<ruby><rb>横浜</rb><rt>よこはま</rt></ruby>。

<ruby><rb>日華洋行</rb><rt>にっかようこう</rt></ruby>の主人<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は、机に背広の<ruby><rb>両肘</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せて、火の消えた<ruby><rb>葉巻</rb><rt>はまき</rt></ruby>を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたまま、今日も<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>い商用書類に、繁忙な眼を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>していた。

<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の窓掛けを垂れた部屋の内には、<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>残暑の<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。

書類が一山片づいた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>陳</rb><rt>ちん</rt></ruby>はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へかけてくれ給え。」

陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。

「誰？――婆や？――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>かい？――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか？――とても汽車に<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に合うまい。――じゃ頼むよ。――何？　医者に来て貰った？――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」

陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に<ruby><rb>燐寸</rb><rt>マッチ</rt></ruby>を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って、啣えていた葉巻を吸い始めた。

……煙草の煙、草花の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る調子<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を前にしながら、たった一人茫然と、<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。

女はまだ見た所、<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しそうにビルを書いている。額の<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き毛、かすかな<ruby><rb>頬紅</rb><rt>ほおべに</rt></ruby>、それから地味な<ruby><rb>青磁色</rb><rt>せいじいろ</rt></ruby>の半襟。――

陳は<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を飲み干すと、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。

「陳さん。いつ私に指環を買って下すって？」

女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。

「その指環がなくなったら。」

陳は<ruby><rb>小銭</rb><rt>こぜに</rt></ruby>を探りながら、女の指へ<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>の<ruby><rb>両端</rb><rt>りょうはし</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>かせた、約婚の指環が<ruby><rb>嵌</rb><rt>はま</rt></ruby>っている。

「じゃ今夜買って頂戴。」

女は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。

「これは護身用の指環なのよ。」

カッフェの<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……

誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>の心を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び返した。

「おはいり。」

その声がまだ消えない内に、ニスの匀のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の<ruby><rb>今西</rb><rt>いまにし</rt></ruby>が、<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>なほど静にはいって来た。

「手紙が参りました。」

黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた陳の顔には、その上今西に<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>も、口を開かせない<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。

戸が今西の後にしまった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>の情が浮んで来た。

「またか。」

陳は太い眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めながら、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を机の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、<ruby><rb>紙切小刀</rb><rt>かみきりこがたな</rt></ruby>も使わずに封を切った。

「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>に至るまで、何等<ruby><rb>断乎</rb><rt>だんこ</rt></ruby>たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>コーヒーてん</rt></ruby>の給仕女たりし<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>夫人が、……<ruby><rb>支那人</rb><rt>シナじん</rt></ruby>たる貴下のために、<ruby><rb>万斛</rb><rt>ばんこく</rt></ruby>の同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の<ruby><rb>嗤笑</rb><rt>ししょう</rt></ruby>する所となるも……<ruby><rb>微衷不悪</rb><rt>びちゅうあしからず</rt></ruby>御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」

手紙は力なく陳の手から落ちた。

……陳は<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかりながら、レエスの窓掛けを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>は、房子のイニシアルではないらしい。

「これは？」

新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の前に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>越しに夫へ<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>を送った。

「<ruby><rb>田中</rb><rt>たなか</rt></ruby>さんが下すったの。御存知じゃなくって？　倉庫会社の――」

<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。<ruby><rb>白天鵞絨</rb><rt>しろびろうど</rt></ruby>の蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには<ruby><rb>土耳古玉</rb><rt>トルコだま</rt></ruby>の指環がはいっている。

「<ruby><rb>久米</rb><rt>くめ</rt></ruby>さんに<ruby><rb>野村</rb><rt>のむら</rt></ruby>さん。」

今度は<ruby><rb>珊瑚珠</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>根懸</rb><rt>ねか</rt></ruby>けが出た。

