ある春の<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、Padre Organtino はたった一人、長いアビト（<ruby><rb>法衣</rb><rt>ほうえ</rt></ruby>）の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を引きながら、<ruby><rb>南蛮寺</rb><rt>なんばんじ</rt></ruby>の庭を歩いていた。

庭には松や<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>だの、<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>だの、<ruby><rb>月桂</rb><rt>げっけい</rt></ruby>だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かにする<ruby><rb>夕明</rb><rt>ゆうあか</rt></ruby>りの中に、薄甘い<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か<ruby><rb>日本</rb><rt>にほん</rt></ruby>とは思われない、不可思議な<ruby><rb>魅力</rb><rt>みりょく</rt></ruby>を添えるようだった。

オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ロオマ</rt></ruby>の<ruby><rb>大本山</rb><rt>だいほんざん</rt></ruby>、リスポアの港、<ruby><rb>羅面琴</rb><rt>ラベイカ</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>、<ruby><rb>巴旦杏</rb><rt>はたんきょう</rt></ruby>の味、「<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>、わがアニマ（霊魂）の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この<ruby><rb>紅毛</rb><rt>こうもう</rt></ruby>の<ruby><rb>沙門</rb><rt>しゃもん</rt></ruby>の心へ、<ruby><rb>懐郷</rb><rt>かいきょう</rt></ruby>の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>（神）の<ruby><rb>御名</rb><rt>みな</rt></ruby>を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。

「この国の風景は美しい――。」

オルガンティノは反省した。

「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの<ruby><rb>黄面</rb><rt>こうめん</rt></ruby>の<ruby><rb>小人</rb><rt>こびと</rt></ruby>よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか？　が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか？　いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>でも、<ruby><rb>沙室</rb><rt>シャム</rt></ruby>でも、<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」

オルガンティノは<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>に落ちた、<ruby><rb>仄白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>い桜の花を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。桜！　オルガンティノは驚いたように、薄暗い<ruby><rb>木立</rb><rt>こだ</rt></ruby>ちの<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>を見つめた。そこには四五本の<ruby><rb>棕櫚</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>の中に、枝を垂らした<ruby><rb>糸桜</rb><rt>いとざくら</rt></ruby>が一本、夢のように花を煙らせていた。

「<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>守らせ給え！」

オルガンティノは一瞬間、<ruby><rb>降魔</rb><rt>ごうま</rt></ruby>の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた<ruby><rb>枝垂桜</rb><rt>しだれざくら</rt></ruby>が、それほど<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

×　　　　　　　　　　×　　　　　　　　　　×

三十分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、彼は<ruby><rb>南蛮寺</rb><rt>なんばんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>内陣</rb><rt>ないじん</rt></ruby>に、<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>へ祈祷を捧げていた。そこにはただ<ruby><rb>円天井</rb><rt>まるてんじょう</rt></ruby>から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、<ruby><rb>吼</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立った悪魔さえも、今夜は<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、<ruby><rb>水々</rb><rt>みずみず</rt></ruby>しい<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>や<ruby><rb>金雀花</rb><rt>えにしだ</rt></ruby>が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。

「<ruby><rb>南無</rb><rt>なむ</rt></ruby>大慈大悲の<ruby><rb>泥烏須如来</rb><rt>デウスにょらい</rt></ruby>！　<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くする所ではございません。皆天地の<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>、あなたの<ruby><rb>御恵</rb><rt>おんめぐみ</rt></ruby>でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んで居ります。そうしてそれが<ruby><rb>冥々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、私の使命を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の<ruby><rb>泥烏須如来</rb><rt>デウスにょらい</rt></ruby>！　<ruby><rb>邪宗</rb><rt>じゃしゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>惑溺</rb><rt>わくでき</rt></ruby>した日本人は<ruby><rb>波羅葦増</rb><rt>はらいそ</rt></ruby>（<ruby><rb>天界</rb><rt>てんがい</rt></ruby>）の<ruby><rb>荘厳</rb><rt>しょうごん</rt></ruby>を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの<ruby><rb>下部</rb><rt>しもべ</rt></ruby>、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」

