Soranoha

青い顔

あおいかお

三島 霜川

古谷俊男ふるやとしをは、椽側えんがはに据すゑてある長椅子に長くなツて、兩りやうの腕で頭を抱かゝへながら熟じつと瞳ひとみを据すゑて考込むでゐた。體からだのあいた日曜ではあるが、今日のやうに降ツては何どうすることも出來ぬ。好すきな讀書にも飽あいて了しまツた。と謂いツて泥濘ぬかるみの中をぶらついても始まらない。で此かうして何なんといふことは無く庭を眺めたり、また何なんといふことはなく考込むでボンヤリしてゐた。此の二三日絲いとのやうな小雨こさめがひツきりなしに降續いて、濕氣しつきは骨の髓ずゐまでも浸潤しんじゆんしたかと思はれるばかりだ、柱も疊も惡く濕氣しつけて、觸さはるとべと〱する。加之それに空氣がじめ〱して嫌いやに生温なまぬるいといふものだから、大概たいがいの者は氣が腐くさる。

「嫌な天氣だな。」と俊男は、奈何いかにも倦うんじきツた躰ていで、吻ほツと嘆息ためいきする。「そりや此樣こんな不快を與へるのは自然の威力で、また權利でもあるかも知れん。けれども此樣こんな氣候にも耐えてゐなければならんといふ人間は意久地無いくぢなしだ。要するに人間といふ奴やつは、雨を防ふせぐ傘を作こしらへる智慧ちゑはあるが、雨を降らさぬやうにするだけの力がないんだ。充つまらん動物さ、ふう。」と鼻の先に皺しわを寄せて神經的の薄笑うすわらひをした。

何しろ退屈たいくつで仕方しかたが無い。そこで少し體を起して廣くもない庭を見𢌞して見る。庭の植込うゑこみは雜然ざつぜんとして是これと目に付つく程の物も無い。それでゐて青葉が繁しげりに繁しげツてゐる故せいか庭が薄暗い。其の薄暗い中に、紅べにや黄の夏草の花がポツ〱見える。地べたは青く黒ずむだ苔こけにぬら〱してゐた………眼の前の柱を見ると、蛞蝓なめくぢの這はツた跡あとが銀の線のやうに薄うツすりと光ツてゐた。何を見ても沈しづむだ光彩くわうさいである。それで妙に氣が頽くづれて些ちつとも氣が引ひツ立たぬ處へ寂しんとした家うちの裡なかから、ギコ〱、バイヲリンを引ひツ擦こする響が起る。

「また始めやがツた。」と俊男は眉まゆの間に幾筋いくすぢとなく皺しわを寄せて舌打したうちする。切しきりに燥々いら〱して來た氣味きみで、奧の方を見て眼を爛きらつかせたが、それでも耐こらえて、體を斜なゝめに兩足をブラり椽えんの板に落してゐた。

俊男は今年ことし三十になる。某ぼう私立大學しりつだいがくの倫理りんりを擔任たんにんしてゐるが、講義の眞面目まじめで親切である割わりに生徒の受うけが好よくない。自躰じたい心に錘おもりがくツついてゐるか、言ことばにしろ態度にしろ、嫌いやに沈むでハキ〱せぬ。加之それに妙にねち〱した小意地こいぢの惡い點があツて、些ちつと傲慢ごうまんな點もあらうといふものだから、何時いつも空を向いて歩いてゐる學生がくせい等らには嫌はれる筈だ。性質も沈むでゐるが、顏もくすむでゐる、輪廓りんくわくの大きい割に顏に些ちつともゆとりが無く頬ほゝは剡こけてゐる、鼻は尖とがツてゐる、口は妙に引締ツて顎あごは思切つて大きい。理合きめは粗あらいのに、皮膚の色が黄ばんで黒い――何方どちらかと謂へば營養不良えいやうふりやうといふ色だ。迫せまツた眉には何なんとなく悲哀ひあいの色が潛ひそむでゐるが、眼には何處どことなく人懷慕ひとなつこい點とこがある。謂いはゞ矛盾むじゆんのある顏立だ。恐らく其の性質にも、他人には解わからぬ一種の矛盾があるのではあるまいか。

彼は今別に悲しいとも考へてゐない。然さうかと謂いつて勿論嬉しいといふやうなことも思ツて居らぬ。たゞ一種淋しいといふ感に強く壓付おしつけられて、妄むやみと氣が滅入めいるのであツた。

