Soranoha

陰火

いんか

太宰 治

誕生

二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな學帽を、たくさんの希望者の中でとくにへどもどまごつきながら願ひ出たひとりの新入生へ、くれてやつて、歸郷した。鷹の羽の定紋うつた輕い幌馬車は、若い主人を乘せて、停車場から三里のみちを一散にはしつた。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者の叱咤、蹄鐵のにぶい響、それらにまじつて、ひばりの聲がいくども聞えた。

北の國では、春になつても雪があつた。道だけは一筋くろく乾いてゐた。田圃の雪もはげかけた。雪をかぶつた山脈のなだらかな起伏も、むらさきいろに萎えてゐた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼつてゐた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそつと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。

さうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ𢌞つて歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は藥草の臭氣がした。茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂ひが。彼は、表二階や裏二階や、離れ座敷にもさまよひ出た。いちまいの襖をするするあける度毎に、彼のよごれた胸が幽かにときめくのであつた。それぞれの匂ひはきつと彼に都のことを思ひ出させたからである。

彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をもひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻の花は彼も輕蔑して眺めることができたけれども、耳をかすめて通る春の風と、ひくく騷いでゐる秋の滿目の稻田とは、彼の氣にいつてゐた。

寢てからも、むかし讀んだ小型の詩集や、眞紅の表紙に黒いハムマアの畫かれてあるやうな、そんな書物を枕元に置くことは、めつたになかつた。寢ながら電氣スタンドを引き寄せて、兩のてのひらを眺めてゐた。手相に凝つてゐたのである。掌にはたくさんのこまかい皺がたたまれてゐた。そのなかに三本の際だつて長い皺が、ちりちりと横に並んではしつてゐた。この三つのうす赤い鎖が彼の運命を象徴してゐるといふのであつた。それに依れば、彼は感情と智能とが發達してゐて、生命は短いといふことになつてゐた。おそくとも二十代には死ぬるといふのである。

その翌る年、結婚をした。べつに早いとも思はなかつた。美人でさへあれば、と思つた。華やかな婚禮があげられた。花嫁は近くのまちの造り酒屋の娘であつた。色が淺黒くて、なめらかな頬にはうぶ毛さへ生えてゐた。編物を得意としてゐた。ひとつき程は彼も新妻をめづらしがつた。

そのとしの、冬のさなかに父は五十九で死んだ。父の葬儀は雪の金色に光つてゐる天氣のいい日に行はれた。彼は袴のももだちをとり、藁靴はいて、山のうへの寺まで十町ほどの雪道をぱたぱた歩いた。父の柩は輿にのせられて彼のうしろへついて來た。そのあとには彼の妹ふたりがまつ白いヴエルで顏をつつんで立つてゐた。行列は長くつづいてゐた。

父が死んで彼の境遇は一變した。父の地位がそつくり彼に移つた。それから名聲も。

さすがに彼はその名聲にすこし浮はついた。工場の改革などをはかつたのである。さうして、いちどでこりこりした。手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になつて、かはつたのは、洋室の祖父の肖像畫がけしの花の油畫と掛けかへられたことと、まだある、黒い鐵の門のうへに佛蘭西風の軒燈をぼんやり灯した。

すべてが、もとのままであつた。變化は外からやつて來た。父にわかれて二年目の夏のことであつた。そのまちの銀行の樣子がをかしくなつたのである。もしものときには、彼の家も破産せねばいけなかつた。

救濟のみちがどうやらついた。しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちを怒らせた。彼には、永いあひだ氣にかけてゐたことが案外はやく來てしまつたやうな心地がした。奴等の要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりむしろ腹立たしい氣持ちで支配人に言ひつけた。求められたものは與へる。それ以上は與へない。それでいいだらう? と彼は自身のこころに尋ねた。小規摸の整理がつつましく行はれた。

その頃から寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうへでトタンの屋根を光らせてゐた。彼はそこの住職と親しくした。住職は痩せ細つて老いぼれてゐた。けれども右の耳朶がちぎれてゐて黒い痕をのこしてゐるので、ときどきは兇惡な顏にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼつて寺へかよふのである。庫裡の縁先には夏草が高くしげつてゐて、鷄頭の花が四つ五つ咲いてゐた。住職はたいてい晝寢をしてゐるのであつた。彼はその縁先からもしもしと聲をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を振つて出て來た。