その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は使命を果すためには、この国の<ruby><rb>山川</rb><rt>やまかわ</rt></ruby>に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔<ruby><rb>紅海</rb><rt>こうかい</rt></ruby>の底に、<ruby><rb>埃及</rb><rt>エジプト</rt></ruby>の<ruby><rb>軍勢</rb><rt>ぐんぜい</rt></ruby>を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、<ruby><rb>埃及</rb><rt>エジプト</rt></ruby>の軍勢に劣りますまい。どうか<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」

祈祷の言葉はいつのまにか、彼の<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい<ruby><rb>鶏鳴</rb><rt>けいめい</rt></ruby>が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の<ruby><rb>真後</rb><rt>まうしろ</rt></ruby>には、<ruby><rb>白々</rb><rt>しろじろ</rt></ruby>と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>をつくっているではないか？

オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>とこの鳥を逐い出そうとした。が、<ruby><rb>二足三足</rb><rt>ふたあしみあし</rt></ruby>踏み出したと思うと、「<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い<ruby><rb>内陣</rb><rt>ないじん</rt></ruby>の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、<ruby><rb>鶏冠</rb><rt>とさか</rt></ruby>の海にしているのだった。

「御主、守らせ給え！」

彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、<ruby><rb>万力</rb><rt>まんりき</rt></ruby>か何かに<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれたように、<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>とは自由に動かなかった。その内にだんだん<ruby><rb>内陣</rb><rt>ないじん</rt></ruby>の中には、<ruby><rb>榾火</rb><rt>ほたび</rt></ruby>の<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>りに似た<ruby><rb>赤光</rb><rt>しゃっこう</rt></ruby>が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。

人影は見る<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かになった。それはいずれも見慣れない、<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な男女の<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>だった。彼等は皆<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のまわりに、<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――

日本の Bacchanalia は、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられたオルガンティノの前へ、<ruby><rb>蜃気楼</rb><rt>しんきろう</rt></ruby>のように漂って来た。彼は赤い<ruby><rb>篝</rb><rt>かがり</rt></ruby>の<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>しながら、<ruby><rb>車座</rb><rt>くるまざ</rt></ruby>をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい男が一人、根こぎにしたらしい<ruby><rb>榊</rb><rt>さかき</rt></ruby>の枝に、玉だの鏡だのが<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、<ruby><rb>尾羽根</rb><rt>おばね</rt></ruby>や<ruby><rb>鶏冠</rb><rt>とさか</rt></ruby>をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、<ruby><rb>岩屋</rb><rt>いわや</rt></ruby>の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。

桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>は、ひらひらと空に<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わにした胸！　赤い<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>の光の中に、<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>と<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>び出た二つの<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な<ruby><rb>呪</rb><rt>のろい</rt></ruby>の力か、身動きさえ楽には出来なかった。

その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>がここに<ruby><rb>隠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか？　それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」

その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。

「それはあなたにも立ち<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」

その新しい神と云うのは、<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。

沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>が、<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>に<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>をつくったと思うと、向うに夜霧を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに左右へ<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>き出した。そうしてその<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>け目からは、<ruby><rb>言句</rb><rt>ごんく</rt></ruby>に絶した<ruby><rb>万道</rb><rt>ばんどう</rt></ruby>の<ruby><rb>霞光</rb><rt>かこう</rt></ruby>が、洪水のように<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>り出した。

オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく<ruby><rb>眩暈</rb><rt>めまい</rt></ruby>が起るのを感じた。そうしてその光の中に、<ruby><rb>大勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の男女の歓喜する声が、<ruby><rb>澎湃</rb><rt>ほうはい</rt></ruby>と天に<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>るのを聞いた。

