様こんな事を云ったら己を薄情なものと思うだろうが、決して悪くとられちゃア困るよ、それもこれもお前の為を思うから云うのだからね」

若「ハイ、何うしまして飛とんでもない心得違いから、いろ〱伯父様さんに御苦労をかけ、ほんとに申し訳がないんですわ、それに私の為を思って仰しゃることを何なんでまア悪く思うなんッて」

晋「イヤお前が左様そう思ってゝ呉れゝば己も安心というものだがの、斯こう云ったら心持が悪かろうが、その赤児だッて……、あの通りな訳で生れたもので見れば、何うもお前の手で育てさせては為になるまいし、今一時いっときは可愛そうな気もしようが、却かえって他人の手に育つが子供等らの為にもなろうと思われるよ、仮令よし何様どんな訳で出来たからってお前の子に違いないものだから、手放して他人ひとに遣やるは人情として仕悪しにくかろう、それは己も能よく察してはいるが……、此の子供等が独り遊びでもするようになって見な、直すぐ世間の人に後指さゝれて何なんと云われるだろうか、其の時のお前が心持は何うだろう、お前ばかりじゃないよ、お父様とっさんお母様っかさんをはじめ縁に繋がるこの己までが世間の口にかゝらんけりゃならんのだ、さア其の苦くるしみをするよりは今のうち……な、それにお前とて若い身そら、是なり朽ちて仕舞うにも及ばない、江戸は広いところだから、今度の噂も知らないものが九分九厘あるよ、ナニ決して心配する事はないからね」

と晋齋がシンミリとした意見に、お若は我身に過あやまりのあることですから、何なんとも返答することが出来ません。只ジッと差し俯伏うつむいて思案にくれて居ります。伯父の晋齋はお若が挨拶をしないのは不得心であるのか知らんと思われる処から、

晋「お若、何うだね、得心が行かぬ様子だが、己はお前の身の為また子供等の為を思うから云うんだよ、能く考えて御覧、決して無理を云って困らせようなんかッて云うんじゃないから……」

若「何うしまして決して其様そんなこたア思やしません、そりゃ最もう伯父様さんの仰しゃる通り……」

と云い掛けてほろりと涙をこぼしましたが、晋齋に覚さとられまいと思いますので、俄にわかに一層下を向きますと、頬のあたりまで半襟に隠れ、襟足の通った真白まっしろな頸筋はずッと表われました。お若の胸中を察し晋齋も不愍ふびんには思いますが、ぐず〱に済しておいては為になりませんことですから、眼をパチクリ〱致しながら、少しく膝を進ませました。

世の中に何が辛いって義理ほど辛いものはないんで、我が身を思い生れた子供のことを心配してくれる伯父の親切を察しては、それでも私は斯うしたいの彼あゝしたいのと、勝手な熱を吹くことは出来ませんから、お若も是非がない、義理にせめられて、

若「何うか伯父様さんの好よいようにして下さいませ、こんなに御苦労かけましたんですから……」

と申して居るうち潤うるみ声になって参ります。晋齋もお若が何なんというであろうか、若もしや恩愛の絆にからまれてダヾを捏こねはせまいかと心配致し、ジッと顔をながめ挙動ようすをうかゞって居りましたが、伯父様のよいようにと思い切った模様ですから、まアよかった得心して呉れて、と胸を撫で、

晋「あゝそれがいゝよ、己に任しておきな、悪いようにはしないからね、お前が左様そう諦めてくれゝば結構な訳というもんで……、実はな、大阪の商人あきんどで越前屋佐兵衞えちぜんやさへえさんてえのが、御夫婦連で江戸見物に来ていなさるそうでの、何なんでも馬喰町ばくろちょうに泊ってると聞いたよ、この方がの最もう四十の坂を越えなすったそうだが、まだ子供が一人もないから、何うか好いい女の児こがあったら貰って帰りたいと探していなさるそうだよ、大阪あっちで越佐えつささんと云っては大した御身代で在いらっしゃるんだからね、土地で貰おうと仰おっしゃれば、網の目から手の出るほど呉れ人てはあるがの、佐兵衞さんてえのは江戸の生れなんで、越前屋へ養子にへえッた方だから、生れ故郷が恋しいッてえところでの、江戸から子供を貰って帰ろうと仰しゃるんだとさ、それにお内儀かみさんというのも飛んだ気の優しい方だと云うことだから、米もそんなとこへ貰われて行けば僥倖しあわせというもんだろうと思われるし、世話するものがお前もよく知っているあの鳶頭かしらだからの、周旋口なこうどぐちをきいてお弁茶羅べんちゃらで瞞ごまかす男でもないよ、勝五郎も随分そゝっかしい事はあの通りだが、今度のことア珍しく念を入れて聞いてきたよ、あゝ、そりゃ間違いはないよ、こんな口は又とないからの、お前さえよくば直ぐ話しをさせて、貰って頂こうと思うんだがね」

若「はい、伯父様さえよいと思召したら、何うかよいように遊ばして……」

晋「よし〱、それでは承知だね、ナニ心配することはないよ」

と晋齋は直ぐ勝五郎を呼びに遣りました。さて鳶頭の勝五郎でございますが、今町内の折れ口から帰って如輪目じょりんもくの長火鉢の前にドッカリ胡坐あぐらをかき、煙草吸っているところへ、高根のおさんどんが、

婢「鳶頭お在いでですか、旦那様が急御用があるんだから直ぐ来ておくんなさいッて……」

勝「何うも御苦労さま、直ぐ参めえりやす、お鍋どんまア好いいじゃねえか、お茶でも飲んでいきねえな、敵かたきの家うちへ来ても口は濡らすもんだわな、そんなに逃げてく事アねえや、己おいら口説くどきアしねえからよ」

女「お鍋さんまアお掛けなさいな、今丁度お煮花にばなを入れたとこですから、好いじゃありませんかねえ、お使いが遅いなんかと仰ゃる家うちじゃアなしさ、お小言が出りゃア良人うちのひとからお詫させまさアね、ホヽヽヽヽ、まア緩ゆっくりお茶でも召上って入いらっしゃいってえば、そうですか、未だお使つかいがおあんなさるの、それじゃアお止め申しては却って御迷惑、またその中うちにお遊びにおいでなさいよ、その時ア御馳走しますからね、左様さよなら何うもおそうそさまで、何うか旦那様へもよろしく、何うも御苦労さまで」

とお出入先の女中と思えば女房までがチヤホヤ致し、勝五郎は早々支度をしまして根岸へやって参り、高根晋齋の勝手口から小腰をかゞめ、つッと這入ろうとしましたが、突掛草履つッかけぞうりでパタ〱と急いで参ったんですから、紺足袋も股引の下の方もカラ真ッ白に塵埃ほこりがたかッております。無遠慮むえんりょな男でございますが、この塵埃を見ますとまさかに其の儘にも這入りかねましたと見え、腰にはさんでおります手拭でポン〱とはたき。

勝「エー、只今はお使を下せえまして」

婢「鳶頭旦那様がお待ちかねですから、さアお上りなさい、お奥の離座敷はなれに在いらっしゃるんですよ」

とお爨さんどんが案内に連れられ、奥へ参りますと、晋齋は四畳半の茶座敷で庭をながめて、勝五郎の参るのを待って入っしゃるところでございますから、

晋「おゝ鳶頭か、よく早速来てくれたね」

勝「只今はわざ〱のお使で、直ぐ飛んでめえりやした、ヘイ〱〱、何なんか急御用が出来たんでげすか、また伊之の野郎が参めえったんじゃアげえすめえな」

晋「ハヽヽヽヽ気の早い男だな、左様そう来られて堪るものか、昨日きのうお出いでのときにお話であった事で、些ちっとお頼み申したいから急に呼びに上げたのだよ」

勝「ヘイ、じゃ何なんですか、昨日私わっちがお話し仕しやした一件……、ヘヽヽヽヽ憚はゞかりながら先生、左様そう申すと口巾くちはゞッてえ言草いいぐさでげすが、ごろッちゃらして居アがる野郎の二三人引摺ひきずって来りゃア訳のねえことでさア、宜うごす、明日あすアポン〱と打壊ぶっこわしやしょう」

晋「おい〱お前は何を言ってるんだよ、私わしは何処どこも壊してくれなんかッてえ事言いいやしない」

勝「いけねえや、先生、昨日仰ゃったあの狸の伊之をドーンとお遣やんなすったお座敷を毀こわすんでげしょう、あんな事のあったお座敷は居心が良くねえから、ナニ外の仕事は何うでも押ッ付けてえて遣っ付けまさア」

晋「困るな早呑込みをしては、左様そうじゃないのだよ、あの座敷も建直すことは建直すがの、それより先に始末を付けなくてはならないものがあるんだ」

勝「ヘー、違ちげえましたか、ヘー」

晋「そら大阪の方で子供を貰おうと仰ゃる方な」

勝「ウムヽヽヽヽ、違えねえあの一件か、良うがすとも大丈夫でえじょうぶでげす、御心配ごしんぺえなせえますな、ナニ訳アねえや直ぐ」

晋「まア待ってくんな、其様そんなに慌てなくても宜よい」

おいそれ者の勝五郎が飛出そうとするを引止め、高根の晋齋は懇々こん〱と依頼しました。そこで鳶頭も先生様があゝ云って、己おいらのようなものにお頼みなさるんだから、早く両児ふたりを片付けて上げようと存じまする親切で、直ぐ越佐さんの方へ参りまして斡旋とりもちを致すと、先方さきでも子供が欲ほしいと思ってるところなんでございますから、相談は直ぐに纒まとまりまして、お米は越佐の養女に貰われ、夫婦も大層喜び、乳母をかゝえるなど大騒ぎでございます。さてこれで女の方は片付いたがまだ一人いるんで、勝五郎は逢う人ごとに子供はいらねえかと云ってますんで、口の悪い友達なんかは、

○「オイ勝ウ、手前てめえな、そんなに子供々々と己達おれだちにいうより、好いいことがあらア」

勝「なんだ、誰か貰ってくれるんか……」

○「うんにゃア、逆上のぼせていやがるなア此奴こいつは余っぽど、そんなに荷厄介するならよ、捨うっちゃって仕舞やア一番世話なしだぜ、ハヽヽヽヽ」

勝「こん畜生ちきしょう、手前てめえのような野郎が捨児すてごをするんだ、薄情の頭抜ずぬけッてえば」

○「勝さん怒おこったって仕方がねえや、それじゃアお前めえ売って歩きねえな、江戸は広ひれえとこだ、買人かいてがあるかも知れねえ、子供やこども、子供はよろしゅうございッて」

勝「こいつが又馬鹿を吐こきやがる、最もう承知がならねえ、野郎何うするか見アがれッ」

と拳をふり上げますから、傍そばにいるものも笑って見てもいられません。

△「まア何うしたんだ、勝も余あんまり大人気ねえじゃねえか、熊の悪口わるくちは知ッてながら、廃よせッてえば、下くだらねえ喧嘩するが外見みえじゃアあるめえ」

と仲裁をする騒ぎでございます。勝五郎は友達が笑いものになるまでに熱心になって、何うか晋齋の依頼たのみを果そうと心懸けて居りまする。すると深川の森下に大芳だいよしと申して、大層巾のきく大工の棟梁がございますが、仲間うちでは芳太郎よしたろうと云うものはない。深川の天神様で通っている男で頗すこぶる変人でげす。何事でも芸に秀でて名人上手と云われるものは何うも変人が多いようで、それも決して無理のない訳だろうと思われるんでございます。私わたくしどもが浅慮あさはかな考えから思って見ますると、早い例たとえが、我々どもでも何か考えごとをして居りますときは、側で他人様ひとさまから話を仕掛けられましても精神が外ほかへ走はせて居りますので、その話が判然はっきり聞とれませんと申すようなもの、そこで御挨拶がトンチンカンとなる。そうすると彼奴あいつまだ年も若いに耄碌もうろくしやがッたな、若耄碌なんかと仰ゃるような次第でげす。一寸ちょっといたしたことが之これでございますから、物の上手とか名人とか立てられる人は必ずその技芸に熱心していろ〱の工夫を凝らしているもので、技芸に精神を奪われていますから、他ほかの事にはお留守になるがこりゃ当然あたりまえの道理でござりましょうかと存じます。それで物事に茫然ぼんやりするように見えるんで、そこで変人様の名も起る訳であろうかと推量もいたされるでげす。大芳棟梁も矢張やはりこの名人上手の中うちに数えらるゝ人ですから、何うも一風流変っておりますが、仕事にかけたら何どんな大工さんが鯱鉾立しゃちほこだちして張り合っても叶かないません。今では人呼んで今甚五郎と申す位の腕前でございます。それほどのお人ですから弟子は申すまでもなく多くある。何処どこの棟梁手合でも大芳といえば一目もくも二目もおいているほどで、江戸中の大工さんで此家こゝへ来ないものはない。そんなに持囃もてはやされて居りますが大芳さん少しも高慢な顔をしない。どんな叩き大工が来ても、棟梁株のいゝ人達てあいが来てもおんなしように扱っているんで、中には勃然むっとする者もありますが、下廻りのものは自分達を丁寧にしてくれる嬉しさからワイ〱囃しています。この人の女房は、柳橋やなぎばしで左褄ひだりづまとったおしゅんという婀娜物あだものではあるが、今はすっかり世帯染しょたいじみた小意気な姐御あねごで、その上心掛の至極いゝ質たちで、弟子や出入ではいるものに目をかけますから誰も悪くいうものがない。一家まことに睦むつましく暮していますが、子供というものが一人もないにおしゅんは大層淋しがって居おるんで、大芳さんも好児いゝこがあったら貰って育てるが宜いいと云ってる。或日でござります。大芳棟梁の弟子達が寄って頻しきりに勝五郎の噂をしているのを姐御のおしゅんがちらりときいて、鳶頭の勝さんなら此家こちらへも来る人、そゝっかしい人ではあるが正直な面白い男、そんな人が肩を入れてる子供なら万更なことはあるまいと思いますので、大芳さんに此の事をはなすと、

大「お前めえが好いいと思ったら貰いねえな、何うせ己おいらが世話するんじゃねえから」

と云うんで、おしゅんは直ぐ弟子を勝五郎の家うちへ迎えにやる。勝五郎は深川へ来て話をきくと雀躍こおどりして喜び、伊之吉もまた大芳のとこへ貰われて来ましたが、実に可愛かあいらしい好児いゝこでげすから、おしゅんさんは些ちっとも膝を下おろしません。それ乳の粉こだの水飴だのと云って育てゝ居ります。伊之吉もいつか大芳夫婦に馴染んで片言交りにお話しをするようになって、夫婦はいよ〱可愛くなりますが人情でござります。只ただ伊之や〱とから最もう「最う」は底本では「最も」と誤記気狂きちがいのようで、実の親でもなか〱斯うは参らぬもので、伊之吉はまことに僥倖しあわせものでげす。高根晋齋は勝五郎の世話で両児ふたりを漸ようよう片附けましたから、是れよりお若の身を落付けるようにして遣ろうと心配いたして、彼方此方あっちこっちへ縁談を頼んでおきますと、江戸は広いとこでげすから、お若が狸の伊之と怪しいことのあったを知らずに、嫁に貰おうと申すものが網の目から手の出る程でございますが、当人のお若は何うあってもお嫁に行ゆくは嫌だと申し、いっかな受けひきません。晋齋もいろ〱勧めて見ますが何うも承知しないんであぐねております。するとお若は世を味気あじきなく思いましたやら、房々ふさ〱した丈たけの黒髪根元からプッヽリ惜気おしげもなく切って仕舞いました。

三

我身わがみの因果を歎かこち、黒髪をたち切って、生涯を尼法師で暮す心を示したお若の胸中を察します伯父は、一層に不愍ふびんが増して参り、あゝ可愛そうだ、まだ裏若い身であんなにまで恥ているは……あゝこれも因縁ずくだ、前さきの世からの約束ごとだから仕方がない、と晋齋もお若のするが儘にさせておきました。その年も何時いつしか暮れて、また来る春に草木くさきも萌もえ出いだしまする弥生やよい、世間では上野の花が咲いたの向島が芽ぐんで来たのと徐々そろ〱騒がしくなって参りまする。何うもこの花の頃になりますと人間の心が浮いて来るもので、兎角に間違の起る根ざしは春にあるそうでございます。殊に色事の出入でいりが夏の始めから秋口にかけて多いのは、矢ッ張り春まいた種が芽をふき葉を出して到頭世間へパッとするのでもござりましょうか。能く気を注つけて御覧遊ばせ。まア左様そうした順に参っております。これは私わたくしが一箇いっこの考えではござりません、統計学をお遣り遊ばした御仁は熟よく知ってお出いでなさる事で、何も珍しい説でも何なんでもないんでございます、と申すと私も大層学者らしい口吻くちぶりでげすが、実は何うもはやお恥かしい訳なんで、みんな御贔屓の旦那方から教えて頂く耳学問、附焼刄でげすから時々化ばけの皮が剥はげてな、とんだ面目玉を踏みつぶすことが御座いまする、ハヽヽヽヽ。扨さて世捨人になったお若さんでげすが、伯父の晋齋に頼みまして西念寺さいねんじの傍わきに庵室とでも申すような、膝を容いれるばかりな小家こいえを借り、此処こゝへ独りで住んで行いすまして居りまする。尤も伯父の家うちは直じき近くでございますから、晋齋も毎日見廻ってくれるし、三食とも運んでくれるので自分で煮炊にたきするにも及ばない、唯仏壇に向ってその身の懺悔のみいたして日を送っております。花で人が浮れても、お若は面白いこともなくて毎日勤行を怠らず後世ごせ安楽を祈っているので、近所ではお若の尼が殊勝けなげなのを感心して、中にはその美しい顔に野心を抱いだき、あれを還俗げんぞくさせて島田に結ゆわせたなら何様どんなであろう、なんかと碌でもない考えを起すものなどもござりました。丁度お若さんがこの庵いおりに籠こもる様になった頃より、毎日々々チャンと時間を極きめて廻って来る門付かどづけの物貰いがございまして、衣服なりも余り見苦しくはなく、洗いざらし物ではありますが双子ふたこの着物におんなし羽織を引掛ひっかけ、紺足袋に麻裏草履をはいております、顔は手拭で頬冠ほゝかぶりをした上へ編笠をかぶッてますから能くは見えませんが、何なんでも美男いゝおとこだという評判が立ちますと、浮気ッぽい女なんかはあつかましくも編笠のうちを覗のぞき、ワイ〱という噂が次第に高くなって参り、顔を見ようというあだじけない心からお鳥目を呉れる婦人が多いので、根岸へ来れば相応に貰いがあるから、それで毎日此方こっちへ遣って参るというような訳になる。物貰とは申しますが、この美男はソッと人の門口に立ってお手元は御面倒さまなどとは云わないんで、お鳥目を貰う道具がござります。それは別に新発明の舶来機械でもなんでもないんで、唯一挺の三味線と咽喉のどを資本もとの門付という物貰いでございますが、昔は門付と申すとまア新内しんないに限ったように云いますし、また新内が一等いゝようでげすが、此の男の謡うたって来るものは門付には誠に移りの悪い一中節ですから、裏店うらだな小店こだなの神さん達が耳を喜ばせることはとても出来ませんが、美男と申すので惣菜そうざいのお銭あしをはしけて門付に施すという、とんだ不了簡な山の神なんかゞ出来て、井戸端の集会にも門付の噂が出ないことがないくらい。斯ういう不心得な女が多く姦通まおとこなんかという道ならぬことを致すのでございましょう。一中節の門付はそんなことには些ちっとも頓着とんじゃくはしませんで、時間を違ちがえず毎日廻ってまいり、お若さんの閉籠とじこもっている草庵そうあんの前に立って三味線弾くこともありますが、或日の事でございました、お若さんが生垣のうちで掃除をして居りますと、件くだんの門付は三味線を抱えて例いつもの通り遣って参り、不審そうに垣の内をのぞきこんで、頻しきりと首をかたげて思案をいたして居りましたが、また伸上って一生懸命に見ています。此方こちらのお若はそんな事は少しも知りませんで、セッセと掃除を了おわり、ごみを塵取りに盛りながら、通りの賑にぎやかなのに気が注ついてフイト顧盻みかえりますと、此の頃美男びなんと評判のはげしい一中節の門付が我を忘れて見ておりますから、尼さんにこそ成っていますものゝ未だ年も若く、修業の積んだ身というでもありませんから、パッと顔に紅葉もみじを散らし匇々そう〱庵室に逃げこみました。左様そうすると門付も立去ったらしく三味線の音色が遠く聞えるようになりましたんで、お若の尼はドキン〱とうつ動悸どうきがやっと鎮まるにつけても、胸に手をおき考えれば考えるほど不思議で堪りません。何うも訝おかしいじゃないかあの門付、あんなに私を見ているというは訳がわからない、此方こちらの気のせいか知らんが、顔立といい年格好といい伊之助さんに悉皆そっくりなんだから、イヤ〱左様そうであるまい、あの人があんな門付に出るまで零落おちぶれるということはない筈、あゝ怖おそろしや〱又も狸か狐にだまされた日にゃア、再び伯父様に顔合せることが出来ないというもの、それにしても訝しい、あの時は此方こっちで伊之さんの事ばかり思っていて逢度あいたい々々とそればかりに気を揉んでいたから、畜生なんかに魅入られたんだけれど、今度はそうでない、私も心に懸らない事はないが、あゝいう事があっては、伊之助さんも愛想をつかしたろうと諦めちまったから[#「諦め~」は底本では「締め~」と誤記]、些ちっともそんな気はないに、今日のあの門付、何う考えて見ても不思議でならない、と悶え苦しんで居りましたが、あゝ左様そうだ、仮令たとえどんな者が来ようと身を堅固にしていさえすれば恐いことも怖しいこともない、若もし明日あした来たら疾とくと見てやろう、此方こちらからお鳥目でもやる振ふりをして、と待っておりましたが、丁度その時刻になりますと、チンツンチヽンという撥ばちあたりで三味線の音ねが聞え、次第に近く成って参りました。あゝ来たなと思いますから、お若さんはお捻ひねりをこしらえ待っております、例の門付は門口にたって三味線は弾いておりますが唄はうたいません、上手な師匠がやっても何うも眠気のさすが一中節でげすから、素人衆……エー旦那方が我れ面白の人困らせ……斯ういうことを申しますと暗やみの夜よがおっかないんでげす。ナニあの野郎生意気をいいアがって、向う脛ずねぶっぱらえなんかと仰しゃるお気早きばやな方もございますが、正直に申すとまア左様そう言ったようなもので、扨さて門外おもてにたちました一中節の門付屋さんでげすが、頻しきりに家うちの内なかをのぞいて居ります。お若もこのようすが如何いかにも訝おかしいと思うんで障子の破れから覗いております、其の中うち門付屋さんは冠かぶってまする編笠に斯う手をかけまして、グッとあげ、家うちを見ますときお若さんは顔をはっきり見ました。すると驚いて障子をがらり開けたんで、門付屋も恟びっくりして顔を隠しまする。

