一

明治元年五月十四日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎだつた。「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の町家のものは<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby><ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へでも立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。<ruby><rb>下谷町</rb><rt>したやまち</rt></ruby>二丁目の小間物店、<ruby><rb>古河屋政兵衛</rb><rt>こがやせいべゑ</rt></ruby>の立ち退いた跡には、台所の隅の<ruby><rb>蚫貝</rb><rt>あはびがひ</rt></ruby>の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに<ruby><rb>香箱</rb><rt>かうばこ</rt></ruby>をつくつてゐた。

戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。<ruby><rb>人音</rb><rt>ひとおと</rt></ruby>も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>色の眼をまん<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>にした。<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。

そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。

すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ過ぎる<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごか</rt></ruby>きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ竈、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>のない<ruby><rb>水瓶</rb><rt>みづがめ</rt></ruby>の水光り、<ruby><rb>荒神</rb><rt>くわうじん</rt></ruby>の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>不安さうに、戸の明いた<ruby><rb>水口</rb><rt>みづぐち</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、のそりと大きい体を起した。

この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい<ruby><rb>酒筵</rb><rt>さかむしろ</rt></ruby>に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず<ruby><rb>後手</rb><rt>うしろで</rt></ruby>に障子をしめてから、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに顔の手拭をとつた。顔は<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>にはまみれてゐても、眼鼻立ちは<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ尋常だつた。

「三毛。三毛。」

乞食は髪の水を切つたり、顔の<ruby><rb>滴</rb><rt>しづく</rt></ruby>を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。

「三毛公。どうした？――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」

乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>きもせず、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない薄明りの中に、引き金の具合を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。

「明日になるとな、三毛公、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」

乞食は短銃を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べながら、時々猫に話しかけた。

「お前とも永い<ruby><rb>御馴染</rb><rt>おなじみ</rt></ruby>だな。が、今日が御別れだぞ。明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだ</rt></ruby>めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」

その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も<ruby><rb>棟瓦</rb><rt>むねがはら</rt></ruby>を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を<ruby><rb>装填</rb><rt>さうてん</rt></ruby>してゐた。

「それとも名残りだけは惜しんでくれるか？　いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いや。唯おれもゐないとすると、――」

乞食は急に口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に身構へながら、まともに<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにふしや</rt></ruby>と眼を合せた。

すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは<ruby><rb>素裸足</rb><rt>すはだし</rt></ruby>に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしながら、ぢつと乞食の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

乞食は<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられたのか、古<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は見えなかつた。二人は<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>の間、互に眼と眼を見合せてゐた。

「何だい、お前は新公ぢやないか？」

彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。

「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもないんです。」

「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか？」

彼女は傘の<ruby><rb>滴</rb><rt>しづく</rt></ruby>を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。

「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」

「へえ、出ます。出ろと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>らないでも出ますがね。<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんはまだ立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かなかつたんですかい？」

「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか？」

「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」

彼女はまだ<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごふはら</rt></ruby>さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに<ruby><rb>雀斑</rb><rt>そばかす</rt></ruby>のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、<ruby><rb>小倉</rb><rt>こくら</rt></ruby>の帯しかしてゐなかつた。が、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。

「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は？　え、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん。――お富さん。」

新公は又尋ね続けた。

「何だつて<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いぢやないか？　それよりさつさと出て行つておくれよ。」

お富の返事は<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つつけんどん</rt></ruby>だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。

「新公、お前、家の三毛を知らないかい？」

「三毛？　三毛は今<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に、――おや、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行きやがつたらう？」

乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の<ruby><rb>擂鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしやく</rt></ruby>を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。

新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。

「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは？」

「猫ぢや悪いのかい？――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」

新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。

「何が<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しんだい？　家のお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか？　三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか？　わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか？――」

「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」

新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>つた。

「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」

「お黙りよ！　お上さんの<ruby><rb>讒訴</rb><rt>ざんそ</rt></ruby>なぞは聞きたくないよ！」

お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。

「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか？　今ぢやもう上野界隈、立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか？」

