Soranoha

素戔嗚尊

すさのおのみこと

芥川 竜之介

一

高天原たかまがはらの国も春になった。

今は四方よもの山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原くさはらは一面に仄ほのかな緑をなすって、その裾すそを流れて行く天あめの安河やすかわの水の光も、いつか何となく人懐ひとなつかしい暖みを湛たたえているようであった。ましてその河下かわしもにある部落には、もう燕つばくらも帰って来れば、女たちが瓶かめを頭に載せて、水を汲みに行く噴ふき井いの椿つばきも、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――

そう云う長閑のどかな春の日の午後、天あめの安河やすかわの河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競ちからくらべに耽ふけっていた。

始はじめ、彼等は手てん手でに弓矢を執とって、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい弦ゆんづるの鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の蝗いなごのごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に懸かかっている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼はやぶさの羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く――ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と市松模様いちまつもようの倭衣しずりを着た、容貌ようぼうの醜い一人の若者が、太い白檀木しらまゆみの弓を握って、時々切って放す利とがり矢であった。

その白羽しらはの矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の技倆ぎりょうを褒ほめそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の征矢そやに冷淡な態度を装よそおい出した。のみならず彼等の中うちの何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、反かえってその方へ賛辞を与えたりした。

容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛々ふんぷんと乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星りゅうせいのように、たった一筋空へ上るようになった。

その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の水際みぎわにより集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。

彼等は互に競きそい合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、焼太刀やきだちのように日を照り返した河の中へ転ころげ落ちて、眩まばゆい水煙みずけむりを揚げる事もあった。が、大抵たいていは向うの汀なぎさへ、ちょうど谷を渡る鹿のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振返っては声々に笑ったり話したりしていた。

容貌の醜い若者はこの新しい遊戯を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨てて、身軽く河の流れを躍り越えた。そこは彼等が飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓着しなかった。彼等には彼の後で飛んだ――彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、背せいの高い美貌びぼうの若者の方が、遥はるかに人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の倭衣しずりを着ていたが、頸くびに懸けた勾玉まがたまや腕に嵌はめた釧くしろなどは、誰よりも精巧な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人陽炎かげろうの中を河下かわしもの方へ歩き出した。

二

河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの汀なぎさへ足を止めた。そこは一旦湍たぎった水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱よどんでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、凄すさまじい水煙を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。

彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所と大して離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼等の目にもはいった。彼等のある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」と云うように腹を抱えて笑い出した。と同時にまたある者は、やはり囃はやし立てながらも、以前よりは遥はるかに同情のある声援の言葉を与えたりした。そう云う好意のある連中の中には、あの精巧な勾玉や釧の美しさを誇っている若者なども交まじっていた。彼等は彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、始めて彼に幾分の親しみを持つ事が出来たのであった。が、彼等も一瞬の後には、また以前の沈黙に――敵意を蔵した沈黙に還かえらなければならない事が出来た。

と云うのは河に落ちた彼が、濡ぬれ鼠ねずみのようになったまま、向うの汀へ這い上ったと思うと、執念深しゅうねんぶかくもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を縮ちぢめながら、明礬色みょうばんいろの水の上へ踊り上ったと思う内に、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの水際みぎわへ、雲のような砂煙を舞い上げながら、どさりと大きな尻餅しりもちをついた。それは彼等の笑を買うべく、余りに壮厳すぎる滑稽であった。勿論彼等の間からは、喝采も歓呼も起らなかった。

彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体を起して、仲間の若者たちの方を眺めやった。が、彼等はもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽きたと見えて、また何か新しい力競ちからくらべを試むべく、面白そうに笑い興じながら、河上かわかみの方へ急ぐ所であった。それでもまだ容貌の醜い若者は、快活な心もちを失わなかった。と云うよりも失う筈がなかった。何故なぜと云えば彼等の不快は未いまだに彼には通じなかった。彼はこう云う点になると、実際どこまでも御目出度おめでたく出来上った人間の一人であった。しかしまたその御目出度さがあらゆる強者に特有な烙印やきいんである事も事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ滴しずくを垂らしたまま、麗うららかな春の日に目まかげをして、のそのそ砂の上を歩き出した。

その間にほかの若者たちは、河原かわらに散在する巌石がんせきを持上げ合う遊戯ゆうぎを始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ陽炎かげろうの中に転がっていた。彼等はみんな腕まくりをして、なるべく大きい岩を抱だき起そうとした。が、手ごろな巌石のほかは、中でも膂力りょりょくの逞たくましい五六人の若者たちでないと、容易に砂から離れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼等五六人の独占する遊戯に変ってしまった。彼等はいずれも大きな岩を軽々と擡もたげたり投げたりした。殊に赤と白と三角模様の倭衣しずりの袖そでをまくり上げた、顔中かおじゅう鬚ひげに埋うずまっている、背せいの低い猪首いくびの若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲に佇たたずんだ若者たちは、彼の非凡な力業ちからわざに賞讃の声を惜まなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、次第に大きな巌石に力を試みようとするらしかった。

あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五六人の力競ちからくらべの真最中へ来合せたのであった。

三

あの容貌の醜い若者は、両腕を胸に組んだまま、しばらくは力自慢の五六人が勝負を争うのを眺めていた。が、やがて技癢ぎように堪え兼ねたのか、自分も水だらけな袖をまくると、幅の広い肩を聳そびやかせて、まるで洞穴ほらあなを出る熊のように、のそのそとその連中の中へはいって行った。そうしてまだ誰も持ち上げない巌石の一つを抱くが早いか、何の苦もなくその岩を肩の上までさし上げて見せた。

しかし大勢の若者たちは、依然として彼には冷淡であった。ただ、その中でもさっきから賞讃の声を浴びていた、背の低い猪首の若者だけは、容易ならない競争者が現れた事を知ったと見えて、さすがに妬ねたましそうな流し眼をじろじろ彼の方へ注いでいた。その内に彼は担かついだ岩を肩の上で一揺ひとゆすり揺ってから、人のいない向うの砂の上へ勢いよくどうと投げ落した。するとあの猪首の若者はちょうど餌に饑うえた虎のように、猛然と身を躍らせながら、その巌石へ飛びかかったと思うと、咄嗟とっさの間に抱え上げて、彼にも劣らず楽々と肩よりも高くかざして見せた。

それはこの二人の腕力が、ほかの力自慢の連中よりも数段上にあると云う事を雄弁に語っている証拠であった。そこで今まで臆面おくめんも無く力競べをしていた若者たちはいずれも興きょうのさめた顔を見合せながら、周囲に佇たたずんでいる見物仲間へ嫌いやでも加わらずにはいられなかった。その代りまた後あとに残った二人は、本来さほど敵意のある間柄でもなかったが、騎虎きこの勢いで已やむを得ず、どちらか一方が降参するまで雌雄しゆうを争わずにはいられなくなった。この形勢を見た多勢の若者たちは、あの猪首いくびの若者がさし上げた岩を投げると同時に、これまでよりは一層熱心にどっとどよみを作りながら、今度はずぶ濡れになった彼の方へいつになく一斉に眼まなこを注いだ。が、彼等がただ勝負にのみ興味を持っていると云う事は、――彼自身に対してはやはり好意を持っていないと云う事は、彼等の意地悪いじわるそうな眼の中にも、明かによめる事実であった。

それでも彼は相不変あいかわらず悠々と手に唾つばきなど吐きながら、さっきのよりさらに一嵩ひとかさ大きい巌石の側へ歩み寄った。それから両手に岩を抑おさえて、しばらく呼吸を計っていたが、たちまちうんと力を入れると、一気に腹まで抱え上げた。最後にその手をさし換えてから、見る見る内にまた肩まで物も見事に担かついで見せた。が、今度は投げ出さずに、眼で猪首の若者を招くと、人の好さそうな微笑を浮べながら、

「さあ、受取るのだ。」と声をかけた。

猪首の若者は数歩を隔てて、時々髭ひげを噛かみながら、嘲あざけるように彼を眺めていたが、

「よし。」と一言ひとこと答えると、つかつかと彼の側へ進み寄って、すぐにその巌石を小山のような肩へ抱だき取った。そうして二三歩歩いてから、一度眼の上までさし上げて置いて、力の限り向うへ抛ほうり投げた。岩は凄じい地響きをさせながら、見物の若者たちの近くへ落ちて、銀粉のような砂煙を揚げた。

大勢の若者たちはまた以前のようにどよめき立った。が、その声がまだ消えない内に、もうあの猪首の若者は、さらに勝敗を争うべく、前にも増して大きい岩を水際みぎわの砂から抱き起していた。

