Soranoha

千代女

ちよじょ

太宰 治

女は、やっぱり、駄目なものなのね。女のうちでも、私という女ひとりが、だめなのかも知れませんけれども、つくづく私は、自分を駄目だと思います。そう言いながらも、また、心の隅すみで、それでもどこか一ついいところがあるのだと、自分をたのみにしている頑固がんこなものが、根づよく黒く、わだかまって居るような気がして、いよいよ自分が、わからなくなります。私は、いま、自分の頭に錆さびた鍋なべでも被かぶっているような、とっても重くるしい、やり切れないものを感じて居ります。私は、きっと、頭が悪いのです。本当に、頭が悪いのです。もう、来年は、十九です。私は、子供ではありません。

十二の時に、柏木かしわぎの叔父おじさんが、私の綴方つづりかたを「青い鳥」に投書して下さって、それが一等に当選し、選者の偉い先生が、恐ろしいくらいに褒ほめて下さって、それから私は、駄目になりました。あの時の綴方は、恥ずかしい。あんなのが、本当に、いいのでしょうか。どこが、いったい、よかったのでしょう。「お使い」という題の綴方でしたけれど、私がお父さんのお使いで、バットを買いに行った時の、ほんのちょっとした事を書いたのでした。煙草屋のおばさんから、バットを五つ受取って、緑のいろばかりで淋さびしいから、一つお返しして、朱色の箱の煙草と換えてもらったら、お金が足りなくなって困った。おばさんが笑って、あとでまた、と言って下さったので嬉しかった。緑の箱の上に、朱色の箱を一つ重ねて、手のひらに載せると、桜草さくらそうのように綺麗きれいなので、私は胸がどきどきして、とても歩きにくかった、というような事を書いたのでしたが、何だか、あまり子供っぽく、甘えすぎていますから、私は、いま考えると、いらいらします。また、そのすぐ次に、やっぱり柏木の叔父さんにすすめられて、「春日町かすがちょう」という綴方を投書したところが、こんどは投書欄では無しに、雑誌の一ばんはじめのペエジに、大きな活字で掲載せられて居りました。その、「春日町」という綴方は、池袋の叔母おばさんが、こんど練馬の春日町へお引越しになって、庭も広いし、是非いちど遊びにいらっしゃいと言われて私は、六月の第一日曜に、駒込駅から省線に乗って、池袋駅で東上線に乗り換え、練馬駅で下車しましたが、見渡す限り畑ばかりで、春日町は、どの辺か見当が附かず、野良のらの人に聞いてもそんなところは知らん、というので私は泣きたくなりました。暑い日でした。リヤカアに、サイダアの空瓶を一ぱい積んで曳ひいて歩いている四十くらいの男のひとに、最後に、おたずねしたら、そのひとは淋しそうに笑って、立ちどまり、だくだく流れる顔の汗を鼠ねずみいろに汚れているタオルで拭きながら、春日町、春日町、と何度も呟つぶやいて考えて下さいました。それから、こう言いました。春日町は、たいへん遠いです。そこの練馬駅から東上線で池袋へ行き、そこで省線に乗り換え、新宿駅へ着いたら、東京行の省線に乗り換え、水道橋というところで降りて、とたいへん遠い路みちのりを、不自由な日本語で一生懸命に説明して下さいましたが、どうやらそれは、本郷の春日町に行く順路なのでありました。お話を聞いて、そのおかたが朝鮮のおかたであるということも、私にはすぐにわかりましたが、それゆえいっそう私には有がたくて、胸が一ぱいになったのでした。日本のひとは、知っていても、面倒なので、知らんと言っているのに、朝鮮の此このおかたは、知らなくても、なんとかして私に教えて下さろうとして汗をだらだら流して一生懸命におっしゃるのです。私は、おじさん、ありがとうと言いました。そうして、おじさんの教えて下さったとおりに、練馬駅に行き、また東上線に乗って、うちへ帰ってしまいました。よっぽど、本郷の春日町まで行こうかしらと思いました。うちへ帰ってから、なんだか悲しく具合いのわるい感じでした。私はその事を正直に書いたのです。すると、それが雑誌の一ばんはじめのペエジに大きい活字で印刷されて、たいへんな事になりました。私の家は、滝野川の中里町にあります。父は東京の人ですが、母は伊勢の生れであります。父は、私立大学の英語の教師をしています。私には、兄も姉もありません。からだの弱い弟がひとりあるきりです。弟は、ことし市立の中学へはいりました。私は、私の家庭を決してきらいでは無いのですが、それでも淋しくてなりません。