その日も、明けがたまでは雨になるらしく見えた空が、<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな秋の朝の光となっていた。

咳の出ない時は仰向けに寝ているのがよかった。そうしたままで<ruby><rb>清逸</rb><rt>せいいち</rt></ruby>は首だけを腰高窓の方に少しふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままに<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>に立った。その帰りに空模様を見ようとして、一枚<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。

隣りの部屋は戸を開け放って戸外のように明るいのだろう。そうでなければ柿江も西山もあんな騒々しい声を立てるはずがない。早起きの西山は朝寝の柿江をとうとう起してしまったらしい。二人は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>とゆうべの議論の続きらしいことを<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている。やがて、

「おい、そのばか<ruby><rb>馬</rb><rt>ま</rt></ruby>をこっちに投げてくれ」

という西山の声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

ゆうべ、柿江のはいているぼろ<ruby><rb>袴</rb><rt>ばかま</rt></ruby>に眼をつけて、袴ほど今の世に無意味なものはない。袴をはいていると<ruby><rb>白痴</rb><rt>はくち</rt></ruby>の馬に乗っているのと同じで、腰から下は自分のものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山がいったのを、清逸は思いだしたのだ。

隣のドアがけたたましく開いたと思うと清逸のドアがノックされた。

「星野、今日はどうだ。まだ起きられんのか」

そう廊下から不必要に大きな声を立てたのは西山だった。清逸は聞こえる聞こえないもかまわずに、障子を見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分はどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考えてみねばならぬことが多かった。

けれども西山たちの足音が玄関の方に遠ざかろうとすると、清逸は浅い物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪にさえ思われることだった。で、自分を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めている<ruby><rb>蝿</rb><rt>はえ</rt></ruby>に強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から老人のようにしわがれた<ruby><rb>虚</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな声の放たれるのを<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しく聞いた。

「さあ園の奴まだいたかな」

そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階から<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>りてきた。

「星野、園はいたからそういっておいたぞ」

その声は玄関の方から叫ばれた。<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>に何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。

清逸の心はこのささやかな<ruby><rb>攪拌</rb><rt>かくはん</rt></ruby>の後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>に向けた顔をまた障子の方に向けなおした。

十月の始めだ。けれども札幌では十分朝寒といっていい時節になった。清逸は綿の重い掛蒲団を頸の所にたくし上げて、軽い<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>を二つ三つした。冷えきった空気が障子の所で少し暖まるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静かに動いていた。黄色く光る障子を背景にして、<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>のように黒く点ぜられたその蝿は、六本の脚の微細な動きかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番前の両脚と、一番後ろの両脚とをかたみがわりに拝むようにすり合せて、それで頭を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でたり、羽根をつくろったりする動作を根気よく続けては、何んの必要があってか、素早くその位置を二三寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置に真白く光る像が残った。それが不思議にも清逸の注意を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけたのだ。<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>では生活の営みがいろいろな物音を立てているのに、清逸の部屋の中は秋らしくもの静かだった。清逸は自分の心の澄むのを部屋の空気に感ずるように思った。

やはりおぬいさんは園に頼むが一番いい。柿江はだめだ。西山でも悪くはないが、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>さはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山は<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>なようで油断のならないところがある。あの男はこうと思いこむと事情も顧みないで実行に移る<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>だ。人からは放漫と思われながら、いざとなると大掴みながらに急所を押えることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。……

蝿が素早く居所をかえた。

俺はおぬいさんを要するわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性に眼を与えることなどは知らない。それだから平気でたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見る時、少し上気した皮膚の中から大きく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つやつや</span>しく輝いて、ある<ruby><rb>羞</rb><rt>はにか</rt></ruby>みを感じながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼を信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切っている。おぬいさんは何にも知らないのだ。

蝿がまた動いた。軽い音……

おぬいさんのその眼のいうところを心に気づかせるのは俺にとっては何んでもないことだ。それは今までも俺にはかなりの誘惑だった。……

清逸はそこまで考えてくると眼の前には障子も蝿もなくなっていた。彼の空想の魔杖の一振りに、真白な<ruby><rb>百合</rb><rt>ゆり</rt></ruby>のような大きな花がみるみる<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>の弱々しさから日輪のようにかがやかしく開いた。清逸は香りの高い<ruby><rb>蕊</rb><rt>しべ</rt></ruby>の中に顔を埋めてみた。<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>すような、焼くような、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>るような、悲しくさせるようなその香り、……その花から、まだ誰も<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>がなかった高い香り……清逸はしばらく自分をその空想に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れさせていたが、心臓の鼓動の高まるのを感ずるやいなや、振り捨てるように空想の花からその眼を遠ざけた。

その時蝿は右の方に位置を移した。

清逸の心にある未練を残しつつその<ruby><rb>万花鏡</rb><rt>まんげきょう</rt></ruby>のような花は跡形もなく消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せた。

園ならばいい。あの純粋な園にならおぬいさんが与えられても俺には不服はない。あの二人が恋し合うのは見ていても美しいだろう。二人の心が両方から自然に開けていって、ついに驚きながら喜びながら互に抱き合うのはありそうなことであって、そしていいことだ。俺はとにかく誘惑を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けよう。俺はどれほど<ruby><rb>蠱惑的</rb><rt>こわくてき</rt></ruby>でもそんなところにまごついてはいられない。しかも今のところおぬいさんは処女の美しい純潔さで俺の心を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけるだけで、これはいつかは破れなければならないものだ。しかしそれは誘惑には違いないが、それだけの好奇心でおぬいさんの心を俺の方に眼ざめさすのは<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>だ。……

清逸はくだらないことをくよくよ考えたと思った。そして前どおりに障子にとまっている一匹の蝿にすべての注意を向けようとした。

しかも園が……清逸が十二分の自信をもって掴みうべき機会を……今までの無興味な学校の課業と、暗い淋しい心の苦悶の中に、ただ一つ<ruby><rb>清浄無垢</rb><rt>せいじょうむく</rt></ruby>な光を投げていた処女を根こそぎ取って園に与えるということは……清逸は何んといっても<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな未練を感じた。そして未練というものは微かであっても堪えがたいほどに<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い……。清逸はふとこの間読み終ったレ・ミゼラブルを思いだしていた。老いたジャン・ヷルジャンが、コーセットをマリヤスに与えた時の心持を。

<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を規律正しく静かに降りてくる足音がして、やがてドアが軽くたたかれた。

その瞬間清逸は深く自分を恥じた。それまで彼を困らしていた未練は影を隠していた。

顔は十七八にしか見えないほど若く、それほど規則正しい若さの整いを持っているが、二十二になったばかりだと思えないくらい落ちつきの備わった園の小さな姿が、清逸の寝床近くきちんと坐ったらしかった。

清逸は園が側近く来たのを知ると、なぜともなく心の中が暖まるのを覚えて、今までの物臭さに似ず、急いで窓から戸口の方に寝返った。が、それまで<ruby><rb>眩</rb><rt>まば</rt></ruby>ゆい日の光に慣れていた眼は、そこに瞳を痛くする暗闇を見出だすばかりだった。その暗闇のある一点に、見つづけていた蝿が小さく金剛石のように光っていた。

「学校は休んだの」

眼をつぶりながら、それと思わしい方に顔を向けて清逸はいってみた。

「一時間目は吉田さんだから……僕に用というのは何？」

低いけれど澄んだ声、それは園のものだ。

「そうか。吉田のペンタゴンか。カルキュラスもあんないい加減ですまされては困るな。高等数学はしっかり解っておく必要があるんだが……」

清逸は当面の用事をそっちのけにしてこんなことをいった。そんなことを言いながら、吉田教授をぺンタゴンという異名で呼んだのが園に対して気がひけた。吉田というのは、まだ若くって頭のいい人だったが、北海道というような処に<ruby><rb>赴任</rb><rt>ふにん</rt></ruby>させられたのが不満であるらしく、ややともすると肝心な授業を捨てておいて、旧藩主の奥御殿に起ったという怪談めいた話などをして、学生を笑わせている人だった。そうした人に対しても、園は異名を用いて<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>することなどは絶えてしなかった。

「ほんとに困る。しかしどうせ何んでも自分でやらないじゃならない学校だからかまわないといえばかまわないことだが……今日は少しはいいの」

澄んで底力のある声が、清逸の眼にだんだん明瞭な姿を取ってゆく園の方から静かに響いた。健康を<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねられると清逸はいつでも不思議にいらだった。それに答える代りに、何んとなくいい渋っていた肝心の用事を切りだすほかはなくなった。清逸は首をもたげ加減にして、机の方に眼をやった。そしてその引き出しの中にある手紙を出してくれと頼んでしまった。

園はすぐ机の方に手を延ばして、引き出しを開けにかかった。その時清逸は、自分の瞳が光って、園の方にある鋭い注意を投げているのを気づかずにはいられなかった。園が手紙を取りだした時、星野とだけ書いてある封筒の裏が上になっていたので、名宛人が誰であるかはもとより判りようはずがないのに、園の顔にはふとある混乱が浮んだようにも思え、少しもそんなことがないようにも清逸には思えた。清逸はまたかかることに注意する自分を<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なく思った。そして思わずいらいらした。

「僕はたぶん明日<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>に会いに<ruby><rb>千歳</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>まで帰ってくる。都合ではむこうの滞在が少し長びくかもしれない。できるなら僕は秋のうちに……冬にならないうちに東京に出たいと思っているんだがね。そんなことは貧乏な親父に相談してみたところで<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>は明くまいけれども、順序だから話だけはしてみるつもりなのだ。……でその手紙をおぬいさんにとどけてくれないか。僕は熱があるようだから行かれないと思うから……おぬいさんが聞いたら千歳の番地を知らせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙にも書いておいたが、僕の留守の間、おぬいさんの英語を君に見てもらうわけにはいかないかね」

いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>みかけるようにいって<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ち明けないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉の中に自分を苦しめたり<ruby><rb>鞭</rb><rt>むちう</rt></ruby>ったりする多くのものが潜んでいるのだ。

清逸は何んということなく園から眼を放して仰向けに天井を見た。白い安西洋紙で張りつめた天井には鼠の尿ででもあるのか、雲形の<ruby><rb>汚染</rb><rt>しみ</rt></ruby>がところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り<ruby><rb>小法師</rb><rt>こぼし</rt></ruby>の喰いついた形、<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪な形を清逸は順々に眺めはじめた。

さすがの園もいろいろな意味で少し驚いたらしかった。最後の瞬間までどんなことでも胸一つに<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>めておいて、切りだしたら最後貫徹しないではおかない清逸の平生を知らない園ではないはずだ。だがあの健康で明日突然千歳に帰るということも、おぬいさんに英語を教えろということも、すべてがあまりに突然に思えたらしかった。清逸が、象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形から醜い女の顔の形へ視線を移したころ、

「では君もいよいよ東京に行くの」

と園が言った。そしておぬいさんの手紙を素直に洋服の内<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>にしまいこんだ。

園はおぬいさんに<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけられている、おぬいさんについては一言もいわないではないか。……清逸はすぐそう思った。それともおぬいさんにはまったく<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんちゃく</rt></ruby>なのか。とにかくその人の名を園の口から聞かなかったのは……それはやはり物足らなかった。園の感情がいくらかでも動くのを清逸は感じたかったのだ。

「西山君も行くようなことをいっていたが……」

園は間をおいてむりにつけ足すようにこれだけのことをいった。

西山がそんなたくらみをしているとは清逸の知らないことだった。清逸は心の奥底ではっと思った。自分の思い立ったことを西山づれに<ruby><rb>魁</rb><rt>さきが</rt></ruby>けされるのは、清逸の気性として出抜かれたというかすかな不愉快を感じさせられた。

「もっとも西山君のことだから、言いたい放題をいっているかもしれないが……」

清逸の心の裏をかくとでもいうような言葉がしばらくしてからまた園の唇を<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れた。清逸はかすかに苦しい顔をせずにはいられなかった。

二時間目の授業が始まるからといって園が座を立ったあと、清逸は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をしたいような衝動を感じた。それが悪るかった。自然に溜息が出たあとに味われるあの特殊な淋しいくつろぎは感ずることができなかった。園が出ていった戸口の方にもの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>い視線を送りながら、このだだ広い汚ない家の中には自分一人だけが残っているのだなとつくづく思った。

ふと身体じゅうを内部から軽く<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>すような熱感が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>してきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によって<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>まれていきつつあるということを思い知らせた。<ruby><rb>喀血</rb><rt>かっけつ</rt></ruby>の前にはきっとこの感じが先駆のようにやってくるのだった。

清逸はわざと<ruby><rb>没義道</rb><rt>もぎどう</rt></ruby>に身体を窓の方に激しく振り向けてみた。窓の障子はだいぶ高くなった日の光で前よりもさらに黄色く輝いていた。

しかしどこに行ったのか、かの一匹の蝿はもうそこにはいなかった。

＊　　　　＊　　　　＊

“Magna est veritas,et praevalebit\.”

それが<ruby><rb>銘</rb><rt>めい</rt></ruby>だった。園はその夜<ruby><rb>拉典</rb><rt>ラテン</rt></ruby>語の字書をひいてはっきりと意味を知ることができた。いい言葉だと思った。

段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、<ruby><rb>手欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな<ruby><rb>歯車</rb><rt>はぐるま</rt></ruby>や<ruby><rb>槓杆</rb><rt>てこ</rt></ruby>の簡単な機械が、どろどろに<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると<ruby><rb>指針盤</rb><rt>ししんばん</rt></ruby>の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の<ruby><rb>樺色</rb><rt>かばいろ</rt></ruby>の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが<ruby><rb>土筆草</rb><rt>つくし</rt></ruby>のように<ruby><rb>叢</rb><rt>むら</rt></ruby>がって細長く立っていた。それらの上には春の大空。光と軟かい空気とが小さな窓から<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>めいて流れこんだ。

機械室から<ruby><rb>暗窖</rb><rt>グランド・セラー</rt></ruby>のように暗みわたった下の方へ向けて、太い二本の麻縄が垂れ下り、その一本は下の方に、一本は上の方に静かに動いていた。縄の末端に結びつけられた<ruby><rb>重錘</rb><rt>おもり</rt></ruby>の重さの相違で縄は動くのだ。縄が動くにつれて歯車は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりきり</span>と低い音を立てて廻る。

左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な<ruby><rb>鐘銘</rb><rt>しょうめい</rt></ruby>に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。“Magna est veritas,et praevalebit\.”……園にはどうしても最後の字の意味が考えられなかった。写真で見る米国の自由の鐘のように下の方でなぞえに裾を拡げている。その拡がり方といい<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。

農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないでここまで昇る好奇心を起したことだろう。修繕師のほかには一人もなかったかもしれない。そして何年前に最後の修繕師がここに昇ったのだろう。

札幌に来てから園の心を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、<ruby><rb>梵鐘</rb><rt>ぼんしょう</rt></ruby>の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。

ことに冬、真昼間でも夕暮れのように天地が暗らみわたって、吹きまく吹雪のほかには何の物音もしないような時、風に<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みちぎられながら澄みきって響いてくるその音を聞くと、園の心は涼しくひき締った。そして熱いものを眼の中に感ずることさえあった。

夢中になってシラーの詩に読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた園は、思いもよらぬ不安に襲われて詩集から眼を放して機械を見つめた。今まで安らかに単調に秒を刻んでいた歯車は、きゅうに<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>苦しそうにきしみ始めていた。と思う間もなく突然暗い物隅から細長い鉄製らしい棒が走りでて、眼の前の鐘を<ruby><rb>発矢</rb><rt>はっし</rt></ruby>と打った。狭い機械室の中は響だけになった。園の身体は強い細かい空気の震動で四方から押さえつけられた。また打つ……また打つ……ちょうど十一。十一を打ちきるとあとにはまた歯車のきしむ音がしばらく続いて、それから元どおりな規則正しい音に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

あまりの<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>さに園はしばらく<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていた。明治三十三年五月四日の午前十一時、――その時間は<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>の前にもなければ永劫の後にもない――が現われながら消えていく……園は時間というものをこれほどまじまじと見つめたことはなかった。

心から後悔して園は詩集を伏せてしまった。この学校に学ぶようになってからも、園には別れがたい文学への<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>があった。捨てよう捨てようと思いながら、今までずるずるとそれに引きずられていた。一事に没頭しきらなければすまない。一人の科学者に詩の要はない。科学を詩としよう。歌としよう。園は読みなれた詩集を<ruby><rb>燔牲</rb><rt>はんせい</rt></ruby>のごとくに機械室の梁の上に残したまま、足場の悪い階子段を静かに下りた。

“Magna est veritas,et praevalebit\.”

その夜彼はこの鐘銘の意味をはっきり知った。いい言葉だと思った。「真理は大能なり、真理は支配せん」と訳してみた。一人の科学者にとってはこれ以上に<ruby><rb>尊</rb><rt>とおと</rt></ruby>い<ruby><rb>箴言</rb><rt>しんげん</rt></ruby>はない。そして科学者として立とうとしている以上、今後は文学などに未練を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐ<ruby><rb>姑息</rb><rt>こそく</rt></ruby>を自分に許すまいと決心したのだった。

＊　　　　＊　　　　＊

札幌に来る時、母が<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>にくれた小形の銀時計を出してみると四時半近くになっていた。その時計はよく狂うので、あまりあてにはならなかったけれど、反射鏡をいかに調節してみても、クロモゾームの配列の具合がしっかりとは見極められないので、およその時間はわかった。園は未練を残しながら顕微鏡の上にベル・グラスを被せた。いつの間にか助手も学生も研究室にはいなかった。夕闇が処まだらに部屋の中には漂っていた。

三年近く被り慣れた大黒帽を被り、少しだぶだぶな焦茶色の出来合い<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着こむともうすることはなかった。廊下に出ると動物学の方の野村教授が、外套の<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の辺で癖のように両手を拭きながら自分の研究室から出てくるのに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>った。教授は不似合な山高帽子を<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に取って、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けきったような鈍重な眼を強度の近眼鏡の後ろから覗かせながら、<ruby><rb>含羞</rb><rt>はにか</rt></ruby>むように、

「ライプチッヒから本が少しとどきましたから何んなら見にいらっしゃい」

と挨拶して、指の股を思い存分はだけた両手で外套をこすり続けながら忙しそうに行ってしまった。何んのこだわりもなく研究に没頭しきっているような後姿を見送りながら、園は何んとなく恥を覚えた。それは教授に向けられたのか、自分に向けられたのか、はっきりしないような曖昧なものであったが。

時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い<ruby><rb>砥石</rb><rt>といし</rt></ruby>のように<ruby><rb>彎曲</rb><rt>わんきょく</rt></ruby>していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、<ruby><rb>岩倉具視</rb><rt>いわくらともみ</rt></ruby>が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。

芝生代りに校庭に植えられた牧草は、三番刈りの前でかなりの<ruby><rb>丈</rb><rt>た</rt></ruby>けにはなっているが、一番刈りのとはちがって、茎が細々と痩せて、おりからのささやかな風にも揉まれるように<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いていた。そして空はまた雨にならんばかりに曇っていた。何んとなく荒涼とした感じが、もう北国の自然には<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ってきていた。

園の手は自分でも気づかないうちに、外套と制服の<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>をはずして、内<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の中の星野から託された手紙に触れていた。表に「三隅ぬい様」、裏に「星野」とばかり書いてあるその封筒は、滑らかな西洋紙の触覚を手に伝えて、<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>ぬくみになっていた。園は淋しく思った。そして気がついてゆるみかかった歩度を早めた。

<ruby><rb>碁盤</rb><rt>ごばん</rt></ruby>のように規則正しい広やかな札幌の往来を南に向いて歩いていった。ひとしきり明るかった夕方の光は、早くも<ruby><rb>藻巌山</rb><rt>もいわやま</rt></ruby>の黒い姿に吸いこまれて、少し<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がかった空気は夕べを催すと吹いてくる微風に心持ち動くだけだった。店々にはすでに黄色く灯がともっていた。灯がともったその低い家並で挾まれた町筋を、仕事をなし終えたと思しい人々がかなり<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>く往来していた。道庁から退けてきた人、郵便局、裁判所を出た人、そう思わしい人人が弁当の包みを小脇に抱えて、園とすれちがったり、園に追いこされたりした。製麻会社、<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>会社からの帰りらしい職工の群れもいた。園はそれらの人の間を肩を張って歩くことができなかった。だから伏眼がちにますます急いだ。

大通りまで出ると、園は始めて研究室の空気から解放されたような気持ちになった。そして自分が<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町にあまる広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落すことのできないのは、北二条と大通りとの<ruby><rb>交叉点</rb><rt>こうさてん</rt></ruby>にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、静かに、大きく、寂しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>と飾られて……園はこの樹を望みみると、それが経てきた年月の長さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。感激した時の癖として、園はその樹を見るごとに、右手を鍵形に折り曲げて頭の上にさしかざし、二度三度物を打つように烈しく振り<ruby><rb>卸</rb><rt>お</rt></ruby>ろすのだった。

その夕方も園は右手を振ろうとする衝動をどこかに感じたけれども、何かまたはばむものがあってそれをさせなかった。衝動はいたずらに<ruby><rb>内訌</rb><rt>ないこう</rt></ruby>するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。

三隅の家の軒先で、園はもう一度<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の手紙に手をやった。<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>張りの格子戸を開けて、黙ったまま<ruby><rb>三和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>の上に立った。

待ち<ruby><rb>設</rb><rt>もう</rt></ruby>けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある<ruby><rb>紅緒</rb><rt>べにお</rt></ruby>の<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>色に充血していた。

意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教えに来べき日なのだ。

「まあ……どうぞ」

といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。

いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。

客間をも居間をも兼ねた八畳は<ruby><rb>楕円形</rb><rt>だえんけい</rt></ruby>の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが<ruby><rb>鉛墨</rb><rt>えんぼく</rt></ruby>でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が<ruby><rb>赤心</rb><rt>あかしん</rt></ruby>の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たも</span>のちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。

けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な<ruby><rb>嬌羞</rb><rt>はにかみ</rt></ruby>というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。

けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。

「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」

簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。

「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」

「まあ……」

おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。

「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」

そういいながら園は内<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みがそれに<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。

何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。

おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪（ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった）の根にさした銀の平打の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた<ruby><rb>仕草</rb><rt>しぐさ</rt></ruby>から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。

おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。

藍がかってさえ見える黒い<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>ばしこく上下に動いて<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。

「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」

「そういっていました」

園もまともにおぬいさんを見やりながら。

「だいじょうぶでしょうか」

「僕も心配に思っています」

この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。

おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が<ruby><rb>斑</rb><rt>まだ</rt></ruby>らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>くそして<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。

読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>えてそれを机の上に戻した。そして両手で<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。

園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。

「前略この手紙を園君に託してお届けいたし<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて<ruby><rb>喀血</rb><rt>かっけつ</rt></ruby>いたし候ようの始末につき今日は英語の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>休みにいたしたくあしからず<ruby><rb>御容赦</rb><rt>ごようしゃ</rt></ruby>くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても<ruby><rb>御知悉</rb><rt>ごちしつ</rt></ruby>のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の<ruby><rb>畏友</rb><rt>いゆう</rt></ruby>たるべく候（この辺まで進んだ時、おぬいさんが眼を挙げて自分を見たのだと思いながらなお読みつづけた）とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の<ruby><rb>惰眠</rb><rt>だみん</rt></ruby>を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>り<ruby><rb>雌伏</rb><rt>しふく</rt></ruby>しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは<ruby><rb>甫</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの<ruby><rb>齢</rb><rt>よわい</rt></ruby>に達しながら<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>として何事をもなしえざること<ruby><rb>痛悔</rb><rt>つうかい</rt></ruby>の至りに候ことに生来病弱<ruby><rb>事志</rb><rt>ことこころざし</rt></ruby>と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから<ruby><rb>憫</rb><rt>あわれ</rt></ruby>むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に<ruby><rb>屏息</rb><rt>へいそく</rt></ruby>せず<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候

一八九九年十月四日夜

星野生

三隅ぬい様

どんな境遇をも<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎ凌いで進んでいこうとするような<ruby><rb>気禀</rb><rt>きひん</rt></ruby>、いくらか東洋風な志士らしい<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>らない親切心で物をいう先生らしい態度が、<ruby><rb>蒼古</rb><rt>そうこ</rt></ruby>とでも評したいほど枯れた文字の<ruby><rb>背</rb><rt>うし</rt></ruby>ろに燃えていると園は思った。

同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんちゃく</rt></ruby>でいられるだろうか。

園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましい気持が顔へまで<ruby><rb>波及</rb><rt>はきゅう</rt></ruby>するかと思われた。園は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>かなはにかみを覚えた。

園は自分の前にしとやかに坐っているおぬいさんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の<ruby><rb>劇変</rb><rt>げきへん</rt></ruby>しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。

星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……

園は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>ろうはずはもとよりなかった。

けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。

その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え冴えと聞こえてきた。

おぬいさんの家の<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を<ruby><rb>劈</rb><rt>つんざ</rt></ruby>いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。

それは胸の底に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>する星野からの依頼だとはいえ、格別の<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>にもない<ruby><rb>啓蒙的</rb><rt>けいもうてき</rt></ruby>な仕事に時間を潰そうとしていること。それらは<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みられた。

やがて園は<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>するような心持で、努めて心を押し<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。

「話が<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの<ruby><rb>宗旨</rb><rt>しゅうし</rt></ruby>で使う念仏の<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>の音は聞き<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」

ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気<ruby><rb>尤</rb><rt>とが</rt></ruby>めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの<ruby><rb>無駄事</rb><rt>むだごと</rt></ruby>の取りかえしをするようにと、

「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しからず」

とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。

伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。

園は静かに茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い<ruby><rb>毛繻子</rb><rt>けじゅす</rt></ruby>の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。

暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。

きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>が<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。

第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。

大通りまで来て園は突然足をとどめた。おぬいさんの家から遠ざかるにしたがって、小刻みに震う前髪がだんだんはっきりと眼につきだして、とうとうそのまま歩きつづけてはいられなくなったからだ。星野の行ってしまうということだけであの感じやすい心は十分に痛んでいるのだった。それは十分に察していた。察していながら、自分は<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>りをいうにしても断りのいいようもあろうに、あんな最後の言葉を吐いてしまったのだ。けれどもあんな最後の言葉を吐かせたのは誰の罪だろう。たんに英語を園に教えろといった星野にその罪はない。もとよりおぬいさんでもない。あの座敷にいた間じゅう、始終あらぬ方にのみ動揺していた自分の心がさせた<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではなかったか。自分自身を<ruby><rb>鞭</rb><rt>むちう</rt></ruby>たなければならないはずであったのに、その<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>を言葉に含めて、それをおぬいさんの方に投げだしたのではなかったか。そういえば園は千歳の星野の番地をおぬいさんに教えることをせずにあの家を出た。おぬいさんはそれを尋ねはしなかった。尋ねなければ教えるには及ばないと星野はいっていた。だから園は平気でいてもいいようにも思われる。しかし園にあの最後の言葉を投げつけられたおぬいさんがそれを尋ねる余裕を持ちえられるかどうか。……それよりも園はおぬいさんがそれを尋ねるだろうと最後の瞬間まで待ち設けていたのだ。そのことは始めからしまいまで気にかけていたのだ……ある好奇心なしにではなく……しかもとうとう教えずにしまった。そうした仕打ちの後ろには何んにもないといいきることができるか。……園はぐっと胸に手を重くあてがわれたように思った。

またのついでの時に知らせようか。……それではいけない。気がすまない。園は大通りの暗闇の中に立って真黒な地面を見つめながら、右の腕をはげしく三度振り<ruby><rb>卸</rb><rt>お</rt></ruby>ろした。

園はそのままもと来た道に取って返した。

＊　　　　＊　　　　＊

坂というものの一つもない市街、それが札幌だ。<ruby><rb>手稲</rb><rt>ていね</rt></ruby><ruby><rb>藻巌</rb><rt>もいわ</rt></ruby>の山波を西に負って、豊平川を東にめぐらして、大きな原野の片隅に、その市街は植民地の首府というよりも、むしろ気づかれのした若い<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>のようにしだらなく丸寝している。

白官舎はその市街の中央近いとある街路の曲り角にあった。開拓使時分に下級官吏の住居として建てられた四戸の棟割長屋ではあるが、<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>風の規模と豊富だった木材とがその長屋を<ruby><rb>巌丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な丈け高い南京<ruby><rb>下見</rb><rt>したみ</rt></ruby>の二階家に仕立てあげた。そしてそれが舶来の白ペンキで塗り上げられた。その後にできた掘立小屋のような<ruby><rb>柾葦</rb><rt>まさぶ</rt></ruby>き家根の上にその建物は高々と<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。

けれども長い時間となげやりな家主の注意とが残りなくそれを<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>んだ。ずり落ちた<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>は軒に這い下り、そり返った下見板の木目と木節は<ruby><rb>鮫膚</rb><rt>さめはだ</rt></ruby>の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>や吹出物の跡のように、油気の抜けきった白ペンキの<ruby><rb>安白粉</rb><rt>やすおしろい</rt></ruby>に汚なくまみれている。けれども夜になると、どんな闇の夜でもその建物は<ruby><rb>燐</rb><rt>りん</rt></ruby>に<ruby><rb>漬</rb><rt>つ</rt></ruby>けてあったようにほの青白く光る。それはまったく風化作用から来たある化学的の現象かもしれない。「白く塗られたる墓」という言葉が聖書にある……あれだ。

深い綿雲に閉ざされた闇の中を、<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>の群れが途切れては押し寄せ、途切れては押し寄せて、手稲山から白石の方へと秋さびた大原野を駈け通った。<ruby><rb>小躍</rb><rt>こおど</rt></ruby>りするような音を夜更けた札幌の板屋根は反響したが、その音のけたたましさにも似ず、<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>は深まった。<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>……北国に住み慣れた人は誰でも、この<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざ</rt></ruby>かしい冬の先駆の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひずめ</rt></ruby>の音の淋しさを知っていよう。

白官舎の窓――西洋窓を格子のついた腰高窓に改造した――の多くは死人の眼のように暗かったが、東の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れの三つだけは光っていた。十二時少し前に、星野の部屋の戸がたてられて灯が消えた。間もなく西山と柿江とのいる部屋の破れ障子が開いて、西山がそこから頭を突きだして空を見上げながら、大きな声で柿江に何か物を言った。柿江が出てきて、西山と頭をならべた。二人は大きな声をたてて笑った。そして戸をたてた。灯が消えた。

二階の園の部屋は前から戸をたててあったが、その隙間から光が<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れていた。針のように縦に細長い光が。

霰はいつか降りやんでいた。地の底に<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>りこむような寒い<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>がじっと立ちすくんでいた。

農学校の大時計が一時をうち、二時をうち、三時をうった。遠い遠い所で遠吠えをする犬があった。そのころになって園の部屋の灯は消えた。

気づかれのした若い<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>ははじめて深い眠りに落ちた。

＊　　　　＊　　　　＊

「おたけさんのクレオパトラの眼がトロンコになったよ。もう帰りたまえ。星野のいない留守に伴れてきたりすると、帰ってから<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>かれるから」

「柿江、<ruby><rb>貴様</rb><rt>きさま</rt></ruby>はローランの首をちょん切った死刑執行人が何んという名前の男だったか知っているか」

前のは人見が座を立ちそうにしながら、抱きよせたクレオパトラの小さな頭を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でつつ、にやりと<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby><ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いをしているおたけにいった言葉だが、それをおっ<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せるように次の言葉は西山が放った。めちゃくちゃだった。けれども西山は愉快だった。隅の方で、西山が図書館から借りてきたカアライルの<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>革命史をめくっていた園が、ふと顔を上げて、まじまじと西山の方を見続けていた。<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と立ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>と、食い荒した<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>と駄菓子。

柿江は腹をぺったんこに二つに折って、<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>の膝で貧乏ゆすりをしながら、上眼使いに指の爪を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでいた。

ほど遠い所から聞こえてくる鈍い砲声、その間に時々竹を破るように響く小銃、早拍子な流行歌を唄いつれて、往来をあてもなく騒ぎ廻る女房連や町の子の群れ、志士やごろつきで<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>いかえる<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>店、大道演説、三色旗、自由帽、サン・キュロット、ギヨティン、そのギヨティンの形になぞらえて造った玩具や菓子、囚人馬車、護民兵の行進……それが興奮した西山の頭の中で<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね躍っていた。いっしょに演説した奴らの顔、声、西山自身の手振り、声……それも。

「おい、何とか言いな、柿江」

「貴様の演説が一番よかったよ」

柿江は爪を噛みつづけたまま、上眼と横眼とをいっしょにつかって、ちらっと西山を見上げながら、<ruby><rb>途轍</rb><rt>とてつ</rt></ruby>もなくこんなことをいった。

猿みたいだった。少しそねんでいることが知れる。西山は無頓着であろうとした。

「そんなことを聞いているんじゃない。知らずば教えてつかわそう。サムソンというんだ」

綺麗な<ruby><rb>疳高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い、少し<ruby><rb>野趣</rb><rt>やしゅ</rt></ruby>を帯びた笑声が<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>けるように響いた。皆んながおたけの方を見た。人見がこごみ加減に何か話しかけていた。異名ガンベ（ガンベッタの略称）の渡瀬がすぐその側にいて、声を出さずに、醜い顔じゅうを笑いにしていた。

「皆んなちょっと<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>けちょっと聴け、人見が今西山の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしているから……うまいもんだ」

ガンベが両手を高くさし上げて、手の先だけを「お出でお出で」のように振り動かした。部屋じゅうが一時静になった。

声の色はまるで違っていた。人見はしかし西山の癖だけは腹立たしいほどよく呑みこんでいた。

「けれどもです、仏国革命の血はむだに流されはしなかった。人間全体の解放ではなかったかしれない。商工業者のために一般の人民は利用されたのだったかしれない。けれどもです、貴族と富豪と僧侶とは確実にこの地面の上から、この……地面の上から<ruby><rb>一掃</rb><rt>いっそう</rt></ruby>され……」

「ばか！　<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>じみた真似をするない」

西山は<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>らないではいられなかった。今日の演説を座興も座興、一人の女を意識に上せて座興にしようとしている人見の軽薄さにはまったく腹が立った。第一似すぎるほど似ているのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>った。

「けれどもだ、まったくうまいもんだな」

ガンベがそういった。そうして一同が高く笑い崩れるにしたがって、片方の<ruby><rb>牡蠣</rb><rt>かき</rt></ruby>のように<ruby><rb>盲</rb><rt>めし</rt></ruby>いた眼までを輝かして顔だけでめちゃめちゃに笑った。

西山はせきこんでうっかり「けれどもだ」と言おうとしたが、危くそれを呑みこんだ。そしていった。

「俺は不愉快だよこの場合。俺は今日は練習のために演説をやったんじゃないからな。冗談と冗談でない時とはちっと区別して考えるがいいんだ」

園が西山のいきまくのを少し恥じるように書物の方に眼を移した。おたけはぎごちなさそうに人見から少し座をしざった。たった今までの愉快さは西山から逃げていった。西山自身があまりな心のはずみ方に少し不安を抱きはじめた時ではあったが……

「それはそうだ。ひとつ西山のいったことを話題にして話し合ってみよう」

いつも部屋の中でも帽子を取ることをしない小さな森村が、眉と眉との間をびくびく動かしながら、乾ききった唇を大事そうに開け<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てした。

「私もう帰りますわ」

おたけはきゅうにつつましくなった。肉感的に帯の上にもれ上った乳房をせめるようにして手をついていた。西山のけんまくに少し怖れを<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>したらしい。クレオパトラは七歳になったばかりの大きな水晶のような眼を眠そうにしばたたいて、座中の顔を一つ一つ見廻わしていた。

「誰か送ってやれ」

人見が送りたがっているのを知っているから西山はこういった。人見には送らせたくなかったのだ。西山にそういわれると人見はたった今の失敗で<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたらしく自分を<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めようとはしなかった。

送り手の資格について六人の青年の間にしばらく<ruby><rb>冗談口</rb><rt>じょうだんぐち</rt></ruby>が交わされた。六人といっても園だけは何んにもいわなかった。ガンベがいった。

「一番資格のない俺の発言を尊重しろ。人見の奴は口を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っていやがるが貴様は偽善者だからなあ。柿江は途中で道を間違えるに違いないしと。西山、貴様はまた天からだめだ。気まぐれだから送り<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>に化けぬとも限らんよ。おたけさん、まあ一番安全なのは小人森村で、一番思いやりの深いものは聖人園だが、どっちにするかい」

おたけは送ってもらわないでもいいといって、森村と園とを等分に流し<ruby><rb>眄</rb><rt>め</rt></ruby>で見やった。西山はもう万事そんなことに興味を失ってしまった。園が送ることになっておたけといっしょに座を立っていった。その時星野からの葉書を自分の側に坐っていた柿江に何かいいながら手渡した。

