師走上旬

月日。

「拝復。お言いつけの原稿用紙五百枚、御入手の<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>、小生も安心いたしました。毎度の御引立、あり難く御礼申しあげます。しかも、このたびの御手簡には、小生ごときにまで誠実懇切の御忠告、あまり文壇通をふりまわさぬよう、との御言葉。何だか、どしんとたたきのめされた気持で、その日は自転車をのり廻しながら一日中考えさせられました。というのは、実を言えば貴下と吉田さんにはそういった苦言をいつの日か聞かされるのではないかと、かねて予感といった風のものがあって、この痛いところをざくり突かれた形だったからです。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し、そう言いながらも御手紙は、うれしく拝見いたしました。そうして貴下の御心配下さる事柄に対して、小生としても既に訂正しつつあるということを御報告したいのです。それは前陳の、予感があったという、それだけでも、うなずいて頂けると思います。何はしかれ、御手紙をうれしく拝見したことをもう一度申し上げて万事は御察し願うと共に貴下をして、小生を目してきらいではない程のことでは済まされぬ、本当に好きだといって<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うように心掛けることにいたします。吉田さんへも宜しく御伝え下され度、小生と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っても小生が照れぬよう無言のうちに有無相通ずるものあるよう御取はからい置き下され度、右御願い申しあげます。なお、この事、既に貴下のお耳に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っているかも知れませんが、英雄文学社の秋田さんのおっしゃるところに<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、先々月の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>新人四名の作品のうち、貴下のが一番評判がよかったので、またこの次に依頼することになっているという話です。私は商人のくせに、ひとに対して非常に好き、きらいがあって、すきな人のよい身のうえ話は自分のことのようにうれしいのです。私は貴下が好きなので、<ruby><rb>如上</rb><rt>じょじょう</rt></ruby>の自分の喜びを<ruby><rb>頒</rb><rt>わか</rt></ruby>つ意味と、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し秋田さんの話が貴下に初耳ならば、御仕事をなさる上にこの御知らせが幾分なりとも御役に立つのではないかと実はこの手紙を書きました。そうして、貴下の潔癖が私のこのやりかたを又怒られるのではないかとも一応は考えてみましたが、私の気持ちが純粋である以上、若しこれを怒るならばそれは怒る方が間違いだと考えて<ruby><rb>敢</rb><rt>あ</rt></ruby>えてこの御知らせをする次第です。但し貴下に考慮に入れて貰いたいのは、私のきらいな人というのは、私の店の原稿用紙をちっとも買ってくれない人を指して居るのではなく、文壇に在って芸術家でもなんでもない心の持主を意味して居ります。<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くともこの間に少しも功利的の考えを加えて居らぬことです。せめてこのことだけでも貴下にかって貰いたいものです。――まだ、まだ、言いたいことがあるのですけれども、私の不文が貴下をして誤解させるのを恐れるのと、明日又かせがなければならぬ身の時間の都合で、今はこれをやめて雨天休業の時にでもゆっくり言わせて貰います。なお、秋田さんの話は深沼家から聞きましたが、貴下にこの手紙書いたことが知れて、いらぬ<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>したように思われては心外であるのみならず、秋田さんに対しても<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>責任を感じますので、貴下だけの御含みにして置いて頂きたいと思います。然し私は話の<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>にお得意先の二、三の作家へ、ただまんぜんと、太宰さんのが一ばん評判がよかったのだそうですね位のことはいうかも分りません。そうして、かかることについても、作家の人物<ruby><rb>月旦</rb><rt>げったん</rt></ruby>やめよ、という貴下の御<ruby><rb>叱正</rb><rt>しっせい</rt></ruby>の内意がよく分るのですけれども私には言いぶんがあるのです。まだ、まだ、言いたいことがあると申し上げる<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>なのです。いずれ書きます。どうぞからだを大事にして下さい。不文、意をつくしませぬが、御判読下さいまし。十一月二十八日深夜二時。十五歳八歳当歳の寝息を左右に聞きながら蒲団の中、腹這いのままの無礼を謝しつつ。田所<ruby><rb>美徳</rb><rt>よしのり</rt></ruby>。太宰治様。」

「拝啓。歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。上田など小生一高時代からの友人ですが、人間的に実にイヤな奴です。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>るに吉田潔なるものが何か十一月号で上田などの肩を持ってぶすぶすいってるようですが、若し宜しいようでしたら、<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>でも結構ですから、何かアレについて一言御書き下さる訳には参りませんかしら。十二月号を今<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>していますので、一両日中に頂けますと何よりです。どうか御聞きとどけ下さいますよう御願い申します。十一月二十九日。栗飯原梧郎。太宰治様。ヒミツ絶対に厳守いたします。本名で御書き下さらば尚うれしく存じます。」

「拝復。めくら草子の校正たしかにいただきました。御配慮恐入ります。只今校了をひかえ、何かといそがしくしております。いずれ。<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>。相馬閏二。」

月日。

「近頃、君は、妙に威張るようになったな。恥かしいと思えよ。（一行あき。）いまさら他の連中なんかと比較しなさんな。お池の岩の上の亀の首みたいなところがあるぞ。（一行あき。）稿料はいったら知らせてくれ。どうやら、君より、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>の方が楽しみにしているようだ。（一行あき。）たかだか短篇二つや三つの註文で、もう、天下の太宰治じゃあちょいと心細いね。君は有名でない人間の<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさを味わないで済んでしまったんだね。吉田潔。太宰治へ。ダヌンチオは十三年間黙って湖畔で暮していた。美しいことだね。」

「何かの本で、君のことを批評した言葉のなかに、<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>の芸術云々という個所があった。評者は君の芸術が、それを<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くした時、一層面白い云々、と述べていた。ぼくは、この意見に反対だ。ぼくには、太宰治が泣き虫に見えてならぬ。ぼくが太宰治を愛する所以でもあります。暴言ならば多謝。この泣き虫は、しかし、岩のようだ。<ruby><rb>飛沫</rb><rt>ひまつ</rt></ruby>を浴びて、歯を食いしばっている――。ずいぶん、逢わないな。―― He is not what he was\. か。世田谷、林彪太郎。太宰治様。」

月日。

「貴兄の短篇集のほうは、年内に、少しでも、校正刷お目にかけることができるだろうと存じます。貴兄の御厚意身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みて<ruby><rb>感佩</rb><rt>かんぱい</rt></ruby>しています。<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>いは御厚意裏切ること無いかと案じています。では、取急ぎ要用のみ。前略、後略のまま。大森書房内、高折茂。太宰学兄。」

「僕はこの頃<ruby><rb>緑雨</rb><rt>りょくう</rt></ruby>の本をよんでいます。この間うちは文部省出版の明治天皇御集をよんでいました。僕は日本民族の中で一ばん血統の純粋な作品を一度よみたく存じとりあえず歴代の皇室の方々の作品をよみました。その結果、明治以降の大学の俗学たちの日本芸術の血統上の意見の<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>を否定すべき見解にたどりつきつつあります。君はいつも筆の先を<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がらせてものかくでしょう。僕は君に初めて送る手紙のために筆の先をハサミで切りました。もちろんこのハサミは検閲官のハサミでありません。その上、君はダス・マンということを知っているでしょう。デル・マンではありません。だから僕は君の作品に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て作品からマンの加減乗除を考えません。自信を持つということは空中<ruby><rb>楼閣</rb><rt>ろうかく</rt></ruby>を築く如く愉快ではありませんか。ただそのために君は筆の先をとぎ僕はハサミを使い、そのときいささかの<ruby><rb>滞</rb><rt>とどこお</rt></ruby>りもなく、僕も人を理解したと称します。法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>の可能性を確信できなかったそうです。それでいてこれは<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ自信とは無関係と考えます。のみならず、彼は建立が完成されても、囲をとり払うとともに塔が倒れても、やはり発狂したそうです。こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのは、おそらく君でしょう。それゆえ、あなたは表情さえ表現しようとする、当節誇るべき唯一のことと<ruby><rb>愚按</rb><rt>ぐあん</rt></ruby>いたします。あなたが御病気にもかかわらず酒をのみ煙草を吸っていると聞きました。それであなたは朝や夕べに手洗をつかうことも誇るがいいでしょう。そういう精神が<ruby><rb>涵養</rb><rt>かんよう</rt></ruby>されなかったために未だに日本新文学が傑作を生んでいない。あなたはもっと誇りを高く高くするがいい。永野喜美代。太宰治君。」

「わずかな<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>を覚えた時にも、彼はそれを確める<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に大声を発して笑ってみた。ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも、彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき、自らの悲歎に暮れたる<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しき姿を、ほれぼれと眺めた。取るに足らぬ女性の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>から、<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>かの<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>り傷を受けても、彼は<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みの<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を受けたように得意になり、たかだか二万<ruby><rb>法</rb><rt>フラン</rt></ruby>の借金にも、彼は、（百万法の負債に<ruby><rb>苛責</rb><rt>さいな</rt></ruby>まれる天才の運命は悲惨なる<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>。）などと<ruby><rb>傲語</rb><rt>ごうご</rt></ruby>してみる。彼は偉大なのらくら者、<ruby><rb>悒鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な野心家、華美な<ruby><rb>薄倖児</rb><rt>はっこうじ</rt></ruby>である。彼を絶えず照した怠惰の青い太陽は、天が彼に<ruby><rb>賦与</rb><rt>ふよ</rt></ruby>した才能の半ばを蒸発させ、<ruby><rb>蚕食</rb><rt>さんしょく</rt></ruby>した。<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しくは日本高円寺の恐るべき生活の中に往々見出し得るこの種の『半偉人』の中でも、サミュエルは特に『失敗せる傑作』を書く男であった。彼は彼の制作よりも<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ彼の<ruby><rb>為人</rb><rt>ひととなり</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に詩を輝かす病的、空想的の人物であった。未だ見ぬ太宰よ。ぶしつけ、ごめん下さい。どうやら君は、早合点をしたようだ。君は、ボオドレエルを掴むつもりで、ボ氏の作品中の人物を、両眼充血させて追いかけていた様だ。我は花にして花作り、我は傷にして刃、打つ掌にして打たるる頬、四肢にして拷問車、死刑囚にして死刑執行人。それでは、かなわぬ。むべなるかな、君を、作中人物的作家よと称して、扇のかげ、ひそかに苦笑をかわす<ruby><rb>宗匠</rb><rt>そうしょう</rt></ruby>作家このごろ更に数をましている有様。しっかりたのみましたよ、だあさん。ほほ、ほほほ。ごぞんじより。笑っちゃいかん！　僕は金森重四郎という三十五歳の男だ。妻もいることだし、ばかにするな。いったい、どうしたというのだ。ばか。」

「拝啓。益々御健勝の段慶賀の至りに存じます。さて今回本紙に左の題材にて貴下の御寄稿をお願い致したく御多忙中恐縮ながら左記条項お含みの上<ruby><rb>何卒</rb><rt>なにとぞ</rt></ruby>御承引のほどお願い申上げます。一、締切は十二月十五日。一、分量は、四百字詰原稿十枚。一、題材は、春の幽霊について、コント。寸志、一枚八円にて何卒。不馴れの者ゆえ、失礼の段多かるべしと存じられ<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>が、<ruby><rb>只管</rb><rt>ひたすら</rt></ruby>御<ruby><rb>寛恕</rb><rt>かんじょ</rt></ruby>御承引のほどお願い申上げます。師走九日。『大阪サロン』編輯部、高橋安二郎。なお、<ruby><rb>挿絵</rb><rt>さしえ</rt></ruby>のサンプルとして、三画伯の花鳥図同封、御撰定のうえ、大体の図柄御指示下されば、幸甚に存上候。」

月日。

「前略。ゆるし<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>え。新聞きり抜き、お送りいたします。なぜ、こんなものを、切り抜いて置いたのか、私自身にも判明せず。今夜、フランス製、百にちかい<ruby><rb>青蛙</rb><rt>あおがえる</rt></ruby>あそんでいる模様の、紅とみどりの絹笠かぶせた電気スタンドを、十二円すこしで買いました。書斎の机上に飾り、ひさしぶりの読書したくなって、机のまえに正坐し、まず机の引き出しを整理し、さいころが出て来たので、二、三度、いや、正確に三度、机のうえでころがしてみて、それから、片方に白いふさふさの羽毛を附したる竹製の<ruby><rb>耳掻</rb><rt>みみか</rt></ruby>きを見つけて、耳穴を掃除し、二十種にあまるジャズ・ソングの歌詞をしるせる豆手帳のペエジをめくり、小声で歌い、歌いおわって、引き出しの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>、一粒の<ruby><rb>南京豆</rb><rt>ナンキンまめ</rt></ruby>をぽんと口の中にほうり込む。かなしい男なのです。そのとき、出て来たものは、この同封の切り抜きです。何か、お役に立ち得るような気がいたします。私は、白髪の<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>を見てから死にたい。ことしの秋、私はあなたの小説をよみました。へんな話ですけれども、私は、友人のところであの小説を読んで、それから酒を呑んで、そのうちに、おう、おう、大声を放って泣いて、途中も大声で泣きながら家へかえって、ふとんを頭からかぶって寝て、ぐっすりと眠りました。朝起きたときには、全部忘却して居りましたが、今夜、この切り抜きがまた貴方を思い出させました。理由は、私にも、よく呑みこめませぬが、とにかくお送り申します。――『慢性モヒ中毒。無苦痛根本療法、発明完成。主効、慢性<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>、モルヒネ、パビナール、パントポン、ナルコポン、スコポラミン、コカイン、ヘロイン、パンオピン、アダリン等中毒。白石国太郎先生創製、ネオ・ボンタージン。文献無代贈呈。』――『<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>芝居の背景は、約十枚でこと足ります。<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>。塀外。海岸。川端。山中。宮前。貧家。座敷。洋館なぞで、これがどの狂言にでも使われます。だから床の間の掛物は年が年中朝日と鶴。警察、病院、事務所、応接室なぞは洋館の背景一つで間に合いますし、また、云々。』――『チャプリン氏を総裁に創立された馬鹿笑いクラブ。左記の三十種の事物について語れば、即時除名のこと。四十歳。五十歳。六十歳。白髪。老妻。借銭。仕事。子息令嬢の思想。満洲国。その他。』――あとの二つは、講談社の本の広告です。近日、短篇集お出しの由、この広告文を盗みなさい。お読み下さい。ね。うまいもんでしょう？（何を言ってやがる。はじめから何も聞いてやしない。）私に油断してはいけません。私は貴方の右足の小指の、黒い<ruby><rb>片端爪</rb><rt>かたはづめ</rt></ruby>さえ知っているのですよ。この五葉の切りぬきを、貴方は、こっそり赤い文箱に仕舞い込みました。どうです。いやいや、無理して破ってはいけません。私を知っていますか？　知る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>は、ない。私は二十九歳の医者です。ネオ・ボンタージンの発明者、しかも永遠の文学青年、白石国太郎先生でありますぞ。（われながら、ちっともおかしくない。笑わせるのは、むずかしいものですね。）白石国太郎は冗談ですが、いつでもおいで下さい。私は、ばかのように見えながら、実社会においては、なかなかのやり手なんだそうです。お手紙くだされば、私の力で出来る範囲内でベストをつくします。貴方は、もっともっと才能を誇ってよろし。芝区赤羽町一番地、白石生。太宰治大先生。或る種の実感を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って、『大先生』と一点不自然でなく、お呼びできます。大先生とは、むかしは、ばかの異名だったそうですが、いまは、そんなことがない様で、何よりと愚考いたします。」

「治兄。兄の評判大いによろしい。そこで何か随筆を書くよう学芸のものに頼んだところ大乗気で<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って向うから是非書かしてくれということだ。新人の立場から、といったようなものがいい由。七、八枚。二日か三日にわけて掲載。アプトデートのテエマで書いてくれ。期日は、明後日正午まで。稿料一枚、二円五十銭。よきもの書け。ちかいうちに遊びに行く。材料あげるから、政治小説かいてみないか。君には、まだ無理かな？　東京日日新聞社政治部、小泉邦録。」

「謹啓。一面識ナキ小生ヨリノ失礼ナル手紙御読了<ruby><rb>被下度</rb><rt>くだされたく</rt></ruby><ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>。小生、日本人ノウチデ、宗教家トシテハ内村鑑三氏、芸術家トシテハ岡倉天心氏、教育家トシテハ井上哲次郎氏、以上三氏ノ他ノ文章ハ、文章ニ似テ文章ニアラザルモノトシテ、モッパラ洋書ニ親シミツツアルモ、最近、貴殿ノ文章発見シ、世界ニ類ナキ<ruby><rb>銀鱗</rb><rt>ぎんりん</rt></ruby>躍動、マコトニ間一髪、アヤウク、ハカナキ、高尚ノ美ヲ蔵シ居ルコト観破<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>リ、以来貴作ヲ愛読シ居ル者ニテ、最近、貴殿著作集『晩年』トヤラム出版ノオモムキ聞キ及ビ候ガ御面倒ナガラ発行所ト<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>ナル御作、集録致サレ候ヤ、マタ、貴殿ノ諸作ニ対スル御自身ノ感懐ヲモ御モラシ被下度伏シテ願上候。御返信ネガイタク、参銭切手、二枚。葉書、一枚。同封仕リ候。封書、葉書、御意ノ召スガママニ御染筆ネガイ上候。ナオマタ、切手、モシクハ葉書、御不用ノ際ハソノママ御返送ノホドオ願イ申上候。太宰治殿。清瀬次春。二伸。当地ハ成田山新勝寺オヨビ三里塚ノ近クニ候エバ当地ニ御光来ノ節ハ御案内仕ル可ク候。」