若「もしやあなたは伊之助様じゃなくって」

伊「そう仰しゃるはお若さんでげすね、何うしてそんな風におなんなされました」

若「まアお珍らしい、貴方こそ何うしてそんな事を遊ばしまするのでござります」

伊「これには種々いろ〱の理由わけがあって……今じゃアこんなお恥かしい形なりをしていますよ、あなたこそなんだってお比丘びくさんにはお成んなさったのでげす」

若「私にもいろんな災難が重なりましてね、到頭斯ういう姿になりましたんですよ、それじゃア私がとんだ目にあった事をまだ御存知ないんですか」

伊「些ちっとも知らないから、実に恟りしましたよ」

若「おやまア左様そうですか、此処こゝには誰もいないんですから遠慮するものはありません、お上あがりなさい」

とお若さんは伊之助を奥へ引張りあげました。段々様子をきいて見ると、お若が狸を伊之助と心得て不所存をいたしたことも知らぬようでげす、初めは私に気の毒だと思ってシラを切っているのだろうと思ってましたが、何うも左様でないらしいとこがございますから、お若さんは根どい葉どいを致す、伊之助もきかれて見れば話さない訳にも参らぬところから、

伊「エー斯うなんですよ、あのお前さんとの一件がばれたんで、鳶頭かしらから手切の相談さ、ところで私わしもダヾを捏こねようとア思ったんだが、イヤ〱左様でない、私ら風情で大家たいけの嬢様じょうさんと一緒になろうなんかッてえのは間違っている……こりゃア今切れた方が先方様さきさまのお為と思ったもんだからね、鳶頭の言うなり次第になって目を眠っていたんでげす、その後のちのことで……左様さ二月ふたつきも経ってからだッたでしょうよ、鳶頭が慌あわてくさッて飛びこみ、私がお前さんのいなさる根岸へ毎晩忍んで逢いに行ゆくてえじゃないか、あんまり馬鹿々々しいんで鳶頭をおいやらかしてやッたんでげす」

と云われてお若は深く恥いりましたか、俄にわかに真赤まっかになってさし俯うつむいております。伊之助はそんなことは知りませんから、

伊「ほんとにあの鳶頭のあわてものにも困る……」

と一寸ちょいとお若を見ますると変な様子でげすから、伊之助も何なんとなく白けて見え、手持無沙汰でおりますので、お若さんも漸ようよう気が注ついて、

若「それはそうとして何うして其様そんなことを……」

伊「イヤ何うも面目次第もない、恥をお話し申さないと解らないんで、丁度あの鳶頭が来た翌日あくるひでした、吉原なかの彼女やつと駈落かけおちと出懸けやしたがね、一年足らず野州やしゅう足利あしかゞで潜んでいるうちに嚊かゝあは梅毒がふき出し、それが原因もとで到頭お目出度めでたくなっちまったんで、何時いつまで田舎に燻くすぶってたって仕方がねえもんだから、此方こっちへ帰りは帰ったものゝ、一日でも食べずに居られねえところから、拠よんどころないこの始末、芸が身を助けるほどの不仕合とアよく云う口ですが、今度はつく〲感心してますよ」

若「それは〱さぞお力落し、御愁傷さまで……」

伊「悔みをいわれちゃ、穴へでも這入へえりてえくれえでげすが、それにしてもお前さんこそ何うして其様そんなお姿におなんなすったんですえ」

場数ふんでまいった蓮葉者はすッぱものでございましたなら、我が身の恥辱はじはおし包んで……私わしは一旦極めた殿御にお別れ申すからは二度と再び男に見まみえぬ所存で…これこの通り仏に誓う世捨人になりました、伊之さん何うか察して下さいとほろりとさせる処でげすが、其様そんなケレン手管てくだなんどは些ちっともないお若さんですから、実は斯々云々かく〱しか〲の訳あってと真実まことを話します。伊之助も恟びっくり仰天いたして、暫らくの間は口も利きませんでしたが、それも矢っ張り因縁というものでしょうから心配なさることはないと慰さめ、此の日は何事もなく帰りまする。次の日もまたお若さんの家うちへ寄って行ゆく、その次の日もまた寄るというようになると、お若さんも元々厭いやな者が来るんでないから其の時刻を待つ、伊之助も屹度きっと来る、何時いつ何ういう約束をするというでもなく、何方どちらから言出すというでもなく、再び焼棒杭やけぼっくいに火がつくことゝ相成りましたが、扨さてこれからは何うなりましょうか、一寸ちょいと一服いたし次席でたっぷり申し上げましょう。

四

さて引続き申上げておりまする離魂病のお話で……因果だの応報だのと申すと何なんだか天保度のおはなしめいて、当今のお客様に誠に向きが悪いようでげすが、今日こんにちだって因果の輪回りんねしないという理由わけはないんで、なんかんと申しますると丸で御法談でも致すようで、チーン……南無阿弥陀仏といい度たくなり、お話がめいって参ります。と云ってこのお話を開化ぶりに申上げようと思っても中々左様そうはお喋りが出来ません。全体が因果という仏くさいことから組立られて世の中に出たんでげすからね。何も私わたくしが好すきこのんで斯様かようなことを申すんではありません。段々とまア御辛抱遊ばして聴いて御覧ごろうじろ、成程と御合点なさるは屹度きっとお請合申しまする。エーお若伊之助の二人は悪縁のつきぬところでござりましょうか、再び腐れ縁が結ばりますると人目を隠れては互に逢引をいたす。お若さんの家うちは夜分になると伯父の晋齋が偶たまさか来るぐらいで、誰も参るものはございません、尤もっとも当座は若いお比丘さん独りで嘸さぞお淋しかろうなぞと味なことを申して話しに押掛けて参った経師屋きょうじやもないでもなかったが、日が暮れると決して人を入れないので、左ほど執心して百夜通もゝよがよいをするものもなかったんでしょう。只今も申しまする通り夜分になれば伯父の目さえ除よければ憚はゞかるものはないんでげすから、お若さんも伊之助も好事いゝことにして引きいれる、のめずり込むというような訳になって……伊之助は大抵お若さんのとこを塒ねぐらにしておりました。始めのうちこそお互いに人に見られまいと注意いたすから、夜が明けはなれると伊之助は飛び出すので、近所でも知らなかったが、左様そう都合のいゝことばかりはないものでな。惚ほれた同士が二人きりで外ほかに誰もいないのでげすから、偶たまには痴話や口説くぜつで夜更しをして思わぬ朝寝もしましょうし、また雨なんかゞ降るときはまだ夜が明けないと存じて、

伊「もうおきる時分だろう、雨戸のすき間があかるくなって来た」

若「ナニまだ早いよ、大丈夫だから……お月夜であかるいんだわ、今から帰らなくッてもいゝッてえば、私アねむくって仕様がないじゃないかね、モガ〱おしでないてえば」

とお若が起しませんから、伊之助とて丁度寝心のいゝ時節、飛起きたくはありますまいて。すると……、毎朝照っても降っても欠かさずに屹度きっと参る納豆屋の爺さん、

納「納豆ーなっとー……お早うさまで」

若「おや大変おそいよ、納豆やのお爺さんが来るようでは……とんだ寝坊をしたね」

伊「それ御覧な、仕様がないじゃないか、伯父さんのとこから御飯でも持って来る人に見付みつかっちゃア大変だ、近所の人は皆みんな起きてるだろう……あゝ弱ったね、本当ほんとに困っちまった」

若「私だって全く夜が明けないと思ったからだわ、何うするの伊之さん……今日は此家こゝにおいでな、こんなに雨が降ってるから伯父様さんも来やアしまい、お前だッたって帰るも大変だわ」

伊「そりゃ己おいらの方にゃア願ったり叶ったりだけれどな、若もし来られた日にゃアそれこそ大変なわけ、一旦手切まで貰って分れたんだから」

若「それも左様そうだねえ……中々頑固だから六ヶ敷むずかしいことを云うかも知れないから、困ったね」

と云っているうちに伊之助は起あがりて帯を〆しめておりますると、表をトン〱〱と叩くものがございますんで、二人は恟びっくりいたして、お若さんは手早く床をあげ、伊之助を戸棚へ隠し、やっと心を落付け、表の戸をたゝくを聞えぬ振して態わざと縁側の戸をガラ〱明けております。表では頻しきりにトン〱〱〱と叩いて、

吉「オイお若さん何うしたんだい、こんな寝坊することがあるもんか、早く開けて下さいよ」

若「おや吉澤よしざわさんですか……何うも御苦労でしたことねえ、今朝はとんだ寝坊をしましてねえ……大層おたゝかせ申しましたか、ほんとにすみませんこと」

吉「ハヽア珍らしいですな、あなたがこんなに朝寝をするは……ハヽヽヽ」

例いつもの通り飯櫃おはちと鍋を置いて帰ったので、まア好よかったと胸なで下おろしまして、それから伊之助も戸棚より這出して参り、直ぐに帰ろうというを、お若は丁度あったかい御飯が来たとこだからと、無理に止めまして少し冷めた味噌汁おみおつけをあっため、差向いで朝飯あさはんを仕舞まする。

若「伊之さんこんなに降って来たから……大丈夫来やしないわ、帰るにしても些ちっと小止こやみになるまで見合みあわしてお出いででないとビショ濡になっちまうわ」

伊「まさか此の降りに伯父様さんが見廻りもなさるまいとア思うがね、あんな人ではあるし、今朝来た使いが変だと思やアそう云うだろうから油断はしていられないよ、見付みつかって仕舞ってから幾ら悔しがっても取って返しが付かないから」

若「そうねえ」

とは申しますものゝ、ドシ〱雨の降ってる最中に可愛い情夫おとこを出してやるは、何うも人情仕悪しにくいものでございますんで、お若さんは頻りに止めますから、伊之助もそれではと小歇こやみになるまで見合すことにいたし、立膝をおろして煙草を呑もうといたすと、ざア〲〲という音が庭でするは、丁度傘をさして人の立たってゞもいるように思われますんで、疵もつ足の二人は驚きあわて顔見合せましたが、がらりと障子をあけて誰が来たと確めることが出来ません。そうかと申して伊之助が今逃げ出してはます〱疑われる種とおもいますから、うかといたした事をして毛を吹いて疵を求めるも馬鹿々々しいと、只二人ともはら〱と胸を痛めて居りますると、暫くして縁先で咳ばらいをいたすものがある。お若も伊之助も最もう堪らなくなりましたから、先まず伊之助が逃げ出しにかゝるを、

○「二人とも逃げるにゃア及ばねえ」

とがらり障子をあけて這入ってまいったは別人ではございません、そゝっかしやの鳶頭とびがしら勝五郎でげすから、ハッと驚きましたが、まだしも伯父の晋齋でないだけが幾らか心に感じ方が少ないと申すようなものではあるが、何なんにいたせ二人とも面目ない始末……とんだところへと赤面の体ていで差しうつぶいて居ります。勝五郎も驚きましたね、まさか伊之助が此処こゝへ来ていようとは夢にも思いませんから、暫くはじろり〱二人の様子を見ておりましたが、

勝「師匠……いやさ伊之さん、まア何うしたんだ……何うして此処に来ているんだ」

と申して膝を伊之助の方へすゝめますが、何なんとも返答をいたす事が出来ないんで……矢ッ張黙ってモジ〱と臀いしきばかりを動かし、まるで猫に紙袋かんぶくろをきせましたように後あとずさりをいたしますんで、勝五郎は弥々いよ〱急せきたちまして、

勝「エ、何うしたんだな、お前めえさんがこんな戯ふざけた真似をしちゃア済むめえが、お前さんばかりじゃねえや、私わっちが第一でえいちお店たなに申訳がねえ、手切金までとって立派に別れておきながら……何なんてえこったアな、オイ伊之さん何うしたんだ」

と今にも掴つかみかゝらんとする権幕でげすから、お若さんも恟びっくり、黙っていられません。

若「鳶頭かしら、そんなにお云いでないよ、伊之さんが悪いんじゃないから、これというも皆みんな私の心からで無理に伊之さんを呼びこんだのだよ、何うした因果か知らないが、何うも伊之さんのことばかりは思い切ることが出来ないんだからね」

勝「ヘエーお嬢さんから、野郎を引ずり込んだと仰しゃるんでげすか」

若「お前さんでも貞婦ていふ両夫に見まみえずということがあるは知ってるでしょう、私だって左様そうだわ、一旦伊之さんとあんな交情なかになったんだもの、世間の義理で切れましょうと云ったって、心しんから底から切れるなんかッてえ気は微塵もありゃアしないのさ、ひょんなことがあったからね、これでは伊之さんに邂逅めぐりあっても愛想をつかされるだろうと悲しく思ってるを、伯父さんは些ちっとも察してくれず、お嫁にゆけのなんのというじゃないか、私の良人おっとは三千世界に伊之さんより外にないんだものお前、仮令たとえ嫌われたって愛想をつかされたって、二人の良人は持ちますまいと心に定めてこんな姿になってるんだからね」

勝「こりゃ驚きやした、手放しの惚気のろけてえのア、じゃア何なんですね、お嬢さんは野郎を引ずり込んだッて好いいと仰しゃるんでげすね」

若「あれまア、引摺りこんだなんて、そんな体ていの悪いことをお云いでないよ」

勝「だって左様そうじゃげえせんか……、これが伯父さんに知れたら何うなさる御了簡でげすえ、伊之さんお前めえだって左様じゃねえか、いくらお嬢さんが何なんと仰しゃるにしろよ、ノメ〱這入へえりこんでそゝのかすてえことはねえ筈」

と鉾先は伊之助に向きまする。

伊「鳶頭かしらまことに面目ない……、私もお若さんが尼になっていなさりょうとは思いもかけず、此処こゝらをうろつくうちにお嬢さんが伊之さんかというような訳から、段々と様子をきいて見れば私風情に操みさおをたてゝ下さるお志が何うも知らぬと申しにくゝ、鳶頭の前だが誠に申訳のない次第」

勝「なんだッて、エ、お前めえまでが一緒になって惚のろけるてえことがあるもんか、コウ伊之さんよく聞きねえ、私わっちアお前さん方の為を思って飛とんで来たんだ、今日雨降りで丁度仕事がねえから先生のとこへ来てるとよ、書生さんが此処こゝから帰けえって来て、お若さんのとこには泊客とまりきゃくがあるらしいと云ったを、先生がきいて、若い女のとこへ泊客たア捨ておかれん、己が直ぐ往って実否じっぴを正して来ると支度をするじゃアねえか、私アまさか伊之さんが来ていようとは思わねえけれど、お嬢さんだってまだ若い身そらだ、若もしひょっとどんな虫が咬かじりついたか知れねえと思ったからよ、ナニ旦那がいらっしゃるまでもねえ私が見届けて参めえりますから……来て見ればこれだからね実に恟びっくりしたじゃねえか、エ、これが若し旦那に来られて見ねえ何様どんな騒ぎになるか知れたもんじゃねえ」

と云れてお若は忽たちまち震いあがりましたが、態わざと落付きはらって、

若「鳶頭かしら後生だから、伊之さんの来ていることはねえ、私が一生のお頼みだから」

勝「エヽそりゃア宜ようがすがね、困ッちゃうなア、切れろッて云ったって此の様子じゃアとても駄目だ、これが何時いつまでも分らずにいりゃア私わっちも知らん顔していやすが」

伊「鳶頭まア左様そう云わずと何うかね、今日のとこは見逃しておいておくんなさい、私もまたお嬢さんをお諭さとし申して綺麗さっぱり諦らめるようにするからねえ、決してお前さんの面かおは潰さないから」

といろ〱と勝五郎を賺すかしこしらえるうちに、切れるような言葉あるをきゝましたお若は、プッと頬をふくらすのを見ましたから、眼付で合図いたし、ヤッと勝五郎を追いかえしますると、

