## 一

<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国も春になった。

今は<ruby><rb>四方</rb><rt>よも</rt></ruby>の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>は一面に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな緑をなすって、その<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を流れて行く<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>の水の光も、いつか何となく<ruby><rb>人懐</rb><rt>ひとなつか</rt></ruby>しい暖みを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えているようであった。ましてその<ruby><rb>河下</rb><rt>かわしも</rt></ruby>にある部落には、もう<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>も帰って来れば、女たちが<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>を頭に載せて、水を汲みに行く<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――

そう云う<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な春の日の午後、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく<ruby><rb>力競</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べに<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。

<ruby><rb>始</rb><rt>はじめ</rt></ruby>、彼等は<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>ん<ruby><rb>手</rb><rt>で</rt></ruby>に弓矢を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい<ruby><rb>弦</rb><rt>ゆんづる</rt></ruby>の鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い<ruby><rb>隼</rb><rt>はやぶさ</rt></ruby>の羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く――ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と<ruby><rb>市松模様</rb><rt>いちまつもよう</rt></ruby>の<ruby><rb>倭衣</rb><rt>しずり</rt></ruby>を着た、<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>の醜い一人の若者が、太い<ruby><rb>白檀木</rb><rt>しらまゆみ</rt></ruby>の弓を握って、時々切って放す<ruby><rb>利</rb><rt>とが</rt></ruby>り矢であった。

その<ruby><rb>白羽</rb><rt>しらは</rt></ruby>の矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>を<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>に冷淡な態度を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>い出した。のみならず彼等の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってその方へ賛辞を与えたりした。

容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで<ruby><rb>紛々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える<ruby><rb>流星</rb><rt>りゅうせい</rt></ruby>のように、たった一筋空へ上るようになった。

その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の<ruby><rb>水際</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>により集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。

彼等は互に<ruby><rb>競</rb><rt>きそ</rt></ruby>い合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、<ruby><rb>焼太刀</rb><rt>やきだち</rt></ruby>のように日を照り返した河の中へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げ落ちて、<ruby><rb>眩</rb><rt>まば</rt></ruby>ゆい<ruby><rb>水煙</rb><rt>みずけむり</rt></ruby>を揚げる事もあった。が、<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>は向うの<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>へ、ちょうど谷を渡る鹿のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振返っては声々に笑ったり話したりしていた。

容貌の醜い若者はこの新しい遊戯を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨てて、身軽く河の流れを躍り越えた。そこは彼等が飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓着しなかった。彼等には彼の後で飛んだ――彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の若者の方が、<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の<ruby><rb>倭衣</rb><rt>しずり</rt></ruby>を着ていたが、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に懸けた<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>や腕に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めた<ruby><rb>釧</rb><rt>くしろ</rt></ruby>などは、誰よりも精巧な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の中を<ruby><rb>河下</rb><rt>かわしも</rt></ruby>の方へ歩き出した。

## 二

河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>へ足を止めた。そこは一旦<ruby><rb>湍</rb><rt>たぎ</rt></ruby>った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい水煙を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。

彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所と大して離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼等の目にもはいった。彼等のある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」と云うように腹を抱えて笑い出した。と同時にまたある者は、やはり<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し立てながらも、以前よりは<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に同情のある声援の言葉を与えたりした。そう云う好意のある連中の中には、あの精巧な勾玉や釧の美しさを誇っている若者なども<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。彼等は彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、始めて彼に幾分の親しみを持つ事が出来たのであった。が、彼等も一瞬の後には、また以前の沈黙に――敵意を蔵した沈黙に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>らなければならない事が出来た。

と云うのは河に落ちた彼が、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>のようになったまま、向うの汀へ這い上ったと思うと、<ruby><rb>執念深</rb><rt>しゅうねんぶか</rt></ruby>くもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>めながら、<ruby><rb>明礬色</rb><rt>みょうばんいろ</rt></ruby>の水の上へ踊り上ったと思う内に、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの<ruby><rb>水際</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>へ、雲のような砂煙を舞い上げながら、どさりと大きな<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をついた。それは彼等の笑を買うべく、余りに壮厳すぎる滑稽であった。勿論彼等の間からは、喝采も歓呼も起らなかった。

彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体を起して、仲間の若者たちの方を眺めやった。が、彼等はもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽きたと見えて、また何か新しい<ruby><rb>力競</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べを試むべく、面白そうに笑い興じながら、<ruby><rb>河上</rb><rt>かわかみ</rt></ruby>の方へ急ぐ所であった。それでもまだ容貌の醜い若者は、快活な心もちを失わなかった。と云うよりも失う筈がなかった。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>と云えば彼等の不快は<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に彼には通じなかった。彼はこう云う点になると、実際どこまでも<ruby><rb>御目出度</rb><rt>おめでた</rt></ruby>く出来上った人間の一人であった。しかしまたその御目出度さがあらゆる強者に特有な<ruby><rb>烙印</rb><rt>やきいん</rt></ruby>である事も事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を垂らしたまま、<ruby><rb>麗</rb><rt>うら</rt></ruby>らかな春の日に<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>かげをして、のそのそ砂の上を歩き出した。

その間にほかの若者たちは、<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>に散在する<ruby><rb>巌石</rb><rt>がんせき</rt></ruby>を持上げ合う<ruby><rb>遊戯</rb><rt>ゆうぎ</rt></ruby>を始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の中に転がっていた。彼等はみんな腕まくりをして、なるべく大きい岩を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>き起そうとした。が、手ごろな巌石のほかは、中でも<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい五六人の若者たちでないと、容易に砂から離れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼等五六人の独占する遊戯に変ってしまった。彼等はいずれも大きな岩を軽々と<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げたり投げたりした。殊に赤と白と三角模様の<ruby><rb>倭衣</rb><rt>しずり</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>をまくり上げた、<ruby><rb>顔中</rb><rt>かおじゅう</rt></ruby><ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まっている、<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の低い<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>の若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ若者たちは、彼の非凡な<ruby><rb>力業</rb><rt>ちからわざ</rt></ruby>に賞讃の声を惜まなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、次第に大きな巌石に力を試みようとするらしかった。

あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五六人の<ruby><rb>力競</rb><rt>ちからくらべ</rt></ruby>の真最中へ来合せたのであった。

## 三

あの容貌の醜い若者は、両腕を胸に組んだまま、しばらくは力自慢の五六人が勝負を争うのを眺めていた。が、やがて<ruby><rb>技癢</rb><rt>ぎよう</rt></ruby>に堪え兼ねたのか、自分も水だらけな袖をまくると、幅の広い肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かせて、まるで<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>を出る熊のように、のそのそとその連中の中へはいって行った。そうしてまだ誰も持ち上げない巌石の一つを抱くが早いか、何の苦もなくその岩を肩の上までさし上げて見せた。

しかし大勢の若者たちは、依然として彼には冷淡であった。ただ、その中でもさっきから賞讃の声を浴びていた、背の低い猪首の若者だけは、容易ならない競争者が現れた事を知ったと見えて、さすがに<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましそうな流し眼をじろじろ彼の方へ注いでいた。その内に彼は<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いだ岩を肩の上で<ruby><rb>一揺</rb><rt>ひとゆす</rt></ruby>り揺ってから、人のいない向うの砂の上へ勢いよくどうと投げ落した。するとあの猪首の若者はちょうど餌に<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>えた虎のように、猛然と身を躍らせながら、その巌石へ飛びかかったと思うと、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の間に抱え上げて、彼にも劣らず楽々と肩よりも高くかざして見せた。

それはこの二人の腕力が、ほかの力自慢の連中よりも数段上にあると云う事を雄弁に語っている証拠であった。そこで今まで<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>も無く力競べをしていた若者たちはいずれも<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>のさめた顔を見合せながら、周囲に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいる見物仲間へ<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>でも加わらずにはいられなかった。その代りまた<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に残った二人は、本来さほど敵意のある間柄でもなかったが、<ruby><rb>騎虎</rb><rt>きこ</rt></ruby>の勢いで<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ず、どちらか一方が降参するまで<ruby><rb>雌雄</rb><rt>しゆう</rt></ruby>を争わずにはいられなくなった。この形勢を見た多勢の若者たちは、あの<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>の若者がさし上げた岩を投げると同時に、これまでよりは一層熱心にどっとどよみを作りながら、今度はずぶ濡れになった彼の方へいつになく一斉に<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を注いだ。が、彼等がただ勝負にのみ興味を持っていると云う事は、――彼自身に対してはやはり好意を持っていないと云う事は、彼等の<ruby><rb>意地悪</rb><rt>いじわ</rt></ruby>るそうな眼の中にも、明かによめる事実であった。

それでも彼は<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>悠々と手に<ruby><rb>唾</rb><rt>つばき</rt></ruby>など吐きながら、さっきのよりさらに<ruby><rb>一嵩</rb><rt>ひとかさ</rt></ruby>大きい巌石の側へ歩み寄った。それから両手に岩を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて、しばらく呼吸を計っていたが、たちまちうんと力を入れると、一気に腹まで抱え上げた。最後にその手をさし換えてから、見る見る内にまた肩まで物も見事に<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで見せた。が、今度は投げ出さずに、眼で猪首の若者を招くと、人の好さそうな微笑を浮べながら、

「さあ、受取るのだ。」と声をかけた。

猪首の若者は数歩を隔てて、時々<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みながら、<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るように彼を眺めていたが、

「よし。」と<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>答えると、つかつかと彼の側へ進み寄って、すぐにその巌石を小山のような肩へ<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>き取った。そうして二三歩歩いてから、一度眼の上までさし上げて置いて、力の限り向うへ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げた。岩は凄じい地響きをさせながら、見物の若者たちの近くへ落ちて、銀粉のような砂煙を揚げた。

大勢の若者たちはまた以前のようにどよめき立った。が、その声がまだ消えない内に、もうあの猪首の若者は、さらに勝敗を争うべく、前にも増して大きい岩を<ruby><rb>水際</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>の砂から抱き起していた。

## 四

二人はこう云う<ruby><rb>力競</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べを何回となく<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>っていた。のみならず彼等の着ている<ruby><rb>倭衣</rb><rt>しずり</rt></ruby>は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めそうな<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>もなかった。

彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも<ruby><rb>闘鶏</rb><rt>とうけい</rt></ruby>や<ruby><rb>闘犬</rb><rt>とうけん</rt></ruby>の<ruby><rb>見物</rb><rt>けんぶつ</rt></ruby>同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えていた。だから彼等は二人の<ruby><rb>力者</rb><rt>りきしゃ</rt></ruby>に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。

勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の低い<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>の若者は、露骨にその憎悪を示して<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。

彼は今も相手の投げた巌石を危く<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>しながら、とうとうしまいには勇を<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>して、これも<ruby><rb>水際</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に流れを<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>とたぎる春の水に<ruby><rb>千年</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>の<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>を洗わせていた。この大岩を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げる事は、<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>第一の<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>と云われた<ruby><rb>手力雄命</rb><rt>たぢからおのみこと</rt></ruby>でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、<ruby><rb>渾身</rb><rt>こんしん</rt></ruby>の力を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>い起して、ともかくも岩の根を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めた砂の中からは抱え上げた。

この人間以上の<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>は、周囲に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った<ruby><rb>観</rb><rt>かん</rt></ruby>があった。彼等は皆息を呑んで<ruby><rb>千曳</rb><rt>ちびき</rt></ruby>の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れた驚歎の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きにほかならなかった。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、<ruby><rb>一分</rb><rt>いちぶ</rt></ruby>ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに<ruby><rb>突兀</rb><rt>とつこつ</rt></ruby>たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に乱して、あたかも<ruby><rb>大地</rb><rt>だいち</rt></ruby>を<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いて出た<ruby><rb>土雷</rb><rt>つちいかずち</rt></ruby>の神のごとく、河原に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。

## 五

<ruby><rb>千曳</rb><rt>ちびき</rt></ruby>の大岩を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いだ彼は、<ruby><rb>二足</rb><rt>ふたあし</rt></ruby><ruby><rb>三足</rb><rt>みあし</rt></ruby><ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>と流れの<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。

<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>の若者は<ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、

「よし。」と<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>き取ろうとした。

岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく<ruby><rb>緩漫</rb><rt>かんまん</rt></ruby>であった。と同時にまた雲の峰が<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>のように<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を噛みながら、次第にのしかかって来る<ruby><rb>千曳</rb><rt>ちびき</rt></ruby>の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、<ruby><rb>大風</rb><rt>おおかぜ</rt></ruby>の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めた<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い砂の上へ<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、<ruby><rb>一分</rb><rt>いちぶ</rt></ruby>ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、<ruby><rb>石塊</rb><rt>いしくれ</rt></ruby>の下にもがいている<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>とさらに変りはなかった。

周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>からさっき<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げた<ruby><rb>大盤石</rb><rt>だいばんじゃく</rt></ruby>を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を相手に注ぐよりほかはなかった。

その内に猪首の若者は、とうとう大岩に<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>を<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されて、<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れるように砂へ膝をついた。その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に彼の口からは、叫ぶとも<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くとも形容出来ない、苦しそうな声が<ruby><rb>一声</rb><rt>ひとこえ</rt></ruby><ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して、相手の上に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は<ruby><rb>多愛</rb><rt>たわい</rt></ruby>もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>な血を<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>らせた。それがこの憐むべき<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>の若者の<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>であった。

あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねたまま、<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の中に倒れている相手の<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは<ruby><rb>麗</rb><rt>うら</rt></ruby>らかな日の光を浴びて、いずれも<ruby><rb>黙念</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。

## 六

<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と<ruby><rb>御目出度</rb><rt>おめでた</rt></ruby>さとに残酷な<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。

こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>の若者の記憶は、未だに彼の心の底に<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>ましい<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>を残していた。この記憶を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。

彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>る山間の自然の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい<ruby><rb>山鳩</rb><rt>やまばと</rt></ruby>の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>と共に、彼の<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>を慰むべく、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに暖い春の雲を物静な水に映していた。<ruby><rb>藪木</rb><rt>やぶき</rt></ruby>の<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>る<ruby><rb>針金雀花</rb><rt>はりえにしだ</rt></ruby>、熊笹の中から飛び立つ<ruby><rb>雉子</rb><rt>きぎす</rt></ruby>、それから深い谷川の水光りを乱す<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいぞう</rt></ruby>の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。

時々彼が谷川の石の上に、水を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて去来する<ruby><rb>岩燕</rb><rt>いわつばめ</rt></ruby>を眺めていると、あるいは<ruby><rb>山峡</rb><rt>やまかい</rt></ruby>の<ruby><rb>辛夷</rb><rt>こぶし</rt></ruby>の下に、<ruby><rb>蜜</rb><rt>みつ</rt></ruby>に<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>って飛びも出来ない<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>羽音</rb><rt>はおと</rt></ruby>を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその<ruby><rb>当座</rb><rt>とうざ</rt></ruby>どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず<ruby><rb>落莫</rb><rt>らくばく</rt></ruby>たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。

彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>に近く、<ruby><rb>碁石</rb><rt>ごいし</rt></ruby>のように点々と<ruby><rb>茅葺</rb><rt>かやぶ</rt></ruby>き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、<ruby><rb>火食</rb><rt>かしょく</rt></ruby>の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>って、折々枝頭の若芽の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて行くように思われた。

「<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」

## 七

しかし<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでいたか。――彼は<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>らそう<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、<ruby><rb>私</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく<ruby><rb>不似合</rb><rt>ふにあい</rt></ruby>の感じがしたからであった。

彼が始めてこの娘に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのは、やはりあの山腹の<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、<ruby><rb>麗</rb><rt>うら</rt></ruby>らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に何か笑い興じていた。

彼等は皆竹籠を<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>にかけている所を見ると、花か木の芽か<ruby><rb>山独活</rb><rt>やまうど</rt></ruby>を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しいものの娘でない事は、彼等の肩に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っている、美しい<ruby><rb>領巾</rb><rt>ひれ</rt></ruby>を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の<ruby><rb>山鳩</rb><rt>やまばと</rt></ruby>を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。

素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>っていた太枝を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、だらりと宙に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り下った。と思うと一つ<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に足を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>らせて、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられた女たちの中へ、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けさまに転がってしまった。

女たちは一瞬間、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと<ruby><rb>傲然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>と、女たちの顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。

「あなたは一体どこにいらしったの？」

やっと笑い止んだ女たちの一人は<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しさが残っているようであった。

「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」

素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。

## 八

女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが<ruby><rb>素戔嗚尊</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、<ruby><rb>故</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に彼等を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>すべく、一層<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>らしい眼つきを見せた。

「何が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい？」

が、彼等には彼の<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい<ruby><rb>領巾</rb><rt>ひれ</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>びながら、

「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの？」と云った。

「<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>を助けてやろうと思ったのだ。」

「<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>たちだって助けてやる<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でしたわ。」

三番目の娘は笑いながら、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>もすぐれて<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この<ruby><rb>利発</rb><rt>りはつ</rt></ruby>らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>と云う事もなく<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>て方を見せたくないと云う心もちもあった。

「嘘をつけ。」

彼は一生懸命に、乱暴な返事を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。

「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でしたわ。」

彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の<ruby><rb>当惑</rb><rt>とうわく</rt></ruby>を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。

「ほんとうですわ。」

「どうして嘘だと御思い？」

「あなたばかり鳩が<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>いのじゃございません。」

彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>された<ruby><rb>蜜蜂</rb><rt>みつばち</rt></ruby>のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から<ruby><rb>薙倒</rb><rt>なぎたお</rt></ruby>しそうな<ruby><rb>擬勢</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>を示しながら、<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>のように怒鳴りつけた。

「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」

女たちはさすがに驚いたらしく、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて彼の<ruby><rb>側</rb><rt>かたわら</rt></ruby>を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた<ruby><rb>嫁菜</rb><rt>よめな</rt></ruby>の花を摘み取っては、<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>の好い雨を浴びたまま、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な女たちの方へ、<ruby><rb>二足</rb><rt>ふたあし</rt></ruby><ruby><rb>三足</rb><rt>みあし</rt></ruby>突進した。

彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち<ruby><rb>止</rb><rt>どま</rt></ruby>ったなり、次第に遠くなる<ruby><rb>領巾</rb><rt>ひれ</rt></ruby>の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か薄笑いが、自然と<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、<ruby><rb>麗</rb><rt>うら</rt></ruby>らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にはただ草木の<ruby><rb>栄</rb><rt>さかえ</rt></ruby>を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……

<ruby><rb>何分</rb><rt>なんぷん</rt></ruby>か<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、あの羽根を<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けた山鳩は、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ず<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ずまたそこへ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――

## 九

その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけるには、余りに<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>が、恋愛とは<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に縁の遠い、<ruby><rb>野蛮</rb><rt>やばん</rt></ruby>な生活を送り過ぎていた。

彼は<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると<ruby><rb>一夜中</rb><rt>ひとよじゅう</rt></ruby>、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や<ruby><rb>猪</rb><rt>しし</rt></ruby>などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいる<ruby><rb>大鷲</rb><rt>おおわし</rt></ruby>を射殺しにも行ったりした。が、彼は<ruby><rb>未嘗</rb><rt>いまだかつて</rt></ruby>、その非凡な<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>を尽すべき、<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い相手を見出さなかった。山の向うに<ruby><rb>穴居</rb><rt>けっきょ</rt></ruby>している、<ruby><rb>慓悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>の名を得た<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。

その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と<ruby><rb>啀</rb><rt>いが</rt></ruby>み合う事を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>には頓着なく、ほとんど何事にも<ruby><rb>軋轢</rb><rt>あつれき</rt></ruby>し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――

現に一度はこう云うことがあった。

ある<ruby><rb>麗</rb><rt>うらら</rt></ruby>かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている<ruby><rb>草山</rb><rt>くさやま</rt></ruby>を<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>って来た。その時の彼の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、さっき射損じた一頭の<ruby><rb>牡鹿</rb><rt>おじか</rt></ruby>が、まだ折々は未練がましく、<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かな姿を浮べていた。ところが草山がやや<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>になって、一本の<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど<ruby><rb>奴僕</rb><rt>ぬぼく</rt></ruby>のごとく彼に仕えるために、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。

