一

六の宮の姫君の父は、古い<ruby><rb>宮腹</rb><rt>みやばら</rt></ruby>の生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、<ruby><rb>昔気質</rb><rt>むかしかたぎ</rt></ruby>の人だつたから、官も<ruby><rb>兵部大輔</rb><rt>ひやうぶのたいふ</rt></ruby>より昇らなかつた。姫君はさう云ふ<ruby><rb>父母</rb><rt>ちちはは</rt></ruby>と一しよに、六の宮のほとりにある、<ruby><rb>木高</rb><rt>こだか</rt></ruby>い<ruby><rb>屋形</rb><rt>やかた</rt></ruby>に住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>つたのだつた。

父母は姫君を<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちようあい</rt></ruby>した。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。

古い池に<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか、<ruby><rb>大人寂</rb><rt>おとなさ</rt></ruby>びた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>の外に、たよるものは何もないのだつた。

乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた<ruby><rb>螺鈿</rb><rt>らでん</rt></ruby>の<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>や白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしの<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形の<ruby><rb>対</rb><rt>たい</rt></ruby>に、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>んだり、単調な遊びを繰返してゐた。

すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。

「<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>の法師の頼みますには、<ruby><rb>丹波</rb><rt>たんば</rt></ruby>の<ruby><rb>前司</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>なにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も<ruby><rb>受領</rb><rt>ずりやう</rt></ruby>とは申せ、近い<ruby><rb>上達部</rb><rt>かんだちめ</rt></ruby>の子でもございますから、お会ひになつては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございませう？　かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは<ruby><rb>益</rb><rt>ま</rt></ruby>しかと存じますが。……」

姫君は忍び<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>ける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

二

しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。顔かたちもさすがにみやびてゐた。その上姫君の美しさに、何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も忘れてゐる事は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>誰の目にも明らかだつた。姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。時には頼もしいと思ふ事もあつた。が、<ruby><rb>蝶鳥</rb><rt>てふとり</rt></ruby>の<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちやう</rt></ruby>を立てた陰に、燈台の光を<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。

その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。黒棚や<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>も新たになり、召使ひの数も<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたのだつた。乳母は勿論以前よりも、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きと暮しを取り<ruby><rb>賄</rb><rt>まかな</rt></ruby>つた。しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。

或<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>の渡つた夜、男は姫君と酒を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。<ruby><rb>出雲路</rb><rt>いづもぢ</rt></ruby>へ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。すると旅人は<ruby><rb>生家</rb><rt>うぶや</rt></ruby>の中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。大男は唯「年は八歳、<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>は自害」と云ひ捨てたなり、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ消えてしまつた。旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。しかも木から落ちた拍子に、鎌を<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ突き立ててゐた。――話は大体かう云ふのだつた。姫君はそれを聞いた時に、宿命のせんなさに<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>された。その女の子に比べれば、この男を頼みに暮してゐるのは、まだしも仕合せに違ひなかつた。「なりゆきに任せる外はない。」――姫君はさう思ひながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでゐた。

屋形の軒に当つた松は、何度も雪に枝を折られた。姫君は昼は昔のやうに、琴を引いたり<ruby><rb>双六</rb><rt>すごろく</rt></ruby>を打つたりした。夜は男と一つ<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>に、水鳥の池に下りる音を聞いた。それは悲しみも少いと同時に、喜びも少い朝夕だつた。が、姫君は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかわらず</rt></ruby>、この<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>い安らかさの中に、はかない満足を見出してゐた。

しかしその安らかさも、思ひの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>急に尽きる時が来た。やつと春の返つた或夜、男は姫君と二人になると、「そなたに会ふのも<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよひ</rt></ruby>ぎりぢや」と、云ひ<ruby><rb>悪</rb><rt>に</rt></ruby>くさうに口を切つた。男の父は今度の<ruby><rb>除目</rb><rt>ぢもく</rt></ruby>に、<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>に任ぜられた。男もその為に雪の深い奥へ、一しよに下らねばならなかつた。勿論姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかつた。が、姫君を妻にしたのは、父にも隠してゐたのだから、今更打ち明ける事は<ruby><rb>出来悪</rb><rt>できにく</rt></ruby>かつた。男はため息をつきながら、長々とさう云ふ事情を話した。

「しかし五年たてば<ruby><rb>任終</rb><rt>にんはて</rt></ruby>ぢや。その時を楽しみに待つてたもれ。」

姫君はもう泣き伏してゐた。たとひ恋しいとは思はぬまでも、頼みにした男と別れるのは、言葉には尽せない悲しさだつた。男は姫君の背を撫でては、いろいろ慰めたり励ましたりした。が、これも二言目には、涙に声を曇らせるのだつた。

其処へ何も知らない乳母は、年の若い女房たちと、<ruby><rb>銚子</rb><rt>てうし</rt></ruby>や<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>を運んで来た。古い池に<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れた桜も、<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を持つた事を話しながら。……

三

六年目の春は返つて来た。が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いてしまふし、姫君の住んでゐた東の<ruby><rb>対</rb><rt>たい</rt></ruby>も或年の大風に倒れてしまつた。姫君はそれ以来乳母と一しよに<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらひ</rt></ruby>の<ruby><rb>廊</rb><rt>ほそどの</rt></ruby>を<ruby><rb>住居</rb><rt>すまひ</rt></ruby>にしてゐた。其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に<ruby><rb>雨露</rb><rt>あめつゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>げるだけだつた。乳母はこの<ruby><rb>廊</rb><rt>ほそどの</rt></ruby>へ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。

暮しのつらいのは勿論だつた。棚の<ruby><rb>厨子</rb><rt>づし</rt></ruby>はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。今では姫君の<ruby><rb>袿</rb><rt>うちぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>も身についてゐる外は残らなかつた。乳母は<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き物に事を欠けば、立ち腐れになつた<ruby><rb>寝殿</rb><rt>しんでん</rt></ruby>へ、板を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎに出かける位だつた。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。

するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。

「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございませう。就てはこの頃或<ruby><rb>典薬之助</rb><rt>てんやくのすけ</rt></ruby>が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」

姫君はその話を聞きながら、六年<ruby><rb>以前</rb><rt>まへ</rt></ruby>の事を思ひ出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。「唯静かに老い朽ちたい。」……その外は何も考へなかつた。姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、<ruby><rb>懶</rb><rt>ものうげ</rt></ruby>げにやつれた顔を振つた。

「わたしはもう何も<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」

＊　　　　　　＊　　　　　　＊

丁度これと同じ時刻、男は遠い<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の国の屋形に、新しい妻と酒を<ruby><rb>斟</rb><rt>く</rt></ruby>んでゐた。妻は父の目がねにかなつた、この国の<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>の娘だつた。

「あの音は何ぢや？」

男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。

「栗の実が落ちたのでございませう。」

常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。

四

男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻の<ruby><rb>族</rb><rt>うから</rt></ruby>と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日<ruby><rb>粟津</rb><rt>あはづ</rt></ruby>に滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男は<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、<ruby><rb>懇</rb><rt>ねんご</rt></ruby>ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦<ruby><rb>一層</rb><rt>ひとしほ</rt></ruby>だつた。男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。

六の宮へ行つて見ると、昔あつた<ruby><rb>四足</rb><rt>よつあし</rt></ruby>の門も、<ruby><rb>檜皮葺</rb><rt>ひはだぶ</rt></ruby>きの寝殿や<ruby><rb>対</rb><rt>たい</rt></ruby>も、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごとく</rt></ruby>今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの<ruby><rb>築土</rb><rt>ついぢ</rt></ruby>だけだつた。男は草の中に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、<ruby><rb>水葱</rb><rt>なぎ</rt></ruby>が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>らせてゐた。

男は<ruby><rb>政所</rb><rt>まんどころ</rt></ruby>と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。男は闇を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしながら、そつとその人影に声をかけた。すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。

尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。

「御見忘れでもございませうが、手前は<ruby><rb>御内</rb><rt>みうち</rt></ruby>に仕へて居つた、はした<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りました。が、その内に夫と共々、<ruby><rb>但馬</rb><rt>たじま</rt></ruby>へ下る事になりましたから、手前もその節娘と一しよに、<ruby><rb>御暇</rb><rt>おいとま</rt></ruby>を頂いたのでございます。所がこの頃姫君の事が、何かと心にかかりますので、手前一人京へ上つて見ますと、御覧の通り御屋形も何もなくなつて居るのでごさいませんか？　姫君も何処へいらつしやつた事やら、――実は手前もさき頃から、途方に暮れて居るのでございます。殿は御存知もございますまいが、娘が御奉公申して居つた間も、姫君のお暮しのおいたはしさは、申しやうもない位でございました。……」