若「伊之さん何うしょうねえ、この事が伯父さんに知れた日にゃア大変だから」

伊「さア何うしたら宜かろうか知らん」

若「いっその事、私をつれて逃げておくれでないか」

伊「そんな事をしては猶更すまねえから」

若「あれさ、此様こんなことになってゝ済むのすまぬということがあるものかねえ、私がこんな形なりだからお前さん外聞がわるいんで」

伊「ナニ其様そんなことはないけれど、斯うして来ているのさえ面目ないのだに、其の上また連出しては」

若「嫌いやなんだね、嫌ならいやでいゝよ、お前さんに捨てられちゃア」

と突然いきなり仏壇の引出から剃刀かみそりを取出し自害の体に見えます。お芝居などでもよく演やるやつでございますが、先まず初めにお姫さまが金魚の糞うんこほどぞろ〱腰元をつれ、花道で並び台詞ぜりふがすみ、正面の床かあるは引廻したる幔幕まんまくのうちへ這入る、そうすると色奴いろやっことか申してな、下司げす下郎の分際ぶんざいで金糸きんしの縫いあるぴか〱した衣装で、お供に後おくれたという見得で出てまいります、舞台ぶだいへ来ても最もうお姫様もお供の影もないのでまご〱しているを好いゝ寸法に出来てるもので、お姫様が其処そこへたった一人で出懸けてまいり、これ何平とやら雨の降るほどやる文を返事もしないは情つれないぞや、四辺あたりに幸い人はなし、今日こそ色よい返事をなんかんッて……あつかましくもジッと下郎の側へ寄り添い、振袖を肩のところへかけるを合図に、下郎は飛びのき不義はお家の御法度ごはっと、とシラ〲しく言えば、女の身で恥かしいこと言い出して殿御に嫌われては最うこれまで、と懐剣ひきぬき自害の模様になるを、下郎は恟びっくりして止めると、そんなら私わらわの望み叶えてたもるか、さアそれは……叶わぬならば此の儘、さア〱〱と糶詰せりつめた後のちは男がそれまでに思召すのをなどと申して、いやらしい振になって騒ぎを起しまするが、女の子が男を口説くどく秘法は死ぬというが何より覿面てきめんでげす。併しかし当今の御婦人さま方にはそんな迂遠まわりどおいことを遊あそばす方は決してございますまい、ナニ惚れたとか腫れたとか思いますと直々じき〱に当って御覧なさる。先方さきの男が諾うんといえば自由結婚だなどと吹聴あそばし、また首かぶりをふればナニ此処こゝな青瓢箪野郎、いやアに済していアがる、生意気だよ、勿体なくも私のような茶人があればこそ口説くどきもしたのさ、一生のうち終り初物で恟りして戸迷とまどいしあがッたんだろう、ざまア見あがれと直ぐ外の男へ口をかけるというように淡泊になって参りました。これははや何うも飛とんでもない事を申しまして、本書をお読みなさる御婦人様方には決してそんな蓮ッ葉な、薄情きわまるお方はお一人でもある気遣いはございません。この本を見たこともないと申す阿魔や山の神には兎角そんな族やからが往々あって困りますよ、ハヽヽヽ。何うも余事にわたって恐れ入りました。扨さて伊之助でございますが、お若さんが連れて逃げてくれろと申しましたを、義理だてをして捗々はか〲しく相談に乗らないところから、男を諾うんといわする奥の手をだし、自害の覚悟を示したのでありますから、伊之助も最もう是非がございません。

伊「えい危ない、何なんだってそんな真似を、まアこれをお放しなさいよ、はなしは何うにでもなることだから」

若「いゝえ、お前さんは私に飽きたから、それで」

伊「これさ、まアそんな強情をいわずと、あゝ困るなア、あゝまた、危ない〱、逃げろなら逃げもするから、まア刄物はお放しなさい」

若「それでは屹度きっとだね、屹度一緒に逃げておくれだねえ、屹度……屹度」

伊「あゝよろしい、仕方がない、逃げますとも〱嘘をつくもんですか」

と漸ようようお若を宥なだめましたんで、ホッと一息つき、それでは手に手をとって駈落と相談は付けたものゝ、たゞ暗雲やみくもに東京こちらをつッ走ったとて何処どこへ落著おちつこうという目的めどがなくてはなりません、お若と伊之助はいろ〱と相談をしますが、何うも頼みにして参る人がない、ハテ困ったものであるが、誰か親切らしい人はないものかと二人とも無言で頭をなやまして居ります。そうすると伊之助は莞爾にっこりいたして、

伊「いゝ処とこがありますぜ、東京こちらから遠くはありませんがね、私わしが行って頼んだら情すげなくも断るまいと思うんで、あれなら大丈夫だろう」

若「そう何処どこなの、お前さんの知ってる家うちならいゝけれど、余あんまり近いと直ぐ知れッちまってはねえ、何処、何処なの」

伊「ナニ知れる気遣いはない……鳶頭だって知ってる筈はなし、伯父さんだって猶さら御存知の気遣いはないとこ、あゝ好いゝとこを思い出した」

若「お前さんばかり、好とこだ〱と言ってゝ一体どこなんだねえ」

伊「何処ッてえでもねえが、私わしが子供のころに里にやられていた家うちで、今じゃア神奈川の在にはいって百姓をしているんさ、まア兎も角もそこに落著いて、それから緩ゆっくり相談することに仕ましょうよ」

若「おや左様そうなの、お前さんの里に行ってた家、じゃアその人は余程よっぽどのお婆さんになってるだろうね、こんな風をして行くも何なんだか極りが悪いけれど、外に頼るものがないんだからねえ」

伊「ナニさ、心配しなさることはないよ、爺い婆アの二人暮しでいるんだから、私わしが頼めば一時いちじは小言をいうかも知れないが、憎いとは思うまいから何うにか世話をしてくれるよ」

若「そうかねえ、それでは其処そこへ行ゆくことに仕ましょうが、今から直ぐ二人で此処こゝを出ては人目にかゝってよくないがね、何うしょう」

伊「昼日中ひるひなか二人で出てはいけない、今夜の仕舞汽車で間にあうように、そして横浜まで落延びておいて、明朝あす一緒に往ゆこう」

若「あゝ、だけれど先方さきで嘸さぞ恟びっくりするだろうね、まアお前さん何なんてッて往くつもりなの」

伊「ハヽヽヽヽ詰らぬ心配したって仕方がないよ、外に何なんとも言方いいかたがないじゃアないか、矢ッ張り駈落をして来たというより仕様がないのさ」

若「ホヽヽヽヽ何なんだか極りが悪くって」

と相談は極りましたから、それでは今夜と伊之助は分れて根岸を出てまいります。お若さんは今夜駈落を為しようというんですから、そわ〱して手荷物の支度をしてお在いでなさる。すると丁度お昼すぎに伯父の晋齋がぶらりと遣やって参ったんで、お若さんはギョッとしました。今朝鳶頭に伊之助の来ているところを見付けられたあとですから、てっきり伯父が私の様子を見に来たにちがいない、鳶頭がまさか明白あからさまに伊之さんの来ていたことは言いもせまいとは思いますが、若もしひょっと伯父さんに言ったので来たのではないか知らん、何なんにしても悪いところへ来たと変な顔をしております。晋齋は朝の様子をきいたのだか聞かぬのだか分りませんが、常にかわらず莞爾にこ〱はして居りますが、何うも腹のうちに憂いのあるらしく思われますは、眉のあいだに何なんとなく雲でもかゝっているように、うるさいという風が見えるので、お若さん一層の心配でたまりませんから、お腹なかの中ははら〱としてひっくりかえるようでげす。それを見せてはならぬと十分に注意は為なさいまするが、なか〱見せずにおくと申すことは出来ないもので、余ッぽど偉い人でなければ喜怒哀楽を包み隠していることは出来ないそうですから、晋齋も素振の訝おつなのに心はついて居りましたが、がみがみと小言を申したりなんかすると間違いでも仕出来しでかさんに限らないと、物に馴れておいでなさるお方でげすから、態わざと言葉づかいも和やわらかに、

晋「お若、なんだ片付けものを始めたのか、ハヽヽヽヽ如何いかに世捨人になっても女というものは、矢っ張りそんな事をいたしておるか、こんだは大分だいぶ頭つむりも生えたようだな」

お若は伯父の底気味わるい言葉にハッと思って胸はおどりましたが、覚さとられまいと態と何気なく

若「昨日きのうから剃すりましょうと思ってるんですけれど、何なんだか風邪気のようですから、本当ほんとに汚ならしくなったでしょう」

晋「感冐かぜをひいたか、そりゃ大切だいじにしないと宜しくないよ、感冐は万病の原もとと申すからの」

若「はい有難うございます」

晋「今日はの些ちっとお前に相談することがあって来たのだから、まア此処こゝへ来なさい」

と申されていよ〱心配でなりません。さては勝五郎が喋ったにちがいない、こんなことゝ知ったなら伊之さんと直ぐ駈落をしたもの、まさか伯父さんに言付けはしまいと思ってたはとんだ油断だッた。まだ何事を言われるか知れもしないうちから、お若さんは勘ぐって、モジ〱していなされたが、伯父の晋齋が此処へ来いというのでげすから、出ずには居いられませんので、おず〱晋齋の前へ手をつき、

若「伯父さん改まって何なんの御用でござりますか」

晋「別に改まって申すほどの事でないが、今日私わしのうちに高徳な坊さんがお出でなさるから、お前にもお目にかゝらせようと思って迎いに来たんだ」

と云われてお若は当惑いたしました。今夜は駈落をする筈で伊之助と手筈がきめてあるんですもの、何うかして断りたいといろ〱に考えましたが、即座によい智慧は出ませんから、ます〱困って何なんとも返答をいたすことが出来ない。そうすると晋齋はじろりとお若の様子を見て吸すいかけた煙草もすいません。お若だってそう何時いつまでも黙っては居られないから、

若「折角でございますが、今日は御免を蒙りとうございます、初めてお目に懸るお方に頭のこんなに生えたなりでは失礼で」

晋「イヤそれなら少しも苦しゅうない、そんな心配をするには及ばない、先方さきが俗人かなにかではなし、病中だとお断り申せば仔細はないよ、ナニ私わしから能くお詫をしてやるから、あゝいうお方のお談はなしをきいておくはお前の為だ、世捨人になっていながら恥かしいなんかてえ事があるものか、私が連れて行ゆかねば到底とても来そうもない、さア一緒に来なさい」

と無理やりにお若は伯父の家うちへ連れて行ゆかれましたから、さア心配で〱堪らないは今夜の約束でげす。早く坊さんが来て帰ってくれないと伊之さんに済まないとそればかりに気を取られ、始めの中うちは家の様子に気もつきませんでしたが、気を落著おちつけて考えて見ますれば不審でげす。それほどの珍客があると云うに平常いつもの如く書生ばかりで手伝の人も来ていず、座敷も取散とりちらした儘で掃除する様子もありません。お若はだん〱訝おかしくなりますので、始めて伯父の計略にかゝって、引き寄せられたことを覚さとりました。さア大変、これでは折角伊之さんに約束したことも反故ほごになり、さぞ恨まれるであろう、何なんだか口振りが変だとは思っていたが、伯父さんも余あんまりのなされかた、欺だまして私を引きよせるとはそでない成されよう、あゝ仕方がない、斯こうなりゃア隙を見て逃げ出すまでだが、何うか伊之さんに約束した刻限まで、あゝ何うしたら逃げ出されるか知らん、うっかりした事して押えられては仕様がない、何うか甘うまく脱ぬけ出したいものだ、と頻しきりに考えこんでおります。伯父の晋齋も別段小言は申しませんで、只ただ監督して目を離さない。これにはお若さんもほと〱困りましたが、坊さんの事などは聞きもしませんし言いもしませんで、茫然ぼんやり欝ふさいでおりますと、書生は今までお若のいた庵室を片付け、荷物を晋齋のとこへ運んでまいりましたので、

若「伯父さん私の荷物を此方こちらへ持ってお出でなすって何うなさるの」

晋「ハヽヽヽヽ恟びっくりしたか、都合があってお前は当分私わしの家うちにおくのだよ」

若「はい」

と言ったきり何なんにも言わず、頭痛がするといって顔をしかめます。晋齋も心中しんちゅうを察していると見え、心持がわるくば寝るがいゝと許しますので、お若は褥とこをとって夜着よぎ引っ被りましたが、何うして眠られましょう、何うぞして脱出ぬけだしたいと只一心に伯父の隙をねらって居りますが注意に怠りはございません。さて伊之助でございますが、根岸を立出たちいでましてから我が宿といたして居おる、下谷したや山伏町やまぶしちょうの木賃宿上州屋じょうしゅうやにかえっても、雨降でげすから稼業にも出られず、僅かばかりの荷物など始末いたし、お若と駈落をする支度をいたして居りまする。元より所持品がたんとあるでなし、柳行李一個ひとつが身上でげすが、木賃宿などへ手荷物でも持って参るは上々のお客様で、上州屋でも伊之助を大事にして居りましたが、日の暮たばかりの七時ごろ上州屋の表へ一輌の人力車がつきますと、手拭を姉様あねさんかぶりにした美婦人が車を飛び下り、あわてゝ上州屋へはいり、

女「あの此方こちらに伊之助さんと仰しゃる方は在いらっしゃいましょうね、今もおいでになりますか」

宿「ハイ、お在になります」

女「あの根岸から尋ねて参ったと、左様そうお願い申します」

と云うも精一杯で真赤まっかになる初心うぶな様子を見て、上州屋の帳場ではじろ〱とながめ、急に呼んではくれません。

五

一寸ちょいと往来でゞもそうでございます、若い綺麗な婦人に行会ゆきあいますと振返りたくなるが殿方の癖で、殊に麝香じゃこうの匂いがプーンと致しては我慢が出来にくいものだそうで、ナニ己は婦人などに眼はくれぬ、渠かれは魔である化物であるなんかと力んでいらッしゃる方もありますが、その遊ばすことを窃そっと伺って見ますると矢ッ張り人情と申すものは変りません、横丁を曲るときに同伴つれに気の付かないように横目でな、コウいう塩梅しきにじろりとお遣やり遊ばしますから、さて不思議に出来あがってるもので、まア近い譬たとえが女嫌いと名をとってお在いで遊ばす方が、私わたくしの参るお屋敷うちにございます、御婦人のお話や少し下しもがかったお話になるとフイと其の方のお姿が消えて仕舞うくらいでげすがね、余あんまり大きな声では申されませんが、それでね、若い御新造をお貰いあそばし、年子としごをつゞけさまにお産し遊ばすから、私もある時御機嫌うかゞいに出て、旦那様は予かねて御婦人ぎらいと承わり、女は悪魔だと仰しゃっていらッしゃるそうでげすが、お子様は最もうお三方おありなさいますね、と入らざるおせっかいを申しますと、澄したもんで、ナニサ乃公おれは大の女嫌いだよ、併しかし嚊かゝアは別ものなんで、何うも恐れ入った御挨拶で、開いた口がふさがらなかったことがございます、ハヽヽヽ、まア斯こうしたもんでげすから、若い美しい御婦人を見て怒おこる方はありますまい。上州屋の帳場でも器量の良いいお若さんが伊之助を尋ねて参ったんですから、すこし岡焼の気味でな、番州はじめ見惚みとれておりまする。伊之助はお若が尋ねて来ようなんかとは夢にも存じませんけれど、虫が知らしたのかツカ〱と店の方へ参りますと、お若が店さきに立っておりますから驚きましたね、思わず知らず声をかけ、

伊「オヤお若さんじゃアないかい、何うして出て来なすった、まア此方こちらへお這入りなさい」

若「はい、参ってようございますかね」

伊「いゝ所どころですか、誰も心配しなさるものは居やアしません」

と自身で座敷へ連れてまいりましたが、今夜駈落をしようと約束がしてあるんだから、態々わざ〱斯うして来るには何か訳のあることであろう、今朝あさ勝五郎に見付けられた一件もあるから、こりゃ晩まで待っていられない事が出来たのだな、と察しましたので、

伊「何うして来なすったのだ、そして大層そわ〱していなさるようだが、若もしや今朝けさのことから」

と心配らしくお若の顔をのぞきこみまする。左様そうなるとお若の方からもジッと伊之助の顔を見詰めまして、ホッと溜息をつき、グッと唾を呑こみまして、

若「ほんとに大変な事になったの、それだけれど一心でヤッと此処こゝまで逃げて来たんだから、直ぐこれから約束どおり連れて逃げておくれ、若しぐず〱していて見付けられた日にゃア最もう今度こそ何うすることも出来なくなるよ」

伊「エ、大変なことッて」

と段々きゝますると、朝伊之助に別れたのちの事柄を話す。やアそれはとんでもない、そんなことなら一刻でも斯うしてはいられないと云って、伊之助も慌あわてまどいまして、元より荷物といってはないが、行李の始末なんかは昼間のうちにしてありますから、それではと申して、伊之助は上州屋方を引はらい、お若と二人立出たちいで、車に乗って新橋停車場ステーションへ着きました。調子のわるい時は悪いもので車が停車場に着くと、直ぐ入口の戸はばったり閉められ、急ぎますものですからと外から喚わめきましてもなか〱戸はあけてくれません。そのうち汽笛の声勇ましく八時二十分の汽車は発車しましたから、お若も伊之助も落胆がっかりいたし、あゝ馬鹿々々しい、ちょいと開けてくれさえすればあの汽車で神奈川まで一飛ひとゝびに往ゆかれるもの、何なんぼ規則があるからッて余あんまり酷ひどい仕方、場内取締の顔を見るも腹がたって堪らない、そうかと云って打付ぶっつけて愚痴をこぼすことも出来ないので、拠よんどころなく次の横浜行ゆき九時十分まで待たねばなりません、待っているのは仕方がないとしても、若しも其の中うちに追手おってが掛り、引戻されはしまいかとそれのみが心配で、巡査が此方こちらの方へコツリ〱と来るを見ては、両人ふたりの様子を怪しく思って尋ねるのではないか、ひょっとお若の頭に気が注ついてそれから駈落の露顕ではないか、とビク〱して彼方かなたへ避け此方こなたへ除よけ、人のなかを潜くゞりあるいても猶気が咎とがめるは、此処こゝに集まってまいる人々でございます。知り人でもあって認められては大変とおもえば思うほどに、摺合すれあう人々がじろ〱と見るような気がいたして、何うも一時間をこゝに待っていることが出来ない。すると八時五十五分に赤羽あかばね行きの汽車が発車します報鈴しらせがありますから、

伊「最もう十五分経てば横浜ゆきは出ますが、斯うしているうちにね、ひょっと、鳶頭でも追おっかけて来ては仕様がないから、私わしはこの汽車で品川まで行ゆこうかと思うんだが」

若「あゝ、それがいゝよ、こんなにごた〱していては何処どこに知ったものがいないとも限らないから、東京の土地をはやく離れてしまうがいゝわ」

伊「品川だって矢ッ張東京に違いはないが、こゝほどごた〱は仕ないから、直ぐ乗りかえるんで、厄介は厄介だがね、どうもその方が安心の気がするから左様そうしようよ」

若「また間に合ないといけないから」

伊「ナニ大丈夫だよ、今度はそんなヘマは組みませんからね」

と伊之助は札売場に至り、下等二枚を買って参り、お若とゝもに汽車に乗込みましたから、ヤッと胸をなで下おろして人心の付いた気がいたしました。新橋から品川と申せばホンの一丁場煙草一服の処で、巻莨まきたばこめしあがって在いらっしゃるお方は一本を吸いきらぬ間まに、品川々々と駅夫の声をきくぐらいでげすから、一瞬間に汽車は着きましたが、丁度伊之助お若が今下車しようと致しますると、火事よ〱という声がいたす、停車場ステーションに待合まちあわすものは上を下へと混雑して、まるで芋の子を洗うような大騒ぎでげす。その上品川へ下りるものは吾勝に急ぎまするので、お若と伊之助は到頭はぐれて仕舞いましたんで、お互に気を揉んで捜し合いますが、何をいうにもワア〱という人声が劇はげしいから、さっぱり分らない。

甲「どこだ〱、火元はどこだ」

乙「歩行かち新宿の裏から出しアがッたんだ、今貸座敷を嘗なめてアがるんだ」

丙「そりゃ大変、阿魔のとこへ行ってやらなけりゃアならねえ、ヤーイ、ワーイ」

丁「馬鹿にしてあがらア、手前てめえたちが火事場稼ぎをするんだろう、悪く戯ふざけあがッて」

丙「こん畜生ちきしょうなに云やアがるんでえ、そういう手前てめえこそ胡散うさんくせえや」

丁「なにを、この盗賊どろぼう」

なんかと騒ぎのなかで喧嘩が始まり、一層にごった返して、子供や老人としよりは踏ふみつぶされるやら、突飛つきとばさるゝやら、イヤもう大変の騒動でございます。その中でお若さんは彼方あちらへもまれ此方こちらへ押されいたしまして、

