君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>でこっそり教えてあげよう。

僕の家のものほし場は、よく<ruby><rb>眺望</rb><rt>ちょうぼう</rt></ruby>がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう？　人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>をちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。

見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては<ruby><rb>黴菌</rb><rt>ばいきん</rt></ruby>と<ruby><rb>車塵</rb><rt>しゃじん</rt></ruby>とでうす赤くにごらされた巷の<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>のなかにその端を沈没させている。君はその屋根屋根のしたの百万の一律な生活を思い、眼をつぶってふかい溜息を吐いたにちがいないのだ。見られるとおり、郊外の屋根屋根は、それと違う。一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張しているようではないか。あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の真下の赤い西洋<ruby><rb>甍</rb><rt>がわら</rt></ruby>は、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから毎夜、謡曲のしらべが聞えるのだ。赤い甍から<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の並木がうねうねと南へ伸びている。並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。質屋の土蔵である。三十歳を越したばかりの小柄で<ruby><rb>怜悧</rb><rt>れいり</rt></ruby>な女主人が経営しているのだ。このひとは僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶を受けた相手の名誉を顧慮しているのである。土蔵の裏手、翼の<ruby><rb>骨骼</rb><rt>こっかく</rt></ruby>のようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五六ぽん見える。あれは<ruby><rb>棕梠</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>である。あの樹木に覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいま牢のなかにいる。細君をぶち殺したのである。左官屋の毎朝の誇りを、細君が傷つけたからであった。左官屋には、毎朝、牛乳を半合ずつ飲むという<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な楽しみがあったのに、その朝、細君が<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>って牛乳の瓶をわった。そうしてそれをさほどの過失ではないと思っていた。左官屋には、それがむらむらうらめしかったのである。細君はその場でいきをひきとり、左官屋は牢へ行き、左官屋の十歳ほどの息子が、このあいだ駅の売店のまえで新聞を買って読んでいた。僕はその姿を見た。けれども、僕の君に知らせようとしている生活は、こんな月並みのものでない。

こっちへ来給え。このひがしの方面の眺望は、また一段とよいのだ。人家もいっそうまばらである。あの小さな黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、お<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>をまつった<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>がある。林の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>のぽっと明るいところは、菜の花畠であって、それにつづいて手前のほうに百坪ほどの空地が見える。龍という緑の文字が書かれてある<ruby><rb>紙凧</rb><rt>かみだこ</rt></ruby>がひっそりあがっている。あの紙凧から垂れさがっている長い尾を見るとよい。尾の端からまっすぐに下へ線をひいてみると、ちょうど空地の東北の隅に落ちるだろう？　君はもはや、その箇所にある井戸を見つめている。いや、井戸の水を吸上<ruby><rb>喞筒</rb><rt>ポンプ</rt></ruby>で<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みだしている若い女を見つめている。それでよいのだ。はじめから僕は、あの女を君に見せたかったのである。

まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう。空地の東側には、ふとい<ruby><rb>孟宗竹</rb><rt>もうそうちく</rt></ruby>が二三十本むらがって生えている。見ていたまえ。女は、あの孟宗竹のあいだをくぐって、それから、ふっと姿をかき消す。それ。僕の言ったとおりだろう？　見えなくなった。けれど気にすることはない。僕はあの女の行くさきを知っている。孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>がふくらみはじめたにちがいない。あのうすあかい<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の下に、黒い日本甍の屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もない屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ坐ろう。

あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくないのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>もあれば、<ruby><rb>霧島躑躅</rb><rt>きりしまつつじ</rt></ruby>が五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に<ruby><rb>南天燭</rb><rt>なんてんしょく</rt></ruby>を植えてやった。それで屋賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらい貰いたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。高すぎるとは思わぬ。それでも一年、ためている。あの家の屋賃は、もともと、そっくり僕のお小使いになる筈なのであるが、おかげで、この一年間というもの、僕は様様のつきあいに肩身のせまい思いをした。

いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていた頃であった。そのまえには、むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩をするのである。けれども屋賃だけはきちんきちんと納めたのだから、僕はそのひとに就いてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた。名古屋の支店へ<ruby><rb>左遷</rb><rt>させん</rt></ruby>されたのである。ことしの年賀状には、百合とかいう女の子の名前とそれから夫婦の名前と三つならべて書かれていた。銀行員のまえには、三十歳くらいのビイル会社の技師に貸していた。母親と妹の三人暮しで、一家そろって無愛想であった。技師は、服装に無頓着な男で、いつも青い<ruby><rb>菜葉服</rb><rt>なっぱふく</rt></ruby>を着ていて、しかもよい市民であったようである。母親は白い頭髪を短く角刈にして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄な<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた女で、<ruby><rb>矢絣</rb><rt>やがすり</rt></ruby>模様の<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、その後の消息を知らない。僕にとっては、その当時こそ何かと不満もあったのであるが、いまになって考えてみると、あの技師にしろ、また水泳選手にしろ、よい部類の<ruby><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby>であったのである。俗にいう店子運がよかったわけだ。それが、いまの三代目の店子のために、すっかりマイナスにされてしまった。

いまごろはあの屋根のしたで、寝床にもぐりこみながらゆっくりホープをくゆらしているにちがいない。そうだ。ホープを吸うのだ。金のないわけはない。それでも屋賃を払わないのである。はじめからいけなかった。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>に、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことを妙にひとなつこく<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>んで来るような口調で言った。痩せていて背のきわめてひくい、細面の青年であった。肩から袖口にかけての折目がきちんと立っているま新しい<ruby><rb>久留米絣</rb><rt>くるめがすり</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着ていたのである。たしかに青年に見えた。あとで知ったが、四十二歳だという。僕より十も年うえである。そう言えば、あの男の口のまわりや眼のしたに、たるんだ<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がたくさんあって、青年ではなさそうにも見えるのであるが、それでも、四十二歳は<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>であろうと思う。いや、それくらいの嘘は、あの男にしては何も珍らしくないのである。はじめ僕の家へ来たときから、もうすでに大嘘を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いている。僕は彼の申し出にたいして、お気にいったならば、と答えた。僕は、店子の身元についてこれまで、あまり深い<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>をしなかった。失礼なことだと思っている。敷金のことについて彼はこんなことを言った。