「古風だわね。<ruby><rb>久保田</rb><rt>くぼた</rt></ruby>さんに頂いたのよ。」

その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。

「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」

すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。

「ですからあなたの戦利品もね。」

その時は彼も嬉しかった。しかし今は……

陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。

「私。――よろしい。――<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでくれ給え。」

彼は電話に向いながら、<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしそうに額の汗を拭った。

「誰？――<ruby><rb>里見探偵</rb><rt>さとみたんてい</rt></ruby>事務所はわかっている。事務所の誰？――<ruby><rb>吉井</rb><rt>よしい</rt></ruby>君？――よろしい。報告は？――何が来ていた？――医者？――それから？――そうかも知れない。――じゃ<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃば</rt></ruby>へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」

受話器を置いた<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は、まるで放心したように、しばらくは<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの<ruby><rb>鈕</rb><rt>ボタン</rt></ruby>を押した。

書記の今西はその<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>に応じて、心もち<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>けた戸の後から、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた半身をさし延ばした。

「今西君。<ruby><rb>鄭</rb><rt>てい</rt></ruby>君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ<ruby><rb>御出</rb><rt>おい</rt></ruby>でを願いますと。」

陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。

その内に<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>が一匹、どこからここへ<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れこんだか、<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>い<ruby><rb>羽音</rb><rt>はおと</rt></ruby>を立てながら、ぼんやり<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>をついた陳のまわりに、不規則な円を<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>き始めた。…………

<ruby><rb>鎌倉</rb><rt>かまくら</rt></ruby>。

<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、<ruby><rb>晩夏</rb><rt>おそなつ</rt></ruby>の日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの<ruby><rb>夾竹桃</rb><rt>きょうちくとう</rt></ruby>は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>わしていた。

<ruby><rb>壁際</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>の<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>った<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>は、膝の<ruby><rb>三毛猫</rb><rt>みけねこ</rt></ruby>をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>そうな視線を遊ばせていた。

「<ruby><rb>旦那様</rb><rt>だんなさま</rt></ruby>は今晩も御帰りにならないのでございますか？」

これはその側の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。

「ああ、今夜もまた寂しいわね。」

「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」

「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も<ruby><rb>山内</rb><rt>やまのうち</rt></ruby>先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」

老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありと<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた。

「どう遊ばしました？　奥様。」

「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」

房子は無理に微笑しようとした。

「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」

しかし老女が一瞬の後に、その窓から外を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた時には、ただ微風に<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いでいる夾竹桃の植込みが、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない庭の芝原を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見せただけであった。

「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>の坊ちゃんが、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をなすったのでございますよ。」

「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつか<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>やと<ruby><rb>長谷</rb><rt>はせ</rt></ruby>へ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」

房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。

「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何なら<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>やでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」

「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」

老女は<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>そうに<ruby><rb>瞬</rb><rt>まばた</rt></ruby>きをした。

「もし私の気のせいだったら、私はこのまま<ruby><rb>気違</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になるかも知れないわね。」

「奥様はまあ、<ruby><rb>御冗談</rb><rt>ごじょうだん</rt></ruby>ばっかり。」

老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。

「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」

房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な眼つきになった。

……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>みながら、眼の下の松林を眺めている。

夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、<ruby><rb>間遠</rb><rt>まどお</rt></ruby>に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。

房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。

が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんと<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>してある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は<ruby><rb>薄明</rb><rt>うすあかる</rt></ruby>い松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。

房子はとうとう思い切って、<ruby><rb>怖</rb><rt>こ</rt></ruby>わ<ruby><rb>怖</rb><rt>ご</rt></ruby>わ<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振り返って見た。が、果して寝室の中には、<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>い<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。

房子は全身の<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に電燈のスウィッチを<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。<ruby><rb>寝台</rb><rt>しんだい</rt></ruby>、<ruby><rb>西洋㡡</rb><rt>せいようがや</rt></ruby>、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>も、――いや、しかし怪しい何物かは、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……

房子は一週間以前の記憶から、<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>と一しょに解放された。その拍子に<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をした。

「そんな気は誰でも致すものでございますよ。<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>やなどはいつぞや御庭の松へ、<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>をかけて居りましたら、まっ<ruby><rb>昼間</rb><rt>ぴるま</rt></ruby>空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>ばかり申して居るじゃございませんか。」