月日。

「俺たち友人にだけでも、けちなポオズをよしたら、なにか、損をするのかね。ちょっと、日本中に類のない愚劣<ruby><rb>頑迷</rb><rt>がんめい</rt></ruby>の御手簡、ただいま<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみました。太宰！　なんだ。『許す。』とは、なんだ。馬鹿！　ふん、と鼻で笑って両手にまるめて窓から投げたら、<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の枝に引かかったっけ。俺は、君よりも優越している人間だし、君は君もいうように『ひかれ者の小唄』で生きているのだし、僕はもっと正しい欲求で生きている。君の文学とかいうものが、どんなに巧妙なものだか知らないが、タカが知れているではないか。君の文学は、猿面冠者のお道化に過ぎんではないか。僕は、いつも思っていることだ。君は、せいぜい一人の貴族に過ぎない。けれども、僕は王者を自ら意識しているのだ。僕は自分より位の低いものから、訳のわからない手紙を貰ったくらいにしか感じなかった。僕は自分の感情を<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>って書いてはいない。よく読んで見給え。僕の位は天位なのだ。君のは<ruby><rb>人爵</rb><rt>じんしゃく</rt></ruby>に過ぎぬ。許す、なんて芝居の<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>がかった言葉は、君みたいの人は、僕に向って使えないのだよ。君は、君の身のほどについて、話にならんほどの誤算をしている。ただ、君は年齢も若いのだし、まだ解らぬことが沢山あるのだし、僕にもそういう時代があったのだから黙っていただけの話だ。君のこのたびの手紙の文章については、いろいろ解釈してみたが、『こんどだけ』という君の誇張された思い上りは許し難い。きっぱりと黙殺することに腹を決めたのだが、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>今日仕事の机にむかって坐った時、ふと、返事でも書いてみるかという気になってこれを書いた。じたい、二十歳台の若者と酒汲みかわすなんて厭なものだと思っていたのだ。君は二十九歳十カ月くらいのところだね。芸者ひとり<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>べない。碁ひとつ打てん。つけられた<ruby><rb>槍</rb><rt>やり</rt></ruby>だ。いつでもお相手するが、しかし、君は、佐藤春夫ほどのこともない。僕は、あの男のためには春夫論を書いた。けれども、君に対しては、常に僕の姿を出して語らなければ場面にならないのだ。君は、長沢伝六と同じように――むろん、あれほどひどくはないが、けれども、やっぱり僕の価値を知らない。君は、僕の『つぼ』をうったことは<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つてないのだ。倉田百三か、山本有三かね。『宗教』といわれて、その程度のことしか思い浮ばんのかね。僕は、君のダス・ゲマイネを見たと思ったよ。けれども別に僕は怒りもしなかった。すると、なんだい、『ゆるす』っていうのは。僕は、君が『許して呉れ。』というのをそう表現したのかとさえ思ったほどである。それから、ずっと後でなにか道を歩いていた時、ははあと<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く多少思ったこともある。けれども、それは僕が次第にほんとの姿を現わし始めたことに過ぎないのだ。あの夜は、この温情家たる僕に、ひとつの明確な酷点を教示した。君のゆるせなかったもの、それは僕の酷点のひとつに相違ない。『われ、太陽の如く生きん。』僕の足もとに<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>まずいて、君が許せないと感じたものを白状して御覧。君は、そういう場合、まるで非芸術のように<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>で、理由なしに、ただ、左を右と言ったものだが、温良に正直にすべてを語って御覧。誰も聞いていないのだよ。一生に最初の一度。嘘でも、また、ひかれ者の小唄でもないもの。まともなことを正直に僕に訴えて見給え。君は、なにか錯覚に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちている。僕を、太陽のように利用し給え。この手紙を正当に最後のものにするかも知れぬ。僕は頑固者は嫌いである。それは黙殺にしか値しない。それは<ruby><rb>田舎者</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>だ。『君は何を許し難かったのか。』恥かしがらずに僕に話して見給え。はじらいを。君は、僕に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れているのだ。どうかね。ゆるすなんて、美しい<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>のようなことを言いなさんな。僕は、君が僕に献身的に奉仕しなければもう船橋の大本教に行かぬつもりだ。僕たち、二三の友人、つね日頃、どんなに君につくして居るか。どれだけこらえてゆずってやって居るか。どれだけ苦しいお金を使って居るか。きょうの君には、それら実相を知らせてあげたい。知ったとたんに、君は、裏の線路に飛び込むだろう。さなくば僕の泥足に涙ながして<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>する。君にして、なおも一片の誠実を具有していたなら！　吉田潔。」

中旬

月日。

「拝呈。過刻は失礼。『道化の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>』早速一読<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だおもしろく存じ<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>。無論及第点をつけ申し候。『なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。』という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつして<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>てこの一篇の評語とすることが出来ると思います。ほのかにもあわれなる真実の蛍光を発するを喜びます。恐らく真実というものは、こういう風にしか語れないものでしょうからね。病床の作者の自愛を祈るあまり<ruby><rb>慵斎</rb><rt>ようさい</rt></ruby>主人、特に一書を呈す。何とぞおとりつぎ下さい。十日深夜、否、十一日朝、午前二時頃なるべし。深沼太郎。吉田潔様<ruby><rb>硯北</rb><rt>けんぽく</rt></ruby>。」

「どうだい。これなら信用するだろう。いま大わらわでお礼状を書いている始末だ。太陽の裏には月ありで、君からもお礼状を出して置いて下さい。吉田潔。幸福な病人へ。」

「謹啓。御多忙中を大変恐縮に存じますが、本紙新年号文芸面のために左の玉稿たまわりたく、よろしくお願いいたします。一、先輩への手紙。二、三枚半。三、一枚二円余。四、今月十五日。なお御面倒でしょうが、同封のハガキで御都合折り返しお知らせ下さいますようお願いいたします。東京市<ruby><rb>麹</rb><rt>こうじ</rt></ruby>町区内幸町武蔵野新聞社文芸部、長沢伝六。太宰治様侍史。」

月日。

「おハガキありがとう。元旦号には是非お願いいたします。おひまがありましたら十枚以上を書いていただきたい。（一行あき。）小泉君と先般<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったが、相変らず元気、あの男の野性的親愛は、実に暖くて良い。あの男をもっと偉くしたい。（一行あき。）私は明日からしばらく西津軽、北津軽両郡の凶作地を歩きます。今年の青森県農村のさまは全く悲惨そのもの。とても、まともには見られない生活が行列をなし、群落をなして存在している。（一行あき。）貴兄のお兄上は、県会の花。昨今ますます青森県の重要人物らしい<ruby><rb>貫禄</rb><rt>かんろく</rt></ruby>を<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>えて来ました。なかなか立派です。人の応待など出来て来ました。あのまま伸びたら、良い人物になり社会的の働きに於いても、すぐれたる力量を示すのも遠い将来ではございますまい。二十五歳で町長、重役頭取。二十九歳で県会議員。男ぶりといい、頭脳といい、それに大へんの勉強家。愚弟太宰治氏、なかなか、つらかろと御推察申しあげます。ほんとに。三日深夜。粉雪さらさら。北奥新報社整理部、辻田吉太郎。アザミの花をお好きな太宰君。」

「太宰先生。一大事。きょう学校からのかえりみち、本屋へ立ち寄り、一時間くらい立読していたが、心細いことになっているのだよ。講談<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>の新年附録、全国長者番附を見たが、僕の家も、君の家も、きれいに姿を消して居る。いやだね。君の家が、百五十万、僕のが百十万。去年までは確かにその辺だった。毎年、僕は、あれを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、親爺が金ない金ない、と言っても安心していたのだが、こんどだけは、本当らしいぞ。対策を考究しようじゃないか。こまった。こまった。清水忠治。太宰先生、か。」

月日。

「冠省。へんな話ですが、お金が必要なんじゃないですか？　二百八十円を限度として、東京朝日新聞よろず案内欄へ、ジュムゲジュムゲジュムゲのポンタン百円、（もしくは二百円でも、御入用なだけ）食いたい。<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みたい。イモクテネ。と小さい広告おだしになれば、その日のうちにお金、お送り申します。五年まえ、おたがいに帝大の学生でした。あなたは藤棚の下のベンチに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わり、いい顔をして、昼寝していました。私の名は、カメよカメよ、と申します。」

月日。

「きょうは妙に心もとない手紙拝見。熱の出る心配があるのにビイルをのんだというのは君の手落ちではないかと考えます。君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが、万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。すっかり健康になるまで酒は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>したまえ。もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。君の自重をうながすだけのことである。送金を減らされたそうだが、減らされただけ生活をきりつめたらどんなものだろう。生活くらい伸びちぢみ自在になるものはない。至極簡単である。原稿もそろそろ売れて来るようになったので、書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。押し強くなくては自滅する。春になったら房州南方に移住して、漁師の生活など見ながら保養するのも一得ではないかと思います。いずれは仕事に区切りがついたら萱野君といっしょに訪ねたいと思います。しばらく会わないので萱野君の様子はわからない。きょう、只今徹夜にて仕事中、後略のまま。津島修二様。早川生。」

月日。

「玉稿昨日<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>しました。先日、貴兄からのハガキどういう理由だかはっきりしなかったところ、昨日の原稿を読んで意味がよくわかりました。先日の僕の依頼に<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>て、態度がいけなかったら御免なさい。実はあの手紙、大変忙しい時間に、社の同僚と手分けして約二十通ちかくを（先輩の分と新人の分と）書かねばならなかったので、君の分だけ、個人的な通信を書いている時機がなかった。稿料のことを書かないのは<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って不徳義<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>誰にでも書くことにしている。一緒に依頼した共通の友人、菊地千秋君にも、その他の諸君にも、みんな同文のものを書いただけだ。君にだけ特別個人的に書けばよかったのであろうが、そういう時間がなかったことは前述の通りだ。あの依頼の手紙を書いて、君の気持を<ruby><rb>害</rb><rt>そこな</rt></ruby>う結果になろうとは夢にも思わなかったし、悪意をもってああいうことをお願いするほど愚かな者もいないだろう。君が神経質になり過ぎているものとしか、僕には考えられない。君が僕に友情を持っていてくれるのなら、君こそ、そういう小さなことを、悪く曲解する必要はないではないか。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、君が<ruby><rb>痛罵</rb><rt>つうば</rt></ruby>したような態度を、平生僕がとっているとすれば、（君には勿論そういう態度をとったこともなければ、あの手紙がそういう態度に出たものでないことは前述の通りだ。）僕は反省しなければならぬし、自分の生活に就ても考えなければならない、事実考えてもいる。君がほんとの芸術家なら、ああいう依頼の手紙を書く者と、貰う者と、どちらがわびしい気持ちで生きているかは容易に了解できることと思う。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、あの原稿は徹頭徹尾、君のそういう思い過しに出ているものだから、大変お気の毒だけれども書き直してはくれないだろうか。どうしても君が嫌だと云えば、<ruby><rb>致</rb><rt>いた</rt></ruby>し方がないけれども、こういう誤解や<ruby><rb>邪推</rb><rt>じゃすい</rt></ruby>に出発したことで君と喧嘩したりするのは、僕は嫌だ。僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角、僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど一睡もしなかった。先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。そして、原稿も書き直してほしい。これはお願いだ。君はああいうことで（<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>も、君自身の誤解で）非常に怒ったけれど、そういうことを一々怒っていては、僕など、一日に幾度怒っていなければならぬか、数えあげられるものではない。君が精いっぱいに生きているように、僕だって精いっぱいで生きているのだ。君のこれからのことや、僕のこれからのことや、そういうことは、こんど会った時、話したい。一度、君の病床に訪ねて、いろいろ話したいと思っているのだけれど、僕も大変多忙な上に、少々神経衰弱気味で参っているのだ。正月にでもなったら、ゆっくりお訪ねできることと思う。永野、吉田両君には先夜会った。神経をたかぶらせないでお身お大事に勉強してほしい。社の余暇を盗んで書いたので意を尽せないところが多いだろうが、折り返し、御返事をまちます。武蔵野新聞社、学芸部、長沢伝六。太宰治様。<ruby><rb>追伸</rb><rt>ついしん</rt></ruby>、尚原稿書き直して<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>ければ、二十五日までで結構だ。それから写真を一枚、同封して下さい。いろいろ面倒な御願いで恐縮だが、なにとぞよろしく。乱筆乱文多謝。」

「ちかごろ、毎夜の如く、太宰兄についての、薄気味わるい夢ばかり見る。変りは、あるまいな。誓います。誰にも言いません。苦しいことがあるのじゃないか。事を行うまえに、たのむ、僕にちょっと耳打ちして<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ。一緒に旅に出よう。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>でも、南洋でも、君の好きなところへ行こう。君の好いている土地なら、津軽だけはごめんだけれど、あとは世界中いずこの果にても、やがて僕もその土地を好きに思うようになります。これぼっちも疑いなし。旅費くらいは、私かせぎます。ひとり旅をしたいなら、私はお供いたしませぬ。君、なにも、していないだろうね？　大丈夫だろうね？　さあ、私に明朗の御返事下さい。黒田重治。太宰治学兄。」

「<ruby><rb>貴翰</rb><rt>きかん</rt></ruby>拝誦。病気<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>のおもむきにてなによりのことと思います。土佐から帰って以来、仕事に追われ、見舞にも行けないが、病気がよくなればそれでいいと思っている。今日は十五日締切の小説で<ruby><rb>大童</rb><rt>おおわらわ</rt></ruby>になっているところ。新ロマン派の君の小説が深沼氏の<ruby><rb>推讃</rb><rt>すいさん</rt></ruby>するところとなって、君が発奮する気になったとは二重のよろこびである。自信さえあれば、万事はそれでうまく行く。文壇も社会も、みんな自信だけの問題だと、小生痛感している。その自信を持たしてくれるのは、自分の仕事の<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できば</rt></ruby>えである。循環する理論である。だから自信のあるものが勝ちである。拙宅の赤んぼさんは、大介という名前の由。小生旅行中に女房が勝手につけた名前で、小生の気に入らない名前である。しかし、<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や御近所へ<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>してしまった後だから泣寝入りである。後略のまま<ruby><rb>頓首</rb><rt>とんしゅ</rt></ruby>。大事にしたまえ。萱野君、旅行から帰って来た由。早川俊二。津島君。」

月日。

「返事よこしてはいけないと言われて返事を書く。一、長篇のこと。云われるまでもなく早まった気がして居る。<ruby><rb>屑物屋</rb><rt>くずものや</rt></ruby>へはらうつもりで承知してしまったのだが、これはしばらく取消しにしよう。この手紙といっしょに延期するむね葉書かいた。どうせ来年の予定だったから、来年までには、僕も何とかなるつもりでいた――が、それまでに一人前になれるかどうか、疑問に思われて来た。『新作家』へは、今度書いた百枚ほどのもの連載しようと思っている。あの雑誌はいつまでも、僕を無名作家にしたがっている。『月夜の華』というのだ。<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>くそにいっていたとしても、むしろ、この方を宣伝して呉れ。<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をもつことなんて一番やさしいことなんだから。二、僕と君との交友が、とかく、色眼鏡でみられるのは仕方がないのではないかな。中畑というのにも僕は一度あってるきりだし、世間さまに云わせたら、僕が君をなんとかしてケチをつけたい<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>に居そうにみえるのではないかしら。僕だけの耳へでも、僕が君をいやみに言いふらして居るらしい噂が聞えてくる。そして人からいろいろ忠告されたりする。構わんじゃろ。君と僕が対立的にみられるのは僕にはかえって面白いくらいだ。たとえばポオとレニンが比較されて、ポオがレニンに策士だといって<ruby><rb>蔭口</rb><rt>かげぐち</rt></ruby>をきいたといった風なゴシップは愉快だからな。何よりも僕の考えていることは、友人面をしてのさばりたくないことだ。君の手紙のうれしかったのは、そんな<ruby><rb>秘</rb><rt>かく</rt></ruby>れた愛情の支持者があの中にいたことだ。君が神なら僕も神だ。君が<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>なら――僕も葦だ。三、それから、君の手紙はいくぶんセンチではなかったか。というのは、よみながら、僕は涙が出るところだったからだ。それを僕のセンチに帰するのは好くない。ぼくは、恋文を貰った小娘のように顔をあからめていた。四、これが君の手紙への返事だったら破いて呉れ。僕としては依頼文のつもりだった。たった一つ、僕のこんどの小説を宣伝して呉れということ。五、昨日、不愉快な客が来て、太宰治は巧くやったねと云った。僕は不愛想に答えた。『彼は僕たちが出したのです』――今日つくづく考えなおしている。こんなのがデマの根になるのではないか――と。『ええ』といっておけば好いのかもしれない。それともまた『彼は立派な作家です』と言えばいいのか。ぼくはいままでほど自由な気持で君のことを<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>れなくなったのを哀しむ。君も僕も<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないとしても、聞く奴が<ruby><rb>駑馬</rb><rt>どば</rt></ruby>なら君と僕の名に関る。太宰治は、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、偉くなりすぎたからいかんのだ。これじゃ、僕も肩を並べに行かなくては。漕ぎ着こう。六、長沢の小説よんだか。『神秘文学』のやつ。あんな安直な友情のみせびらかしは、僕は御免だ。正直なのかもしれないが、文学ってやつは、もっとひねくれてるんじゃないかしら。長沢に期待すること少くなった。これも哀しいことの一つだ。七、長沢にも会いたいと思いながら、会わずにいる。ぼくはセンチになると、水いらずで雑誌を作ることばかり考える。君はどんな風に考えるかしらんが、僕と君と二人だけでいる世界だけが一番美しいのではないだろうか。八、無理をしてはいかん。君は馬鹿なことを言った。君が先に出て先にくたばる術はない。僕たちを待たなくてはいかん。それまでは少くとも十年健康で待たなくてはいかん。根気が要る。僕は指にタコができた。九、これからは太宰治がじゃんじゃん僕なんかを宣伝する時になったようだ。僕なんか、ほくほく悦に入っている。『こんなのが仲間にいるとみんな得をするからな。』と今度ぼくは誰かに（最も不愉快な客が来たら）言ってやろうと、もくろんでいる。『<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>の威を借る云々』とドバどもはいいふらすだろう。そしたら『あいつは虎でないとでもいうのか』と逆襲してやる。『そして僕が狐でないと誰が言いましたか。』十、<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby><ruby><rb>不看</rb><rt>みずや</rt></ruby><ruby><rb>双眼色</rb><rt>そうがんのいろ</rt></ruby>、<ruby><rb>不語</rb><rt>かたらざれば</rt></ruby><ruby><rb>似無愁</rb><rt>うれいなきににたり</rt></ruby>――いい句だ。では元気で、僕のことを宣伝して呉れと筆をとること右の如し。林彪太郎。太宰治様<ruby><rb>机下</rb><rt>きか</rt></ruby>。」

