千八百八十年五月何日かの日暮れ方である。二年ぶりにヤスナヤ・ポリヤナを訪れた Ivan Turgenyef は<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の Tolstoi 伯爵と一しよに、ヴアロンカ川の向うの雑木林へ、<ruby><rb>山鴫</rb><rt>やましぎ</rt></ruby>を打ちに出かけて行つた。

鴫打ちの一行には、この二人の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>の外にも、まだ若々しさの失せないトルストイ夫人や、犬をつれた子供たちが加はつてゐた。

ヴアロンカ川へ出るまでの路は、大抵麦畑の中を通つてゐた。日没と共に生じた微風は、その麦の葉を渡りながら、静に土の匂を運んで来た。トルストイは銃を肩にしながら、誰よりも先に歩いて行つた。さうして時々後を向いては、トルストイ夫人と歩いてゐるトウルゲネフに話しかけた。その度に「父と子と」の作家は、やや驚いたやうに眼を挙げながら、嬉しさうに滑らかな返事をした。時によると又幅の広い肩を揺すつて、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しはが</rt></ruby>れた笑ひ声を洩す事もあつた。それは<ruby><rb>無骨</rb><rt>ぶこつ</rt></ruby>なトルストイに比べると、上品な趣があると同時に、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か女らしい答ぶりだつた。

路がだらだら坂になつた時、兄弟らしい村の子供が、向うから二人走つて来た。彼等はトルストイの顔を見ると、一度に足を止めて目礼をした。それから又元のやうに、はだしの足の裏を見せながら、勢よく坂を駈け上つて行つた。トルストイの子供たちの中には、後から彼等へ何事か、大声に呼びかけるものもあつた。が、二人はそれも聞えないやうに、見る見る麦畑の向うに隠れてしまつた。

「村の子供たちは面白いよ。」

トルストイは<ruby><rb>残曛</rb><rt>ざんくん</rt></ruby>を顔に受けながら、トウルゲネフの方を振返つた。

「ああ云ふ連中の言葉を聞いてゐると、我々には思ひもつかない、<ruby><rb>直截</rb><rt>ちよくせつ</rt></ruby>な云ひまはしを教へられる事がある。」

トウルゲネフは微笑した。今の彼は昔の彼ではない。昔の彼はトルストイの言葉に、子供らしい感激を感じると、我知らず皮肉に出勝ちだつた。……

「この間もああ云ふ連中を教えてゐると、――」

トルストイは話し続けた。

「いきなり一人、教室を飛び出さうとする子供があるのだね。そこで何処へ行くのだと<ruby><rb>尋</rb><rt>き</rt></ruby>いて見たら、<ruby><rb>白墨</rb><rt>チヨオク</rt></ruby>を食ひ欠きに行くのですと云ふのだ。貰ひに行くとも云はなければ、折つて来るとも云ふのではない。食ひ欠きに行くと云ふのだね。かう云ふ言葉が使へるのは、現に<ruby><rb>白墨</rb><rt>チヨオク</rt></ruby>を噛じつてゐる<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の子供があるばかりだ。我々大人には到底出来ない。」

「成程、これは露西亜の子供に限りさうだ。その上僕なぞはそんな話を聞かされると、しみじみ露西亜へ帰つて来たと云ふ心持がする。」

トウルゲネフは今更のやうに、麦畑へ眼を漂はせた。

「さうだらう。<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>なぞでは子供までが、巻煙草位は吸ひ兼ねない。」

「さう云へばあなたもこの頃は、さつぱり煙草を召し上らないやうでございますね。」

トルストイ夫人は夫の悪謔から、巧妙に客を救ひ出した。

「ええ、すつかり煙草はやめにしました。<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>に二人美人がゐましてね、その人たちは私が煙草臭いと、接吻させないと云ふものですから。」

今度はトルストイが苦笑した。

その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、<ruby><rb>鴫打</rb><rt>しぎう</rt></ruby>ちの場所へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いた。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>は川から遠くない、雑木林が<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>になつた、湿気の多い草地だつた。