とにかく一人の娘の見送手などに選ばれるというのはブルジョア風の名誉にすぎない。

「園にはいやにブルジョア臭いところがあるね」

自分の言葉が<ruby><rb>侮蔑的</rb><rt>ぶべつてき</rt></ruby>に発せられたのを西山は感じた。

「そりゃ貴様、氏と生れださ。貴様のような信州の山猿、俺のようなたたき大工の倅には考えられないこった。ブルジョアといえば森村も生れは土百姓のくせにいやに臭いな」

ガンベはつけつけこういった。

けれどもおたけがいなくなると部屋の調子がいわば一オクターヴ低くなった。その代り誰も彼もが、より誰も彼もらしくなった。会話は自然に纏まって本筋に流れこんだ。人見は軽い機智の使いどころがなくなって蔭に廻った。西山の気分はまた前どおりの黙って坐ってはいられないような興奮に帰っていった。

「そうかなあ」

<ruby><rb>三時下</rb><rt>さんときさが</rt></ruby>ってから<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のような返事をして、森村は眠そうな薄眼をしながらすましていた。

マラーは彼が宮殿と呼ぶ<ruby><rb>襤褸籠</rb><rt>ぼろかご</rt></ruby>のような借家の浴室で、湯にひたりながら書きものをしている。その眼の前の壁には、学校で使い古したらしい<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>の<ruby><rb>大掛図</rb><rt>おおかけず</rt></ruby>が、皺くちゃのまま貼りつけてある。突然玄関の方で、彼の情婦が、聞き慣れない美しい声を持った婦人と<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくいい争っているけはいがする。マラーはしばらくの間眉をひそめて聞耳を立てていたが、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむけ</rt></ruby>に浴漕に浸っているままで大声に情婦を呼びたてる。そして聞き慣れない美しい声の持主というのはジロンド党員の陰謀を密告するために、わざわざカンヌから彼を訪れたのだといって、昨日以来面会を求めている年の若い婦人だと知れる。その婦人に対してある好奇心が動く。破格の面会を許す。

もうそこにはマラーはいない。<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>になって、浴槽から半身を乗りだしたまま、その胸は短剣に貫かれて<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっている。カンヌから来たという美しい処女シャーロット・コルデーは血の気の失せた唇から「私は自分の仕事を<ruby><rb>仕遂</rb><rt>しと</rt></ruby>げてしまった。今度はあなた方の仕事をする番が来た」と言いながら、悪魔のように殺気立った群衆に取り囲まれて保安裁判所に引かれていく……

仏国革命に現われでる代表的人物の中でことに気に入ったマラーの最後のありさまは、これだけ込み入った光景をただ一瞬間に集めて、ともすれば西山の頭にまざまざと浮びでた。それは西山にとってはどっちから見てもこの上なく<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>な壮美な<ruby><rb>印象</rb><rt>イメージ</rt></ruby>だった。西山はしばしばそれに<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>りたてられた。

「そうかなあ」と森村が言ったあとに、言い合わしたような沈黙が来た。その時西山の頭をこの印象が強く占領した。

「西山は本当に東京に行くつもりなのか」

<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の明かなくなったような眼の上に皺を寄せながら森村は西山の方に向いた。それが部屋の沈黙をわずかに破った。西山は声よりも首でよけいうなずいた。今までのばか騒ぎに<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>ず、すべての顔には今までのばか騒ぎに似ぬまじめさと緊張さとが描かれた。

「学資はどうする」

渡瀬が泣きだすとも笑いだすともしれないような顔をした。<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にではあるが彼もその奇怪な性格の中からみごとなものを顔まで浮きださせることがある。その時の顔だ。

西山はそれを感ずると妙に感傷的にさせられていた。

「労働者になるつもりでいればどうにかなるだろう」

もう一度長い沈黙が来た。

「貴様は夢を見ているんじゃあるまいな」

と渡瀬がついに本気になって口を開き始めた。

「今日の演説を聞きながらもそう思ったんだが、社会運動なんてことは実際をいうと、余裕のある人間がすることじゃないかな。ブルジョア気分のものじゃないかな。俺なんかはそんなことは考えもしないがなあ。学問だって俺ゃ勘定ずくでしているんだ。むりでも何んでも大学程度の学問だけはしておかないと、これからはうそだと思うもんだから俺はこうやっているんで、学問の<ruby><rb>尊厳</rb><rt>そんげん</rt></ruby>なんて、そんなものがあるもんかい。それは余裕のある手合いがいうことだ。照り降りなしに一生涯家族まで養おうというにはこれが一番<ruby><rb>元資</rb><rt>もとで</rt></ruby>のかからない近道なんだ。俺にはそれ以上を考える余裕はないよ。俺と同じ境遇の人間を救ってやるの、来るべき時代をどうするのというような余裕は俺には正直なところ出てこないよ。……貴様このカアライルにでもかぶれているととんだ間違いになるぜ。貴様の考えはばかに平民的だが、考え方……考えじゃない、考え方だ……その考え方にどこかブルジョア臭いところがあるんじゃないかなあ」

人見はおかしな男だった。西山には何んとなく気を兼ねていたが、西山がどうかすると受身になりたがるガンベの渡瀬に対して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけつけ</span>と無遠慮をいった。つまり三人は三すくみのような関係にあったのだ。

「新井田の細君の所に行って酒ばかり飲んでうだっているくせに余裕がないはすさまじいぜ」

「貴様はそれだからいけねえ。あれも勘定ずくでやっている仕事なんだ。いまに<ruby><rb>御利益</rb><rt>ごりやく</rt></ruby>が<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われるから見てろ」

「じゃここに来て油を売るのも勘定ずくなのか」

「ばかあいえ。俺だって貴様、俺だって貴様……とにかく貴様みたいな<ruby><rb>偽善者</rb><rt>ぎぜんしゃ</rt></ruby>は<ruby><rb>千篇一律</rb><rt>せんぺんいちりつ</rt></ruby>だからだめだよ……なあ西山」

<ruby><rb>牡蠣</rb><rt>かき</rt></ruby>のような片目が特別に光って西山の方に飛んできた。不思議だった。西山は涙を感じた。

森村が眠そうな顔をしながら会心の笑みのようなものを<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らした。そしてしびれでも切らしたようにゆっくり立ち上って、ろくろく挨拶もせずに帰っていった。十時近いことが知れた。森村はどんなことがあっても十時にはきっと寝る男だったから。西山の演説を主題にして論じようといっておきながら、知らん顔をして帰っていった。

「ガンベのいうことはそりゃあんまり偽悪的じゃないか。そうだろう。俺が今日いったような考えはすべての階級の人間が多少ずつは持ってるんだ。そう俺は思うな――というより断言できる。俺は何しろ星野に今日の演説を聞いてもらいたかった。とにかく俺はやってみる。こんな処で神妙に我慢していることはもう俺には、どうしてもできんよ。ちっとやそっとの横文字の読める百姓になったところで貴様、それが何んの足しになるかさ。東京に行ってひとつ俺は<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れ放題に暴れるだ。何をやったっても人間一生だ。手ごたえのある処にいって暴れてみないじゃ腹の虫が承知しないからな。けれどもだ。ペンタゴンなんか相手にしていたんじゃなあ……柿江なんぞも、田舎新聞にひとりよがりな投書ぐらい載せてもらって得意になっていないで、ちっと眼を高所大所に向けてみろ。……何んといってもそこに行くと星野は話せるよ」

ガンベは実際どこかに堅実なところがあって、それが言葉になるとうっかり矢面には立てなかった。今の言葉にも西山はちょっとたじろいたので、いっそう心の奥のありさまそのままを誰を相手ともなくいい放った。それはかえって彼の心をすがすがしくした。そして演壇に立って以来鎮まらずにいる熱い血液が、またもや音を立てて皮膚の下を力強く流れるのを感じた。

西山は奇行の多い一人の暴れ者として教師からも同窓からも取り扱われ、勉強はするが、さして独創的なところのない青年として見られているのを知っていた。彼は何んとなくその中に<ruby><rb>軽侮</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>を投げられているような気がして、その裏書を否定するような言動をことさらに試みていたのだが、今日の演説と今の言葉とで、それをはっきり言い現わしたのを感じた時、心臓へのある力の注入を自覚せずにはいられなかった。生涯の進路の出発点が始めて定まったと思えた。彼の周囲が彼を見なおしたのは、彼が彼の周囲を見なおす結果になっていた。たとえばおたけだ。おたけが星野に対して特別な好意を示すのを見極めたある夜に、彼は一晩じゅう寝なかったことがあった。愚かな<ruby><rb>屈辱</rb><rt>くつじょく</rt></ruby>……ところが今日は人見がおたけを意識しながら彼の演説の真似をしたりするのを見ると、ある<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>の代りに<ruby><rb>唾棄</rb><rt>だき</rt></ruby>すべき奴だと思わずにはいられなくなっていた。女性――彼を待っている女性は一人よりいない。そしてその一人はおたけなどとどの点においても比較になるような人ではなかった。それがゆえに彼の未来を切り開いて、自分の立場に一日でも早く立ち上がろうとする<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>は激しくなった。万事につけて彼の気持はそんな風に動いていった。

突然柿江が<ruby><rb>能弁</rb><rt>のうべん</rt></ruby>になった。彼が能弁になるのは一種の<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>で、無害な犬が突然恐水病にかかるようなものだ。じくじくと考えている彼の眼がきゅうに輝きだして、<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>を立てんばかりな平べったい脂手が、空を切って眼もとまらぬ手真似の<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>を演ずる。そういう時仲間のものは黙ってそれが自然に収まるのを待っているよりほかはない。彼は貧乏ゆすりをしながら園から受取った星野の葉書を手脂だらけにして丸めたり延ばしたりしていた。それを棒のように振り廻わし始めた。

<ruby><rb>高所大所</rb><rt>こうしょたいしょ</rt></ruby>とはいったい何を意味するつもりだというところから柿江は始めた。高所は札幌の片隅にもある、大所は<ruby><rb>女郎屋</rb><rt>じょろや</rt></ruby>の廻し部屋にもあると叫んだ。よく聞けよく聞けといって彼はだんだん西山の方に乗りだしていった。西山は自分の机に腰をかけたまま受太刀になってあっけに取られてそれを眺めていなければならなかった。

「教授の手にある講義のノートに<ruby><rb>手垢</rb><rt>てあか</rt></ruby>が<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まるというのは名誉なことじゃない。クラーク、クラークとこの学校の創立者の名を<ruby><rb>咒文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>のように<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えるのが名誉なことじゃない。当世の学問なるものが<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>何に役立つかを考えてみないのは名誉なことじゃない。現代の社会生活の中心問題が<ruby><rb>那辺</rb><rt>なへん</rt></ruby>にあるかを知らないのは名誉なことじゃない。それを知って他を語るのはさらに名誉なことじゃない。日清戦争以来日本は世界の檜舞台に乗りだした。この機運に際して老人が我々青年を指導することができなければ、青年が老人を指導しなければならない。これでありえねばあれだ。停滞していることは断じてできない。……言葉は俺の方が<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは<ruby><rb>漫罵</rb><rt>まんば</rt></ruby>だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を<ruby><rb>大声疾呼</rb><rt>たいせいしっこ</rt></ruby>したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が（ガンベが『貴様は』といって力自慢の拳を振り上げた。柿江は本当に恐ろしがって招き猫のような恰好をした）乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……」

「何が軽薄だ。軽薄とは貴様のように自分にも訳の<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らない高尚ぶったことをいいながら実行力の<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>わないのを軽薄というんだ。けれどもだ、俺はとにかく実行はしているぞ。哲学はその後に生れてくるものなんだ」

西山は軽薄という言葉を聞くと<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわったが、柿江の長談義を打ち切るつもりで<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>かし気味にこういった。

けれども柿江はほとんど<ruby><rb>泥酔者</rb><rt>でいすいしゃ</rt></ruby>のようになってしまっていた。その薄い唇は言葉を巧妙に刻みだす鋭い刃物のように眼まぐるしく動いた。人見はいつの間にか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こそこそ</span>と二階の自分の部屋に行ってしまった。

そこに園が静かにはいってきた。夜寒で赤らんだ頬を両手で撫でながら、笑みかけようとしたらしかったが、少し殺気だったその場の様子にすぐ気がついたらしく、部屋の隅を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐるっ</span>と廻って窓の方に行って坐った。

柿江はまだ続けていた。西山はもう実際うるさくなった。自分の生活とは何んの関係もない一つの空想的な生活が石ころのようにそこに転がっているように思った。

「寒いか」

戸外の方を<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>でしゃくりながら、柿江には<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>なく園に尋ねた。

その拍子に柿江がぷっつりと黙った。<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた狐が落ちでもしたように。そしてきまり悪るげにそこにいた三人の顔に眼を走らすと慌てて爪を噛みはじめた。

「渡瀬君まだいたんだね。僕はもし帰ってしまうといけないと思ってかなり急いだ」

「おたけさんから何か<ruby><rb>伝言</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>があったろう」

「いいえ」

園はまるでおとなしい子供のようににこついた。

「柿江君さっきの葉書はどうしたろう。渡瀬君に見せてくれたの」

笑うべきことが持ち上っていた。星野の葉書は柿江の手の中に揉みくだかれて、鼠色の<ruby><rb>襤褸屑</rb><rt>ぼろくず</rt></ruby>のようになって、<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>の皮なぞの散らかっている間に<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らされていた。

「困るなあ、それにね、三隅のおぬいさんの稽古を君に頼みたいからと書いてあったんだのに……それだから渡瀬君に渡してくれって頼んでおいたじゃないか」

「君にとは俺にかい」

園に顔を見つめられながら、半分は<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>から、半分は実際合点がいかない風でガンベは聞き返した。<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>吹で、頭のいいことは無類で、礼儀知らずで、大酒呑で、<ruby><rb>間歇的</rb><rt>かんけつてき</rt></ruby>な勉強家で、脱線の名人で、不敵な道楽者……ガンベはそういう男だったのだから、少なくとも人が彼をそう見ていることを知っていたから。

「そうだ、君にだ」

そう園のいうのを聞くと、ガンベは指の短かい、そして恐ろしく掌の厚ぼったい両手を<ruby><rb>発矢</rb><rt>はっし</rt></ruby>と打ち合せて、<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>のまま躍り上がりながら顔をめちゃくちゃにした。

「星野って奴は西山、貴様づれよりやはり偉いぞ」

西山は日ごろの口軽に似ず返答に困った。西山が星野を推賞した、その<ruby><rb>矛</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を逆まにしてガンベは切りこんできた。星野が衆評などをまったく眼中におかないで、いきなり物の中心を見徹していくその心の腕の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えかたにたじろいたのだ。しかたなしに彼は方向転換をした。そして、

「園君、君が最初に頼まれたんだろう」

と<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>からガンベの陣容を崩そうとした。

「いいえ別に、僕は手紙をおぬいさんにとどけるように頼まれただけだった」

それが園の落ち着いた答えだった。

「俺が札幌にいりゃ、この幕は貴様なんぞに出しゃばらしてはおかなかったんだが」

そういって西山は取ってつけたように<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>に高笑いするよりのがれ道がなかった。

柿江は三人の顔にかわるがわる眼をやりながら爪をかみ続けていた。あのままで行くと<ruby><rb>狂癲</rb><rt>きちがい</rt></ruby>にでもなるんではないかとふと西山は思った。とにかく夜は更けていった。何かそこには気のぬけたようなものがあった。六年近く兄弟以上の親しさで暮してきたこの男たちとも別れねばならぬ四辻に立つようになった……その淡い無常を感じて、机からぬっくと立ち上りながら西山は高笑いを収めた。そして大きな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をした。

＊　　　　＊　　　　＊

その時清逸は茶の間に母といっしょにいたのだが、おせいの綿入を縫っていた母は針を置いて迎えに立っていった。清逸は膝の上に新井白石の「折焚く柴の記」を載せて読んでいた。年老いた父が今<ruby><rb>麦稈</rb><rt>むぎわら</rt></ruby>帽子を<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>にひっかけている。十月になっても被りつづけている麦稈帽子、それは狐が<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けたような色をしている。そしてそれは父が自分の家族のためにどれほど身をつめているかを人に見せびらかすシムボルなのだ。清逸はそれをまざまざと感ずることができた。そればかりではない。今日の父は用向きがまったく失敗に終ったこと、父が<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>だと思いこみそうなことを先方からいわれて胸を悪くして帰ってきたこと、それをも手に取るように感ずることができた。清逸にはその結果は前から分っていることだった。

わざとらしい<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いを先立てて<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開き、畳が腐りはしないかと思われるほど<ruby><rb>常住坐</rb><rt>じょうじゅうすわ</rt></ruby>りっきりなその座になおると、顔じゅうをやたら無性に両手で擦り廻わして、「いやどうも」といった。それは父が何か軽い気分になった時いつでもいう言葉だ。しかしそれを今日はてれ隠しにいっている。

母が立ったついでにラムプを提げてはいってきた。そしてそれを部屋の真中にぶらさがっている不器用な針金の<ruby><rb>自在鍵</rb><rt>じざいかぎ</rt></ruby>にかけながら、

「降られはしなかったけえ」と尋ねた。

「なに」

といったぎりでまた顔を撫でた。と、思いだしたように探りを入れるような大きな眼を母の方にやりながら、

「<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐ</rt></ruby>れた時分にはちょうど先方にいたもんだから何んともなかった」

とつけ加えた。父は一度も清逸の方を見ようとはしない。

札幌のような静かな処に比べてさえ、七里<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>たったこの山中は<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>るほど淋しいものだった。ことに日の暮には。千歳川の川音だけが<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と家のすぐ後ろに聞こえていた。清逸は煮えきらない部屋の空気を身に感じながら、その川音に耳をひかれた。こっちの方から話の糸口を引きだして、父の失敗が気にかけるほどのものではないのを納得させたものだろうか、それとも話の出ないのをいいことにしてうやむやにすましてしまったものだろうかと考えた。久しぶりで戸外に出た父は、むだ話の材料をしこたま持って帰っているに違いない。思出話ばかりを繰り返している反動に、それを一つ一つ持ちだされるのは清逸にはちょっと我慢のできないことらしかった。さらぬだにいらいらしがちな気分と、<ruby><rb>消耗熱</rb><rt>しょうもうねつ</rt></ruby>のために我慢が薄くなっているのとで、清逸はそれを恐れた。清逸はつまらぬこととは思いながら白石の父の賢明さを思い浮べた。父子で身にしみじみと話しこんで顔にとまった蚊が血に飽きすぎて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽたり</span>と膝の上に落ちるまで払いもせずにいたという、そういう父子の間柄であったのを思い浮べた。その挿話は前から清逸の心を強く<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていたものだった。

父は煙草をのんではしきりに<ruby><rb>吐月峰</rb><rt>とげっぽう</rt></ruby>をたたいた。母も黙ったまま針を取り上げている。

店の方に物を買いに来た人があった。母はすぐ立っていった。

「どうもやはり北海道米はなあ<ruby><rb>増</rb><rt>ふ</rt></ruby>えが悪るうて。したら内地米の方に……何等どこにしますかなあ」

買手の声は聞こえないけれども、母のそういう声ははっきりと聞こえた。父は例の探りを入れるような眼をちょっとそっちに向けた。そしてこの機会にと思ったか始めて清逸の眼をさけるようにしながら忙がしく話しかけた。

中島は会わないでその養子というのが会ったのだが、老爺が<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>がいっているので、そんな話はうるさいと言って聞きたがらないし、自分の一存としていうと、当節東京に出ての学問は予想以上の金がかかるから、こちらは話によっては都合しないものでもないけれども、何しろ学問が百姓とはまったく縁のないことだし、長い間にはそちらが当惑なさるようにでもなると、せっかく今までの交際にひびが入ってかえっておもしろくないから、子息さんがそれほどの秀才なら、卒業の上採用されるという条件で話しこんだら、会社とか銀行とかが喜んで学資を出しそうなものだ。ひとつ校長の方からでもかけ合ってもらうのが得策だろうとの返辞だったと父は言った。

そこに母が前掛についた米の粉をはたきながらはいってきた。父は話を途切らそうか続けようかと<ruby><rb>躇</rb><rt>ため</rt></ruby>らった風だったが、きゅうに調子を変えて、中島の養子というのを<ruby><rb>眼下</rb><rt>めした</rt></ruby>扱いにして話を続けた。

「中島に養子にはいるについちゃあれはわしが口をきいてやったようなものだ。ろくな<ruby><rb>元資</rb><rt>もとで</rt></ruby>も持たず七年前に富山から移住してきた男だったが、水田にかけては経験もあるし、人間もばかではないようだったから、……その……何んとかいったなあもう一人の養子は……何んとかいった、それにわしが<ruby><rb>推薦</rb><rt>すいせん</rt></ruby>したのがもとになったんだ。それをおみさ（と今度は母の方に）今日会うとな、『金でもありあまっていることならとにかく、さもなければ学問はまあ常識程度にしておいて、実地の方を小さい時から仕込むに限りまっさ』とこうだ」

そして<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れはてたという顔を母にしてみせた。

それはしかし父が清逸の弟について<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>する時誰にでも言って聞かせる言葉ではないか。清逸の学資の補助（清逸は自分の成績によって入校二年目から校費生になって授業料を免除されている上毎月五円の奨学金を受けていた）を送金する時にも、父は母に向ってたまには同じようなことを言ったかもしれないのだ。

清逸はもうそのほかに何んにも聞く必要はなかった、札幌に学んでいることすらも清逸の家庭にとっては十二分の重荷であるのを清逸はよく知っている。弟の純次は低能に近いといっていいから尋常小学だけで学校生活をやめたのはまずいいとしても、妹のおせいに小樽で女中奉公をさせておかねばならぬというのは、清逸の胸には烈しくこたえていた。清逸が会社か銀行にでも勤めていたら（そんな所にいる自分を想像するほど<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>と<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>とを感ずることはなかったが）おせい一人くらいを家庭に取りかえすのは何んでもないことだったろう。一人の妹、清逸がことに愛している一人の妹の身を長い間不自由な境界において我慢しているのは、清逸だからできるのだと清逸は考えていた。しかしどうかすると清逸はそのためにおそくまで眠りを妨げられることがあった。けれどもどんな時でも、清逸が学問をするために<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起される近親の不幸（父も母もそのためにたしかに老後の安楽から少なからぬものを奪われてはいるが）は、清逸をますます学問の方に駆りたてはしても、躊躇させるようなことは断じてなかった。

清逸は小学校の三年を卒業する時から、自分は優れた天分を持って生れた人間だとの自覚を持ちはじめたことを記憶している。田舎の小学校のことだから、卒業式の時には尋常三年でも<ruby><rb>事々</rb><rt>ことごと</rt></ruby>しい答辞を級の代表生に<ruby><rb>朗読</rb><rt>ろうどく</rt></ruby>させるのが常だった。その時その役に当ったのは加藤という少年だったが清逸は加藤の依頼に応じて答辞の文案を作ってやった。受持教員はそれを読んで<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>した。そしてそれが当日郡長や、<ruby><rb>孵化場長</rb><rt>ふかじょうちょう</rt></ruby>や、郡農会の会長やの列座の前で読み上げられた時、清逸は自分の席からその人たちが<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しい顔をして聞いているのを観察した。彼らのすべては、その答辞が、教師の代作でなければ、<ruby><rb>剽竊</rb><rt>ひょうせつ</rt></ruby>に相違ないと信じきっているのが清逸にはよく知れた。清逸はその時子供らしい誇りは感じなかった。ただ、一般に偉い人といわれる人が、かならずしも偉いというほどの人ではないとはっきり感じたのだった。偉人として、人の<ruby><rb>称讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>を受けるくらいのことはそうむずかしいことではないとはっきり感じたのだった。それ以来清逸の自分に対する評価は<ruby><rb>渝</rb><rt>かわ</rt></ruby>ることがない。そしてそれに特別の誇りを感じないのもまた同じだった。この心持がすべての思想と行動を支配した。家族の人たちに対しても彼はそれに手加減をする理由は露ほども見出さないのだ。

清逸は上京の相談で家に帰りはしたが、自分の健康が掘りだしたばかりの土塊のような<ruby><rb>苛辣</rb><rt>からつ</rt></ruby>な北海道の気候に堪えないからとは言いたくなかったので、さらに修業を続けたいのだというよりしかたがなかった。父は清逸が物をいいだす以上は、自分の<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>ではとても突き崩せないだけの考慮をめぐらした上で物をいうと知りぬいていたから、母に向う時のように、頭からけなしつけて二の句を吐かせないというようなやり方はしようにもできなかった。しかしながら今度の事は父にとってたしかに容易ならぬ難題であったに相違ない。清逸は始めから学資は自分で何んとかするといってみたが、父としてはそれが堪えられないことだったらしい。清逸のことだから元来<ruby><rb>羸弱</rb><rt>るいじゃく</rt></ruby>な健康を<ruby><rb>害</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねても何んとかするであろうが、それまでの苦心を息子一人にさせておくのは親の本能が許さなかったろう。しかしそれにも増して父に不安を与えたのは、かくては清逸がだんだん父母から離れていくだろうということだったに違いないのだ。

父は自分が一種の怠け者で、精いっぱいに生活をしてこなかったのを気づいている。始終窮境に滅入りこむその生活は、だから不運ばかりの<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではない。清逸への仕送りの不足がちなのも、一人娘を女中奉公に出さねばならなかったのも、人知れぬ針となってその良心を刺しているのだ。それを清逸が知っているのを父は知っていた。それをまた清逸は知っていた。清逸はそのことを責める気持はけっしてなかったけれども、父が軽薄な手段をめぐらしてその非を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>い、あわよくば自分の要求すべき資格のないものを家族のものに要求しようとするのを見つけだすと快くなかった。

父が三里も<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>のある島松まで出かけていって、中島の養子に遇った気持にはそうしたものがあったはずだ。清逸はそれには及ばないと幾度となくとめてみたけれども、かならず<ruby><rb>吉報</rb><rt>きっぽう</rt></ruby>を持って帰るからといいながら一人で勇んで出かけていったのだ。そしてその結果は清逸の思ったとおりだった。

ラムプに黄色く灯がついてから、弟の純次は腰から下をぐっしょり濡らして、魚臭くなって孵化場から帰ってきた。彼は店の方に行って駄菓子を取ってきてそれを立ち喰いしながら、駄々子のように母に手伝わせて和服に着かえた。清逸に挨拶一つしなかった。清逸一人が都会に出て、手足にあかぎれ一つ切らさず、楽をしながら出世する。その犠牲になっているのだぞという<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶ</rt></ruby>りを、彼は機会あるごとに言葉にも動作にも現わした。それは清逸の心を暗くした。

貧しい気づまりな食卓を四人の親子は囲んだ。父の前には見なれた徳利と、<ruby><rb>塩辛</rb><rt>しおから</rt></ruby>のはいった<ruby><rb>蓋物</rb><rt>ふたもの</rt></ruby>とが据えられて、父は器用な手酌で酒を飲んだ。しかし不断ならば、盃を取った場合に父の口から繰りだされるはずの「いやどうも」という言葉は一つも出てこなかった。純次は食卓から胸にかけて<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>たくさんなためにぽろぽろする飯をこぼし散らかすと、母は丹念にそれを拾って自分の口に入れた。母はいい母だがまったく教育がない。教育のないのを自分のひけめにして、父から圧制されるのを天から授かった運命のように思っているらしかった。末子の純次に対しては無智な動物のような<ruby><rb>溺愛</rb><rt>できあい</rt></ruby>を送っていた。その母が清逸に対しての態度は知れている。

「もう鮭はたくさん<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってきだしたのか」

清逸はたまりかねて純次にこう尋ねてみた。

「うむ」

という答えが飯を頬張った口の奥から出るだけだった。

「今年は何台卵を<ruby><rb>孵</rb><rt>か</rt></ruby>えすんだね」

「知らねえ」

母がさすがに気をかねて、

「知らねえはずはあるめえさ」

と<ruby><rb>口添</rb><rt>くちぞ</rt></ruby>えすると、純次は低能者に特有な殺気立った眼を母の額の辺に向けて、

「知らねえよ」

と言いながら持ち合わせた箸で食卓を二度たたいた。

大食の純次はまだ喰いつづけていたし、父はまだ飯にしないので、母も箸を取らずにいたが、清逸は熱感があって座に堪えないので、軽く二杯だけむりに喰うと、父の自慢の<ruby><rb>蓬茶</rb><rt>よもぎちゃ</rt></ruby>という香ばかり高くて味の悪い蓬の熱い<ruby><rb>浸液</rb><rt>しんえき</rt></ruby>をすすりこんで中座した。

純次の部屋にあててある入口の側の独立した三畳の小屋にはいって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>とした。母がつづいてはいってきた。丸々と肥えた背の低い母は、清逸を見上げるようにして不恰好に帯を揺りあげながら、

「やっぱりよくないとみえるね」

と心配を顔に現わしていってくれた。

「寒さが増してくるとどうしてもよくないさ。けれどもそんなにひどいことはない。熱があるようだから先に寝かしてもらいます」

「そだそだ、それがいいことだ」

そして純次の床を部屋の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>に、清逸の床を部屋の<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>にとったほど無智であるが、愛情の<ruby><rb>偏頗</rb><rt>へんぱ</rt></ruby>も手伝っていた。清逸が横になると、まめまめしく寝床をまわり歩いて、清逸の身体に添うて掛蒲団をぽんぽんと<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけてくれた。

清逸は一昨日ここに帰ってきてから割合によく眠ることができた。海岸のように断続して水音のするのはひどく清逸の心をいらだたせたが、昼となく夜となく変化なしに聞こえる川瀬の音は、清逸の神経を<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>するようだった。清逸はややともすると読みかけている書物をばたっと取り落して眼がさめたりした。それは生れてからないことだった。

清逸は寝たまま<ruby><rb>含嗽</rb><rt>うがい</rt></ruby>をすると、頸に巻きつけている真綿の襟巻を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、夜着を深く被った。そして眼をつぶって、じっと川音に耳をすました。そこから何んの割引もいらぬ静かな安息がひそやかに近づいてくるようにも思いながら。

その夜はしかし思うようには寝つかれなかった。彼の疲労が<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したのかもしれなかった。あるいは神経がさらに鋭敏になり始めたのかもしれなかった。

ふと眼がさめた。清逸はやはりいつの間にか浅い眠りを眠っていたのだった。<ruby><rb>盗汗</rb><rt>ねあせ</rt></ruby>が軽く頸のあたりに出ているのを気持ち悪く手の平に感じた。

川音がしていた。

何時ごろだろうと思って彼はすぐ枕許のさらし<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>のカーテンに頭を突っこんで窓の外を覗いてみた。

珍らしく月夜だった。夜になると曇るので気づかずにいたが、もう九日ぐらいだろうかと思われる上弦というより左弦ともいうべきかなり肥った<ruby><rb>櫛形</rb><rt>くしがた</rt></ruby>の月が、川向うの密生した木立の上二段ほどの所に昇っていた。月よりも遠く見える空の奥に、シルラス雲がほのかな銀色をして<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>らっていた。<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びきった眺めだった。裏庭のすぐ先を流れている千歳川の上流をすかしてみると、五町ほどの所に火影が<ruby><rb>木叢</rb><rt>こむら</rt></ruby>の間を見え隠れしていた。瀬切りをして水車がかけてあって、川を登ってくる<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>がそれにすくい上げられるのだ。孵化場の所員に指揮されてアイヌたちが今夜も夜通し作業をやっているのに違いない。シムキというアイヌだった。その老人が<ruby><rb>樺炬火</rb><rt>かんばたいまつ</rt></ruby>をかざして、その握り方で光力を加減しながら、川の上に半身を乗りだすような身構えで、<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>や尾を水から上に出しながら、真黒に<ruby><rb>競合</rb><rt>せりあ</rt></ruby>って鮭の昇ってくる具合を見つめていた……それは清逸が孵化場の給仕をしていたころに受けた印象の一つだったが、火影を見るにつけてそれがすぐに思いだされた。気を落ちつけて聞くと<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と鳴りひびく川音のほかに水車のことんことんと廻る音がかすかに聞こえるようでもある。窓のすぐ前には何年ごろにか純次やおせいと一本ずつ山から採ってきて植えた<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>が驚くほど育ち上がって立っていた。<ruby><rb>鉄鎖</rb><rt>てつさ</rt></ruby>のように黄葉したその葉が月の光でよく見えた。二本は無事に育っていたが、一本は雪にでも折れたのか梢の所が<ruby><rb>天狗巣</rb><rt>てんぐそう</rt></ruby>のように丸まっていた。そんなことまで清逸の眼についた。

突然清逸の注意は<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>の茶の間の方に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き曲げられた。ばかげて声高な純次に譲らないほど父の声も高く<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っていた。言い争いの<ruby><rb>発端</rb><rt>ほったん</rt></ruby>は判らない。

「中島を見ろ、四十五まであの男は木刀一本と<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>一筋の足軽風情だったのを、函館にいる時分何に発心したか、島松にやってきて水田にかかったんだ。今じゃお前水田にかけては、北海道切っての<ruby><rb>生神様</rb><rt>いきがみさま</rt></ruby>だ。何も学問ばかりが人間になる資格にはならないことだ」

「じゃ何んで兄さんにばっか学問をさせるんだ」

「だから言って聞かせているじゃないか。清逸が学問で行くなら、お前は実地の方で兄さんを見かえしてやるがいいんだ」

純次は黙ってしまった。父は少し落ち着いたらしく、半分は言い聞かすような、半分は<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をいうような調子になった。

「中島は水田をやっているうちに、北海道じゃ水が<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>っこいから、実のりが遅くって霜に<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>められるとそこに気がついたのだ。そこで田に水を落す前に<ruby><rb>溜</rb><rt>たまり</rt></ruby>を作っておいて、<ruby><rb>天日</rb><rt>てんぴ</rt></ruby>で暖める工夫をしたものだが、それが図にあたって、それだけのことであんな一代<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶげん</rt></ruby>になり上ったのだ。人ってものは<ruby><rb>運賦天賦</rb><rt>うんぷてんぷ</rt></ruby>で何が……」

そのあとは声が落ち着いていくので、かすれかすれにしか聞こえなくなった。

「兄さんは悪い病気でねえか」

しばらくしてから突然純次のこう激しく叫ぶ声が聞こえた。今度は純次は母と言い争いを始めたらしい。母も何か言ったようだったが、それは聞こえなかった。

「肺病はお母さんうつるもんだよ」

純次の声がまた。それは聞こえよがしといってよかった。

「そうしたわけのものでもあるまいけんど」

「うんにゃそうだ」

そのあとはまた静かになった。清逸は早く寝入ってしまうに限ると思って夜着の中に顔を埋めた。寝入りばなの咳がことに邪魔になった。

純次が鼻緒のゆるんだ下駄を引きずってやってくる音がした。清逸は今夜はもう相手になっていたくなかったので寝入ったことにしていようと思った。

思いやりもなく荒々しく引戸を開けて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴしゃり</span>と締めきると、<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>をおろすらしい音がした。純次は必要もない工夫のようなことをして得意でいるのだが、その錠前もおそらくその工夫の一つなのだろう。こんな空家同然な離れに錠前をかけて寝る彼の心持が笑止だった。

やがて純次は、清逸の使いふるしの<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>も何もない机の前に坐った。机の上には三分<ruby><rb>芯</rb><rt>じん</rt></ruby>のラムプがホヤの片側を真黒に<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>らして暗く灯っていた。机の片隅には「青年文」「女学雑誌」「文芸倶楽部」などのバック・ナムバアと、ユニオンの第四読本と博文館の当用日記とが積んであるのを清逸は見て知っていた。机の前の壁には、純次自身の下手糞な手跡で「<ruby><rb>精神一到何事不成陽気発所金石亦透</rb><rt>せいしんいっとうなにごとかならざらんようきのはっするところきんせきもまたとおる</rt></ruby>」と半紙に書いて貼ってあった。

純次は博文館の日記を開いて鉛筆で何か書いているらしかったが、もぞもぞと十四五字も書いたと思う間もなく、ぱたんとそれを伏せて、吐きだすごとく、

「かったいぼう」

とほざいて立ちあがった。そして手取り早く巻帯を解くと素裸かになって、ぼりぼりと背中を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いていたが、今まで着ていた衣物を前から羽織って、ラムプを消すやいなや、ひどい響を立てて床の中にもぐりこんだ。

純次はすぐ<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>になっていた。

清逸の耳にはいつまでも単調な川音が聞こえつづけた。

＊　　　　＊　　　　＊

何んという不愛想な人たちだろうと思って、婆やはまたハンケチを眼のところに持っていった。

上りの急行列車が長く横たわっているプラットフォームには、乗客と見送人が混雑して押し合っていた。

西山さんは機関車に近い三等の入口のところに、いつもとかわらない顔つきをしていつもとかわらない着物を着て立っていた。鳥打帽子の袴なしで。そのまわりを白官舎の書生さんをはじめ、十四五人の学生さんたちが取りまいて、一人が何かいうかと思うと、わーっわーっと高笑いを破裂させていた。夜学校から見送りに来たらしい男の子が一人と女の子が二人、少し離れた所で人ごみに<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>まれながら、それでも一心にその人たちの様子を見つめていた。三隅さんのお袋とおぬいさんとは、妹を連れてきたおたけさんと一かたまりになって、混雑を避けるように待合室の外壁に身をよせて立っていた。西山さんはその人たちを見向こうともしなかった。ほかの書生さんたちもそういう見送人に対して遠慮するらしい<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶり</rt></ruby>も見せようとはしない。