「メクラソウシニテヲアワセル。」（電報）

「めくら草紙を読みました。あの雑誌のうち、あの八頁だけを読みました。あなたは病気骨の髄を犯しても不倒である必要があります。これは僕の最大限の君への心の言葉。きょう僕は疲れて大へん疲れて字も書きづらいのですが、急に君へ手紙を出す必要をその中で感じましたので一筆。お正月は<ruby><rb>大和国</rb><rt>やまとのくに</rt></ruby>桜井へかえる。永野喜美代。」

「君は、君の読者にかこまれても、赤面してはいけない。<ruby><rb>頬被</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りもよせ。この世の中に生きて行くためには。ところで、めくら草紙だが、<ruby><rb>晦渋</rb><rt>かいじゅう</rt></ruby>ではあるけれども、一つの頂点、傑作の相貌を具えていた。君は、以後、讃辞を素直に受けとる修行をしなければいけない。吉田生。」

「はじめて、手紙を差上げる無礼、<ruby><rb>何卒</rb><rt>なにとぞ</rt></ruby>お許し下さい。お蔭様で、私たちの雑誌、『春服』も第八号をまた出せるようになりました。最近、同人に少しも手紙を書かないので連中の気持は判りませんが、ぼくの云いたいのは、もうお<ruby><rb>手許迄</rb><rt>てもとまで</rt></ruby>とどいているに違いない『春服』八号中の拙作のことであります。興味がなかったら後は読まないで下さい。あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。いま、ぼくはあれに対して、全然気恥しい気持、見るのもいやな気持に駆られています。太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。ぼくはいま、ある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては、無駄話をして一時頃帰ってきます。大して惚れていないのに、せんだって、真面目に求婚して、承諾されました。その帰り<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく、噴き出している最中、――いや、どんな気持だったかわかりません。ぼくはいつも真面目でいたいと思っているのです。東京に帰って文学<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りたくてたまりません。このままだったら、いっそ死んだ方が得なような気がします。誰もぼくに<ruby><rb>生半可</rb><rt>なまはんか</rt></ruby>な関心なぞ持っていて貰いたくありません。東京の友達だって、おふくろだって貴方だってそうです。お便り下さい。それよりお会いしたい。大ウソ。中江種一。太宰さん。」

月日。

「拝啓。その後、失礼して居ります。先週の火曜日（？）にそちらの様子見たく思い、船橋に出かけようと立ち上った<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に君からの葉書<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>り、中止。一昨夜、突然、永野喜美代参り、君から絶交状送られたとか、その夜は<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に徹夜、ぼくも大変心配していた処、只今、永野よりの葉書にて、ほどなく和解できた由うけたまわり、大いに<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>いたしました。永野の葉書には、『太宰治氏を十年の友と安んじ居ること、真情<ruby><rb>吐露</rb><rt>とろ</rt></ruby>してお伝え下され<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>く』とあるから、原因が何であったかは知らぬが、益々交友の<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>を固くせられるよう、ぼくからも祈ります。永野喜美代ほどの異質、近頃沙漠の花ほどにもめずらしく、何卒、良き交友、続けられること、おねがい申します。さて、その後のからだの調子お知らせ下さい。ぼく余りお邪魔しに行かぬよう心掛け、手紙だけでも時々書こうと思い、筆を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ると、えい面倒、行ってしまえ、ということになる。手紙というもの、実にまどろこしく、ぼくには<ruby><rb>不得手</rb><rt>ふえて</rt></ruby>。<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>、自分で何をかいたのか<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れる有様。近頃の句一つ。<ruby><rb>自嘲</rb><rt>じちょう</rt></ruby>。歯こぼれし口の<ruby><rb>寂</rb><rt>さぶ</rt></ruby>さや三ッ日月。やっぱり四五日中にそちらに行ってみたく思うが<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>？　不一。黒田重治。太宰治様。」

月日。

「お問い合せの玉稿、五、六日まえ、すでに拝受いたしました。きょうまで、お礼<ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>、欠礼の段、おいかりなさいませぬようお願い申します。玉稿をめぐり、小さい騒ぎが、ございました。太宰先生、私は<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>をあくまでも支持いたします。私とて、同じ季節の青年でございます。いまは、ぶちまけて申しあげます。当雑誌の記者二名、貴方と決闘すると申しています。玉稿、ふざけて居る。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の雑誌と思ってばかにして居る。おれたちの眼の黒いうちは、採用させぬ。生意気な身のほど知らず、等々、たいへんな騒ぎでございました。私には成算ございましたので、二、三日、様子を見て、それから貴方へ御寄稿のお礼かたがた、このたびの事件のてんまつ大略申し述べようと思って居りましたところ、かれら意外にも、けさ、<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>主任たる私には一言の挨拶もなく、書留郵便にて、玉稿御返送敢行いたせし由、承知いたし、いまは、私と彼等二人の正義づらとの、面目問題でございます。かならず、厳罰に附し、おわびの万分の一、当方の誠意かっていただきたく、飛行郵便にて、玉稿の書留より一足さきに、額の滝、油汗ふきふき、平身低頭のおわび、以上の如くでございます。なお、寸志おしるしだけにても、御送り申そうかと考えましたが、これ又、かえって失礼に当りはせぬか、心にかかり、いまは、<ruby><rb>訥吃</rb><rt>とっきつ</rt></ruby>、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>、<ruby><rb>七重</rb><rt>ななえ</rt></ruby>の膝を<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>に折り曲げての平あやまり、他日、つぐない、内心、固く期して居ります。俗への憤怒。貴方への申しわけなさ。文字さえ乱れて、細くまた太く、ひょろひょろ小粒が駈けまわり、突如、牛ほどの岩石の落下、この悪筆、乱筆には、われながら驚き呆れて居ります。創刊第一号から、こんな手違いを起し、不吉きわまりなく、それを思うと泣きたくなります。このごろ、みんな、一オクタアヴくらい調子が変化して居るのにお気附きございませぬか。私は、もとより、私の周囲の者まで、すべて。大阪サロン編輯部、高橋安二郎。太宰先生。」

「前略。しつれい申します。玉稿、本日別封書留にてお送りいたしました。むかしの同僚、高橋安二郎君が、このごろ病気がいけなくなり、太宰氏、ほか三人の中堅、新進の作家へ、本社編輯部の名をいつわり、とんでもない御手紙さしあげて居ることが最近、判明いたしました。高橋君は、たしか三十歳。おととしの秋、社員全部のピクニックの日、ふだん好きな酒も呑まず、青い顔をして居りましたが、すすきの穂を口にくわえて、同僚の面前にのっそり立ちふさがり薄目つかって相手の顔から、胸、胸から脚、脚から靴、なめまわすように見あげ、見おろす。帰途、夕日を浴びて、ながいながいひとりごとがはじまり、見事な、血したたるが如き<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>の大いなる枝を肩にかついで、下腹部を<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に前へつき出し、ぶらぶら歩いて、君、誰にも言っちゃいけないよ、<ruby><rb>藤村</rb><rt>とうそん</rt></ruby>先生ね、あの人、背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて<ruby><rb>刺青</rb><rt>ほりもの</rt></ruby>したのだよ。背中一ぱいに金魚が泳いで居る。いや、ちがった、おたまじゃくしが、一千匹以上うようよしているのだ。山高帽子が似合うようでは、どだい作家じゃない。僕は、この秋から<ruby><rb>支那服</rb><rt>しなふく</rt></ruby>着るのだ。<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>をはきたい。白足袋はいて、おしるこたべていると泣きたくなるよ。ふぐを食べて死んだひとの六十パアセントは自殺なんだよ。君、秘密は守って<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れるね？　藤村先生の戸籍名は河内山そうしゅんというのだ。そのような大へんな秘密を、高橋の呼吸が私の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>をくすぐって<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る弱ったほど、それほど近く顔を寄せて、こっそり教えて呉れましたが、高橋君は、もともと文学青年だったのです。六、七年まえのことでございますが、当時、信濃の山々、奥深くにたてこもって、創作三昧、しずかに一日一日を生きて居られた藤村、島崎先生から、百枚ちかくの約束の玉稿、（このときの創作は、文豪老年期を代表する傑作という折紙つきました。）ぜひともいただいて来るよう、まして此のたびは他の雑誌社に奪われる危険もあり、<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>なく立ちまわれよ、と編輯長に言われて、ふだんから生真面目の人、しかもそのころは未だ二十代、山の奥、竹の柱の草庵に文豪とたった二人、<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>を挟んで徹宵お話うけたまわれるのだと、期待、緊張、それがために顔もやや青ざめ、同僚たちのにぎやかな声援にも、いちいち口を引きしめては深くうなずき、決意のほどを見せるのです。廻転ドアにわれとわが身を音たかく<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけ、一直線に旅立ったときのひょろ長い後姿には、笑ってすまされないものがございました。四日目の朝、しょんぼり、びしょ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れになって、社へ帰ってまいりました。やられたのです。かれの言いぶんに<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、字義どおりの一足ちがい、宿の朝ごはんの後、熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもと、それがために五分おくれて、大事になったとのこと、二人の給仕もいれて十六人の社員、こぞって同情いたしました。私なども<ruby><rb>編</rb><rt>あみ</rt></ruby>あげ靴の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結び直したばかりに、やはり他社のものに先をこされて、あやうく首切られそうになったかなしい経験がございます。高橋君は、すぐ編輯長に呼ばれて、三時間、直立不動の姿勢でもって、説教きかされ、お説教中、五たび、六たび、編輯長をその場で殺そうと決意したそうでございます。とうとう仕舞いには、卒倒、おびただしき鼻血。私たち、なんにも申し合わせなかったのに、そのあくる日、二人の給仕は例外、ほかの社員ことごとく、辞表をしたためて持って来ていたのでございます。そうして、くやしくて、みんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまって、ことにも私、どうにもこうにも我慢ならず、かたわらの友人の、声しのばせての<ruby><rb>歔欷</rb><rt>きょき</rt></ruby>に誘われ、大声放って泣きました。あのときの一種崇高の感激は、生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。ああ、不要のことのみ書きつらねました。おゆるし下さい。高橋君は、それ以後、作家に限らず、いささかでも人格者と名のつく人物、一人の例外なく<ruby><rb>蛇蝎視</rb><rt>だかつし</rt></ruby>して、先生と呼ばれるほどの<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>き、などの<ruby><rb>川柳</rb><rt>せんりゅう</rt></ruby>をときどき雑誌の<ruby><rb>埋草</rb><rt>うめくさ</rt></ruby>に使っていましたが、あれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。よほどの事が、あったにちがいございませぬ。昨年の春、健康いよいよ<ruby><rb>害</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねて、今は、明確に退社して居ります。百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>えると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいに<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>り金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、私の<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>が音たててふるえるので、私は、電気をつけようと<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう？』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院させた。高橋は静かに、<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば、そろそろと、狂っていったのである。味わいの深い狂いかたであると<ruby><rb>思惟</rb><rt>しい</rt></ruby>いたします。ああ。あなたの小説を、にっぽん一だと申して、幾度となく繰り返し繰り返し拝読して居る様子で、貴作、ロマネスクは、すでに<ruby><rb>諳誦</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>できる程度に修行したとか申して居たのに。むかしの<ruby><rb>佳</rb><rt>よ</rt></ruby>き人たちの恋物語、あるいは、とくべつに楽しかった御旅行の追憶、さては、先生御自身のきよらかなるロマンス、等々、病床の高橋君に書き送る形式にて、四枚、月末までにおねがい申しあげます。大阪サロン編輯部、春田一男。太宰治様。」

「君の葉書読んだ。単なる冷やかしに過ぎんではないか。君は真実の解らん人だね。つまらんと思う。吉田潔。」

「冠省。首くくる<ruby><rb>縄切</rb><rt>なわき</rt></ruby>れもなし年の暮。私も、大兄お言いつけのものと同額の<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>入用にて、八方<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>。岩壁、切りひらいて行きましょう。死ぬるのは、いつにても可能。たまには、後輩のいうことにも留意して下さい。永野喜美代。」

「先日は御手紙<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う。又、電報もいただいた。原稿は、どういうことにしますか。君の気がむいたようにするのが、一番いいと思う。<ruby><rb>〆切</rb><rt>しめきり</rt></ruby>は二十五、六日頃までは待てるのです。小生ただいま居所不定、（近くアパアトを捜す予定）だから御通信はすべて社<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>に下さる様。住所がきまったなら、お<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せする。要用のみで失敬。武蔵野新聞社学芸部、長沢伝六。」

月日。

「太宰さん。とうとう正義温情の徒にみごと一ぱい食わせられましたね。はじめから御注意申しあげて置いたら、こんなことにはならなかったのでございますが、雑誌は、どこでもそうらしいですが、ひとりの作家を特に引きたててやることは、固く禁じられて居りますし、そのうえ、この社には、重役附きのスパイが多く、これからもあることゆえ、ものやわらかの人物には気をつけて下さいまし。軽々しく、ふるまってはいけません。春田は、どんな言葉でおわびをしたのか、わかりませぬけれど、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に書き直しさせたと言って、この二、三日大自慢で、それだけ、私は、小さくなっていなければならず、まことに味気ないことになりました。太宰さん、あなたもよくない。春田が、どのような巧言を並べたてたかは、存じませぬけれど、何も、あんなにセンチメンタルな手紙を春田へ与える必要ございません。醜態です。猛省ねがいます。私、ちゃんとあなたのための八十円用意していたのに、春田などにたのんでは十円も危い。作家を困らせるのを、雑誌記者の天職と心得て居るのだから、始末がわるい。私ひとりで、やきもきしてたって仕様がない。太宰さん。あなたの御意見はどうなんです。こんなになめられて<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しく思いませんか。私は、あなたのお家のこと、たいてい知って居ります。あなたの読者だからです。背中の<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>の数まで知って居ります。春田など、太宰さんの小説ひとつ読んでいないのです。私たちの雑誌の性質上、サロンの出いりも繁く、席上、太宰さんの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>など出ますけれど、そのような時には、春田、夏田になってしまって熱狂の身ぶりよろしく、筆にするに忍びぬ下劣の形容詞を一分間二十発くらいの割合いで猛射撃。<ruby><rb>可成</rb><rt>かな</rt></ruby>りの変質者なのです。以後、浮気は固くつつしまなければいけません。このみそかは、それじゃ困るのでしょう？　私は、もうお世話ごめん<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ります。八十円のお金、よそへまわしてしまいました。おひとりで、やってごらんなさい。そんな苦労も、ちっとは、身になります。八方ふさがったときには、御相談下さい。苦しくても、ぶていさいでも、死なずにいて下さい。不思議なもので、大きい苦しみのつぎには、きっと大きいたのしみが来ます。そうして、これは数学の如くに正確です。あせらず御養生専一にねがいます。来春は東京の実家へかえって初日を拝むつもりです。その折、お逢いできればと、いささか、たのしみにして居ります。良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」

