<ruby><rb>広東</rb><rt>かんとん</rt></ruby>に生れた<ruby><rb>孫逸仙等</rb><rt>そんいつせんら</rt></ruby>を除けば、目ぼしい支那の革命家は、――<ruby><rb>黄興</rb><rt>こうこう</rt></ruby>、<ruby><rb>蔡鍔</rb><rt>さいがく</rt></ruby>、<ruby><rb>宋教仁</rb><rt>そうきょうじん</rt></ruby>等はいずれも<ruby><rb>湖南</rb><rt>こなん</rt></ruby>に生れている。これは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby><ruby><rb>曾国藩</rb><rt>そうこくはん</rt></ruby>や<ruby><rb>張之洞</rb><rt>ちょうしどう</rt></ruby>の感化にもよったのであろう。しかしその感化を説明する為にはやはり湖南の民自身の負けぬ気の強いことも考えなければならぬ。僕は湖南へ旅行した時、偶然ちょっと小説じみた<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>の小事件に遭遇した。この小事件もことによると、情熱に富んだ湖南の民の面目を示すことになるのかも知れない。…………

＊　＊　＊　＊　＊

大正十年五月十六日の午後四時頃、僕の乗っていた<ruby><rb>沅江丸</rb><rt>げんこうまる</rt></ruby>は<ruby><rb>長沙</rb><rt>ちょうさ</rt></ruby>の桟橋へ横着けになった。

僕はその何分か前に甲板の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>へ<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかったまま、だんだん<ruby><rb>左舷</rb><rt>さげん</rt></ruby>へ迫って来る湖南の府城を眺めていた。高い曇天の山の前に白壁や<ruby><rb>瓦屋根</rb><rt>かわらやね</rt></ruby>を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>のあたりは新しい<ruby><rb>赤煉瓦</rb><rt>あかれんが</rt></ruby>の西洋家屋や<ruby><rb>葉柳</rb><rt>はやなぎ</rt></ruby>なども見えるだけに<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど<ruby><rb>飯田河岸</rb><rt>いいだがし</rt></ruby>と変らなかった。僕は当時<ruby><rb>長江</rb><rt>ちょうこう</rt></ruby>に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覚悟していた。しかしこう言う見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を与えたのに違いなかった。

沅江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った。同時に又<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>湘江</rb><rt>しょうこう</rt></ruby>の水もじりじり幅を縮めて行った。すると薄汚い支那人が一人、<ruby><rb>提籃</rb><rt>ていらん</rt></ruby>か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと桟橋へ飛び移った。それは実際人間よりも、<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>に近い早業だった。が、あっと思ううちに今度は<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>を横たえたのが見事に又水を<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り越えた。続いて二人、五人、八人、――見る見る僕の目の下はのべつに桟橋へ飛び移る無数の支那人に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まってしまった。と思うと船はいつの間にかもう赤煉瓦の西洋家屋や葉柳などの並んだ前にどっしりと横着けに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。

僕はやっと欄干を離れ、同じ「社」のＢさんを物色し出した。長沙に六年もいるＢさんはきょうも特に沅江丸へ出迎いに来てくれる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>になっていた。が、Ｂさんらしい姿は容易に僕には見つからなかった。のみならず<ruby><rb>舷梯</rb><rt>げんてい</rt></ruby>を上下するのは老若の支那人ばかりだった。彼等は互に押し合いへし合い、口々に何か騒いでいた。殊に一人の老紳士などは舷梯を下りざまにふり返りながら、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にいる<ruby><rb>苦力</rb><rt>クウリイ</rt></ruby>を<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ったりしていた。それは長江を<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って来た僕には決して珍しい見ものではなかった。けれども亦格別見慣れたことを長江に感謝したい見ものでもなかった。

僕はだんだん<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去来する埠頭の前後を眺めまわした。そこには肝腎のＢさんは勿論、日本人は一人も見当らなかった。しかし僕は桟橋の向うに、――枝のつまった葉柳の下に一人の支那美人を発見した。彼女は水色の<ruby><rb>夏衣裳</rb><rt>なついしょう</rt></ruby>の胸にメダルか何かをぶら下げた、如何にも子供らしい女だった。僕の目は或はそれだけでも彼女に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれたかも知れなかった。が、彼女はその上に高い甲板を見上げたまま、紅の濃い口もとに微笑を浮かべ、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>かに合い図でもするように半開きの扇をかざしていた。………