婆やはもう一度西山さんをつかまえて何かもっと物をいいたいと思って、書生さんたちの後から隙をうかがっているけれども、容易にその機会は来そうもなかった。人の心も察しないで何んという不愛想な人たちだろうと思って腹立たしかった。その時軟かく自分の肩に手を置く人があった。振り向いてみるとおぬいさんだった。娘心はおびただしい群衆のぞよめきに軽く酔ったらしく頬のあたりを赤くしていた。

「あなたそんな所にいるとあぶのうございます。こちらにいらっしゃいな」

そういっておぬいさんは誘ってくれた。婆やはそれを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しお</span>に<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、おぬいさんにやさしくかばわれながら三隅さんのお袋の所にいっしょになって、<ruby><rb>相対</rb><rt>あいたい</rt></ruby>よりも少し自分を<ruby><rb>卑下</rb><rt>ひげ</rt></ruby>したお<ruby><rb>辞儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をした。おぬいさんは婆やの涙ぐんだ眼を見るといっそう赤くなったようだった。婆やは、近ごろの若い人に似ぬ何んといういとしい娘さんだろうと思った。とにかく婆やは黙ってはいられなかった。いいたいことは山ほどあるのだが、書生さん相手では、婆やのいうことなどは上の空に聞き流されるのだから腹が立つばかりだった。誰かに聞いてもらいたいと思っている矢先だったので、婆やは何事をおいても<ruby><rb>能弁</rb><rt>のうべん</rt></ruby>になった。

「星野さんはお留守だし、西山さんはきゅうに東京にな、お<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ちなさるし、婆やは淋しいこんです。いい人でな、あなた。あんな人並外れて大きいがに、赤坊のような人でなもし。婆や婆やたらいって、大事にしておくれなさったが……ま、行く行くは皆ああして羽根が生えて飛んでいかれるは<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>なれど、何んとやら悲しゅうてなもし。私もお知りのたんだ一人の息子を二十九年になもし、台湾で死なしてから、一人ぽっちになりましたけに、世話をしとる若い衆がどれも我が子同様に思われてな、すまんことじゃけれどなもし。それゆえ離れるがどうもなりません。……それがなもし、若い衆の不思議というたら、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を出るさいには、私の頬げたをこう<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>いてな、あなた『婆やきつい世話』……ではのうて『婆やいろいろに世話をかけてありがとう。達者でいてくれや、東京に行ったら甘いものを送るぞよ』……」

婆やは西山さんの口調を<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ようとしたら、涙で物がいえなくなってしまった。ところが次のことを考えると腹が立ってきた。それでまた言葉がつげた。

「と涙の出るようなことをいうてだったが、ここに来たら最後、見なさるとおり、婆やなどは眼にも入らぬげでなもし」

婆やはそこにいる四人に<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なく聞き取らせようとするので容易でなかった。肥った身体を通りすがりの人にこづかれながら、手真似をまじえて大きな声になった。

おたけさんが我慢がしきれなくなったらしく、きゅうに口もとに<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な模様の袖口を持っていった。三隅さんのお袋はさすがに同情するらしく神妙にうなずいていたが、おぬいさんもだいぶ怪しかった。婆やは今度はおたけさんの方に<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を向けた。

「あなたも年をとってみるとこの味は分ってきなさるが……」

皆まで聞かずにおたけさんはとうとう顔を真赤にして笑いだしてしまったが、ふと眼を西山の方にやると驚いたらしく、

「まあ新井田の奥さんが」

と<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>にいった。

ガンベさんが取りなすように三十<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>に見える立派な奥さん風の婦人と西山さんとの間にいて、ほかの書生さんたちは少し輪を大きくしてそれを傍観していた。奥さんというのは西山さんに何か餞別物を渡そうとしているところだった。そこらにいる群衆の眼は申し合わせたように奥さんの方に吸い寄せられていた。

婆やも驚いておたけさんに尋ねた。

「あれはどなただなもし」

「あなた知らないの。あれがそら渡瀬さんのよく行く新井田さんの奥さんなのよ」

とおたけさんは奥さんから眼を放さない。重そうな<ruby><rb>黒縮緬</rb><rt>くろちりめん</rt></ruby>の羽織が、<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で肩の円味をそのままに見せて、抜け上るような色白の<ruby><rb>襟足</rb><rt>えりあし</rt></ruby>に、藤色の半襟がきちんとからみついて<ruby><rb>手絡</rb><rt>てがら</rt></ruby>も同じ色なのが<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>りよく似合っていた。着物の地や柄は婆やにはよく見えなかったが、袖裏に赤いものがつけてあるのはさだかに知れた。<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>め後ろから見ただけでも<ruby><rb>珍</rb><rt>めず</rt></ruby>らしく美しそうな人に思われた。

<ruby><rb>駅夫</rb><rt>えきふ</rt></ruby>が鈴を鳴らして構内を歩きまわりはじめた。それとともに場内は一時にざわめきだして、人々はひとりでに浮足になった。婆やはもう新井田の奥さんどころではなかった。「危ない」と後ろからかばってくれたおぬいさんにも<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>せず、一生懸命に西山さんの方へと人ごみの中を泳いだ。

人波の上に頭だけは<ruby><rb>優</rb><rt>ゆう</rt></ruby>に出そうな大きな西山さんがこっちに向いて近づいてきた。婆やはさればこそと思いながら寄っていって取りすがろうとするのを西山さんは見も返らずにどんどん三隅さんたちの方に行って、鳥打帽子を取った。そして大きな声でこう挨拶をした。

「じゃ行ってきます。万事ありがとうございました。さようなら。御大事に」

婆やはつくづく西山さんが<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしくなった。あれほど長い間世話を焼かせておきながら、やはり若い娘の方によけい未練が残るとみえる。齢を取るというのは何んという情ないことだろう。……婆やは西山さんから顔を<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>けてしまった。

いきなり痛いほど婆やの左の肩を平手ではたくものがいた。それが西山さんだった。

「じゃ婆やいよいよお別れだ。寒くなるから体を大事にするんだ」

そういうわけだったのかと思うと婆やはありがたいほど嬉しくなって、西山さんの手を握って何んにもいわずにお辞儀をした。

「もういいから」

西山さんは手を振りきってどんどん列車の方に行く。婆やはそのすぐあとから楽々と<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いていくことができた。

人見さんが列車の窓から、

「おいここだ、ここだ」

といって西山さんを招いていた。

「<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>ないよ婆さん」

知らない学生が婆やを引きとめた。婆やは客車の昇降口のすぐそばまで来てまごついていたのだ。そこから人見さんが急いで降りてきた。

見ると人見さんの顔を出していた窓の所には西山さんの顔があった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がやがや</span>いい<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る人ごみの中を駅員があっちでもこっちでも手を上げたり下げたりしたかと思うと、婆やは飛び上らんばかりにたまげさせられた。汽笛がすぐ側で鳴りはためいたのだ。婆やは<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った身体をもみまくられた。手の甲をはげしく<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>る釘のようなものを感じた。「あ痛いまあ」といって片手で痛みを押えながらも、<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>び上って西山さんを見ようとした。と押しあいへしあいされながら婆やの体は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すうっ</span>と横の方に動いていった。それはしかしそうではなかった。汽車が動きだしたのだった。窓という窓から突きだされたたくさんな首の中に、西山さんも平気な顔をして、近眼鏡を光らせながら白い歯を出して笑っていた。それがみるみる遠ざかって見えなくなってしまった。それだけのことだった。

三隅さんのお袋とおぬいさんとが親切に介抱してくれるので、婆やは倒れもせずに改札口を出たが、きゅうに張りつめていた気がゆるんで涙がこみあげてきそうになった。送りに来た書生さんたちはと見ると、まるでのんきな風で高笑いなどをしながら遠くから冗談口を取りかわしたりして、思い思いに散らばっていってしまった。何んの気で見送りに来たのか分らないような人たちだと婆やは思った。白官舎の人たちも、柿江さんは夜学校の生徒の手を引いて行ってしまうし、そのほかの人の姿はもうどこにも見えなかった。

停車場前のアカシヤ街道には街燈がともっていた。おたけさんとはぐれたので婆やは三隅さん母子と連れ立って南を向いて歩いた。

「星野さんがお帰りてから何んとかお便りがありましたか」

と大通り近くに来てからお袋が婆やに尋ねた。

「何があなた。皆んな鉄砲丸のような人たちでな」

婆やはそう不平を訴えずにいられなかった。

「私の方にもありませんのよ」

とおぬいさんがいった。

大通りから婆やは一人になった。これでようやく帰りついたと思うと、書生さんたちはとうの昔に帰ってきていて、早く飯にしろとせがみたてるに違いない。これから支度をするのにそう手早くできてたまることかなと婆やは思いながらもせわしない気分になって丸っこい体を転がるように急がせた。

きゅうに手の甲がぴりぴりしだした。見ると<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>蚯蚓脹</rb><rt>みみずば</rt></ruby>れになっていた。涙がまたなんとなく眼の中に湧いてきた。

＊　　　　＊　　　　＊

おぬいは手さぐりで夢中に母にすがりつこうとしていたらしかった。眼をさましてみると、母は<ruby><rb>背面向</rb><rt>むこうむ</rt></ruby>きになってはいるが、自分のすぐ側に、安らかな<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を小さくかきながら寝入っていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>と安心はした。けれどもどうしてこんないやな夢ばかり見るのだろうとおぬいは情けなかった。枕紙に手をやってみるとはたしてしとどに濡れていた。夢の中で絶え入るように泣いてしまったのだから、濡れていると思ったらやはり濡れていた。眼のあたりを触ってみると、右の眼頭から左の眼に、左の眼尻から<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の髪へとかけて、涙の跡はそこにも濡れたまま残っていた。おぬいは袖口を指先にまるめて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と押し拭った。それとともに、泣じゃくりのあとのような溜息が唇を漏れた。

覚めてから覚えている夢も覚えていない夢も、母にはぐれたり、<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたり、厭われたりするような夢ばかりなことはたしかだった。今見た夢もはっきり覚えていないのだったが、覚えていないのは覚えているよりもいっそう悲しい夢であるような気がした。

今のおぬいの身の上として、天にも地にも頼むものは母一人きりなのだ、その母がおぬいをまったく見忘れている夢らしかった。怖いものを<ruby><rb>見窮</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めたいあの好奇心と同じような気持で、おぬいは今見た夢のそこここを忘却の中から拾いだそうとし始めた。

母があれはおぬいではありませんときっぱり人々にいっていた。おかしなことをいう娘だといいそうな快活な笑いを唇のあたりに浮べながら。まわりにいる人たちもおぬいに加勢して、あれはあなたのお嬢さんですよといい張ってくれているのに母は冗談にばかりしているらしかった。おぬいはもしやと思って自分を見ると、たしかにいつものとおりの着物を着て、それは情けなそうな顔つきはしていたけれど自分の顔に相違なかった。（おかしなことには他人の顔を見るように自分の顔をはっきりと見ることができた）……おぬいは家に留守をして私の帰るのを待っていますから、家にさえ帰れば会えるにきまっていますと母は平気であるけれども、それはとんでもない間違だということをおぬいは知り抜いていた。家に帰ってみてどれほど驚きもし悲みもするだろうと思うと、母が<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>でもあり残される自分がこの上もなくみじめだった。その不幸な気持には、おぬいが不断感じている実感が残りなく織りこまれていた。もし万一母を失うようなことがあったらどうしようと思うとおぬいはいつでも<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>がとまるほどに途方に暮れるのだが、そのみじめさが切りこむように夢の中で<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ってきた。それからその夢の続きはただ恐ろしいということのほかにははっきりと思いだされない。おぬいが母を見ている前で、おぬいでないものにだんだん変っていくので、我を忘れてあせったようでもある。母がどんどん行ってしまうのであとを追いかけようとするけれども、二人の間にはガラスのかけらが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うざうざ</span>するほど積まれていて、脚を踏み入れると、それが<ruby><rb>磁石</rb><rt>じしゃく</rt></ruby>に吸いつく<ruby><rb>鉄屑</rb><rt>てつくず</rt></ruby>のように<ruby><rb>蹠</rb><rt>あうら</rt></ruby>にささりこんだようでもある。

とにかくおぬいは死物狂いに苦しんだ。眼も見えないまでに心が乱れて、それと思わしい方に母恋しさの手を延ばしてすがり寄った。そして声を立ててひた泣きに泣いたのだった。

夢が覚めてよかったと<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>するその下からもっと恐ろしい本物の不吉が、これから襲ってくるのではないかとも危ぶまれた。緑色の絹笠のかかったラムプは、海の底のような<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な光を部屋の隅々まで送って、どこともしれない深さに沈んでいくようなおぬいの心をいやが上にも<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かした。

おぬいは思わず<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を立てた。そしてそうすることが隠れている災難を眼の前に見せる結果になりはしないかと恐れ惑いながらも、小さな声で、

「お母さん」

と呼んでみないではいられなかった。十二時ごろ病家から帰ってきた母の寝息は少しもそのために乱れなかった。

もう一度呼んでみる勇気はおぬいにはなかった。自分の声におびえたように彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と枕に頭をつけた。濡れた枕紙が氷のごとく冷えて、不吉の予覚に震えるおぬいの頬を驚かした。

おぬいの口からはまた長い嘆息が漏れた。

身動きするのも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られるような気持で、眼を大きく開いて、老境の来たのを思わせるような母の後姿を見やりながらおぬいはいろいろなことを思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>った。

何かに不安を感ずるにつけていつまでも思うのは、おぬいが十四の時に亡くなった父のことだった。細面で<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすな彼女の父は、いつでも青白い<ruby><rb>不精髯</rb><rt>ぶしょうひげ</rt></ruby>を生やした、そしてじっと柔和な眼をすえて物を見やっている、そうした形でおぬいには思いだされるのだった。ある小さな銀行の常務取締だったが、銀行には一週に一度より出勤せずに、<ruby><rb>漢籍</rb><rt>かんせき</rt></ruby>と聖書に関する書物ばかり読んでいた。煙草も吸わず、酒も飲まず、道楽といっては読書のほかには、書生に学資を<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>ぐぐらいのものだった。その関係から白官舎やそのほかの学生たちも今だに心おきなく遊びに来たりするのだった。

父はおぬいの十二の時に<ruby><rb>脊髄結核</rb><rt>せきずいけっかく</rt></ruby>にかかって、しまいには半身<ruby><rb>不随</rb><rt>ふずい</rt></ruby>になったので、床にばかりついていた。<ruby><rb>気丈</rb><rt>きじょう</rt></ruby>な母は良人の病が不治だということを知ると、毎晩家事が片づいてから農学校の学生に来てもらって、作文、習字、生理学、英語というようなものを勉強し始めた。そして三月の後には区立病院の産婆養成所の入学試験に及第した。その名前が新聞に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せられた時、それを父に気づかれまいとして母が苦心したのを、おぬいは昨日のことのように思いだすことができる。

その父はいい父だった。少なくともおぬいにとっては汲みつくせない慈愛を恵んでくれた親だった。

「あれはどこからどこまであまり美しいから早死をしなければいいが」

そう父が母に言っているのを<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み聞きしたこともあった。そして病気がちなおぬいが加減でも悪くすると、自分の床の側におぬいの床を敷かせて、自分の病気は忘れたように検温から薬の世話まで<ruby><rb>他人手</rb><rt>ひとで</rt></ruby>にはかけなかった。

それよりも何よりも、おぬいが父を思いだす時思いださずにはいられないのは、父が死ぬちょうど一週間前、突然おぬいに、部屋の中を一まわり歩いてみたいから肩を貸してくれといいだした時のことだった。おぬいももとより驚いたが、母はそれを思いもよらぬことだとさえいってとめて聴かなかった。父は母とおぬいとを静かに見やりながらいった。

「お前がたは分らないかもしれないが、男には、一生に一度、自分の力がどれほどあるものだか、それを出しきらなければ死ねないような気持が起るものだ。わしは今までお前がたに<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれてそれをようしなかった。……もうしかしわしは死ぬものとほぼ相場がきまった。今日はひとつわしの心にどれほど力があるかやってみるのだ。腰から下に通う神経は腐って死んでいると医者もいうが、わしはお前がたに奇蹟を見せてやろう。案じることはない」

父は歩いた。おぬいも自分の肩に思ったより軽い父の重みを感じながら歩いた。歩きながら父はいった。

「おぬい、お前はもう十四になるなあ。強い肩になった。立派にお父さんの力になってくれる。……お前もやがて人の妻になるのだが、なったら、今日の心持を忘れないで良人といっしょに歩くんだぞ。忘れちゃあいけないよ」

父の手がおぬいの肩でかすかに震えはじめた。

父が首尾よく部屋を一周して病床に腰を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>すと親子三人はひとりでに手を取り合っていた。そして泣いていた。

「お前がたは何をそう泣くのだ。わしは喜んで涙を流しているのに。……今日のような嬉しい日はない。……だがこんなことは医者にさえいう必要はないことだよ。こんな嬉しいことはめいめいの心の中に大事にしまっておくべきことだからな」

苦しい呼吸の間から父はようやくこれだけのことをいって横になった。

この出来事については母もおぬいも父の言葉どおり誰にもいわないでいる。いわないでいるうちにおぬいにとっては、それがとても口には出せないほど尊いものになっていた。

おぬいは老境に来たのを思わせるような母の後姿を見つめながら、これを思いだすと、涙がまたもや眼頭から熱く流れだしてきた。<ruby><rb>啜泣</rb><rt>すすりな</rt></ruby>きになろうとするのをじっと堪えた。……不断は柔和で打ち沈んだ父だったけれども何んという男らしい人だったろう。あの強い烈しい底力、それはもうこの家には、どの隅にも塵ほども残っていない。……淋しい、父が欲しい。父がもう一度欲しい。父のあの骨ばった手をもう一度自分の肩に感じてみたい。

力の不足、自分一人ではどうしようもない力の不足――<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りすがることのできるものに何もかも打ち<ruby><rb>任</rb><rt>ま</rt></ruby>かして<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りすがりたい<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れ、――そしてどこにもそんなもののない喰い入るような物足らなさ。……気を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めて眠ろうとすればするほど、悲しみはあとからあとからと湧き返って、涙のために痛みながらも眠が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えるばかりだった。

おぬいはとうとうそっと起き上った。そして<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の上に飾ってある父の写真を取って床に帰った。父がまだ達者だったころのもので、細面の<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい顔がやや横向きになって遠い所をじっと見詰めていた。おぬいはそれを幾度も幾度も自分の頬に押しあてた。冷たいガラスの面が快い感触をほてった皮膚に伝えた。おぬいはその感触に甘やかされて、今度は写真を両手で胸のところに抱きしめた。

涙がまた新たに流れはじめた。

二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した。

夜は深いのだろう。母の寝息は少しも乱れずに静かに聞こえつづけていた。おぬいはようこそ母を起さなかったと思った。

＊　　　　＊　　　　＊

夜学校を教えるために、夜食をすますとすぐ白官舎を出た柿江は、創成川っぷちで奇妙な物売に<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>った。

その町筋は車力や<ruby><rb>出面</rb><rt>でめん</rt></ruby>（労働者の地方名）や雑穀商などが、ことに夕刻は忙がしく行き来している所なのだが、その奇妙な物売だけはことに柿江の注意を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

鉢巻の取れた子供の<ruby><rb>羅紗帽</rb><rt>らしゃぼう</rt></ruby>を長く延びたざんぎり頭に乗せて、<ruby><rb>厚衣</rb><rt>あつし</rt></ruby>の恰好をした古ぼけたカキ色の外套を着て、<ruby><rb>兵隊脚絆</rb><rt>へいたいきゃはん</rt></ruby>をはいていた。二十四五とみえる男で支那人のような冷静で悧巧な顔つきをしていた。それが手ごろの風呂敷包を二枚の板の間に挾んで、棒を通して挾み箱のように肩にかついでいた。そして右の手には鼠色になった<ruby><rb>白木綿</rb><rt>しろもめん</rt></ruby>の小旗を持っているのだが、その小旗には「日本服を改良しましょう。すぐしましょう」と少しも気取らない、しかもかなり上品な書体で黒く書いてあった。

その小旗が風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いて拡がれば拡がったまま、風がなくなって垂れれば垂れたままで、少しの頓着もなく売声はもとより立てずに<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>と歩いていくのだった。

柿江も二十五だった。彼は何んとなくその物売に話しかけたくなった。そしてつかつかとその方に寄っていこうとした。その時彼は先夜西山と<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>わした議論のことを思った。

「貴様のように自分にも訳の判らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴わないのを軽薄というんだ」と西山の言った言葉がどうも耳の底に残っていて離れないでいた。それとこれとは何んの関係もないようだが、柿江にはきゅうにその物売に話しかけるのに気がひけだした。それゆえ彼は物売をやり過ごして創成川を渡ってしまった。

次の瞬間に、柿江は今夜の夜学校の修身の時間にはあの物売の話をして聞かせようと考えていた。実行家とはああいう人間のことをいうのだと教えてみよう。そしてもしうまく書けたら新聞の寄書としても十分役立つに違いないとも思いめぐらしていた。左手を深々と内懐から帯の下にさし入れて、右手の爪をぶつりぶつりと<ruby><rb>囓</rb><rt>か</rt></ruby>み切りながら。

＊　　　　＊　　　　＊

柿江は自分でまた始まったなと思った。けれども何んといっても、その興奮が来ると、むりに<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつける気持にはなれなかった。自分の眼には、二十四五人の高等科の男女の生徒が、柿江の興奮に誘われてめいめいの度合いに興奮しながら、眼を輝かして柿江の能弁に聞き入っていた。それに誘われて柿江は自分がさらに興奮してゆくのを感じた。

「いいか、その旗には『日本服を改良しましょう。すぐしましょう』と書いてあるんだ。とうとうその男は先生が一生懸命に介抱してやったにもかかわらず、だんだん<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>が細って死んでしまった。……何しろ深い谷の底のことではあるし、堅雪にはなっていたが、<ruby><rb>上部</rb><rt>うわべ</rt></ruby>の解けた所に踏みこむと胸まで埋まるくらい積もっているのだから、先生にはどうしていいか分らなかった。……とうとうそのえらあい若者は、日本服の改良を仕遂げないうちに、無残にも谷底へすべり落ちて死んでしまったんだ。なんぼう気の毒なことではないか」

<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いほど<ruby><rb>血肥</rb><rt>ちぶと</rt></ruby>りな、肉感的な、そしてヒステリカルに涙<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い<ruby><rb>渡井</rb><rt>わたらい</rt></ruby>という十六になる女の生徒が、<ruby><rb>穢</rb><rt>きた</rt></ruby>ない手拭を眼にあてあて聞いていたが、突然教室じゅうに聞こえわたるような<ruby><rb>啜泣</rb><rt>すすりな</rt></ruby>きをやり始めた。その女の生徒は谷底で死んだというえらあい男を、自分の心の中で情人に仕立てあげてしまって、その死んだのを誠に自分の恋人の上のことのように痛み悲しんでいる……そうだなと柿江は直感すると、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>というのではないが、何か苦々しい感情を胸の中に湧き立たせた。男の生徒たちはおおっぴらに女の方を見やる機会を得て、等しく物好きらしい眼を、渡井のしゃくり上げる肩のところから、手拭の下に真赤にしている横顔へと向けた。

とにかく柿江はまた一つのセンセーションを<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起した。柿江はじっと渡井を見やりながら、今までの感傷的な顔色をやわらげて、なだめるような笑顔を見せた。

「はははは、何もそう泣かんでもいいよ。……その男は気の毒な死に方をしたけれども、いわば自分の大切な使命のために死んだんだから、<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>むこともなかったろう……」

「それだでなおのこと気の毒だ、わし」

と渡井が涙の中から無分別げな、自分の感情に溺れきったような声を出した。男の生徒たちは、「おおげさなまねをする奴だ」というように、柿江の笑いに同じた。

その時尋常四年生の教室――それは壁一重に廊下を隔てた所にあるのだが――がきゅうに賑やかになって、砂きしみのする引戸を開くと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がやがや</span>と廊下に飛びだす子供らの<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がうるさく聞こえだした。めいめいが<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>を洗いに、ながしに集まるのだった。柿江は話の腰を折られて……

「先生その人はそれからどうかして生き返るんだろう」

と一人の男生がその騒がしさの中から中腰に立ち上って柿江に尋ねた。

終業の拍子木が鳴った。

「いや死んでしまったんだ」

大半の生徒は拍子木の声に勇みを覚えたように、机の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をばたんばたんと音させて風呂敷包を作りはじめる。その中にも今まで聞いていた話の後を知ろうとあせるものがあった。

「先生、先生はどうしてその人を谷底から上に持ち上げた？」

「先生か、先生は持ち上げられなかったから、一人で<ruby><rb>崕</rb><rt>がけ</rt></ruby>を這い上って、村の人に告げた」

「先生、その旗を見せてくれえよ」

柿江は話の都合上、自分は一枚の珍らしい旗を持っている。その旗の持主がまた珍らしい人なのだと前置きをして、その夜の修身を語りはじめたのだった。

「よしよし次の晩旗も見せてやるし、先生がその男の死んだのを村の人に告げてからの話もしてやる。村の人がどれほどその男の偉さに感心したか……」

柿江はそういうと、耳を聾がえらせるような騒々しさの中で、今までの話を続けたい気持にされていた。自分でも思い設けぬような戯曲的な光景があとから口を衝いて出てきそうな気がした。その時突然、

「先生それは皆んな作り話だなあ」

というものがあった。柿江は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>とした。そしてその声のする方を見ると、少し低能じみた、そんな見分けのつきそうにもない小柄な少年の戸沢だった。柿江は安心して大胆になった。

「いいや、本当も本当、先生が自分で遇ってきた出来事なんだ」

この会話で教室内の空気がちょっと<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まった。生徒たちは隙でも<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うように柿江の顔つきに注意した。

「だって俺今夜こけへ来る時、その人に往来で遇ったもの」

柿江はしまった……と思ったが、思った瞬間に努力したのはそれを顔色に現さないことだった。そして<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、習慣的になっている彼の不思議な機智は彼をこの急場からも救いだした。

「戸沢は夢でも見たんだろう。……あ、解った。戸沢はその男の<ruby><rb>似而非者</rb><rt>にせもの</rt></ruby>に遇ったんだな。その男のことが先生の生れた釧路の方で評判になると、似而非者が五六人できて、北海道をあちこちと歩き廻るようになったんだ。……それに違いない。それにお前は遇ったんだ」

その少年はまだ疑わしそうな顔をしながら黙ってしまった。そしてそこにはもう、その問題をなお追究しようというような生徒はなかった。一同は立ったりいたりして帰り支度にせわしかったから。

柿江はとにかく戸沢が疑わしげながら<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>するのを見ると、自分の今まで能弁に話して聞かせていたまったくの作り話がいよいよ本当の出来事のように思えだした。

そこの貧民小学校の教師をして農学校に通う学生の二三人が自炊している事務所を兼ねた一室に来ると、尋常四年を受持っている森村が一人だけ、こわれかかった椅子に腰をかけて、いつでも疲れているような痩せしょびれた小さな顔を上向き加減にして、股火鉢をしていた、干からびた唇を大事そうに結びながら。

<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けたホヤのラムプがそこにも一つの簡単な<ruby><rb>鉄条</rb><rt>はりがね</rt></ruby>の自在鍵にぶら下って、鈍い光を黄色く放っていた。柿江はそれを見ると、ふとまた考えてはならぬものを考えだしてしまっていた。自分だけに向って送ってよこす女の笑顔、自分と女とのほかには侵入者のない部屋、すべてを忘れさす酒、その香い、化粧の香い……そしてそれらのすべてを<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らに包む黄色い夜の燈火。……柿江は思わずそれを考えている自分の顔つきが、森村という鏡に映ってでもいるように、素早くその顔を<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>みみた。しかし森村の顔は<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>のようだった。

「おい貴様この包を帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>に白官舎に投げこんでおいてくれないか」

と何げない風にいいながら、柿江はぼろぼろになった自分の袴を脱いで、それに書物包みをくるみ始めた。森村は見向きもせずに前どおりな無表情な顔を眼の前の窓の<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>あたりに向けたままで、

「これからまたどこかに行くんか」

とぼんやりいった。柿江は、

「うむ」

と事もなげに答えるつもりだったが、自分ながら<ruby><rb>悒鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>だと思われるような返事になっていた。

「そこにおいとけ」

ややしばらくして森村がこういった。

まだ生徒たちは帰りきらないで、廊下で取組合いをするものもあるし、玄関に五六人ずつかたまって、教師といっしょに帰ろうと待ちながら、大声でわめいているものもあるし、<ruby><rb>煤掃</rb><rt>すすは</rt></ruby>きのような音を立てて、教室の<ruby><rb>椅子卓</rb><rt>いすつくえ</rt></ruby>を片づけているものもあった。柿江が戸外に出れば、「先生」と呼びかけて、取りすがってくる生徒が十四五人もいるのはわかりきっていた。柿江はそわそわした気分で、低い天井とすれすれにかけてある八角時計を見た。もう九時が十七分過ぎていた。しかしぐずぐずしていると、他の教師たちがその部屋にはいってくるのは知れている。それは面倒だ。柿江は<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ず、

「それじゃ貴様頼むぞ」

と言い残して、留守番の台所口に乱雑に脱ぎ捨ててある教師たちの<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>の中から、自分の分を真暗らな中で手さぐりに捜しあてて、戸外に出た。

戸外は寒く真暗らだった。するとそこで柿江は自分の顔がきゅうにあつくなって、酔った時のように赤らんだのを感じた。心臓が音を立てんばかりに強く打ちだしたのを感じた。なるべく生徒の眼に触れぬようにと、生垣に沿うて素早く歩きだしたが、小さな生徒たちの鋭い眼はもちろんそれを見のがしはしなかった。柿江の身のまわりには鈴なりに子供たちがからみついていた。

「ゆんべはおっかなかったよ、先生、酔っぱらいのおやじが、両手を拡げて追ってくるんだもの」

「なあ」

「先生は今夜わしの方へと廻っておくれよ」そのほかいろいろな言葉が一度に、不思議な後ろめたさに興奮している柿江の耳に騒々しく響いてきた。柿江はわざと例のとぼけたような声を取りだして、生徒たちからなるべく早くのがれようと試みつつ、暗い貧乏町の往来に出た。

自分にまつわりついている生徒たちのほかに、そこにもここにも子供がいて、ややともすると柿江に話しかけようとした。

「先生は今日は用事があるんだから、明日の晩……じゃない、明後日の晩には皆なを送ってやるから、今日はめいめいで帰ってくれ、な。おい、いかんよ、そんなにからまりついちゃ」

そんなことを言って柿江はとうとう子供たちから離れて夜道を西へ向いて急いだ。

創成川を渡ると町の姿が変ってきゅうに小さな都会の町らしくなっていた。夜寒ではあるけれども、町並の店には灯が輝いて人の往来も相当にあった。

ふと柿江の眼の前には大黒座の絵看板があった。<ruby><rb>薄野</rb><rt>すすきの</rt></ruby>遊廓の一隅に来てしまったことを柿江は<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>った。そこには一丈もありそうな<ruby><rb>棒矢来</rb><rt>ぼうやらい</rt></ruby>の塀と、昔風に<ruby><rb>黒渋</rb><rt>くろしぶ</rt></ruby>で<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>られた火の見<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>があった。柿江はまた思わず自分の顔が<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>るのを痛々しく感じた。

ガンベだった、その奇怪な世界の中に柿江を誘っていったのは。おそらく彼は何んの意味もない酔興から柿江をそこに連れていったのだろう。しかし柿江にとっては、この上もない迷惑なことであって、この上もない<ruby><rb>蠱惑的</rb><rt>こわくてき</rt></ruby>な冒険だった。「俺はいやだよ、よせよ」と自分にからみついてくるガンベの鉄のような力強い腕を払い退けながら、柿江の足は我にもなくガンベの歩く方に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いていった。二人はいつの間にか制帽を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろの中にたくしこんでいた。昼間見たら<ruby><rb>垢光</rb><rt>あかびか</rt></ruby>りがしているだろうと思われるような、厚織りの紺の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った。白官舎のとは反対に、新しくはあるけれども、踏むたびごとにしないきしむ階子段を登って、油じみと焼けこげだらけな畳の上に坐らせられた。眼をそむけたいほど淫らな感じのする女が現われて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べたべた</span>と柿江の膝の上に乗りかからんばかりに横とんびに坐った。ガンベが何か大声で一人ではしゃいでいるうちに酒が出た。柿江は早く自分を忘れたいばかりに、さされる盃を受けつづけた。飲むというほど飲んだことのない酒はすぐ頭へとひどくこたえだした。眼の中が熱くなって、そこに映るものが不断とは変ってきた。こんな場合、当然起ってくべきはずの性慾はますます退縮して、ただわくわくするような興奮で身の内が火のように震えだした。そして時々氷が……それは言葉どおりに氷だった……氷の小さい塊が溶けながら喉許から胸の奥にと薄気味悪く流れ下った。

「どうだ、ありがたかろう」

床の正面に、半分枯れかかった樺色と白との野菊を生けて、駄菓子でこね上げたような花瓶のおいてあったのを、障子の隅におろしてしまって、その代りに自分の懐ろから制帽を取りだして<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく飾りながら、ガンベが拝むような様子をしてこういったっけ。柿江はいやな夢でも見ているような心持になったが、どういうつもりだったか、奇怪にも我れ知らず笑いだした。大声を上げていつまでもげらげらと。女たちがそれをおかしがるとなお笑った。

柿江は大黒座を左に折れて、遊廓の大門を大急ぎで通り越しながら、こんなことを不安に満たされた胸の中で回想していた。

柿江は自分が何の気なしにすることが、どうかすると人には<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>に見えて、それが一つの<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>にされているのを意識していた。あの時もそんな気持が動いていたのだなと思った。取り返しのつかないようないやな心持がした。どうせああいう種類の女だ。かまうものかとも思った。それから今考えても自分に愛想の<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きるような気持を起させるのはその翌日のことだ。眼を覚ますと、もう朝日がいっぱいに射していたが、小恥かしい気分の中で真先に意識に上ってきたのはガンベのあの<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い皮肉な片眼の顔だった。彼奴は憎々しいほくそ笑みを今ごろどこかで<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らしているのだろう。しかも話の合う仲間の処に行って、三文にもならないような<ruby><rb>道徳面</rb><rt>どうとくづら</rt></ruby>をして、女を見てもこれが女かといったような無頓着さを装っている柿江の野郎が、一も二もなく俺の策略にかかって、すっかり<ruby><rb>面皮</rb><rt>つらのかわ</rt></ruby>を剥がれてしまったと、仲間を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっ</span>と笑わすことだろう。そう思うと柿江は自分というものがめちゃくちゃになってしまったのを感じた。そういえばかんかんと日の高くなった時分に、その家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで戸外に出る時のいうに言われない<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>がまのあたりのように柿江の心に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>った。

それでも柿江の足は依然として行くべき方に歩いていた。いつの間にか彼は遊廓の南側まで歩いてきていた。往来の少ない通りなので、そこには枯れ枯れになった<ruby><rb>苜蓿</rb><rt>うまごやし</rt></ruby>が一面に生えていて、遊廓との界に一間ほどの<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>のある九間道路が淋しく西に走っていた。そこを曲りさえすれば、鼻をつままれそうな暗さだから、人に<ruby><rb>見尤</rb><rt>みとが</rt></ruby>められる心配はさらになかった。柿江は眼まぐろしく自分の前後を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っておいて、飛びこむようにその道路へと折れ曲った。<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>がひとりでに腹の底から湧いてでた。

何、かまうものか。ガンベは日ごろからちゃらっぽこばかりいっている男だから、あいつが何んといったって、俺がそんなことをしたと信ずる奴はなかろう。もしガンベが何か言いだしたら俺はそうだガンベのいうとおり昨夕薄野に行って女郎というものと始めて寝てみたと逆襲してやるだけのことだ。それを信ずる奴があったら「へえ柿江がかい」と愛嬌にしないとも限らないし、しかしたいていの奴は「ガンベのちゃらっぽこもいい加減にしろ」と笑ってしまうに違いない。こう柿江は腹をきめて何喰わぬ顔で教室に出てみた。ガンベも教室に来ていた。が彼は昨夜のことなどはまったく忘れてしまったような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けろり</span>とした顔をしていた。柿江はガンベを<ruby><rb>野放図</rb><rt>のほうず</rt></ruby>もない男だと思って、妙なところに敬意のようなものを感じさえした。そしてその日はできるだけさしひかえて神妙にしていた。いつガンベに<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざ</rt></ruby>かしいという感じを与えて、油を<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られないとも限らない不安がつき<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>って離れなかったから。

「俺はその時、こんな経験は一度だけすればそれでいいと決めていたんだ。まったくそれに違いないのだ。これ以上のことをしたら俺はたしかに<ruby><rb>堕落</rb><rt>だらく</rt></ruby>をし始めたのだといわなければならない」

