一

彼は若い<ruby><rb>愛蘭土</rb><rt>アイルランド</rt></ruby>人だった。彼の名前などは言わずとも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。僕はただ彼の友だちだった。彼の妹さんは僕のことを<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに My brother's best friend と書いたりしている。僕は彼と<ruby><rb>初対面</rb><rt>しょたいめん</rt></ruby>の時、何か前にも彼の顔を見たことのあるような心もちがした。いや、彼の顔ばかりではない。その部屋のカミンに燃えている火も、<ruby><rb>火</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげの<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>った<ruby><rb>桃花心木</rb><rt>マホガニイ</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>も、カミンの上のプラトオン全集も確かに見たことのあるような気がした。この気もちはまた彼と話しているうちにだんだん強まって来るばかりだった。僕はいつかこう云う光景は五六年<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の夢の中にも見たことがあったと思うようになった。しかし勿論そんなことは一度も口に出したことはなかった。彼は<ruby><rb>敷島</rb><rt>しきしま</rt></ruby>をふかしながら、当然僕等の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に起る<ruby><rb>愛蘭土</rb><rt>アイルランド</rt></ruby>の作家たちの話をしていた。

「I detest Bernard Shaw\.」

僕は彼が<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>にこう言ったことを覚えている、それは<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>とも<ruby><rb>数</rb><rt>かぞ</rt></ruby>え<ruby><rb>年</rb><rt>どし</rt></ruby>にすれば、二十五になった冬のことだった。……

二

僕等は<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>の<ruby><rb>工面</rb><rt>くめん</rt></ruby>をしてはカッフェやお茶屋へ出入した。彼は僕よりも三割がた<ruby><rb>雄</rb><rt>おす</rt></ruby>の特性を具えていた。ある<ruby><rb>粉雪</rb><rt>こなゆき</rt></ruby>の烈しい<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>、僕等はカッフェ・パウリスタの隅のテエブルに坐っていた。その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、<ruby><rb>白銅</rb><rt>はくどう</rt></ruby>を一つ入れさえすれば音楽の聞かれる設備になっていた。その<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>もグラノフォンは僕等の話にほとんど伴奏を絶ったことはなかった。

「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。――誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれって。」

「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>ずくでやめさせるのは<ruby><rb>悪趣味</rb><rt>あくしゅみ</rt></ruby>じゃないか？」

「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」

グラノフォンはちょうどこの時に仕合せとぱったり音を<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>ってしまった。が、たちまち<ruby><rb>鳥打帽</rb><rt>とりうちぼう</rt></ruby>をかぶった、学生らしい男が一人、<ruby><rb>白銅</rb><rt>はくどう</rt></ruby>を入れに立って行った。すると彼は腰を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げるが早いか、ダム<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>とか言いながら、クルウェットスタンドを投げつけようとした。

「よせよ。そんな<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことをするのは。」

僕は彼を引きずるようにし、<ruby><rb>粉雪</rb><rt>こなゆき</rt></ruby>のふる往来へ出ることにした。しかし何か興奮した気もちは僕にも全然ない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではなかった。僕等は腕を組みながら、傘もささずに歩いて行った。

「僕はこう云う雪の晩などはどこまでも歩いて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きたくなるんだ。どこまでも足の続くかぎりは……」

彼はほとんど叱りつけるように僕の言葉を中断した。

「じゃなぜ歩いて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かないんだ？　僕などはどこまでも歩いて行きたくなれば、どこまでも歩いて行くことにしている。」

「それは余りロマンティックだ。」

「ロマンティックなのがどこが悪い？　歩いて行きたいと思いながら、歩いて行かないのは<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なしばかりだ。<ruby><rb>凍死</rb><rt>とうし</rt></ruby>しても<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でも歩いて見ろ。……」

彼は突然<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>を変え Brother と僕に声をかけた。

「僕はきのう本国の政府へ従軍したいと云う電報を打ったんだよ。」

「それで？」

「まだ<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>とも返事は来ない。」

僕等はいつか<ruby><rb>教文館</rb><rt>きょうぶんかん</rt></ruby>の飾り窓の前へ通りかかった。<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ば<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>に雪のつもった、電燈の明るい飾り窓の中にはタンクや<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>の写真版を始め、戦争ものが何冊も並んでいた。僕等は腕を組んだまま、ちょっとこの飾り窓の前に立ち止まった。