彼は彼等の姿を見ると、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に何事か起りそうな、<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、

「どうしたのだ。」と声をかけた。

その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの<ruby><rb>理不尽</rb><rt>りふじん</rt></ruby>な事を<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けたり<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけて、

「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>な文句を並べたりした。

## 十

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、<ruby><rb>野蛮</rb><rt>やばん</rt></ruby>な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に彼の崇拝者は、よくよく<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みかかった。

「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」

こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を<ruby><rb>嗔</rb><rt>いか</rt></ruby>らせながら、今度は彼へ<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby>を失った素戔嗚へ、紛々と<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>に<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>った時、彼は理非も忘れるほど<ruby><rb>真底</rb><rt>しんそこ</rt></ruby>から一時に腹が立った。

たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>に気をとめる<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>は見えなかった。

が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なく草山を逃げ<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>って行った。

素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めなければならなかった。

「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのだ。」

若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られた事は、一面に<ruby><rb>地腫</rb><rt>じばれ</rt></ruby>のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しさがこみ上げて来た。

「どうした？　<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>はしなかったか？」

「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」

「うん、<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>が一つ出来ただけだった。」

素戔嗚はこう云う一言に<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさを吐き出しながら、そこにあった一本の<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の<ruby><rb>根本</rb><rt>ねもと</rt></ruby>に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの<ruby><rb>格闘</rb><rt>かくとう</rt></ruby>が、夢のような気さえしないではなかった。

二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。

「どうです。瘤は痛みますか。」

「大して痛まない。」

「<ruby><rb>米</rb><rt>こめ</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでつけて置くと<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いそうですよ。」

「そうか。それは好い事を聞いた。」

## 十一

ちょうどこの<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>と同じように、<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、<ruby><rb>思兼尊</rb><rt>おもいかねのみこと</rt></ruby>だの<ruby><rb>手力雄尊</rb><rt>たぢからおのみこと</rt></ruby>だのと云う<ruby><rb>年長者</rb><rt>ねんちょうじゃ</rt></ruby>に敬意を払っていた。しかしそれらの<ruby><rb>尊</rb><rt>みこと</rt></ruby>たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。

殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、<ruby><rb>朽木</rb><rt>くちき</rt></ruby>の幹へ腰を下して、思いのほか<ruby><rb>打融</rb><rt>うちと</rt></ruby>けた世間話などをし始めた。

<ruby><rb>尊</rb><rt>みこと</rt></ruby>はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な<ruby><rb>呪物師</rb><rt>まじものし</rt></ruby>のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、<ruby><rb>山谷</rb><rt>さんこく</rt></ruby>の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。

彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、<ruby><rb>銀</rb><rt>しろがね</rt></ruby>のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。

「近頃はあなたの<ruby><rb>剛力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>が、<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>評判</rb><rt>ひょうばん</rt></ruby>のようじゃありませんか。」

しばらくしてから思兼尊は、こう云って、<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほ</rt></ruby>に<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を浮べた。

「評判だけ大きいのです。」

「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>があるのですから。」

素戔嗚にはこの答が、一向<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちなかった。

「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」

「さらに剛力ではなくなるのです。」

「しかし人が<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>わなくっても、<ruby><rb>砂金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は<ruby><rb>始</rb><rt>はじめ</rt></ruby>から砂金でしょう。」

「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」

「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」

「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」

素戔嗚は何だか思兼尊に、<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は少しもなかった。

「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」

「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」

思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい<ruby><rb>蕗</rb><rt>ふき</rt></ruby>の<ruby><rb>薹</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ始めた。

## 十二

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はしばらく黙っていた。するとまた<ruby><rb>思兼尊</rb><rt>おもいかねのみこと</rt></ruby>が彼の非凡な腕力へ<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れた話頭を持って行った。

「いつぞや<ruby><rb>力競</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べがあった時、あなたと岩を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」

「気の毒な事をしたものです。」

素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を<ruby><rb>薄日</rb><rt>うすび</rt></ruby>がさした<ruby><rb>古沼</rb><rt>ふるぬま</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>ぐんだ春の木々をひっそりと<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、

「気の毒ですが、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>げていますよ。第一<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>骨頂</rb><rt>こっちょう</rt></ruby>じゃありませんか。」

「しかし<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は何となく気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めてならないのですが。」

「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」

「けれども私はあの連中に、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>まれているようです。」

「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」

「世の中はそう云うものでしょうか。」

その時<ruby><rb>尊</rb><rt>みこと</rt></ruby>は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。

素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には<ruby><rb>山目</rb><rt>やまめ</rt></ruby>が<ruby><rb>一尾</rb><rt>いちび</rt></ruby>、<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>と銀のように<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>っていた。

「魚は人間より幸福ですね。」

尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。

「人間が<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」

彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、

「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。

尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な調子になって、白い<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りながら、

「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」

「どうしてですか。」

彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くものが<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいたのであった。

「<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」

思兼尊の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。

「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」

二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には<ruby><rb>翡翠</rb><rt>かわせみ</rt></ruby>が、時々水を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めながら、<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>を打つように飛んで行った。

## 十三

その間もあの<ruby><rb>快活</rb><rt>かいかつ</rt></ruby>な娘の姿は、絶えず<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の下で、始めて彼女と<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>も見せなかった。――

ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>へ水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでいるのに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>った。噴き井の上には<ruby><rb>白椿</rb><rt>しろつばき</rt></ruby>が、まだ<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の<ruby><rb>水沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>は、その花と葉とを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる日の光に、かすかな<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>を描いていた。娘は身をかがめながら、<ruby><rb>苔蒸</rb><rt>こけむ</rt></ruby>した<ruby><rb>井筒</rb><rt>いづつ</rt></ruby>に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる水を<ruby><rb>素焼</rb><rt>すやき</rt></ruby>の<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>へ落していたが、ほかの女たちはもう水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>み<ruby><rb>了</rb><rt>お</rt></ruby>えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、彼女は<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby><ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。

彼は例の通り当惑しながら、ちょいと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>点頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を追って、やはり<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに<ruby><rb>噴井</rb><rt>ふきい</rt></ruby>の側へ歩み寄って、大きな<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>へ<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>った水に、二口三口<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を<ruby><rb>沾</rb><rt>うるお</rt></ruby>した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>自身を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>りたいような気もしないではなかった。

その間に女たちはそよ風に<ruby><rb>領巾</rb><rt>ひれ</rt></ruby>を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。

噴き井の水を飲んでいた彼は、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>その視線に<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると<ruby><rb>中高</rb><rt>なかだか</rt></ruby>になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない影を落した。素戔嗚は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで<ruby><rb>巻添</rb><rt>まきぞ</rt></ruby>えにした、あの<ruby><rb>牛飼</rb><rt>うしかい</rt></ruby>の崇拝者であった。

「お早うございます。」

若者は<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>笑いを見せながら、<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく彼に<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をした。

「お早う。」

彼はこの若者にまで、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。

## 十四

が、若者はさり<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>ない調子で、噴き井の上に<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れかかった白椿の花を<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>りながら、

「もう<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>は<ruby><rb>御癒</rb><rt>おなお</rt></ruby>りですか。」

「うん、とうに癒った。」

彼は真面目にこんな返事をした。

「<ruby><rb>生米</rb><rt>なまごめ</rt></ruby>を御つけになりましたか。」

「つけた。あれは思ったより<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き目があるらしかった。」

若者は<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>った椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、

「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」

「何だ。その好い事と云うのは。」

彼が<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>そうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を頬に浮べたまま、

「あなたの<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にかけて御出でになる、<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>を一つ頂かせて下さい。」と云った。

「勾玉をくれ？　くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ？」

「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」

「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はそろそろ<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れ出しながら、<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>に若者の<ruby><rb>請</rb><rt>こい</rt></ruby>を<ruby><rb>却</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けた。すると相手は<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、

「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」

彼は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をして、相手の<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の間を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。が、内心は少からず、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>に狼狽を重ねていた。

「御好きじゃありませんか、あの<ruby><rb>思兼尊</rb><rt>おもいかねのみこと</rt></ruby>の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>を。」

「そうか。あれは思兼尊の姪か。」

彼は<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どい声を出した。若者はその<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見ると、<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>を挙げるように笑い出した。

「そら、御覧なさい。隠したってすぐに<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>われます。」

彼はまた口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、じっと足もとの石を見つめていた。<ruby><rb>水沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>を浴びた石の間には、<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に<ruby><rb>羊歯</rb><rt>しだ</rt></ruby>の葉が芽ぐんでいた。

「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」

若者は<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>びながら、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、

「そうして勾玉をどうするのだ？」と云った。

しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。

## 十五

若者の答えは<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>であった。

「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はちょいとためらった。この男の弁舌を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>する事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>の色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いだ。

「<ruby><rb>御嫌</rb><rt>おいや</rt></ruby>なら仕方はありませんが。」

二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に懸けた<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>の中から、美しい<ruby><rb>琅玕</rb><rt>ろうかん</rt></ruby>の玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなった母の<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>であった。

若者はその琅玕に物欲しそうな眼を落しながら、

「これは立派な勾玉ですね、こんな<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>の好い琅玕は、そう沢山はありますまい。」

「この国の物じゃない。海の向うにいる<ruby><rb>玉造</rb><rt>たまつくり</rt></ruby>が、<ruby><rb>七日</rb><rt>なぬか</rt></ruby><ruby><rb>七晩</rb><rt>ななばん</rt></ruby>磨いたと云う玉だ。」

彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>を向けて、大股に<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>から歩み去った。若者はしかし勾玉を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上に載せながら、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて後を追いかけて来た。

「待っていて下さい。必ず二三日中には、<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>を御聞かせしますから。」

「うん、急がなくって好いが。」

彼等は<ruby><rb>倭衣</rb><rt>しずり</rt></ruby>の肩を並べて、絶え間なく飛び<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、<ruby><rb>中高</rb><rt>なかだか</rt></ruby>になった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。

その日の<ruby><rb>暮方</rb><rt>くれがた</rt></ruby>、若者は例の草山の<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、<ruby><rb>斑竹</rb><rt>はんちく</rt></ruby>の<ruby><rb>笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>を帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や<ruby><rb>釧</rb><rt>くしろ</rt></ruby>の所有者として知られている、<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも<ruby><rb>無愛想</rb><rt>ぶあいそ</rt></ruby>に、

