## 一

お<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>が<ruby><rb>養親</rb><rt>やしないおや</rt></ruby>の口から、近いうちに自分に<ruby><rb>入婿</rb><rt>いりむこ</rt></ruby>の来るよしをほのめかされた時に、彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>には、まだ何等の<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した考えも起って来なかった。

十八になったお島は、その頃その<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>で<ruby><rb>男嫌</rb><rt>おとこぎら</rt></ruby>いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>でもしていれば、立派に年頃の<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、<ruby><rb>手頭</rb><rt>てさき</rt></ruby>などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、<ruby><rb>稚</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>いおりから善く外へ出て田畑の土を<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は<ruby><rb>家中</rb><rt>うちじゅう</rt></ruby>の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>い男などから、彼女は時々<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>われたり、<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>ぐことが<ruby><rb>好</rb><rt>すき</rt></ruby>であったが、誰もまだ彼女の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを<ruby><rb>素破</rb><rt>すっぱ</rt></ruby>ぬいて<ruby><rb>辱</rb><rt>はじ</rt></ruby>をかかせるかして、自ら<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばなければ止まなかった。

お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>われてきたのは、七つの年であった。お島は<ruby><rb>昔気質</rb><rt>むかしかたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>律義</rb><rt>りちぎ</rt></ruby>な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の<ruby><rb>暴</rb><rt>あら</rt></ruby>い怒と<ruby><rb>惨酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>な<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>から<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れるために、野原をそっち<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby><ruby><rb>彷徨</rb><rt>うろつ</rt></ruby>いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いてくれる柿や<ruby><rb>塩煎餅</rb><rt>しおせんべい</rt></ruby>などを食べて、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた<ruby><rb>夕陽</rb><rt>ゆうひ</rt></ruby>がかげって、<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い<ruby><rb>懸稲</rb><rt>かけいね</rt></ruby>、<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>い畑などが、一様に<ruby><rb>夕濛靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まれて、一日<ruby><rb>苦使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>われて疲れた<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>げに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の<ruby><rb>遣場</rb><rt>やりば</rt></ruby>に困っている自分の父親も可哀そうであった。

お島は<ruby><rb>爾時</rb><rt>そのとき</rt></ruby>、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは<ruby><rb>尾久</rb><rt>おく</rt></ruby>の<ruby><rb>渡</rb><rt>わたし</rt></ruby>あたりでもあったろうか、のんどりした<ruby><rb>暗碧</rb><rt>あんぺき</rt></ruby>なその水の<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いでゆく<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>って、怪獣のような暗い木の影が、そこに<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>っているのであった。

## 二

その時お島の父親は、どういう<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より解らない。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は渡しを向うへ渡って、そこで知合の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或<ruby><rb>可恐</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しい<ruby><rb>惨忍</rb><rt>ざんにん</rt></ruby>な<ruby><rb>思着</rb><rt>おもいつき</rt></ruby>が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えた。父親の顔には悔恨と<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>の色が現われていた。

赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引取られてからも、気強い母親に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>まれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に<ruby><rb>焼火箸</rb><rt>やけひばし</rt></ruby>を押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。

「この<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>つく<ruby><rb>張</rb><rt>ばり</rt></ruby>め」彼女はじりじりして、そう言って<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。

昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の<ruby><rb>出遊</rb><rt>しゅつゆう</rt></ruby>のおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>としてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く働いたがその<ruby><rb>身状</rb><rt>みじょう</rt></ruby>を誰も好く言うものはなかった。

お島が今の養家へ貰われて来たのは、<ruby><rb>渡場</rb><rt>わたしば</rt></ruby>でその時行逢った父親の知合の男の<ruby><rb>口入</rb><rt>くちいれ</rt></ruby>であった。<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>などをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は<ruby><rb>養親</rb><rt>やしないおや</rt></ruby>の口から、時々その折の不思議を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れ聞いた。それは<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby><ruby><rb>作物語</rb><rt>つくりものがたり</rt></ruby>にでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、<ruby><rb>放浪</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の旅に疲れた一人の<ruby><rb>六部</rb><rt>ろくぶ</rt></ruby>が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を<ruby><rb>言告</rb><rt>いいつ</rt></ruby>げて立去った。その旅客の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>に、貴い多くの小判が、外に積んだ<ruby><rb>楮</rb><rt>かぞ</rt></ruby>のなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の<ruby><rb>幸</rb><rt>さち</rt></ruby>を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>にそれらしい人の姿にも出逢わなかった。<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>かく</rt></ruby>、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。

「その六部が何者であったかな」養父は<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に<ruby><rb>門辺</rb><rt>かどべ</rt></ruby>へ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に<ruby><rb>語聞</rb><rt>かたりきか</rt></ruby>せたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。

養家へ来てからのお島は、<ruby><rb>生</rb><rt>うみ</rt></ruby>の親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。

## 三

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に<ruby><rb>沁込</rb><rt>しみこ</rt></ruby>むようになって来た。養家の<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし<ruby><rb>聞齧</rb><rt>ききかじ</rt></ruby>ったところによると、六部はその晩急病のために<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で落命したのであった。そして死んだ彼の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の<ruby><rb>有</rb><rt>もの</rt></ruby>にして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>好い気持がしなかった。

「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」

お島がその事を、<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と養母に<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>りかばうようにと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めたが、どうかすると親たちから<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>まれ<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られているような気がさしてならなかった。

六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby><ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>への<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>に必ず通らなければならなかった。そこは畳の<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>勝手に近い六畳の<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>に<ruby><rb>寝</rb><rt>ねか</rt></ruby>されていた。お島はその八畳を通る<ruby><rb>度</rb><rt>たんび</rt></ruby>に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とするような事があった。夜はいつでも宵の口から<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>に入ることにしている父親の寝言などが、ふと<ruby><rb>寝覚</rb><rt>ねざめ</rt></ruby>の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>されている<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>の声ではないかと疑われた。

陽気のぽかぽかする春先などでも<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>がのうのうして、寿命がちぢまるような<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しさを感じた。お島は<ruby><rb>糸屑</rb><rt>いとくず</rt></ruby>を払いおとして、裏の方にある<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>の方へ急いで出ていった。

<ruby><rb>薮畳</rb><rt>やぶだたみ</rt></ruby>を控えた広い平地にある紙漉場の<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>に、温かい日がさして、<ruby><rb>楮</rb><rt>かぞ</rt></ruby>を浸すために<ruby><rb>盈々</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>と<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられた水が<ruby><rb>生暖</rb><rt>なまあたた</rt></ruby>かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>は庭に作られて、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た<ruby><rb>枝折門</rb><rt>しおりもん</rt></ruby>などが<ruby><rb>営</rb><rt>しつら</rt></ruby>われ、石や庭木が多く植え込まれた。<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。

「貧乏くさい商売だね」お島は自分の<ruby><rb>稚</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んで<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>す</rt></ruby>っていた。

<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。

「お前さんの紙漉も久しいもんだね」

「駄目だよ。<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>が気がないから」<ruby><rb>作</rb><rt>さく</rt></ruby>と云うその男は<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづかい</rt></ruby>もないからね」

「<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>だ」お島は<ruby><rb>鼻頭</rb><rt>はなのさき</rt></ruby>で笑った。

## 四

お島は<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時分この作という男に、よく学校の<ruby><rb>送迎</rb><rt>おくりむかい</rt></ruby>などをして貰ったものだが、養父の<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>に当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終<ruby><rb>苦使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>われて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは<ruby><rb>豕</rb><rt>ぶた</rt></ruby>か何ぞのように<ruby><rb>忌嫌</rb><rt>いみきら</rt></ruby>われた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に気荒く罵った。

「おいおい、この<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいのに寝ている奴があるかよ。<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>を考えてみろ」

おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を<ruby><rb>覗込</rb><rt>のぞきこ</rt></ruby>みながら<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつ</rt></ruby>ものお<ruby><rb>定例</rb><rt>きまり</rt></ruby>を言って<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。<ruby><rb>甲走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>ったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との<ruby><rb>間</rb><rt>なか</rt></ruby>にできた子供であった。彼の父親は<ruby><rb>賭博</rb><rt>とばく</rt></ruby>や女に<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>を<ruby><rb>入揚</rb><rt>いれあ</rt></ruby>げて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように<ruby><rb>零落</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れて、間もなくまた二人でこの町へ<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来た。その時身重であったその女が、作を<ruby><rb>産</rb><rt>うみ</rt></ruby>おとしてから程なく、子供を弟の家に<ruby><rb>置去</rb><rt>おきざり</rt></ruby>に、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う<ruby><rb>報知</rb><rt>しらせ</rt></ruby>が、<ruby><rb>木更津</rb><rt>きさらず</rt></ruby>の方から来たのは、それから二三年も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってからであった。

お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも<ruby><rb>得乗</rb><rt>えの</rt></ruby>らず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>い顔をして、疲れきった足を引きずりながら<ruby><rb>這込</rb><rt>はいこ</rt></ruby>んで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。

「あの<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅ</rt></ruby>と一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい」

作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>にはえへへと笑って聞いていた。

作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育<ruby><rb>盛</rb><rt>さかり</rt></ruby>を<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい労働に<ruby><rb>苦使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>われて営養が不十分であったので、皮膚の<ruby><rb>色沢</rb><rt>いろつや</rt></ruby>が悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>かって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、<ruby><rb>負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>ったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえるほど美しく肉づき伸びて行くのが<ruby><rb>物希</rb><rt>ものめずら</rt></ruby>しくふと彼の目に映った。たっぷりしたその髪を島田に結って、なまめかしい八つ口から、むっちりした<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を見せながら、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>がけで働いているお島の姿が、長いあいだ彼の心を苦しめて来た、彼女に対する淡い<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>をさえ、吸取るように<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>ってしまった。それまで彼は<ruby><rb>歴々</rb><rt>れっき</rt></ruby>とした生みの親のある、家の後取娘として、何かにつけておとらから<ruby><rb>衒</rb><rt>ひけ</rt></ruby>らかす様に、隔てをおかれるお島を、<ruby><rb>詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしくも思っていた。

## 五

お島が作を一層嫌って、<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>するようになったのもその頃からであった。

蒸暑い夏の或真夜中に、お島はそこらを<ruby><rb>開放</rb><rt>あけはな</rt></ruby>して、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかで寝苦しい体を<ruby><rb>持余</rb><rt>もてあま</rt></ruby>していたことがあった。<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱいような蚊の<ruby><rb>唸声</rb><rt>うなりごえ</rt></ruby>が<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>のような彼女のいらいらしい心を<ruby><rb>責苛</rb><rt>せめさいな</rt></ruby>むように耳についた。その時ふとお島の目を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かしたのは、蚊帳のそとから<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている作の蒼白い顔であった。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんに<ruby><rb>言告</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けてやるぞ」

お島は高い調子に叫んだ。それで作はのそのそと出ていったが、それまで何の気もなしに見ていたそれと同じような作の挙動が、その時お島の心に一々意味をもって来た。お島は劇しい侮蔑を感じた。或時は野良仕事をしている時につけ廻されたり、或時は湯殿にいる自分の体に見入っている彼の姿を見つけたりした。

お島はそれ以来、作の顔を見るのも胸が悪かった。そして養父から、善く働く作を自分の婿に<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>ぼうとしているらしい<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>されたときに、彼女は体が<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>むほど<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な気持がした。しかし養父のその考えが、段々<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>して来たとき、お島の心は、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら生みの親の家の方へ<ruby><rb>嚮</rb><rt>む</rt></ruby>いていった。

「何しろ作は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の血筋のものだから、同じ<ruby><rb>継</rb><rt>つが</rt></ruby>せるなら、あれに後を取らせた方が道だ」

養父は時おり妻のおとらと、その事を相談しているらしかったが、お島はふとそれを立聞したりなどすると、堪えがたい圧迫を感じた。<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な反抗心が心に<ruby><rb>湧返</rb><rt>わきかえ</rt></ruby>って来た。

作の自分を見る目が、段々親しみを加えて来た。彼は出来るだけ<ruby><rb>打釈</rb><rt>うちと</rt></ruby>けた態度で、お島に近づこうとした。畑で桑など<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んでいると、彼はどんな遠いところで、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい用事に働いている時でも、彼女を見廻ることを忘れなかった。彼はその頃から、働くことが面白そうであった。叔父夫婦にも従順であった。お島は一層それが不快であった。

おとらが<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>お島の婿にしようと企てているらしい或若い男の兄が、その頃おとらのところへ<ruby><rb>入浸</rb><rt>いりびた</rt></ruby>っていた。青柳と云うその男は、その町の開業医として<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>に顔が売れていたが、或私立学校を卒業したというその弟をも、お島はちょいちょい見かけて知っていた。

<ruby><rb>気爽</rb><rt>きさく</rt></ruby>で酒のお酌などの巧いおとらは、夫の留守などに訪ねてくる青柳を、よく奥へ通して<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>のお<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をしたりしているのを、お島は時々見かけた。一日かかって四十<ruby><rb>把</rb><rt>ぱ</rt></ruby>の<ruby><rb>楮</rb><rt>かぞ</rt></ruby>を<ruby><rb>漉</rb><rt>す</rt></ruby>くのは、普通<ruby><rb>一人前</rb><rt>いちにんまえ</rt></ruby>の極度の仕事であったが、おとらは働くとなると、それを八十把も漉くほどの働きものであった。そして人のいい夫を<ruby><rb>其方退</rb><rt>そっちの</rt></ruby>けにして、傭い人を見張ったり、金の<ruby><rb>貸出方</rb><rt>かしだしかた</rt></ruby>や<ruby><rb>取立方</rb><rt>とりたてかた</rt></ruby>に抜目のない<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を働かしていたが、青柳の顔が見えると、どんな時でも彼女の様子がそわそわしずにはいなかった。

お島の目にも、<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>のいい青柳の人柄は好ましく思えた。彼は青柳から始終お島坊お島坊と呼びなずけられて来た。最近青柳がいつか養父から借りて、新座敷の造営に<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>った金高は、少い額ではなかった。

## 六

お島は作との縁談の、まだ持あがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>さまへ出かけたものであった。<ruby><rb>天性</rb><rt>うまれつき</rt></ruby>目性の好くないお島は、いつの頃からこの医者に時々かかっていたか、<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>覚えてもいないが、そこにいたお花と云う青柳の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>にあたる娘とも、遊び友達であった。

おとらは時には、青柳の家で、お島と<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>の着物をお花に<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるために、そこへ反物屋を呼んで、<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>の<ruby><rb>品評</rb><rt>しなさだめ</rt></ruby>をしたりしたが、仕立あがった着物を着せられた二人の娘は、近所の人の目には、<ruby><rb>双児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>としかみえなかった。おとらは青柳と大師まいりなどするおりには、初めはお島だけしか連れていかなかったものだが、<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>にはお花をも誘い出した。

お花という<ruby><rb>連</rb><rt>つれ</rt></ruby>のある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby><ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けものにされていなければならなかった。

「じゃね、<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんと<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんは、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で一服しているからね。お前は目がわるいんだから<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くお<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りをしておいで。ゆっくりで<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ<ruby><rb>満</rb><rt>つま</rt></ruby>らないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね」

おとらはそう言って、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>と<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>の昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>をお島の小さい<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>に入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>から橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。

それは丁度<ruby><rb>初夏</rb><rt>はつなつ</rt></ruby>頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、<ruby><rb>脊筋</rb><rt>せすじ</rt></ruby>が汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を<ruby><rb>候</rb><rt>うかが</rt></ruby>うと、何となく気がつまって<ruby><rb>居辛</rb><rt>いづら</rt></ruby>かった。そして<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>いおりから母親に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びることを学ばされて、そんな事にのみ<ruby><rb>敏</rb><rt>さと</rt></ruby>い心から、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に<ruby><rb>故</rb><rt>ことさ</rt></ruby>ら二人に甘えてみせたり、<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いでみせたりした。

「ええ、<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>ござんすとも」

お島は大きく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。

町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い<ruby><rb>天刑病</rb><rt>てんけいびょう</rt></ruby>者が、そこにも此処にも頭を土に<ruby><rb>摺</rb><rt>すり</rt></ruby>つけていた。それらの或者は、お島の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>絡</rb><rt>まつ</rt></ruby>わり着いて来そうな調子で恵みを<ruby><rb>強請</rb><rt>ねだ</rt></ruby>った。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで<ruby><rb>通過</rb><rt>とおりす</rt></ruby>ぎた。

## 七

曲がりくねった野道を、人の影について<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行くと、<ruby><rb>旋</rb><rt>やが</rt></ruby>て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>している人や<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>の群に交って歩いていったが、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>や浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんも<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>には目についた。<ruby><rb>金縁</rb><rt>きんぶち</rt></ruby>眼鏡をかけて、<ruby><rb>細巻</rb><rt>ほそまき</rt></ruby>を用意した男もあった。<ruby><rb>独法師</rb><rt>ひとりぼっち</rt></ruby>のお島は、草履や下駄にはねあがる<ruby><rb>砂埃</rb><rt>すなぼこり</rt></ruby>のなかを、人なつかしいような<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじら</rt></ruby>しい心持で、ぱっぱと<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすは</rt></ruby>に足を運んでいた。ほてる<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>絡</rb><rt>まつ</rt></ruby>わる<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>の、ぽっとりした<ruby><rb>膚触</rb><rt>はだざわり</rt></ruby>が、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に忘れていた。

大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>や起きあがり法師を売っていたり、おこしや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>切り<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>を<ruby><rb>鬻</rb><rt>ひさ</rt></ruby>いでいたりした。<ruby><rb>蠑螺</rb><rt>さざえ</rt></ruby>や<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>なども目についた。山門の上には<ruby><rb>馬鹿囃</rb><rt>ばかばやし</rt></ruby>の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や<ruby><rb>太白飴</rb><rt>たいはくあめ</rt></ruby>の店などを<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めながら本堂の方へあがって行ったが、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>も<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。

そこを出てから、お島は野広い境内を、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。<ruby><rb>田舎爺</rb><rt>いなかじじい</rt></ruby>の<ruby><rb>加持</rb><rt>かじ</rt></ruby>のお水を頂いて飲んでいるところだの、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>のあがった多くの大師の像のある処の前に<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでみたりした。木立の中には、海軍服を着た<ruby><rb>痩猿</rb><rt>やせざる</rt></ruby>の<ruby><rb>綱渡</rb><rt>つなわたり</rt></ruby>などが、多くの人を集めていた。お島はそこにも<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立とうとしたが、<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>つような気分が、長く足を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めさせなかった。

休茶屋で、ラムネに<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>や<ruby><rb>熱</rb><rt>いき</rt></ruby>る体を<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く<ruby><rb>棚引</rb><rt>たなび</rt></ruby>いていた。疲れたお島の心は、<ruby><rb>取留</rb><rt>とりとめ</rt></ruby>のない物足りなさに<ruby><rb>掻乱</rb><rt>かきみだ</rt></ruby>されていた。

<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>のお茶屋へ還って往くと、酒に<ruby><rb>酔</rb><rt>え</rt></ruby>った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、<ruby><rb>小楊枝</rb><rt>こようじ</rt></ruby>を使っていた。

「まあ<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>かったね。お前お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>がすいて歩けなかったろう」おとらはお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を言った。

「お前、お水を頂いて来たかい」

「ええ、どっさり頂いて来ました」

お島はそうした<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>くことに何の悲しみも感じなかった。

おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて<ruby><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>の声が<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>な野中に聞え、人家には<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>されていた。

「みんな御苦労々々々」おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で<ruby><rb>連</rb><rt>しきり</rt></ruby>に何か取込んでいた。

## 八

お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、「肩をもみましょうか」と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>ませられるのが習慣になっていた。

おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>戸締をしたり、一日取ちらかった<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>らを<ruby><rb>疳性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>らしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>なども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。

此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知っているが、今の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>が取引上のことで、ちょくちょく其処へ出入しているうちに、いつか親しい<ruby><rb>間</rb><rt>なか</rt></ruby>になったのだと云うことは、お島もおとらから聞かされて知っていた。その頃<ruby><rb>痩世帯</rb><rt>やせじょたい</rt></ruby>を張っていた養父は、それまで義理の母親に育てられて、不仕合せがちであったおとらと一緒になってから、二人で心を合せて一生懸命に稼いだ。その苦労をおとらは能くお島に言聞せたが、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>ができてからのこの二三年のおとらの心持には、いくらか<ruby><rb>弛</rb><rt>たる</rt></ruby>みができて来ていた。世間の快楽については、何もしらぬらしい養父から、少しずつ心が離れて、長いあいだの圧迫の反動が、彼女を<ruby><rb>動</rb><rt>と</rt></ruby>もすると<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほうし</rt></ruby>な生活に<ruby><rb>誘出</rb><rt>おびきだ</rt></ruby>そうとしていた。

お島は長いあいだ養父母の体を揉んでから、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と寝床につくことが出来たが、お茶屋の奥の間での、<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>の強い今日の<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の光景を思浮べつつ、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>健</rb><rt>すこ</rt></ruby>やかな眠に陥ちて了った。蛙の声がうとうとと疲れた耳に聞えて、発育盛の手足が<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>く<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>っていた。

<ruby><rb>翌朝</rb><rt>あした</rt></ruby>も養父母は、何のこともなげな様子で働いていた。

お花を連出すときも、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の遊び場所は<ruby><rb>矢張</rb><rt>やはり</rt></ruby>同じお茶屋であったが、お島はお花と一緒に、浅草へ遊びにやって貰ったりした。お島はお花と<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で上野の方から浅草へ出て往った。そして観音さまへお詣りをしたり、花屋敷へ入ったりして、<ruby><rb>晷</rb><rt>とき</rt></ruby>を消した。二人は手を引合って人込のなかを歩いていたが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>心が落着かなかった。

おとらは時とすると、若い青柳の細君をつれだして、東京へ遊びに行くこともあったが、内気らしい細君は、誘わるるままに素直について往った。おとらは<ruby><rb>往返</rb><rt>いきかえ</rt></ruby>りには青柳の家へ寄って、姉か何ぞのように<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるま</rt></ruby>っていたが、細君は心の侮蔑を<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にも現わさず、物静かに<ruby><rb>待遇</rb><rt>あしら</rt></ruby>っていた。

## 九

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の頃であったか、多分その翌年頃の夏であったろう、その年<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>にお島の手に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>されてあった、<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>二枚ばかりの蚕が、<ruby><rb>上蔟</rb><rt>じょうぞく</rt></ruby>するに<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>のない或日、養父とごたごたした<ruby><rb>物言</rb><rt>ものいい</rt></ruby>の<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、養母は着物などを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に<ruby><rb>障</rb><rt>さ</rt></ruby>わったと云って、大声をたてて良人に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ってかかった。話の調子の低いのが<ruby><rb>天性</rb><rt>もちまえ</rt></ruby>である養父は、<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>にかかって言募って来るおとらの為めに<ruby><rb>遣込</rb><rt>やりこ</rt></ruby>められて、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>には<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるように<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を和げたが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>いつまでもぐずぐず言っていた。

「ちっと昔しを考えて見るが<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>を洗ってみた日には、<ruby><rb>余</rb><rt>あんま</rt></ruby>り大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか」

養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、<ruby><rb>給桑</rb><rt>きゅうそう</rt></ruby>に働いていたお島は、<ruby><rb>甲高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>なその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな<ruby><rb>養父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の声も途断れ途断れに聞えた。

青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と供給されていた。

お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。

その日も養父は、使い道の<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に<ruby><rb>紛紜</rb><rt>いざこざ</rt></ruby>を<ruby><rb>惹起</rb><rt>ひきおこ</rt></ruby>していた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>に<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>っていた色々の場合のおとらの<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>が、ねちねちした調子で<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>られるのであった。

結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の音などをさせていたが、それきり出ていった。

「まあ<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>なんざどうするんでしょう」

お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりむ</rt></ruby>きもしなかった。

夜になってから、お島は養父に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>かって、近所をそっち<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。

おとらの<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だ帰って来ない、或日の午後、蚕に<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいお島の目に、ふと庭向の<ruby><rb>新建</rb><rt>しんだち</rt></ruby>の座敷で、おとらを<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ出してやった留守に、何時か<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>たように、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい<ruby><rb>紙幣</rb><rt>さつ</rt></ruby>を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。

## 十

お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と届いたおとらの<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の外は、その返辞はどこからも来なかった。

養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>透徹</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るような<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわばら</rt></ruby>せて、細い糸を吐きかけていた。

「お前<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっかあ</rt></ruby>から口止されてることがあるだろうが」

養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「どうしてです。いいえ」お島は顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あから</rt></ruby>めた。

しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。

もう遊びあいて、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような<ruby><rb>目色</rb><rt>めつき</rt></ruby>をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>してみえた。

お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>などを、風通しのいい座敷の方で、<ruby><rb>衣紋竹</rb><rt>えもんだけ</rt></ruby>にかけたり、茶をいれたりした。

「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、<ruby><rb>背</rb><rt>せなか</rt></ruby>を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の<ruby><rb>片着先</rb><rt>かたづきさき</rt></ruby>や、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやけ</rt></ruby>がさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>も絶えがちになっていた。<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>とも<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>そうであった。

湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た<ruby><rb>海苔</rb><rt>のり</rt></ruby>や<ruby><rb>塩煎餅</rb><rt>しおせんべい</rt></ruby>のようなものを、<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>の下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかへ入ってしまった。

毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の<ruby><rb>瘟気</rb><rt>いきれ</rt></ruby>の夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>悪巫山戯</rb><rt>わるふざけ</rt></ruby>で女を<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>らせたりした。

<ruby><rb>仕舞湯</rb><rt>しまいゆ</rt></ruby>をつかった作が、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。

「この<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>また出て来た」お島は腹立しげについと其処を離れた。

## 十一

おとらと青柳との間に成立っていたお島と青柳の弟との縁談が、養父の不同意によって、立消えになった頃には、おとらも段々青柳から遠ざかっていた。一つはお島などの口から、自分と青柳との関係が、うすうす良人の耳に入ったことが、その様子で感づかれたのに厭気がさしたからであったが、一つは青柳夫婦がぐるになって、慾一方でかかっていることが余りに見えすいて来たからであった。

お島が十七の暮から春へかけて、作の相続問題が、また養父母のあいだに持あがって来た。お島はそのことで、養父母の機嫌をそこねてから、一度生みの親達の傍へ帰っていた。お島はその頃、誰が自分の婿であるかを<ruby><rb>明白</rb><rt>はっきり</rt></ruby>知らずにいた。そして婚礼支度の自分の<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>などを縫いながら、時々青柳の弟のことなどを、ぼんやり考えていた。東京の学校で、機械の方をやっていたその弟と、お島はついこれまで口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたこともなかったし、自分をどう思っているかをも知らなかったが、深川の方に勤め口が見つかってから、毎朝はやく、<ruby><rb>詰襟</rb><rt>つめえり</rt></ruby>の洋服を着て、鳥打をかぶって出て行く姿をちょいちょい見かけた。途中で逢うおりなどには、双方でお辞儀ぐらいはしたが、お島自身は彼について深く考えて見たこともなかった。そして青柳とおとらとの間に、その話の出るとき<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつも</rt></ruby>避けるようにしていた。

ある時そんな事については、から薄ぼんやりなお花の手を通して、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な横封に入った手紙を受取ったが、洋紙にペンで書いた<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い文字が、何を書いてあるのかお花にはよくも解らなかったが、双方の家庭に対する不満らしいことの意味が、お島にもぼんやり<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に入った。お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に受取れたが、お島は何だか<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>なような、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいような気がして、後で<ruby><rb>揉</rb><rt>もみ</rt></ruby>くしゃにして<ruby><rb>棄</rb><rt>すて</rt></ruby>てしまった。その事を、多少は誇りたい心で、おとらに話すと、おとらも笑っていた。

「あれも妙な男さ。養子なんかに行くのは厭だといって置きながら、そんな物をくれるなんて、厭だね」

お島は養父母が、すっかり作に取決めていることを感づいてから、仕事も手につかないほど不快を感じて来た。おとらは不機嫌なお島の顔を見ると、お島が七つのとき初めて、人につれられて貰われて来た時の<ruby><rb>惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>なさまを掘返して聞せた。

「あの時お前のお<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんは、お前の<ruby><rb>遣場</rb><rt>やりば</rt></ruby>に困って、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんへの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>あてに川へでも棄ててしまおうかと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ<ruby><rb>不具</rb><rt>かたわ</rt></ruby>になっていたかも知れないよ」おとらはそう言って、生みの親の無情なことを語り聞かせた。

## 十二

近所でも知らないような、作とお島との<ruby><rb>婚礼談</rb><rt>こんれいばなし</rt></ruby>が、遠方の取引先などで、<ruby><rb>意</rb><rt>おも</rt></ruby>いがけなくお島の耳へ入ったりしてから、お島は一層<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>自分の<ruby><rb>惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>な今の身のうえを見せつけられるような気がして、腹立しかった。そしてその事を吹聴してあるくらしい、作の顔が一層間ぬけてみえ、厭らしく思えた。

「まだ帰らねえかい」そう言って、小さい時分から学校へ迎えに来た作は、昔も今も同じような顔をしていた。

「外に待っておいで」お島はよく<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りつけるように言って、入り口の外に待たしておいたものだが、今でも<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>、下駄に手をふれられても身ぶるいがするほど厭であった。

婚礼<ruby><rb>談</rb><rt>ばなし</rt></ruby>が出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。<ruby><rb>余所行</rb><rt>よそゆき</rt></ruby>の化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。

「あっちへ行っておいで」お島はのしかかるような<ruby><rb>疳癪声</rb><rt>かんしゃくごえ</rt></ruby>を出して<ruby><rb>逐退</rb><rt>おいしりぞ</rt></ruby>けた。

「そんなに嫌わんでも<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いよ」作はのそのそ出ていった。

作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>に<ruby><rb>心張棒</rb><rt>しんばりぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>突支</rb><rt>つっか</rt></ruby>えておいたりしなければならなかった。

「厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です」お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。

「作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか」

お島は仕切を取りに行く先々で、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>づら</rt></ruby>で<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすは</rt></ruby>な取引とが、到るところで評判がよかった。<ruby><rb>物馴</rb><rt>ものな</rt></ruby>れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。

それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。

「<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか<ruby><rb>阿父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さん、家の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>をへらすような<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづかい</rt></ruby>はありませんよ」お島は<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さそうに言った。

「阿父さんのように<ruby><rb>吝々</rb><rt>けちけち</rt></ruby>していたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ」

ぱっぱっとするお島の<ruby><rb>遣口</rb><rt>やりくち</rt></ruby>に、不安を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>きながらも、<ruby><rb>気無性</rb><rt>きぶしょう</rt></ruby>な養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。

「嘘ですよ」

お島は作と自分との結婚を否認した。

「それでも作さんがそう言っていましたぜ」取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を<ruby><rb>瞶</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか」お島は鼻で笑っていた。

王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。

「それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ」おとらは<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>にお島に訊ねた。

「そうですね」お島はいつもの調子で答えた。

「私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ」

## 十三

盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に養母が迎いに来た。

お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて作が<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>お<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をするのであったが、この二三年商売の方を<ruby><rb>助</rb><rt>す</rt></ruby>けなどするために、時には金の仕舞ってある押入や<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>されるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも<ruby><rb>動</rb><rt>と</rt></ruby>もすると自分に一種の<ruby><rb>軽侮</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>を持っている妹に、<ruby><rb>半衿</rb><rt>はんえり</rt></ruby>や下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りとした。姉や妹に限らず、養家へ<ruby><rb>出入</rb><rt>ではいり</rt></ruby>する人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて<ruby><rb>喙</rb><rt>くち</rt></ruby>を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れられると、<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>を言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>でお島に逢うと、心から<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>にお辞儀をした。

大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>を始めてから、また自分で<ruby><rb>稼業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>に出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>の<ruby><rb>上下</rb><rt>あげおろ</rt></ruby>しに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>をくさくささせた。

「そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>にもありゃしないよ」

母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>が、<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>となく<ruby><rb>置駢</rb><rt>おきなら</rt></ruby>べられてあった。庭の外には、幾十株松を<ruby><rb>育</rb><rt>そだて</rt></ruby>てある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。

いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。

「ええ。<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とばかりの地面や木なんぞ<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ」お島は<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で、井戸から<ruby><rb>如露</rb><rt>じょろ</rt></ruby>に水を汲込みながら言った。

「好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ」

「憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>なんかありゃしませんよ」

「そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とは直ったかと思っていれば、段々<ruby><rb>不可</rb><rt>いけな</rt></ruby>くなるばかりだ」

「余計なお世話です。自分が育てもしない癖に」お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。

## 十四

お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との<ruby><rb>紛紜</rb><rt>いさくさ</rt></ruby>が<ruby><rb>気煩</rb><rt>きうるさ</rt></ruby>さに、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>大きな如露をさげて、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>こっち植木の根にそそいだり、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>の距離から来る煤煙に汚れた<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>の枝葉を払いなどしていたが、目が時々<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んで来る涙に曇った。

「お島さん、どうも済んませんね」などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。

「私はじっとしていられない性分だからね」とお島はくっきりと白い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>のあたりへ垂れかかって来る髪を<ruby><rb>掻</rb><rt>かき</rt></ruby>あげながら、<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>みの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>の苦しみが、<ruby><rb>憶起</rb><rt>おもいおこ</rt></ruby>された。四つか五つの時分に、<ruby><rb>焼火箸</rb><rt>やけひばし</rt></ruby>を<ruby><rb>捺</rb><rt>おし</rt></ruby>つけられた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>は、今でも丸々した手の甲の肉のうえに<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>のように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を<ruby><rb>抓</rb><rt>つ</rt></ruby>ねられたり、妹を<ruby><rb>窘</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたといっては、二三尺も積っている<ruby><rb>脊戸</rb><rt>せど</rt></ruby>の雪のなかへ<ruby><rb>小突出</rb><rt>こづきだ</rt></ruby>されて、息の<ruby><rb>窒</rb><rt>つま</rt></ruby>るほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が<ruby><rb>太々</rb><rt>ふてぶて</rt></ruby>しいといって、何もくれなかったりした。<ruby><rb>土掻</rb><rt>つちかき</rt></ruby>や、<ruby><rb>木鋏</rb><rt>きばさみ</rt></ruby>や、<ruby><rb>鋤鍬</rb><rt>すきくわ</rt></ruby>の仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、<ruby><rb>地鞴</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>ふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。

父親は、その<ruby><rb>度</rb><rt>たんび</rt></ruby>に母親をなだめて、お島を<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してくれた。

「多勢子供も<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>ってみたが、こんな<ruby><rb>意地張</rb><rt>いじっぱり</rt></ruby>は一人もありゃしない」母親はお島を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りもつぶしたいような調子で父親と争った。

お島は我子ばかりを<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わって、人の子を取って<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ったという<ruby><rb>鬼子母神</rb><rt>きしぼじん</rt></ruby>が、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。

日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と夕飯に入って来たが、父親は<ruby><rb>難</rb><rt>むずか</rt></ruby>しい顔をして、いつか長火鉢の傍で<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が<ruby><rb>這拡</rb><rt>はいひろ</rt></ruby>がって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。

「まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ」父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を<ruby><rb>和</rb><rt>なだ</rt></ruby>めているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。

「今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから」お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。<ruby><rb>切</rb><rt>せ</rt></ruby>めて自分を養家へ口入した、西田と云う<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんの<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>っているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>は<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐまいと考えていた。食事をしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>も、<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>した<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が、時々ぐらぐらするようであった。

## 十五

或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある<ruby><rb>持地</rb><rt>もちじ</rt></ruby>で、三四人の若い者を<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>して、可也大きな赤松を<ruby><rb>一株</rb><rt>ひともと</rt></ruby>、或得意先へ持運ぶべく<ruby><rb>根拵</rb><rt>ねごしら</rt></ruby>えをしていた。

お島はおとらを客座敷の方へ案内すると、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に席をはずして了ったが、実母の<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつけ</rt></ruby>で父親を呼びに行った。お島はこうして<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>な実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がって育ててくれた養母の方に、多くの<ruby><rb>可懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しみのあることが<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>感ぜられて来た。養家や長い<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>のその周囲も恋しかった。

「島ちゃん、お前さんそう幾日も幾日もこちらの御厄介になっていても済まないじゃないか。今日は私がつれに来ましたよ」おとらにいきなりそう言って上り込んで来られた時、お島は反抗する張合がぬけたような気がして、何だか涙ぐましくなって来た。

「手前の<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>がわりいから、あんな<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>を言うんだ。この先もあることだから<ruby><rb>放抛</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>っておけと、宅ではそう言って怒っているんですけれど、私もかかり<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>にしようと思えばこそ、今日まで面倒を見てきたあの子ですからね」

おとらのそう言っている<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を茶の間で茶をいれながら、お島は聞いていたが、お島のことと云うと、誰に向ってもひり出すように言いたい実母も、ただ簡単な<ruby><rb>応答</rb><rt>うけごたえ</rt></ruby>をしているだけであった。

こんな出入に口無調法な父親は、さも困ったような顔をしていたが、<ruby><rb>旋</rb><rt>やが</rt></ruby>て井戸の方へまわって手顔を洗うと、内へ入って来た。お島は母親のいないところで、ついこの一両日前にも、父親が事によったら、母親に秘密で自分に<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けてもいいと言った地面の坪数や価格などについて、父親に色々聞されたこともあった。その坪は一千<ruby><rb>弱</rb><rt>たらず</rt></ruby>で、安く見積っても木ぐるみ一万円が一円でも切れると云うことはなかろうと云うのであった。お島は心強いような気がしたが、母親の目の黒いうちは、滅多にその<ruby><rb>分前</rb><rt>わけまえ</rt></ruby>に有附けそうにも思えなかった。

「家の地面は、全部でどのくらいあるの」お島は<ruby><rb>爾時</rb><rt>そのとき</rt></ruby>も父親に訊いてみた。

「そうさな」と、父親は笑っていたが、それが<ruby><rb>大見</rb><rt>おおけん</rt></ruby>一万近いものであることは、お島にも考えられた。中には野菜畠や田地も含まれていた。子供が多いのと、この二三年兄の浪費が多かったのとで、借金の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>へ入っている場所も少くなかった。去年の秋から、家を離れて、田舎へ<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎにいっている兄の傍には、暫く<ruby><rb>係合</rb><rt>かかりあ</rt></ruby>っていた<ruby><rb>商売人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>あがりの女が未だに<ruby><rb>附絡</rb><rt>つきまと</rt></ruby>っていたり、<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>が三つになる子供と一緒に、東京にあるその実家へ引取られていたりした。父親の助けになる<ruby><rb>男片</rb><rt>おとこきれ</rt></ruby>と云っては、十六になるお島の弟が一人家にいるきりであった。

家が段々ばたばたになりかかっていると云うことが、そうして五日も六日も見ているお島の心に感ぜられて来た。母親のやきもきしている様子も、見えすいていた。

## 十六

お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを<ruby><rb>逍遥</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いていた。どうせここにいても、母親と毎日々々<ruby><rb>啀</rb><rt>いが</rt></ruby>みあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>み<ruby><rb>靡</rb><rt>ただ</rt></ruby>れてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には<ruby><rb>一握</rb><rt>ひとつかみ</rt></ruby>の土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>って<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や<ruby><rb>出入</rb><rt>ではいり</rt></ruby>の人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>あがったような貧相らしい<ruby><rb>頸</rb><rt>えり</rt></ruby>から、いつも耳までかかっている<ruby><rb>尨犬</rb><rt>むくいぬ</rt></ruby>のような<ruby><rb>髪毛</rb><rt>かみのけ</rt></ruby>や赤い目、<ruby><rb>鈍</rb><rt>のろ</rt></ruby>くさい口の<ruby><rb>利方</rb><rt>ききかた</rt></ruby>や、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも<ruby><rb>蔑視</rb><rt>さげす</rt></ruby>ましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るのはまだしも、実父にまで、時々それを<ruby><rb>圧</rb><rt>おし</rt></ruby>つけようとする<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>を洩されるのは、<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えられないほど情なかった。

大分たってから<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>の前へ呼ばれていった時、お島は<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と目に<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいる涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>もこの四五日<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいんで、聞いてみる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなかったが、全体お前の<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>はどういうんだな」

お島が<ruby><rb>太</rb><rt>ふ</rt></ruby>てたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い手に<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を取あげながら訊ねた。お島は<ruby><rb>曇</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ<ruby><rb>目色</rb><rt>めつき</rt></ruby>をして、黙っていた。

「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」

「私は厭です」お島は顔の筋肉を<ruby><rb>戦</rb><rt>わなな</rt></ruby>かせながら言った。

「<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の事なら、何でも<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」

父親は黙って煙管を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたまま<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を<ruby><rb>瞶</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていた。

「島、お前よく考えてごらんよ。<ruby><rb>衆</rb><rt>みな</rt></ruby>さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>に<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れたもんだね」

「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえこご</rt></ruby>みになって、<ruby><rb>華車</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な銀煙管に煙草をつめながら一服<ruby><rb>喫</rb><rt>ふか</rt></ruby>すと、「だからね、それはそれとして、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>かく</rt></ruby>私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。

お島を<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。

「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。

そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、<ruby><rb>気爽</rb><rt>きさく</rt></ruby>におとらと話を交えた。

「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」

おとらは<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>お島に話しかけたが、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>かく</rt></ruby>作の事はこれきり一切口にしないという約束が<ruby><rb>取極</rb><rt>とりき</rt></ruby>められた。

## 十七

おとらは<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>に吹聴していたが、お島にもその<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でいるようにと言含めた。

「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>ることは<ruby><rb>鈍間</rb><rt>のろま</rt></ruby>でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。

お島は何だか変だと思ったが、<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>したり何かしたら承知しないと、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で決心していた。

家へ帰ると、気をきかして<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ<ruby><rb>用達</rb><rt>ようた</rt></ruby>しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお<ruby><rb>叩頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような<ruby><rb>取做方</rb><rt>とりなしかた</rt></ruby>をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>むようであった。お島はこの家が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ<ruby><rb>破滅</rb><rt>はめ</rt></ruby>に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて来たようにも考えられた。

「あの時王子の<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんは、家へ帰って来るとお島は<ruby><rb>隅田川</rb><rt>すみだがわ</rt></ruby>へ流してしまったと云って<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。

お島はつんと顔を<ruby><rb>外向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。

「<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」

お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。

「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に<ruby><rb>理</rb><rt>り</rt></ruby>があるとは言うまいよ」

お島は<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。

おとらが<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>を見て、用事を<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けて、そこを<ruby><rb>起</rb><rt>たた</rt></ruby>してくれたので、お島は<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、<ruby><rb>埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>を掃出しているうちに、自分がひどく<ruby><rb>脅</rb><rt>おどか</rt></ruby>されていたような気がして来た。

夕方裏の畑へ出て、<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>のお<ruby><rb>汁</rb><rt>つゆ</rt></ruby>の実にする<ruby><rb>菜葉</rb><rt>なっぱ</rt></ruby>をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し<ruby><rb>慍</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>いつものとおり、にやにやしていた。

「<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>い、<ruby><rb>其地</rb><rt>そっち</rt></ruby>へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。

## 十八

お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。

残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分<ruby><rb>弱</rb><rt>たらず</rt></ruby>も<ruby><rb>剰</rb><rt>あま</rt></ruby>して、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>から取出されたり、足りない物が買足されたりした。

お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や<ruby><rb>食物</rb><rt>たべもの</rt></ruby>の世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ってみると、養父や養母に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、<ruby><rb>粗雑</rb><rt>がさつ</rt></ruby>ではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいた。

「お島さんお島さん」と云って、周囲の人が、<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って自分を<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めているようにも見えた。馬糧<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>の西田の<ruby><rb>爺</rb><rt>じじ</rt></ruby>いから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。

「くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>そうと思えば、何でもありゃしない」

お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって<ruby><rb>大束</rb><rt>おおたば</rt></ruby>を<ruby><rb>極込</rb><rt>きめこ</rt></ruby>んだ。

病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。それでなくとも、十年来住みなれて来ながら、一生ここで暮せようとは思えなくなった家に、めっきり親しみがなくなって来たお島は、よく懇意の得意先へあがっていって、半日も話込んでいた。<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>に代って、<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>に坐ってお客にお世辞を<ruby><rb>振撒</rb><rt>ふりま</rt></ruby>いたり、気の合った<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へまわって髪を<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>あげてやったりした。

「私二三年東京で働いてみようかしら」お島は何か働き<ruby><rb>効</rb><rt>がい</rt></ruby>のある仕事に働いてみたい望みが湧いていた。

「<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>でしょう」内儀さんは笑っていた。

「いいえ<ruby><rb>真実</rb><rt>まったく</rt></ruby>。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです」

「でも貴方にぬけられちゃ、お<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で困るでしょう」

「どうですかね。安心して私に委せておけないような人達ですからね。何を<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>すかと思って、<ruby><rb>可怕</rb><rt>おっかな</rt></ruby>いでしょう」お島は<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうに笑った。

目こする<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、さっさと<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に取揚げられた内儀さんの<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>は、<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>が所々<ruby><rb>引釣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>るようで、痛くて<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がなかった。

## 十九

お島は或時は、それとなく自分に適当した職業を捜そうと思って、人にも聞いてみたり、自分にも市中を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いてみたりしたが、自分の智識が許しそうな仕事で、一生懸命になり得るような職業はどこにも見当らなかった。坐って事務を取るようなところは、<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>小学校すら卒業していない彼女の学力が不足であった。

お島は時とすると、口入屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくぐろうかと考えて、その前を往ったり来たりしたが、そこに田舎の<ruby><rb>駈出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>しらしい女の無智な表情をした顔だの、みすぼらしい<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>や包みやレーザの畳のついた下駄などが目につくと、もう厭になって、その仲間に<ruby><rb>成下</rb><rt>なりさが</rt></ruby>ってまでゆこうと云う勇気は出なかった。

お島は日がくれても家へ帰ろうともしず、上野の山などに<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でぼんやり時間を消すようなことが多かった。山の下の多くの飲食店や、<ruby><rb>商家</rb><rt>あきないや</rt></ruby>には<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が青黄色い柳の色と一つに流れて、そこを動いている電車や群衆の影が、夢のように動いていた。お島はそんな時、恩人の<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>で、今アメリカの方へ行っているという男のことなどを<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>していた。そして旅費さえ<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み出すことができれば、何時でもその男を頼って、外国へ渡って行けそうな気さえするのであった。

「ここまで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけて、今一ト息と云うところで、あの財産を<ruby><rb>放抛</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>って出るなんて、そんな奴があるものか」

お島がその希望をほのめかすと、西田の老人は頭からそれを排斥した。この老人の話によると、養家の財産は、お島などの不断考えているよりは、<ruby><rb>逈</rb><rt>はるか</rt></ruby>に大きいものであった。動産不動産を合せて、十万より<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>むことはなかろうと云うのであった。床下の<ruby><rb>弗函</rb><rt>ドルばこ</rt></ruby>に<ruby><rb>収</rb><rt>しま</rt></ruby>ってあると云う有金だけでも、少い額ではなかろうと云うのであった。その中には幾分例の小判もあろうという推測も、<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>ではなかろうと思われた。

<ruby><rb>小</rb><rt>こまか</rt></ruby>い子供を多勢持っているこのお爺さんも、<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>は<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>お島の養父から、資金の融通を仰いだ仲間の<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>であった。今でも未償却のままになっている額が、少くなかった。老人は、何をおいても<ruby><rb>先</rb><rt>まず</rt></ruby>、慾を知らなければ一生の損だということをお島にくどくど<ruby><rb>言聴</rb><rt>いいきか</rt></ruby>した。

お島はそれでその時はまた自分の家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐ気になるのであったが、この老人や青柳などの<ruby><rb>口利</rb><rt>くちきき</rt></ruby>で、婿が作以外の人に決めらるるまでは、動きやすい心が、<ruby><rb>動</rb><rt>と</rt></ruby>もすると家を離れていこうとした。

## 二十

婚礼<ruby><rb>沙汰</rb><rt>ざた</rt></ruby>が初まってから、毎日のように来ては養父母と<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>をしていた青柳は、その当日も<ruby><rb>手隙</rb><rt>てすき</rt></ruby>を見てはやって来て、床の間に古風な島台を飾りつけたり、何処からか持って来た箱のなかから<ruby><rb>鶴亀</rb><rt>つるかめ</rt></ruby>の二幅対を取出して、懸けて<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めたりしていた。

「今度と云う今度は島ちゃんも<ruby><rb>遁出</rb><rt>にげだ</rt></ruby>す<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづかい</rt></ruby>はあるまい。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の弟は男が好いからね」青柳はそう言いながら、この二三日得意先まわりもしないでいるお島の顔を眺めた。青柳は<ruby><rb>頭顱</rb><rt>あたま</rt></ruby>の地がやや薄く透けてみえ、<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>みで見ると、<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>に<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>も幾筋かちかちかしていたが、顔はてらてらして、張のある美しい目をしていた。弟はそれほど立派ではなかったが、<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>った<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んだの揚句に、札がまたその男におちたと聞されたとき、お島は何となく晴がましいような気がせぬでもなかった。彼はその頃通いつつある工場の近くに下宿していて、兄の家にはいなかった。お島はこの正月以来その姿を見たこともなかった。一度自分に<ruby><rb>附文</rb><rt>つけぶみ</rt></ruby>などをしてから、妙に<ruby><rb>疎々</rb><rt>うとうと</rt></ruby>しくなっていたあの男が、婚礼の晩にどんな顔をして来るかと思うと、それが待遠しいようでもあり、不安なようでもあった。

その日は朝からお島は、気がそわそわしていた。そしてまだ夜露のじとじとしているような畠へ出て、根芋を掘ったきりで、何事にも外の働きはしなかった。畑にはもう刈残された<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>や<ruby><rb>黍</rb><rt>きび</rt></ruby>に、ざわざわした秋風が渡って、<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りかわしてゆく渡鳥の群が、晴きった空を遠く飛んで行った。

<ruby><rb>午頃</rb><rt>ひるごろ</rt></ruby>に<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>が出来ると、自分が今婚礼の式を挙げようとしていることが、一層<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>して来る様であったが、その相手が、十三四の頃から<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>んで、よく<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>われたり何かして来た気象の<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な青柳の弟に当る男だと思うと、<ruby><rb>更</rb><rt>あらたま</rt></ruby>ったような気分にもなれなかった。おとらと三人でいる時でも、青柳はよくめきめき娘に成ってゆくお島の<ruby><rb>姿形</rb><rt>すがたかたち</rt></ruby>を眺めて、おとらに油断ができないと思わせるような<ruby><rb>猥</rb><rt>みだら</rt></ruby>な<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を浴せかけた。

作太郎はというと、彼も今日は一日一切の仕事を休ませられて、朝から床屋へいったり、湯に入ったりして<ruby><rb>冶</rb><rt>めか</rt></ruby>していた。そしてお島の顔さえみるとにこにこして、座敷へ入って、ごたごた積重ねられてある諸方からの祝の奉書包や目録を物珍らしそうに眺めていた。

頼んであった料理屋の板前が、車に今日の料理を積せて<ruby><rb>曳込</rb><rt>ひきこ</rt></ruby>んで来た頃には、<ruby><rb>羽織袴</rb><rt>はおりはかま</rt></ruby>の世話焼が、そっち行き<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>いきして、家中が急に色めき立って来た。その中には、始終気遣わしげな顔をして、ひそひそ話をしている西田の老人もあった。

「今夜<ruby><rb>遁出</rb><rt>にげだ</rt></ruby>すようじゃ、お島さんも一生まごつきだぞ。何でも<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いから、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に委して我慢をして……いいかえ」

箪笥に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって、ぼんやりしているお島の姿を見つけると、老人は側へよって来て力をこめて言聴かせた。

## 二十一

お島が、これも当夜の世話をしに昼から来ていた髪結に、黒の三枚<ruby><rb>襲</rb><rt>がさ</rt></ruby>ねを着せてもらった頃には、王子の父親も古めかしい羽織袴をつけ、扇子などを帯にはさんで、もうやって来ていた。余り人中へ出たことのない母親は、初めから来ないことになっていた。

川へ棄てようかとまで<ruby><rb>思余</rb><rt>おもいあま</rt></ruby>したお島が、ここの家を相続することに成りさえすれば、婿が誰であろうと、そんな事には<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>のない父親は、お島の姿を見ても見ぬ振をして、茶の間で養父と、地所や家屋に関して世間話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。日頃内輪同様にしている二三の人の顔もそこに見えた。不断養父等の居間にしている六畳の部屋に敷かれた座布団も、大概<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がっていた。中には<ruby><rb>濁声</rb><rt>だみごえ</rt></ruby>で<ruby><rb>高話</rb><rt>たかばなし</rt></ruby>をしている男もあった。

外が暗くなる時分に、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をこてこて塗って繰込んで来た若い<ruby><rb>女連</rb><rt>おんなれん</rt></ruby>と無駄口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたりして、お島は時の来るのを待っていた。女連は大方は一度か二度以上口を<ruby><rb>利合</rb><rt>ききあ</rt></ruby>った人達であったが、それが<ruby><rb>孰</rb><rt>いずれ</rt></ruby>も、式のあとの<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>の席に、酌や給仕をするために<ruby><rb>僦</rb><rt>やと</rt></ruby>われて来たのであった。その中には着物の着こなしなどの、きりりとした東京ものも居た。

女達が<ruby><rb>膳椀</rb><rt>ぜんわん</rt></ruby>などの取出された台所へ出て行く時分に、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と青柳の細君や髪結につれられて、お島は盃の席へ直された。

「まあ<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>のベールだね」などと、青柳が心持わなないているお島の綿帽子を眺めながら気軽そうに言った。そんな物を着ることをお島が拒んだので、着せる着せないで<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>がその日も<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れていたが、到頭<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せられることになってしまった。

盃がすむと、お島は逃げるようにして、自分の部屋へ帰って来た。それまでお島は綿帽子をぬぐことを許されなかった。

着替をして、再び座敷の入口まで来たときには、人の顔がそこに一杯見えていたが、手をひかれて自分の席へ落着くまでは、今日の盃の相手が、作であったことには少しも気がつかなかった。折目の正しい羽織袴をつけて、彼はそこに窮屈そうに坐っていた。そして物に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたような目で、お島をじろりと見た。

お島は<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が一時に<ruby><rb>赫</rb><rt>かっ</rt></ruby>として来た。女達の姿の動いている<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>いそこいらに、<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>がおこったような気がした。そしてじっと<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いていると、体がぞくぞくして来て<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がなかった。

「どうだい島ちゃん、こうして並んでみると万更でもないだろう」青柳が一二杯<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょこ</rt></ruby>をあけた時分に、<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえこご</rt></ruby>みになって<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めるような調子で、<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>とお島の方へ声をかけた。

吸物椀にぎごちない箸をつけていた作は、「えへへ」と笑っていた。

お島は年取った人達のすることや言うことが、<ruby><rb>可恐</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しいような気がしていたが、作の物を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>り食っている様子が神経に触れて来ると、胸がむかむかして、体中が<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるようであった。<ruby><rb>旋</rb><rt>やが</rt></ruby>てふらふらと其処を<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったお島の顔は<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>であった。

二三人の人が、ばらばらと後を追って来たとき、お島は自分の部屋で、夢中で着物をぬいでいた。

## 二十二

追かけて来た人達は、色々にいってお島をなだめたが、お島は<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>をはめ込んである押入の前に<ruby><rb>直</rb><rt>ぴった</rt></ruby>り<ruby><rb>喰着</rb><rt>くっつ</rt></ruby>いたなりで、身動きもしなかった。

「これあ為様がない」幾度手を引張っても出て来ぬお島の剛情に<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れて、青柳が出ていったあとに、西田の老人と王子の父親とが、そこへお島を引据えて、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>したり<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>したりした。

「あれほど己が言っておいたに、今ここでそんなことを言出すようじゃ、まるで<ruby><rb>打壊</rb><rt>ぶちこわ</rt></ruby>しじゃないか」お爺さんは<ruby><rb>可悔</rb><rt>くやし</rt></ruby>そうに言った。

「ですから行きますよ。少し気分が<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くなったら<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>行きます」お島は涙を拭きながら、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と<ruby><rb>笑顔</rb><rt>わらいがお</rt></ruby>を見せた。

「厭なものは厭でいいてこと。それはそれとして何処までも<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>っていなければ損だよ。なに財産と婚礼するのだと思えば<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>はたたねえ」お爺さんは、そう言いながら、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と安心して出て行った。

しんとして白けていた座敷の方が、また色めき立って来た。ちょいちょい立ってはお島を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに来た人達も、やっと席に落着いて、<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を運ぶ女の姿が、<ruby><rb>一時</rb><rt>ひとしきり</rt></ruby><ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しく<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>していた。

「おい島ちゃん、そんなに<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねんでもいいじゃないか」作が部屋の前を通りかかったとき、<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすくらが</rt></ruby>りのなかにお島の姿を見つけて、言寄って来た。お島は帯をときかけたままの姿で、押入に<ruby><rb>倚</rb><rt>よっ</rt></ruby>かかって、組んだ手のうえに<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せていた。<ruby><rb>疳癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>まぎれに<ruby><rb>頭顱</rb><rt>あたま</rt></ruby>を振たくったとみえて、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に結った島田髷の根が、がっくりとなっていた。お島は酒くさい熱い息がほっと、自分の顔へ<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>って来るのを感じたが、同時に作の手が、<ruby><rb>脇明</rb><rt>わきあき</rt></ruby>のところへ触れて来た。

「何をするんだよ」お島はいきなり<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ると、平手でぴしゃりとその顔を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>った。

「おお<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>え。えれえ<ruby><rb>見脈</rb><rt>けんまく</rt></ruby>だな」作は<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>っぺたを抑えながら、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうにお島の顔を眺めていた。

髪結が来て、顔を直してくれてから、お島が再び座敷へ出て行った頃には、席はもう乱れ放題に乱れていた。お島はぐでぐでに酔っている青柳に引張られて、作の側へ引すえられたが、父親や養父の姿はもう其処には見えなかった。作は四五人の若いものに取囲まれて、<ruby><rb>連</rb><rt>しきり</rt></ruby>に酒を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられていたが、その目は<ruby><rb>見据</rb><rt>みすわ</rt></ruby>って、あんぐりした口や、ぐたりとした<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、<ruby><rb>他哩</rb><rt>たわい</rt></ruby>がなかった。

## 二十三

その夜の<ruby><rb>黎明</rb><rt>ひきあけ</rt></ruby>に、お島が<ruby><rb>酔潰</rb><rt>えいつぶ</rt></ruby>れた作太郎の寝息を<ruby><rb>候</rb><rt>うかが</rt></ruby>って、そこを飛出した頃には、お<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>まで残ってつい今し方まで座敷で騒いで、ぐでぐでに疲れた若い人達も、もう寝静ってしまっていた。

お島は庭の井戸の水で、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>のはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の<ruby><rb>田圃道</rb><rt>たんぼみち</rt></ruby>まで出て来たが、<ruby><rb>濛靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の深い<ruby><rb>木立際</rb><rt>こだちぎわ</rt></ruby>の農家の土間から、<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>の下を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きつける火の影が、ちょろちょろ見えたり、田圃へ出て行く人の寒そうな影が動いていたりした。じっとりした往来には、荷車の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>みが静かなあたりに響いていた。<ruby><rb>徹宵</rb><rt>よっぴて</rt></ruby>眠られなかったお島は、熱病患者のように<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>った<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を快い暁の風に<ruby><rb>吹</rb><rt>ふか</rt></ruby>れながら、野良道を急いだ。酒くさい作の顔や、ごつごつした手足が、まだ頬や体に<ruby><rb>絡</rb><rt>まつ</rt></ruby>わりついているようで、気味がわるかった。

王子の町近く来た時分には、もう日が高く昇っていた。そこにも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>が立って、目覚めた町の物音が、ごやごやと聞えていた。

「今時分はみんな起きて騒いでるだろうよ」お島はそう思いながら、<ruby><rb>町垠</rb><rt>まちはずれ</rt></ruby>にある姉の家の裏口の方へ近寄っていった。

<ruby><rb>山茶花</rb><rt>さざんか</rt></ruby>などの枝葉の生茂った井戸端で、子供を<ruby><rb>負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>いながら<ruby><rb>襁褓</rb><rt>むつき</rt></ruby>をすすいでいる姉の姿が、垣根のうちに見られた。花畠の方で、<ruby><rb>手桶</rb><rt>ておけ</rt></ruby>から<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>で水を汲んでは植木に水をくれているのは、以前<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の方にいた姉の婿であった。水入らずで、二人で<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>して働いている姉夫婦の貧しい生活が、今朝のお島の混乱した<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>には<ruby><rb>可羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しく思われぬでもなかった。姉は自分から好きこのんで、貧しいこの植木職人と一緒になったのであった。畠には春になってから町へ持出さるべき梅や、松などがどっさり植つけられてあった。<ruby><rb>旭</rb><rt>あさひ</rt></ruby>が一面にきらきらと射していた。はね<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>が、ぎーいと<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>い音を立てて動いていた。

「長くはいませんよ、ほんの一日か二日でいいから」お島はそう言って、姉に頼んだ。そして、いきなり洗いものに手を出して、水を汲みそそいだり、絞ったりした。

「そんな事をして好いのかい。どうせお<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>を入れて、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>から帰って行くことになるんだからね」姉は手ばしこく働くお島の様子を眺めながら、子供を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り揺り突立っていた。

「なに、そんな事があるもんですか。何といったって、私今度と云う今度は帰ってなんかやりませんよ」

お島は絞ったものを、片端から<ruby><rb>日当</rb><rt>ひあたり</rt></ruby>のいいところへ持っていって<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>にかけたりした。日光が<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れただれたように目に<ruby><rb>沁込</rb><rt>しみこ</rt></ruby>んで、頭痛がし出して来た。

「またお島ちゃんが逃げて来たんですよ」姉は<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>に声かけた。

良人は<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>を持ったまま「へへ」と笑って、お島の顔を眺めていた。お島も<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい目をふいて笑っていた。

## 二十四

晩方近くに、様子を探りかたがた、ここから<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>もない<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>を見舞った姉は、養家の方からお島を尋ねに出向いて来た人達が、その時丁度奥で父親とその話をしているところを見て帰って来た。それらの人を<ruby><rb>犒</rb><rt>ねぎら</rt></ruby>うために、台所で酒の<ruby><rb>下物</rb><rt>さかな</rt></ruby>の支度などをしていた母親と、姉は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く水口のところで立話をしてから、お島のところへ戻って来たのであった。

「島ちゃん、お前さん今のうちちょっと顔をだしといた方がいいよ」

一日痛い<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>をかかえて奥で寝転んでいたお島の傍へ来て、姉は<ruby><rb>説勧</rb><rt>ときすす</rt></ruby>めた。

お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、田舎の方にいる兄のところへ<ruby><rb>遠</rb><rt>とお</rt></ruby>っ<ruby><rb>走</rb><rt>ぱし</rt></ruby>りをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、<ruby><rb>棄鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>な空想に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。

姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。

「ふん、<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんや<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんに、私のことなんか解るものですか。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ」お島はぷりぷりして<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら出ていった。

外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>が水々して見えた。茶畑などの続いている<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の住居の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の垣根のあたりは、一層静かであった。

お島が入っていった時分には、もう<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>は<ruby><rb>弓張提灯</rb><rt>ゆみはりぢょうちん</rt></ruby>などをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は<ruby><rb>両親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>の前へ出ると、急に胸苦しくなって、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>から張詰めていた心が一時に<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>ぶようであった。

「御心配をかけて、どうも済みません」お島はそう言ってお<ruby><rb>叩頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしようとしたが、筋肉が<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>ったようで首も下らなかった。

「何て<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なまねをしてくれたんだ」父親はお島に口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かせず、いきなり<ruby><rb>熱</rb><rt>いき</rt></ruby>り立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。

## 二十五

お島が<ruby><rb>数度</rb><rt>すど</rt></ruby>の交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。

お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に<ruby><rb>逆</rb><rt>さから</rt></ruby>って、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>にお島の<ruby><rb>頭髪</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、彼女をそこに<ruby><rb>捻伏</rb><rt>ねじふ</rt></ruby>せて<ruby><rb>打</rb><rt>ぶち</rt></ruby>のめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きの口から、父親の耳へも入っていた。それらの人の話によると、安心して<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を譲りかねるような<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>がお島に少くなかった。金遣いの荒いことや、気前の好過ぎることなどもその一つであった。おとらと青柳との秘密を、養父に<ruby><rb>言告</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けて、内輪揉めをさせるというのもその一つであったが、総てを<ruby><rb>引括</rb><rt>ひっくる</rt></ruby>めて、養家に辛抱しようと云う堅い決心がないと云うのが、養父等のお島に対する不満であるらしかった。

「だから言わんこっちゃない。<ruby><rb>稚</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時分から私が黒い目でちゃんと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでおいたんだ。此方から出なくたって、先じゃ<ruby><rb>疾</rb><rt>とう</rt></ruby>の昔に<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>をつかしているのだよ」母親はまた<ruby><rb>意地張</rb><rt>いじっぱり</rt></ruby>なお島の<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時分のことを言出して、まだ娘に愛着を持とうとしている未練げな父親を<ruby><rb>詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>った。

「こんなやくざものに、五万十万と云う<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>を渡すような<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>が、どこの世界にあるものか」

<ruby><rb>太</rb><rt>ふ</rt></ruby>てていて、飯にも出て来ようとしないお島を、妹や弟の前で口汚く<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るのが、この場合母親に取って、自分に隠して長いあいだお島を<ruby><rb>庇護</rb><rt>かばい</rt></ruby>だてして来た父親に対する何よりの気持いい<ruby><rb>復讎</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>であるらしく見えた。

お島も負けていなかった。母親が、角張った<ruby><rb>度強</rb><rt>どづよ</rt></ruby>い顔に、青い筋を立てて、わなわな<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるまでに、毒々しい言葉を浴せかけて、幼いおりの自分に対する無慈悲を数えたてた。目からぽろぽろ涙が流れて、抑えきれない悲しみが、<ruby><rb>遣瀬</rb><rt>やるせ</rt></ruby>なく<ruby><rb>涌</rb><rt>わき</rt></ruby>立って来た。

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>」とか、「くたばってしまえ」とか、「親不孝」とか、「鬼婆」とか、「子殺し」とか云うような有りたけの暴言が、<ruby><rb>激</rb><rt>げき</rt></ruby>しきった二人の無思慮な口から、<ruby><rb>連</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出た。

そんな争いの後に、お島は言葉巧な青柳につれられて、また<ruby><rb>悄々</rb><rt>すごすご</rt></ruby>と家を出て行ったのであった。

## 二十六

その晩は月は何処の<ruby><rb>森</rb><rt>もり</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>にも見えなかった。深く<ruby><rb>澄</rb><rt>すみ</rt></ruby>わたった大気の底に、<ruby><rb>銀梨地</rb><rt>ぎんなしじ</rt></ruby>のような星影がちらちらして、<ruby><rb>水藻</rb><rt>みずも</rt></ruby>のような<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>濛靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が、一面に地上から<ruby><rb>這</rb><rt>はい</rt></ruby>のぼっていた。思いがけない<ruby><rb>足下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>に、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>した。道が人気の絶えた薄暗い<ruby><rb>木立際</rb><rt>こだちぎわ</rt></ruby>へ入ったり、線路ぞいの高い<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に<ruby><rb>途断</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れ途断れに<ruby><rb>啼立</rb><rt>なきた</rt></ruby>っていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。

けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からお島が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>な予感に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えていた青柳の<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。

「ちょッ……<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>でしょう」

<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んだお島は、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。

甘い<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。

「御母さんに叱られますよ」お島は<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>くあしらいながら歩いた。

「現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>のうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>おうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ」

<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>の<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>と誘惑の手から<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れて、絶望と憤怒に男をいら<ruby><rb>立</rb><rt>だた</rt></ruby>せながら、<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の道へ<ruby><rb>駈出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>すまでに、お島は<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby><ruby><rb>悶踠</rb><rt>もが</rt></ruby>き争った。

<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にお島は、息せき家へ駈つけて来た。そしていきなり父親の<ruby><rb>寝室</rb><rt>ねま</rt></ruby>へ入って行った。

「それが<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>とすれあ、己にだって言分があるぞ」いつか眠についていた父親は、床のうえに起あがって、煙草を<ruby><rb>喫</rb><rt>ふか</rt></ruby>しながら考えていた。

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>はあんな奴ですよ。<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちきしょう</rt></ruby>人を<ruby><rb>見損</rb><rt>みそこな</rt></ruby>っていやがるんだ」お島は乱れた髪を<ruby><rb>掻</rb><rt>かき</rt></ruby>あげながら、腹立しそうに言った。そして<ruby><rb>興</rb><rt>はず</rt></ruby>んだ調子で、現場の模様を誇張して話した。父の信用を<ruby><rb>恢復</rb><rt>とりかえ</rt></ruby>せそうなのと、母親に鼻を<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>させるのが、<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>が好かった。

## 二十七

お島が不断から目をかけてやっている銀さんと云う年取った車夫が、誰の<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>とも知れず、<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>を持って迎いに来たのは、お島たちが<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と床に就こうとしている頃であった。

「何だ今時分……」玄関わきの部屋に寝ていたお島は、その声を聞つけると、<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>に着替えたまま、門の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りを開けに出たが、盆暮にお島が子供に着物や下駄を買ってくれたり、<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>をついてやったりしていた銀さんは、どうでも今夜中に帰ってくれないと、家の首尾がわるいと言って、門の外に立ったまま動かなかった。

「きっと青柳と御母さんと相談ずくで、寄越したんだよ」お島は一応その事を父親に告げながら笑った。

父親は、お島から養家の色々の事情を聞いて、七分通り<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めているようであったが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>このまま引取って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>う気にはなっていなかった。作太郎と表向き夫婦にさえなってくれれば、少しくらいの<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>や道楽はしても、大目に見ていようと云ったと云う養母の弱味なども、父親には初耳であった。

「芸人を買おうと<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えようとお前の腕ですることなら、<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも<ruby><rb>介意</rb><rt>かま</rt></ruby>やしないなんて、そこは自分にも覚えがあるもんだから、お察しがいいと見えて、よくそう言いましたよ。どうして、あの御母さんは、若い時分はもっと悪いことをしたでしょうよ」お島は頑固な父親をおひゃらかすように、そうも言った。

そんな<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>のなかにお島をおくことの危険なことが、今夜の事実と<ruby><rb>照合</rb><rt>てりあわ</rt></ruby>せて、一層<ruby><rb>明白</rb><rt>はっきり</rt></ruby>して来るように思えた父親は、<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>お島を引取ることに、決心したのであったが、迎いが来たことが知れると、矢張心が動かずにはいなかった。

「作さんを嫌って、お島さんが逃げたって云うんで、近所じゃ大評判さ」とにかく今夜は帰ることにして、銀さんは、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>うお島を俥に載せると、<ruby><rb>梶棒</rb><rt>かじぼう</rt></ruby>につかまりながら話しはじめた。

「だが今あすこを出ちゃ損だよ。あの身<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>を人に取られちゃつまらないよ」

「作の馬鹿はどんな顔している」お島は車のうえから笑った。

家へ入っても、いつものように父親の前へ出て<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>ったり、お<ruby><rb>叩頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしたりする気になれなかったお島は、自分の部屋へ入ると、急いで寝支度に取かかった。

「帰ったら帰ったと、なぜ<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>んとこへ来て挨拶をしねえんだ」養母にささえられながら、<ruby><rb>疳癪声</rb><rt>かんしゃくごえ</rt></ruby>を立てている養父の声が、お島の方へ手に取るように聞えた。

「お前がまたわるいよ」おとらは、<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のまま呼つけられて<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に坐っているお島を<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めた。

「それに自分の着物を畳みもせずに、<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬぎ</rt></ruby>っぱなしで寝て了うなんて、それだから御父さんも、この<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>は譲られないと言うんじゃないか」

剛情なお島は、到頭<ruby><rb>麺棒</rb><rt>めんぼう</rt></ruby>で<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたり<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>にされたりするまでに、養父の怒を募らせてしまった。

## 二十八

<ruby><rb>植源</rb><rt>うえげん</rt></ruby>という父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或<ruby><rb>鑵詰屋</rb><rt>かんづめや</rt></ruby>へ<ruby><rb>縁着</rb><rt>えんづ</rt></ruby>かせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>のものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。

植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年<ruby><rb>弱</rb><rt>たらず</rt></ruby>もいて、職人と一緒に<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふし</rt></ruby>して来たりした主人は、お島より<ruby><rb>十近</rb><rt>とおぢか</rt></ruby>くも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。

鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>の家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>していた。植源の嫁は、<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直らぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>を持ちまわっていた。

<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが、肺病で<ruby><rb>亡</rb><rt>なくな</rt></ruby>ったことを、お島はいよいよ片着くという<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>まで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なような気もした。

「先の上さんのような、しなしなした女は<ruby><rb>懲々</rb><rt>こりごり</rt></ruby>だ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ」姉は肥りきったお島の顔を眺めながら<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>ったが、男のいい鶴さんを<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>に持つことになったお島の果報に<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>を持っていることが、お島に感づかれた。死んだ<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>が、そっくりそのまま二階の箪笥に<ruby><rb>二棹</rb><rt>ふたさお</rt></ruby>もあると云うことも、姉には<ruby><rb>可羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しかった。

結納の<ruby><rb>取換</rb><rt>とりかわ</rt></ruby>せがすんで、目録が座敷の床の間に<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく飾られるまでは、お島は<ruby><rb>天性</rb><rt>もちまえ</rt></ruby>の反抗心から、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と<ruby><rb>喜悦</rb><rt>よろこび</rt></ruby>に<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>ぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が、年のうちに<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へも伝っていた。お島はそのことを、<ruby><rb>糧秣</rb><rt>りょうまつ</rt></ruby>問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。

「あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ」お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。

## 二十九

結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby>親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>をすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>が、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。<ruby><rb>蓬莱</rb><rt>ほうらい</rt></ruby>を飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。

客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>て聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの病気の療治に骨の折れたことや、金のかかった事をも<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>した。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の<ruby><rb>手隙</rb><rt>てすき</rt></ruby>には、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう時には、お島は店を預かって、しっかり<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いているらしかった。

部屋などの<ruby><rb>取片着</rb><rt>とりかたづけ</rt></ruby>をしているうちに、翌日一日は<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に経ってしまった。お島は時々<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>のはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や<ruby><rb>莫大小屋</rb><rt>メリヤスや</rt></ruby>の店を見たりしていたが、<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>のような窮屈な二階に<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでばかりもいられなかった。それで<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へおりてみると、下は立込んだ<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の<ruby><rb>差交</rb><rt>さしかわ</rt></ruby>したあいだから、やっと<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな日影が<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には<ruby><rb>厚司</rb><rt>あつし</rt></ruby>を着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。

二日三日と日がたって行った。お島は<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>を<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に<ruby><rb>育</rb><rt>はぐく</rt></ruby>み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ<ruby><rb>牽</rb><rt>ひき</rt></ruby>つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。

## 三十

<ruby><rb>麗</rb><rt>うららか</rt></ruby>な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>してお島と一緒に、<ruby><rb>媒介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>の植源などへ礼まわりをして、それからお島の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの義理の弟――先代の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>とも<ruby><rb>婢</rb><rt>はした</rt></ruby>とも知れないような或女に出来た子供――のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>わぬといって、後廻しにすることにした。

お島はこの頃<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい<ruby><rb>較</rb><rt>やや</rt></ruby><ruby><rb>強味</rb><rt>きつみ</rt></ruby>のある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の<ruby><rb>手絡</rb><rt>てがら</rt></ruby>をかけて、こってりと濃い<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>にいくらか<ruby><rb>荒性</rb><rt>あれしょう</rt></ruby>の皮膚を<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬり</rt></ruby>つぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。

鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>も、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。

「かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない」

鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を取出して、そこへ<ruby><rb>投出</rb><rt>ほうりだ</rt></ruby>した。

「でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか」

「それもそうだな」と、鶴さんは<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しそうな顔をして笑っていた。

「それにおかねさんの思いに<ruby><rb>取着</rb><rt>とっつ</rt></ruby>かれでもしちゃ大変だ」お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを<ruby><rb>引</rb><rt>ひっ</rt></ruby>くら返していた。

「でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか」

「何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね」鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。

「あの<ruby><rb>慾張婆</rb><rt>よくばりばばあ</rt></ruby>め、これも<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れた<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>だ、あれも<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>じみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ」鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。

お島は錠をはずして、<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていたが、お島の目には、まだそれが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じみ</span>すぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。

「そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない」お島は<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすっぱ</rt></ruby>に言って笑った。

「<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう」

<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>かく</rt></ruby>二人は初めて<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ったが、お島はクレーム色のパラソルに<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を隠して、<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た<ruby><rb>柳条</rb><rt>やなぎのえだ</rt></ruby>が、たおやかに<ruby><rb>輭</rb><rt>しな</rt></ruby>っていた。お島は何となく胸を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られるようで、今までとは<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>ちがった明い世間へ出て来たような歓喜を感じていたが、良人の心持がまだ底の底から汲取れぬような不安と哀愁とが、時々心を曇らせた。今まで人に恵んだり、助力を与えたりしたことは、養父母の非難を買ったほどであったが、<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこり</rt></ruby>と満足はあっても、心から愛しようと思おうとしたような人は、<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>もなかった。<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>に愛せられることも<ruby><rb>曽</rb><rt>かつ</rt></ruby>てなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜み<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだか</rt></ruby>まっているようであった。鶴さんは、それはそれとして大事に秘めておいて、自身の生活の単なる<ruby><rb>手助</rb><rt>てだすけ</rt></ruby>として、自分を迎えたのでしかないように思えた。<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>んで電車に乗ってからも、お島はそんなことを思っていた。

## 三十一

奉公人などに酷だというので、植源いこうか<ruby><rb>茨</rb><rt>ばら</rt></ruby><ruby><rb>脊負</rb><rt>しょ</rt></ruby>うか、という<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>と共に、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>では古くから名前の響いたその植源は、お島の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>などとは違って、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>派手な暮しをしていたが、今は有名な<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>し<ruby><rb>屋</rb><rt>や</rt></ruby>の女隠居も年取ったので、家風はいくらか<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。

大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。

おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>などをした<ruby><rb>故</rb><rt>せい</rt></ruby>か、<ruby><rb>嫻</rb><rt>しとや</rt></ruby>かな落着いた女で、<ruby><rb>生際</rb><rt>はえぎわ</rt></ruby>の富士形になった額が狭く、<ruby><rb>切</rb><rt>きれ</rt></ruby>の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、<ruby><rb>小作</rb><rt>こづくり</rt></ruby>な体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>かしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>まったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>をしいてくれた。

「そう急に他人行儀にしなくても<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか」鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。

「いいじゃありませんか。もう<ruby><rb>極</rb><rt>きまり</rt></ruby>のわりいお年でもないでしょう」おゆうは顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あから</rt></ruby>めながら言って、二人を見比べた。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>ちっとは落着きなさいましてすか」おゆうはお島の方へも<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけた。

「何ですか、私はこういう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>ものですから、<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られてばかりおりますの」お島は<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よく<ruby><rb>遇</rb><rt>あしら</rt></ruby>っていた。

「でもあの辺は<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>うございますのね、<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>がお<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かで」おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の<ruby><rb>髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>へも手をやっていた。

<ruby><rb>性急</rb><rt>せっかち</rt></ruby>の鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。<ruby><rb>四阿屋</rb><rt>あずまや</rt></ruby>の方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。

「どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが……」鶴さんは時計を見ながらお島に言った。「何なら一人でいっちゃどうだ」

「<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ませんよ、そんなことは……」おゆうはいれ替えて来たお茶を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎながら言った。

それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。

## 三十二

日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし<ruby><rb>気懈</rb><rt>けだる</rt></ruby>い仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ行ってみようと云う興味は、もうすっかり<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>げてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、話しの調子がはずむようなので、<ruby><rb>古昵</rb><rt>ふるなじ</rt></ruby>みのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>み合っては歩けなくなった。

「でも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね」

今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。

「それ程にして戴かなくたって<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>は<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>で、縁も<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>もない家ですからね」お島はそう言いながら、<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>では母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>らしい<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけることもできぬ程、お互に神経が<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>ったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>上談</rb><rt>うえばなし</rt></ruby>などを、例の<ruby><rb>急々</rb><rt>せかせか</rt></ruby>した調子で話していた。

「ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この<ruby><rb>恢復</rb><rt>とりかえし</rt></ruby>がつきません」

鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。

「どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって……」

鶴さんは<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>のはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に<ruby><rb>莫迦々々</rb><rt>ばかばか</rt></ruby>しかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。

「こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、<ruby><rb>厳</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃって、どうか<ruby><rb>駆使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>ってやって下さい」母親はじろりとお島を見ながら言った。

鶴さんは感激したような調子で、<ruby><rb>弁</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るだけのことを弁ると、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を筒に収めて帰りかけた。

「何を言っていたんです」お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。「あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように<ruby><rb>駆使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>いさえすれあ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いものだと思っている人間だもの」

## 三十三

夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、<ruby><rb>手提鞄</rb><rt>てさげかばん</rt></ruby>と<ruby><rb>膝懸</rb><rt>ひざかけ</rt></ruby>と<ruby><rb>細捲</rb><rt>ほそまき</rt></ruby>とを持って、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>まで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>へ入って来たお島は、すっかり後を引受けて<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を送出したが、意気な白地の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>物に、<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>兵児帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>をだらりと締めて、深いパナマを<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。

それにお島は今月へ入ってからも、<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつも</rt></ruby>のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが<ruby><rb>気忙</rb><rt>きぜわ</rt></ruby>しそうに旅行の支度を調えてからの<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>であった。

「私何だか体の様子が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へいって帰って来ると、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>とうとうとと眠りかけようとしている良人の<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>の人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。

「そいつぁ<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の<ruby><rb>暢々</rb><rt>のびのび</rt></ruby>した白い手をのばして、<ruby><rb>莨盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい<ruby><rb>当擦</rb><rt>あてこすり</rt></ruby>や<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を言ったりして<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような<ruby><rb>仮声</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>をつかって、<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>の処と名を突留めようと骨を折ったが、その<ruby><rb>効</rb><rt>かい</rt></ruby>がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>めている女が、片端から恋の<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。

「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>らしく、妹のそこにあることを<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。

お島はそれが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわったといって、後で鶴さんと<ruby><rb>大喧嘩</rb><rt>おおげんか</rt></ruby>をしたほどであった。

## 三十四

鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して<ruby><rb>聴</rb><rt>きか</rt></ruby>す作太郎の様子などで、その時はそれで<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>けるのであったが、その疑いは<ruby><rb>護謨毬</rb><rt>ゴムまり</rt></ruby>のように、時が経つと、また<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう……」お島は<ruby><rb>身顫</rb><rt>みぶるい</rt></ruby>が出るような様子をして、その男のことを話した。

「嫌う嫌わないは別問題さ。<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>かく</rt></ruby>結婚したと云うのは事実だろう」

「だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです」

「しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しいよ」

最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げに見えすいて来たように思えた。

「そうして見ると、あの人達は、そっくり私に<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>を譲る気はなかったもんでしょうかね」お島は長いあいだ自分一人で<ruby><rb>極込</rb><rt>きめこ</rt></ruby>んでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって<ruby><rb>根柢</rb><rt>こんてい</rt></ruby>からぐらついて来たような失望を感じた。

お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>に、それと思い当ることばかり、<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>せて来た。

「畜生、今度往ったら、<ruby><rb>一捫着</rb><rt>ひともんちゃく</rt></ruby>してやらなくちゃ承知しない」お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて<ruby><rb>狎々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しくなった様子に、厭気のさして来ていることが<ruby><rb>可悔</rb><rt>くやし</rt></ruby>かった。

二年の<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>も床についていた<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の方の女と、鶴さんが時々<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>していることが、店のものの<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>から、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>をくれたり、食物を<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>ったりした。彼等はどうかすると、<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>ッ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱり</rt></ruby>の強い女主人から頭ごなしに<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、<ruby><rb>希</rb><rt>めず</rt></ruby>らしくなかった。

鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循<ruby><rb>巡</rb><rt>まわ</rt></ruby>って見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>などを提げて、好い機嫌で帰って来た。

## 三十五

荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。

鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場へ湯治に行っていたりした為だというのであったが、それから程なく、鶴さんの留守の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に北海道から入って来た数通の手紙の一つが、旅で<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>になった女からであることが、その手紙の<ruby><rb>表記</rb><rt>うわがき</rt></ruby>でお島にも<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く感づけた。

帰ってからも、そっちこっち飛歩いていて、<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>旅の話一つしんみり<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>ようともしなかった鶴さんが、ある日帳簿などを調べたところによると、お島はお島だけで、留守中に<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>販路を拡めていることが解って来たが、それは<ruby><rb>率</rb><rt>おおむ</rt></ruby>ね金払いのわるいような家ばかりであった。これまでに鶴さんが手をやいた<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪い<ruby><rb>向</rb><rt>むき</rt></ruby>も二三軒あったが、中にはまたお島が古くから知っている堅い屋敷などもあった。お島は少しでも<ruby><rb>手繋</rb><rt>てがかり</rt></ruby>のあるようなそれ等の家から、食料品の註文を取ることが、留守中の毎日々々の仕事であったが、品物ばかり出て勘定の滞っているのが、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>にも<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>にも発見せられた。

<ruby><rb>悪阻</rb><rt>つわり</rt></ruby>などのために、夏中<ruby><rb>動</rb><rt>やや</rt></ruby>もするとお島は店へも顔を出さず、二階に床を敷いて、一日寝て暮すような日が多かったが、気分の好い時でも、その日その日の<ruby><rb>売揚</rb><rt>うりあげ</rt></ruby>の勘定をしたり、店のものと一緒に、掛取に<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を使ったりするのが<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしくなると、着飾って<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>や植源へ遊びに出かけるか、<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みの多い<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の養家の<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>やその得意先へ上って話こむかして、時間を<ruby><rb>銷</rb><rt>け</rt></ruby>さなければならなかった。養家では、作太郎が近所の長屋を一軒もらって、嫁と一緒に相変らず真黒になって働いていたが、お島はその方へも声をかけた。

「今度田舎の土産でもさげて、お島さんの婿さんの顔を見にいくだかな」作は帰りがけのお島に言ってにやにや笑っていた。

「まあそうやって、後生大事に働いてるが<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いや。私も<ruby><rb>危</rb><rt>あぶな</rt></ruby>く<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>されるところだったよ。<ruby><rb>養母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんたちは人がわるいからね」お島も<ruby><rb>棄白</rb><rt>すてぜりふ</rt></ruby>でそこを出た。

## 三十六

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>などをして、一人で<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りちらして帰って行った。

お島は気骨の折れる子持の客の帰ったあとで、<ruby><rb>気憊</rb><rt>きづか</rt></ruby>れのした体を<ruby><rb>帳場格子</rb><rt>ちょうばごうし</rt></ruby>にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも<ruby><rb>極</rb><rt>きまり</rt></ruby>のわるいほど、月が重っていた。

旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、<ruby><rb>幾</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど一日もなかった。<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな<ruby><rb>端唄</rb><rt>はうた</rt></ruby>の文句などを<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>って、一人で<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いでいた。

「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>などを<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>りながら、傍で<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいような<ruby><rb>笑方</rb><rt>わらいかた</rt></ruby>をした。

「面白くでもない。北海道の女のお<ruby><rb>自惚</rb><rt>のろけ</rt></ruby>なんぞ言って」

「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>などを眺めていた。

「ちょいと、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。

「どうせ<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>には<ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>ていまい。そう思っていれあ<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。

「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あから</rt></ruby>めた。「でも<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」

「<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>の身も可哀そうだ」

「それは色女に逢えないからでしょう」

二人の神経が段々<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり<ruby><rb>跳起</rb><rt>はねお</rt></ruby>きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。

今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。

「それは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいの」姉は一つはお島を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>のために、調子に乗って話した。

「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は<ruby><rb>碌素法</rb><rt>ろくすっぽう</rt></ruby>工場へ顔出しもしないで、そこへばかり<ruby><rb>入浸</rb><rt>いりびた</rt></ruby>っていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>へ往く<ruby><rb>度</rb><rt>たんび</rt></ruby>に札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>が売れたら、その女を<ruby><rb>落籍</rb><rt>ひか</rt></ruby>して東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの」

姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。

「それに鶴さんは、着物や<ruby><rb>半衿</rb><rt>はんえり</rt></ruby>や、香水なんか、ちょいちょい<ruby><rb>北海道</rb><rt>あちら</rt></ruby>へ送るんだそうだよ。島ちゃん<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りしないと駄目だよ」姉はそうも言った。

「<ruby><rb>何</rb><rt>なあ</rt></ruby>に」と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、<ruby><rb>恐怖</rb><rt>おそれ</rt></ruby>と<ruby><rb>疑惧</rb><rt>ぎぐ</rt></ruby>とを感じて来た。

## 三十七

植源の嫁のおゆうの部屋で、鶴さんと大喧嘩をした時のお島は、これまで<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>ぞ見たこともないようなお<ruby><rb>盛装</rb><rt>めかし</rt></ruby>をしていた。

お島が鶴さんに無断で、その取つけの呉服屋から、成金の令嬢か<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>の着る様な金目のものを取寄せて、思いきったけばけばしい<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、<ruby><rb>劈頭</rb><rt>のっけ</rt></ruby>に姉を訪ねたとき、彼女は一調子かわったお島が、何を<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>すかと恐れの目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>ればハイカラに仕立てたお島の<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>は、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体に<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶような香水の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>がしていた。

旅から帰ってからの鶴さんに、始終こってり<ruby><rb>作</rb><rt>づくり</rt></ruby>の<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>を見せることを怠らずにいたお島の鏡台には、何の考慮もなしに<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>に費さるる化粧品の<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>が、不断に取出されてあった。<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby><ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>に就くときも、色々のもので塗りあげられた彼女の顔が、電気の灯影に<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いような厭な美しさを見せていた。

「大した<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>じゃないか。商人の<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが、そんな事をしても<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いの」惜気もなくぬいてくれる、お島が持古しの指環や、<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>や<ruby><rb>手絡</rb><rt>てがら</rt></ruby>のようなものを、この頃に二度も三度ももらっていた姉は、<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるように、お島の顔を眺めていた。

「どうせ長持のしない<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>だもの。今のうち好きなことをしておいた方が、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしているんじゃないか」

お島はその日も、外へ出ていった鶴さんの<ruby><rb>行先</rb><rt>ゆきさき</rt></ruby>を、てっきり植源のおゆうの<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>と目星をつけて、やって来たのであった。そして気味を悪がって姉の止めるのも<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かずに、出ていった。

おどおどして入っていった植源の家の、丁度お八つ時分の<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>では、隠居や<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>と一緒に、鶴さんもお茶を飲みながら話込んでいたが、お島が手土産の菓子の折を、裏の方に<ruby><rb>濯</rb><rt>すす</rt></ruby>ぎものをしているおゆうに<ruby><rb>示</rb><rt>み</rt></ruby>せて、そこで<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立話をしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、鶴さんも例の折鞄を持って、そこを立とうとしておゆうに声をかけに来た。

「まあ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか。お島さんの顔を見て<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>き立たなくたって。御一緒にお帰んなさいよ」

おゆうは愛相よく<ruby><rb>取做</rb><rt>とりな</rt></ruby>した。

「自分に弱味があるからでしょう」お島は涙ぐんだ<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けた。

夫婦はそこで、二言三言言争った。

「<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>も、<ruby><rb>島</rb><rt>これ</rt></ruby>のいる前で、一つ皆さんに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてもらいたいです」鶴さんは<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなって言った。

そしておゆうがお島をつれて、自分の部屋へ入ったとき、鶴さんもぶつぶつ言いながら、側へやって来た。

「<ruby><rb>孰</rb><rt>どっち</rt></ruby>も<ruby><rb>孰</rb><rt>どっち</rt></ruby>だけれど、鶴さんだって随分可哀そうよお島さん」<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いにおゆうはお島に言かけたとき、お島は<ruby><rb>可悔</rb><rt>くやし</rt></ruby>そうにぽろぽろ涙を流していた。

夫婦はそこで、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>武者振</rb><rt>むしゃぶり</rt></ruby>ついたりした。

大分たってから、呼びにやった姉につれられて、お島はそこから姉の家へ還されていった。

## 三十八

姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>が絶えなかった。おゆうに<ruby><rb>庇護</rb><rt>かば</rt></ruby>われている男の心が、<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>かったり、<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましく思われたりした。男を<ruby><rb>我有</rb><rt>わがもの</rt></ruby>にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。

お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。

「そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な私を待っているでしょう」お島は<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかで子供を<ruby><rb>寝</rb><rt>ねか</rt></ruby>しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。

「<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」

「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。

「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。

外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や<ruby><rb>山茶花</rb><rt>さざんか</rt></ruby>などの木立の多い、その<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>は<ruby><rb>閑寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していた。お島の足は<ruby><rb>惹寄</rb><rt>ひきよ</rt></ruby>せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、<ruby><rb>稚馴染</rb><rt>おさななじみ</rt></ruby>のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。

大きな石の門のうえに、植源と出ている<ruby><rb>軒燈</rb><rt>けんとう</rt></ruby>の下に突立って、やがてお島は家の方の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>一つ洩れていなかった。お島は<ruby><rb>楆</rb><rt>かなめ</rt></ruby>と<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の木とで、二重になっている<ruby><rb>外囲</rb><rt>そとがこい</rt></ruby>の<ruby><rb>周</rb><rt>まわり</rt></ruby>を、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>こっち廻ってみたが、何のこともなかった。

車で家へ帰ったのは、大分おそかった。

「お帰んなさい」

店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と胸一杯に安心と<ruby><rb>歓喜</rb><rt>よろこび</rt></ruby>との<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて来るのを感じたが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>声をかける気になれなかった。

上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。<ruby><rb>脱棄</rb><rt>ぬぎすて</rt></ruby>が<ruby><rb>投出</rb><rt>ほうりだ</rt></ruby>してあったり、<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いをとられたままの<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。

## 三十九

お島は二三度<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく<ruby><rb>壊</rb><rt>くず</rt></ruby>れた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>がぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>もいつか<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を<ruby><rb>引被</rb><rt>ひっかつ</rt></ruby>いで寝ていた。

「お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので」お島はそう言いながら、<ruby><rb>呻吟声</rb><rt>うめきごえ</rt></ruby>を立てていた。

鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>かえし<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>して、下の<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>の<ruby><rb>簷端</rb><rt>のきば</rt></ruby>につるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。

お島は後向になったまま、何をするかと神経を<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>すましていたが、今まで<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>くて為方のなかった目までが、ぽっかり<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて来た。そして、ふと紙のうえを<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る万年筆の音が、耳にふれて来ると、<ruby><rb>渾身</rb><rt>からだじゅう</rt></ruby>の全神経がそれに<ruby><rb>錘</rb><rt>あつま</rt></ruby>って来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。

「何をしてるんです、今時分……」

お島はいきなり声を立てて、鶴さんを<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。

鶴さんは、ちらと<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>を見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち床から乗出して、その手紙を<ruby><rb>褫奪</rb><rt>ひったく</rt></ruby>ろうとした。

「おい、<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃないぜ」

鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>っていくために<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>まで<ruby><rb>這出</rb><rt>はいだ</rt></ruby>して来た。

「おい、ちょっと話がある」大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。<ruby><rb>暴出</rb><rt>あれだ</rt></ruby>すお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、<ruby><rb>爪痕</rb><rt>つめあと</rt></ruby>のばら桜になっている腕をさすりながら、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>ふか</rt></ruby>していた。

お島はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。

「……お前のようなものに、勝手な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をされたんじゃ、商人はとても立って<ruby><rb>行</rb><rt>ゆき</rt></ruby>っこはありゃしないんだからね」鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんに対する立場などを説立ててから言出した。

「そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いなさい」お島は憎さげに<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を返したまま、またくるりと後向になった。

## 四十

返したとも返ったとも決らずに、お島が時々<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>や植源の方へ往ったり来たりしていた頃には、鶴さんの家も大分ばたばたになりかけていた。

北海道の女の方のそれはそれとして、以前から関係のあった下谷の女の方へ、一層熱中して来た鶴さんは、店のものの一人が所々の仕切先をごまかして、可也な穴を開けたことにすら気のつかぬほど、店を外にしていた。

「子供だけは<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>が家において立派に育ててやるつもりです」

鶴さんは、植源の隠居や嫁の前へ来ると、いつもお島の離縁話を持出しては、口癖のように言っていたが、お島に向ってもそれを明言した。

植源の隠居に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>してある、自分の身のうえに深い不安を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>きながら、毎日々々母親に<ruby><rb>窘</rb><rt>いび</rt></ruby>りづめにされていたお島は、ある朝釜の下の火を番しながら、<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいたとき<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を返したのが胸にすえかねたといって、母親のために、そこへ<ruby><rb>突転</rb><rt>つっこか</rt></ruby>されて、<ruby><rb>竃</rb><rt>へっつい</rt></ruby>の角で脇腹を打ったのが<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>で、到頭不幸な胎児が流れてしまった。

その時お島は、飯の支度をすまして、<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>と一緒に、朝飯の膳に向って、箸を取かけていた。もう十月の<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>で、七輪のうえに据えた鍋のお<ruby><rb>汁</rb><rt>つゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>の匂や、<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>めしびつ</rt></ruby>から立つ白い湯気にも、秋らしい朝の気分が<ruby><rb>可懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しまれた。

女を追って、田舎へ行ったきり、もう大分になる総領の姿のみえぬ家のなかは、急に衰えのみえて来た父親の姿とともに、この頃際立って寂しさが感ぜられて来た。<ruby><rb>食</rb><rt>たべ</rt></ruby>かけた朝飯の箸を持ったまま、急に目のくらくらして来たお島は、声を立てるまもなく、そこへ<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れてしまったのであったが、<ruby><rb>七月</rb><rt>ななつき</rt></ruby>になるかならぬの胎児が出てしまったことに気の附いたのは、時を経てからであった。

一目もみないで、父親や鶴さんの手で、産児の寺へ送られていったのは、その晩方であったが、思いがけなく体の軽くなったお島の床についていたのは、幾日でもなかった。

健康が回復して来ると同時に、母親と植源の隠居とのどうした<ruby><rb>談合</rb><rt>はなしあい</rt></ruby>でか、当分植源にいっていることに決められたお島は、そこで台所に働いたり、冬物の針仕事に坐ったりしていた。ぐれ出した鶴さんは、<ruby><rb>口喧</rb><rt>くちやかま</rt></ruby>しい隠居の<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>っているこの<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>も高くなっていた。お島はおゆうの口から、下谷の女を家へ入れる入れぬで、苦労している彼の噂をおりおり聞されたりした。

「ああなってしまっちゃ、あの人ももう駄目よ」おゆうは鶴さんに<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>がつきたように言った。

## 四十一

一つは人に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年<ruby><rb>弱</rb><rt>たらず</rt></ruby>の鶴さんとの夫婦暮しに<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めさせられた、甘いとも<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>いとも解らないような苦しい生活の<ruby><rb>紛紜</rb><rt>いざこざ</rt></ruby>から<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れて、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろその日その日の幸福であるらしく見えた。

植源の庭には、大きな<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>が三つもあった。お島は男の手の足りないおりおりには、その一つ一つに、水を<ruby><rb>盈々</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>汲込まなければならなかった。そしてそれを沢山の<ruby><rb>花圃</rb><rt>はなばたけ</rt></ruby>や植木に<ruby><rb>漑</rb><rt>そそ</rt></ruby>がなければならなかった。その頃かかっていた病身な出戻りの姉娘の連れていた二人の子供の世話も、朝晩に為なければならなかった。田舎で鉄道の方に勤めていた官吏の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ片づいていたその姉は、以前この家に間借をしていたことのあるその良人が、田舎へ転任してから、七年目の<ruby><rb>今茲</rb><rt>ことし</rt></ruby>の夏、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に病死してしまった。

東北<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>のその子供は、おゆうには二人とも嫌われたが、お島には能く<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いた。お島は暇さえあると、髪を結ったり、リボンをかけてやったり、<ruby><rb>寝起</rb><rt>ねおき</rt></ruby>や入浴や食事の世話に骨惜みをしなかった。

嫁にやられるとき、拵えて行ったものなどを<ruby><rb>不残</rb><rt>そっくり</rt></ruby><ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くして、旅費と当分の小遣にも足りぬくらいの金を、<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの家財を売払って持って来た姉は、まだ乳離れのせぬ<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い方の男の子を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にのせて、時々縁側の<ruby><rb>日南</rb><rt>ひなた</rt></ruby>に坐りながら、ぼんやりお島の働きぶりを眺めていた。

「<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くそんなに体が動いたもんだわね」

姉は感心したように<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけた。お島は<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>がけの<ruby><rb>素跣足</rb><rt>すはだし</rt></ruby>で、<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>の水を取かえながら、鉢前の小石を一つ一つ<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に洗っていた。夏中縁先に張出されてあった<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>の<ruby><rb>日覆</rb><rt>ひおい</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて、まだ暑苦しいような日の差込む時が、二三日も続いた。

「ええ、子供の時分から慣れっこになっていますから」お島は笑いながら<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えた。

「子供を産んだ人とは思われないくらいですよ」

「だって<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>う<ruby><rb>七月</rb><rt>ななつき</rt></ruby>ですもの。私顔も見ませんでしたよ。<ruby><rb>淡白</rb><rt>さっぱり</rt></ruby>したもんです」

「それにしたって、旦那のことは忘れられないでしょう」

「そうですね。がさがさしてる癖に、<ruby><rb>余</rb><rt>あんま</rt></ruby>り好い気持はしませんね」

「<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby><ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れていたんだわね」

「そうかも知れませんよ」お島は顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あから</rt></ruby>めて、

「私が暴れて<ruby><rb>打壊</rb><rt>ぶちこわ</rt></ruby>したようなもんですの。あの人はまたどうして、あんなに気が多いでしょう。<ruby><rb>些</rb><rt>ちょ</rt></ruby>いと何かいわれると、もう好い気になって一人で騒いでいるんですもの。その癖<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>やきなんですがね」

「でも能く思切って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったわね」

「芸者や女郎じゃあるまいし、いつまで、くよくよしていたって為方がないですもの。私はあんなへなへなした男は大嫌いですよ」

「それもそうね。――私も思切って、どこか働きに行きましょうかしら」

「御<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>でしょう。そんな可愛い坊ちゃんをおいて、何処へ行けるもんですか」

## 四十二

夜になると、お島はまた隠居の足腰をさすって、寝かしつけてやるのが、毎日の日課であったが、時とすると<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>夫婦に対する、病的な嫉妬から起るこの<ruby><rb>老婦</rb><rt>としより</rt></ruby>の兇暴な<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>をも<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めてやらなければならなかった。

四十代時分には、時々若い<ruby><rb>遊人</rb><rt>あそびにん</rt></ruby>などを<ruby><rb>近</rb><rt>ちかづ</rt></ruby>けたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時から甘やかして育てて来た<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>の房吉を、<ruby><rb>猫可愛</rb><rt>ねこかわゆ</rt></ruby>がりに愛した。一度脳を<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>ったりなどしてから、気に<ruby><rb>引立</rb><rt>ひったち</rt></ruby>がなくなって、<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい一方なのが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>には<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>でならなかった。房吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>つけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>きはじめたが、それも母親に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られて、修業らしい修業もしずにしまった。

寝るにも起きるにも、自分ばかりを<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めて暮しているような、年取った母親の<ruby><rb>苛辣</rb><rt>からつ</rt></ruby>な目が、房吉には段々<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が<ruby><rb>惹</rb><rt>ひき</rt></ruby>つけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。

結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が<ruby><rb>気鬱</rb><rt>きぶせ</rt></ruby>な母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。<ruby><rb>夜更</rb><rt>よなか</rt></ruby>に<ruby><rb>目敏</rb><rt>めざと</rt></ruby>い母親の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が、夫婦の<ruby><rb>寝室</rb><rt>ねま</rt></ruby>の外の縁側に聞えたり、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の<ruby><rb>未明</rb><rt>ひきあけ</rt></ruby>に板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。

お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。

家にいても、大抵きちんとした<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けたり、書画を<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>ったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を浴せられた。

「あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ」母親はそうも言った。

衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、<ruby><rb>爾時</rb><rt>そのとき</rt></ruby><ruby><rb>五月</rb><rt>いつつき</rt></ruby>の腹を抱えていた。日に日に<ruby><rb>気懈</rb><rt>けだる</rt></ruby>そうにみえて来るおゆうの<ruby><rb>媚</rb><rt>なまめ</rt></ruby>いた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。

## 四十三

お島の姉が、暑い日盛に帽子も冠せない子供を、手かけに<ruby><rb>負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>って、庭の方からまわって、おゆうを呼出しに来たとき、門のうちに張物をしていたお島と、自分の部屋の縁側で、髪を洗っていたおゆうを除いたほか、大抵の人は風通しの好さそうな場所を択んで、昼寝をしていた。房吉は時々出かけてゆく、近所の<ruby><rb>釣堀</rb><rt>つりぼり</rt></ruby>へ遊びに行っていたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を<ruby><rb>啣</rb><rt>ふく</rt></ruby>ませながら、<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>の方で、手枕をしながら、<ruby><rb>乱次</rb><rt>だらし</rt></ruby>なく眠っていた。家のなかは、どこも<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も長い日の暑熱に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>み疲れたような<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>さに浸っていた。

大輪の<ruby><rb>向日葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>の、<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れきって<ruby><rb>項</rb><rt>うな</rt></ruby>だれた<ruby><rb>花畑尻</rb><rt>はなばじり</rt></ruby>の垣根ぎわに、ひらひらする黒い<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の影などが見えて、<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>は<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>のあるような日光が、強く<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた。

姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>して、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>に、<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>を<ruby><rb>捲</rb><rt>まき</rt></ruby>つけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。

「きっと鶴さんが来ているんだ」

お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。

「姉さんも随分な人だよ」

お島はいきなり姉の側へ寄っていった。

「どうしてさ」姉は<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>っている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あから</rt></ruby>めた。

「解ってますよ」

「<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>な人だね。解っていたら<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないの」

「そんな事をしても可いんですか」

「いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ」

二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で、おゆうから<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかり融通をしてもらうために、<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。

「ふむ」お島は首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げて、「じゃもう、あの店も駄目だね」

「そうなんでしょう。事によったら、田舎へ<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>くて言ってるわ」

「芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざ</rt></ruby>好きなことをして、店を仕舞うがいいや」

お島は<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>に言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>みきった神経質な顔などが、目について来た。

暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。

おゆうの部屋を出て行く姉の手には、<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>を四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。

## 四十四

堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>したお島は、それを又お鈴から聞いて、<ruby><rb>宛然</rb><rt>さながら</rt></ruby><ruby><rb>姦通</rb><rt>かんつう</rt></ruby>の<ruby><rb>手証</rb><rt>てしょう</rt></ruby>でも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>からおゆうを<ruby><rb>庇護</rb><rt>かば</rt></ruby>うことに骨がおれた。

宵の口に、お島にすかし<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>められて、一度眠りについた隠居は、<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>がこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>み果てたように、<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見回していた。

宵に母親に<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>め責められた房吉は、隠居がじりじりして<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>を<ruby><rb>煮</rb><rt>にや</rt></ruby>せば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを<ruby><rb>近</rb><rt>ちかづ</rt></ruby>けていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>にも<ruby><rb>莫迦々々</rb><rt>ばかばか</rt></ruby>しくも見えた。

「誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ」

<ruby><rb>尫弱</rb><rt>ひよわ</rt></ruby>かった<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い頃の房吉の養育に、気苦労の多かったことなどを言立てる隠居の<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を、好い加減に房吉は聞流していた。

「不義した女を出すことが出来ないような<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>ぬけと、一生暮そうとは思わない。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の方から出ていくからそう思うがいい」

思っていることの半分も言えない房吉は、それでも二言三言<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を返した。

「そんな事があったか<ruby><rb>否</rb><rt>ない</rt></ruby>か知らないけれど、<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>の家内なら、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんは黙ってみていたらいいでしょう。一体誰がそんな事を言出したんです」

隠居の肩を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいたお島は、それを聴きながら顔から火が出るように思ったが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>房吉を<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>く思った。

無成算な、その日その日の無駄な働きに、一夏を過して来たお島は、習慣でそうして来た隠居の機嫌取や、親子の間の争闘の<ruby><rb>取做</rb><rt>とりなし</rt></ruby>にも疲れていた。寝苦しい晩などには、お島は自分自身の肉体の苦しみが、まだ戸もしめずに、いつまでもぼそぼそ話声のもれている若夫婦の<ruby><rb>寝室</rb><rt>ねま</rt></ruby>の方へも見廻ってみる、隠居と一つに神経を働かせた。

「まあ、そんな事はいいでしょう」お島は<ruby><rb>外方</rb><rt>そっぽう</rt></ruby>を向きながら鼻で笑った。

「お前がそんな二本棒だから、おゆうが好きな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするんだ。お前が承知しても、この私が承知できない。さあ今夜という今夜は、立派におゆうの処分をしてみせろ。それが出来ないような意気地なしなら、首でも<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>って<ruby><rb>一思</rb><rt>ひとおも</rt></ruby>いに死んでしまえ」

それよりも、部屋で泣伏しているおゆうの<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじら</rt></ruby>しい姿に、心の<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かるる房吉は、やがてその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って、優しい<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけてやりたかった。<ruby><rb>妊娠</rb><rt>みもち</rt></ruby>だと云うことが、一層男の<ruby><rb>愛憐</rb><rt>あいれん</rt></ruby>を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>った。

お島にささえられないほどの力を出して、隠居が<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふり</rt></ruby>まわして、二人のなかへ割って入ったとき、おゆうは<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のまま、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で縁から外へ飛出していった。

## 四十五

二時過まで、植源の人達は騒いでいた。

お鈴と二人で<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めて、房吉から引離して、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかへ納められた隠居が<ruby><rb>鎮</rb><rt>しずま</rt></ruby>ってからも、お島はじっとしてもいられなかった。

「どうしましょうね。大丈夫でしょうか」お島は庭の方を捜してから、これも<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>そこいらを捜しあぐねて、蚊帳の外に<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>坐っている房吉の傍へ帰って来て言った。

房吉は<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めた顔をして、<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>んでいた。

「大丈夫とは思うけれど、<ruby><rb>偶然</rb><rt>ひょっ</rt></ruby>とするとおゆうは帰って来ないかも知れないね。不断から善く死ぬ死ぬと言っていたから」

「そうですか」お島は仰山らしく<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え声で言った。

「それじゃ私少し捜して来ましょう」

お島が近所の知った家を二三軒<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて歩いたり、姉の家へ行ってみたり、途中で鶴さんや大秀へ電話をかけたりしてから、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>う帰って来たのは、もう大分夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてからであった。

「安心していらっしゃい」お島は房吉の部屋へ入ると、せいせい息をはずませながら言った。「おゆうさんは大丈夫大秀さんにいるんですよ」

お島が、大秀へ電話をかけたとき、出て来て<ruby><rb>応答</rb><rt>うけこたえ</rt></ruby>をしたのは、おゆうには継母にあたる大秀の若い<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんであった。

おゆうが<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で飛込んでいった時、<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>ではもう<ruby><rb>臥床</rb><rt>ねどこ</rt></ruby>に入っていたが、おゆうはいきなり昔し堅気の<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>な父親に、頭から<ruby><rb>脅</rb><rt>おどか</rt></ruby>しつけられて、一層<ruby><rb>突</rb><rt>つき</rt></ruby>つめた気分で家を出た。鶴さんに着物を融通したり何かしたと云うことが、植源へ片着かない前からの浮気っぽいおゆうを知っている父親には、<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>すことのできぬ悪事としか思えなかった。

おゆうが帰って来たとき、お島は自分の寝床へ帰って、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>の様子に気を配りながら、まんじりともせず疲れた体を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えていた。

帰って来たおゆうが、一つは<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>や父親への<ruby><rb>面当</rb><rt>つらあて</rt></ruby>に、一つは房吉に<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねるために、いきなり<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>で髪を切って、庭の井戸へ身を投げようとしたのは、その晩の夜中過であった。おゆうは、うとうと<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>のなかに坐っている房吉には声もかけず、いきなり鏡台の前に立って、隠居の手から取離されたまま、そこに置かれた剃刀を見つけると、いきなり<ruby><rb>振釈</rb><rt>ふりほど</rt></ruby>いた髪を、一握ほど根元から切ってしまった。

「<ruby><rb>可悔</rb><rt>くやし</rt></ruby>い可悔い」跣足で飛出して来たお島に<ruby><rb>遮</rb><rt>ささ</rt></ruby>えられながら、おゆうは<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れ<ruby><rb>悶踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いて叫んだ。

<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>とのことで、房吉と一緒におゆうを座敷へ連込んで来たお島の目には、髪を振乱したまま、そこに泣沈んでいるおゆうが、<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじら</rt></ruby>しくも<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましくも思えた。

「みんな鶴さんへの心中立だ」お島は心に<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>でおゆうを<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めさすっている房吉と、それを耳にもかけず泣沈んでいるおゆうの美しい姿とを見比べた。

## 四十六

<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>の流れて行っている、或山国の町の一つで、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く漂浪の生活を続けている兄の<ruby><rb>壮太郎</rb><rt>そうたろう</rt></ruby>が、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で商売に着手していた品物の仕入かたがた、仕事の<ruby><rb>手助</rb><rt>てだすけ</rt></ruby>にお島をつれに来たのはその夏の末であった。

「阿母さんは、一体いつまで私を<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>で働かしておくつもりだろう」

植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のなかの<ruby><rb>紛紜</rb><rt>いざこざ</rt></ruby>に飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親に<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>した。

長いあいだ家へ寄つきもしない壮太郎の代りに、家に居坐らせるため、植源を出て来て、父の手助に働かせられていたお島は、兄に<ruby><rb>説</rb><rt>とき</rt></ruby>つけられて、その時ふいと旅に出る気になったのであった。

「誰が来たって駄目だ。お前ならきっと辛抱ができる」

お島に家へ坐られることが不安であったと同時に、田舎で<ruby><rb>遣</rb><rt>やり</rt></ruby>かけようとしている仕事と、そこで人に囲われている女とから離れることの出来なかった兄の壮太郎は、そう言って話に<ruby><rb>乗易</rb><rt>のりやす</rt></ruby>いお島を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそのか</rt></ruby>した。

田舎の植木屋仲間に売るような色々の植木と、西洋草花の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>などを、どっさり仕込んで、それを汽車に積んで、兄はしばらく住なれたその町の方へ出かけていった。一緒に乗込んだお島の心には、まだ見たことのない田舎の町のさまが色々に想像されたが、これまで何処へ行っても頭を抑えられていたような冷酷な生母、<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>な養父母、植源の隠居、それらの人達から離れて暮せるということを考えるだけでも、手足が急に自由になったような安易を感じた。

「みっちり働いて、お金を<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けて帰ろう」お島はそう思うと、何もかも自分を歓迎するための手をひろげて待っているような気がした。

<ruby><rb>黝</rb><rt>くろず</rt></ruby>んだ土や、<ruby><rb>蒼々</rb><rt>あおあお</rt></ruby>した水や広々した雑木林――関東平野を北へ北へと<ruby><rb>横</rb><rt>よこぎ</rt></ruby>って行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつ<ruby><rb>沁</rb><rt>しみ</rt></ruby>ひろがって来た。

「<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱり</rt></ruby>こんなような町？」お島は汽車が<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>大きなある停車場へ乗込んだとき、窓から顔を出して、壮太郎にささやいた。

停車場には、日光帰りとみえる、<ruby><rb>紅色</rb><rt>べにいろ</rt></ruby>をした西洋人の姿などが見えた。

「とてもこんな大きなんじゃない」壮太郎は、長く沁込んだその町の内部の生活を<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>していると云う顔をして笑った。その土地では、壮太郎はもう可也色々の人を知っていた。

「どこを見ても山だからね。でも住なれてみると、また面白いこともあるのさ」

汽車は段々山国へ入っていった。深い<ruby><rb>谿</rb><rt>たに</rt></ruby>や、遠い<ruby><rb>峡</rb><rt>はざま</rt></ruby>が、山国らしい木立の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>や、風にふるえている<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>の上から望み見られた。客車のなかは一様に<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していた。

## 四十七

車窓に襲いかかる<ruby><rb>山気</rb><rt>さんき</rt></ruby>が、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした其処ここの<ruby><rb>杉柏</rb><rt>さんぱく</rt></ruby>の梢からは、<ruby><rb>烟霧</rb><rt>えんむ</rt></ruby>のような<ruby><rb>翠嵐</rb><rt>すいらん</rt></ruby>が起って、細い雨が明い日光に<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>し<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>られた。思いもかけない<ruby><rb>山麓</rb><rt>さんろく</rt></ruby>の傾斜面に<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた田畑があったり、厚い<ruby><rb>薮畳</rb><rt>やぶだたみ</rt></ruby>の蔭に、人家があったりした。

その町へ着くまでに、汽車は寂しい停車場に、三度も四度も<ruby><rb>駐</rb><rt>とどま</rt></ruby>った。東京の<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>に見なれている町よりも美しい町が、自然の威圧に<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>じ疲れて、口も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けないようなお島の目に異様に映った。

「へえ、こんな処にもこんな人がいるのかね」お島は不思議そうに、そこに見えている人達の姿を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

Ｓ――と云うその町へ入った時にも、小雨がしとしとと降そそいでいた。停車場を出て橋を一つ渡ると、直ぐそこに<ruby><rb>町端</rb><rt>まちはな</rt></ruby>らしい休茶屋や、運送屋の軒に続いて<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>りきった<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>が、二三軒目についた。<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>や岩松などの植木を出してある<ruby><rb>店屋</rb><rt>みせや</rt></ruby>もあった。壮太郎とお島とは、そこを<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で通って行った。

町はどこも<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も、<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していた。

俥は<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に大通の真中へ出ていった。そこに石造の門口を<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>した旅館があったり、大きな<ruby><rb>用水桶</rb><rt>ようすいおけ</rt></ruby>をひかえた銀行や、半鐘を備えつけた警察署があったりした。

壮太郎の家は、閑静なその裏通にあった。町屋風の格子戸や、<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>に囲われた門構の家などが、幾軒か<ruby><rb>立続</rb><rt>たてつづ</rt></ruby>いたはずれに、低い垣根に仕切られた広々した庭が、先ずお島の目を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。木組などの<ruby><rb>繊細</rb><rt>かぼそ</rt></ruby>いその家は、まだ<ruby><rb>木香</rb><rt>きが</rt></ruby>のとれないくらいの<ruby><rb>新建</rb><rt>しんだち</rt></ruby>であった。

留守を頼んで行った<ruby><rb>大家</rb><rt>おおや</rt></ruby>の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅ</rt></ruby>と、そこの子供とが、広い家のなかを、我もの顔にごろごろしていた。

「へえ、こんな処でも商売が利くんですかね」

部屋に落着いたお島は、<ruby><rb>縁端</rb><rt>えんばな</rt></ruby>へ出て、庭を眺めながら呟いた。

「この町は先ずこれだけのものだけれど、<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>には、またそれぞれ大きな家があるからね」壮太郎は、茶盆や湯沸をそこへ持出して来ると、羽織をぬいで<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

秋雨のような雨がまだじとじと降っていた。水分の多い<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い風が、遠く山国に来ていることを思わせた。ごとんごとんと云う<ruby><rb>慵</rb><rt>だる</rt></ruby>い水車の音が、どこからか、物悲しげに聞えていた。

## 四十八

そこにお島を落着かせてから、壮太郎が荷物運搬の<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>に、雨のなかを再び停車場へ出かけていってから、お島は晩の食事の支度に台所へ出たが、女がおりおり来ると見えて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く女中のいない男世帯としては、<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>や<ruby><rb>流元</rb><rt>ながしもと</rt></ruby>が<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に取片着いていた。

壮太郎は、夜までかかって、車で二度に<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>び込まれた植木類を、すっかり庭の方へ始末をしてから、お島にはどこへ往くとも告げずに、またふいと羽織や帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>て出て往ったが、お島はその晩裏から入って来た壮太郎が、何時頃帰ったかを知らないくらい疲れて熟睡した。

<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>目のさめたとき、水車の音が先ずお島の耳に着いた。お島はその音を聞きながら、寝床のなかにうとうとしていたが、今日から全く知らない土地に暮すのだと思うと、今まで憎み<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでいた東京の人達さえ<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しく思われた。

ここから<ruby><rb>二停車場</rb><rt>ふたていしゃば</rt></ruby>ほど先にある、或大きな<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>へ流れて来て、そこで商売をしていた兄の女が、その頃二三里の山奥にある或鉱山の方に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>っている男に<ruby><rb>落籍</rb><rt>ひか</rt></ruby>されて、市とＳ――町との間にある<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>つづきの小さい町に、囲われていたことは、お島も東京を立つ前から<ruby><rb>聴</rb><rt>きか</rt></ruby>されていた。女がまだ商売をしている頃から、兄はその<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>へ来て、何も<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>ることなしに、宿屋にごろついていたり、居周の温泉場に遊んでいたりしているうちに、土地の遊人仲間にも顔を知られて、おりおり勝負事などに手を出していた。女が今の男に<ruby><rb>落籍</rb><rt>ひか</rt></ruby>されてから、彼は<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>をもらって、<ruby><rb>夤縁</rb><rt>つて</rt></ruby>のあったこのＳ――町へ来て、植木に身を入れることになったのであった。

昼頃に雨があがってから、お島は壮太郎に連れられて、つい二三町ほど隔っている大家の家へ遊びに往った。そこはこの町の唯一の精米所でもあり、金持でもあった。大きな門を入ると、水車仕掛の大きな精米所が、直にお島の目についた。話声が聴取れないほど、<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>いう音がそこから起っていた。

「この米が<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>へ入るんだぜ」

壮太郎は、お島をその入口まで連れていって、言って聴せた。白くなって働いている男達と、壮太郎は暫く無駄話をしていた。

主人は<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>のはまった、明い事務室で、椅子に腰かけて、青い<ruby><rb>巾</rb><rt>きれ</rt></ruby>の張られた大きな<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よっ</rt></ruby>かかって、眼鏡をかけて、その日の新聞の相場づけに眼を通していたが、壮太郎の方へ笑顔を向けると、お島にも丁寧にお辞儀をした。柱の<ruby><rb>状挿</rb><rt>じょうさし</rt></ruby>には、<ruby><rb>主</rb><rt>おも</rt></ruby>に東京から入って来る手紙や電報が、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびだた</rt></ruby>しく<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれてあった。米屋町の旦那のような風をしたその主人を、お島は不思議そうに眺めていた。

「ここの庭さ、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が手を入れたというのは……」壮太郎は飛石伝いに、<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>がかりの庭へ出てゆくと、お島に話しかけたが、そこから上へ登ってゆくと、小さい公園ほどの広々した土地が、目の前に<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けた。

「へえ、こんな暮しをしている人があるんですかね」

お島はそこから、築山のかかりや、<ruby><rb>家建</rb><rt>やだち</rt></ruby>の工合を見下しながら呟いた。

「ここへみっしり木を入れて、この町の公園にしようてえのが、あの人の<ruby><rb>企劃</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>なんだがね。金のかかる仕事だから、少し景気が直ってからでないと……」

兄はそう言って、子供のためのグラウンドのような場所の<ruby><rb>周</rb><rt>まわり</rt></ruby>にある、木陰のベンチに腰をおろして、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしはじめた。

## 四十九

<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にお島は、ここの主人や<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんや、子供達とも懇意になったが、来た時から目についた、通りの方の浜屋と云う旅館の人達とも親しくなった。

旅館の方には、お島より二つ年下の娘の外に、里から来ている女中が三人ほどいたが、始終帳場に坐っている、色の小白い面長な<ruby><rb>優男</rb><rt>やさおとこ</rt></ruby>が、そこの主人であった。物堅そうなその主人は、<ruby><rb>大</rb><rt>おおき</rt></ruby>い声では物も言わないような、<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい男であった。

山国のこの寂れた町に<ruby><rb>涼気</rb><rt>すずけ</rt></ruby>が立って来るにつれて、西北に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている山の姿が、薄墨色の雲に<ruby><rb>封</rb><rt>とざ</rt></ruby>されているような日が続きがちであった。<ruby><rb>鬱々</rb><rt>くさくさ</rt></ruby>するような<ruby><rb>降雨</rb><rt>あめふり</rt></ruby>の日には、お島はよく浜屋へ湯をもらいに行って、<ruby><rb>囲炉裏縁</rb><rt>いろりばた</rt></ruby>へ上り込んで、娘に東京の話をして聞かせたり、立込んで来る客の前へ出たりした。

一家の<ruby><rb>締</rb><rt>しまり</rt></ruby>をしている、四十六七になった、ぶよぶよ肥りの上さんと、一日小まめに体を動かしづめでいる<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんとが、薄暗いその囲炉裏の側に、酒のお<ruby><rb>燗番</rb><rt>かんばん</rt></ruby>をしたり、女中の<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>をしたりしていた。町の<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>や料理屋へ<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を仕送っている<ruby><rb>魚河岸</rb><rt>うおがし</rt></ruby>の問屋の旦那が、仕切を取りに、東京からやって来て、二日も三日も、<ruby><rb>新建</rb><rt>しんだち</rt></ruby>の奥座敷に飲つづけていた。

精米所の主人が建ててくれたと云う、その新座敷へ、お島も時々入って見た。<ruby><rb>糸柾</rb><rt>いとまさ</rt></ruby>の<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の柱や、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>の彫刻や、極彩色の模様画のある大きな杉戸や、黒柿の<ruby><rb>床框</rb><rt>とこがまち</rt></ruby>などの出来ばえを、上さんは自慢そうに、お島に話して聞せた。

河岸の旦那の芸づくしをやっているその部屋を、お島も物珍しそうに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみた。それでも安お召などを引張った芸者や、古着か何かの<ruby><rb>友禅縮緬</rb><rt>ゆうぜんちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>を来て、<ruby><rb>斑</rb><rt>まだ</rt></ruby>らに<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をぬった<ruby><rb>半玉</rb><rt>はんぎょく</rt></ruby>などが、<ruby><rb>引断</rb><rt>ひっきり</rt></ruby>なしに、部屋を出たり入ったりした。鼓や太鼓の音がのべつ陽気に聞えた。笛の巧いという、盲の男の師匠が、芸者に手をひかれて、廊下づたいに連れられて行った。

そこへ精米所の主人がやって来て、<ruby><rb>炉縁</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかくと、そこにごろりと寝転んでいたお爺さんは<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に奥へ引込んで行った。精米所の主人の前には、直に<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>がつけられて、上さんがお酌をしはじめた。

「あれを知らねえのかい。お前も<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>間ぬけだな」

兄はその主人と上さんとの<ruby><rb>間</rb><rt>なか</rt></ruby>を、お島に言って聞せた。

「あの家も、精米所のお蔭で持っているのさ。だから爺さんも目をつぶって、見ているんだ」

兄はそうも言った。

## 五十

旦那を<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>へ還してから、女が一里半程の道を<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗って、壮太郎のところへ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来るのは、大抵月曜日の午前であった。

家が近所にあったところから、<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>いおりの<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>であった、おかなと云うその女が、まだ東京で商売に出ている時分、兄は女の名前を腕に<ruby><rb>鏤</rb><rt>えり</rt></ruby>つけなどして、嬉しがっていた。そして女の跡を追うて、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来た頃には、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんまで<ruby><rb>実家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ返して、父親からは準禁治産の形ですっかり<ruby><rb>見限</rb><rt>みきり</rt></ruby>をつけられていた。

日本橋辺にいたことのあるおかなは、<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>ぎすな<ruby><rb>躯</rb><rt>がら</rt></ruby>の<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い女であったが、東京では立行かなくなって、Ｔ――町へ来てからは、体も芸も一層<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んでいた。土地びいきの多い人達のなかでは、勝手が違って勤めにくかったが、<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>から来る連中には可也に<ruby><rb>持囃</rb><rt>もてはや</rt></ruby>された。

おかなは朝来ると、晩方には大抵帰って行ったが、旦那が東京へ<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>などに出るおりには、二晩も三晩も帰らないことがあった。二里ほど奥にある、山間の温泉場へ、呼出をかけられて、壮太郎が出向いて行くこともあった。

おかなは<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>くさい風をして、<ruby><rb>山焦</rb><rt>やまやけ</rt></ruby>のした顔に白粉も塗らず、ぼくぼくした下駄をはいて遣って来たが、お島には土地の名物だといって固い<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>などを持って来た。

女のいる間、お島は家を出て、精米所へ行ったり、浜屋で遊んでいたりした。

精米所では、東京風の<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>のいい<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが、家に<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこみ</rt></ruby>きりで、浜屋の<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>に産れた主人の男の子と、自分に産れた二人の女の子供の世話をしていた。

「浜屋のおばさんの<ruby><rb>処</rb><rt>とこ</rt></ruby>へいきましょうね」

お島は近所の子供たちと、例の公園に遊んでいるその男の子の、綺麗な顔を眺めながら言ってみた。

「あ」と、子供は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんとおばさんと、<ruby><rb>孰</rb><rt>どっち</rt></ruby>が好き？」お島は言ってみたが、子供には何の感じもないらしかった。

お島はベンチに腰かけて、<ruby><rb>慵</rb><rt>だる</rt></ruby>い時のたつのを待っていた。庭の運動場の<ruby><rb>周</rb><rt>まわり</rt></ruby>に<ruby><rb>植</rb><rt>うわ</rt></ruby>った桜の葉が、もう大半<ruby><rb>黄</rb><rt>きば</rt></ruby>み枯れて、秋らしい雲が遠くの空に動いていた。お島は時々<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>で差向いになることのある、浜屋の若い主人のことなどを思っていた。Ｔ――市から来ていた、その主人の嫁が、肺病のために長いあいだ<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ帰されていた。

## 五十一

お島が<ruby><rb>楽</rb><rt>たのし</rt></ruby>みにして世話をしていた植木畠や<ruby><rb>花圃</rb><rt>はなばた</rt></ruby>の床に、霜が段々<ruby><rb>滋</rb><rt>しげ</rt></ruby>くなって、<ruby><rb>吹曝</rb><rt>ふきさら</rt></ruby>しの一軒家の軒や羽目板に、或時は寒い<ruby><rb>山颪</rb><rt>やまおろし</rt></ruby>が、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく木葉を吹きつける冬が町を見舞う頃になると、商売の方がすっかり<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>になって来た壮太郎は、また<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の方へ出て行って、遊人仲間の群へ入って、勝負事に頭を浸している日が多かった。

持って行った植木の或者は、土が<ruby><rb>適</rb><rt>ふさ</rt></ruby>わぬところから、お島が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に丹精しても、買手のつかぬうちに、立枯になるようなものが多かったが、草花の方も美事に見込がはずれて、<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>が思ったほどに<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けぬばかりでなく、<ruby><rb>花圃</rb><rt>はなばたけ</rt></ruby>に<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>かれたものも発芽や発育が充分でなかった。壮太郎はそれに気を腐らして、この一冬をどうしてお島と二人で、この町に<ruby><rb>立籠</rb><rt>たてこも</rt></ruby>ろうかと思いわずろうた。

山にはもう雪が来ていた。鉱山の方へ搬ばれてゆく、<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>や<ruby><rb>醤油</rb><rt>しょうゆ</rt></ruby>などを荷造した荷馬が、町に幾頭となく<ruby><rb>立駢</rb><rt>たちなら</rt></ruby>んで、<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>のふる中を、尾をたれて白い息を吹いているような朝が幾日となく続いた。<ruby><rb>小春日和</rb><rt>こはるびより</rt></ruby>の日などには、お島がよく出て見た松並木の往還にある<ruby><rb>木挽小舎</rb><rt>こびきごや</rt></ruby>の男達の姿も、いつか見えなくなって、そこから小川を一つ隔てた<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>なかにある<ruby><rb>遊廓</rb><rt>ゆうかく</rt></ruby>の白いペンキ塗の二階や三階の建物を取捲いていた林の<ruby><rb>木葉</rb><rt>このは</rt></ruby>も、すっかり落尽くしてしまった。

それでも浜屋の奥座敷だけには、裏町にある芸者屋から、時々<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をからげて出てゆく箱屋や芸者の姿が見られて、どこからともなく飲みに来る客が絶えなかった。お島は町を通るごとに目についていた、通りの飲食店や、町がさびれてから、どこも<ruby><rb>達磨</rb><rt>だるま</rt></ruby>をおくようになったと云う旅籠屋などに、働きに入ろうかとさえ思ってみることもあったが、それらのお客が<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な近在の百姓や、<ruby><rb>繭買</rb><rt>まゆかい</rt></ruby>などの<ruby><rb>小商人</rb><rt>こあきゅうど</rt></ruby>であることを想ってみるだけでも、<ruby><rb>身顫</rb><rt>みぶるい</rt></ruby>が出るほど厭であった。