若「伊之さんや、伊之助さんや」

と声を嗄からして見得も外聞もかまわず呼んでおりますが些ちっとも知れない。此の大騒ぎのうちに横浜ゆきの汽車は通りすぎ、火事も幸いにボヤで済みましたから、四辺あたりも鎮まってまいり、漸ようよう停車場内も静しずかになりましたけれども、伊之助は何うしましたか姿が見えません。お若さんは、停車場の外へ出たり内へ這入ったりして頻しきりと探していなさるが何うしても居ないので、進退きわまりましたね。今さら帰るには帰られもしないし、また神奈川在とのみにて行先ゆきさきも判然ときいて置かなかったし、何うして好いゝかとうろ〱して居りますと、新橋発十時の汽車はまた汽笛をならして通り越して仕舞う。余り停車場内をうろつくので駅夫等は訝おかしくおもって注意する様子は見える。若もし巡査にでもこの素振を認められ尋ねられた時には何なんと答えたら宜よかろうか知らん、それに最もう一度あとに発車があるばかりで、あゝ何うしようか、伊之助さんは何処どこへ往ゆきなすったのか知らん、中途で厭いやになり先刻さっきの騒ぎを幸いに捨られたのじゃアあるまいか、イヤ〱あの人はそんな薄情な気はない、矢ッ張り騒ぎに紛れて私を見失い、今でも屹度きっとさがしていなさるだろう、それにしては此処こゝらにいなさらねばならぬ筈だに……こりゃ神奈川まで行って待っていなさるんだろうか、私が行先ゆくさきも知らないことは能く呑込んでいるんだから、まさか自分ばかり先さきへ行ゆくことはあるまい、と心配しぬいておりまするが、時計はさっさと廻って最もう十一時に近くなる。今十五分すれば新橋から発車するのだが、この汽車が最終のもので、これに乗らねば翌朝よくあさまで待たなくッてはならぬ、それも伊之助と一緒に乗後のりおくれるのなら、別段心配する事もございません、品川には宿屋もございますことでげすから、泊る分のことゝ安心がしていられるが、何を云うにもお若さん一人でげすし、それに世間なれている蓮ッ葉ものと違って、なか〱宿屋なんかへ泊ることは出来ませんでげすから、その心配というものは一通りじゃアないので、何うして宜いか最もううろつく勇気もございませんで、腰掛の隅にジッとして溜息をつきまして、あゝ斯ういう苦労をするも伯父さんの眼を掠かすめ、道ならぬ道に踏み迷って我儘をした罰ばちかも知れない、といよ〱心細くなりますと、我知らず悲しくなって参り、涙がはら〱とこぼれて来ます。そうこう致すうちに切符を売出すので、お若さんは最うぐず〱して居られません、寧いっそ神奈川とやらまで行って、何うしてなりと宿屋へ泊ろうと決心されましたは、実に大奮発なんで、世間知らずのお娘子でこの決心をするというは怖しいものでげす、誰が申し始めましたか存じませぬが曲者とは能く名付けました。怖しいは恋で、世の中に何が怖しいッてこれほど怖おっかないものはございません。神奈川まで参って伊之助を待とうと決心を致されましたお若さんは、切符売場へ参り神奈川一枚と買っておりますと、悄々しお〱として遣って参った男がある、目早くも認めましたから、身を交かわそうと致しましたが其の間まがございませんで、

男「オヤお嬢さんじゃげえせんかえ、まア今時分、何処どこへ行らしったんでげすえ」

若「なにね一寸ちょいとそこまで」

と然さり気げなく答えはいたしまするものゝ、その慌てゝ居ります様子は直ぐ知れます、そわ〱と致して些ちっとも落著おちついては居ません。

男「えお嬢さん、お見かけ申せば何うも尋常なみならぬ御様子でげすが、何処へいらしッたのでげす、今お帰けえりになるんでげすかえ」

若「あゝ今帰かえるんですよ」

と申しますが神奈川行きの切符を買いましたから、件くだんの男はます〱不審になりますものですから、

男「お嬢さん只たったお一人で神奈川へ行いらっしゃるんでげすね、何うも変で、お嬢さん悪いことは申しません、私わっしと一緒にお帰けえりなせえまし、お供いたします、何どんなお急ぎの御用か知れませんが、今から彼方あっちへお出でになりますと十二時過でげすよ、そんな夜更に若い貴嬢あなたさまお一人で、え、お嬢さん、決して悪いことは申しません、仮令たとえ改めてお出懸なさるまでもねえ、一旦はお帰りなせえ、翌朝あすになりゃア行らッしゃる先方さきまで屹度きっと私がお供いたしますから」

若「あゝうるさいねえ、急用があって行ゆくんだから、うっちゃッといておくれよ」

男「ヘヽヽヽ急御用てえのは、大方、ねえ、お嬢さん、神奈川あたりに待ってるものがあるんでしょう、ヘヽヽヽヽ何サうるさがられたッて、フヽヽヽム私わっしがお出先きまでお供しましょうよ、根岸の伯父御に頼まれて来たんだから、見届けなきゃア役目がすまねえのさ」

とぐるりと変る調子にお若さんは恟びっくりいたし、何うか混雑に紛れてその男をまこうと苦しみますが、生憎あいにく夜は更けて居ます事で、待合室にもちらりほらりの人でげす。汽車へ乗込むところにも七八人のものしかいない。お若が如何に逃げてまわりましても、怪しい男は始終影身にそって附いております。先方さきへ行ゆき着いてからの心配よりは、只今では此の男をまくことに気を揉んでもなか〱思うように参らない。

品川の停車場ステーションでお若が怪しい様子に付けこんで目を放さない気味のわるい男は、下谷坂本あたりを彷徨うろついております勘太かんたという奴。元は大工でげしたが身持が悪いので、親方にもはなれ、仕事をさせてくれるものもない、そうなって参ると猶更に怠なまけるようになって世の中の稼いで暮すと申す活業なりわいに逆らってゆくもので、到頭破落戸ごろつき仲間へおち、良くない悪法ばかりやっております。根が胆きもッ玉の太ふてえ奴でげすから、追々その道の水に染まるにつれまして度胸がすわり、仲間うちでは相応に顔が売れてまいる、坂本の勘太てえば、あの墨染すみぞめ勘太かと申すぐらいで。この野郎が墨染という抹香まっこうくさい異名いみょうをとった訳を申し上げないとお分りになりますまいが、何も深い理窟のあるんではございません、異名だの綽名あだなだのと申すものは御存じの通り、その者の身体のうちか、あるいはまた言行のうちに一ヶ所の目安になるものがあって呼ばれるんでげす。勘太ッてえ奴も矢張やっぱりそうなんで、脊中に墨染の文身ほりものをしているからでございます。申すまでもないことでげすが墨染とはお芝居なんぞの中幕によく演やるあの関せきの扉とでげすな、大伴おおともの黒主くろぬしが小町桜の精に苦しめらるゝ花やかな幕で、お芝居には至極結構なもので、何時いつみても見飽のしないもの。此奴こやつが何うしてお若さんを知っておりますかと申しますと、元大工でげすから晋齋のとこへ度々たび〱親方と共に仕事にまいり、お若さんが居なされたを垣間見かきまみたんで、その嬋娟あでやかな姿に見とれ茫然ぼんやりいたして親方に小言をいわれていた。お顔を拝みまするたんびにぶるッぶるッと身ぶるいをして魂を失って仕舞いました。元より惚れぬいてはいるが、流石さすが親方のお出入先ではあるし、自分がたゝき大工であるから、とても遂げらるゝ恋でないと諦めても煩悩ぼんのうはます〱乱れてまいり、えゝという自暴やけのやん八と二人づれで、吉原へ繰込みましては川岸かし遊びにヤッと熱を冷さましておりました。そのうち親方もしくじり、破落戸ごろつきとなったから、根岸の寮へ参るどころか足ぶみもならない。もう斯うなっては手蔓てづるが切れて顔を拝むことも出来ませんので、拠よんどころなく諦めて仕舞いました。でげすが何うも未練は残っている。時ともすると根岸のお嬢さんのことを思い出し、歯軋はぎしりいたして悔くやんでおりました。今夜も懶なまけものの癖として品川へ素見ひやかしにまいり、元より恵比寿講をいたす気で某ある楼うちへ登あがりましたは宵の口、散々さんざッ腹ぱら遊んでグッスリ遣るとあの火事騒ぎ、宿中しゅくじゅうは鼎かなえの沸わくような塩梅しき、なか〱お客様に構っていられない。上を下へと非常に混雑いたしますから、勘太はこれ幸いと戸外おもてへ飛びだし、毎晩女郎屋近所に火事があればいゝ、無銭たゞ遊びが出来るなんかと途方もない事を申します。そう火事が矢鱈やたら無性むしょうにあって堪るもんでございますか。さて品川停車場ステーションより新橋へ帰るつもりで参って見ると、パッタリ逢ったはお若さんでげす。最初は只ただよく面影おもざしの似た女としげ〱見惚みとれ、段々と傍へ寄って参って見れば姿こそ変っておりますが、身顫みぶるいの出るほどに惚れた根岸のお嬢さんでげすから、勘太も驚きましたね、マサカ斯様こんなところで出会うとは夢にも思わないから、只一人ではあるまい、誰か同伴つれがあろうと注意をしても同伴はない、ハテ変なこともあるわ、お嬢さんが一人で此の辺あたりにいなさるは読めねえ訳と、ジッと目を止めて視みれば其の様子のおかしいので、悪党だけに早くも駈落と覚さとりましたから、しめた〱、うまく欺だましこんで連れこみせえすりゃア、否応いやおういわさず靡なびかせる工夫はあるぞ、今夜は弁天様から女福にょふくを授けられているそうだ、今の騒ぎで無銭たゞ遊びをした上、茫然ぼんやり帰けえろうとすると此様こんな上首尾、と喜びまして種々いろ〱お若さんに取入ろうとするが受付けません。この上は脅して連れて行ゆくに如しかずと頷うなずき、伯父さんの晋齋を笠に着て引立てようとはいたすものゝ、何なんぼ悪者でも己おのれの惚れている婦人を手荒く扱いかねますので、流石さすがに手を取って引張ることもしない、顔は知っているが名も知らない気味の悪い男が附纒つきまつわりますので、お若さんは心配でならない。何うにかして巻いて仕舞おうといろ〱に遣って見まするが、何うも自由まゝにならぬうちに、新橋発の汽車は品川へ着き、ぞろ〱と下車するもの乗車するものでごた〱している。こんなときに撒まかないととても紛れることは出来ぬと、態わざとごた〱致す人中を選よって漸ようよう汽車に乗りこみます。やがてピーと響く汽笛が深夜でげすから物凄いように鳴渡り、ゴット〱という音が仕出して動き出しましたから、まア宜かった、まさか神奈川まで尾ついては来こまいと、胸なでおろしますものゝ、若もしやと思って室内を伺います。気味の悪い男の影は見えないから、此処こゝに一安心ひとあんしんは致しましたが、そうなると直ぐ心配になって参るは神奈川へ着いてから何うしたら宜かろうか、好いゝ塩梅に伊之さんが待ってゝくれゝば可よいが、若しも居なかったら何うしよう、宿屋へ泊るにしても一人、それに女らしく髪でも結っていることか、手拭をとったらいが栗坊主、さぞ訝おかしく思うだろう、こんなことゝ知ったら鬘かづらでも買ってかぶったものを、まアこれでは仕様がない。と流石さすがに一人歩きしたことのないお若が思いに沈んで心細く、ほろり〱と遣って居りましたが、汽車は間もなく神奈川へ着きましたので、恟びっくりして下車いたしたが、心当にして来た伊之助の姿は認めることが出来ません。停車場ステーションの中でうろ〱しております。何方どっちへ出たら宿屋があるかそれさえ分らないので、人に聞こうかと幾度いくたびか傍へ寄っても何うも聞くことが出来ず、おい〱人は散り汽車の横浜さして行ゆく音も幽かすかになったから、思い切って停車場外がいへ出でますると、

勘「オイお嬢さん、其処そこにいなさったか、篦棒べらぼうに探がさせなせえした」

と声かけられて又恟りいたし、もう仕方がない、逃げ出して何処どこの家うちへでも飛込んで助けて貰おうと決心はしました。何なんにしても夜が更けているんだから閉めてる家ばかり、仕方がないと駈け出しますると、勘太は忽たちまち追いすがり、緊しっかり袂たもとを押えて、

勘「何なんだな、逃げようッて逃げられるものか、アハヽヽヽ」

杖とも柱ともたのむ男にはぐれましたお若さん、気も逆上のぼせてうろ〱して居ります処を勘太につけられ、ヤッと虎口ここうをのがれたと思ってるに停車場ステーションへつくと直ぐ、こゝまでも執念ぶかく尾つけて参り、逃げようと云ったッて逃さぬやらぬと、袂をおさえられましたんで、モウ絶体絶命の場合でげすから、アレーという声をたて、猶逃げられるだけはと、掴まれました袂をはらって駈出します。人間が一生懸命になるというは怖しいもので、重いもの一つ持ったことのないお若、もとより力量ちからのあろう筈はございませんが、恐いと申す一心でドーンと突いた力は凄すさまじい、勘太は、

勘「アいたゝゝゝゝ」

と云って肋ひばらをかゝえ、ドッサリ倒れました。お若はそんなことには眼はとまりません、夢中でかけ出して一町ほども逃げ、思わず往来の人に突当りましたが、精根せいこんがつかれて居るから堪らない、今度はばったり自分が倒れた。驚きましたは突当られたもので、

○「エ、なんだ、慌てるにも程があるもんでございますよ、私わしへぶっ付つかって、ハア、提灯ちょうちんもなにも消されて仕舞った」

と呟きながら夜道を歩く人だけに用意はよく、袂をさぐりましてマッチを取り出し、再び提灯を点とぼして四辺あたりを透すかし見ますれば、若い婦人おんなが倒れているので恟りいたし、さては今突当ったはこの女か、よく〱急ぐことがあって気が急せいていなされたのであろう、可愛そうにと側によって介抱するが、気絶しているからいよ〱驚きまして、持合す薬を与えなどいたすうち、ようやく蘇生しました。

○「ヤレ〱、お女中さんお気がつきましたか、まア可よかった」

若「はい、誰方どなたか存じませぬが、有難うございます」

○「ハヽア気をしっかりさっしゃりまし、見ればこゝらあたりのお方じゃございましねえ御様子、何処どこのお方でござえますえ」

若「はい、東京のものですが、訳あって此の神奈川へ参る途みち、品川の停車場ステーションで同伴つれにはぐれ難儀をしているところへ、悪者に尾つけられまして此処こゝまでも跡を追って来て」

○「エ、悪者に尾けられなせえましたと、それはさぞまア御難儀でございましたろう」

と親切に介抱して、段々と素性から何用あって深夜に神奈川へ来たと尋ねてくれるは、もう六十有余にもなる質朴の田舎爺おやじでげすから、まさか悪気わるぎのあるものとも思われぬので、お若さんも少しは心が落著おちつき、明白あからさまに駈落のことこそ申しませぬが、同伴つれというは男で斯う斯うしたものと概略あらましを語りまする。田舎爺も気の毒がりて猶その男の名前まで、根ほり葉ほり尋ねるので今更隠しにくゝなりまして、伊之助のことを明かす。そうすると爺は恟りして、口のうちで伊之助〱と二三遍お題目でも唱えるように云っていたが、何か首肯うなずきまして、

爺「伊之助という男は何うやら私わしが知ってるものらしい、それと一緒に此処こゝへ御座るというは、こりゃ私の家とこへござらッしゃる客衆かも知れねえ、まア兎も角くも私のとこへ来きさっせえまし」

と云われて地獄で仏に逢った気のお若さん、ホッと息をついて、それでは何分ともにと言っている後うしろに、一突き不意を喰くらって倒れた悪者の勘太、我と気がついてまだ遠くは往ゆくまい、折角見かけた仕事も玉を逃にがしちゃア虻蜂あぶはちとらずで汽車賃の出どこがないと、己おのが勝手で尾ついて来ていながら直ぐ懐のグレ蛤はまを勘定いたし、おっ掛けてまいッたが、今度はお若一人でない、老爺おやじが側にいるのでうっかり手出しがならず、様子をうかゞっておるうちに、何うやらお若を老爺が連れて行ゆきそうだから、ドッコイ左様そううま〱仕事の横取はさせねえと、己おのが心にくらべて、

勘「この阿魔太ふてえあまだ、大金を出して抱えて来たものを途中から逃げさせてお堪たまり小法師こぼしがあるものか、オイ爺とっさん、此奴こいつのいう事ア皆みんな嘘だ、お前めえを詐だますんだぜ、ハヽヽヽヽ」

と己おのが非を飾ってお若を連れ行ゆこうとするので、田舎爺は呆れましたが、男のこえが耳なれておりますから提灯をさしつけ、顔をのぞいて見ると聞覚えのある声こそ道理で、老爺が一人息子の碌でなし、到頭村内むらうちにもいられず今は音信いんしん不通になっている勘太でげす。田舎爺は老おいの一徹にカッと怒り、

爺「わりゃア勘太だな、まだ身持が直らず他人様ひとさまに御迷惑をかけアがるか、お女中さん何も怖おっかねえことアごぜいましねえ、この悪たれは私わしが餓鬼」

といううちに早や言葉が潤うるんで参ります。親子の情としては然さもあるべきことでございましょう、我子が斯様こんな碌でもないことを致し、他人ひとを悩めると思いましたら堪りますまい。

爺「さア、これからは己おれが相手になる、この甚兵衞じんべえが相手じゃ」

と敦圉いきまきまするので、流石の勘太も親という一字には閉口致しましたか、這々ほう〱の体ていで逃げて仕舞います。そこで甚兵衞爺さんお若さんを我家へ連れて戻り、婆アどんにも一伍一什いちぶしじゅうを斯々かく〱と語り、今夜は遅いからまアお休みなさい、明日あすにもなれば伊之助を尋ねて参りますからと親切にいたしてくれまする。さて、伊之助でございますが、品川の火事騒ぎでお若にはぐれ、いろ〱と尋ねましたが薩張り知れない。そのうち最終列車はシューコト〱と出て仕舞い、只だ心配に心配をしぬいている。翌朝よくあさになって再び停車場ステーションに参り探しましたが知れないので、駅夫などに聞合きゝあわすと、昨夜の仕舞い列車に乗りこんだらしいので、自分も兎に角神奈川へ参って探そうと汽車に乗り、停車場に着いて聞合して見れど、何をいうにも夜更よふけのことで雲を捉つかむような探しもの、是非なく甚兵衞の家うちへ尋ねて参り、お若さんと再会の条くだりに相成るのでございまする。

六

伊之助の神奈川停車場ステーションへ着きましたは、お若さんが此処こゝにまいって甚兵衞爺さんに助けられた翌朝よくあさのことでございますから、なか〱お若の行方を探ることが出来ない、左様そうかと申して再び東京へ帰りましたところで、これとても何う探したら分ろうという目的めあてが付きませんので、あゝ困ったな、己もこまるがお若さんは嘸さぞ難儀をしていなさるだろう、あゝいう方だから一人歩きしたこともないに、方角も知れぬ土地に来てどんなに困るか知れたもんじゃアないから、それにしても不思議だ、何うしてまア神奈川まで一人来なすったろうか知らん、大方己が前の汽車で来ていると思いこんでゞあろうが、あゝ困るな、可愛そうでならないことをした、こんな事なら品川まで出掛けずに、新橋から一緒に乗るだッたにと、いろ〱と悔んでおりましたが、今更何なんといっても仕方がない、一旦甚兵衞爺さんのとこへ落著おちついて探したら分らぬこともあるまい、お若さんの方でも屹度きっといろ〱に探していなさるに違いないから、と伊之助はよう〱決心いたしましたから、久々で甚兵衞のとこへ尋ねてまいる。村の入口には眼になれた田舎酒屋の看板と申すも訝おかしいが、兎に角酒屋の目印となっておりまする杉の葉を丸く束ねたのが出ています。皆様がお名前だけはお馴染になっていらッしゃると申しますと、私わたくしどもは近接じき〱にお馴染かと仰ゃる方もございましょうが、明治の御代に生きているものがなか〱思いもよらぬことで、今を距さること四百十八年も前で後土御門ごつちみかど帝の御代しろしめすころ、足利七代の将軍義尚よしひさの時まで世を茶にしてお在いでなされた一休が、杉葉たてたる又六またろくの門かどと仰せられたも酒屋で、杉の葉を丸めて出してある看板だそうにございます。そうして見ると此の目印は余ほど古くからあるものと見えまする。さて序ついででございますから一寸ちょっと申しておきますが、一休様は応永おうえい元年のお生れで、文明ぶんめい十三年の御入寂ごにゅうじゃくでいらせられますから、浮世にお在遊ばしたことは丁度八十八年で、これほど悟りをお開きなされたお方は先ずない。仮令たとえございましたとて俗人が存じておりますは、此の坊さん程お近附ちかづきはありませんでげす。その酒屋の隣が甚兵衞の家うちでございますから、伊之助はズン〱這入ってまいる。スルと奥の方で若い女の声がして甚兵衞爺さんも婆さんも頻しきりに慰さめている様子。ハテ悪いところへ来たわい、誰か客があるのか知らんと思いましたが、引返ひっかえして出て行ゆくも変ですから、