「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」

「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、お前さんはどうしなさるね？」

新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。

唯その頬には、さつきよりも、一層血の色がさしたらしかつた。

「何だい、新公、――お前はわたしを<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かさうつて云ふのかい？」

お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。

「嚇かすえ？　嚇かすだけならば好いぢやありませんか？　肩に<ruby><rb>金切</rb><rt>きんぎ</rt></ruby>れなんぞくつけてゐたつて、<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>の悪いやつらも多い世の中だ。ましてわたしは乞食ですぜ。嚇かすばかりとは限りませんや。もしほんたうに妙な気を出したら、……」

新公は残らず云はない内に、したたか頭を打ちのめされた。お富は何時か彼の前に、大黒傘をふり上げてゐたのだつた。

「生意気な事をお云ひでない。」

お富は又新公の頭へ、力一ぱい傘を打ち下した。新公は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に身を<ruby><rb>躱</rb><rt>かは</rt></ruby>さうとした。が、傘はその途端に、古<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の肩を打ち据ゑてゐた。この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、<ruby><rb>荒神</rb><rt>くわうじん</rt></ruby>の棚へ飛び移つた。と同時に荒神の松や油光りのする燈明皿も、新公の上へ転げ落ちた。新公はやつと飛び起きる前に、まだ何度もお富の傘に、打ちのめされずにはすまなかつた。

「こん畜生！　こん畜生！」

お富は傘を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひ続けた。が、新公は打たれながらも、とうとう傘を引つたくつた。のみならず傘を投げ出すが早いか猛然とお富に飛びかかつた。二人は狭い板の間の上に、<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>の間<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み合つた。この立ち廻りの最中に、雨は又台所の屋根へ、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい音を<ruby><rb>湊</rb><rt>あつ</rt></ruby>め出した。光も雨音の高まるのと一しよに、見る見る薄暗さを加へて行つた。新公は打たれても、引つ掻かれても、<ruby><rb>遮二無二</rb><rt>しやにむに</rt></ruby>お富を<ruby><rb>扭</rb><rt>ね</rt></ruby>ぢ伏せようとした。しかし何度か仕損じた後、やつと彼女に組み付いたと思ふと、突然又<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>かれたやうに、水口の方へ飛びすさつた。

「この阿魔あ！……」

新公は障子を後ろにしたなり、ぢつとお富を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。何時か髪も壊れたお富は、べつたり板の間に坐りながら、帯の間に挾んで来たらしい<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>に握つてゐた。それは殺気を帯びてもゐれば、同時に又妙に<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい、云はば荒神の棚の上に、背を高めた猫と似たものだつた。二人はちよいと無言の儘、相手の目の中を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ひ合つた。が、新公は一瞬の後、わざとらしい冷笑を見せると、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>からさつきの短銃を出した。

「さあ、いくらでもぢたばたして見ろ。」

短銃の先は<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに、お富の胸のあたりへ向つた。それでも彼女は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。新公は彼女が騒がないのを見ると、今度は何か思ひついたやうに、短銃の先を上に向けた。その先には薄暗い中に、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>色の猫の目が<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいてゐた。

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いかい？　お富さん。――」

新公は相手をじらすやうに、笑ひを含んだ声を出した。

「この短銃が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どん</span>と云ふと、あの猫が逆様に転げ落ちるんだ。お前さんにしても同じ事だぜ。そら好いかい？」

引き金はすんでに落ちようとした。

「新公！」

突然お富は声を立てた。

「いけないよ。打つちやいけない。」

新公はお富へ目を移した。しかしまだ短銃の先は、三毛猫に狙ひを定めてゐた。

「いけないのは知れた事だ。」

「打つちや可哀さうだよ。三毛だけは助けておくれ。」

お富は今までとは打つて変つた、心配さうな目つきをしながら、心もち震へる<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の間に、細かい歯並みを覗かせてゐた。新公は半ば<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るやうに、又半ば<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。と同時にお富の顔には、ほつとした色が浮んで来た。

「ぢや猫は助けてやらう。その代り。――」

新公は<ruby><rb>横柄</rb><rt>わうへい</rt></ruby>に云ひ放つた。

「その代りお前さんの体を借りるぜ。」

お富はちよいと目を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らせた。一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した<ruby><rb>茶箪笥</rb><rt>ちやだんす</rt></ruby>や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。新公は其処に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。するとそれを感じたのか、お富は体を<ruby><rb>捻</rb><rt>ねぢ</rt></ruby>るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きした色が返つてゐた。しかし新公は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>らうばい</rt></ruby>したやうに、妙な<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。

「いけないよ。いけないつてば。――」

お富は彼を止めると同時に、手の中の<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を板の間へ落した。

「いけなけりやあすこへお行きなさいな。」

新公は薄笑ひを浮べてゐた。

「いけ好かない！」

お富は<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさうに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。

新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おほ</rt></ruby>つた儘、ぢつと<ruby><rb>仰向</rb><rt>あふむ</rt></ruby>けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>つてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。

「冗談だ。お富さん。冗談だよ。もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」

――何分かの後、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れ<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。

「<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん。わたしは少しお前さんに、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたい事があるんですがね。――」

新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。

「何をさ！」

「何をつて事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか？」

新公はちよいと口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたは</rt></ruby>つてゐた。

「そんなにその猫が可愛いんですかい？」

「そりや三毛も可愛いしね。――」

お富は煮え切らない返事をした。

「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。三毛が殺されたとなつた日にや、この家の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんに申し訣がない。――と云ふ心配でもあつたんですかい？」

「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」

お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。

「何と云へば好いんだらう？　唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」

――更に又何分かの後、一人になつた新公は、古<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。暮色は<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。引き窓の綱、流し元の<ruby><rb>水瓶</rb><rt>みづがめ</rt></ruby>、――そんな物も一つづつ見えなくなつた。と思ふと上野の鐘が、<ruby><rb>一杵</rb><rt>いつしよ</rt></ruby>づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。それから手さぐりに流し元へ下りると、<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしやく</rt></ruby>になみなみと水を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んだ。

「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」

彼はさう呟きざま、うまさうに<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の水を飲んだ。……

＊　　　　　　＊　　　　　　＊

明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。

その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。おまけに桜も黒門のあたりは、もう大抵開いてゐた。だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつた。其処へ上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列が、しつきりなしに流れて来た。前田<ruby><rb>正名</rb><rt>まさな</rt></ruby>、田口卯吉、渋沢栄一、辻新次、岡倉覚三、下条正雄――その馬車や人力車の客には、さう云ふ人々も交つてゐた。

五つになる次男を抱いた夫は、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に長男を<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>らせた儘、目まぐるしい往来の人通りをよけよけ、時々ちよいと心配さうに、後ろのお富を振り返つた。お富は長女の手をひきながら、その度に晴れやかな<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑみ</rt></ruby>を見せた。勿論二十年の歳月は、彼女にも<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>してゐた。しかし目の中に冴えた光は昔と余り変らなかつた。彼女は明治四五年頃に、<ruby><rb>古河屋政兵衛</rb><rt>こがやせいべゑ</rt></ruby>の<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>に当る、今の夫と結婚した。夫はその頃は横浜に、今は銀座の何丁目かに、小さい時計屋の店を出してゐた。……

お富はふと目を挙げた。その時丁度さしかかつた、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠々と坐つてゐた。新公が、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も今の新公の体は、<ruby><rb>駝鳥</rb><rt>だてう</rt></ruby>の羽根の前立だの、<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まつてゐるやうなものだつた。しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。お富は思はず足を<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めた。が、不思議にも驚かなかつた。新公は唯の乞食ではない。――そんな事はなぜかわかつてゐた。顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。お富は眉も動かさずに、ぢつと新公の顔を眺めた。新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守つてゐた。二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。その動機は何だつたか、――彼女はそれを知らなかつた。新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を<ruby><rb>肯</rb><rt>がへん</rt></ruby>じなかつた。その動機は何だつたか、――それも彼女は知らなかつた。が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。

新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きと、嬉しさうに。……

（大正十一年八月）