「何か御用ですか。」と返事をした。

「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」

若者は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をしながら、琅玕を相手の手に渡した。

「君の玉かい。」

「いいえ、<ruby><rb>素戔嗚尊</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>の玉です。」

今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。

「じゃいつもあの男が、<ruby><rb>自慢</rb><rt>じまん</rt></ruby>そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、<ruby><rb>石塊</rb><rt>いしころ</rt></ruby>同様の玉ばかりだが。」

若者は<ruby><rb>毒口</rb><rt>どくぐち</rt></ruby>を利きながら、しばらくその勾玉を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、

「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。

## 十六

牛飼いの若者は<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>と返事をする代りに、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>脹</rb><rt>ふく</rt></ruby>らせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、

「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」

「駄目ですよ。その<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>は<ruby><rb>素戔嗚尊</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>が、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」

「へええ、ある人へ渡してくれ？　ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」

相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。

「女でも男でも好いじゃありませんか。」

若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もなく、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って薄気昧が悪いほど、優しい微笑を<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らしながら、

「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>はなさそうじゃないか。」

若者はまた口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、草の上へ眼を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせていた。

「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>なり、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>はまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」

「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」

「受け取らないと云ったら？」

相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、

「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな<ruby><rb>琅玕</rb><rt>ろうかん</rt></ruby>は、若い女には似合わないよ。だから<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってこの代りに、もっと<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」

若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。

「それからだね――」

相手は<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。

「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」

若者の心の中には、両方に刃のついた<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>やら、水晶を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>った勾玉やら、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい<ruby><rb>月毛</rb><rt>つきげ</rt></ruby>の馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。

「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>もちょうど君に<ruby><rb>御誂</rb><rt>おあつら</rt></ruby>えなのがある筈だ。<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>には馬も五六匹いる。」

相手は飽くまでも<ruby><rb>滑</rb><rt>なめらか</rt></ruby>な舌を弄しながら気軽く<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の根がたを立ち上った。若者はやはり<ruby><rb>黙念</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から、重そうな足を運び始めた。――

彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>わせた。

何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。

## 十七

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を<ruby><rb>齋</rb><rt>もたら</rt></ruby>さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。

その間に彼はあの娘と、朝早く同じ<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>の前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく<ruby><rb>素焼</rb><rt>すやき</rt></ruby>の<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>を頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど<ruby><rb>白椿</rb><rt>しろつばき</rt></ruby>の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>むような表情を水々しい眼に浮べたまま、<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>だ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」――そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと<ruby><rb>私</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに決心した。

ところが彼はある日の日暮、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>を歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い気もちになって、しばらくは<ruby><rb>入日</rb><rt>いりひ</rt></ruby>の光に煙った<ruby><rb>河原蓬</rb><rt>かわらよもぎ</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>みながら、<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>と水をかぶっている黒馬の<ruby><rb>毛並</rb><rt>けなみ</rt></ruby>を眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、

「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、

「私です。」と返事をした。

「そうか。そりゃ――」

彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでしまった。が、さすがに若者は<ruby><rb>素知</rb><rt>そし</rt></ruby>らぬ顔も出来ないと見えて、

「<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだって</rt></ruby>あの<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>を御預りしましたが――」と、ためらい勝ちに切り出した。

「うん、渡してくれたかい。」

彼の眼は子供のように、純粋な感情を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えていた、若者は彼と眼を合わすと、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててその視線を避けながら、<ruby><rb>故</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に馬の<ruby><rb>足掻</rb><rt>あが</rt></ruby>くのを叱って、

「ええ、渡しました。」

「そうか。それでおれも安心した。」

「ですが――」

「ですが？　何だい。」

「急には御返事が出来ないと云う事でした。」

「何、急がなくっても好い。」

彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、<ruby><rb>夕霞</rb><rt>ゆうがすみ</rt></ruby>のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。

「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと？　嘘をつけ。それなら<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」

## 十八

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>り出した。それは<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い<ruby><rb>山鴉</rb><rt>やまがらす</rt></ruby>が美しい<ruby><rb>白鳥</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の<ruby><rb>哂</rb><rt>わら</rt></ruby>い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。

しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>な彼を哂うのではなく、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って仕合せな彼を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んだり<ruby><rb>妬</rb><rt>そね</rt></ruby>んだりしているのであった。――そう彼は信じていた。少くともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。

だから彼はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>また、あの牛飼の若者に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>った時も、ただ同じ答を聞きたいばかりに、

「あの<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>は確かに渡してくれたのだろうな。」と、軽く念を押しただけであった。若者はやはり間の悪るそうな顔をしながら、

「ええ、確かに渡しました。しかし御返事の所は――」とか何とか、<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>に言葉を濁していた。それでも彼は渡したと云う言葉に満足して、その上立ち入った事情なぞは尋ねようとも思わなかった。

すると三四日経ったある夜の事、彼が山へ<ruby><rb>寝鳥</rb><rt>ねどり</rt></ruby>でも捕えに行こうと思って、月明りを<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>、部落の往来を独りぶらぶら歩いていると、誰か笛を吹きすさびながら、薄い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りた中を、これも悠々と来かかるものがあった。<ruby><rb>野蛮</rb><rt>やばん</rt></ruby>な彼は幼い時から、歌とか音楽とか云うものにはさらに興味を感じなかった。が、<ruby><rb>藪木</rb><rt>やぶき</rt></ruby>の花の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のする春の月夜に包まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾けるのは、彼にとっても何となく、心憎い気のするものであった。

その内に彼とその男とは、顔を合せるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>笛を吹き止めなかった。彼は路を譲りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。美しい顔、<ruby><rb>燦</rb><rt>きら</rt></ruby>びやかな勾玉、それから口に当てた<ruby><rb>斑竹</rb><rt>はんちく</rt></ruby>の笛――相手はあの<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い、風流な若者に違いなかった。彼は勿論この若者が、彼の野性を軽蔑する敵の一人だと云うことを承知していた。そこで始は昂然と肩を挙げて、挨拶もせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体へ<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>に残した、あの<ruby><rb>琅玕</rb><rt>ろうかん</rt></ruby>の<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>が、曇りない月の光に濡れて、水々しく輝いていたではないか。

「待て。」

彼は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に腕を伸ばすと、若者の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をしっかり<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ。

「何をする。」

若者は思わずよろめきながら、さすがに懸命の力を<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>って、とられた襟を振り離そうとした。が、彼の手はさながら<ruby><rb>万力</rb><rt>まんりき</rt></ruby>にかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。

## 十九

「貴様はこの<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>を誰に貰った？」

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は相手の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をしめ上げながら<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みつくようにこう尋ねた。

「離せ。こら、何をする。離さないか。」

「貴様が白状するまでは離さない。」

「離さないと――」

若者は襟を取られたまま、<ruby><rb>斑竹</rb><rt>はんちく</rt></ruby>の笛をふり上げて、横払いに相手を打とうとした。が、素戔嗚は手もとを<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めるまでもなく、遊んでいた片手を動かして、苦もなくその笛を<ruby><rb>扭</rb><rt>ね</rt></ruby>じ取ってしまった。

「さあ、白状しろ。さもないと、貴様を<ruby><rb>絞殺</rb><rt>しめころ</rt></ruby>すぞ。」

実際素戔嗚の心の中には、狂暴な怒が燃え立っていた。

「この勾玉は――おれが――おれが馬と取換えたのだ。」

「嘘をつけ。これはおれが――」

「あの娘に」と云う言葉が、何故か素戔嗚の舌を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせた。彼は相手の蒼ざめた顔に熱い息を吹きかけながら、もう一度<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>るような声を出した。

「嘘をつけ。」

「離さないか。貴様こそ、――ああ、喉が<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>まる。――あれほど離すと云った癖に、貴様こそ嘘をつく奴だ。」

「証拠があるか、証拠が。」

すると若者はまだ必死に、もがきながら、

「あいつに聞いて見るが好い。」と、吐き出すような、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>を洩らした。「あいつ」があの牛飼いの若者であると云う事は、怒り狂った素戔嗚にさえ、問うまでもなく明かであった。

「よし。じゃ、あいつに聞いて見よう。」

素戔嗚は<ruby><rb>言下</rb><rt>ごんか</rt></ruby>に意を決すると、いきなり相手を引っ立てながら、あの牛飼いの若者がたった一人住んでいる、そこを余り離れていない<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>の方へ歩き出した。その途中も時々相手は、襟にかかった素戔嗚の手を一生懸命に振り離そうとした。しかし彼の手は<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>、鉄のようにしっかり相手を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えて、打っても、叩いても離れなかった。

空には依然として、春の月があった。往来にも<ruby><rb>藪木</rb><rt>やぶき</rt></ruby>の花の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が、やはりうす甘く立ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで<ruby><rb>大暴風雨</rb><rt>おおあらし</rt></ruby>の天のように、渦巻く疑惑の雲を<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>と<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>との稲妻が、絶え間なく<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>き飛んでいた。彼を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>いたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な手段を弄して、娘から勾玉を巻き上げたのであろうか。……

彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>まで来た。見ると<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>小家の主人は、まだ眠らずにいると見えて、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな<ruby><rb>一盞</rb><rt>いっさん</rt></ruby>の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光が、戸口に下げた<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>の隙から、軒先の月明と<ruby><rb>鬩</rb><rt>せめ</rt></ruby>いでいた。襟をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、始めて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりが<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に暗くなって、ただ一しきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。――彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>なく、月の光を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>いた簾の内へ、まっさかさまに投げこまれたのであった。

## 二十

家の中にはあの牛飼の若者が、<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>にともした<ruby><rb>油火</rb><rt>あぶらび</rt></ruby>の下に、夜なべの<ruby><rb>藁沓</rb><rt>わらぐつ</rt></ruby>を造っていた。彼は戸口に思いがけない人のけはいが聞えた時、一瞬間<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい手を止めて、用心深く耳を澄ませたが、その<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に軒の簾が、大きく夜を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ったと思うと、突然一人の若者が、取り乱した<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>のまん中へ、仰向けざまに転げ落ちた。