「敷金は二つですか？　そうですか。いいえ、失礼ですけれど、それでは五十円だけ納めさせていただきます。いいえ。私ども、持っていましたところで、使ってしまいます。あの、貯金のようなものですものな。ほほ。明朝すぐに引越しますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。いけないでしょうかしら？」

こんな工合いである。いけないとは言えないだろう。それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだましたほうが悪いのだ。僕は、かまいません、あすでもあさってでもと答えた。男は、甘えるように<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながらていねいにお辞儀をして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝、青扇夫婦はたくさんの世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越して来たのであるが、五十円の敷金はついにそのままになった。よこすものか。

引越してその日のひるすぎ、青扇は細君と一緒に僕の家へ挨拶しに来た。彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい<ruby><rb>塗下駄</rb><rt>ぬりげた</rt></ruby>をはいていた。僕が玄関へ出て行くとすぐに、「ああ。やっとお引越しがおわりましたよ。こんな恰好でおかしいでしょう？」

それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと笑ったのである。僕はなんだかてれくさい気がして、たいへんですな、とよい加減な返事をしながら、それでも微笑をかえしてやった。

「うちの女です。よろしく。」

青扇は、うしろにひっそりたたずんでいたやや大柄な女のひとを、おおげさに<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>でしゃくって見せた。僕たちは、お辞儀をかわした。麻の葉模様の緑がかった青い<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>に、やはり銘仙らしい絞り染の朱色の羽織をかさねていた。僕はマダムのしもぶくれのやわらかい顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでもないのに、それでも強く、とむねを突かれた。色が抜けるように白く、片方の眉がきりっとあがって、それからもう一方の眉は平静であった。眼はいくぶん細いようであって、うすい下唇をかるく噛んでいた。はじめ僕は、怒っているのだと思ったのである。けれどもそうでないことをすぐに知った。マダムはお辞儀をしてから、青扇にかくすようにして大型の<ruby><rb>熨斗袋</rb><rt>のしぶくろ</rt></ruby>をそっと玄関の式台にのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりした語調で言った。それからもいちどゆっくりお辞儀をしたのである。お辞儀をするときにもやはり片方の眉をあげて、下唇を噛んでいた。僕は、これはこのひとのふだんからの癖なのであろうと思った。そのまま青扇夫婦は立ち去ったのであるが、僕はしばらくぽかんとしていた。それからむかむか不愉快になった。敷金のこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたようないらだたしさに堪えられなくなったのである。僕は式台にしゃがんで、その恥かしく大きな熨斗袋をつまみあげ、なかを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみたのである。お<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>屋の五円切手がはいっていた。ちょっとの間、僕には何も訳がわからなかった。五円の切手とは、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>げたことである。ふと、僕はいまわしい疑念にとらわれた。ひょっとすると敷金のつもりなのではあるまいか。そう考えたのである。それならこれはいますぐにでもたたき返さなければいけない。僕は、我慢できない胸くその悪さを覚え、その熨斗袋を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にし、青扇夫婦のあとを追っかけるようにして家を出たのだ。

青扇もマダムも、まだ彼等の新居に帰ってはいなかった。帰途、買い物にでもまわったのであろうと思って、僕はその不用心にもあけ放されてあった玄関からのこのこ家へはいりこんでしまった。ここで待ち伏せていてやろうと考えたのである。ふだんならば僕も、こんな乱暴な<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>は起さないのであるが、どうやら懐中の五円切手のおかげで少し調子を狂わされていたらしいのである。僕は玄関の三畳間をとおって、六畳の居間へはいった。この夫婦は引越しにずいぶん馴れているらしく、もうはや、あらかた道具もかたづいていて、床の間には、二三輪のうす赤い花をひらいているぼけの素焼の<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>が飾られていた。軸は、仮表装の北斗七星の四文字である。文句もそうであるが、書体はいっそう滑稽であった。<ruby><rb>糊刷毛</rb><rt>のりはけ</rt></ruby>かなにかでもって書いたものらしく、仰山に肉の太い文字で、そのうえ目茶苦茶ににじんでいた。<ruby><rb>落款</rb><rt>らっかん</rt></ruby>らしいものもなかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。つまりこれは、自由天才流なのであろう。僕は奥の四畳半にはいった。<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>や鏡台がきちんと場所をきめて置かれていた。首の細い脚の巨大な裸婦のデッサンがいちまい、まるいガラス張りの額縁に収められ、鏡台のすぐ傍の壁にかけられていた。これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しい桑の長火鉢と、それと揃いらしい桑の小綺麗な茶箪笥とが壁際にならべて置かれていた。長火鉢には<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>がかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍に腰をおちつけて、煙草を吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを感傷的にするものらしい。僕も、あの額縁の画についての夫婦の相談や、この長火鉢の位置についての争論を思いやって、やはり生活のあらたまった折の甲斐甲斐しいいきごみを感じたわけであった。煙草を一本吸っただけで、僕は腰を浮かせた。五月になったら畳をかえてやろう。そんなことを思いながら僕は玄関から外へ出て、あらためて玄関の傍の<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>から庭のほうへまわり、六畳間の縁側に腰かけて青扇夫婦を待ったのである。

青扇夫婦は、庭の<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>の幹が夕日に赤く染まりはじめたころ、ようやく帰って来た。案のじょう買い物らしく、青扇は<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>をいっぽん肩に<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、マダムは、くさぐさの買いものをつめたバケツを重たそうに右手にさげていた。彼等は枝折戸をあけてはいって来たので、すぐに僕のすがたを認めたのであるが、たいして驚きもしなかった。

「これは、おおやさん。いらっしゃい。」

青扇は箒をかついだまま<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んでかるく頭をさげた。

「いらっしゃいませ。」

マダムも例の眉をあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかと白い歯を見せ、笑いながら挨拶した。

僕は内心こまったのである。敷金のことはきょうは言うまい。<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の切手についてだけたしなめてやろうと思った。けれど、それも失敗したのである。僕はかえって青扇と握手を交し、そのうえ、だらしのないことであるが、お互いのために万歳をさえとなえたのだ。