老女は紅茶の<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>には、始めて微笑らしい影がさした。

「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は？　婆や。」

「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」

「好いわ。すぐにはいるから。」

房子はようやく気軽そうに、<ruby><rb>壁側</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>の<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>から身を起した。

「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」

老女が房子の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から、静に出て行ってしまった<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>には、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な<ruby><rb>燐光</rb><rt>りんこう</rt></ruby>を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………

横浜。

<ruby><rb>日華洋行</rb><rt>にっかようこう</rt></ruby>の宿直室には、<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に寝ころんだ書記の<ruby><rb>今西</rb><rt>いまにし</rt></ruby>が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げていた。が、やがて手近の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ、その雑誌をばたりと<ruby><rb>抛</rb><rt>なげ</rt></ruby>ると、大事そうに<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。

写真は<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>の妻の<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>が、<ruby><rb>桃割</rb><rt>ももわ</rt></ruby>れに<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>った半身であった。

鎌倉。

<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り終列車の笛が、星月夜の空に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った時、改札口を出た<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は、たった一人跡に残って、二つ折の<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の薄暗い<ruby><rb>壁側</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして<ruby><rb>闊達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。

「陳さんですか？　私は<ruby><rb>吉井</rb><rt>よしい</rt></ruby>です。」

陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。

「<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>は御苦労でした。」

「先ほど電話をかけましたが、――」

「その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>何もなかったですか？」

陳の語気には、相手の言葉を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けるような力があった。

「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは<ruby><rb>蓄音機</rb><rt>ちくおんき</rt></ruby>を御聞きになっていたようです。」

「客は一人も来なかったですか？」

「ええ、一人も。」

「君が監視をやめたのは？」

「十一時二十分です。」

吉井の<ruby><rb>返答</rb><rt>ことば</rt></ruby>もてきぱきしていた。

「その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>終列車まで汽車はないですね。」

「ありません。<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>りも、<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りも。」

「いや、<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う。帰ったら<ruby><rb>里見</rb><rt>さとみ</rt></ruby>君に、よろしく云ってくれ給え。」

陳は<ruby><rb>麦藁帽</rb><rt>むぎわらぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に歩み出した。その<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が余り<ruby><rb>無遠慮</rb><rt>ぶえんりょ</rt></ruby>すぎたせいか、吉井は陳の<ruby><rb>後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>を見送ったなり、ちょいと両肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃば</rt></ruby>前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。

鎌倉。

一時間の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby><ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は、彼等夫婦の寝室の戸へ、<ruby><rb>盗賊</rb><rt>とうぞく</rt></ruby>のように耳を当てながら、じっと容子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、<ruby><rb>鍵穴</rb><rt>かぎあな</rt></ruby>を洩れるそれであった。

陳はほとんど破裂しそうな心臓の<ruby><rb>鼓動</rb><rt>こどう</rt></ruby>を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。

……枝を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>なったここへは、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に光を落して来ない。が、海の近い事は、<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>な<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>に流れて来る<ruby><rb>潮風</rb><rt>しおかぜ</rt></ruby>が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>と共に強くなった<ruby><rb>松脂</rb><rt>まつやに</rt></ruby>の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。

その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。それは彼の家の<ruby><rb>煉瓦塀</rb><rt>れんがべい</rt></ruby>が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その<ruby><rb>常春藤</rb><rt>きづた</rt></ruby>に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。

が、いくら<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見ても、松や芒の闇が深いせいか、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の姿は見る事が出来ない。ただ、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」

陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。

「<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいぞ。あの裏門には<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>見た時も、錠がかかっていた筈だが。」

そう思うと共に<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は、獲物を見つけた<ruby><rb>猟犬</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えないのは、いつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかりながら、膝を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めた芒の中に、しばらくは<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。

「門が明くような音がしたのは、おれの耳の<ruby><rb>迷</rb><rt>まよい</rt></ruby>だったかしら。」

が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。<ruby><rb>常春藤</rb><rt>きづた</rt></ruby>の<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、<ruby><rb>乏</rb><rt>とぼ</rt></ruby>しい虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。

「<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>。」

陳はほとんど<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。

するとその<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>である。高い二階の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の一つには、意外にも<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい電燈がともった。