伊「爺やさん、お達者でございますか」

と声をかけますと、甚兵衞は、

爺「婆さんや誰か来たようだぜ、ちょっくら見て来さっしゃい」

というので婆さんは入り口へ出てまいると、伊之助が立って居りますから恟びっくりいたし、挨拶もいたさずに、

婆「やア、来さしッた〱、お若さん、伊之助さんが来さッした」

と喜ぶので伊之助もおどろきましたね、婆さんがお若さんと呼びますからは、確たしかにお若が此処こゝに来ているにちがいない、と不思議で堪りません。お若は老人夫婦と何うか伊之助を探す手だてをと相談しているところでげすから、飛立つ思いで出てまいり、此処でお互いに無事の顔見て安心いたし、それから甚兵衞の厄介になって暫らく居ますうちに、お若さんのお腹なかは段々と脹ふくれて来るので、遠走りもすることが出来ぬところから、遊んでもいられません。と云って外ほかに何もすることがない。田舎ではございますが追々開ひらけてまいり、三味線などをポツリ〱と咬かじる生意気も出来て来たは丁度幸いと、伊之助は師匠をはじめ、お若は賃仕事などいたし、細々ながら暮している。そのうちにお若は安産いたし、母子おやことも肥立ひだちよく、甚兵衞夫婦は相変らず親切に世話してくれます。お若伊之助は夫婦になって田舎で安楽に暮して居ります。生れた子供も男で伊之助のいの字とお若のわの字を取って岩次いわじと名をつけ、虫気むしけもなくておい〱成長してまいるが、子供ながら誠に孝心が深いので夫婦も大層喜んでいました。これより暫らくは夫婦の上には何事のおはなしもございませんが、末になると全く離魂病の骨子こっしをあらわし、また因果塚のよって起おこることゝ相成るのでございます。こゝに品川の貸座敷に和国楼わこくろうと申すのがございまして大層流行はやります。娼妓も二十人足らず居り、みんな玉が揃っているので、玉和国と、悪口をいう素見ひやかしまでが誉ほめそやしているぐらいでげす。今日は暇だと申しても一人で二人ぐらいのお客は屹度きっとある。忙しいと来たら五六人ずつはありますからなか〱廻しが取れません。甚助じんすけをおこす客もあるが怒おこって出て行ゆくものゝないも訝おかしい。それで安直店みせと来ていますから滅法な流行りかた、この楼うちに小主水こもんどと呼ばれて全盛な娼妓がある、生れはなんでも京阪けいはん地方だと申すことで、お客を大切だいじにするが一つの呼よびものになっています。この小主水の部屋から妹分で此のごろ突出つきだされた一人の娼妓こどもは、これも大阪もので大家たいけの娘でございましたが、家うちの没落に身を苦界くがいに沈め、夜よごとに変る仇枕あだまくら、朝あしたに源兵衛げんべえをおくり、夕ゆうべに平公へいこうをむかえております。この者の名を花里はなざとといい頗すこぶる美人でげすから、忽たちまちのうちに評判になり、

○「コウ熊ア、玉和国の花里てえのはすばらしいもんだとよ」

△「ウム左様そうよ、土地第一でえいちの別嬪べっぴんだとよ」

○「手前てめえおがんだか」

△「己おいらア、仕事を仕舞うと直ぐこれで三晩おがみに来るが、彼奴きゃつ流行妓はやりッこだからなア、まだお目にぶら下らねえのさ、今夜ア助見世すけみせに出アがるとこでもと先刻さっきから五度ごたびまわったが、よく〱御縁がねえのだ、明日あすの晩は半纒を打殺ぶちころしても登楼あがらねえじゃア気がすまねえや」

○「素敵に逆上のぼせていアがるわ、顔も見ねえ女に夢中になる奴もねえぜ」

△「馬鹿奴め、美人いゝに極ってらア」

なんかと騒ぐものもあるほどでげすから、其の全盛は思いやられます。軍艦が碇泊ていはくすると品川の宿しゅくは豊年でございます。皆様御存知のとおり海上にあって毎日事務をとってお在いでなさるお方々でげすから、何いずれの港になりと船が泊りますることになると、それ〲にお暇が出て日頃の骨休みをなさる。成程そうでございましょう。軍人方でいらせられますから、いざ戦争という場合になりましては申すまでもないことで、甲板に屍かばねをさらすとも一歩もお引き遊ばすなどという卑怯未練な方はございません。陸軍たりとて海軍たりとて勇武の御気象には少しの変りもない、日本固有の大和魂というものがお手伝をいたしますからでもございましょうが、我邦わがくに軍人がたの御気象には欧洲各国でも舌を巻まいておるそうで、これは我が某ある将官の方に箱根でお目通りをいたしたとき直接じき〱に伺ったところでございます。これはお話が余事に外それ恐れ入りましたが、左様な御気象をお持ち遊ばす方々で在いらせられますから、ナニ暴風怒濤どとうなんぞにビクとも為さる気遣いはない、併しかし永暴風雨ながしけをくっては随分御困難なもんだそうで、却かえって戦争をしている方が楽だと仰せられた軍人もございました。そういう御難儀を遊ばしていらッしゃるんでげすから、港々にお着つき遊ばしたときは些ちっとは浩然こうぜんの気もお養いなさらずばお身体が続きますまい。それでげすから軍艦が碇泊したというと品川はグッと景気づいてまいる。殊に貸座敷などは一番に賑にぎわしくなるんで、随分大したお金が落るそうにございます。娼妓のうちで身請の多くあるは品川だと申しますも、畢竟ひっきょう軍艦の旦那に馴染を重ねるからのことかと存じまする。丁度紅葉もみじも色づきます秋のことでげすが、軍艦が五艘ごそうも碇泊いたし宿しゅくは大層な賑いで、夜になると貸座敷近辺は恰まるで水兵さんで埋うまるような塩梅、何いずれも一杯召食きこしめしていらっしゃる、御機嫌だもんですから、若い女子供は怖おっかながるほどでございました。それでなくってさえ流行はやります和国楼、こういう時には娼妓達こどもたちは目もまわるように忙がしい。中々一人々々のお客を座敷へ入れることは出来ません、名代みょうだい部屋には割床わりどこを入れるという騒ぎで、イヤハヤお話になったものでございませんが、お客様がそれで御承知遊ばして在いらっしゃるも不思議なものでげすな。従って娼妓達が勤め向きもわるいが、馴染になって在っしゃるお客様は、アヽ彼奴あいつも気の毒な、斯う牛や馬を追いまわすようにされちゃア身体が続くもんじゃないよ、なんぼ金の為に辛い勤めをするんだッて、楼主ろうしゅがあんまり慾張りすぎるからわるい、政府でも些ちっと注意して一夜ひとよのお客は二人ににん乃至ないし三人より取らさねえように仕そうなものだ、なんかんと御自分の買馴染が一座敷へ三十分と落著おちついていられないのを可愛そうに思召しもございましょう。例の花里花魁おいらんでございますが、この混雑ごったかえしている中に一層忙がしい、今日で三日三晩うッとりともしないので、只眠いねむいで茫然ぼっとして生体しょうたいがない。お客のお座敷へ出ても碌々口もきかないが、さてこれと名ざしてお招き遊ばさるゝお方はそんなことには頓着とんじゃくはなさりません、只花里々々と夢中になっていらッしゃる。いま花魁の出ているは矢ッ張り軍艦ふねのお客で、今夜は二回うらをかえしにお出でなされたんでげすから、疎末そまつにはしない、頻しきりに一昨夜おとついのばんの不勤ふづとめを詫していると、新造しんぞが廊下から、

新「花里の花魁え、一寸ちょいとおかおを」

花「あゝ今行くよ、ほんとにうるさいことねえ」

客「情人いゝひとが逢いにきたとよ、早くいって顔を見せてやるが好よいわ、のう花魁、ハヽヽヽヽ」

花「御冗談ものですよ、私のようなものに情人なんかゞあるもんですか、ほんとにモウつく〲厭になった」

新「花魁、花魁え、お手間はとらせませんから」

花「あいよ、今参りますよ」

と客に会釈して立てば新造は耳に口よせ、

新「お初会の名指なざしです」

花「そう、何様どんな人だえ、こないだのような書生ッぽだと御免蒙るわえ」

新「ナニ美男いゝおとこさ、風俗なりは職人衆しゅですがね、なんでも親方株の息子さんてえ様子ですわ」

と新造に伴なわれまして引附ひきつけへまいりますと、三人連の職人衆しゅうでございますが、中央なかに坐っているのが花里を名ざして登楼あがったんで、外はみなお供、何うやら脊負おんぶで遊ぼうという連中、花里花魁自分を名指してくれたお客を見ますると、成程新造の申しました通り美男子いゝおとこで、尋常たゞのへっぽこ職人じゃアないらしく思われます。あゝ好いたらしい若い衆しゅだと思うと見ぬ振をしてじろり〱顔を見るもので、男の方では元より名指して登楼るくらいでげすもの、疾とっくに首ッたけとなって居おるんでございます。軈やがてお引けということに成っても元より座敷は塞ふさがって居りますから、名代部屋へ入れられ、同伴つれもそれ〲収まりがつきました。

花「一寸ちょいとお前さん、御免なさいよ、直ぐ来ますからね鼠にひかれちゃアいけませんよ、ホヽヽヽヽ」

客「全盛な花魁だから仕方がねえや、まア寛ゆっくり行っていらッしゃい、屹度留守はしていらアな」

花「まことに済まない事ねえ、何うか堪忍して頂戴よ、生憎あいにくお客が立たてこんでるもんだから、寝て仕舞ってはいやだよ」

客「ハイ〱、天井の節穴でも数えているからいゝてえば」

花「いま新造衆しゅに小説本でも持もたせてよこすからね、屹度寝てしまッちゃ厭よ」

嫣然にっこりいたして吸付すいつけ煙草一服を機会しおに花魁は座敷を出てまいります。若い職人風の美男子いゝおとこも、花里の全盛なのは聞きつたえておりまするし、殊に初会のことでげすから、左様そう打ちとけて話をすることもない。今夜はこれきり寝転ねこかしかとは思っていますが、同伴つれの手前もあることで、帰るとも申し悪にくいのでもじ〱いたしている。寝ようと思っても引切ひっきりなしに廊下にひゞきます草履の音が耳につき、何うしても寝られるものでありません。すると座敷の障子がスーとあきますから、さて来たなと思いますと左様そうでない、有明の油をさしに来たのですから、えッ畜生ちきしょうだまされたかと腹は立ちますが、まさかに甚助らしいことも云われないので、寝たふりで瞞ごまかしている。いよ〱今夜は寝転ねこかしに極った、あゝ斯様こんなことなら器用に宵の口に帰った方がよかったものと、眼ばかりぱちくり〱いたして歎息たんそくいたしています。花里の方でも初会ながら憎からず存じまする客でげすから、早く廻ろうとは思ってますけれど、何を申すも大勢な廻しのあることで、自儘じまゝに好いた客の傍そばへばかり行っていることは出来ませんもんですから、漸ようよう夜明になってこの座敷へまいりますると、うと〱しています様子。

花「何うも済まなかったこと、堪忍して下さいよ、あら厭だ、狸なんかを極めてさ、くすぐるよ」

と脇の下へ手を差し入れて、こちょ〱〱。

客「フヽヽヽヽム、酷ひどいね花魁、あゝあやまった〱もう、フヽヽヽヽム、そんなに苛いじめなくもいゝじゃないか、あやまったッたてえばよ」

と腹這になれば、花里は煙草をつけて煙管きせるを我手で持ったまゝ一吸ひとすいすわした跡を、その儘自身ですい、嫣然にっこりいたし、

花「オヽ寒くなったこと、もう浴衣ゆかたじゃア、明方あけがたなんか寒くて仕様がないわ」

この職人体の美男子いゝおとこは何物でございましょうか、花魁も初会惚しょかいぼれでもしているらしく思われます。さて職人体の好男子いゝおとこでございますが、あれは例のお若さんが根岸の寮で生みました双児ふたご、仕事師の勝五郎が世話で深川の大工の棟梁へ貰われてまいった伊之吉でございます。光陰は矢の如く去って帰らずとやら申しまして、月日の経ちますのは実に早いもので、殊に我々仲間で申しあげるお噺はなしの年月、口唇くちびるがべろ〱と動き、上腮うわあごと下腮が打付ぶっつかります中うちに二十年は直ぐ、三十年は一口に飛ぶというような訳、考えてみますれば呑気至極でげすがな、お聞遊ばす方ほうでもそれで御承知下されて、お喋りする方でも詰らないところは端折はしょって飛して仕舞うと申す次第で。大芳棟梁のとこへ貰われてまいった伊之吉、夫婦が大層可愛がって育て、おい〱と職を仕込みますが、実まことに器用な質たちで仕事も出来て来る。多くある弟子達にも気うけは至極よろしく、若棟梁〱と立てられて、親の光りで何いずれへまいりましても引けは取らない。職の道にかけても年が若いから巧者こそありませんが、一通りの事は何をもって行っても人に指図さしずがしていかれる。それですからます〱評判はいゝ。大芳の若棟梁は今に立派なものになんなさる、親方さんも好いい養子をもらい当てゝ仕合せだ、あゝ甘うめえ塩梅しきに行ゆけば実子がなくっても心配しんぺえすることはないなどと申して居ります。伊之吉は仲間にも顔が売れてまいれば追々交際つきあいも殖ふえる上、大芳棟梁もとより深川の変人、世間向せけんむきへ顔を出すなどは大嫌いでございますから、養子の伊之吉が人の用いもよく、用も十分に足りていくので、自分が出懸けねばならぬところがあっても、伊之やお前めえ往って来てくんねえな、と代理をさせるのでます〱交際こうさいはひろくなり、折にはこれから人々と共に遊びに行ゆく事もあるが、決して色に溺れるてえ事なんかはありません。左様そう斯ういたしておるうち、品川の噂がちら〱耳に這入り、玉和国楼の花里という花魁の評判が大層もないので、伊之吉も元より血気の壮者わかものでございまするし、遊びというものが面白くないとも思っていませんから、ふらり内弟子のものと共に品川へ参り、名指なざしで登楼あがって見ますと、成程なか〱の全盛でげす。それで取まわしがいゝ、誠に痒かゆいところへ手の届くようにせられましたから、何うも捻ひねりぱなしで二度うらを返さずにおくことが出来なくなる。後朝きぬ〲のわかれにも何なんとなく帰しともない様子があって、

花「折角斯うして来て下すったのに生憎立てこんでいてねえ、何うも済まないんです、此の儘帰すもまことに気がかりでならないけれど、無理に引きとめておいてはお家うちの首尾もありましょうし、またね、あの女こにも申し訳がありませんから、私は我慢して辛抱しますが、お前さんはこれに懲々こり〱してもう二度と再び来ては下さるまいね、ですが可愛そうだと思ったら何うかお顔だけでも」

と言さして後あとはいわず、嫣然にっこり笑いました花里の素振は何うも不思議でございます。伊之吉も何なんとなく別れて帰るが辛くなりましたが、左様そうかといって初会で居続けするも余あんまり二本棒と笑わるゝが辛く、また一つには大芳夫婦への手前もありますから、その朝は後うしろがみを引かれる心地いたして、思い切って支度をするうちに、連つれのものも、さア帰ろうと促しますので、

伊「花魁、とんだ御厄介になりました、明日あすの晩あたりまたお邪魔にまいりましょう、来てもいゝでしょうかね、ハヽヽヽヽ」

花「本当ほんとですか、本当に明日あした来て下さいますか、屹度ですよ、屹度まってますからね」

花里に逢ってから伊之吉の様子が何うも変だ、何なんとなくそわ〱いたして茫然ぼんやりして居ります。お職人衆というものは何事でも綺麗さっぱりいたしたもので、思ったことを腹へ蔵しまっておくなんかてえことは出来ません。お名にお差合さしあいがあったら御免を頂きますが、

八「オイ熊ア、手前てめえ大層景気がいゝな、始終しょっちゅう出かけるじゃアねえか」

熊「フヽム左様そうよ、彼女やつが是ぜッ非ぴ来てくれと吐ぬかしアがッてよ、己おいらが面を見せなけりゃア店も引くてえんだ、本ものだぜ、鯱鉾しゃちほこだちしたって手前達てめえたちに真似は出来ねえや、ヘン何どんなもんだい」

八「笑かせアがらア、若大将わかてえしょうに胡麻すりアがって脊負おんぶのくせに、割前わりめえが出ねえと思って戯ふざけアがると向う臑ずねぶっ挫くだかれねえ用心しやアがれ」

熊「ヘン嫉そねめ、おたんちん、だがな八公、若大将にゃア気持が悪くなるてえことよ、阿魔奴めでれ〲しアがって、から埓口らちくちアねえ」

八「阿魔アッて品川の奴やつか」

熊「そうよ、玉和国の花里てえ素敵もねえ代物しろものよ、夏の牡丹餅もだもちと来ていアがるから小癪こじゃくに障さわらア、な一晩行って見な、若大将の欵待もてかたてえものはねえぜ、ところでよ、此方こっちの阿魔と来たら三日月様かなんかで、刻莨きざみの三銭がとこ煙けむよ、今度ア行ゆくにゃア二つと燐寸まちまで買ってかねえじゃア追付おっつかねえ、これで割前わりめえ勘定だった日にゃア目も当てられねえてえことよ」

八「風吹かざふき烏がらすの貧びんつくで女の子に可愛がらりょうとア押おしが強つええや、この沢庵たくあん野郎」

熊「こん畜生ちきしょうッ」

なんかと伊之吉の事から朋友ともだち喧嘩が起おこるというようなさわぎ。伊之吉も凝こって品川通いを始めますると、花里の方でも頻しきりと呼ぶ。呼ばれますから参る。まいりますからます〱深くなるという次第で、伊之吉が来ると岡焼半分に外の女郎が花里にからかいます。トントン〱と登あがるをすが籬がきのうちから見て、あゝ来て呉れたなと嬉しく飛立つようですが、他の張店はりみせしている娼妓の手前もありますので、花里は知らぬ顔していても眼の早い朋輩が疾とッくに見附けていますから堪りません。

娼「花里さん来たよ、早く側へ往っておあげよ、そんなにシラを切きらなくッてもいゝわ、モウ気は部屋へ行ってるんだよ、呆れたもんだねえ、花里さんの抜殻ぬけがらさんや、オイ〱」

左右から突つッついたりなにかいたします。左様そうされるとされるほど嬉しいもので、つッと起たちまして裲襠しかけの褄つまをとるところを、後うしろから臀いしきをたゝきます。