淋しい道路に折れ曲るときゅうに歩度をゆるめた柿江は、しんみりした気持になってこう自分にいい聞かせた。彼は始めて我に返ったように、いわば今まで興奮のために緊張しきっていたような筋肉をゆるめて、肩を落しながらそこらを見廻わした。夜学校を出た時真暗らだと思われていた空は実際は初冬らしくこうこうと冴えわたって、無数の星が一面に光っていた。道路の左側は<ruby><rb>林檎園</rb><rt>りんごえん</rt></ruby>になっていて、おおかた葉の散りつくした林檎の木立が、高麗垣の上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うざうざ</span>するほど枝先を空に向けて立ち連なっていた。思いなしか、そのずっと先の方に<ruby><rb>恵庭</rb><rt>えにわ</rt></ruby>の奇峰が夜目にもかすかに見やられるようだ。柿江にはその景色は親しましいものだった。彼がひとりで散策をする時、それはどこにでもいて彼を待ち設けている山だった。習慣として彼は家にいるより戸外にいる方が多かった。そして一人でいる方が多かった。そういう時にだけ柿江は朋輩たちの軽い<ruby><rb>軽侮</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>から自由になって、自分で自分の評価をすることができるのだった。慣れすぎて、今は格別の感激の種にはならなかったけれども、それだけ札幌の自然は彼の心をよく知り抜いてくれていた。

「そうだ、もう帰ろう」

柿江はかなり強い決心をもって、西の方を向いてゆるゆると歩みを続けた。そして道路の右側にはなるべく眼をやるまいとした。

しかしそれはできない相談だった。窓という窓には眼隠しの板が張ってあって、何軒となく立ちならんでいる<ruby><rb>妓楼</rb><rt>ぎろう</rt></ruby>は、ただ真黒なものの<ruby><rb>高低</rb><rt>たかひく</rt></ruby>の連なりにすぎないけれども、そのどの家からも、女のはしゃぎきった、すさんだ声が手に取るように聞こえていた。本通りの大まがきの方からは、拍子をはずませて打ちだす太鼓の音が、変に肉感と冒険心とをそそりたてて響いてきた。ただ一度の遊興は柿江の心をよけい空想的にして、わずかな光も漏らさない窓のかなたに催されている<ruby><rb>淫蕩</rb><rt>いんとう</rt></ruby>な光景が、必要以上にみだらな色彩をもって思いやられた。彼よりも先に床にあって、彼の方に手をさし延べて彼を誘った女、童貞であるとの彼の正直な告白を聞くと、異常な興味を現わして彼を迎えた女、少しの美しさも持ってはいないが、女であるだけに、柿江がかつて触れてみなかった、皮膚の柔らかさと、滑らかさと、温かさと、匂いとをもって彼を有頂天にした女、……柿江はたんなる肉慾のいかに力強いかを感じはじめねばならなかった。彼は自分が恐ろしくなった。自分がこんなものだとはゆめにも思わなかったのだから。これはいけないとみずからをたしなめながら、すがりつくように左の方の淋しい林檎園を見入ったけれども、それは何んの力にもならなかった。自分の家のことを大急ぎで思いだしてみた。何んの感じもない。白官舎のものたちの思わくを考えてみた。何んの利き目もない。夜学校の教師たる自分の立場を省みてみた。ところが驚くべきことには、そこにいる女の生徒の顔や、襟足や、手足が、今までにもある感じを与えられていないことはなかったが、すぐ無視することのできたそれらのものが……柿江は本当に恐ろしくなってきた。……全身は<ruby><rb>悪寒</rb><rt>おかん</rt></ruby>ではなく、病的な熱感で震えはじめていた。頭の中には血綿らしいものがいっぱいにつまって、鼻の奥まで塞がっていた。頭の重さというものが感ぜられるほど何かでいっぱいになっていた。そして柿江が何かを反省しようとすると、弾ね返すように断定的な答えを投げつけてよこした。たとえば、世の中にはずっと清潔な心と自制心とを持った男がと考える暇もなく、それは嘘だ、皆んな貴様と同様なのだ、たぶん貴様以上なのだ。<ruby><rb>法螺吹</rb><rt>ほらふ</rt></ruby>きのくせに正直者の貴様には今までそれが見えなかっただけだ、と彼の頭は断定的に答えるのだ。彼はそしてその答えに一言もないような気がした。

それなら行こう、と柿江が実際自分の体を遊廓の方にふり向けようとすると、まあ待ってくれと引きとめるものがどこかにいた。女に引きとめられたらそんな感じがするのだろうか、その力は弱いけれども、何かしら<ruby><rb>没義道</rb><rt>もぎどう</rt></ruby>にふりきることができなかった。今度が二度目だ。二度行ったら三度行くだろう。三度行ったら四度、五度、六度と度重なるだろう。どこからそんなことをする金が出てくるか。そのうちにすべての<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>が人に知れわたったらいったいどうする。

柿江はきゅうに頭から寒くなった。何んといってもそれは重大な問題だ。柿江は自分がどういう骨組で成り立っているかを知りぬいているのだから。彼奴は妙に並外れた空想家で、おまけに常識はずれの振舞いをする男だが、あれできまりどころは案外きまっていて、根が正直で生れながらの道徳家だ、そういう印象を誰にでも与えている。彼はそれを意識していた。そしてそれに<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって自分というものの存在を守っていた。万一、人々が彼に対して持っているこの印象を我から進んで崩したら、彼は立つ瀬がなくなるのだ。

柿江はいつの間にか遊廓に沿うてその西の端れまで歩いてきてしまっていた。そこには新川という溝のような細い川がせせらぎを作って流れている、その川音が<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ずった耳にも響いてきた。柿江はその川を越して遊廓から離れるべきだったのに、離れる代りに、また東の方に向いて元と来た道を歩きはじめた。柿江の心がどっちに傾いてもその足は目指すところを離れようとはしなかった。のみならず、彼は吸い寄せられるように、遊廓に沿うて流れている溝川の方へとだんだん寄っていって、右手の爪を血の出るほど深くぶつりぶつりと噛みながら少し歩いては立ち停り、また少し歩いては立ち停った。そしてとうとう一本だけ渡してある小さな板橋の所に来て動かなくなってしまった。

柿江は自分をそこに見出すと、また<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょときょと</span>とあたりを見廻した。人通りはまったく途絶えていた。そこいらには煙草の吸殻や、菓子の包んであったらしい<ruby><rb>折木</rb><rt>へぎ</rt></ruby>や、まるめた紙屑や、欠けた瀬戸物類が一面に散らばっていた。柿江はその一つずつに物語を読んだ。すべてがすでに乱れきった彼の心をさらにときめかすような物語だった。

突然柿江は橋の奥の路地をこちらに近寄ってくる人影らしいものに気がついた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思った拍子に彼は、たった今大急ぎでそこに来かかったのだというような早足で、<ruby><rb>驀地</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に板橋を渡りはじめていた。そして危くむこうからも急ぎ足で来る人――使い走りをするらしい<ruby><rb>穢</rb><rt>きた</rt></ruby>ない身なりの女だったが――に衝きあたろうとして、その側を夢中ですりぬけながら、ガンベといっしょに来た時のように制帽を懐ろにたくしこんだ。廓内の往来に出ると、暖かい黄色い灯の光に柿江は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しく取り巻かれていた。彼は慌てて袖の中を探った。財布はたしかに左の袖の底にあった。今夜はよその家にはいるのが得策だと心であせったが、どういうものかそれができないで、まずいことだとは知りながら、彼はひとりでにガンベに誘いこまれた敷波楼の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を飛びこむようにして潜った。

「日本服を改良しましょう、すぐしましょう」と書いた旗が、どういうきっかけだったか、その瞬間に柿江の眼にまざまざと映って、それが見る間に煙のようにたなびいて消えていった。

＊　　　　＊　　　　＊

「星野清逸兄。

「俺はやっぱり東京はおもしろい所だと思うよ。<ruby><rb>室蘭</rb><rt>むろらん</rt></ruby>か、<ruby><rb>函館</rb><rt>はこだて</rt></ruby>まで来る間に、俺は綺麗さっぱり北海道と今までの生活とに別れたいと思って、北海道の土のこびりついている下駄を、海の中に葬ってくれた。葬っても別に惜しいと思うほどの下駄ではむろんないがね。あれは柿江と共通にはいていたんだが、柿江の奴今ごろは困っているだろう。青森では夜学校の生徒の奴らが<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>にくれた新しい下駄をおろして、久しぶりで内地の土を歩いた。けれどもだ、北海道に行ってから足かけ六年内地は見なかったんだが、ちっとも変ってはいない。貴様にはまだ内地は <ruby><rb>Virgin</rb><rt>ヴァージン</rt></ruby> <ruby><rb>soil</rb><rt>ソイル</rt></ruby> なんだな。

「郷里にもちょっと寄ったがね、おやじもおふくろも、額の皺が五六本ふえて少ししなびたくらいの変化だった。相変らずぼそぼそと生きるにいいだけのことをして、内輪に内輪にと暮している。何をいって聞かせたってろくろく分りはしないのだから、俺は札幌の方を優等で卒業したから、これから東京に出て、もっとえらい大学で<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>きをかけるんだといい聞せておいた。何しろ英語を三つ四つ話の中にまぜれば、何をいっても偉いことのように聞こえるんだから、じつに簡単で気持がいいよ。たとえばこういう具合だ。

『おとうさまは知るまいが東京には <ruby><rb>University</rb><rt>ユニヴァーシティ</rt></ruby> という大学があって、象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができる。そこに行くと俺でも <ruby><rb>Student</rb><rt>ステューデント</rt></ruby> という名前を貰って、<ruby><rb>Sociology</rb><rt>ソシオロジイ</rt></ruby> <ruby><rb>and</rb><rt>アンド</rt></ruby> <ruby><rb>English</rb><rt>イングリッシュ</rt></ruby> <ruby><rb>grammar</rb><rt>グラマー</rt></ruby> <ruby><rb>and</rb><rt>アンド</rt></ruby> <ruby><rb>Chinese</rb><rt>チャイニイズ</rt></ruby> <ruby><rb>literature</rb><rt>リタラチャー</rt></ruby> というようなむずかしいものを習うだ。どうだね、もう二三年がところ留守にしてもいいずら』

『げえもねえことを……象山先生より偉くなったらどうする気だ』

俺の方では佐久間象山より偉い人間は出てこようがないとしてあるんだ。けれどもだ、おやじは俺が大の自慢で、長男は俺の<ruby><rb>後嗣</rb><rt>あとつ</rt></ruby>ぎ相当に生れついているが、次男坊はやくざな暴れ者だで、よその空でのたれ死でもしくさるだろうと、近所の者をつかまえて眼を細くしている。おふくろは六年も留守にしていた俺がいとしくって手放しかねるようだが、何一つ口を出さない。そして土間の隅で洗いものなどをしながら、鼻水を<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>に垂らして、大急ぎですすり上げたりしていた。

「けれどもだ、何をいうにも東京なら近いからということで、俺はとうとう郷里を出た。 Student になると学資ぐらいは自分で働きだすのだといって聞かせたら感心していたようだった。

「東京は俺にとっては Virgin soil だ。俺は真先に神田の三崎町にあるトゥヰンビー館に行って円山さんに会った。ちょうど昼飯時だったが、先生、台所の棚の上に膳を載せて、壁の方に向いて立ったなりで飯を喰っていた。湯づけにでもしていたのだろう、それをかっこむ音が上り口からよくきこえた。東京にこんなことをやって生きている人間があろうとは俺は思わなかったよ。トゥヰンビー館といえば、札幌の演武場くらいを俺は想像していたんだが、行ってみたら、白官舎を半分にして<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>を生やしたような建物だった。俺もやはり英語に出喰わすと、国のおやじに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひけ</span>を取らない田舎者だと思って感心した。

『ダントン小伝』を寄稿したのは俺だといって自分を紹介したら、円山さんは<ruby><rb>仏頂面</rb><rt>ぶっちょうづら</rt></ruby>に笑い一つ見せないで、そんなら上れといった。俺もそんなら上った。とにかく西洋館で、――とにかく西洋窓のついた日本座敷で、日曜学校で使いそうな長い腰かけと四角なテーブルがおいてあった。円山さんというのがいったい西洋窓のついた日本座敷みたいに、こちんこちんした無愛想な男だ。『何しに来た』、『修業に来た』、『何んの修業に来た』、『社会問題の修業に来た』、『学資がないんだろう』、『そうだ』、『俺に<ruby><rb>周旋</rb><rt>しゅうせん</rt></ruby>しろというのか』、『まあそうだ』、『家は貧乏か』、『信州の土百姓だ』、『俺たちといっしょに働く気か』、『それはまだ分らない』、『その答はよし』（なんだべらぼうめ――べらぼうという言葉は東京の書生がことごとに使う言葉で、俺はその後に使い覚えた。けれどもだ、この場合の俺の心持を現わすにはじつに都合がいい。本当は俺はその時、円山さんは恐ろしく高飛車に出たもんだなと、胸の中で長たらしく感心していたんだ）。円山<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く『どこで修業するつもりだ』、『Ｗ専門学校に行って矢部さんの講義を聞こうとおもう』、『札幌から紹介状でも貰ってきたか』、『来ん』、『じゃ俺が書くからこれから行ってみろ』……辞儀を一つする……貰いものの下駄をはく……歩く（ここは長し）……早稲田という所は<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の多いところだ。<ruby><rb>名詮自称</rb><rt>みょうせんじしょう</rt></ruby>だ。……大隈の大きな屋敷を外から見た。Ｗ専門学校に着いた……他の奇なし。

「矢部さんは円山さんよりよほど愛想がいい。写真で片眼の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べっかんこ</span>なのは知っていたが、ひどい若白髪だ。これはだいぶクリスチャンらしかった。俺も相当<ruby><rb>鞠躬如</rb><rt>きっきゅうじょ</rt></ruby>たらざるを得なかった。知合いの信者の家に空間があるかもしれないからいっしょに出かけてみようといって、学校から七八町くらいだ、表書きの家は、そこに連れていってくれた。そこのお内儀さんが矢部さんを見るとマルタが<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>にでも出喰わしたように頭を下げるので、俺は困った。俺は白状すると矢部さんよりもマルタの方によけい頭が下げたいぐらいだったから。東京の女は俺の眼から見ると皆な天使のようだぞ。

「俺の部屋は四畳半で二階の西角だ。東隣りは大きな部屋だが畳を上げて物置になっていて、どういうものか鼠の奴が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>といる。夜になると盛んに<ruby><rb>遊弋</rb><rt>ゆうよく</rt></ruby>をやって<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかでいい。けれどもだ、俺の所には喰うものはないからややもすれば足の先および耳鼻の類が危険だから、俺はかじられないだけの用心はしている。これより先、じつは俺は足の先をすでにかじられかかったんだ。けれどもだ、縁の先には大きな<ruby><rb>葡萄棚</rb><rt>ぶどうだな</rt></ruby>があって、来年新芽を吹きだしたら、俺は<ruby><rb>王侯</rb><rt>おうこう</rt></ruby>の気持になれそうだ。

「何しろ学校で<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>と<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはかないのは俺だけだ。足の裏が丈夫なら草履ははかなくともいいが袴ははかなければいかんといやがる。けれどもだ、袴をはけとは規則書に書いてないから勝手じゃないかと俺はいうた。足の裏はもとより丈夫だが、脛っぷし――というものがあるかないか、腕っぷしがある以上はありそうなものだ――だって丈夫だからな。俺はこれをサンキロティズムに対してサンバカミズム（Sansbakamism）と呼ぶだ。

「矢部さんの講義は何んといっても異色だ。<ruby><rb>嶄然</rb><rt>ざんぜん</rt></ruby>足角を現わしている。経済学史を講じているんだが『富国論』と『資本論』との比較なんかさせるとなかなか足角が現われる。馬脚が現われなければいいなと他人ながら心配がるくらいだ。図書館の本も札幌なんかのと比べものにならない。俺は今リカードの鉄則と取っ組合をしている。

「さてこれからまた取っ組むかな。

「大事にしろよ。

西山犀川

十月二十五日夜

＊　　　　＊　　　　＊

「ガンベさん、あなた今日から三隅さんの所に教えにいらしったの」

渡瀬は教えに行った<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を答えて、ちょうど顔のところまで持ち上げて湯気の立つ黄金色を眺めていた、その<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょこ</rt></ruby>に口をつけた。

「おぬいさんって可愛いい方ね」

そういうだろうと思って、渡瀬は酒をふくみながらその答えまで考えていたのだから、

「あなたほどじゃありませんね」

とさそくに受けて、今度は「憎らしい」と来るだろうと待っていると、新井田の奥さんは思う壷どおり、やさ<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みをしながら、

「憎らしい」

といった。そこで渡瀬はおかしくなってきて、片眼をかがやかして<ruby><rb>鬼瓦</rb><rt>おにがわら</rt></ruby>のような顔をして笑った。笑う時にはなお鬼瓦に似てくるのを渡瀬はよく知っていた。

「この女は俺の顔の<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いのを見て、どんなに気をゆるしてふざけても、遠慮からめったなことはしないくらいに俺を見くびっているな。醜い奴には男の心がないとでも思っているのか。ひとついきなり<ruby><rb>囓</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついてどのくらい俺が苦しめられているか思い知らしてやろうかしらん」

渡瀬は真剣にそうおもうことがよくあった。そのくらい新井田の夫人は渡瀬に対して開けっ放しに振舞ったし、渡瀬は心の中で、ありえない誘惑に誘惑されていたのだ。この瞬間にも彼にはそうした衝動が来た。渡瀬は笑いからすぐ渋い顔になった。

「あら変ね、何がそんなにおかしいこと」

といいながら、<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>の裾の方を器用に支えて、渡瀬の方にさし延べた。渡瀬もそれを受けに手を延ばした。親指の股に仕事<ruby><rb>疣</rb><rt>いぼ</rt></ruby>のはいった巌丈な手が、不覚にも心持ち<ruby><rb>戦</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるのを感じた。

「でもおぬいさんは星野さんに夢中なんですってね」

<ruby><rb>女郎</rb><rt>じょろう</rt></ruby>上りめ……渡瀬は不思議に今の言葉で不愉快にされていた。「おぬいさん」と「夢中」という二つの言葉がいっしょに使われるのが何んということなしに不愉快だった。人の噂からおぬいさんを弁護する、そんなしゃら臭い気持は渡瀬には頭からなかったけれども、やはり不愉快だった。

「焼けますかね」

渡瀬は額越しに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みかえした。

「それはお門違いでしょう」

今度は奥さんの方が待ち設けていたようにぴったりと迫ってきた。

「ははあん、この女はやはり俺をすっかり<ruby><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>にした気で得意なんだが、おぬいさんに少々プライドを傷けられているな……ひとつやってやるかな」

渡瀬の胸の中でいたずら者がむずむずし始めた。奥さんが、ごくわずかの間であったけれども、苦界というものに身を沈めていて、今年の始に新井田氏の後妻として買い上げられたのだという事実は渡瀬の心をよけい<ruby><rb>放埓</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>にした。うんと<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>してやろう……もしも冗談から駒が出たら――何かまうもんか、その時はその時のことだ……という万一の<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>をも、心の奥底では度外視してはいなかった。

「図星をさされたね」

渡瀬はまたからからと笑って、酒に<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>ってきた顔から、五分刈が八分ほどに延びた頭にかけて、むちゃくちゃに<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でまわした。

「ところが奥さん、あれは高根の花です。ピュリティーそのものなんです。さすがの僕もおぬいさんの前に出ると、<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>みの心が無性に湧き上るんだから手がつけられない……そんなに笑っちゃだめですよ、奥さん、それはまったくの話です。……何、信用しない……それはひどいですよ、奥さん。僕なんざあとてもおぬいさんのマッチではない。マッチですか。マッチというと相方かな（これはしまったと思って、渡瀬は素早く奥さんの顔色を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったが、案外平気なので、おっかぶせて言葉を続けた）相手かな……相手になれないと諦める気ばかり先に立つのです。おぬいさんの前に出ると、このガンベもまったく<ruby><rb>前非</rb><rt>ぜんぴ</rt></ruby>を後悔しますね」

「そんなに後悔することがたくさんおありなさるの」

「ばかにしちゃいけません。ばかにしちゃあ……」

渡瀬はまたあとを高笑で塗りつぶした。この女は生れてから満足した男に出遇ったことがないに違いない。ずいぶんいろいろな男の手から手に渡ったらしいのに、それだからたまには不愉快なほど人擦れがしているくせに、どこかさぐり寄るような人なつっこいところも持っている。こういう女に限って若い男が近づくと、どんなに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃん</span>としているように見えても、変に誘惑的な隙を見せる。おまけにこの女は少し露骨すぎる。星野に対してはあの近づきがたいような頭の良さと、色の青白い<ruby><rb>華車</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な姿とに興味をそそられているらしいし、俺を見ると、遠慮っ気のない、開けっ放しな頑強さにつけ入ろうとしている。そのくせいい加減なところに埒を造って、そこから先にはなかなか出てこようとはしない。いわば星野でも、俺でも、そのほかあの女の側に来る若い男たちは、一人残らず<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>のいいおもちゃにされているんだ。おもちゃにされるのが不愉快じゃないが、それですまされたのでは<ruby><rb>間尺</rb><rt>ましゃく</rt></ruby>に合わない。埒に手をかけて揺ぶってやるくらいの事はしても、そしてこの女がぎょっとして後すざりをするくらいなことになっても、薬にはなるとも毒にはなるまい。渡瀬は片眼をかがやかしながら、膳から猪口を取り上げて、無遠慮に奥さんの方にそれをつきだした。奥さんは失礼だという顔もせずに、すぐに銚子を近づけた。

「奥さん、あなたも杯を持ってきませんか。一人で飲んでるんじゃ気がひけますよ」

渡瀬はそう無遠慮に出かけてみた。

「私、飲めないもの」

酌をしながら、美しい眼が下向きに、滴り落ちる酒にそそがれて、上瞼の長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>のやや上反りになったのが、黒い瞳のほほ笑みを隠した。やや<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ声で言われた下卑たその言葉と、その時渡瀬の眼に映った奥さんの<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の初々しさとの不調和さが、渡瀬を妙に調子づかせた。

「飲めないことがあるものか、始終晩酌の<ruby><rb>御相伴</rb><rt>ごしょうばん</rt></ruby>はやっているくせに」

「じゃそれで一杯いただくわ」

渡瀬はこりゃと思った。埒がゆさゆさと<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>ぶられても、この女は逃げを張らないのみか、一と足こっちに近づこうとするらしい。構えるように膝の上に上体を立てなおして、<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みもしないのに、肩から、膝の上に上向きに重ねた手の平までの、やや血肥りな腕に美しい線を作って、ほほ笑んだ瞳をそのままこちらに向けて、小首をかしげるようにしたその姿は、自分のいいだした言葉、しようとしていることを、まったく知らない<ruby><rb>無邪気</rb><rt>むじゃき</rt></ruby>さかとみえるほど平気なものだった。渡瀬に残されたただ一つのことは、どたん場で背負投げを喰わない用心だけだ。

「いいんですか」

「何がよ」

すぐこういう答えが出た。

「ははは、何がっていわれればそれまでだが、じゃいいんですね」

「だから何がっていってるじゃありませんか」

「だから何がっていわれればそれまでだが……それまでだから一つあげましょう。循環小数みたいですね」

もとよりそこに盃洗などはなかった。渡瀬は膳の角でしずくを切って……もう俺の知ったことじゃないぞ……<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>から坐りなおって、正面を切って杯を奥さんの方にさしだしかかった。

「一人で飲んでいちゃ気が引けるとおっしゃられるとね」

と落着いた調子でいいながら奥さんは<ruby><rb>躇</rb><rt>ため</rt></ruby>らいもせず手を出すのだった。

「御同情いたみ入ります」

渡瀬は冗談じゃないぞと心の中でつぶやきながら急場で踏みこたえた。そして杯にちょっと黙礼するような様子をして手を引きこめた。

「あら」

「味が変っているといけないと思ってね、はははは……奥さん、僕はこれで<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れが強いから、たいていの事は真に受けますよ。これから冗談はあらかじめ断ってからいうことにしましょう」

「まったくあなたは己惚れが強いわねえ」

といいきらないうちに奥さんは口許に袖口を持っていって<ruby><rb>漣</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>のように笑った……眼許にはすぎるほどの好意らしいものを見せながら。思ったより手ごわいぞと考えつつも、渡瀬はやはりその眼の色に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれていた。そして奥さんの今の言葉は、渡瀬を大きなだだっ子にしていっているもののようにも取れば取れないこともなかった。渡瀬はしかし面倒臭くなってきた。いわば結局互に何んの結果に来るものではないのを知り抜いていながら、しいて不意な結果でも来るかのごとくめいめいの心に空想を描いて、けち臭い操りっこをしているのが多少ばからしくなってきた。そして渡瀬の腹には、どうせほんものにはなる気づかいはないという諦めも働いていないではなかった。おまけに新井田氏の帰宅が近づいているのも考えの中に入れなければならなかった。

ちょうどその時、渡瀬の後ろのドアがせわしなく開いたとおもうと、そこに新井田氏が小柄な痩せた姿を現わしたらしかった。渡瀬は前のように考えながらも、やはり奥さんに十分の未練を持っている自分を見出ださねばならなかった。なぜというと新井田氏がはいってきた瞬間に、その眼は思わず鋭くなって、奥さんが良人をどういう態度で迎えるかを観察するのを忘れなかったからだ。

「お帰りなさいまし」

と簡単にいうと、奥さんは体全体で<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びながらいそいそと立ち上った。渡瀬が注意せずにいられなかったのは立ち上った奥さんの<ruby><rb>節長</rb><rt>ふしなが</rt></ruby>に延びた腰から下に垂れ下っている<ruby><rb>前垂</rb><rt>まえだれ</rt></ruby>の、いうにいわれないなまめかしい感じだけだった。そんなものが眼に焼きつくほどに、奥さんは平生と少しも異ならない奥さんにすぎなかった。彼は坐りなおした自分の膝頭を見やりながら俯つ向いて、苦笑いの影を唇に漂わせるほかはなかった。

強い黄色い光を部屋じゅうに送る大きな空気ラムプの下にいても、新井田氏は血色の悪い人だった。一種の空想家らしく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎらぎら</span>とかがやく大きな眼が、強度の眼鏡越しに、すわり悪く活き活きと動いた。

「どうも失礼。おはじめでしたか。え、どうぞ。ちょっと用が片づかなかったもんですからおそくなって。……日が短かくなりましたなあ。それに戸外はずいぶん寒うござんすよ」

新井田氏は蛇の皮のように上光りのする綿入の<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ん前を右手できりりと引張りつけながら奥さんの今まで坐っていたところにきちんと坐った。そして煙管筒を大きな音をさせて抜き取ると、女持ちのような<ruby><rb>華車</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な煙管を摘みだした。

三十分ほどの後、新井田氏と渡瀬とは夕食をすませて、二人の間に研究室と呼びならされる暗室のような窓のない小部屋に、四角な粗末な卓を隔てて向いあっていた。小さなラムプのえがらっぽいような匂いと、今まで人気のなかったための寒さとが重くよどんでいた。

渡瀬は、代数の計算と下手な機械のダイヤグラムとが一面に書きつづられているフールス・キャップ四枚を自分の前において、イーグル鉛筆を固く握りしめながら新井田氏に項式の説明を試みているのだった。新井田氏はそのころ流行し始めた活動写真機に興味を持って、その研究なるものをやっていたのだ。自分の手で発声蓄音機を組立ててみたいというのが氏の野心だった。映画用のフィルムの運動の遅速によって蓄音機の方の速度が調節されるようにするのがあたり前だと渡瀬は考えた。しかし日本に来ている蓄音機は簡単な機械であるために、勢い蓄音機の方の改造は諦めて、それが有する速さに応じて写真機の方の速度を調節するように研究せねばならなかった。これならしかし割合に簡単なことで、渡瀬の工夫になる小さな中間機を使用すれば、実際においてある程度までの効果を挙げることができたのだ。新井田氏はその成功に喜び勇んで早く実用的な機械の製作にかかりたいとあせるのだけれども、渡瀬にとってはそれはさして興味のあることではなかった。渡瀬は蓄音機の機械をどれだけ複雑にすれば、最小限度の複雑化によって最大の効果を挙げうるかを数理的に解決したかったのだ。それゆえ彼は毎日その計算にばかり熱中して、新井田氏が機械の製作に取りかかろうというのを一日延ばしに延ばさせていた。始めの間こそは新井田氏もより進んだ発見が工作費用を節減するものと感じて根気よくその成就を待っているようだったが、計算の仕事がいつまで経っても片づかないのを知ると、そしてその問題が解決されても、日本ではそういう蓄音機を実際に製作するのが困難らしいということをほのめかされると、だんだん性急になってきた。計算計算といって長びいているのは、たんに仕事を長びかせるための渡瀬の<ruby><rb>魂胆</rb><rt>こんたん</rt></ruby>ではないかと邪推しだしたらしいのを渡瀬は感じた。いい加減に切り上げようかと渡瀬の思ったのもたびたびだったが、そうするとこの方の研究は早速打ち切りになって、他の研究がはじまるのを覚悟せねばならない。それは彼にとっては惜しいことだった。それゆえ彼は新井田氏の思わくをできるだけ無視しようとした。

渡瀬は今日もまた新井田氏と<ruby><rb>罫紙</rb><rt>けいし</rt></ruby>とをかたみ代りに見やりながら続けた。

「これがシャッターの回転数と蓄音機の円盤の回転数との関係を示した項式です。こういう具合にシャッターの方をＡとし、円盤の方をＢとすると、ＡとＴとの積は、一定時間におけるＡのヴェロシティすなわちＶだから、それからこの項式が出てくるのです。そこに持ってきてＢの方はこうなるでしょう」

新井田氏は半分解らないながらも、中腰になったまま、卓によりかかって神妙に渡瀬の説明に耳を傾けているらしくみえた。渡瀬はできるだけ解りやすくと、噛みくだくようにものをいっていたが<ruby><rb>符号</rb><rt>ふごう</rt></ruby>や数字が眼の前に数限りなくならんでいるのを<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っていくと、新井田氏の存在などはだんだん薄ぼやけてきた。今まで奥さんを眼の前にすえてふやけていた彼の頭はみるみる緊張して、水晶のような透明さを持ちはじめた。数字がたんなる数字ではなくなった。いわばそれらは大きな兵士の群のようだった。そのおのおのが持っている任務と力量とを彼は指揮官のように知っていた。彼はそれを用いてある勝敗を争おうとするのだ。彼の得意とする<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>囲碁</rb><rt>いご</rt></ruby>以上にこれは興味のあるものだった。どんな弱い敵に向っても、どんな優秀な立場にあっても、天運というものが思わざる邪魔をしないとも限らない、そこに自分の力量をだけ信用してはいられない投機的な不思議があるとともに、そうした場合自分の力量が、どれほどしなやかに機変に応じうるかを見きわめたい誘惑は大きかった。

渡瀬は説明を続けているうちに、だんだん一つの不安心な<ruby><rb>箇所</rb><rt>かしょ</rt></ruby>に近づいていった。その個所を突破しさえすれば問題の解決は<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しくはかどるのだ。そこにもう一度ぶつかって、それを征服してしまおうとの熱意がいよいよ燃えてきた。彼の眼の前で数字が堂々たる陣容を整えて展開した。それが<ruby><rb>罫紙</rb><rt>けいし</rt></ruby>の上をあるいは右に、あるいは左に、前後上下に働きはじめた。渡瀬は仕事<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たこ</span>のできた太い指の間にイーグル鉛筆を握って、数字と数字との間を縦横に駈けめぐった。しばらくの間鉛筆は紙の余白に細かい数字を連ねていたが、そして渡瀬は神文でも現われてくるのを見る人のように夢中で鉛筆のあとを追っていたが、やがて鉛筆は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はた</span>ととまってしまった。その瞬間に渡瀬は眼がさめたようになって、今まで書き続けていたところを読み辿ってみた。計算に間違はなかったけれども、項式はもう発展できないように横道に来ていた。

「奇体だなあ」

彼は思わず鉛筆を心もち紙の表面からもち上げて、自分に対して必死の抵抗を試みようとする項式をまじまじと眺めた。

「そこがどうなんです」

新井田氏が依然としてそこにいたのを渡瀬は知った。新井田氏の存在をおぼろげながら意識すると彼がその顧問（新井田氏自身は渡瀬を助手と呼んでいたが）となって、学資の大部分を得ているのを考え合わさないわけではなかったが、それが<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>のようにしか感じられなかった。渡瀬は「え」といってちょっと新井田氏を見上げただけで、またもや手をかえてその難問題にぶつかろうとした。大きな数がみごとに割り切れた時のような、あのすがすがしい気持を味うまでは、渡瀬の胸のこだわりはどうしても晴れようとはしなかった。彼は<ruby><rb>鞭</rb><rt>むちう</rt></ruby>つように罫紙を裏返した。それは見るまに数字で埋まってしまった。また一枚を裏返した。それもたちまち埋まっていこうとする。しかし計算はますます迷宮に入るばかりで、いつそこから抜けでられるのか予想はとてもつかなくなるばかりだった。

「変だなあ」

そう渡瀬の唇はおのずから言葉となった。そして鉛筆は堅くその手に握られたまま停止してしまった。

「そんなむずかしい計算をしなければこれは分らないのですか」

と新井田氏がそのきっかけをさらって口を入れた。すぐ<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を立てる、こらえ性のない調子が今度の言葉には明かに潜んでいた。渡瀬はそれを聞くと、これはいけないぞと思った。そしてはじめて新井田氏の存在を正当に意識の中に入れてその人を見やりながらつくろうような笑顔を見せた。口をゆるめると、今まで固く噛み合っていた歯なみが<ruby><rb>歯齦</rb><rt>はぐき</rt></ruby>からゆるみでるい軽い痛みを感じた。

不断はいかにも平民的で、高等学府に学んでいる秀才を十分に尊敬しているといいたげな態度を示している新井田氏でありながら、こういう場合になると、にわかに顔つきまで変ってしまって、少し加減してみせるとすぐつけあがってきやがると言わんばかりの、<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>な、見くだしたような眼の色を、遠慮もなく渡瀬の顔に投げてよこすのだった。しかしながら渡瀬はそれしきのことで自分の仕事を中止する気にはなれなかった。彼は好んでとぼけた様子をしながら、

「それはできないことはありませんがね……ま、もう少し待ってください。じきです。これさえ解ければ完全なものになるんですから……」

といって、ふたたび罫紙に眼を落した。新井田氏はそれに対して別に何んともいわなかった。けれどもしぶとい奴だと言わんばかりな眼が、渡瀬の額の生えぎわのあたりを意地悪くさまよっているのは、明かに渡瀬の神経にこたえてきた。まだだいじょうぶと渡瀬は思った。そこで彼はふたたび新井田氏をそっちのけにして、行きづまった計算の<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>をたぐりだしにかかった。

今度こそはと意気組を新たにしてかかった。数字がだんだんとその眼の前で生きかえり始めた。彼は今度は同じ項式の分解を三角法によってなし<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げようと<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てた。彼の頭の中にはこの難問題の解決に役立つかとおもわれるいくつかの定理が隠見した。鉛筆を下す前にその中からこれこそはと思われる一つを選み取らねばならぬ。彼は鉛筆の尻についているゴムを噛みちぎって、弾力の強い小さな塊を歯の間に<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>びながらいろいろと思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>った。

突然インスピレーションのように一つの定理が思いだされた。胸にこみ上げてくる喜びをじっと押し殺して、参謀の提出した方略を採用する指揮官のように、わざと落ちつき払いながら鉛筆を動かし始めた。今度こそはすべてが予期どおりに都合よく行きそうにみえた。一度分解した項式が結合をしなおして、だんだん単純化されていくところからみると、ついには単一の結論的項式に落ちつきそうにみえた。渡瀬は今まで口の中に入れていたゴムを所きらわず吐き捨てて、噛りつくように罫紙の上にのしかかった。

けれどもやはりむだだった。八分というところに来て、ようやく二つに<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>め上げた項式をいよいよ一つに結び合せようとする段になって、どうしてもそれが不可能であるのを発見してしまった。

「畜生」

思わず渡瀬は鉛筆を紙の上にたたきつけてこう叫んだ。

「渡瀬さん、私はもう行きます」

その瞬間にこう鋭くいい放された新井田氏の声を聞いて、渡瀬はまたもや現実の世界に引き戻された。もうそこいらには新井田氏の<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>の気分がいっぱいに漂っていた。渡瀬は思わず突っ立った。

「どうも私はこういうことは困りますな。なるほど研究には違いなかろうけれども、私のは機械がともかくできてさえくれればそれでいいんです。君のなさるようなことを、ここでこうしてぼんやり眺めていたところが、何んの薬にもなりませんから、私はごめん<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ります。すっかり冷えこんでしまいましたお蔭で……」

「ははん、先生、腹立ちまぎれに明日から俺を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだそうと考えているな。こりゃこうしちゃいられないぞ」……渡瀬の頭に<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に浮んだのはこれだった。しかし彼は驚きはしなかった。彼にはこの危地から自分を救いだす方策はすぐにでき上っていた。彼は得意先を丸めこもうとする呉服屋のような意気で、ぴょこぴょこと頭を下げた。そのくせその言葉はずうずうしいまでに<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>だった。

「やあすみませんまったく。こちらに来るまでに計算はこのとおりやっておいて、結果が出るばかりになっていたのだから、すぐできるとたかをくくっていたんですが、……これで計算という奴は曲者ですからなあ。今日はそれじゃ僕は失敬して家で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と考えてみます。作るくらいならあんまり不器用な……」