「おい、君。」

僕は驚いてふり返った。僕の後ろにはいつの間にか<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>大掛児</rb><rt>タアクアル</rt></ruby>を着た支那人が一人、顔中に<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせていた。僕はちょっとこの支那人の誰であるかがわからなかった。けれども<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち彼の顔に、――<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>彼の薄い<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>に旧友の一人を思い出した。

「やあ、君か。そうそう、君は湖南の<ruby><rb>産</rb><rt>うまれ</rt></ruby>だったっけね。」

「うん、ここに開業している。」

<ruby><rb>譚永年</rb><rt>たんえいねん</rt></ruby>は僕と同期に一高から東大の医科へはいった留学生中の才人だった。

「きょうは誰かの出迎いかい？」

「うん、誰かの、――誰だと思う？」

「僕の出迎いじゃないだろう？」

譚はちょっと口をすぼめ、ひょっとこに近い笑い顔をした。

「ところが君の出迎いなんだよ。Ｂさんは<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>五六日前からマラリア熱に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>っている。」

「じゃＢさんに頼まれたんだね？」

「頼まれないでも来るつもりだった。」

僕は彼の昔から愛想の好いのを思い出した。譚は僕等の寄宿舎生活中、誰にも<ruby><rb>悪感</rb><rt>あくかん</rt></ruby>を与えたことはなかった。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し又多少でも僕等の間に不評判になっていたとすれば、それはやはり同室だった菊池寛の言ったように余りに誰にもこれと言うほどの悪感を与えていないことだった。………

「だが君の厄介になるのは気の毒だな。僕は実は宿のこともＢさんに<ruby><rb>任</rb><rt>ま</rt></ruby>かせっきりになっているんだが、………」

「宿は日本人<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>に話してある。半月でも一月でも差支えない。」

「一月でも？　常談言っちゃいけない。僕は三晩泊めて貰えりゃ好いんだ。」

譚は驚いたと言うよりも急に愛嬌のない顔になった。

「たった三晩しか泊らないのか？」

「さあ、<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>の<ruby><rb>斬罪</rb><rt>ざんざい</rt></ruby>か何か見物でも出来りゃ格別だが、………」

僕はこう答えながら、内心長沙の人譚永年の顔をしかめるのを予想していた。しかし彼はもう一度愛想の好い顔に返ったぎり、少しもこだわらずに返事をした。

「じゃもう一週間前に来りゃ好いのに。あすこに少し空き地が見えるね。――」

それは赤煉瓦の西洋家屋の前、――丁度あの枝のつまった葉柳のある処に当っていた。が、さっきの支那美人はいつかもうそこには見えなくなっていた。

「あすこでこの間五人ばかり一時に首を<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>られたんだがね。そら、あの犬の歩いている処で、………」

「そりゃ惜しいことをしたな。」

「斬罪だけは日本じゃ見る<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>に<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かない。」

譚は大声に笑った後、ちょっと<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になったと思うと、無造作に<ruby><rb>話頭</rb><rt>わとう</rt></ruby>を一転した。

「じゃそろそろ出かけようか？　車ももうあすこに待たせてあるんだ。」

＊　＊　＊　＊　＊

僕は翌々十八日の午後、折角の譚の勧めに従い、湘江を隔てた<ruby><rb>嶽麓</rb><rt>がくろく</rt></ruby>へ<ruby><rb>麓山寺</rb><rt>ろくざんじ</rt></ruby>や愛晩亭を見物に出かけた。

僕等を乗せたモオタア・ボオトは在留日本人の「中の島」と呼ぶ<ruby><rb>三角洲</rb><rt>さんかくす</rt></ruby>を左にしながら、二時前後の湘江を走って行った。からりと晴れ上った五月の天気は両岸の風景を鮮かにしていた。僕等の右に連った長沙も白壁や瓦屋根の光っているだけにきのうほど<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>には見えなかった。まして<ruby><rb>柑類</rb><rt>かんるい</rt></ruby>の木の茂った、石垣の長い三角洲はところどころに小ぢんまりした西洋家屋を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせたり、その又西洋家屋の間に綱に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>った洗濯ものを<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせたり、如何にも<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きと横たわっていた。