青扇のすすめるがままに、僕は縁側から六畳の居間にあがった。僕は青扇と対座して、どういう工合いに話を切りだしてよいか、それだけを考えていた。僕がマダムのいれてくれたお茶を一口すすったとき、青扇はそっと立ちあがって、そうして隣りの部屋から将棋盤を持って来たのである。君も知っているように僕は将棋の上手である。一番くらいは指してもよいなと思った。客とろくに話もせぬうちに、だまって将棋盤を持ちだすのは、これは将棋のひとり<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>のよくやりたがる作法である。それではまず、ぎゅっと言わせてやろう。僕も微笑みながら、だまって駒をならべた。青扇の棋風は不思議であった。ひどく早いのである。こちらもそれに釣られて早く指すならば、いつの間にやら王将をとられている。そんな棋風であった。<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば奇襲である。僕は幾番となく負けて、そのうちにだんだん熱狂しはじめたようであった。部屋が少しうすぐらくなったので、縁側に出て指しつづけた。結局は、十対六くらいで僕の負けになったのであるが、僕も青扇もぐったりしてしまった。

青扇は、勝負中は全く無口であった。しっかとあぐらの腰をおちつけて、つまり斜めにかまえていた。

「おなじくらいですな。」彼は駒を箱にしまいこみながら、まじめに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。「横になりませんか。あああ。疲れましたね。」

僕は失礼して脚をのばした。頭のうしろがちきちき痛んだ。青扇も将棋盤をわきへのけて、縁側へながながと寝そべった。そうして夕闇に包まれはじめた庭を頬杖ついて眺めながら、

「おや。かげろう！」ひくく叫んだ。「不思議ですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが。」

僕も、縁側に這いつくばって、庭のしめった黒土のうえをすかして見た。はっと気づいた。まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて坐り直した。

「木下さん。困りますよ。」そう言って、例の<ruby><rb>熨斗袋</rb><rt>のしぶくろ</rt></ruby>を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から出したのである。「これは、いただけません。」

青扇はなぜかぎょっとしたらしく顔つきを変えて立ちあがった。僕も身構えた。

「なにもございませんけれど。」

マダムが縁側へ出て来て僕の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。部屋には電燈がぼんやりともっていたのである。

「そうか。そうか。」青扇は、せかせかした調子でなんども<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら、眉をひそめ、何か遠いものを見ているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。お話は、それからゆっくりいたしましょうよ。」

僕はこのうえめしのごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこの熨斗袋の始末だけはつけたいと思い、マダムについて部屋へはいった。それがよくなかったのである。酒を呑んだのだ。マダムに一杯すすめられたときには、これは困ったことになったと思った。けれども二杯三杯とのむにつれて、僕はしだいしだいに落ちついて来たのである。

はじめ青扇の自由天才流をからかうつもりで、床の軸物をふりかえって見て、これが自由天才流ですかな、と尋ねたものだ。すると青扇は、酔いですこし赤らんだ眼のほとりをいっそうぽっと赤くして、苦しそうに笑いだした。

「自由天才流？　ああ。あれは嘘ですよ。なにか職業がなければ、このごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたので、ま、あんな<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>をやったのです。怒っちゃいけませんよ。」そう言ってから、またひとしきりむせかえるようにして笑った。「これは、古道具屋で見つけたのです。こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて、三十銭かいくらで買いました。文句も北斗七星とばかりでなんの意味もないものですから気にいりました。私はげてものが好きなのですよ。」

僕は青扇をよっぽど<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>な男にちがいないと思った。傲慢な男ほど、おのれの趣味をひねりたがるようである。

「失礼ですけれど、無職でおいでですか？」

また五円の切手が気になりだしたのである。きっとよくない仕掛けがあるにちがいないと考えた。

「そうなんです。」杯をふくみながら、まだにやにや笑っていた。「けれども御心配は要りませんよ。」

「いいえ。」なるたけよそよそしくしてやるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の切手がだいいちに気がかりなのです。」

マダムが僕にお酌をしながら口を出した。

「ほんとうに。」ふくらんでいる小さい手で<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>を直してから微笑んだ。「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。ほんとうに。」

「そうですか。」僕は思わず笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金の、」滑らせかけて口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。

「そうですか。」青扇が僕の口真似をした。「わかりました。あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです。」

そう言われてみるときょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合せて笑いこけた。

僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオやショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当するような人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、全校の生徒の姓名とそれぞれの出身中学校とを<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くそらんじているという評判を聞いて、これは天才でなかろうかと注目していたのだが、それにしては講義がだらしなかった。あとで知ったことだけれど、生徒の姓名とその各々の出身中学校とを覚えているというのは、この教授の唯一の誇りであって、それらを記憶して置くために骨と肉と内臓とを不具にするほどの難儀をしていたのだそうである。いま僕は、こうして青扇と対座して話合ってみるに、その<ruby><rb>骨骼</rb><rt>こっかく</rt></ruby>といい、頭恰好といい、<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>のいろといい、それから音声の調子といい、まったくロンブロオゾオやショオペンハウエルの規定している天才の特徴と<ruby><rb>酷似</rb><rt>こくじ</rt></ruby>しているのである。たしかに、そのときにはそう思われた。<ruby><rb>蒼白痩削</rb><rt>そうはくそうさく</rt></ruby>。<ruby><rb>短躯猪首</rb><rt>たんくいくび</rt></ruby>。<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>がかった鼻音声。

酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。

「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか？」

「研究？」青扇はいたずら児のように、首をすくめて大きい眼をくるっとまわしてみせた。「なにを研究するの？　私は研究がきらいです。よい加減なひとり合点の註釈をつけることでしょう？　いやですよ。私は創るのだ。」

「なにをつくるのです。発明かしら？」

青扇はくつくつと笑いだした。黄色いジャケツを脱いでワイシャツ一枚になり、

「これは面白くなったですねえ。そうですよ。発明ですよ。無線電燈の発明だよ。世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、ちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。私は役者ですよ。」

マダムは眼をふたつ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら煙ったそうに細めて、青扇のでらでら油光りしだした顔をぼんやり見あげた。

「だめでございますよ。酔っぱらったのですの。いつもこんな<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>ばかり申して、こまってしまいます。お気になさらぬように。」

