## 一

或秋の夜半であつた。<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby><ruby><rb>奇望街</rb><rt>きばうがい</rt></ruby>の或家の一間には、色の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あを</rt></ruby>ざめた支那の少女が一人、古びた<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上に頬杖をついて、盆に入れた<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すゐくわ</rt></ruby>の種を退屈さうに噛み破つてゐた。

<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光は部屋の中を明くすると云ふよりも、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ一層陰欝な効果を与へるのに力があつた。壁紙の<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ出した<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>の寝台が、埃臭さうな<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂らしてゐた。それから<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の向うには、これも古びた椅子が一脚、まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外は何処を見ても、装飾らしい家具の類なぞは何一つ見当らなかつた。

少女はそれにも関らず、西瓜の種を噛みやめては、時々涼しい眼を挙げて、卓の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゆう</rt></ruby>の十字架がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその十字架の上には、<ruby><rb>稚拙</rb><rt>ちせつ</rt></ruby>な受難の<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>が、高々と両腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のやうにぼんやり浮べてゐた。少女の眼はこの<ruby><rb>耶蘇</rb><rt>ヤソ</rt></ruby>を見る毎に、長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の後の寂しい色が、一瞬間<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ見えなくなつて、その代りに無邪気な希望の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移ると、彼女は<ruby><rb>必</rb><rt>かならず</rt></ruby>吐息を洩らして、<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>のない<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゆす</rt></ruby>の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり噛み出すのであつた。

少女は名を<ruby><rb>宋金花</rb><rt>そうきんくわ</rt></ruby>と云つて、貧しい家計を助ける為に、<ruby><rb>夜々</rb><rt>よなよな</rt></ruby>その部屋に客を迎へる、当年十五歳の<ruby><rb>私窩子</rb><rt>しくわし</rt></ruby>であつた。<ruby><rb>秦淮</rb><rt>しんわい</rt></ruby>に多い私窩子の中には、金花程の容貌の持ち主なら、何人でもゐるのに違ひなかつた。が、金花程気立ての優しい少女が、二人とこの土地にゐるかどうか、それは少くとも疑問であつた。彼女は朋輩の売笑婦と違つて、嘘もつかなければ<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>も張らず、夜毎に愉快さうな微笑を浮べて、この陰欝な部屋を訪れる、さまざまな客と戯れてゐた。さうして彼等の払つて行く金が、稀に約束の額より多かつた時は、たつた一人の父親を、一杯でも余計好きな酒に飽かせてやる事を楽しみにしてゐた。

かう云ふ金花の行状は、勿論彼女が生れつきにも、拠つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなつた母親に教へられた、<ruby><rb>羅馬加特力教</rb><rt>ロオマカトリツクけう</rt></ruby>の信仰をずつと持ち続けてゐるからであつた。

――さう云へば今年の春、<ruby><rb>上海</rb><rt>シヤンハイ</rt></ruby>の競馬を見物かたがた、南部支那の風光を探りに来た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かした事があつた。その時彼は葉巻を<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へて、洋服の膝に軽々と小さな金花を抱いてゐたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不審らしい顔をしながら、

「お前は耶蘇教徒かい。」と、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない支那語で話しかけた。

「ええ、五つの時に洗礼を受けました。」

「さうしてこんな商売をしてゐるのかい。」

彼の声にはこの瞬間、皮肉な調子が交つたやうであつた。が、金花は彼の腕に、<ruby><rb>鴉髻</rb><rt>あけい</rt></ruby>の頭を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せながら、何時もの通り晴れ晴れと、糸切歯の見える笑を洩らした。

「この商売をしなければ、<ruby><rb>阿父様</rb><rt>おとうさん</rt></ruby>も私も餓ゑ死をしてしまひますから。」

「お前の父親は老人なのかい。」

「ええ――もう腰も立たないのです。」

「しかしだね、――しかしこんな稼業をしてゐたのでは、天国に行かれないと思やしないか。」

「いいえ。」

金花はちよいと十字架を眺めながら、考深さうな眼つきになつた。

「天国にいらつしやる基督様は、きつと私の心もちを汲みとつて下さると思ひますから。――それでなければ基督様は<ruby><rb>姚家巷</rb><rt>えうかかう</rt></ruby>の警察署の御役人も同じ事ですもの。」

若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隠しを探ると、<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすゐ</rt></ruby>の耳環を一<ruby><rb>双</rb><rt>さう</rt></ruby>出して、手づから彼女の耳へ下げてやつた。

「これはさつき日本へ<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に買つた耳環だが、今夜の記念にお前にやるよ。」――

金花は始めて客をとつた夜から、実際かう云ふ確信に自ら安んじてゐたのであつた。

所が<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>一月ばかり前から、この<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な<ruby><rb>私窩子</rb><rt>しくわし</rt></ruby>は不幸にも、悪性の<ruby><rb>楊梅瘡</rb><rt>やうばいさう</rt></ruby>を病む体になつた。これを聞いた朋輩の<ruby><rb>陳山茶</rb><rt>ちんさんさ</rt></ruby>は、痛みを止めるのに好いと云つて、<ruby><rb>鴉片酒</rb><rt>あへんしゆ</rt></ruby>を飲む事を教へてくれた。その後又やはり朋輩の<ruby><rb>毛迎春</rb><rt>まうげいしゆん</rt></ruby>は、彼女自身が服用した<ruby><rb>汞藍丸</rb><rt>こうらんぐわん</rt></ruby>や<ruby><rb>迦路米</rb><rt>かろまい</rt></ruby>の残りを、親切にもわざわざ持つて来てくれた。が、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引き籠つてゐても、一向快方には向はなかつた。

すると或日陳山茶が、金花の部屋へ遊びに来た時に、こんな迷信じみた療法を<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もらしく話して聞かせた。

「あなたの病気は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておしまひなさいよ。さうすればきつと二三日中に、よくなつてしまふのに違ひないわ。」

金花は<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほほづゑ</rt></ruby>をついた儘、浮かない顔色を改めなかつた。が、山茶の言葉には多少の好奇心を動かしたと見えて、

「ほんたう？」と、軽く聞き返した。

「ええ、ほんたうだわ。私の姉さんもあなたのやうに、どうしても病気が<ruby><rb>癒</rb><rt>なほ</rt></ruby>らなかつたのよ。それでも御客に移し返したら、ぢきによくなつてしまつたわ。」

「その御客はどうして？」

「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」

山茶が部屋を去つた後、金花は独り壁に懸けた十字架の前に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまづ</rt></ruby>いて、受難の基督を仰ぎ見ながら、熱心にかう云ふ<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きたう</rt></ruby>を捧げた。

「天国にいらつしやる基督様。私は<ruby><rb>阿父様</rb><rt>おとうさま</rt></ruby>を養ふ為に、<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しい商売を致して居ります。しかし私の商売は、私一人を汚す外には、誰にも迷惑はかけて居りません。ですから私はこの儘死んでも、<ruby><rb>必</rb><rt>かならず</rt></ruby>天国に行かれると思つて居りました。けれども唯今の私は、御客にこの病を移さない限り、今までのやうな商売を致して参る事は出来ません。して見ればたとひ餓ゑ死をしても、――さうすればこの病も、癒るさうでございますが、――御客と一つ寝台に寝ないやうに、心がけねばなるまいと存じます。さもなければ私は、私どもの仕合せの為に、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みもない他人を不仕合せに致す事になりますから。しかし何と申しても、私は女でございます。いつ<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>どんな誘惑に陥らないものでもございません。天国にいらつしやる基督様。どうか私を御守り下さいまし。私はあなた御一人の外に、たよるもののない女でございますから。」

かう決心した宋金花は、その後山茶や迎春にいくら商売を勧められても、剛情に客をとらずにゐた。又時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに来ても、一しよに煙草でも吸ひ合ふ外に、決して客の意に従はなかつた。

「私は恐しい病気を持つてゐるのです。側へいらつしやると、あなたにも移りますよ。」

それでも客が酔つてでもゐて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花は何時もかう云つて、実際彼女の病んでゐる証拠を示す事さへ<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかつた。だから客は彼女の部屋には、おひおひ遊びに来ないやうになつた。と同時に又彼女の家計も、一日毎に苦しくなつて行つた。……

今夜も彼女はこの<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>つて、長い間ぼんやり坐つてゐた。が、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>彼女の部屋へは、客の来るけはひも見えなかつた。その内に夜は遠慮なく<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>け渡つて、彼女の耳にはひる音と云つては、唯<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで鳴いてゐる<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こほろぎ</rt></ruby>の声ばかりになつた。のみならず火の気のない部屋の寒さは、床に敷きつめた石の上から、次第に彼女の<ruby><rb>鼠繻子</rb><rt>ねずみじゆす</rt></ruby>の靴を、その靴の中の<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>な足を、水のやうに襲つて来るのであつた。

金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、やがて身震ひを一つすると<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすゐ</rt></ruby>の輪の下つた耳を掻いて、小さな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を噛み殺した。すると<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>その途端に、ペンキ塗りの戸が勢よく開いて、<ruby><rb>見慣</rb><rt>みな</rt></ruby>れない一人の外国人が、よろめくやうに外からはひつて来た。その勢が烈しかつたからであらう。<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上のランプの火は、一しきりぱつと燃え上つて、妙に赤々と<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた光を狭い部屋の中に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせた。客はその光をまともに浴びて、一度は卓の方へのめりかかつたが、すぐに又立ち直ると、今度は後へたじろいで、今し方しまつたペンキ塗りの戸へ、どしりと背を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せてしまつた。

金花は思はず立ち上つて、この見慣れない外国人の姿へ、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられた視線を投げた。客の年頃は三十五六でもあらうか。縞目のあるらしい茶の背広に、同じ<ruby><rb>巾地</rb><rt>きれぢ</rt></ruby>の鳥打帽をかぶつた、眼の大きい、<ruby><rb>顋髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>のある、頬の日に焼けた男であつた。が、唯一つ合点の行かない事には、外国人には違ひないにしても、西洋人か東洋人か、奇体にその見分けがつかなかつた。それが黒い髪の毛を帽の下からはみ出させて、火の消えたパイプを<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へながら、戸口に立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさが</rt></ruby>つてゐる有様は、どう見ても泥酔した通行人が戸まどひでもしたらしく思はれるのであつた。

「何か御用ですか。」

金花は<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>無気味な感じに<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>はれながら、やはり<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の前に立ちすくんだ儘、<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>るやうにかう尋ねて見た。すると相手は首を振つて、支那語はわからないと云ふ相図をした。それから横啣へにしたパイプを離して、何やら意味のわからない<ruby><rb>滑</rb><rt>なめら</rt></ruby>かな外国語を<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>洩らした。が、今度は金花の方が、卓の上のランプの光に、耳環の<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすゐ</rt></ruby>をちらつかせながら、首を振つて見せるより外に仕方がなかつた。

客は彼女が当惑らしく、美しい眉をひそめたのを見ると、突然大声に笑ひながら、無造作に鳥打帽を脱ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄つた。さうして<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の向うの椅子へ、腰が抜けたやうに尻を下した。金花はこの時この外国人の顔が、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby><ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>と云ふ記憶はないにしても、確に見覚えがあるやうな、一種の親しみを感じ出した。客は無遠慮に盆の上の西瓜の種をつまみながら、と云つてそれを噛むでもなく、じろじろ金花を眺めてゐたが、やがて又妙な手真似まじりに、何か外国語をしやべり出した。その意味も彼女にはわからなかつたが、唯この外国人が彼女の商売に、多少の理解を持つてゐる事は、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げながらも推測がついた。

支那語を知らない外国人と、長い一夜を明す事も、金花には珍しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>習慣になつてゐる、愛想の好い微笑を見せながら、相手には全然通じない<ruby><rb>冗談</rb><rt>じようだん</rt></ruby>などを云ひ始めた。が、客はその冗談がわかるのではないかと疑はれる程、一言二言しやべつては、上機嫌の笑ひ声を挙げながら、前よりも更に目まぐるしく、いろいろな手真似を使ひ出した。

客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた顔は、この<ruby><rb>索寞</rb><rt>さくばく</rt></ruby>とした部屋の空気が、<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>くなるかと思ふ程、男らしい活力に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れてゐた。少くともそれは金花にとつては、日頃見慣れてゐる南京の同国人は云ふまでもなく、今まで彼女が見た事のある、どんな東洋西洋の外国人よりも立派であつた。が、それにも関らず、前にも一度この顔を見た覚えのあると云ふ、さつきの感じだけはどうしても、打ち消す事が出来なかつた。金花は客の額に懸つた、黒い捲き毛を眺めながら、気軽さうに<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいけう</rt></ruby>を振り撒く内にも、この顔に始めて<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>つた時の記憶を、一生懸命に<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び起さうとした。

「この間肥つた奥さんと一しよに、<ruby><rb>画舫</rb><rt>ぐわばう</rt></ruby>に乗つてゐた人かしら。いやいや、あの人は髪の色が、もつとずつと赤かつた。では<ruby><rb>秦淮</rb><rt>しんわい</rt></ruby>の孔子様の<ruby><rb>廟</rb><rt>べう</rt></ruby>へ、写真機を向けてゐた人かも知れない。しかしあの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、何時か<ruby><rb>利渉橋</rb><rt>りせふけう</rt></ruby>の側の<ruby><rb>飯館</rb><rt>はんくわん</rt></ruby>の前に、人だかりがしてゐると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>の杖を振り上げて、人力車夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、――が、どうもあの人の眼は、もつと瞳が青かつたやうだ。……」

金花がこんな事を考へてゐる内に、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>愉快さうな外国人は、何時かパイプに煙草をつめて、匂の好い煙を吐き出してゐた。それが急に又何とか云つて、今度はおとなしくにやにや笑ふと、片手の指を二本延べて、金花の眼の前へ突き出しながら、？と云ふ意味の身ぶりをした。指二本が二<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>と云ふ金額を示してゐることは、勿論誰の眼にも明かであつた。が、客を泊めない金花は、器用に西瓜の種を鳴らして、否と云ふ印に二度ばかり、これも笑ひ顔を振つて見せた。すると客は<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の上に横柄な両肘を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せた儘、うす暗いランプの光の中に、近々と酔顔をさし延ばして、ぢつと彼女を見守つたが、やがて又指を三本出して、答を待つやうな眼つきをした。

金花はちよいと椅子をずらせて、西瓜の種を含んだ儘、当惑らしい顔になつた。客は確に二弗の金では、彼女が体を任せないと云つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言葉の通じない彼に、立ち入つた<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>をのみこませる事は、到底出来さうにも思はれなかつた。そこで金花は今更のやうに、彼女の軽率を後悔しながら、涼しい視線を外へ転じて、仕方なく更にきつぱりと、もう一度頭を振つて見せた。

所が相手の外国人は、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くうす笑ひを浮べながら、ためらふやうな気色を示した後、四本の指をさし延ばして、何か又外国語をしやべつて聞かせた。途方に暮れた金花は頬を抑へて、微笑する気力もなくなつてゐたが、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>にもうかうなつた上は、何時までも首を振り続けて、相手が思ひ切る時を待つ外はないと決心した。が、さう思ふ内にも客の手は、何か眼に見えないものでも捉へるやうに、とうとう五指とも開いてしまつた。

それから二人は長い間、手真似と身ぶりとの入り交つた押し問答を続けてゐた。その間に客は根気よく、一本づつ指の数を増した揚句、しまひには十<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>の金を出しても、惜しくないと云ふ意気ごみを示すやうになつた。が、<ruby><rb>私窩子</rb><rt>しくわし</rt></ruby>には大金の十弗も、金花の決心は動かせなかつた。彼女はさつきから椅子を離れて、斜に卓の前へ<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでゐたが、相手が両手の指を見せると、<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさうに足踏みして、何度も続けさまに頭を振つた。その途端にどう云ふ<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひやうし</rt></ruby>か、釘に懸つてゐた十字架がはづれて、かすかな金属の音を立てながら、足もとの敷石の上に落ちた。

彼女は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しい手を延べて、大切な十字架を拾ひ上げた。その時何気なく十字架に彫られた、受難の基督の顔を見ると、不思議にもそれが卓の向うの、外国人の顔と生き写しであつた。

「何でも何処かで見たやうだと思つたのは、この基督様の御顔だつたのだ。」

金花は<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゆす</rt></ruby>の上衣の胸に、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゆう</rt></ruby>の十字架を押し当てた儘、卓を隔てた客の顔へ、思はず驚きの視線を投げた。客はやはりランプの光に、酒気を帯びた顔を<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせながら、時々パイプの煙を吐いては、意味ありげな微笑を浮べてゐた。しかもその眼は彼女の姿へ、――恐らくは白い<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>すぢから、翡翠の環を下げた耳のあたりへ、絶えずさまよつてゐるらしかつた。しかしかう云ふ客の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>も、金花には優しい一種の威厳に、充ち満ちてゐるかのやうな心もちがした。

やがて客はパイプを止めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑ひ声の言葉をかけた。それが金花の心には、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>巧妙な催眠術師が、被術者の耳に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き聞かせる、暗示のやうな作用を起した。彼女はあの<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>な決心も、全く忘れてしまつたのか、そつとほほ笑んだ眼を伏せて、真鍮の十字架を手まさぐりながら、この怪しい外国人の側へ、<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しさうに歩み寄つた。

客はズボンの隠しを探つて、じやらじやら銀の音をさせながら、依然とうす笑ひを浮べた眼に、暫くは金花の立ち姿を好ましさうに眺めてゐた。が、その眼の中のうす笑ひが、熱のあるやうな光に変つたと思ふと、いきなり椅子から飛び上つて、酒の匂のする背広の腕に、力一ぱい金花を抱きすくめた。金花はまるで<ruby><rb>喪心</rb><rt>さうしん</rt></ruby>したやうに、翡翠の耳環の下がつた頭をぐつたりと後へ<ruby><rb>仰向</rb><rt>あふむ</rt></ruby>けた儘、しかし<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あをじろ</rt></ruby>い頬の底には、<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>な血の色を<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めかせて、鼻の先に迫つた彼の顔へ、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>くわうこつ</rt></ruby>としたうす眼を注いでゐた。この不思議な外国人に、彼女の体を自由にさせるか、それとも病を移さない為に、彼の接吻を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねつけるか、そんな思慮をめぐらす余裕は、勿論何処にも見当らなかつた。金花は髯だらけな客の口に、彼女の口を任せながら、唯燃えるやうな恋愛の歓喜が、始めて知つた恋愛の歓喜が、激しく彼女の胸もとへ、突き上げて来るのを知るばかりであつた。……

## 二

数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こほろぎ</rt></ruby>の声が、寝台を洩れる二人の寝息に、寂しい秋意を加へてゐた。しかしその間に金花の夢は、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>じみた寝台の<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>から、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高々と昇つて行つた。

＊　　　　　　＊　　　　　　＊

――金花は<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の椅子に坐つて、卓の上に並んでゐる、さまざまな料理に<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>をつけてゐた。燕の巣、<ruby><rb>鮫</rb><rt>さめ</rt></ruby>の<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>、<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>した卵、<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>した鯉、豚の丸煮、<ruby><rb>海参</rb><rt>なまこ</rt></ruby>の<ruby><rb>羹</rb><rt>あつもの</rt></ruby>、――料理はいくら数へても、到底数へ尽されなかつた。しかもその食器が<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごとく</rt></ruby>、べた一面に青い<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>や金の<ruby><rb>鳳凰</rb><rt>ほうわう</rt></ruby>を描き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。

彼女の椅子の後には、<ruby><rb>絳紗</rb><rt>かうしや</rt></ruby>の<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂れた窓があつて、その又窓の外には川があるのか、静な水の音や<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>の音が、絶えず此処まで聞えて来た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れてゐる、<ruby><rb>秦淮</rb><rt>しんわい</rt></ruby>らしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確に天国の町にある、基督の家に違ひなかつた。

金花は時々箸を止めて、<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>の周囲を眺めまはした。が、広い部屋の中には、竜の彫刻のある柱だの、大輪の菊の鉢植ゑだのが、料理の湯気に仄めいてゐる外は、一人も人影は見えなかつた。

それにも関らず卓の上には、食器が一つからになると、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち何処からか新しい料理が、暖な香気を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。と思ふと又箸をつけない内に、丸焼きの<ruby><rb>雉</rb><rt>きじ</rt></ruby>なぞが<ruby><rb>羽搏</rb><rt>はばた</rt></ruby>きをして<ruby><rb>紹興酒</rb><rt>せうこうしゆ</rt></ruby>の瓶を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。

その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後へ、歩み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後を振り返つて見た。すると其処にはどう云ふ訳か、あると思つた窓がなくて、<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の蒲団を敷いた<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の椅子に、見慣れない一人の外国人が、真鍮の<ruby><rb>水煙管</rb><rt>みづぎせる</rt></ruby>を<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へながら、悠々と腰を下してゐた。

金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに来た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯気の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>さうな料理を運んで来た。彼女はすぐに箸を挙げて、皿の中の珍味を<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>まうとしたが、ふと彼女の後にゐる外国人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、

「あなたも此処へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい声をかけた。

「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」

円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。

「ではあなたは召上らないのでございますか。」

「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。<ruby><rb>耶蘇基督</rb><rt>ヤソキリスト</rt></ruby>はまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。」

南京の基督はかう云つたと思ふと、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に紫檀の椅子を離れて、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられた金花の頬へ、後から優しい接吻を与へた。

＊　　　　　　＊　　　　　　＊

天国の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狭い部屋中にうすら寒く拡がり出した頃であつた。が、<ruby><rb>埃臭</rb><rt>ほこりくさ</rt></ruby>い<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂れた、<ruby><rb>小舸</rb><rt>せうか</rt></ruby>のやうな寝台の中には、さすがにまだ生暖い仄かな闇が残つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向いた金花の顔は、色もわからない古毛布に、円い<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を隠した儘、<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に眠い眼を開かなかつた。しかし血色の悪い頬には、昨夜の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髪が乱れて、心もち明いた唇の隙にも、<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>のやうに細い歯が、かすかに白々と覗いてゐた。

金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉の丸焼きや、耶蘇基督や、その外いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寝台の中が、だんだん<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>くなつて来ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人な現実が、昨夜不思議な外国人と一しよに、この籐の寝台へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで来た。

「もしあの人に病気でも移したら、――」

金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝は<ruby><rb>再</rb><rt>ふたたび</rt></ruby>彼の顔を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に焼けた顔を何時までも見ずにゐる事は、<ruby><rb>猶更</rb><rt>なほさら</rt></ruby>彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後、彼女は<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ怯づ眼を開いて、今はもう明くなつた寝台の中を見まはした。しかし其処には思ひもよらず、毛布に蔽はれた彼女の外は、十字架の耶蘇に似た彼は勿論、人の影さへも見えなかつた。

「ではあれも夢だつたかしら。」

<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>じみた毛布を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけるが早いか、金花は寝台の上に起き直つた。さうして両手に眼を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>つてから、重さうに下つた帷を掲げて、まだ渋い視線を部屋の中へ投げた。

部屋は冷かな朝の空気に、残酷な位<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と、あらゆる物の輪廓を描いてゐた。古びた<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>、火の消えたランプ、それから一脚は床に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子、――すべてが<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の儘であつた。そればかりか現に卓の上には、西瓜の種が散らばつた中に、小さな真鍮の十字架さへ、鈍い光を放つてゐた。金花は<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い眼をしばたたいて、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ばうぜん</rt></ruby>とあたりを見まはしながら、暫くは取り乱した寝台の上に、寒さうな横坐りを改めなかつた。

「やつぱり夢ではなかつたのだ。」

金花はかう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、さまざまにあの外国人の不可解な行く方を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる暇に、そつと部屋を抜け出して、帰つたかも知れないと云ふ気はあつた。しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言も別れを惜まずに、行つてしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ信じるに忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外国人から、まだ約束の十弗の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。

「それとも本当に帰つたのかしら。」

彼女は重い胸を抱きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顔には見る見る内に、生き生きした血の色が拡がり始めた。それはペンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外国人の足音でも聞えた為であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移り香が、偶然恥しい昨夜の記憶を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>びさました為であらうか。いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起つた奇蹟が、一夜の中に跡方もなく、悪性を極めた<ruby><rb>楊梅瘡</rb><rt>やうばいさう</rt></ruby>を<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>した事に気づいたのであつた。

「ではあの人が基督様だつたのだ。」

彼女は思はず<ruby><rb>襯衣</rb><rt>したぎ</rt></ruby>の儘、<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>ぶやうに寝台を這ひ下りると、冷たい敷き石の上に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまづ</rt></ruby>いて、再生の主と言葉を交した、美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈祷を捧げ出した。……

## 三

翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家は<ruby><rb>再</rb><rt>ふたたび</rt></ruby>うす暗いランプの下に、彼女と<ruby><rb>卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>を挾んでゐた。

「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」

その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に真面目になつて、一夜南京に<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>つた基督が、彼女の病を癒したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。

その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――

「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの<ruby><rb>路透</rb><rt>ロイテル</rt></ruby>電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の<ruby><rb>私窩子</rb><rt>しくわし</rt></ruby>を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ<ruby><rb>無頼</rb><rt>ぶらい</rt></ruby>な混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙を<ruby><rb>啓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」

金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに<ruby><rb>燐寸</rb><rt>マツチ</rt></ruby>を擦つて、匂の高い葉巻をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。

「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度も<ruby><rb>煩</rb><rt>わづら</rt></ruby>はないかい。」

「ええ、一度も。」

金花は西瓜の種を<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りながら、晴れ晴れと顔を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。

本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「<ruby><rb>秦淮</rb><rt>しんわい</rt></ruby>の一夜」に負ふ所<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>からず。附記して感謝の意を表す。

（大正九年六月）