「何故なぜ家は此かうなんだらうと、索寞さくばくといふよりは、これぢや寧むしろ荒凉くわうりやうと謂いツた方が適當だからな。」と呟つぶやき、不圖ふとまた奧を覗のぞいて、燥いらツた聲で、「喧やかましい! おい、止よさんか。其樣そんなもの………」と喚わめく。

返事は無くツて、バイヲリンの音ねがバツタリ止む。

俊男はまた頽默ぐつたり考込むだ。絲のやうな雨が瓦を滑すべツて雫しづくとなり、霤あまおちに落ちて微かすかに響くのが、何かこツそり囁さゝやくやうに耳に入る。

少時しばらくすると、

「貴方あなた、何を其樣そんなに考込むでゐらツしやるの。」

此かう呼掛けて、ひよツくり俊男の前に突ツ立ツたのは妻さいの近子ちかこで。

俊男としをはヂロリ妻の顏を見て、「別に何も考へてゐやしないさ。」

「でも何なんだか妙な顏をしてゐらツしやいますのね。」

「そりや頭が重いからさ。ところへ上手じやうずでもないバイヲリンをギコ〱彈やられるんだから耐たまらんね。」

近子は些ちよいと嫌な顏をして、「それでも貴方あなた、何どうかすると彈やれツて有仰おつしやることがあるぢやありませんか。」

「そりや機嫌の好よい時のことさ。」と輕かろく眞面目まじめにいふ。

「まア。」と近子は呆あきれて見せて、「隨分ずゐぶん勝手かつてなんでございますね。」

「當然あたりまへさ。恐らく近頃の人間で勝手でない者はありやしない。」

「然さうでせうか。」と空恍そらとぼけたやうにいふ。

「然さうさ。お前だツて俺おれの大嫌だいきらひなことを悦よろこんで行やツてゐることがあるぢやないか。現げんに俺おれが思索しさくに耽ふけツてゐる時にバイヲリンを彈ひいたりなんかして………」

「それは濟すみませんでしたのね。私わたしはまた此樣こんな天氣で氣が欝々うつ〱して爲樣しやうが無かツたもんですから、それで。」と何か氣怯きおそれのする躰ていで悸々おど〱しながらいふ。

「然さうかね。併しかし然う一々天氣にかこつけられちや、天氣も好いい面つらの皮といふもんさ。」と苦笑にがわらひして、「だが幾ら梅雨つゆだからツて、此かう毎日々々降られたんぢや遣切やりきれんね。今日は日曜だから、お前と一緒しよに何處どこへか出掛けやうと思ツてゐたんだが、これぢや仍且やつぱり家うちで睨合にらみあひをしてゐるしかないな。」

「私と一緒に? ま、巧うまいことを有仰おつしやるのね。」と眼に嘲あざむ色を見せる。

「何故なぜ?………俺おれだツて其樣そんなに非人情ひにんじやうに出來てゐる人間ぢやないぞ。偶時たまには妻さいの機嫌を取ツて置く必要もある位のことは知ツてゐる。」

「何どうですか。隨分道具だうぐあつかひされてゐるんですからね。」

「そりや無論むろん道具よ。女に道具以上の價値かちがあツて耐たまるものか。だがさ、早い話が、お前は大事な着物を虫干むしぼしにして樟腦しやうなうまで入れて藏しまツて置くだらう。俺おれがお前を連れて出やうといふのは、其の虫干の意味に過ぎないのさ。解わかツたかね。」と無意味な眼遣めづかひで妻つまの顏を見てニヤリとする。

近子は輕くお叩頭じぎをして、「何どうも御親切に有難うございます。」と叮嚀ていねいに謂いツたかと思ふと、「ですが、其樣そんなにおひやらないで下さいまし。幾ら道具でも蟲がありますからね。」

「おい〱、何を其樣そんなに膨ふくれるんだ。誰もおひやりはしないよ。」

「だツて貴方あなた、此の雨を見掛けて、見透みえすくやうなことを有仰おつしやるんですもの。ま、然さうでせう、貴方あなたと御一緒ごいつしよになツてから、もう三年にもなりますけれども、何時いつの日曜に散歩でも仕して見ないかと有仰おつしやツたことがあツて? 何時いつだツて家うちにばかり引込むで他ひとを虐いびツてばかりゐらツしやるのぢやありませんか。」

