「何しろこの<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>は油断がならない。<ruby><rb>和田</rb><rt>わだ</rt></ruby>さえ芸者を知っているんだから。」

<ruby><rb>藤井</rb><rt>ふじい</rt></ruby>と云う弁護士は、<ruby><rb>老酒</rb><rt>ラオチュ</rt></ruby>の<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>してから、<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に一同の顔を見まわした。<ruby><rb>円卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の<ruby><rb>中年者</rb><rt>ちゅうねんもの</rt></ruby>である。場所は<ruby><rb>日比谷</rb><rt>ひびや</rt></ruby>の<ruby><rb>陶陶亭</rb><rt>とうとうてい</rt></ruby>の二階、時は六月のある雨の夜、――<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>藤井のこういったのは、もうそろそろ我々の顔にも、<ruby><rb>酔色</rb><rt>すいしょく</rt></ruby>の見え出した時分である。

「僕はそいつを見せつけられた時には、実際<ruby><rb>今昔</rb><rt>こんじゃく</rt></ruby>の感に堪えなかったね。――」

藤井は面白そうに弁じ続けた。

「医科の和田といった日には、柔道の選手で、<ruby><rb>賄征伐</rb><rt>まかないせいばつ</rt></ruby>の大将で、リヴィングストンの崇拝家で、<ruby><rb>寒中</rb><rt>かんちゅう</rt></ruby><ruby><rb>一重物</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>で通した男で、――<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>にいえば<ruby><rb>豪傑</rb><rt>ごうけつ</rt></ruby>だったじゃないか？　それが君、芸者を知っているんだ。しかも<ruby><rb>柳橋</rb><rt>やなぎばし</rt></ruby>の<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>えんという、――」

「君はこの頃<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>を変えたのかい？」

突然<ruby><rb>横槍</rb><rt>よこやり</rt></ruby>を入れたのは、<ruby><rb>飯沼</rb><rt>いいぬま</rt></ruby>という銀行の支店長だった。

「河岸を変えた？　なぜ？」

「君がつれて行った時なんだろう、和田がその芸者に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったというのは？」

「早まっちゃいけない。誰が和田なんぞをつれて行くもんか。――」

藤井は<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と眉を挙げた。

「あれは先月の幾日だったかな？　何でも月曜か火曜だったがね。久しぶりに和田と顔を合せると、浅草へ行こうというじゃないか？　浅草はあんまりぞっとしないが、親愛なる旧友のいう事だから、僕も素直に賛成してさ。<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>昼間</rb><rt>ぴるま</rt></ruby><ruby><rb>六区</rb><rt>ろっく</rt></ruby>へ出かけたんだ。――」

「すると活動写真の中にでもい合せたのか？」

今度はわたしが先くぐりをした。

「活動写真ならばまだ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いが、メリイ・ゴオ・ラウンドと来ているんだ。おまけに二人とも木馬の上へ、ちゃんと<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>っていたんだからな。今考えても<ruby><rb>莫迦莫迦</rb><rt>ばかばか</rt></ruby>しい次第さ。しかしそれも僕の<ruby><rb>発議</rb><rt>ほつぎ</rt></ruby>じゃない。あんまり和田が乗りたがるから、おつき合いにちょいと乗って見たんだ。――だがあいつは楽じゃないぜ。<ruby><rb>野口</rb><rt>のぐち</rt></ruby>のような胃弱は乗らないが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。」

「子供じゃあるまいし。木馬になんぞ乗るやつがあるもんか？」

野口という大学教授は、青黒い<ruby><rb>松花</rb><rt>スンホア</rt></ruby>を頬張ったなり、<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>むような笑い方をした。が、藤井は<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>に、時々和田へ目をやっては、<ruby><rb>得々</rb><rt>とくとく</rt></ruby>と話を続けて行った。

「和田の乗ったのは白い木馬、僕の乗ったのは赤い木馬なんだが、楽隊と一しょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。が、その中でも目についたのは、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>の<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>の見物の間に、芸者らしい女が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っている。色の蒼白い、目の<ruby><rb>沾</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ、どこか妙な憂鬱な、――」

