一

或春の日暮です。

唐の都<ruby><rb>洛陽</rb><rt>らくやう</rt></ruby>の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。

若者は名は<ruby><rb>杜子春</rb><rt>とししゆん</rt></ruby>といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ひ<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>して、その日の暮しにも困る位、<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>な身分になつてゐるのです。

何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、<ruby><rb>往来</rb><rt>わうらい</rt></ruby>にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた<ruby><rb>紗</rb><rt>しや</rt></ruby>の帽子や、<ruby><rb>土耳古</rb><rt>トルコ</rt></ruby>の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>が、絶えず流れて行く<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>は、まるで画のやうな美しさです。

しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いた霞の中に、まるで爪の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。

「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」

杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。

するとどこからやつて来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、ぢつと杜子春の顔を見ながら、

「お前は何を考へてゐるのだ。」と、<ruby><rb>横柄</rb><rt>わうへい</rt></ruby>に言葉をかけました。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」

老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な答をしました。

「さうか。それは可哀さうだな。」

老人は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く何事か考へてゐるやうでしたが、やがて、往来にさしてゐる夕日の光を指さしながら、

「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」

「ほんたうですか。」

杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行つたか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なほ</rt></ruby>白くなつて、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>かうもり</rt></ruby>が二三匹ひらひら舞つてゐました。

二

<ruby><rb>杜子春</rb><rt>とししゆん</rt></ruby>は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

大金持になつた杜子春は、すぐに立派な家を買つて、<ruby><rb>玄宗</rb><rt>げんそう</rt></ruby>皇帝にも負けない位、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な暮しをし始めました。<ruby><rb>蘭陵</rb><rt>らんりよう</rt></ruby>の酒を買はせるやら、桂州の<ruby><rb>竜眼肉</rb><rt>りゆうがんにく</rt></ruby>をとりよせるやら、日に四度色の変る<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>を庭に植ゑさせるやら、<ruby><rb>白孔雀</rb><rt>しろくじやく</rt></ruby>を何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、<ruby><rb>香木</rb><rt>かうぼく</rt></ruby>の車を造らせるやら、象牙の椅子を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へるやら、その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位です。

するとかういふ<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby>かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんぢく</rt></ruby>生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすゐ</rt></ruby>の蓮の花を、十人は<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めなう</rt></ruby>の牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのです。

しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに<ruby><rb>贅沢家</rb><rt>ぜいたくや</rt></ruby>の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。するとやはり昔のやうに、片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人が、どこからか姿を現して、

「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。

杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、

「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐る恐る返事をしました。

「さうか。それは可哀さうだな、ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」　

老人はかう言つたと思ふと、今度も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>人ごみの中へ、掻き消すやうに隠れてしまひました。

杜子春はその翌日から、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、<ruby><rb>仕放題</rb><rt>しはうだい</rt></ruby>な贅沢をし始めました。庭に咲いてゐる牡丹の花、その中に眠つてゐる白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。

ですから車に一ぱいあつた、あの<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい黄金も、又三年ばかり<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>つ内には、すつかりなくなつてしまひました。

三

「お前は何を考へてゐるのだ。」

片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問ひかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を眺めながら、ぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでゐたのです。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」

「さうか。それは可哀さうだな。ではおれが好いことを教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの――」

老人がここまで言ひかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>りました。

「いや、お金はもう入らないのです。」

「金はもう入らない？　ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」

老人は<ruby><rb>審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」

杜子春は不平さうな顔をしながら、<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つつけんどん</rt></ruby>にかう言ひました。

「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ？」

「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も<ruby><rb>追従</rb><rt>つゐしよう</rt></ruby>もしますけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい顔さへもして見せはしません。そんなことを考へると、たとひもう一度大金持になつた所が、何にもならないやうな気がするのです。」

老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました。

「さうか。いや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」

杜子春はちよいとためらひました。が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、訴へるやうに老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になつて、仙術の修業をしたいと思ふのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でせう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になつて、不思議な仙術を教へて下さい。」

老人は眉をひそめた儘、暫くは黙つて、何事か考へてゐるやうでしたが、やがて又につこり笑ひながら、

「いかにもおれは<ruby><rb>峨眉山</rb><rt>がびさん</rt></ruby>に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでゐる、<ruby><rb>鉄冠子</rb><rt>てつくわんし</rt></ruby>といふ仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好ささうだつたから、二度まで大金持にしてやつたのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやらう。」と、快く願を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れてくれました。

杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に<ruby><rb>御時宜</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をしました。

「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。――が、兎も角もまづおれと一しよに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>、ここに竹杖が一本落ちてゐる。では早速これへ乗つて、一飛びに空を渡るとしよう。」

鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、口の中に<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゆもん</rt></ruby>を唱へながら、杜子春と一しよにその竹へ、馬にでも乗るやうに<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち竜のやうに、勢よく大空へ舞ひ上つて、晴れ渡つた春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。

杜子春は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、（とうに霞に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れたのでせう。）どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱ひ出しました。

<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に北海に遊び、暮には<ruby><rb>蒼梧</rb><rt>さうご</rt></ruby>。

<ruby><rb>袖裏</rb><rt>しうり</rt></ruby>の<ruby><rb>青蛇</rb><rt>せいだ</rt></ruby>、<ruby><rb>胆気</rb><rt>たんき</rt></ruby><ruby><rb>粗</rb><rt>そ</rt></ruby>なり。

