<ruby><rb>平中</rb><rt>へいちゆう</rt></ruby>といふ色ごのみにて、<ruby><rb>宮仕人</rb><rt>みやづかへびと</rt></ruby>はさらなり、人の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>など忍びて見

ぬはなかりけり。

宇治拾遺物語

<ruby><rb>何</rb><rt>いか</rt></ruby>でかこの人に<ruby><rb>不会</rb><rt>あは</rt></ruby>では止まむと思ひ迷ける程に、平中<ruby><rb>病付</rb><rt>やみつき</rt></ruby>にけり。

<ruby><rb>然</rb><rt>しかうし</rt></ruby>て<ruby><rb>悩</rb><rt>なやみ</rt></ruby>ける程に<ruby><rb>死</rb><rt>しに</rt></ruby>にけり。

今昔物語

色を好むといふは、かやうのふるまひなり。

十訓抄

一　画姿

<ruby><rb>泰平</rb><rt>たいへい</rt></ruby>の時代にふさはしい、優美なきらめき<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>ゑぼし</rt></ruby>の下には、<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>ぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も<ruby><rb>臙脂</rb><rt>えんじ</rt></ruby>をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌が、自然と血の色を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かせたのである。<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>は<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>の好い鼻の下に、――と云ふよりも薄い唇の左右に、丁度薄墨を<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いたやうに、僅ばかりしか残つてゐない。しかしつややかな<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の上には、霞も立たない空の色さへ、ほんのりと青みを映してゐる。耳はその<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のはづれに、ちよいと<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>つた耳たぶだけ見える。それが<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>の貝のやうな、暖かい色をしてゐるのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、絶えず微笑が漂つてゐる。<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>その瞳の底には、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐるのかと思ふ位、晴れ晴れした微笑が漂つてゐる。が、多少注意をすれば、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には必しも幸福のみが住まつてゐない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、<ruby><rb>惝怳</rb><rt>しやうけい</rt></ruby>を持つた微笑である。同時に又手近い<ruby><rb>一切</rb><rt>いつさい</rt></ruby>に、軽蔑を抱いた微笑である。<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>は顔に比べると、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>すぎると評しても好い。その頸には白い<ruby><rb>汗衫</rb><rt>かざみ</rt></ruby>の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の<ruby><rb>水干</rb><rt>すゐかん</rt></ruby>の襟と、細い一線を<ruby><rb>画</rb><rt>ゑが</rt></ruby>いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちやう</rt></ruby>であらうか？　それとものどかな山の裾に、<ruby><rb>女松</rb><rt>めまつ</rt></ruby>を描いた障子であらうか？　兎に角曇つた銀のやうな、薄白い<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>みが拡がつてゐる。……

これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>の<ruby><rb>色好</rb><rt>いろごの</rt></ruby>み」<ruby><rb>平</rb><rt>たひら</rt></ruby>の<ruby><rb>貞文</rb><rt>さだぶみ</rt></ruby>の似顔である。平の<ruby><rb>好風</rb><rt>よしかぜ</rt></ruby>に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、<ruby><rb>平中</rb><rt>へいちゆう</rt></ruby>と<ruby><rb>渾名</rb><rt>あだな</rt></ruby>を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。

二　桜

平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、<ruby><rb>侍従</rb><rt>じじゆう</rt></ruby>の事を考へてゐる。

「始めて侍従を見かけたのは、――」

平中はかう思ひ続けた。

「始めて侍従を見かけたのは、――あれは<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の事だつたかな？　さうさう、何でも<ruby><rb>稲荷詣</rb><rt>いなりまう</rt></ruby>でに出かけると云つてゐたのだから、<ruby><rb>初午</rb><rt>はつうま</rt></ruby>の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが<ruby><rb>抑々</rb><rt>そもそも</rt></ruby>の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>を重ねた上へ、紫の<ruby><rb>袿</rb><rt>うちぎ</rt></ruby>をひつかけてゐる、――その<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が何とも云へなかつた。おまけに<ruby><rb>輫</rb><rt>はこ</rt></ruby>へはひる所だから、片手に袴をつかんだ<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の<ruby><rb>大臣</rb><rt>おとど</rt></ruby>の<ruby><rb>御屋形</rb><rt>おんやかた</rt></ruby>には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れたと云つても、――」