下旬

月日。

「突然のおたよりお許し下さい。私は、あなたと<ruby><rb>瓜</rb><rt>うり</rt></ruby>二つだ。いや、私とあなた、この二人のみに非ず。青年の没個性、自己喪失は、いまの世紀の特徴と見受けられます。以下、必ず一読せられよ。（一行あき。）刺し殺される日を待って居る。（一行あき。）私は或る期間、穴蔵の中で、<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>なる政治運動に加担していた。月のない夜、私ひとりだけ逃げた。残された仲間は、すべて、いのちを失った。私は、大地主の子である。転向者の苦悩？　なにを言うのだ。あれほどたくみに裏切って、いまさら、ゆるされると思っているのか。（一行あき。）裏切者なら、裏切者らしく振舞うがいい。私は唯物史観を信じている。唯物論的弁証法に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>らざれば、どのような<ruby><rb>些々</rb><rt>ささ</rt></ruby>たる現象をも、把握できない。十年来の信条であった。肉体化さえ、されて居る。十年後もまた、変ることなし。けれども私は、労働者と農民とが私たちに向けて示す憎悪と反撥とを、いささかも<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>げてもらいたくないのである。例外を認めてもらいたくないのである。私は彼等の単純なる勇気を二なく愛して居るがゆえに、二なく尊敬して居るがゆえに、私は私の信じている世界観について一言半句も言い得ない。私の腐った<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>から、明日の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>を言い出すことは、ゆるされない。裏切者なら、裏切者らしく振舞うがいい。『職人ふぜい。』と噛んで吐き出し、『<ruby><rb>水呑</rb><rt>みずのみ</rt></ruby>百姓。』と<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>いののしり、そうして、刺し殺される日を待って居る。かさねて言う、私は労働者と農民とのちからを信じて居る。（一行あき。）私は派手な衣服を着る。私は<ruby><rb>甲高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い口調で話す。私は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り離れて居る。射撃し易くしてやって居るのである。私の心にもなき<ruby><rb>驕慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>の<ruby><rb>擬態</rb><rt>ぎたい</rt></ruby>もまた、射手への便宜を思っての振舞いであろう。（一行あき。）<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>の心からではない。私を葬り去ることは、すなわち、建設への一歩である。この私の誠実をさえ疑う者は、人間でない。（一行あき。）私は、つねに、真実を語った。その結果、人々は、私を非常識と呼んだ。（一行あき。）誓って言う。私は、私ひとりのために行動したことはなかった。（一行あき。）このごろ、あなたの少しばかりの異風が、ゆがめられたポンチ画が、たいへん珍重されているということを、寂しいとは思いませんか。親友からの便りである。私はその一葉のはがきを読み、海を見に出かけた。途中、麦が一寸ほど伸びている麦畑の傍にさしかかり、突然、ぐしゃっと涙が鼻にからまって来て、それから声を放って泣いた。泣き泣き歩きながら私をわかって呉れている人も在るのだと思った。生きていてよかった。私を忘れないで下さい。私は、あなたを忘れていた。（一行あき。）その未見の親友の、純粋なるくやしさが、そのまま私の血管にも移入された。私は家へかえって、原稿用紙をひろげた。『私は<ruby><rb>無頼</rb><rt>ぶらい</rt></ruby>の徒ではない。』（一行あき。）具体的に言って呉れ。私は、どんな迷惑をおかけしたか。（一行あき。）私は借銭をかえさなかったことはない。私は、ゆえなく人の<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>を受けたことはない。私は約束を破ったことはない。私は、ひとの女と私語を交えたことはない。私は友の陰口を言ったことさえない。（一行あき。）昨夜、床の中で、じっとして居ると、四方の壁から、ひそひそ話声がもれて来る。ことごとく、私に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いての悪口である。ときたま、私の親友の声をさえ聞くのである。私を傷つけなければ、君たちは生きて行けないのだろうね。（一行あき。）<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りたいだけ殴れ。踏みにじりたいだけ踏みにじるがいい。<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>いたいだけ嗤え。そのうちに、ふと気がついて、顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くするときが来るのだ。私は、じっとしてその時期を待っていた。けれども私は間違っていた。小市民というものは、こちらが頭を低くすればするほど、それだけ、のしかかって来るものであった。そう気がついたとき、私は、ふたたび起きあがることが出来ぬほどに背骨を打ちくだかれていたようだ。（一行あき。）私は、このごろ、肉親との和解を夢に見る。かれこれ八年ちかく、私は故郷へ帰らない。かえることをゆるされないのである。政治運動を行ったからであり、情死を行ったからであり、<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しい女を妻に迎えたからである。私は、仲間を裏切りそのうえ生きて居れるほどの恥知らずではなかった。私は、私を思って呉れていた有夫の女と情死を行った。女を拒むことができなかったからである。そののち、私は、現在の妻を迎えた。結婚前の約束を守ったまでのことである。私、十九歳より二十三歳まで、四年間土曜日ごとに逢っていたが、私はいちども、まじわりをしなかった。けれども、肉親たちは、私を知らない。よそに<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>いで居る姉が、私の一度ならず二度三度の醜態のために、その嫁いで居る家のものたちに顔むけができずに夜々、泣いて私をうらんでいるということや、私の生みの老母が、私あるがために、亡父の跡を<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで居る私の長兄に対して、ことごとく面目を失い、針のむしろに坐った思いで居るということや、また、私の長兄は、私あるがために、くにの名誉職を辞したとか、辞そうとしたとか、とにかく、二十数人の肉親すべて、私があたりまえの男に立ちかえって呉れるよう神かけて祈って居るというふうの噂話を、<ruby><rb>仄聞</rb><rt>そくぶん</rt></ruby>することがあるのである。けれども、私は、弁解しない。いまこそ血のつながりというものを信じたい。長兄が私の小説を読んで呉れる夢のうれしさよ。佐藤春夫の顔が、私の亡父の顔とあんなに似ていなかったら、私は、あの客間へ二度と行かなかったかも知れない。（一行あき。）肉親との和解の夢から、さめて夜半、しれもの、ふと親孝行をしたく思う。そのような夜半には、私もまた、菊池寛のところへ手紙を出そうか、サンデー毎日の三千円大衆文芸へ応募しようか、何とぞして芥川賞をもらいたいものだ、などと思いを千々にくだいてみるのであるが、夜のしらじらと明け放れると共に、そのような努力が、何故とも知らず、馬鹿くさく<ruby><rb>果無</rb><rt>はかな</rt></ruby>く思われ、『やがて死ぬるいのち。』という言葉だけがありがたく、その日も<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すところなく迎えてそうして送っていただけなのである。けれども、――（一行あき。）一日読書をしては、その研究発表。<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>で三日ほど寝ては、病床閑語。二時間の旅をしては、<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>みたいな旅日記。それから、面白くも楽しくも、なんともない、創作にあらざる小説。これが、日本の文壇の現状のようである。苦悩を知らざる苦悩者の数のおびただしさよ。（一行あき。）私は今迄、自己を語る場合に、どうやら少しはにかみ過ぎていたようだ。きょうよりのち、私は、あるがままの自身を語る。それだけのことである。（一行あき。）語らざれば憂い無きに似たり、とか。私は言葉を軽蔑していた。<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の色でこと足りると思っていた。けれども、それは、この愚かしき世の中には通じないことであった。苦しいときには、『苦しい！』とせいぜい声高に叫ばなければいけないようだ。黙っていたら、いつしか人は、私を馬扱いにしてしまった。（一行あき。）私は、いま、取りかえしのつかない事がらを書いている。人は私の<ruby><rb>含羞</rb><rt>はじらい</rt></ruby>多きむかしの姿をなつかしむ。けれども、君のその嘆声は、いつわりである。一得一失こそ、ものの成長に追随するさだめではなかったか。永い眼で、ものを見る習性をこそ体得しよう。（一行あき。）<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>なく立たむ名こそ惜しけれ。（一行あき。）なんじら<ruby><rb>断食</rb><rt>だんじき</rt></ruby>するとき、かの偽善者のごとく、悲しき<ruby><rb>面容</rb><rt>おももち</rt></ruby>をすな。（マタイ六章十六。）キリストだけは、知っていた。けれども神の子の苦悩に就いては、パリサイびとでさえ、みとめぬわけにはいかなかったのである。私は、しばらく、かの偽善者の面容を<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ぶ。（一行あき。）百千の迷の果、私は私の態度をきめた。いまとなっては、私は、おのが苦悩の歴史を、つとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。てれないように。てれないように。（二行あき。）私も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>、地平線のかなた、久遠の女性を見つめている。きょうの日まで、私は、その女性について、ほんの断片的にしか語らず私ひとりの胸にひめていた。けれども私の誇るべき一先輩が、早く書かなけれあ、君、子供が<ruby><rb>雪兎</rb><rt>ゆきうさぎ</rt></ruby>を綿でくるんで机の引き出しにしまって置くようなもので、溶けてしまうじゃないか。あとでひとりで楽しまむものと、机の引き出し、そっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみたときには、溶けてしまって、<ruby><rb>南天</rb><rt>なんてん</rt></ruby>の赤い目玉が二つのこっていたという正吉の失敗とかいう漫画をうちの子供たち読んでいたが、美しい追憶も、そんなものだよ、パッション失わぬうちに書け、鉄は赤いうちに打つべし、と言われているよ。私は、けれども聞えぬふりした。しらじらしく、よそごとのみを興ありげに話すのだ。兎どころか、私のふるさとでは美しい女さえ溶けてしまうのです。<ruby><rb>吹雪</rb><rt>ふぶき</rt></ruby>の夜に、わがやの門口に行倒れていた唇の赤い娘を助けて、きれいな上に、無口で働きものゆえ一緒に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を持って、そのうちにだんだんあたたかくなると共に、あのきれいなお嫁も<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて元気がなくなり、玉のようなからだも、なんだかおとろえて、家の中が暗くなった。<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は、心細さに堪えかね、一日、たらいにお湯を汲みいれて、むりやりお嫁に着物を脱がせ、お嫁の背中を洗ってやった。お嫁はしくしく泣きながら、背中洗ってくれているやさしかった<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>にむかって、『私が死んでも、――』と言いかけて、さらさらと絹ずれの音がしてお嫁のすがたが見えなくなった。たらいの中には<ruby><rb>桜貝</rb><rt>さくらがい</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>と<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>が浮んでいるだけであった。雪女、お湯に溶けてしまった、という物語。私は尚も言葉をつづけて、私、考えますに<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉の如く、この雪女郎のお嫁が<ruby><rb>懐妊</rb><rt>かいにん</rt></ruby>し、そのお腹をいためて生んだ子があったとしたなら、そうして子供が成長して、雪の降る季節になれば、雪の野山、母をあこがれ歩くものとしたなら、この物語、世界の人、ことごとくを充分にうっとりさせ得ると、信じて居る。そう言いむすんだとき、見よ、世界の人の中のひとり、私の先輩も、頬を染めて浮かれだし、サロンの空気がたいへんパッショネエトにされてしまって、いつしか、私のひめにひめたるお湯にも溶けぬ雪女について問われるがままに語って聞かせて居たのである。

――年齢。

――十九です。やくどしです。女、このとしには必ず何かあるようです。不思議のことに思われます。

――小柄だね？

――ええ、でもマネキン嬢にもなれるのです。

――というと？

――全部が一まわり小さいので、写真ひきのばせば、ほとんど<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>の調和を表現し得るでしょう。両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。

――どうかね。

――誇張じゃないんです。私、あのひとに関しては、どうしても嘘をつけない。

――あんまり、ひどくだましたからだ。

――おどろいたな。けれども、全く、そうなんです。私、二十一歳の冬に<ruby><rb>角帯</rb><rt>かくおび</rt></ruby>しめて銀座へ遊びにいって、その晩、女が私の部屋までついて来て、あなたの名まえなんていうの？　と聞くから、ちょうど、そこに海野三千雄、ね、あの人の創作集がころがっていて、私は、海野三千雄、と答えてしまった。女は、私を三十一、二歳と思っているらしく、もすこし有名の人かと思った、とほっと肩を落して溜息をついて、私は、あのときぐらい有名になりたく思ったことございませぬ。のどが、からから<ruby><rb>枯渇</rb><rt>こかつ</rt></ruby>して、くろい煙をあげて焼けるほどに有名を欲しました。海野三千雄といえば、ひところ文壇でいちばん若くて、いい小説もかいていました。その夜から、私、学生服を着ている時のほかには、どこへ行っても、海野三千雄で、押しとおさなければならなくなった。いちど、にせものをつとめると、不安で不安で夜のめも眠れず、それでいて、そのにせもの勤めをよそうとはせず、かえって完璧の一点のすきのないにせものになろうと、そのほうにだけ心をくだくものです。不思議なものです。

――面白いね。つづけたまえ。

――たった一度きりの女なら、海野三千雄もよろしゅうございましょうが、二度、三度<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っているうちに、窮屈になって、ひとりで悶悶転転いたしました。女は、その後、新聞の学芸欄などに眼をとおす様子で、きょう、あなたの写真が出ていた。ちっとも似ていない。どうして、あんなに顔をしかめるの？　私、お友達に笑われちゃった。

――君は、むかし、なにか政治運動していたとか、そのころのことかね？

――は、そうです。私、文化運動は性に合わず、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にもプロレタリヤ小説ほど、おめでたいものはないと思っていましたから、学生とは、離れて、穴蔵の仕事ばかりをしていました。いつか、私の高等学校時代からの友人が、おっかなびっくり、或る会合の末席に列していて、いまにこの辺、全部の地区のキャップが来るぞと、まえぶれがあって、その会合に出ているアルバイタアたちでさえ、少し興奮して、ざわめきわたって、或る小地区の代表者として出席していた私のその友人は、もう夢みるような<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>で、やがて時間に一秒の狂いもなく、みしみし階段の足音が聞えて、やあ、といいながらはいって来たひょろ長い男の顔が、はじめは、まぶしくて、はっきり見えなかったが、よく見ると、その金ぶち眼鏡のにやけた男が、まごうかたなき、私、ええ、この私だったので、かれ、あのときのうれしさは<ruby><rb>忘</rb><rt>ぼう</rt></ruby>じがたいと、いまでもよく申しています。天にも昇るうれしさだったそうです。もちろんそのときには、ちらと瞳で笑い合ったきりで、お互い知らんふりをしていました。あんな運動をして、毎日追われてくらしていて、ふと、こちらの陣営に、思いがけない旧友の顔を見つけたときほど、うれしいことがございませぬ。

――よく、つかまらなかったね。

――ばかだから、つかまるのです。また、つかまっても、一週間やそこらで助かる手もあるのです。そのうちに私、スパイだと言われたり何かして、いやになって、仲間から、逃げることだけ考えていました。そのころは、毎夜、帝国ホテルにとまっていました。やはり作家、海野三千雄の名前で。<ruby><rb>名刺</rb><rt>めいし</rt></ruby>もつくらせ、それからホテルの海野先生へ、ゲンコウタノムの電報、速達、電話、すべて私自身で発して居りました。

――不愉快なことをしたものだね。

――厳粛なるべき生活を、茶化して、もてあそびものにしているのが、不愉快なのでしょう。ごもっともでございますが、当時、そんなことでもしなければ、私、おそらくは三十種類以上の原因で、自殺してしまっています。

――でも、そのときだって、やっぱり、情死おこなったんだろう。

――ええ、女が帝国ホテルへ遊びに来て、僕がボオイに五円やって、その晩、女は私の部屋へ宿泊しました。そうして、その夜ふけに、私は、死ぬるよりほかに行くところがない、と何かの拍子に、ふと口から滑り出て、その一言が、とても女の心にきいたらしく、あたしも死ぬる、と申しました。

――それじゃあ、あなたと呼べば死のうよと答える、そんなところだ。極端にわかりが早くなってしまっている。君たちだけじゃないようだぜ。

――そうらしいのです。私の解放運動など、先覚者として一身の名誉のためのものと言って言えないこともなく、そのほうで、どんどん出世しているうちは、面白く、張り合いもございましたが、スパイ説など出て来たんでは、遠からず失脚ですし、とにかく、いやでした。

――女は、その後、どうなったね？

――女は、その帝国ホテルのあくる日に死にました。

――あ、そうか。

――そうなんです。鎌倉の海に薬品を呑んで飛びこみました。言い忘れましたが、この女は、なかなかの知識人で、似顔絵がたいへん<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>かった。心が高潔だったので、実物よりも何層倍となく美しい顔を画き、しかもその画には秋風のような<ruby><rb>断腸</rb><rt>だんちょう</rt></ruby>のわびしさがにじみ出て居りました。画はたいへん実物の特徴をとらえていて、しかもノオブルなのです。どうも、ことしの正月あたりから、こう、泣癖がついてしまって、困って居ります。先日も、佐渡情話とか言う<ruby><rb>浪花節</rb><rt>なにわぶし</rt></ruby>のキネマを見て、どうしてもがまんができず、とうとう大声をはなって泣きだして、そのあくる朝、<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>で、そのキネマの新聞広告を見ていたら、また<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>が出て来て、家人に怪しまれ、はては大笑いになって、もはや二度と、キネマへ連れて行けぬという家人の意見でございました。もう、いいのです。つづきを申しましょう。十年まえの話です。なぜ、あのとき、私が鎌倉をえらんだのか、長いこと私の疑問でございましたが、きのう、ほんの、きのう、やっと思い当りました。私、小学生のころ、学芸大会に、鎌倉名所の朗読したことがございまして、その折、練習に練習を重ねて、ほとんど諳誦できるくらいになってしまいました。七里ヶ浜の<ruby><rb>磯</rb><rt>いそ</rt></ruby>づたい、という、あの文章です。きっと子供ながら、その風景にあこがれ、それがしみついて離れず、潜在意識として残っていて、それが、その鎌倉行になってあらわれたのではなかろうかと考え、わが身を、いじらしく存じました。鎌倉に下車してから私は、女にお金を<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>ぐるみ渡してしまいましたが、女は、私の豪華な<ruby><rb>三徳</rb><rt>さんとく</rt></ruby>の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、あら、たった一枚？　と小声で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>き、私は身を切られるほど恥かしく思ったのを忘れずに居る。私は、少しめちゃめちゃになって、おれはほんとうは二十六歳だ、とそれでも、まだ五歳も多く告白してみせましたが、女は、たった二十六？　といって黒めがちの眼をくるっと大きく開いて、それから指折りかぞえ、たいへん、たいへん、と笑いながら言って、首をちぢめて見せましたが、なんの意味だったのかしら、いまさら尋ねる便りもございませんが、たいへん気にかかります。

――あかるいうちに飛び込んだのかね？

――いいえ。それでも名所をあるきまわって、はちまん様のまえで、<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>を買って食べましたが、私、そのとき右の奥歯の金冠二本をだめにしてしまって、いまでもそのままにして放って置いてあるのですが、時々、しくしくいたみます。

――ふっと思い出したが、ヴェルレエヌ、ね、あの人、一日、教会へ<ruby><rb>韋駄天走</rb><rt>いだてんばし</rt></ruby>りに走っていって、さあ私は、ざんげする、告白する、何もかも白状する、ざんげ<ruby><rb>聴聞僧</rb><rt>ちょうもんそう</rt></ruby>は、どこに居られる、さあ、さあ私は言ってしまう、とたいへんな意気込で、ざんげをはじめたそうですが、聴聞僧は、清浄の眉をそよとも<ruby><rb>動</rb><rt>そよ</rt></ruby>がすことなく、窓のそとの噴水を見ていて、ヴェルレエヌの泣きわめきつつ語りつづけるめんめんの犯罪史の、一瞬の切れ目に、すぽんと投入した言葉は、『あなたはけものと交った経験をお持ちですか？』ヴェル氏、仰天して、ころげるようにして廊下へ飛び出し、命からがら逃げかえったそうで、僕は、どうも、人のざんげを聞くことが<ruby><rb>得手</rb><rt>えて</rt></ruby>じゃないのです。いまはやりの言葉で言えば心臓が弱いのです。かの勇猛果敢なざんげ聴聞僧の爪のあかでも、せんじて呑みたいほうで、ね。

――ざんげじゃない。のろけじゃない。救いを求めているのでもない。私は、女の美しさを主張しているのです。それだけの事です。こうなって来ると、お仕舞いまで申しあげます。女は、歩きながら、ずいぶん思いつめたような口調で、かえらない？　と小声で言った。あたしは、あなたのおめかけになります。家から一歩も外へ出るな、とあれば、じっとして、うちに隠れて居ります。一生涯、日かげ者でもいいの。私は、鼻で笑った。人の誠実を到底理解できず、おのれの自尊心を満足させるためには、万骨を枯らして、尚、平然たる姿の二十一歳、<ruby><rb>自矜</rb><rt>じきょう</rt></ruby>の怪物、骨のずいからの虚栄の子、女のひとの久遠の宝石、真珠の塔、二つなく尊い贈りものを、ろくろく見もせず、ぽんと路のかたわらのどぶに投げ捨て、いまの私のかたちは、果して軽快そのものであったろうか、などそんなことだけを気にしている。