トルストイはトウルゲネフに、最も好い打ち場を譲つた。そして彼自身はその打ち場から、百五十歩ばかり遠のいた、草地の一隅に位置を定めた。それからトルストイ夫人はトウルゲネフの側に、子供たちは彼等のずつと後に、各々分れてゐる事になつた。

空はまだ赤らんでゐた。その空を<ruby><rb>絡</rb><rt>かが</rt></ruby>つた木々の梢が、一面にぼんやり煙つてゐるのは、もう匂の高い若芽が、<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>つてゐるのに違ひなかつた。トウルゲネフは銃を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げたなり、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かすやうに木々の間を眺めた。薄明い林の中からは、時々風とは云へぬ程の風が、気軽さうな<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>りを漂はせて来た。

「駒鳥や<ruby><rb>鶸</rb><rt>ひは</rt></ruby>が<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いて居ります。」

トルストイ夫人は首を傾けながら、独り<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>のやうにかう云つた。

<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に沈黙の半時間が過ぎた。

その間に空は水のやうになつた。同時に<ruby><rb>遠近</rb><rt>をちこち</rt></ruby>の樺の幹が、それだけ白々と見えるやうになつた。駒鳥や<ruby><rb>鶸</rb><rt>ひは</rt></ruby>の声の代りに、今は唯<ruby><rb>五十雀</rb><rt>ごじふから</rt></ruby>が、稀に鳴き声を送つて来る、――トウルゲネフはもう一度、<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>な木々の中を透かして見た。が、今度は林の奥も、あら方<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆふや</rt></ruby>みに沈んでゐた。

この時一発の銃声が、突然林間に響き渡つた。後に待つてゐた子供たちは、その反響がまだ消えない内に、犬と先を争ひながら、獲物を拾ひに駈けて行つた。

「御主人に先を越されました。」

トウルゲネフは微笑しながら、トルストイ夫人を振り返つた。

やがて二男のイリアが母の所へ、草の中を走つて来た。さうしてトルストイの射止めたのは、<ruby><rb>山鴫</rb><rt>やましぎ</rt></ruby>だと云ふ報告をした。

トウルゲネフは口を挾んだ。

「誰が見つけました？」

「ドオラ（犬の名）が見つけたのです。――見つけた時は、まだ生きてゐましたよ。」

イリアは又母の方を向くと、健康さうな頬を<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせながら、その山鴫が見つかつた時の一部始終を話して聞かせた。

トウルゲネフの空想には、「猟人日記」の一章のやうな、小品の光景がちらりと浮んだ。

イリアが帰つて行つた後は、又元の通り静かになつた。薄暗い林の奥からは、春らしい若芽の匂だの湿つた土の匂だのが、しつとりとあたりへ溢れて来た。その中に何か眠さうな鳥が、時たま遠くに啼く声がした。

「あれは、――？」

「<ruby><rb>縞蒿雀</rb><rt>しまあをじ</rt></ruby>です。」

トウルゲネフはすぐに返事をした。

縞蒿雀は忽ち啼きやんだ。それぎり<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>は夕影の木々に、ぱつたり<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>りが途絶えてしまつた。空は、――微風さへ全然落ちた空は、その生気のない林の上に、だんだん蒼い色を沈めて来る、――と思ふと<ruby><rb>鳧</rb><rt>けり</rt></ruby>が一羽、寂しい声を飛ばせながら、頭の上を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けて通つた。

再び一発の銃声が、林間の寂寞を破つたのは、それから一時間も後の事だつた。

「リヨフ・ニコラエヰツチは鴫打ちでも、やはり私を負かしさうです。」

トウルゲネフは眼だけ笑ひながら、ちよいと肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かせた。

子供たちが皆駈けだした音、ドオラが時々吠え立てる声、――それがもう一度静まつた時には、既に冷かな星の光が、点々と空に散らばつてゐた。林も今は見廻す限り、ひつそりと夜を封じた儘、枝一つ動かす<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もなかつた。二十分、三十分、――退屈な時が過ぎると共に、この暮れ尽した湿地の上には、何処か薄明い春の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が、ぼんやり足もとへ這ひ寄り始めた。が、彼等のゐまはりへは、<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に一羽も鴫らしい鳥は、現れるけはひが見えなかつた。

「今日はどう致しましたかしら。」

トルストイ夫人の<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きには、気の毒さうな調子も交つてゐた。

「こんなことは滅多にないのでございますけれども、――」

「奥さん、御聞きなさい。夜鶯が啼いてゐます。」

トウルゲネフは殊更に、縁のない方面へ話題を移した。

暗い林の奥からは、実際もう夜鶯が、朗かな声を漂はせて来た。二人は<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby><ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、別々の事を考へながら、ぢつとその声に聞き入つてゐた。……

すると急に、――トウルゲネフ自身の言葉を借りれば、「しかしこの『急に』がわかるものは、唯猟人ばかりである。」――急に向うの草の中から、紛れやうのない啼き声と共に、一羽の山鴫が舞上つた。山鴫は<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れた木々の間に、薄白い羽裏を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせながら、すぐに<ruby><rb>宵暗</rb><rt>よひやみ</rt></ruby>へ消えようとする、――トウルゲネフはその瞬間、銃を肩に当てるが早いか、器用にぐいと引き金を引いた。

一抹の煙と短い火と、――銃声は静な林の奥へ、長い反響を轟かせた。

「<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>つたかね？」

トルストイはこちらへ歩み寄りながら、声高に彼へ問ひかけた。

「<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>つたとも。石のやうに落ちて来た。」

子供たちはもう犬と一しよに、トウルゲネフの周囲へ集まつてゐた。

「探して御出で。」

トルストイは彼等に云ひつけた。

子供たちはドオラを先に、其処此処と獲物を探し歩いた。が、いくら探して見ても、<ruby><rb>山鴫</rb><rt>やましぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>は見つからなかつた。ドオラも<ruby><rb>遮二無二</rb><rt>しやにむに</rt></ruby>駈け廻つては、時々草の中へ<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ儘、不足さうに唸るばかりだつた。

しまひには、トルストイやトウルゲネフも、子供たちへ助力を与へに来た。しかし山鴫は何処へ行つたか、やはり羽根さへも見当らなかつた。

「ゐないやうだね。」

二十分の後トルストイは、暗い木々の間に佇みながら、トウルゲネフの方へ言葉をかけた。

「ゐない訳があるものか？　石のやうに落ちるのを見たのだから、――」

トウルゲネフはかう云ひながらも、あたりの草むらを見廻してゐた。

「<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>つた事は中つても、羽根へ中つただけだつたかも知れない。それなら落ちてからも逃げられる筈だ。」

「いや、羽根へ中つただけではない。確に僕は仕止めたのだ。」

トルストイは当惑さうに、ちよいと太い眉をひそめた。

「では犬が見つけさうなものだ。ドオラは仕止めた鳥と云へば、きつと<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へて来るのだから、――」

「しかし実際仕止めたのだから仕方がない。」

トウルゲネフは銃を抱へた儘、<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさうな手真似をした。

「仕止めたか、仕止めないか、その位な区別は子供にもわかる。僕はちやんと見てゐたのだ。」

トルストイは<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>ふやうに、じろりと相手の顔を眺めた。

「それでは犬はどうしたのだ？」

「犬なぞは僕の知つた事ではない。僕は唯見た通りを云ふのだ。何しろ石のやうに落ちて来たのだから、――」

トウルゲネフはトルストイの眼に、挑戦的な光を見ると、思はずかう金切声を出した。

「Il est tombé comme pierre, je t'assure \!」

「しかしドオラが見つけない筈はない。」

この時幸ひトルストイ夫人が、二人の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>に笑顔を見せながら、さりげない仲裁を試みに来た。夫人は明朝もう一度、子供たちを探しによこすから、今夜はこの儘トルストイの屋敷へ、引き上げた方が好からうと云つた。トウルゲネフはすぐに賛成した。

「ではさう願ふ事にしませう。明日になればきつとわかります。」

「さうだね、明日になればきつとわかるだらう。」

トルストイはまだ不服さうに、意地の悪い反語を投げつけると、突然トウルゲネフへ背を見せながら、さつさと林の外へ歩き出した。……

トウルゲネフが寝室へ退いたのは、その夜の十一時前後だつた。彼はやつと独りになると、どつかり椅子へ坐つた儘、茫然とあたりを眺め廻した。

寝室は<ruby><rb>平生</rb><rt>ふだん</rt></ruby>トルストイが、書斎に<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めてゐる一室だつた。大きな書架、<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>の中の半身像、三四枚の肖像の額、壁にとりつけた牡鹿の頭、――彼の周囲にはそれらの物が、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>の光に照らされながら、少しも派手な色彩のない、冷かな空気をつくつてゐた。が、それにも関らず、単に独りになつたと云ふ事が、兎に角今夜のトウルゲネフには、不思議な程嬉しい気がするのだつた。

――彼が寝室へ退く前、主客は一家の男女と共に、茶の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テエブル</rt></ruby>を囲みながら、雑談に夜を<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしてゐた。トウルゲネフは出来得る限り、快活に笑つたり話したりした。しかしトルストイはその間でも、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>浮かない顔をしたなり、滅多に口も開かなかつた。それが始終トウルゲネフには、<ruby><rb>面憎</rb><rt>つらにく</rt></ruby>くもあれば無気味でもあつた。だから彼は一家の男女に、ふだんよりも愛嬌を振り<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いては、わざと主人の沈黙を無視するやうに振舞はうとした。

一家の男女はトウルゲネフが、軽妙な諧謔を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>する度に、何れも愉快さうな笑ひ声を立てた。殊に彼が子供たちに、ハムブルグの動物園の象の声だの、巴里のガルソンの身ぶりだのを巧みに真似て見せる時は、一層その笑ひ声が高くなつた。が、一座が陽気になればなる程、トウルゲネフ自身の心もちは、<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>妙に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎこち</span>ない息苦しさを感ずるばかりだつた。

「君はこの頃有望な新進作家が出たのを知つてゐるか？」

話題が<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>の文芸に移つた時、とうとう不自然な社交家ぶりに、堪へられなくなつたトウルゲネフは、突然トルストイを顧みながら、わざと気軽さうに声をかけた。

「知らない。何と云ふ作家だ？」

「ド・モウパスサン。――ギイ・ド・モオパスサンと云ふ作家だがね。少くとも外に真似手のない、<ruby><rb>犀利</rb><rt>さいり</rt></ruby>な観察眼を具へた作家だ。――丁度今僕の鞄の中には、La Maison Tellier と云ふ小説集がはひつてゐる。暇があつたら読んで見給へ。」

「ド・モオパスサン？」

トルストイは疑はしさうに、ちよいと相手の顔を眺めた。が、それぎり小説の事は、読むとも読まないとも答へずにしまつた。トウルゲネフは幼い時分、意地の悪い年上の子供にいぢめられた覚えがある、――丁度そんな<ruby><rb>情無</rb><rt>なさけな</rt></ruby>さが、この時も胸へこみ上げて来た。

「新進作家と云へばこちらへも、珍しい方が一人御見えになりましたよ。」

彼の当惑を察したトルストイ夫人は、早速風変りな訪問客の話をし始めた。――一月ばかり前の或暮れ方、余り身なりの好くない青年が、是非主人に会ひたいと云ふから、兎に角奥へ通して見ると、初対面の主人に向つて、「取りあへずあなたに頂きたいのは、<ruby><rb>火酒</rb><rt>ウオツカ</rt></ruby>と<ruby><rb>鯡</rb><rt>にしん</rt></ruby>の<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しつぽ</rt></ruby>です。」と云ふ。そればかりでも既に驚かされたが、この又異様な青年が、既に多少は名声のある、新しい作家の一人だつたのには、<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>驚かずにはゐられなかつた。……

「それがガルシンと云ふ方でした。」

トウルゲネフはこの名を聞くと、もう一度雑談の圏内へ、トルストイを誘つて見る気になつた。と云ふのは相手の打ち融けないのが、<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>不快になつた外にも、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て彼はトルストイに、始めてガルシンの作物を紹介した縁故があるからだつた。

「ガルシンでしたか？――あの男の小説も悪くはあるまい。君はその後、何を読んだか知らないが、――」

「悪くはないやうだ。」

それでもトルストイは冷然と、好い加減な返事をしただけだつた。――

トウルゲネフはやつと身を起すと、<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>の頭を振りながら、静に書斎の中を歩き出した。小さな<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上の蝋燭の火は、彼が行つたり来たりする度に、壁へ映つた彼の影を大小さまざまに変化させた。が、彼は黙然と、両手を後に組んだ儘、<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>さうな眼は何時までも、裸の床を離れなかつた。

トウルゲネフの心の中には、彼がトルストイと親しくしてゐた、二十余年以前の追憶が、一つ一つ<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に浮んで来た。放蕩に放蕩を重ねては、ペテルブルグの彼の家へ、<ruby><rb>屡</rb><rt>しばしば</rt></ruby>眠りに帰つて来た、将校時代のトルストイ、――ネクラゾフの客間の一つに、傲然と彼を眺めながら、ヂオルヂユ・サンドの攻撃に一切を忘れてゐたトルストイ、――スパスコイエの林間に、彼と散歩の足を止めては、夏の雲の美しさに感歎の声を洩らしてゐた、「三人の軽騎兵」時代のトルストイ、――それから最後にはフエツトの家で、二人とも<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を握つた儘、一生の悪罵を相手の顔へ投げつけた時のトルストイ、――それらの追憶のどれを見ても、我執の強いトルストイは、徹頭徹尾他人の中に、真実を認めない人間だつた。常に他人のする事には、虚偽を感ずる人間だつた。これは他人のする事が、何も彼のする事と矛盾してゐる時のみではない。たとひ彼と同じやうに、放蕩をしてゐたものがあつても、彼は彼自身を<ruby><rb>恕</rb><rt>ゆる</rt></ruby>すやうに他人を恕す事が出来なかつた。彼には他人が彼のやうに、夏の雲の美しさを感じてゐると云ふ事すら、すぐに信用は出来ないのである。彼がサンドを憎んだのも、やはり彼女の真実に疑を抱いたからだつた。一時彼がトウルゲネフと、絶交するやうになつたのも、――いや、現に彼はトウルゲネフが、山鴫を射落したと云ふ事にも、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>嘘を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけてゐる。……

トウルゲネフは大きな息をしながら、ふと<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>の前に足を止めた。龕の中には大理石の像が、遠い蝋燭の光を受けた、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない影に浮き出してゐる、――それはリヨフには長兄に当る、ニコライ・トルストイの半身像だつた。思へば彼とも親しかつた、この情愛の厚いニコライが、故人の数にはひつて以来、二十年あまりの日月は、何時の間にか過ぎてしまつた。もしニコライの半分でも、リヨフに他人の感情を思ひやる事が出来たなら、――トウルゲネフは長い間、春の夜の更けるのも知らないやうに、この<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い龕の中の像へ、寂しさうな眼を注いでゐた。……

翌朝トウルゲネフはやや早めに、特にこの家では食堂に定められた、二階の<ruby><rb>客間</rb><rt>ザラ</rt></ruby>へ出かけて行つた。<ruby><rb>客間</rb><rt>ザラ</rt></ruby>の壁には先祖の肖像画が、何枚も壁に並んでゐる、――その肖像画の一つの下に、トルストイは<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>へ向ひながら、郵便物に眼を通してゐた。が、彼の外にはまだ子供たちも、誰一人姿は見せなかつた。

二人の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>は挨拶をした。

その間もトウルゲネフは、相手の顔色を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ひながら、少しでも其処に好意が見えれば、すぐに<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>する<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>だつた。がトルストイはまだ気むづかしさうに、二言三言話した後は、又前のやうに黙々と、郵便物の調べにとりかかつた。トウルゲネフはやむを得ず、手近の椅子を一つ引き寄せると、これもやはり無言の儘、<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上の新聞を読み始めた。