全く然さうでないとも謂いはれぬので、俊男としをは默ツて、ニヤ〱してゐたが、ふいと、「そりや人には氣紛きまぐれといふものがあるさ。」

「ぢや、氣紛きまぐれで私わたくしを虫干むしぼしになさるんですか。」

「然さうさ、氣紛きまぐれでもなけア、俺おれにはお前を虫干にして遣やる同情さへありやしない。正直なところがな。」と思切おもひきツていふ。感情が昂たかまツて來たのか、瞼まぶたのあたりにぽツと紅べにをさす。

「其樣そんなに私わたしが憎にくいんですか。憎いなら憎いやうに………」と嚇かつとした躰ていで、突ツかゝり氣味ぎみになると、

「いや、誰も憎いとは謂いはんよ。憎いんなら誰に遠慮ゑんりよも義理もあるもんか、とツくに追おン出だして了しまふさ。俺おれのは憎いんでもないければ「ないければ」はママ可愛かあいいといふんでもない………たゞしツくり性しやうが合はんといふだけのことなんだ。趣味しゆみも一致いつちしなければ理想も違ふし、第一人生觀が違ふ………、おツと、またお前の嫌いやな難むづかしい話になツて來た。此樣こんなことは、あたら口くちに風かぜといふやつなのさ。」

「ぢや、すツぱりとお暇ひまを下すツたら可いいでせう。」

「そりや偶時たまには然さう思はんでも無いな。併しかしお前は俺には用ようのある人間だ。」

「用なんか、下婢げぢよで結構間に合ひますわ。」

「大きに御尤ごもつともだ。だが下婢げぢよは下婢げぢよ、妻さいは妻さいさ。下婢げぢよで用が足りる位なら、世間の男は誰だツてうるさい妻さいなんか持ちはしない。」

又かと思ふと氣持が惡くなつて胸が悶々もだ〱する。でも近子ちかこは熟じつと耐こらえて、

「然さう有仰おつしやれば、女だツて仍且やつぱり然さうでございませうよ。出來る事なら獨ひとりでゐた方が幾ら氣樂きらくだか知れやしません。」と冷ひやゝかにいふ。

「然さうよ、奴隷どれいよりは自由民の方が好よいからな。」

「然さうですとも。」

「其そんなら何故なぜ、お前は俺おれのやうな所天をつとを擇えらんだんだ。」

「誰も貴方あなたを擇びはしませんよ。」と謂いツて、少し顏を赧あかめ、口籠くちごもツてゐて、「貴方あなたの方で、私をお擇びなすツたのぢやありませんか。」

「然さうだツたかな。」と空そらツ恍とぼけるやうに、ちらと空を仰あほぎながら、「とすりや、そりや俺おれがお前を擇えらんだのぢやない、俺の若い血がお前に惚ほれたんだらう。」

「それは何方どつちだツて可ようございますけれども、私は何も自分から進むで貴方あなたと御一緒になツたのぢやございませんから、何どうぞ其のお積つもりでね。」

「可いいさ、俺おれもそりや何方どつちだツて可いいさ。雖然けれども是これだけは自白じはくして置く。俺はお前の肉にくを吟味ぎんみしたが、心は吟味ぎんみしなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇望かつばうが充みたされて、お前に向ツて更に他たの望のぞみを持つやうになツた。而するとお前は中々此の望を遂とげさせて呉れるやうな女ぢやない、で段々だん〱飽いて來るやうになツたんだ。お前も間尺ましやくに合はんと思ツてゐるだらうが、俺おれも充つまらんさ。或意味からいふと葬はふむられてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家うちの淋しいことは何どうだ。幾ら人數にんずが少ないと謂いツて、書生もゐる下婢げぢよもゐる、それで滅多めつたと笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰まるで冬の野のツ原ぱらのやうな光景だ。」

「其それは誰たれの故せいなのでございませう。」

「誰の故せいかな。」

「私わたしは貴方あなたに無理にお願をしてバイヲリンの稽古けいこまでして、家庭を賑にぎやかにしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。」