「なにが出鱈目だ。うるさい。おおやさん、私はほんとに発明家ですよ。どうすれば人間、有名になれるか、これを発明したのです。それ、ごらん。<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を乗りだして来たじゃないか。これだ。いまのわかいひとたちは、みんなみんな有名病という奴にかかっているのです。少しやけくそな、しかも卑屈な有名病にね。君、いや、あなた、飛行家におなり。世界一周の早まわりのレコオド。どうかしら？　死ぬる覚悟で眼をつぶって、どこまでも西へ西へと飛ぶのだ。眼をあけたときには、群集の山さ。地球の<ruby><rb>寵児</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>さ。たった三日の辛抱だ。どうかしら？　やる気はないかな。意気地のない野郎だねえ。ほっほっほ。いや、失礼。それでなければ犯罪だ。なあに、うまくいきますよ。自分さえがっちりしてれあ、なんでもないんだ。人を殺すもよし、ものを盗むもよし、ただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。大丈夫。見つかるものか。時効のかかったころ、堂々と名乗り出るのさ。あなた、もてますよ。けれどもこれは、飛行機の三日間にくらべると、十年間くらいの我慢だから、あなたがた近代人には<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>ふむきですね。よし。それでは、ちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。君みたいな助平ったれの、小心ものの、薄志弱行の徒輩には、醜聞という恰好の方法があるよ。まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駈落ちしたまえ。え？」

僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉のうえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。

僕もしたたかに酔ったようであった。とうとう、僕は懐中の切手を出し、それでもってお蕎麦屋から酒をとどけさせたのである。そうして僕たちは更に更にのんだのである。ひとと始めて知り合ったときのあの浮気に似たときめきが、ふたりを気張らせ、無智な雄弁によってもっともっとおのれを相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはお互いに感じ合っていたようである。僕たちは、たくさんの<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>の感激をして、幾度となく杯をやりとりした。気がついたときには、もうマダムはいなかった。寝てしまったのであろう。帰らなければなるまい、と僕は考えた。帰りしなに握手をした。

「君を好きだ。」僕はそう言った。

「私も君を好きなのだよ。」青扇もそう答えたようである。

「よし。万歳！」

「万歳。」

たしかにそんな工合いであったようである。僕には、酔いどれると万歳と叫びたてる悪癖があるのだ。

酒がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだったからであろう。そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。<ruby><rb>泥酔</rb><rt>でいすい</rt></ruby>した<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日いちにち、僕は<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>か<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>にでも化かされたようなぼんやりした気持ちであった。青扇は、どうしても普通でない。僕もこのとしになるまで、まだ独身で毎日毎日をぶらりぶらり遊んですごしているゆえ、親類縁者たちから変人あつかいを受けていやしめられているのであるが、けれども僕の頭脳はあくまで常識的である。妥協的である。通常の道徳を奉じて生きて来た。<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば、健康でさえある。それにくらべて青扇は、どうやら、けたがはずれているようではないか。断じてよい市民ではないようである。僕は青扇の家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうがいろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四五日のあいだは知らぬふりをしていた。

ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>のなかである。僕が風呂の流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。

「先晩はどうも。」僕は<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に恥かしい思いであった。

「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」

僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。

「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑んだ。

「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。

「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これを画いたペンキ屋の奴、この風呂へは、決して来ませんよ。」

「来るのじゃないでしょうか。自分の画を眺めながら、しずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。」

僕のそういったような言葉はどうやら青扇の<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>を買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手の甲をそろっと並べ、十枚の爪を眺めていた。

青扇は、さきに風呂から出た。僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく見ていた。きょうは鼠いろの<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の袷を着ている。彼があまりにも永く自分のすがたを鏡にうつしてみているのには、おどろかされた。やがて、僕も風呂から出たのであるが、青扇は、脱衣場の隅の椅子にひっそり坐って煙草をくゆらしながら僕を待っていてくれた。僕はなんだか息苦しい気持ちがした。ふたり一緒に銭湯屋を出て、みちみち彼はこんなことを呟いた。

「はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。いいえ。男と男とのあいだのことですよ。」

その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、

「ええ。」新聞から眼を離さずにそう答えた。下唇をつよく噛んで、不気嫌であった。

「まだ風呂から帰らないのですか？」

「そう。」

「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」

「あてになりませんのでございますよ。」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。

「それでは、しつれいいたします。」

「あら。すこしお待ちになったら？　お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。

僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>は、ふくらんでいた。

「木下を信用しないほうがよござんすよ。」

だしぬけに耳のそばでそう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。

「なぜですか？」僕はまじめであった。

「だめなんですの。」片方の眉をきゅっとあげて小さい<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を吐いたのである。

僕は危く失笑しかけた。青扇が日頃、へんな<ruby><rb>自矜</rb><rt>じきょう</rt></ruby>の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく誇っているのにちがいないと思ったのである。<ruby><rb>爽快</rb><rt>そうかい</rt></ruby>な嘘を吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。

「出鱈目は、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。<ruby><rb>豹変</rb><rt>ひょうへん</rt></ruby>という言葉がありますね。わるくいえばオポチュニストです。」

「天才だなんて。まさか。」マダムは、僕のお茶の飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。

僕は湯あがりのせいで、のどが渇いていた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と追及してみた。はじめから、少しでも青扇の正体らしいものをさぐり出そうとかかっていたわけである。

「威張るのですの。」そういう返事であった。

「そうですか。」僕は笑ってしまった。

この女も青扇とおなじように、うんと利巧かうんと<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>かどちらかであろう。とにかく話にならないと思ったのだ。けれど僕は、マダムが青扇をかなり愛しているらしいということだけは知り得たつもりであった。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>にぼかされて行く庭を眺めながら、僕はわずかの妥協をマダムに暗示してやった。

「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっているときでも、爪を切っているときでも。」

「まあ。だからいたわってやれとおっしゃるの？」

僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら笑いの意味をこめて、なにか<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>でもしたのですか、と反問してやった。

「いいえ。」マダムは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうにしていた。

喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。

「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」

夕闇がせまっていて<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立っていたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っているのだ、とわびしげに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたことである。

愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな男にうっかり家を貸したことを後悔しはじめたのだ。

そのうちに、僕の不吉の予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても、青扇からなんの音沙汰もないのである。家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことも<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>そのままになっていた。しかし僕は、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇も言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでもよかった。けれども屋賃をいれてくれないのには、弱ったのである。僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着と寛大から来ているという工合いに説明したいところであるが、ほんとうを言えば、僕には青扇がこわかったのである。青扇のことを思えば、なんとも知れぬけむったさを感じるのである。逢いたくなかった。どうせ逢って話をつけなければならないとは判っていたが、それでも一寸のがれに、明日明日とのばしているのであった。つまりは僕の薄志弱行のゆえであろう。