以前はよかった。本当に、よかった。父にも母にも、思うぞんぶんに甘えて、おどけたことばかり言い、家中を笑わせて居りました。弟にも優しくしてあげて、私はよい姉さんでありました。それが、あの、「青い鳥」に綴方を掲載せられてからは、急に臆病な、いやな子になりました。母と、口喧嘩くちげんかをするようにさえなりました。「春日町」が、雑誌に載った時には、その同じ雑誌には、選者の岩見先生が、私の綴方の二倍も三倍も長い感想文を書いて下さって、私はそれを読んで淋しい気持になりました。先生が、私にだまされているのだ、と思いました。岩見先生のほうが、私よりも、ずっと心の美しい、単純なおかただと思いました。それから、また学校では、受持の沢田先生が、綴方のお時間にあの雑誌を教室に持って来て、私の「春日町」の全文を、黒板に書き写し、ひどく興奮なされて、一時間、叱り飛ばすような声で私を、ほめて下さいました。私は息がくるしくなって、眼のさきがもやもや暗く、自分のからだが石になって行くような、おそろしい気持が致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打が無いのがわかっていましたから、この後、下手へたな綴方を書いて、みんなに笑われたら、どんなに恥ずかしく、つらい事だろうと、その事ばかりが心配で、生きている気もしませんでした。また沢田先生だって、本当に私の綴方に感心なさっているのではなく、私の綴方が雑誌に大きい活字で印刷され、有名な岩見先生に褒められているので、それで、あんなに興奮していらっしゃるのだろうという事は、子供心にも、たいてい察しが附いて居りましたから、なおのこと淋しく、たまらない気持でした。私の心配は、その後、はたして全部、事実となってあらわれました。くるしい、恥ずかしい事ばかり起りました。学校のお友達は、急に私によそよそしくなって、それまで一ばん仲の良かった安藤さんさえ、私を一葉さんだの、紫式部さまだのと意地のわるい、あざけるような口調で呼んで、ついと私から逃げて行き、それまであんなにきらっていた奈良さんや今井さんのグルウプに飛び込んで、遠くから私のほうをちらちら見ては何やら囁ささやき合い、そのうちに、わあいと、みんな一緒に声を合せて、げびた囃はやしかたを致します。私は、もう一生、綴方を書くまいと思いました。柏木の叔父さんにおだてられて、うっかり投書したのが、いけなかったのでした。柏木の叔父さんは、母の弟です。淀橋の区役所に勤めていて、ことしは三十四だか五だかになって、赤ちゃんも去年生れたのに、まだ若い者のつもりで、時々お酒を飲みすぎて、しくじりをする事もあるようです。来る度毎に、母から少しずつお金をもらって帰るようです。大学へはいった頃には、小説家になるつもりで勉強して、先輩のひとたちにも期待されていたのに、わるい友達がいた為に、いけなくなって大学も中途でよしてしまったのだ、と母から聞かされた事があります。日本の小説でも、外国の小説でも、ずいぶんたくさん読んでいるようであります。七年前に、私の下手な綴方を無理矢理、「青い鳥」に投書させたのも、此の叔父さんですし、それから七年間、何かにつけて私をいじめているのも、此の叔父さんであります。私は小説を、きらいだったのです。いまはまた違うようになりましたが、その頃は、私のたわいも無い綴方が、雑誌に二度も続けて掲載せられて、お友達には意地悪くされるし、受持の先生には特殊な扱いをされて重苦しく、本当に綴方がいやになって、それからは柏木の叔父さんから、どんなに巧うまくおだてられても、決して投書しようとはしませんでした。あまり、しつこくすすめられると、私は大声で泣いてやりました。学校の綴方のお時間にも、私は、一字も一行いちぎょうも書かず綴方のお帳面に、まるだの三角だの、あねさまの顔だのを書いていました。沢田先生は、私を教員室にお呼びになって、慢心してはいけない、自重せよ、と言ってお叱りになりました。私は、くやしく思いました。けれども、まもなく小学校を卒業してしまいましたので、そのような苦しさからは、どうやら、のがれる事が出来たのでした。お茶の水の女学校に通うようになってからは、クラスの中で、私のつまらない綴方の、当選などを知っていたかたは、ひとりも居りませんでしたので、私は、ほっとしたのです。作文のお時間にも、私は気楽に書いて、普通のお点をもらっていました。