――はははは。今夜はなかなか能弁だね。

――笑いごとではないのです。そのような奇妙な、『ヴァイオリンよりは、ケエスが大事式』の、その方面に於ける最もきびしい反省をしてみるのでした。江の島の橋のたもとに、新宿へ三十分、渋谷へ三十八分と、一字一字二尺平方くらいの大きさで書かれて居る私設電車の絵看板、ちらと見て、さっさと橋をわたりはじめた。からころと<ruby><rb>駒下駄</rb><rt>こまげた</rt></ruby>の音が私を追いかけ、私のすぐ背後まで来てから、ゆっくりあるいて、あたし、きめてしまいました。もう、大丈夫よ、先刻までの私は、軽蔑されてもしかたがないんだ。

――非常に素直な人なんだね。

――そうです、そうです。判って呉れましたね？　やっぱり、お話し申しあげてよかった。もっと、もっと聞いて下さい。

――よし。ぜひとも、聞かせて下さい。竹や、お茶。

――飛びこむよりさきにまず薬を呑んだのです。私が呑んで、それから私が<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら、姫や、敵のひげむじゃに抱かれるよりは、父と一緒に死にたまえ。少しも早う、この毒を呑んで死んでお呉れ。そんなたわむれの言葉を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>しながら、ゆとりある態度で呑みおわって、それから、大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて、両脚をぶらぶらうごかしながら、静かに薬のきく時を待って居ました。私はいま、徹頭徹尾、死なねばならぬ。きのう、きょう、二日あそんで、それがため、すでに、かの穴蔵の仕事の十指にあまる連絡の線を切断。組織は、ふたたび収拾し<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わぬほどの大混乱、火事よりも雷よりも、くらべものにならぬほどの一種<ruby><rb>凄烈</rb><rt>せいれつ</rt></ruby>のごったがえし。それらの光景は、私にとって、手にのせて見るよりも確実であった。キャップの裏切。逃走。そのうえに、海野三千雄のにせ者の一件が大手をひろげて立っていた。女に告白できるくらいなら、それができるたちの男であったなら二十一歳、すでにこれほど傷だらけにならずにすんで居たにちがいない。やがて女は、帯をほどいて、このけしの花模様の帯は、あたしのフレンドからの借りものゆえ、ここへこうかけて置こうと、よどみなく告白しながら、その帯をきちんと畳んで、背後の樹木に垂れかけ、私たちは、たいへんやわらかな、おっとりした気持ちで、おとなしく話し合い、それから、城ヶ島とおぼしきあたり、明滅する燈台の灯を眺めていました。どんな話をしたでしょうか。自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が<ruby><rb>頬被</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りとったら、その顔に見とれて、傘かた手に、はっと掛声かけて、また祖父を見おろし、するする渡りかけては、すとんすとんと墜落するので、一座のかしらから苦情が出て、はては村中の大けんかになったとさ等、大嘘を物語ってやって、事実の祖父の赤黒く、全く気品のない<ruby><rb>羅漢</rb><rt>らかん</rt></ruby>様に似た四角の顔を思い出し、危く吹き出すところであった。女は、信じて、それでは、私は、八人の女のひとにうらまれる訳なのね。（ひとりもいやしない）ああ、私は仕合せだ。『勝利者』と、うっとりつぶやいて星空を見あげていました。突然、くすりがきいてきて、女は、ひゅう、ひゅう、と草笛の音に似た声を発して、くるしい、くるしい、と水のようなものを吐いて、岩のうえを<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いずりまわっていた様子で、私は、その<ruby><rb>吐瀉物</rb><rt>としゃぶつ</rt></ruby>をあとへ汚くのこして死ぬのは、なんとしても、心残りであったから、マントの<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>で拭いてまわって、いつしか、私にも、薬がきいて、ぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべり、まっくろぐろの四足獣、のどに<ruby><rb>赤熱</rb><rt>しゃくねつ</rt></ruby>の<ruby><rb>鉄火箸</rb><rt>かなひばし</rt></ruby>を、五寸も六寸も突き通され、やがて、その鬼の鉄棒は胸に到り、腹にいたり、そのころには、もはや二つの動くむくろ、黒い四足獣がゆらゆらあるいた。折りかさなって岩からてんらく、ざぶと<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>をかぶって、はじめ引き寄せ、一瞬後は、お互いぐんと相手を蹴飛ばし、たちまち離れて、<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>よりも弱い声、『海野さあん。』私の名ではなかった。十年まえの<ruby><rb>師走</rb><rt>しわす</rt></ruby>、ちょうどいまごろの季節の出来ごとです。

――なるほど、なるほど、おい、竹や。ウオトカ。

――太宰さん。白ばくれちゃいけない。私のこの話を、どう結んでくれるのです。これは勿論、あなたの身の上じゃない。みんな私の身の上だ。けれども、私はこれを発表するときに、雑誌社だって考えます。どこの<ruby><rb>鰯</rb><rt>いわし</rt></ruby>の頭か知れない男の告白よりは、ぱっとしないが、とにかく新進の小説家、太宰さんの、ざんげ話として広告したいところです。この私の苦心の創作を買って下さい。同文の予備役、なお、こちらに三冊ございます。その三冊とも、五十円は、安い。太宰さん。おどろいたでしょう？　みんなウソ。おどかしてみたのさ。おどろいた？　ずっとまえに、君が私とお酒のみながら、この話、教えて呉れたじゃないか。きょう、日曜の雨、たいくつでたまらぬが、お金はなし、君のとこへも行けず、天候の不満を君に向けて爆破、どうだ、すこしは、ぎょっとしたか。このぶんでは、僕も小説家になれそうだね。はじめの感想文は、あれは、支那のブルジョア雑誌から盗んだものだが、岩の上の場面などは僕が書いた。息もつかせぬ名文章だったろう。これから、一時間、文士になろうかどうか思い迷ってみることにする。失礼。おからだ気をつけて。こんどの日曜日に行く。うちから<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>が来ているが、取りに来て下さい。清水忠治。叔父上様。」

月日。

「謹啓。文学の道あせる事無用と確信致し居る者に<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>。空を見、雑念せず。陽と遊び、短慮せず。健康第一と愚考致し候。ゆるゆる御精進おたのみ申し上候。昨日は又、創作、『ほっとした話』一篇、御恵送<ruby><rb>被下</rb><rt>くだされ</rt></ruby>厚く御礼申上候。来月号を飾らせていただきたく、お礼<ruby><rb>如此</rb><rt>かくのごとくに</rt></ruby>御座候。諷刺文芸編輯部、五郎、合掌。」

月日。

「お手紙さしあげます。べつに申しあげることもないのでペンもしぶりますが読んでいただければ、うれしいと思います。自分勝手なことで大へんはずかしく思いますがおゆるしください。御記憶がうすくなって居られると考えますが、二月頃、新宿のモナミで同人雑誌『青い<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>』のことでおめにかかり、そしてその時のわかれ方が非常に本意なく思われて、いつもすまなく感じていて、自分ひとりでわるびれた気持になっています。いつかお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びの手紙を出そうと念じながらも、ひとりぎめの間のわるさの<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に、出しそびれて、何かのきっかけをと思い、あなたの『晩年』とかいうのが出たら、そのときのことにしようと最近心にきめていましたところ、今日、本屋であなたの一文を拝見して、無しょうにかなしくなり、話しかけたくなりました。それでも、心のどこかで、びくびくしていて、こまります。あの夜、僕はとりみだし<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ歩調で階段を降りました。そしてそのとりみだし方も純粋でなかったようではずかしく、思いだしては、首をちぢめています。その夜、斎藤君はおもわせぶりであるとあなたにいわれたために心がうつろになり、さびしくなっていて、それだけですでにおろおろして居たのです。僕が帰ることになったとき、先に払った同人費を<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>すからというとき、僕は心の中で、五円<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>かった、と叫んだのです。そして、何か云われたのに、二円五十銭ずつ二回に払ったのですが、と答えたときの自分自身の見えすいた<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>さのために、自らをひくくしたはずかしさと<ruby><rb>棄鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>をおぼえました。そればかりでなく、五円儲かったということばは、その二三日前によんだ貴作『逆行』の中にあることばがそのままにうかんだしろものに過ぎず、新宿駅のまえでぼんやりして居りました。あのはげしかった会合のことがらをはっきりと<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>めもせずに、自分の<ruby><rb>去就</rb><rt>きょしゅう</rt></ruby>についてどうしたら<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>をやらずにすむかを考えていたようでした。駅のまえで、しばらく、白犬のようにうろうろして、このまま下宿へ帰ろうかと考えましたが、これきりあなた達と別れてしまうのかと思われてさびしくなりました。今すぐ会場へ引返してみたところで、（充分の考慮もせず、ただ、足手まといになるつもりか、）と叱られるくらいがおちであろうと、永いことさまよいました。人に甘え、世に甘え、自分にないものを、何かしらん、かくし持ってあるが如くに見せかける、その思わせぶりを、人もあろうに、あなたに指さされ、かなしかった。ああ、めそめそしたことを書いて御免下さい。私は、その夜の五円を、極めて有効に、一点濁らず、使用いたしました。生涯の記念として、いまなお、その折のメモを失くさず、『青い鞭』のペエジの間にはさんで蔵して在るのです。三銭切手十枚、三十銭。<ruby><rb>南京豆</rb><rt>ナンキンまめ</rt></ruby>、十銭。チェリイ、十銭。みのり、十五銭。<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>の切枝二本、十五銭。眼医者、八十銭。ゲエテとクライスト、プロレゴーメナ、<ruby><rb>歌行燈</rb><rt>うたあんどん</rt></ruby>、三冊、七十銭。<ruby><rb>鴨肉</rb><rt>かもにく</rt></ruby>百目、七十銭。ねぎ、五銭。サッポロ黒ビイル一本、三十五銭。シトロン、十五銭。銭湯、五銭。六年ぶりで、ゆたかでした。使い切れず、ポケットには、まだ充分に。それから一年ちかく、二三度会った太宰治のおもかげを忘じがたく、こくめいに頭へ影をおとしている面接の記憶を、いとおしみながら、何十回かの立読みをつづけて来た。一言半句、こころにきざまれているような気がしています。本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。それを役立てることが今迄できなかったけれども。『太宰どん！　白十字にてまつ。クロダ。』大学の黒板にかかれてあったのは、先日であったろうか。『右者事務室に出頭すべし、津島修治。』文学部事務所にその掲示は久しくかけられてあった。僕は太宰治を友人であるごとくに語り、そして、さびしいおもいをした。太宰治は芸術賞をもらわなかった。僕は藤田大吉という人の作品を決して読むまいと心にちかった。僕は、そんなに他人の文章を読まないけれども、道化の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>、ダス・ゲマイネ、理解できないのではなく、けれども満足ができなかった。<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>は、書くぞ、書くぞという気合と<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>の小説である。本物の予告篇だと思っていた。そして今に本物があらわれるかと、思っていると、その日その日が晩年であった、ということばがほんとうなのかとうたがわれて来た。健康をそこね、写真はすきとおってやせていた。そして、太宰治は有名になり、僕は近づけない気がした。僕には、道化の華が理解できないのだと思った。僕は太宰治に、ヴァイオリンのようなせつなさを感ずるのは、そのリリシズムに於てであった。太宰治の本質はそこにあるのだと、僕は思っている。それが間違いであるといわれても、僕はなかなか、この考えを捨てまいと思っている。リリシズムの野を出でて、いばらに<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>かれた傷口に布をあてずに、あらわに、陽にさらしている、痛々しさを感じてならない。二月の事件の日、女の寝巻について語っていたと小説にかかれているけれども、青年将校たちと同じような壮烈なものを、そういう筆者自身へ感じられてならない。それは、うらやましさよりも、いたましさに胸がつまる。僕は、何ごとも、どっちつかずにして来て、この二年間で法科の課程を三分の一、それも不充分にしか<ruby><rb>卒</rb><rt>お</rt></ruby>えていない。しかも、他に、なにもできないのであった。そういった、アマツール的な気持からは、ただ、太宰治のくるしみを、肉体的に感じてくるばかりで、傍観者として<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としているばかりである。僕自身へ巣くう生半可な態度は、おそらくいつまでもつづくことと思われます。僕の健康は、人に思われてるほど、わるくはないと思うけれども、何事にも、本気になれない。二三日、何事かへ本気になったならば、僕自身をほろぼしてしまいそうでならない。本気になれぬ。そういうことで、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、何事も出来る筈はないけれども、それで、ごく、満足しています。『ユーモアについて。』と題し、中学時代のあなたの演説を、ぼくは、中学校一の秀才というささやきと、それから、あなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども、多くの人達は、太宰治をしらずに、青森中学校の先輩津島修治の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をします。青森の新町の北谷の書店の前で、高等学校の帽子をかぶっていたのへ、中学生がお辞儀した。あなたはやはり<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>を返したとき、こちらが知っているのに、むこうが知らないことはさびしいと思ったが、あなたに返礼されただけでそれでもいささか満足であった。僕は、今年で大学を終らなければならないけれども、出来るかどうかあやぶまれますけれども、卒業することにきめて居ります。文学といえばじつのあることは少しも出来るはずなく、風景や女の人にみとれてくらしています。『双葉』という少女雑誌で僕の皿絵という小説がおめにふれたとすればと汗するおもいがしました。（岩切）という人にあって聞きました。トラホームだの<ruby><rb>頸腺腫</rb><rt>けいせんしゅ</rt></ruby>だのＸ<ruby><rb>彎曲</rb><rt>わんきょく</rt></ruby>だの、というくだりは、あなたに、いい、といわれたばかりに、どこへでも持って歩いていたのです。『新ロマン派』で追記風にある同人雑誌（名だかくない）のある人をほめていたことばを見て、ねたましく思ったこともあります。何をかいたか、自信がありません。これだけでもうヘトヘトです。毎日毎日つかれている。何ごとをするのでもなく。

ほとんど休んでばかり居れば日曜もたのしくなく、夜ねても、一日がおわったといういこいではなくて、あしたがあるというつかれを覚えています。健康をねがって終日をくらす。今は、弱いというだけで病気はありません。老人のごとき皮膚をあわれみ、夜裸身に牛乳をあびる。青春を得るみちなきかと。非常に、失礼な手紙だと思います。文体もあやふやで申しわけありません。でもほっとしています。明日の朝になれば、だせなくなるといけませんから、すぐだします。おひまのときに、おたより、いただけたらと思います。おからだお大事にねがいます。斎藤武夫拝。太宰治様。」

「御手紙拝見。お金の件、お願いに<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて申し訳ないが、とても急には出来ない。実は昨年、県会議員選挙に立候補してお蔭で借金へ毎月<ruby><rb>可成</rb><rt>かなり</rt></ruby>とられるので閉口。選挙のとき小泉邦録君から五十円送って貰った。これだけでも早くお返ししたいと思い<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だにお返し出来ずにいる始末。五十円位の金が出来ないのは何んとも<ruby><rb>羞</rb><rt>はずか</rt></ruby>しいがさりとて、その辺を借金に廻るのは小生には、ちょっと出来ない。貴兄が小生の友情を信じて寄せた申越しに対し重ね重ねすまない。しかし出来ないことをねちねちしているのも嫌だから<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>この手紙を書いた次第。悪く思わないでくれ。小生昨今、文学にしばらく遠ざかっているので、貴兄の活躍ぶりも詳しくは接していないが、貴兄の力には期待して居りますので必ずや相当以上の活動をしていることと思って居ります。返す返す済まないが、右の事情を御賢察のうえ御<ruby><rb>寛恕</rb><rt>かんじょ</rt></ruby>下さい。しかし貴兄から、こう頼まれたが、工面出来ないかと友達連に相談をかけても良いものならばまた可能性の生れて来る余地あるやも知れぬが、これは貴兄に対する礼儀でないと思うので……右とり急ぎ。辻田吉太郎。太宰兄。」

「手紙など書き、もの言わんとすれば君ぞありぬる。ああ、よき友よ。家内にせんには、ちと、ま心たらわず、愛人とせんには<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>わるく、<ruby><rb>妻妾</rb><rt>さいしょう</rt></ruby>となさんとすれば、もの腰粗雑にして<ruby><rb>鴉声</rb><rt>あせい</rt></ruby>なり。ああ、不足なり。不足なり。月よ。汝、天地の美人よ。月やはものを思わする。吉田潔。」