「そりゃそうですとも、作る以上は完全なものにしたいのは私も同じことじゃありますが、計算までここでやってるんじゃ、私は手持<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>で、まどろっこしくって困りますよ」

計算だって研究の一つだい。道具を家で<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすましておいて仕事場に来る大工があってたまるものか。いい加減な眼腐れ金をくれているのにつけあがって、我儘もほどほどにしろ。渡瀬は腹の中でこう思いながらも、顔つきにはその気配も見せなかった。

「じつは僕もこの仕事は早く片をつけたいんです。学校のラボラトリーでやっている実験ですが、<ruby><rb>五升芋</rb><rt>ごしょういも</rt></ruby>（<ruby><rb>馬鈴薯</rb><rt>ばれいしょ</rt></ruby>の地方名）から立派なウヰスキーの<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>れる方法に成功しそうになっているんです。これがうまくゆきさえすれば、それもひとつ見ていただきたいと思っているもんだから……」

新らしがりと、好奇心と、慾との三調子で生きているような新井田氏にこれが訴えていかないはずがない。渡瀬は新井田氏の顔が、今までの冷やかにも<ruby><rb>倨傲</rb><rt>きょごう</rt></ruby>な表情から、少し取り入るような――しかもその急激な変化に自分自身多少のうしろめたさを示さないではない――それに変っていくのを見てしすましたりと思った。

「それもまあそれでしょうがね。それにつけてもこっちの方を片づけていただかないじゃあね」

渋い顔には相違なかったが、それは<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の奥から手の出そうな渋い顔だった。発声蓄音機の方は成功したところが、そう<ruby><rb>需用</rb><rt>じゅよう</rt></ruby>のたくさんありそうなものではない。日本酒が高価になるばかりな時節に、ウヰスキーは当るに違いない。これは新井田氏がすぐ気のつきそうなことだ。ウヰスキーという新時代のものらしい名前そのものも、新井田氏には十分の誘惑になっているはずだ。

渡瀬は計算用の原稿紙を一まとめにして懐ろにしまいこみながら、馬鈴薯から安価な<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>と、そのころ恐ろしく高価なウヰスキーとが造りだされる化学上の手続を<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>わかりがするように話して聞かせた。新井田氏の顔はだんだん和らいできた。投機者には通有らしい、めまぐるしく動く大きな眼――それはもう一歩というところで<ruby><rb>詐欺師</rb><rt>さぎし</rt></ruby>のそれと一致するものだが――の眼尻に、この人に意外な愛嬌を添える小皺ができはじめた。それは自分の意見に他人を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き寄せようとする時には、いつでも自然に現われてくるのだった。人相見にでもいわせたら、これはこの人が天から授かった<ruby><rb>徳相</rb><rt>とくそう</rt></ruby>だとでもいうのだろう。

研究室はまったく寒い部屋だった。渡瀬は計算に夢中でいる間は少しも気がつかなかったが、これでは新井田氏が不平をこぼしたのもむりがないと思った。火鉢一つでは、こんな天井の高い家ではもう<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>げる時節ではない。それに<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>もだいぶふけたらしかった。おまけに酒の酔いもさめぎわになっていた。

玄関に来て帰りの挨拶をしかけると、新井田氏がきゅうに思いついたように、ちょっと待ってくれといってそそくさと奥にはいっていった。渡瀬はやむを得ずそこに突立って自分の下駄と新井田氏が脱ぎ捨てた<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>とを較べなどしていた。その時頭のすぐ上で突然音がした。ちょっと驚いて見上げてみると玄関のつきあたりの少しすすけた白壁に、金縁の大きな丸時計がかかっていて、その金色の針がちょうど九時を指していた。玄関に時計をおくとは変な<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をしたもんだなあと思いながら、渡瀬はまじまじと大ぎょうな金色に輝くその懸時計を見守って値ぶみをしていた。

間もなく新井田氏が奥さんにつきまとわれるようにして出てきた。渡瀬が夕食の馳走になった部屋のドアが開けぱなしにしてあるので、生暖かい空気とともに、今まで女がいたらしいなまめかしい匂いが、遠慮なく寒い玄関の空気の中に漂いでてきた。

「どうもお待たせしてすみませんでした」

新井田氏の口調は、第三者の前でいつでも新井田氏が渡瀬に対してみせるあの尊大で同時に<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な調子になっていた。

「今月の何んです、今月のお礼ですが、都合がいいから今夜お渡ししておきます。で、と、明日はおいでのない日でしたな。ところが明後日は私ちょっとはずせない用があるんですが、どうでしょう明日に繰り上げていただいちゃ、おさしさわりになりますか」

「ははん、活動写真は明日から廃業だな。先生ウヰスキーで夢中になっているな。子供だなあ」

月末にはまだ三日もある今夜<ruby><rb>報酬</rb><rt>ほうしゅう</rt></ruby>をくれるというのもそれで読めた。ところで俺の方からいうと、報酬を貰った以上、今月はもう来ないというのは予定の行動だ。

「ええ差支えありません。来ますとも」

「どうぞいらしってちょうだいね」

奥さんが……主人の加勢をするように主人には聞こえ、渡瀬を誘惑するように渡瀬には聞こえるそんな調子で。

「何しろ新井田は果報者だて」

渡瀬は往来に出て、寒い空気に触れるにつけて、暖かそうな奥さんの笑顔と肉体とを実感的に想像して、こう心の中で呟いた。けれども同時に、彼の懐ろの内も暖いのを彼は拒むことができなかった。あれだけをおっかあに渡して、あれだけを卯三公にやって、あれだけであの本を買って……と、残るぞ。二晩は遊べるな。……と、待てよ。きゅうにさっきまで考えつめていた計算のことが頭に浮んだ。ふむ……待てよ。渡瀬はたちまちすべてを忘れてしまった。数字の連なりが眼の前で躍りはじめた。渡瀬はしたり顔に一度首をかしげると、堅く腕を胸高に組合せて霜の花でもちらちら飛び交わしているかと冴えた寒空の下を、深く考えこみながら、南に向いてこつりこつりと歩いていった。

＊　　　　＊　　　　＊

ガンベが「園にそうたびたびねだるのだけはやめろ、よ。あんなお坊ちゃんをいじめるのは貴様可哀そうじゃねえか。貴様ああんまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けち</span>だぞそれじゃ。俺なんざあこれで一度だって園にせびったことはないんだ。それに、まさかという時の用意に一人くらいとっときを作っておかないとうそだぞ貴様、はははは」といって笑ったことがあった。人見は隣りの園の部屋に行こうかと思って座を立ちかけた瞬間にこれを思いだした。しかし今の場合、園の所に行って話を持ちかけるほかに道がないのだ。

人見は痩せてひょろ長い体を机の前に立ちあがらせると、気持の悪い<ruby><rb>生欠伸</rb><rt>なまあくび</rt></ruby>をした。彼は自体、園にこんなことをたびたび頼むのは、自分の見識からいっても、いかがなものだとは知っていたんだが、まず何んといっても一番無事に話のつきそうなのは、園のほかにはないのだからしかたがない。取りあってくれない奴だの、ばかにして話に乗らない奴だの、自分の金の不足になったことだけを知っていて、油を<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>ろうとする奴だのにかかってはまったく面倒だ……それとももう一度婆やを泣かせようかとも思ったが、はした金にありつくのに、婆やの長たらしい泣き言を辛抱して聞いているのはやりきれない。やはり園が一番いい。すべての点において抵抗力が最も少ない。よかろう……人見は自分の部屋を出て、隣りの部屋のドアに手をかけた。また生欠伸が出た。

「園君いる？」

「ああ、はいりたまえ」

すぐこういう返事が小さく響いたが、机に向いたままでいっているらしく、声がゆがんで聞こえてきた。勉強をしているなとおもいながら、人見はそっと戸を開いた。

きちんと<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>した広い部屋の一隅に小さな机があって、ホヤの綺麗に掃除された置ラムプの光の下で、園ははたして落ち着いて書見していた。戸外では雨も雪もまじえない風がもの凄く吹きすさんでいたが、この部屋はしんみりとなごいていた。人見は音のしないように戸をたてると、静かに机の方によっていった。やがて園ははじめて顔を挙げて人見を見かえった。光に背いて暗らくはあったけれどもその顔には格別不快らしい色は見えないようにみえた。そして「ひどい風になったねえ」といいながら、静かに座を立って、座蒲団の上に敷きそえていた、毛布の畳んだのを火鉢の向うにおきなおした。人見はちょっと遠慮するような恰好でそれに坐った、それは園の体温でちょうどよく暖たまっていた。

綺麗に掃除されたラムプの油壷は<ruby><rb>瑠璃色</rb><rt>るりいろ</rt></ruby>のガラスで、その下には乳色のガラスの台がついていた。ありきたりの品物だけれども、大事に取り扱われているためか、その瑠璃色の部分が透明で、美しい光沢を持っていた。骨を入れて<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>のような形に作った白紙の笠、これとてもありきたりのものだが、何んとなく<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しくって、注意してみると、一カ所、針の先でいくつとなく<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>を明けた所があった。園が何か深く考えこみながら、無意識にその辺にあった縫針でいたずらをしたものに違いない。あの子供のように澄んだ眼でじっとラムプを見つめながら、ぷつりぷつりと乾いた西洋紙に孔を明けている園の様子が見えるようだった。

「何を勉強しているの」

園に対してはどうもひとりでに人見は声を柔らげなければならなかった。

「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに“<ruby><rb>Mutual</rb><rt>ミューチュアル</rt></ruby> <ruby><rb>Aid</rb><rt>エイド</rt></ruby>”とだけ書いてあった。

「倫理学の問題でも取りあつかったものかい」

「著者は Prince P\. Kropotkin という人で……」

「何、クロポトキン……それじゃ君、それは<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の有名な無政府主義者だ」

人見は星野や西山たちが議論する座に加わって、この人の名はたびたび耳に入れたのだが、自分は学校で「農政および農業経済科」を選んでいるくせに、その人にどんな著書があるかをさえ調べてみたことはなかったのだ。

「そうだってね。僕にはその無政府主義のことはよく分らないけれども、この本の序文で見るとダーウヰン派の生物学者が極力主張する生存競争のほかに、動物界にはこの mutual aid ……何んと訳すんだろう、とにかくこの現象があって、それはダーウヰンもいっているのだそうだ。……そうだ、いってはいるね。『種の起源』にも『旅行記』にも僕は書いてあったと思うが……。それがこの本の第一編にはかなり綿密に書いてあるようだよ」

「科学的にも価値がありそうかい」

「ずいぶんダータはよく集めてあるよ」

そういいながら園はそこにあった葉書をしおりにはさんで書物を伏せた。柿江――彼は驚くべき多読者だが――などが書物を読んでいるのを見ても、そうは思わないが、園の前に書物があるのを見ると、人見はある圧迫を感じないわけにはいかなかった。園はあの落ち着いた態度で書物の言葉の重さを一つずつ計りながら、そこに蓄えられている滋養分を綺麗に吸い取ってしまいそうに見えた。そして読み終えられた書物には少しの油気も残ってはいまいと思わされた。実際園が書物に見入っているところを傍から見ていると、一刻一刻園が成長してゆくのが見えるようで、人見はおいてきぼりを喰いそうで、不安になるくらいだった。といって彼の書見に反対を<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>える理由はさらにないのだ。

話題が途切れると、園は静かな口調で、今まで読んだところを人見に話し始めたが、人見にとっては初耳で珍らしい事実が次から次へと語りだされるのだった。そして園は著者の提供した議論に対しても相当に見識があると思われる批評を下すのを忘れなかった。生娘のように単純らしく思われる園の頭がよくこれだけのことを吸収しうるものだ。つまりあいつの頭は学者という特別な仕事に向くようにできているんだと人見は（自分の持っている実際的の働きにある自信を加えて）思った。したがって園の話すところは、珍らしく、驚くべき事実であるには相違ないけれども、人見にとっては直接何んの関係もないことだった。そんなことを覚えていたところが、それは彼にとっては<ruby><rb>鶏肋</rb><rt>けいろく</rt></ruby>のようなもので、捨てるにもあたらないけれども、しまいこんでおくにはどこにおくにも始末の悪い代物だった。結局その場の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばつ</span>を合わせるために、そうかといって聞いておけば、それですむような事柄なのだ。で、人見は聞きながらもだんだん興味からは遠ざかっていった。それよりも機を見計らってこっちから切りだそうとする問題が、ややともすると彼の頭をよけい支配した。

人見の顔からは興味の薄らいでゆくのを見て取ってか、園はやがて話を途中で切って黙ってしまった。それがしかし人見を軽蔑しての上のことでないのはその顔色にもよく<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われるし、かえって自分で出すぎたことをいって<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けたと反省して遠慮するらしい様子が見えた。

この辺でこっちが今度は切りだす番だ。ちょうどいい潮時だと人見は思ったが、園に向っていると変にぎごちない気分が先き立った。彼は自分を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>したてるように、明日に迫る月末の苦しさを一度に思い起してみた。それと同時に、何度も園からせびり取りながら、そして一時的な融通を頼むようなことをいつでもいいながら、一度も返済したことのない後ろめたさが思い起されるのだった。今度借りたら、今度こそは一度でも綺麗に返金しておかないとまずいことになる。そうしよう。そうして借りようととうとう人見は腹をきめた。

人見は星野の真似をして襟首に巻いていた古ぼけたハンケチに手をやって結びなおしながら上眼で園を見やった。

「時に園君どうだろう。君の所に少しでもよぶんの金はないだろうか。（おっかぶせるように）じつは君にはたびたび迷惑をかけているのですまないんだが、またすっかり行きつまっちゃったもんだから……西山か星野でもいるとどうにかさせるんだが（こりゃ少しうそがすぎたかなと思ったが園がその言葉には無関心らしく見えるのですぐ追っかけて）ちょうどいないもんだから<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>つまったのさ。本屋の払いが<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>みすぎて……もう三月ほど支払を滞らしているから今度は払っておいてやらないとあとがきかなくなるんだ。……そうだねえ五円もあれば（五円といえば一カ月の食費だが少し大きくいいすぎたかしらんと思って人見はまた園の様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った）……何、それだけがむずかしければ<ruby><rb>内輪</rb><rt>うちわ</rt></ruby>になってもかまわないんだが……」

園は人見の眼に射られると、かえって自分で恥じるように視線をそらして、火鉢の火のあたりを見やったが、じっとそれを見やってしばらく考えているらしく、返事をしなかった。

人見は園が格別裕福な書生であるとは思われなかった。が、少なくとも白官舎にまがりこまねばならぬほどの書生ではなく、ここに来たのは星野がいっしょにいようと勧めたからのことであるのを知っていた。それにしても、足りないながらも国許から毎月自分に送ってくる学資をよそに消費しておいて――消費するというと大きく聞こえるが、ほんの少しばかりをおたけとクレオパトラのために消費するだけなのだ――不足を園にぶちかけるのは少し虫がよすぎるようだ。しかしこの場合金がいることだけはたしかなのだ。園が何んと返事をするかと人見はそれに興味をさえかけた。

「だいぶ切迫して必要なの」

とややしばらくして園がはじめて顔を上げて静かに人見を見た。これはまた園があまり真剣に考えすぎたなと思うと、人見には即座に返事をするのが<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>された。その時ふっと考えついた思案をすぐ実行に移した。彼は懐中を<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>を取りだした。そしてその中からありったけの一円五十銭だけ、大小の銀貨を取りまぜて掴みだした。

「もっともこれだけはあるんだが、これは何んの足しにもならないが、僕の君に対する借金の返済の一部とするつもりで取っておいたんだ。ところが昨日本屋の奴が来やがって、いやに催促がましいことをいうもんだから、ひとまず君にはすまないが――そっちを綺麗にして鼻をあかしてやれという気になったのさ。で、これをまず君の方に納めて、あらためて五円にして貸してくれるわけにはいくまいかな」

「いいとも」

園はその長口上を少しまどろこしそうに聞いているらしかったが、人見の言葉が終るとすぐにこういって、机の方に向きなおった。園は例のとおり、ポッケットの中から、机の抽出しから、手帳の間から、札びらや銀貨を取りだした。あの<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>に見える園には不思議な現象だと人見の思うのはこのことだけだった。あれで園はいつどこにいくら入れたということをちゃんと<ruby><rb>諳記</rb><rt>あんき</rt></ruby>しているのかもしれないとも思った。園は取りだした金を机の上で<ruby><rb>下手糞</rb><rt>へたくそ</rt></ruby>に勘定していたが、やがてちょうど五円だけにしてそれを人見の前においた。そして自分の方が金を借りでもしたかのように、男には珍らしい<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかな頬の皮膚をやや紅くした。

「どうもすまないよ。どうもありがとう」

人見は思わずせきこんでこういったが、何か自分の言葉が下品に響いたようだった。

戸外では寒いからっ風が勢いこんで吹きすさんでいるらしく、建てつけの悪るい障子が<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>りへらされた溝ときしり合って、けたたましい音を立てていた。この時始めてそれに気がつくと、人見は話の糸目を探りあてたように思って、落着きを見せて畳の上の金を蟇口にしまいこみながら、

「こりゃいよいよ冬が来るんだよ。また今年も<ruby><rb>天長節</rb><rt>てんちょうせつ</rt></ruby>には大雪だろうね。星野はどうしているかしらん」

と園の心を占めているらしくみえる名前の方に漕ぎ寄せていった。

「星野君からは昨日手紙を貰ったっけ。すっかり冬が来るまでは千歳にいるのだそうだ。別に健康が悪いというのでもなさそうだが、気候の変り目はあの病気にやはりよくないのだろうね」

そういって園は静かに人見を見上げたが、その眼は人見を見ているというよりも、遠い千歳の方を見すかしているように見えた。人見は人見で、今蟇口をしまいこんだポッケットの中に、おたけから来た手紙が二つに折ってしまいこまれてあるのを意識していた。彼はそれを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてみた。園に対して感じるとはまったく違った暖かい、ふくよかな感じが、みるみる胸いっぱいに<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ってきた。

「君はこのごろはどうなの」

園がしばらくしてからこういった。園の眼は今度はまさしく人見を見やっていた。人見は不意を衝かれたように思って、ちょっと尻ごみをしていたが、慌て気味に手が襟巻のところに行ったと思うと、今まで少しも出なかった咳が軽く喉許を<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>るのを覚えた。しかし人見はわざとその咳を呑みこんでしまった。

「なあに、僕のはたいしたことはないんだよ」

まったく医者が見てくれるたびごと、たいしたことはないというのだが、それが何か物足らないのだけれども、この場合やはり医者がいうようにいうのが恰好だと人見は思ったのだ。そして園という男は変にストイックじみた奴だなと思った。

＊　　　　＊　　　　＊

紺の上っぱりを着て、古ぼけた手拭で姉さんかぶりをした母が、後ろ向きに店の隅に立って、<ruby><rb>素麺</rb><rt>そうめん</rt></ruby>箱の中をせせりながら、

「またこの寒いにお前どこかに出けるのけえ」

というのを聞き流しにして清逸は家を出た。

夕方だった。道を隔てて眼の前にふさがるように切り立った高い<ruby><rb>崕</rb><rt>がけ</rt></ruby>の上に、やや黄味を帯びた青空が寒々と<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて、ガラス板を張りつめたように平らに広がっていた。家の中にいても火種の足りない火鉢にしがみついて、しきりに<ruby><rb>盗風</rb><rt>すきまかぜ</rt></ruby>の忍びこむのに震えていなければならぬ清逸にとっては、屋外の寒さもそう気にならなかったが、とにかく冬が紙一重に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ってきた山間の空気は針を刺すように身にこたえた。彼は首をすくめ、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろ手をしながら、落葉や朽葉とともにぬかるみになった粘土質の県道を、<ruby><rb>難渋</rb><rt>なんじゅう</rt></ruby>し抜いて<ruby><rb>孵化場</rb><rt>ふかじょう</rt></ruby>の方へと川沿いを<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>っていった。

風は死んだようにおさまっている。それだのに枝頭を離れて地に落ちる木の葉の音は繁かった。かさこそと雑木の葉が、ばさりと<ruby><rb>朴</rb><rt>ほう</rt></ruby>の木の広葉が、……朴の木の葉は雪のように白く<ruby><rb>曝</rb><rt>さ</rt></ruby>らされていた。

自分の家からやや一町も離れた所まで来ると、清逸は川べりの方に自分で踏みならした細道を見出して、その方へと下りていった。赤に、黄に、紫に、からからに乾いて蝕まれた<ruby><rb>野葡萄</rb><rt>のぶどう</rt></ruby>の葉と、枯<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>とが虫の音も絶えはてた地面の上に干からびて縦横に折り重なっていた。常住<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>り気の乾ききらないような黒土と混って、大小の丸石が歩む人の足を妨げるようにおびただしく<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっていた。その高低を体の中心を取りながら<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っていくと、<ruby><rb>水嵩</rb><rt>みずかさ</rt></ruby>の減った千歳川が、四間ほどの幅を眼まぐるしく流れていた。清逸はいつもの所に行って落葉をかきのけた。一夜の間に落ちる木の葉の数はそれほどおびただしかった。<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の中から紙屑をつぎつぎに取りだしてそれをそこの穴に捨てた。夕方のかすかな光の中に青白い印象を清逸の眼に残して、その紙屑は一つ一つ地に落ちた。<ruby><rb>喀痰</rb><rt>かくたん</rt></ruby>の中に新鮮な血の交ったのがいくつも出てくるのを見ると、知らず知らず溜息が出た。古い紙屑の上に新しい紙屑がぼろぼろと白く重なっていった。清逸はやがて大儀そうにその上をまた落葉で<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うて立ち上った。そして何んということもなくそこに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで川面を眺めやった。半年という長い眠りにはいりこもうとするような自然は、それを眺める人の心を、寒く閉ざしていく静かさをもって、静かに最後の呼吸をしているようだった。枝を離れた一枚の木の葉が、流れに漂う小舟のように、その重く<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んだ空気の中を落ちもせず、ひらひらと<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>っていくのを見た。清逸はふとそれに気を取られて、どこまでもその静かに動いていく行く手を見とどけようとした。たくさんな落葉の中でその木の葉だけは、動くともなく岸から遠ざかっていったが、およそ十間近くも下流の方に下って、一つの瀬に近づいたとおもうころ、その瀬によって<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起される空気の動揺に捲きこまれたのだろうか、たちまち<ruby><rb>慌</rb><rt>あわた</rt></ruby>だしく動き始め、もんどりを打って、横さまに二三度閃いたと思うと、みるみる水の方へと吸いこまれて見えなくなった。そこまで見とどけると清逸は胸の奥に何かなしに淋しいほほ笑みを感じた。そしてまた溜息が出た。

どこもここも住み憂い所のようにこのごろ清逸は感ずるのだった。札幌にいて、入らざる費用をかけていながら学校に出ないのはばからしいし、学校に出るのもばからしかった。彼が専門に研究している農政の講義などは、一日引籠って読書すれば、半月分の講義の材料ができるほど<ruby><rb>稀薄</rb><rt>きはく</rt></ruby>なものだった。自然科学の研究なども、プレパラートと見取り図とを作ることに彼は不器用だったが、それさえ除けば、あまり分りきった事実の<ruby><rb>排列</rb><rt>はいれつ</rt></ruby>にすぎなかった。応用農学は学というべきものではなかった。百姓のしていることに秩序を立てて、それに章節を加えたまでのものと思われた。語学だの数学だのという基礎学は、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>にさわるほど同級の者たちが呑込みがおそいのでただもどかしさをそそられるばかりだった。それゆえ彼は第一学期の試験が来るまで、じっと自分の家にいて養生をしながら過ごそうと思いついたのだ。しかしながらここも住みよい所ではなかった。あの父、あの母、あの弟。父は暇さえあれば母をつかまえて小言と自慢話ばかりしているし、弟は誰の神経でもいらだたせずにはおかないような鈍いしぶとさを臆面もなくはだけて、一日三界人々の<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>と嘆きとの種になっている。そしてその上に、健康を<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しく<ruby><rb>損</rb><rt>そん</rt></ruby>じて、自分でさえかなり我儘で気むずかしくなったと思うような清逸自身が加わるのだ。自分の家に帰ると、清逸は一人の高慢な無用の長物にすぎないのだ。しかもそれは恐ろしい伝染性の血を吐く危険な<ruby><rb>厄介物</rb><rt>やっかいもの</rt></ruby>でもあるのだ。朋友の間には<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>をもって迎えられる清逸だけれども、自分の家では<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>一つしようともしない怠け者になってしまうのだ。彼の帰ったのは彼の家にどれだけの不愉快な動揺を与える結果になったか。そのために父の酒はまずくなる。母と弟とはいい争いをする。これまでとにもかくにも<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んだなりで静かだった家の内が、きゅうにいらいらした気分でかき乱されはじめた。清逸はその不愉快な気持を舌の上に乗せているように思った。彼の口は自然に唾を吐いて捨てたいような衝動を感じた。

といって彼は<ruby><rb>即刻</rb><rt>そっこく</rt></ruby>東京に出かけてゆく手段を持ってはいないのだ。神経衰弱の養生のために、家族を挙げて<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>に行っている戸田教授でもいたら、相談に乗ってくれるかもしれない。新井田氏でも、三隅のおばさんでも頼んでみたら、考えてくれないこともないかもしれないが、清逸としてはかりにもそんな所に頼むのはいやだった。それにつけて、清逸はその瞬間ふと農学校の一人の先輩の出世談なるものを思いだした。品川弥二郎が農商務大臣をしていたころ、その人は省の門の側に立って大臣の退出を待っていた。大臣が勢いよく馬車に乗って出てくるのを見ると、すぐ駈けだしていって、<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしにその馬車に飛び乗った。そして馬車が官舎に着くまで<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>と意見を披露して大臣に口をきく暇をさえ与えなかった。官舎に着くと大臣に先立って官舎に駈けこんで、自分がその家の主人ででもあるように大臣を迎えた。そして自分の意見の続きをしゃべりこくった。大臣もとうとう根気負けがして、注意深くその人のいうことを傾聴するようになったが、その結果としてその人は欧米への視察旅行を命ぜられ、帰朝すると、すぐいわゆる<ruby><rb>要路</rb><rt>ようろ</rt></ruby>の位置についたというのだ。清逸はそれを聞いた時、木下藤吉郎の出世談と甲乙のないほど<ruby><rb>卑劣不愉快</rb><rt>ひれつふゆかい</rt></ruby>なものだと思った。実力がないのではない、実力があればこそ、そんな突飛な冒険にも成功したのだ。けれども藤吉郎もその人も、自分の実力を認めさせないで、認められようとした。それが悪いことだとはいわれない。結局認めさせるのも、認められるのも同じようなことだ。それにもかかわらず、清逸にはそれがとても我慢のできない悪い趣味だとより思えなかった。この気持は三隅にも新井田氏にも彼自身を訴えてみる<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てをどこまでも否定させた。渡瀬にでもさせておけば似合わしいことかもしれないと清逸は思った。清逸は、どんどん夜になっていこうとする河の面をじっと見つめ続けながら考えた。

「俺は世話を焼くのも嫌いだ。世話を焼かれるのも嫌いだ。……俺はエゴイストに違いない。ところが俺のエゴイズムは、俺の頭が少し優れているというところから来ていると誰もが考えそうなことだが、そんな浅薄なものではないんだ。たとえ頭は少しは優れていようとも、俺は貧乏でしかも死病に取りつかれているんだから、喜んで世話を焼いてもらう資格は十分にあるんだ。それにもかかわらず、俺は世話を焼かれるのはいやだ。……俺はもっと自然に近くありたいのだ。自然は俺をこんなに生みつけた、こんなに病気にした。しかもそれは自然の知ったことじゃないんだ。自然というものは心憎い姿を持っている」

清逸はどんどん流れてゆく河の水を見つめながらこんなことを考えた。そしてそのとたん、気がついたように眼をあげてあたりを眺めまわした。実際清逸に見やられる自然は、清逸とは何んのかかわりもないもののように、ただ忙がしく夜につながろうとしていた。河は思い存分に流れていた。空は思い存分に暗くなりまさっていた。木の葉は思い存分に散っていた。枯枝は思い存分に強直していた。その間には何らの連絡もないもののように。清逸は深い淋しさを感じた。同時に強いいさぎよさを感じた。長く立ちつづけていた彼の足は少ししびれて、感覚を失うほど冷えこんでいた。それに反してその頭は勇ましい興奮をもって熱していた。

<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>が<ruby><rb>崇</rb><rt>たた</rt></ruby>ったのか、寒い夜気がこたえたのか、帰途につこうとしていた清逸はいきなり激しい咳に襲われだした。<ruby><rb>喀血</rb><rt>かっけつ</rt></ruby>の習慣を得てから咳は彼には大禁物だった。死の<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>しがすぐ彼には感ぜられた。彼はほとんど衝動的にその場にうずくまって、胸をかがめて、膝頭に押しつけるようにして、なるべく軽く咳をせこうと<ruby><rb>勉</rb><rt>つと</rt></ruby>めたが、胸の中から破裂するようにつきあげてくる力には容易に勝てないで、二三十度も続けさまに重い<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>をはげしく吐きださねばならなかった。一度血管が破れたら、そこからどれほどの血が流れでるか、それは誰も知ることができない。もし四合五合という血が出たら、それで命は彼からやすやすと離れていくのだ。清逸は喀血のたびごとにそれをもの凄く感ぜねばならなかった。

「兄さんでねえか」

道の方から<ruby><rb>木叢</rb><rt>こむら</rt></ruby>ごしにこう呼びかける弟の声がした。清逸は面倒なところで嗅ぎつけられたと思って、もちろん答えることもできなかったが、答えようともしなかった。

やがて咳をしるべに純次が小道を下りてきた。<ruby><rb>孵化場</rb><rt>ふかじょう</rt></ruby>から今帰りがけのところとみえて、彼が近づくと生臭い香いがあたりに香った。ぼんやりした黒い影が清逸の後ろに突っ立った。

「今ごろ何んだってこんな所に来るだ。病気が悪るくなるにきまってるに。兄さんはまるで自分の病気を考えねえからだめだよ。皆んな迷惑するだ」

いかにも<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>にその声はほざかれた。

「背中をさすってくれ」

清逸はきれぎれな気息の中からそういった。ごつごつした手がぶきっちょうに清逸の背中を上下に動いた。清逸はその手の下でしばらくの間咳きつづけた。

咳がやんでも純次はやはりさすり続けていた。清逸は<ruby><rb>喀痰</rb><rt>かくたん</rt></ruby>を紙に受けていくらかの明るみにすかしてみた。黒い色に見えて血がかなり多量に吐きだされていた。彼は咄嗟にそれを丸めて水中に投げようとしたが、思いかえして自分の下駄の下に踏みにじった。この川下に住む人たちは河の水をそのまま飲料に用いているからだ。

純次はまだ懸命に兄の背中をさすり続けていた。清逸は一種の親しみを純次に感じて、

「もうよくなった。さあ帰ろう。お前は仕事が終えるとずいぶん疲れるだろうな」

といってやった。

「あたりまえよ」

純次の答えはこうだった。そして<ruby><rb>河岸</rb><rt>かわぎし</rt></ruby>まで行って、清逸の背中を撫でていた両手を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごしごし</span>と洗った。清逸は同情なしにではなく、じっと淋しくそれを見やった。

弟が泥靴のままでぬかるみの中をかまわず歩いてゆく間に、清逸は下駄をいたわりながら、遅れがちに続いた。たそがれというべき暗らさになって、行く手には清逸の家の灯だけが、枯れた木叢の間にたった一つ見やられた。純次は時々立ち停っては、もどかしそうに兄の方を顧みた。先に帰れと清逸がいってもそうはしなかった。

「兄さん、お前はまた札幌に帰るのか」

とある所で純次は兄を待ちながら突然にいった。清逸はそうだと答えた。

「死んでしまうぞ。帰らねえがいい」

それがいつか、母に向って、「肺病はうつるもんだよ」といった弟の言葉だった。純次はどうせ<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>の合わないことをいう低能者ではあった。しかし今の言葉に清逸は、低能でない何人からも求められない純粋な親切を感ぜずにはいられなかった。

純次は兄の近づくのを待ってまたこういった。

「お前は偉くなろうとそんなことばかり思っているから肺病に取りつかれるんだ。田舎にいろよ、じきなおるに」

「そうだなあ、俺もこのごろは時々そう思う。おせいにも可哀そうだしな」

「そんだとも、皆んな可哀そうだな。姉さん泣いてべえさ」

清逸は不思議にも黙って考えこみたいような気分になった。そしてすべての人から軽蔑されている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だらし</span>ない純次の姿が、何となくなつかしいものに眺めやられた。その上彼の偶然な言葉には一つ一つ逆説的な誠があると思った。純次はどことなく締りのない風をして、無性に長い足をよじれるように運ばせながら、両手を外套の<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>に突っこんだまま、おぼつかなく清逸の眼の前を歩いていった。人生というものが暗く清逸の眼に映った。

その夜清逸は純次の部屋でおそくまで働いた。純次の机の上からつまらぬ雑誌類やくだらぬ<ruby><rb>玩具</rb><rt>がんぐ</rt></ruby>じみたものを払いのけて、原稿用紙に向った。純次はそのすぐそばで前後も知らず寝入っていた。丹前を着て、その上に毛布を被ってもなお滲み透ってくるような寒さを冒して、清逸は「折焚く柴の記と新井白石」という論文をし上げようとした。物に熱中した時の<ruby><rb>徴候</rb><rt>ちょうこう</rt></ruby>のように、不思議にも咳は出てこなかった。たまさかに木の葉の落ちる音と、遠い川音とのほかには、純次の<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>がいぎたなく聞こえるばかりだった。清逸は時おりぺンを<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、手を火鉢にかざさねばならなかった。そのたびごとに弟の寝顔をふりかえってみた。仰向けに寝て（清逸には仰向けに寝るということがどうしてもできなかった。仰向けに寝る奴は鈍物だときめていた）放図なく口を開いて、鼻と口との奥にさわるものでもあるらしい、苦しそうな呼吸を大きくしていた。うす眼を開いているのだが、その瞳は上瞼に隠れそうにつり上っていた。<ruby><rb>helpless</rb><rt>ヘルプレス</rt></ruby> という感じが、そのしぶとそうな顔の奥に積み重なっているように見えた。

清逸は手のあたたまる間、それを熟視して、また原稿紙に向った。清逸は白石は徳川時代における<ruby><rb>傑出</rb><rt>けっしゅつ</rt></ruby>した哲学者であり、また人間であると思った。<ruby><rb>儒学</rb><rt>じゅがく</rt></ruby><ruby><rb>最盛期</rb><rt>さいせいき</rt></ruby>の<ruby><rb>荻生徂徠</rb><rt>おぎゅうそらい</rt></ruby>が<ruby><rb>濫</rb><rt>みだ</rt></ruby>りに外来の思想を<ruby><rb>生嚼</rb><rt>なまかじ</rt></ruby>りして、それを自己という人間にまで還元することなく、思いあがった態度で<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>しているのに比べると、白石の思想は一見平凡にも単調にも思えるけれども、自分の<ruby><rb>面目</rb><rt>めんもく</rt></ruby>と生活とから生れでていないものは一つもなく、しかもその<ruby><rb>範囲</rb><rt>はんい</rt></ruby>においては、すべての人がかりそめに考えるような平凡な思想家ではけっしてなかったということを証明したかったのだ。徂徠が野にいたのも、白石が官儒として立ったのも、たんなる表面観察では誤りに<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>りやすいことを論定したかった。この事業は清逸にとってはたんなる遊戯ではなかった。彼はこの論文において彼自身を主張しようとするのだ。これは西山、および西山一派の青年に対する挑戦のようなものだった。

白石文集、ことに「<ruby><rb>折焚</rb><rt>おりた</rt></ruby>く<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>の<ruby><rb>記</rb><rt>き</rt></ruby>」からの綿密な書きぬきを対照しながら、清逸はほとんど寒さも忘れはてて筆を走らせた。彼はあらゆる熱情を胸の奥深く葬ってしまって、氷のように冷かな正確な論理によって、自分の主張を事実によって裏書きしようとした。ややもすれば筆の先に<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>りでようとする感激を、しいて呑みくだすように押えつけた。彼のペンは容易にはかどらなかった。

アイヌと、熊と、樺戸監獄の脱獄囚との隠れ家だとされているこの千歳の山の中から、一個の<ruby><rb>榴弾</rb><rt>りゅうだん</rt></ruby>を中央の学界に送るのだ。そしてそれは同時に清逸自身の存在を明瞭にし、それが縁になって、東京に遊学すべき<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>を見出されないとも限らない。清逸は少し疲れてきた頭を休めて、手を火鉢に暖ためながらこう思った。そして何事も知らぬげに眠っている純次の寝顔を、つくづくと見守った。それとともに小樽にいる妹のことを考えた。三人のきょうだいの間にはさまったおびただしい距離……人生の多様を今更ながら恐ろしく思いやってみねばならぬ距離……。けれども彼はすぐその心持を<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しいものとして<ruby><rb>鞭</rb><rt>むちう</rt></ruby>った。とにかく彼は彼の道を何物にも妨げられることなく突き進まねばならない。小さな顧慮や思いやりが結局何になる。木の葉がたった一つ重い空気の中を群から離れて漂っていく。そうだ自然のように、あの大自然のように。清逸は冷然として弟の顔から眼を原稿紙の方に振り向けた。そこには余白が彼の頭の支配を待つもののように横たわっていた。彼はいずまいを正して、<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶさるようにその上にのしかかった。そして彼は書いて書いて書き続けた。