五月のおわり、僕はとうとう思い切って青扇のうちへ訪ねて行くことにした。朝はやくでかけたのである。僕はいつでもそうであるが、思い立つと、一刻も早くその用事をすましてしまわなければ気がすまぬのである。行ってみると、玄関がまだしまっていた。寝ているらしいのだ。わかい夫婦の寝ごみを襲撃するなど、いやであったから、僕はそのまま引返して来たのである。いらいらしながら家の庭木の手入れなどをして、やっと昼頃になってから僕はまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどは僕も庭のほうへまわってみた。庭の五株の<ruby><rb>霧島躑躅</rb><rt>きりしまつつじ</rt></ruby>の花はそれぞれ蜂の巣のように咲きこごっていた。紅梅は花が散ってしまっていて青青した葉をひろげ、<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>は枝々の<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>からささくれのようなひょろひょろした若葉を生やしていた。雨戸もしまっていた。僕は軽く二つ三つ戸をたたき、木下さん、木下さん、とひくく呼んだ。しんとしているのである。僕は雨戸のすきまからこっそりなかを覗いてみた。いくつになっても人間には、すき見の興味があるものなのであろう。まっくらでなんにも見えなかった。けれど、誰やら六畳の居間に寝ているような気はいだけは察することができた。僕は雨戸からからだを離し、もいちど呼ぼうかどうかを考えたのであるが、結局そのまま、また僕の家へひきかえして来たのである。<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたという後悔からの気おくれが、僕をそんなにしおしお引返えさせたらしいのだ。家へ帰ってみると、ちょうど来客があって、そのひとと二つ三つの用談をきめているうちに、日も暮れた。客を送りだしてから、僕はまた三度目の訪問を企てたのである。まさかまだ寝ているわけはあるまいと考えた。

青扇のうちにはあかりがついていて、玄関もあいていた。声をかけると、誰？　という青扇のかすれた返事があった。

「僕です。」

「ああ。おおやさん。おあがり。」六畳の居間にいるらしかった。

うちの空気が、なんだか陰気くさいのである。玄関に立ったままで六畳間のほうを<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>かしげて覗くと、青扇は、どてら姿で寝床をそそくさと取りかたづけていた。ほのぐらい電燈の下の青扇の顔は、おやと思ったほど老けて見えた。

「もうおやすみですか。」

「え。いいえ。かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。」そんなことを言い言い、どうやら部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。「どうも、しばらくです。」

僕の顔をろくろく見もせず、すぐうつむいてしまった。

「屋賃は当分だめですよ。」だしぬけに言ったのである。

僕は<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>にむっとした。わざと返事をしなかった。

「マダムが逃げました。」玄関の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>によりそってしずかにしゃがみこんだ。電燈のあかりを背面から受けているので青扇の顔はただまっくろに見えるのである。

「どうしてです。」僕はどきっとしたのだ。

「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。そんな女なのです。」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。

「いつごろです。」僕は玄関の式台に腰をおろした。

「さあ、先月の中旬ごろだったでしょうか。あがらない？」

「いいえ。きょうは他に用事もあるし。」僕には少し薄気味がわるかったのである。

「恥かしいことでしょうけれど、私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって。」

せかせか言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている気がまえを見てとった。僕はわざわざ<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から煙草をとりだし、マッチがありませんか？　と言ってやったのである。青扇はだまって勝手元のほうへ立って行って、大箱の徳用マッチを持って来た。

「なぜ働かないのかしら？」僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話込んでやろうとひそかに決意していた。

「働けないからです。才能がないのでしょう。」相変らずてきぱきした語調であった。

「冗談じゃない。」

「いいえ。働けたらねえ。」

僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、屋賃のことがどうにもならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。

「それでは困るじゃないですか。僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。」吸いかけの煙草を土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。

「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」

僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから気にかかっていた青扇の顔をそのマッチのあかりでちらと覗いてみることができた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落したのである。悪鬼の面を見たからであった。

「それでは、いずれまた参ります。ないものは頂戴いたしません。」僕はいますぐここからのがれたかった。

「そうですか。どうもわざわざ。」青扇は神妙にそう言って、立ちあがった。それからひとりごとのように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くのである。「四十二の一白水星。気の多いとしまわりで弱ります。」

僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>をみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯くわされた。青扇の思い詰めたようなはっきりした口調も、四十二歳をそれとなく呟いたことも、みんな堪らないほどわざとらしくきざっぽく思われだした。僕はどうも少し甘いようだ。こんなゆるんだ性質では家主はとてもつとまるものではないな、と考えた。

僕はそれから二三日、青扇のことばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとすれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心ができないと考えたのだ。

五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶もないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである。

その日、青扇はスポオツマンらしく、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>附きのワイシャツに白いズボンをはいて、何かてれくさそうに恥らいながら出て来た。家ぜんたいが明るい感じであった。六畳間にとおされて、見ると、部屋の床の間寄りの隅にいつ買いいれたのか鼠いろの<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロード</rt></ruby>が張られた古ものらしいソファがあり、しかも畳のうえには淡緑色の<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷かれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。青扇は僕をソファに坐らせた。

庭の<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>は、そろそろ<ruby><rb>猩々緋</rb><rt>しょうじょうひ</rt></ruby>の花をひらきかけていた。

「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫ですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇は僕とならんでソファに腰をおろしてから、隣りの部屋へ声をかけたのである。

水兵服を着た小柄な女が、四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。

「おおやさんだよ。ご挨拶をおし。うちの女です。」

僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥らいをふくんだ<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みの意味がとけたのであった。

「どんなお仕事でしょう。」

その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮をよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。

「小説です。」

「え？」

「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。

「実話と言いますと？」僕はしつこく尋ねた。

「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ。」

青扇は彼の新妻のことで<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>にいくぶん気おくれしているのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪のふけを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き落したり<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をなんども組み直したりなどしながら、少し雄弁をふるったのである。

「ほんとうによいのですか。困りますよ。」

「大丈夫。大丈夫。ええ。」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。

そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。

「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの<ruby><rb>石膏</rb><rt>せっこう</rt></ruby>の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、<ruby><rb>鶏頭</rb><rt>けいとう</rt></ruby>の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして彼を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、

