Soranoha

或敵打の話

あるかたきうちのはなし

芥川 竜之介

発端

肥後ひごの細川家ほそかわけの家中かちゅうに、田岡甚太夫たおかじんだゆうと云う侍さむらいがいた。これは以前日向ひゅうがの伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭ばんがしらに陞のぼっていた内藤三左衛門ないとうさんざえもんの推薦で、新知しんち百五十石こくに召し出されたのであった。

ところが寛文かんぶん七年の春、家中かちゅうの武芸の仕合しあいがあった時、彼は表芸おもてげいの槍術そうじゅつで、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守綱利えっちゅうのかみつなとし自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望しょもうした。甚太夫は竹刀しないを執とって、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流しんかげりゅうの剣術を指南している瀬沼兵衛せぬまひょうえが相手になった。甚太夫は指南番の面目めんぼくを思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎にくくなった。そこで甚太夫がわざと受太刀うけだちになった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く喉のどを突かれて、仰向あおむけにそこへ倒れてしまった。その容子ようすがいかにも見苦しかった。綱利つなとしは彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後のちは、甚はなはだ不興気ふきょうげな顔をしたまま、一言いちごんも彼を犒ねぎらわなかった。

甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口かげぐちの的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀かわいや剣術は竹刀しないさえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂うわさが誰云うとなく、たちまち家中かちゅうに広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬しっとや羨望せんぼうも交まじっていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門ないとうさんざえもんの身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番瀬沼兵衛せぬまひょうえと三本勝負をしたいと云う願書ねがいしょを出した。

日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合しあいをする事になった。始はじめは甚太夫が兵衛の小手こてを打った。二度目は兵衛が甚太夫の面めんを打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十石こくの加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫みみずばれになった腕を撫なでながら、悄々すごすご綱利の前を退いた。

それから三四日経ったある雨の夜よ、加納平太郎かのうへいたろうと云う同家中かちゅうの侍が、西岸寺さいがんじの塀外へいそとで暗打ちに遇あった。平太郎は知行ちぎょう二百石の側役そばやくで、算筆さんぴつに達した老人であったが、平生へいぜいの行状から推して見ても、恨うらみを受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天ちくてんした事が知れると共に、始めてその敵かたきが明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好せいかっこうはよく似寄っていた。その上定紋じょうもんは二人とも、同じ丸に抱だき明姜みょうがであった。兵衛はまず供の仲間ちゅうげんが、雨の夜路を照らしている提灯ちょうちんの紋に欺あざむかれ、それから合羽かっぱに傘かさをかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽そこつにもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。

平太郎には当時十七歳の、求馬もとめと云う嫡子ちゃくしがあった。求馬は早速公おおやけの許ゆるしを得て、江越喜三郎えごしきさぶろうと云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打かたきうちの旅に上のぼる事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免まぬかれなかったのか、彼もまた後見うしろみのために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友ねんゆうの約があった、津崎左近つざきさこんと云う侍も、同じく助太刀すけだちの儀を願い出した。綱利は奇特きどくの事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。

求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の初七日しょなぬかをすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本くまもとの城下を後にした。

一

津崎左近つざきさこんは助太刀の請こいを却しりぞけられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬もとめと取換した起請文きしょうもんの面おもてを反故ほごにするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋輩ほうばいたちに、後指うしろゆびをさされはしないかと云う、懸念けねんも満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、念友ねんゆうの求馬を唯一人甚太夫じんだゆうに託すと云う事であった。そこで彼は敵打かたきうちの一行いっこうが熊本の城下を離れた夜よ、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後あとを慕うべく、双親ふたおやにも告げず家出をした。

彼は国境くにざかいを離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅さんえきの茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重いくえにも同道を懇願した。甚太夫は始はじめは苦々にがにがしげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易よういに承うけ引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我がを折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎きさぶろうの取りなしを機会しおにして、左近の同道を承諾した。まだ前髪まえがみの残っている、女のような非力ひりきの求馬は、左近をも一行に加えたい気色けしきを隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返くりかえしていた。

一行四人は兵衛ひょうえの妹壻いもうとむこが浅野家あさのけの家中にある事を知っていたから、まず文字もじが関せきの瀬戸せとを渡って、中国街道ちゅうごくかいどうをはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、敵かたきの在処ありかを探さぐる内に、家中の侍さむらいの家へ出入でいりする女の針立はりたての世間話から、兵衛は一度広島へ来て後のち、妹壻の知るべがある予州よしゅう松山まつやまへ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船いよぶねの便びんを求めて、寛文かんぶん七年の夏の最中もなか、恙つつがなく松山の城下へはいった。

松山に渡った一行は、毎日編笠あみがさを深くして、敵の行方ゆくえを探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露あらわさなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子ぼろんじの姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁ゆかりもない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞ふさいでいた藻もの下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺うかがって歩いた。敵打の初太刀しょだちは自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親しゅうおやをも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目めんぼくが立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。