四

二人はこう云う力競ちからくらべを何回となく闘たたかわせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色けしきを現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴したたっていた。のみならず彼等の着ている倭衣しずりは、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡もたげ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止やめそうな容子ようすもなかった。

彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏とうけいや闘犬とうけんの見物けんぶつ同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉とらえていた。だから彼等は二人の力者りきしゃに、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒いたずらに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。

勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背せいの低い猪首いくびの若者は、露骨にその憎悪を示して憚はばからなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。

彼は今も相手の投げた巌石を危く躱かわしながら、とうとうしまいには勇を鼓こして、これも水際みぎわに横よこたわっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜ななめに流れを裂さいて、淙々そうそうとたぎる春の水に千年ちとせの苔こけを洗わせていた。この大岩を擡もたげる事は、高天原たかまがはら第一の強力ごうりきと云われた手力雄命たぢからおのみことでさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身こんしんの力を揮ふるい起して、ともかくも岩の根を埋うずめた砂の中からは抱え上げた。

この人間以上の膂力りょりょくは、周囲に佇たたずんだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観かんがあった。彼等は皆息を呑んで千曳ちびきの大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴したたり落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後のち、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好よい声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩もれた驚歎の呻うめきにほかならなかった。何故なぜと云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡もたげ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分いちぶずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀とつこつたる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額ひたいに乱して、あたかも大地だいちを裂さいて出た土雷つちいかずちの神のごとく、河原に横よこたわる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。

五

千曳ちびきの大岩を担かついだ彼は、二足ふたあし三足みあし蹌踉そうろうと流れの汀なぎさから歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好いいか渡すぞ。」と相手を呼んだ。

猪首いくびの若者は逡巡しゅんじゅんした。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、

「よし。」と噛かみつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱だき取ろうとした。

岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫かんまんであった。と同時にまた雲の峰が堰せき止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼おおかみのように牙きばを噛みながら、次第にのしかかって来る千曳ちびきの岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那せつなの間あいだ、大風おおかぜの中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋うずめた鬚ひげを除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩まばゆい砂の上へ頻しきりに汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分いちぶずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊いしくれの下にもがいている蟹かにとさらに変りはなかった。

周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背せなからさっき擡もたげた大盤石だいばんじゃくを取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕きょうがくとを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼まなこを相手に注ぐよりほかはなかった。

その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背せなを圧おされて、崩折くずおれるように砂へ膝をついた。その拍子ひょうしに彼の口からは、叫ぶとも呻うめくとも形容出来ない、苦しそうな声が一声ひとこえ溢あふれて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜ひるがえして、相手の上に蔽おおいかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛たわいもなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥おびただしく鮮あざやかな血を迸ほとばしらせた。それがこの憐むべき強力ごうりきの若者の最期さいごであった。

あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束つかねたまま、陽炎かげろうの中に倒れている相手の屍骸しがいを見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗うららかな日の光を浴びて、いずれも黙念もくねんと眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。

六

高天原たかまがはらの国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装よそおう事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬しっとを示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度おめでたさとに残酷な嘲笑ちょうしょうを浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。

こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首いくびの若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷いたましい痕跡こんせきを残していた。この記憶を抱いだいている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥しゅうちの情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目まなざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。

彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞めぐる山間の自然の中うちに時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩やまばとの声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆あしと共に、彼の寂寥せきりょうを慰むべく、仄ほのかに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木やぶきの交まじる針金雀花はりえにしだ、熊笹の中から飛び立つ雉子きぎす、それから深い谷川の水光りを乱す鮎あゆの群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎あいぞうの差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。

時々彼が谷川の石の上に、水を掠かすめて去来する岩燕いわつばめを眺めていると、あるいは山峡やまかいの辛夷こぶしの下に、蜜みつに酔よって飛びも出来ない虻あぶの羽音はおとを聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座とうざどこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫らくばくたる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎なげくより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣けもののごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。

彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏かしわの梢こずえに上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天あめの安河やすかわの河原かわらに近く、碁石ごいしのように点々と茅葺かやぶき屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食かしょくの煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨またがりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺ゆすって、折々枝頭の若芽の匀においを日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁ささやいて行くように思われた。

「素戔嗚すさのおよ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」

七

しかし素戔嗚すさのおは風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原たかまがはらの国に繋つないでいたか。――彼は自みずからそう尋たずねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私ひそかに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合ふにあいの感じがしたからであった。

彼が始めてこの娘に遇あったのは、やはりあの山腹の柏かしわの梢こずえに、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天あめの安河やすかわを眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫こいしを投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟とっさの間あいだに打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗うららかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻しきりに何か笑い興じていた。

彼等は皆竹籠を臂ひじにかけている所を見ると、花か木の芽か山独活やまうどを摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑いやしいものの娘でない事は、彼等の肩に懸かかっている、美しい領巾ひれを見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜ひるがえしながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩やまばとを追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。

素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒まき散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨またがっていた太枝を掴つかんで、だらりと宙に吊つり下った。と思うと一つ弾はずみをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子ひょうしに足を辷すべらせて、呆気あっけにとられた女たちの中へ、仰向あおむけさまに転がってしまった。

女たちは一瞬間、唖おしのように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然ごうぜんと、女たちの顔を睨にらめまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。

「あなたは一体どこにいらしったの?」

やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑さげすむようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑おかしさが残っているようであった。

「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」

素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。

八

女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊すさのおのみことには腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故ことさらに彼等を脅おびやかすべく、一層不機嫌ふきげんらしい眼つきを見せた。

「何が可笑おかしい?」

が、彼等には彼の威嚇いかくも、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾ひれを弄もてあそびながら、

「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。

「鳩はとを助けてやろうと思ったのだ。」

「私あたしたちだって助けてやる心算つもりでしたわ。」

三番目の娘は笑いながら、活いき活いきと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子ようすもすぐれて溌溂はつらつとしていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発りはつらしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故なぜと云う事もなく狼狽ろうばいした。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌あわて方を見せたくないと云う心もちもあった。

「嘘をつけ。」

彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛ほうりつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。

「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算つもりでしたわ。」

彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑とうわくを見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。

「ほんとうですわ。」

「どうして嘘だと御思い?」

「あなたばかり鳩が可愛かわいいのじゃございません。」

彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊こわされた蜜蜂みつばちのごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒なぎたおしそうな擬勢ぎせいを示しながら、雷いかずちのように怒鳴りつけた。

「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」

女たちはさすがに驚いたらしく、慌あわてて彼の側かたわらを飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜よめなの花を摘み取っては、一斉いっせいに彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの匀においの好い雨を浴びたまま、呆気あっけにとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯いたずらな女たちの方へ、二足ふたあし三足みあし突進した。

彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止どまったなり、次第に遠くなる領巾ひれの色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故なぜか薄笑いが、自然と唇くちびるに上のぼって来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗うららかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後あとにはただ草木の栄さかえを孕はらんだ、明るい沈黙があるばかりになった。……

何分なんぷんか後のち、あの羽根を傷きずつけた山鳩は、怯おず怯おずまたそこへ還かえって来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向あおむいた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――

九

その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言ひとこともこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅かぎつけるには、余りに平生へいぜいの素戔嗚すさのおが、恋愛とは遥はるかに縁の遠い、野蛮やばんな生活を送り過ぎていた。

彼は相不変あいかわらず人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中ひとよじゅう、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪ししなどを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲すんでいる大鷲おおわしを射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗いまだかつて、その非凡な膂力りょりょくを尽すべき、手強てごわい相手を見出さなかった。山の向うに穴居けっきょしている、慓悍ひょうかんの名を得た侏儒こびとでさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸しがいになった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。

その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀いがみ合う事を憚はばからなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮いこうには頓着なく、ほとんど何事にも軋轢あつれきし合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――

現に一度はこう云うことがあった。

ある麗うららかな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山くさやまを独ひとり下くだって来た。その時の彼の心の中うちには、さっき射損じた一頭の牡鹿おじかが、まだ折々は未練がましく、鮮あざやかな姿を浮べていた。ところが草山がやや平たいらになって、一本の楡にれの若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻しきりに何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼かいに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食はんでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕ぬぼくのごとく彼に仕えるために、反かえって彼の反感を買った事がある男に違いなかった。

彼は彼等の姿を見ると、咄嗟とっさに何事か起りそうな、忌いまわしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元もとより彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、