「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう？　仕様がないんです。」

少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。

「どうしたのです。」僕には訳がわからなかった。

「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。

僕はいやな気がした。

「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうはダリヤでした。おとといは蛍草でした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら。」

この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。

「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか？」

「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」

僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、

「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。」

「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう？　あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」

これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>すぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は<ruby><rb>猜忌</rb><rt>さいき</rt></ruby>や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの<ruby><rb>水蓮</rb><rt>すいれん</rt></ruby>のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したのである。

「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。」

「これは、ひどいなあ。」青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶の茶碗をそっと取りあげ、自分のと一緒にソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今ではあの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが。」

僕は青扇の顔を見直した。

「それはつまり抽象して言っているのでしょうか。」

「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているのですけれど？」

僕はまたまた<ruby><rb>憐愍</rb><rt>れんびん</rt></ruby>に似た情を感じたのである。

「まあ、きょうは僕はこれで帰りましょう。きっとお仕事をはじめて下さい。」そう言い置いて、青扇の家を出たのであるが、帰途、青扇の成功をいのらずにおれなかった。それは、青年についての青扇の言葉がなんだか僕のからだにしみついて来て、自分ながらおかしいほどしおれてしまったせいでもあるし、また、青扇のあらたな結婚によって何やら彼の幸福を祈ってやりたいような気持ちになっていたせいでもあろう。みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。

僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was\. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。

けれども僕は、この僕の決意を青扇に告げてやるようなことは<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>していた。それはいずれ家主根性ともいうべきものであろう。ひょっとすると、あすにでも青扇がいままでの屋賃をそっくりまとめて、持って来てくれるかも知れない。そのようなひそかな期待もあって、僕は青扇に進んでこちらから屋賃をいらぬなどとは言わないのであった。それがまた青扇をはげますもとになってくれたなら、つまり両方のためによいことだとも思ったのである。

七月のおわり、僕は青扇のもとをまた訪れたのであるが、こんどはどんなによくなっているか、何かまた進歩や変化があるだろう。それを楽しみにしながら出かけたのであった。行ってみて<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としてしまった。変っているどころではなかったのである。

僕はその日、すぐに庭から六畳の縁側のほうへまわってみたのであるが、青扇は<ruby><rb>猿股</rb><rt>さるまた</rt></ruby>ひとつで縁側にあぐらをかいていて、大きい茶碗を股のなかにいれ、それを里芋に似た短い棒でもって懸命にかきまわしていたのだ。なにをしているのですと声をかけた。

「やあ。薄茶でございますよ。茶をたてているのです。こんなに暑いときには、これに限るのですよ。一杯いかが？」

僕は青扇の言葉づかいがどこやら変っているのに気がついた。けれども、それをいぶかしがっている場合ではなかった。僕はその茶をのまなければならなかったのである。青扇は茶碗をむりやりに僕に持たせて、それから傍に脱ぎ捨ててあった<ruby><rb>弁慶格子</rb><rt>べんけいごうし</rt></ruby>の<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>なゆかたを坐ったままで素早く着込んだ。僕は縁側に腰をおろし、しかたなく茶をすすった。のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。

「どうしてまた。風流ですね。」

「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ。」

「へえ。」

「書いていますよ。」青扇は<ruby><rb>兵古帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>をむすびながら床の間のほうへいざり寄った。

床の間にはこのあいだの石膏の像はなくて、その代りに、<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>の花模様の袋にはいった三味線らしいものが立てかけられていた。青扇は床の間の隅にある竹の手文庫をかきまわしていたが、やがて小さく折り畳まれてある紙片をつまんで持って来た。

「こんなのを書きたいと思いまして、文献を集めているのですよ。」

僕は薄茶の茶碗をしたに置いて、その二三枚の紙片を受けとった。婦人雑誌あたりの切り抜きらしく、四季の渡り鳥という題が印刷されていた。

「ねえ。この写真がいいでしょう？　これは、渡り鳥が海のうえで深い霧などに襲われたとき方向を見失い光りを慕ってただまっしぐらに飛んだ罰で燈台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。何千万という死骸です。渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。旅が生活なのですからねえ。ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。わたくし、これを一元描写でやろうと思うのさ。私という若い渡り鳥が、ただ東から西、西から東とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。仲間がだんだん死んでいきましてね。鉄砲で打たれたり、波に呑まれたり、飢えたり、病んだり、巣のあたたまるひまもない悲しさ。あなた。沖の<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>に潮どき聞けば、という唄がありますねえ。わたくし、いつかあなたに有名病についてお話いたしましたけど、なに、人を殺したり飛行機に乗ったりするよりは、もっと楽な法がありますわ。しかも死後の名声という附録つきです。傑作をひとつ書くことなのさ。これですよ。」

僕は彼の雄弁のかげに、なにかまたてれかくしの意図を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだ。果して、勝手口から、あの少女でもない、色のあさぐろい、日本髪を結った<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せがたの見知らぬ女のひとがこちらをこっそり<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いているのを、ちらと見てしまった。

「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい。」

「お帰りですか？　薄茶を、もひとつ。」

「いや。」

僕は帰途また思いなやまなければいけなかった。これはいよいよ、災難である。こんな出鱈目が世の中にあるだろうか。いまは非難を通り越して、あきれたのである。ふと僕は彼の渡り鳥の話を思い出したのだ。突然、僕と彼との相似を感じた。どこというのではない。なにかしら同じ体臭が感ぜられた。君も僕も渡り鳥だ、そう言っているようにも思われ、それが僕を不安にしてしまった。彼が僕に影響を与えているのか、僕が彼に影響を与えているのか、どちらかがヴァンピイルだ。どちらかが、知らぬうちに相手の気持ちにそろそろ食いいっているのではあるまいか。僕が彼の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化をして行かなければいけないように努めているのであるまいか。あれこれと考えれば考えるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。<ruby><rb>南天燭</rb><rt>なんてんしょく</rt></ruby>を植木屋に言いつけて彼の玄関の傍に植えさせてやったのは、そのころのことであった。

八月には、僕は<ruby><rb>房総</rb><rt>ぼうそう</rt></ruby>のほうの海岸で<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ二月をすごした。九月のおわりまでいたのである。帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>の<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の<ruby><rb>干物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>を少しばかり持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ<ruby><rb>親睦</rb><rt>しんぼく</rt></ruby>を彼に感じ、力こぶをさえいれていたのであった。

庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。<ruby><rb>紺絣</rb><rt>こんがすり</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかるようにして部屋へはいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいが具えられ、卓のうえには、一ダアスほどのビイル瓶とコップが二つ置かれていた。

「不思議です。きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな仕度をして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ。」

やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。

「どうです。お仕事ができましたか？」

「それが駄目でした。この<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>に<ruby><rb>油蝉</rb><rt>あぶらぜみ</rt></ruby>がいっぱいたかって、朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました。」

僕は思わず笑わされた。

「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよくおいでくださいました。」黒ずんでいる唇をおどけものらしくちょっと<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせて、コップのビイルをほとんど一息に呑んでしまった。

「ずっとこっちにいたのですか。」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。コップの中には<ruby><rb>蚋</rb><rt>ぶよ</rt></ruby>に似た小さい虫が一匹浮いて、泡のうえでしきりにもがいていた。

「ええ。」青扇は卓に両<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついてコップを眼の高さまでささげ、噴きあがるビイルの泡をぼんやり眺めながら余念なさそうに言った。「ほかに行くところもないのですものねえ。」

「ああ。お<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>を持って来ましたよ。」

「ありがとう。」

何か考えているらしく、僕の差しだす干物には眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼が坐っていた。もう酔っているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>いあげてから、だまってごくごく呑みほした。

「<ruby><rb>貧</rb><rt>ひん</rt></ruby>すれば<ruby><rb>貪</rb><rt>どん</rt></ruby>すという言葉がありますねえ。」青扇はねちねちした調子で言いだした。「まったくだと思いますよ。清貧なんてあるものか。金があったらねえ。」

「どうしたのです。へんに<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>みつくじゃないか。」

僕は膝をくずして、わざと庭を眺めた。いちいちとり合っていても仕様がないと思ったのである。

「<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>がまだ咲いていますでしょう？　いやな花だなあ。もう三月は咲いていますよ。散りたくても散れぬなんて、気のきかない樹だよ。」

僕は聞えぬふりして卓のしたの<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をとりあげ、ばさばさ使いはじめた。

「あなた。私はまたひとりものですよ。」

僕は振りかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。

「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に浮気じゃないか。」

「いいえ。みんな逃げてしまうのです。どう仕様もないさ。」

「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、あなたは女の金で暮していたのでしょう？」

「あれは嘘です。」彼は卓のしたのニッケルの煙草入から煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。「ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。あなた。<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>から鏡台まで、みんな私のものです。女房は着のみ着のままで私のうちへ来て、それからまたそのままいつでも帰って行けるのです。私の発明だよ。」

「莫迦だね。」僕は悲しい気持ちでビイルをあおった。

「金があればねえ。金がほしいのですよ。私のからだは腐っているのだ。五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。」

「そんなことは気にしなくてよいよ。」

屋賃などあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草がホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりないわけでもないな、と思ったのだ。

青扇は、僕の視線が彼の煙草にそそがれていることを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようであった。

「ホープはいいですよ。甘くもないし、辛くもないし、なんでもない味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか。」ひとりでそんな弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくり<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>った。「刺激がないからいけないのだと思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命に金をためて、十二三円たまったから、それを持ってカフェへ行き、もっともばからしく使って来ました。<ruby><rb>悔恨</rb><rt>かいこん</rt></ruby>の情をあてにしたわけですね。」

「それで書けましたか。」

「駄目でした。」

僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。

「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似るだけだねえ。」

「そんなことはないだろう。あとのひとほど巧いと思うな。」

「どこからそんなだいそれた確信が得られるの？　軽々しくものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それができないのです。」

日が暮れかけていた。青扇は団扇でしきりに<ruby><rb>臑</rb><rt>すね</rt></ruby>の<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>を払っていた。すぐ近くに<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>があるので、蚊も多いのである。

「けれど、無性格は天才の特質だともいうね。」

僕がこころみにそう言ってやると、青扇は、不満そうに口を尖らせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕の酔がさめた。やっぱりそうだ。これは、きっと僕の真似だ。いつか僕がここの最初のマダムに天才の出鱈目を教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを<ruby><rb>掣肘</rb><rt>せいちゅう</rt></ruby>して来たのではあるまいか。青扇のいままでのどこやら常人と異ったような態度は、すべて僕が彼になにげなく言ってやった言葉の期待を裏切らせまいとしてのもののようにも思われた。この男は、意識しないで僕に甘ったれ、僕のたいこもちを勤めていたのではないだろうか。

「あなたも子供ではないのだから、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら<ruby><rb>修繕</rb><rt>しゅうぜん</rt></ruby>費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。」言い捨てて立ちあがった。

「あああ。こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。」青扇はひとりごとのように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら縁側へ僕を送って出て来た。

僕が庭先へおりるとき、暗闇のために<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>のありかがわからなかった。

「おおやさん。電燈をとめられているのです。」

やっと下駄を捜しだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。青扇は縁先に立って澄んだ星空の一端が新宿辺の電燈のせいで火事のようにあかるくなっているのをぼんやり見ていた。僕は思い出した。はじめから青扇の顔をどこかで見たことがあると気にかかっていたのだが、そのときやっと思い出した。プーシュキンではない。僕の以前の<ruby><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby>であったビイル会社の技師の白い頭髪を短く角刈にした老婆の顔にそっくりであったのである。

十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒になったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂もしまいになりかけていたころであった。青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って足の指の爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、

「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは私、爪と髪ばかり伸びて。」

にやにやうす笑いしてそんなことを言い言いぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいてどてらを着込み、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。僕にはそれもまたさもしい感じで、ただ<ruby><rb>軽侮</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>の念を増しただけであった。

ことしのお正月、僕は近所へ年始まわりに歩いたついでにちょっと青扇のところへも立ち寄ってみた。そのとき玄関をあけたら赤ちゃけた胴の長い犬がだしぬけに僕に吠えついたのにびっくりさせられた。青扇は、卵いろのブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、妙に若がえって出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか迷いこんで来たものであるが、二三日めしを食わせてやっているうちに、もう忠義顔をしてよそのひとに吠えたててみせているのだ、そのうちどこかへ捨てに行くつもりです、とつまらぬことを挨拶を抜きにして言いたてたのである。おおかたまたてれくさい事件でも起っているのだろうと思い、僕は青扇のとめるのも振りきってすぐおいとまをした。けれども青扇は僕のあとを追いかけて来たのである。