花「あら酷ひどいことよ、宵店からお尻をたゝいてさ」

と持ったる煙管を振り上げます。と元よりたゝかぬとは知っていますが仕打は大仰おおぎょうなもので、

娼「アヽあやまった〱、親切にお咀咒まじないをしてあげて怒られちゃア堪らないねえ、今夜は外にお客がなく伊之さんとねえ」

花「御親切さま、そんなのじゃありませんよ」

娼「うそばかり吐ついてるよ、毎日惚のろけているくせに今夜に限ってさ」

花「そんなことア情人いろのうちさ、女房にょうぼとなれば面白くなくってよ、心配でならないわ、ホヽヽヽ」

娼「おや、花里さんにも呆れッちまアねえ、素惚気すのろけじゃア堪弁かんべんが出来ぬからね」

花「ハアいゝとも、何なんでも御馳走するわ」

と双方とも丸でからッきし夢中で居りますると、茲こゝに一つの難儀がおこります条くだりは一寸ちょっと一服いたして申し上げましょう。

七

えゝー段々と進んでまいりました離魂病のお噺はなしで、当席にうかゞいまする処は花里が勤めの身をもって情人伊之吉に情を立てるという条くだり。日毎ひごと夜毎よごとに代る枕に仇浪は寄せますが、さて心の底まで許すお客は余あんまりないものだそうでござります。無粋ぶすいな私わたくしどもには些ちっとも分りませんが、或ある大通だいつうのお客様から伺ったところでは浮気稼業をいたして居おる者は却かえって浮気でないと仰しゃいます。成程惚れたの腫れたのといやらしき真似をいたすのが商売でげすから、余所目よそめには大層もない浮気ものらしく見えましても、これが日々にち〱の勤めとなっては大口きいてパッ〱と致すも稼業に馴れると申すものでござりましょう。其の代り心底しんそこからこの人と見込んで惚れて仕舞うと、なか〱情合は深い、素人衆の一寸ちょいぼれして水でも指さゝれると移り気ぎがするのと訳がちがうそうで、恋の真実まことは苦労人にあるとか申してございますのも其処等そこらを研究したものでありましょうか。花里花魁は何うした縁でございますか、あの明烏あけがらすの文句の通り彼かの人に逢うた初手から可愛さが身にしみ〲と惚れぬいて解けて悔しき鬢びんの髪などと、申すような逆上のぼせ方でげす。伊之吉とて同じ思いで三日にあげず通っている。すると茲こゝに一つの難儀が持ちあがりました。と申すは花里を身請しようというお客が付いたんで、全体なら喜んで二つ返事をする筈であるが、そこが何うもそうすることが出来ない。伊之吉という可愛い情人おとこがあって、写真まで取かわせてある、その写真は延喜棚えんぎだなにかざって顔を見ていぬときは、何事をおいても時分時になると屹度きっと蔭膳かげぜんをすえ、自分の商売繁昌よりは情人の無事息才そくさいで災難をのがれますようにと祈っているほどで、泥水から足をあらって素人になるを些ちっとも嬉しく思いません。身請ばなしが始まりましてから花里は欝ふさぎ切って元気がない、只だ伊之吉が来ると何かひそ〱話をするばかり、それも廊下の跫音あしおとにも気をおいて居ます。その身請為しようという客は、欧米を航海して無事に此のごろ帰朝されました、軍艦芳野よしのの乗組員で少しは巾のきくお方、お名前は判然と申し上げるも憚はゞかりますから、仮に海上渡うながみわたると申しあげて置きます、此のお方がまだ芳野へお乗のりこみにならぬ前、磐城いわきと申す軍艦にお在いであそばし品川に碇泊ていはくなされまする折、和国楼で一夜の愉快を尽つくされましたときに出たのが花里で、品川では軍艦ふねの方が大のお花客とくいでげすから、花里もその頃はまだ出たてゞはございますし、人々から注意をうけて疎おろそかならぬ欵待もてなしをいたしたので、海上も始終しょっちゅう通って居おられましたが、その後ご芳野へお移りになって外国航海と相成りしに後髪うしろがみをひかれる気はいたすものゝ、堂々たる軍人にして一婦人いっぷじんの為に肘ひじをひかるゝは同僚の手前も面目なしとあって、綺麗に別盃べっぱいをお汲みなされ、後朝きぬ〲のおわかれに、

海「それでは僕は今日四時には出帆しゅっぱんして洋航するからね、お前も無事で、身体を大切だいじに稼ぎなさい、これが別れとなるかも知れぬ、併しかし無事に航海を了おわって帰朝するときは、お前も何時までも斯うして勤めさせては置かぬからな、当あてにはならぬことだがせめては楽しみに待っていてくれ、男子の一言帰朝さえすれば屹度身請してやる」

と言葉残して芳野が吐はく一条ひとすじの黒煙くろけむりをおき土産に品川を出帆されました。此方こなたの花里でございます。元々好いた男というでもなし、たゞ聞ながしに致して居りましたが、海上の方では一旦約束した言葉、反故ほごにしては男子の一分いちぶんたゝずと、大きに肩をお入れ遊ばして、芳野艦が恙つゝがなく帰朝し、先ず横須賀湾に碇泊ていはくになりますと直ぐ休暇をとって品川へお繰出しとなり、和国楼へおいでになって、身請の下談したばなしが始まりましたんで、花里は恟びっくりいたして一度二度は体ていよく瞞ごまかしておき、斯うなっては最もう振ってふって振りぬいて、先から愛憎あいそをつかさせるより手段てだてはないと、それからというものお座敷へは出るが腹が痛むの頭痛がするのと、我儘ばかり云っても海上は身請まで為しようという熱心でございますから、花里が嫌いやでふるとは思われませんで、これも我には心易こゝろやすだての我儘と自惚うぬぼれが嵩こうじていましたから、情人おとこの為に嫌われると気の注つきませんで持ったもの。先ず一心に凝こっていらっしゃるときは誰方どなたでも斯ういう塩梅なものでございましょう。いやがッて居ればその客が余計に来るもので、海上は頻しきりと登楼いたし、花里には延のべたらに昼夜の揚代ぎょくがついておりますから、座敷へ入れないことは出来ぬ、まるで我わが部屋は貸し切りにしたような始末で、まことに都合がわるい。伊之吉が来ても何時も名代部屋で帰して仕舞わねばならぬ。訳は知っている、無理な事は云わないが、さて心の中うちでは面白くないもので。偶たまには訝おつに癪しゃくることがあるを花里は酷ひどく辛く思って欝ふさぐ上にも猶ふさぐ。左様そうされると元々自分に真実つくしている女の心配するんですから、気の毒になって機嫌の一つも取ってやるようになる。平常ふだんならそれなりに嫣然にっこりして他愛なくなるんですが、此の頃は優しくされるにつけて一層悲しさが増してまいり、溜息ついて苦労するのが伊之吉の身にも犇々ひし〱と堪こたえます。さア左様なるといよ〱情は濃くなって何うにも斯うにも仕ようがなくなる。今夜も伊之吉が来たが、例の通り座敷は塞ふさげられている。尤もっともまだ海上は来ていないが、晩には屹度来るからって約束して行ったから座敷は明けておかないじゃアすまぬ。

花「ねえ、伊之さん、私ゃ、何うしたら宜かろう、本当ほんとに困っちまアわ」

伊「いゝじゃねえか、海上さんてえのは海軍の少尉だって」

花「まだ少尉にゃア成らないのさ、候補生とやらで航海して来たんだから、今度少尉になるんだとさ」

伊「それじゃア少尉もおなじことよ、お前めえも欲のねえ女じゃねえか、ハイと云って請出うけだされて見ねえな、立派な奥様と言われてよ、小女ぐれえ使って楽にしていかれるに」

花「またそんな事を云って、私に心配させて笑っているのかい、何うしてお前さんは情がないのだろう、私が真身しんみになって相談すれば茶かして仕舞って」

伊「ナニ茶かすんじゃアねえが、其の方がお前めえの為だろうと思ってよ」

花「なんかというと為だ〱と瞞ごまかして、お前さんが女房にしてやると云ったのは、ありゃ私をだましたんだね、もういゝわ、そんな水臭い」

とツンと致しますが、眼には早や涙ぐんで居りますから、伊之吉も黙ってはいられない。

伊「これさ、また怒おこるのか、己おいらが言ったことが気にさわったら堪忍しなせえ、何も悪気でいったことじゃアねえんだ、己らだッて斯様こんなわけになってるお前めえを海上に渡して仕舞うのはいゝ心持じゃねえが、これも時節だ、仕方がねえというものよ」

花「それじゃアお前さんは何うあっても切れるてえのだね」

伊「切れたくアねえが、切角せっかくお前めえが身儘になるのを己らが為に身請をうんと云わねえじゃア、お部屋へ済まなかろうじゃねえか己らが、お前を身請するだけの力がありゃア、一も二もねえ、海上の鼻をあかしてひけらかして見せるが」

とホッと溜息をつきまするも全く花里の身を思ってくれるからの真実でございます。斯うシンミリとした話になって参ると猶さらに悲しくなるもので、花里ももう堪らなくなりましたんで、伊之吉の膝にワッと泣き伏しております。此方こちらもたゞ腕をくんで考えるばかり、智慧どころか中々鼻血も出そうにないので、只ただハア〱と申して居おる。伊之吉は男だけに、

伊「コウ、泣いたって仕方がねえってことよ、今夜すぐ身うけするってえんじゃアあるまいし、一寸いっすんのびれば尋ひろッてえこともあるんだ、左様そうくよ〱心配しんぺえして身体でも悪くしちゃア詰らねえからなア、まさか間違ったら其の時にまた何なんとでも仕ようがあらアな、え、何うするって、何うでも身請されることは否いやだ、己おいらの面つらを潰すようなことをしては済まねえって、解ったよ」

と元気は付けて居りますものゝ、花里の心が不愍ふびんでならないが、何分にも手の付けようがありません。それも自分が大芳棟梁の実子であったなら、又打明けて相談する場合もあるがと思い、伊之吉も沈んでいる。励まされて花里は顔をあげましたが、胸につかえて居ることがあるんで浮々うき〱は出来ません、両人ふたりとも無言で、ジッと顔見合みあわしておりますと、廊下にバタ〱と草履の音がいたした。

新「花里さんの花魁え、花里さんえ」

と呼ばれますから、てっきり海上が来たのだなと、ぞくりとして総毛だちまするが、返事をしない訳にはいかないので、

花「あい」

新「おや花魁、此処こゝにいたのですか、人がわるいよ草履までかくして、それも仕方がないわね、伊之さんが来てるんだもの、ホヽヽヽヽ、伊之さんには済まないがね花魁、何うかちょいと顔を出して来ておくんなさいよ、お部屋へ知れると喧やかましくって私らまでが叱られなくっちゃアならないからね」

花「ハア往いきますよ、いま直ぐ、また来たのあん畜生ちきしょうが」

伊「身請でも為しようてえ大事なお客様だ、早く往ってきな、畜生なんッて冥利みょうりが悪かろうぜ、ねえはアちゃん左様そうじゃねえか」

新「伊之さん、そんな当こすりを云うもんじゃありませんよ、花魁もこの事に付いては何様どんなに心配しているか知れないんでほんとに可愛そうだわ」

花「はアちゃんほんとにこの人の人情のないのには」

新「花魁、そう心配することはありませんわ、伊之さんだッて、ねえ」

と新造は双方を慰めて出てまいります。花里は猶往きそうにもしないから、

伊「早く往って来ねえな、いよ〱という時になりゃア何うともなるわな」

花「あゝ仕方がないね、まさか間違やア私ゃ死ぬより法は付かないと思っているのよ」

伊「ハヽア、能く死ぬ〱というな、死なねばならねえ場合ばえゝにゃア一人は殺さねえよ」

花「本当ほんと、嘘じゃアあるまいね」

そこは稼業でございますから、花里も嫌だと思っていましたって、まさか脹ふくれッ面もしていられない。座敷へ這入りますと、

花「海上さん何うも済みません、今朝から何処どこで浮気してました、何なんですね、そんな耄とぼけた顔をしてさ、お金きんどん一寸ちょいと御覧よ、ホヽヽヽヽ」

と新造の方をふり向きますから、

新「あら、花魁お可愛そうにねえ海上さん、そんなことアありゃしませんね、花魁の嫉妬ちん〱も余あんまり手放しすぎるわ」

花「お金どんは駄目だよ、海上さんに惚れてるもんだから肩を持つのだもの」

海「ハヽヽヽヽ何を言ってるんだ、僕はな今朝こゝを出ると青山の長官の家とこへ参り、それから久しゅう行ゆかんによって上野浅草附近を散歩して」

花「それから吉原なかへ行ったんでしょう」

海「イヤ〱決して参らん、花魁さえ諾うんといって呉れゝば、今夜にでも身請してすぐ宿やどの妻にする恋人があるんだもの、何うして外の色香に気がうつるもんか、ねえお金どん、左様そうじゃないか、ハヽヽヽヽ」

新「海上さんはお世辞ものですよ、その口で甘うまく花魁を撫でこみ、血道をあげさせたんですね、ほんとに軍艦ふねの方は油断がならないわ」

花「ほんとにお金どんの云う通りだよ、海上さんは口先きばかりで殺し文句をならべ、私見たいな馬鹿が正直にうけて嬉しがるのを、ねえ、蔭で見ておいでなさったら嘸さぞ面白いでしょうね、だけれどそんな罪を作っては良くはありませんよ、ホヽヽヽヽ」

海「僕はお世辞なんかを云うものでない、航海前ぜんに約束したことがあるから、帰朝すると直ぐお前のとこへ斯うして来ておるじゃないか、僕が約束通り身請を為しようといえば、何なんの斯かのとお前の方で引ひっぱっているのア、何うも変だぜ」

花「あらまた、あんな厭味いやみッたらしいことを言ってるよ、この人は、まアお酒でもおあがりなさいな」

と頻りに酌をいたしまするは、酔わして寐ねかそうと思うからでげすが、海上も花里の挨拶が煑にえきりませんから、今夜は是非とも承知させて身請をしよう、大袈裟に身請しては余計な散り銭も出ることでげすから、成るべくは親元身請にいたし、幾分でもそこのところを安くと考えていらっしゃるんですから、中々お酒も例いつものように召あがらない。新造が傍に居りますときは左様そうでもありませんが、差向いになると身請の相談で、ひそ〱と囁さゝやいているのは誠に親密らしい。斯うなってはお座敷が長く容易に引けませんので、花里は気が気ではありません、海上を寐かせておいて直ぐ伊之吉の名代みょうだいへ参ろうとぞんじても、これでは果しがつかないから、

花「ねえ海上さん、こんな相談をするには緩ゆっくりしなけりゃア落付かないから、あとで」

海「ウムそれもいゝが、何をいうにもお前が全盛な花魁だから、中々ゆる〱話してることが出来ないじゃないか、少し話しかけると廻しに出ていくしさ、おばさんが迎いに来るかとおもえば、また拍子ときで出られるしよ」

花「そりゃ勤めの身だから仕方がないわ、私がいくら貴方の傍にばかり居たくッたって、お部屋で喧やかましいから堪忍して下さいよ、本当ほんとにそれを言われるといかにも不実でもするようで済まないが、こんなものでも女房にしてやろうというお思召ぼしめしがあるんだからねえ、私だッて何様どんなに嬉しいか知れやしませんわ、あなたが浮気ッぽいからそれが今からの取越苦労になって、末が案じられるんでねえ、海上さんとっくりお前さんの心をきいた上でなくッちゃア」

とじろりと見ますれば、お座なりで言われているとは存じませぬ海上渡さん、熱心に花里の言葉をきいていらッしたが、道理もっともとお思召したやら、うなずいてお出いでになるはしめたと、

花「海上さん、まだお酒をめし上りますか、もういゝでしょう、折角話を為しようと思うころにグウ〱寐られて仕舞っちゃア、ホヽヽヽヽ」

海「ハヽヽヽヽ何うして寐られるもんか、床番させられても起きとるわ」

花「それじゃアお引けにしましょうね」

ポン〱と手をならしますと、新造がかけて参り、

新「何うもすみません」

花「お金どんお引けになりますから、海上さん便所はゞかりに行きませんか」

海「あゝ行ってこようよ」

新造はあとを片付けながら、若い衆しゅに床をとおして展のべさせます。客と花魁が参るころにはちゃんとお支度が出来ておると云う寸法。馴れたことゝは申しながら、まことに手際なものでございます。さアねんねという一段に相成り海上はころりと転がりましたが、花里はなか〱容易には寐ません。枕元で煙草の二三服ものみました上、つッと立って今度は自分が便所はゞかりにまいる。この間がなか〱永いもので、漸ようよう〱再びまいりましたが、また煙草をのみつゝ。

花「海上さん、すまないがね、今一組あがったから一寸ちょいと顔を出してくる間まってゝ下さいよ、ほんとに為しょうがないことねえ」

海「あゝ行って来なとも、情人いろおとこがきたのだろう、早くいって遣るがいゝ、ハヽヽヽ」

花「憎らしいよ海上さんは、そんなに浮々うわ〱してるから、先が案じられるッてえのですわ、つめ〱しますよ」

と肩のあたり一捻ひとつねりに、

海「あいた、酷ひどいな」

花「まってゝ下さいよ」

と言葉をのこして我わが部屋を出いづればホッと息つきましたが、この夜よは到頭寐転ねこかしをくわせられ不平でお帰りになり、其の次の夜よも〱同じような手でうまく逃げられて、何うも身請の相談をまとめることが出来ない。それから致して考えて見ると、花里の言うことゝ行することゝ些ちっとも合わないから、ハテ訝おかしいぞ、口では身請を喜びながら心では嬉しがらぬのだな、情夫でもあるのではないか知らん、左さもなきときは、誰もかゝる稼業を好んでするものはないに、と気が注つきましたから段々様子を探って見ると、伊之吉という情夫のあるので、海上さんも切歯はがみをなされ、えゝ知らざりし彼かれが言葉のみを信じて身請まで為しようとしたは過あやまりであった、併しかし男子が一旦この女を妻にと見込みながら、情夫があるからと云ってやみ〱手を引くは愚のいたりである、貞操全き婦人というではなし、高が路傍の花、誰たれの手にも手折たおるに難かたからざるものだ、この上の手段てだては彼女きゃつを公然身請して、仮令たとえ三日でもよろしい我物わがものにすればそれで気はすむ、最早親元身請などの吝嗇けちくさいことは云わぬと、妙なところに意気味いきみを出されたもので、海上さんは直接に花里身請のことをお部屋へ懸合われました。お部屋では利分のつくことでございますから、二つ返事で承知いたし、花里の身代金三百五十円にて相談が極りました。これが昔でございますと、当人が何なんと申そうとも、楼主の圧制で身請させて仕舞うのでげすが、当今の有難さは金を出して抱えている娼妓こどもだと云って、楼主の自由にすることは出来ません。当人が承諾しなければ自儘じまゝに人身売買をしてはならん。ところでお部屋からは噛んでふくめるように花里へ説諭せつゆしますが、何うしても諾うんとは申しません。当人はいやだといい客からは何うだ〱と催促されまするので、実はお部屋でも弱りきって持てあまし、と申して見す〱儲かるものを当人がいやだというからって其の儘にしては、後々のち〱他はたの娼妓に示しがきかぬ。脅してなりとも花里にさえ諾といわせれば、それで此方こちらの役目はすみ、お金にもなることゝ、慾が手伝いましては義理人情も兎角に外そッ方ぽうへよって仕舞うもので、お部屋からの言付けだと、伊之吉は到頭お履物はきものにされまして二階をせかれ、花里は遣手やりて新造までにいろ〱と意見させて見ましたが、いっかな動きません。強情にも程のあったものだ、とお部屋でも今は憎しみが掛り花里は呼付けられまする。小言をきくは覚悟の前で、今日は何なんといって言訳をしようか、たゞ厭とばかりは申すことが出来ない、何ういい抜けをして逃のがれようかと心配しますれば、胸も痞つかえて一杯でございます。

楼「花魁、こゝへ来なさい、何もそんなにうじ〱してることはないから」

花「はい」

とは申しますものゝ窃そっと楼主の顔をみますれば、何なんとなく穏おだやかでない、幾度いくたびとなく身請のことを口を酸ッぱくして諭しても、花里は諾うんと申さないから焦じれているんで。随分娼妓こども達には能くしてやる楼主でございますが、花里のように強情ばかり張って申すことを聞分きゝわけませんから、今は意地になって居ります。抱え娼妓しょうぎに斯う我儘をされるようでは他はたへ示しが付かぬ、何うにでも圧おしつけて花里を身請させねばならぬと申す気が一杯でげすから堪りません。これを見ると花里はゾクリといたし襟元から水を打掛ぶっかけられるような気がする。そうすると直ぐ悲しくなって眼には涙を催してまいりますが、坐らない訳にはまいりませんから、針の筵むしろにいる気で楼主の前に坐り下を向いたまゝで顔を上げない。

