## 上

友だち　処でね、一つ承りたい事があるんだが。

<ruby><rb>世之助</rb><rt>よのすけ</rt></ruby>　何だい。馬鹿に改まつて。

友だち　それがさ。今日はふだんとちがつて、君が<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>に伊豆の何とか云ふ港から船を出して、<ruby><rb>女護</rb><rt>によご</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>へ渡らうと云ふ、その名残りの酒宴だらう。

世之助　さうさ。

友だち　だから、こんな事を云ひ出すのは、何だか一座の興を<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>ぐやうな気がして、<ruby><rb>太夫</rb><rt>たいふ</rt></ruby>の手前も、<ruby><rb>聊</rb><rt>いささか</rt></ruby>恐縮なんだがね。

世之助　そんならよせばいいぢやないか。

友だち　処が、よせないね。よせる位なら、始から云ひ出しはしない。

世之助　ぢや話すさ。

友だち　それがさ、さう中々簡単には行かない訳がある。

世之助　何故？

友だち　<ruby><rb>尋</rb><rt>き</rt></ruby>く方も、尋かれる方も、あんまり<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>い事ぢやないからね。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も君が<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>いいと云へば、私も度胸を据ゑて、承る事にするが。

世之助　何だい、一体。

友だち　まあさ、君は何だと思ふ。

世之助　ぢれつたい男だな。何だつて云へば。

友だち　いやさう開き直られると、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて云ひ出しにくいがね。つまり何さ。――この頃<ruby><rb>西鶴</rb><rt>さいかく</rt></ruby>が書いた本で見ると、君は七つの時から女を知つて……、

世之助　おい、おい、まさか意見をする気ぢやあるまいね。

友だち　大丈夫、叔父さんがまだ若すぎる。――そこで、六十歳の<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで、三千七百四十二人の女に戯れ……

世之助　こいつはちと手きびしいな。

友だち　まあさ、三千七百四十二人の女に戯れ、七百二十五人の<ruby><rb>少人</rb><rt>せうじん</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んだと云ふ事だが、あれは君、ほんたうかい。

世之助　ほんたうだよ。ほんたうだが、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>お<ruby><rb>手柔</rb><rt>てやはら</rt></ruby>かに願ひたいな。

友だち　それが、どうも私には少し<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>にうけられないんだね。いくら何だつて君、三千七百四十二人は多すぎるよ。

世之助　成程ね。

友だち　いくら君を尊敬した上でもだよ。

世之助　ぢや勝手に割引して置くさ。――<ruby><rb>太夫</rb><rt>たいふ</rt></ruby>が笑つてゐるぜ。

友だち　いくら太夫が笑つてゐても、この<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>にはすまされない。白状すればよし、さもなければ、――

世之助　盛りつぶすか。そいつは御免を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>らう。何もそんなにむづかしい事ぢやない。唯、私の<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>が、君のと少しちがつてゐるだけなんだ。

友だち　ははあ、すると<ruby><rb>一桁</rb><rt>ひとけた</rt></ruby>狂つたと云ふ次第かい。

世之助　いいえ。

友だち　ぢや――おい、どつちがぢれつたい男だつけ。

世之助　だが君も亦、つまらない事を気にしたもんだ。

友だち　気にするつて訳ぢやないが、私だつて男だらうぢやないか。何割引くか判然しない中は首を切られても、引きさがらない。

世之助　困つた男だな。それならお名残りに一つ、私の算盤のとり方を話さうか。――おい、加賀節はしばらく見合せだ。その<ruby><rb>祐善</rb><rt>すけよし</rt></ruby>の絵のある扇をこつちへよこしてくれ。それから、誰か<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>を切つて貰ひたいな。

友だち　いやに<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>だぜ――かう静になつて見ると、何だか桜もさむいやうだ。

世之助　ぢや、始めるがね。勿論唯一例を話すだけなんだから、どうかそのつもりに願ひたい。

## 中

もう<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>三十年ばかり昔の事だ。私が始めて、江戸へ下つた時に、たしか吉原のかへりだつたと思ふが、太鼓を二人ばかりつれて、<ruby><rb>角田川</rb><rt>すみだがは</rt></ruby>の渡しを渡つた事がある。どこの渡しだつたか、それも今では覚えてゐない。どこへ行くつもりだつたか、それももう忘れてしまつた。が、その時の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>だけは、かう云ふ<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にも、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げながら眼の前へ浮んで来る。……