松山へ来てから二月ふたつき余り後のち、左近はその甲斐かいがあって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠しのびかごにつき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇あった。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠かごの中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌かおかたちは瀬沼兵衛に紛まぎれなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退のいてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行ゆく方えをつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗なのりをかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟とっさに決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛せぬまひょうえ、加納求馬かのうもとめが兄分、津崎左近が助太刀すけだち覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇ちゅうちょした。その途端に侍の手が刀の柄前つかまえにかかったと思うと、重かさね厚あつの大刀が大袈裟おおげさに左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深まぶかくかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。

二

左近さこんを打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、敵かたき兵衛ひょうえの行ゆく方えを探って、五畿内ごきないから東海道をほとんど隈くまなく遍歴した。が、兵衛の消息は、杳ようとして再び聞えなかった。

寛文かんぶん九年の秋、一行は落ちかかる雁かりと共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤ろうにゃくきせんが集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町うらまちに仮の宿を定めてから甚太夫じんだゆうは怪しい謡うたいを唱って合力ごうりきを請う浪人になり、求馬もとめは小間物こまものの箱を背負せおって町家ちょうかを廻る商人あきゅうどに化け、喜三郎きさぶろうは旗本はたもと能勢惣右衛門のせそうえもんへ年期切ねんきぎりの草履取ぞうりとりにはいった。

求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目ちょうもくを貰いながら、根気よく盛り場を窺うかがいまわって、さらに倦うむ気色けしきも示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に憔やつれた顔を隠して、秋晴れの日本橋にほんばしを渡る時でも、結局彼等の敵打かたきうちは徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。

その内に筑波颪つくばおろしがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪かぜが元になって、時々熱が昂たかぶるようになった。が、彼は悪感おかんを冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商あきないに出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主しゅう思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。

やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の廓くるわに通い出した。相方あいかたは和泉屋いずみやの楓かえでと云う、所謂いわゆる散茶女郎さんちゃじょろうの一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。

渋谷しぶやの金王桜こんおうざくらの評判が、洗湯せんとうの二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打かたきうちの大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江まつえ藩の侍たちと一しょに、一月ひとつきばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸さいわい、その侍の相方あいかたの籤くじを引いた楓は、面体めんていから持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日中うちに、江戸を立って雲州うんしゅう松江まつえへ赴おもむこうとしている事なぞも、ちらりと小耳こみみに挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔らんすいした。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥おびただしく血を吐いた。

求馬は翌日から枕についた。が、何故なぜか敵かたきの行方ゆくえが略ほぼわかった事は、一言ひとことも甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞そでごいに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日葺屋町ふきやちょうの芝居小屋などを徘徊はいかいして、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣くわえたまま、もう火のはいった行燈あんどうの前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天ぎょうてんしながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃じじんの仔細しさいとが認したためてあった。「私儀わたくしぎ柔弱にゅうじゃく多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間そうろうあいだ……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心とうしんの火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦にがい顔を照らした。

書面は求馬が今年ことしの春、楓かえでと二世にせの約束をした起請文きしょうもんの一枚であった。

三

寛文かんぶん十年の夏、甚太夫じんだゆうは喜三郎きさぶろうと共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋おおはしの上に立って、宍道湖しんじこの天に群むらがっている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。

彼等はまず京橋きょうばし界隈かいわいの旅籠はたごに宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家まつだいらけの侍に不伝流ふでんりゅうの指南をしている、恩地小左衛門おんちこざえもんと云う侍の屋敷に、兵衛ひょうえらしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎へいたろう一人の敵かたきではなく、左近さこんの敵でもあれば、求馬もとめの敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗なめさせた彼自身の怨敵おんてきであった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。

しかし恩地小左衛門は、山陰さんいんに名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足しゅそくとなる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴はやりながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。

機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠はたごの庭には、もう百日紅ひゃくじつこうの花が散って、踏石ふみいしに落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日しょうつきめいにちを迎えた。喜三郎はその夜よ、近くにある祥光院しょうこういんの門を敲たたいて和尚おしょうに仏事を修して貰った。が、万一を慮おもんぱかって、左近の俗名ぞくみょうは洩もらさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌いはいがあった。喜三郎は仏事が終ってから、何気なにげない風を装よそおって、所化しょけにその位牌の由縁ゆかりを尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人びとが、月に二度の命日には必ず回向えこうに来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納かのう親子や左近の霊が彼等に冥助みょうじょを与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。

甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣てらもうでに気づかなかった事を口惜くちおしく思った。「もう八日ようか経てば、大檀那様おおだんなさまの御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈あんどうを囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提ぼだいを弔とむらっている兵衛の心を酌くむ事なぞは、二人とも全然忘却していた。

平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃ねたばを合せながら、心静しずかにその日を待った。今はもう敵打かたきうちは、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望ほんもうを遂とげた後のちの、逃のき口くちまで思い定めていた。

ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈あんどうの光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革しょうぶがわの裁付たっつけに黒紬くろつむぎの袷あわせを重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷たすきをかけた。差料さしりょうは長谷部則長はせべのりながの刀に来国俊らいくにとしの脇差わきざしであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌はだには着込みを纏まとっていた。二人は冷酒ひやざけの盃を換かわしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠はたごの門かどを出た。

外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院しょうこういんの門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝けさの勘定は四文しもん釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高たかが四文のはした銭ぜにではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目ちょうもくは元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代まつだいまでの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。

が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧おぼろげな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗なつめの葉が黄ばんでいる寺の塀外へいそとを徘徊はいかいしながら、勇んで兵衛の参詣を待った。

しかしかれこれ午ひる近くなっても、未いまだに兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。

二人は惴はやる心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食はみ落す鴉からすの声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉もんで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭かしらを振って、許す気色けしきも見せなかった。

やがて寺の門の空には、這はい塞ふさがった雲の間に、疎まばらな星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念しゅうねく兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更よふけに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。

とうとう初夜しょやの鐘が鳴った。それから二更にこうの鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。

が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。

大団円

甚太夫じんだゆう主従は宿を変えて、さらに兵衛ひょうえをつけ狙った。が、その後ご四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉としゃを催し出した。喜三郎きさぶろうは心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧おそれて、どうしてもそれを許さなかった。

甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈しんみゃくを請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠はたごの主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技ぎを売っている、松木蘭袋まつきらんたいと云う医者を呼びにやった。

蘭袋は向井霊蘭むかいれいらんの門に学んだ、神方しんぽうの名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌ごうけつはだの所もあって、日夜杯さかずきに親みながらさらに黄白こうはくを意としなかった。「天雲あまぐもの上をかけるも谷水をわたるも鶴つるのつとめなりけり」――こう自みずから歌ったほど、彼の薬を請うものは、上かみは一藩の老職から、下しもは露命も繋つなぎ難い乞食こじき非人ひにんにまで及んでいた。

蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病りびょうと云う見立てを下くだした。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒なおらなかった。喜三郎は看病の傍かたわら、ひたすら諸々もろもろの仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮にる煙を嗅かぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。

秋は益ますます深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡しばしば空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間ちゅうげんと落ち合った。それが恩地小左衛門おんちこざえもんの屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子うちでしと話している言葉にも自おのずから明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染かおなじみの内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。

それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の容子ようすを探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って詣もうでなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵かたきの打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜おとしたら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕まくらを噛かみながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵かたき瀬沼兵衛せぬまひょうえの快癒も祈らざるを得なかった。

が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄こくはくであった。彼の病は重おもりに重って、蘭袋らんたいの薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容態ようだいになった。彼はそう云う苦痛の中にも、執念しゅうねく敵打かたきうちの望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟しんぎんの中に、しばしば八幡大菩薩はちまんだいぼさつと云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡もたげる事さえ出来なかった。

その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱かたじけなく存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床とこの上に起直おきなおって、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷うなずいた。すると甚太夫は途切とぎれ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙ねらう敵打の仔細しさいを話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子ようすがなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘あえぎながら、「身ども今生こんじょうの思い出には、兵衛の容態ようだいが承うけたまわりとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝こんちょう寅とらの上刻じょうこくに、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶やつれた頬ほおへ、冷たく涙の痕あとが見えた。「兵衛――兵衛は冥加みょうがな奴でござる。」――甚太夫は口惜くちおしそうに呟つぶやいたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭かしらを垂れた。そうしてついに空しくなった。……

寛文かんぶん十年陰暦いんれき十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上のぼった。彼の振分ふりわけの行李こうりの中には、求馬もとめ左近さこん甚太夫じんだゆうの三人の遺髪がはいっていた。

後談

寛文かんぶん十一年の正月、雲州うんしゅう松江まつえ祥光院しょうこういんの墓所はかしょには、四基しきの石塔が建てられた。施主は緊かたく秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形そうぎょうが紅梅こうばいの枝を提さげて、朝早く祥光院の門をくぐった。

その一人は城下に名高い、松木蘭袋まつきらんたいに紛まぎれなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄ほうけていたが、それでも凛々りりしい物ごしに、どこか武士らしい容子ようすがあった。二人は墓前に紅梅の枝を手向たむけた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……

後年黄檗慧林おうばくえりんの会下えかに、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子ろうのうしがいた。これも順鶴じゅんかくと云う僧名そうみょうのほかは、何も素性すじょうの知れない人物であった。

(大正九年四月)

底本 / Source edition

底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第二巻」筑摩書房
1971(昭和46)年4月5日初版第1刷発行
初出:「雄弁」
1920(大正9)年5月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月12日公開
2017年6月4日修正
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000073_000879/

芥川 竜之介「或敵打の話」(新字新仮名)、底本『芥川龍之介全集3』ちくま文庫、筑摩書房、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000073_000879, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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