月日。

「太宰治さん。再々悪筆をお目にかける失礼、お許し下さいまし。一つには私たちの同人雑誌『春服』が、目茶苦茶になりかかった、わびしさから、二つには、ぼく自身のステールネスから、最後に、あなたがぼく如きものに好意をお持ち下され居る由、昨晩の松村と云う『春服』同人の手紙が伝えてくれたので、加うるに性来の<ruby><rb>図々</rb><rt>ずうずう</rt></ruby>しさを<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て、御迷惑を省みず、<ruby><rb>狎書</rb><rt>こうしょ</rt></ruby>を差し上げる次第です。友人の松村と言う男が、塩田カジョー、関タッチイ、大庄司清喜、この三人そろって船橋のお宅へお邪魔した際の拙作に関するあなたの御意見、あとでその三人から又聞きしたのを、そのまま私へ知らせてよこしました。<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>、『新ロマン派』十二月号にも拙作に関する感想をお<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>しになったこと、『新潮』一月号掲載の貴作中、一少女に『春服』を携えさせたこと等、あなたの御心づかいを伝えてくれました。早速、今日、街の五六軒の本屋をまわって、二誌を探したのですが、『新潮』はどこでも売切れてばかりいましたし、『新ロマン派』は来ていない模様でした。ぼくはあなたに御礼を書くのではないのです。御礼だけかいて、済まして居られる身分になれたら、それはすがすがしいことです。が、きいて頂きたいことがあるのだ、相談にのって頂きたい、力になって貰いたい、と手前勝手な<ruby><rb>台辞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>ばかりならべるのは、なんとも恥しい話です。あなたはカジョーに、ぼくの、経歴人物について、きいて下さったかも知れません。が、カジョーは多分、あいつは宣伝の好きな男だから……けれども、これはカジョーへの悪意ではありません。ぼくの自己弁解です。ぼくは幼年時、身体が弱くてジフテリヤや赤痢で二三度<ruby><rb>昏絶</rb><rt>こんぜつ</rt></ruby>致しました。八つのとき『毛谷村六助』を買って貰ったのが、文学青年になりそめです。<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>はその頃<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>を持っていたようです。いまぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に<ruby><rb>駈落</rb><rt>かけおち</rt></ruby>しました。お袋は新子と名を改めて復帰致しました。ぼくの物心ついた頃、親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが、肺病になり、一家を挙げて鎌倉に移りました。父はその昔、一世を<ruby><rb>驚倒</rb><rt>きょうとう</rt></ruby>せしめた、歴史家です。二十四歳にして新聞社長になり、株ですって、<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>に史書をあさり、ペン一本の生活もしました。小説も書いたようです。大町<ruby><rb>桂月</rb><rt>けいげつ</rt></ruby>、福本日南等と交友あり、桂月を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、仙をてらう、と云いつつ、おのれも某伯、某男、某子等の知遇を受け、熱烈な皇室中心主義者、いっこくな官吏、孤高<ruby><rb>狷介</rb><rt>けんかい</rt></ruby>、読書、追及、<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>まざる史家、<ruby><rb>癇癪持</rb><rt>かんしゃくもち</rt></ruby>の父親として一生を終りました。十三歳の時です。その二年前、小学六年の時、ぼくの受持教師は鎌倉大仏殿の坊主でした。その影響で、ぼくは別荘の坊ちゃんとしての<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>なしたいほうだいを止めて、執偏奇的な宗教家、神秘家になりました。ぼくは現実に神をみたのです。一方、豆本熱は病こうこうに入って、<ruby><rb>蒐集</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>した長篇講談はぼくの背を越しました。作文の時間には指名されて朗読しました。『新聞』と云う題で夕刊売の話を書き級中を泣かせました。俳句を地方新聞にも出されました。ぼくは幼ないジレッタント同志で廻覧雑誌を作りました。当時、歌人を志していた高校生の兄が大学に入る<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>帰省し、ぼくの美文的フォルマリズムの非を説いて、子規の『竹の里歌話』をすすめ、『赤い鳥』に自由詩を書かせました。当時作る所の『波』一篇は、<ruby><rb>白秋</rb><rt>はくしゅう</rt></ruby>氏に激賞され、後選ばれて、アルス社『日本児童詩集』にのりました。父が死んだ年、兄は某中学校に教べんを取りました。父の死は肺病の為でもあったのですが、震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし、又祖父を連れてくる際の、口論の為、叔父の首をくくらし、また叔父の死の一因であった<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の狂気等も原因して居たかも知れません。加えて、兄のソシャリストになった心痛もあったでしょう。事実兄は、ぼくを中学の寄宿舎に置くと、一家を連れて上京、自分は××組合の書記長になり、学校にストライキを起しくびになり、お袋達が鎌倉に逃げかえった後も、豚箱から、インテリに活動しました。同志の一人はうちに来て、寄宿から帰ったぼくと姉を兄貴への心服の上に感化しました。三・一五が起り、兄は転向、結婚、嫁と母の仲悪るく、兄夫婦はぼく達を置いて東京で暮していました。人道主義的なマルキストであり、感傷的な文学少年、数学の出来なかったぼくは、ひどい<ruby><rb>自涜</rb><rt>じとく</rt></ruby>の為もあったのでしょう、学校に友達なく、全く一人で、姉、近所のＷ大生、小学時代の親友、兄夫婦も加えて、プリント雑誌『素描』を二年続けました。兄の運動の為、父の財産はなくなり、鎌倉の別荘は人に貸し、一家は東京に舞い戻り、兄夫婦も一緒になりました。中学の終りからテニスを始めていたぼくは、テニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで、長身、肥満、Ｗ高等学院、自涜の一年を消費した後、Ｗ大学ボート部に入りました。一年後ぼくはレギュラーになり、二年後、第十回オリンピック選手としてアメリカに行きました。当時二十歳、六尺、十九貫五百、紅顔の少年であります。ボートは大変<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>でした。先輩ばかりでちいさくなっていました。往復の船中の恋愛、帰ってきたぼくは歓迎会ずくめの有頂天さのあまり、多少神経衰弱だったのです。ぼくが帰国したとき、前年義姉を失った兄は、家に帰り、コンムニュスト、党資金局の一員でした。あにを熱愛していたぼくは、マルキシズムの理論的影響失せなかったぼくは、直に共鳴して、鎌倉の別荘を売ったぼくの学費を盗みだして兄に渡し、自分も学内にＲ・Ｓを作りました。関タッチイはそのメンバーであり、彼の下宿はアジトでした。その頃、自殺を企て、実行もした元気のない塩田カジョーと知り合ったのです。タッチイがへまをしてつかまりました。タッチイは<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>ってくれたのでしたが、ぼくは、その前から家を飛びだしもぐっていた兄にならって、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど狂気しかかっているヒステリイの母をみすてて、ぼくも一週間、逃げ歩きました。家の様子をみにきたぼくは姉に掴りました。学資がなく学校も止めさせられ、ぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。母と共に二間の長屋に住んで。――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書類を交換しました。その内、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か四五カ月。間もなく、プロバカートル事件が起り、逃げてきて転向し、再び経済記者に返った兄の働きで、ぼくも学校に戻れました。転向後だったので、兄は二カ月、ぼくは大した事もなかったので半日、豚箱に置かれました。職場にいた頃、機関雑誌に僕はミューレンの焼き直し童話や、片岡鉄兵氏ばりのプロレタリア小説を書いていました。十銭で買った『カラマゾーフの兄弟』の感激もありましたろう。貧乏大学生の話、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に嫁を貰ってからの兄との遠慮は、ぼくにまた幼年時からの理想、小説家を希望させたのです。最初の一年はぼくは無我夢中で訳の分らぬ小説を書き、投書しました。急にスポーツをやめた故か、人の顔をみると涙がでる、生つばがわく、少しほてる。からだが松葉で一面に痛がゆくなる。『芸術博士』に応募して落ちた時など帯を首にまきつけました。ドストエフスキイ流行直前、彼にこって、タッチイを臭い文学理論でなやまし、そのほかの友人すべてをもひんしゅくさせたことと思います。兄の新妻の弟、山口定雄がワセダ独文で『鼻』という同人雑誌を出していましたので、彼に頼み、鼻の一員にして貰い、一作を載せたのが、昨年の暮なのです。『鼻』に<ruby><rb>嫌気</rb><rt>いやき</rt></ruby>がさしていた山口を誘い、彼の親友、岡田と大体の計画をきめてから、ぼくは先ず神崎、森の同感を得、次に関タッチイを<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>きに小日向に上りました。タッチイを強引に加入させると、カジョー、神戸がついてきてくれました。かくして、タッチイの命名になる『春服』が生れました。タッチイは顔がひろくて、山村、カツ西、豊野を加え、カジョーもまた努力してくれて、伊牟田氏を入れてくれました。カジョーとは段々仲が良くなり、ぼくの臭さも彼、許してくれてきましたようです。『春服』創刊から二号にかけて、ぼくは昨年暮から今年の三月頃まで就職に<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>しました。幸い、ぼくは母方の祖父の友人の世話で現在の会社に入れて貰いました。その頃から<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>兄と仲が悪く、蔵書一切を売って旅に出ようと決心したりしました。兄はぼくが文学をやめるのを極度に軽べつします。兄貴に食わして貰うのは卒業後不可能です。母の悲歎を思えば神崎の如き文学青年の生活も出来ないし、一つには会社員と云う生活もしてみたかったのです。会社に入って一月半、君は肉体が良いから、朝鮮か満洲に行って貰いたいと頼まれました。母や兄と一緒の窮屈なる生活に嫌気がさし、また新しい生活もしたさに、ぼくは朝鮮に来ました。満洲より朝鮮が小説になる気もしたのですが、これは会社員になったのと同様、色々な自分の意見からより、色々な必然の為でしょう。『青年の思想はおのれの行動の弁解に過ぎぬ。』Ｈ先生の言葉みたいなものです。ぼくはここ迄を昨夜、女郎にショールを買えないと云い訳に行き、ちょいの間を行き、婆さんの借金を三円払ってやり、正月に連れだして、やる約束を<ruby><rb>迫</rb><rt>せが</rt></ruby>まれ……所で、今月は師走です。洋服屋がきて虎の子の十円を持って行きました。未だ一円残っていますがこれで散髪屋に行き、――後五十銭残りますが、これもいっそ<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>って、<ruby><rb>宵越</rb><rt>よいごし</rt></ruby>のぜにア持たねエ、クリスマスを迎えようかと愚考しています。ぼくはここ迄昨夜二時帰宅後、五時まで書きました。今、同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って来ました。加藤<ruby><rb>咄堂</rb><rt>とつどう</rt></ruby>氏のラジオを聞いてきました。帰りに菓子四十銭、ピジョン一箱で、完全に文無しになりました。今シェストフ『自明の超克』『虚無の創造』を読んでいます。彼は云います、『一般に伝記というものは何でも語っているが、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>我々にとって重要なことは除外しているものだ。』ぼくは前の<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>を読み返して、イヤになる。差し上げまいかとも思ったのですが、一遍書いたものは、もう僕と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ったものですから、虚飾にみちた自家広告も<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>だと思い、続けて自己嫌悪を連ねようと考えたのですが、シェストフで、<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>して置きます。御免なさい。さて、現在のぼくの生活ですが、会社は朝の九時半から六、七時頃迄です。ぼくの仕事は机上事務もありますが、本来は外交員です。自動車屋、会社の購買、商店等をまわり、一種の御用聞きをつとめるのです。大抵は鼻先で追い返されますし、ヘイヘイもみ手で行かねばならないので、意気地ない話ですが、イヤでたまりません。それだけならいいんですが、地方の出張所にいる連中、夫婦ものばかりですし、<ruby><rb>小姑</rb><rt>こじゅうと</rt></ruby>根性というのか、蔭口、皮肉、殊に自分のお得意先をとられたくないようで、雑用ばかりさせるし、悪口ついでにうんとならべると、女の腐ったような、本社の御機嫌とりに忙しい、くびの心配ばかりしている。他人の月給をそねみ、生活を批評し、自分の不平、例えば出張旅費の計算で陰で悪口の云い合い、出張<ruby><rb>成金</rb><rt>なりきん</rt></ruby>めとか、奥さんがかおを<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、何々さんは出張ばかりで、――うちなんか三日の出張で三十円ためてかえりましたよ。すると一方の奥さんは、うちは出張しても、まア、それだけ下の人達にするからよ。けれども主任さんは、二等旅費で三等にばかり乗るのですよ。けちねエ……。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し、奥さん出張すると、靴は痛む洋服は切れる、Ｙシャツは汚れる……随分<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さいのです。殊に小人数ですから家族的気分でいいとかいいながら、それだけ競争もはげしく、ぼくなど御意見を伺わされに四六時中、ですから――それに商売の性質から客の接待、休日、日曜出勤、居残り等多く、勉強する<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>はありません。気をつかうのでつかれます。月給六十五円、それと加俸五割で計九十七円五十銭の給金です。金というものの正体不明で相手に出来ないので、損ばかりしています。もう大分借金が出来ました。もう他人の悪口を云い、他人に同情する年でもありますまい、止めます。もう給仕君床に入りました。ぼくに盛んに英語を聞くので閉口です。所でぼくは語学がなにも出来ないのです。所でぼくも床に入って書いています。給仕君煩さいので、寝てからにしましょう。ラジオのアナウンスみたいな手紙の書き方をお許し下さい。ぼくにはこの方が純粋なような気がするのです。<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>、シェストフを写します、『チエホフの作品の独創性や意義はそこにある。例えば喜劇「かもめ」を挙げよう。そこではあらゆる文学上の原理に反して、作品の基礎をなすものは、諸々の情熱の機構でも、出来事の必然的な継続でもなく、裸形にされた純粋の偶然というものなのである。<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の喜劇を読んでゆくと、秩序も構図もなく寄せ集められた「雑多な事実」に満ちている新聞にでも眼を通してゆくような印象を受ける。ここに支配しているものは偶然であり、偶然があらゆる一般的な概念に抗して戦っているのである。』これを写しながら、給仕君におとぎばなし、紫式部、清少納言、<ruby><rb>日本霊異記</rb><rt>にほんりょういき</rt></ruby>とせがまれ、話しているうち、彼氏恐怖のあまり、歯をがつ、がつ、がつ、三度、音たてて鳴らしてふるえました。太宰さん。もう、ねましょう。にやにや薄笑いしていい加減の<ruby><rb>合槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>をうつのは、やめて下さい。――なあんてね。きょうは会社に出勤、忘年会とか、いちいち社員から会費を集めている。酒盛り。ぼくは酒ぐせ悪いとの理由で、禁酒を命じられ、つまらないので、三時間位、白い壁の天井を眺めながら、皆の馬鹿話を聞いていました。それから御得意に挨拶に行き、会員、主任のうちに呼ばれて御馳走になり、カルタをとり、いま帰って、これを書いているのが夜十時です。気がつかれて、手紙を書くのがイヤです。簡単にあとかきます。会社を二月休んだ原因は、或る事から、酔の上、職人九人を相手にして、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をし、ぼくは、十月二十九日、腕を<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>でわられたのです。その傷が丹毒になり、二月入院しました。喧嘩しながら居眠るほど、酔っていた男を正気の相手が刃物で、<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も多人数で切ったのですから、ぼくの運がわるく、而も丹毒で苦しみ、病院費の為、……おやじの残したいまは只一軒のうちを高利貸に<ruby><rb>抵当</rb><rt>ていとう</rt></ruby>にして母は、兄と争い<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら金を送ってくれました。会社は病気ではなく私傷による事故だからといって、十一月は給料をくれませんでした。また会社の人達は、ぼくをまるで無頼漢扱いにして皮肉をいう。まア<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めましょう。いっそ、桜の花の<ruby><rb>刺青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をしようかと思って居ります。私は子供じゃないんだ。所で、あなたに手紙を書きたかったのは、ぼくはもう文学を止めたいとおもう。それもなんら思想上のものではなしに、単に生活上の不便からです。<ruby><rb>京城</rb><rt>けいじょう</rt></ruby>にいるとか会社員をしている事は、いままで、なんら、悪条件と感じませんでしたが、こんどの事件があってからは、急にイヤになったのです。今日でも会社にでると<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど、もう自分の時間がありません。負傷前は五六時間睡眠平均、または時に徹夜で読書、著述、（いやはや）また会社で小品みたいなものは書いたりしましたが、これからはイヤです。太宰さん、ぼくは東京に帰って、文学青年の生活をしてみたいのです。会社員生活をしているから社会がみえたり、心境が広くなるわけではなく、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って月給日と上役の顔以外にはなんにもみえません。大学でつめこんだ少量の経済学も忘れてしまいました。勉強のできなくなる事、前から余り好きませんが、一層ひどいです。ぼくは東京で文学で生活するか、さもなければ死ぬか。例えば<ruby><rb>鏡花</rb><rt>きょうか</rt></ruby>氏が<ruby><rb>紅葉山人</rb><rt>こうようさんじん</rt></ruby>の書生であったような形式をとるか、ドストエフスキイ式に水と米、ベリンスキイが現われるまで待つか、なにかしたいと思っています。然し、ぼくは<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ならしい野郎ですから、東京に帰ってどんなに堕ちても、かまいませんが、おふくろが、――たまらんです。と、いって、こっちの空気もたまらんです。恐らく、ぼくの願いは自利的な支離滅裂な、ぜいたくなものでしょう。而し、いまのまま一月も同じ商人暮しがつづいたら、ぼくは自殺するか、文学をやめるか、のほかにない気がするのです。<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>いは続けるかも知れません。続けはしたい――然し、今書いているのは、我慢できない気持です。息がつまりそうです。つまった息を風船に入れて、青空をとびまわれ、あきらめよ、わが心とは思います。然し、ぼくはなんとか生活をかえたい。これに対するあなたの御意見をききたく思います。ぼくなんて駄目です。ぼくは東京に帰っても、とても文学だけでは食って行けない。いっそ、チンドン屋になったり、ルンペンになれば、生活経験が豊富になっていいかも知れません。が、おふくろが嫁さんの候補の写真を四枚も送ってきてますからねエ。いまは『春服』をぼくの足場にする希望もない。十月頃送った百枚位の小説はどうなっておるか。いっそ、破ったほうがいい。いっそ、懸賞募集を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いましょうか。黙ってる方がかしこいでしょう。然し、太宰治さん、できたら、ぼくに激励のお手紙を下さい。もう四日出勤して五日も経てば、ぼくは腐りの絶頂でしょう。今晩は手紙を書くのがイヤです。明晩明後日と益々イヤになるでしょう。虫の好い事を云いつづけに、思いきり云います。一つ<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>って下さい。ああ。ぼくに東京に帰ってこい、といって下さい。嘘！　ぼくをぼくの好きな作家、尾崎士郎、横光利一、小林秀雄氏に紹介して下さい。嘘！　ぼくは、今月中から、自伝を覚えたままに書いて行きたいと思うのです。が、『春服』が目茶苦茶なので悲観しているのです。『春服』が立ち直る迄なりと、一つ、月々五十枚位載せて貰える、あなたの知っている同人雑誌に紹介してくれませんか。同人費は払います。余計な事を！　書きためて、懸賞当選を狙う手もあるのですが、あれには運が多い気がしてイヤです。それに、こんな汚ない字の原稿なんか読んではくれますまい。また薄志弱行のぼくは活字にならぬ作品がどんどん<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えて行くとどうしても我慢できず、最初のから破ってしまうので――嘘、嘘。なんでもいいんです。この手紙をここ迄読んで下さったなら、それだけでも、ありがたい。御手紙、下さい。そしたらまた、書き直します。この手紙は破って捨てて下さい。どうぞどうぞ許して下さい。これとそっくり同文の手紙、六通書いて六人の作家へ送った。なんといおうと、あなたは御自分の世界をもっている作家です。はっきり云うと、生意気で、ぼくは薄馬鹿ですね。あなたの世界をぼくは熱愛できないのです。あなたが利巧だとは思わない。然し、あなたは近代インテリゲンチャ、不安の<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>えている。余りでたらめは書きますまい。あなたは黄表紙の作者でもあれば、ユリイカの著者でもある。『<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られる<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>』とはあなたにとって薄笑いにすぎない。あなたがあやつる人生切り紙細工は大<ruby><rb>南北</rb><rt>なんぼく</rt></ruby>のものの大芝居の如く血をしたたらせている。あまり、<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さい無駄口はききますまい。ヴァレリイが俗っぽくみえるのはあなたの『逆行』『ダス・ゲマイネ』読後感でした。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し、ここには近代青年の『失われたる青春に関する一片の抒情、吾々の実在環境の亡霊に関する、自己証明』があります。然し、ぼくは薄暗く、荒れ果てた広い草原です。ここかしこ日は照ってはいましょう。緑色に生々と、が、なかには<ruby><rb>菁々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>たる雑草が、乱雑に生えています。どっから刈りこんでいいか、ぼくは無茶苦茶に足の向いた所から分け入り、歩けた所だけ歩いて、報告する――てやがんだい。ぼくは<ruby><rb>薄野呂</rb><rt>うすのろ</rt></ruby>です。そんなんじゃあない。然し、ぼくは野蛮でたくましくありたいのです。現在ぼくの熱愛している世界はどの作家にもありません。ドストエフスキイが一番好きです。ぼくのこのみの平凡さを軽ベツしないで下さい。ぼくは今年こそ、なにか、書きたいと思っています。だが、小説に、人生に、なんの意義がありましょう。意義なんてない。飯を食うように、小説を書く。あんなに、実務的精神をにくんだシェストフでさえ、全集を残している。だから、力んでもいいでしょう。僕は誰にでも、有名な人から手紙を貰うと、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな訳の分らぬ<ruby><rb>図々</rb><rt>ずうずう</rt></ruby>しい宣伝文を書く癖があるのでしょう。いや、この前、北川冬彦氏から五六行の葉書を貰った時だけです。然し、ほんとうは、生れてはじめて、こんな長い手紙かいた。もう、ねましょう。シェストフでも読みましょう。どうか〱〱〱〱〱〱〱〱〱〱〱どうか、どうか、御手紙下さい。でないと、ぼくはつまんないんです。この甘ったれ根性め。ぼくはこの手紙をかいたぼくを余り好きません。あなたはどうですか？　僕の少年時の貧しき自慢に、これをつけ加えて下さい。ぼくは少年時十三四頃、絵が大変、下手でしたが、帝展の深沢省三氏（紅子氏の夫）が好いてくれまして、美術に入れとすすめたりしました。歌がうまかった、詩も得意だ――それこそバカメですね。こう言うのが、――カジョーはきらいなんです。ぼくも人の自慢は、きらいですが、自分のはまア書きました。御免なさい。不愉快にならないで下さい――いや、第一そんな、不愉快になるなんてわけがわからぬ。私は下劣の少年である。けれども、――否！　やっぱり下劣である。むりのオネガイ。手紙くれやがれと。サラバ、サラバ、<ruby><rb>鶴首</rb><rt>かくしゅ</rt></ruby>。待て！　あくびをした奴がある。しかも見よ。あ、あ、あ、と傍若無人、細長き両の腕を天井やぶれよ、とばかりに突き出して、しかもその口の大きさ、歯の白さ、さながら、馬の顔であった。われに策あり、太宰治さん。自分について、色んなことを書きたくなりました。もう二、三十ペエジ読んで下されば<ruby><rb>幸甚</rb><rt>こうじん</rt></ruby>です。第一、ぼくが全く無意義な存在であること、例え、マルクスが商事会社――ブローカー――広告業――外交販売員が社会にとって有害であると説かぬにしろ、ぼくは自分の商売が憎らしいのに決っています。<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つて、主任から、個性を殺せと説教されました。そうして個性は主任を殺せと説教しました。集金に行ってコップ酒を<ruby><rb>無理強</rb><rt>むりじ</rt></ruby>いにするトラック屋の親爺などに逢えば面白いが、机の前に冷然としている、どじょう<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の御役人に向って、『今日は、御用はありませんか。』『ない。』『へい、ではまたどうぞ。』とか、『商人は外で待ってろ。』とか、『一<ruby><rb>厘</rb><rt>りん</rt></ruby>』の負け合いで、御百度を踏んで二、三十円の註文を貰ったり……。否、愚痴はいいますまい。つらつら、考えてみますと好き嫌いが先に定って、<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>が後になる事実ほど恐しく、嫌なものはありません。お好き？　お嫌い？　それで一瞬は過ぎて、今は嫌いなのです。だから世の中の言葉はひとの感情をあやつるに過ぎない気がします。ぼくにもそろそろマスクが必要な気がします。メリメのマスクが一番好いでしょう。ボクはもう他人に向って好き、嫌いを<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>しますまい。好きだから好きと、云ったのに、嫌いになったら、嫌いになったと云えない。ぼくはある娘に、そんな責任が出来て、嫌いになったのに、別れようと云えず、困っています。嫌いでも好きになりたいと努力するのは不可能です。ぼくは嫌いなまま愛さなければ<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ないのでしょうか。なんにも云いたくない。ぼくは余り多くの人々を憎んでいます。あ、ああ君も、お前も、キサマも、俺がこんなに苦しんでいるのにシャアシャアとして生きていやがる。」