<ruby><rb>譚</rb><rt>たん</rt></ruby>は若い船頭に命令を与える必要上、ボオトの<ruby><rb>艫</rb><rt>へさき</rt></ruby>に陣どっていた。が、命令を与えるよりものべつに僕に話しかけていた。

「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使い給え。………その右にあるのは日清汽船会社。」

僕は葉巻を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る<ruby><rb>湘江</rb><rt>しょうこう</rt></ruby>の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>僕にも不快ではなかった。

「この<ruby><rb>三角洲</rb><rt>さんかくす</rt></ruby>は<ruby><rb>橘洲</rb><rt>きっしゅう</rt></ruby>と言ってね。………」

「ああ、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が鳴いている。」

「鳶が？………うん、鳶も沢山いる。そら、いつか<ruby><rb>張継尭</rb><rt>ちょうけいぎょう</rt></ruby>と<ruby><rb>譚延闓</rb><rt>たんえんがい</rt></ruby>との戦争があった時だね、あの時にゃ張の部下の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>がいくつもこの川へ流れて来たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて来てね………」

丁度譚のこう言いかけた時、僕等の乗っていたモオタア・ボオトはやはり一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>のモオタア・ボオトと五六間隔ててすれ違った。それは支那服の青年の外にも見事に<ruby><rb>粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>った支那美人を二三人乗せたボオトだった。僕はこれ等の支那美人よりも<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろそのボオトの<ruby><rb>大辷</rb><rt>おおすべ</rt></ruby>りに<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>を越えるのを見守っていた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>にでも<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったように<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>と僕にオペラ・グラスを渡した。

「あの女を見給え。あの<ruby><rb>艫</rb><rt>へさき</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている女を。」

僕は誰にでも<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみならずそのボオトの残した浪はこちらの舟ばたを洗いながら、僕の手をカフスまでずぶ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れにしていた。

「なぜ？」

「まあ、なぜでも好いから、あの女を見給え。」

「美人かい？」

「ああ、美人だ。美人だ。」

彼等を乗せたモオタア・ボオトはいつかもう十間ほど離れていた。僕はやっと体を<ruby><rb>扭</rb><rt>ね</rt></ruby>じまげ、オペラ・グラスの度を調節した。同時に又突然向うのボオトのぐいと<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさりをする錯覚を感じた。「あの女」は円い風景の中にちょっと顔を横にしたまま、誰かの話を聞いていると見え、時々微笑を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしていた。<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>の四角い彼女の顔は唯目の大きいと言う以外に格別美しいとは思われなかった。が、彼女の前髪や薄い黄色の<ruby><rb>夏衣裳</rb><rt>なついしょう</rt></ruby>の川風に波を打っているのは遠目にも<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に違いなかった。

「見えたか？」

「うん、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>まで見える。しかしあんまり美人じゃないな。」

僕は何か得意らしい譚ともう一度顔を向い合せた。

「あの女がどうかしたのかい？」

譚はふだんのおしゃべりにも似ず、悠々と<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>に火をつけてから、あべこべに僕に問い返した。

「きのう僕はそう言ったね、――あの桟橋の前の空き地で五人ばかり<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>の首を<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>ったって？」

「うん、それは覚えている。」

「その仲間の頭目は<ruby><rb>黄</rb><rt>こう</rt></ruby>六一と言ってね。――ああ、そいつも斬られたんだ。――これが又右の手には小銃を持ち、左の手にはピストルを持って一時に二人射殺すと言う、<ruby><rb>湖南</rb><rt>こなん</rt></ruby>でも評判の悪党だったんだがね。………」

譚は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち黄六一の一生の悪業を話し出した。彼の話は大部分新聞記事の受け売りらしかった。しかし幸い血の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>よりもロマンティックな色彩に富んだものだった。黄の平生密輸入者たちに<ruby><rb>黄老爺</rb><rt>こうろうや</rt></ruby>と呼ばれていた話、又<ruby><rb>湘譚</rb><rt>しょうたん</rt></ruby>の或<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>から三千元を強奪した話、又<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>に弾丸を受けた<ruby><rb>樊阿七</rb><rt>はんあしち</rt></ruby>と言う副頭目を肩に<ruby><rb>蘆林譚</rb><rt>ろりんたん</rt></ruby>を泳ぎ越した話、又<ruby><rb>岳州</rb><rt>がくしゅう</rt></ruby>の或山道に十二人の歩兵を射倒した話、――譚は殆ど黄六一を崇拝しているのかと思う位、熱心にそんなことを話しつづけた。