裸になって<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>から帰って来ると、兄はよくお島のものを持出して、顔を知っている質屋の門などを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ったが、それも<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>が尽きて来ると、矢張女のところへ<ruby><rb>強請</rb><rt>せび</rt></ruby>りに行くより外なかった。

その使に、お島も時々遣られた。峠の<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>もある寂しい山道を、お島は独りでてくてく歩いて行った。どこへ行っても人家があった。休み茶屋や居酒屋もあった。女の囲われている町では、<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>や農具を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えている<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>が<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に多かった。

「おかなさんが、こんな処によくいられたもんだ」お島は不思議に思ったが、それでも女のいるところは、<ruby><rb>小瀟洒</rb><rt>こざっぱり</rt></ruby>した格子造の家であった。家のなかには、東京風の<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>や長火鉢もきちんとしていた。

## 五十二

けれど、そうしてちょいちょい往ってみる、お島の目に映ったところでは、おかなは兄の思っているほど気楽な身分でもなかった。おかなの話によると、<ruby><rb>鉱敷課</rb><rt>こうしきか</rt></ruby>とやらの方に勤めて、鉱夫達と一緒に穴へ入るのが職務であるその旦那から、月々<ruby><rb>配</rb><rt>あてが</rt></ruby>われる生活費と小遣とは、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>でもなかった。もと居た<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の方では、誰も知らないもののない壮太郎との<ruby><rb>情交</rb><rt>なか</rt></ruby>が、<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>の人達の口から、薄々旦那の耳へも伝わってから、金の受渡しが一層やかましくなって、おかなはその事でどうかすると旦那と<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い喧嘩を始めることすらあった。夏の頃から、山間の湯に行ってみたり、<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の方の医者へ通っていたりしていたおかなの体は、<ruby><rb>涼気</rb><rt>すずけ</rt></ruby>が経つに従って、いくらか肉づいて来たようであったが、やっぱり<ruby><rb>色沢</rb><rt>いろつや</rt></ruby>が出て来なかった。それに<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>を向いても、山ばかりのこの寂しい町で、雪の深い長い一冬を越すことは、今まで<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>にいたおかなに取っては、穴へ入るほど心細い仕事であった。どこか暖い方へ出て、もとの商売をしよう！　おかなは時々その相談を、壮太郎にも為てみるのであった。

旦那から<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの手切をもらって、おかなが知合をたよって、着のみ着のままで千葉の方へ落ちて行くことになった頃には、壮太郎もすっかり<ruby><rb>零落</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れはてていた。月はもう十二月であった。山はどこを見ても真白で、町には毎日々々じめじめした<ruby><rb>霙</rb><rt>みぞれ</rt></ruby>が降ったり、雪が積ったりしていた。

東京の<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>の方へ、時々無心の手紙などを書いていた壮太郎が、何の<ruby><rb>手応</rb><rt>てごたえ</rt></ruby>もないのに気を腐らして、女から送って来た金を旅費にして、これもこの町を立って行ったのは、十二月の月ももう<ruby><rb>半過</rb><rt>なかばすぎ</rt></ruby>であった。旅客の姿の<ruby><rb>幾</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど全く絶えてしまった停車場へ、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby><ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>されることになったお島は、兄を送っていった。精米所の主人や、浜屋の<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんなどに、家賃や、時々の小遣などの借のたまっていた壮太郎のために、双方の<ruby><rb>談合</rb><rt>はなしあい</rt></ruby>で、その<ruby><rb>質</rb><rt>かた</rt></ruby>に、お島の体があずけられる事になったのであった。

寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>を一本もって、<ruby><rb>宛然</rb><rt>さながら</rt></ruby><ruby><rb>兇状持</rb><rt>きょうじょうもち</rt></ruby>か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。鳥打の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>から、<ruby><rb>落窪</rb><rt>おちくぼ</rt></ruby>んだ目ばかりがぎろりと薄気味わるく光っていた。

その日は、夕方から雪がぼそぼそ降出して来た。綿の入ったものの支度すらできなかったお島は、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の肌にしみる寒さに顫えながら、汽車の出てしまった寂しい停車場を、浜屋の番傘をさして、独りですごすご出て来た。

「兄さんにすっかりかつがれてしまったんだ！」

お島は初めて気がついたように、自分の陥ちて来た立場を考えた。

<ruby><rb>達磨</rb><rt>だるま</rt></ruby>などの多い、飲食店のなかからは、煮物の煙などが、薄白く寒い風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いていた。

## 五十三

繭買いや行商人などの姿が、<ruby><rb>安旅籠</rb><rt>やすはたご</rt></ruby>の二階などに見られる、五六月の<ruby><rb>交</rb><rt>こう</rt></ruby>になるまで、旅客の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>のすっかり絶えてしまうこの町にも、県の官吏の<ruby><rb>定宿</rb><rt>じょうやど</rt></ruby>になっている浜屋だけには、時々洋服姿で入って来る泊客があった。その中には、鉄道の方の役員や、保険会社の勧誘員というような人達もあったが、それも月が一月へ入ると、ぱったり足がたえてしまって、浜屋の人達は、<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に額を<ruby><rb>鳩</rb><rt>あつ</rt></ruby>めて、飽々する時間を消しかねるような怠屈な日が多かった。

「さあ、こんな事をしちゃいられない」

朝の<ruby><rb>拭</rb><rt>ふき</rt></ruby>掃除がすんで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うと、その仲間に加わって、時のたつのを知らずに話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていたお島は、<ruby><rb>新建</rb><rt>しんだち</rt></ruby>の奥座敷で、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>も<ruby><rb>悪好</rb><rt>わるず</rt></ruby>きな花に夜を<ruby><rb>更</rb><rt>ふか</rt></ruby>していた主婦の、起きて出て来る姿をみると、急いで暖かい炉端を離れた。そして冬中女の手のへらされた勝手元の忙しい働きの<ruby><rb>隙々</rb><rt>ひまひま</rt></ruby>に見るように、主婦から<ruby><rb>配</rb><rt>あて</rt></ruby>がわれている仕事に坐った。仕事は大抵、これからの客に着せる夜着や、<ruby><rb>綈袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>や枕などの<ruby><rb>縫釈</rb><rt>ぬいとき</rt></ruby>であった。前二階の広い客座敷で、それらの仕事に坐っているお島は、気がつまって来ると、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で鼻唄を謡いながら、機械的に針を動かしていたが、<ruby><rb>遣瀬</rb><rt>やるせ</rt></ruby>のない寂しさが、時々<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に襲いかかって来た。

窓をあけると、<ruby><rb>鳶色</rb><rt>とびいろ</rt></ruby>に曇った空の果に、山々の峰続きが<ruby><rb>仄白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>く見られて、その奥の方にあると聞いている、<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>の人達の生活が物悲しげに<ruby><rb>思遣</rb><rt>おもいや</rt></ruby>られた。奥座敷の縁側に出してある、大きな<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いている<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>の声が、時々聞えていた。

<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>から引れてある電燈の光が、薄明く家のなかを照す頃になると、町はもう<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>も<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も戸が閉されて、裏へ出てみると、一面に雪の降積った田畠や林や人家のあいだから、ごとんごとんと響く、水車の音が単調に聞えて、<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>まるるような物悲しさが、快活に働いたり、笑ったりして見せているお島の心の底に、しみじみ<ruby><rb>湧</rb><rt>わき</rt></ruby>あがって来た。

その頃になると、いつも<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に姿をみせる精米所の主人が、もうやって来て大きな体を湯に浸っていた。そしてお島たちが湯に入る時分には、晩酌の好い機嫌で、懸離れた奥座敷に延べられた<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>につくのであったが、花がはじまると、ぴちんぴちんと云う札の響が、<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>の寝静った静な<ruby><rb>屋内</rb><rt>やうち</rt></ruby>に、いつまでも聞えていた。二三人の町の人が、そこに集っていた。

酒ものまず、花にも興味をもたない若主人と、お島は時々二人きりで炉端に坐っていた。病気が<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るとも癒らぬともきまらずに、長いあいだ<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ帰っている若い妻の身のうえを、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で案じわずろうているこの主人の<ruby><rb>寝起</rb><rt>ねおき</rt></ruby>の世話を、お島はこの頃自分ですることにしていた。

## 五十四

新座敷の方の庭から、丁字形に入込んでいる中庭に臨んだ主人の<ruby><rb>寝室</rb><rt>ねま</rt></ruby>を、お島はある朝、<ruby><rb>毎朝</rb><rt>いつも</rt></ruby>するように掃除していた。障子<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が<ruby><rb>二棹</rb><rt>ふたさお</rt></ruby>も<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>んでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。お島は苦しい夢を見ているような心持で、そこを掃出していたが、不安と悔恨とが、また新しく胸に<ruby><rb>沁出</rb><rt>しみだ</rt></ruby>していた。

お島は人に口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えを紛らせるために、一層<ruby><rb>精悍</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しい様子をして立働いていた。そして客の<ruby><rb>膳立</rb><rt>ぜんだて</rt></ruby>などをする場所に当ててある薄暗い部屋で、妹達と一緒に朝飯をすますと、自分独りの思いに耽るために、急いで湯殿へ入っていった。窓に<ruby><rb>色硝子</rb><rt>いろガラス</rt></ruby>などをはめた湯殿には、板壁にかかった姿見が、うっすり<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の湯気に曇っていた。お島はその前に立って、いびつなりに映る自分の顔に<ruby><rb>眺入</rb><rt>ながめい</rt></ruby>っていた。親達や兄や多くの知った人達と離れて、こんな処に働いている自分の姿が<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじら</rt></ruby>しく思えてならなかった。

お島は湯をぬくために、冷い<ruby><rb>三和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>へおりて行った。目が涙に曇って、そこに<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ流れている<ruby><rb>噴井</rb><rt>ふきい</rt></ruby>の水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>いところへ手の<ruby><rb>達</rb><rt>とど</rt></ruby>くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の<ruby><rb>背</rb><rt>せなか</rt></ruby>を、昨夜も流してやったことが<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>された。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、<ruby><rb>弾返</rb><rt>はねかえ</rt></ruby>すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。

「鶴さんで<ruby><rb>懲々</rb><rt>こりごり</rt></ruby>している！」

お島はその時も、<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れてゆく自分の<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>に不安を感じた。

お島は力ない手を、<ruby><rb>浴槽</rb><rt>よくそう</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>につかまったまま、<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れ<ruby><rb>減</rb><rt>た</rt></ruby>っていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。

橋をわたって、裏の<ruby><rb>庫</rb><rt>くら</rt></ruby>の方へゆく、主人の<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>を着た物腰の<ruby><rb>細</rb><rt>ほっそ</rt></ruby>りした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い、手足などの<ruby><rb>繊細</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>なその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けてゆくようにさえ思われた。

「郵便が来ているよ」

不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろから一封の手紙を出した。

それは王子の父親のところから来たのであった。

「へえ、何でしょう」

お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見た。

## 五十五

山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。

冬中<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されてあった<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた部屋の<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>まで、<ruby><rb>東風</rb><rt>こち</rt></ruby>が吹流れて、町に<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の立つような日が、<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>となく続いた。淡雪が<ruby><rb>意</rb><rt>おも</rt></ruby>いがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。<ruby><rb>樋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>破目</rb><rt>われめ</rt></ruby>から漏れおちる<ruby><rb>垂滴</rb><rt>すいてき</rt></ruby>の<ruby><rb>水沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>に、光線が美しい虹を<ruby><rb>棚引</rb><rt>たなびか</rt></ruby>せて、<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>の<ruby><rb>唸声</rb><rt>うなりごえ</rt></ruby>などが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>の太鼓が子供を呼んでいた。

「お<ruby><rb>暖</rb><rt>あった</rt></ruby>かになりやした」

浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。

ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い<ruby><rb>頸元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は<ruby><rb>荐</rb><rt>しきり</rt></ruby>に都の空が恋しく想出された。

「御父さんから、また手紙が来ましたよ」

人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。

正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の方へも足を遠<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ<ruby><rb>話</rb><rt>ばなし</rt></ruby>をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。

そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもない<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が、<ruby><rb>昔</rb><rt>むか</rt></ruby>し<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>を怒らせている事は、その<ruby><rb>文言</rb><rt>もんごん</rt></ruby>でも受取れた。

「どうしましょう」

お島はその<ruby><rb>度</rb><rt>たんび</rt></ruby>に、目に涙をためて<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。

「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」

お島はそうも言って笑った。

一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>へお島を<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の<ruby><rb>生計向</rb><rt>くらしむき</rt></ruby>では、それも出来ない相談であった。

一里半ほど東に当っている<ruby><rb>谿川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。

## 五十六

嫁の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>や近所への聞えを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るところから、<ruby><rb>主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。

Ｓ――町の<ruby><rb>垠</rb><rt>はずれ</rt></ruby>を流れている川を<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って、重なり合った<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの<ruby><rb>山裾</rb><rt>やますそ</rt></ruby>を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行くと、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にその温泉場の白壁や<ruby><rb>屋</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>が目についた。<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の急な町には<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>い小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。

お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、<ruby><rb>崖造</rb><rt>がけづくり</rt></ruby>の新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>の人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう<ruby><rb>苧環</rb><rt>おだまき</rt></ruby>が葉を<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>らせ、夏雪草が日に<ruby><rb>熔</rb><rt>と</rt></ruby>けそうな淡紅色の花をつけていた。

雪の深い冬の間、<ruby><rb>閉</rb><rt>たて</rt></ruby>きってあったような、その<ruby><rb>新建</rb><rt>しんだち</rt></ruby>の二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の<ruby><rb>瓦屋根</rb><rt>かわらやね</rt></ruby>のうえに、<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>が<ruby><rb>怡</rb><rt>うれ</rt></ruby>しげな声をたてて<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>ごしに<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しく眺められた。

<ruby><rb>繭時</rb><rt>まゆどき</rt></ruby>にはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>に見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、<ruby><rb>函</rb><rt>はこ</rt></ruby>をさげて飛込んで来るのに出逢った。

「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」

お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けられて、つい話に<ruby><rb>晷</rb><rt>とき</rt></ruby>を移したりした。

山越えに、××国の方へ<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>に消えうせぬ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を、軽々しい<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。

「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」

お島は<ruby><rb>可羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しそうにその後姿を見送りながら、<ruby><rb>主婦</rb><rt>かみさん</rt></ruby>に言った。

三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、<ruby><rb>老人気</rb><rt>としよりけ</rt></ruby>のないこの家では、お島は比較的気が<ruby><rb>暢</rb><rt>のん</rt></ruby>びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、<ruby><rb>希</rb><rt>まれ</rt></ruby>には針仕事などを取出していることもあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に<ruby><rb>閉籠</rb><rt>とじこも</rt></ruby>っていた。

夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に<ruby><rb>青蛙</rb><rt>あおがえる</rt></ruby>の<ruby><rb>啼声</rb><rt>なきごえ</rt></ruby>がきこえて、<ruby><rb>銀</rb><rt>しろがね</rt></ruby>のような大粒の雨が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の<ruby><rb>懶</rb><rt>だる</rt></ruby>い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が急にせいせいして来て、お島は<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>ぎわへ出て、美しい<ruby><rb>雨脚</rb><rt>あまあし</rt></ruby>を眺めていた。<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しつけられていたような心が、<ruby><rb>跳</rb><rt>はね</rt></ruby>あがるように目ざめて来た。

## 五十七

浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。

主人は来れば<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から<ruby><rb>突如</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。

お島はその時、<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>の小娘を手かけに<ruby><rb>負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んでやったりしていた。この町でも場末の汚い<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に<ruby><rb>沁通</rb><rt>しみとお</rt></ruby>って<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑が濃くなって行った。

「東京から<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」

主人は或百姓家の庭の、<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>の蔭にある<ruby><rb>溝池</rb><rt>どぶいけ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>にしゃがんで、子供に<ruby><rb>緋鯉</rb><rt>ひごい</rt></ruby>を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「へえ……来ましたか」

お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。

「いつ来ました？」

「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ来ている話をすると、それじゃ<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>が一人で行って連れて来るといって、<ruby><rb>急立</rb><rt>せきた</rt></ruby>つもんだからな」

「ふむ、ふむ」

とお島は<ruby><rb>鼻頭</rb><rt>はながしら</rt></ruby>の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。

「それでどうしました」

「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに<ruby><rb>引立</rb><rt>ひった</rt></ruby>てて連れて行こうという<ruby><rb>見脈</rb><rt>けんまく</rt></ruby>だで……」

「ふむ」と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。

「御父さんにここで逢うのは厭だな」お島は手を堅く組んで首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げていた。「どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか」

「でも、ここに居ることを打明けてしまったからね」

「ふむ……<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>かったね」

「とにかく<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ」

「ふむ――」と、お島はやっぱり<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い顔をして、考えこんでいた。「東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に<ruby><rb>言断</rb><rt>いいき</rt></ruby>って来ましたからね。今逢うのは実に<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い！」

お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。

「為方がない、<ruby><rb>思断</rb><rt>おもいき</rt></ruby>って逢いましょう」暫くしてからお島は言出した。「逢ったらどうにかなるでしょう」

二人は藤棚の蔭を離れて、<ruby><rb>畔道</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>へ出て来た。

## 五十八

父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく<ruby><rb>居住</rb><rt>いずま</rt></ruby>って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と勝手元近い下座敷の一つへ通った。

「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。

「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>かったのに。でも折角来た<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。

「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、<ruby><rb>恁</rb><rt>こ</rt></ruby>うやって<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」

「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。

それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。

お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に<ruby><rb>晷</rb><rt>とき</rt></ruby>を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。

「人の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を<ruby><rb>聴</rb><rt>きか</rt></ruby>したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」

浜屋が自分で、<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で金を出してもらって、Ｔ――市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>の<ruby><rb>言条</rb><rt>いいじょう</rt></ruby>であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を<ruby><rb>粘</rb><rt>へばり</rt></ruby>つかせていった。

奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。

その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと<ruby><rb>霽</rb><rt>はれ</rt></ruby>あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。

## 五十九

お島が<ruby><rb>腫</rb><rt>はれ</rt></ruby>ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、<ruby><rb>朝間</rb><rt>あさま</rt></ruby>の寒い風が吹通って、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の方から、ころころころころと<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>の声が聞えていた。

「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>へ出て、水分の多い曇空を眺めながら<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いんでしょう」

ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は<ruby><rb>空怳</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けた顔をして言った。

「それじゃ御父さん<ruby><rb>恁</rb><rt>こ</rt></ruby>うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」

お島はそうも言って、父親を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。

「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ……」お島は腹立しそうに<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を<ruby><rb>牽着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。

「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ呼んできねえ」

父親は高い声をして言出した。

廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。

お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。

「弱っちまうね、御父さんの<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>にも……」お島はそこへ顔を出して、溜息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「何といったって駄目だもの」

どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立話をしていたが、するうち<ruby><rb>晷</rb><rt>とき</rt></ruby>が段々移っていった。

浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。

町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>かえるような若葉が<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>としていた。<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた<ruby><rb>菜花</rb><rt>なたね</rt></ruby>の咲いているところがあったり、<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の多い<ruby><rb>禿山</rb><rt>はげやま</rt></ruby>の蔭に、瀬戸物を焼いている<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか<ruby><rb>人迹</rb><rt>ひとあと</rt></ruby>のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。

## 六十

山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>ぞのように、山裾の<ruby><rb>谿川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>の岸の草原に<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。

赤い<ruby><rb>山躑躅</rb><rt>やまつつじ</rt></ruby>などの咲いた、その<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の下には、<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、<ruby><rb>水沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>を<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>しながら流れていた。危い丸木橋が両側の<ruby><rb>巌鼻</rb><rt>いわはな</rt></ruby>に<ruby><rb>架渡</rb><rt>かけわた</rt></ruby>されてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみたいような、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な誘惑に<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>の<ruby><rb>静</rb><rt>しずけ</rt></ruby>さが、次第に<ruby><rb>牾</rb><rt>もどか</rt></ruby>しいような彼女の心をなだめて行った。

人の声がしたので、<ruby><rb>跳</rb><rt>はね</rt></ruby>あがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は<ruby><rb>可恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しさに体が<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>と<ruby><rb>立悚</rb><rt>たちすく</rt></ruby>むようであった。

お島は二人の間に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、<ruby><rb>足下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>が見えなくなった。

父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。

夏時に<ruby><rb>氾濫</rb><rt>はんらん</rt></ruby>する水の迹の凄いような河原を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>ると、しばらく忘れていたＳ――町のさまが、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にお島の目に入って来た。見覚えのある場末の<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>や<ruby><rb>桶屋</rb><rt>おけや</rt></ruby>が、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>られてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。

お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>男と口を利くひまもなく、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>の方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。

「帰ってみて、もし<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

停車場では、<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>や風呂敷包をさげた<ruby><rb>繭商人</rb><rt>まゆあきゅうど</rt></ruby>の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって<ruby><rb>畔伝</rb><rt>あぜづた</rt></ruby>いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、Ｓ――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。

自分を<ruby><rb>窘</rb><rt>いじ</rt></ruby>める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。

## 六十一

汽車が<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と<ruby><rb>夷</rb><rt>なだら</rt></ruby>かな田畠や<ruby><rb>矮林</rb><rt>わいりん</rt></ruby>が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が<ruby><rb>近</rb><rt>ちかづ</rt></ruby>くにつれて、汽車の<ruby><rb>駐</rb><rt>とど</rt></ruby>まる駅々に、お島は自分の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を縮められるような苦しさを感じた。

「このまま自分の<ruby><rb>生家</rb><rt>うち</rt></ruby>へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。

「何等かの運を自分の手で<ruby><rb>切拓</rb><rt>きりひら</rt></ruby>くまでは、植源や鶴さんや、以前の<ruby><rb>都</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。

王子の<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>へついたのは、もう晩方であったが、お島は<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>へついて行った。静かな町にはもう<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。

父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>や、土地名物の<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。

「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に抱取った。

「<ruby><rb>寅坊</rb><rt>とらぼう</rt></ruby>、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」

羊羹の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>を持たされた子供は、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にお島に<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いた。

「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。

「一口に田舎々々と<ruby><rb>非</rb><rt>くさ</rt></ruby>すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。

「だって山のなかで、<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>のないところだというじゃないか」

「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」

「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」

「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の<ruby><rb>金主</rb><rt>きんしゅ</rt></ruby>をしてくれる人もあったのさ」

「へえ、そんな人がついたの」

## 六十二

山の夢に浸っているようなお島は、直に<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>な母親のために<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「<ruby><rb>業突張</rb><rt>ごうつくばり</rt></ruby>」とか「<ruby><rb>穀潰</rb><rt>ごくつぶ</rt></ruby>し」とかいうような<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が、彼女のただれた心の<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>のうえに、また新しい痛みを与えた。

お島が<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の方に独身で暮している、父親の<ruby><rb>従姉</rb><rt>いとこ</rt></ruby>にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>などに取立られていた<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>が、悪い<ruby><rb>酒癖</rb><rt>しゅへき</rt></ruby>のために職を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送りと、人の賃仕事などで、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>う生きている身の上であった。

昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えつかれた脈管にまわってくると、<ruby><rb>爪弾</rb><rt>つめびき</rt></ruby>で<ruby><rb>端唄</rb><rt>はうた</rt></ruby>を<ruby><rb>口吟</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>みなどする三味線が、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けたまま<ruby><rb>梁</rb><rt>うつばり</rt></ruby>のうえに<ruby><rb>掲</rb><rt>かか</rt></ruby>っていた。

お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>や<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>や額の<ruby><rb>生際</rb><rt>はえぎわ</rt></ruby>のくっきりと美しいその良人の礼服姿で<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>った肖像が、その家には不似合らしくも思えた。

「伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね」

お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>から、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>を振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。

「この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ」

伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。

「やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ」

お島はそうも思った。

そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。

その<ruby><rb>手助</rb><rt>てだすけ</rt></ruby>に坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>たれたりした。

<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>に気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。

## 六十三

客から註文のセルやネルの<ruby><rb>単衣物</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>の仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている<ruby><rb>裁物板</rb><rt>たちものいた</rt></ruby>の側へも来て、寝そべって<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を<ruby><rb>打籠</rb><rt>うちこ</rt></ruby>めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している<ruby><rb>最中</rb><rt>さなか</rt></ruby>であった。

自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に、盲動と屈従とを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。

東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>している間に、お島は浅草や芝居や<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。

浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>の<ruby><rb>売買</rb><rt>うりかい</rt></ruby>などに手を出していたところから、近まわりを<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。

「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」

彼は今でもお島をＴ――<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。

「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。

男は少しばかりの<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>をくれて、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。

東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>な遊びに疲れた<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。

## 六十四

「どうです、こんな仕事を少し<ruby><rb>助</rb><rt>す</rt></ruby>けてくれられないでしょうか」と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。

それまで仕売物ばかり<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるようになってから、それを<ruby><rb>請負</rb><rt>うけお</rt></ruby>うことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも頼んであるいた。

「仕事はいっくらでも出ます。引受けきれないほどあります」

小野田はお島がやってみることになった、毛布の方の仕事を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>いこんで来ると、そう言ってその遣方を彼女に教えて行った。

毛布というのは兵士が頭から着る柿色の防寒<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>であった。女の手に出来るようなその<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めに最初働いていたお島は、縫あがった毛布にホックや<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>をつけたり、穴かがりをしたりすることに<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>を慣した。「これの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まとめ</span>が一つで十三銭ずつです」小野田がそう云って<ruby><rb>配</rb><rt>あてが</rt></ruby>っていった仕事を、お島は普通の女の四倍も五倍もの十四五枚を一日で仕上げた。

手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいなかを出来上りの<ruby><rb>納</rb><rt>おさめ</rt></ruby>ものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。

平気で日に二円ばかりの働きをするお島の帯のあいだの財布のなかには、いつも自分の<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>から産出した金がざくざくしていた。

「こんな<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>を<ruby><rb>情婦</rb><rt>いろ</rt></ruby>にもっていれば、小遣に不自由するようなことはありませんな」

小野田は眠からさめると、せっせと穴かがりをやっている手の働きを眺めながら、そう言ってお島の働きぶりに舌を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いていた。

「どうです、私を<ruby><rb>情婦</rb><rt>いろ</rt></ruby>にもってみちゃ」お島は笑いながら言った。

「結構ですな」

小野田はそう言いながら、品物を受取って、自転車で帰っていった。

ホックづけや穴かがりが、お島には慣れてくると段々<ruby><rb>間弛</rb><rt>まだる</rt></ruby>っこくて為方がなくなって来た。

年の暮には、お島はそれらの仕事を請負っている小野田の<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚えていた。むずかしい将校服などにも、綺麗にミシンをかけることが出来てきた。

「訳あないや、こんなもの、男は意気地がないね」

お島はのろのろしている、仲間を笑った。

車につんで、<ruby><rb>溜池</rb><rt>ためいけ</rt></ruby>の方にある<ruby><rb>被服廠</rb><rt>ひふくしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>下請</rb><rt>したうけ</rt></ruby>をしている役所へ<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>びこまれて行く、それらの納めものが、気むずかしい役員<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>のために<ruby><rb>非</rb><rt>けち</rt></ruby>をつけられて、素直に納まらないようなことが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざら</span>にあった。

「こんなものが納まらなくちゃ為方がないじゃありませんか」

男達に代って、それらの納めものを持って行くことになったとき、お島はそう言って、ミシンが利いていないとか、服地が粗悪だとか、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>だかんだといって、品物を突返そうとする役員をよく丸め込んだ。

お島のおしゃべりで、品物が何の苦もなく通過した。

## 六十五

お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや<ruby><rb>裁板</rb><rt>たちいた</rt></ruby>の前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。

「被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね」

ちょいちょい<ruby><rb>納品</rb><rt>おさめもの</rt></ruby>を持って行くうちに、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に<ruby><rb>昵近</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>になった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の<ruby><rb>商</rb><rt>あきな</rt></ruby>いぶりを<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてくれた<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。

「洋服屋なら女の私にだってやれそうだね」

仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>にはまって来たようなものであった。

「遣ってやれんこともないね」感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。名古屋の方で、<ruby><rb>二十歳頃</rb><rt>はたちごろ</rt></ruby>まで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。<ruby><rb>上向</rb><rt>うわむき</rt></ruby>になった大きな<ruby><rb>鼻頭</rb><rt>はながしら</rt></ruby>と、出張った<ruby><rb>頬骨</rb><rt>ほおぼね</rt></ruby>とが、彼の顔に<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>の相を与えていたが、<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>が高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした<ruby><rb>厳</rb><rt>いかつ</rt></ruby>い姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。

「私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ」お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。

「むむ」小野田はただ笑っているきりであった。

「だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか」

しなくなした<ruby><rb>前垂</rb><rt>まえだれ</rt></ruby>がけの鶴さんや、<ruby><rb>蝋細工</rb><rt>ろうざいく</rt></ruby>のように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>に段々<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けられて行った。

「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」

<ruby><rb>薄野呂</rb><rt>うすのろ</rt></ruby>か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と<ruby><rb>愛着</rb><rt>あいじゃく</rt></ruby>とがお島に起って来た。

「洋服屋も好い商売だが、やっぱり<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。

「<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>とした店で、どのくらいかかるのさ」

「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>やさしい金じゃとても駄目だね」

## 六十六

芝の方で、適当な或<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。

そうなるまでに、お島は幾度<ruby><rb>生家</rb><rt>うち</rt></ruby>の方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の成功談などに<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>されると、彼女はどうでも<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>でもそれに取着かなくてはならないように心が<ruby><rb>焦</rb><rt>いら</rt></ruby>だって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで<ruby><rb>儲</rb><rt>もうけ</rt></ruby>の荒いらしいその商売が、一番自分の気分に<ruby><rb>適</rb><rt>ふさ</rt></ruby>っているように思えた。

「田町の方に、こんな家があるんですがね」

お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。

「<ruby><rb>取着</rb><rt>とりつき</rt></ruby>には持ってこいの家だがね」

持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。

「あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし」

幾度足を運んでも、母親が<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>って金を出してくれない<ruby><rb>生家</rb><rt>うち</rt></ruby>から、鶴さんと別れたとき<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>びこんで来たままになっている自分の<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>や鏡台や着物などを、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>とのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>売ってあるいた。

もと大秀の兄弟分であった大工が<ruby><rb>愛宕下</rb><rt>あたごした</rt></ruby>の方にいることを、思いだして、それに店の手入を頼んでから、郵便局に使われていた古いその家の店が、急に土間に床が<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えられたり、天井に紙が張られたり、棚が作られたりした。一畳三十銭ばかりの安畳が、どこかの古道具屋から持運ばれたりした。

雨降がつづいて、<ruby><rb>木片</rb><rt>きぎれ</rt></ruby>や<ruby><rb>鋸屑</rb><rt>おがくず</rt></ruby>の散らかった土間のじめじめしているようなその店へ、二人は移りこんで行った。

陳列棚などに思わぬ金がかかって、店が全く洋服屋の体裁を<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>えるようになるまでに、昼間お島の帯のあいだに仕舞われてある財布が、二度も三度も<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった。大工が道具箱を<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方に寄せて、帰って行ってから、お島はまたあわただしく箪笥の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から取出した着物の包をかかえて、裏から<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と出て行った。

外はもう<ruby><rb>年暮</rb><rt>としぐれ</rt></ruby>の景色であった。赤い旗や<ruby><rb>紅提灯</rb><rt>べにぢょうちん</rt></ruby>に景気をつけはじめた忙しい町のなかを、お島は込合う電車に乗って、伯母の近所の質屋の方へと心が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かれた。

## 六十七

ミシンや<ruby><rb>裁台</rb><rt>たちだい</rt></ruby>などの据えつけに、それでも<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>足りない分を、お島の顔で<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と工面ができたところで、二人の<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>り<ruby><rb>職人</rb><rt>しょくにん</rt></ruby>と小僧とを傭い入れると、直に小野田が<ruby><rb>被服廠</rb><rt>ひふくしょう</rt></ruby>の下請からもらって来た仕事に働きはじめた。

「<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>にはどんな事があってもお返しするんですがね。仕事は山ほどあって、面白いほど<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>かるんですから」

お島はそう言ってそのミシンや<ruby><rb>裁板</rb><rt>たちいた</rt></ruby>を買入れるために、小野田の差金で伯母の関係から知合いになった或る<ruby><rb>衣裳持</rb><rt>いしょうもち</rt></ruby>の女から、品物で借りて<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えることのできた<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どい金を、彼女は途中で目についた柱時計や、<ruby><rb>掛額</rb><rt>かけがく</rt></ruby>などがほしくなると、ふと手を着けたりした。

「みんな店のためです。商売の<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>になるんです」

お島は小野田に文句を言われると、<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>ぶって<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えた。

まだ自分の店に坐った経験のない小野田の目にも、そうして出来あがった店のさまが物珍しく眺められた。

「うんと働いておくれ。今にお金ができると、お前さんたちだって、私が<ruby><rb>放抛</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>っておきやしないよ」

お島はそう言って、のろのろしている職人に声をかけたが、夜おそくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこり</rt></ruby>とを感じずにはいられなかった。

<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている<ruby><rb>乱次</rb><rt>だらし</rt></ruby>のない小野田の姿が、時々お島の目についた。

「ちッ、厭になっちまうね」

お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと<ruby><rb>居睡</rb><rt>いねむり</rt></ruby>をはじめている、彼の顔を眺めて<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか」

職人がくすくす笑出した。

「そんなこって善く年季が勤まったと思うね」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>いえ」小野田は<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>がついて来ると、また手を働かしはじめた。

色々なものの支払いのたまっている、大晦日が<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に来た。品物でかりた知合の借金に<ruby><rb>店賃</rb><rt>たなちん</rt></ruby>、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。

「こんなことじゃとても<ruby><rb>追着</rb><rt>おっつ</rt></ruby>きこはありゃしない」お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。

「もっともっと稼がなくちゃ」お島はそう言って気をあせった。

## 六十八

<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>が来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。

夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けるにつれて、表通りの売出しの楽隊の<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>しが、途絶えてはまた<ruby><rb>気懈</rb><rt>けだる</rt></ruby>そうに聞えて来た。門飾の<ruby><rb>笹竹</rb><rt>ささだけ</rt></ruby>が、がさがさと<ruby><rb>憊</rb><rt>くたび</rt></ruby>れた神経に刺さるような音を立て、風の<ruby><rb>向</rb><rt>むき</rt></ruby>で時々耳に立つ遠くの町の群衆の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が、<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>でも寄せて来るように思い<ruby><rb>做</rb><rt>な</rt></ruby>された。

職人達の口に、<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの<ruby><rb>粗雑</rb><rt>がさつ</rt></ruby>な響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。

「この人到頭寝てしまったよ」

寒さ<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごろ</span>寝をしはじめていた。

「今日は<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>だと思っているのだい」

「<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんは感心に目の堅い<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>ですね」職人がそれに続いてまた口を利いた。

「私は二日や三日寝ないだって平気なもんさ」

お島は元気らしく<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えた。

晦日の夜おそく、仕上げただけの物を、小僧にも<ruby><rb>脊負</rb><rt>しょ</rt></ruby>わせ、自分にも脊負って、勘定を受取って来たところで、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と大家や外の小口を三四軒片着けたり、職人の手間賃を内金に半分ほども渡したりすると、残りは何程もなかった。

「<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>じゃこういう騒ぎなんです」

品物を借りてある女が、様子を見に来たとき、お島は<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりむ</rt></ruby>きもしないで言った。

店には仕事が<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>かり放題に散かっていた。<ruby><rb>熨斗餅</rb><rt>のしもち</rt></ruby>が<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方におかれたり、<ruby><rb>牛蒡締</rb><rt>ごぼうじめ</rt></ruby>や輪飾が<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねられてあったりした。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>の方は大口だから、今夜は勘弁してもらいましょうよ」

お島はわざと<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>にかかるような調子で言った。

小野田に嫁の世話を頼まれて、伯母がこれをと心がけていたその女は、言にくそうにして、職人の働きぶりに目を注いでいた。女は<ruby><rb>居辛</rb><rt>いづら</rt></ruby>かった田舎の嫁入先を逃げて来て、東京で間借をして暮していた。着替や<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>の物などと一緒に持っていた<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>かの金も、二三<ruby><rb>月</rb><rt>かげつ</rt></ruby>の東京見物や、月々の生活費に使ってしまってから、手が利くところから仕立物などをして、小遣を<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでいた。二三度逢ううち直にお島はこの女を古い友達のようにして了った。

「まあ<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来て年越でもなさいよ」お島は女に言った。

女は<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れたような顔をして、火鉢の傍で小野田と差向いに坐っていたが、間もなく黙って帰って行った。

「いくらお辞儀が嫌いだって、あんなこと言っちゃ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けねえ」後で小野田がはらはらしたように言出した。

「ああでも言って<ruby><rb>逐攘</rb><rt>おっぱら</rt></ruby>わなくちゃ、<ruby><rb>遣切</rb><rt>やりき</rt></ruby>れやしないじゃないか」お島は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるような声で言った。

「不人情で言うんじゃないんだよ。今に恩返しをする時もあるだろうと思うからさ」

## 六十九

同じような仕事の続いて出ていた<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ばかりは、それでもまだどうか<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>かやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>も残らないような苦しい<ruby><rb>三十日</rb><rt>みそか</rt></ruby>が、<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い借金が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えて行ったりした。

「これじゃ<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は<ruby><rb>遣切</rb><rt>やりきり</rt></ruby>のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。

近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の<ruby><rb>空瓶</rb><rt>あきびん</rt></ruby>にもう八重桜が<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も<ruby><rb>立退</rb><rt>たちのき</rt></ruby>の請求を受けた。

「洋服屋って、<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」

<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて抑えるようにして笑いかけた。

「<ruby><rb>何</rb><rt>なあ</rt></ruby>に、そうでもないよ」

小野田は顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めながら、仕事道具の<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>を枕に寝そべって、気の長そうな<ruby><rb>応答</rb><rt>うけごたえ</rt></ruby>をしていた。

お島はのろくさいその居眠姿が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような<ruby><rb>木片</rb><rt>きぎれ</rt></ruby>を取って、<ruby><rb>縮毛</rb><rt>ちぢれげ</rt></ruby>のいじいじした小野田の<ruby><rb>頭顱</rb><rt>あたま</rt></ruby>へ<ruby><rb>投</rb><rt>なげ</rt></ruby>つけないではいられなかった。

「こののろま野郎！」

お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の<ruby><rb>頬桁</rb><rt>ほおげた</rt></ruby>を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。

殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に<ruby><rb>湧返</rb><rt>わきかえ</rt></ruby>っていた。

暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって上って行った。

「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の<ruby><rb>見損</rb><rt>みそこな</rt></ruby>いです」お島は泣きながら話した。

「どうかして<ruby><rb>一人前</rb><rt>いちにんまえ</rt></ruby>の人間にしてやろうと思って、方々<ruby><rb>駈</rb><rt>かけ</rt></ruby>ずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです」

お島は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。

「どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません」

荒い<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>が、いつまで経っても<ruby><rb>遏</rb><rt>や</rt></ruby>まなかった。

## 七十

「どうなすったね」

脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あんた</rt></ruby>はよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね」

「私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで<ruby><rb>惰</rb><rt>なま</rt></ruby>けるなどと云われたことのない女です」お島は涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きながら言った。

「洋服屋というものは、大変<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>かる商売だということだけれど……二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね」女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。

「それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>ろうと思ったら、どんな事があっても<ruby><rb>遣通</rb><rt>やりとお</rt></ruby>そうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がないんです」

「そんな人とどうして一緒になったね」女はねちねちした調子で言った。

お島は「ふむ」と笑って、泣顔を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。

「でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。<ruby><rb>私等</rb><rt>わしら</rt></ruby><ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>さんと気が合わなんだで、<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>して別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ<ruby><rb>独身</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね」

「何を言っているんだ」と云うような顔をして、お島は<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>それには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて<ruby><rb>圧</rb><rt>おし</rt></ruby>つけようとしたが、どん底から<ruby><rb>衝動</rb><rt>こみあ</rt></ruby>げて来るような悲痛な<ruby><rb>念</rb><rt>おもい</rt></ruby>が、<ruby><rb>留</rb><rt>とめ</rt></ruby>どもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられて来たような自分が、<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじらし</rt></ruby>くて<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なかった。

小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっていた。

「何だ、そんな顔をして。だから<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと」

小野田はそこへ<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をくむと、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を出してふかしはじめた。

「被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>から註文取におあるきなさい」

お島は「ふむ」と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。

「そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない」

「こんな<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>で、外へなんか出られるもんか」お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。

帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり<ruby><rb>和</rb><rt>なだ</rt></ruby>められていた。そして<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>から又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>った。

「こうしてはいられない」

彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。

## 七十一

晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>に出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。

最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>にある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵<ruby><rb>詰襟</rb><rt>つめえり</rt></ruby>の労働服か、自転車乗の<ruby><rb>半窄袴</rb><rt>はんズボン</rt></ruby>ぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを<ruby><rb>証</rb><rt>あか</rt></ruby>すに十分であった。

サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに<ruby><rb>交</rb><rt>まざ</rt></ruby>って、<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>を取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>やお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。

煙突の多い王子のある会社などでは、<ruby><rb>応接室</rb><rt>おうせつま</rt></ruby>へ多勢集って来て、面白そうに彼女の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を<ruby><rb>取捲</rb><rt>とりま</rt></ruby>いたりした。

「もし好かったら、どしどし註文を出そう」

その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。

「そう一<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>に出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから」

お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら<ruby><rb>差閊</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えていることを考えずにはいられなかった。

註文が出るに従って、材料の仕込に<ruby><rb>酷</rb><rt>ひどく</rt></ruby><ruby><rb>工面</rb><rt>くめん</rt></ruby>をして<ruby><rb>追着</rb><rt>おっつ</rt></ruby>かないような手づまりが、時々<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>を逃したりした。

「ええ、<ruby><rb>可</rb><rt>よろ</rt></ruby>しゅうございますとも、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>さまではございませんから」

品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>なかった。それでまた外の<ruby><rb>顧客先</rb><rt>とくいさき</rt></ruby>へ廻って、<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>い不安な時間を紛らせていなければならなかった。

「堅い人だがね、どうしてくれなかったろう」

お島は小野田の失望したような顔を見るのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>さに、小野田がいつか手本を示したように、<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>と直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>みはじめた。

「どうせ冬まで<ruby><rb>寝</rb><rt>ねか</rt></ruby>しておくものだ」お島は心の奥底に<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みになった家へ、それを<ruby><rb>抱</rb><rt>だき</rt></ruby>こんで行った。

一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>のような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。

## 七十二

それからそれへと、段々<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて行った遠い<ruby><rb>顧客先</rb><rt>とくいさき</rt></ruby>まわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい<ruby><rb>遣繰</rb><rt>やりくり</rt></ruby>が持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。

造作を売った二百円<ruby><rb>弱</rb><rt>たらず</rt></ruby>の金が、その時小野田の手にあった。<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>した近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に<ruby><rb>取着</rb><rt>とっつ</rt></ruby>く方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、<ruby><rb>意</rb><rt>おも</rt></ruby>いのほか金が散かったり品物が<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>になったりして、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>にまた二人を見舞って来た。

荒いコートに派手な<ruby><rb>頸捲</rb><rt>えりまき</rt></ruby>をして、毎日のように朝<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから出歩いているお島が、掛先から<ruby><rb>空手</rb><rt>からて</rt></ruby>でぼんやりして帰って来るような日が、<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>も続いた。

仕事の途絶えがちな――<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>に有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>んで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。

病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の初めのような<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>さがなくなって、持って来た<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>かの金で、茶屋酒を飲んだり、女に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>がなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の小心な臆病ものの自分になり切っていた。

来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て<ruby><rb>怕</rb><rt>おそ</rt></ruby>れおののいていた。そしてどんな事があっても、一切<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ出ることなしに、家にばかり<ruby><rb>閉籠</rb><rt>とじこも</rt></ruby>っていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を<ruby><rb>萎縮</rb><rt>いしゅく</rt></ruby>させた。

今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のなかで聴いていながら、臆病な神経を<ruby><rb>戦</rb><rt>わなな</rt></ruby>かせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも<ruby><rb>繋</rb><rt>つなが</rt></ruby>っていた。

「私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね」

お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。

誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。

「お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ」飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑われた。

## 七十三

二日ばかり捜しあるいた口が、どこにも見つからなかったのに<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>した彼が、日の暮方に疲れて<ruby><rb>渡場</rb><rt>わたしば</rt></ruby>の方から帰って来たとき、家のなかは<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>らじゅう水だらけになっていた。

以前友達の物を持逃したりなどしたために、警察へ突出そうとまで憤っている男もあって、急にぐれてしまった自分の悪い<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が、そっちにも<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>にも拡がっていることを感づいたほか、何の獲物もなかった彼は、当分またお島のところに置いてもらうつもりで、寒い渡しを<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>って、町へ入って来たのであったが、お島の影はどこにも見えずに、主人の小野田が<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>を持って、水浸しになった茶の間の畳をせっせと<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いていた。

気の小さい割には、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>の厳丈づくりで、厚手に出来た<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>や鼻の大きい<ruby><rb>銅色</rb><rt>あかがねいろ</rt></ruby>の皮膚をした彼は、<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れたような顔をして、障子も<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>もびしょびしょした<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>の入口に突立っていた。

「どうしたんです、<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>の留守のまに<ruby><rb>小火</rb><rt>ぼや</rt></ruby>でも出たんですか」

「<ruby><rb>何</rb><rt>なあ</rt></ruby>に、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>だ。為様のない化物だ」小野田はそう言って笑っていた。

昨日の晩から<ruby><rb>頭顱</rb><rt>あたま</rt></ruby>が痛いといってお島はその日一日充血したような目をして寝ていた。髪が総毛立ったようになって、荒い顔の皮膚が<ruby><rb>巖骨</rb><rt>いわっころ</rt></ruby>のように<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>っていた。そして時々うんうん<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声をたてた。

米や<ruby><rb>醤油</rb><rt>したじ</rt></ruby>を<ruby><rb>時買</rb><rt>ときがい</rt></ruby>しなければならぬような日が、三日も四日も二人に続いていた。お島は朝から<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>物も食べずに、不思議に今まで助かっていた鶴さん以来の<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>臥</rb><rt>ふせ</rt></ruby>っていた。

自身に台所をしたり、買いものに出たりしていた小野田には、女手のない家か何ぞのような勝手元や家のなかの荒れ方が、腹立しく目についたが、それはそれとして、時々苦しげな<ruby><rb>呻吟</rb><rt>うめき</rt></ruby>の聞える月経時の女の<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、やっぱり不安であった。

「腰の骨が砕けて行きそうなの」

お島は傍へ寄って来る小野田の手に、<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みつくようにして、<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>く<ruby><rb>淀</rb><rt>おど</rt></ruby>み<ruby><rb>曇</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ目を見据えていた。

小野田は優しい<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をかけて、腰のあたりを<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>ってやったりした。

「私はどこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>っているのかしら、誰でも<ruby><rb>恁</rb><rt>こ</rt></ruby>うかしら」お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>しはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。

お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>そうとは想いもかけなかった。

お島は今着ているものの<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>から鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>がらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>った<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に落ちた。

兇暴なお島は、夢中で水道の<ruby><rb>護謨栓</rb><rt>ゴムせん</rt></ruby>を向けて、男の<ruby><rb>復讎</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>を防ごうとした。

## 七十四

小野田の<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>んだところを見て、外へ飛出したお島は、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ往くという目当もなしに、<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>もの町を突切って、不思議に勢いづいた機械のような足で、ぶらぶら海岸の方へと歩いて行った。

町幅のだだっ広い、単調で<ruby><rb>粗雑</rb><rt>がさつ</rt></ruby>な長い大通りは、どこを見向いても陰鬱に<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していたが、その癖寒い冬の夕暮のあわただしい物音が、<ruby><rb>荒</rb><rt>さび</rt></ruby>れた町の底に<ruby><rb>淀</rb><rt>おど</rt></ruby>んでいた。<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>みきった男女の顔が、そこここの薄暗い店屋に見られた。活気のない顔をして職工がぞろぞろ通ったり、自転車のベルが、海辺の湿っぽい空気を透して、<ruby><rb>気疎</rb><rt>けうと</rt></ruby>く耳に響いたりした。目に見えないような<ruby><rb>大道</rb><rt>だいどう</rt></ruby>の白い砂が、お島の涙にぬれた目や頬に、どうかすると痛いほど吹つけた。

お島は死場所でも捜しあるいている宿なし女のように、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をぶらぶらしていたが、時々<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>にもたれて、争闘に<ruby><rb>憊</rb><rt>つか</rt></ruby>れた体に<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>をいれながら、ぼんやり<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。寒い<ruby><rb>汐風</rb><rt>しおかぜ</rt></ruby>が、蒼い皮膚を刺すように<ruby><rb>沁透</rb><rt>しみとお</rt></ruby>った。

やがて<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い夜の色が、<ruby><rb>縹渺</rb><rt>ひょうびょう</rt></ruby>とした水のうえに<ruby><rb>這</rb><rt>はい</rt></ruby>ひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の<ruby><rb>落著</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いて来たお島は、腰の方にまた<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>疼痛</rb><rt>とうつう</rt></ruby>を感じた。

暗くなった町を通って、家へ入って行った時、店の入口で見慣れぬ<ruby><rb>老爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>の姿が、お島の目についた。

お島は一言二言口を利いているうちに、それがつい二三日前に、ふっと引込まれて行くような<ruby><rb>射倖心</rb><rt>しゃこうしん</rt></ruby>が動いて、つい買って見る気になった或<ruby><rb>賭</rb><rt>かけ</rt></ruby>ものの<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った<ruby><rb>報知</rb><rt>しらせ</rt></ruby>であることが解った。

「お上さんは気象が面白いから、きっと<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>りますぜ」

暮をどうして越そうかと、気をいらいらさせているお島に、そんな事に明い職人が<ruby><rb>説勧</rb><rt>ときすす</rt></ruby>めてくれた。秘密にそれの周旋をしている家の、近所にあることまで、彼は知っていた。

「<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だよ、私そんなものなんか買うのは……」お島はそう言って最初それを拒んだが、やっぱり誘惑されずにはいなかった。

「そんな事をいわずに、物は試しだから一口買ってごらんなさい、しかし<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>は<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けません、<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ったら一遍こきりでおよしなさい」職人は勧めた。

「何といって買うのさ」

「何だって<ruby><rb>介意</rb><rt>かま</rt></ruby>いません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか……見た夢でもあれば尚面白い」

それでお島は、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>見た竜の夢で、それを買って見ることにしたのであった。

<ruby><rb>意</rb><rt>おも</rt></ruby>いもかけない二百円ばかりの<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を、それでその爺さんが持込んで来てくれたのであった。

秘密な<ruby><rb>喜悦</rb><rt>よろこび</rt></ruby>が、恐怖に襲われているお島たちの暗い心のうえに拡がって来た。

「何だか気味がわるいようだね」

爺さんの行ったあとで、お島はその金を<ruby><rb>神棚</rb><rt>かみだな</rt></ruby>へあげて拝みながら、小野田に<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

## 七十五

燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の底から、光が差してくるような気がした。

「ふむ、こう云うこともあるんだね」お島は感激したような声を出した。

「全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね」

「お上さんの気前じゃ、<ruby><rb>地道</rb><rt>じみち</rt></ruby>なことはとても駄目かも知れませんよ」

「<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんど</rt></ruby>くさい洋服屋なんか<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めて、株でも買った方がいいかも知れないね」

「そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった」

職人は首を<ruby><rb>項垂</rb><rt>うなだ</rt></ruby>れて<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「そんな事を言ったって、今更この商売が<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。

職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。

「<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の<ruby><rb>成立</rb><rt>なりたち</rt></ruby>を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」

職人は興奮したような調子で言った。

「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」

「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に高いものを着せられて、職人はお<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>です」

「ふむ」とお島は首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げて<ruby><rb>聴惚</rb><rt>ききほ</rt></ruby>れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>者のように思えて来た。

「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は<ruby><rb>冷笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>った。

「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」

お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。

「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。

「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」

お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>で、男達はやがて<ruby><rb>飲</rb><rt>のみ</rt></ruby>はじめた。

## 七十六

そんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>がいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に景気づいて来た。

月島で幅を<ruby><rb>利</rb><rt>きか</rt></ruby>していたその請負師の家へ、お島は新調の<ruby><rb>著物</rb><rt>きもの</rt></ruby>などを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>の火鉢の側には下に使われている男が仕事を休んで、四五人集っていた。大きな縁起棚の傍には、つい三四日前の<ruby><rb>酉</rb><rt>とり</rt></ruby>の<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>で買って来た熊手などが景気よく飾られて、諸方からの附届けのお歳暮が、山のように積まれてあった。男達のなかには、お島が<ruby><rb>見知</rb><rt>みしり</rt></ruby>の顔も見受けられた。

「お上さんは莫迦に鉄火な女だっていうから、<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を一つ<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えてもらおうと思うんだが……」

金歯や指環などをぴかぴかさせて、糸織の<ruby><rb>褞袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>に<ruby><rb>着脹</rb><rt>きぶく</rt></ruby>れている、五十年輩のその親方は、そう言いながら、サンプルを見はじめた。<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>ぎすな三十七八の小意気な女が、軟かものを引張って、傍に坐っていた。

「工合がよければ、またちょいちょい好いお客をおれが周旋するよ」

親分は無造作に註文を決めて了うと、そう言って莨をふかしていた。今まで受けたこともないような<ruby><rb>河獺</rb><rt>かわおそ</rt></ruby>の<ruby><rb>衿</rb><rt>えり</rt></ruby>つき外套や、<ruby><rb>臘虎</rb><rt>らっこ</rt></ruby>のチョッキなどに、お島は<ruby><rb>当素法</rb><rt>あてずっぽう</rt></ruby>な見積を立てて目の飛出るほどの法外な高値を、何の苦もなく吹きかけたのであった。

「これを一つあなたのような方に召していただいて、是非皆さんに御吹聴して頂きたいのでございます。どういたしましても、親方のようなお顔の売れた方の御<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にあずかりませんと、<ruby><rb>私共</rb><rt>わたくしども</rt></ruby>の商売は成立って行きませんのでございます」

男達はみんなお島の<ruby><rb>弁</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>る顔を見て、面白そうに笑っていた。

「お上さんの家では、お上さんが大層な働きもので、お亭主はぶらぶら遊んでいるというじゃないか」男たちはお島に話しかけた。

「<ruby><rb>衆</rb><rt>みな</rt></ruby>さんがそう言って下さいます」お島は赤い顔をして、サンプルを仕舞っていた。

「たまに宅へお見えになるお客がございましても、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>がいないと御註文がないと云う始末でございますから。あれじゃお前が一人で切廻す訳だと、お客さまが<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃって下さいます」

お島はそう言って、この商売をはじめた自分の<ruby><rb>行立</rb><rt>ゆきたて</rt></ruby>を話して、<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>を面白がらせながら、二時間も話しこんでいた。

「あの辺でおきき下さいませば、もう<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>でも御存じでございます。<ruby><rb>滝庄</rb><rt>たきしょう</rt></ruby>という親分が、以前私の父の兄で、顔を売っていたものですから、ああ云う社会の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>が、あの辺ではちょいちょい私のお得意さまでございます」

帰りがけにお島は、自分のそうした身のうえまで話した。

## 七十七

そんなような仕事が、少しばかり続くあいだ、例の金で<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>のできたお島は、暮のせわしいなかを、昼間は<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>まわりをして、夜になると<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く小野田と一緒に浮々した気分で、年の市などに景気づいた町を出歩いたり、友達のようになった顧客先の細君連と、芝居へ入ったり浅草辺をぶらついたりして調子づいていたが、それもまたぱったり火の消えたように<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>になって、<ruby><rb>肆</rb><rt>ほしいま</rt></ruby>まに浪費した金の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>も目にみえずに、物足りないような寂しい日が毎日々々続いた。

<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>りだけの仕事をすると、職人は夫婦の外を出歩いているあいだ、この頃ふとした事から思いついた<ruby><rb>翫具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>の工夫に<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を浸して、飯を食うのも忘れているような事が多かった。

仕事の断え間になると、彼は昼間でも一心になってそれに耽っていた。時とすると<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>夫婦が寝しずまってからも、彼はこつこつ何かやっていた。

「この人は何をしているの」

<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方へ入って、ボール紙を切刻んだり、穴を明けたり、絵具をさしたりして、夢中になっている彼の傍へ来て、お島は<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>そうに<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「こう云う<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしているんです」

彼は<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>く切ったその紙片を、<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>なりに筋をひいて紙のうえに<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>べていながら、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりむ</rt></ruby>きもしないで応えた。

「何だねその切符のようなものは……」

「これですか」木村はやっぱりその方に気を<ruby><rb>褫</rb><rt>と</rt></ruby>られていた。

「これは軍艦ですよ」

「軍艦をどうするの」

「これでもって海軍将棋を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えようというんです」

「海軍将棋だって？　へえ。そしてそれを<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>にするの」

「高尚な翫具を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えて、一儲けしようってんですがね……この<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>いのが<ruby><rb>水雷艇</rb><rt>すいらいてい</rt></ruby>です」

「へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね」

「まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>を貸しますよ。どうせ<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>は金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らない男ですからね」

「はは」と、お島は笑いだした。

「<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>かったね」

「こればかりじゃないんです」職人はこの頃夜もろくろく眠らずに凝り考えた、色々の考案が<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>のなかに渦のように描かれていた。新しい仕事の興味が、彼の小さい心臓をわくわくさせていた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>ゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>も考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>ありますよ」

「じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>くもないね」

「笑談言っちゃ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けませんよ」

「まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね」

## 七十八

お島たちが、<ruby><rb>寄</rb><rt>より</rt></ruby>つく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いＮ――と云う<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>繁華な都会から帰ってからであった。

一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>ついている知人を頼って、<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>へ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。

二人が月島の店を引払った頃には、<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、<ruby><rb>孰</rb><rt>どれ</rt></ruby>もこれも持腐れになってしまったのに<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>して、又渡り職人の仲間へ<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて行っていた。

南の方の海に程近いＮ――市では二人は少しばかり持っている<ruby><rb>著替</rb><rt>きがえ</rt></ruby>などの入った貧しい<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>を、小野田の妹の家で<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>くことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。

主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>って、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな父親の生活が、自分にすら<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしく思えた。

逢いさえすれば、路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。

八九年前に、<ruby><rb>効性</rb><rt>かいしょ</rt></ruby>ものの妻に<ruby><rb>死訣</rb><rt>しにわか</rt></ruby>れてから、酒飲みの父親は日に日に生活が<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んで行った。妻の働いているうちは、どうか<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>か<ruby><rb>持堪</rb><rt>もちこた</rt></ruby>えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>に取られて、彼は<ruby><rb>細</rb><rt>ささや</rt></ruby>かな小屋のなかに、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて生きていた。

到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて<ruby><rb>土弄</rb><rt>つちいじ</rt></ruby>りをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>の念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。

## 七十九

それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が<ruby><rb>本意</rb><rt>ほい</rt></ruby>ながるのも<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かずに、その日のうちにＮ――市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>されていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいような<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>を感じた。

<ruby><rb>空濶</rb><rt>くうかつ</rt></ruby>な平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、<ruby><rb>所々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>に見えた。<ruby><rb>砂埃</rb><rt>すなぼこり</rt></ruby>の立つ白い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を、二人は<ruby><rb>鈍</rb><rt>のろ</rt></ruby>い<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗って帰って来たが、父親が<ruby><rb>侑</rb><rt>すす</rt></ruby>めてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の<ruby><rb>坊主頸</rb><rt>ぼうずえり</rt></ruby>をした大きい<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が、お島の目には<ruby><rb>惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>らしく滑稽にみえた。

この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は<ruby><rb>鈍</rb><rt>のろ</rt></ruby>くさくて<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>のなかった寂しい町の<ruby><rb>状</rb><rt>さま</rt></ruby>が、可也<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た<ruby><rb>構</rb><rt>かまえ</rt></ruby>の料理屋なども、物珍しく<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>められた。妹の<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にもあった。

小野田の話によると、父親の財産として、<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、<ruby><rb>多少</rb><rt>いくらか</rt></ruby>の金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を取って、父親を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせてやらなければならないのである。

「そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか」

お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の<ruby><rb>補助</rb><rt>たすけ</rt></ruby>にしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>などが<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く見えた。<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>には若葉が日に日に<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>って、遠い<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>からは、<ruby><rb>喧</rb><rt>かまびす</rt></ruby>しい<ruby><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>の声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>くんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>に想われはじめていた。

「<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ」そう言って拒むお島の空想家じみた<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>には、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>をつける<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の洋行か何ぞのように思われていた。

## 八十

<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>をも散々<ruby><rb>遣散</rb><rt>やりちら</rt></ruby>してＮ――市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>けたもののほか何一つすら著いていなかった。

鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いＮ――市では、どこでも<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>がられて相手にされなかった。<ruby><rb>一月二月</rb><rt>ひとつきふたつき</rt></ruby>小野田の住込んでいた<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>では、毎日のように<ruby><rb>入浸</rb><rt>いりびた</rt></ruby>っていたお島は、平和の<ruby><rb>攪乱者</rb><rt>こうらんしゃ</rt></ruby>か何ぞのように<ruby><rb>忌嫌</rb><rt>いみきら</rt></ruby>われ、不謹慎な口の利き方や、<ruby><rb>遣</rb><rt>やり</rt></ruby>っぱなしな日常生活の<ruby><rb>不検束</rb><rt>ふしだら</rt></ruby>さが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>のものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの<ruby><rb>貸借</rb><rt>かしかり</rt></ruby>にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。

「そんなに<ruby><rb>吝々</rb><rt>けちけち</rt></ruby>しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」

それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>であった。

小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、<ruby><rb>辛々</rb><rt>からがら</rt></ruby>そこを立ったのであった。

一日込合う暑い客車の<ruby><rb>瘟気</rb><rt>うんき</rt></ruby>に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。

「どこへ行ったものだろうね」

青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみが</rt></ruby>えったとき、お島はそこに<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいる小野田を促した。

<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の<ruby><rb>遣</rb><rt>やり</rt></ruby>っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。

## 八十一

不安な一夜を、芝口の或<ruby><rb>安旅籠</rb><rt>やすはたご</rt></ruby>に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いていた。

最後に本郷の方を一二軒<ruby><rb>猟</rb><rt>あさ</rt></ruby>って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、<ruby><rb>湯島</rb><rt>ゆしま</rt></ruby>天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていた。二人は<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>け疲れた二人の顔に心持よく<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いだ。

水のような蒼い夜の色が、段々<ruby><rb>木立際</rb><rt>こだちぎわ</rt></ruby>に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を<ruby><rb>攀登</rb><rt>よじのぼ</rt></ruby>って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の<ruby><rb>天刑病</rb><rt>てんけいびょう</rt></ruby>らしい<ruby><rb>躄</rb><rt>いざり</rt></ruby>の乞食が目についたりした。

石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>の上へあがった<ruby><rb>泥亀</rb><rt>どろがめ</rt></ruby>のように、臆病らしく<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の暗闇の方へいざり寄って行った。

「ちょっと御覧なさいよ」お島は小野田に声かけて<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりむ</rt></ruby>いた。

今まで莨を<ruby><rb>喫</rb><rt>す</rt></ruby>っていた小野田は、ベンチの<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>かけに<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかっていつか眠っていた。

「この人は、為様がないじゃないの」お島は<ruby><rb>跳</rb><rt>はね</rt></ruby>あがるような声を出した。

「行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない」お島は<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えあがるようにして小野田を<ruby><rb>急立</rb><rt>せきた</rt></ruby>てた。

二人は痛い足を<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>って、またそこを動きだした。

「何でもいいから芝へ行きましょう。<ruby><rb>恁</rb><rt>こ</rt></ruby>うなれば見えも外聞もありゃしない」お島はそう言って<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>み<ruby><rb>憊</rb><rt>くたび</rt></ruby>れた男を引立てた。

<ruby><rb>食物</rb><rt>たべもの</rt></ruby>といっては、昼から<ruby><rb>幾</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど何をも取らない二人は、口も利けないほど<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>え疲れていた。

川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。

## 八十二

長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか<ruby><rb>潔</rb><rt>きよ</rt></ruby>く受納れてくれた川西は、<ruby><rb>被服廠</rb><rt>ひふくしょう</rt></ruby>の仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。

そこへ入って行ったお島は、久しい前から、<ruby><rb>世帯崩</rb><rt>しょたいくず</rt></ruby>しの<ruby><rb>年増女</rb><rt>としまおんな</rt></ruby>を勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>るような家事向の用事に、器用ではないが、しかし<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>な働き振を見せていた。

<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>にいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けた、色の浅黒い無智な顔をした<ruby><rb>小躯</rb><rt>こがら</rt></ruby>の女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお<ruby><rb>化粧</rb><rt>つくり</rt></ruby>をして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。

始終<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>に就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>を離れて、人の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>口喧</rb><rt>くちやかま</rt></ruby>しい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>かれていた。

お島は女が二階から降りて来ぬ間に、<ruby><rb>手捷</rb><rt>てばし</rt></ruby>こくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、<ruby><rb>寝恍</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>けた様な<ruby><rb>締</rb><rt>しまり</rt></ruby>のない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>を離れて、奥の工場で彼女の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>などをしながら、仕事に就いていた。

彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い<ruby><rb>灑</rb><rt>すす</rt></ruby>ぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。

「どうも済みませんね」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばけつ</span>をがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>そうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>を<ruby><rb>銀杏返</rb><rt>いちょうがえ</rt></ruby>しに結って、<ruby><rb>中形</rb><rt>ちゅうがた</rt></ruby>のくしゃくしゃになった<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>に、<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>仕扱</rb><rt>しごき</rt></ruby>を締めた姿が、細そりしていた。<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>にこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>らしく見えた。

「どういたしまして」

お島は無造作に懸つらねた干物の間を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りぬけながら、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で汗ばんだ顔を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いていた。

「私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ」

「そう」

女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い<ruby><rb>目色</rb><rt>めつき</rt></ruby>をしながら呟いた。

「私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ」

「そうですかね」お島は白々しいような返辞をして、「でも<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>がそう言っていますよ」

女は紅くなって、厭な顔をした。

「そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ」

## 八十三

「どうです、今日は素敵に<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いお<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>を世話してもらいましたよ」

半日でも一日でも、外へ出て来ないと気のすまないようなお島は、職人たちの手がしばらく<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>きかかったところで、その日も<ruby><rb>幾日振</rb><rt>いくかぶり</rt></ruby>かで昼からサンプルをさげて出て行ったが、晩方に帰って来ると、お秀と一緒に店の方にいる川西にそう言って声かけた。

「為様がないね、私がなまけると直ぐこれだもの」お島は出てゆく時も、これと云う目星しい仕事もない工場の様子を見ながら言っていたが、出れば必ず何かしら註文を受けて来るのであった。中には自分の懇意にしている人のを、安く受けて来たのだと云って、小野田との相談で、店のものにはせず、自分たちだけの<ruby><rb>儲仕事</rb><rt>もうけしごと</rt></ruby>にするものも時にはあった。そんなものを、小野田は店の仕事の<ruby><rb>手隙</rb><rt>てすき</rt></ruby>に縫うことにしていたが、川西はそれを余り<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばないのであった。

「ほんとに好い腕だが、惜しいもんだね」

川西は、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>にいた小僧を、京橋の方へ自転車で<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>に出してから、註文先の話をしてお島に言った。彼はもう四十四五の年頃で、仕入ものや請負もので、店を大きくして来たのであったが、お島たちが入って来てから、上物の註文がぼつぼつ入るようになっていた。

川西は晩酌をやった後で、酒くさい息をふいていた。工場では<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な夕方から遊びに出て行って、誰もいなかった。

「そんな腕を持っていながら、名古屋くんだりまで苦労をしに行くなんて、<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby><ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いよ」

川西は、傍に<ruby><rb>附絡</rb><rt>つきまと</rt></ruby>っているお秀をも、湯へ出してやってから、時々口にすることをその時もお島に言出した。

「ですから私も<ruby><rb>熟々</rb><rt>つくづく</rt></ruby>厭になって了ったんです。あの時<ruby><rb>疾</rb><rt>とっく</rt></ruby>に別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね」

「小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩<ruby><rb>独立</rb><rt>ひとりだち</rt></ruby>になるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず<ruby><rb>難</rb><rt>むずか</rt></ruby>しいね」

「そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの」

「どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぐ気はないかね」

川西はにやにやしながら言った。

「御笑談でしょう」お島は<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>になって、「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>にはお秀さんという人がいるじゃありませんか」

「あんなものを……」川西はげたげた笑いだした。「どこの馬の骨だか解りもしねえものを、誰が上さんなぞにする奴があるもんか」

「でも好い人じゃありませんか。可愛がっておあげなさいまし。私みたような<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>ものはとても駄目です」

お島はそう言って、<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>を通って工場の方へ入って行くと、汗ばんだ着物の着替に取りかかった。蒸暑い工場のなかは綺麗に片着いて、電気がかっかと照っていた。

## 八十四

九時頃に小野田が外から帰って来たとき、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かされたお島の心は、まだ全く<ruby><rb>鎮</rb><rt>しずま</rt></ruby>らずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが<ruby><rb>可恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しく腹立しかった。

「へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう」

お島は<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>附絡</rb><rt>つきまと</rt></ruby>って来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に、<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とするような体を縮めながらそう言って拒んだ。

<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の延びた長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の、目の<ruby><rb>落窪</rb><rt>おちくぼ</rt></ruby>んだ川西の顔が、お島の目には<ruby><rb>狂気</rb><rt>きちがい</rt></ruby>じみて見えた。

「<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>しちゃ大変です」お島は片意地らしく<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく<ruby><rb>払退</rb><rt>はらいの</rt></ruby>けた。

<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい争闘がしばらく続いた。

<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>としおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は<ruby><rb>腕節</rb><rt>うでぶし</rt></ruby>の痛みをおさえながら、<ruby><rb>勝矜</rb><rt>かちほこ</rt></ruby>ったものの荒い不安を感じた。

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>に<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。

「ぽんつくだな」お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、<ruby><rb>妄</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。

「小野田が帰ったら、今の始末を残らず<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けよう。そして今からでも二人でここを出てやろう」

お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>が、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。

その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。

「店が<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」

小野田は言出した。

「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>たちが自分の仕事をするので、それも気に<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>んらしい」

「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で<ruby><rb>冷笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>った。

「出ましょう出ましょう。言われなくたって、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>から出ようと思っていたところだ」

## 八十五

翌日朝<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから、お島はぐずぐずしている小野田を<ruby><rb>急立</rb><rt>せきた</rt></ruby>てて家を捜しに出た。

「また何かお前が大将の気に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>ることでも言ったんじゃないか」

小野田は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>も自分たちの<ruby><rb>寝室</rb><rt>ねま</rt></ruby>にしている<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>で、二人きりになった時、そう言ってお島を<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>ったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。

「私があの人に何を言うもんですか」お島は顔をしかめて<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>そうに<ruby><rb>応答</rb><rt>うけごたえ</rt></ruby>をしていたが、出る先へ立って、<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い話をして聞かす気にもなれなかった。

「それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか」

「でも何か言ったろう」

「<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いよ」お島は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をぴりぴりさせて、「お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ」

「だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ」

「ふむ。私よりかお前さんの方が、<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>間抜なんだ。だから川西なんかに<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にされるんです。もっとしっかりするが<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いんだ」

それで二人は半日ほど捜しあるいて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と見つけた<ruby><rb>愛宕</rb><rt>あたご</rt></ruby>の方の或る印判屋の奥の三畳<ruby><rb>一室</rb><rt>ひとま</rt></ruby>を借りることに取決め、持合せていた<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの金で、そこへ引移ったのであった。

そこは<ruby><rb>見附</rb><rt>みつき</rt></ruby>の好い<ruby><rb>小綺麗</rb><rt>こぎれい</rt></ruby>な店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばかり月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して――多少<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>の色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。

「どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ」

人に対する反抗と<ruby><rb>敵愾心</rb><rt>てきがいしん</rt></ruby>のために絶えず弾力づけられていなければ<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>られないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり<ruby><rb>勝矜</rb><rt>かちほこ</rt></ruby>ったように言った。

部屋にはもう電燈がついて、その晩の<ruby><rb>食物</rb><rt>たべもの</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、<ruby><rb>狎々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しい口を利くような<ruby><rb>間</rb><rt>なか</rt></ruby>になっていた。

「それでミシンはどうしたんです」

「それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ」

「ふむ、悪い奴だね」お島は首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。「<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちきしょう</rt></ruby>、私を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでいるんだ。だがミシンがなくちゃ<ruby><rb>為様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がないね」

飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>届いたとき、二人は<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と仕事に就くことができた。

## 八十六

住居の手狭なここへ引移ってから、初めて<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。

川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、<ruby><rb>涼気</rb><rt>すずけ</rt></ruby>の立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な<ruby><rb>人寄場</rb><rt>ひとよせば</rt></ruby>などへ入って行った。

行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、<ruby><rb>棄値</rb><rt>すてね</rt></ruby>で売ったり又は<ruby><rb>著崩</rb><rt>きくず</rt></ruby>したりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。

「己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか」

着ものなどに<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>しない小野田は、お島の帰りでもおそいと、時々近所のビーヤホールなどへ入って、蓄音機を聴きながら、そこの女たちを相手に酒を飲んでいては、お島に喰ってかかられたりしたが、やっぱり自分の立てた成算を<ruby><rb>打壊</rb><rt>ぶちこわ</rt></ruby>されながら、その時々の気分を欺かれて行くようなことが多かった。

「あの<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんの産んだ子だと思うと、厭になってしまう。東京へでも出ていなかったら、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あんた</rt></ruby>もやっぱりあんなでしょうか」

お島はにやにやしている小野田の顔を眺めながら笑った。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>言え」小野田はその頃延しはじめた濃い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を引張っていた。

「だからビーヤホールの女なぞにふざけていないで、少しきちんとして立派にして下さいよ。あんなものを相手にする人、私は大嫌い、<ruby><rb>人品</rb><rt>じんぴん</rt></ruby>が下りますよ」

お島はどうかすると、父親の<ruby><rb>面差</rb><rt>おもざし</rt></ruby>の、どこかに想像できるような小野田の或卑しげな表情を、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて<ruby><rb>排退</rb><rt>はねの</rt></ruby>けるようにして言った。小野田が物を食べる時の様子や、笑うときの<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおつき</rt></ruby>などが、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にそうであった。

「子が親に似るのに不思議はないじゃないか。己は<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>の子じゃないからな」

小野田は心から厭そうにお島にそれを言出されると、苦笑しながら<ruby><rb>慍然</rb><rt>むっ</rt></ruby>として言った。

「間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに<ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>ない方が<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いんですよ」

「ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ」

小野田は<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に怒りだした。

「お前さんはそれでも感心だよ。あんな親でも大事にする気があるから。私なら親とも思やしない」

## 八十七

そんな気持の<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて来たお島には、自分一人がどんなに<ruby><rb>焦燥</rb><rt>やきもき</rt></ruby>しても、出世する運が全く小野田にはないようにさえ考えられてきた。彼の顔が<ruby><rb>無下</rb><rt>むげ</rt></ruby>に卑しく貧相に見えだして来た。ビーヤホールの女などと、面白そうにふざけていることの出来る男の品性が、<ruby><rb>陋</rb><rt>さも</rt></ruby>しく<ruby><rb>浅猿</rb><rt>あさま</rt></ruby>しいもののように思えた。

「己はまた親の<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>なぞ云う女は大嫌いだ」

顔色を変えて、お島の側を離れると、小野田は黙って仕事に取りかかろうとして、電気を引張って行ってミシンを踏みはじめた。

そのミシンは、支払うべき金がなかったために、お島が機転を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かして、機械の工合がわるいと言って、新しく取替えたばかりの<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>であった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。

「こんな<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります」

お島はその時もそう言って、自分の気働きを<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>ったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。

がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は<ruby><rb>裁板</rb><rt>たちいた</rt></ruby>の前に坐って、縫目を<ruby><rb>熨</rb><rt>の</rt></ruby>すためにアイロンを使いはじめた。

「ふむ、莫迦だね」

お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか<ruby><rb>優</rb><rt>まし</rt></ruby>だろう」

「生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり<ruby><rb>土弄</rb><rt>つちいじ</rt></ruby>りをして暮しているじゃないか」

「ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない」

「お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても<ruby><rb>得</rb><rt>とく</rt></ruby>は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、<ruby><rb>逈</rb><rt>はるか</rt></ruby>に<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>なんだ」

小野田はいつもお島に勧めているようなことを、また言出した。

「意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>だからね」

「だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ」

仕事が一と片着け片着く時分に、二人はまたこんな相談に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りはじめた。

## 八十八

<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>へ行くつもりで、Ｎ――市へ立つ前に、一度<ruby><rb>顔出</rb><rt>かおだし</rt></ruby>したことのある自分の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい<ruby><rb>両親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>の<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を取りに行ったりしていた。

「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」

最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり<ruby><rb>植</rb><rt>うわ</rt></ruby>っている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。

雑木の<ruby><rb>生茂</rb><rt>おいしげ</rt></ruby>っているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>や荒れた畑地もあった。<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>には新しい<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>が二三軒建っていた。

「ふむ」小野田は驚異の目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って、その木立のなかへ入って行った。夏草の生茂った木立の奥は、地面がじめじめしていて、日の光のとどかぬような所もあった。

「この辺の地所は坪どのくらいのものだろう」

小野田はそこを出てお島の傍へ来ると、打算的の目を<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>かして<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「どの位だかね。今じゃ十円もするでしょうよ」

お島は<ruby><rb>怳</rb><rt>とぼ</rt></ruby>けたような顔で<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えたが、この地面が自分の<ruby><rb>有</rb><rt>もの</rt></ruby>になろうとは思えなかった。

<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>では二三年のあいだ家を離れて、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>こっち放浪して歩いていた兄が、<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>に<ruby><rb>死訣</rb><rt>しにわか</rt></ruby>れて、最近にいた千葉の方から帰って来ていた。一時<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>へ還っていた嫁も、その子供をつれて、久振で<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>と一緒に暮していた。兄は一時悪い病に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>ってから、めっきり健康が衰え、お島と山で世帯を持っていた頃の元気もなくなっていた。お島はあの頃の山の生活と、二三度そこで<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>った兄の<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>の身のうえなどを想い出させられた。悪い病気にかかったというその情婦は、どこへ行っても兄に<ruby><rb>附絡</rb><rt>つきまと</rt></ruby>われていて、好いこともなくて旅で死んでしまった。その時は、何の気もなしに傍観していた二人の<ruby><rb>情交</rb><rt>なか</rt></ruby>や心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかが<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かられた。

「あの時は、兄さんはほんとに私をひどい目に逢わしたね」

お島は長いあいだの経過を考えて、何の温かみも感ずることのできない<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいま</rt></ruby>まな兄との接触に、失望したように言出した。

兄はその頃のことは想い出しもしないような顔をしていた。お島たちの寄ついて来ることを、余り悦んでもいないらしかった。

「あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね」

「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」

小野田は、お島の<ruby><rb>投遣</rb><rt>なげやり</rt></ruby>なのを<ruby><rb>牾</rb><rt>もどか</rt></ruby>しそうに言った。

「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」

「それもお前が下手だからだよ」

小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。

## 八十九

小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>と<ruby><rb>高声</rb><rt>たかごえ</rt></ruby>で話したりしていた。

「家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>家を出たり入ったりしたか知れやしません」

母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って<ruby><rb>聴</rb><rt>きか</rt></ruby>せていたが、彼女の目には、これまでお島が<ruby><rb>干係</rb><rt>かんけい</rt></ruby>した男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>などに威のある彼のがっしりした<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>は、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は<ruby><rb>切</rb><rt>きり</rt></ruby>たての<ruby><rb>脊広</rb><rt>せびろ</rt></ruby>などを着込んで、のっしりした態度を示していた。

お島は自分の<ruby><rb>性得</rb><rt>しょうとく</rt></ruby>から、Ｎ――市へ立つ前に、この男のことをその田舎では<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>で、母親に口を利いていた。

「この人の家は、それは大したもんです」

お島は母親を威圧するように、今日も<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。

「いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので」

母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。

お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の<ruby><rb>狡黠</rb><rt>わるごす</rt></ruby>い態度も<ruby><rb>蔑視</rb><rt>さげす</rt></ruby>まれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。

嫂は、この四五年の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の<ruby><rb>放蕩</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>で、所有の土地もそっちこっち抵当に入っていることなどを、蔭でお島に話して聴せた。

「御父さんが、あすこの地面を私にくれるなんて言っていましたっけがね、あれはどうする気でしょうね」

お島は嫂の<ruby><rb>口占</rb><rt>くちうら</rt></ruby>を引いてでも見るように、そう言ってみた。

「へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ」

「男だけには、それぞれ<ruby><rb>所有</rb><rt>もち</rt></ruby>を決めてあるという話ですけれどね」

お島はこの場合それだけのものがあれば、<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の店が持てることを考えると、いつにない慾心の動くのを感じずにはいられなかったが、家を出て山へ行ってから、父親の心が、年々自分に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>くなっていることは争われなかった。

「行きましょうよ」

お島はまだ母親の傍にいる男を<ruby><rb>急</rb><rt>せき</rt></ruby>たてて、やっと外へ出た。

## 九十

狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの<ruby><rb>孰</rb><rt>いず</rt></ruby>れかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。

「へえ、そんなもんですかね」

若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い<ruby><rb>異</rb><rt>あやし</rt></ruby>まずにはいられなかった。

「じゃ、私が<ruby><rb>不具</rb><rt>かたわ</rt></ruby>なんでしょうかね」

お島はどうかすると、男の<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね」

お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を感じた。

「<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>は、私はあの人が初めじゃないんですよ」

「それじゃ旦那が悪いんでしょうよ」

「でも、あの人はまた私が<ruby><rb>不可</rb><rt>いけな</rt></ruby>いんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど……<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>に<ruby><rb>気毒</rb><rt>きのどく</rt></ruby>だと思っていたんです」

「そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい」

上さんは、<ruby><rb>真実</rb><rt>まったく</rt></ruby>それが<ruby><rb>満</rb><rt>つま</rt></ruby>らない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。

「まさか……<ruby><rb>極</rb><rt>きまり</rt></ruby>がわりいじゃありませんか」

お島は<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>まで紅くなった。若い男などを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている<ruby><rb>猥</rb><rt>みだら</rt></ruby>な年取った女のずうずうしさを、<ruby><rb>蔑視</rb><rt>さげす</rt></ruby>まずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。

朝になっても、体中が<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>れふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く<ruby><rb>浅猿</rb><rt>あさま</rt></ruby>しく思った。

「こんな事をしちゃいられない」

お島は註文を聞きに廻るべき<ruby><rb>顧客先</rb><rt>とくいさき</rt></ruby>のあることに気づくと、寝床を<ruby><rb>跳</rb><rt>はね</rt></ruby>おきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、<ruby><rb>夢幻</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>のような目を<ruby><rb>目眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい日光に<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>っていた。

「それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか」

上さんは、<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>らしく<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>の周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。

「そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう」

「莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>じゃありませんよ」

お島は腹立しそうに言った。

## 九十一

五六箇月の間に、そこの<ruby><rb>仮店</rb><rt>かりみせ</rt></ruby>で夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>しなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。

生理的の<ruby><rb>不権衡</rb><rt>ふけんこう</rt></ruby>から来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみが</rt></ruby>えって来るのを感じた。

「成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい」

そんな秘密の願が、<ruby><rb>気忙</rb><rt>きぜわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>まわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>ておこうといったことのある、その男への<ruby><rb>復讐心</rb><rt>ふくしゅうしん</rt></ruby>から来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と歓楽とに<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。

一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、<ruby><rb>紛紜</rb><rt>いざこざ</rt></ruby>の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから<ruby><rb>洩聞</rb><rt>もれき</rt></ruby>いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。

それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>っていないまでも、どこかに自分が<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え<ruby><rb>渇</rb><rt>かつ</rt></ruby>えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>と不満とが、<ruby><rb>沁出</rb><rt>しみだ</rt></ruby>さずにはいなかった。

お島はそれからそれへと、<ruby><rb>夤縁</rb><rt>つて</rt></ruby>を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、<ruby><rb>動</rb><rt>と</rt></ruby>もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。

「お前さんは<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に好かんよ」

肉体の苦痛を<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>え忍ばされたあとでは、そうした男に対する<ruby><rb>反撥心</rb><rt>はんぱつしん</rt></ruby>が、彼女の体中に<ruby><rb>湧</rb><rt>わき</rt></ruby>かえって来た。

根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。

「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」

お島はそう言って、熱心に頼んだ。

「<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」

上さんはお島の言うことが、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て虚構であるとしか思えなかった。

## 九十二

そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>いで、土地が大した盛場になっていた為であった。

その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよめき</rt></ruby>が、ここへも<ruby><rb>遽</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しい賑かしさを漂わしていた。

陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した<ruby><rb>懇</rb><rt>ねんご</rt></ruby>ろな手紙に<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>われて、田舎で毎日野良仕事に<ruby><rb>憊</rb><rt>くたび</rt></ruby>れている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。

この店を張るについての、二人の苦しい<ruby><rb>遣繰</rb><rt>やりくり</rt></ruby>を少しも知らない父親は、来るとすぐ<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>を、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるような満足であった。

上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>のように四方から集ってくる群衆のうえに、<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>らしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。

お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>の<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って、父親の立寄って行くところへは、どんな<ruby><rb>満</rb><rt>つま</rt></ruby>らないものでも、小野田も嬉しそうに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行って見せたり、説明したりした。

「それどころじゃないんですよ。私たちはそう毎日々々親の機嫌を取っているほど、気楽な身分じゃないんですからね」

晩方になると、きっとお仕着せを飲ませることに<ruby><rb>決</rb><rt>きま</rt></ruby>っている父親への、酒の支度を<ruby><rb>疎</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かにしたといって、小野田がその時も大病人のように二階に寝ていたお島に小言をいった。彼女は筋張った<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>のところを押えながら、小野田を<ruby><rb>遣返</rb><rt>やりかえ</rt></ruby>した。

お島はいつもそれが起ると、<ruby><rb>生死</rb><rt>いきしに</rt></ruby>の境にでもあるような苦しみをする月経時の<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>さと痛さとに<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えていた。

「それに私はこの体です。とてもお父さんの面倒はみられませんよ」

## 九十三

「そんな事を言ってもいいのか」

そう言って<ruby><rb>極</rb><rt>きめ</rt></ruby>つけそうな目をして、小野田は<ruby><rb>疳癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>が募って来るとき、いつもするように<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>の毛根を引張っていたが、調子づいて父親を<ruby><rb>欵待</rb><rt>もてな</rt></ruby>していた彼女に寝込まれたことが、自分にも物足りなかった。

お島は<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>そうに顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めていたが、小野田が<ruby><rb>悄々</rb><rt>すごすご</rt></ruby>降りていったあとでも、<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>つき<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>の苦しさと、自分の心持については、何も知ってくれないような父親の<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>が腹立しかった。自分にどんな腕と気前とがあるかを見せようとでもするように、紛らされていた利己的な思念が、心の底からむくれ出して来るように感じて、我儘な涙が湧立って来た。

お島がじっと寝てもいられないような気がして、下へ降りて行ったとき、父親はもう酒をはじめていた。小野田も興がなさそうに傍に坐っていた。

「どうもすみません」

お島は何もない<ruby><rb>餉台</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>の前に坐っている父親の傍へ来て、やっぱり顔を顰めていた。

「私はこの病気が起ると、もうどうすることも出来ないんです。それに家も、これから夏は<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>ですから、お<ruby><rb>欵待</rb><rt>もてな</rt></ruby>しをしようと思っても、そうそうは<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>きれないんです」

「そうともそうとも、それどこじゃない。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は一時のお客に来たものでないから」

父親はいつまでも倅夫婦の傍で暮そうとしている自分の心持を、その時も口から<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>したが、お島が<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>って<ruby><rb>燗</rb><rt>つ</rt></ruby>ける酒に満足していられないような、強い渇望がその本来の飲慾を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>って来ると、父親はふらふらと外へ出て、この頃<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みになった近所の居酒屋へ入っていくのが、習慣になった。そして家でおとなしく飲んでいられないような野性的な彼の卑しい飲み癖が、一層お島を<ruby><rb>顰蹙</rb><rt>ひんしゅく</rt></ruby>させた。

## 九十四

山で知合になった人達が、四五人誘いあわせて出て来てから、父親は一層お島たちのために邪魔もの扱いにされた。

連中のうちには、その頃呼吸器の疾患のため、遊覧<ruby><rb>旁</rb><rt>かたがた</rt></ruby>博士連の診察を受けに来た浜屋の主人もあった。山の温泉宿や、精米所の主人もいた。精米所の主人は、月に一度くらいは<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby><ruby><rb>蠣殻町</rb><rt>かきがらちょう</rt></ruby>の方へ出て来るのであったが、その時は上さんと子供をつれて来ていた。

その通知の葉書を受取ったお島は、大きな菓子折などを小僧に持たせて、紋附の夏羽織を着込んで、<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>姿で挨拶のために、ある晩方その宿屋を訪ねたが、込合っていたので、連中はこの部屋にかたまって、ちょうど晩酌の膳に向いながら、陽気に<ruby><rb>高談</rb><rt>たかばなし</rt></ruby>をしていた。

「えらい仕揚げたそうだね。そのせいか女振もあがったじゃねえか。好い奥様になったということ」

精米所の主人は、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけで一座の真中に坐っていながら言った。

「御笑談でしょう」

お島は<ruby><rb>初</rb><rt>うぶ</rt></ruby>らしく顔の赤くなるのを覚えた。

「お蔭でどうか<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>かね。でもまだまだ成功というところへは参りません。何しろ資本のいる仕事ですからね。どうか少しお貸しなすって下さいまし。あなた方はみんな好い旦那方じゃありませんか」

お島はそう言って、自分の来たために一層浮立ったような連中を笑わせた。

夜景を見に出るという人達の先に立って、お島も混雑しているその宿を出たが、別れるときに家の方角を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く教えておいて、広小路まで連中を送った。

「病気って、どこが悪いんです」

お島はまさかの時には、多少の資本くらいは引出せそうに思えていた浜屋に、二人並んであるいている時<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。浜屋がその後、ちょくちょく手を出していた山林の売買がいくらか当って、融通が利くと云う<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>などを、お島はその土地の仲間から聞伝えている兄に聞いて知っていた。

「どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、<ruby><rb>東京</rb><rt>こちら</rt></ruby>で二三専門の博士を<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>したが、事によったら当分<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>して、遊び<ruby><rb>旁</rb><rt>かたがた</rt></ruby>注射でもしてみようかと思う」

「それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>かったね」

お島は<ruby><rb>可怕</rb><rt>こわ</rt></ruby>そうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には<ruby><rb>成得</rb><rt>なりえ</rt></ruby>なかった。

「あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか<ruby><rb>可怕</rb><rt>おっかな</rt></ruby>くて、どうするもんですか」

「今じゃそうも行かない。これでも山じゃ<ruby><rb>死</rb><rt>しの</rt></ruby>うとしたことさえあったっけがね」

「おお厭だ」お島は思出してもぞっとするような声を出した。「そんな古いことは<ruby><rb>言</rb><rt>いい</rt></ruby>っこなし。あなたは<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>人が悪くなったよ」

## 九十五

一日の<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>と暑熱に疲れきったような池の<ruby><rb>畔</rb><rt>はた</rt></ruby>では、<ruby><rb>建聯</rb><rt>たてつらな</rt></ruby>った売店がどこも<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ<ruby><rb>人足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>は絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな女と男の姿や笑声が聞えたりした。

お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い火が<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に流れていたりした。

浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しく思出せるだけであった。あの時分の若い<ruby><rb>痴呆</rb><rt>ちほう</rt></ruby>な恋が、いつの間にか、水に<ruby><rb>溶</rb><rt>とか</rt></ruby>されて行く紅の色か何ぞのように薄く<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいるきりであった。

自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>のところで<ruby><rb>出会</rb><rt>でっくわ</rt></ruby>した。

「どうしたえ、田舎のお爺さんは」お島は順吉に訊ねた。

二人はにやにや笑っていた。

「今夜も酔っぱらっているんだろう」

「ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ」

お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で<ruby><rb>非</rb><rt>くさ</rt></ruby>して、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていたが、それはその時で、聴流しているのであった。

「私のこったもの、どうせ好くは言われないさ。あの田舎ものにこの上さんの気前なんかわかるものかね」

お島はそう云って笑っていたが、新しく入って来たものから、世間普通の嫁と一つに見られているのが、侮辱のように感ぜられて腹立しかった。

「お上さん今夜は好いことがあるんだから、何かおごろうか」お島は二人に言った。

「おごって下さい」

「じゃ、みんなおいでおいで」

お島は先に立って、何か食べさせるような家を捜してあるいた。

「……上さんを離縁しろなんて言っていましたよ」

風の吹通しな水辺の一品料理屋でアイスクリームや水菓子を食べながら、順吉は話した。

「へえ、そんなことを言っていたかい」お島はそれでも<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りわるそうに紅くなった。

「へん、お気の毒さまだが、<ruby><rb>舅</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>に暇を出されるような、そんな意気地なしのお上さんと上さんが<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うんだ」

## 九十六

お島が毎日のように呼出されて、市内の芝居や<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>、鎌倉や江の島までも見物して一緒に浮々しい日を送っていた山の連中は、田舎へ帰るまでに、一度お島達夫婦のところへも遊びにやって来たが、それらの人々が宿を引揚げて行ってからも、浜屋の主人だけは、お島の世話で部屋借をしていた家から、一月の<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>も病院へ通っていた。

田舎では大した金持ででもあるように、お島が小野田に吹聴しておいた山の客が、どやどややって来たとき――浜屋だけは加わっていなかったが――お島は水菓子にビールなどをぬいて、暑い二階で彼等を<ruby><rb>欵待</rb><rt>もてな</rt></ruby>したが、小野田も彼等から、商売の資本でも引出し得るかのように言っているお島の<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を信じて、そこへ出て<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>な取扱い方をしていた。

お島はその一人からは夏のインバネス、他の一人からは冬の<ruby><rb>鳶</rb><rt>とんび</rt></ruby>と云う風に、<ruby><rb>孰</rb><rt>いずれ</rt></ruby>も上等品の註文を取ることに抜目がなかったが、いつでも見本を持って行きさえすれば、山の町でも好い<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>を沢山世話するような話をも、精米所の主人が為ていた。

「私がこの旦那方に、どのくらいお世話になったか知れないんです」

お島はそう言って小野田にも話したが、そこにお島の身のうえについて、何か色っぽい<ruby><rb>挿話</rb><rt>そうわ</rt></ruby>がありそうに、感の鈍い小野田にも想像されるほど、彼等はお島と<ruby><rb>狎々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しい口の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き方をしていた。

肉づいた手に、指環などを<ruby><rb>光</rb><rt>ひから</rt></ruby>せている精米所の主人のことを、小野田は山にいた時のお島の旦那か何ぞであったように<ruby><rb>猜</rb><rt>うたが</rt></ruby>って、彼等が帰ったあとで、それをお島の前に言出した。

「ばかなことをお言いでないよ」

お島は散かったそこらを取片着けながら、紅い顔をして言った。たっぷりした癖のない髪を、この頃一番自分に似合う丸髷に結って、山の客が来てからは、彼女は一層<ruby><rb>化粧</rb><rt>みじまい</rt></ruby>を好くしていた。指環なども、顔の広い彼女は、何処かの宝玉屋から取って来て、見なれない品を不断にはめていた。それが小野田の目に、お島を美しく<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましく見せていた。

「その証拠には、お前は私のおやじがこの席へ顔を出すのを、大変厭がったじゃないか」

私が出て挨拶をするといって、聴かなかった父親に顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて、奥へ引込めておくようにしたお島の仕打を、小野田は気にかけて言出した。

「だって<ruby><rb>可恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しいじゃないか。お前さんの前だけれど、あの御父さんに出られて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>るもんですか。お前さんの顔にだってかかります」

「<ruby><rb>昔</rb><rt>むか</rt></ruby>しの旦那だと思って、<ruby><rb>余</rb><rt>あんま</rt></ruby>り見えをするなよ」

「人聞きのわるいことを言って下さるなよ」お島は<ruby><rb>押被</rb><rt>おっかぶ</rt></ruby>せるように笑った。「あの人達に笑われますね。それが嘘なら聴いてみるがいい」

「そうでもなくて、あんな者が来たってそんなに大騒ぎをする奴があるかい」

「<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いよ」お島は<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どなり</rt></ruby>出した。

## 九十七

暑い東京にも<ruby><rb>居堪</rb><rt>いたたま</rt></ruby>らなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>となくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>の苦しい時なぞに、お島は浜屋から<ruby><rb>時借</rb><rt>ときがり</rt></ruby>をして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、<ruby><rb>微見</rb><rt>ほのめ</rt></ruby>かさずにはいられなかった。

浜屋はその<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。

「そんな事を言わずにまあ辛抱するさ」

お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>うえ</rt></ruby><ruby><rb>談</rb><rt>ばなし</rt></ruby>がはずんで、男に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかるような<ruby><rb>姿態</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の<ruby><rb>応答</rb><rt>うけごたえ</rt></ruby>ばかりして笑っているのが物足りなかった。

「あの時分とは、まるで人が変ったね」お島は男の顔を眺めながら言った。

「変ったのは私ばかりじゃないよ」お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を感じて来た。

「月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか」

お島は二階の六畳で疲れた体を<ruby><rb>膝掛</rb><rt>ひざかけ</rt></ruby>のうえに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。

部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても<ruby><rb>直</rb><rt>ぴった</rt></ruby>り合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、<ruby><rb>涼気</rb><rt>すずけ</rt></ruby>の立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られた。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>も一度その人に逢っておこう」

小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を<ruby><rb>表</rb><rt>あらわ</rt></ruby>した。

「<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けない可けない」お島はそれを拒んで、「あの人は<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです」

小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。

「それは東京にも滅多にないような好い男よ」お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くなるのを禁じ得なかった。

## 九十八

避暑客などの<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>している上野の<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>で、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。

浜屋はお島に買せた色々の東京<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>などを提げこんで、パナマを前のめりに<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>で汽車に乗ったのであったが、お島も<ruby><rb>絽縮緬</rb><rt>ろちりめん</rt></ruby>の羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。

足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に以前の自分の山の生活が想出せて来て、<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>ましいような気持になるのであった。

「どうでしょう。西洋人は<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>でいいね」

日光へでも行くらしい、<ruby><rb>男女</rb><rt>おとこおんな</rt></ruby>の外国人の<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な姿が、彼等の前を<ruby><rb>横</rb><rt>よこぎ</rt></ruby>って行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを<ruby><rb>蹴散</rb><rt>けちら</rt></ruby>すように、そう云って、嘆美の声を放った。

「どうだね、一緒に行かないか」

浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか<ruby><rb>日焦</rb><rt>ひやけ</rt></ruby>がして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、<ruby><rb>目眩</rb><rt>まぶし</rt></ruby>いような気持のするほど、それは様子が好かった。

客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。

「そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ」

浜屋は窓から顔を出して、どうかすると<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>をぬらしているお島に、そんな事を言っていた。

お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり<ruby><rb>後髪</rb><rt>うしろがみ</rt></ruby>を<ruby><rb>引</rb><rt>ひか</rt></ruby>るるような未練が残っていた。

盆が来ると、お島は<ruby><rb>顧客先</rb><rt>とくいさき</rt></ruby>への配りものやら、方々への支払やらで<ruby><rb>気忙</rb><rt>きぜわ</rt></ruby>しいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は<ruby><rb>可恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。

暑い盛に博覧会が<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されてから、お島たちの<ruby><rb>居周</rb><rt>いまわり</rt></ruby>の町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>の色が、まざまざと目に見えて来た。

多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに<ruby><rb>放擲</rb><rt>ほうりだ</rt></ruby>して<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いたいような気分になっていた。

「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規<ruby><rb>蒔直</rb><rt>まきなお</rt></ruby>しです」

ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の仲買などに、お島は投出したような<ruby><rb>棄鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>な調子で言っていた。

## 九十九

本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>な店つきにすると同時に、<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>に羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。

<ruby><rb>愛宕</rb><rt>あたご</rt></ruby>時代に<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>ったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き<ruby><rb>創</rb><rt>はじ</rt></ruby>めるのに多分の興味と<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>とを感ずる彼女は、<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どいところで、思いもかけない生活の弾力性を<ruby><rb>喚起</rb><rt>よびおこ</rt></ruby>されたりした。

「面倒ですから、材料も<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>の方から運びましょうか」

父親の縁故から知っている或<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き大工のあることを想出して、そこへ<ruby><rb>駈</rb><rt>かけ</rt></ruby>つけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を<ruby><rb>嘱</rb><rt>たの</rt></ruby>んだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。

「そうしてもらいましょうよ。私達は材料を<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>している<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>なんかないんだから」

材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。

「どうです、訳あないじゃありませんか」

大工が仕事を初めたところで、<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>をすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>を欠かなかった。

「これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう」

お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に<ruby><rb>脊負</rb><rt>しょ</rt></ruby>いださせた<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>に替えた、<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>ばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>であった。

「乗るか<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>るか、お上さんはここで最後の運を試すんだよ」

<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>の風呂敷に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>んだその蒲団を脊負いださせるとき、お島は<ruby><rb>気嵩</rb><rt>きがさ</rt></ruby>な調子で、その時までついて来た順吉を<ruby><rb>励</rb><rt>はげま</rt></ruby>した。

「お前もその<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>でやっておくれ。この恩はお上さん一生忘れないよ」

<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>んだような顔をして、それを脊負って行く順吉のいじらしい後姿を見送っているお島の目には、涙が<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んで来た。

「どうでしょう。職人は<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時分から手なずけなくちゃ駄目だね。順吉だけは、どうか<ruby><rb>渡職人</rb><rt>わたりじょくにん</rt></ruby>の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>に<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>ましたくないもんだ。それだけでも私たちは<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>しちゃいられない」

お島は大工の仕事を見ている、小野田の傍へ来て<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

表では大工が、二人ばかりの下を使って、せっせっと<ruby><rb>木拵</rb><rt>きごしら</rt></ruby>えに働いていた。

## 百

あらかた出来あがったところで、大工の手を離れた店の飾窓や、入口の<ruby><rb>戸</rb><rt>ドア</rt></ruby>に張るべき<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>を、お島が小野田に言われて、根津に家を持ったときから顔を知られている或硝子屋へ懸けあいに行ったのは、それから間もなくであった。

お島はその日も、新しい店を持った吹聴かたがた、朝から<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>まわりをして、三時頃にやっと帰って来たが、夏場はどこでも註文がなくて、代りに一つ二つの直しものを受取ったきりであった。

外は<ruby><rb>黄熟</rb><rt>おうじゅく</rt></ruby>した八月の暑熱が、じりじり大地に<ruby><rb>滲透</rb><rt>しみとお</rt></ruby>るようであった。<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>の声などのまだ木蔭に涼しく聞かれる頃に、家を出ていった彼女は、行く先々で、取るべき金の当がはずれたり、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が旅行中であったりした。古くからの<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みの家では、彼女は病気をしている子供のために、氷を取替えたり、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>で<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>いだりして、三時間も人々に代って看護をしていたりして、目がくらくらするほど空腹を感じて来た頃に、家へ帰って来たのであった。

家では大工がみんな昼寝をしていた。小野田もミシン台をすえた奥の六畳の涼しい窓の下で、横わっていた。

お島はそこらをがたぴし言わせて、着替などをしていた。根津の家を引払う前に、田舎へ還してしまった父親の毎日々々飲みつづけた酒代の、したたか滞っている酒屋の註文聞の一人に、途中で出逢って、自分の方からその男に声をかけて来なければならなかったことなどが、一層彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>をむしゃくしゃさせていた。小野田がその父親を呼寄せさえしなければ、あの家もどうか<ruby><rb>恁</rb><rt>こう</rt></ruby>か持続けて行けたように考えられた。あの飲んだくれのために、どのくらい自分の頭脳が<ruby><rb>掻廻</rb><rt>かきまわ</rt></ruby>され、働きが鈍らされたか知れないと思った。

「<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶち</rt></ruby>のめしても飽足りない奴だ」

お島は、酔ったまぎれに自分を離縁しろといって、小野田を<ruby><rb>手甲擦</rb><rt>てこず</rt></ruby>らせていたと云う父親の言分から、内輪が<ruby><rb>大揉</rb><rt>おおも</rt></ruby>めにもめて、到頭田舎へ帰って行くことになった父親に対する憎悪が、また胸に燃えたって来るのを覚えた。小野田の寝顔までが腹立しく見返えられた。

「せっせと仕事をして下さいよ。莫迦みたいな顔して寝ていちゃ困りますよ」

小野田が薄目をあいて、ちろりと彼女の顔を見たとき、お島はいらいらした声で言った。

お島は台所で飯を食べている時分に、やっと小野田はのそのそ起出して来た。

「仕事々々って、そうがみがみ言ったって仕事ができるもんじゃないよ」

小野田は火鉢の傍へ来て、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしはじめながら、まだ<ruby><rb>眠足</rb><rt>ねむりた</rt></ruby>りないような<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>い目をお島の方へ向けた。

「それよりか硝子の工面もしなければならず、店だって飾なしにおかれやしない」

「知らないよ、私は。自分でもちっと心配するがいいんだ」お島は言返した。

## 百一

小野田はそこへ脱ぎっぱなしにしたお島の汗ばんだ<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>や帯が目に入ったり、不断著を取出すために<ruby><rb>引掻</rb><rt>ひっかき</rt></ruby>まわした押入のどさくさした様子などを見ると、とても世帯は持てない女だといって、自分のために離縁を勧めた父親の<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が思い出された。

「<ruby><rb>技倆</rb><rt>はたらき</rt></ruby>があるか何だか知らんが、まあ大変なもんだ。とても女とは思えんの」

そうも言って、荒いお島の調子に驚いていた父親の善良そうな顔も思出された。

「朝から出て、あれは一日どこを何をして歩いてるだい」

父親はそうも言って、不思議がったが、お島自身に言わせると、朝は誰かが台所働きをしてくれて、気持よく家を出なければ、とても調子よく外で働くことはできないというのであった。帰って来た時にも、自分を迎えてくれる<ruby><rb>衆</rb><rt>みんな</rt></ruby>の好い顔をでも見なければ埋らないと言うのであった。それで小野田は順吉と一緒に、どうかすると七輪に火をおこしたり、<ruby><rb>漬物桶</rb><rt>つけものおけ</rt></ruby>へ手を入れたりすることを<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>っているのであったが、お島が一人で面白がってやっている<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>まわりも、集金の段になってくると、やっぱり小野田自身が出て行くより外ないようなことが多かった。

夕方にお島は機嫌を直して、硝子屋の方へ出て行った。

「この店さえ出来あがれば、少し資本を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、夏の末には己が新趣向の広告をまいて、<ruby><rb>有</rb><rt>あら</rt></ruby>ゆる中学の制服を取ろうと思っている」

小野田はそう言って、この頃から考えていた自分の平易で実行し<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いような<ruby><rb>企劃</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>をお島に話した。

「それには<ruby><rb>女唐服</rb><rt>めとうふく</rt></ruby>を着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね」

「駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか」

そんな<ruby><rb>際物</rb><rt>きわもの</rt></ruby>仕事が、自分の顔にでもかかるか何かのように考えているお島は、そう言って反抗したが、好い客を<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けるような立派な場所と店と資本とをもたない自分達に取っては、そうでもして数でこなすより外ないことを小野田は主張した。

学生相手の<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>なことはお島も知っていた。洋服姿で、若い学生だちの集りのなかへ入って行く自分の姿を想像するだけでも、彼女は不思議な興味を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られた。

「そうすると、お前の顔は直きに学生仲間に広まってしまうよ」

小野田はその妻や娘を売物にすることを<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知っている、思附のある興行師か何ぞのような自分の<ruby><rb>計劃</rb><rt>けいかく</rt></ruby>で、成功と虚栄に<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いている彼女を<ruby><rb>使嗾</rb><rt>しそう</rt></ruby>する術を得たかのように、自信のある目を輝かしていた。

「ふむ」お島は自分がいつからかぼんやり望んでいたことを、小野田が探りあててくれたような興味を感じた。男が頼もしい<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>もののように思えて来た。

「それは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>にあたるね」お島はそういって賛成した。

## 百二

横浜に店を出している知合いの女唐服屋で、お島が工面した金で自分の<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をすっかり<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて来たのは、それから大分たってからであった。

新築の家はすっかり出来あがって、硝子もはまった飾窓に、小野田が柳原から見つけて買って来た古い大礼服の金モオルなどが光っていた。

一度姿見を買ったことのある硝子屋では、主人はその申込を最初は断ったが、お島のことを知っている<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>が、自分で引受けて<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るだけの硝子を入れてくれた。

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>はああいいますけれど、お上さんの気前を買って、私がお貸し申しましょう。だから入れられるだけ入れてみて下さい。倒されればそれまでです」

そしてその翌朝、彼は小僧と一緒に硝子を運びこんで、それを飾窓や入口のドアなどに切はめてくれた。

「お前さんは若いにしては感心だよ。そう云う風に出られると、誰だって<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしないじゃいられないからね。また好いお得意をどっさり世話してあげますよ」

お島はそう言って、その硝子屋を還した。

看板を書くために、ペンキ屋が来たり、小野田が自転車で飛して、方々当ってみてあるいた羅紗のサンプルが持込まれたり、スタイルの画見本の額が、店に飾られたりした。

白い夏の女唐服に、水色のリボンの<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた深い<ruby><rb>麦稈</rb><rt>むぎわら</rt></ruby>帽子を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、お島が得意まわりをしはじめるようになったのは、それから大分たってからであった。

「どうです、似合いますか」などと、お島は姿見の前を離れて、その頃また来ることになった木村という職人や小野田の前に立った。コルセットで締つけられた、太い胴が息がつまるほど苦しかった。皮膚の<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>や何かを隠すために、こってり塗りたてた顔が、<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>なような<ruby><rb>蒼味</rb><rt>あおみ</rt></ruby>を帯びてみえた。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に若くみえるね。少くとも<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>あたりから帰って来た手品師くらいには踏めますぜ」木村は笑った。

お島はその<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>で、親しくしているお<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>をまわって行った。その中には若い歯科医や弁護士などもあった。

「どこの西洋美人がやって来たかと思ったら、君か」

途中で行逢った若い学生たちは、そういって不思議な彼女の姿に目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。

「その<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>で、ぜひ僕んとこへもやって来てくれたまえ」

彼等の或者は、肉づきの柔かい彼女の手に握手をして、別れて行ったりした。

「洋服はばかに評判がいいんですよ」

お島は日の暮に帰って来ると、急いで窮屈なコルセットをはずしてもらうのであったが、薄桃色肉のぽちゃぽちゃした体が、はじめて自分のものらしい気がした。

小野田は色々の学校へ<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に入学した学生たちの間に<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くべき、広告札の意匠などに一日腐心していた。

## 百三

時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く<ruby><rb>出入</rb><rt>ではいり</rt></ruby>する学校の門の入口に立った。

「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に……スタイルも<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby><ruby><rb>斬新</rb><rt>ざんしん</rt></ruby>でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けた。

「安いね」

「洋行がえりの洋服屋だとさ」

学生たちは口々に<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>きあった。

「おいおい、引札を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くことは止めてもらおう。<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」

門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>がって、彼女を<ruby><rb>逐攘</rb><rt>おいはら</rt></ruby>おうとした。

お島は時とすると、<ruby><rb>札</rb><rt>さつ</rt></ruby>を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。

「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」

事務員はそう云って、彼女の<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>に黙諾を与えてくれたりした。

広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。

時には一つの学校から、他の学校へ彼女は<ruby><rb>腕車</rb><rt>くるま</rt></ruby>を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい競争を試みることに、深い興味を感じた。

小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、<ruby><rb>化粧</rb><rt>おつくり</rt></ruby>をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>いしなやかな足に、<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>の高い靴をはくと、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>も<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。

朝おきると、<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>い彼女の体が、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>にそれらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。

自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。

「惜い事には<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>が足りないね」

小野田は<ruby><rb>胴幅</rb><rt>どうはば</rt></ruby>などの広い彼女の姿を眺めながら言った。

「どうせ労働服ですもの、様子なんぞに<ruby><rb>介意</rb><rt>かま</rt></ruby>っていられるもんですか」

二人は暫く歩きながら話した。

## 百四

月が十月へ入ってから、撒いておいた広告の著しい<ruby><rb>効験</rb><rt>ききめ</rt></ruby>で、冬の制服や<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>つきの<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>の註文などが、どしどし入って来た。その頃から工場には職人の数も殖えて来た。徒歩の<ruby><rb>目弛</rb><rt>まだる</rt></ruby>いのに気を<ruby><rb>腐</rb><rt>くさら</rt></ruby>していたお島は、小野田の勧めで、自転車に乗る練習をはじめていた。

晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>った原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>の<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>も冠った<ruby><rb>冠物</rb><rt>かぶりもの</rt></ruby>が暑い夏の日に<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>け、リボンも砂埃に汚れていた。お島はその冠物の肩までかかった丸い脊を<ruby><rb>屈</rb><rt>こご</rt></ruby>めて、夕暗のなかを、小野田についていて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、ハンドルを<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>ることを学んだ。

近いうちに家が建つことになっているその原には、<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の木やアカシヤなどが、昼でも涼しい蔭を作っていた。夏草が<ruby><rb>菁々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>と<ruby><rb>生繁</rb><rt>おいしげ</rt></ruby>って、崖のうえには新しい家が<ruby><rb>立駢</rb><rt>たちなら</rt></ruby>んでいた。

そこらが全く<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>の<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>い<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まるる頃まで、草原を乗まわしている、彼女の白い姿が、往来の人たちの目を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

木の蔭に乗物を立てかけておいて、お島は疲れた体を、草のうえに休めるために<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んだ。<ruby><rb>裳裾</rb><rt>もすそ</rt></ruby>や<ruby><rb>靴足袋</rb><rt>くつたび</rt></ruby>にはしとしと水分が<ruby><rb>湿</rb><rt>しと</rt></ruby>って、<ruby><rb>草間</rb><rt>くさあい</rt></ruby>から虫が<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。

お島はじっとり汗ばんだ体に風を入れながら、鬱陶しい<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶり</rt></ruby>ものを取って、軽い疲労と、健やかな血行の快い音に酔っていた。<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>と<ruby><rb>臀部</rb><rt>でんぶ</rt></ruby>との肉に<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>い痛みを覚えた。小野田は彼女の肉体に、生理的傷害の来ることを<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、時々それを気にしていたが、自転車で町を疾走するときの自分の姿に<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。

「少しくらい体を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めたって、<ruby><rb>介意</rb><rt>かま</rt></ruby>うもんですか。私たちは何か<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ」

お島はそう言って、またハンドルに掴まった。

朝はやく、彼女は<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして<ruby><rb>濛靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで、草の実が淡青く<ruby><rb>白</rb><rt>しろ</rt></ruby>い<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>についた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている顔が見えたりした。<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>から、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。

「おそろしい疲れるもんですね」

<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>ほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。

「須田町から先は、自分ながら<ruby><rb>可怕</rb><rt>おっかな</rt></ruby>くて<ruby><rb>為様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby>平気になれます」お島は自信ありそうに言った。

## 百五

<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいその一冬を自転車に乗づめで、<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>な二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。

「……毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>毒なもんですね」

お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで<ruby><rb>真</rb><rt>ほん</rt></ruby>の外面の傷害に過ぎないらしかった。

その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。

そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、<ruby><rb>切放</rb><rt>きれはな</rt></ruby>れの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きあう若い医師が、二人も三人もできた。

段々<ruby><rb>肥立</rb><rt>ひだ</rt></ruby>って来た、<ruby><rb>売色</rb><rt>くろうと</rt></ruby>あがりの細君の傍で、お島は持って行った花を<ruby><rb>花瓶</rb><rt>かびん</rt></ruby>に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>したり、薄くなった<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を入れて、<ruby><rb>束</rb><rt>つく</rt></ruby>ねてやったりして、半日も話相手になっていた。

「どう云うんでしょう、私の体は……」

お島は看護婦などのいる傍で、いつかも印判屋の上さんに<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたと同じことを言出した。

「夫婦の<ruby><rb>交際</rb><rt>まじわり</rt></ruby>なんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません」

「それは<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>がどうかしてるのよ」

患者は日ましに血色のよくなって来た顔に、血の気のさしたような美しい笑顔を向けて、お島の顔を眺めた。

「でも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いんですの。こんなことを言うのは、自分の恥を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>すようなもんですけれど、実際あの人が変なんです」

お島は紅い顔をして言った。

「ええ、そんな人も千人に一人はありますね」

お島が診てもらった医者に、それを言出すほど気がおけなくなったとき、彼はそう言って笑っていた。

位置が少し変っているといわれた自分の体を、お島はそれまでに、もう<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>も療治をしてもらいに通ったのであった。

「当分自転車をおやめなさい。圧迫するといけない」

お島は苦しい療治にかかった最初の日から、そう言われて毎日和服で<ruby><rb>外出</rb><rt>そとで</rt></ruby>をしていた。

長いお島の病院がよいの間、小野田が、多く外まわりに自転車で乗出した。

<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>先で、小野田が知合になった<ruby><rb>生花</rb><rt>はな</rt></ruby>の先生が<ruby><rb>出入</rb><rt>ではい</rt></ruby>りしたり、蓄音器を買込んだりするほど、その頃景気づいて来ていた店の経済が、暗いお島などの<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>では、ちょと考えられないほど、貸や借の<ruby><rb>紛紜</rb><rt>こぐらかり</rt></ruby>が複雑になっていたが、それはそれとして、<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>などのめっきり<ruby><rb>華美</rb><rt>はで</rt></ruby>になった彼女は、その日その日の明い気持で、生活の新しい幸福を予期しながら、病院の門を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った。

## 百六

小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で<ruby><rb>裁</rb><rt>たち</rt></ruby>をやっていたが、<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>がありさえすれば蓄音器を<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>っていた。<ruby><rb>楽遊</rb><rt>らくゆう</rt></ruby>や<ruby><rb>奈良丸</rb><rt>ならまる</rt></ruby>の<ruby><rb>浪華節</rb><rt>なにわぶし</rt></ruby>に<ruby><rb>聴惚</rb><rt>ききほ</rt></ruby>れているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。

しげしげ足を運んでくる<ruby><rb>生花</rb><rt>はな</rt></ruby>の先生は、小野田が段々好いお<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>へ<ruby><rb>出入</rb><rt>ではい</rt></ruby>りするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も<ruby><rb>花活</rb><rt>はないけ</rt></ruby>の前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な<ruby><rb>手容</rb><rt>てつき</rt></ruby>をして、ずんどのなかへ花を<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>しているのを、お島は見かけた。

もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>に近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うま</span>が合っていた。

「私だって<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>には<ruby><rb>逆様</rb><rt>さかさ</rt></ruby>にお花も<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けてみとうございますよ」

外から帰って、ふと二階の<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>をあがって行くお島の耳に、その日も<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>から来て話込んでいたその<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>の<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい笑い声が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れ聞えた。<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>と挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。

女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。

「お<ruby><rb>気毒</rb><rt>きのどく</rt></ruby>さまですがね、<ruby><rb>宅</rb><rt>たく</rt></ruby>はお花なんか習っている<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>はないんですから、今日きり<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>からお断りいたします」

お島は<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばった神経を、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。

もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>の寄った<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ顔に薄化粧などをして、古いお召の<ruby><rb>被布姿</rb><rt>ひふすがた</rt></ruby>で来ていたが、お島の権幕に<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>じおそれたように、<ruby><rb>悄々</rb><rt>すごすご</rt></ruby>出ていった。

「この莫迦！」

二階へ<ruby><rb>駈</rb><rt>かけ</rt></ruby>あがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>や前髪を大きくふっくらと取った<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、<ruby><rb>外眦</rb><rt>めじり</rt></ruby>をきりきりさせてそこに突立っていた。

「<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>なんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>な<ruby><rb>薄野呂</rb><rt>うすのろ</rt></ruby>だね」

お島はそう言いながら、そこにあった<ruby><rb>花屑</rb><rt>はなくず</rt></ruby>を取あげて、のそりとしている小野田の顔へ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけた。<ruby><rb>吊</rb><rt>つり</rt></ruby>あがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。

「何をする」

小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。

負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を<ruby><rb>顛覆</rb><rt>ひっくらか</rt></ruby>えして、へし折りへし折りして小野田に<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>りつけた。

<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい格闘が、<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めたときには、彼女の<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>がばらばらに<ruby><rb>紊</rb><rt>ほつ</rt></ruby>れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。

## 百七

二人が<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、<ruby><rb>可恐</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しいものに触れるような気がして、絶えて<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。

「あなたは別に女をもって下さい」

お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。

「そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない」お島はそうも考えた。

産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵<ruby><rb>工廠</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>の方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。

小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、<ruby><rb>裏店住</rb><rt>うらだなずま</rt></ruby>いをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。

「あの女はどうしました」

お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は<ruby><rb>食物屋</rb><rt>たべものや</rt></ruby>などに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>などを崩しているのであった。

「いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、<ruby><rb>呶鳴込</rb><rt>どなりこ</rt></ruby>まれたらどうするんです」

小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。

「あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ」

小野田はそう言って笑っていた。

二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。

「どこへ行ったえ」

お島は何のことにも<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く気のつく順吉に、<ruby><rb>私</rb><rt>そっ</rt></ruby>とたずねた。

「<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>から来たと云って、<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>い<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅ</rt></ruby>が手紙を持って、迎いに来ましたよ。<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>が取次いだんだから、間違いはありません」

順吉はそう云って、まだ洋服もぬがずにいるお島の血相のかわった顔を眺めていた。

「じゃまた何処かで<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>してるんだろうよ。上さん今夜こそは一つ突止めてやらなくちゃ……」

お島は急いでコルセットなどを取はずすと、和服に着替えて、外へ飛出していった。時々小野田の飲みに行く家を彼女は思出さずにはいられなかった。

## 百八

秘密な会合をお島に<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されたその女は、その時から<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に変調を来して、幾夜かのあいだお島たちの<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ立って、<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ったり泣いたりした。

女はお島に踏込まれたとき、<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって裏の廊下へ飛出したのであったが、その時<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>の上まで追っかけて来たお島の形相の<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>さに、取殺されでもするような<ruby><rb>恐怖</rb><rt>おそれ</rt></ruby>にわななきながら、一散に外へ駈出した。

「この義理しらずの畜生！」

お島は部屋へ入って来ると、いきなり呶鳴りつけた。野獣のような彼女の体に抑えることが出来ない狂暴の血が<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>けただれたように渦をまいていた。

締切ったその二階の<ruby><rb>小室</rb><rt>こま</rt></ruby>には、かっかと燃え照っている強い<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の下に、酒の<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いなどが漂って、耳に伝わる甘い<ruby><rb>私語</rb><rt>ささやき</rt></ruby>の声が、燃えつくような彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を、劇しく<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。白い女のゴム<ruby><rb>櫛</rb><rt>ぐし</rt></ruby>などが、彼女の血走った目に異常な衝動を与えた。

手に傷などを負って、二人がそこを出たときには、春雨のような雨が、ぼつぼつ顔にかかって来た。

まだ人通りのぼつぼつある、静かな春の宵に、女は<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ来て、飾窓の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>に小石を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらしたり、ヒステリックな蒼白い笑顔を、ふいにドアのなかへ現わしたりした。

「お上さんはいるの」

女は臆病らしく奥口を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたりした。

「旦那をちょっと<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ呼んで下さいな」

女はそう言って、しつこく小僧に頼んだ。

小僧は面白そうに、にやにや笑っていた。

「旦那は今いないんだがね、お前さんも亭主があるんだから、早く帰って休んだら<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いだろう」

お島は側へ来て、やさしく声かけた。そして<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>かの金を、小い彼女の掌に載せてやった。

女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。

「わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください」

女はそこを<ruby><rb>逐攘</rb><rt>おっぱら</rt></ruby>われると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>らをうろうろしていた。

「そっちに言分があれば、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>にだって言分がありますよ」

亭主から頼まれたと云って、四十<ruby><rb>左右</rb><rt>そう</rt></ruby>の遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>から手を引かしめてしまった。<ruby><rb>顔利</rb><rt>かおきき</rt></ruby>であった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うことができた。

## 百九

親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに<ruby><rb>逐返</rb><rt>おいかえ</rt></ruby>したきりになっている、父親を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせに行った頃には、彼が留守になっても<ruby><rb>差閊</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えぬだけの、<ruby><rb>裁</rb><rt>たち</rt></ruby>の上手な若い男などが来ていた。

知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、<ruby><rb>間服</rb><rt>あいふく</rt></ruby>の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。

自分でも店を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を畳んで、また職人の群へ<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて来たのであったが、悪いものには滅多に<ruby><rb>剪刀</rb><rt>はさみ</rt></ruby>を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」

彼はそう云って、どんな<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しい時でも下等な仕事には手をつけることを<ruby><rb>肯</rb><rt>がえん</rt></ruby>じなかった。

「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」

お島も<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。

「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」

お島は話ぶりなどに<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のあるその男の傍にすわっていると、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くしたりした。<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>のような、青い<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>をそそった。

「いくつの時分さ」

お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、<ruby><rb>猥</rb><rt>みだら</rt></ruby>な目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。男はえへらえへらと、<ruby><rb>締</rb><rt>しまり</rt></ruby>のない口元に笑った。

「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」

「その女はどうしたの」

「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう<ruby><rb>疾</rb><rt>とっく</rt></ruby>のむかしに忘れっちゃったんで……」

暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に残っていた。

「そんな薄情な男は、私は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いさ」

お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を<ruby><rb>蕩</rb><rt>とろ</rt></ruby>かすような不思議な力をもっていた。

蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>った。

## 百十

小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、<ruby><rb>初夏</rb><rt>はつなつ</rt></ruby>のある日の朝であった。

病院で<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>の療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げに<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。

そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。

「あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>そう」

お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。

一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも、まだ時々<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ来て暴れたり<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ったりする狂女が、<ruby><rb>巣鴨</rb><rt>すがも</rt></ruby>の病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。

全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から<ruby><rb>鉋屑</rb><rt>かんなくず</rt></ruby>や木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。

近所の人だちの<ruby><rb>願出</rb><rt>ねがいいで</rt></ruby>によって、警察へ引張られた彼女が、<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>から逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。

「水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に<ruby><rb>狂気</rb><rt>きちがい</rt></ruby>です」

責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。

「私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ」

お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>をくれたりして頼んだ。

「多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、<ruby><rb>偶然</rb><rt>ひょっ</rt></ruby>として<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>が帰って来たら、<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>い工合に話しておいて下さいよ。<ruby><rb>前</rb><rt>せん</rt></ruby>に縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね」

お島は顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめながら言った。

「<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>ござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし」

その男はそう言って<ruby><rb>潔</rb><rt>きよ</rt></ruby>く引受けたが、<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>な目をして笑っていた。

「<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>にわたし<ruby><rb>恁</rb><rt>こ</rt></ruby>ういう人があるんです」

お島は<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いにそれを言出さずにはいられなかった。

「けどこれだけはあの人には秘密ですよ」

## 百十一

博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。

四五年前に、兄に<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の<ruby><rb>果</rb><rt>み</rt></ruby>をでも<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を曇らした。

汽車の通って行く平野のどこを眺めても、<ruby><rb>昔</rb><rt>むか</rt></ruby>しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れて<ruby><rb>伊香保</rb><rt>いかお</rt></ruby>へでも行くらしい<ruby><rb>男女</rb><rt>おとこおんな</rt></ruby>の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせに行った小野田が思出された。<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、<ruby><rb>都</rb><rt>すべ</rt></ruby>て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。

「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」

お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。<ruby><rb>慾得</rb><rt>よくとく</rt></ruby>のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な反抗心が、彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>をそうも<ruby><rb>偏傾</rb><rt>へんけい</rt></ruby>せしめた。何のために<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に<ruby><rb>沁拡</rb><rt>しみひろ</rt></ruby>がって来た。

桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた<ruby><rb>梅雨時</rb><rt>つゆどき</rt></ruby>の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、<ruby><rb>淡墨</rb><rt>うすずみ</rt></ruby>で<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いたように、水霧に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まれて、<ruby><rb>目近</rb><rt>まぢか</rt></ruby>の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を<ruby><rb>滴垂</rb><rt>したた</rt></ruby>らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が、古風の<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の絵にでもある様な<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かさで、咲いていたりした。水がその<ruby><rb>巌間</rb><rt>いわま</rt></ruby>から流れおちていた。

深い<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>となく高原地の静なステーションに<ruby><rb>停</rb><rt>とど</rt></ruby>まった。旅客たちは<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>なような目を<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>だてて、山の姿を眺めた。

ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。

山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。

## 百十二

目ざす町に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。

それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、<ruby><rb>手々</rb><rt>てんで</rt></ruby>にそんな話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。山の町の人達の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>も、彼等の口に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったが、浜屋々々と云う<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に<ruby><rb>喚起</rb><rt>よびおこ</rt></ruby>したのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな姿を見せていた。

「あなた<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>はＳ――町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか」

お島は、<ruby><rb>断々</rb><rt>きれぎれ</rt></ruby>に耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか」

遊女屋の主人か、芸者町の<ruby><rb>顔利</rb><rt>かおきき</rt></ruby>かと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。

金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、<ruby><rb>雨</rb><rt>あま</rt></ruby>あがりの<ruby><rb>桟道</rb><rt>そばみち</rt></ruby>にかけてある橋の板を踏すべらして、<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころが</rt></ruby>り<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしてから、病院へ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。

お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。

「すれば、あの人の<ruby><rb>霊</rb><rt>たましい</rt></ruby>が、私をここへ引寄せたのかもしれない」

お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。

浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>をしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>のうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、<ruby><rb>澱</rb><rt>おど</rt></ruby>んだような静さと寂しさとで、彼女の<ruby><rb>曇</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ目に映った。

お島はその<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby><ruby><rb>一夜</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>は、むかし自分の<ruby><rb>拭掃除</rb><rt>ふきそうじ</rt></ruby>などをした浜屋の二階の一室に泊って、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>は、町のはずれにある<ruby><rb>菩提所</rb><rt>ぼだいしょ</rt></ruby>へ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。

松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。

半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。

「どこか温泉で二三日遊んでいこう」

失望の安易に<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。

## 百十三

途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。

浴客はまだ何処にも<ruby><rb>輻湊</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>していなかったし、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>見える貸別荘の門なども大方は<ruby><rb>閉</rb><rt>しま</rt></ruby>っていて、松が六月の<ruby><rb>陽炎</rb><rt>ようえん</rt></ruby>に<ruby><rb>蒼々</rb><rt>あおあお</rt></ruby>と繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い<ruby><rb>青嵐</rb><rt>せいらん</rt></ruby>が<ruby><rb>煙</rb><rt>けぶ</rt></ruby>ってみえた。

お島の導かれたのは、ある古い<ruby><rb>家建</rb><rt>やだち</rt></ruby>の<ruby><rb>見晴</rb><rt>みはらし</rt></ruby>のいい二階の一室であったが、女中に<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>に着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする<ruby><rb>度</rb><rt>たんび</rt></ruby>に、一人客の寂しさが感ぜられた。

浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している<ruby><rb>赭土山</rb><rt>あかつちやま</rt></ruby>が<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しげに見られ、<ruby><rb>檐端</rb><rt>のきば</rt></ruby>はずれに枝を<ruby><rb>差交</rb><rt>さしかわ</rt></ruby>している、山国らしい<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>のひょろ長い木の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>には、<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>の声などが聞かれた。

「お一人でお寂しゅうございますでしょう」

浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら<ruby><rb>膳部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>を運んで来た。

笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。

電話室へ入って、東京の<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>の様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。

「好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう」

お島は四五日の<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>に、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>った。

「それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざ</rt></ruby>苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ」

お島はそうも言って頼んだ。

その晩は、水の音などが耳について、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くも<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>られなかった。

夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、<ruby><rb>旋</rb><rt>やが</rt></ruby>て昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>などをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かになった。

「こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね」お島は<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>な調子におずおずしている順吉に話しかけた。

「医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に<ruby><rb>裁</rb><rt>たち</rt></ruby>をやってもらって、<ruby><rb>独立</rb><rt>ひとりだち</rt></ruby>でやるかも知れないよ」

お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の<ruby><rb>企画</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>をほのめかした。