「<ruby><rb>大日孁貴</rb><rt>おおひるめむち</rt></ruby>！　大日孁貴！　大日孁貴！」

「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」

「あなたに<ruby><rb>逆</rb><rt>さから</rt></ruby>うものは亡びます。」

「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」

「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」

「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」

「大日孁貴！　大日孁貴！　大日孁貴！」

そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………

その<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>も<ruby><rb>三更</rb><rt>さんこう</rt></ruby>に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、<ruby><rb>人音</rb><rt>ひとおと</rt></ruby>も聞えない<ruby><rb>内陣</rb><rt>ないじん</rt></ruby>には、<ruby><rb>円天井</rb><rt>まるてんじょう</rt></ruby>のランプの光が、さっきの通り<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と<ruby><rb>壁画</rb><rt>へきが</rt></ruby>を照らしているばかりだった。オルガンティノは<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き呻き、そろそろ祭壇の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>でない事だけは確かだった。

「この国の霊と戦うのは、……」

オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>を洩らした。

「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」

するとその時彼の耳に、こう云う<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きを送るものがあった。

「負けですよ！」

オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。が、そこには<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>、<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い薔薇や<ruby><rb>金雀花</rb><rt>えにしだ</rt></ruby>のほかに、人影らしいものも見えなかった。

×　　　　　　　　　　×　　　　　　　　　　×

オルガンティノは翌日の<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>も、<ruby><rb>南蛮寺</rb><rt>なんばんじ</rt></ruby>の庭を歩いていた。しかし彼の<ruby><rb>碧眼</rb><rt>へきがん</rt></ruby>には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日<ruby><rb>一日</rb><rt>いちにち</rt></ruby>の内に、日本の侍が三四人、<ruby><rb>奉教人</rb><rt>ほうきょうにん</rt></ruby>の列にはいったからだった。

庭の<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>や<ruby><rb>月桂</rb><rt>げっけい</rt></ruby>は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が<ruby><rb>擾</rb><rt>みだ</rt></ruby>されるのは、寺の<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>が軒へ帰るらしい、<ruby><rb>中空</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>の<ruby><rb>羽音</rb><rt>はおと</rt></ruby>よりほかはなかった。薔薇の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の<ruby><rb>女子</rb><rt>おみなご</rt></ruby>の美しきを見て、」妻を求めに<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>って来た、古代の日の暮のように平和だった。

「やはり十字架の御威光の前には、<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>らわしい日本の霊の力も、勝利を<ruby><rb>占</rb><rt>し</rt></ruby>める事はむずかしいと見える。しかし<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>見た幻は？――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ<ruby><rb>上人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>にも、ああ云う幻を見せたではないか？　その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、<ruby><rb>天主</rb><rt>てんしゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>御寺</rb><rt>みてら</rt></ruby>が建てられるであろう。」

オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>を挟んだ<ruby><rb>篠懸</rb><rt>すずかけ</rt></ruby>の若葉に、うっすりと<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているだけだった。

「<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>。守らせ給え！」

彼はこう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いてから、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をもとへ返した。と、彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに歩みを運んでいた。

「誰だ、お前は？」

不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」

老人は<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>を浮べながら、親切そうに返事をした。

「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、御話しするために出て来たのです。」

オルガンティノは十字を切った。が、老人はその<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>に、少しも恐怖を示さなかった。

「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。<ruby><rb>地獄</rb><rt>じごく</rt></ruby>の<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>なぞを唱えるのはおやめなさい。」

オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。

「あなたは<ruby><rb>天主教</rb><rt>てんしゅきょう</rt></ruby>を<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>めに来ていますね、――」

老人は静かに話し出した。

「それも悪い事ではないかも知れません。しかし<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」

「<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>は全能の<ruby><rb>御主</rb><rt>おんあるじ</rt></ruby>だから、泥烏須に、――」

オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>な口調を使い出した。

「<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>に勝つものはない筈です。」

「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>ばかりではありません。<ruby><rb>孔子</rb><rt>こうし</rt></ruby>、<ruby><rb>孟子</rb><rt>もうし</rt></ruby>、<ruby><rb>荘子</rb><rt>そうし</rt></ruby>、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、<ruby><rb>呉</rb><rt>ご</rt></ruby>の国の絹だの<ruby><rb>秦</rb><rt>しん</rt></ruby>の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、<ruby><rb>霊妙</rb><rt>れいみょう</rt></ruby>な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか？　たとえば<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>の<ruby><rb>人麻呂</rb><rt>ひとまろ</rt></ruby>と云う詩人があります。その男の作った<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。<ruby><rb>牽牛織女</rb><rt>けんぎゅうしょくじょ</rt></ruby>はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>くまでも<ruby><rb>彦星</rb><rt>ひこぼし</rt></ruby>と<ruby><rb>棚機津女</rb><rt>たなばたつめ</rt></ruby>とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>の<ruby><rb>川</rb><rt>がわ</rt></ruby>の<ruby><rb>瀬音</rb><rt>せおと</rt></ruby>でした。支那の<ruby><rb>黄河</rb><rt>こうが</rt></ruby>や<ruby><rb>揚子江</rb><rt>ようすこう</rt></ruby>に似た、<ruby><rb>銀河</rb><rt>ぎんが</rt></ruby>の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。<ruby><rb>舟</rb><rt>しゅう</rt></ruby>と云う文字がはいった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。<ruby><rb>空海</rb><rt>くうかい</rt></ruby>、<ruby><rb>道風</rb><rt>どうふう</rt></ruby>、<ruby><rb>佐理</rb><rt>さり</rt></ruby>、<ruby><rb>行成</rb><rt>こうぜい</rt></ruby>――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の<ruby><rb>墨蹟</rb><rt>ぼくせき</rt></ruby>です。しかし彼等の<ruby><rb>筆先</rb><rt>ふでさき</rt></ruby>からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、<ruby><rb>王羲之</rb><rt>おうぎし</rt></ruby>でもなければ褚 <ruby><rb>遂良</rb><rt>ちょすいりょう</rt></ruby>でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶ</rt></ruby>きは<ruby><rb>潮風</rb><rt>しおかぜ</rt></ruby>のように、<ruby><rb>老儒</rb><rt>ろうじゅ</rt></ruby>の道さえも<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆<ruby><rb>孟子</rb><rt>もうし</rt></ruby>の著書は、我々の怒に<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>ると信じています。<ruby><rb>科戸</rb><rt>しなと</rt></ruby>の神はまだ一度も、そんな<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>はしていません。が、そう云う信仰の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にも、この国に住んでいる我々の力は、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか？」

オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>い彼には、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。

「支那の哲人たちの<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に来たのは、<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>の王子<ruby><rb>悉達多</rb><rt>したあるた</rt></ruby>です。――」

老人は言葉を続けながら、<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>ばたの<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花をむしると、嬉しそうにその匂を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。

「<ruby><rb>仏陀</rb><rt>ぶっだ</rt></ruby>の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、<ruby><rb>本地垂跡</rb><rt>ほんじすいじゃく</rt></ruby>の教の事です。あの教はこの国の土人に、<ruby><rb>大日孁貴</rb><rt>おおひるめむち</rt></ruby>は<ruby><rb>大日如来</rb><rt>だいにちにょらい</rt></ruby>と同じものだと思わせました。これは大日孁貴の勝でしょうか？　それとも大日如来の勝でしょうか？　仮りに現在この国の土人に、大日孁貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、印度<ruby><rb>仏</rb><rt>ぶつ</rt></ruby>の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>よりも、大日孁貴が<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われはしないでしょうか？　<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は<ruby><rb>親鸞</rb><rt>しんらん</rt></ruby>や<ruby><rb>日蓮</rb><rt>にちれん</rt></ruby>と一しょに、<ruby><rb>沙羅双樹</rb><rt>さらそうじゅ</rt></ruby>の花の陰も歩いています。彼等が<ruby><rb>随喜渇仰</rb><rt>ずいきかつごう</rt></ruby>した<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>は、円光のある<ruby><rb>黒人</rb><rt>こくじん</rt></ruby>ではありません。優しい<ruby><rb>威厳</rb><rt>いげん</rt></ruby>に充ち満ちた<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」