「おおやさん。お正月早々、こんな話をするのもなんですけれど、私は、いまほんとうに気が狂いかけているのです。うちの座敷へ小さい<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>がいっぱい出て来て困っています。このあいだ、ひとりで退屈まぎれに<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>の曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちにたたきつけていたら、あなた、女房が洗濯を<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>し眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえ、てっきり気ちがいになったと思った、そう言うのですよ。かえって私のほうがぎょっとしました。あなた、お金ある？　いや、いいんです。それで、もうこの二三日すっかりくさって、お正月も、うちではわざとなんの仕度もしないのですよ。ほんとうにわざわざおいで下さいましたのに。私たち、なんのおかまいもできませんし。」

「新しい奥さんができたのですか。」僕はできるだけ意地わるい口調で言ってみた。

「ああ。」子供みたいにはにかんでいた。

おおかたヒステリイの女とでも<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>をはじめたのであろうと思った。

ついこのあいだ、二月のはじめころのことである。僕は夜おそく思いがけない女のひとのおとずれを受けた。玄関へ出てみると、青扇の最初のマダムであったのである。黒い毛のショオルにくるまって荒い<ruby><rb>飛白</rb><rt>かすり</rt></ruby>のコオトを着ていた。白い頬がいっそう<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くすき透って来たようであった。ちょっとお話したいことがございますから、一緒にそこらまでつきあってくれというのである。僕はマントも着ず、そのまま一緒にそとへ出た。霜がおりて、輪廓のはっきりした冷い満月が出ていた。僕たちはしばらくだまって歩いた。

「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ。」怒ったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。

「それは。」僕にはほかに言いようがなかったのである。

「こっちが恋いしくなったものですから。」余念なげにそう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。

「木下さんはどうしています。」

「相変らずでございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。

「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです。」

「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」

僕は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。曲った火箸の話を思い出したのである。それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。

「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、<ruby><rb>反駁</rb><rt>はんばく</rt></ruby>して置きたいような気が起るのであった。

マダムはくすくす笑いながら答えた。

「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって。」

僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、霜でふくれあがった土が<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>か<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>の<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きのようなおかしい低音をたててくだけるのだ。

「いや。」僕はわざと笑った。「そんなことでなしに、何かお仕事でもはじめていませんか？」

「もう、骨のずいからの怠けものです。」きっぱり答えた。

「どうしたのでしょう。失礼ですが、いくつなのですか？　四十二歳だとか言っていましたが。」

「さあ。」こんどは笑わなかったのである。「まだ三十まえじゃないかしら。うんと若いのでございますのよ。いつも変りますので、はっきりは私にもわかりませんのですの。」

「どうするつもりかな。勉強なんかしていないようですね。あれで本でも読むのですか？」

「いいえ、新聞だけ。新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。ていねいに読むことよ。政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます。」

僕たちはあの空地へ出た。原っぱの霜は清浄であった。月あかりのために、石ころや、笹の葉や、<ruby><rb>棒杙</rb><rt>ぼうぐい</rt></ruby>や、掃き溜めまで白く光っていた。

「友だちもないようですね。」

「ええ。みんなに悪いことをしていますから、もうつきあえないのだそうです。」

「どんな悪いことを。」僕は金銭のことを考えていた。

「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。それでも悪いことですって。あのひと、ものの善し悪しがわからないのでございますのよ。」

「そうだ。そうです。善いことと悪いことがさかさまなのです。」

「いいえ。」<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をショオルに深く埋めてかすかに<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>をふった。「はっきりさかさまなら、まだいいのでございます。目茶目茶なんですのよ、それが。だから心細いの。逃げられますわよ、あれじゃ。あのひと、それはごきげんを取るのですけれど。私のあとに二人も来ていましたそうですね。」

「ええ。」僕はあまり話を聞いていなかった。

「季節ごとに変えるようなものだわ。真似しましたでしょう？」

「なんです。」すぐには呑みこめなかった。

「真似をしますのよ、あのひと。あのひとに意見なんてあるものか。みんな女からの影響よ。文学少女のときには文学。下町のひとのときには<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>に。わかってるわ。」

「まさか。そんなチエホフみたいな。」

そう言って笑ってやったが、やはり胸がつまって来た。いまここに青扇がいるなら彼のあの細い肩をぎゅっと抱いてやってもよいと思ったものだ。

「そんなら、いま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたを真似しているというわけなのですね。」僕はそう言ってしまって、ぐらぐらとよろめいた。

「ええ。私、そんな男のかたが好きなの。もすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。でも、もうおそいの。私を信じなかった罰よ。」軽く笑いながら言ってのけた。

僕はあしもとの土くれをひとつ<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>って、ふと眼をあげると、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>のしたに男がひっそり立っていた。どてらを着て、頭髪もむかしのように長くのびていた。僕たちは同時にその姿を認めた。握り合っていた手をこっそりほどいて、そっと離れた。

「むかえに来たのだよ。」

青扇はひくい声でそう言ったのであるが、あたりの静かなせいか、僕にはそれが異様にちかちか痛く響いた。彼は月の光りさえまぶしいらしく、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめて僕たちをおどおど眺めていた。

僕は、今晩はと挨拶したのである。

「今晩は。おおやさん。」あいそよく応じた。

僕は二三歩だけ彼に近寄って尋ねてみた。

「なにかやっていますか。」

「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃあるまいし。」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえの甘ったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやっていますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現われて来ています。ほら。ね、ね。運勢がひらける証拠なのです。」

そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。

運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかったのか。<ruby><rb>竜駿</rb><rt>りゅうしゅん</rt></ruby>はいないか。<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>はいないか。もうはや、そのような期待には全くほとほと御免である。みんなみんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合いで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。

おい。見給え。青扇の御散歩である。あの<ruby><rb>紙凧</rb><rt>かみだこ</rt></ruby>のあがっている空地だ。<ruby><rb>横縞</rb><rt>よこじま</rt></ruby>のどてらを着て、ゆっくりゆっくり歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ているというのか。――よし。それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。