けれども、柏木の叔父さんだけは、いつまでも、うるさく私を、からかうのです。うちへいらっしゃる度毎に、三四冊の小説の御本を持って来て下さって、読め、読めと言うのです。読んでみても、私には、むずかしくて、よくわかりませんでしたので、たいてい、読んだ振りして叔父さんに返してしまいました。私が女学校の三年生になった時、突然、「青い鳥」の選者の岩見先生から、私の父に長いお手紙がまいりました。惜しい才能と思われるから、とか何とか、恥ずかしくて、とても私には言えませんけれども、なんだか、ひどく私を褒めて、このまま埋うもらせてしまうのは残念だ、もう少し書かせてみないか、発表の雑誌の世話をしてあげる、というような事を、もったいない叮嚀ていねいなお言葉で、まじめにおっしゃっているのでした。父が、私にそのお手紙を、だまって渡して下さったのです。私はそのお手紙を読ませていただき、岩見先生というお方は本当に、厳粛な、よい先生だとは思いましたが、その裏には叔父さんのおせっかいがあったのだという事も、そのお手紙の文面で、はっきりわかるのでした。叔父さんは、きっと何か小細工をして岩見先生に近づき、こんなお手紙を私の父にお書き下さるようにさまざま計略したのです。それに違いないのです。「叔父さんが、おたのみになったのよ。それにきまっているわ。叔父さんは、どうしてこんな、こわい事をなさるのでしょう。」と泣きたい気持で、父の顔を見上げたら、父も、それはちゃんと見抜いていらっしゃった様子で、小さく首肯うなずき、「柏木の弟も、わるい気でやっているのではないだろうが、こちらでは岩見さんへ、なんと挨拶したものか困ってしまう。」と不機嫌そうにおっしゃいました。父は前から、柏木の叔父さんを、あんまり好いてはいなかったようでした。私が綴方に当選した時なども、母や叔父さんは大へんな喜びかたでありましたけれども、父だけは、こんな刺激の強い事をさせてはいけないとか言って、叔父さんをお叱りになったそうで、あとで母が私に不満そうに言い聞かせてくれました。母は、叔父さんの事をいつも悪く言っていますが、その癖、父が叔父さんの事を一言でも悪く言うと、たいへん怒るのです。母は優しく、にぎやかな、いい人ですが、叔父さんの事になると、時々、父と言い争いを致します。叔父さんは、私の家の悪魔です。岩見先生から、叮嚀なお手紙をもらってから、二三日後に父と母は、とうとう、ひどい言い争いを致しました。夕ごはんの時、父は、「岩見さんが、あんなに誠意を以もって言って下さっているのだし、こちらでも失礼にならないように、私が和子を連れて行って、よく和子の気持も説明して、おわびして来なければならないと思う。手紙だけでは、誤解も生じて、お気をわるくなさる事があったりすると困るから。」とおっしゃったところが、母は伏目になって、ちょっと考えて、「弟が、わるいのです。本当に皆さんに御手数をおかけします。」と言って、顔を挙げ、ひょいと右手の小指でおくれ毛を掻かき上げてから、「私たちは馬鹿のせいか、和子がそんなに有名な先生から褒められると、なんだか此の後もよろしくとお願いしたい気が起って来るのです。伸びるものなら、伸ばしてやりたい気がします。いつも、あなたに叱られるのですけど、あなたも少し、頑固すぎやしませんか。」と早口で言って、薄く笑いました。父は、お箸はしを休めて、「伸ばしてみたって、どうにもなりません。女の子の文才なんて、たかの知れたものです。一時の、もの珍らしさから騒がれ、そうして一生を台無しにされるだけの事です。和子だって、こわがっているのです。女の子は、平凡に嫁いで、いいお母さんになるのが一ばん立派な生きかたです。お前たちは、和子を利用して、てんでの虚栄心や功名心を満足させようとしているのです。」と教えるような口調で言いました。母は、父のおっしゃる言葉をちっとも聞こうとなさらず、腕を伸ばして私の傍の七輪しちりんのお鍋を、どさんと下におろして、あちちと言って右手の親指と人さし指を唇に押し当て、「おう熱い、やけどしちゃった。でも、ねえ、弟だって、わるい気でしているのではないのですからねえ。」とそっぽを向いておっしゃいました。父は、こんどは、お茶碗とお箸を下に置いて、「なんど言ったらわかるのだ。お前たちは、和子を、食いものにしようとしているのだ。」