「Above the War――Romain Rolland……」

「ふむ、僕等には above じゃない。」

彼は妙な表情をした。それはちょうど<ruby><rb>雄鶏</rb><rt>おんどり</rt></ruby>の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>の羽根を<ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>てるのに似たものだった。

「ロオランなどに何がわかる？　僕等は戦争の amidst にいるんだ。」

<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>に対する彼の敵意は勿論僕には痛切ではなかった。従って僕は彼の言葉に多少の反感の起るのを感じた。同時にまた<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて来るのも感じた。

「僕はもう帰る。」

「そうか？　じゃ僕は……」

「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」

僕等はちょうど<ruby><rb>京橋</rb><rt>きょうばし</rt></ruby>の<ruby><rb>擬宝珠</rb><rt>ぎぼし</rt></ruby>の前に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの<ruby><rb>大根河岸</rb><rt>だいこんがし</rt></ruby>には雪のつもった枯れ柳が一株、黒ぐろと<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んだ掘割りの水へ枝を垂らしているばかりだった。

「<ruby><rb>日本</rb><rt>にほん</rt></ruby>だね、とにかくこう云う景色は。」

彼は僕と別れる前にしみじみこんなことを言ったものだった。

三

彼は<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>希望通りに従軍することは出来なかった。が、一度ロンドンへ帰った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、二三年ぶりに日本に住むことになった。しかし僕等は、――少くとも僕はいつかもうロマン主義を失っていた。もっともこの二三年は彼にも変化のない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではなかった。彼はある<ruby><rb>素人下宿</rb><rt>しろうとげしゅく</rt></ruby>の二階に<ruby><rb>大島</rb><rt>おおしま</rt></ruby>の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>などを洩らしていた。

「日本もだんだん<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>化するね。僕は時々日本よりも<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>に住もうかと思うことがある。」

「それは誰でも外国人はいつか一度は<ruby><rb>幻滅</rb><rt>げんめつ</rt></ruby>するね。ヘルンでも晩年はそうだったんだろう。」

「いや、僕は幻滅したんじゃない。illusion を持たないものに disillusion のあるはずはないからね。」

「そんなことは空論じゃないか？　僕などは僕自身にさえ、――<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに illusion を持っているだろう。」

「それはそうかも知れないがね。……」

彼は浮かない顔をしながら、どんよりと曇った<ruby><rb>高台</rb><rt>たかだい</rt></ruby>の景色を<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>戸越しに眺めていた。

「僕は<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby><ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>の通信員になるかも知れない。」

彼の言葉は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>にいつか僕の忘れていた彼の職業を思い出させた。僕はいつも彼のことをただ芸術的な<ruby><rb>気質</rb><rt>きしつ</rt></ruby>を持った僕等の<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>に考えていた。しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者を<ruby><rb>勤</rb><rt>つと</rt></ruby>めているのだった。僕はどう云う芸術家も<ruby><rb>脱却</rb><rt>だっきゃく</rt></ruby>出来ない「<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>」を考え、<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めて話を明るくしようとした。

「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>は東京よりも<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>いだろう。」

「僕もそう思っているがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行って来なければならない。……時にこれを君に見せたかしら？」

彼は机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から白い<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>の<ruby><rb>筐</rb><rt>はこ</rt></ruby>を出した。筐の中にはいっているのは細いプラティナの<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>だった。僕はその指環を手にとって見、内側に<ruby><rb>雕</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってある「<ruby><rb>桃子</rb><rt>ももこ</rt></ruby>へ」と云う字に<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>まない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かなかった。

「僕はその『桃子へ』の下に僕の名を入れるように<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>したんだけれど。」

それはあるいは職人の間違いだったかも知れなかった。しかしまたあるいはその職人が相手の女の商売を考え、<ruby><rb>故</rb><rt>ことさ</rt></ruby>らに外国人の名前などは入れずに置いたかも知れなかった。僕はそんなことを気にしない彼に同情よりもむしろ寂しさを感じた。

「この頃はどこへ行っているんだい？」

「<ruby><rb>柳橋</rb><rt>やなぎばし</rt></ruby>だよ。あすこは水の音が聞えるからね。」

これもやはり東京人の僕には妙に<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>の<ruby><rb>毒</rb><rt>どく</rt></ruby>な言葉だった。しかし彼はいつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか元気らしい<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>に返り、彼の絶えず愛読している日本文学の話などをし出した。

「この間<ruby><rb>谷崎潤一郎</rb><rt>たにざきじゅんいちろう</rt></ruby>の『悪魔』と云う小説を読んだがね、あれは恐らく世界中で一番<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>いことを書いた小説だろう。」

（何箇月かたった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、僕は何かの話の<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>に『悪魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑いながら、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に僕にこう言うのだった。――「世界一ならば<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。」！）

「『<ruby><rb>虞美人草</rb><rt>ぐびじんそう</rt></ruby>』は？」

「あれは僕の日本語じゃ<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だ。……きょうは<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>ぐらいはつき合えるかね？」

「うん、僕もそのつもりで来たんだ。」

「じゃちょっと待ってくれ。そこに雑誌が四五冊あるから。」

彼は口笛を吹きながら、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>洋服に着換え出した。僕は彼に<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>を向けたまま、漫然とブック・マンなどを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。すると彼は口笛の合い<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に突然短い笑い声を洩らし、日本語でこう僕に話しかけた。

「僕はもうきちりと坐ることが出来るよ。けれどもズボンがイタマシイですね。」

四

僕が最後に彼に会ったのは<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>のあるカッフェだった。（彼はそれから<ruby><rb>半年</rb><rt>はんとし</rt></ruby>ほど<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>天然痘</rb><rt>てんねんとう</rt></ruby>に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って死んでしまった。）僕等は明るい<ruby><rb>瑠璃燈</rb><rt>るりとう</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>にウヰスキイ<ruby><rb>炭酸</rb><rt>たんさん</rt></ruby>を前にしたまま、左右のテエブルに<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>った<ruby><rb>大勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>を眺めていた。彼等は二三人の<ruby><rb>支那人</rb><rt>シナじん</rt></ruby>を除けば、大抵は<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>人か<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>人だった。が、その中に<ruby><rb>青磁色</rb><rt>せいじいろ</rt></ruby>のガウンをひっかけた女が一人、誰よりも興奮してしゃべっていた。彼女は体こそ<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せていたものの、誰よりも美しい顔をしていた。僕は彼女の顔を見た時、<ruby><rb>砧手</rb><rt>きぬたで</rt></ruby>のギヤマンを思い出した。実際また彼女は美しいと云っても、どこか病的だったのに違いなかった。

「<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>だい、あの女は？」

「あれか？　あれは<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>の……まあ、女優と云うんだろう。ニニイと云う名で<ruby><rb>通</rb><rt>とお</rt></ruby>っているがね。――それよりもあの<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんを見ろよ。」

「あの爺さん」は僕等の<ruby><rb>隣</rb><rt>となり</rt></ruby>に両手に<ruby><rb>赤葡萄酒</rb><rt>あかぶどうしゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を暖め、バンドの調子に合せては絶えず頭を動かしていた。それは満足そのものと云っても、少しも<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えない姿だった。僕は熱帯植物の中からしっきりなしに吹きつけて来るジャッズにはかなり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかった。

「あの爺さんは<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>人だがね。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>にかれこれ三十年住んでいる。あんな奴は一体どう云う<ruby><rb>量見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>なんだろう？」

「どう云う量見でも<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないか？」

「いや、決して<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>くはないよ。僕などはもう支那に飽き飽きしている。」

「支那にじゃない。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>にだろう。」

「支那にさ。<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>にもしばらく滞在したことがある。……」

僕はこう云う彼の不平をひやかさない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かなかった。

「支那もだんだん<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>化するかね？」

彼は肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かし、しばらくは<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>とも言わなかった。僕は<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>に近いものを感じた。のみならず気まずさを<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らすために何か言わなければならぬことも感じた。