彼はさすがに<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を消して、うっかりあぐらを組んだまま、半ば引きちぎられた簾の外へ、思わず<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>の視線を飛ばせた。するとそこには<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>が、油火の光を全身に浴びて、顔中に怒りを<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせながら、小山のごとく戸口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいた。若者はその姿を見るや否や、死人のような色になって、しばらくただ狭い家の中をきょろきょろ見廻すよりほかはなかった。素戔嗚は荒々しく若者の前へ歩み寄ると、じっと彼の顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み据えて、

「おい、貴様は確かにあの娘へ、おれの<ruby><rb>勾玉</rb><rt>まがたま</rt></ruby>を渡したと云ったな。」と<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しそうな声をかけた。

若者は答えなかった。

「それがこの男の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に懸っているのは一体どうした始末なのだ？」

素戔嗚はあの美貌の若者へ、燃えるような<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を移した。が、彼はやはり藁の中に、気を失ったのか、<ruby><rb>仮死</rb><rt>そらじに</rt></ruby>か、眼を閉じたまま倒れていた。

「渡したと云うのは嘘か？」

「いえ、嘘じゃありません。ほんとうです。ほんとうです。」

牛飼いの若者は、始めて必死の声を出した。

「ほんとうですが、――ですが、実はあの<ruby><rb>琅玕</rb><rt>ろうかん</rt></ruby>の代りに、<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の――その<ruby><rb>管玉</rb><rt>くだたま</rt></ruby>を……」

「どうしてまたそんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしたのだ？」

素戔嗚の声は<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>のごとく、<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby>を失った若者の心を<ruby><rb>一言毎</rb><rt>ひとことごと</rt></ruby>に打ち砕いた。彼はとうとうしどろもどろに、美貌の若者が<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>める通り、琅玕と珊瑚と取り換えた上、礼には黒馬を貰った事まで残りなく白状してしまった。その話を聞いている内に、刻々素戔嗚の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、泣きたいような、叫びたいような息苦しい<ruby><rb>羞憤</rb><rt>しゅうふん</rt></ruby>の念が、大風のごとく<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>まって来た。

「そうしてその玉は渡したのだな。」

「渡しました。渡しましたが――」

若者は<ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>した。

「渡しましたが――あの娘は――何しろああ云う娘ですし、――<ruby><rb>白鳥</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>は<ruby><rb>山鴉</rb><rt>やまがらす</rt></ruby>になどと――、失礼な口上ですが、――受け取らないと申し――」

若者は皆まで云わない内に、仰向けにどうと<ruby><rb>蹴倒</rb><rt>けたお</rt></ruby>された。蹴倒されたと思うと、大きな<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>がしたたか彼の頭を打った。その拍子に<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の<ruby><rb>盞</rb><rt>さら</rt></ruby>が落ちて、あたりの<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に乱れた<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>は、たちまち、一面の炎になった。牛飼いの若者はその火に<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>を焼かれながら、悲鳴を挙げて飛び起きると、無我夢中に<ruby><rb>高這</rb><rt>たかば</rt></ruby>いをして、裏手の方へ逃げ出そうとした。

怒り狂った素戔嗚は、まるで<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>いた<ruby><rb>猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>のように、猛然とその後から飛びかかった。いや、<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に飛びかかろうとした時、今度は足もとに倒れていた、美貌の若者が身を起すと、これも死物狂に<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を抜いて、火の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に片膝ついたまま、いきなり彼の足を払おうとした。

## 二十一

その剣の光を見ると、突然<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>の心の中には、長い間眠っていた、流血に<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れる野性が目ざめた。彼は<ruby><rb>素早</rb><rt>すばや</rt></ruby>く足を<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>めて、相手の武器を飛び越えると、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に腰の剣を抜いて、牛の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>えるような声を挙げた。そうしてその声を挙げるが早いか、<ruby><rb>無二無三</rb><rt>むにむさん</rt></ruby>に相手へ斬ってかかった。彼等の剣は凄じい音を立てて、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と渦巻く煙の中に、二三度眼に痛い火花を飛ばせた。

しかし美貌の若者は、勿論彼の敵ではなかった。彼の振り廻す幅広の剣は、<ruby><rb>一太刀毎</rb><rt>ひとたちごと</rt></ruby>にこの若者を<ruby><rb>容赦</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>なく死地へ追いこんで行った。いや、彼は数合の内に、ほとんど一気に相手の頭を斬り割る所まで肉薄していた。するとその途端に<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>が一つ、どこからか彼の頭を目がけて、勢い好く宙を飛んで来た。が、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>それは<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いが<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて、彼の足もとへ落ちると共に、<ruby><rb>粉微塵</rb><rt>こなみじん</rt></ruby>に砕けてしまった。彼は太刀打を続けながら、<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立った眼を挙げて、<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>わしく家の中を見廻した。見廻すと、裏手の<ruby><rb>蓆戸</rb><rt>むしろど</rt></ruby>の前には、さっき彼に後を見せた、あの牛飼いの若者が、これも眼を血走らせたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶を一つ、持ち上げている所であった。

彼は再び牛のような叫び声を挙げながら、若者が桶を投げるより先に、渾身の力を剣にこめて、相手の脳天へ打ち下そうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎の空に風を切って、がんと彼の頭に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った。彼はさすがに眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んだのか、大風に吹かれた<ruby><rb>旗竿</rb><rt>はたざお</rt></ruby>のように思わずよろよろ足を乱して、危くそこへ倒れようとした。その暇に相手の若者は、奮然と身を躍らせると、――もう火の移った<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、片手に<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げながら、静な外の春の月夜へ、一目散に逃げて行った。

彼は歯を喰いしばったまま、ようやく足を踏み固めた。しかし眼を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて見ると、火と煙とに<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。

「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」

彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>を切り払って、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>と家の外へ出た。<ruby><rb>月明</rb><rt>つきあかり</rt></ruby>に照らされた往来は、屋根を燃え抜いた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ。」と呼び<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>す声が、たちまち高くなり始めた。彼はそう云う声を浴びて、しばらくはぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで居た。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、気も狂いそうな混乱が、益々烈しくなって居たのであった。

その内に往来の人影は、見る見る数を加え出した。と同時に<ruby><rb>騒</rb><rt>さわ</rt></ruby>がしい叫び声も、いつか憎悪を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで居る険悪な調子を帯び始めた。

「火つけを殺せ。」

「<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>を殺せ。」

「素戔嗚を殺せ。」

## 二十二

この時部落の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にある、<ruby><rb>草山</rb><rt>くさやま</rt></ruby>の<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の木の下には、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は、<ruby><rb>藪木</rb><rt>やぶき</rt></ruby>の花のかすかな<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を柔かく<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に包んだまま、ここでもただ<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>の声が、ちょうど山その物の<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>のように、一天の<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>な星の光を時々曇らせているばかりであった。

が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>えた<ruby><rb>中空</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>へ一すじまっ<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>の巣を<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>したような人どよめきの音が聞えて来た。のみならずその音は次第に高くざわめき立って、とうとう<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>でも起ったかと思う、烈しい<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>さえ伝わり出した。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたと見えて、白い<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめながら、おもむろに腰を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒動をじっと聞き澄まそうとするらしかった。

「はてな。剣の音なぞもするようだが。」

老人はこう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、しばらくはそこに伸び上って、絶えず金粉を煽っている火事の煙に見入っていた。

するとほどなく部落から、逃げて来たらしい七八人の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>が、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ草山へ上って来た。彼等のある者は髪を垂れた、<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>には足りない<ruby><rb>童児</rb><rt>どうじ</rt></ruby>であった。ある者は肌も見えるくらい、襟や<ruby><rb>裳紐</rb><rt>もすそひも</rt></ruby>を取り乱した、寝起きらしい娘であった。そうしてまたある者は弓よりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>腰の曲った、立居さえ苦しそうな老婆であった。彼等は草山の上まで来ると、云い合せたように皆足を止めて、月夜の空を<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>している部落の火事へ眼を返した。が、やがてその中の一人が、<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の根がたに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ老人の姿を見るや否や、気づかわしそうに寄り添った。この足弱の一群からは、「<ruby><rb>思兼尊</rb><rt>おもいかねのみこと</rt></ruby>、思兼尊。」と云う言葉が、ため息と一しょに<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて来た。と同時に胸も<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わな、夜目にも美しい娘が一人、「伯父様。」と声をかけながら、こちらを振り向いた老人の方へ、小鳥のように身軽く走り寄った。

「どうしたのだ、あの騒ぎは。」

思兼尊はまだ<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめながら、取りすがった娘を片手に<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>いて、誰にともなくこう尋ねた。

「<ruby><rb>素戔嗚尊</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>がどうした事か、急に乱暴を始めたとか申す事でございますよ。」

答えたのはあの快活な娘でなくて、彼等の中に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた、眼鼻も見えないような<ruby><rb>老婆</rb><rt>ろうば</rt></ruby>であった。

「何、素戔嗚尊が乱暴を始めた？」

「はい、それ故大勢の若者たちが、<ruby><rb>尊</rb><rt>みこと</rt></ruby>を<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>めようと致しますと、<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>尊の味方をする若者たちが承知致しませんで、とうとうあのように何年にもない、<ruby><rb>大騒動</rb><rt>おおそうどう</rt></ruby>が始まったそうでございますよ。」

思兼尊は考え深い目つきをして、部落に上っている火事の煙と、尊の胸にすがっている娘の顔とを見比べた。娘は月に照らされたせいか、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の乱れた頬の色が、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き徹るかと思うほど青ざめていた。

「火を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶものは、気をつけないと、――素戔嗚尊ばかりではない。火を弄ぶものは、気をつけないと――」

尊は<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけな顔に苦笑を浮べて、今はさらに拡がったらしい火の手を遥に眺めながら、黙って<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>の髪を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>るように<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやった。