平中はちよいと<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがほ</rt></ruby>になつた。

「だが本当に惚れてゐるかしら？　惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>んでしまひはしない。何時かあの<ruby><rb>範実</rb><rt>のりざね</rt></ruby>のやつと、侍従の<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>をしてゐたら、<ruby><rb>憾</rb><rt>うら</rt></ruby>むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。<ruby><rb>範実</rb><rt>のりざね</rt></ruby>などと云ふ男は、<ruby><rb>篳篥</rb><rt>ひちりき</rt></ruby>こそちつとは吹けるだらうが、<ruby><rb>好色</rb><rt>かうしよく</rt></ruby>の話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か古い<ruby><rb>画巻</rb><rt>ゑまき</rt></ruby>じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、<ruby><rb>琥珀色</rb><rt>こはくいろ</rt></ruby>位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう<ruby><rb>水際</rb><rt>みづぎは</rt></ruby>立つた、<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」

平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。

「それにしてもこの間から、いくら<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか？　まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの<ruby><rb>恵眼</rb><rt>ゑげん</rt></ruby>と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――<ruby><rb>義輔</rb><rt>よしすけ</rt></ruby>が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの<ruby><rb>艶書</rb><rt>えんしよ</rt></ruby>の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、<ruby><rb>二文字</rb><rt>ふたもじ</rt></ruby>だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな？　もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも<ruby><rb>豊楽院</rb><rt>ぶらくゐん</rt></ruby>の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、<ruby><rb>三抱</rb><rt>みかか</rt></ruby>へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は<ruby><rb>牛車</rb><rt>ぎつしや</rt></ruby>に化ける。<ruby><rb>高陽川</rb><rt>かやがは</rt></ruby>の狐は<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>童</rb><rt>わらは</rt></ruby>に化ける。<ruby><rb>桃薗</rb><rt>ももぞの</rt></ruby>の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。ええと、何を考へてゐたのだつけ？」

平中は空を見上げた儘、そつと<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を<ruby><rb>噛殺</rb><rt>かみころ</rt></ruby>した。花に<ruby><rb>埋</rb><rt>うづ</rt></ruby>まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。

「兎に角あの女には<ruby><rb>根負</rb><rt>こんま</rt></ruby>けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの<ruby><rb>摂津</rb><rt>せつつ</rt></ruby>でも<ruby><rb>小中将</rb><rt>こちゆうじやう</rt></ruby>でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか？　侍従にした所が<ruby><rb>金仏</rb><rt>かなぼとけ</rt></ruby>ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」

「殿様。」

「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」

「殿様。」

平中はやや<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたやうに、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>ゑぼし</rt></ruby>の頭を後へ向けた。後には<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。

「<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそこ</rt></ruby>か？」

「はい、侍従様から、――」

童はかう云ひ終ると、<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>主人の前を<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>つた。

「侍従様から？　本当かしら？」

平中は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>恐る恐る、青い<ruby><rb>薄葉</rb><rt>うすえふ</rt></ruby>の文を開いた。

「範実や義輔の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>ぢやないか？　あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>だから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい？」

平中は文を<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出した。文には「唯見つとばかりの、<ruby><rb>二文字</rb><rt>ふたもじ</rt></ruby>だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。

「ああ、ああ、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>の色好みとか云はれるおれも、この位<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、<ruby><rb>小面</rb><rt>こづら</rt></ruby>の憎い女ぢやないか？　今にどうするか覚えてゐろよ。……」

平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……

三　雨夜

それから二月程たつた後である。或<ruby><rb>長雨</rb><rt>ながあめ</rt></ruby>の続いた夜、平中は一人本院の侍従の<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい響を立ててゐる。路は<ruby><rb>泥濘</rb><rt>でいねい</rt></ruby>と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、――かう考へた平中は、局の口へ<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。

すると十五六の<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>童</rb><rt>わらは</rt></ruby>が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をつけた、さすがに<ruby><rb>睡</rb><rt>ね</rt></ruby>むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。

一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。

「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」

平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>の側に腰を下した。

「やつぱりおれは智慧者だな。」

女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。

「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。<ruby><rb>兎角</rb><rt>とかく</rt></ruby>女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ<ruby><rb>甲所</rb><rt>かんどころ</rt></ruby>を知らないから、<ruby><rb>義輔</rb><rt>よしすけ</rt></ruby>や<ruby><rb>範実</rb><rt>のりざね</rt></ruby>は何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>すぎるやうだぞ。――」

平中はそろそろ不安になつた。

「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな？　何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に<ruby><rb>絆</rb><rt>ほだ</rt></ruby>されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」

平中は<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を直しながら、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に何も見えない。その中に唯雨の音が、<ruby><rb>檜肌葺</rb><rt>ひはだぶき</rt></ruby>の屋根をどよませてゐる。

「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも<ruby><rb>一心</rb><rt>いつしん</rt></ruby>にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」

平中は耳を<ruby><rb>側立</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てた。<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>ふと気がついて見れば、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby><ruby><rb>小止</rb><rt>をや</rt></ruby>みない<ruby><rb>雨声</rb><rt>うせい</rt></ruby>と一しよに、<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>へ詰めてゐた女房たちが<ruby><rb>局々</rb><rt>つぼねつぼね</rt></ruby>に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。

「此処が辛抱のし所だな。もう<ruby><rb>半時</rb><rt>はんとき</rt></ruby>もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの<ruby><rb>胸算用</rb><rt>むなさんよう</rt></ruby>も見透かしてしまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか？　それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら？　秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、<ruby><rb>雨竜</rb><rt>あまりよう</rt></ruby>、雨蛙、<ruby><rb>雨革</rb><rt>あまがは</rt></ruby>、雨宿り、……」

こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の<ruby><rb>来迎</rb><rt>らいがう</rt></ruby>を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>の向うに、誰か懸け金を<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>した音が、はつきり耳に響いたのである。

平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと<ruby><rb>閾</rb><rt>しきゐ</rt></ruby>の上を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>つた。その向うには不思議な程、<ruby><rb>空焚</rb><rt>そらだき</rt></ruby>の匂が立ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、この<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いかう</rt></ruby>や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。

「ゐないのかな？　ゐれば何とか云ひさうなものだ。」

かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい<ruby><rb>打衣</rb><rt>うちぎぬ</rt></ruby>の袖にさはる。その<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>の下の乳房にさはる。円々した頬や<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>にさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。――平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。

これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあつたやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、<ruby><rb>大殿油</rb><rt>おほとのあぶら</rt></ruby>の<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に見た何かの画巻にあつたのかも知れない。

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけ</rt></ruby>ない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう<ruby><rb>向後</rb><rt>かうご</rt></ruby>は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」

平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>かうとした。が、いくら気は<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いても、舌は<ruby><rb>上顋</rb><rt>うはあご</rt></ruby>に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。――と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。

一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の<ruby><rb>大臣</rb><rt>おとど</rt></ruby>も、<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>童</rb><rt>わらは</rt></ruby>も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの<ruby><rb>際</rb><rt>きは</rt></ruby>どい<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。

「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」

平中は唯<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いた。侍従は二人の<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>の上に、匂の好い<ruby><rb>暖</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。

「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」

平中はちやんと眼を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと懸金を下す音がした。

「雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、――どうしたのだらう？　懸け金はもう下りたと思つたが、――」

平中は頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて見た。が、あたりにはさつきの通り、空焚きの匂が漂つた、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行つたものか、衣ずれの音も聞えて来ない。

「まさか、――いや、事によると、――」

平中は<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>を這ひ出すと、又元のやうに手探りをしながら、向うの障子へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局々が大雨の中に、いづれもひつそりと寝静まつてゐる。

「平中、平中、お前はもう天が下の色好みでも何でもない。――」

平中は障子に寄りかかつた儘、失心したやうに呟いた。

「お前の容色も劣へた。お前の才も元のやうぢやない。お前は<ruby><rb>範実</rb><rt>のりざね</rt></ruby>や<ruby><rb>義輔</rb><rt>よしすけ</rt></ruby>よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」

四　好色問答

これは平中の二人の友達――義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節である。

義輔　「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」

範実　「さう云ふ噂だね。」

義輔　「あいつには<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い見せしめだよ。あいつは<ruby><rb>女御更衣</rb><rt>によごかうい</rt></ruby>でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしてやる方が好い。」

範実　「へええ、君も孔子の御弟子か？」

義輔　「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね？」

範実　「さうばかりも行かないからね。<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか？」

義輔　「ぢや又外に誰が負ふのだね？」

範実　「それは女に負はせるのさ。」

義輔　「女に負はせるのは可哀さうだよ。」

範実　「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか？」

義輔　「しかし平中が<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いたのだからな。」

範実　「男は戦場に太刀打ちをするが、女は<ruby><rb>寝首</rb><rt>ねくび</rt></ruby>しか<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」

義輔　「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう？　我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」

範実　「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる因果か知らないが、互に<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」

義輔　「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の<ruby><rb>鰌</rb><rt>どぢやう</rt></ruby>も竜になるだらう。」

範実　「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。」

義輔　「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか？　たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の<ruby><rb>誦経</rb><rt>ずきやう</rt></ruby>を聞けば――」