三たび<ruby><rb>嶽陽</rb><rt>がくやう</rt></ruby>に入れども、人識らず。

朗吟して、<ruby><rb>飛過</rb><rt>ひくわ</rt></ruby>す洞庭湖。

四

二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞ひ下りました。

そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるものは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。

二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、

「おれはこれから天上へ行つて、<ruby><rb>西王母</rb><rt>せいわうぼ</rt></ruby>に御眼にかかつて来るから、お前はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなくなると、いろいろな<ruby><rb>魔性</rb><rt>ましやう</rt></ruby>が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」と言ひました。

「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐます。」

「さうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行つて来るから。」

老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>つて、夜目にも削つたやうな山々の空へ、一文字に消えてしまひました。

杜子春はたつた一人、岩の上に坐つた儘、静に星を眺めてゐました。すると<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>半時ばかり経つて、深山の夜気が肌寒く薄い着物に<ruby><rb>透</rb><rt>とほ</rt></ruby>り出した頃、突然空中に声があつて、

「そこにゐるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。

しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにゐました。

所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>しつけるのです。

杜子春は勿論黙つてゐました。

と、どこから登つて来たか、<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>と眼を光らせた虎が一匹、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高く<ruby><rb>哮</rb><rt>たけ</rt></ruby>りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思ふと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の<ruby><rb>白蛇</rb><rt>はくだ</rt></ruby>が一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。

杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。

虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ふのか、暫くは睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなのです。杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待つてゐました。

すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しよに<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>のやうな雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つてゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの<ruby><rb>峨眉山</rb><rt>がびさん</rt></ruby>も、<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがへ</rt></ruby>るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、<ruby><rb>鉄冠子</rb><rt>てつくわんし</rt></ruby>の留守をつけこんだ、魔性の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>に違ひありません。杜子春は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。

が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろひ</rt></ruby>を<ruby><rb>着下</rb><rt>きくだ</rt></ruby>した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に<ruby><rb>三叉</rb><rt>みつまた</rt></ruby>の<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を<ruby><rb>嗔</rb><rt>いか</rt></ruby>らせて叱りつけるのを聞けば、

「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびやく</rt></ruby>の昔から、おれが<ruby><rb>住居</rb><rt>すまひ</rt></ruby>をしてゐる所だぞ。それも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。

しかし杜子春は老人の言葉通り、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでゐました。

「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」

神将は<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に<ruby><rb>充満</rb><rt>みちみ</rt></ruby>ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。

この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」

神将はかう<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くが早いか、<ruby><rb>三叉</rb><rt>みつまた</rt></ruby>の<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。

北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あふむ</rt></ruby>けにそこへ倒れてゐました。

五

杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

この世と地獄との間には、<ruby><rb>闇穴道</rb><rt>あんけつだう</rt></ruby>といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて<ruby><rb>森羅殿</rb><rt>しんらでん</rt></ruby>といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。

御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な<ruby><rb>袍</rb><rt>きもの</rt></ruby>に金の<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>に聞いた、<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまづ</rt></ruby>いてゐました。

「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた？」

閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の<ruby><rb>笏</rb><rt>しやく</rt></ruby>を挙げて、顔中の<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を逆立てながら、

「その方はここをどこだと思ふ？　<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしやく</rt></ruby>に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>はせてくれるぞ。」と、<ruby><rb>威丈高</rb><rt>ゐたけだか</rt></ruby>に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りました。

が、杜子春は相変らず<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこま</rt></ruby>つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。

地獄には誰でも知つてゐる通り、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の山や血の池の外にも、<ruby><rb>焦熱</rb><rt>せうねつ</rt></ruby>地獄といふ焔の谷や<ruby><rb>極寒</rb><rt>ごくかん</rt></ruby>地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>に<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、――その苦しみを数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる<ruby><rb>責苦</rb><rt>せめく</rt></ruby>に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。

これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り杜子春を<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、

「この罪人はどうしても、ものを言ふ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がございません。」と、口を揃へて<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじやう</rt></ruby>しました。

閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひついたと見えて、

「この男の<ruby><rb>父母</rb><rt>ちちはは</rt></ruby>は、畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。

鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。

「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」

杜子春はかう<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>されても、やはり返答をしずにゐました。

「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、好いと思つてゐるのだな。」

閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。

「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」

鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をとつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、<ruby><rb>未練未釈</rb><rt>みれんみしやく</rt></ruby>なく打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもゐられない程<ruby><rb>嘶</rb><rt>いなな</rt></ruby>き立てました。

「どうだ。まだその方は白状しないか。」

閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の前へ、倒れ伏してゐたのです。

杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、<ruby><rb>緊</rb><rt>かた</rt></ruby>く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。

「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と<ruby><rb>仰</rb><rt>おつしや</rt></ruby>つても、言ひたくないことは黙つて<ruby><rb>御出</rb><rt>おい</rt></ruby>で。」

それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……

六

その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」

片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人は微笑を含みながら言ひました。

「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて嬉しい気がするのです。」

杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。

「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」

「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそか</rt></ruby>な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。

「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」

「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が<ruby><rb>罩</rb><rt>こも</rt></ruby>つてゐました。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」

鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>、今思ひ出したが、おれは泰山の南の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。

（大正九年六月）