ふとラムプの光が薄暗くなった。見ると、小さな油壷の中の石油はまったく尽きはてて、灯は<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>だけが含んでいる油で、盛んな油煙を吐きだしながら、真黄色になってともっていた。芯の先には大きな<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>ができて、もぐさのように燃えていた。気がついてみると、小さな部屋の中はむせるような<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>でいっぱいになっていた。それに気がつくと清逸はきゅうに咳を<ruby><rb>喉許</rb><rt>のどもと</rt></ruby>に感じて、思わず鼻先で手をふりながら座を立ち上った。

純次は何事も知らぬげに寝つづけていた。

石油を<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>まで取りに行くにはいろいろの点で不都合だった。第一清逸は咳が襲ってきそうなのを恐れた。しかも今、清逸の頭の中には表現すべきものが群がり集まって、はけ口を求めながら眼まぐるしく渦を巻いているのだ。この機会を逸したならば、その思想のあるものは永遠に彼には帰ってこないかもしれないのだ。清逸は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて机の前に坐ってみたが、灯の寿命はもう五分とは保つように見えなかった。芯をねじり上げてみた。と、光のない真黄色な灯がきゅうに大きくなって、ホヤの内部を真黒にくすべながら、物の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>のように燃え立った。

もうだめだ。清逸は思いきって芯を下げてからホヤの口に<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>をふきこんだ。ぶすぶすと臭い香いを立てて燃える丁子の紅い火だけを残して灯は消えてしまった。煙ったい暗黒の中に丁子だけがかっちりと燃え残っていた。絶望した清逸は憤りを胸に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らしながら、それを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけて坐りつづけていた。

「おい純次起きろ。起きるんだ、おい」

と清逸は弟の蒲団に手をかけてゆすぶった。しばらく何事も知らずにいた純次は気がつくといきなりがばと暗闇の中に跳び起きたらしかった。

「純次」

返事がない。

「おい純次。お前<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>まで行って、ラムプの油をさしてこい」

「ラムプをどうする？」

「このラムプに石油をさしてくるんだ。行ってこい」

清逸は我れ知らず<ruby><rb>威丈</rb><rt>いた</rt></ruby>け高になって、そう厳命した。

「お前、行ってくればいいでねえか」

薄ぼんやりと、しかもしぶとい声で純次がこう答えた。清逸は夜気に触れると咳が出るし、石油のありかもよく知らないから、行ってきてくれと頼むべきだったのだ。しかしそんなことをいうのはまどろしかった。

「ばか、手前は兄のいうことを聞け」

弟は何んとも答えなかった。少しばかりの沈黙が続いた。と思うと純次はいきなり立ち上って、清逸の方に近づくが早いか、拳を固めて清逸の頭から顔にかけてところきらわず続けさまになぐりつけた。それは思わず清逸をたじろがすほどの意外な素早さだった。

「出ていけ、これは俺の部屋だい。出ていかねばたたき殺すぞ」

やがて牛のうめき声のような口惜し泣きが、立ったままの純次の口からおめきだされた。

清逸は体じゅうがしびれるのを覚えて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたまま黙っているほかはなかった。

「出ていかねえか」

純次は泣きじゃくりの中から、こう叫んでいらだちきったように激しく地だんだを踏んだ。次の瞬間には何をしだすか分らないような狂暴さが清逸に迫ってきた。

清逸は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>とした心の中で、<ruby><rb>孵化場</rb><rt>ふかじょう</rt></ruby>あたりから来るらしい一番鶏の啼き声をかすかに聞いたように思った。部屋の中はしかし真暗闇だった。

純次は何か手ごろの得物をさぐっているのらしくごそごそと<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>のまわりを動きはじめていた。だんだん激しくなり増さるような泣きじゃくりの声だけがもの凄く部屋じゅうに響いていた。

「待て純次、俺は母屋に行くから待て」

清逸は不思議な恐怖に襲われ、不意の襲撃に対して用心をしながら座を立って二三歩入口の方に動かねばならなかった。しかしその瞬間に、しかけていた仕事のことを考えると、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて立った所から上体を机の方に延ばして、手に触れるにまかせて原稿紙をかき集めた。そしてそれを大事に小脇にかかえて、板壁によりそいながら入口へとさぐり寄った。

部屋の中では純次が狂暴に泣きわめいていた。清逸は誰のともしれない下駄を突っかけて、身を切るような明け方近い空気の中に立った。

その時清逸はまたある一種の笑いの衝動を感じた。しかし彼の顔は笑ってはいなかった。

＊　　　　＊　　　　＊

隣りの間で往診の支度をしていた母が、

「ぬいさん」

と言葉をかけた。おぬいはユニオンの第四読本からすぐ眼を放して、母のいる方に少し顔を向け気味にして、

「はい」

と答えたが、母はしばらく言葉をつがなかった。

「今日は渡瀬さんがいらっしゃる日ね」

やがてそういった。おぬいは母が何か胸に持ちながらものをいっているのをすぐ察することができた。

「あなたはあの方をどう思ってだえ」

おぬいがそうだと答えると、母はまたややしばらくしてからいった。

おぬいは変なことを尋ねられるとおもった。そして渡瀬さんに対する自分の考えをいおうとしているうちに、母は支度をすまして茶の間にはいってきた。いつものとおり地味すぎるような被布を着て、こげ茶のショールと診察用の器具を包んだ小さい風呂敷包とを、折り曲げた左の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>のところに上抱きにしていた。いっさいの香料を用いないで、綺麗さっぱりとした身だしなみは母にふさわしいものだった。母はストーヴの火具合を見てから、親しみ深くおぬいのそばに来て坐った。そして遊んでいる右の手でおぬいの羽織の衣紋がぬけかけているのを引き上げながら、

「どう思うの」

ともう一度静かに尋ねた。

「快活なおもしろい方だと思いますわ」

とおぬいは平気で思ったとおりを答えた。

「あなたにあっては誰でもいい方になってしまうのね」

ほほえみながらそういって母はちょっと言葉を途切らしたが、

「私もほんとはあなたの思ってるとおりに思うのだけれども、世間ではそうはいっていないらしい。中にも教会の方などには聞き苦しいとおもうほどひどい評判をなさるのもあって、どうして星野さんが、あんな人を<ruby><rb>推薦</rb><rt>すいせん</rt></ruby>なさったんでしょうと、星野さんまで疑うらしい口ぶりでした。私としてもあなたのようにあの方をいい方だとばかり極めるわけにはいかないと思うところもあるのだけれども、星野さんがおっしゃってくださるのだから私は信じていていいと思います。……けれども噂というものもあながちばかにはできないから、あなたもその辺は考えておつきあいなさいよ。遊廓なんぞにも平気でいらっしゃるという人もあるんだから……」

おぬいは遊廓という言葉を母の口から聞くと、身がすくみそうに恥じらわしくなって、顔の<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>るのを覚えた。母はそれを見て少し違った意味に取ったらしい。

「そうね、私は星野さんや渡瀬さんを信ずるよりあなたを信じましょうね。渡瀬さんに用心するより、あなたが真直な心をさえ持っていれば少しもこわいことはありませんよ。どんなことがあっても人様を疑うのはよくないものね。正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です。……ではこれから出かけてきますからね、渡瀬さんがいらしったらよろしく」

こういい残して母はかいがいしく、雪のちらちら降る中を病家へと出かけていった。

母を送りだして茶の間に帰ったおぬいは、ストーヴに<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を入れ添えて、火口のところにこぼれ落ちた灰を掃除しながら時計を見るともう三時になっていた。部屋の中は綺麗に片づいていて、客を迎えるのに少しの手落ちもなかった。自分の身なりをも調べてみて、ふたたび机の前に坐ろうとした時、ふと母のいい残した言葉が気になった。渡瀬さんの来る時には今までいつでもおりよく母がいたのに今日は留守になるので、それであれだけのことをいいおいたのかと思えた。そう思ってみると、その言葉の一つ一つにはかりそめに聞き流してはいられないものがあるようだった。そういえば渡瀬さんという人は、星野さんや園さん、そのほか農学校にいる書生さんたちとは少し違ったところがある。あの人の前に出るとはじめから自由な気持で何んでもいえそうだけれども。そして困ったことでもあった時、相談をしかけたら、すぐてきぱき始末をつけてくれそうだけれども、その先の先がどう変ってゆくのか、渡瀬さん自身でさえ<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんちゃく</rt></ruby>でいるようにも見える。他人のことはすぐ見ぬいてしまって、しかもけっして急所を突くようなことはしない代りに、自分のことになると自由すぎるほどのんきなようにも見える。そうかと思うと、どんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことでも自分を中心にしなければ取り合わないようなところもある。けれどもあの人は真から悪い人ではない、そして真から悪いという人が世の中には本当にあるものだろうか。……おぬいは読本に眼をやりながら、その一語をも読むことなしに、こんなことを考えた。渡瀬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>で下品でいけないと家に来られる書生さんたちはよくいうけれども……私にはついぞそうしたようなことは見当らない。……私はいったい、他の人たちとは生れつきがちがうのだろうか。少しぼんやりしすぎて生れてきたのではないだろうか。あまりに人々と自分との考え方はかけちがっている。……本当にかけちがっている。まだ何んにも知らないからなのだろう。……おぬいは非常に恥かしいところに突きあたったような気がした。そして知らず識らず体じゅうが熱くなった。

そんなことを思っていると、ふとおぬいは心の中に不思議な警戒を感じた。彼女は<ruby><rb>緋鹿</rb><rt>ひか</rt></ruby>の子の<ruby><rb>帯揚</rb><rt>おびあげ</rt></ruby>が胸のところにこぼれているのを見つけだすと、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたように帯の間にたくしこんで、胸をかたく合せた。藤紫の半襟が、なるべく隠れるように襟元をつめた。束髪にはリボン一つかけていないのを知って、やや安心しながら、後れ毛のないようにかき上げた。そして袖口をきちんと揃えて、坐りなおすと、はじめて心が落着くのを感じた。おぬいはしんみりと読本に向いて勉強をしはじめた。

ややしばらくしてから、格子戸が力強く引き開けられた。それは渡瀬さんに違いなかった。おぬいは別に慌てることもなく、すなおな気持で立ち上って迎いに出ようとしたが、部屋の出口の柱に、母とおぬいとの襷がかけてあるのを見ると、派手な色合いの自分の襷を素早くはずして袂の中にしまいこんだ。

「いつものとおり<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかきますよ。<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>き大工の息子ですから、<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>に長く坐っていると立てなくなりますよ」

渡瀬さんはそういって、片眼をかがやかしながら、からからと笑って膝を崩した。からからといっても、渡瀬さんの笑いには声は出なかった。

「茶なんざあ、あとでいいですよ。さあやりましょう」

おぬいは渡瀬さんのいうとおりにして、その人と向合いに坐った。渡瀬さんの気息はいつものように酒くさかった。飲んだばかりの酒の匂いではなく、常習的な酒癖のために、体臭になったかと思われるような匂いだった。おぬいはそのすえたような匂いをかぐと、軽い<ruby><rb>嘔気</rb><rt>はきけ</rt></ruby>さえ催すのだった。けれども、それだからといって渡瀬さんを<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しむ気にはなれなかった。父の時代から一滴の酒も入れない家庭に育ちながら、そして母も自分も禁酒会の会員でありながら、他人の飲酒をいちがいに卑しむ心持は起らなかった。これは自分の心持に忠実な態度だろうかとおぬいはよく考えてみるのだった。禁酒会員である以上は、自分の力の及ぶかぎり飲酒を<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めなければならないとも思った。その人が<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れている悪い習慣の結果を考えるなら、不愉快を忍んでも<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めだてをするのが当然だった。けれどもおぬいには心持としてそれがどうしてもできなかった。なぜだかおぬい自身には判らないけれどもどうしてもできなかった。自分が<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>だからそうなのかと考えてもみたが、あながちそうでもない。面倒だからか。そうでもない。どういう心持なのだろう……おぬいはその解決を求めるように渡瀬さんの方を見た。酒焼けというのだろうか、きめの荒そうな皮膚が紫がかっていて、顔全体にむくみが来て、鋭い光を放ってかがやく眼だけれども、その白眼は見るも痛々しいほど充血していた。……<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい、どうして渡瀬さんは酒なんぞお飲みなさるのだろう。それにしても、あれほどの害をまざまざと受けながら、飲みつづけていられるのは、自分たちには分らない訳があることに違いない。私は渡瀬さんが何んだかお気の毒だ。けれども何も知らない私の力ではどうしようもないではないか……つまりこれだけしか分らなかった。

「さてと、今日はどこから……おや、あなた僕の顔を見ていますね。はははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」

渡瀬さんはいきなりそのこね固めたような奇怪な顔を少し突きだすようにした。おぬいは大変な悪いことをしたとおもった。人の<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い部分に<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>もなく注意を向けていたのを……そのつもりではなかったのだが……すまなく思った。といっても、いい訳もできなかった。ただ渡瀬さんの顔の醜いのを物好きに眺めていたのではない。それを知らせたいために、十分の好意をもって、かすかに微笑んだ。

すると渡瀬さんは<ruby><rb>途轍</rb><rt>とてつ</rt></ruby>もなく、

「失礼、あなたはいくつになりますね」

と尋ねた。素直に十九だと答えると感心したように、

「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」

と嘆息するようにいいながら、今度は渡瀬さんがしげしげとおぬいの顔を見た。おぬいは軽い羞恥と、さらにかすかな恐れをも感ぜずにはいられなかった。けれどもその場合、恥かしがることも恐れることも少しもないはずだと思うと、すぐに不断のとおりの気持に帰ることができて、

「それでは始めていただきます」

といいながら、書物を机の真中の方に持っていった。渡瀬さんもそのつもりらしく、上体を机の上に乗りだした。

おぬいは何もかも忘れて、懸命にこの前教えられたところを復習した。第四読本は少し力にあまるのだけれども、書いてあることが第三読本よりはるかに身があるので、読むには<ruby><rb>励</rb><rt>はげ</rt></ruby>みがあった。アーヴィングという人の「悲恋」（<ruby><rb>Broken</rb><rt>ブロークン</rt></ruby> <ruby><rb>Heart</rb><rt>ハート</rt></ruby>）という<ruby><rb>条</rb><rt>くだ</rt></ruby>りだった。星野さんがこの書物を始める時、目次によって内容をあらかた話してくれた時、この章に書いてあるのは、アイルランドのある若い勇ましい愛国者と、その婚約の娘との間に起った実際の出来事だといったので、おぬいにはよけい興味のあるものだった。渡瀬さんがこの前それを講義してくれた時も、おぬいは幾度となく美しい悲しさを覚えて、涙のこぼれ落ちそうになるのをじっと我慢しながら、平気な顔をして、数学でも<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>くように講義している渡瀬さんを不思議に思った。そして渡瀬さんが帰ってから、その<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を母に話して聞かせようとして、ふと母の境涯を考えると、とんでもないことをいいかけたと思って、そのまま口には出さないでしまったのだった。

今日その章を声を出して読むことは、おぬいにはかなり苦しいことだった。もしもこの前のように感情が書いてあることに誘いこまれたら、どうしようと危ぶまずにはいられなかった。どこまでも作り話だと思って読もうと勉めながら、おぬいは始めの方から意訳していった。けれども冒頭からもう涙ぐましい気持にされていた。おぬいはかねてから、自分の身の上にも、いつかは恋愛が来るだろうとは覚悟していた。けれどもそれは、本当に来るのだろうかと疑わねばならぬほど遠いところにあるもので、しかもそれに襲われたが最後、知りながら否応なしに、苦しみと悲しみとに落ちこんでいかねばならぬものとなぜとはなく思いこんでいた。彼女の心の底をゆり動かす怖れといっては実際それだけだった。今おぬいの眼の前には、彼女の心の怖れを裏書きするような事実が語られているのだ。読んでゆくうちにおぬいの心は幾度となく悲しさと悩ましさとのために<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いた。あるところでは言葉が震え、あるところでは涙が溢れでようとしたけれども、おぬいは露ほどもそれを渡瀬さんに気取られたくはなかった。そういうところに来ると彼女は<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ず口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、解らないところに<ruby><rb>出遇</rb><rt>でっくわ</rt></ruby>したように装った（おお何という悪いことだろう、私はこのごろ人様の前で自分を<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>らねばいられないようになってきた、とおぬいは心の中で嘆息するのだった）。

「そこですか。それは何んでもないじゃありませんか」

と渡瀬さんは無遠慮にいって、頭のいい人らしくはっきり解るように教えてくれた。おぬいはその間にようやく感情を抑えつけて、また先きを読みつづけてゆくことができた。そしてこういうことが二度三度と重なっていった。おぬいはまた烈しい感情で心を揺り動かされて、胸のところに<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱく<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>き上げてくるようなものを感じながら黙ってしまった。しかし渡瀬さんは今度は即座には教えてくれなかった。不思議には思いながらも、しばらくたってから、ようやく顔を上げてみると、渡瀬さんは<ruby><rb>充血</rb><rt>じゅうけつ</rt></ruby>して、多少ぼんやりしたような顔つきで、おぬいの額ぎわをじっと見つめていたのだと知れた。おぬいは不思議にもそれを知ると本能的に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思った。渡瀬さんも日ごろの渡瀬さんに似合わず、少し慌てながら顔を紅くして、すぐに書物に眼を落したが、

「ええと、それは……どこでしたかね」

といいながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やきもき</span>と顔を書物の方につきだした。

おぬいはその時はからず母のいいおいていった言葉を思いだしていた。そして渡瀬さんに対して、恐ろしい不安を感じないではいられなくなった。渡瀬さんと向い合って人気のない家にいるのがたまらないほど無気味になった。おぬいは思わず「天にある父様」と念じながら（神様という言葉はきらいだった。父が亡くなってからは天にある父様という言葉がこの上もなくなつかしかった）、力でも求めるように、素早くあたりを見まわした。「もし私が知らずに渡瀬さんを誘惑しましたら、どうかどうかお許しくださいまし」

「正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です」……その母の言葉、それがまた思いだされた。おぬいは眼がさめたように自分の今までの<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>な態度を思い知った。自分の心の姿を渡瀬さんに見せまいとしていたのが間違いだったと気がついた。そこに気がつくと、きゅうにすがすがしく力を感じた、落着いてふたたび書物に向うことができた。読んでゆく間に、もちろん感情は<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>められたけれども、口を噤むほどのことはなくて、しまいまで読みつづけた。渡瀬さんもそれからはかなり注意しておぬいの訳読を見ていてくれた。

読み終えるとおぬいは眼に涙をためていた。もうそれを渡瀬さんに隠そうとはしなかった。

「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が分らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの。作り話ではどんな悲しいことが書いてあっても、私そんなに悲しいとは思いませんけれども、こんな本当のお話を読みますと……」

ハンケチで涙を拭いながら何事も打ち明けてこういった。

「これは本当の話ですか」

渡瀬さんは恥かしげもなくこう聞き返した。

「星野さんがそういうようにおっしゃってでしたけれども」

「本当であったところが要するに作り話ですよ。文学者なんて奴は、<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>おひれ</rt></ruby>をつけることがうまいですからね」

渡瀬さんはこだわりなさそうに笑ったが、やがていくらかまじめになって、

「今日はお母さんは……お留守ですか」

「診察に出かけました……よろしくと申していました」

正しい心がけで……おぬいは怖れることは露ほどもないと心を落ちつけた。

「じゃ先をやりますかな……」

渡瀬さんは書物を手に取り上げて、しばらくどこともなく<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>をくっていたが、少し失礼だと思うほどまともにおぬいを見やりながら、

「おぬいさん」

といった。渡瀬さんから自分の名を呼ばれるのはおぬいには始めてだった。

「はい」

おぬいもまじろがずに渡瀬さんを見た。

「やあ困るな、そうまじめに出られちゃ……あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」

「いいえ」

おぬいはここぞと思って、きっぱりと答えた。

「それで泣くというのは変ですねえ」

渡瀬さんは少し大ぎょうにこういいながら、立ち上ってストーヴに薪をくべに行こうとした。おぬいも反射的に立ち上ってその方に行きかけたが、二人が触れあわんばかりに互に近寄った時、渡瀬の全身から何か<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かすようなものが<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>りでるのを感じて、急いで身をひるがえしてもとの座になおった。

渡瀬さんは薪をくべると手をはたき合せながら机の向うに帰った。

「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」

この二の句を聞くと、おぬいはあまりに押しつけがましいと思った。噂のとおり少し無遠慮すぎると思った。

「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののように思います。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと、今から悲しゅうございます。だもんですから、ああいうお話を読みますと、つい自分のように感じてしまうのでございましょうか」

「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」

おぬいはもうこの上我慢がしていられなかった。母がいてくれさえすればと思った。口惜涙を抑えようとしても抑えることができなかった。そしてハンケチを取りだす暇もないので、両方の中指を眼がしらのところにあてて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたままじっと涙腺を押えていた。

渡瀬さんはしばらくぼんやりしていたが、きゅうに慌てはじめたようだった。

「悪かったおぬいさん。僕が悪かった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないものだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は、我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」

おぬいは眼をふさいでいたけれども、渡瀬さんが坐りなおって、頭を下げているのがよくわかった。そして切れ切れにいいだされた今の言葉がけっして出まかせでないのが一つ一つ胸にこたえた。

しかしおぬいが一たび受けた感じは容易に散りそうにはなかった。で、しかたなしにはずみ上る言葉をようやく抑えつけながら、

「ええもう何んとも思ってはいませんから……いませんから、私をこそお許しくださいまし。けれども今日は、もうこれで、お帰りを願いとうございますの」

とだけようやくいって<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。

「え、……帰ります」

渡瀬さんはそういったなり、立ち上って部屋を出た。おぬいは何かもっと和解の心を現わして、渡瀬さんの心をやすめたいと思ったけれども、何かいうのがどうしても不自然だったので何もいわないことにして、上り口まで送ってでた。

「どうか許してください」

下駄をはくと、渡瀬さんはこっちを向いてこう挨拶した。おぬいも好意をもって眼を上げた。渡瀬さんはにこにこしていた。そして意外だったのは、つぶれていない方の眼に涙がたまっているのではないかと思えたことだった。

たった一人になるとおぬいは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>と溜息が出た。何か自分が思いもかけない結果を渡瀬さんに与えたのではないかと思うと、自分というものが怖ろしいようだった。彼女の知らない力があって、ともすると願いもしないところに彼女を連れこんでいこうとするかにさえ感じられた。そういう時に父のいないのがこの上なく淋しかった。おぬいは障子を半ば締めたまま、こんこんと大降りになりだした往来の雪を、ぼんやりと<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きもせずに眺めながら、渡瀬さんを送りだしたその姿勢から立ち上りえずにいた。

ややしばらくして、何という弱々しいことだと自分をたしなめて、おぬいは立ち上ると、障子を締め、その足でラムプを茶の間に運んで火をともした。時計はもう五時半近くになっていた。夕方の支度がおそくなりかけていた。

おぬいは大急ぎで書物をしまい、机を片づけ、台所に出て、白いエプロンを袂ごと胸高に締め、しばられた袂の中からようようの思いで<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をさぐりだすと、それをつむりに<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>らせようとしたが、<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかなその色が、夕暗の中で痛いように眼に映った。おぬいは一度のばしたその襷を、ぐちゃぐちゃに丸めて、それを柱にあてがって顔を伏せると、誰のためにとも、誰にともなく祈りたい気持でいっぱいになった。

おぬいはそうしたまま、灯もともさない台所の隅で、しばらくの間<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるような胸をじっと抑えて、何んとなくそこにつき上げてくるえたいの知れない不安を逐い退けようとして<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。

＊　　　　＊　　　　＊

創成川を渡る時、一つ<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>の橋を自分と反対の方向に渡ってゆく婦人は、降りはじめた雪のためにいくらかぼんやりしていたけれども、三隅のおばさんに違いないと渡瀬は見て取った。今日こそはおぬいさん一人だぞという意識がすぐいたずららしい微笑となって彼の頬を<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>った。

行ってみるとおぬいさん一人らしかった。脱ぎ取った帽子の雪をその人が<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に払ってくれた。いつものとおり茶の間はストーヴでいい加減に暖まっていた。そして女世帯らしい細やかさと<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いとが、家じゅうに満ちていて、どこからどこまで乱雑で薄汚ない彼の家とは<ruby><rb>雲泥</rb><rt>うんでい</rt></ruby>の<ruby><rb>相違</rb><rt>そうい</rt></ruby>だった。渡瀬はその茶の間にしめやかな落着きを感ずるよりも、ある強い誘惑を感じた。けれども机に向っておぬいさんと対坐すると、どうしてもいつもの彼の調子が出にくかった。道々彼が思いめぐらしてきたような気持は否応なしに押しひしゃがれそうだった。いつ見てもおぬいさんはきちんとしすぎるほどつつましく身だしなみをしていた。そんな気持でしているのではないかもしれないが、そしてそうでない証拠にはすべての<ruby><rb>挙止</rb><rt>ものごし</rt></ruby>がいかにもこだわりのない自然さを持っているのだが、後れ毛一つ下げていないほどそれを清く守っているのを見ると、どこといってつけ入る隙もないように見えた。けれども、それが渡瀬にとってはかえって冒険心をそそる種になった。何、おぬいさんだって女<ruby><rb>一疋</rb><rt>いっぴき</rt></ruby>にすぎないんだ。びくびくしているがものはない。崩せるだけ崩してみてやれという気がむらむらと起ってきて、彼はいきなり<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかきながら。

「いつものとおり胡坐をかきますよ。<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>き大工の息子ですから、几帳面に長く坐っていると立てなくなりますよ」

といって思いきり彼らしい調子を上げて笑い崩した。おぬいさんはその時立って茶棚の前に行っていたが、肩越しにこちらを振り返って、別に驚きもしないようににこにこしながら「どうぞ」といった。

茶なんぞ飲むよりもおぬいさんと一分でも長く向い合っていたかった。茶はいらないというと、せっかく茶器を取りだしかけていたおぬいさんは素直にそのままそれをそこにおいて、机の座に戻ってきた。ここで彼は新井田の奥さんとおぬいさんとを眼まぐるしく心の中で比較していた。とてもだめだ、比べものなんぞになるものか。二十近い年までこんなに色気というものなしに育ってきた娘がいったいあるものだろうか。新井田の奥さんの方が顔の造作は立ち勝っているかもしれないが……待てよそういちがいにはいえないぞ。第一こっちはまるで化粧なしだ。おまけにコケトリなしだ。それだのにこの娘から<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>り落ちる……滴り落ちる何んだな……滴り落ちるＸ、そのＸの量ときたらどうだ。それがしかも今のところまるっきりむだになって滴り落ちているんだ。おぬいさんはそれを惜しいものとも思ってはいないのだ。そこにいくと新井田の奥さんの方はさもしさの限りだ。一滴落すにもこれ見よがしだ。あれで色気が出なかったら出る色気はない。中央寺の坊主のいい草ではないが珍重珍重だ。おぬいさんがあのＸの全量を誰かに滴らす段になってみろ……。渡瀬は思わず身ぶるいを感じた。

まず作戦はあと廻わしにして、

「さてと、今日はどこから……」

といいながらおぬいさんを見ると、書物に見入っているとばかり思っていたその人は、<ruby><rb>潤</rb><rt>うるお</rt></ruby>いの細やかなその眼をぱっちりと開けて、探るように彼を見ているのだった。渡瀬はこの不意撃ちにちょっとどぎまぎしたが、すぐ立ちなおっていかなる機会をも<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>もうとした。

「おやあなた僕の顔を見ていますね。ははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」

そういって彼は<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>らしくわざと顔をつきだしてみせた。この場合あたりまえの娘ならば、真紅な顔になってはにかんでしまうか、おたけさん級の娘なら、低能じみた高笑いをして、男に隙を見せるか、<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>を鼻にかけた娘なら、<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れはよしてくださいといわんばかりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つん</span>とするに極っているのだった。渡瀬はそのどれをも取りひしぐ自信を持っていた。ところがおぬいさんは顔をあからめもせず、すましもせず、高笑いもせずに、不断のとおりの心置きない表情に少しほほ笑みながら「いいえ」とだけいって、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き加減になった。

<ruby><rb>似而非物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>では断じてない。俺がいったんでは不似合だが、まず<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しい <ruby><rb>innocence</rb><rt>イノセンス</rt></ruby> だ。そういうことを許してもいい。十九……十九……まったくこれが十九という娘の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>だろうか。渡瀬は少し<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りながらも、まじまじとおぬいさんを眺めなおさずにはいられなくなった。骨節の延び延びとした、やや痩せぎすのしなやかさは十六七の娘という方が適当かもしれないが、<ruby><rb>争</rb><rt>あらそ</rt></ruby>われないのは胸のあたりの暖かい肉づき、小鼻と生えぎわの滑かな<ruby><rb>脂肪</rb><rt>しぼう</rt></ruby>だった。そしてその顔にはちょっと見よりも<ruby><rb>堅実</rb><rt>けんじつ</rt></ruby>な思慮分別の色が明かに読まれた。それにしてもあまり自然に見える、子供のように神々しい無邪気。渡瀬は承知しながらもおぬいさんの齢を聞いてみたくなった。そして突然、

「失礼、あなたはいくつになりますね」

と尋ねてみた。さすがにおぬいさんは少し顔を赤らめたが、少しも隠し<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てなく、渡瀬を信頼しきっているように、

「もう十九になりますの」

とおとなしやかに答えた。Ｘはつねに滴り落ちている。しかしながら渡瀬は容易にそこに近寄れないのを知らねばならなかった。そして感歎のあまり、

「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」

と口に出してしまった。実際考えてみると、渡瀬が今まで交渉を持ったのは、多少の程度こそあれ男というものを知った娘ばかりだった。本当に男を知らない女性が、こんなに不思議なものを秘していようとはまったく思いもかけなかった。渡瀬にはその宝に触れてみる資格が取り上げられているようにさえみえた。彼は少しあっけに取られた。

「それでは始めていただきます」

そうおぬいさんが<ruby><rb>凛々</rb><rt>りり</rt></ruby>しく響くような声でいって、書物をぼんやりしかけた渡瀬の前にひろげたので渡瀬はようやく我に返った。おぬいさんの復習したのは、アーヴィングの「スケッチ・ブック」の中にある、ある甘ったるい失恋の場面を取りあつかったもので、渡瀬がこの前読んで聞かせた時には、くだらない夢のようなことを、男のくせによくこうのめのめ書いたものだと思ったのだが、今日おぬいさんがそれを復習しているのを聞いてみると、あながち夢のようなことには思えなかった。誰にもっぱら聞かそうというそれは声なのだろう。どこまでも澄みきっていながら、しかも震いつきたいほどの暖かみを持ったそのしなやかな声は、悲しい物語を、見るように渡瀬の耳の奥に運んできた。始めのうちは、おぬいさんがつかえるとすぐに見てやっていたが、だんだんそんな注意は遠退いて、ほれぼれとその声に聴き入らずにはいられなくなった。おぬいの声にもしだいに熱情が加わってくるようにみえた。渡瀬は知らず知らず書物から眼を離して、自分のすぐ前にあるおぬいさんの髪、額、鼻筋、細長い眉、睫毛、物いうごとにかすかに動くやや上気した<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>の上部、それらを見るともなく見やりはじめた。すべてが何んという憎むべき<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>だろう。これはやりきれない<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>だ。耳と眼とが酔ったくれていうことを聴かなくなってしまう、と渡瀬はわくわくしながら考えた。それが渡瀬には容易に<ruby><rb>専有</rb><rt>せんゆう</rt></ruby>することのできない<ruby><rb>宝</rb><rt>たから</rt></ruby>だと考えれば考えるほど、無体な欲求は激しくなった。教師としてこれほど信頼されているのをという後ろめたさを彼は知らず知らずだんだんに踏み越えていった。しびれるような欲望の熱感が健康すぎるほどな彼の五体をめぐり始めた。

色慾の遊戯に慣れた渡瀬には、恋愛などという<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃら</span>臭いものは、要するに肉の接触に衣をかけたまやかしものにすぎない。男女の間の情愛は肉をとおして後に開かれるのだと、今までの経験からも<ruby><rb>決</rb><rt>き</rt></ruby>めている渡瀬には、これほど<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じてきた恐ろしい衝動を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>きとめる力はもうなくなりかけていた。彼は顔にまで充血を感じながら、「おぬいさん逃げるなら今のうちだ。早く逃げないと僕は何をするか、自分でも分らないよ」と<ruby><rb>憫</rb><rt>あわ</rt></ruby>れむがごとくに自分の前にうずくまる豊麗な新鮮な肉体に心の中でささやいたが、同時に、「逃げるなら逃げてみろ。逃げようとて逃がしてたまるか」と頑張るものがますます勢いを<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しくした。眼の前がかすみ始めた。

いつの間にかおぬいさんの声がしなくなっていた。それに気づくとさすがに渡瀬は我れに返った。そしてさすがに自分を恥じた。おぬいさんは渡瀬が今まで妄想していたところよりあまりかけ離れた清いところにいた。彼は書物の方に顔を寄せながら、ともかく、

「ええと、それは」

といったが、どこに不審の箇所があるのか<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>知れなかった。

「どこでしたかね」

自分ながら薄のろい声で彼はこう尋ねねばならなかった。

おぬいさんはきっとした、少し<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうに青ざめた顔を心もち震わせながら、つかえたところを指さした。それがまたむやみにやさしいところだった。渡瀬は、今日はおぬいさんも変だなと思った。

復習を終えたおぬいさんはひどく顔色を青くしていた。しかも眼には涙がたまっていた。渡瀬はそれを見ると自分の心持が<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>られたなと思った。できない相談には決っているが、たとえおぬいさんとの結婚をおばさんに打ちだしてみたところが、ひと<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>きに弾かれるのは知れきっている。万が一おぬいさんを彼の力の下においてみたところが、どこまでいっしょにやっていけるかそれもおぼつかない。なぜというに渡瀬はおぬいさんのような人をどう取り扱えばいいかの自信がありえなかったから。それだからといって、この気持を捨てられないのも知れきっている。いっそう……そう思った時、おぬいさんが静かに、

「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が解らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの」

といって、少し恥じらうようにこちらに<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を定めた、渡瀬は<ruby><rb>背負投</rb><rt>しょいなげ</rt></ruby>を喰ったように思った。たとえば憎悪でもかまわない、自分についておぬいさんが悩んでいてくれたら渡瀬は嬉しかったろう。彼は思い存分の皮肉がいい放ちたくなった。そしてわざと高笑いをしながら、

「文学者なんて奴は、<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>おひれ</rt></ruby>をつけることがうまいですからね」

といった。もちろんそれだけでは復讐がし足りなかった。何らの<ruby><rb>手管</rb><rt>てくだ</rt></ruby>もなく、たった純潔一つで<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>られていると思うと渡瀬は心外でたまらなかった。純潔――そんなものの無力を心でつねに主張している彼には（そして彼は十七歳の時から立派に純潔を踏みにじってきているのだ）<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>にさわった。それにしても何んという可憐な動物だ。彼の<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい<ruby><rb>抱擁</rb><rt>ほうよう</rt></ruby>の下に、死ぬほどに苦しみ悶えながら彼女の純潔が奪われていく瞬間を想像すると、渡瀬はふたたび<ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>するような欲望の衝動を感じないではいられなかった。その後に彼女が彼から離れてしまおうと、ますます<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけられてこようと、それはたいした問題ではなかった。

渡瀬は茶の間を見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>ながら、

「今日はお母さんはお留守ですか」

と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを（もし彼女があたり前の事を知った女なら）怖れさすに十分だと同時に、反抗か屈服かの覚悟を強いるに十分な言葉なはずだ。

ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、

「診察に出かけました……よろしく申していました」

と他意なく母の留守を<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>した。赤子の手をねじり上げることができようか。渡瀬はまた腰を折られてしょうことなしに机の上にある読本を取り上げて、いじくりまわした。

けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は<ruby><rb>無恥</rb><rt>むち</rt></ruby>らしい眼を挙げておぬいさんを見上げ見おろした。その時、ふと考えついたのは、おぬいさんがすでに意中の人を持っているなということだった。恋に酔っている女性ほど、他の男に対して無慾に見えるものはない。おぬいさんの無邪気らしさに<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>かれかけたのはあまりばからしいことだった。十九の女に恋がない……彼は何を考えていたのだろうと思った。

彼はおぬいさんを見やりながら、

「おぬいさん」

と呼んだ。彼はばかばかしい<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の情の中にも、自分の声に酔いしれたようになった。おぬいさんに向ってその名を呼びかけたのはこれが始めてなのだ。

「あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」

今度はとっちめてみせるぞ。

即座に、

「いいえ」

と答えた彼女の答えは、少しの隠しだてもなく、きっぱりとしたものだった。渡瀬は明かにそれを感じないではいられなかった。何んという、簡単な敗北を見なければならないだろう。あまりに簡単だ。しかしあまりに明快だ。何もかも素直に投げだして、<ruby><rb>背水</rb><rt>はいすい</rt></ruby>の<ruby><rb>陣</rb><rt>じん</rt></ruby>を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>いたらしく見える彼女を思うと、渡瀬はふと奇怪な涙ぐましさをさえ感じた。渡瀬はもとよりおぬいさんを憎んでいるのではない。けれども一日おきに向い合っているうちに、二人の距離と、彼自身の中に否応なしに育っていく無体な欲念との間に、ほとんど憎しみともいえそうな根深い執着を感じはじめていた。ある<ruby><rb>残虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>な心さえ<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していた。けれどもおぬいさんと面と向って、その<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい心の動きと、<ruby><rb>白露</rb><rt>はくろ</rt></ruby>のような姿とに接すると、それを<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に打ち壊そうとあせる自分の焦躁が恐ろしくさえあった。すべてが終ったあとにおぬいさんが受けるであろうその悩みと苦しみとを考えてみただけでも、心が寒くなった。不思議な女もあったものだと思うほかはなかった。不思議な自分の心だと思うほかはなかった。……それにつけても渡瀬はいらだった。

かまうものか、もっといじめてやれ。渡瀬は何んとなしに残虐なことをしてみたい心になっていた。そして自分で自分をけしかけるように、大ぎょうな表情を見せながら、

「それで泣くというのは変じゃありませんか」

とむりに追窮した。

「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」

彼は自分ながら皮肉な気持の増長するのを感じた。

おぬいさんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>と小さく<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>をついた。そしてしばらくしてから、やや俯向いたまま震えた声で、しかしはっきりといいだした。

「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののようにおもいます。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと今から悲しゅうございます。だもんですからああいうお話を読みますと、つい自分のことのように感じてしまうのでございましょうか」

この女は俺の説でも<ruby><rb>承</rb><rt>うけたまわ</rt></ruby>ろうとするがいいんだ。そんな抽象論で引きさがるかい。

「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」

このくらいいっても応えないか。

と、今まで素直に素直にとしていたらしいおぬいさんの顔色が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっ</span>と変って、死んだもののように青ざめた。俯向けた前髪が激しく震えだした。今度こそは真から腹を立てて、貞女らしい口をきくだろう、そう渡瀬が思っていると、おぬいさんは<ruby><rb>忙</rb><rt>いそ</rt></ruby>がしく袂を探ろうとしたが、それも間に合わなかったか、いきなり両手を眼のところにもっていって、じっと押えた。石になったかと思われるほど彼女は身動きもしなかった。

渡瀬は不意を喰って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょとん</span>とした。……はじめて彼は今まで自分が何をしていたかを知った。彼は自分がこれほど<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい男だとは思わなかった。どうして<ruby><rb>残虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>な気持があとからあとから湧きだして、彼に<ruby><rb>露骨</rb><rt>ろこつ</rt></ruby>な言葉を吐かしたかが怪しまれだした。俺は悪党だ。俺は悪人だ。その俺にもおぬいさんが善人なのはよくわかる。何、それは前からわかっていたんだ。それだのに俺は何んのためにおぬいさんに嫌われるようなことをたて続けにしゃべっていたのだろう。俺は悪党だが善人を悪党の群に引張りこむほどの悪党ではないんですよ、おぬいさん。

「悪かったおぬいさん、僕が悪るかった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないもんだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」

そういって、彼は几帳面に坐りなおると、膝の上に両手をついて、頭をちょっと下げた。彼はまったくそうした気持にされていたのだ。

何をどういったか、そのあとはよく分らなかったが、渡瀬はとにかく居心地がいやに悪くなって、尻から追いたてられるように急いでおぬいさんの家を飛びだした。

とっぷりと日が暮れて、雪は本降りに降りはじめていた。北海道にしては大粒の雪が、ややともすると襟頸に飛びこんで、そのたびごとに彼は寒けを感じた。

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっと</span>と新井田氏の家の方を指して歩いた。「ああいけねえ」と独りごちた。何んだか打ちのめされたようだった。力が抜けてしまった。ばかばかしく淋しかった。寒いように淋しかった。

「新井田の方はあと廻わしだ」そう彼はまた独りごちて、<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>小路のいきつけの<ruby><rb>蕎麦屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>にはいった。そして<ruby><rb>煮肴</rb><rt>にざかな</rt></ruby>一皿だけを取りよせて、熱燗を何本となく続けのみにした。十分に酔ったのを確めると彼は店を出た。

しかし渡瀬は酔いがすぐ覚めそうで不安だった。で酒屋の店に出喰わすと、そのたびごとに立ち寄って<ruby><rb>盛切</rb><rt>もっきり</rt></ruby>をひっかけた。

「何、俺は結局おぬいさんとどうしようというのではなかった。ただ何んとしてもおぬいさんが可愛いいんだ。可愛いい犬ころをいじくり廻わして、きゃんといわさなければ、気がすまなくなるあれなんだ。いわばあれなんだな。だが待てよ、そうでもないのかな」

ある酒屋では小僧がからかうように、

「学生さん、お前さん酔っていますね」

といった。ふむ、俺の酔ってるのが分るのは感心な小僧だ。

「お前はまだ女郎買いはしめえな」

「冗談じゃないよ、学生さん」

渡瀬は十三四らしいその小僧の丸っこい坊主頭を撫でまわした。

「お前は俺が酔ったまぎれに泣いてるとでも思うんか。……よし、泣いてると思うなら思え。涙は水の一種類で小便と同じもんだ」

こういいながら彼は、またふらふらとその店を出た。

彼は人通りの少ないアカシヤ通の広い道を、何んだか弱りしょびれた気持になって、北の空から吹きつける雪に刃向って歩いていった。彼は自分が忠義深い士のような心持だった。伏姫にかしずく八房のようでもあった。ああ俺はまったくあの畜生だな。まったく涙がほろりと流れてきた。何んだかばかばかしいと彼は思った。

新井田氏の玄関によろけこむと、渡瀬は<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>で涙と鼻水とをめちゃくちゃに押しぬぐいながら、

「奥さあん」

と大声を立てて、式台に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっか</span>と尻餅をついた。

奥さんはすぐドアを開けて駈けだしてきた。

「あら大変。あなた、戸も締めないで雪が吹きこむじゃないの」

といいながら、そこにあった下駄を片方の足だけにはいて、斜に身を延ばして、玄関の戸を締めた。<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>をはだけた奥さんの腰から下が渡瀬のすぐ眼の前にちらついた。

「無礼者……とは、かく申す<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>のことですよ……酔っている？　酔っているかと問われれば、酔っています。……ガンベの酔ったのを見たことがありますか……現在ははは……現在を除いてさ……」

奥さんのしなやかな手が、渡瀬の肩の雪を軽く払っていた。

「いた、……いた、……痛いですよ、奥さん」

「あなた今日は本当にどうかしているわね……さあお上りなさいな」

渡瀬は奥さんの手のさわったところをさすりながら、情けなくなって、そのあでやかな、そのくせ<ruby><rb>性</rb><rt>せい</rt></ruby>というものばかりででき上っているような顔を見上げた。

「情けないねまったく……あなたの顔を見るとガンベは……まあいい、……それはそれとして、と……奥さん、僕は今日は、こんなへべれけの酔っぱらいになっちまったから、レコ……じゃないあなたにだ……あなたのいう『あなた』さ……はははは、その『あなた』に、へべれけの酔っぱらいになっちまったから、今日は休む……休むといってください。さようなら」

渡瀬はやおら腰を上げにかかったが、また酔のさめるのが不安になった。彼は腰をすえた。

「奥さん、ウヰスキーを一杯後生だから飲ませてください」

「あなた、そんなに飲んでいいの」

奥さんは本当に心配らしく、立ちながら、眉を寄せて渡瀬の顔を覗きこむようにした。渡瀬は確信をもって黙ったまま深々とうなずいた。物をいうと泣き声になりそうだった。

「いけませんよ……じゃあ待っていらっしゃいよ」

待っている間、涙がつづけさまに流れ落ちた。

渡瀬の眼の前につきだされたのは、なみなみと水を盛った大きなコップだった。渡瀬はめちゃくちゃに悲しくなってきた。それを一呑みに飲み干したい欲求はいっぱいだったが、酔いがさめそうだから飲んではならないのだ。

「や、さようなら」

あっけに取られて、コップを持ったまま見送っている奥さんに胸の中で感謝しながら、渡瀬は玄関を出て往来に立った。

雪はますます降りしきっていたが、渡瀬はどうしても自分の家に帰る気にはなれなかった。<ruby><rb>薄野</rb><rt>すすきの</rt></ruby>薄野という声は、酒を飲みはじめた時から絶えず<ruby><rb>耳許</rb><rt>みみもと</rt></ruby>に聞こえていたけれども、手ごわい邪魔物がいて――熊のような奴だった、そいつは――がっきりと渡瀬を抱きとめた。渡瀬の足はひとりでに白官舎の方に向いた。

「おぬいさん……僕は君を守る……命がけで守るよ……守ってくれなくってもいいって……そんなことをいうのは<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>だ……僕は君みたいな神様をまだ見たことがなかったんだ……何んにも知らなかったんだ……星野って奴はひどいことをしやがる奴だな……あいつのお蔭で俺は、……俺は今日、救われない俺の<ruby><rb>堕落</rb><rt>だらく</rt></ruby>を見せつけられっちまったんだ。美しいなあおぬいさんは……涙が出るぞ。<ruby><rb>土下座</rb><rt>どげざ</rt></ruby>をして<ruby><rb>拝</rb><rt>おが</rt></ruby>みたくならあ……それだのに、今でも俺は、今でも俺は……機会さえあれば、手ごめにしてでも思いがとげたいんだ。俺はいったい、気狂か……けだものか……はははは、けだものがどうしたというんだ。俺だって、おぬいさんくらい美しく生れついて、銀行の重役の家に育って、いい加減から貧乏になってみろ、俺だって今ごろは神様になっているんだ……神様もけだものもあるかい。……おぬいさんが<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうだ……俺は何んといってもおぬいさんが可哀そうだ。……理窟なしに可哀そうだ……可愛さあまって可哀そうだ……俺は何んといっても悪かったなあ……生れ代ってでもこなければ、おぬいさんの指の先きにも、……現在触ってみたところが結局触ったにならない俺なんだ……俺は自分までが可哀そうになってきたぞ……」

いつの間にか彼は白官舎の入口に立っていた。

暗いラムプの下のチャブ台で五人ほどの頭が飯を食っていた。渡瀬はいきなりそれらの間に割りこんで坐った。

「ガンベか。ただ今食事中だ、あすこの隅にいって遠慮していろ。今夜はばかに景気がいいじゃないか」

といったのは人見だった。そこには園もいた。あとは誰と誰だかよく解らなかった。

「貴様は誰だ。（顔を近づけると知れた）うむ柿江か。誰だそこにいる貴様二人は」

「森村と石岡じゃないか。西山の代りに今度白官舎にはいったんだよ。臭いなあ……貴様はまた石岡にやられるぞ。そっちにいってろったら」

とまた人見がいった。渡瀬は動かなかった。

「何をいうかい。今日は石岡も石金もあるもんか……酔ったぐらいで人をばかにしやがると承知しないぞ、ははは……おい人見、ここには酒はないのか、酒は。……ねえ？　ねえとくりゃ買うだけだ。おい婆や……もっとよく顔を見せろ。ふむ、お前も末座ながら善人の顔だ……酒を買ってきてくれ。誰かそこいらに金を持っている奴はないか。俺の寿命を延ばすとおもって買ってきてくれ。飯なんぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぞもぞ</span>と食ってる奴があるかい、仙人みたい奴らだな」

柿江がそうそうに飯をしまって立とうとした。それを見ると渡瀬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>と<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわった。

「柿江……貴様あ逃げかくれをするな。俺は今日は貴様の<ruby><rb>面皮</rb><rt>めんぴ</rt></ruby>を剥ぎに来たんだ。まあいいから坐ってろ。……俺は柿江の面皮を剥ぎに来た、と。……だ、そうでもねえ。俺は皆んなに泣いてもらいに来たんだ。石岡、貴様はだめだ。貴様のようなファナティックはだめだとしてだ、……おい、皆んな立つなよ。……何んだ、試験だ……試験ぐらい貴様、教場に行って居眠りをしていりゃあ、その間に書けっちまうじゃねえか」

「俺に用がなければ行くぞ」

石岡が顔色も動かさずにそういいながら座をはずしかけた。

「石岡、貴様はクリスチャンじゃねえか。一人の罪人が……貴様はいつでも俺のことをそういうな。いんやそういう。……罪人が泣いてもらいたいといっているのが聞こえなかったんか。……たとえ俺がだめだといったところが、貴様の方で……まあ坐れ、坐ってくれ。……一人でも減ると俺はおもしろくないんだ……坐れえおい。俺が命令するぞ」

婆やが何かいいながらチャブ台を引いた。壁ぎわに行ってばらばらにそれに<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかっている五人が、<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と渡瀬の眼に映った。ただ何んということもなく涙が湧いてきた。彼はばかばかしくなって大声を揚げて笑った。

「園君じゃねえ、園はいるか園は。それか。君……君はじゃねえ貴様はおぬいさんに<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れているだろう。白状しろ。うむ俺は惚れてる。悲しいかな惚れている。悲しいかなだ。真に悲しいかなだ。俺は罪人だからなあ。<ruby><rb>悔</rb><rt>く</rt></ruby>い改めよ、その人は天国に入るべければなり……へへ、悔い改めら、ら、られるような罪人なら、俺は初めから罪なんか犯すかい。わたくしは罪人でございます。へえ悔い改めました。へえ天国に入れてもらいます……ばか……おやじが<ruby><rb>博奕打</rb><rt>ばくちうち</rt></ruby>の酒喰らいで、お袋の腹の中が<ruby><rb>梅毒</rb><rt>かさ</rt></ruby>腐れで……俺の眼を見てくれ……<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>と<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>みそしる</rt></ruby>だけで育ち上った人間……が僣越ならけだものでもいい。追従にいってるんでねえぞ。俺は今日け――だ――も――のということがはっきり分ったんだから。星野の奴がたくらみやがったことだ」

「おいガンベ、そんなに泣き泣き物をいったって貴様のいうことはよく分らんよ。今日はこれだけにして酔っていない時にあとを聞こうじゃないか」

それが石岡の声らしかった。

「ばかいえ貴様、そうきゅうにわかってたまるものか。飲んだくれ本性たがわずということを知らんな。……婆や、酒はどうした、酒は……。けれどもだ……貴様のけれどもだ、おい西山……ふむ、西山はもういねえのか。とにかくけれどもだ、貴様たちは俺が罪人なることを悲しんでいないと思うと間違ってるぞ。……はははそんなことはどうでもいい。それは第一貴様たちの知ったこっちゃないや、なあ。……とにかく……皆んな貴様たちはおぬいさんを知ってるな。けれども、貴様たちは一人だって、どれほどあの娘が<ruby><rb>天使</rb><rt>エンジェル</rt></ruby>であるかってことは知るまい。俺は今日それを知ったんだ。この発見のお蔭で俺はこのとおり酔った。わかるか」

「わからないな」

それは人見だった。申し合わせたように二三人が笑った。

「ははは……（彼はやたらに涙を拭った）俺にもわからんよ。……園、貴様はおぬいさんに惚れてるんだろう」

園はほほえみながら静かに頭をふった。

「そんなことはない」

「じゃ惚れろ。断じて惚れろ。いいか。俺は<ruby><rb>万難</rb><rt>ばんなん</rt></ruby>を排して貴様たちに加勢してやる。俺は死を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して加勢してやる。……園、俺は今日一つの真理を発見した。人生は俺が思っていたよりはるかに立派だった。ところが……じゃいかん……だからだ。<ruby><rb>whereas</rb><rt>フェラアーズ</rt></ruby> じゃない。<ruby><rb>therefore</rb><rt>ゼアフォー</rt></ruby> だ。それゆえにだ……俺のようなやつが、住むにはあまり不適当だ。こういうんだ。悲観せざるを得ないじゃないか。……しかし俺は貴様たちを呪うようなことは断じてしないぞ。……安心しろ貴様たちを祝福してやるんだ、俺は死を賭して貴様たちに加勢してやる。……ははは……とか何んとかいったもんだ。どうだ石岡。石金先生、……相変らず貴様はせわしいんか。貴様が俺に酒の小言さえいわなけりゃ、一枚男が上るんだがなあ……しかし貴様の老爺親切には俺はひそかに泣いてるぞ。……余子碌々……おいおい貴様たちは何んとか物をいえよ、俺にばかりしゃべらしておかずに……園、貴様惚れろ。いいか惚れろ」

「ガンベはだめだよ。貴様いつでも独りぎめだからなあ。他人の自由意志を尊重しろ、園君には園君の考えがあるだろう」

帽子を被ったままのが言ったんで、森村だと渡瀬にも分った。

「ふむ、そうか。……そんなものかなあ……」

「園君、君はもうあっちに行くといい……。そしてガンベもう帰れ、俺が送っていってやるから。今夜は雪だからおそくなると難儀だ」

そう人見がとりなし顔にいったけれども、園は座を立とうともしなかった。渡瀬はどうしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>といわせたかった。園が不断から言葉少なで遠慮がちな男だとは知っていたけれども、これだけいうのに黙っていられるのは、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわらないでもなかった。それよりも渡瀬はすべてが頼りなくなってきた。自分でも知らずに長く抑えつけていた孤独の感じが一度に<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>を切って<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>りでたかと淋しかった。

「園、貴様何んとかいってもいいじゃないか。俺は酔っぱらっているさ。……酔っぱらっているからって渡瀬作造は渡瀬作造だ。それとも渡瀬作造なるものに……まあいい園、俺と握手をしろ。そうだもっと握れ。俺が貴様の自由意志を尊重していないとしたらだな……俺はあやまる……。どうだ」

澄んだ眼を持った園の顔はすぐ眼の前にあった。それを涙がぼやかしてしまった。園の手が堅く渡瀬の手を握ったかと思うと、

「僕は君の言葉をありがたくさっきから聞いていたんだよ。よく考えてみよう」

「考えてみよう？……好男子、惜しむらくは兵法を知らず……まあいい、もう行け」

「僕も人見君といっしょに君を送ろう」

「酔不成歓惨欲別か……柿江、貴様ははじめから黙ったまま爪ばかり噛んでいやがるな……皆な聞け、あいつは偽善者だ。あいつは俺といっしょに女郎を買ったんだ」

「おいおいガンベ、酔うのはいいが恥を知れ」

それはすべてを冗談にしてしまおうとするような調子だった。

「恥を知れ？　はははは、うまいことを言いやがるな。……」

まだいい募りたかったが、その時渡瀬は酔のさめてくるのを感じた。それは何よりも心淋しかった。寝こんでしまって自然に酔いがさめるのでなければ、酔ざめの淋しさはとても渡瀬には我慢ができなかった。彼は立ち上った。

「便所か」

と人見も同時に立ってきた。廊下に出るときゅうに刺すような寒気が襲ってきた。婆やまでが心配そうにして介抱しに来た。渡瀬は用を足しながら、

「婆や、小便は涙の一種類で、水と<ruby><rb>同</rb><rt>おん</rt></ruby>なじもんだ……じゃなかったかな……とにかくそういうことを知ってるか、はははは」

といってしいて笑ってみたが、自分ながら少しもおかしくはなかった。何しろ酒にありつかなければもういられなくなった。

彼は人見と園とにつき添われて、白官舎から、真白に雪の降りつもった往来へとよろけでた。

＊　　　　＊　　　　＊

どうしても気の許せないようなところのある男だった。それが、ともかく表向は信じきっているように見える父の前に書類をひろげてまたしゃべりだした。（父は実際はその言葉を少しも信じてはいないのに、おせいの前をつくろって信じているらしくみせているのではないか。つまり父までが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>になっているのではないかとさえ疑った）

「こうした依頼を受けているんです。土地としては立派なもんだし、このとおり七十三町歩がちょっと切れているだけだから、なかなかたいしたものだが、金高が少し<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>むので、勧業が融通をつけるかどうかと思っているんですがね……もっともこのほかにもあの人の財産は偉いもので、<ruby><rb>十勝</rb><rt>とかち</rt></ruby>の方の牧場には、あれで牛馬あわせて五十頭からいるし、自分の住居というのがこれまたなかなかなことでさあ。このほか<ruby><rb>有価証券</rb><rt>ゆうかしょうけん</rt></ruby>、預金の類をひっくるめると、十五万はたしかなところですから、銀行の方でも信用をしてくれるとは思っているんですが」

そういう間にも、その男は<ruby><rb>金縁</rb><rt>きんぶち</rt></ruby>の眼鏡の奥から、おせいの様子をちらりちらりと探るように見た。<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいかと思うときゅうに怖くなるような眼だった。

「で、その金を借りだしてどうなさろうというのかな」

父は書類を取り上げながらこう尋ねた。待っていたと言わんばかりに、その男はまた折鞄の中から他の書類を取りだした。

「それがこれになろうと言うんです。これがまた偉いもんですぜ。<ruby><rb>胆振</rb><rt>イブリ</rt></ruby>国<ruby><rb>長万部</rb><rt>オシャマンベ</rt></ruby>字トナッブ原野ですな。あすこに百町歩ほどの貸下げを道庁に願いでて、新たに<ruby><rb>開墾</rb><rt>かいこん</rt></ruby>を始めようというんです。今日来がけにちょっと道庁に寄っていただいたが、その用というのがこれです。たいていだいじょうぶ行きます。……何しろあの若さでこれだけの事をやり上げようというんだから……若さといっても四十だが、なあに男の四十じゃあなた、これから花というところです。やあ、どうも話がわき道に<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れちゃったが、どうでしょうな、お嬢さんのお考えは……ただどうも問題になりそうなのは年のちがいじゃあるが」

と、まともにおせいの方を見て、

「あなたが三十におなんなさる時を思やあ、むこうはやっと四十九だ。ちょうどいいつり合いになりまさあ。どうも男って奴は、これで五十やそこらのうちに細君が四十だ四十一だなんてことになると、つい浮気になりたがるものですよ。……ねえお父さん、お互にまんざら覚えのないことでもないしさ」

おせいはこんなことをいわれるのを聞いていると、とてもこの話は承諾はできないと思った。聞いているうちに、その人が憎らしくなって、いっそ帰ってしまおうかと思った。父は袖の下に腕を組んでじっと考えこむようにしていた。おせいは二日前に兄の清逸から届いた手紙のことを心の中で始終繰り返していた。お父さんは家のものに何んにも相談しないが、お前の結婚のことを考えているらしい。昨日も浅田という元<ruby><rb>孵化場</rb><rt>ふかじょう</rt></ruby>で同僚だった<ruby><rb>鞘取</rb><rt>さやとり</rt></ruby>のような男が札幌から来て、長いこと話していった。お母さんが立ち聴きした様子から考えると、どうもそうらしい。しかもお前を貰いたいというのは札幌の梶という男じゃないかと思う。それならその男は評判な高利貸でしかも<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>を幾人も自分の家の中に置いているという男だ。どんなことがあってもいうことを聴いてはいけない。自分のところは極端に貧乏している。しかも自分がいつまでも書生生活をしているばかりで、お前にまで長い間苦労をかける。お前の婚期がおくれるくらいになっているのを知りながら、それをどうすることもできない自分を思うと、自分は苦しい。けれども今度のだけは<ruby><rb>是</rb><rt>ぜ</rt></ruby>が<ruby><rb>非</rb><rt>ひ</rt></ruby>でも断れ。そんなことが書いてあった。

「どうでしょうな」

五つ紋の古い<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の羽織を着たその男は、おせいの方をも一度じっと見て、その眼を父の方に移した。

「どうだな、おせい」

父はまたその男の眼を避けるようにおせいを見るのだった。おせいは身がすくむような気がして、恨めしそうに父を見かえした。

「浅田さんもさっきからこれほど事をわけて話してくださるんだから、お前、何んとか御挨拶をしないじゃならんぞ。お父さんもそうたびたび千歳からかけて足を運ぶわけにはいかないしよ」

と父は、いっそう腕を固く組んで、顔を落して説き伏せるように一語一語に力を入れた。

それでもおせいは何んと答えようもなかった。ようやくのことで唾を呑みこんで、居住まいをなおしながら下を向いた。

「いや、こりゃ私がいちゃかえって御相談がまとまりますまい。私は勧業の方の人に用もありますししますから、これでひとまずお暇とします。……じゃお嬢さん、ひとつよくお考えなすって。<ruby><rb>仲人口</rb><rt>なこうどぐち</rt></ruby>と取られちゃ困りますが、お父さんと私とは古いおなじみだから、けっして仇やおろそかに申すんじゃないんですから、どうか、そこんところをお忘れなく……」

そしてその人は父と簡単な挨拶を取り交わすと、そこにあった書類をいちいち綿密に鞄の中にしまいこんで座を立った。おせいが父のあとについて送りだそうとすると、浅田は、

「お嬢さん、もうようございます。何、星野さんちょっとお顔を」

いったので、おせいはわざと遠慮した。二人は部屋の外の階子段の上で、あれこれ十分ほどもほそぼそと話をしていた。なぜともなく五体が震えるのを、寒さのせいかと思って、腰を折って火鉢の上に手をかざした。壁が崩れ落ちたと思うところに、<ruby><rb>日章旗</rb><rt>にっしょうき</rt></ruby>を<ruby><rb>交叉</rb><rt>こうさ</rt></ruby>した間に<ruby><rb>勘亭流</rb><rt>かんていりゅう</rt></ruby>で「祝開店、佐渡屋さん」と書いたびらをつるして隠してあるような六畳の部屋だった。建てつけの悪いガラス窓が風のためにひどい音を立てて、<ruby><rb>盗風</rb><rt>すきまかぜ</rt></ruby>が屋外のように流れこんだ。

父はやがて小むずかしい顔をして帰ってきた。「寒い家だどうも」とあたりを見まわしているのが、千歳の家を知りぬいているおせいには気恥かしいくらいだった。

「どうだ」

「私はいやです」

おせいは即座に答えた。父は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むっ</span>としたらしかったが、やがてしいて言葉を和らげながら、

「そう<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>なくいっては話も何もできはしないがな。浅田さんのいうとおり、年のところに行くと少し明きすぎるようだが、わしらのような暮しでは一から十まで註文どおりにいかないのは覚悟していてくれんと<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>はあくものではないぞ。……先方では支度も何もいらないと言うのだ。支度がいるようでは恥かしい話だが、今のところお父さんには何んとも工面がつかんからなあ」

「先様は何んという人です」

「先方はお前、今も浅田さんがいうとおりなかなか○持ちで、自分が貧乏から仕上げたのだから、嫁は学問がなくてもやはり苦労して育ったしとやかなのが欲しいと、まず当世に珍らしい……」

「何という人なんです」

「名か、名はその、梶といって、札幌では……」

はたして兄からいってきたとおりだった。おせいはあまりといえば父もあまりだと思った。

「そんなら私はどうしてもいやです。幾人も<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>を持っているような高利貸のところになんぞ……お父さんもちっと考えてくださればいいに」

といううちに、彼女は胸が熱くなって涙ぐんでしまった。兄さんですら、小さい時、あれほど自分を可愛がってくれた兄さんですら、まるで自分の事しか考えてはいないし、お父さんはお父さんで、自分の娘だか、他人の娘だか区別のないような仕向け方をする、と思うと、おせいは誰にたよる<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もないのを感じた。彼女はこの五年の間の苦しい女中奉公の生活――それは光明も何もない、長い苦しみの一つらなりだった――を思いめぐらした。始めて小樽に連れだされたのは十七だった。まるで山の中から拾ってきた猿のようなあしらいを受けた。箸の上げおろしにも笑いさいなまれ、枕につくたびごとに、家恋しさと口惜しさのために忍び泣きで通した半年ほど。貰った給金は残らず家の方に仕送って家から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>に届けてよこす衣類といっては、とても小樽では着られないものばかりなので、奥さんからは皮肉な眼を向けられ、朋輩からは<ruby><rb>蔭口</rb><rt>かげぐち</rt></ruby>をたたかれる。それをじっと堪らえて、はいはいといっていなければならぬ辛らさ。月日は経ったけれども、小学校で少しばかり習い覚えた文字すら忘れがちになるのに、そこのお嬢さんたちが<ruby><rb>裕</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かに勉強して、一日一日と物識りになり、美しくなっていくのを、黙って見ていなければならぬ恨めしさ。七時過ぎまでは食事もできないで、晩食後の片づけに小皿一つ<ruby><rb>粗匇</rb><rt>そそう</rt></ruby>をしまいと<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になっている時、奥では一家の人たちが何んの苦労もなく寄り合って、ばか騒ぎと思われるほどに笑い興じているのを聞かなければならぬ<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましさ。それにも増して苦しかったのは奥さんの意地悪だ。妙な癖で、奥さんは家内のものの中にかならず一人は目のかたきになる人を作っておかなければ気がすまないのだ。その呪いの的になる人は時々変りはしたけれども、どういうものかおせいは<ruby><rb>貧乏籤</rb><rt>びんぼうくじ</rt></ruby>をひいた。露ほどの覚えもないことをひがんで取って、奥様一流の針のような皮肉で、いたたまれないほど責めさいなむのだった。これが<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じると自分までヒステリーのようになって、暇を取ったくらいでは気がすまないで、面あてに首でも<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>ろうかと思う時さえあった。さらにそれにも増していやらしかったのは旦那様の<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らなことだった。奥さんの<ruby><rb>目褄</rb><rt>めづま</rt></ruby>を忍んでその老人のしかけるいたずらはまるで蛇に巻かれるようだった。それをおせいは軽く受け流して逃げなければならなかった。誰に訴えようもないような醜いことだった。さらにさらに、それにも増して苦しかったのは、若様といわれるその家の長男の情けだった。その人は誰が見ても綺麗な男というような人だ。おまけに旦那とはうらはらに、上品で、感情の強い人で、家の人たちには何んとなく<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られているらしかった。淋しい感じの人だ。おせいは住みこんだ時からこの若様という人に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き寄せられた。朋輩がその人の噂を好いたらしくするのを聞くと、心がひとりでにときめいて、思わず顔が紅くなった。けれども何を思っても及ばないこととしてすっかり諦めていた。諦めようと苦しんでいた。ところが去年のこと、ふとしたおりにその人からおせいは<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>みかけられた。おせいは眼をつぶるようにして一生懸命にその誘惑からのがれた。そして底のないような淋しさから声を立てて泣いてしまった。二十という年までじっと、じっと押えつけ、守りぬいていた火のような悲しい思いが、それからのたびたびの危い機会に一度に流れでようとしたのだったが、そしてその人が苦しんでいる様子をみると、いとしくなって何もかも忘れようとさえ思う瞬間はいつもあったのだけれども、彼女はいつでも自分の家の貧しさを思った。健康の弱い兄を思った。白痴同様な弟を思った。貧乏はしても父の名に泥を塗るなと、千歳を出る時きびしくいいわたした父の言葉も思った。自分の心をゆがめきってしまいはしないかと思われるようなこれらの辛らさ、悲しさ、妬ましさ、苦しさを今まで堪えに堪えてきたのはいったい何のため。

おせいは<ruby><rb>水月</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>に切りこむようにこみ上げてくる痛みを、帯の間に手をさしこんでじっと押えた。父はおせいのあまりに思い入った様子に思わず<ruby><rb>躊</rb><rt>ため</rt></ruby>らって、しばらくは言葉をつぐこともできなかった。

二人はお互の間に始めてこんな気づまりな気持を味いながら、顔を見合せるのも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って対座していた。

「どうしてもお前はいやというのか」

おせいはもう涙も出なかった。乾いたままで唇が無性に震えた。

「お父さん、それだけはどうか勘忍してください」

父は地声になって口をとがらした。

「勘忍してくださいといったところが、これはお前のことだからお前の勝手にするがいいのだが、どういう訳だか訳を言わにゃ、ただ許してくれではお父さんも困るじゃないか」

「お父さんは私を……私を高利貸の……<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>になさるつもりなんですか」

「とんでもないことを……お前はさっきから高利貸高利貸と言うが、それは働きのない人間どもが他人の成功を<ruby><rb>猜</rb><rt>そね</rt></ruby>んでいうことで、泥棒をして金を儲けたわけじゃなし、お前、金を儲けようという上は、泥棒をしない限り、手段に選み好みがあるべきわけがない。金儲けがいやだとなれば、これはまた別で、お父さんのようになるよりしかたのないことだ。安田でも岩崎でも同じこった、妾囲いとてもそうだ。妾を持ってる手合いは世間ざらにある。あの人は同じ妾囲いをしても、隠しだてなどをしないから、世の中でとやかくいうのだが、お父さんは梶はそこはかえって見上げたものだと思ってるくらいだて。それもお前を妾にくれというのじゃなしさ……」

「けれども、あの人にはちゃんと奥さんがあるんじゃありませんか」

「そ、それだが……先方では妻にくれろというのだから、今の細君をどうするとかこうするとかそれはむこうに思わくがあってのことに違いないとお父さんは思ってるがどうだ。何しろこっちは先方の言い分を信用して……」

おせいは<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れるばかりだった。父がどうしてこんなになったのか、どう思ってみようもなかった。いくらなんにも知らないおせいにも、自分のような貧乏な、無学な、知り合いもないような人間を正妻に迎えるわけがないのは分りきっているのに、しらじらしい顔つきをして、自分の娘をごまかそうとするらしい父が<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>の鬼のようにも思えた。

「お前は何んでも世間の見るとおりに物を見ようとするからいけない。高利貸といえばすぐ鬼のような無慈悲な奴、妾を持つといえばすぐ<ruby><rb>猅々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>のような淫乱者、そう頭から決めてかかるんだが、そういちがいにはいえるもんじゃない。何んでも浅田の話では、見たところは小作りな、あれが評判の梶という人かと思うほど物わかりのいいやさしい人だということだ。それが合田さんの所でお前を二度ほど見かけて、ぜひということになったものらしい。お前がお茶でも持ってでた覚えはないかな。<ruby><rb>腭</rb><rt>あご</rt></ruby>の左の方にちょっと眼に立つほどの火傷のあとがあるそうだが……」

おせいはそれを聞くと身がすくむようだった。体がかたくなった。肩が凝りきった時のように、<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>から背中がこわばって、血のめぐりが鈍く重く五体の奥の方だけを動くようで、それが胸のところを下の方から気味悪るく衝き上げた。眼界がだんだん狭まって、火鉢にかざされた、長い指の先がぶるぶる震えどおしている。<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>くちゃな父の両手だけが、切り放したようにぼんやり見えていた。「いつ私はその人に見られていたんだろう」と思うと、怖ろしさと無気味さに<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>がとまった。

「お前見たことはないか」

「いいえ」

おせいの眼は父の手から<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落ちて、膝の上に乗せてある自分の手の方に行った。涙にしとったハンケチを丸めてぎゅっと握りつめているそのかぼそい手も<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の手のようだった。若様が自分の手の間に挾んで、やさしく撫でてくださろうとした手だ。それをむりにふり放した手だ。……涙がはらはらと彼女の眼から新しくこぼれでた。

気まずい沈黙がそのあとに続いた。

いっそ……ああ若様と私とは身分がちがう。

すぐ見棄てられるにきまっている。その時の苦しさを思うとどうしても今までどおりにしているほかはない……といって、私はきっといつかは敗けてしまうに決っている……たとえ、見棄てられても、一度だけでも……おせいは<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>つまった気持の中で、悲しい嬉しい瞬間を心に描いた。それがせめてもの腹いせだった。……そして死んでしまえばそれでいいんじゃないか……

「お父さんはたってと勧めるんじゃない……が、お前はどうしても気が向かないというのだな……」

おせいはびくりとして夢のようなところから<ruby><rb>没義道</rb><rt>もぎどう</rt></ruby>にひきもどされた。彼女はいつの間にかハンケチを眼にあてていた。

「まあお父さんの胸の中もひととおり聞いてくれ。俺も五十二になる。昔なら殿様に隠居を願いでて楽にくつろぐ時分だが、時世とはいい<ruby><rb>条</rb><rt>じょう</rt></ruby>……また、清逸の奴がどういうつもりなのか、あの年になっていて、見さかいのなさ加減はない。このごろもお前、家にいて、毎日の家の様子は見ているくせに、<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>一つ取るでもなく、家いっぱいにひろがって横着をきめている始末だ。学問ができるのなんのって人がちやほやするのを<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けてしまってからに、<ruby><rb>有頂天</rb><rt>うちょうてん</rt></ruby>になっている。あんな病気を背負いこんで薬代だけでもなみたいていでないのに、東京へ出かけようといってさらに聞かんのだ。俺もこうやってはいるがいざとなればそのくらいの工面はつくから、苦しいながらあちこち世話をやいてやってみると、そんなところから金を出してもらうのは嫌だとか何んとか、つべこべいいくさる。……」