男は一部始終を聞いた後、この腰の曲つた尼に、下の衣を一枚脱いで渡した。それから頭を垂れた儘、黙然と草の中を歩み去つた。

五

男は翌日から姫君を探しに、<ruby><rb>洛中</rb><rt>らくちゆう</rt></ruby>を方々歩きまはつた。が、何処へどうしたのか、容易に<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>はわからなかつた。

すると何日か後の夕ぐれ、男はむら<ruby><rb>雨</rb><rt>さめ</rt></ruby>を避ける為に、<ruby><rb>朱雀門</rb><rt>すざくもん</rt></ruby>の前にある、西の<ruby><rb>曲殿</rb><rt>きよくでん</rt></ruby>の軒下に立つた。其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。雨は<ruby><rb>丹塗</rb><rt>にぬ</rt></ruby>りの門の空に、寂しい音を立て続けた。男は法師を尻目にしながら、<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしい思ひを<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。その内にふと男の耳は、薄暗い窓の<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。

窓の中には尼が一人、破れた<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ<ruby><rb>枯</rb><rt>が</rt></ruby>れてゐるらしかつた。しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。男は声をかけようとした。が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌を<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。

「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」

男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。姫君はさすがに枕を起した。が、男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、又筵の上に<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>してしまつた。尼は、――あの忠実な乳母は、其処へ飛びこんだ男と一しよに、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて姫君を抱き起した。しかし抱き起した顔を見ると、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。

乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を<ruby><rb>読誦</rb><rt>どくじゆ</rt></ruby>する代りに、姫君へかう言葉をかけた。

「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の<ruby><rb>御名</rb><rt>みな</rt></ruby>をお唱へなされ。」

姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと<ruby><rb>仏名</rb><rt>ぶつみやう</rt></ruby>を唱へ出した。と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。

「あれ、あそこに火の燃える車が。……」

「そのやうな物にお恐れなさるな。<ruby><rb>御仏</rb><rt>みほとけ</rt></ruby>さへ念ずればよろしうござる。」

法師はやや声を励ました。すると姫君は<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>の後、又夢うつつのやうに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>き出した。

「<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>の<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>が見えまする。<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>のやうに大きい蓮華が。……」

法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。

「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」

「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ？」

法師は殆ど叱るやうに云つた。が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。

「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」

男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏を<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けてゐた。さう云ふ声の雨に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>る中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……

六

それから何日か後の月夜、姫君に念仏を<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れ<ruby><rb>衣</rb><rt>ごろも</rt></ruby>の膝を抱へてゐた。すると其処へ<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらひ</rt></ruby>が一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの<ruby><rb>大路</rb><rt>おほぢ</rt></ruby>を歩いて来た。侍は法師の姿を見ると、<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>の足を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めたなり、さりげないやうに声をかけた。

「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか？」

法師は石畳みに<ruby><rb>蹲</rb><rt>うづく</rt></ruby>まつた儘、たつた一言返事をした。

「お聞きなされ。」

侍はちよつと耳を澄ませた。が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。侍は口を動かさうとした。しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。

侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。

「御仏を念じておやりなされ。――」

法師は月光に顔を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げた。

「あれは極楽も地獄も知らぬ、<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがひ</rt></ruby>ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」

しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。

「<ruby><rb>内記</rb><rt>ないき</rt></ruby>の<ruby><rb>上人</rb><rt>しやうにん</rt></ruby>ではございませんか？　どうして又このやうな所に――」

在俗の名は<ruby><rb>慶滋</rb><rt>よししげ</rt></ruby>の<ruby><rb>保胤</rb><rt>やすたね</rt></ruby>、世に内記の上人と云ふのは、<ruby><rb>空也</rb><rt>くうや</rt></ruby>上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の<ruby><rb>沙門</rb><rt>しやもん</rt></ruby>だつた。

（大正十一年七月）