範実　「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」

義輔　「ぢや平中とは違ふぢやないか？　あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」

範実　「それは我々にはわからない筈だ。仮名も<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか？　<ruby><rb>信心気</rb><rt>しんじんき</rt></ruby>のちつともないものには、空海上人の<ruby><rb>誦経</rb><rt>ずきやう</rt></ruby>よりも、<ruby><rb>傀儡</rb><rt>くぐつ</rt></ruby>の歌の方が面白いかも知れない。天才の<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」

義輔　「それは君の云ふ通りだがね、平中<ruby><rb>尊者</rb><rt>そんじや</rt></ruby>の功徳なぞは、――」

範実　「平中の場合も同じぢやないか？　ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、――」

義輔　「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>も<ruby><rb>鎧武者</rb><rt>よろひむしや</rt></ruby>になつてしまふ。」

範実　「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」

義輔　「嫉妬深い？　へええ、これは意外だね。」

範実　「君は平中を責める程、<ruby><rb>淫奔</rb><rt>いんぽん</rt></ruby>な女を責めないぢやないか？　たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」

義輔　「ぢや君も平中になりたいかね？」

範実　「僕か？　僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も<ruby><rb>巫山</rb><rt>ふざん</rt></ruby>の<ruby><rb>神女</rb><rt>しんによ</rt></ruby>のやうな、<ruby><rb>人倫</rb><rt>じんりん</rt></ruby>を絶した美人の姿が、<ruby><rb>髣髴</rb><rt>はうふつ</rt></ruby>と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ<ruby><rb>蜃気楼</rb><rt>しんきろう</rt></ruby>は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き身をやつしに行くのだ。しかも<ruby><rb>末法</rb><rt>まつぽふ</rt></ruby>の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」

五　まりも美しとなげく男

<ruby><rb>平中</rb><rt>へいちゆう</rt></ruby>は独り寂しさうに、本院の侍従の<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>に近い、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の外の空には、<ruby><rb>簇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と緑を<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。

「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」

平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。

「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らしたかわからない。が、加茂の<ruby><rb>御社</rb><rt>みやしろ</rt></ruby>へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。<ruby><rb>清水</rb><rt>きよみづ</rt></ruby>の<ruby><rb>御寺</rb><rt>みてら</rt></ruby>の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れ<ruby><rb>死</rb><rt>じに</rt></ruby>に、死んでしまふのに相違ない。――」

平中は長い息をついた。

「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」

平中はかう考へながら、ふと<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>い視線を挙げた。

「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>童</rb><rt>わらは</rt></ruby>ではないか？」

あの利口さうな女の童は、<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby><ruby><rb>重</rb><rt>がさ</rt></ruby>ねの薄物の<ruby><rb>袙</rb><rt>あこめ</rt></ruby>に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か<ruby><rb>筐</rb><rt>はこ</rt></ruby>を隠してゐるのは、きつと侍従のした<ruby><rb>糞</rb><rt>まり</rt></ruby>を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、或大胆な決心が、稲妻のやうに<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>き渡つた。

平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。

「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」

平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、<ruby><rb>香染</rb><rt>かうぞめ</rt></ruby>の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきゑ</rt></ruby>である。

「この中に侍従の<ruby><rb>糞</rb><rt>まり</rt></ruby>がある。同時におれの命もある。……」

平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……

「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか？……」

平中は<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby><ruby><rb>沈吟</rb><rt>ちんぎん</rt></ruby>した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。

「平中！　平中！　お前は何と云ふ意気地なしだ？　あの雨夜を忘れたのか？　侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ！　立派に生きて見せろ！　侍従の<ruby><rb>糞</rb><rt>まり</rt></ruby>を見さへすれば、<ruby><rb>必</rb><rt>かならず</rt></ruby>お前は勝ち誇れるのだ。……」

平中は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちやうじ</rt></ruby>の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか？　いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもない、飛び切りの<ruby><rb>沈</rb><rt>ぢん</rt></ruby>の匂である。

「これはどうだ！　この水もやはり匂ふやうだが、――」

平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちやうじ</rt></ruby>を煮返した、上澄みの汁に相違ない。

「するとこいつも香木かな？」

平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも<ruby><rb>透</rb><rt>とほ</rt></ruby>る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、<ruby><rb>急</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。

「侍従！　お前は平中を殺したぞ！」

平中はかう<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、<ruby><rb>仏倒</rb><rt>ほとけだふ</rt></ruby>しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、<ruby><rb>紫摩金</rb><rt>しまごん</rt></ruby>の円光にとりまかれた儘、<ruby><rb>􃳕然</rb><rt>てんぜん</rt></ruby>と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……

（大正十年九月）