「何しろ君、そいつは殺人<ruby><rb>擄人</rb><rt>りょじん</rt></ruby>百十七件と言うんだからね。」

彼は時々話の合い間にこう言う註釈も加えたりした。僕も勿論僕自身に何の損害も受けない限り、決して土匪は嫌いではなかった。が、いずれも大差のない武勇談ばかり聞かせられるのには多少の退屈を感じ出した。

「そこであの女はどうしたんだね？」

譚はやっとにやにやしながら、内心僕の予想したのと余り変らない返事をした。

「あの女は黄の情婦だったんだよ。」

僕は彼の註文通り、驚嘆する<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかった。けれども浮かない顔をしたまま、葉巻を銜えているのも気の毒だった。

「ふん、土匪も<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れたもんだね。」

「何、黄などは知れたものさ。何しろ前清の<ruby><rb>末年</rb><rt>ばつねん</rt></ruby>にいた<ruby><rb>強盗蔡</rb><rt>ごうとうさい</rt></ruby>などと言うやつは月収一万元を越していたんだからね。こいつは<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>の租界の外に堂々たる洋館を構えていたもんだ。細君は勿論、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>までも、………」

「じゃあの女は芸者か何かかい？」

「うん、<ruby><rb>玉蘭</rb><rt>ぎょくらん</rt></ruby>と言う芸者でね、あれでも黄の生きていた時には中々幅を利かしていたもんだよ。………」

譚は何か思い出したように<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだまま、薄笑いばかり浮かべていた。が、やがて巻煙草を投げると、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にこう言う相談をしかけた。

「<ruby><rb>嶽麓</rb><rt>がくろく</rt></ruby>には湘南工業学校と言う学校も一つあるんだがね、そいつをまっ先に参観しようじゃないか？」

「うん、見ても差支えない。」

僕は煮え切らない返事をした。それはついきのうの朝、或女学校を参観に出かけ、存外<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい排日的空気に不快を感じていた為だった。しかし僕等を乗せたボオトは僕の気もちなどには<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>せず、「中の島」の鼻を大まわりに<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>晴れやかな水の上をまっ<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に嶽麓へ近づいて行った。………

＊　＊　＊　＊　＊

僕はやはり同じ日の晩、或<ruby><rb>妓館</rb><rt>ぎかん</rt></ruby>の<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を譚と一しょに上って行った。

僕等の通った二階の部屋は中央に据えたテエブルは勿論、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>も、<ruby><rb>唾壺</rb><rt>たんつぼ</rt></ruby>も、<ruby><rb>衣裳箪笥</rb><rt>いしょうだんす</rt></ruby>も、上海や<ruby><rb>漢口</rb><rt>かんこう</rt></ruby>の妓館にあるのと<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど変りは見えなかった。が、この部屋の天井の隅には針金細工の<ruby><rb>鳥籠</rb><rt>とりかご</rt></ruby>が一つ、<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>がらすまど</rt></ruby>の側にぶら下げてあった。その又籠の中には<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>が二匹、全然何の音も立てずに止まり木を上ったり下ったりしていた。それは窓や戸口に下げた、赤い<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>と一しょに珍しい見ものに違いなかった。しかし少くとも僕の目には気味の悪い見ものにも違いなかった。

この部屋に僕等を迎えたのは<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りに肥った<ruby><rb>鴇婦</rb><rt>ポオプウ</rt></ruby>だった。譚は彼女を見るが早いか、雄弁に何か話し出した。彼女も<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>そのもののように滑かに彼と応対していた。が、彼等の話している言葉は一言も僕にはわからなかった。（これは勿論僕自身の支那語に通じていない為である。しかし元来<ruby><rb>長沙</rb><rt>ちょうさ</rt></ruby>の言葉は<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>官話に通じている耳にも決して容易にはわからないらしい。）

譚は鴇婦と話した<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、大きい<ruby><rb>紅木</rb><rt>こうぼく</rt></ruby>のテエブルヘ僕と差向いに腰を下ろした。それから彼女の運んで来た活版刷の局票の上へ芸者の名前を書きはじめた。<ruby><rb>張湘娥</rb><rt>ちょうしょうが</rt></ruby>、<ruby><rb>王巧雲</rb><rt>おうこううん</rt></ruby>、<ruby><rb>含芳</rb><rt>がんほう</rt></ruby>、<ruby><rb>酔玉楼</rb><rt>すいぎょくろう</rt></ruby>、<ruby><rb>愛媛々</rb><rt>あいえんえん</rt></ruby>、――それ等はいずれも旅行者の僕には支那小説の女主人公にふさわしい名前ばかりだった。