「其のバイヲリンがまた俺の耳觸みゝざわりになるんだ。あいにくな。」

「それぢや爲方しかたが無いぢやありませんか。」

「眞個まつたく爲方しかたが無いのさ。」

「ぢや何どうしたら可いいのでございませう。」

「解わからんね。要するにお前の顏は紅あかい、俺の顏は青い。それだから何どうにも爲樣しやうのないことになつてゐる。」

爲樣しやうがあらうが有るまいが、それは私わたしの知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近子ちかこはぷうと膨ふくれてゐた。そして軈やがて所天をつとの傍そばを離れて、椽側えんがはを彼方あつち此方こつちと歩き始めた。俊男としをはまた俊男で、素知らぬ顏で降ふり濺そゝぐ雨に煙る庭の木立こだちを眺めてゐた。

此の突つツ放ぱなすやうな仕打をされたので、近子は些ちつと拍子抜ひやうしぬけのした氣味であつたが、何なんと思つたのか、また徐々そろ〱所天をつとの傍へ寄ツて、「貴方あなたは、何なんかてえと家うちが淋しい淋しいツて有仰おつしやいますけれども、そりや家に病身の人がゐりや、自然しぜん陰氣いんきになりもしますわ。」

別に深い意味で謂いツたのでは無かツたが、俊男は何んだか自分に當付あてつけられたやうに思はれて、グツと癪しやくに障さわツた。

「フム、其それぢや何なんだな、お前は俺おれが此の家を陰氣にしてゐるといふんだね。」と冷靜に謂いツて、さて急に激越げきえつした語調となる。「成程なるほど一家いつかの中うちに、體の弱い陰氣な人間がゐたら、他はたの者は面白くないに定きまツてゐる。だが、虚弱きよじやくなのも陰欝いんうつなのも天性てんせいなら仕方がないぢやないか。人間の體質や性質といふものが、然さうヲイソレと直されるものぢやない。俺おれの虚弱なのと陰鬱なのとは性得うまれつきで、今更自分の力でも、また他ひとの力でも何どうすることも出來やしない。例たとへばお前の頬ほツぺたの紅あかいを引ひツ剥ぺがして、青くすることの出來ないやうな。」と細こまかに手先を顫ふるはせながら躍起やつきとなツて叫ぶ。

「ま、貴方あなたも大概たいがいにしときなさいよ。私は貴方あなたの體の虚弱なことや氣難きむづかしいことを惡いとも何なんとも謂いツたのぢやありません。ただ貴方あなたが家うちが淋しくツて不愉快だと仰有おつしやツたから、それは誰の故せいでもない、貴方あなた御自身の體が惡いからと謂いツたまでのことなんです。男らしくもない、弱い者いぢめも好いい加減かげんになさるものですよ。」とブツ〱いふ。其の態度が奈何いかにも冷ひやゝかで、謂いふこともキチンと條理でうりが立ツてゐる。

俊男は其の怜さかしい頭が氣に適くはぬ。また見たところ柔和にうわらしいのにも似ず、案外あんぐわい理屈りくつツぽいのと根性こんじやうツ骨ぽねの太いのが憎にくい。で、ギロリ、其の横顏を睨にらめ付けて、「然さうか。それぢやお前は、俺おれは馬鹿でお前が怜悧れいりだといふんだね。宜よろしい、弱い者いぢめといふんなら、俺おれは、ま、馬鹿になツてねるとしやう。俺おれの方が怜悧れいりになると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖然けれども近ちか、斷ことはツて置くが、陰欝いんうつなのは俺の性分で、書しよを讀むのと考へるのが俺の生命だ。丁度お前が浮世うきよの榮華えいぐわに憬あこがれてゐるやうに、俺は智識慾に渇かつしてゐる………だから社交も嫌いやなら、芝居見物も嫌さ。家を賑にぎやかにしろといふのは、何なにも人を寄せてキヤツ〱と謂いツてゐろといふのぢやない。お互たがひの間なかに暖あつたかい點とこがあツて欲しいといふことなんだ………が、俺おれの家では、お前も獨ひとりなら、俺も獨ひとりだ。お互に頑固に孤獨を守ツてゐるのだから、從したがツてお互に冷ひやツこい。いや、これも自然の結果なら仕方が無い。」