## 二十三

部落の戦いは<ruby><rb>翌朝</rb><rt>よくちょう</rt></ruby>まで続いた。が、<ruby><rb>寡</rb><rt>か</rt></ruby>はついに衆の敵ではなかった。<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は味方の若者たちと共に、とうとう敵の手に<ruby><rb>生捉</rb><rt>いけど</rt></ruby>られた。日頃彼に悪意を抱いていた若者たちは、<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>のように彼を<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>めた上、いろいろ乱暴な<ruby><rb>凌辱</rb><rt>りょうじょく</rt></ruby>を加えた。彼は打たれたり<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>られたりする<ruby><rb>度毎</rb><rt>たびごと</rt></ruby>に、ごろごろ地上を転がりまわって、牛の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>えるような怒声を挙げた。

部落の<ruby><rb>老若</rb><rt>ろうにゃく</rt></ruby>はことごとく、<ruby><rb>律</rb><rt>おきて</rt></ruby>通り彼を殺して、騒動の罪を<ruby><rb>贖</rb><rt>つぐな</rt></ruby>わせようとした。が、<ruby><rb>思兼尊</rb><rt>おもいかねのみこと</rt></ruby>と<ruby><rb>手力雄尊</rb><rt>たぢからおのみこと</rt></ruby>と、この二人の勢力家だけは、容易に賛同の意を示さなかった。手力雄尊は素戔嗚の罪を憎みながらも、彼の非凡な<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>には愛惜の情を感じていた。これは同時にまた思兼尊が、むざむざ彼ほどの若者を殺したくない理由でもあった。のみならず<ruby><rb>尊</rb><rt>みこと</rt></ruby>は彼ばかりでなく、すべて人間を殺すと云う事に、極端な<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>を抱いていた。――

部落の老若は彼の罪を<ruby><rb>定</rb><rt>さだ</rt></ruby>めるために、三日の間議論を重ねた。が、二人の尊たちはどうしても意見を改めなかった。彼等はそこで死刑の代りに、彼を追放に処する事にした。しかしこのまま、彼の縄を解いて、彼に広い国外の自由の天地を与えるのは、<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>彼等の忍び難い、寛大に過ぎた処置であった。彼等はまず彼の<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪を、まるで貝でも<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がすように、<ruby><rb>未練未釈</rb><rt>みれんみしゃく</rt></ruby>なく抜いてしまった。その上彼の縄を解くと、ほとんど手足も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かない彼へ、手ん手に石を投げつけたり、<ruby><rb>慓悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>な狩犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど<ruby><rb>高這</rb><rt>たかば</rt></ruby>いをしないばかりに、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>と部落を逃れて行った。

彼が<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国をめぐる山々の峰を越えたのは、ちょうどその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>二日経った、空模様の怪しい午後であった。彼は山の頂きへ来た時、<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい岩むらの上へ登って、住み慣れた部落の横わっている、盆地の方を眺めて見た。が、彼の眼の下には、ただうす白い霧の海が、それらしい平地をぼんやりと、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見せるばかりであった。彼はしかし岩の上に、<ruby><rb>朝焼</rb><rt>あさやけ</rt></ruby>の空を負いながら、長い間じっと坐っていた。すると谷間から吹き上げる風が、昔の通り彼の耳へ、聞き慣れた<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きを送って来た。「素戔嗚よ。お前は何をさがしているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。素戔嗚よ。……」

彼はようやく立ち上った。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り出した。

その内に朝焼の<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>りが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>のほかに、何もまとってはいなかった。<ruby><rb>頸珠</rb><rt>くびだま</rt></ruby>や<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>は云うまでもなく、<ruby><rb>生捉</rb><rt>いけど</rt></ruby>りになった時に奪われていた。雨はこの<ruby><rb>追放人</rb><rt>ついほうにん</rt></ruby>の上に、おいおい烈しくなり始めた。風も横なぐりに落して来ては、時々ずぶ濡れになった衣の裾を<ruby><rb>裸</rb><rt>はだか</rt></ruby>の脚へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。

実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧が、山や谷を封じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じくざっと<ruby><rb>遠近</rb><rt>おちこち</rt></ruby>に煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらに凄じく、寂しい怒が荒れ狂っていた。

## 二十四

やがて足もとの岩は、湿った<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>になった。苔はまた間もなく、深い<ruby><rb>羊歯</rb><rt>しだ</rt></ruby>の茂みになった。それから<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の高い<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>に、――いつの間にか<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は、山の中腹を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めている森林の中へはいったのであった。

森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>や<ruby><rb>栂</rb><rt>とが</rt></ruby>の枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、<ruby><rb>遮二無二</rb><rt>しゃにむに</rt></ruby>その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>るべく、生きて動いているようであった。

彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby><ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>として怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や<ruby><rb>蔦蘿</rb><rt>つたかずら</rt></ruby>を腕一ぱいに<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きのけながら、時々大きな声を出して、<ruby><rb>吼</rb><rt>うな</rt></ruby>って行く風雨に答えたりした。

<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>もやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>ったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>を編んだ<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>が、<ruby><rb>水煙</rb><rt>みずけむり</rt></ruby>と雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。

桟橋を隔てた絶壁には、<ruby><rb>火食</rb><rt>かしょく</rt></ruby>の煙が<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いている、大きな<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>が幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見た。穴の中には二人の女が、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もなく、老婆をそこへ<ruby><rb>扭</rb><rt>ね</rt></ruby>じ伏せてしまった。

若い女は壁に懸けた<ruby><rb>刀子</rb><rt>とうす</rt></ruby>へ手をかけるや否や、素早く彼の胸を<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>そうとした。が、彼は片手を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って、一打にその刀子を打ち落した。女はさらに<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を抜いて、<ruby><rb>執念</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり<ruby><rb>鏘然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に落ちた。彼はその剣を拾い取ると、<ruby><rb>切先</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を歯に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いを<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>むように女を見た。

女はすでに<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼の<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれみ</rt></ruby>に<ruby><rb>訴</rb><rt>うった</rt></ruby>うべく、床の上にひれ伏してしまった。

「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」

彼は<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えていた手を<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。

## 二十五

<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>にはまた<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>や<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>の皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が快く暖な空気に漂っていた。

その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森の<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>、<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>した貝、――そう云う物が<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>や<ruby><rb>坏</rb><rt>つき</rt></ruby>に<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>く盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は<ruby><rb>瓶</rb><rt>ほたり</rt></ruby>を執って、彼に酒を<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>むべく、炉のほとりへ坐りに来た。<ruby><rb>目近</rb><rt>まじか</rt></ruby>に坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のある女であった。

彼は<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった。女は<ruby><rb>健啖</rb><rt>けんたん</rt></ruby>な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に<ruby><rb>刀子</rb><rt>とうす</rt></ruby>を加えようとした、以前の<ruby><rb>慓悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>な<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>などは、どこを探しても見えなかった。

「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」

彼は食事をすませると、こう云って、大きな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をした。女は<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、<ruby><rb>頭椎</rb><rt>かぶつち</rt></ruby>の<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>一振</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>とって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いた。

「何かまだ御用がございますか。」

しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。

「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」

「待って、――どうなさるのでございますか。」

「<ruby><rb>太刀打</rb><rt>たちうち</rt></ruby>をしようと思うのだ。おれは女を<ruby><rb>劫</rb><rt>おびやか</rt></ruby>して、盗人を働いたなどとは云われたくない。」

女は顔にかかる髪を掻き上げながら、<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>な微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」

素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。

「男は一人もいないのか。」

「一人も居りません。」

「この近くの洞穴には？」

「皆<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」

彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の毛皮、それから壁上の<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>や<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな<ruby><rb>頸珠</rb><rt>くびだま</rt></ruby>や剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、<ruby><rb>山媛</rb><rt>やまひめ</rt></ruby>のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>この危害の<ruby><rb>惧</rb><rt>おそれ</rt></ruby>のない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。

「妹たちは大勢いるのか。」

「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」

<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>そう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。

## 二十六

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、

「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>と申しますが。」と云った。

「おれは素戔嗚だ。」

彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの<ruby><rb>無様</rb><rt>ぶざま</rt></ruby>な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。

「では今まではあの山の向うの、<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国にいらしったのでございますか。」

彼は黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「高天原の国は、<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い所だと申すではございませんか。」

この言葉を聞くと共に、一時静まっていた<ruby><rb>心頭</rb><rt>しんとう</rt></ruby>の<ruby><rb>怒火</rb><rt>どか</rt></ruby>が、また彼の眼の中に燃えあがった。

「高天原の国か。高天原の国は、鼠が<ruby><rb>猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>よりも強い所だ。」

大気都姫は微笑した。その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に美しい歯が、<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に火の光に映って見えた。

「ここは何と云う所だ？」

彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしい<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るような<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を眼に浮べて、

「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。

その時<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もなく、ぞろぞろ<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中へはいって来た。彼等は皆頬に<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>をさして、高々と黒髪を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねていた。それが順々に<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>と、親しそうな<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を交換すると、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられた彼のまわりへ、<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしく<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>ん<ruby><rb>手</rb><rt>で</rt></ruby>に席を占めた。<ruby><rb>頸珠</rb><rt>くびだま</rt></ruby>の色、<ruby><rb>耳環</rb><rt>みみわ</rt></ruby>の光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、<ruby><rb>榾明</rb><rt>ほたあか</rt></ruby>りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。

十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な<ruby><rb>酒盛</rb><rt>さかもり</rt></ruby>を開き始めた。彼は始は<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のように、ただ<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。またある者は、盃を控えて、<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。

その内に夜になった。老婆は<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>に焚き木を加えると共に、幾つも<ruby><rb>油火</rb><rt>あぶらび</rt></ruby>の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>痴</rb><rt>し</rt></ruby>れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に<ruby><rb>嬌嗔</rb><rt>きょうしん</rt></ruby>を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に<ruby><rb>中</rb><rt>ひた</rt></ruby>った彼を<ruby><rb>壟断</rb><rt>ろうだん</rt></ruby>していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国も忘れて、洞穴を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた<ruby><rb>脂粉</rb><rt>しふん</rt></ruby>の気の<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に、全く<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>しているようであった。ただその大騒ぎの<ruby><rb>最中</rb><rt>もなか</rt></ruby>にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って、十六人の女たちの、人目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

## 二十七

<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は次第に<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて行った。<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>や<ruby><rb>瓶</rb><rt>ほたり</rt></ruby>は、時々けたたましい音を立てて、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>る酒に、いつかぐっしょり<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らされていた。十六人の女たちは、ほとんど<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>の音ばかりであった。

やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>に消えかかった、<ruby><rb>煤臭</rb><rt>すすくさ</rt></ruby>い<ruby><rb>榾</rb><rt>ほた</rt></ruby>の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に<ruby><rb>虐</rb><rt>さいな</rt></ruby>まれている、小山のような彼の姿を<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>といつまでも照していた。……

翌日彼は眼をさますと、<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には<ruby><rb>菅畳</rb><rt>すがだたみ</rt></ruby>を延べる代りに、<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>く<ruby><rb>桃</rb><rt>もも</rt></ruby>の花が敷いてあった。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>から洞中に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていた、あのうす甘い、不思議な<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>は、この桃の花の匀に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。

「<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>。」

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はこう<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ったように空へ舞い上った。

洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、<ruby><rb>頭椎</rb><rt>かぶつち</rt></ruby>の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。

微風は彼の頭から、すぐさま<ruby><rb>宿酔</rb><rt>しゅくすい</rt></ruby>を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いでいる、さわやかな森林の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の上に、<ruby><rb>巑岏</rb><rt>さんがん</rt></ruby>たる<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の狂態を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>っているように見えるのであった。

この山々と森林とを眺めていると、彼は急に<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の空気が、<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>おうと</rt></ruby>を催すほど不快になった。今は<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の火も、<ruby><rb>瓶</rb><rt>ほたり</rt></ruby>の酒も、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>寝床の桃の花も、ことごとく<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい腐敗の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも<ruby><rb>死穢</rb><rt>しえ</rt></ruby>を隠すために、巧な<ruby><rb>紅粉</rb><rt>こうふん</rt></ruby>を装っている、<ruby><rb>屍骨</rb><rt>しこつ</rt></ruby>のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と頭を<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れながら、洞穴の前に懸っている<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>の橋を渡ろうとした。

が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>しながら、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っている、細い<ruby><rb>岨路</rb><rt>そばみち</rt></ruby>の向うから、十五人の妹をつれた、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い絹の<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>しながら、こちらへ急いで来る所であった。

「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」

彼等は小鳥の<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>橋を渡りかけた素戔嗚の心を<ruby><rb>蕩漾</rb><rt>とうよう</rt></ruby>させた。彼は彼自身の<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なさに驚きながら、いつか顔中に<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。

## 二十八

それ以来<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>な生活を送るようになった。

一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。

彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>があって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの<ruby><rb>瀑壺</rb><rt>たきつぼ</rt></ruby>へ行って、<ruby><rb>桃花</rb><rt>とうか</rt></ruby>の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>した水に<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分け<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る事も<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>ではなかった。

その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は<ruby><rb>朝夕</rb><rt>あさゆう</rt></ruby>静寂な谷間の空気を呼吸しても、<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんごう</rt></ruby>の感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。

しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国を眺めやった。高天原の国には日が当って、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>安河</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>の大きな水が<ruby><rb>焼太刀</rb><rt>やきだち</rt></ruby>のごとく光っていた。彼は<ruby><rb>勁</rb><rt>つよ</rt></ruby>い風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の<ruby><rb>煩</rb><rt>ほお</rt></ruby>に、冷たい<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めていた。彼はそれから身を起して、かすかな<ruby><rb>榾明</rb><rt>ほたあか</rt></ruby>りに照らされた、<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中を見廻した。彼と同じ<ruby><rb>桃花</rb><rt>とうか</rt></ruby>の寝床には、酒の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のする<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、<ruby><rb>眉目</rb><rt>びもく</rt></ruby>の形こそ変らないが、<ruby><rb>垂死</rb><rt>すいし</rt></ruby>の老婆と同じ事であった。

彼は恐怖と<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと<ruby><rb>生暖</rb><rt>なまあたたか</rt></ruby>い寝床を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り脱けた。そうして素早く<ruby><rb>身仕度</rb><rt>みじたく</rt></ruby>をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。

外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>の橋を渡るが早いか、<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のように熊笹を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の匀、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>の眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れているようであった。

彼は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い<ruby><rb>栂</rb><rt>とが</rt></ruby>や<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。

やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>の<ruby><rb>山鳩</rb><rt>やまばと</rt></ruby>を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>は、どこにでも沢山あった。

日の暮は<ruby><rb>瞼</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の<ruby><rb>鋒</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を思いやった。すると<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を<ruby><rb>禦</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ごうとした。が、あの洞穴の<ruby><rb>榾火</rb><rt>ほたび</rt></ruby>の思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えて行った。

## 二十九

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は一日の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>っているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。

この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って彼はそのために、前よりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>安々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>と、いつまでも<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めない<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>のような、怪しい幸福に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>る事が出来た。

一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。

するとある日女たちは、どこから<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>へつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、<ruby><rb>犢</rb><rt>こうし</rt></ruby>ほどもある<ruby><rb>牡</rb><rt>おす</rt></ruby>であった。彼等は、殊に<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>は、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>の魚や<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れに、<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>をとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>痴</rb><rt>し</rt></ruby>れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>のない彼を嘲り合った。

ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>や<ruby><rb>瓶</rb><rt>ほたり</rt></ruby>を、犬の前にも並べるようになった。彼は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をして、一度は犬を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てた。その怒を犯してまでも、犬を<ruby><rb>成敗</rb><rt>せいばい</rt></ruby>しようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め廻しながら、彼の方へ<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いて見せた。

しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>、谷間の霧の中に開いていた。彼は<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>を押し分けながら、桃の落花を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えている、すぐ下の<ruby><rb>瀑壺</rb><rt>たきつぼ</rt></ruby>へ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、<ruby><rb>瀑壺</rb><rt>たきつぼ</rt></ruby>の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。

それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に<ruby><rb>中</rb><rt>ひた</rt></ruby>りながら、洞穴の奥に<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って、<ruby><rb>一夜中</rb><rt>ひとよじゅう</rt></ruby><ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>で一ぱいであった。が、その嫉妬の<ruby><rb>浅間</rb><rt>あさま</rt></ruby>しさなどは、<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんごう</rt></ruby>も念頭には<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>らなかった。

ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>きながら<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい言葉を<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。彼は意外な眼を挙げて、<ruby><rb>油火</rb><rt>あぶらび</rt></ruby>には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に倒れて、苦しそうな<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の声を洩らした。――それはあの腰も<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に立たない、猿のような老婆の声であった。

## 三十

老婆を投げ倒した<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は、涙に濡れた顔をしかめたまま、<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>と<ruby><rb>屈辱</rb><rt>くつじょく</rt></ruby>との煮え返っている<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>であった。彼は眼前に犬と<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れている、十六人の女たちを見るが早いか、<ruby><rb>頭椎</rb><rt>かぶつち</rt></ruby>の太刀を引き抜きながら、この女たちの<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>った中へ、我を忘れて突進した。

犬は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、<ruby><rb>哮</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、<ruby><rb>切先下</rb><rt>きっさきさが</rt></ruby>りにもう一度狂いまわる犬を<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>そうとした。

しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、<ruby><rb>大気都姫</rb><rt>おおけつひめ</rt></ruby>の胸を刺した。彼女は苦痛の声を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、<ruby><rb>糅然</rb><rt>じゅうぜん</rt></ruby>と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから<ruby><rb>盤</rb><rt>さら</rt></ruby>だの<ruby><rb>瓶</rb><rt>ほたり</rt></ruby>だのが<ruby><rb>粉微塵</rb><rt>こなみじん</rt></ruby>に砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。

彼は彼自身の眼を疑うように、<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>は茫然と<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を発して、<ruby><rb>弦</rb><rt>いと</rt></ruby>を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。

空には<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>のかかった月が、<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>なくらいぼんやり<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめていた。森の木々もその空に、<ruby><rb>暗枝</rb><rt>あんし</rt></ruby>をさし<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>せて、ひっそり谷を封じたまま、何か<ruby><rb>凶事</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めようとするごとく、どこまで行っても<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>を立てていた。時々<ruby><rb>夜鳥</rb><rt>よどり</rt></ruby>がその中から、翼に薄い<ruby><rb>燐光</rb><rt>りんこう</rt></ruby>を帯びて、風もない<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>へ昇って行った。……

<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>け<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど<ruby><rb>鉛</rb><rt>なまり</rt></ruby>の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>して、寂しい<ruby><rb>水面</rb><rt>みのも</rt></ruby>へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。

すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の<ruby><rb>死敵</rb><rt>してき</rt></ruby>のすべてであった。――彼は両手に顔を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めて、長い間大声に泣いていた。

その間に空模様が変った。対岸を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ山の空には、二三度<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>の手の<ruby><rb>稲妻</rb><rt>いなずま</rt></ruby>が飛んだ。続いて<ruby><rb>殷々</rb><rt>いんいん</rt></ruby>と<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。

<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に天を傾けて、<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>のような<ruby><rb>大雨</rb><rt>おおあめ</rt></ruby>が、<ruby><rb>沛然</rb><rt>はいぜん</rt></ruby>と彼を襲って来た。

## 三十一

対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた<ruby><rb>雲煙</rb><rt>うんえん</rt></ruby>の中に、ややともすると<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れそうであった。ただ、稲妻の<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>く度に、波の<ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>った水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>の音が、必ず空を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしるように、続けさまに<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>と爆発した。

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はずぶ濡れになりながら、<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに<ruby><rb>晦濛</rb><rt>かいもう</rt></ruby>の底へ沈んでいた。そこには<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>れ果てた自己に対する、<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と坐っているよりほかはなかった。

天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい<ruby><rb>薄紫</rb><rt>うすむらさき</rt></ruby>になった。山が、雲が、湖が皆<ruby><rb>半空</rb><rt>はんくう</rt></ruby>に浮んで見えた。同時に<ruby><rb>地軸</rb><rt>ちじく</rt></ruby>も砕けたような、落雷の音が耳を<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>せになった彼の上へ<ruby><rb>未練未釈</rb><rt>みれんみしゃく</rt></ruby>なく降り<ruby><rb>濺</rb><rt>そそ</rt></ruby>いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めたまま、身動きをする<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えなかった。……

何時間か過ぎた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かな黄ばんだ緑に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいていた。

彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい<ruby><rb>寂莫</rb><rt>せきばく</rt></ruby>に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていた。

「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って見ても、容易に彼には思い出せなかった。

その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>のように<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>いて来た。

彼は喜びに<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>はなかった。

湖は日に輝きながら、<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>とその言葉に応じた。彼は――その<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って来た。

## 三十二

<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>はその湖の水を浴びて、全身の<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>れを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の木の陰へ行って、久しぶりに<ruby><rb>健</rb><rt>すこや</rt></ruby>な眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>って来た。――

夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>していた。

そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に<ruby><rb>竜</rb><rt>りゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>飾</rb><rt>かざり</rt></ruby>のある<ruby><rb>高麗剣</rb><rt>こまつるぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>いている事は、その竜の首が<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>に光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。

大男は腰の<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を抜くと、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>にそれを<ruby><rb>鍔元</rb><rt>つばもと</rt></ruby>まで、大木の根本へ突き通した。

素戔嗚はその非凡な<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>に、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、

「あれは<ruby><rb>火雷命</rb><rt>ほのいかずちのみこと</rt></ruby>だ。」と、囁いてくれるものがあった。　大男は静に手を挙げて、彼に何か<ruby><rb>相図</rb><rt>あいず</rt></ruby>をした。それが彼には何となく、その<ruby><rb>高麗剣</rb><rt>こまつるぎ</rt></ruby>を抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。

彼は茫然と身を起した。微風に動いている<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>には、すでに星が<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹の<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎや<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ<ruby><rb>何気</rb><rt>なにげ</rt></ruby>なく、<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>い<ruby><rb>視線</rb><rt>しせん</rt></ruby>を<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>わせた。

と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考える<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく、その枯木の側へ足を運んだ。

枯木はさっきの落雷に、<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>かれたものに違いなかった。だから根元には何かの<ruby><rb>針葉</rb><rt>しんよう</rt></ruby>が、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。――枯木の根本には<ruby><rb>一振</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>の<ruby><rb>高麗剣</rb><rt>こまつるぎ</rt></ruby>が竜の飾のある<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を上にほとんど<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>も見えないほど、深く突き立っていたのであった。

彼は両手に柄を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、<ruby><rb>渾身</rb><rt>こんしん</rt></ruby>の力をこめながら、一気にその<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を引き抜いた。剣は今し方<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>いだように<ruby><rb>鍔元</rb><rt>つばもと</rt></ruby>から<ruby><rb>切先</rb><rt>きっさき</rt></ruby>まで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>いて天上の神々に祈りを捧げた。

その<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>彼はまた<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の<ruby><rb>木陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>へ帰って、しっかり剣を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>きながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。

眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖の<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>へ下りて行った。風の<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>ぎ尽した湖は、<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>さえ砂を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の国にいた時の通り、心も体も<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい、<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>が、いつの間にか一年間の悲しみの<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を刻んでいた。

## 三十三

それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、<ruby><rb>未嘗</rb><rt>いまだかつ</rt></ruby>て彼の足を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に<ruby><rb>一臂</rb><rt>いちび</rt></ruby>の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」

彼は風が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くままに、あの湖を<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にしてから、ちょうど満七年の間、はてしない<ruby><rb>漂泊</rb><rt>ひょうはく</rt></ruby>を続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>の<ruby><rb>簸</rb><rt>ひ</rt></ruby>の川を<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って行く、<ruby><rb>一艘</rb><rt>いっそう</rt></ruby>の<ruby><rb>独木舟</rb><rt>まるきぶね</rt></ruby>の帆の下に、<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。

<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に<ruby><rb>鬩</rb><rt>せめ</rt></ruby>ぎ合った上には、<ruby><rb>夏霞</rb><rt>なつがすみ</rt></ruby>に煙っている、陰鬱な山々の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>があった。そうしてそのまた山々の空には、時々<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>が両三羽、<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>く翼を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせながら、<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>すような、明い寂寞が支配していた。

彼は<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>に身を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せて、日に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>された<ruby><rb>松脂</rb><rt>まつやに</rt></ruby>の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を胸一ぱいに吸いこみながら、長い間<ruby><rb>独木舟</rb><rt>まるきぶね</rt></ruby>を風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険に<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れた素戔嗚には、まるで<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby>の<ruby><rb>八衢</rb><rt>やちまた</rt></ruby>のように、今では<ruby><rb>寸分</rb><rt>すんぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>さえない、平凡な往来に過ぎないのであった。

夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸には<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>が<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>になって、<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>くれ立った松の根ばかりが、水と泥との<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>る所を、荒涼と<ruby><rb>絡</rb><rt>かが</rt></ruby>っているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を<ruby><rb>配</rb><rt>くば</rt></ruby>って行った。松は水の上まで<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れた枝を、鉄網のように<ruby><rb>纏</rb><rt>から</rt></ruby>め合せて、林の奥の神秘な世界を、<ruby><rb>執念</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く<ruby><rb>人目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>から隠していた。それでも時たまその松が、<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>でも水を飲みに来るせいか、<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>いている所には不気味なほど赤い<ruby><rb>大茸</rb><rt>おおたけ</rt></ruby>が、薄暗い中に<ruby><rb>簇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>っている朽木も見えた。

益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然<ruby><rb>人煙</rb><rt>じんえん</rt></ruby>の<ruby><rb>挙</rb><rt>あが</rt></ruby>っている<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、<ruby><rb>高麗剣</rb><rt>こまつるぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。

その内に舟は<ruby><rb>水脈</rb><rt>みお</rt></ruby>を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れなくなった。のみならずほどなくその姿は、<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくい</rt></ruby>の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に立ち上った。舟はその間も<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>に微風を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで、<ruby><rb>小暗</rb><rt>おぐら</rt></ruby>く空に<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。

## 三十四

舟はとうとう一枚岩の前へ来た。岩の上には松の枝が、やはり長々と<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れていた。<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に<ruby><rb>岩角</rb><rt>いわかど</rt></ruby>の<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>をかすって、たちまちそこへ横づけになった。

女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、片手に岩角を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ引き残した女の<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らした。が、それぎり身を起す<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もなく、また前のように泣き入ってしまった。

彼は<ruby><rb>纜</rb><rt>ともづな</rt></ruby>を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、

「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。

女はやっと顔を挙げて、水の上を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた暮色の中に、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ず<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の<ruby><rb>夕明</rb><rt>ゆうあか</rt></ruby>りのような、どことなくもの悲しい美しさに<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れている事を知ったのであった。

「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>われたのですか。」

女は黙って、首を振った。その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に<ruby><rb>頸珠</rb><rt>くびだま</rt></ruby>の<ruby><rb>琅玕</rb><rt>ろうかん</rt></ruby>が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に<ruby><rb>沾</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ眼を、もう一度<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ落してしまった。

「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」

彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この<ruby><rb>川上</rb><rt>かわかみ</rt></ruby>の部落の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>をしている、<ruby><rb>足名椎</rb><rt>あしなつち</rt></ruby>と云うものであった。ところが近頃部落の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんによ</rt></ruby>が、続々と<ruby><rb>疫病</rb><rt>えきびょう</rt></ruby>に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れるため、足名椎は早速<ruby><rb>巫女</rb><rt>みこ</rt></ruby>に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、<ruby><rb>櫛名田姫</rb><rt>くしなだひめ</rt></ruby>と云う一人娘を、<ruby><rb>高志</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>の<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>にしなければ、部落全体が<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>の内に、死に絶えるであろうと云う<ruby><rb>託宣</rb><rt>たくせん</rt></ruby>があった。そこで足名椎は<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ず、部落の若者たちと共に舟を<ruby><rb>艤</rb><rt>ぎ</rt></ruby>して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

## 三十五

<ruby><rb>櫛名田姫</rb><rt>くしなだひめ</rt></ruby>の話を聞き終ると、<ruby><rb>素戔嗚</rb><rt>すさのお</rt></ruby>は<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせながら、愉快そうに<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の川を見廻した。

「その<ruby><rb>高志</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>と云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を聞きますと、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>と尾とが八つある、八つの谷にも<ruby><rb>亘</rb><rt>わたる</rt></ruby>るくらい、大きな<ruby><rb>蛇</rb><rt>くちなわ</rt></ruby>だとか申す事でございます。」

「そうですか。それは<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、<ruby><rb>力瘤</rb><rt>ちからこぶ</rt></ruby>の動くような気がします。」

櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。

「こう申す内にもいつ<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」

「大蛇を<ruby><rb>退治</rb><rt>たいじ</rt></ruby>する<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>です。」

彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。

「退治すると<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>っても、大蛇は只今申し上げた通り、<ruby><rb>一方</rb><rt>ひとかた</rt></ruby>ならない神でございますから――」

「そうです。」

「万一あなたがそのために、<ruby><rb>御怪我</rb><rt>おけが</rt></ruby>をなさらないとも限りませんし、――」

「そうです。」

「どうせ私は<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」

「御待ちなさい。」

彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。

「私はあなたをおめおめと大蛇の<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>にはしたくないのです。」

「それでも大蛇が強ければ――」

「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」

<ruby><rb>櫛名田姫</rb><rt>くしなだひめ</rt></ruby>はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。

「私が大蛇の<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>になるのは、神々の<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>しでございます。」

「そうかも知れません。しかし<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の<ruby><rb>犠</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>にするより、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」

彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそか</rt></ruby>な権威の<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きが彼の<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い眉目の間に<ruby><rb>磅礴</rb><rt>ぼうはく</rt></ruby>したように思われた。

「けれども<ruby><rb>巫女</rb><rt>みこ</rt></ruby>が申しますには――」

櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。

「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」

この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに<ruby><rb>薄白</rb><rt>うすじら</rt></ruby>んだ川の中へ、<ruby><rb>水煙</rb><rt>みずけむり</rt></ruby>を立てて<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>りこんだ。そうして<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>を並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。

「あの鹿の<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」

櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。

「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」

彼は対岸に眼を<ruby><rb>配</rb><rt>くば</rt></ruby>りながら、おもむろに<ruby><rb>高麗剣</rb><rt>こまつるぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、<ruby><rb>驟雨</rb><rt>しゅうう</rt></ruby>の襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>な星を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いた、山々の空へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り出した。

（大正九年五月）