「どうしたのだ。」と声をかけた。

その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭あったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽りふじんな事を滔々とうとうと早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷きずつけたり虐いじめたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨にらみつけて、

「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄おうへいな文句を並べたりした。

十

素戔嗚すさのおは彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮やばんな彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那せつなに彼の崇拝者は、よくよく口惜くちおしさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬ほおを打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴つかみかかった。

「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」

こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔いからせながら、今度は彼へ獅噛しがみついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭むちをふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟とっさに二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度どを失った素戔嗚へ、紛々と拳こぶしを加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途みちはなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭こうべに下くだった時、彼は理非も忘れるほど真底しんそこから一時に腹が立った。

たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を食はんでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮ふるうのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方ゆくえに気をとめる容子ようすは見えなかった。

が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫くじかれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地いくじなく草山を逃げ下くだって行った。

素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止とどめなければならなかった。

「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好いいのだ。」

若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴なぐられた事は、一面に地腫じばれのした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑おかしさがこみ上げて来た。

「どうした? 怪我けがはしなかったか?」

「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」

「うん、瘤こぶが一つ出来ただけだった。」

素戔嗚はこう云う一言に忌々いまいましさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡にれの根本ねもとに腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘かくとうが、夢のような気さえしないではなかった。

二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。

「どうです。瘤は痛みますか。」

「大して痛まない。」

「米こめを噛かんでつけて置くと好いいそうですよ。」

「そうか。それは好い事を聞いた。」

十一

ちょうどこの喧嘩けんかと同じように、素戔嗚すさのおは次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊おもいかねのみことだの手力雄尊たぢからおのみことだのと云う年長者ねんちょうじゃに敬意を払っていた。しかしそれらの尊みことたちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。

殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木くちきの幹へ腰を下して、思いのほか打融うちとけた世間話などをし始めた。

尊みことはもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予かねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担になっていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師まじものしのように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷さんこくの間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。

彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂たれたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀しろがねのような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。

「近頃はあなたの剛力ごうりきが、大分だいぶ評判ひょうばんのようじゃありませんか。」

しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬かたほに笑えみを浮べた。

「評判だけ大きいのです。」

「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐がいがあるのですから。」

素戔嗚にはこの答が、一向腑ふに落ちなかった。

「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」

「さらに剛力ではなくなるのです。」

「しかし人が掬すくわなくっても、砂金しゃきんは始はじめから砂金でしょう。」

「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」

「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」

「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」

素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯からかわれているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺しわだらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色けしきは少しもなかった。

「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」

「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」

思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗ふきの薹とうの匀においを嗅かぎ始めた。

十二

素戔嗚すさのおはしばらく黙っていた。するとまた思兼尊おもいかねのみことが彼の非凡な腕力へ途切とぎれた話頭を持って行った。

「いつぞや力競ちからくらべがあった時、あなたと岩を擡もたげ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」

「気の毒な事をしたものです。」

素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日うすびがさした古沼ふるぬまの上へ漂ただよわせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽めぐんだ春の木々をひっそりと仄ほの明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、

「気の毒ですが、莫迦ばかげていますよ。第一私わたしに云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚ぐの骨頂こっちょうじゃありませんか。」

「しかし私わたくしは何となく気が咎とがめてならないのですが。」

「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」

「けれども私はあの連中に、反かえって憎にくまれているようです。」

「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」

「世の中はそう云うものでしょうか。」

その時尊みことは返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。

素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目やまめが一尾いちび、溌溂はつらつと銀のように躍おどっていた。

「魚は人間より幸福ですね。」

尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。

「人間が鉤かぎを恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」

彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛ほうりこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、

「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。

尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目まじめな調子になって、白い顎髯あごひげを捻ひねりながら、

「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」

「どうしてですか。」

彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋たずねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹ひくものが潜ひそんでいたのであった。

「鉤かぎが呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」

思兼尊の皺しわだらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。

「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」

二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠かわせみが、時々水を掠かすめながら、礫こいしを打つように飛んで行った。

十三

その間もあの快活かいかつな娘の姿は、絶えず素戔嗚すさのおの心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏かしわの下で、始めて彼女と遇あった時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子ようすも見せなかった。――

ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴ふき井いの前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕みずがめへ水を汲くんでいるのに遇あった。噴き井の上には白椿しろつばきが、まだ疎まばらに咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫しぶきは、その花と葉とを洩もれる日の光に、かすかな虹にじを描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸こけむした井筒いづつに溢あふれる水を素焼すやきの甕かめへ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲くみ了おえたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交かう燕つばくらの中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端とたんに、彼女は品ひん良よく身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。

彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶あいさつの点頭じぎを送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後あとを追って、やはり釘くぎを撒まくような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井ふきいの側へ歩み寄って、大きな掌たなごころへ掬すくった水に、二口三口喉のどを沾うるおした。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己おのれ自身を嘲あざけりたいような気もしないではなかった。

その間に女たちはそよ風に領巾ひれを飜ひるがえしながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴ふき井いから遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後うしろへ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。

噴き井の水を飲んでいた彼は、幸さいわいその視線に煩わずらわされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高なかだかになった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟とっさに覚束おぼつかない影を落した。素戔嗚は慌あわてた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭むちを持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添まきぞえにした、あの牛飼うしかいの崇拝者であった。

「お早うございます。」

若者は愛想あいそ笑いを見せながら、恭うやうやしく彼に会釈えしゃくをした。

「お早う。」

彼はこの若者にまで、狼狽ろうばいした所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。

十四

が、若者はさり気げない調子で、噴き井の上に枝垂しだれかかった白椿の花を毮むしりながら、

「もう瘤こぶは御癒おなおりですか。」

「うん、とうに癒った。」

彼は真面目にこんな返事をした。

「生米なまごめを御つけになりましたか。」

「つけた。あれは思ったより利きき目があるらしかった。」

若者は毮むしった椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、

「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」

「何だ。その好い事と云うのは。」

彼が不審ふしんそうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな笑えみを頬に浮べたまま、

「あなたの頸くびにかけて御出でになる、勾玉まがたまを一つ頂かせて下さい。」と云った。

「勾玉をくれ? くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ?」

「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」

「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」

素戔嗚すさのおはそろそろ焦じれ出しながら、突慳貪つっけんどんに若者の請こいを却しりぞけた。すると相手は狡猾こうかつそうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、

「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」

彼は苦にがい顔をして、相手の眉まゆの間を睨にらみつけた。が、内心は少からず、狼狽ろうばいに狼狽を重ねていた。

「御好きじゃありませんか、あの思兼尊おもいかねのみことの姪めいを。」

「そうか。あれは思兼尊の姪か。」

彼は際きわどい声を出した。若者はその容子ようすを見ると、凱歌がいかを挙げるように笑い出した。

「そら、御覧なさい。隠したってすぐに露あらわれます。」

彼はまた口を噤つぐんで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫しぶきを浴びた石の間には、疎まばらに羊歯しだの葉が芽ぐんでいた。

「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」

若者は鞭むちを弄もてあそびながら、透すかさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち鮮あざやかに浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、

「そうして勾玉をどうするのだ?」と云った。

しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。

十五

若者の答えは無造作むぞうさであった。

「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」

素戔嗚すさのおはちょいとためらった。この男の弁舌を弄ろうする事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に躊躇ちゅうちょの色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を継ついだ。

「御嫌おいやなら仕方はありませんが。」

二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は頸くびに懸けた勾玉まがたまの中から、美しい琅玕ろうかんの玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿なくなった母の遺物かたみであった。

若者はその琅玕に物欲しそうな眼を落しながら、

「これは立派な勾玉ですね、こんな性たちの好い琅玕は、そう沢山はありますまい。」

「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造たまつくりが、七日なぬか七晩ななばん磨いたと云う玉だ。」

彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に背せなを向けて、大股に噴ふき井いから歩み去った。若者はしかし勾玉を掌てのひらの上に載せながら、慌あわてて後を追いかけて来た。

「待っていて下さい。必ず二三日中には、吉左右きっそうを御聞かせしますから。」

「うん、急がなくって好いが。」

彼等は倭衣しずりの肩を並べて、絶え間なく飛び交かう燕つばくらの中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、中高なかだかになった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。

その日の暮方くれがた、若者は例の草山の楡にれの根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑竹はんちくの笛ふえを帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧くしろの所有者として知られている、背せいの高い美貌びぼうの若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも無愛想ぶあいそに、