「じゃどこに住みたいんだ？」

「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット<ruby><rb>治下</rb><rt>ちか</rt></ruby>の<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>ばかりだ。」

「それならば露西亜へ行けば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのに。君などはどこへでも<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かれるんだろう。」

彼はもう一度黙ってしまった。それから、――僕は<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だにはっきりとその時の彼の顔を覚えている。彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた<ruby><rb>万葉集</rb><rt>まんようしゅう</rt></ruby>の歌をうたい出した。

「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」

僕は彼の日本語の調子に微笑しない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。

「あの<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんは勿論だがね。ニニイさえ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知っている通り、……」

僕は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に<ruby><rb>快濶</rb><rt>かいかつ</rt></ruby>になった。

「ああ、ああ、聞かないでもわかっているよ。お前は『さまよえる<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>人』だろう。」

彼はウヰスキイ<ruby><rb>炭酸</rb><rt>たんさん</rt></ruby>を<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとくち</rt></ruby>飲み、もう一度ふだんの彼自身に返った。

「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>、兄、<ruby><rb>独身者</rb><rt>どくしんもの</rt></ruby>、<ruby><rb>愛蘭土</rb><rt>アイルランド</rt></ruby>人、……それから<ruby><rb>気質</rb><rt>きしつ</rt></ruby>上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」

僕等はいつか笑いながら、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を押しのけて立ち上っていた。

「それから彼女には<ruby><rb>情人</rb><rt>じょうじん</rt></ruby>だろう。」

「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」

<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの往来は<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>と云うよりも<ruby><rb>瘴気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>に近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた<ruby><rb>黄色</rb><rt>きいろ</rt></ruby>に見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>にアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。

「まだ君には言わなかったかしら、僕が<ruby><rb>声帯</rb><rt>せいたい</rt></ruby>を調べて貰った話は？」

「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>でかい？」

「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」

彼は僕の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこむようにし、何か皮肉に微笑していた。

「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」

「勿論オペラ<ruby><rb>役者</rb><rt>やくしゃ</rt></ruby>にでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」

「それは君の一生の損だね。」

「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」

僕等はもう船の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の多い<ruby><rb>黄浦江</rb><rt>こうほこう</rt></ruby>の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>で「見ろ」と云う<ruby><rb>合図</rb><rt>あいず</rt></ruby>をした。<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の中に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいた水には白い小犬の死骸が一匹、<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>い波に絶えず<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すられていた。そのまた小犬は誰の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>か、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは<ruby><rb>惨酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった<ruby><rb>万葉集</rb><rt>まんようしゅう</rt></ruby>の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。

「ニニイだね。」

「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」

彼はこう答えるが早いか、<ruby><rb>途方</rb><rt>とほう</rt></ruby>もなく大きい<ruby><rb>嚔</rb><rt>くさ</rt></ruby>めをした。

五

ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>、夢の中に彼と話していた。それはどう考えても、初対面の時に違いなかった。カミンも赤あかと火を動かしていれば、そのまた<ruby><rb>火</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげも<ruby><rb>桃花心木</rb><rt>マホガニイ</rt></ruby>のテエブルや<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>っていた。僕は妙に疲労しながら、当然僕等の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に起る<ruby><rb>愛蘭土</rb><rt>アイルランド</rt></ruby>の作家たちの話をしていた。しかし僕にのしかかって来る<ruby><rb>眠気</rb><rt>ねむけ</rt></ruby>と闘うのは容易ではなかった。僕は<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない意識の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にこう云う彼の言葉を聞いたりした。

「I detest Bernard Shaw\.」

しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠ってしまった。すると、――おのずから目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ました。<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>はまだ明け切らずにいるのであろう。<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>に包んだ電燈は薄暗い光を落している。僕は<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになり、妙な興奮を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めるために「<ruby><rb>敷島</rb><rt>しきしま</rt></ruby>」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましているのはどうも<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>でならなかった。

（大正十五年十一月二十九日）