「それだけわかっていれば大丈夫だ。目がまわったも怪しいもんだぜ。」

飯沼はもう一度口を挟んだ。

「だからその中でもといっているじゃないか？　髪は勿論<ruby><rb>銀杏返</rb><rt>いちょうがえ</rt></ruby>し、なりは薄青い<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>のセルに、何か<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の帯だったかと思う、とにかく<ruby><rb>花柳小説</rb><rt>かりゅうしょうせつ</rt></ruby>の<ruby><rb>挿絵</rb><rt>さしえ</rt></ruby>のような、<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>たる女が立っているんだ。するとその女が、――どうしたと思う？　僕の顔をちらりと見るなり、正に<ruby><rb>嫣然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>一笑</rb><rt>いっしょう</rt></ruby>したんだ。おやと思ったが<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に合わない。こっちは木馬に乗っているんだから、たちまち女の前は通りすぎてしまう。誰だったかなと思う時には、もうわが赤い木馬の前へ、楽隊の連中が現れている。――」

我々は皆笑い出した。

「二度目もやはり同じ事さ。また女がにっこりする。と思うと見えなくなる。<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>はただ前後左右に、木馬が<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねたり、馬車が躍ったり、<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らずんば<ruby><rb>喇叭</rb><rt>らっぱ</rt></ruby>がぶかぶかいったり、<ruby><rb>太鼓</rb><rt>たいこ</rt></ruby>がどんどん鳴っているだけなんだ。――僕はつらつらそう思ったね。これは人生の象徴だ。我々は皆同じように実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い。――」

「まさかほんとうに飛び下りはしまいな？」

からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。

「<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>いっちゃいけない。哲学は哲学、人生は人生さ。――所がそんな事を考えている内に、三度目になったと思い給え。その時ふと気がついて見ると、――これには僕も驚いたね。あの女が<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>を見せていたのは、残念ながら僕にじゃない。<ruby><rb>賄征伐</rb><rt>まかないせいばつ</rt></ruby>の大将、リヴィングストンの崇拝家、ETC\. ETC\. ……ドクタア<ruby><rb>和田長平</rb><rt>わだりょうへい</rt></ruby>にだったんだ。」

「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」

無口な野口も冗談をいった。しかし藤井は<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>話を続けるのに熱中していた。

「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに<ruby><rb>御時宜</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をしている。それがまたこう及び腰に、白い木馬に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」

「嘘をつけ。」

和田もとうとう沈黙を破った。彼はさっきから<ruby><rb>苦笑</rb><rt>くしょう</rt></ruby>をしては、<ruby><rb>老酒</rb><rt>ラオチュ</rt></ruby>ばかりひっかけていたのである。

「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時はまだ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんだ。いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃべっているじゃないか？　女も先生先生といっている。<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まらない役まわりは僕一人さ。――」

「なるほど、これは珍談だな。――おい、君、こうなればもう今夜の会費は、そっくり君に持って<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うぜ。」

飯沼は大きい<ruby><rb>魚翅</rb><rt>イウツウ</rt></ruby>の鉢へ、銀の<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を突きこみながら、隣にいる和田をふり返った。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な。あの女は友だちの囲いものなんだ。」

和田は<ruby><rb>両肘</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>をついたまま、ぶっきらぼうにいい放った。彼の顔は見渡した所、一座の誰よりも日に焼けている。目鼻立ちも甚だ都会じみていない。その上<ruby><rb>五分刈</rb><rt>ごぶが</rt></ruby>りに刈りこんだ頭は、ほとんど岩石のように丈夫そうである。彼は昔ある対校試合に、左の<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>きながら、五人までも敵を投げた事があった。――そういう往年の<ruby><rb>豪傑</rb><rt>ごうけつ</rt></ruby>ぶりは、黒い<ruby><rb>背広</rb><rt>せびろ</rt></ruby>に縞のズボンという、当世流行のなりはしていても、どこかにありありと残っている。

「飯沼！　君の囲い者じゃないか？」

藤井は<ruby><rb>額越</rb><rt>ひたいご</rt></ruby>しに相手を見ると、にやりと<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>った人の微笑を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

「そうかも知れない。」

飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。

「誰だい、その友だちというのは？」

「<ruby><rb>若槻</rb><rt>わかつき</rt></ruby>という実業家だが、――この中でも誰か知っていはしないか？　<ruby><rb>慶応</rb><rt>けいおう</rt></ruby>か何か卒業してから、今じゃ自分の銀行へ出ている、年配も我々と同じくらいの男だ。色の白い、優しい目をした、短い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を生やしている、――そうさな、まあ<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>にいえば、風流愛すべき好男子だろう。」

「<ruby><rb>若槻峯太郎</rb><rt>わかつきみねたろう</rt></ruby>、<ruby><rb>俳号</rb><rt>はいごう</rt></ruby>は<ruby><rb>青蓋</rb><rt>せいがい</rt></ruby>じゃないか？」

わたしは横合いから口を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ。その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>、一しょに芝居を見ていたからである。

「そうだ。<ruby><rb>青蓋</rb><rt>せいがい</rt></ruby>句集というのを出している、――あの男が小えんの<ruby><rb>檀那</rb><rt>だんな</rt></ruby>なんだ。いや、<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>ほど<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>までは檀那だったんだ。今じゃ全然手を切っているが、――」

「へええ、じゃあの若槻という人は、――」

「僕の中学時代の同窓なんだ。」

「これはいよいよ<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かじゃない。」

藤井はまた陽気な声を出した。

「君は我々が知らない<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ、――」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>をいえ。僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。<ruby><rb>蓄膿症</rb><rt>ちくのうしょう</rt></ruby>か何かの手術だったが、――」

和田は<ruby><rb>老酒</rb><rt>ラオチュ</rt></ruby>をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。

「しかしあの女は面白いやつだ。」

「<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れたかね？」

木村は静かにひやかした。

「それはあるいは惚れたかも知れない。あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」

和田はこう前置きをしてから、いつにない<ruby><rb>雄弁</rb><rt>ゆうべん</rt></ruby>を振い出した。

「僕は藤井の話した通り、この<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>偶然小えんに遇った。所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか？　なぜ別れたと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見ても、返事らしい返事は何もしない。ただ寂しそうに笑いながら、もともとわたしはあの人のように、<ruby><rb>風流人</rb><rt>ふうりゅうじん</rt></ruby>じゃないんですというんだ。

「僕もその時は立入っても<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かず、<ruby><rb>夫</rb><rt>それ</rt></ruby>なり別れてしまったんだが、つい<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>、――昨日は<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>若槻</rb><rt>わかつき</rt></ruby>から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた六畳の書斎に、<ruby><rb>相不変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>悠々と読書をしている。僕はこの通り<ruby><rb>野蛮人</rb><rt>やばんじん</rt></ruby>だから、風流の何たるかは全然知らない。しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。まず<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にはいつ行っても、古い<ruby><rb>懸物</rb><rt>かけもの</rt></ruby>が懸っている。花も始終絶やした事はない。書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。おまけに<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な机の側には、<ruby><rb>三味線</rb><rt>しゃみせん</rt></ruby>も時々は出してあるんだ。その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の<ruby><rb>浮世絵</rb><rt>うきよえ</rt></ruby>じみた、<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby>らしいなりをしている。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>も妙な着物を着ているから、それは何だねと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見ると、<ruby><rb>占城</rb><rt>チャンパ</rt></ruby>という物だと答えるじゃないか？　僕の友だち多しといえども、<ruby><rb>占城</rb><rt>チャンパ</rt></ruby>なぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。――まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。

「僕はその<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を前に、若槻と<ruby><rb>献酬</rb><rt>けんしゅう</rt></ruby>を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。小えんにはほかに男がある。それはまあ<ruby><rb>格別</rb><rt>かくべつ</rt></ruby>驚かずとも<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い。が、その相手は何かと思えば、<ruby><rb>浪花節語</rb><rt>なにわぶしかた</rt></ruby>りの<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>っ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>なんだそうだ。君たちもこんな話を聞いたら、小えんの<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>を<ruby><rb>哂</rb><rt>わら</rt></ruby>わずにはいられないだろう。僕も実際その時には、<ruby><rb>苦笑</rb><rt>くしょう</rt></ruby>さえ出来ないくらいだった。

「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。そのまた小えん自身にも、読み書きといわず<ruby><rb>芸事</rb><rt>げいごと</rt></ruby>といわず、何でも好きな事を仕込ませていた。小えんは<ruby><rb>踊</rb><rt>おど</rt></ruby>りも名を取っている。<ruby><rb>長唄</rb><rt>ながうた</rt></ruby>も<ruby><rb>柳橋</rb><rt>やなぎばし</rt></ruby>では指折りだそうだ。そのほか<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>も出来るというし、<ruby><rb>千蔭流</rb><rt>ちかげりゅう</rt></ruby>とかの<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>も上手だという。それも皆若槻のおかげなんだ。そういう消息を知っている僕は、君たちさえ<ruby><rb>笑止</rb><rt>しょうし</rt></ruby>に思う以上、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返らざるを得ないじゃないか？

「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、――そういう希望を持っていたのです。それだけに今度はがっかりしました。何も男を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるのなら、浪花節語りには限らないものを。あんなに芸事には身を入れていても、根性の<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しさは直らないかと思うと、実際<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しい気がするのです。………

「<ruby><rb>若槻</rb><rt>わかつき</rt></ruby>はまたこうもいうんだ。あの女はこの<ruby><rb>半年</rb><rt>はんとし</rt></ruby>ばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。それがまたなぜだと<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。そんな時はわたしが何といっても、耳にかける<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>さえありません。ただもうわたしは薄情だと、そればかり<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しそうに繰返すのです。もっとも<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>さえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、………

「若槻はまたこうもいうんだ。何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。前に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>だった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、<ruby><rb>大怪我</rb><rt>おおけが</rt></ruby>をさせたというじゃありませんか？　このほかにもまだあの男には、<ruby><rb>無理心中</rb><rt>むりしんじゅう</rt></ruby>をしかけた事だの、<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししょう</rt></ruby>の娘と<ruby><rb>駈落</rb><rt>かけお</rt></ruby>ちをした事だの、いろいろ悪い<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>も聞いています。そんな男に<ruby><rb>引懸</rb><rt>ひっか</rt></ruby>かるというのは一体どういう<ruby><rb>量見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>なのでしょう。………

「僕は<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>えんの不しだらには、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返らざるを得ないと云った。しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。なるほど若槻は<ruby><rb>檀那</rb><rt>だんな</rt></ruby>としては、当世<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に見る通人かも知れない。が、あの女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか？　たといそれは<ruby><rb>辞令</rb><rt>じれい</rt></ruby>にしても、猛烈な<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうじゃく</rt></ruby>はないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えんはやはり若槻との<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、ギャップのある事を知っていたんだ。

「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。――が、もし不幸になるとすれば、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わるべきものは男じゃない。小えんをそこに至らしめた、<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby><ruby><rb>若槻青蓋</rb><rt>わかつきせいがい</rt></ruby>だと思う。若槻は――いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。彼等は<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>を理解している。レオ・トルストイを理解している。<ruby><rb>池大雅</rb><rt>いけのたいが</rt></ruby>を理解している。<ruby><rb>武者小路実篤</rb><rt>むしゃのこうじさねあつ</rt></ruby>を理解している。カアル・マルクスを理解している。しかしそれが何になるんだ？　彼等は猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的情熱を知らない。猛烈な、――およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。そこに彼等の<ruby><rb>致命傷</rb><rt>ちめいしょう</rt></ruby>もあれば、彼等の害毒も<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいると思う。害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。害毒の二つは反動的に、<ruby><rb>一層</rb><rt>いっそう</rt></ruby>他人を俗にする事だ。小えんの如きはその例じゃないか？　昔から<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いているものは、<ruby><rb>泥水</rb><rt>どろみず</rt></ruby>でも飲むときまっている。小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。

「もしまた幸福になるとすれば、――いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に幸福だろう。さっき藤井がいったじゃないか？　我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、<ruby><rb>一思</rb><rt>ひとおも</rt></ruby>いに木馬を飛び下りるが<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い。――いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。僕は人生の価値を思うと、百の若槻には<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。

「君たちはそう思わないか？」

和田は<ruby><rb>酔眼</rb><rt>すいがん</rt></ruby>を輝かせながら、声のない一座を見まわした。が、藤井はいつのまにか、<ruby><rb>円卓</rb><rt>テエブル</rt></ruby>に首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすり<ruby><rb>眠</rb><rt>ね</rt></ruby>こんでいた。

（大正十一年六月）