楼「花魁、この間から度々たび〱いう事だが、お前海上さんの方へ何う御返事をする積りなのだえ、よく考えて御覧、いつまで斯こんな稼業をしているが外見みえではあるまいしね、お前とて子供ではなし、それぐらいのことはよく分るだろうが、それにお前の気ではあの青二才の伊之吉と約束があって情を立てる積りだろうがね、それは大きな間違というものだ、近いところが此楼こゝにいたあの綾衣あやぎぬがいゝお手本だよ、あんな夢中になって初はつさんのところへ行ゆき、惚れた同士だから嘸さぞ中好なかよく毎日暮すだろうと、楼中うちじゅうの羨うらやみものだッたは知っているだろう、それが御覧なさい、物の三日も経たないうちから喧嘩する、末はとうとう夫婦別れして綾衣は今じゃア新造衆になってるじゃないか、又瀬川せがわはいやだ〱と云いながら、お前と同じように痺しびれを切らした末が、海軍の方に身請されたが、今じゃアお前、横須賀で所帯をもち、奥様といわれ立派になってるよ、まア物ごとは凡すべて左様そういうものでね、この稼業なかで惚れた腫れたで一緒になったものは兎角お互に我儘が出て、末始終を添い遂げられるものでないからね、お前もよくそこのところを考えて海上さんに身請され、気楽に暮すが当世だろうぜ、え、花魁、何うだね、分ったろうね」

花「はい」

楼「分ったら、身請されて廃業するだろうね」

花「旦那さんを始めとして皆さん方も、いろ〱と御親切に仰ゃって下さいますが、こればかりは御勘弁遊ばして、何うかこのまゝ」

と申しながら、はや得え堪たえずなりましたやら、ワッと泣き伏しますので、楼主もいよ〱呆れ、強情にも程のあったものだ、其の身の為を思って意見してやるを無にして我がを通そうとするが面にくいといら〱として参ッたので、常にはなか〱思慮ある楼主でげすが、斯うしたときは我を忘れるもので、傍かたわらにござりました延のべの長煙管を取るも遅しと、花里を丁々と折檻せっかんいたします。これが此のごろのようにない前の花里なら楼主がそうした乱暴をする気遣いもありません。また他はたのものも直ぐ駈けつけ参って詫言もしてやりますが、何をいうにも伊之吉へ一心を入れて情を立てる為に飽あくまで強情をはり、他人ひとの意見を用いませんので憎がられているときでげす。誰だッて止めるものはない。花里は散々に打擲ちょうちゃくされて悲鳴をあげていましたところへ、ばた〱と駈けて参ッたものがございますので、楼主もハッと気が注ついて手をとゞめ、

楼「だれだえ、其処そこへ来たのは」

小「はい、私でございます」

楼「そういう声は、小主水じゃアないか」

小「はい、その妓このことで、旦那さんに少々おねがいがござりまして」

楼「花里のことでおねがいだと、花魁、それは廃よしてくんな、こんな強情ものに口をきいてやったッても心配の仕甲斐がないからね」

小「そうではございましょうが、もとは私の部屋から出したもの、旦那さんや皆さん方に御苦労をかけるがお気の毒、今までは出しゃばッてはと控えていましたが、もう何うも引込んでいられない今日の様子、何うか一応は私にお任せなすッては下さいますまいか、及ばずながら意見をして見ましょう、皆さんの御意見でさえ柔順すなおにいう事をきかないんですから何うで駄目でしょうけれど」

と小主水が様子あり気な取なしでげすし、殊にこの花魁の言うことは、元世話になったと花里は一目も二目もおいておりますから、楼主も承知いたし、

楼「それでは小主水の花魁、お前に預けますから、何うか意見をして遣って下さい、私わしもこの妓こが悪にくうて折檻までするのではないからね」

小「旦那さんの御親切はよく存じて居ります、花里さん何うしたんですよ、ほんとに困りますねえ、さア私と一緒にお出でなさい」

泣き伏しております花里の手を引いて小主水は己おのが部屋へ帰りました。花里はよう〱にいたして涙をはらい、

花「姉ねえさん何うも済みません、とんだ御心配をかけましてねえ」

小「済むも済まないもありゃしませんが、花里さんお前さん全体何うする気だい、この身請にどこまでも楯ついて強情を張り通すつもりかい、そりゃ伊之さんとの交情なかもよく知っているから、今までは他の人達が何なんのかのと言って意見しているのを知らず顔でいたんだがね、今日のように内所ないしょで折檻されるを何うも見てはいられないから、疾とくとお前さんの了簡をきいた上で、ねえ、また膝とも談合というから話し敵がたきにもなるつもりなの、些ちっとも遠慮することはないから、本当ほんとのところを言ってきかせて下さい、私は何でも内所のいうなりにお成りとは言わないよ、海上さんの身請が否いやなら、否のようにまた為する仕方もあるだろうからね」

花「有難うございます、本当に済みません」

と又泣きくずおれまする姿を見るにつけ、其の心の中うちを推量致すと小主水も可愛そうになって堪りません、命までもと入揚いりあげております情人おとこは二階を堰せかれて仕舞い、厭な客に身請されねばならぬのでげすから、我身も此様こんな場合にあったら矢ッ張りこの様に意地を立て、どこまでも情人の為に情を貫ぬくかも知れぬと思いますると、何うも花里に同情を寄せられるような気がいたし、胸もふさがッて参り、何なんとも意見の仕様がございません、暫らくはジッと見詰めていましたが、それも憐いじらしくて見ていられぬ。泣ごえを立てじと忍びまする度たびに根のぬけた島田ががくり〱して顫ふるいますから、何うも身請をすゝめる事の出来ないばかりじゃアございません、感情に制せられては他人ひとのことで涙が浮いてまいり、横を向いて仕舞いましたが、それでも気にかゝりますので、またちょい〱と花里の泣伏す姿を見て、目を数叩しばだたいておりましたが、左様そう何時までも黙っていたとて際限がないと、

小「ねえ花里さん、じゃア何うしても海上さんのとこへは行ゆきませんね」

花「姉さん、すまないが堪忍して下さい」

と申したきり、また小主水も花里も無言でいましたが、花里は何なんと思いましたか、顔をあげて涙をはらい、

花「姉さん、私は諦めました、いろ〱御心配をかけて、とても伊之さんと添うことは出来ますまいから」

と云ううちにまた眼には一杯の涙がたまりましたを襦袢じゅばんの袖でふき、ホッと溜息つき、力なく、

花「仕方がありません、海上さんに身請されますわ、今までいろ〱とお世話になりまして、御親切にして下すった御恩は決して忘れません、ナニ私があの人に義理さえ欠いてしまえば、それで何事もありゃアしませんわ、ほんとに姉さんの御恩は」

と合掌しますので、小主水は花里の様子に目もはなさず見ていましたが、我知らずほろり〱と涙をこぼしているに、花里もこれに誘われましたか、また突伏つッぷして仕舞いました。小主水は一層傍そばへすり寄って、

小「花里さん、お前さんは、其の了簡はわるいよ、短気を起しては」

花「いゝえ、決して」

小「お隠しでない、お前さんが三日でも海上さんのとこへ行っていて駈出すような気なら心配はしないが、仮令たとえ一日でも、伊之さんへ義理立てをするんだから、諦めたと言いなさるは死ぬ気でしょう、そんな短気を起しては宜よくないよ、それも無理とは思わないが、突詰めたことすれば伊之さんだったッて、あとで何様どんなに悲しがんなさるか知れやアしないわ、死ぬ気で、ねえ花里さん」

花「それだから海上さんのとこへ行ゆくつもり、そうすれば御内所ごないしょでも」

小「まだそんな事をいっているよ、私にまで隠して、何うでもお前さんは死ぬ気かえ、これほど為を思い、お前さんの心を察して言ってあげるのに」

と小主水は少しくムッとして見せますれば、花里は猶更かなしくなり、摺寄って小主水の膝に獅噛付しがみつきますのを、払いのけ、

小「本当に分らないにも程があるじゃないか、私にばかり口を酸すっぱくさしてさ」

花「姉さん、私何うしよう、姉さんに左様そういわれッちまやア、仕方がないじゃありませんか」

といよ〱突詰めた様子でげすから、小主水ももう仕方がありません、この上は打捨うっちゃっておけば大騒ぎになるんですから、ます〱不愍ふびんは加わります。こんなに思っているんだから、せめて一日でも伊之吉に添わしてやりたいと思案にくれましたが、やがて花里の耳に口をよせ何事でございますか囁さゝやきます。

花「姉さん、何うも」

小「いけなかったらそれまで、まア遣って御覧」

八

エー和国楼の花里は姉と立てゝおりまする小主水の意見に従いましたことでげすから、いよ〱身請される相談が極り、今夜は海上がお金を持ってまいり、楼主に渡して引き祝いに朋輩を総仕舞にいたし、陽気に一花咲かせる事に相成りました。花里も進まぬながらそれ〲と支度をいたせば、小主水もいろ〱に世話をやきまして、傍わきから注意いたして居ります。朋輩女郎じょうろたちは年期で出るでなく身請ときいては羨ましいので、入り替り立かわり、花里の部屋へまいり名残を惜むもありますれば、喜びを申すもありまする。また廊下などで立話をしているをきけば、

○「いよ〱花里さんは、海上さんのとこへ行ゆくッてねえ、今夜が身請になるんだッて、本当ほんとにうらやましいわ、私ゃ花里さんが出たら、あの部屋へ越そうと思ってるのよ」

▲「私だって覗ねらっているのさ、本当にあの座敷は延喜えんぎがいゝからねえ、瀬川さんだってあの座敷から身請されたのだし、今度の花里さんだって矢ッ張りなのだから、それに二人とも海軍の方だものねえ」

×「花里さんの廃ひくのは瀬川さんたア一緒にならないわ、あんなに血道をあげてる伊之さんてえ情人ひとがあるんだから、海上さんは踏台にされるに違いないのよ、何うして花里さんが伊之さんと切れられるものかね、また無理もないから、男ぶりも好よく厭味いやみッ気がないのだもの」

△「ハクショ岡惚おかぼッてるよ、この人は」

□「何うも憚はゞかりさま、花里さんが出て仕舞えば伊之さんは私が呼ぶのよ、その時にゃア屹度おごるからね、ホヽヽヽヽヽ」

○「馬鹿にしてるよ、本当ほんとうに」

なんかんと風説うわさしております、そのうちに張見世はりみせの時刻になりましたが、総仕舞で八重やえの揚代ぎょくが付いて居りまするから、張見世をするものはございません、皆海上の来るのを待っている。併しかし外のお客を取らないというのではありませんから、初会でも馴染でもお客のあるものはずん〱取っている。その家々うち〱の風ふうで変りはありますが、敵娼あいかたの義理から外の女郎じょろうを仕舞わせるほど馬鹿々々しいものはありますまい。それぐらいなら溝どぶの中へ打捨うっちゃる方が遥かましでしょう。何うも済すみませんとか有難うござるとかいう一口が揚代一本になるんですからねえ。それも仕舞ってやったお客には何の挨拶もするでなく、その娼妓が紅梅なら、紅梅の花魁へのみの会釈でげすから癪にさわるじゃありませんか。とんでもねえ鼻ッたらし扱いされるんでげすから、併しあの場所へ浮れてお出で遊ばす方はそんなことに御頓着ごとんじゃくはなさらぬものでな、お気に召した花魁でも参り、程のよいお世辞の一つも言われると、土砂をかけた仏様のようにお成んなさる。余事はさておき、意地を張って身請を拒みました花里も、小主水の説得に伏ふくしていよ〱廃業すると申しますので、海上渡さんはお鼻が高うございます。意地ばって楯をつくころは女の小面こづらを見ても腹が立つものだそうでげすが、さて先方さきから折れて出れば元より憎い女でない、廃業祝ひきいわいには当人の顔は勿論でげすが、廃業ひかせるお客海上の顔にもかゝるんですから、立派にして遣らねばならぬ、立派にしてやるが青二才の職人風情に真似の出来るもんか、己と競争為しようと思ったッて到底とても及ぶまいと、大奮発おおはりこみでございます。花魁花里が廃業祝の支度とゝのい、もう海上さんがお出でになるころと待ちうけて居ります。路傍の花いまゝでは誰彼たれかれの差別なしに手折たおることが出来る、いよ〱花里の身があがなわれて見れば、なか〱自由にはなりません、主ぬしあるお庭の桜でげす。手でも付けようものなら、それこそ大変がおこるッていうような訳となりますんで。彼かの情人いろの伊之吉でげすが、エー、花魁は決して海上になびく気遣いはない、まかり間違えば死のうとまでしたんだから、それに文ふみの模様では小主水花魁が相変らず親切に真身しんみになって世話をしておくんなさるてえから、大丈夫だ心配することはないが、何うも気になってたまらんよ、ゆうべ小主水花魁から届いた文のように旨くゆけばよいが、そうは問屋といやでおろしそうもないて、ひょっと仕損じて花里さんえ何処どこへ往ゆくんです、さアお座敷へお出でなさいよと云われた日にゃア仕方がない、いかに小主水の花魁でも斯うなったら何うも仕様があるまい、事がグレ蛤はまとなった時は馬鹿を見るのが己おいら一人だ、あれもいや〱海上に連れられて行ゆく、イヤ〱仮令たとえつれられて行けばとて無事でいる気遣いはない、花里あれの性質はよッく知っているが、己らを袖にして生きてはいぬ、が、花里あれとても素人じゃアなし、多くのお客に肌身をゆるし可愛かわいゝのすべッたのと云う娼妓だ、いくらあゝ立派な口をきゝ、飽まで己らに情をたてると云ってゝも、フイと気が変って海上に靡なびかないとも限らないから、と頻しきりに考え込んでいるのは伊之吉でげすがね。花里が小主水の差金さしがねで身請を諾だくしますと直ぐ、伊之吉の許もとへ品川から使い屋が飛んでまいった。此のごろは二階を堰せかれているんでげすから、折々花魁から使い屋をたてゝ文の遣取やりとりに心を通じている場合、何か急な用が出来て花里から使い屋をよこしたのだと思いますと、小主水からの使いで、文面を読むたびに恟びっくりばかりいたしましたが、親切に細々こま〲書いてあるから伊之吉もその通りにいたし、身請の当夜を待ち、指図のごとく一艘の小舟を借りまして、宵の口から品川の海辺に出で汐を見ますと、丁度高潮まわりで段々と汐のさしてまいる端はなでげすから、伊之吉喜び勇みまして、舟を和国楼の石垣のとこへつけ、息を殺して潜んでいるのでございます。すると夜風は身にしみて肌さぶく相成り、二階ではお酒が始まり芸妓げいしゃが騒ぎはじめますから、馬鹿々々しくなって堪りません。舟底にころりとやって居りましたが、気が揉めますから、首をあげて二階を見ますると、障子にヒョイ〱男や女の影法師がうつる。またはワーワッと笑いごえの致すのが、自分を嘲弄ちょうろうするようにも聞き取れますんで、いろ〱の考えをおこし、ムシャクシャしてまいる。左様そうかといって自分は忍んでいる身でございますから、うっかり頭をあげたり舟を動かすことは出来ません。若もしも石垣へばしゃり〱波があたって楼中で気が注つかれて見ると、百日の説法も屁一つになるんでげすからな。その心配というものは容易でありません。伸びつ反そりついたして楼内うちの様子にばかり気を配って、此処こゝへ舟をつけて待っていてくれろというからは、屹度花里が忍んで出てくる手段てだてに違いなかろう、小主水の花魁は天晴あっぱれ男まさりの働きがある女だから、万に一つも遣り損じはあるまいが、何をいうにも大勢の人の目を掠かすめて脱ぬけ出させるのだから旨く行ってくれゝば宜いいがと、庭の方で足音でもしはせぬかと、そればかりに耳をたてゝおりますが、さっぱり足音もしない。二階ではいよ〱大騒ぎで、陽気になってまいる。すると花里々々とこえがチラリ〱と聞えるので、また一層の苦になって堪りません。エヽ詰らない馬鹿々々しいや、斯うして心配しているのに彼女あいつは、あの仲間にはいって笑っているかも知れんと、水上警察の巡廻船に注意いたしつゝ、そっと首をあげまして石垣につかまり、伸びあがって楼内うちの様子をうかゞっていまする。と、庭は真闇まっくらでげすから些ちっとも分りませんが、海面に向ってある裏木戸のところで、コツリガチャリという音がするので、伊之吉は恟りいたし伸した首をちゞめ、また舟の中に小さくなっている、錠でも外すような音がいよ〱耳につきますから、またそっと伸あがって木戸のあたりを透すかして見ますると、暗夜やみで判然はっきりとは分りませんが、何なんだか白いふわり〱としたものが見えました。それから熟よく耳を澄すましてきゝますと人の息をするようでげすな。ハテ来たなと思いますから、怖々こわ〲石垣の上へあがり匍這はらばいになって木戸のところまで匍はってまいり、様子をきゝますと内のものは外に人がいると知りません模様で、しきりに錠を外そうといたしておりますから、伊之吉も今時分こゝへ外ほかのものが来る筈はないとぞんじ、静かに木戸の際わきへ立ちよりまして、

伊「花魁かい」

と声をかけました。大抵なら先方さきでも恟りするんでげすが、そこは約束のしてあることでございます。先方でも些ちっとも驚いた模様もありませんで、

花「伊之さんですか」

と焦じれてガチリと音させ、よう〱錠をはずし木戸をひらき、出てまいりますと、只何なんにも言わず伊之吉に取りすがって顫ふるえております。伊之吉とてこんなことを遣るは臍へその緒きって始めての芸で、実は怖おっかな恟りでおるんでげすが、何なんと云ってもそこへまいると男は男だけの度胸のあるもので、

伊「これ、折角斯うして逃げ出したもんだから、早くこの舟に乗んねえな、ぐず〱していて見附けられた日にゃア、虻蜂とらずで詰らねえからな、エヽもうちっとだ確しっかりしねえな」

と小声で申しながら、花里の手を取って、怖おっかながるをよう〱舟にのせましたので、まアと一安心いたしましたが、早くこゝを遠走とおばしッて仕舞わないと大変と存じますから、花里には舟底のところに忍ばせ上から苫とまをかけまして、伊之吉は片肌ぬぎかなんかで櫓ろを漕こいで、セッセと芝浜の方へまいります。それも燈火あかりがなくては水上の巡廻船に咎とがめられる恐れがありますから、漁師が夜網よあみなど打ちにまいるとき使う、巡査おまわりさんが持っていらっしゃる角燈かくとうのようなものまで注意して持ってきているから、それに燈火あかしをいれて平気で漕いでまいりました。いまは品川も遥かあとになりましたから、ホッと息をつき、

伊「花里さん、もう些ちっとだから辛抱しておいでよ、ちょいと首を出して御覧、品川はあんなに遠くなったから、此処こゝまで来れば大丈夫鉄かねの鞋わらじだ、己おいらは強えらくなったぜ」