「まあ、御待ちなさい。<ruby><rb>御前</rb><rt>おまえ</rt></ruby>さんはそう云われるが、――」

オルガンティノは口を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ。

「今日などは侍が二三人、一度に<ruby><rb>御教</rb><rt>おんおしえ</rt></ruby>に<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>しましたよ。」

「それは<ruby><rb>何人</rb><rt>なんにん</rt></ruby>でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分<ruby><rb>悉達多</rb><rt>したあるた</rt></ruby>の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。

「なるほど造り変える力ですか？　しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」

「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」

オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。

「お前さんはパンを知っているのですか？」

「何、<ruby><rb>西国</rb><rt>さいこく</rt></ruby>の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、<ruby><rb>横文字</rb><rt>よこもじ</rt></ruby>の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」

「しかし<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>は勝つ筈です。」

オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はつい四五日<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>、<ruby><rb>西国</rb><rt>さいこく</rt></ruby>の<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>に上陸した、<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>の船乗りに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を<ruby><rb>豕</rb><rt>いのこ</rt></ruby>にする<ruby><rb>女神</rb><rt>めがみ</rt></ruby>の話だの、声の美しい<ruby><rb>人魚</rb><rt>にんぎょ</rt></ruby>の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか？　その男は私に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>った時から、この国の土人に変りました。今では<ruby><rb>百合若</rb><rt>ゆりわか</rt></ruby>と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>も必ず勝つとは云われません。<ruby><rb>天主教</rb><rt>てんしゅきょう</rt></ruby>はいくら<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>まっても、必ず勝つとは云われません。」

老人はだんだん小声になった。

「事によると<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る<ruby><rb>夕明</rb><rt>ゆうあか</rt></ruby>りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」

その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。

×　　　　　　　　　　×　　　　　　　　　　×

<ruby><rb>南蛮寺</rb><rt>なんばんじ</rt></ruby>のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を引いた、鼻の高い<ruby><rb>紅毛人</rb><rt>こうもうじん</rt></ruby>は、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の光の<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>った、<ruby><rb>架空</rb><rt>かくう</rt></ruby>の<ruby><rb>月桂</rb><rt>げっけい</rt></ruby>や薔薇の中から、一双の<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>へ帰って行った。<ruby><rb>南蛮船</rb><rt>なんばんせん</rt></ruby><ruby><rb>入津</rb><rt>にゅうしん</rt></ruby>の図を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた、三世紀以前の古屏風へ。

さようなら。パアドレ・オルガンティノ！　君は今君の仲間と、日本の<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>を歩きながら、<ruby><rb>金泥</rb><rt>きんでい</rt></ruby>の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。<ruby><rb>泥烏須</rb><rt>デウス</rt></ruby>が勝つか、<ruby><rb>大日孁貴</rb><rt>おおひるめむち</rt></ruby>が勝つか――それはまだ現在でも、<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に<ruby><rb>断定</rb><rt>だんてい</rt></ruby>は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた<ruby><rb>甲比丹</rb><rt>カピタン</rt></ruby>や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の<ruby><rb>黒船</rb><rt>くろふね</rt></ruby>の<ruby><rb>石火矢</rb><rt>いしびや</rt></ruby>の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ！　さようなら。南蛮寺のウルガン<ruby><rb>伴天連</rb><rt>バテレン</rt></ruby>！

（大正十年十二月）