こういう不平をきっかけに父は母が少しも甲斐性のないことや、純次がますます物わかりが悪くなって、親を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めかえすしぶとさばかりが募るということや、<ruby><rb>孵化場</rb><rt>ふかじょう</rt></ruby>の所長が代ると経費が節減されて、店の方の実入りが思わしくないということや、今度の所長の人格が下司のようだということや、あらん限りの<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>を一時にぶちまけ始めた。それをじっとして聞いているおせいはさすがに父が哀れになった。五十二というのに、その人は六十以上に老い<ruby><rb>耄</rb><rt>ぼ</rt></ruby>けていた。これほどの貧乏に陥るのももとはといえば何んといっても父の不精から起ったことだと、苦しいにつけ、辛らいにつけ、おせいは父を恨めしく思う気持になるのだったが、眼前世の中が力にあまって、当惑しているような父の姿を見ると、母も母だ、兄も兄だという心が起った。

「<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>には違いない……愚痴には違いないがお前にでも聞いてもらわにゃお父さんは愚痴をこぼすせきもないような身柄になったよ、いやどうも……それに、これもお前だけに聞いてもらうことだが、じつは俺も、その、苦しさから浅田さんに頼んで、金をば六百円ほど融通してもらっているので……」

おせいはそれが<ruby><rb>崇</rb><rt>たた</rt></ruby>っているのだと始めて始終が見えきったように思った。

「もっともあれはあれで親切人だから、そのことを根に持つような人柄ではないが、俺は頑固な昔気質だから、どうも寝ざめがようないのだ。俺は困っとるよ……」

と父は膝のまわりを尋ねまわして、別々になっている煙草入と煙管とを拾い上げると、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てるようにして煙草をつめたが、吸うかと思うと火もつけずに、溜息とともにそれを畳の上に戻してしまった、おせいはおずおず父の顔を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。<ruby><rb>垢染</rb><rt>あかじ</rt></ruby>みて、貧乏<ruby><rb>皺</rb><rt>じわ</rt></ruby>のおびただしくたたまれた、渋紙のような頬げたに、平手で押し拭われたらしい涙のあとが濡れたままで残っている。そこには白髪の三本ほど生えた大きな<ruby><rb>疣</rb><rt>いぼ</rt></ruby>もあった。小さい時、きょうだいで寄ってたかって、おちちだといってしゃぶった疣だ。……思案にあまるというのはこれだろうか。彼女の心はしーんとしたなりで少しも働こうとはしなかった。おせいはひとりでに<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>の中に顔を埋めた。無性に悲しくなるばかりだった。

力がなえきってみえた父は、最後の努力でもするように、おせいの方に向きなおって、膝の上に<ruby><rb>両肱</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>をついて丸っこくかごまった。

「おせい……」

鼻をすすりながらそれを横撫でにした。

「甲斐性のないおやじと下げすんでくれるなよ。俺も若い時に、なまじっかな楽な暮しをしたばかりに、この年になっての貧乏が、骨身にこたえるのだ。俺一人が楽をしようというではけっしてないがな、何しろ、今日日々の米にも困ってな……この四年あまりというもの、お前のしてきた苦労も、俺は胸の中でよっく察している。親というものは子にかけちゃ神様のように何んでも分る。お前は小さい時から素直な子だったが、素直であればあるほど……」

「お父さんそんなことをいうのはもうよしてください……」

おせいはほとんど<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りたいような悲哀に打たれて思わずこう叫んでしまった。

とにかく二三日中にはっきりした返事をすると約束しておせいはようやく父の宿を出た。

もうまったく日が暮れていた。ショールに眼から下をすっかり包んで、ややともすると足をさらおうとする雪の坂道を、つまさきに力を入れながらおせいはせっせと登っていった。港の方からは潮騒のような鈍い音が流れてきた。その間に汽船の警笛が、耳の底に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みこむように聞こえている。空荷になった<ruby><rb>荷物橇</rb><rt>にもつぞり</rt></ruby>が、大きな鈴を<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>にぶらさげて毛の長い馬に引かれながら何台も何台もおせいのそばを通りぬけた。顔をすっかり<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>で包んで、長い手綱で遠くの方から橇を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っている馬方は、寄り道をするようにしておせいを覗きこみに来た。幾人となく男女の通行人にも遇った。吠えつきに来た犬もあった。けれどもおせいにはそれらのものが、どれもこの世界のものではないようだった。今まで父といっしょにいたというのも嘘のようだった。万人が行ったり来たりする<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな往来、そこでおせいが何百人何千人となく行き遇った人々、その中には、おせいが歩いているような気持で歩いている人がやはりいたのだろうか。それにしては自分は今まで何んというのんきな自分だったろう。そんな苦労を持っているらしい人は一人だって見当らないようだったが。……人間っていうものはやはりこんな離れ離れな心で生きてゆくものなのだ。底のないような孤独を感じて彼女はそう思った。

主家の大きな門の前に来た。朋輩たちがおせいの帰りの遅いのをぶつぶつ言いながら、彼女の分までも働いているだろうと思うと気が気でなかった、大急ぎで門を駈けこんだ。

こちらから挨拶もしないうちに、台所で働いてる女中の一人が、

「早かったわね。奥さんがお待ちかねよ」

といった。

「若様もお待ちかねよ」

ともう一人のがいった。おせいは何んともいえない<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>りがましいいやなことをいう人だと思った。

おせいは取りあえず奥の間に行って、講談物か何かを読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているらしい奥様の前に手をついた。そして、

「ただいま戻りました。おそくなりまして相すみません。父がよろしくと申されました」

というと、いつもの癖の眼鏡の上の方から眼を覗かせて、睨むようにこっちを見ていた奥様は、

「父がよろしくと申されましたかね。あの（といって柱時計を見かえりながら）お前もう御飯を召しあがりましたろうね」

と憎さげにまた書物を取り上げた。どうかすると気味が悪るいほど親切で、どうかするとこちらがヒステリーになりそうに皮肉なのがこの人の癖だとは知りながらおせいは涙ぐまずにはいられなかった。

奥様に釘を打たれて、その夜おせいは食事を取らなかった。実際喰べたくもなかった。

けれども夜中になると、何んとしても我慢ができないほど<ruby><rb>餓</rb><rt>ひも</rt></ruby>じくなってきた。そっと女中部屋を出て、手さぐりで冷えきった台所に行って、戸棚を開けた。そしてそこにあるものを盗み喰いをしようとした。

その瞬間におせいはどっと悲しくなった。そしてそこに体を<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>せかけたまま、両袖を顔にあてて声をひそめながら泣きはじめた。

＊　　　　＊　　　　＊

父が死んだという電報を受け取ったのは、園がおぬいさんの所に教えに行って、もう根雪になった雪道を、灯がともってから白官舎に帰ってきた時だった。

隣りの人見の部屋には柿江と森村とが集っているらしく、話声で賑わっていたが、園はそこを覗いてみる気持にもなれないで、そっと素通りして自分の部屋にはいった。

渡瀬がひどく酔払って白官舎に訪ねてきた翌日から、どうしてもおぬいさんを教えるのはいやだといいだしたので、そしてしきりに園に教えに行けといって聴かないので、彼は<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ず、一日おきにまたその家に通うようになったのだった。それがもう半カ月のあまりも続いていた。

幾度も玄関に出てその帰りを待っていたという婆やが、何か不吉の予感らしいものを顔に現わして園にその電報を手渡した時、園も一種の不安を覚えないではなかったが、まさかあの頑丈な父が死ぬものとは思っていなかった。文言を読んだ時でも父が死んだようには考えられなかった。ただ眼の前に自分の家の様子が普段のままな姿で明かに思いだされたばかりだった。

何か変ったことがあったのではないかと婆やが尋ねるのに対しても、はっきりしたことは告げ知らせもしないで、自分の部屋に帰ってきたのだった。

不思議なことには……と園がふと思ったほど……自分の部屋は何んの変化もない自分の部屋だった。机の側には婆やのいけておいてくれた炭火がかすかに光っていた。園はいつものとおり、ドアの蔭になっている釘に、外套と帽子とをかけて、本箱の隅におきつけてあるマッチを手探りに取りだしてラムプに灯をともした。机の上には二三通の手紙がおいてあった。その中の一つは明かに父からの手紙だった。園は坐りも得せず、その手紙を取り上げてみた。たしかに父の手蹟に相違なかった。ちびた筆で<ruby><rb>萎縮</rb><rt>いしゅく</rt></ruby>したように十一月二十三日と日附がしてあった。それを見るとややあわてたような気持になって、<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の中から電報を取りだして、今度はその日附を調べてみた。十一月二十五日午前九時四十分の発信になっていた。

園は手紙と電報とを机の上に戻しながら始めて座についた。そしてしばらくは手紙を開封することもなく、人さし指を立てて机の<ruby><rb>小端</rb><rt>こば</rt></ruby>を軽く押えるように続けさまにたたきながら、じっと眼の前の壁を見つめていた。自分ながらそれが何んの真似だかよく解らなかった。しかしながらかねてからある不安なしにではなく考えていたことが、<ruby><rb>驀地</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に近づいてきているような一種の心の圧迫を感じ始めているのは明かだった。自分の研究に<ruby><rb>一頓挫</rb><rt>いちとんざ</rt></ruby>が来そうな気持がしだいに深まっていった。

園は父の手紙をわざと避けて、他の一通を取り上げてみた。それは絶えて久しい幼友だちの一人から送られたもので、園にとってはこの場合さして興味あるものではなかった。他の一通は書体で星野から来たものであるのが明かだった。園はせわしく封を破って、中から細字で書きこまれてある半紙三枚を取りだした。長い手紙であればあるほどその場合の園には便りが多かった。園は念を入れてその一字一句を読みはじめた。

「<ruby><rb>皚々</rb><rt>がいがい</rt></ruby>たる白雪山川を封じ了んぬ。筆端のおのずから<ruby><rb>稜峭</rb><rt>りょうしょう</rt></ruby>たるまた<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ざるなり」

とそれは書きだしてあった。

「昨夜二更一匹の<ruby><rb>狗子</rb><rt>くし</rt></ruby>窓下に来ってしきりに<ruby><rb>哀啼</rb><rt>あいてい</rt></ruby>す。<ruby><rb>筆硯</rb><rt>ひっけん</rt></ruby>の妨げらるるを<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んで窓を開きみれば、<ruby><rb>一望月光裡</rb><rt>いちぼうげっこうり</rt></ruby>にあり。<ruby><rb>寒威惨</rb><rt>かんいさん</rt></ruby>として<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がず。かの狗子白毛にて<ruby><rb>黒斑</rb><rt>こくはん</rt></ruby>、<ruby><rb>惶々乎</rb><rt>こうこうこ</rt></ruby>とし屋壁に<ruby><rb>踞跼</rb><rt>きょきょく</rt></ruby>し、四肢を側立て、眼を我に挙げ、耳と尾とを動かして訴えてやまず。その<ruby><rb>哀々</rb><rt>あいあい</rt></ruby>の<ruby><rb>状</rb><rt>じょう</rt></ruby>諦観視するに堪えず。彼はたして<ruby><rb>那辺</rb><rt>なへん</rt></ruby>より来れる。思うに村人ことごとく眠り去って、灯影の漏るるところたまたま我が小屋あるのみ。彼行くに所なくして、あえてこの無一物裡に一物を<ruby><rb>庶幾</rb><rt>しょき</rt></ruby>し来れるにあらざらんや。庭辺一片の食なし。かりに彼を屋内に招かば、狂弟の虐殺するところとならんのみ。我れの有するものただ一編の文章のみ。文章は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>彼において何するところぞ。我れついに断じて窓を閉ず。翌、かの<ruby><rb>狗子</rb><rt>くし</rt></ruby>命を我が窓下に絶ちぬ。

ああ何んぞ<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り狗子を言わんや。自然の物を遇するすべてまさにこのごとし。我が茅屋の中つねにかの狗子にだに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かざるものを絶たず。日夜の<ruby><rb>哭啾</rb><rt>こくしゅう</rt></ruby>聞こえざるに聞こゆ。筆を折って世とともに濁波を挙げて笑いかつ生きんとしたること幾度なりしを知らざるは、たまたま我が<ruby><rb>耿々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>の志少なきを語るものにすぎずといえども、あるいは少しく兄の憐みを<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くものなきにしもあらじ。しかも古人の蹟を一顧すれば、たちまち<ruby><rb>慚汗</rb><rt>ざんかん</rt></ruby>の背に流るるを覚ゆ。<ruby><rb>貧窮</rb><rt>ひんきゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>病弱</rb><rt>びょうじゃく</rt></ruby>、<ruby><rb>菲才</rb><rt>ひさい</rt></ruby>、<ruby><rb>双肩</rb><rt>そうけん</rt></ruby>を圧し来って、ややもすれば我れをして<ruby><rb>後</rb><rt>しり</rt></ruby>えに<ruby><rb>瞠若</rb><rt>どうじゃく</rt></ruby>たらしめんとすといえども、我れあえて心裡の牙兵を<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>して死戦することを恐れじ。『折焚く柴の記と新井白石』はかろうじて稿を<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>るに近し。試験を終らば兄は帰省せん。もししからば幸いに稿を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>え去って、四宮霜嶺先生に示すの機会を求むるの労を惜しまざれ。先生にして我が平生<ruby><rb>忖度</rb><rt>そんたく</rt></ruby>するところのごとくんば、この稿によって一点<ruby><rb>霊犀</rb><rt>れいさい</rt></ruby>の相通ずるあるを認めん。我が東上の好機もまたこれによって光明を見るに至らんやも保しがたし。さらに兄に<ruby><rb>依嘱</rb><rt>いしょく</rt></ruby>しえべくんば、我が小妹のために一顧を惜しまざれ。彼女は我が一家の<ruby><rb>犠羊</rb><rt>ぎよう</rt></ruby>なり。兄の知れるごとく今小樽にありてつぶさに<ruby><rb>辛酸</rb><rt>しんさん</rt></ruby>を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めつつあり。もしさらに一二年を放置せば、心身ともに<ruby><rb>萎靡</rb><rt>いび</rt></ruby>し終らんとす。<ruby><rb>坐視</rb><rt>ざし</rt></ruby>するに忍びざるものあり。幸いにして東京に良家のあるありて、彼女のために適所を供さば、たんに心身の<ruby><rb>更生</rb><rt>こうせい</rt></ruby>を<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>しうるのみならず、その<ruby><rb>生得</rb><rt>しょうとく</rt></ruby>の才能を発揮するの機縁に遇いうるやも計るべからず。我が望むところは、彼女が東上して円山氏につき、勤労に服するのかたわら、現代的智識の一班に通ずるを得ば、きわめて幸いなり」

園はこれだけのことを読む間にも、幾度も自家の方のありさまを想像していた。想像したというよりは自分がずっと育ってきた東京郊外の田舎じみた景色や、父、母、兄などの<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>やが、見るように現われたり隠れたりしていた。そのために園は星野からの手紙を静かに読み終ることができないで、それを机の上に置いたなりで、細かく書連ねられた達者な字を見入りながら、だんだんと自分の家のことを思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りはじめた。

あるかないかに薄い眉の上に、深い横皺を一本たたんで、黒白半ばするほどの髪毛のまだらに生え残った三分刈りの大きな頭を少し前こごみにして、じろりと横ざまに眼を走らしながら人の顔を見る父の顔……今年の夏休暇の終に見たその時の顔……その時、父と兄との間にはもう大きな<ruby><rb>亀裂</rb><rt>きれつ</rt></ruby>が入っていて、いつも以上に不機嫌になっていた。兄は病気の加減もあったのかことさらに<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>だった。若いくせに<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>が<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて肺気腫の気味になっていたが、ややともすると誰にも口をきかないで一日でも二日でも頑固に押し黙っているようなことがあった。園に対しては<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めるような<ruby><rb>溺愛</rb><rt>できあい</rt></ruby>を示すのに引きかえて、兄に対してはことごとに気持を悪るくしているらしい愛憎の烈しい母が、二人の中に挾まって、二人の間をかえってかき乱していた。いらいらしているのが指の先までも伝っているような様子で、驚くほど烈しく<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>で<ruby><rb>吐月峰</rb><rt>とげっぽう</rt></ruby>をたたきつけながら、自分のすぐ後ろにある座敷金庫から十円札を二枚取りだし、乞食にでもやるように、それを園の前に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだして苦がりきっていた父の顔、それを取り上げるまでに園は自分でも解らぬような複雑した気持を味わねばならなかった。園が黙ったままお辞儀一つして、それに手を延ばすまでの一挙一動はもとより、どういう風に気持が動いているかを厳しく看守しながら、いささかでも父の権威を冒すような風があったら、そのままにはしておかないぞというように見えた父の顔……自分の生みの父ながら、あの眉の上の深い横皺は園にはこの上なくいやなものだった。どうかして鏡に向うようなことのあるたびごとに、園は自分の顔にそれが現われではしないかと神経質に注意した。年のせいか園にはなかった。しかし兄には明かにそれが出ていた。そういう父の顔……それが何よりも色濃く園の眼の前を離れなかった。死顔などはどうしても現われては来なかった。父の死んだということが第一不思議なほど信ぜられなかった。毎日葬式や命日というような儀式は見慣れてきてはいたけれども、自分の家から死者の出たのは、園が生まれてから始めてのことなので、よけいそうした感じが起らないのかもしれなかった。母の顔も平生のとおりの母の顔、兄の顔も今年の夏別れる時に見たままの兄の顔。玄関からなだら上りになった所に、重い瓦を乗せてゆがみかかった寺門がある。その寺門の左に、やや黄になった葉をつけたまま、高々とそそり立つ名物の「香い桜」。朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれて<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫が<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>っていた。そんなことまでが、夏見たままの姿で園の眼の前に<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>と現われでた。

しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の<ruby><rb>印象</rb><rt>イメージ</rt></ruby>の後には、何か<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい動揺が起ろうとしているように思えた。実際をいうと、園は帰京せずに、札幌で静かに父の死を<ruby><rb>弔</rb><rt>とむ</rt></ruby>らいもし、一家の善後ということも考えてみたかったのだが「スグカエレ」という電文に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>くべき何らの理由もなかった。

園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の<ruby><rb>木端</rb><rt>こば</rt></ruby>を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>きながら長く考えつづけた。

「とにかく今夜すぐ帰ろう」

ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。

しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>るまでに慌ただしい心持になっていた。彼はそれをいまいましく思いながらもすぐ立ち上って部屋の中を片づけはじめた。しかしそこには別に片づけるというようなものもなかった。ズック製の旅鞄に、二枚の着換えを入れて、四冊の書物と日記帳とを加えて、手拭の類を収めると、そのほかにすることといっては、鍵のかかるところに鍵をかって、本箱の上に自分のと別にしてならべてある借用の書物を人見か柿江に頼んで返却してもらえばそれでいいのだった。彼は心の中にわくわくするようないやな気分を持ちながらも、割合に落ち着いた挙止でそれだけの仕事をすませた。そして机の上にあった三通の手紙を洋服の<ruby><rb>内衣嚢</rb><rt>うちかくし</rt></ruby>に大事にしまいこんだ。机の上にはラムプとインキ壷と硯箱とのほかに何んにもなかった。そこで園はもう一度思い落しはないかと考えてみた。欠席届があった。彼はふたたび机の引出の錠を開けて、半紙を取りだしてそれを書いた。そしてそのついでに星野にあてて一枚の葉書を書いた。

「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」

しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんだ。

隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>として、片づきすぎるほど隅まで片づいていた。それを見ると園は父の死んだという事実をちらっと実感した。何んの意味もなく胸の迫るのを覚えた。しかしそれはすぐ通り過ぎてしまった。

隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>なほど興奮して園を玄関まで送ってきた。婆やは、食事がもうできるから食べていったらいいだろうと勧めながら、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて下駄を引っかけて門の外まで送ってでた。そして袖口を顔に押しあてながら、遠くなるまで見送っていた。

園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を押しまげて頭の上から強く打ち下そうとする衝動が、鞄を不必要に前後に揺り動かさした。彼は今夜という今夜、すべてのことをおぬいさんとその母とに申しでようという決心をやすやすとしてしまっていたのだ。それは東京に帰ろうと決めたと同時に、特別な考慮を廻らさないでも自然にでき上った決心だった。園はもとよりおぬいさんが彼をどう考えているかも知らなかった。その母がどう考えるかも考えてはみなかった。園はただおぬいさんを愛していることをこの十日ほどの間にはっきりと発見したのだ。彼は幾度かできるだけ冷静になって自分の気持を考えてもみ、容赦なく解剖してもみた。しかしそこに何らか軽薄な気持が動いていることを認めることができなかった。渡瀬が酔ったまぎれに「おぬいさんに惚れろ」といい続けた時、園はそういう問題を取り上げる気持は少しもなかったが、その後四五日経ってから、どうした機会だったか、園はふとおぬいさんに対する自分の心持を徹底的に決めておかなければならぬという強い要求を感じ始めた。そのために昼は研究ができず、夜は眠ることのできない三日四日が続いたが、それには何らの焦燥も苦悩も<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>いはしなかった。彼はただ神聖な存在の前に引きだされたような気分で、何事をも偽ることなく心をこめて考えた。そして最後に彼はおぬいさんにこの上なく深い愛と親しみとを持っていることをはっきり見出だした。そうなることが園にとってはきわめて自然ないいことだった。この発見は園の心をかつて覚えのない暖かさと快さとに誘いこんだ。ふとその時星野のことを思い浮べてみた。しかしこれはもう園にとっていささかの暗らい影にもなってはいなかった。すべての良心においてこの上なく深く、この上なく暖かくおぬいさんを愛している、そのすがすがしい満足に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りとなるものは一つもなかった。おぬいさんが園を愛していない、その疑いすらも気にはならなかった。実際そうであったところが、園はおそらく平気だったろうと思われるほど園の心は静かに満ち足っていた。

ただし、残された一つのことは、自分の気持をゆがめずに三隅母子に伝える時機と方法とをつくることだけだった。しかしそれさえ園にとっては格別むずかしいことではなくみえた。父死亡の電報を見た時でも、この場合その問題をどう片づけるかさえ考えはしなかったのだが、欠席届を書き終えた時、保証人なる槍田氏は三隅の小母さんの知り合いだから、通知かたがた三隅家に立ち寄ってその判を貰うように頼もうと思いつくと同時に、自分の心持もそのついでにいってしまおうと決心したのだ。

園は往来を歩きながら、不思議な力が、<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに、しかしたしかに自分の体じゅうに満ちてくるのを感じた。かつて知らなかった大きな事業、それが成功しようとも失敗しようとも、事業そのものの値打をいささかも傷つけないような大きな事業が、今眼の前に行われようとしているのだ。そしてこの事業に手をつけるについては、はたしてそれに当るだけの力量のあるなしは分らないとしても、あらゆる点において残るところなく考えぬき、しかも露ほどの心の後ろめたさも感じてはいないということにかけて、園の心は小ゆるぎもしなかった。一種の勇気をもってその五体は波打った。彼の眼に映る大通りの雪景色は、その広さと<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>さにおいて彼の心に等しかった。夜の闇が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>り近づいて紫がかった雪の平面を、彼は親しみの吐息をもって果て遠く眺めやった。

さっきのとおりに小母さんもおぬいさんも家にいて、台所で夕食の支度をしているところだった。二人はさっき帰ったばかりの園が、不意にまた訪ずれてきたのを驚きながらも喜ぶように、もつれ合って入口に走りでた。毎日同じようなことを繰り返しながら、淋しく暮している母子二人にとっては、これほどいささかな不意なことも、これほどに気を引き立たせるのだろう。少なくとも園がこの家で邪魔物あつかいにされていないのを知るのは彼にとっても限りなく快いことだった。

おぬいさんは慌て気味に<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>とエプロンとを外ずしながら、茶の間に行ってラムプの<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>をねじ上げた。その釣りラムプの下には彼の見慣れたチャブ台の上に、小さずくめの食器がつつましく準備されていた。小母さんを見、おぬいさんを見、その可憐なチャブ台の上の様を見ると、園の心は思いもかけず小さく激しく沸き立ちはじめた。

「その鞄は」

と小母さんは怪しむように尋ねた。

「今お話します」

園は小母さんの<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうな顔に<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な答えをしながら、美しい楕円の感じのする茶の間に通って、いつもの所に、……柱を背にして<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかることのできる……胸の<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>を気にしながら坐った。

「どうなすったのです……明りのせいかしらん、……お顔の色がお悪いようですが……」

火鉢のわきに小母さんが、園からずっと離れて<ruby><rb>茶箪笥</rb><rt>ちゃだんす</rt></ruby>の前におぬいさんが座をしめた時には、園の前にはチャブ台は片づけられていた。園は自分の顔が<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いほど充血しているだろうとばかり信じていたのに、そう小母さんにいわれてみると、手の先までが寒さのためばかりでなく冷えきっているのを感じた。自分の気持をそのまま先方に移すことができるだろうか、そういう不安がかすかに動いた。彼はその場になって、かすかにでもそう感ぜねばならぬのが苦しかった。それゆえ彼は已むを得ずますます口少なになった。何もかも一度に二人に言いきってしまった時に感じるだろう心のすがすがしさと、それを曲って取られはしないかという不安とが、もどかしく心の中で戦い合った。

いつものとおりの落ち着いたしとやかさでおぬいさんが茶を入れていた。小母さんは茶を飲み終るまでも、大事な問題は延ばしておこうとでもするように、途中が寒かったろうなどと、世間なみの口をきいていた。園は自分の気持が何んとなく小母さんに通じているのだなと思った。長い生活の経験と、親というものの力が美しく働いているらしいのを感じて、その月並な会話にもけっして不快は感じなかった。

園はおぬいさんが進めてくれた茶を静かにすすった。少しそれは熱すぎた。彼は冷えた両手でほとぼりの<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み残った茶碗を握りしめてみた。そこからも快い感触が神経の奥に暖かく移っていった。ふと眼を挙げるとそこにおぬいさんの眼があった。何んの恐れ気もなく、平和に、純潔な、そして園の心におのずと涙ぐましさを誘うような淋しさ、――淋しさではない。淋しさということはできない。淋しさに似てもっと深いもの、いい言葉はない――を籠めた、黒眼がちな眼。慎しみ深い顔の中にその眼だけがほのかにほほえんで、そこにつぎつぎに開けてゆく世界をより深く眺めようとするように見えた。おぬいさんのその眼があった。そしてそれがやわらかく、まともに園の方に寒いまでに澄んでしかもこの上なく暖かい光を送っていた。園はその眼を思わずじっと眺めやった。その瞬間に園の覚悟は定まった。彼は柱から身を起して端坐した。そして臆することなく小母さんの方に面を向けた。口を切ろうとする時、父のことをまずいいだそうとしたが、すぐそれが間違っているのを自分で悟った。

「こんなことをいうのはまだ早すぎはしないかと思いますのですけれども、事情がこれ以上<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>するのを許さないようですから……」

園は両手に握っている茶碗を感じた。そしてその茶碗の中にさらに一杯の茶を欲した。けれども彼は続けた。

「僕は自分としてはこれ以上は考えられないというところまで考えたつもりです。もし失礼に当ったら許してくださいまし。僕はおぬいさんとお約束をすることができたらと思うんです……そう願っています」

園はおぬいさんに向っても同じことをいいたかったのだ。しかしそれを聞きつつあるおぬいさんの苦痛を察すると、どうしてもそちらに眼をやることができなかった。それにもかかわらずおぬいさんが処女らしい<ruby><rb>羞</rb><rt>は</rt></ruby>じらいのために、深々と顔を伏せたのが痛むほどきびしく園の感覚に伝ってきた。

小母さんは切れ切れな園の言葉を聞くと、思わずはっと胸をつかれたらしく、かすかに口をゆるめて、鋭い色を眼にひらめかしたが、やがて、というほどもなく、園をしげしげと見やりながら黙ったままで深くうなずいてみせた。そしてかすかな血の気をその疲れたような頬に現わした。自分は今答えようにも答えられないから、もっと何んとかいえとその顔は促がしていた。園は何か言おうとした。しかしそこには言うべき何事も残ってはいなかった。それ以上をいうのは<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ぼうとく</rt></ruby>にすら感じられた。

園と小母さんとは無言のままで互いの眼から離れて下を向いてしまった。ストーヴの中の<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>がゆるく燃えている。その音だけがしめやかに狭い部屋の中に拡がっていた。

と、おぬいさんが無言のままで立ち上って、間の襖を開けて静かに隣の部屋に去った。小母さんはそのきっかけにおぬいさんに何かいおうとしたらしかったが、思い返したか、心<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>なげな眼つきでその後姿を目送しただけで何もいわなかった。

襖が静かに締まった。

園はもう一つ言っておかねばならぬものを思いついた。それゆえふたたび顔を上げて小母さんを見た。小母さんは園を避けながら、いらだっているような風で火鉢の炭をせせっていた。しかしそれはいらだっているのではなく、少し心の落ち着きを失っているのだということが園にはよく解った。彼は小母さんの引きしまった横顔を見やりながら口を切った。

「僕ははじめこのことをあなただけの所で申しあげようか、おぬいさんだけに聞いていただこうかと迷いました……しかし結局お二人の前で申しあげるのが一番いいとおもいました。……本当は槍田さんにでもお願いするのがいいのかもしれません……けれども、そうお願いして万一僕の気持がそのまま現われないようなことがあると……苦しいことだと思ったものですから……どうか僕を信じてくださいまし。僕はどんな御返事をいただいても……それは十分に覚悟しています……」

そういいだしてみると、今度は言っておきたいことが後から後からと無限にあるように感じられた。どこまで行っても果てしがあろうとは思われなかった。園は少し自分に<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れてまた黙ってしまった。そして気がついて、手にしていた茶碗を<ruby><rb>茶托</rb><rt>ちゃたく</rt></ruby>に戻した。

ややしばらく思案しているらしかった小母さんは、きゅうに居住まいをなおして園の方にまともに顔を向けた。

「園さん。おっしゃることはいちいち私にもよく解りました。それだけおっしゃってくださるのを私は親として誠にありがたく存じますけれども、娘は<ruby><rb>不束</rb><rt>ふつつ</rt></ruby>かで、そういうことを考えてみたこともないようでございますし、……もっともゆっくりよく尋ねてはみましょうけれども、……それによく考えてみなければならないことでもございますししますから……今夜はそれを伺っておくだけにさせていただきとうございますが……悪るくお取りくださいますなよ……あなたのようにそう隠しだてなく言っていただくと、私は嬉しゅうございます、本当に。……どんな仕合せになりましょうとも、ぬいもあなたのお志はうれしく存じますでしょう」

小母さんの声は意外にも曇って震えていた。園はもとより今夜の告白からすぐ結果を望もうとなどはしていなかったのだ。心の中では、もちろんそんなことを即座に伺おうなどとは思っていませんといいたかったけれども、それが言葉にはならなかった。

隣の部屋でおぬいさんが忍び泣きをしている……それを園ははっきり感じた。彼は身の内が氷のように引き締まるのを覚えた。強い緊張のために、肩の凝りきった時のような感じが体全体に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>った。自分の少しばかりの言葉がおぬいさんを泣くほどに苦しめたかと思うと、園は今夜の<ruby><rb>浅慮</rb><rt>せんりょ</rt></ruby>を悔いるような気にもなった。しかしながらそれはけっして浅慮ではないと園は思い返した。おぬいさんを本当に愛するなら、おぬいさんの気持に絶対自由を与えなければならない。何らかの義務を感じさせておぬいさんを苦しめては忍んでいられない。そういう気持が何よりも先きに立った。

「何んだか僕は自分のしたことが乱暴すぎたかとも思いもします……もしそうでしたら、ごめんください。僕はけっしてどんな結果をも恐れてはいませんから、どうか十分自由なお気持で今までのことをお聞きくださいまし。……僕は今夜きゅうに東京に帰らなければなりません。少し思いがけない不幸に遇いましたから。そのことはいずれ手紙で申しあげます。……それではもう時間がありませんからお暇します。……英語の方をまた休まなければならなくなって……」

とできるだけ冷静な言葉で言おうとしたが、自分ながら意気地なく声が震えを帯びた。もし事が破れたら、この家にはもう来られないのだ。ふと彼はそう思うと限りなく淋しかった。

園は欠席届書を<ruby><rb>小母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんに<ruby><rb>託</rb><rt>たく</rt></ruby>し、不幸というのは父が<ruby><rb>頓死</rb><rt>とんし</rt></ruby>したのだということを簡単に告げて、座を立つことになった。彼は見納めをするような気持で、きちんと<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>されたその茶の間を眼早く見まわした。時計の下の柱暦に小母さんとおぬいさんとの<ruby><rb>筆蹟</rb><rt>ひっせき</rt></ruby>がならんでいるのも――彼が最初にその家に英語を教えるのを断りに来た時に気がついたものだけに――なつかしかった。彼は自分のしたことが、思った以上に彼にとって致命的であるのを知った。

「ぬいさん、園さんがお帰りだからお見送りなさいな。東京の方にお帰りだというから――」

小母さんは立ち上って園を入口に送りだしながら、奥の方にこう声をかけた。けれどもおぬいさんの出てきそうな様子はなかった。園はそれがおぬいさんらしいと思った。そう思いはしたものの、言いようのない物足らなさが胸の奥底に濃く<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>むのをどうすることもできなかった。

園が編上靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き終って、外套を着て、もう一度小母さんに簡単な別れの挨拶をして格子戸を開けようとした時、おぬいさんが奥から出てくるのを感づいて、彼は思わず後を振り向いた。はたしておぬいさんが小刻みに駈けるようにして母の後ろまで来ると、その蔭に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りそって坐るが早いか頭を下げた。園も黙って帽子を取った。その時見えた小母さんの眼には涙がいっぱいたまっていた。

園は格子戸を立ててから、未練だとは思いながらもちらっとおぬいさんを見た。おぬいさんは、畳についた両手をしゃんと延ばして寄せ合わせて、肩さえいつもより細々と見えるのに、襟足がのぞかれるまで顔を重く伏せていた。眼上のものに心から詫び入る姿のように。かと思うと死ぬほどの口惜しさをじっと堪らえる形のように。園にはもどかしいほどに、そのいずれであるかがどうしても分らなかった。

園は歩きながら、我にもなくややともすると、熱い涙が眼に迫るのを感じた。そして振り払うように眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つむ</rt></ruby>って、雪になるらしく曇った夜の空に、幾度も顔を仰向けねばならなかった。

思いもかけぬ重い苦痛と疑惑とが、若い心を老いしめると思うほどに押し寄せてきた。彼は自分の<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なさに呆れるほどだった。市街のここかしこに立つ老いた<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の樹を見るごとに、彼はそれによって自分の心を励まそうとした。……科学のために一身を<ruby><rb>献</rb><rt>ささ</rt></ruby>げようとするものに何んという不覚なことだ。昔から学者の生活が世の常の立場から見て、淋しく暗らいものであるのは知れきったことだ。それは始めからある誇りをもって覚悟していたことではなかったか。誰にも省みられないけれども、春が来るごとに黙って葉を連ねているあの楡の大樹、あの老木が一度でも分外な涙を流したか。貴様にはまだ文学者じみたセンティメンタリズムが影を潜めてはいないのだ。科学者らしい雄々しさを持て。真理の前には何事を<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>にしても、微笑していられるだけの熱情を持て。その熱情を誰にも見えない胸の深みに静かに抱いていろ。おぬいさんを愛するのを止めろというのではない。貴様の愛し方は間違っているとはいえない。その愛がその人の前に明かに表明された以上、貴様の心は<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがらか</rt></ruby>に晴れていかねばならぬはずだ。それだのに結果は反対ではないか。何んという愚かな苦しみを喜ぼうとしているのだ。……貴様の科学は今どこに行ってしまったのだ。そんな風に園はむちゃくちゃに停車場の方に向って歩きながら、自分で自分を<ruby><rb>鞭</rb><rt>むちう</rt></ruby>ってみた。

そうだったと眼が覚めるように思い上る瞬間もあった。同時に、玄関で別れぎわに見たいたいたしいおぬいさんの姿が、手を延ばせば掴めそうに眼の前にちらついて離れない瞬間もあった。しまいには園は自分を憐みたくさえなった。しかもそれが父の死を知ったばかりの悲しみの中にあるべき身でありながら――園はさながら<ruby><rb>魍魎</rb><rt>もうりょう</rt></ruby>の巣の中を喘ぎ喘ぎ歩いていくもののように歩いた。

停車場には白官舎の書生だけが三人で送りに来ていてくれた。柿江は夜学校の日だというので顔を見せなかった。婆やも来てはいなかった。人見が「東京に行くとおもしろい議会が見られるね。伊藤が政友会を率いてどう元老輩をあやつるかが見ものだよ」といっていた。その言葉が特別に園に縁遠い言葉としてかえっていつまでも耳底に残った。

三等車の中央部にあるまん丸な鋳鉄製のストーブは真赤に熱して、そのまわりには遠くから来た旅客がいぎたなく寝そべっていた。八時に札幌を<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>った列車は、雪さえ黒く見えるような闇の中を<ruby><rb>驀地</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に走りだした。園はストーブからかなり離れた席に腰かけて外套の襟を立てて、黙然として坐っていた。床の上を足を動かすたびに、先客の喰荒らした広東豆（南京豆のこと）の殻が気味悪くつぶれて音をたてた。車内の空気はもとより腐敗しきって、油燈の灯が震動に調子を合わせて明るくなったり暗くなったりした。