「近頃の君の葉書に一つとして見るべきものがない。非常に惰弱になって巧言令色である。少からず遺憾に思っている。吉田生。」

月日。

「一言。（一行あき。）僕は、僕もバイロンに化け<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねた一匹の<ruby><rb>泥狐</rb><rt>どろぎつね</rt></ruby>であることを、教えられ、化けていることに嫌気が出て、恋の相手に絶交状を書いた。自分の生活は、すべて嘘であり、<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>であり、もう、何ごとも信ぜず、絶望の（銀行も、よす。）穴に落ち入る。きょうより以後、あなたの文学をみとめない。さようなら。御写真ください。道化の華は人殺し文学であるか。（銀行はよさない。けれども……）いや、ざっと、ウォーミングアップ。太宰さん、どうやらひっかかったらしい。手ごたえあり。私に興味を感じたら、お<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しまい</rt></ruby>までお読み下さい。僕はまだ二十歳の少年なので、貴重なお時間を<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>くのも、心苦しいまでに有難く存じます。（この私の、いのちこめたる誠実の言葉をさえ、鼻で笑ったら、貴下を、ほんとうに、刺し殺そうと思っています。ああ、ぼんくらな事を言った。）まず、僕が、どの程度に少年であるか、自己紹介させて下さい。十五、六歳の頃、佐藤春夫先生と、芥川龍之介先生に心酔しました。十七歳の頃、マルクスとレエニンに心酔しました。（命を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して。）……ところが、十八歳になると、また『芥川』に逆戻りして、辻潤氏に心酔しました。（太宰って、なあんて張り合いのない野郎だろう。聞いているのか、ダルマ、こちらむけ、われも<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい秋の暮、とは<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>？　お助け下さい。くず<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>へ投げこまないで下さい。せいぜい面白くかきますから。）『芥川』を透して、アナトール・フランス（敬語は不用でしょう）を、ボードレエルを、Ｅ・Ａ・ポーを、愛読しました。それから文学を留守にして、幻燈の街に出かけたり、とやかくやして、現在の僕になりました。僕は文学をやるのに、語学の必要を感じつつ、外国語はさておき、日本語の勉強をすらやらないで、（面白くない？　もう少しですから、辛抱たのむ。）便便として過してます。自分の生活を盲動だと思って、然し、人生そのものが盲動さ、と自問自答しています。（秋の夜や、自問自答の気の弱り。これは二百年まえの翁の句です。）二十歳の少年の分際で、これはあまり諦めがよすぎるかも知れません。……シェストフ的不安とは何であるか、僕は知りません。ジッドは『狭き門』を読んだ切りで、純情な青年の恋物語であり、シンセリティの尊さを感じたくらいで、……とにかく、浅学<ruby><rb>菲才</rb><rt>ひさい</rt></ruby>の僕であります。これで失礼申します。私は、とんでもない無礼をいたしました。私の身のほどを、只今、はっと知りました。<ruby><rb>候文</rb><rt>そうろうぶん</rt></ruby>なら、いくらでもなんでも。他人からの借衣なら、たとい五つ紋の<ruby><rb>紋附</rb><rt>もんつ</rt></ruby>きでも、すまして着て居られる。あれですね。それでは、唄わせて、（ふびんなことを言うなよ。）いや、書かせていただきます。拝啓。小生儀、異性の一友人にすすめられ、『めくら草紙』を読み、それから『ダス・ゲマイネ』を読み、たちどころに、太宰治<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ファン</span>に<ruby><rb>相成</rb><rt>あいなり</rt></ruby><ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>ものにして、これは、ファン・レターと御承知<ruby><rb>被下度</rb><rt>くだされたく</rt></ruby>候。『新ロマン派』も十月号より購読致し、『もの想う葦』を読ませて戴き居候。知性の極というものは、……の馬場の言葉に、小生……いや、何も言うことは<ruby><rb>無之</rb><rt>これなき</rt></ruby>候。映画ファンならば、この辺でプロマイドサインを願う可きと<ruby><rb>存候</rb><rt>ぞんじそうら</rt></ruby>え共、そして小生も何か太宰治さま、よりの『サイン』に似たもの、欲しとは存じ候え共、いけませんでしょうか。御伺い申上候。かかる原稿用紙様の手紙にて、礼を失し候段、<ruby><rb>甚謝</rb><rt>じんしゃ</rt></ruby>仕候。敬具。十二月二十二日。太宰治様。わが名は、なでしことやら、夕顔とやら、あざみとやら。<ruby><rb>追伸</rb><rt>ついしん</rt></ruby>、この手紙に、僕は、言い足りない、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は言い過ぎた、ことの自己嫌悪を感じ、『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉、『しどろもどろの看板』を感じる。（いや、ばかなことを言った。）太宰さん、これは、だめです。だいいち私に、異性の友人など、いつできたのだろう。全部ウソです。サインなんか不要です。私は、貴下の、――いや、むずかしくなって来ました。御返事かならず不要です。そんなもの、いやです。おかしくって。私たちの作家が出たというのは、うれしいことです。苦しくとも、生きて下さい。あなたのうしろには、ものが言えない自己喪失の亡者が、十万、うようよして居ります。日本文学史に、私たちの選手を出し得たということは、うれしい。<ruby><rb>雲霞</rb><rt>うんか</rt></ruby>のごときわれわれに、表現を与えて呉れた作家の出現をよろこぶ者でございます。（涙が出て、出て、しようがない）私たち、十万の青年、実社会に出て、果して生きとおせるか否か、厳粛の実験が、貴下の一身に於いて、黙々と行われて居ります。以上、書いたことで、私は、まだ少年の域を脱せず、『高所の空気、強い空気』である、あなたに、手紙を書いたり、逢ったりすることに<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>りて、『凍える危険』を感ずる者である。まことに<ruby><rb>敬畏</rb><rt>けいい</rt></ruby>する態度で、私は、この手紙一本きりで、あなたから逃げ出す。めくら<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>ぐも</rt></ruby>、願わくば、<ruby><rb>小雀</rb><rt>こすずめ</rt></ruby>に対して、寛大であられんことを。勿論お作は、誰よりも熱心に愛読します<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>、もう一言。――君に<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>が来はじめたのだ……君は<ruby><rb>稲妻</rb><rt>いなずま</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んだ。あまり深く太陽を見つめすぎた。それではたまらない……（一行あき。）めくら草紙の作者に、この言葉あてはまるや否や、――ストリンドベルグの『ダマスクスへ』よりの言葉である。と、ああ、気取った書き方をして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。もう、これ以上、書かないけれども、太宰治様。僕は、あなたの処へ飛んで行って暗いところで話し<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>い。改造にあなたが書けば改造を買い、中公にあなたが書けば中公を買う。そして、わざと三円の借金をかえさざる。<ruby><rb>頓首</rb><rt>とんしゅ</rt></ruby>。私は女です。」

「拝復。君ガ自重ト自愛トヲ祈ル。<ruby><rb>高邁</rb><rt>こうまい</rt></ruby>ノ精神ヲ喚起シ兄ガ<ruby><rb>天稟</rb><rt>てんぴん</rt></ruby>ノ才能ヲ完成スルハ君ガ天ト人トヨリ賦与サレタル天職ナルヲ自覚サレヨ。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>ラニ夢ニ悲泣スル<ruby><rb>勿</rb><rt>なか</rt></ruby>レ。努メテ厳粛ナル五十枚ヲ完成サレヨ。金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。八拾円ニテ、マント新調、二百円ニテ衣服ト<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>ト白<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>ト一揃イ御新調ノ由、二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。早朝、門ニ立チテオ待チ申シテイマス。太宰治様。深沢太郎。」

「謹啓。其の後御無沙汰いたして居りますが、御健勝ですか。御伺い申しあげます。二三日前から太宰君に原稿料として二十円を送るように、たびたびハガキや電報を貰っているのですが、社の稿料は六円五十銭（二枚半）しかあげられず、小生ただいま、金がなく<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く十円だけ友人に本日借りることができました。四度も書き直してくれて、お気の毒千万なのですが計十五円だけお送りいたします。おおみそかを控え、それでも平気でぱっぱっ使ってしまいますゆえ、あなたの方で保管、適当にお渡し下さいまし。もっと送ってあげたく思いましたが、僕もいっぱいの生活でどうにもできません。麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部、長沢伝六。太宰治様、<ruby><rb>令閨</rb><rt>れいけい</rt></ruby>様。」

月日。

「師走厳冬の夜半、はね起きて、しるせる。一、私は、下劣でない。二、私は、けれども、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで創った。三、誰か見ている。四、『あたしも、すっかり貧乏してしまって、ね。』五、こんな筈ではなかった。六、<ruby><rb>蛇身清姫</rb><rt>じゃしんきよひめ</rt></ruby>。七、『おまえをちらと見たのが不幸のはじめ。』八、いまごろ太宰、寝てか起きてか。九、『あたら、才能を！』十、筋骨質。十一、かんなん汝を玉にせむ。（ぞろぞろぞろぞろ、思念の行列、千紫万紅百面億態）一箇条つかんでノオトしている間に三十倍四十倍、百千ほども言葉を逃がす。Ｓ。」

月日。

「前略。その後いよいよ御静養のことと思い安心しておりましたところ、風のたよりにきけば貴兄このごろ薬品注射によって<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の<ruby><rb>安穏</rb><rt>あんのん</rt></ruby>を願っていらるる由。<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だもっていかがわしきことと思います。薬品注射の末おそろしさに関しては、貴兄すでに御存じ寄りのことと思いますので、今はくり返し申しません。しかしそれは恋人を思いあきらめるがごとき大発心にて、どうか思いあきらめて下さるよう切望いたします。仏典に申す『勇猛精進』とはこのあたりの決心をうながす意味の言葉かと思います。実は参上して申述べ度きところでありますが、貴兄も一家の主人で子供ではなし、手紙で申してもききわけて頂けると信じ手紙で申します。どこか<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>い土地か温泉に行って静かに思索してはいかがでしょう。青森の兄さんとも相談して、よろしくとりはからわれるよう<ruby><rb>老婆心</rb><rt>ろうばしん</rt></ruby>までに申し上げます。或いは<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や温泉行きの<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>もついていることかと思います。温泉に引越したら御様子願い上げます。北沢君なんかといっしょに訪ね、小生もその附近の宿にしばらく<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>してみたいと思います。奥さんによろしく。頓首。早川俊二。津島修治様。」

「三拾円しか出来ない。いのちがけ、ということをきいて心配いたして居りますが、どんなんですか。本当は二十日ごろまでに、兄より何か、<ruby><rb>委細</rb><rt>いさい</rt></ruby>のおしらせあるか、と待って居たのですが。（一行あき。）こうして離れているとお互いの生活に対する認識不足が多いので、いろいろ困難なことにぶつかると思います。命がけというので、お送りするわけです。それも私の生活とても決して余裕がないので、サラリイの前がりをして（それも、そんなに多くは前貸はしない、）やるわけです。（一行あき。）<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ぶるわけではないんです。そして、ゼイタクしているわけではありません。教師として、普通人の考えるが如き生活をひたすらしているのではありません。<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て、君も私も若き血を燃やしたる仕事があった筈です。（文学ではないぜ。）それをです。そのためにです。それに、子供がうまれて以来、フラウが肺病、私が肺病（勿論軽いヤツ）で、火の車にちかい。（一行あき。）であるから、三〇で、がまんしてくれ。そして、出来るなら返して呉れ。こっちがイノチがけになってしまうから。（一行あき。）文壇ゴシップ、小説その他に於ける君の生活態度がどんなものかを大体知っている。しかし、私は、それを君のすべてであるとは信じたくない。（一行あき。）元気を出せ！　いのちがけの……死ぬの……そんな奴があるか！　気質沢猛保。」

「悪習は除去すべきである。本郷区千駄木町五十、吉田潔。」

月日。

「言わなければならぬと思いながら言えない。夏休みになったら手紙をかこうと決心した。手紙をかき<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>い。かかなければならぬと、思いながらなぜかけないのかということを考えた。『人は人を<ruby><rb>嘲</rb><rt>わら</rt></ruby>うべきものでない』と言って呉れても、未だかけなかった。手紙がぼくを決める。手紙をかく決心がついた。明日から絵を一枚描く。そして一層決心をかためる。一週間で絵が大体出来る。それから<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>に行って手紙をかく。手紙をかかなかったら東京へ帰らない。どうなるにしても手紙をかいてからです。『青い鞭』創刊号うけとりました。私は実行します。創ったもの何もなく、ただこんな絵を描こうと思っただけで、貴方に認められようとし、実行しない自身に焦心していました。船橋から、帰る日、私への徹底的な絶望と思って私がかなしんだ、貴方の言葉は今、特に絶対必要なありがたい力をあたえてくれています。ピカソも、マチスも見方によっては一笑に付されることを実行している。私の、この頃描いた絵は実行でなく申し訳であったと思います。ぼくは長い長い手紙をかきたかったのだ。一分のスキもない手紙など『手紙が仲々出来ない』といったりしたことを千家君は誤解したらしい。手紙をかくと誓った日までは努力した。その日から君にものを言うに努力はない。一晩中よんでいられるような長い手紙をかこうと思ったのだ。ぼくは、いたちでない。ぼくは自分をりんごの木の様に重っぽく感ずることがある。他の奴とは口もきき度くない。君にだけならどんなことでも言える。この手紙を信じてくれなかったら、ぼくは死ぬ。敬四郎拝。」

月日。

「拝啓。突然ぶしつけなお願いですが、私を先生の<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>にして下さいませんか。私はダス・ゲマイネを読み、いまなお、読んでいます。私は十九歳。京都府立京都第一中学校を昨年卒業し、来年、三高文丙か、早稲田か、大阪薬専かへ行くつもりです。小説家になるつもりで、必死の勉強しています。先生、どうか私を弟子にして下さい。それには、どんな手続きが必要でしょうか。偉大なる霊魂はただ偉大なる霊魂によって発見せられるのみであると、辻潤が言っています。私は、少しポンチを画く才能をもち、文学に対する敏感さをも、持っています。上品な育ちです。けれども、少しヘンテコです。クリスチャンでもあり、スティルネリアンでもあるというあわれな男です。どうか御返事を下さい。太宰イズムが、恐ろしい勢で私たちのグルウプにしみ込みました。殆ど喜死しました。さよなら、御返事をお待ちしています。三重県<ruby><rb>北牟婁</rb><rt>きたむろ</rt></ruby>郡九鬼港、気仙仁一。追白。私は<ruby><rb>刺青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をもって居ります。先生の小説に出て来る模様と同一の図柄にいたしました。背中一ぱいに青い波がゆれて、まっかな<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の大輪を、<ruby><rb>鯖</rb><rt>さば</rt></ruby>に似て<ruby><rb>喙</rb><rt>くちばし</rt></ruby>の尖った細長い魚が、四匹、花びらにおのが胴体をこすりつけて遊んでいます。田舎の刺青師ゆえ、薔薇の花など手がけたことがない様で、薔薇の大輪、取るに足らぬ猿のお面そっくりで、一時は私も、部屋を薄暗くして寝て、大へんつまらなく思いましたが、仕合せのことには、私よほどの工夫をしなければ、わが背中見ること<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わず、四季を通じて<ruby><rb>半袖</rb><rt>はんそで</rt></ruby>のシャツを着るように心がけましたので、少しずつ忘れて、来年は三高文丙へ受験いたします。先生、私は、どうしたらいいでしょう。教えて呉れよ。おれは山田わかを好きです。きっと腕力家と存じます。私の親爺やおふくろは、時折、私を怒らせて、ぴしゃっと頬をなぐられます。けれども、親爺、おふくろ、どちらも弱いので、私に復讐など思いもよらぬことです。父は、現役の陸軍中佐でございますが、ちっともふとらず、おかしなことには、いつまで経っても五尺一寸です。<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せてゆくだけなのです。余ほどくやしいのでしょう。私の頭を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて泣きます。ひょっとしたら、私は、ひどく不仕合せの子なのかも知れぬ。私は平和主義者なので、きのうも十畳の部屋のまんなかに、一人あぐらをかいて坐って、あたりをきょろきょろ見まわしていましたが、部屋の隅がはっきりわかって、人間、けんかの弱いほど困ることがない。汽船荷一。」

「おくるしみの御様子、みんなみんな、いまのあなたのお苦しみと、丁度、同じくらいの苦しみを忍んで生きて居るのです。創作、ここ半年くらいは、発表ひき受ける雑誌ございませぬ。作家の、おそかれ、早かれ、必ず通らなければならぬどん底。これは、ジャアナリストのあいだの<ruby><rb>黙契</rb><rt>もっけい</rt></ruby>にて、いたしかたございませぬ。二十円同封。これは、私、とりあえずおたてかえ申して置きますゆえ、気のむいたとき三、四枚の旅日記でも、御寄稿下さい。このお金で五六日の貧しき旅をなさるよう、おすすめ申します。私、ひとり残されても、あなたを信じて居ります。大阪サロン編輯部、高橋安二郎。春田はクビになりました。私が、その様に取りはからいました。」

「奥さんからの御報告に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、お酒も、たばこも止したそうで、お察しいたします。そのかわり、バナナを一日に二十本ずつ、<ruby><rb>妻楊枝</rb><rt>つまようじ</rt></ruby>、日に三十本は確実、尖端をしゅろの葉のごとくちぢに噛みくだいて、所かまわず吐きちらしてあるいて居られる由、また、さしたる用事もなきに、床より抜け出て、うろついてあるいて、電燈の<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>に頭をぶっつけ、三つもこわせし由、すべて承り、奥さんの一難去ってまた一難の御嘆息も、さこそと思いますが、太宰ひとりがわるいのじゃない。みんながよってたかって、もの笑いのたねにしてしまって、ぼくは、それについて、二、三人の人物に、殺すともゆるしがたき<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>をおぼえる。太宰、恥じるところなし。顔をあげて歩けよ。クロ。」

「太宰様、その後、とんとごぶさた。文名、日、一日と御隆盛、<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬお世辞と言われても、少々くらいの御<ruby><rb>叱正</rb><rt>しっせい</rt></ruby>には、おどろきませぬ。さきごろは又、『めくら草紙』圧倒的にて、私、『もの思う<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>』を毎月拝読いたし、厳格の修養の資とさせていただいて居ります。すこしずつ危げなく着々と出世して行くお若い人たちのうしろすがたお見送りたてまつること、この世に生きとし生きて在る者の、もっとも尊き御光を拝する気持ちで、昨日は、神棚の掃除いたし、この上は、吉田様の御出世御栄達を祈るのみでございます。思えば不思議の御縁でございます。太宰様は、一年間に、原稿用紙三百枚、それも、ただ机のうえにきちんと飾って、かたわらに万年筆、いつお伺いしてみても、原稿用紙いちまいも減った様子が見えず、早川さんと無言で将棋、もしくは昼寝、私にとっては、一番わるいお客でございましたが、それでも、あの辺の作家へお品をとどけての帰途は、必ずお寄り申しあげ、お茶のごちそうにあずかり、きっとあらわれるお方と、ひそかにたのしみにして居りました。けっして、人の陰口をきかず、よその人の消息をお話申しあげても、つまらなそうにして、私の商売のことのみ、たいへん熱心に御研究でございました。私の目に狂いはなく、きのうも某劇作大家の御面前にて、この自慢話一席ご披露して、大成功でございました。叱られても、いたしかたございません。以後、決して他でお<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>申しませぬゆえ、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>のたびに限り、御<ruby><rb>寛恕</rb><rt>かんじょ</rt></ruby>ください。とんだところで大失敗いたしました。さて、お言いつけの原稿用紙、今月はじめ五百枚を、おとどけ申しましたばかりのところ、また、五百枚の御註文、一驚つかまつりました。千枚、昨夜お送り申しました。だまって御受納下さいまし。第一小説集、いまだ出版のはこびにいたりませぬか。出版記念会には、私、鶴亀うたい申し、心のよろこびの万一をお伝えいたしたく、ただし深沼家に於いては、私の鶴亀わめき出ずる様の会には、出席いたさぬゆえ、このぶんでは、出版記念会も、深沼家全員出席の会、ほかに深沼家欠席、鶴亀出現の会、と二つ行わずばなるまいなど、深沼家の取沙汰でございます。尚、このたびは、『英雄文学』にいよいよ創作御執筆の由私の今月はじめの御注進、すこしは、お役に立ちましたことと存じ、以後も、ぬからず御報告申上べく、いつも、年がいなく騒ぎたて、私ひとり合点の不文、わけわからずとも、その辺よろしく御判読下さいまし。師走もあと一両日、商人、尻に火のついた思いでございます。深夜、三時ころなるべし。田所美徳。太宰治様。」

「御手紙拝見いたしました。御窮状の程、深く拝察致します。こんな御返事申し上ることが自分でも不愉快だし、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にあなたにどう響くかが分るだけに、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>書きしぶっていたのですが、今月は自分でも馬鹿なことを仕出かして大変、困っているのです。従って到底御用立出来ませんから、悪しからず御了承下さい。これは全く事実の問題です。気持ちの上のかけ引なぞ全くございませぬ。あなたに対する誠意の変らぬことを、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し出来れば信じて下さい。窓の下、歳の市の売り出しにて、笑いさざめきが、ここまで聞えてまいります。おからだ御大事にねがいます。太宰治様。細野鉄次郎。」

「罰です。女ひとりを殺してまで作家になりたかったの？　もがきあがいて、作家たる栄光得て、ざまを見ろ、<ruby><rb>麻薬</rb><rt>まやく</rt></ruby>中毒者という一匹の虫。よもやこうなるとは思わなかったろうね。地獄の女性より。」

月日。

「謹啓。太宰様。おそらく、これは、女性から貴方に差しあげる最初の手紙と存じます。貴方は、女だから、男は、あなたにやさしくしてやり、けれども、女はあなたを嫉妬して居ります。先日お友達のところで、（私は<ruby><rb>神楽坂</rb><rt>かぐらざか</rt></ruby>の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>で、火鉢とお<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を売ってはたらいて居ります。）あなたのお手紙を読んで、たいへん不愉快の思いをいたしました。そのお友達は、ふたいとこというのでしょうか、大叔父というのでしょうか、たいへんややこしく、それでも、たしかに血のつながりでございます。日本大学の夜学に通っています。電気技師になるとのお話で、もう二年経てば、私はこのお友達のところへお嫁にまいります。夜に大学へ行き、朝には京王線の新築された小さい停車場の、助役さんの肩書で、べんとう持って出掛けます。この助役さんは貴方へ一週間にいちどずつ、親兄弟にも言わぬ大事のことがらを申し述べて、そうして、四週間に一度ずつ、下女のように、ごみっぽい字で、二、三行かいたお葉書いただき、アルバムのようなものに貼って、来る人、来る人に、たいへんのはしゃぎかたで見せて、私は、涙ぐむことさえあります。ときどきは寝てからも読むと見えて、そのアルバムを、蒲団の下にかくしていて、日曜の朝でございます、私は謙さんを起しに行って、そうして、そのアルバムを見つけ、謙さんは、見つけられて、たいへん顔を赤くして、死にものぐるいで私からひったくりました。私はうんと、大声はりあげて泣きました。たいへんつまらないお葉書です。貴方は、読者の目を、もっともっと高く、かわなければいけない。愛読者ですというてお手紙さしあげることは、男として、ご出世まえの男として、必死のことと存じます。作家は人間でないのだから、人間の誠実がわからない。貴方のアルバムのお葉書、十七枚ございましたが、お約束でもしてあるように、こんどは何々の何月号に何枚かきました。こんどは何々という題で、何百頁の小説集を出します。ほかのこと、言うても判らぬ、とでもお思いなのですか。謙さんは、小学校のとき、どんなに学問できたか知っていますか？　また私だって、学業とお針では、ひとに負けたことがございません。これからは、おハガキお断り申します。謙さんが可愛そうでございます。たいてい何か小説発表の五六日まえに、おハガキお書きになるのね。挨拶状五十枚もお出しになったのでございますか？　私たち寄席のお師匠さんが、新作読むまえに、耳ふさぎと申して、おそばか、すしを廻しますが、すしをごちそうになってから、新作もの承りますと、不思議なものです。たいへんご立派に聞えます。違うところ、ございませんのね。謙さんは、あなたを尊敬して居るのではございません。そんなにひとり<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>なさいましては、とんでもないことになりましょう。貴方のお小説のどこを、また、どんな言葉で、申して居るか、私は、あんまり謙さんのお心ありがたくて、レコオドに含ませて、あなたへお送りしたく存じます。どんな雑誌にお書きになろうと、他にもファンが、どんなにたくさんおいでになろうと、謙さんには、ちっとも問題でございませぬ。そうして、謙さんは、人間として、どうしてもあなたより上でございますから、あなた御自身でお気のつかないところを、よく細心御注意なされ、そうして、貴方をかばっています。私たちの二年後の家庭の幸福について少しでもお考え下さいましたならば、貴方様も、以後、謙さんへあんな薄汚いもの寄こさないで下さい。いつでも、私たちの争いのもとです。さいわいにも、あなたに、少しでも人間らしいお心がございましたら、今後、態度をおあらため下さることを確信いたします。ゆめにさえ疑い申しませぬ。明瞭に申しますれば、私は、貴方も、貴方の小説も、共に好みませぬ。毛虫のついた青葉のしたをくぐり抜ける気持ちでございます。一刻も早く、さよなら。太宰治先生、平河多喜。知らないお人へ、こっそり手紙かくこと、きっと、生涯にいちどのことでございましょう。帯のあいだにかくした手紙、出したりかくしたりして、立ったまま、たいへん考えました。」

「そんなに金がほしいのかね。けさ、またまた、新聞よろず案内欄で、たしかに君と思われる男の、たしかに私と思われる男へあてた、ＳＯＳを発見、おそれいって居る。おかしなもので、きのうまでは大いにみずみずしい男も、お金のＳＯＳ発してからは、興味さく然、目もあてられぬのは、どうしたことであろう。君は、ジュムゲジュムゲ、イモクテネなどの気ちがいの<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>の言葉をはたして<ruby><rb>誦</rb><rt>ず</rt></ruby>したかどうか。その呪文を述べたときに、君は、どのような顔つきをしたか、自ら称して、最高級、最低級の両意識家とやらの君が、百円の金銭のために、小生如き住所も身分も不明のものに、チンチンおあずけをする、そのときの表情を知りたく思うゆえ、このつぎにエッセエを、どこか雑誌へ発表の折に一箇条、他の読者には、わからなくてもよし、ぼく一人のために百言ついやせ。Ｘであり、Ｙであり、しかも最も重大なことには、百円、あそんでいるお金の持ち主より。そのおかかえ作家、太宰治へ。太宰治君。誰も知るまいと思って、あさましいことをやめよ。自重をおすすめします。」

月日。

「太宰さん。私も一、二夜のちには二十五歳。私、二十五歳より小説かいて、三十歳で売れるようになって、それから、家の財産すこしわけてもらって、それから<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の約束している近眼のひとと結婚します。さきに男の児、それから女の児、それから男、男、男、女。という順序で子供をつくり、四男が<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>のこじれから肺炎おこして、五歳で死んで、それからすっかり<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いこんで、それでも、年に二篇ずつ、しっかりした小説かいて、五十三歳で死にます。私の父も、五十三歳で死んで、みんなが父をほめていました。ちょうどいい年ごろなのでしょう。まえまえからお話あった『英雄文学』よりの御註文の小説、完成、雑誌社へお送り申しました由、いまからその作品の期待で、胸がふくれる。きっと傑作でございましょう。」

「前略。小説完成の由。大慶なり。破れるほどの<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>にて、またもわれら同業者の生活をおびやかす下心と見受けたり。おめでとう。『英雄文学』社のほうへ送った由、も少し稿料よろしきほうへ送ったらよかったろうに。でも、まあ、大みそか、お正月、百円くらい損してもいいから、一日もはやく現なま掴みたい心理、これは、私たちマゲモノ作家も、君たち、純文学者も変りない様子。よい初春が来るよう。萱野鉄平。」

月日。

「先日、（二十三日）お母上様のお言いつけにより、お正月用の<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>と<ruby><rb>塩引</rb><rt>しおびき</rt></ruby>、一包、キウリ一<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>お送り申しあげましたところ、御手紙に依れば、キウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事願上<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>、以上は奥様へ御申伝え下されたく、以下、二三言、私、明けて二十八年間、十六歳の秋より四十四歳の現在まで、津島家出入りの貧しき商人、全く無学の者に候が、御無礼せんえつ、わきまえつつの苦言、今は延々すべきときに<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ずと心得られ候まま、汗顔平伏、お耳につらきこと開陳、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>、おゆるし<ruby><rb>被下度</rb><rt>くだされたく</rt></ruby>候。噂に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、このごろ又々、借銭の悪癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴嘆願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくなし、こちらも一命たすかる思い、どこがわるい、と先日も、それがために奥様へ火鉢投じて、ガラス戸二枚破損の由、話、半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。貴族院議員、勲二等の御家柄、貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>、古くさきものに相違なしと存じられ候が、お父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い、私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。『われひとりを悪者として<ruby><rb>勘当</rb><rt>かんどう</rt></ruby>除籍、家郷追放の現在、いよいよわれのみをあしざまにののしり、それがために四方八方うまく治まり居る様子、』などのお言葉、おうらめしく存じあげ候。今しばし、お名あがり家ととのうたるのちは、御兄上様御姉上様、何条もってあしざまに申しましょうや。必ずその様の曲解、御無用に<ruby><rb>被存</rb><rt>ぞんぜられ</rt></ruby>候。先日も、山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様より、しんからのおなげき承り、私、芝居のようなれども、政岡の大役お引き受け申し、きらいのお方なれば、たとえ御主人筋にても、かほどの世話はごめんにて、私のみに非ず、菊子姉上様も、貴方のお世話のため、御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候も、むりしての御奉仕ゆえ、本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう、万やむを得ぬ場合は、当方へ御申越願度く、でき得る限りの御辛抱ねがいたく、このこと兄上様へ知れると小生の一大事につき、今回の所は小生一時御立替御用立申上候間、此の点お含み置かれるよう願上候。重ねて申しあげ候が、私とて、きらいのお方には、かれこれうるさく申し上げませぬ、このことお含みの上、御養生、御自愛、願上候。青森県金木町、山形宗太。太宰治先生。末筆ながら、めでたき御越年、祈居候。」

元旦

「謹賀新年。」「献春。」「あけましておめでとう。」「賀正。」「頌春献寿。」「献春。」「冠省。ただいま原稿拝受。何かのお間違いでございましょう。当社ではおたのみした記憶これ無く、<ruby><rb>不取敢</rb><rt>とりあえず</rt></ruby>、別封にて御返送、お受取願い上ます。『英雄文学』編輯部、Ｒ。」「謹賀新春。」「賀正。」「頌春。」「謹賀新年。」「謹賀新年。」「謹賀新年。」「謹賀新年。」「賀春。」「おめでとございます。」「新年のおよろこび申し納めます。」「賀春。」「謹賀新年。」「頌春。」「賀春。」「頌春献寿。」