「何故なぜお互に獨ひとりになツてゐなければならないのでせう。」

「色が違ふからさ。お前は紅あかい、俺は青い。」

「それぢや何方どつちがえらいのでせう。」

「そりや何方どつちだか解わからんな。何方どつちでも自分の色の方にした方がえらいのだらう。」

「恰まるで喧嘩けんくわをしてゐるやうなものですのね。」

「無論然さうさ、夫婦といふものは、喧嘩をしながら子供を作こさへて行くといふに過ぎんものなんだ。」

「では私等わたしたちは何どうしたのでせう、喧嘩はしますけれども、子供は出來ないぢやありませんか。」

「恐らく體力が平均しないからだらう。お前からいふと、俺おれが虚弱きよじやくだからと謂いひたからうが、俺からいふとお前が強壯きやうさう過すぎると謂いひたいね。併しかし他一倍ひといちばい喧嘩けんくわをするから可いいぢやないか。夫婦の資格は充分だ………他人なら此樣こんなに衝突しようとつしちや一日も一緒にゐられたものぢやない。」

近子は成程なるほど然さうかとも思ツて、「ですけども、私等わたしたちは何んだツて此樣こんなに氣が合はないのでせう。」と心細いやうに染々しみ〲といふ。

「お互にスツかり缺點あらをさらけ出して了しまツたからよ。加之おまけに體力の不平均といふのも重かさなる原因になツてゐる。自體女は生理上から謂いツて娼妓しやうぎになツてゐる力のあるものなんだ、お前は殊に然さうだ!」

近子は眥きれの長い眼を嶮けはしくして、「何なんでございますツて。」

「ふゝゝゝ。」と俊男としをは快こゝろよげに笑出して、「腹が立ツたかね。」

「だツて其樣そんな侮辱ぶじよくをなさるんですもの。」

「侮辱ぢやない、こりや事實だ。尤もつとも女の眼から見たら男は馬鹿かも知れん。何樣どんな男でも、丁度俺のやうに、弱い體でもツて一生懸命に働いて、強壯な女を養やしなツてゐるのだからな。」

「其の代かはり女にはお産といふ大難だいなんがあるぢやありませんか。」

「そりや女の驕慢けうまんな根性こんじやうに對する自然の制裁せいさいさ。ところで嬰兒あかんぼに乳を飮ませるのがえらいかといふに、犬の母だツて小犬を育てるのだから、これも自慢じまんにはならん。とすれば女は殆ど無能力な動物を以もつて甘あまンじなければならん。ところが大概たいがいの男は此の無能力者に蹂躙じうりんされ苦しめられてゐる………こりや寧むしろ宇宙間に最も滑稽こつけいな現象と謂いはなければならんのだが、男が若い血の躁さわぐ時代には、本能の要求で女に引付けられる。此の引力が、やがて無能力者に絶大の權力を與へるやうなことになるのだから、女が威張ゐばりもすれば、ありもせぬ羽はねを伸のばさうとするやうになる。そこでさ、女は戀人として男に苦痛を與へると同時に歡樂くわんらくを與へるけれども、妻としては所天をつとに何等なんらの滿足も與へぬ、與へたとしても其それは交換的で、而しかも重い責任を擔になはせられやうといふものだから、大概の男は嬶かゝあの頭を撲なぐるのだ。簡明に謂いツたら、女といふやつは、男を離れて生存する資格のない分際ぶんざいで、男に向ツて、男が女を離れて生存することが出來ないかのやうな態度を取ツてゐるのだ。現げんにお前だツて然さうぢやないか。俺おれが幾ら體が虚弱だからと謂いツて、お前といふ女は、女といふ男を離れて、而しかも妻つまとして立派に生存して行かれるか。ま、考へて見ろ、俺が死んだら何どうする? 其の癖くせお前は、俺の體が虚弱きよじやくだとか、俺の性質が陰氣いんきだとか謂いツて、絶えず俺のことを罵倒ばたうしてゐる、罵倒しながら、俺おれに依ツて自己じこの存立そんりつを安全にしてゐるのだから、こりや狐よりも狡猾かうかつだ。何どうだ、お前はこれでも尚まだ、體の強壯なのを自慢として、俺を輕侮けいぶする氣か。青い顏は、必ずしも紅い顏に壓伏あつぷくされるものぢやないぞ。」と言訖いひをはツて、輕く肩を搖ゆすツて、快こゝろよげに冷笑せゝらわらふ。

近子ちかこは唇くちびるを噛かみながら、さも忌々いま〱しさうに、さも心外しんぐわいさうに、默ツて所天をつとの長談義ながだんぎを聽いてゐたが、「ですから、貴方あなたはおえらいのでございますよ。」と打突けるやうに謂いツて、「それぢや、これからもう、家が淋しいの冷ひやゝかだのと有仰おつしやらないで下さいまし。無能力な動物に何も出來やう筈がございませんわ。」

「フム、他ひとの言尻ことばじりを攫つかまへて反抗はんこうするんだな。」

「いゝえ、反抗は致しません。女に反抗する力なんかあツて耐たまるものですか。」と澄すましきツて謂いツて、「時にもうお午ひるでございませうから、御飯をお喫あがりなすツては?………」

「俺おれは尚まだ喰ひたくない。」

「でも私わたくしはお腹が空すいて來たんですもの。」

「ぢやお前勝手に先に喫たべれば可いいぢやないか。」

「だツて、然さうは參りません。」

「妙なことをいふね。お前は何時いつもお午ひるをヌキにして、晩の御飯まで俺おれを待ツてゐる次第しだいでもあるまい。」

「そりや然さうですけれども、家うちにゐらツしツて見れば、豈夫まさかお先へ戴くことも出來ないぢやありませんか。加之しかもビフテキを燒かせてあるのですから、暖あつたかい間うちに召喫めしあがツて頂戴な。ね、貴方あなた。」と少し押へた調子でせつくやうにいふ。

「ビフテキが燒いてある?………ほ、それは結構けつこうだね。お前は胃いの腑ふも強壯な筈だから、ウンと堪能たんのうするさ。俺は殘念ながら、知ツての通り、半熟はんじゆくの卵と牛乳で辛而やつと露命ろめいを繋つないでゐる弱虫だ。」と皮肉ひにくをいふ。

「ま、何處どこまで根性こんじやうがねぢくれてゐるのでせう。」と思ひながら、近子は瞥ちらと白い眼を閃ひらめかせ、ブイと茶の間の方へ行ツて了しまツた。遂々とう〱むかツ腹ぱらを立てゝ了しまツたので。

俊男は苦い顏で其後を見送ツてゐて、「俺おれは何を此樣こんなにプリ〱憤おこツてゐるんだ。何を?………自分ながら譯の解わからんことを謂いツたもんぢやないか。これも虚弱から來る生理的作用かな。」

と思ツて、また頽然ぐつたり考込む。

薄暗いやうな空に午砲ドンが籠こもツて響いた。

「成程お午ひるだ。」と呟つぶやき、「近ちかの腹の減へツたのが當前で、俺おれの方が病的なんだ。一體俺の體は何故なぜ此樣こんなに弱いのだらう。」

俊男の頭の中には今、自分が病身の爲に家庭に於ける種々さま〲なる出來事を思出した。思出すと其それが大概たいがい自分の病身といふに基因きゐんしてゐる。

「俺は何故なぜ此樣こんなに體が弱いのだらう。」と倩々つく〲と歎息たんそくする。

「一體俺おれは何どうして何樣こんなに意固地いこぢなんだらう。俺が惡く意固地だから、家が何時いつもごたすたしてゐる。成程俺は妻さいを虐いびり過ぎる………其そンなら妻が憎にくいのかといふに然さうでもない。豈夫まさかに追おン出す氣も無いのだから確たしかに然さうでない。雖然けれども妻に對して一種の反抗心を持ツてゐるのは事實だ………此反抗心は弱者が強者に對する嫉妬しつとなんだから、勢いきほひ憎惡ぞうをの念が起る………所詮つまり俺おれは妻が憎いのでなくツて、妻の強壯な體を憎むでゐるのだ。」

俊男としをは見るともなく自おのづと庭にはに蔓はびこツた叢くさむらに眼を移して力なささうに頽然ぐつたりと倚子いすに凭もたれた。

底本 / Source edition

底本:「明治文學全集 72 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集」筑摩書房
1969(昭和44)年5月25日第1刷発行
入力:小林徹
校正:山本奈津恵
1999年6月17日公開
2006年4月16日修正
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リリース / Release
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TEI
/works/000197_000022/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/000197_000022/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/000197_000022/

三島 霜川「青い顔」(旧字旧仮名)、底本『明治文學全集 72 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集』筑摩書房、1969年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000197_000022, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite