大谷川

馬返しをすぎて少し行くと大谷川の見える所へ出た。落葉に埋もれた石の上に腰をおろして川を見る。川はずうっと下の谷底を流れているので幅がやっと五、六尺に見える。川をはさんだ山は紅葉と黄葉とにすきまなくおおわれて、その間をほとんど純粋に近い<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>の水が白い<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>を<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>いて流れてゆく。

そうしてその紅葉と黄葉との間をもれてくる光がなんとも言えない暖かさをもらして、見上げると山は私の頭の上にもそびえて、青空の画室のスカイライトのように狭く限られているのが、ちょうど岩の間から深い<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>をのぞいたような気を起させる。

対岸の山は半ばは同じ紅葉につつまれて、その上はさすがに冬枯れた草山だが、そのゆったりした肩には<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い光のある<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がかかって、かっ色の毛きらずビロードをたたんだような山の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>がいかにも優しい感じを起させる。その上に白い炭焼の煙が低く山腹をはっていたのはさらに私をゆかしい思いにふけらせた。

石をはなれてふたたび山道にかかった時、私は「谷水のつきてこがるる紅葉かな」という<ruby><rb>蕪村</rb><rt>ぶそん</rt></ruby>の句を思い出した。

戦場が原

枯草の間を沼のほとりへ出る。

<ruby><rb>黄泥</rb><rt>こうでい</rt></ruby>の岸には、薄氷が残っている。<ruby><rb>枯蘆</rb><rt>かれあし</rt></ruby>の根にはすすけた<ruby><rb>泡</rb><rt>あぶく</rt></ruby>がかたまって、<ruby><rb>家鴨</rb><rt>あひる</rt></ruby>の死んだのがその中にぶっくり浮んでいた。どんよりと濁った沼の水には青空がさびついたように映って、ほの白い雲の影が静かに動いてゆくのが見える。

対岸には<ruby><rb>接骨木</rb><rt>にわとこ</rt></ruby>めいた<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>がすがれかかった黄葉を<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れて力なさそうに水にうつむいた。それをめぐって黄ばんだ<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>がかなしそうに<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いて、その間からさびしい高原のけしきがながめられる。

ほおけた尾花のつづいた大野には、北国めいた、黄葉した<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>が所々に腕だるそうにそびえて、その間をさまよう放牧の馬の群れはそぞろに我々の祖先の水草を追うて漂浪した昔をおもい出させる。原をめぐった山々はいずれもわびしい灰色の霧につつまれて、薄い夕日の光がわずかにその頂をぬらしている。

私は荒涼とした思いをいだきながら、この水のじくじくした沼の岸にたたずんでひとりでツルゲーネフの森の旅を考えた。そうして枯草の間に<ruby><rb>竜胆</rb><rt>りんどう</rt></ruby>の青い花が夢見顔に咲いているのを見た時に、しみじみあの I have nothing to do with thee という悲しい言が思い出された。

<ruby><rb>巫女</rb><rt>みこ</rt></ruby>

年をとった巫女が白い衣に<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはいて<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>の陰にさびしそうにひとりですわっているのを見た。そうして私もなんとなくさびしくなった。

<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>もよいの夕に春日の森で若い二人の巫女にあったことがある。二人とも十二、三でやはり緋の袴に白い衣をきて<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をつけていた。小暗い杉の下かげには落葉をたく煙がほの白く上って、しっとりと湿った森の大気は木精のささやきも聞えそうな言いがたいしずけさを漂せた。そのもの静かな森の路をもの静かにゆきちがった、若い、いや幼い巫女の後ろ姿はどんなにか私にめずらしく覚えたろう。私はほほえみながら何度も後ろをふりかえった。けれども今、冷やかな山懐の気が<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>寒く迫ってくる社の片かげに寂然とすわっている<ruby><rb>老年</rb><rt>としより</rt></ruby>の巫女を見ては、そぞろにかなしさを覚えずにはいられない。

私は、一生を神にささげた巫女の<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>のさびしさが、なんとなく私の心をひきつけるような気がした。

高原

裏見が滝へ行った帰りに、ひとりで、高原を貫いた、日光<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>に出る小さな路をたどって行った。

<ruby><rb>武蔵野</rb><rt>むさしの</rt></ruby>ではまだ<ruby><rb>百舌鳥</rb><rt>もず</rt></ruby>がなき、<ruby><rb>鵯</rb><rt>ひよどり</rt></ruby>がなき、畑の<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>の穂が出て、薄紫の豆の花が葉のかげにほのめいているが、ここはもうさながらの冬のけしきで、薄い黄色の丸葉がひらひらついている<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の霜柱の草の中にたたずんだのが、静かというよりは寂しい感じを起させる。この日は風のない暖かなひよりで、樺林の間からは、<ruby><rb>菫色</rb><rt>すみれいろ</rt></ruby>の光を帯びた野州の山々の姿が何か来るのを待っているように、冷え冷えする高原の大気を<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>してなごりなく望まれた。

いつだったかこんな話をきいたことがある。雪国の野には冬の夜なぞによくものの声がするという。その声が遠い国に多くの人がいて口々に哀歌をうたうともきければ、森かげの<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>の十羽二十羽が夜霧のほのかな中から心細そうになきあわすとも聞える。ただ、野の末から野の末へ風にのって響くそうだ。なにものの声かはしらない。ただ、この原も日がくれから、そんな声が起りそうに思われる。

こんなことを考えながら半里もある野路を飽かずにあるいた。なんのかわったところもないこの原のながめが、どうして私の感興を引いたかはしらないが、私にはこの高原の、ことに薄曇りのした静寂がなんとなくうれしかった。

工場（以下足尾所見）

黄色い硫化水素の煙が霧のようにもやもやしている。その中に職工の姿が黒く見える。すすびたシャツの胸のはだけたのや、しみだらけの手ぐいで<ruby><rb>頬</rb><rt>ほほ</rt></ruby>かぶりをしたのや、中には裸体で<ruby><rb>濡菰</rb><rt>ぬれごも</rt></ruby>を<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>のように肩からかけたのが、反射炉のまっかな光をたたえたかたわらに動いている。機械の運転する響き、職工の大きな掛声、薄暗い工場の中に雑然として聞えるこれらの音が、気のよわい私には一つ一つ強く胸を圧するように思われる――裸体の一人が炉のかたわらに近づいた。汗でぬれた<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>が露を置いたように光って見える。細長い鉄の棒で小さな炉の口をがたりとあける。紅に輝いた空の日を溶かしたような、火の流れがずーうっとまっすぐに流れ出す。流れ出すと、炉の下の大きなバケツのようなものの中へぼとぼとと重い響きをさせて落ちて行く。バケツの中がいっぱいになるに従って、火の流れがはいるたびにはらはらと火の粉がちる。火の粉は職工のぬれ菰にもかかる。それでも平気で何か歌をうたっている。

和田さんの「<ruby><rb>煒燻</rb><rt>いくん</rt></ruby>」を見たことがある。けれども時代の陰影とでもいうような、鋭い感興は浮かばなかった。その後にマロニックの「不漁」を見た時もやはり暗い切実な感じを覚えなかった。が今、この工場の中に立って、あの煙を見、あの火を見、そうしてあの響きをきくと、労働者の真生活というような悲壮な思いがおさえがたいまでに起ってくる。彼らの銅のような筋肉を見<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。彼らの勇ましい歌をきき給え。私たちの生活は彼らを思うたびにイラショナルなような気がしてくる。あるいは真に空虚な生活なのかもしれない。

寺と墓

路ばたに寺があった。

<ruby><rb>丹</rb><rt>に</rt></ruby>も見るかげがなくはげて、抜けかかった屋根がわらの上に<ruby><rb>擬宝珠</rb><rt>ぎぼうし</rt></ruby>の金がさみしそうに光っていた。縁には<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>が白く見えて、<ruby><rb>鰐口</rb><rt>わにぐち</rt></ruby>のほつれた紅白のひものもう色がさめたのにぶらりと長くさがったのがなんとなくうらがなしい。寺の内はしんとして人がいそうにも思われぬ。その右に墓場がある。墓場は石ばかりの山の腹にそうて開いたので、灰色をした石の間に灰色をした石塔が何本となく立っているのが、わびしい感じを起させる。草の青いのもない。立花さえもほとんど見えぬ。ただ灰色の石と灰色の墓である。その中に線香の紙がきわだって赤い。これでも人を埋めるのだ。私はこの石ばかりの墓場が何かのシンボルのような気がした。今でもあの荒涼とした石山とその上の曇った濁色の空とがまざまざと目にのこっている。

<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>かき心

中禅寺から足尾の町へ行く路がまだ古河橋の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら家の一ならびがある。石をのせた屋根、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こまい</span>のあらわな壁、たおれかかったかき根とかき根には<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>を渡しておしめやらよごれた青い毛布やらが、薄い日の光に干してある。そのかき根について、ここらには珍しいコスモスが紅や白の花をつけたのに、片目のつぶれた黒犬がものうそうにその下に寝ころんでいた。その中で一軒門口の往来へむいた家があった。外の光になれた私の眼には家の中は暗くて何も見えなかったが、その明るい縁さきには、<ruby><rb>猫背</rb><rt>ねこぜ</rt></ruby>のおばあさんが、古びたちゃんちゃんを着てすわっていた。おばあさんのいる所の前がすぐ往来で、往来には髪ののびた、手も足も<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>と<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>がうす黒くたまったはだしの男の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>が三人で土いじりをしていたが、私たちの通るのを見て「やア」と言いながら手をあげた。そうしてただ笑った。小供たちの声に驚かされたとみえておばあさんも私たちの方を見た。けれどもおばあさんは盲だった。

私はこのよごれた小供の顔と盲のおばあさんを見ると、急にピーター・クロポトキンの「青年よ、温かき心をもって現実を見よ」という言が思い出された。なぜ思い出されたかはしらない。ただ、漂浪の晩年をロンドンの孤客となって送っている、迫害と圧迫とを絶えずこうむったあのクロポトキンが温かき心をもってせよと教える心もちを思うと我知らず胸が迫ってきた。そうだ温かき心をもってするのは私たちの務めだ。

私たちはあくまで態度をヒューマナイズして人生を見なければならぬ。それが私たちの努力である。真を描くという、それもけっこうだ。しかし、「形ばかりの世界」を破ってその中の真を捕えようとする時にも必ず私たちは温かき心をもってしなければならない。「形ばかりの世界」にとらわれた人々はこのあばら家に楽しそうに遊んでいる小児のような、それでなければ盲目の顔を私たちの方にむけて私たちを見ようとするおばあさんのような人ばかりではあるまいか。

この「形ばかりの世界」を破るのに、あくまでも温かき心をもってするのは当然私たちのつとめである。文壇の人々が排技巧と言い無結構と言う、ただ真を描くと言う。冷やかな眼ですべてを描いたいわゆる公平無私にいくばくの価値があるかは私の久しい前からの疑問である。単に著者の個人性が明らかに印象せられたというに止まりはしないだろうか。

私は年長の人と語るごとにその人のなつかしい世なれた風に少からず酔わされる。文芸の上ばかりでなく温かき心をもってすべてを見るのはやがて人格の上の試錬であろう。世なれた人の態度はまさしくこれだ。私は世なれた人のやさしさを慕う。

私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。

雑誌の<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>に急がれて思うようにかけません。宿屋のランプの下で書いた日記の抄録に止めます。

（明治四十四年ごろ）