彼はきやうもんの意味に就いて住職に問ふのであつた。住職はちつとも知らなかつた。住職はまごついてから、あはははと聲を立てて笑ふのであつた。彼もほろにがく笑つてみせた。それでよかつた。ときたま住職へ怪談を所望した。住職は、かすれた聲で二十いくつの怪談をつぎつぎと語つて聞せた。この寺にも怪談があるだらう、と追及したら、住職は、とんとない、と答へた。

それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮ばかりしてゐた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺を厭いた。母が死んでから始めて氣がついたことだけれども、彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめてゐたのであつた。

母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣のまちの大きい割烹店へとついでゐた。下のは、都の、體操のさかんな或る私立の女學校へかよつてゐて、夏冬の休暇のときに歸郷するだけであつた。黒いセルロイドの眼鏡をかけてゐた。彼等きやうだい三人とも、眼鏡をかけてゐたのである。彼は鐵ぶちを掛けてゐた。姉娘は細い金ぶちであつた。

彼はとなりまちへ出て行つてあそんだ。自分の家のまはりでは心がひけて酒もなんにも飮めなかつた。となりのまちでささやかな醜聞をいくつも作つた。やがてそれにも疲れた。

子供がほしいと思つた。少くとも、子供は妻との氣まづさを救へると考へた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなはなかつた。鼻に附いたのである。

三十になつて、少しふとつた。毎朝、顏を洗ふときに兩手へ石鹸をつけて泡をこしらへてゐると、手の甲が女のみたいにつるつる滑つた。指先が煙草のやにで黄色く染まつてゐた。洗つても洗つても落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱づつ吸つてゐた。

そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまへ、妻が都の病院に凡そひとつきも祕密な入院をしたのであつた。

女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かつた。髮がうすくて、眉毛はないのと同じであつた。腕と脚が氣品よく細長かつた。生後二箇月目には、體重が五瓩、身長が五十八糎ほどになつて、ふつうの子より發育がよかつた。

生れて百二十日目に大がかりな誕生祝ひをした。

紙の鶴

「おれは君とちがつて、どうやらおめでたいやうである。おれは處女でない妻をめとつて、三年間、その事實を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきではないかも知れぬ。いまは幸福さうに編物へ熱中してゐる妻に對しても、むざんである。また、世の中のたくさんの夫婦に對しても、いやがらせとなるであらう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顏を、なぐりつけてやりたいからだ。

おれは、ヴアレリイもプルウストも讀まぬ。おほかた、おれは文學を知らぬのであらう。知らぬでもよい。おれは別なもつとほんたうのものを見つめてゐる。人間を。人間といふ謂はば市場の蒼蠅を。それゆゑおれにとつては、作家こそすべてである。作品は無である。

どういふ傑作でも、作家以上ではない。作家を飛躍し超越した作品といふものは、讀者の眩惑である。君は、いやな顏をするであらう。讀者にインスピレエシヨンを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗とか生野暮とかといやしめるにちがひない。そんならおれは、もつとはつきり言つてもよい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。君がまさしく聰明ならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑へる筈だ。笑へないならば、今後、かしこさうに口まげる癖をよし給へ。

おれは、いま、君をはづかしめる意圖からこの小説を書かう。この小説の題材は、おれの恥さらしとなるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫の情を求めまい。君より高い立場に據つて、人間のいつはりない苦惱といふものを君の横面にたたきつけてやらうと思ふのである。

おれの妻は、おれとおなじくらゐの嘘つきであつた。ことしの秋のはじめ、おれは一篇の小説をしあげた。それは、おれの家庭の仕合せを神に誇つた短篇である。おれは妻にもそれを讀ませた。妻は、それをひくく音讀してしまつてから、いいわ、と言つた。さうして、おれにだらしない動作をしかけた。おれは、どれほどのろまでも、かういふ妻のそぶりの蔭に、ただならぬ氣がまへを見てとらざるを得なかつたのである。おれは、妻のそんな不安がどこからやつて來たのか、それを考へて三夜をつひやした。おれの疑惑は、ひとつのくやしい事實にかたまつて行くのであつた。おれもやはり、十三人目の椅子に坐るべきおせつかいな性格を持つてゐた。