「何か御用ですか。」と返事をした。

「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」

若者は苦にがい顔をしながら、琅玕を相手の手に渡した。

「君の玉かい。」

「いいえ、素戔嗚尊すさのおのみことの玉です。」

今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。

「じゃいつもあの男が、自慢じまんそうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石塊いしころ同様の玉ばかりだが。」

若者は毒口どくぐちを利きながら、しばらくその勾玉を弄もてあそんでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、

「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。

十六

牛飼いの若者は否いやと返事をする代りに、頬ほおを脹ふくらせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、

「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」

「駄目ですよ。その勾玉まがたまは素戔嗚尊すさのおのみことが、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」

「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」

相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。

「女でも男でも好いじゃありませんか。」

若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた気色けしきもなく、反かえって薄気昧が悪いほど、優しい微笑を漏もらしながら、

「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した差支さしつかえはなさそうじゃないか。」

若者はまた口を噤つぐんで、草の上へ眼を反そらせていた。

「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、鎧よろいなり、乃至ないしはまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」

「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」

「受け取らないと云ったら?」

相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、

「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな琅玕ろうかんは、若い女には似合わないよ。だから反かえってこの代りに、もっと派手はでな玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」

若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。

「それからだね――」

相手は唇くちびるを舐なめながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。

「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、反かえって素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」

若者の心の中には、両方に刃のついた剣つるぎやら、水晶を削けずった勾玉やら、逞たくましい月毛つきげの馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。

「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も鎧よろいもちょうど君に御誂おあつらえなのがある筈だ。厩うまやには馬も五六匹いる。」

相手は飽くまでも滑なめらかな舌を弄しながら気軽く楡にれの根がたを立ち上った。若者はやはり黙念もくねんと、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその後あとから、重そうな足を運び始めた。――

彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下くだって来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄もやさえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂ただよわせた。

何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。

十七

素戔嗚すさのおは一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋もたらさなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。

その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴ふき井いの前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく素焼すやきの甕かめを頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど白椿しろつばきの下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を歪ゆがめて、蔑さげすむような表情を水々しい眼に浮べたまま、昂然こうぜんと一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは莫迦ばかだ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」――そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと私ひそかに決心した。

ところが彼はある日の日暮、天あめの安河やすかわの河原かわらを歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が利きき悪にくい気もちになって、しばらくは入日いりひの光に煙った河原蓬かわらよもぎの中へ佇たたずみながら、艶々つやつやと水をかぶっている黒馬の毛並けなみを眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、

「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、

「私です。」と返事をした。

「そうか。そりゃ――」

彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を噤つぐんでしまった。が、さすがに若者は素知そしらぬ顔も出来ないと見えて、

「先達せんだってあの勾玉まがたまを御預りしましたが――」と、ためらい勝ちに切り出した。

「うん、渡してくれたかい。」

彼の眼は子供のように、純粋な感情を湛たたえていた、若者は彼と眼を合わすと、慌あわててその視線を避けながら、故ことさらに馬の足掻あがくのを叱って、

「ええ、渡しました。」

「そうか。それでおれも安心した。」

「ですが――」

「ですが? 何だい。」

「急には御返事が出来ないと云う事でした。」

「何、急がなくっても好い。」

彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞ゆうがすみのたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀ひばりも、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭かしらを挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。

「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故なぜそんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」

十八

素戔嗚すさのおはそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行はやり出した。それは醜みにくい山鴉やまがらすが美しい白鳥はくちょうに恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂わらい物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。

しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を容いれてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、愚おろかな彼を哂うのではなく、反かえって仕合せな彼を羨うらやんだり妬そねんだりしているのであった。――そう彼は信じていた。少くともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。

だから彼はその後ごまた、あの牛飼の若者に遇あった時も、ただ同じ答を聞きたいばかりに、

「あの勾玉まがたまは確かに渡してくれたのだろうな。」と、軽く念を押しただけであった。若者はやはり間の悪るそうな顔をしながら、

「ええ、確かに渡しました。しかし御返事の所は――」とか何とか、曖昧あいまいに言葉を濁していた。それでも彼は渡したと云う言葉に満足して、その上立ち入った事情なぞは尋ねようとも思わなかった。

すると三四日経ったある夜の事、彼が山へ寝鳥ねどりでも捕えに行こうと思って、月明りを幸さいわい、部落の往来を独りぶらぶら歩いていると、誰か笛を吹きすさびながら、薄い靄もやの下おりた中を、これも悠々と来かかるものがあった。野蛮やばんな彼は幼い時から、歌とか音楽とか云うものにはさらに興味を感じなかった。が、藪木やぶきの花の匀においのする春の月夜に包まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾けるのは、彼にとっても何となく、心憎い気のするものであった。

その内に彼とその男とは、顔を合せるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、相不変あいかわらず笛を吹き止めなかった。彼は路を譲りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を透すかして見た。美しい顔、燦きらびやかな勾玉、それから口に当てた斑竹はんちくの笛――相手はあの背せいの高い、風流な若者に違いなかった。彼は勿論この若者が、彼の野性を軽蔑する敵の一人だと云うことを承知していた。そこで始は昂然と肩を挙げて、挨拶もせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体へ惹ひきつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が遺物かたみに残した、あの琅玕ろうかんの勾玉まがたまが、曇りない月の光に濡れて、水々しく輝いていたではないか。

「待て。」

彼は咄嗟とっさに腕を伸ばすと、若者の襟えりをしっかり掴つかんだ。

「何をする。」

若者は思わずよろめきながら、さすがに懸命の力を絞しぼって、とられた襟を振り離そうとした。が、彼の手はさながら万力まんりきにかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。

十九

「貴様はこの勾玉まがたまを誰に貰った?」

素戔嗚すさのおは相手の喉のどをしめ上げながら噛かみつくようにこう尋ねた。

「離せ。こら、何をする。離さないか。」

「貴様が白状するまでは離さない。」

「離さないと――」

若者は襟を取られたまま、斑竹はんちくの笛をふり上げて、横払いに相手を打とうとした。が、素戔嗚は手もとを緩ゆるめるまでもなく、遊んでいた片手を動かして、苦もなくその笛を扭ねじ取ってしまった。

「さあ、白状しろ。さもないと、貴様を絞殺しめころすぞ。」

実際素戔嗚の心の中には、狂暴な怒が燃え立っていた。

「この勾玉は――おれが――おれが馬と取換えたのだ。」

「嘘をつけ。これはおれが――」

「あの娘に」と云う言葉が、何故か素戔嗚の舌を硬こわばらせた。彼は相手の蒼ざめた顔に熱い息を吹きかけながら、もう一度唸うなるような声を出した。

「嘘をつけ。」

「離さないか。貴様こそ、――ああ、喉が絞しまる。――あれほど離すと云った癖に、貴様こそ嘘をつく奴だ。」

「証拠があるか、証拠が。」

すると若者はまだ必死に、もがきながら、

「あいつに聞いて見るが好い。」と、吐き出すような、一言ひとことを洩らした。「あいつ」があの牛飼いの若者であると云う事は、怒り狂った素戔嗚にさえ、問うまでもなく明かであった。

「よし。じゃ、あいつに聞いて見よう。」

素戔嗚は言下ごんかに意を決すると、いきなり相手を引っ立てながら、あの牛飼いの若者がたった一人住んでいる、そこを余り離れていない小家こいえの方へ歩き出した。その途中も時々相手は、襟にかかった素戔嗚の手を一生懸命に振り離そうとした。しかし彼の手は相不変あいかわらず、鉄のようにしっかり相手を捉とらえて、打っても、叩いても離れなかった。

空には依然として、春の月があった。往来にも藪木やぶきの花の匀においが、やはりうす甘く立ち罩こめていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで大暴風雨おおあらしの天のように、渦巻く疑惑の雲を裂さいて、憤怒ふんぬと嫉妬しっととの稲妻が、絶え間なく閃ひらめき飛んでいた。彼を欺あざむいたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か狡猾こうかつな手段を弄して、娘から勾玉を巻き上げたのであろうか。……

彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす小家こいえまで来た。見ると幸さいわい小家の主人は、まだ眠らずにいると見えて、仄ほのかな一盞いっさんの燈火ともしびの光が、戸口に下げた簾すだれの隙から、軒先の月明と鬩せめいでいた。襟をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、始めて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりが俄にわかに暗くなって、ただ一しきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。――彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも造作ぞうさなく、月の光を堰せいた簾の内へ、まっさかさまに投げこまれたのであった。