陰気な<ruby><rb>客間</rb><rt>ザラ</rt></ruby>は<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>の間、<ruby><rb>湯沸</rb><rt>サモワル</rt></ruby>のたぎる音の外には、何の物音も聞えなかつた。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はよく眠られたかね？」

郵便物に眼を通してしまふと、トルストイは何と思つたか、かうトウルゲネフへ声をかけた。

「よく眠られた。」

トウルゲネフは新聞を下した。さうしてもう一度トルストイが、話しかける時を待つてゐた。が、主人は銀の手のついたコツプへ、<ruby><rb>湯沸</rb><rt>サモワル</rt></ruby>の茶を落しながら、それぎり何とも口を利かなかつた。

かう云ふ事が一二度続いた後、トウルゲネフは丁度<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のやうに、不機嫌なトルストイの顔を見てゐるのが、だんだん苦しくなり始めた。殊に<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>は余人がゐないだけ、一層彼には心のやり場が、何処にもないやうな気がするのだつた。せめてトルストイ夫人でもゐてくれたら、――彼は苛立たしい<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中に、何度となくかう思つた。が、この<ruby><rb>客間</rb><rt>ザラ</rt></ruby>へはどうしたものか、<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に人のはひつて来るけはひさへも見えなかつた。

五分、十分、――トウルゲネフはとうとうたまり兼ねたやうに、新聞を其処へ<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出すと、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>さうらう</rt></ruby>と椅子から立ち上つた。

その時<ruby><rb>客間</rb><rt>ザラ</rt></ruby>の戸の外には、突然大勢の話し声や靴の音が聞え出した。それが皆先を争ふやうに、どやどや階段を駈け上つて来る――と思ふと次の瞬間には、乱暴に戸が開かれるが早いか、五六人の男女の子供たちが、口々に何かしやべりながら、一度に部屋の中へ飛びこんで来た。

「お父様、ありましたよ。」

先に立つたイリヤは得意さうに、手に下げた物を振つて見せた。

「私が<ruby><rb>始</rb><rt>はじめ</rt></ruby>見つけたのよ。」

母によく似たタテイアナも、弟に負けない声を挙げた。

「落ちる時にひつかかつたのでせう。<ruby><rb>白楊</rb><rt>はくやう</rt></ruby>の枝にぶら下つてゐました。」

最後にかう説明したのは、一番<ruby><rb>年嵩</rb><rt>としかさ</rt></ruby>のセルゲイだつた。

トルストイは<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられたやうに、子供たちの顔を見廻してゐた。が、昨日の山鴫が無事に見つかつた事を知ると、忽ち彼の<ruby><rb>髯深</rb><rt>ひげぶか</rt></ruby>い顔には、晴れ晴れした微笑が浮んで来た。

「さうか？　木の枝にひつかかつてゐたのか？　それでは犬にも見つからなかつた筈だ。」

彼は椅子を離れながら、子供たちにまじつたトウルゲネフの前へ、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい右手をさし出した。

「イヴアン・セルゲエヰツチ。これで僕も安心が出来る。僕は嘘をつくやうな人間ではない。この鳥も下に落ちてゐれば、きつとドオラが拾つて来たのだ。」

トウルゲネフは<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>恥しさうに、しつかりトルストイの手を握つた。見つかつたのは山鴫か、それとも「アンナ・カレニナ」の作家か、――「父と子と」の作家の胸には、その判断にも迷ふ位、泣きたいやうな喜ばしさが、何時か一ぱいになつてゐたのだつた。

「僕だつて嘘をつくやうな人間ではない。見給へ。あの通りちやんと仕止めてあるではないか？　何しろ銃が鳴ると同時に、石のやうに落ちて来たのだから、――」

二人の翁は顔を見合せると、云ひ合せたやうに哄笑した。

（大正九年十二月）