おれは妻をせめたのである。このことにもまた三夜をつひやした。妻は、かへつておれを笑つてゐた。ときどきは怒りさへした。おれは最後の奸策をもちゐた。その短篇には、おれのやうな男に處女がさづかつた歡喜をさへ書きしるされてゐるのであつたが、おれはその箇所をとりあげて、妻をいぢめたのである。おれはいまに大作家になるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。するとお前は、この小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたはれるであらう、と妻をおどかした。無學の妻は、果しておびえた。しばらく考へてから、たうとうおれに囁いた。たつたいちど、と囁いたのである。おれは笑つて妻を愛撫した。わかいころの怪我であるゆゑ、それはなんでもないことだ、と妻に元氣をつけてやつて、おれはもつとくはしく妻に語らせるのであつた。ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正した。それから、三度、と言つた。おれは尚も笑ひつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない名前であつた。妻がその男のことを語つてゐるうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛慾である。同時に眞實の愛情である。妻は、つひに、六度ほど、と吐きだして聲を立てて泣いた。

その翌る朝、妻はほがらかな顏つきをしてゐた。あさの食卓に向ひ合つて坐つたとき、妻はたはむれに、兩手あはせておれを拜んだ。おれも陽氣に下唇を噛んで見せた。すると妻はいつそうくつろいだ樣子をして、くるしい? とおれの顏を覗いたでないか。おれは、すこし、と答へた。

おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きつと卑俗で生野暮なものだといふことを。

その日を、おれはどうして過したか、これも君に教へて置かう。

こんなときには、妻の顏を、妻の脱ぎ捨ての足袋を、妻にかかはり合ひのある一切を見てはいけない。妻のそのわるい過去を思ひ出すからといふだけでない。おれと妻との最近までの安樂だつた日を追想してしまふからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。この友人は獨身であつた。妻帶者の友人はこの場合ふむきであらう。

おれはみちみち、おれの頭腦がからつぽにならないやうに警戒した。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別な問題について考へふけるのであつた。人生や藝術の問題はいくぶん危險であつた。殊に文學は、てきめんにあのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねつた。からたちは、灌木である。春のをはりに白色の花をひらく。何科に屬するかは知らぬ。秋、いますこし經つと黄いろい小粒の實がなるのだ。それ以上を考へつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を轉ずる。すすき。これは禾本科に屬する。たしか禾本科と教はつた。この白い穗は、をばな、といふのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききやう、かるかや、なでしこ、それから、をばな。もう二つ足りないけれど、なんであらう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るやうにして、足を早めた。いくたびとなく躓いた。この落葉は。いや、植物はよさう。もつと冷いものを。もつと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。

おれは、AプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乘の公式について、研究した。

君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。けれども、おれは知つてゐる。おそらくは君も、おれのやうな災難を受けたときには、いや、もつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして、數學はおろか、かぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。

おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。

友人の部屋の扉をノツクしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでゐる四つの金魚について、その鰭の數をしらべた。友人は、まだ寢てゐたのであつた。片眼だけをしぶくあけて、出て來た。友人の部屋へはひつて、おれはやうやくほつとした。

いちばん恐ろしいのは孤獨である。なにか、おしやべりをしてゐると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はかういふ條件にかなつてゐる。

おれは友人の近作について饒舌をふるつた。それは二十號の風景畫であつた。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。友人は、それを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。もし、君の藝術批評が立派なものであるとしたなら、おれはそのときの批評も、まんざらではなかつたやうである。なぜと言つて、おれもまた君のやうに、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構圖について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。

友人はいちいちおれの言ふことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほど、おしやべりをつづけたのである。

しかし、かういふ饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切つて、この年少の友に將棋をいどんだ。ふたりは寢床のうへに坐つて、くねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ、早い將棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであつた。たとへ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。

こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。やうやく疲勞を覺へたのだ。よさう、と言つて、おれは將棋の道具をとりのけ、その寢床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うつかり者。休止は、おれにとつては大敵なのだつた。かなしい影がもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなく呟いては、その大きい影を追ひはらつてゐた。とてもこのままではならぬ。おれは動いてゐなければいけないのだ。

君は、これを笑ふであらうか。おれは寢床へ腹這ひになつて、枕元に散らばつてあつた鼻紙をいちまい拾ひ、折紙細工をはじめたのである。

まづこの紙を對角線に沿うて二つに折つて、それをまた二つに疊んで、かうやつて袋を作つて、それから、こちらの端を折つて、これは翼、こちらの端を折つて、これはくちばし、かういふ工合ひにひつぱつて、ここのちひさい孔からぷつと息を吹きこむのである。これは、鶴。」

水車

橋へさしかかつた。男はここで引きかへさうと思つた。女はしづかに橋を渡つた。男も渡つた。

女のあとを追つてここまで歩いて來なければいけなかつたわけを、男はあれこれと考へてみた。みれんではなかつた。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからつぽになつてしまつた筈である。女がだまつて歸り仕度をはじめたとき、男は煙草に火を點じた。おのれの手のふるへてもゐないのに氣が附いて、男はいつそう白白しい心地がした。そのままほつて置いてもよかつたのである。男は女と一緒に家を出た。

二人は土堤の細い道を、あとになりさきになりしながらゆつくり歩いた。初夏の夕暮れことである。はこべの花が道の兩側にてんてんと白く咲いてゐた。

憎くてたまらぬ異性にでなければ關心を持てない一群の不仕合せな人たちがゐる。男もさうであつた。女もさうであつた。女はけふも郊外の男の家を訪れて、男の言葉の一つ一つに譯のわからぬ嘲笑を浴びせたのである。男は、女の執拗な侮蔑に對して、いまこそ腕力を用ゐようと決心した。女もそれを察して身構へた。かういふせつぱつまつたわななきが、二人のゆがめられた愛慾をあふりたてた。男の力はちがつた形式で行はれた。めいめいのからだを取り返へしたとき、二人はみぢんも愛し合つてゐない事實をはつきり知らされた。

かうやつて二人ならんで歩いてゐるが、お互ひに妥協の許さぬ反撥を感じてゐた。以前にました憎惡を。

土堤のしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れてゐた。男は薄闇のなかで鈍く光つてゐる水のおもてを見つめながら、また、引きかへさうかしら、と考へた。女は、うつむいたまま道を眞直に歩いてゐた。男は女のあとを追つた。

みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やつと言ひわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかり離れて歩きながら、ステツキを振つてみちみちの夏草を薙ぎ倒してゐた。かんにんして下さい、とひくく女に囁けば、何か月なみの解決がつきさうにも思はれる。男はそれも心得てゐた。が、言へなかつた。だいいち時機がおくれてゐる。これは、その直後にこそ效果のある言葉らしい。ふたりが改めて對陣し直したいまになつて、これを言ひだすのは、いかにも愚かしくないか。男は青蘆をいつぽん薙ぎ倒した。

列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふつと振りむいた。男もいそいで顏をうしろにねぢむけた。列車は川下の鐵橋を渡つてゐた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の眼の前をとほつていつた。男は、おのれの背中にそそがれてゐる女の視線をいたいほど感じてゐた。列車は、もう通り過ぎてしまつて、前方の森の蔭からその車輛のひびきが聞えるだけであつた。男は、ひと思ひに、正面にむき直つた。もし女と視線がかち合つたなら、そのときには鼻で笑つてかう言つてやらう。日本の汽車もわるくないね。

女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いてゐたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の眼にしみた。このままうちへ歸るつもりかしら。いつそ、けつこんしようか。いや、ほんたうはけつこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。

男はステツキをぴつたり小脇にかかへて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女は痩せた肩をすこしいからせて、ちやんとした足どりで歩いてゐた。男は、女の二三歩うしろまではしつて來て、それからのろのろと歩いた。憎惡だけが感ぜられるのだ。女のからだぢゆうから、我慢できぬいやな臭ひが流れ出てくるやうに思はれた。

二人はだまつて歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊が、ぽつかり浮んだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。