二十

家の中にはあの牛飼の若者が、土器かわらけにともした油火あぶらびの下に、夜なべの藁沓わらぐつを造っていた。彼は戸口に思いがけない人のけはいが聞えた時、一瞬間忙せわしい手を止めて、用心深く耳を澄ませたが、その途端とたんに軒の簾が、大きく夜を煽あおったと思うと、突然一人の若者が、取り乱した藁わらのまん中へ、仰向けざまに転げ落ちた。

彼はさすがに胆きもを消して、うっかりあぐらを組んだまま、半ば引きちぎられた簾の外へ、思わず狼狽ろうばいの視線を飛ばせた。するとそこには素戔嗚すさのおが、油火の光を全身に浴びて、顔中に怒りを漲みなぎらせながら、小山のごとく戸口を塞ふさいでいた。若者はその姿を見るや否や、死人のような色になって、しばらくただ狭い家の中をきょろきょろ見廻すよりほかはなかった。素戔嗚は荒々しく若者の前へ歩み寄ると、じっと彼の顔を睨にらみ据えて、

「おい、貴様は確かにあの娘へ、おれの勾玉まがたまを渡したと云ったな。」と忌々いまいましそうな声をかけた。

若者は答えなかった。

「それがこの男の頸くびに懸っているのは一体どうした始末なのだ?」

素戔嗚はあの美貌の若者へ、燃えるような瞳ひとみを移した。が、彼はやはり藁の中に、気を失ったのか、仮死そらじにか、眼を閉じたまま倒れていた。

「渡したと云うのは嘘か?」

「いえ、嘘じゃありません。ほんとうです。ほんとうです。」

牛飼いの若者は、始めて必死の声を出した。

「ほんとうですが、――ですが、実はあの琅玕ろうかんの代りに、珊瑚さんごの――その管玉くだたまを……」

「どうしてまたそんな真似まねをしたのだ?」

素戔嗚の声は雷いかずちのごとく、度どを失った若者の心を一言毎ひとことごとに打ち砕いた。彼はとうとうしどろもどろに、美貌の若者が勧すすめる通り、琅玕と珊瑚と取り換えた上、礼には黒馬を貰った事まで残りなく白状してしまった。その話を聞いている内に、刻々素戔嗚の心の中うちには、泣きたいような、叫びたいような息苦しい羞憤しゅうふんの念が、大風のごとく昂たかまって来た。

「そうしてその玉は渡したのだな。」

「渡しました。渡しましたが――」

若者は逡巡しゅんじゅんした。

「渡しましたが――あの娘は――何しろああ云う娘ですし、――白鳥はくちょうは山鴉やまがらすになどと――、失礼な口上ですが、――受け取らないと申し――」

若者は皆まで云わない内に、仰向けにどうと蹴倒けたおされた。蹴倒されたと思うと、大きな拳こぶしがしたたか彼の頭を打った。その拍子に燈火ともしびの盞さらが落ちて、あたりの床ゆかに乱れた藁わらは、たちまち、一面の炎になった。牛飼いの若者はその火に毛脛けずねを焼かれながら、悲鳴を挙げて飛び起きると、無我夢中に高這たかばいをして、裏手の方へ逃げ出そうとした。

怒り狂った素戔嗚は、まるで傷きずついた猪いのししのように、猛然とその後から飛びかかった。いや、将まさに飛びかかろうとした時、今度は足もとに倒れていた、美貌の若者が身を起すと、これも死物狂に剣つるぎを抜いて、火の中うちに片膝ついたまま、いきなり彼の足を払おうとした。

二十一

その剣の光を見ると、突然素戔嗚すさのおの心の中には、長い間眠っていた、流血に憧あこがれる野性が目ざめた。彼は素早すばやく足を縮ちぢめて、相手の武器を飛び越えると、咄嗟とっさに腰の剣を抜いて、牛の吼ほえるような声を挙げた。そうしてその声を挙げるが早いか、無二無三むにむさんに相手へ斬ってかかった。彼等の剣は凄じい音を立てて、濛々もうもうと渦巻く煙の中に、二三度眼に痛い火花を飛ばせた。

しかし美貌の若者は、勿論彼の敵ではなかった。彼の振り廻す幅広の剣は、一太刀毎ひとたちごとにこの若者を容赦ようしゃなく死地へ追いこんで行った。いや、彼は数合の内に、ほとんど一気に相手の頭を斬り割る所まで肉薄していた。するとその途端に甕かめが一つ、どこからか彼の頭を目がけて、勢い好く宙を飛んで来た。が、幸さいわいそれは狙ねらいが外それて、彼の足もとへ落ちると共に、粉微塵こなみじんに砕けてしまった。彼は太刀打を続けながら、猛たけり立った眼を挙げて、忙いそがわしく家の中を見廻した。見廻すと、裏手の蓆戸むしろどの前には、さっき彼に後を見せた、あの牛飼いの若者が、これも眼を血走らせたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶を一つ、持ち上げている所であった。

彼は再び牛のような叫び声を挙げながら、若者が桶を投げるより先に、渾身の力を剣にこめて、相手の脳天へ打ち下そうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎の空に風を切って、がんと彼の頭に中あたった。彼はさすがに眼が眩くらんだのか、大風に吹かれた旗竿はたざおのように思わずよろよろ足を乱して、危くそこへ倒れようとした。その暇に相手の若者は、奮然と身を躍らせると、――もう火の移った簾すだれを衝ついて、片手に剣つるぎを提ひっさげながら、静な外の春の月夜へ、一目散に逃げて行った。

彼は歯を喰いしばったまま、ようやく足を踏み固めた。しかし眼を開あいて見ると、火と煙とに溢あふれた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。

「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」

彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の簾すだれを切り払って、蹌踉そうろうと家の外へ出た。月明つきあかりに照らされた往来は、屋根を燃え抜いた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ。」と呼び交かわす声が、たちまち高くなり始めた。彼はそう云う声を浴びて、しばらくはぼんやり佇たたずんで居た。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心の中うちには、気も狂いそうな混乱が、益々烈しくなって居たのであった。

その内に往来の人影は、見る見る数を加え出した。と同時に騒さわがしい叫び声も、いつか憎悪を孕はらんで居る険悪な調子を帯び始めた。

「火つけを殺せ。」

「盗人ぬすびとを殺せ。」

「素戔嗚を殺せ。」

二十二

この時部落の後うしろにある、草山くさやまの楡にれの木の下には、髯ひげの長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の夜よは、藪木やぶきの花のかすかな匀においを柔かく靄もやに包んだまま、ここでもただ梟ふくろうの声が、ちょうど山その物の吐息といきのように、一天の疎まばらな星の光を時々曇らせているばかりであった。

が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の断たえた中空なかぞらへ一すじまっ直すぐに上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい気色けしきも見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで蜂はちの巣を壊こわしたような人どよめきの音が聞えて来た。のみならずその音は次第に高くざわめき立って、とうとう戦たたかいでも起ったかと思う、烈しい喊声かんせいさえ伝わり出した。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたと見えて、白い眉まゆをひそめながら、おもむろに腰を擡もたげると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒動をじっと聞き澄まそうとするらしかった。

「はてな。剣の音なぞもするようだが。」

老人はこう呟つぶやきながら、しばらくはそこに伸び上って、絶えず金粉を煽っている火事の煙に見入っていた。

するとほどなく部落から、逃げて来たらしい七八人の男女なんにょが、喘あえぎ喘ぎ草山へ上って来た。彼等のある者は髪を垂れた、十とおには足りない童児どうじであった。ある者は肌も見えるくらい、襟や裳紐もすそひもを取り乱した、寝起きらしい娘であった。そうしてまたある者は弓よりも猶なお腰の曲った、立居さえ苦しそうな老婆であった。彼等は草山の上まで来ると、云い合せたように皆足を止めて、月夜の空を焦こがしている部落の火事へ眼を返した。が、やがてその中の一人が、楡にれの根がたに佇たたずんだ老人の姿を見るや否や、気づかわしそうに寄り添った。この足弱の一群からは、「思兼尊おもいかねのみこと、思兼尊。」と云う言葉が、ため息と一しょに溢あふれて来た。と同時に胸も露あらわな、夜目にも美しい娘が一人、「伯父様。」と声をかけながら、こちらを振り向いた老人の方へ、小鳥のように身軽く走り寄った。

「どうしたのだ、あの騒ぎは。」

思兼尊はまだ眉まゆをひそめながら、取りすがった娘を片手に抱だいて、誰にともなくこう尋ねた。

「素戔嗚尊すさのおのみことがどうした事か、急に乱暴を始めたとか申す事でございますよ。」

答えたのはあの快活な娘でなくて、彼等の中に交まじっていた、眼鼻も見えないような老婆ろうばであった。

「何、素戔嗚尊が乱暴を始めた?」

「はい、それ故大勢の若者たちが、尊みことを搦からめようと致しますと、平生へいぜい尊の味方をする若者たちが承知致しませんで、とうとうあのように何年にもない、大騒動おおそうどうが始まったそうでございますよ。」

思兼尊は考え深い目つきをして、部落に上っている火事の煙と、尊の胸にすがっている娘の顔とを見比べた。娘は月に照らされたせいか、鬢びんの乱れた頬の色が、透すき徹るかと思うほど青ざめていた。

「火を弄もてあそぶものは、気をつけないと、――素戔嗚尊ばかりではない。火を弄ぶものは、気をつけないと――」

尊は皺しわだらけな顔に苦笑を浮べて、今はさらに拡がったらしい火の手を遥に眺めながら、黙って震ふるえている姪めいの髪を劬いたわるように撫なでてやった。

二十三

部落の戦いは翌朝よくちょうまで続いた。が、寡かはついに衆の敵ではなかった。素戔嗚すさのおは味方の若者たちと共に、とうとう敵の手に生捉いけどられた。日頃彼に悪意を抱いていた若者たちは、鞠まりのように彼を縛いましめた上、いろいろ乱暴な凌辱りょうじょくを加えた。彼は打たれたり蹴けられたりする度毎たびごとに、ごろごろ地上を転がりまわって、牛の吼ほえるような怒声を挙げた。

部落の老若ろうにゃくはことごとく、律おきて通り彼を殺して、騒動の罪を贖つぐなわせようとした。が、思兼尊おもいかねのみことと手力雄尊たぢからおのみことと、この二人の勢力家だけは、容易に賛同の意を示さなかった。手力雄尊は素戔嗚の罪を憎みながらも、彼の非凡な膂力りょりょくには愛惜の情を感じていた。これは同時にまた思兼尊が、むざむざ彼ほどの若者を殺したくない理由でもあった。のみならず尊みことは彼ばかりでなく、すべて人間を殺すと云う事に、極端な嫌悪けんおを抱いていた。――

部落の老若は彼の罪を定さだめるために、三日の間議論を重ねた。が、二人の尊たちはどうしても意見を改めなかった。彼等はそこで死刑の代りに、彼を追放に処する事にした。しかしこのまま、彼の縄を解いて、彼に広い国外の自由の天地を与えるのは、到底とうてい彼等の忍び難い、寛大に過ぎた処置であった。彼等はまず彼の鬚ひげを、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪を、まるで貝でも剥はがすように、未練未釈みれんみしゃくなく抜いてしまった。その上彼の縄を解くと、ほとんど手足も利きかない彼へ、手ん手に石を投げつけたり、慓悍ひょうかんな狩犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど高這たかばいをしないばかりに、蹌踉そうろうと部落を逃れて行った。

彼が高天原たかまがはらの国をめぐる山々の峰を越えたのは、ちょうどその後ご二日経った、空模様の怪しい午後であった。彼は山の頂きへ来た時、嶮けわしい岩むらの上へ登って、住み慣れた部落の横わっている、盆地の方を眺めて見た。が、彼の眼の下には、ただうす白い霧の海が、それらしい平地をぼんやりと、透すかして見せるばかりであった。彼はしかし岩の上に、朝焼あさやけの空を負いながら、長い間じっと坐っていた。すると谷間から吹き上げる風が、昔の通り彼の耳へ、聞き慣れた囁ささやきを送って来た。「素戔嗚よ。お前は何をさがしているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。素戔嗚よ。……」

彼はようやく立ち上った。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を下くだり出した。

その内に朝焼の火照ほてりが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の衣ころものほかに、何もまとってはいなかった。頸珠くびだまや剣つるぎは云うまでもなく、生捉いけどりになった時に奪われていた。雨はこの追放人ついほうにんの上に、おいおい烈しくなり始めた。風も横なぐりに落して来ては、時々ずぶ濡れになった衣の裾を裸はだかの脚へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。

実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧が、山や谷を封じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、凄すさまじくざっと遠近おちこちに煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらに凄じく、寂しい怒が荒れ狂っていた。

二十四

やがて足もとの岩は、湿った苔こけになった。苔はまた間もなく、深い羊歯しだの茂みになった。それから丈たけの高い熊笹くまざさに、――いつの間にか素戔嗚すさのおは、山の中腹を埋うずめている森林の中へはいったのであった。

森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には樅もみや栂とがの枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二しゃにむにその中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を遮さえぎるべく、生きて動いているようであった。

彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変あいかわらず鬱勃うつぼつとして怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿つたかずらを腕一ぱいに掻かきのけながら、時々大きな声を出して、吼うなって行く風雨に答えたりした。

午ひるもやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、削けずったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓ふじづるを編んだ桟橋かけはしが、水煙みずけむりと雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。

桟橋を隔てた絶壁には、火食かしょくの煙が靡なびいている、大きな洞穴ほらあなが幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つを覗のぞいて見た。穴の中には二人の女が、炉ろの火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、描えがいたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造作ぞうさもなく、老婆をそこへ扭ねじ伏せてしまった。

若い女は壁に懸けた刀子とうすへ手をかけるや否や、素早く彼の胸を刺さそうとした。が、彼は片手を揮ふるって、一打にその刀子を打ち落した。女はさらに剣つるぎを抜いて、執念しゅうねく彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり鏘然そうぜんと床ゆかに落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切先きっさきを歯に啣くわえながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いを挑いどむように女を見た。

女はすでに斧おのを執とって、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼の憐あわれみに訴うったうべく、床の上にひれ伏してしまった。

「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」

彼は捉とらえていた手を緩ゆるめて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。

二十五

洞穴ほらあなの中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。床ゆかにはまた鹿しかや熊くまの皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い匀においが快く暖な空気に漂っていた。

その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森の木この実み、干ほした貝、――そう云う物が盤さらや坏つきに堆うずたかく盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は瓶ほたりを執って、彼に酒を勧すすむべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近まじかに坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌あいきょうのある女であった。

彼は獣けもののように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空からになった。女は健啖けんたんな彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子とうすを加えようとした、以前の慓悍ひょうかんな気色けしきなどは、どこを探しても見えなかった。

「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」

彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸あくびをした。女は洞穴ほらあなの奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎かぶつちの剣つるぎを一振ひとふりとって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻かいた。

「何かまだ御用がございますか。」

しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。

「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」

「待って、――どうなさるのでございますか。」

「太刀打たちうちをしようと思うのだ。おれは女を劫おびやかして、盗人を働いたなどとは云われたくない。」

女は顔にかかる髪を掻き上げながら、鮮あざやかな微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」

素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。

「男は一人もいないのか。」

「一人も居りません。」

「この近くの洞穴には?」

「皆私わたくしの妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」

彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、床ゆかの毛皮、それから壁上の太刀たちや剣つるぎ、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠くびだまや剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛やまひめのような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後のちこの危害の惧おそれのない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。

「妹たちは大勢いるのか。」

「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」

成程なるほどそう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。

二十六

素戔嗚すさのおは膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、

「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫おおけつひめと申しますが。」と云った。

「おれは素戔嗚だ。」

彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様ぶざまな若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。

「では今まではあの山の向うの、高天原たかまがはらの国にいらしったのでございますか。」

彼は黙って頷うなずいた。

「高天原の国は、好よい所だと申すではございませんか。」

この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭しんとうの怒火どかが、また彼の眼の中に燃えあがった。

「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪いのししよりも強い所だ。」

大気都姫は微笑した。その拍子ひょうしに美しい歯が、鮮あざやかに火の光に映って見えた。

「ここは何と云う所だ?」

彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞たくましい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立いらだたしい眉まゆを動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴したたるような媚こびを眼に浮べて、

「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。

その時俄にわかに人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色けしきもなく、ぞろぞろ洞穴ほらあなの中へはいって来た。彼等は皆頬に紅くれないをさして、高々と黒髪を束つかねていた。それが順々に大気都姫おおけつひめと、親しそうな挨拶あいさつを交換すると、呆気あっけにとられた彼のまわりへ、馴なれ馴れしく手てん手でに席を占めた。頸珠くびだまの色、耳環みみわの光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、榾明ほたあかりの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。

十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛さかもりを開き始めた。彼は始は唖おしのように、ただ勧すすめられる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、酔よいがまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を弾ひいた。またある者は、盃を控えて、艶なまめかしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。

その内に夜になった。老婆は炉ろに焚き木を加えると共に、幾つも油火あぶらびの燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように酔よい痴しれながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔きょうしんを帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に中ひたった彼を壟断ろうだんしていた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原たかまがはらの国も忘れて、洞穴を罩こめた脂粉しふんの気の中なかに、全く沈湎ちんめんしているようであった。ただその大騒ぎの最中もなかにも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に蹲うずくまって、十六人の女たちの、人目を憚はばからない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

二十七

夜よは次第に更ふけて行った。空からになった盤さらや瓶ほたりは、時々けたたましい音を立てて、床ゆかの上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴したたる酒に、いつかぐっしょり濡ぬらされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体しょうたいもないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息といきの音ばかりであった。

やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉ろに消えかかった、煤臭すすくさい榾ほたの火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐さいなまれている、小山のような彼の姿を朦朧もうろうといつまでも照していた。……

翌日彼は眼をさますと、洞穴ほらあなの奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳すがだたみを延べる代りに、堆うずたかく桃ももの花が敷いてあった。昨日きのうから洞中に溢あふれていた、あのうす甘い、不思議な匀においは、この桃の花の匀に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜ゆうべの記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。

「畜生ちくしょう。」

素戔嗚すさのおはこう呻うめきながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽あおったように空へ舞い上った。

洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫おおけつひめはどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴くつを穿はいて、頭椎かぶつちの太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。

微風は彼の頭から、すぐさま宿酔しゅくすいを吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦そよいでいる、さわやかな森林の梢こずえを眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄もやの上に、巑岏さんがんたる肌はだを曝さらしていた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜ゆうべの狂態を嘲笑あざわらっているように見えるのであった。

この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴ほらあなの空気が、嘔吐おうとを催すほど不快になった。今は炉ろの火も、瓶ほたりの酒も、乃至ないし寝床の桃の花も、ことごとく忌いまわしい腐敗の匀においに充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢しえを隠すために、巧な紅粉こうふんを装っている、屍骨しこつのような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然しょうぜんと頭を低たれながら、洞穴の前に懸っている藤蔓ふじづるの橋を渡ろうとした。

が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺こだましながら、活いき活いきと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通かよっている、細い岨路そばみちの向うから、十五人の妹をつれた、昨日きのうよりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩まばゆい絹の裳もすそを飜ひるがえしながら、こちらへ急いで来る所であった。

「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」

彼等は小鳥の囀さえずるように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角せっかく橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾とうようさせた。彼は彼自身の腑甲斐ふがいなさに驚きながら、いつか顔中に笑えみを浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。

二十八

それ以来素戔嗚すさのおは、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦ほうじゅうな生活を送るようになった。

一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。

彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には瀑たきがあって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの瀑壺たきつぼへ行って、桃花とうかの匀においを浸ひたした水に肌はだを洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分け上のぼる事も稀まれではなかった。

その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は朝夕あさゆう静寂な谷間の空気を呼吸しても、寸毫すんごうの感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。

しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原たかまがはらの国を眺めやった。高天原の国には日が当って、天あめの安河やすかわの大きな水が焼太刀やきだちのごとく光っていた。彼は勁つよい風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに漲みなぎって来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の煩ほおに、冷たい痕あとを止とどめていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明ほたあかりに照らされた、洞穴ほらあなの中を見廻した。彼と同じ桃花とうかの寝床には、酒の匀においのする大気都姫おおけつひめが、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目びもくの形こそ変らないが、垂死すいしの老婆と同じ事であった。

彼は恐怖と嫌悪けんおとに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖なまあたたかい寝床を辷すべり脱けた。そうして素早く身仕度みじたくをすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。

外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓ふじづるの橋を渡るが早いか、獣けもののように熊笹を潜くぐって、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔こけの匀、梟ふくろうの眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力に溢あふれているようであった。

彼は後あとも振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂とがや樅もみの空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。

やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢こずえの山鳩やまばとを眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木この実みは、どこにでも沢山あった。

日の暮は瞼けわしい崖がけの上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒ほこを並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣つるぎや斧おのを思いやった。すると何故なぜか、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻まぼろしであった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦ふせごうとした。が、あの洞穴の榾火ほたびの思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心を捉とらえて行った。

二十九

素戔嗚すさのおは一日の後のち、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を装よそおっているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。

この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、反かえって彼はそのために、前よりも猶なお安々やすやすと、いつまでも醒さめない酔よいのような、怪しい幸福に浸ひたる事が出来た。

一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。

するとある日女たちは、どこから洞穴ほらあなへつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、犢こうしほどもある牡おすであった。彼等は、殊に大気都姫おおけつひめは、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、盤さらの魚や獣けものの肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の戯たわむれに、相撲すもうをとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、酔よい痴しれた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地いくじのない彼を嘲り合った。

ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ盤さらや瓶ほたりを、犬の前にも並べるようになった。彼は苦にがい顔をして、一度は犬を逐おい払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を咎とがめ立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗せいばいしようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも盤さらを舐なめ廻しながら、彼の方へ牙きばを剥むいて見せた。

しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り瀑たきを浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変あいかわらず、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹くまざさを押し分けながら、桃の落花を湛たたえている、すぐ下の瀑壺たきつぼへ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い獣けものが動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の剣つるぎを抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を揮ふるわせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺たきつぼの外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。

それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中ひたりながら、洞穴の奥に蹲うずくまって、一夜中ひとよじゅう酔よい泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬しっとで一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間あさましさなどは、寸毫すんごうも念頭には上のぼらなかった。

ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋うずめていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を抱いだきながら艶なまめかしい言葉を囁ささやいた。彼は意外な眼を挙げて、油火あぶらびには遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を透すかして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく床ゆかに倒れて、苦しそうな呻吟しんぎんの声を洩らした。――それはあの腰も碌ろくに立たない、猿のような老婆の声であった。

三十

老婆を投げ倒した素戔嗚すさのおは、涙に濡れた顔をしかめたまま、虎とらのように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒ふんぬと屈辱くつじょくとの煮え返っている坩堝るつぼであった。彼は眼前に犬と戯たわむれている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎かぶつちの太刀を引き抜きながら、この女たちの群むらがった中へ、我を忘れて突進した。

犬は咄嗟とっさに身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、哮たけり立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下きっさきさがりにもう一度狂いまわる犬を刺さそうとした。

しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫おおけつひめの胸を刺した。彼女は苦痛の声を洩もらして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然じゅうぜんと四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから盤さらだの瓶ほたりだのが粉微塵こなみじんに砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴ほらあなの中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。

彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那いっせつなは茫然と佇たたずんでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな呻うめき声を発して、弦いとを離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。

空には暈かさのかかった月が、無気味ぶきみなくらいぼんやり蒼あおざめていた。森の木々もその空に、暗枝あんしをさし交かわせて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事きょうじが起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を埋うずめようとするごとく、どこまで行っても浪なみを立てていた。時々夜鳥よどりがその中から、翼に薄い燐光りんこうを帯びて、風もない梢こずえへ昇って行った。……

明あけ方がた彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛なまりの板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳そびえた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒いやす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下おろして、寂しい水面みのもへ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。

すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原たかまがはらの国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵してきのすべてであった。――彼は両手に顔を埋うずめて、長い間大声に泣いていた。

その間に空模様が変った。対岸を塞ふさいだ山の空には、二三度鍵かぎの手の稲妻いなずまが飛んだ。続いて殷々いんいんと雷いかずちが鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕はらんだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄にわかに湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。

雷いかずちが猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端とたんに天を傾けて、瀑たきのような大雨おおあめが、沛然はいぜんと彼を襲って来た。

三十一

対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち罩こめた雲煙うんえんの中に、ややともすると紛まぎれそうであった。ただ、稲妻の閃ひらめく度に、波の逆立さかだった水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと雷いかずちの音が、必ず空を掻かきむしるように、続けさまに轟々ごうごうと爆発した。

素戔嗚すさのおはずぶ濡れになりながら、未いまだに汀なぎさの砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛かいもうの底へ沈んでいた。そこには穢けがれ果てた自己に対する、憤懣ふんまんよりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣ほしいままに洩もらす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸かれ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然もくねんと坐っているよりほかはなかった。

天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫うすむらさきになった。山が、雲が、湖が皆半空はんくうに浮んで見えた。同時に地軸ちじくも砕けたような、落雷の音が耳を裂さいた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏うつぶせになった彼の上へ未練未釈みれんみしゃくなく降り濺そそいだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋うずめたまま、身動きをする気色けしきも見えなかった。……

何時間か過ぎた後のち、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより鮮あざやかな黄ばんだ緑に仄ほのめいていた。

彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫せきばくに溢あふれていた。

「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、貪むさぼるように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿たどって見ても、容易に彼には思い出せなかった。

その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋うずめる森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄せんりつが伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷いかずちのように轟とどろいて来た。

彼は喜びに戦おののいた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞ふさごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途みちはなかった。

湖は日に輝きながら、溌溂はつらつとその言葉に応じた。彼は――その汀なぎさにひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲みなぎって来た。

三十二

素戔嗚すさのおはその湖の水を浴びて、全身の穢けがれを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな樅もみの木の陰へ行って、久しぶりに健すこやな眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い下さがって来た。――

夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を伸のばしていた。

そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄つかに竜りゅうの飾かざりのある高麗剣こまつるぎを佩はいている事は、その竜の首が朦朧もうろうと金色こんじきに光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。

大男は腰の剣つるぎを抜くと、無造作むぞうさにそれを鍔元つばもとまで、大木の根本へ突き通した。

素戔嗚はその非凡な膂力りょりょくに、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、

「あれは火雷命ほのいかずちのみことだ。」と、囁いてくれるものがあった。 大男は静に手を挙げて、彼に何か相図あいずをした。それが彼には何となく、その高麗剣こまつるぎを抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。

彼は茫然と身を起した。微風に動いている樅もみの梢こずえには、すでに星が撒まかれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹の戦そよぎや苔こけの匀においが、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ何気なにげなく、懶ものうい視線しせんを漂ただよわせた。

と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考える暇いとまもなく、その枯木の側へ足を運んだ。

枯木はさっきの落雷に、裂さかれたものに違いなかった。だから根元には何かの針葉しんようが、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。――枯木の根本には一振ひとふりの高麗剣こまつるぎが竜の飾のある柄つかを上にほとんど鍔つばも見えないほど、深く突き立っていたのであった。

彼は両手に柄を掴つかんで、渾身こんしんの力をこめながら、一気にその剣つるぎを引き抜いた。剣は今し方磨といだように鍔元つばもとから切先きっさきまで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下に跪ひざまずいて天上の神々に祈りを捧げた。

その後のち彼はまた樅もみの木陰こかげへ帰って、しっかり剣を抱いだきながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。

眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖の汀なぎさへ下りて行った。風の凪なぎ尽した湖は、小波さざなみさえ砂を揺ゆすらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは高天原たかまがはらの国にいた時の通り、心も体も逞たくましい、醜みにくい神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋の皺しわが、いつの間にか一年間の悲しみの痕あとを刻んでいた。

三十三

それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗いまだかつて彼の足を止とどめさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂いちびの労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚すさのおよ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」

彼は風が囁ささやくままに、あの湖を後あとにしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊ひょうはくを続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲いずもの簸ひの川を遡さかのぼって行く、一艘いっそうの独木舟まるきぶねの帆の下に、蘆あしの深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。

蘆あしの向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に鬩せめぎ合った上には、夏霞なつがすみに煙っている、陰鬱な山々の頂いただきがあった。そうしてそのまた山々の空には、時々鷺さぎが両三羽、眩まばゆく翼を閃ひらめかせながら、斜ななめに渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人を脅おびやかすような、明い寂寞が支配していた。

彼は舷ふなばたに身を凭もたせて、日に蒸むされた松脂まつやにの匀においを胸一ぱいに吸いこみながら、長い間独木舟まるきぶねを風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険に慣なれた素戔嗚には、まるで高天原たかまがはらの八衢やちまたのように、今では寸分すんぶんの刺戟しげきさえない、平凡な往来に過ぎないのであった。

夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸には蘆あしが稀まれになって、節ふしくれ立った松の根ばかりが、水と泥との交まじる所を、荒涼と絡かがっているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を配くばって行った。松は水の上まで枝垂しだれた枝を、鉄網のように纏からめ合せて、林の奥の神秘な世界を、執念しゅうねく人目ひとめから隠していた。それでも時たまその松が、鹿しかでも水を飲みに来るせいか、疎まばらに透すいている所には不気味なほど赤い大茸おおたけが、薄暗い中に簇々そうそうと群むらがっている朽木も見えた。

益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然人煙じんえんの挙あがっている容子ようすは見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣こまつるぎの柄つかにこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。

その内に舟は水脈みおを引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛まぎれなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣びゃくいの据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳みよしに立ち上った。舟はその間も帆ほに微風を孕はらんで、小暗おぐらく空に蔓はびこった松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。

三十四

舟はとうとう一枚岩の前へ来た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂しだれていた。素戔嗚すさのおは素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴つかんで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角いわかどの苔こけをかすって、たちまちそこへ横づけになった。

女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡もたげて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱いだいている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端とたんに、片手に岩角を掴つかんだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後うしろへ引き残した女の裳もすそを、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏もらした。が、それぎり身を起す気色けしきもなく、また前のように泣き入ってしまった。

彼は纜ともづなを松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、

「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審ふしんでしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。

女はやっと顔を挙げて、水の上を罩こめた暮色の中に、怯おず怯おず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明ゆうあかりのような、どことなくもの悲しい美しさに溢あふれている事を知ったのであった。

「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚さらわれたのですか。」

女は黙って、首を振った。その拍子ひょうしに頸珠くびだまの琅玕ろうかんが、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否いやと云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上のぼって来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾うるんだ眼を、もう一度膝ひざへ落してしまった。

「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」

彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上かわかみの部落の長おさをしている、足名椎あしなつちと云うものであった。ところが近頃部落の男女なんによが、続々と疫病えきびょうに仆たおれるため、足名椎は早速巫女みこに命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫くしなだひめと云う一人娘を、高志こしの大蛇おろちの犠いけにえにしなければ、部落全体が一月ひとつきの内に、死に絶えるであろうと云う託宣たくせんがあった。そこで足名椎は已やむを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤ぎして、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後あと、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

三十五

櫛名田姫くしなだひめの話を聞き終ると、素戔嗚すさのおは項うなじを反そらせながら、愉快そうに黄昏たそがれの川を見廻した。

「その高志こしの大蛇おろちと云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の噂うわさを聞きますと、頭かしらと尾とが八つある、八つの谷にも亘わたるるくらい、大きな蛇くちなわだとか申す事でございます。」

「そうですか。それは好よい事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤ちからこぶの動くような気がします。」

櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。

「こう申す内にもいつ何時なんどき、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」

「大蛇を退治たいじする心算つもりです。」

彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。

「退治すると仰有おっしゃっても、大蛇は只今申し上げた通り、一方ひとかたならない神でございますから――」

「そうです。」

「万一あなたがそのために、御怪我おけがをなさらないとも限りませんし、――」

「そうです。」

「どうせ私は犠いけにえになるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」

「御待ちなさい。」

彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。

「私はあなたをおめおめと大蛇の犠いけにえにはしたくないのです。」

「それでも大蛇が強ければ――」

「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」

櫛名田姫くしなだひめはまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。

「私が大蛇の犠いけにえになるのは、神々の思召おぼしめしでございます。」

「そうかも知れません。しかし犠いけにえになると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠いけにえにするより、反かえって私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」

彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳おごそかな権威の閃ひらめきが彼の醜みにくい眉目の間に磅礴ぼうはくしたように思われた。

「けれども巫女みこが申しますには――」

櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。

「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」

この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白うすじらんだ川の中へ、水煙みずけむりを立てて跳おどりこんだ。そうして角つのを並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。

「あの鹿の慌あわてようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」

櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ縋すがりついた。

「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」

彼は対岸に眼を配くばりながら、おもむろに高麗剣こまつるぎの柄つかへ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨しゅううの襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に疎まばらな星を撒まいた、山々の空へ上のぼり出した。

(大正九年五月)

底本 / Source edition

底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
初出:「大阪毎日新聞 夕刊」
1920(大正9)年3月~6月
入力:j.utiyama
校正:湯地光弘
1999年8月27日公開
2012年3月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/000153_000879/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/000153_000879/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/000153_000879/

芥川 竜之介「素戔嗚尊」(新字新仮名)、底本『芥川龍之介全集3』ちくま文庫、筑摩書房、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000153_000879, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite