上

<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>は軍刀を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出すと、夢中で馬の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にしがみついた。確かに頸を斬られたと思う――いや、これはしがみついた後で、そう思ったのかも知れない。ただ、何か頸へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずん</span>と音を立てて、はいったと思う――それと同時に、しがみついたのである。すると馬も<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>を受けたのであろう。何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く<ruby><rb>嘶</rb><rt>いなな</rt></ruby>いて、鼻づらを急に空へ向けると、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の<ruby><rb>高粱畑</rb><rt>こうりょうばたけ</rt></ruby>をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えない。

人の身の<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>よりも高い高粱は、<ruby><rb>無二無三</rb><rt>むにむさん</rt></ruby>に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のように起伏する。それが右からも左からも、あるいは彼の<ruby><rb>辮髪</rb><rt>べんぱつ</rt></ruby>を<ruby><rb>掃</rb><rt>はら</rt></ruby>ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほどはっきり、脳味噌に<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げついている。斬られた。斬られた。――こう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになった馬の腹を何度も<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>で<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った。

―――――――――――――――――――――――――

十分ほど前、<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>は仲間の騎兵と一しょに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ<ruby><rb>偵察</rb><rt>ていさつ</rt></ruby>に行く途中、黄いろくなりかけた<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。それが余り突然すぎたので、敵も味方も小銃を発射する<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>がない。少くとも味方は、赤い筋のはいった軍帽と、やはり赤い<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に馬の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をその方へ立て直した。勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。

それから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の高い高粱が、まるで<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、<ruby><rb>銅</rb><rt>あかがね</rt></ruby>のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀の<ruby><rb>欛</rb><rt>つか</rt></ruby>が、だんだん<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>きながら、突然彼の馬の前に<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げた、向うの軍刀の<ruby><rb>鋼</rb><rt>はがね</rt></ruby>である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>と<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え渡って、磨いた鉄の冷かな<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>く日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。

―――――――――――――――――――――――――

馬は、<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>の痛みで<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っている<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>を乗せたまま、<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>畑の中を<ruby><rb>無二無三</rb><rt>むにむさん</rt></ruby>に駈けて行った。どこまで駈けても、高粱は尽きる<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>もなく茂っている。人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。日の光も秋は、<ruby><rb>遼東</rb><rt>りょうとう</rt></ruby>と日本と変りがない。

繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いていたのである。

彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。それから――こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を<ruby><rb>虐</rb><rt>さいな</rt></ruby>みに来る。だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>を云って見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。

「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と<ruby><rb>清国</rb><rt>しんこく</rt></ruby>とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>だろう。」

何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の<ruby><rb>平首</rb><rt>ひらくび</rt></ruby>にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。

だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの<ruby><rb>銅</rb><rt>あかがね</rt></ruby>のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>に<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>く開けた時、運命は二三本の<ruby><rb>川楊</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>の木になって、もう落ちかかった葉を低い<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に集めながら、<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。

その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の<ruby><rb>廚房</rb><rt>ちゅうぼう</rt></ruby>で、大きな<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>を失っていた。………

中

馬の上から転げ落ちた<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>は、全然正気を失ったのであろうか。<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby><ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>の<ruby><rb>疼</rb><rt>いた</rt></ruby>みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わりながら、<ruby><rb>川楊</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>の葉が撫でている、高い<ruby><rb>蒼空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ<ruby><rb>翛然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。

では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた<ruby><rb>裙子</rb><rt>くんし</rt></ruby>である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>のように薄くなって、その向うにある雲の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>を、<ruby><rb>雲母</rb><rt>きらら</rt></ruby>のように透かせている。

その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>からは、彼の生まれた家の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にある、だだっ広い<ruby><rb>胡麻畑</rb><rt>ごまばたけ</rt></ruby>が、<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に横ぎって、<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り上げられたようにすっと消えた。

するとその次には妙なものが空をのたくって来た。よく見ると、<ruby><rb>燈夜</rb><rt>とうや</rt></ruby>に街をかついで歩く、あの大きな<ruby><rb>竜燈</rb><rt>りゅうとう</rt></ruby>である。長さはおよそ四五間もあろうか。竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。形は画で見る竜と、少しも変りがない。それが昼間だのに、中へ<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>らしい火をともして、彷彿と<ruby><rb>蒼空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。

それが見えなくなると、今度は<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な女の足が突然空へ現れた。<ruby><rb>纏足</rb><rt>てんそく</rt></ruby>をした足だから、細さは<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く三寸あまりしかない。しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。<ruby><rb>小二</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。こことあの足を見た所との間は、何百里と云う<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>がある。そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。

その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。彼の頭の上には、大きな<ruby><rb>蒼空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>が音もなく<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかかっている。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。これは何と云う寂しさであろう。そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。何小二は思わず長いため息をついた。

この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になっては遅かった。

何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>りたかった。そうしてまた、誰をでも<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>したかった。

「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を<ruby><rb>償</rb><rt>つぐの</rt></ruby>うのだが。」

彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い<ruby><rb>灝気</rb><rt>こうき</rt></ruby>の中に、点々としてかすかにきらめくものは、<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と<ruby><rb>眸底</rb><rt>ぼうてい</rt></ruby>は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。

下

<ruby><rb>日清</rb><rt>にっしん</rt></ruby>両国の間の和が<ruby><rb>媾</rb><rt>こう</rt></ruby>ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテエブルを囲みながら、一碗の<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>と一本の葉巻とに忙しさを忘れて、のどかな雑談に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。早春とは云いながら、大きなカミンに火が<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いてあるので、<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>の中はどうかすると汗がにじむほど暖い。そこへテエブルの上へのせた鉢植えの紅梅が時々<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>めいた匂を送って来る。

二人の間の話題は、しばらく<ruby><rb>西太后</rb><rt>せいたいこう</rt></ruby>で持ち切っていたが、やがてそれが一転して<ruby><rb>日清</rb><rt>にっしん</rt></ruby>戦争当時の追憶になると、木村少佐は何を思ったか急に立ち上って、室の隅に置いてあった神州日報の<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じこみを、こっちのテエブルへ持って来た。そうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指である箇所をさしながら、読み給えと云う眼つきをした。それがあまり<ruby><rb>唐突</rb><rt>とうとつ</rt></ruby>だったので、技師はちょいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、<ruby><rb>洒脱</rb><rt>しゃだつ</rt></ruby>な人間だと云う事は日頃からよく心得ている。そこで<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、戦争に関係した奇抜な逸話を予想しながら、その紙面へ眼をやると、果してそこには、日本の新聞口調に直すとこんな記事が、四角な字ばかりで物々しく<ruby><rb>掲</rb><rt>かか</rt></ruby>げてあった。

――<ruby><rb>街</rb><rt>がい</rt></ruby>の<ruby><rb>剃頭店</rb><rt>ていとうてん</rt></ruby>主人、<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>なる者は、日清戦争に出征して、<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>勲功を<ruby><rb>顕</rb><rt>あらわ</rt></ruby>したる勇士なれど、<ruby><rb>凱旋</rb><rt>がいせん</rt></ruby>後とかく素行<ruby><rb>修</rb><rt>おさま</rt></ruby>らず、酒と女とに身を<ruby><rb>持崩</rb><rt>もちくず</rt></ruby>していたが、去る――<ruby><rb>日</rb><rt>にち</rt></ruby>、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み合いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。ことに不思議なるは同人の頸部なる<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>にして、こはその際<ruby><rb>兇器</rb><rt>きょうき</rt></ruby>にて<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、<ruby><rb>再</rb><rt>ふたたび</rt></ruby>、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が<ruby><rb>卓子</rb><rt>テエブル</rt></ruby>と共に顛倒するや否や、首は俄然<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の皮一枚を残して、鮮血と共に<ruby><rb>床上</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>に<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>び落ちたりと云う。<ruby><rb>但</rb><rt>ただし</rt></ruby>、当局はその真相を疑い、目下犯人厳探中の由なれども、<ruby><rb>諸城</rb><rt>しょじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>某甲</rb><rt>ぼうこう</rt></ruby>が首の落ちたる事は、載せて<ruby><rb>聊斎志異</rb><rt>りょうさいしい</rt></ruby>にもあれば、<ruby><rb>該</rb><rt>がい</rt></ruby>何小二の如きも、その事なしとは云う<ruby><rb>可</rb><rt>べか</rt></ruby>らざるか。云々。

山川技師は読み<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>ると共に、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をして、「何だい、これは」と云った。すると木村少佐は、ゆっくり葉巻の煙を吐きながら、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>に微笑して、

「面白いだろう。こんな事は支那でなくっては、ありはしない。」

「そうどこにでもあって、たまるものか。」

山川技師もにやにやしながら、長くなった葉巻の灰を灰皿の中へはたき落した。

「しかも更に面白い事は――」

少佐は妙に<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な顔をして、ちょいと<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>を切った。

「僕はその何小二と云うやつを知っているのだ。」

「知っている？　これは驚いた。まさかアッタッシェの癖に、新聞記者と一しょになって、いい加減な嘘を<ruby><rb>捏造</rb><rt>ねつぞう</rt></ruby>するのではあるまいね。」

「誰がそんなくだらない事をするものか。僕はあの頃――<ruby><rb>屯</rb><rt>とん</rt></ruby>の<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>で負傷した時に、その何小二と云うやつも、やはり我軍の野戦病院へ収容されていたので、支那語の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>かたがた二三度話しをした事があるのだ。<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>があると云うのだから、十中八九あの男に違いない。何でも偵察か何かに出た所が我軍の騎兵と衝突して頸へ一つ日本刀をお見舞申されたと云っていた。」

「へえ、妙な縁だね。だがそいつはこの新聞で見ると、無頼漢だと書いてあるではないか。そんなやつは<ruby><rb>一層</rb><rt>いっそ</rt></ruby>その時に死んでしまった方が、どのくらい世間でも助かったか知れないだろう。」

「それがあの頃は、<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby>正直な、人の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしいくらいだったのだ。だから軍医官でも何でも、妙にあいつが可愛いかったと見えて、特別によく療治をしてやったらしい。あいつはまた身の上話をしても、なかなか面白い事を云っていた。殊にあいつが頸に重傷を負って、馬から落ちた時の心もちを僕に話して聞かせたのは、今でもちゃんと覚えている。ある川のふちの泥の中にころがりながら、<ruby><rb>川楊</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>の木の空を見ていると、母親の<ruby><rb>裙子</rb><rt>くんし</rt></ruby>だの、女の<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>だの、花の咲いた<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>畑だのが、はっきりその空へ見えたと云うのだが。」

木村少佐は葉巻を捨てて、<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>茶碗を唇へあてながら、テエブルの上の紅梅へ眼をやって、独り<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>のように<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>を次いだ。

「あいつはそれを見た時に、しみじみ今までの自分の生活が浅ましくなって来たと云っていたっけ。」

「それが戦争がすむと、すぐに無頼漢になったのか。だから人間はあてにならない。」

山川技師は椅子の背へ頭をつけながら、足をのばして、皮肉に葉巻の煙を天井へ吐いた。

「あてにならないと云うのは、あいつが猫をかぶっていたと云う意味か。」

「そうさ。」

「いや、僕はそう思わない。少くともあの時は、あいつも真面目にそう感じていたのだろうと思う。恐らくは今度もまた、首が落ちると同時に（新聞の<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>をそのまま使えば）やはりそう感じたろう。僕はそれをこんな風に想像する。あいつは喧嘩をしている<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、酔っていたから、訳なく<ruby><rb>卓子</rb><rt>テエブル</rt></ruby>と一しょに<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出された。そうしてその拍子に、創口が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、長い<ruby><rb>辮髪</rb><rt>べんぱつ</rt></ruby>をぶらさげた首が、ごろりと床の上へころげ落ちた。あいつが前に見た母親の<ruby><rb>裙子</rb><rt>くんし</rt></ruby>とか、女の素足とか、あるいはまた花のさいている胡麻畑とか云うものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往来した事だろう。あるいは屋根があるにも<ruby><rb>関</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、あいつは深い<ruby><rb>蒼空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>を、遥か向うに望んだかも知れない。あいつはその時、しみじみまた今までの自分の生活が浅ましくなった。が、今度はもう間に合わない。前には正気を失っている所を、日本の看護卒が見つけて介抱してやった。今は喧嘩の相手が、そこをつけこんで<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ったり蹴ったりする。そこであいつは後悔した上にも後悔しながら息をひきとってしまったのだ。」

山川技師は肩をゆすって笑った。

「君は立派な空想家だ。だが、それならどうしてあいつは、一度そう云う目に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>いながら、無頼漢なんぞになったのだろう。」

「それは君の云うのとちがった意味で、人間はあてにならないからだ。」

木村少佐は新しい葉巻に火をつけてから、ほとんど、得意に近いほど<ruby><rb>晴々</rb><rt>はればれ</rt></ruby>した調子で、微笑しながらこう云った。

「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知って置く必要がある。実際それを知っているもののみが、幾分でもあてになるのだ。そうしないと、<ruby><rb>何小二</rb><rt>かしょうじ</rt></ruby>の首が落ちたように、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――すべて支那の新聞と云うものは、こんな風に読まなくてはいけないのだ。」

（大正六年十二月）