何でも花曇りの<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>すぎで、川すぢ一帯、どこを見ても、煮え切らない、退屈な景色だつた。水も生ぬるさうに光つてゐれば、向う<ruby><rb>河岸</rb><rt>がし</rt></ruby>の<ruby><rb>家並</rb><rt>やなみ</rt></ruby>も、うつらうつら夢を見てゐるやうに思はれる。<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>をふり返ると、土手の松にまじつて、半開の桜が、べつたり<ruby><rb>泥絵具</rb><rt>どろゑのぐ</rt></ruby>をなすつてゐた。その又やけに白いのが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>になく重くるしい。その上少し時候はづれの暖さで、体さへ動かせば、すぐじつとりと汗がにじむ。勿論さう云ふ陽気だから、水の上にも、<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>程の風さへない。

乗合は三人で、一人は<ruby><rb>国姓爺</rb><rt>こくせんや</rt></ruby>の人形芝居からぬけ出して来たやうな、耳の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>取り、一人は廿七八の、眉をおとした<ruby><rb>町家</rb><rt>ちやうか</rt></ruby>の女房、もう一人はその<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>らしい、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をたらした<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でつち</rt></ruby>だつた。それが互に膝をつき合せて<ruby><rb>凡</rb><rt>およそ</rt></ruby>まん中どころに<ruby><rb>蹲</rb><rt>うづくま</rt></ruby>つたが、何分舟が小さいので、窮屈な事<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。そこへ又人が多すぎたせゐか、ともすれば、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>が水にひたりさうになる。が、船頭は一向平気なもので、無愛想な<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>の、竹の子笠をかぶつたのが、器用に右左へ<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>を使ふ。おまけにその棹の<ruby><rb>雫</rb><rt>しづく</rt></ruby>が、時々乗合の袖にかかるが、船頭はこれにも頓着する容子がない。――いや、平気なのは、まだ外にもある。それは例の<ruby><rb>甘輝</rb><rt>かんき</rt></ruby><ruby><rb>字</rb><rt>あざな</rt></ruby>は耳の垢とりで、怪しげな<ruby><rb>唐装束</rb><rt>からしやうぞく</rt></ruby>に鳥の<ruby><rb>羽毛</rb><rt>はね</rt></ruby>のついた帽子をかぶりながら、<ruby><rb>言上</rb><rt>ことあ</rt></ruby>げの<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>を肩に、獅子ヶ城の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>つたと云ふ形で、<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>の先へ陣どつたのが、船の出た時から、つけ<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をしごいては、しきりに鼻唄をうたつてゐる。眉のうすい、うけ<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>の、高慢な顔を、仔細らしくしやくりながら、「さん<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>土手下にぬしのない子がすててんある」と、そそるのだから、これには私ばかりか、太鼓たちも<ruby><rb>聊</rb><rt>いささか</rt></ruby>たじろいだらしい。

「唐人の『すててん節』は、はじめてでげす。」

一人が、扇をぱちつかせながら、情ない声を出して、かう云つた。すると、それが聞えたのだらう。私と向ひあつてゐた女房が、ちよいと耳の垢とりの方を見ると、すぐその眼を私にかへして、<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>かね</rt></ruby>をつけた歯を見せながら、愛想よく微笑した。黒い、つやつやした歯が、ちらりと唇を洩れたかと思ふと、右の頬にあさく<ruby><rb>靨</rb><rt>ゑくぼ</rt></ruby>が出来る。唇には紅がぬつてあるらしい。――それを見ると、私は妙にへどもどして、悪い事でも見つけられた時のやうな、一種の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しうち</rt></ruby>に襲はれてしまつた。

が、かう云つたばかりでは、唐突すぎる。<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>くは、この舟へ乗つたそもそもからあつたのだから。――と云ふのは、最初、土手を下りて、あぶなつかしい<ruby><rb>杭</rb><rt>くひ</rt></ruby>を力に、やつと舟へ乗つたと思ふと、足のふみどころが悪かつたので、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>が水をあほると同時に、大きく一つぐらりとゆれる。その拍子に、<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きやら</rt></ruby>の油のにほひが、ぷんと私の鼻を打つた。舟の中に、女がゐる――その位な事は、土手の上から川を見下した時に、知つてゐた。が、唯女がゐると云ふだけで、（<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>のかへりではあるし）それが格別痛切にさう思つてゐた訳でも何でもない。だから、伽羅の油のにほひを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐと、私は、まづ意外な感じがした。さうしてその意外の感じの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>には、すぐに一種の刺戟を感じた。