花「そう、本当ほんとにすまないことね、お前さんに此様こんな苦労までかけてさ、堪忍して下さいよ、これも前世からの約束ごとかも知れないわ」

伊「何も礼をいうことアねえや、お互たげえに斯うなってるんだから」

花「今度の事には姉さんに、まアどんなに心配をかけたか知れないので」

伊「そうよ、小主水「小主水」は底本では「小主人」と誤記姉さんには本当にすまねえが、実に彼あの人は両人ふたりが為には結ぶの神だよ」

花「はア本当にそうですわ」

伊「両人が落著おちついたら何うしてもこの恩を報かえさねば、畜生ちきしょうにも劣るから、己らは」

と跡言いいかけまするとき、ギイ〱と櫓壺の軋きしる音がして、燈火あかしがちらり〱とさす舟が漕ぎまいります。伊之吉は俄に花里を制し、また元の如く苫を冠かぶらせてしまいました。さて和国楼でございますが、肝腎かんじんの花里がいま身請の酒宴さかもりと申す最中もなかに逃亡いたしたんですから、楼中の騒ぎは一通りではありません、上を下へとゴッタ返して探しましたが、中々知れそうな理由わけはありません。まさか伊之吉が舟を持って来て連れていったとは知れよう筈がない。海の中にいるんでげすから陸おかを探したとて跡のつく気遣いなし。海上も一時はカッと怒いかられて、外のものに当り散らしては見たが、相手のない喧嘩は何うもはえないもので、到頭そのまゝ泣き寝入で、只ただ器量を下げてお引下がりになりました。併し和国楼では、花里に逃げられたから、それで宜よいわと済まされませんから、それ〲の手続きも致さねばならぬ、品川警察へ逃亡のお届けをいたし、若しや伊之吉のところへ参って居らぬかと、追手を出して探させましたが、さっぱり解らず、伊之吉は平生つねに変ったこともなく、此の頃では仕事場へも出まして稼いでおりますから、何うしても手懸りが付きません。品川警察へ呼出されてお調べに相成ったこともございますが、伊之吉の申し開きは立派にたち、放還になって見れば花里の行方はます〱手懸りが切れたようなもの。たゞ和国楼の庭口の木戸のあいていたというところで、海中へ身を投げて死んだのであろうと評判でございました。ナニ伊之吉がちゃんと他わきへ隠してあるのが知れませんは、不思議なもので、お取締りは随分厳重になって、コラお前の家うちには同居人はおらんか、と戸籍調べのお巡査まわりさんはお出いで遊ばしても、左様そう重箱の角までの世話の届くものではありません、早いところが我々どもの家でさえ嚊かゝあ左衛門が、ちょいとホマチを遣るのを主人あるじが知らずに居おることは幾らもあります。これは、何うもはや、読者方あなたがたの御新造様が決して左様さようなさもしいことを遊ばす気遣いは毛頭ございませんが、我々仲間の左衛門尉さえもんのじょうには兎角ありがちのことで、亭主に隠して焼芋でも買うお鳥目をハシけるは珍らしくないことでな。イヤこれは余計な贅言むだごとを申し上げ恐れ入ります。兎に角、花里花魁の行方は知れずに月日は経ちました。

九

神奈川在の甚兵衞夫婦をたよりてまいりました、お若伊之助でございます。甚兵衞夫婦も疾とく世を去り、月日はいつか二昔ふたむかしをすぎまして、二度目に生れた岩次と申す息子も十八歳と相成りましたくらいでげすから、お若さんも年を取りましたな。皺は一杯額に波うちますし、髪の毛は薄くなる、昔の面影はありません。それに永く田舎に燻くすぶっていたんだから、まことに妙なもので、何う見ても田舎ものでげすッて、伊之助もその通りで、何事もなく暮していましたが、さて何となく気にかゝってなりませんから、お若さんも伊之助と相談いたし、兎に角伯父の高根晋齋が生きているうちに詫言わびごとせんと、久し振で東京へ出てまいり、まだ鳶頭かしらの勝五郎も生きているに違いないからッて、尋ねてまいりましたは下谷の二長町にちょうまちでげすが、勝五郎の住すまっていた長屋は矢ッ張りございますんで、お両人ふたりはヤレよかったと喜び、台所口からのぞいて見ると、朝のことでげすから勝五郎は火鉢のわきで楊枝をつかっている、自分の年をとったことは分りませんが、他人ひとの老けたのは能くわかるもので、

若「ちょいとお前さん御覧なさい、鳶頭も大層年をとりましたことねえ」

伊「成程すっかり胡麻塩になっちまった、己おいらだッて他人ひとから見ると、矢ッ張り爺い婆アになってるんだよ」

若「本当ほんとにそうでしょうねえ、神奈川へ行ったのも昨日今日のように思ってるが、二十年ふたむかしにもなるんだからねえ、高根の伯父もさぞ年をとったでしょう、まさかもう頑固もいいますまいよ」

伊「岩の手前てめえも面目ねえや、ハヽヽヽそんな事を言ってたッて始まらねえ」

と伊之助が訪おとないまして、神奈川在からお若と伊之助が尋ねて参ったと申すと、楊枝を啣くわえておりました勝五郎は恟りいたし、台所へ飛んでまいり両人ふたりの顔をしげ〱とながめましたが、急に眉毛に唾をつけますから、お若さんは、

若「鳶頭、何うも久し振ですねえ、お前さんも相かわらず御丈夫で何よりですよ、先年はいろ〱お世話になりましてねえ、本当ほんとにすみませんでしたこと、今度こうして両人でお宅へまいったのは、あれを見て下さい、あのようになった息子までも出来た夫婦ですから、是非お前さんの袖にすがって伯父さんにお詫をしていたゞき、永らくかけた御苦労の御恩を返そうとおもってね、それで態々わざ〱来たんですから、鳶頭どうか、お前さんより外に頼むものもないんだからお願い申します」

伊「今お若からも申すとおり、お前さんが夫婦の手引きだから、面倒でもあろうし、先頃お前さんの意見をきかなかった腹立もあろうが、ねえ鳶頭、何うか昔のことは言わずに一肌いれて下さい」

と頼みまする様子に勝五郎はいよ〱恟りいたし、開いた口は塞ふさがりません。と申すはお若さんでげす。再び伊之助と腐れ縁が結ばりまして、とんでもない事になるところを根岸の高根晋齋が家うちへ引取られましてから、病気で一歩ひとあしも外へ出たことがございません。今でも現に晋齋のところにぶら〱としているんですからね。元より大病というではありませんから今はお医師いしゃにもかゝらず、たゞ気まかせにさせてあるんで、尤も最初はじめのうちは晋齋も可愛そうだと思召し、せめて病気だけは癒なおしてやろうと、いろ〱のお医者におかけなされましたが、さっぱり効験きゝめがない。お医者にかけないからッてドッと悪くなるでもありませんから、二十年から欝々うつ〱と過しているんでげす。さア左様そういう風でございますのに、また一人お若さんが出来て、子供までつれてお出いでなされたんですから、鳶頭の驚きまするは当然あたりまえで、幾らくびを曲げ眉毛に唾をつけましても、その理由わけはわかりません。こいつは不思議だぞ、さきに根岸では伊之助が二人出来た例ためしもある、こんどはお若さんが二人になったは不思議だ、これは何いずれか一人のお若さんは屹度変化へんげにちがいない、併し根岸の高根晋齋先生のところにござるお若さんが、ヨモ変化である筈はないことだ、そうすると今伊之助と一緒にまいっているお若さんが訝おかしい、斯う考えて見ると伊之助も変化かも知れない、根岸で先生がズドーンとやった狸公たぬこうが、アヽそれに違いないと、ぶる〱ッと顫ふるえあがるのに、お若も伊之助も呆気にとられてこれも茫然ぼんやりいたしていましたが、何時まで睨にらみッこを致していたとて果はてしがありませんから、

若「鳶頭、お前さんは矢ッ張りわたし等を憎んで、この願いをきいては下さらないのですか」

勝「なに、そんなことじゃアごぜえません、が、何うもおつりきで」

若「エ、おつりきとは、そりゃなんの事で」

勝「なにさ、それは此方こっちのことで」

と申しながら不承不承請合いまして、下谷二長町からドン〱根岸へやってまいりました。高根晋齋は庭に出て頻りに掃除をなすっていらっしゃいます。そのお座敷は南向でございますから、日が一杯にあたって誠に暖あったかでげすから、病人のお若さんも縁側へ出て日向ひなたぼこりをいたしながら伯父さんと談はなしをいたしておりますところへ、書生さんがお出でになりまして、

書「エヽ、先生、先生ッ」

晋「なんじゃ」

書「鳶頭の勝五郎がまいりまして、至急お目にかゝりたいと申しますが」

晋「左様さようか……こちらへ通しなさい、また何かそゝッかしやが詰らぬことに目を丸くしてまいッたと見えるな、彼あれも若い時分「時分」は底本では「自分」と誤記から些ちっとも変らないそゝっかしい奴だが、あんな正直な人間もすくないよ、稼業柄に似合わない男だ」

と仰ゃりながら、ポン〱と裾すそをはたいて縁側へお上りになりますとき、永ながのお出入で晋齋先生のお気に入りでげすから、勝五郎はずか〱とおくへまいりまして、そこに出ておいでなさるお若さんを珍らしそうにながめ、何なんだか変挺へんてこの様子で考え、まことに茫然ぼんやりといたして居ります。

晋「鳶頭か、よくお出でだね、お前何か心配なことでもあるのか、大層かんがえていなさるね」

勝「先生様、奇体きてえなことがおッぱだかったんで、またね、狸公たぬこうがお若さんに化けてめえりやしたぜ」

晋「オイ〱鳶頭は何うかしているよ、お前おかしな事をいうねえ、気を落付けてゆっくり物を言いな、些とも理由わけが解らないじゃないか」

勝「それがね、先生大変なんで、今狸公のお若さんが、あの伊之助野郎と一緒に私わっちの家うちへ来ているんですから、変挺じゃげえせんか」

晋「何なんだと……狸のお若が伊之助と一緒にお前のところへ来た、ハヽヽヽヽ馬鹿をいいなさい、お前寝惚けているんじゃないかい、そんなことがあるものか」

勝「ソヽヽそれがね、全くなんで、全くお若さんが伊之助をつれ、若い男までも引張って来ているに違いないんでげす、先生にお詫をしてくれッて」

晋「ハヽヽヽいよ〱訝おかしいよ、お若はこゝにいるじゃないか、殊に二十年来の病気で外出したことのないものがお前の家うちへ行ゆくわけがないよ」

勝「さアそこだッて、それだから狸公だ、てっきり狸公にちがいないんで、よく化けあがったな、ナニようがす、先生、貴方さまが根岸でパチンとおやんなすった短銃ピストルはあるでしょうねえ、それを私わっちにかしておくんなせえまし、今度は私がパチンとやって遣るんだ」

と急あせり切って前後不揃ぶぞろいにお若伊之助のまいった次第を話しますので、晋齋も不審には思いますが、自分に遇あって詫を為しようと申すは不測ふしぎな理由わけ、ことに子供まで出来十八九ともなっているとは解らぬ事だと、目を閉じて考えてお在いでになると、勝五郎は短銃を貸せ、打って仕舞うからと急せきたてます。晋齋は最早八十からにお成り遊ばす老人でいらっしゃるが学問もなか〱お出来になる偉いお方でございますから、先ずお若伊之助と名のるものに面会いたした上で、その者等が様子を篤とくと見極めてもしも変化のものなら、なんの年こそとっていれ狐狸こりに誑たぶらかされる気遣いはないと、御決心あそばしましたから、

晋「勝五郎、まアそんなに無闇なことをいたしてはなりません、私わしに遇いたいと申すなら遇ってやりましょう、つれてお出でなさい」

勝「へー、先生様は狸公にお遇いなされますか」

晋「イヤ狸であろうと狐であろうと、遇いたいと申すものには遇ってやりましょうよ、ぐず〱言わずに伴つれてお出でなさいよ」

勝「へー、伴れて来いと仰しゃいますなら伴れてまいりますがね、若し途中で私わっちをばかして蚯蚓みゝずのおそばや、肥溜こいだめの行水なんぞつかわされはしますまいか」

晋「馬鹿を云いなさい、人間が心を臍下さいかに落付けていさいすれば決して狐狸に誑ばかされるものでないから」

と説諭せつゆされましたので、勝五郎は彼かの尋ねてまいったお若と伊之助、それに忰せがれの岩次をつれて参りました。高根晋齋は三人の親子を奥へ請しょうじて対面に相成りまする。お若と伊之助は頻りに身の淫奔いたずらを詫び、何うかこれまでの行いはお許し下さる様にと他事たじはございません。妖怪変化のものは如何によく化けますといっても、必ず耳が動くものだそうにございます。そこは畜生ちきしょうの悲しいところで。晋齋老人は何なんにも仰しゃらず、ジッと見詰めておいで遊ばすが、三人の人間に少しも怪しいところがない、殊に不思議なのはお若さんで、年配から言葉音声おんじょう、額によりまする小皺まで寸分かわりません、只だかわっているところはお頭髪つむりでげす、此家こゝにおいでになるお若さんは病中でいらっしゃるから、お頭髪なんかにお構いなさらないんで、櫛にくる〱とまいてありますが、今勝五郎のつれて来たお若さんは丸髷に結っていらっしゃる。それとお衣類なりにちがったとこがあるばかりでございます。晋齋老人もこの場の様子が不思議に思召す。何うもお若さんが二人になってる理由わけがお解りになりません。成程これでは勝五郎が恟りするも無理でない、乃公おれも八十年から生きて世間のあらゆる事には当って来ているし、随分経験もあるが、こんな訝おかしなことはない、根岸で伊之助が二人あったことはあるが、あれは一方が変化のものということの認めがついて、短銃でパチンとやッつけたが、今度のは怪しいところが些ちっともないから無暗むやみなことは出来ぬ、とじろり〱お若さんを見ては考えていらっしゃる、先刻さっきからいくら経っても伯父さんからお言葉が出ないので、

若「伯父さん、私が重々不調法のだんはお詫いたします、何うか御勘弁あそばして、こゝへ伴つれてまいったは岩次と申し、この人と神奈川におりますうち産みました子で、岩次、これがかね〲お前にも話した根岸の伯父さんッてえので、お前には大伯父さんだから、よく御挨拶をなさい、柄ばかり大きゅうございますが、田舎で育ったんですから行儀も知りませんし、カラ意気地いくじがありませんよ、伯父さん〱」

と申しますから、言葉を交さない訳にはまいりませんので、晋齋老人も一通りの挨拶をよう〱なさいました。それから両人ふたりの身の上についていろ〱お聞きなされ、その間は少しでも油断なく御注意あそばしましたが、何うしても狐狸なんかでないようでげすから、ます〱不審であるから、これは病人でいるお若に遇わし二人を並べて置いての詮議より仕方がない、と御決心あそばし、

晋「お若や、ちょいと此処こゝへお出で、伊之助が尋ねてまいったから」

と仰しゃると、一緒に参っているお若さんは平気できいている。只だ莞爾にっこりしたばかりで不審らしい顔もしません。やがて奥から嬉しそうにして出てまいった病人のお若さん、これもたゞ莞爾いたして伊之助の傍そばへぴったり坐り、別に挨拶をするでもなく澄している。おどろきました伊之助、きょろ〱と両人りょうにんのお若さんを見まわし呆気にとられる。息子の岩次も俄にお母様っかさんが二人出来たのでげすから、これもボーッといたしています。晋齋老人は流石さすがに博識な方でげすから、二人のお若さんに目もはなさず御覧になっている。するとお若さんの形こそ両ふたつになっておりますが、その様子におきましては両人ふたりとも同じことです。一方のお若さんが物を言いかけますれば、言葉は発しませんが一方でも口をムグ〱いたしておる。また一方でお頭髪つむりをおかきになれば一方でもお櫛でお頭つむりをおかきなさる、そのさまが実に不思議でげす。そう斯ういたして居りますと高根さんの門外で容易ならぬ人ごえがするんで、晋齋老人耳をお立てなされ、縁側へお出で遊ばして生垣の外を御覧になると、若い男女なんにょを三四人の男が引立てようといたしている。そのうちに女は何うすり脱ぬけましたかバタ〱と晋齋の邸内へ逃込みました。窮鳥懐にいるときは猟夫も之れを射ずとか申すこともあり、晋齋はもとより慈悲深い方でいらっしゃるから、お内に二人のお若さんが現れてごた〱いたしている中でげすが、何うも見捨みすてておくことがお出来なさらない。直ぐ書生さんにお命じなされ、兎も角もと門外の男もまた男女ふたりを引立ひったてようといたす若いものも共にお呼込みに相成りました。さて、段々と様子をおきゝに成りますと、引立ひきたてられようと致した男女ふたりは品川の和国楼から逃亡した花里と伊之吉でございます。晋齋老人は眉をひそめ、これは怪けしからんことである、娼妓などを連れて逃亡するとは怪しからん。伊之吉といえば勝五郎の世話で深川の大芳棟梁のとこへ養子にやったお若の双児ふたごであるなと思召しますから、いよ〱恟りなされて左の眼のふちの黒痣ほくろにお眼をお注つけあそばしますと、あり〱正まさにございますので、あゝ困ったものだ、併し不思議のこともある、親知らずに遣った伊之吉が、母のお若がいる家うちの前で品川の貸座敷の若いもの等においこまれ、己おれの家へ来るというも因縁であると、何気なく花里の顔を御覧になると、これにも左の眼のふちに黒痣があって男女なんにょ差別こそありますが、貌かおだちから丈せい恰好がよく似ている、これはとまた恟りなさいまして、花里に親の名をお尋ねなさると、大阪で越前屋佐兵衞と申しましたが商業しょうばいの失敗で零落いたし、親の為め苦海くがいに身を沈めましたと、恥かしそうに物がたりますを晋齋老人とくとお聞きなされ、それではお前さんはお米といいましょうと仰しゃいます、花里も呆れいるところへ、奥の間から二人のお若さんがワッと泣きながら転げ出で、

若「これ伊之吉やお米、お前の母は私ですよ」

と意外の言葉に伊之吉とお米もびっくり致し、たゞじろり〱顔をながめるばかりでございます。晋齋老人は目をつぶッていらっしゃいましたが、あゝ怖しいものは因果だ、この親子は何うして斯うも幸ないであろうと、伊之吉お米が双児でありしことをお談はなしになってお嘆きあそばす。この両人ふたりもこれをきゝますと呆れるばかりで物がいわれません。やがて伊之助も岩次も出てまいり、親子兄弟不思議な邂逅めぐりあいにたゞ〱奇異のおもいでござります。晋齋老人は花里のお米が身に付く借金を和国楼へ償却いたすことに相成り、この一埓いちらつはつきました。さて伊之吉とお米でげすが双児兄妹きょうだいときゝては、お互いに身を恥じ何うも添遂げることが出来ません。そこが因果で別れることも出来ないところから、この両人ふたりはその夜よのうち窃ひそかに根岸を脱出ぬけだし、綾瀬川へ身を投げて心中した。死骸が翌朝よくあさ千住大橋際へ漂着いたしました。

こゝに又二人のお若さんでげすが、何うも解らずに其の晩はお休みになった晋齋老人、いろ〱お考えになるとフイと思いあたられましたは離魂病という病で、この病は人間の身体が分身するもので、わかれている間は双方ともに何事もなく生きておれど、その分身した身体が一つ所に集あつまるときは二十四時ときのうちに一方の身体は消えてしまい、一方の身体はそのまゝ死ぬものと古い本などに書いてあることを思い出され、いよ〱おどろいてお在いでなさると、果して伊之助と一緒に来たお若さんの身体が二十四時たつと見えなくなって、間もなく病人のお若さんの息が絶えました。伊之助も恟りいたして騒ぐをいろ〱お諭さとしなされましたが、これも因果と諦らめ、遂にその夜のうちに首をくゝって相果てました。わずか二日のうちに二ふた夫婦と影法師のお若さんが亡なくなり、晋齋老人の家うちは大さわぎでげす。これも因縁だ因果だと思召すから、それ〲葬りのこと懇ねんごろになされました。四人の死骸なきがらは谷中へ埋葬いたし、老人も落胆がっかり遊ばしていると、跡にとり残された岩次でございますが、まだ年も若いにいろ〱奇異のことを目前めのまえに見きゝいたし、両親に別れたんですから現世このよを味気あじきなくぞんじ、また両親や兄あに姉あねの冥福を弔とむらわんために因果塚を建立こんりゅうしたいから、仏門に入れてくれと晋齋にせまります。老人も至極道理もっとものことゝ、ある住職にたのみ、岩次を仏門に帰依いたさせますると、それから因果塚建立という文字もんじを染ぬきました浅黄あさぎの幟のぼりを杖にいたし、二年余も勧化かんげにあるき、一文二文の浄財をあつめまして漸ようよう谷中へ一基の塚をたてました。扨さて永々続きました因果塚の由来のお話もこれで終りと致します。

底本 / Source edition

底本:「圓朝全集 巻の四」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年9月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の四」春陽堂
1927(昭和2)年6月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼《あ》の」と「彼《あの》」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年6月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/000349_000989/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/000349_000989/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/000349_000989/

三遊亭 円朝「根岸お行の松 因果塚の由来」(新字新仮名)、底本『圓朝全集 巻の四』近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫、1963年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000349_000989, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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