逃げよう。解決もなにも要らぬ。おれが女の心に油ぎつた惡黨として、つまりふつうの男として殘つたとて、構はぬ。どうせ男はかういふものだ。逃げよう。

川楊のひとむれを通り越すと、二人は顏を合せずに、またより添つて歩いた。たつたひとこと言つてやらうか。おれは口外しないよ、と。男は片手で袂の煙草をさぐつた。それとも、かう言つてやらうか。令孃の生涯にいちど、奧樣の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけつこんをなさい。すると、この女はなんと答へるのであらう。ストリンドベリイ? と反問してくるにちがひない。男はマツチをすつた。女の蒼黒い片頬がゆがんだまま男のつい鼻の先に浮んだ。

たうとう男はたちどまつた。女も立ちどまつた。お互ひに顏をそむけたまま、しばらく立ちつくしてゐたのである。男は女が泣いてもゐないらしいのをいまいましく思ひながら、わざと氣輕さうにあたりを見𢌞した。ぢき左側に男の好んで散歩に來る水車小屋があつた。水車は闇の中でゆつくりゆつくりまはつてゐた。女は、くるつと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草をくゆらしながら踏みとどまつた。呼びとめようとしないのだ。

尼

九月二十九日の夜更けのことであつた。あと一日がまんをして十月になつてから質屋へ行けば、利子がひと月分まうかると思つたので、僕は煙草ものまずにその日いちにち寢てばかりゐた。晝のうちにたくさん眠つた罰で、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋の襖がことことと鳴つた。風だらうと思つてゐたのだが、しばらくして、またことことと鳴つた。おや、誰か居るのかなとも思はれ、蒲團から上半身をくねくねはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立つてゐた。

中肉のやや小柄な尼であつた。頭は青青してゐて、顏全體は卵のかたちに似てゐた。頬は淺黒く、粉つぽい感じであつた。眉は地藏さまの三日月眉で、眼は鈴をはつたやうにぱつちりしてゐて、睫がたいへん長かつた。鼻はこんもりともりあがつて小さく、兩唇はうす赤くて少し大きく、紙いちまいの厚さくらゐあいてゐてそのすきまから眞白い齒列が見えてゐた。こころもち受け口であつた。墨染めのころもは糊つけしてあるらしく折目折目がきつちりとたつてゐて、いくらか短かめであつた。脚が三寸くらゐ見えてゐて、そのゴム毬みたいにふつくりふくらんだ桃いろの脚にはうぶ毛が薄く生えそろひ、足頸が小さすぎる白足袋のためにきつくしめつけられて、くびれてゐた。右手には青玉の珠數を持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持つてゐた。

僕は、ああ妹だなと思つたので、おはひりと言つた。尼は僕の部屋へはひり、靜かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まで歩いて來て、それから、ちやんと坐つた。僕は蒲團の中へもぐりこみ、仰向けに寢たままで尼の顏をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲つた。息がとまつて、眼さきがまつくろになつた。

「よく似てゐるが、あなたは妹ぢやないのですね。」はじめから僕には妹などなかつたのだな、とそのときはじめて氣がついた。「あなたは、誰ですか。」

尼は答へた。

「私はうちを間違へたやうです。仕方がありません。同じやうなものですものね。」

恐怖がすこしづつ去つていつた。僕は尼の手を見てゐた。爪が二分ほども伸びて、指の節は黒くしなびてゐた。

「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。かうして寢ながら見てゐると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに。」

尼は答へた。

「汚いことをしたからです。私だつて知つてゐます。だからかうして珠數やお經の本で隱さうとしてゐるのです。私は色の配合のために珠數とお經の本とを持つて歩いてゐるのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつつて、私のすがたもまさつて見えます。」さう言ひながら、お經の本のペエジをぱらぱらめくつた。「讀みませうか。」

「ええ。」僕は眼をつぶつた。

「おふみさまです。夫ソレ人間ニンゲンノ浮生フジヤウナル相サウヲツラツラ觀クワンズルニ、オホヨソハカナキモノハ、コノ世ヨノ始シ中チユウ終ジユウマボロシノゴトクナル一期イチゴナリ、――てれくさくて讀まれるものか。べつなのを讀みませう。夫ソレ女人ニヨニンノ身ミハ、五障ゴシヤウ三從サムシヨウトテ、オトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリ、コノユヘニ一切イチサイノ女人ニヨニンヲバ、――馬鹿らしい。」

「いい聲だ。」僕は眼をつぶつたままで言つた。「もつとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈でたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さず、なんにも聞かないで、かうして眼をつぶつてらくらくと話し合へるといふことが、僕もそんな男になれたといふことが、うれしいのです。あなたは、どうですか。」

「いいえ。だつて、仕方がありませんもの。お伽噺がおすきですか。」

「すきです。」

尼は語りはじめた。

「蟹の話をいたしませう、月夜の蟹の痩せてゐるのは、砂濱にうつるおのが醜い月影におびえ、終夜ねむらず、よろばひ歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り、龍宮の夢でも見てゐる態度こそゆかしいのでせうけれども、蟹は月にうかされ、ただ濱邊へとあせるのです。砂濱へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹は泡をふきつつさう呟き呟きよろばひ歩くのです。蟹の甲羅はつぶれ易い。いいえ、形からして、つぶされるやうにできてゐます。蟹の甲羅のつぶれるときは、くらつしゆといふ音が聞えるさうです。むかし、いぎりすの或る大きい蟹は、生まれながらに甲羅が赤くて美しかつた。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでせうか。またはかの大蟹のみづから招いたむくいなのでせうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフヱへはひつたのでした。カフヱには、たくさんの小蟹がむれつどひ、煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ眼をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしさうにさけつつ、こつそり囁いたといふのです。『おまへ、くらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまづしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂濱へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべつたい醜い影は、ほんたうにおれの影であらうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給へ。もうはや、おしつぶされかけてゐる。おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。こんなに弱弱しかつたのだらうか。小さい小さい蟹は、さう呟きつつよろばひ歩くのでした。おれには、才能があつたのであらうか。いや、いや、あつたとしても、それはをかしい才能だ。世わたりの才能といふものだ。お前は原稿を賣り込むのに、編輯者へどんな色目をつかつたか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着やうよ。作品に一言も注釋を加へるな。退屈さうにかう言ひ給へ。『もし、よかつたら。』甲羅がうづく。からだの水氣が乾いたやうだ。この海水のにほひだけが、おれのたつたひとつのとりえだつたのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはひらうか。海の底の底の底へもぐらうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。浦の苫屋のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何處いづくの蟹。百傳ももづたふ。角鹿つぬがの蟹。横去よこさらふ。何處いづくに到る。……」口を噤んだ。

「どうしたのです。」僕はつぶつてゐた眼をひらいた。

「いいえ。」尼はしづかに答へた。「もつたいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでせうかしら。」

「部屋を出て、廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それが扉です。」

「秋にもなりますと女人は冷えますので。」さう言つてから、いたづら兒のやうに頸をすくめ兩方の眼をくるくると𢌞して見せた。僕は微笑んだ。

尼は僕の部屋から出ていつた。僕はふとんを頭からひきかぶつて考へた。高邁なことがらについて思案したのではなかつた。これあ、まうけものをしたな、と惡黨らしくほくそ笑んだだけのことであつた。

尼は少しあわてふためいた樣子でかへつて來て襖をぴたつとしめてから、立つたままで言つた。

「私は寢なければなりません。もう十二時なのです。かまひませんでせうか。」

僕は答へた。

「かまひません。」

どんなにびんばふをしても蒲團だけは美しいのを持つてゐたいと僕は少年のころから心がけてゐたのであるから、こんな工合ひに不意の泊り客があつたときにでも、まごつくことはなかつたのだ。僕は起きあがり、僕の敷いてゐる三枚の敷蒲團のうちから一枚ひき拔いて、僕の蒲團とならべて敷いた。

「この蒲團は不思議な模樣ですね。ガラス繪みたいだわ。」

僕は自分の二枚の掛蒲團を一枚だけはいだ。

「いいえ。掛蒲團は要らないのです。私はこのままで寢るのです。」

「さうですか。」僕はすぐ僕の蒲團の中へもぐりこんだ。

尼は珠數とお經の本とを蒲團のしたへそつとおしこんでから、ころものままで敷布のない蒲團のうへに横たはつた。

「私の顏をよく見てゐて下さい。みるみる眠つてしまひます。それからすぐきりきりと齒ぎしりをします。すると如來樣がおいでになりますの。」

「如來樣ですか。」

「ええ。佛樣が夜遊びにおいでになります。毎晩ですの。あなたは退屈をしていらつしやるのださうですから、よくごらんになればいいわ。なにをお斷りしたのもそのためなのです。」

なるほど、話をはるとすぐ、おだやかな寢息が聞えた。きりきりとするどい音が聞えたとき、部屋の襖がことことと鳴つたのである。僕は蒲團から上半身をはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、如來が立つてゐた。

二尺くらゐの高さの白象にまたがつてゐたのである。白象には黒く錆びた金の鞍が置かれてゐた。如來はいくぶん、いや、おほいに痩せこけてゐた。肋骨が一本一本浮き出てゐて、鎧扉のやうであつた。ぼろぼろの褐色の布を腰のまはりにつけてゐるだけで素裸であつた。かまきりのやうに痩せ細つた手足には蜘蛛の巣や煤がいつぱいついてゐた。皮膚はただまつくろであつて、短い頭髮は赤くちぢれてゐた。顏はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしやくしやと皺になつてゐた。

「如來樣ですか。」

「さうです。」如來の聲はひくいかすれ聲であつた。「のつぴきならなくなつて、出て來ました。」

「なんだか臭いな。」僕は鼻をくんくんさせた。臭かつたのである。如來が出現すると同時に、なんとも知れぬ惡臭が僕の部屋いつぱいに立ちこもつたのである。

「やはりさうですか。この象が死んでゐるのです。樟腦をいれてしまつてゐたのですが、やはり匂ふやうですね。」それから一段と聲をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはひりませんのでしてね。」

「ふつうの象でもかまはないのに。」

「いや、如來のていさいから言つても、さうはいかないのです。ほんたうに、私はこんな姿をしてまで出しやばりたくはないのです。いやな奴等がひつぱり出すのです。佛教がさかんになつたさうですね。」

「ああ、如來樣。早くどうにかして下さい。僕はさつきから臭くて息がつまりさうで死ぬ思ひでゐたのです。」

「お氣の毒でした。」それからちよつと口ごもつた。「あなた。私がここへ現はれたとき滑稽ではなかつたかしら。如來の現はれかたにしては、少しぶざまだと思はなかつたでせうか。思つたとほりを言つて下さい。」

「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思ひましたよ。」

「ほほ。さうですか。」如來は幾分からだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさつきからそれだけが氣がかりでならなかつたのです。私は氣取り屋なのかも知れませんね。これで安心して歸れます。ひとつあなたに、いかにも如來らしい退去のすがたをおめにかけませう。」言ひをはつたとき如來はくしやんとくしやみを發し、「しまつた!」と呟いたかと思ふと如來も白象も紙が水に落ちたときのやうにすつと透明になり、元素が音もなくみぢんに分裂し雲と散り霧と消えた。

僕はふたたび蒲團へもぐつて尼を眺めた。尼は眠つたままでにこにこ笑つてゐた。恍惚の笑ひのやうでもあるし、侮蔑の笑ひのやうでもあるし、無心の笑ひのやうでもあるし、役者の笑ひのやうでもあるし、諂ひの笑ひのやうでもあるし、喜悦の笑ひのやうでもあるし、泣き笑ひのやうでもあつた。尼はにこにこ笑ひつづけた。笑つて笑つて笑つてゐるうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の流れるやうな音とともに二寸ほどの人形になつた。僕は片腕をのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。淺黒い頬は笑つたままで凝結し、雨滴ほどの唇は尚うす赤く、けし粒ほどの白い齒はきつちり並んで生えそろつてゐた。粉雪ほどの小さい兩手はかすかに黒く、松の葉ほど細い兩脚は米粒ほどの白足袋を附けてゐた。僕は墨染めのころものすそをかるく吹いたりなどしてみたのである。

底本 / Source edition

底本:「太宰治全集2」筑摩書房
1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「晩年」第一小説集叢書、砂子屋書房
1936(昭和11)年6月25日
初出:「文藝雜誌 第一巻第四号」
1936(昭和11)年4月1日発行
入力:赤木孝之
校正:湯地光弘
1999年7月12日公開
2016年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000272_000035/

太宰 治「陰火」(旧字旧仮名)、底本『太宰治全集2』筑摩書房、1998年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000272_000035, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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