「あの窓は、――あれは、――」

陳は<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どい息を呑んで、手近の松の幹を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を、ぼんやり暗い空に漂わせている。

しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げな<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>を浮き上らせた。<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>電燈の光が<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の<ruby><rb>常春藤</rb><rt>きづた</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。

「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」

一瞬間の後陳彩は、<ruby><rb>安々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、<ruby><rb>首尾</rb><rt>しゅび</rt></ruby>よく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい<ruby><rb>夾竹桃</rb><rt>きょうちくとう</rt></ruby>の一むらが、………

陳はまっ暗な外の<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>に、乾いた唇を噛みながら、一層<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>いたからであった。

<ruby><rb>足響</rb><rt>あしおと</rt></ruby>はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。

その沈黙はたちまち<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>め<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>のように、色を失った陳の額へ、冷たい<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>を絞り出した。彼はわなわな<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。

すると今度は<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。

こう云う物音は<ruby><rb>一</rb><rt>びと</rt></ruby>つ<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。

苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに<ruby><rb>寝台</rb><rt>しんだい</rt></ruby>の上へも、誰かが静に<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったようであった。

もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。陳は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>へ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>うと、ノッブの下にある<ruby><rb>鍵穴</rb><rt>かぎあな</rt></ruby>から、食い入るような視線を室内へ送った。

その刹那に陳の眼の前には、永久に<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしい光景が開けた。…………

横浜。

書記の<ruby><rb>今西</rb><rt>いまにし</rt></ruby>は内隠しへ、房子の写真を<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>してしまうと、静に<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>から立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へはいって行った。

スウィッチを<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>る音と共に、次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>はすぐに明くなった。その部屋の卓上電燈の光は、いつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にそこへ坐ったか、タイプライタアに向っている今西の姿を照し出した。

今西の指はたちまちの内に、目まぐるしい運動を続け出した。と同時にタイプライタアは、休みない響を<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みながら、何行かの<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>が断続した一枚の紙を吐き始めた。

「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」

今西の顔はこの瞬間、<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>そのもののマスクであった。

鎌倉。

<ruby><rb>陳</rb><rt>ちん</rt></ruby>の寝室の戸は破れていた。が、その<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>は寝台も、<ruby><rb>西洋㡡</rb><rt>せいようがや</rt></ruby>も、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。

<ruby><rb>陳彩</rb><rt>ちんさい</rt></ruby>は部屋の隅に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、寝台の前に伏し<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>なった、二人の姿を眺めていた。その一人は<ruby><rb>房子</rb><rt>ふさこ</rt></ruby>であった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫に<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、<ruby><rb>薄眼</rb><rt>うすめ</rt></ruby>に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に、両手の指を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていた。そうしてその<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わな<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>の上に、生死もわからない頭を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せていた。

何分かの沈黙が過ぎた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上の陳彩は、まだ苦しそうに<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながら、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った体を起した。が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の上へ、倒れるように腰を下してしまった。

その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に<ruby><rb>腫上</rb><rt>はれあが</rt></ruby>った顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。

椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。

「誰だ、お前は？」

彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。

「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」

彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れ声になった。

「お前だろう。誰だ、お前は？」

もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、<ruby><rb>無気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>なほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼の<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>は、「誰だ、お前は？」を繰返すように、時々声もなく動いていた。

その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>くと、そっとその細い<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>に唇を当てた。

明い電燈の光に満ちた、<ruby><rb>墓窖</rb><rt>はかあな</rt></ruby>よりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら………

東京。

突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。

「今の写真はもうすんだのかしら。」

女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。

「どの写真？」

「今のさ。『影』と云うのだろう。」

女は無言のまま、膝の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、『影』と云う標題は見当らなかった。

「するとおれは夢を見ていたのかな。それにしても眠った覚えのないのは妙じゃないか。おまけにその『影』と云うのが妙な写真でね。――」

私は手短かに『影』の<ruby><rb>梗概</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を話した。

「その写真なら、私も見た事があるわ。」

私が話し終った時、女は寂しい眼の底に微笑の色を動かしながら、ほとんど聞えないようにこう返事をした。

「お互に『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね。」

（大正九年七月十四日）