「玉蘭も呼ぼうか？」

僕は返事をしたいにもしろ、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>鴇婦の火を擦ってくれる巻煙草の一本を吸いつけていた。が、譚はテエブル越しにちょっと僕の顔を見たぎり、無頓着に筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ったらしかった。

そこへ<ruby><rb>濶達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>にはいって来たのは細い金縁の眼鏡をかけた、血色の好い円顔の芸者だった。彼女は白い<ruby><rb>夏衣裳</rb><rt>なついしょう</rt></ruby>にダイアモンドを幾つも輝かせていた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい体格も<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>えていた。僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は実際この部屋の空気と、――殊に<ruby><rb>鳥籠</rb><rt>とりかご</rt></ruby>の中の<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>とは<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>わない存在に違いなかった。

彼女はちょっと目礼したぎり、<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>るように<ruby><rb>譚</rb><rt>たん</rt></ruby>の側へ歩み寄った。しかも彼の隣に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ると、片手を彼の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置き、<ruby><rb>宛囀</rb><rt>えんてん</rt></ruby>と何かしゃべり出した。譚も、――譚は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>得意そうに<ruby><rb>是了</rb><rt>シイラ</rt></ruby><ruby><rb>是了</rb><rt>シイラ</rt></ruby>などと答えていた。

「これはこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいる<ruby><rb>芸者</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>でね、<ruby><rb>林大嬌</rb><rt>りんたいきょう</rt></ruby>と言う人だよ。」

僕は譚にこう言われた時、おのずから彼の<ruby><rb>長沙</rb><rt>ちょうさ</rt></ruby>にも少ない金持の子だったのを思い出した。

それから十分ばかりたった後、僕等はやはり向い合ったまま、木の子だの鶏だの白菜だのの多い<ruby><rb>四川料理</rb><rt>しせんりょうり</rt></ruby>の晩飯をはじめていた。芸者はもう林大嬌の外にも大勢僕等をとり巻いていた。のみならず彼等の後ろには鳥打帽子などをかぶった男も五六人<ruby><rb>胡弓</rb><rt>こきゅう</rt></ruby>を構えていた。芸者は時々<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ったなり、丁度胡弓の音に吊られるように甲高い<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>をうたい出した。それは僕にも必ずしも全然面白味のないものではなかった。しかし僕は<ruby><rb>京調</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>の党馬や<ruby><rb>西皮調</rb><rt>せいひちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>汾河湾</rb><rt>ふんかわん</rt></ruby>よりも僕の左に坐った芸者に<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに興味を感じていた。

僕の左に坐ったのは僕のおととい<ruby><rb>沅江丸</rb><rt>げんこうまる</rt></ruby>の上から<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>した支那美人だった。彼女は水色の夏衣裳の胸に<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>メダルをぶら下げていた。が、間近に来たのを見ると、たとい病的な弱々しさはあっても、存外ういういしい処はなかった。僕は彼女の横顔を見ながら、いつか日かげの土に育った、小さい球根を考えたりしていた。

「おい、君の隣に坐っているのはね、――」

譚は<ruby><rb>老酒</rb><rt>ラオチュ</rt></ruby>に赤らんだ顔に<ruby><rb>人懐</rb><rt>ひとなつ</rt></ruby>こい微笑を浮かべたまま、<ruby><rb>蝦</rb><rt>えび</rt></ruby>を盛り上げた皿越しに突然僕へ声をかけた。

「それは含芳と言う人だよ」

僕は譚の顔を見ると、なぜか彼にはおとといのことを打ち明ける心もちを失ってしまった。

「この人の言葉は<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だね。Ｒの音などは<ruby><rb>仏蘭西人</rb><rt>フランスじん</rt></ruby>のようだ。」

「うん、その人は<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>生れだから。」

僕等の話題になったことは含芳自身にもわかったらしかった。彼女は現に僕の顔へ時々素早い目をやりながら、早口に譚と問答をし出した。けれども<ruby><rb>唖</rb><rt>おうし</rt></ruby>に変らない僕はこの時もやはりいつもの通り、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>二人の顔色を見比べているより外はなかった。

「君はいつ長沙へ来たと<ruby><rb>尋</rb><rt>き</rt></ruby>くからね、おととい来たばかりだと返事をすると、その人もおとといは<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>かの出迎いに<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>まで行ったと言っているんだ。」

譚はこう言う通訳をした<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、もう一度含芳へ話しかけた。が、彼女は<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだきり、子供のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いやいや</span>をしていた。

「ふん、どうしても白状しない。誰の出迎いに行ったと尋いているんだが。……」

すると突然林大嬌は持っていた<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>に含芳を指さし、<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るように何か言い放った。含芳は確かにはっとしたと見え、いきなり僕の膝を抑えるようにした。しかしやっと微笑したと思うと、すぐに又一こと言い返した。僕は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>この芝居に、――或はこの芝居のかげになった、存外深いらしい彼等の敵意に好奇心を感ぜずにはいられなかった。

「おい、何と言ったんだい？」

「その人は誰の出迎いでもない、お母さんの出迎いに行ったんだと言うんだ。何、今ここにいる先生がね、×××と言う長沙の役者の出迎いか何かだろうと言ったもんだから。」（僕は<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>その名前だけはノオトにとる<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>に行かなかった。）

「お母さん？」

「お母さんと言うのは義理のお母さんだよ。つまりその人だの<ruby><rb>玉蘭</rb><rt>ぎょくらん</rt></ruby>だのを抱えている<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>の<ruby><rb>鴇婦</rb><rt>ポオプウ</rt></ruby>のことだね。」

譚は僕の問を片づけると、老酒を一杯<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ってから、急に<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>と弁じ出した。それは僕には<ruby><rb>這箇</rb><rt>チイコ</rt></ruby><ruby><rb>這箇</rb><rt>チイコ</rt></ruby>の外には一こともわからない話だった。が、芸者や鴇婦などの熱心に聞いているだけでも、何か興味のあることらしかった。のみならず時々僕の顔へ彼等の目をやる所を見ると、少くとも幾分かは僕自身にも関係を持ったことらしかった。僕は人目には平然と巻煙草を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えていたものの、だんだん<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じはじめた。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>！　何を話しているんだ？」

「何、きょう<ruby><rb>嶽麓</rb><rt>がくろく</rt></ruby>へ出かける途中、玉蘭に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったことを話しているんだ。それから……」

譚は<ruby><rb>上脣</rb><rt>うわくちびる</rt></ruby>を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めながら、前よりも上機嫌につけ加えた。

「それから君は斬罪と言うものを見たがっていることを話しているんだ。」

「何だ、つまらない。」

僕はこう言う説明を聞いても、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに顔を見せない玉蘭は勿論、彼女の友だちの含芳にも格別気の毒とは思わなかった。けれども含芳の顔を見た時、理智的には彼女の心もちを<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>はっきりと了解した。彼女は<ruby><rb>耳環</rb><rt>みみわ</rt></ruby>を震わせながら、テエブルのかげになった膝の上に<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>を結んだり解いたりしていた。

「じゃこれもつまらないか？」

譚は後にいた鴇婦の手から小さい紙包みを一つ受け取り、得々とそれをひろげだした。その又紙の中には<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>位大きい、チョコレェトの色に干からびた、妙なものが一枚包んであった。

「何だ、それは？」

「これか？　これは唯のビスケットだがね。………そら、さっき<ruby><rb>黄</rb><rt>こう</rt></ruby>六一と云う<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>の頭目の話をしたろう？　あの黄の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本じゃ見ることは出来ない。」

「そんなものを又何にするんだ？」

「何にするもんか？　食うだけだよ。この辺じゃ未だにこれを食えば、無病息災になると思っているんだ。」

譚は晴れ晴れと微笑したまま、丁度この時テエブルを離れた二三人の芸者に<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>した。が、含芳の立ちかかるのを見ると、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>みを乞うように何か笑ったりしゃべったりした。のみならずしまいには片手を挙げ、正面の僕を指さしたりした。含芳はちょっとためらった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、もう一度やっと微笑を浮かべ、テエブルの前に腰を下した。僕は大いに<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>かったから、一座の人目に触れないようにそっと彼女の手を握っていてやった。

「こんな迷信こそ国辱だね。僕などは医者と言う職業上、ずいぶんやかましくも言っているんだが………」

「それは斬罪があるからだけさ。<ruby><rb>脳味噌</rb><rt>のうみそ</rt></ruby>の黒焼きなどは日本でも<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んでいる。」

「まさか。」

「いや、まさかじゃない。僕も嚥んだ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も子供のうちだったが。………」

僕はこう言う話の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に玉蘭の来たのに気づいていた。彼女は鴇婦と立ち話をした後、含芳の隣に腰を下ろした。

譚は玉蘭の来たのを見ると、又僕をそっちのけに彼女に<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>をふりまき出した。彼女は外光に眺めるよりも幾分かは美しいのに違いなかった。少くとも彼女の笑う度にエナメルのように歯の光るのは見事だったのに違いなかった。しかし僕はその歯並みにおのずから栗鼠を思い出した。栗鼠は今でも不相変、赤い<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>を下げた<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>に近い鳥籠の中に二匹とも滑らかに上下していた。

「じゃ一つこれをどうだ？」

譚はビスケットを折って見せた。ビスケットは折り口も同じ色だった。

「莫迦を言え。」

僕は勿論首を振った。譚は大声に笑ってから、今度は隣の林大嬌ヘビスケットの一片を勧めようとした。林大嬌はちょっと顔をしかめ、斜めに彼の手を押し戻した。彼は同じ<ruby><rb>常談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>を何人かの芸者と繰り返した。が、そのうちにいつの間にか、やはり愛想の好い顔をしたまま、身動きもしない<ruby><rb>玉蘭</rb><rt>ぎょくらん</rt></ruby>の前へ褐色の一片を突きつけていた。

僕はちょっとそのビスケットの<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>だけ<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いで見たい誘惑を感じた。

「おい、僕にもそれを見せてくれ。」

「うん、こっちにまだ半分ある。」

<ruby><rb>譚</rb><rt>たん</rt></ruby>は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど左利きのように残りの一片を投げてよこした。僕は小皿や<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>の間からその一片を拾い上げた。けれども折角拾い上げると、急に嗅いで見る気もなくなったから、黙ってテエブルの下へ落してしまった。

すると玉蘭は譚の顔を見つめ、二こと三こと問答をした。それからビスケットを受け取った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、彼女を見守った一座を相手に早口に何かしゃべり出した。

「どうだ、通訳しようか？」

譚はテエブルに<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>をつき、そろそろ<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>の怪しい舌にこう僕へ話しかけた。

「うん、通訳してくれ。」

「好いか？　逐語訳だよ。わたしは喜んでわたしの愛する………<ruby><rb>黄老爺</rb><rt>こうろうや</rt></ruby>の血を味わいます。………」

僕は体の震えるのを感じた。それは僕の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を抑えた<ruby><rb>含芳</rb><rt>がんほう</rt></ruby>の手の震えるのだった。

「あなたがたもどうかわたしのように、………あなたがたの愛する人を、………」

玉蘭は譚の言葉の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にいつかもう美しい歯にビスケットの一片を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みはじめていた。………

＊　＊　＊　＊　＊

僕は三泊の予定通り、五月十九日の午後五時頃、前と同じ<ruby><rb>沅江丸</rb><rt>げんこうまる</rt></ruby>の甲板の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>によりかかっていた。白壁や<ruby><rb>瓦屋根</rb><rt>かわらやね</rt></ruby>を積み上げた<ruby><rb>長沙</rb><rt>ちょうさ</rt></ruby>は何か僕には無気味だった。それは次第に迫って来る暮色の影響に違いなかった。僕は葉巻を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたまま、何度もあの<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>の好い譚永年の顔を思い出した。が、譚は何の為か、僕の見送りには立たなかった。

沅江丸の長沙を発したのは確か七時か七時半だった。僕は食事をすませた後、薄暗い船室の電灯の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に僕の滞在費を計算し出した。僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の<ruby><rb>流蘇</rb><rt>ふさ</rt></ruby>を垂らしていた。この扇は僕のここへ来る前に<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>かの置き忘れて行ったものだった。僕は鉛筆を動かしながら、時々又譚の顔を思い出した。彼の玉蘭を苦しめた理由ははっきりとは僕にもわからなかった。しかし僕の滞在費は――僕は<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに覚えている、日本の金に換算すると、丁度十二円五十銭だった。