唯にほひだからと云つても、決して馬鹿にしたものではない。少くとも私にとつては、大抵な事が妙に嗅覚と関係を持つてゐる。早い話が子供の時の心もちだ。<ruby><rb>手習</rb><rt>てならひ</rt></ruby>に行くと、よくいたづらつ子にいぢめられる。それも、師匠に云ひつければ、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の<ruby><rb>祟</rb><rt>たたり</rt></ruby>が恐ろしい。そこで、涙をのみこんで、一生懸命に又、<ruby><rb>草紙</rb><rt>さうし</rt></ruby>をよごしに行く。さう云ふ時のさびしい、たよりのない心もちは、<ruby><rb>成人</rb><rt>おとな</rt></ruby>になるにつれて、忘れてしまふ。或は思ひ出さうとしても、容易に思ひ出し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い。それが腐つた<ruby><rb>灰墨</rb><rt>はひずみ</rt></ruby>のにほひを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐと、何時でも私には、そんな心もちがかへつて来る。さうして、子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる。――が、これは余事だ。私は唯、伽羅の油のにほひが、急にこの女房の方へ、私の注意を持つて行つた事さへ話せばよい。

さて、気がついて、相手を見ると、<ruby><rb>黒羽二重</rb><rt>くろはぶたへ</rt></ruby>の小袖に<ruby><rb>裾取</rb><rt>すそとり</rt></ruby>の<ruby><rb>紅</rb><rt>もみ</rt></ruby>うらをやさしく出した、<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りな女だつた。が、<ruby><rb>唐織寄縞</rb><rt>からおりよせじま</rt></ruby>の帯を前でむすんだ所と云ひ、<ruby><rb>投島田</rb><rt>なげしまだ</rt></ruby>に<ruby><rb>平元結</rb><rt>ひらもとゆひ</rt></ruby>をかけて<ruby><rb>対</rb><rt>つゐ</rt></ruby>のさし<ruby><rb>櫛</rb><rt>ぐし</rt></ruby>をした所と云ひ、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>とは思はれない位な、なまめかしさだ。顔はあの<ruby><rb>西鶴</rb><rt>さいかく</rt></ruby>の、「当世の顔はすこしまろく、色はうすはな桜にて」と云ふやつだが、「<ruby><rb>面道具</rb><rt>おもてだうぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>つ不足なく揃ひて」はちと<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない。<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>にかくれてはゐるが、<ruby><rb>雀斑</rb><rt>そばかす</rt></ruby>も少々ある。口もとや鼻つきも、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>下品だつた。が、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby><ruby><rb>生際</rb><rt>はえぎは</rt></ruby>がいいので、さう云ふ難も、大して目に立たない。――私はまだ残つてゐた<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の酔が、急にさめたやうな心もちがして、その女の側へ腰を下した。その下した時に又、曰くがある。

曰くといふのは、私の膝が、先方の膝にさはつたのだ。私は卵色<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の小袖を着てゐる。下は多分肌着に、隠し<ruby><rb>緋無垢</rb><rt>ひむく</rt></ruby>だつたらう。それでも、私には、向ふの膝がわかつた。着物を着た膝ではない。体の膝がわかつたのだ。<ruby><rb>柔</rb><rt>やはらか</rt></ruby>な円みの上に、かすかなくぼみが、うすく<ruby><rb>膚膩</rb><rt>あぶら</rt></ruby>をためてゐる――その膝がわかつたのだ。

私は、膝と膝とを合せたまま、太鼓を相手に気のない冗談を云ひながら、何かを待設けるやうな心もちで、ぢつと身動きもしないでゐた。勿論その間も、伽羅の油のにほひと、京おしろいのにほひとは、絶えず私の鼻を襲つて来る。そこへ、少したつ中には、今度は向ふの体温が、こちらの膝へ伝はつて来た。それを感じた時のむづ<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>いやうな一種の<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>は、到底形容する<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>がない。私は唯、それを私自身の動作に飜訳する事が出来るだけだ。――私は、眼を軽くつぶりながら、鼻の穴を大きくして、深くゆるやかな呼吸をした。それで君に、すべてを察して貰ふより外はない。

が、さう云ふ感覚的な心もちは、すぐにもう少し智的な欲望をよび起した。先方も私と同じ心もちでゐるだらうか。同じ感覚的な快さを感じてゐるだらうか。――それはかう云ふ疑問だつた。そこで私は、顔をあげて、わざと、平気を装ひながら、ぢつと向ふの顔を見た。が、そのつけやきばの平気は、すぐに裏切られるやうな運命を持つてゐた。何故かと云ふと、相手の女房は、その<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>汗ばんだ、顔の筋肉のゆるみ方と、吸ふものをさがしてゐるやうな、かすかな唇のふるへ方とで、私の疑問を明かに肯定してくれたから、さうして、その上に、私自身の心もちを知つてゐて、その知つてゐる事に、或満足を感じてゐる事さへも、わからせてくれたから――私は<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か恐縮しながら、てれがくしに太鼓の方をふりむいた。

「唐人の『すててん節』は<ruby><rb>始</rb><rt>はじめ</rt></ruby>てでげす。」

太鼓がかう云つたのは、丁度その時だつた。耳の垢とりの鼻唄を笑つた女房と、私が思はず眼を見合せて、一種の羞恥を感じたのは、偶然でない。が、その羞恥は、当時、女房に対して感じた羞恥のやうな気がしてゐたが、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になつて考へて見ると、実は女房以外の人間に対して感じた羞恥だつた。いや、さう云つては、まだ語弊がある。人間がさう云ふ場合、一切の他人（この場合なら、女房も入れて）に対して感じる羞恥だつた。これは当時の私が、さう云ふ羞恥を感じながら、女房に対しては、次第により大胆になれたのも、わかりはしないだらうか。

私は全身のあらゆる感覚を出来る丈鋭くしながら、<ruby><rb>香</rb><rt>かう</rt></ruby>を<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>する人のやうな態度で、相手の女房を「鑑賞した。」これは私が<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>すべての女に対してする事だから、大方君にも以前に話した事があるだらう。――私は稍汗ばんだ女の顔の皮膚と、その皮膚の放散するにほひとを<ruby><rb>味</rb><rt>あぢは</rt></ruby>つた。それから、感覚と感情との微妙な<ruby><rb>交錯</rb><rt>かうさく</rt></ruby>に反応する、みづみづしい眼の使ひを味つた。それから、血色のいい頬の上で、かすかに動いてゐる<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の影を味つた。それから、膝へのせた手の、うるほひのある、しなやかな、指のくみ方を味つた。それから、膝と腰とにわたる、むつちりした、弾力のある、ゆたかな肉づきを味つた。それから――かう話して行けば、際限がないから、やめにするが、兎に角私はその女房の体を、あらゆる点から味つた。敢て、あらゆる点と云つても、差支へはない。私は感官の力の足りない所を、想像の働きで補つた。或は、その上に又、推理の裏打さへも施した。私の視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温覚、圧覚、――どれ一つとして、この女房が満足させてくれなかつたものはない。いや実に、それ以上のものにさへ満足を与へてくれた。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

「忘れものをおしでないよ。」

それから、かう云ふ声を聞いた。さうしてそれと同時に、今まで見えなかつた、女の細い喉が見えた。その<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすは</rt></ruby>な、鼻にかかつた声と、白粉の少しむらになつた、肉のうすい喉とが、私に幾分の刺戟を与へるのは云ふまでもない。が、それよりも<ruby><rb>寧</rb><rt>むしろ</rt></ruby>、私を動かしたのは、<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でつち</rt></ruby>の方へふりむいた時の動作が、私の膝へ伝へてくれる、相手の膝の動き方であつた。私は前に、向ふの膝がわかつたと云つた。が、今はそれだけではない。向ふの膝のすべてが――それをつくつてゐる筋肉と関節とが、<ruby><rb>九年母</rb><rt>くねんぼ</rt></ruby>の実と<ruby><rb>核</rb><rt>たね</rt></ruby>とを舌の先にさぐるやうに、一つ一つ私には感じられた。黒羽二重の小袖は、私にとつてないにひとしかつたと云つても、過言ではない。これは、すぐ次に起つた最後の<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>くを知つたなら、君も認めない訳には行かないだらう。

やがて、舟は<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>についた。<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>がとんと<ruby><rb>杭</rb><rt>くひ</rt></ruby>にあたると、耳の垢とりは、一番に向ふへとび上る。その途端に私は、わざと舟のあほりを食つたやうに装つて、（乗る時にも、さうだつたので、これは至極自然に見えるだらうと思つてゐた。）よろけながら、手を<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>の上にある女房の手にかけた。さうして、太鼓に腰を支へられながら「これは失礼」と声をかけた。君はその時、私がどんな心もちだつたと思ふ？　私は、この接触から来る<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>強い刺戟を予想してゐた。恐らく私の今までの経験は、最後の仕上げを受ける事だらうとさへも思つてゐた。が、この予想は見事に、<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>れてしまつたのではないか。私は勿論、<ruby><rb>滑</rb><rt>なめらか</rt></ruby>な、<ruby><rb>寧</rb><rt>むしろ</rt></ruby>つめたい皮膚の手ざはりと、柔かい、しかも力のある筋肉の抵抗とを感じた。しかし、それらは、結局今までの経験の反復にすぎない。同じ刺戟は、回数と共に力を減じて来る。ましてこの時は予想が大きい。私は索漠とした心もちで、静に私の手をはなさなければならなかつた。もし私の今までの経験が、完全にこの女房の体を鑑賞したのでなかつたなら、かう云ふ失望はどうして、説明する事が出来るだらう。私はこの女を、感覚的に知りつくした。――どうしても、かう考へるより外はない。

これは、またかう云ふ事から考へて見ても、わかるだらう。それは私が<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのふ</rt></ruby>なじんだ吉原の太夫と、今の女房とを、私の心もちの上でくらべて見るとする。成程一人は<ruby><rb>一夜中</rb><rt>いちやぢゆう</rt></ruby>一しよに語りあかした。一人は<ruby><rb>僅</rb><rt>わづか</rt></ruby>の時間だけ、一つ舟に乗つてゐたのに過ぎない。が、その差別は、<ruby><rb>膚下一寸</rb><rt>ふかいつすん</rt></ruby>でなくなつてしまふ。どちらが私に、より多く満足を与へたか、それは殆どわからない。従つて、私が持つて居る愛惜も（もしさう云ふものがあるとすれば）全く同じやうなものである。私は右の耳に<ruby><rb>江戸清掻</rb><rt>えどすがが</rt></ruby>きの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を聞き、左の耳に<ruby><rb>角田川</rb><rt>すみだがは</rt></ruby>の水の音を聞いてゐるやうな心もちがした。さうしてそれが両方とも、同じ調子を出してゐるやうな心もちがした。

これは、私には兎も角も発見だつた。が、総じて、発見位、人間をさみしくするものはない。私は花曇りの下を、丁稚を<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>につれて、その眉のあとの青い女房が、「ぬきあし<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>びねりのあるきかた」で、耳の垢とりの<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から、桟橋を渡るのを見た時には、何とも云へずさびしかつた。勿論惚れた訳でも何でもない。唯向うでも大体私と同じやうな心もちでゐたと云ふ事は、私のさはつた手を動かさずにゐたのでも、わかるだらう。……

なに吉原の太夫？　太夫はまるでそれと反対な、小さい、人形のやうな、女だつた。

## 下

世之助　まづざつと、こんなものだつた。そこで、それ以来、その女のやうなものを関係した中へ勘定したから、合せて<ruby><rb>男女</rb><rt>なんによ</rt></ruby>四干四百六十七人に戯れた事になると云ふ次第さ。

友だち　成程、さう聞けば尤もらしい。だが……

世之助　だが、何だい。

友だち　だが、<ruby><rb>物騒</rb><rt>ぶつさう</rt></ruby>な話ぢやないか。さうなると、女房や娘はうつかり外へも出されない訳だからね。

世之助　物騒でも、それがほんたうなのだから、仕方がない。

友だち　して見ると、今にお上から、<ruby><rb>男女同席御法度</rb><rt>なんによどうせきごはつと</rt></ruby>の<ruby><rb>御布令</rb><rt>おふれ</rt></ruby>でも出かねなからう。

世之助　この頃のやうぢや、その中に出るかも知れないね。が、出る時分には、私はもう<ruby><rb>女護</rb><rt>によご</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>へ行つてゐる。

友だち　<ruby><rb>羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>せるぜ。

世之助　なに女護ヶ島へ行つたつて、ここにゐたつて、大してかはりはしない。

友だち　今の<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>のとり方にすれば、さうだらう。

世之助　どうせ何でも<ruby><rb>泡沫夢幻</rb><rt>はうまつむげん</rt></ruby>だからね。さあ改めて、加賀節でも承らう。

（大正六年四月）