と大きい声でおっしゃって、左手で眼鏡を軽く抑え、それから続けて何か言いかけた時、母は、突然ひいと泣き出しました。前掛まえかけで涙を拭きながら、父の給料の事やら、私たちの洋服代の事やら、いろいろとお金の事を、とても露骨に言い出しました。父は、顎あごをしゃくって私と弟に、あっちへ行けというような合図をなさいましたので、私は弟をうながして、勉強室へ引き上げましたが、茶の間のほうからは、それから一時間も、言い争いの声が聞えました。母は、普段は、とても気軽な、さっぱりしたひとなのですが、かっと興奮すると、聞いて居られないような極端な荒い事ばかりおっしゃるので、私は悲しくなります。翌あくる日、父は学校のおつとめの帰りに、岩見先生のお家へ、お礼とお詫びにあがったようでした。その朝、父は私にも一緒に行くようにすすめて下さったのですが、私は何だか、こわくて、下唇がぷるぷる震えて、とてもお伺いする元気が出なかったのです。父は、その晩、七時頃にお帰りになって、岩見さんは、まだお年もお若いのに、なかなか立派なお人だ、こちらの気持も充分にわかって下さって、かえって向うのほうから父にお詫びを言って、自分も本当は女のお子さんには、あまり文学をすすめたくないのだ、とおっしゃって、はっきり名前は言わなかったが、やはり柏木の叔父さんから再三たのまれて、やむなく父に手紙を書いた御様子であった、と父は、母と私に語って下さいました。私は、父の手を、つねりましたら、父は、眼鏡の奥で、そっと眼をつぶって笑って見せました。母は、何事も忘れたような、落ちついた態度で、父の言葉にいちいち首肯いて、別に、なんにも言いませんでした。

それから暫しばらくの間は、叔父さんもあまり姿を見せませんでしたし、おいでになっても、私にはへんによそよそしくなさって、すぐにお帰りになりました。私は、綴方の事は、きれいに忘れて、学校から帰ると、花壇の手入れ、お使い、台所のお手伝い、弟の家庭教師、お針、学課の勉強、お母さんに按摩あんまをしてあげたり、なかなかいそがしく、みんなの役にたって、張り合いのある日々を送りました。

あらしが、やって来ました。私が女学校四年生の時の事でしたが、お正月にひょっくり、小学校の沢田先生が、家へ年賀においでになって、父も母も、めずらしがるやら、なつかしがるやら、とても喜んでおもてなし致しましたが、沢田先生は、もうとっくに、小学校のほうはお止よしになって、いまは、あちこちの、家庭教師をしながら、のんきに暮していらっしゃるというお話でありました。けれども、私の感じたところでは、失礼ながら、のんきそうには見えず、柏木の叔父さんと同じくらいのお年としの筈はずなのに、どうしても四十過ぎの、いや、五十ちかくのお人の感じで、以前も、老けたお顔のおかたでありましたが、でも、この四、五年お逢いせずにいる間に、二十もお年をとられて疲れ切っているように見受けられました。笑うのにも力が無く、むりに笑おうとなさるので、頬に苦しい固い皺しわが畳たたまれて、お気の毒というよりは、何だかいやしい感じさえ致しました。おつむは相変らず短く丸刈にして居られましたが、白髪しらががめっきりふえていました。以前と違って、矢鱈やたらに私にお追従ついしょうばかりおっしゃるので、私は、まごついて、それから苦しくなりました。きりょうが良いの、しとやかだのと、聞いて居られないくらいに見え透いたお世辞をおっしゃって、まるで私が、先生の目上めうえの者か何かみたいに馬鹿叮嚀な扱いをなさるのでした。父や母に向って、私の小学校時代の事を、それはいやらしいくらいに、くどくどと語り、私が折角せっかくいい案配に忘れていたあの綴方の事まで持ち出して、全く惜しい才能でした、あの頃は僕も、児童の綴方に就いては、あまり関心を持っていなかったし、綴方に依よって童心を伸ばすという教育法も存じませんでしたが、いまは違います。児童の綴方に就いて、充分に研究も致しましたし、その教育法に於いても自信があります。どうです、和子さん、僕の新しい指導のもとに、もう一度、文章の勉強をなさいませぬか、僕は、必ずや、などとずいぶんお酒に酔ってもいましたが、大袈裟おおげさな事を片肘かたひじ張って言い出す仕末で、果ては、さあ僕と握手をしましょうと、しつこくおっしゃるので、父も母も、笑っていながら内心は、閉口していた様子でありました。けれども、その時、沢田先生が酔っておっしゃった事は、口から出まかせの冗談では無かったのです。それから十日ほど経ったら、また仔細しさいらしい顔つきをして、家へおいでになって、さて、それでは少しずつ、綴方の基本練習をはじめましょうね、とおっしゃったので、私は、まごついてしまいました。後でわかった事ですが、沢田先生は、小学校で生徒の受験勉強の事から、問題を起し、やめさせられ、それから、くらしが思うように行かず、昔の教え子の家を歴訪しては無理矢理、家庭教師みたいな形になりすまし、生活の方便にしていらっしゃったというような具合いなのでした。お正月においでになって、その後すぐに私の母へ、こっそりお手紙を寄こした様子で、私の文才とやらいうものを褒めちぎり、また、そのころ起った綴方の流行、天才少女とかの出現などを例に挙げて、母をそそのかし、母もまた以前から、私の綴方には未練があったものですから、それでは一週にいちどくらい家庭教師としておいで下さるようにと御返事して、父には、沢田先生のおくらしを、少しでもお助けするためです、と言い張って、父も、沢田先生は昔の和子の先生ですから、それはいけないとも言えなかった様子で、しぶしぶ沢田先生をお迎えするというような事情だったらしいのでございます。沢田先生は、土曜日毎にお見えになり、私の勉強室でひそひそ、なんとも馬鹿らしい事ばかりおっしゃるので、私は、いやでなりませんでした。文章というものは、第一に、てにをはの使用を確実にしなければならぬ、等と当り前の事を、一大事のように繰り返し繰り返しおっしゃって、太郎は庭を遊ぶというのは、あやまり。太郎は庭へ遊ぶというのも、やっぱり、あやまり。太郎は庭にて遊ぶといわなければいけないのだそうで、私が、くすくす笑うと、とても、うらめしそうな目つきで、私の顔を穴のあくほど見つめて、ほうと溜息をつき、あなたには誠実が不足している、いかに才能が豊富でも、人間には誠実がなければ、何事に於いても成功しない、あなたは寺田まさ子という天才少女を知っていますか、あの人は、貧しい生れで、勉強したくても本一冊買えなかったほど、不自由な気の毒な身の上であった、けれども誠実だけはあった、先生の教えをよく守った、それゆえ、あれほどの名作を完成できたのです、教える先生にしても、どんなに張り合いのあった事でしょう、あなたに、もうすこし誠実というものがあったならば、僕だって、あなたを寺田まさ子さんくらいには仕上げて見せます、いや、あなたは環境にめぐまれてもいるし、もっと大きな文章家に仕上げる事が出来るのです、僕は、寺田まさ子さんの先生よりも或ある点で進歩しているつもりです、それは徳育という点であります、あなたは、ルソオという人を知っていますか、ジャン・ジャック・ルソオ、西暦千六百、いや、西暦千七百、千九百、笑いなさい、うんと笑いなさい、あなたは自分の才能にたよりすぎて、師を軽蔑しているのです、むかし支那に顔回がんかいという人物がありました、等といろんな事を言い出して一時間くらい経つと、けろりとして、また此の次の事にしましょうと言って私の勉強室から出て行かれ、茶の間で母と世間話をなさって帰ります。小学校の時に、多少でもお世話になった先生の事を、とやかく申し上げるのは悪い事でございますが、本当に、沢田先生は、ぼけていらっしゃるとしか私には思えませんでした。文章には描写が大切だ、描写が出来ていないと何を書いているのかわからない、等と、もっとも過ぎるような事を、小さい手帖を見ながら、おっしゃって、たとえば此の雪の降るさまを形容する場合、と言って手帖を胸のポケットにおさめ、窓の外で、こまかい雪が芝居のようにたくさん降っているさまを屹きっと見て、雪がざあざあ降るといっては、いけない。雪の感じが出ない。どしどし降る、これも、いけない。それでは、ひらひら降る、これはどうか。まだ足りない。さらさら、これは近い。だんだん、雪の感じに近くなって来た。これは、面白い、とひとりで首を振りながら感服なさって腕組みをし、しとしとは、どうか、それじゃ春雨の形容になってしまうか、やはり、さらさらに、とどめを刺すかな? そうだ、さらさらひらひら、と続けるのも一興だ。さらさらひらひら、と低く呟いてその形容を味わい楽しむみたいに眼を細めていらっしゃる、かと思うと急に、いや、まだ足りない、ああ、雪は鵝毛がもうに似て飛んで散乱す、か。古い文章は、やっぱり確実だなあ、鵝毛とは、うまく言ったものですねえ、和子さん、おわかりになったでしょう? と、はじめて私のほうへ向き直っておっしゃるのです。私は、なんだか先生が気の毒なやら、憎らしいやらで、泣きそうになりました。それでも三箇月間ほど我慢して、そんな侘わびしい、出鱈目でたらめの教育をつづけて受けて居りましたが、もう、なんとしても、沢田先生のお顔を見るのさえ、いやになって、とうとう父に洗いざらい申し上げ、沢田先生のおいでになるのをお断りして下さるようにお願い致しました。父は私の話を聞いて、それは意外だ、とおっしゃいました。父は、もともと、家庭教師を呼ぶ事には反対だったのですが、沢田先生のおくらしの一助という名目めいもくに負けて、おいでを願う事にしていたのであって、まさか、そんな無責任な綴方教育を授けているとは思いも寄らず、毎週いちど、少しは和子の学課の勉強の手伝いをして下さっているものとばかり思っていた様子でした。さっそく母と、ひどい言い争いになりました。茶の間の言い争いを、私は勉強室で聞きながら、思うぞんぶんに泣きました。私の事で、こんな騒ぎになって、私ほど悪い不孝な娘は無いという気がしました。こんな事なら、いっそ、綴方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさえ思いましたが、私は、だめなのです。もう、ちっとも何も書けないのです。文才とやらいうものは、はじめから無かったのです。雪の降る形容だって、沢田先生のほうが、きっと私より上手なのでしょう。私は、自分では何も出来やしない癖くせに、沢田先生を笑ったりして、なんという馬鹿な娘でしょう。さらさらひらひらという形容さえ、とても私には、考えつかぬ事だった。私は、茶の間の言い争いを聞きながら、つくづく自分をいけない娘だと思いました。

その時は、母も父に言い負けて、沢田先生も姿を見せなくなりましたが、悪い事が、つづいて起りました。東京の深川で、金沢ふみ子という十八の娘さんが、たいへん立派な文章を書いて、それが世間の大評判になったのでした。そのひとの本が、どんな偉い小説家の本よりも、はるかに多く売れて、一躍、大金持になったという噂うわさを、柏木の叔父さんが、まるで御自分が大金持にでもなったみたいに得意顔で家へやって来られて、母に話して聞かせたので、母は、また興奮して、和子だって書けば書ける文才があるのに、どうしてこうかねえ、いまは昔とちがって、女だからとて家にひっこんでばかりいてはいけない、ひとつ柏木の叔父さんから教わって、書いてみたらいい、柏木の叔父さんは、沢田先生なんかと違って、大学まですすんだ人だから、それは、何と言ったって、たのもしいところがあります、そんなにお金になるんだったら、お父さんだって大目おおめに見てくれますよ、とお台所のあとかたづけをしながら、たいへん意気込んでおっしゃるのです。柏木の叔父さんは、その頃からまた、私の家へ、ほとんど毎日のようにお見えになり、私を勉強室へひっぱって行って、まず日記を書け、見たところ感じたところを、そのまま書いたら、それでもう立派な文学だ、等とおっしゃって、それから何やらむずかしい理窟りくつをいろいろと言い聞かせるのですが、私には、てんで書く気が無かったので、いつも、いい加減に聞き流していました。母は興奮しては、すぐ醒めるたちなので、その時の興奮も、ひとつきくらいつづいて、あとは、けろりとしていましたが、柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になるより他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進しょうじんするより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そんなにまで、ひどく言われると、いい気持がしないらしく、そうかねえ、それじゃ和子が可哀想じゃないか、と淋しそうに笑いながら言いました。

叔父さんの言葉が、あたっていたのかも知れません。私はその翌年に女学校を卒業して、つまり、今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或あるいはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。私は、だめな女です。きっと、頭が悪いのです。自分で自分が、わからなくなって来ました。女学校を出たら、急に私は、人が変ってしまいました。私は、毎日毎日、退屈です。家事の手伝いも、花壇の手入れも、お琴の稽古けいこも、弟の世話も、なんでも、みんな馬鹿らしく、父や母にかくれて、こっそり蓮葉な小説ばかり読みふけるようになりました。小説というものは、どうしてこんなに、人の秘密の悪事ばかりを書いているのでしょう。私は、みだらな空想をする、不潔な女になりました。いまこそ私は、いつか叔父さんに教えられたように、私の見た事、感じた事をありのままに書いて神様にお詫びしたいとも思うのですが、私には、その勇気がありません。いいえ、才能が無いのです。それこそ頭に錆さびた鍋なべでも被かぶっているような、とってもやり切れない気持だけです。私には、何も書けません。このごろは、書いてみたいとも思うのです。先日も私は、こっそり筆ならしに、眠り箱という題で、たわいもない或る夜の出来事を手帖に書いて、叔父さんに読んでもらったのでした。すると叔父さんは、それを半分も読まずに手帖を投げ出し、和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と興醒めた、まじめな顔をして言いました。それからは、叔父さんが、私に、文学というものは特種の才能が無ければ駄目なものだと、苦笑しながら忠告めいた事をおっしゃるようになりました。かえって、いまは父のほうが、好きならやってみてもいいさ、等と気軽に笑って言っているのです。母は時々、金沢ふみ子さんや、それから、他の娘さんでやっぱり一躍有名になったひとの噂を、よそで聞いて来ては興奮して、和子だって、書けば書けるのにねえ、根気こんきが無いからいけません、むかし加賀の千代女が、はじめてお師匠さんのところへ俳句を教わりに行った時、まず、ほととぎすという題で作って見よと言われ、早速さまざま作ってお師匠さんにお見せしたのだが、お師匠さんは、これでよろしいとはおっしゃらなかった、それでね、千代女は一晩ねむらずに考えて、ふと気が附いたら夜が明けていたので、何心なく、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と書いてお師匠さんにお見せしたら、千代女でかした! とはじめて褒められたそうじゃないか、何事にも根気が必要です、と言ってお茶を一と口のんで、こんどは低い声で、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と呟つぶやき、なるほどねえ、うまく作ったものだ、と自分でひとりで感心して居られます。お母さん、私は千代女ではありません。なんにも書けない低能の文学少女、炬燵こたつにはいって雑誌を読んでいたら眠くなって来たので、炬燵は人間の眠り箱だと思った、という小説を一つ書いてお見せしたら、叔父さんは中途で投げ出してしまいました。私が、あとで読んでみても、なるほど面白くありませんでした。どうしたら、小説が上手になれるだろうか。きのう私は、岩見先生に、こっそり手紙を出しました。七年前の天才少女をお見捨てなく、と書きました。私は、いまに気が狂うのかも知れません。

底本 / Source edition

底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年1月28日公開
2005年10月27日修正
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TEI
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書誌 / Bibliography
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太宰 治「千代女」(新字新仮名)、底本『太宰治全集4』ちくま文庫、筑摩書房、1988年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000248_000035, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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