一

ある花曇りの朝だった。<ruby><rb>広子</rb><rt>ひろこ</rt></ruby>は<ruby><rb>京都</rb><rt>きょうと</rt></ruby>の停車場から東京<ruby><rb>行</rb><rt>ゆき</rt></ruby>の急行列車に乗った。それは結婚後二年ぶりに母親の<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うためもあれば、母かたの祖父の金婚式へ顔をつらねるためもあった。しかしまだそのほかにもまんざら用のない体ではなかった。彼女はちょうどこの機会に、妹の<ruby><rb>辰子</rb><rt>たつこ</rt></ruby>の恋愛問題にも解決をつけたいと思っていた。妹の希望をかなえるにしろ、あるいはまたかなえないにしろ、とにかくある解決だけはつけなければならぬと思っていた。

この問題を広子の知ったのは四五日前に受け取った辰子の手紙を読んだ時だった。広子は年ごろの妹に恋愛問題の起ったことは格別意外にも思わなかった。予期したと言うほどではなかったにしろ、当然とは確かに思っていた。けれどもその恋愛の相手に<ruby><rb>篤介</rb><rt>あつすけ</rt></ruby>を選んだと言うことだけは意外に思わずにはいられなかった。広子は汽車に<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>られている今でも、篤介のことを考えると、何か急に妹との間に谷あいの出来たことを感ずるのだった。

篤介は広子にも<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじ</rt></ruby>みのあるある洋画研究所の生徒だった。<ruby><rb>処女</rb><rt>しょじょ</rt></ruby>時代の彼女は妹と一しょに、この画の具だらけの青年をひそかに「<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>」と<ruby><rb>諢名</rb><rt>あだな</rt></ruby>していた。彼は実際顔の赤い、妙に目ばかり<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>かせた、――つまり猿じみた青年だった。のみならず身なりも貧しかった。彼は冬も<ruby><rb>金釦</rb><rt>きんボタン</rt></ruby>の制服に古いレエン・コオトをひっかけていた。広子は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>篤介に何の興味も感じなかった。辰子も――辰子は姉に比べると、一層彼を好まぬらしかった。あるいはむしろ積極的に憎んでいたとも云われるほどだった。一度なども辰子は電車に乗ると、篤介の隣りに坐ることになった。それだけでも彼女には<ruby><rb>愉快</rb><rt>ゆかい</rt></ruby>ではなかった。そこへまた彼は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上の新聞紙包みを<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げると、せっせとパンを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>じり出した。電車の中の人々の目は云い合せたように篤介へ向った。彼女は彼女自身の上にも<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>にその目の<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>がれるのを感じた。しかし彼は<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>じろぎもせずに悠々とパンを食いつづけるのだった。……

「<ruby><rb>野蛮人</rb><rt>やばんじん</rt></ruby>よ、あの人は。」

広子はこのことのあって<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、こう辰子の<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ったのをいまさらのように思い出した。なぜその篤介を愛するようになったか？――それは広子には不可解だった。けれども妹の<ruby><rb>気質</rb><rt>きしつ</rt></ruby>を思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は<ruby><rb>物故</rb><rt>ぶっこ</rt></ruby>した父のように、何ごとにも<ruby><rb>一図</rb><rt>いちず</rt></ruby>になる気質だった。たとえば<ruby><rb>油画</rb><rt>あぶらえ</rt></ruby>を始めた時にも、彼女の夢中になりさ加減は家族中の予想を<ruby><rb>超越</rb><rt>ちょうえつ</rt></ruby>していた。彼女は<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な画の具箱を<ruby><rb>小脇</rb><rt>こわき</rt></ruby>に、篤介と同じ研究所へ毎日せっせと<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>い出した。同時にまた彼女の<ruby><rb>居間</rb><rt>いま</rt></ruby>の壁には一週に必ず一枚ずつ新しい油画がかかり出した。油画は六号か八号のカンヴァスに人体ならば顔ばかりを、風景ならば西洋風の建物を<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いたのが多いようだった。広子は結婚前の何箇月か、――殊に深い秋の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>などにはそう云う油画の並んだ部屋に何時間も妹と話しこんだ。辰子はいつも熱心にゴオグとかセザンヌとかの話をした。当時どこかに上演中だった<ruby><rb>武者小路</rb><rt>むしゃのこうじ</rt></ruby>氏の戯曲の話もした。広子も美術だの文芸だのに全然興味のない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではなかった。しかし彼女の空想は芸術とはほとんど縁のない未来の生活の上に休み勝ちだった。目はその間も<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>に入れた机の上の<ruby><rb>玉葱</rb><rt>たまねぎ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>をした少女の顔だの、<ruby><rb>芋畑</rb><rt>いもばたけ</rt></ruby>の向うに<ruby><rb>連</rb><rt>つらな</rt></ruby>った<ruby><rb>監獄</rb><rt>かんごく</rt></ruby>の壁だのを眺めながら。……

「<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>と言うの、あなたの<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>の流儀は？」

広子はそんなことを<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたために辰子を<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>らせたのを思い出した。もっとも妹に怒られることは必ずしも珍らしい出来事ではなかった。彼等は芸術の見かたは勿論、生活上の問題などにも意見の違うことはたびたびあった。現にある時は武者小路氏の戯曲さえ言い合いの種になった。その戯曲は失明した兄のために<ruby><rb>犠牲的</rb><rt>ぎせいてき</rt></ruby>の結婚を<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てする妹のことを書いたものだった。広子はこの上演を見物した時から、（彼女はよくよく退屈しない限り、小説や戯曲を読んだことはなかった。）芸術家肌の兄を好まなかった。たとい失明していたにしろ、<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>にでも<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>にでもなれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのに、妹の犠牲を受けているのは利己主義者であるとも極言した。辰子は姉とは反対に兄にも妹にも同情していた。姉の意見は<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>な悲劇をわざと喜劇に翻訳する世間人の遊戯であるなどとも言った。こう言う言い合いのつのった末には二人ともきっと怒り出した。けれどもさきに怒り出すのはいつも辰子にきまっていた。広子はそこに彼女自身の<ruby><rb>優越</rb><rt>ゆうえつ</rt></ruby>を感ぜずにはいられなかった。それは辰子よりも人間の心を<ruby><rb>看破</rb><rt>かんぱ</rt></ruby>していると言う優越だった。あるいは辰子ほど空疎な理想に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>われていないと言う優越だった。

「姉さん。どうか今夜だけはほんとうの姉さんになって下さい。<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>ないつもの姉さんではなしに。」

三度目に広子の思い出したのは妹の手紙の<ruby><rb>一行</rb><rt>いちぎょう</rt></ruby>だった。その手紙は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>白い紙を細かいペンの字に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていた。しかし篤介との関係になると、ほとんど何ごとも書いてなかった。ただ念入りに繰り返してあるのは彼等は互に愛し合っていると云う、簡単な事実ばかりだった。広子は勿論<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>の間に彼等の関係を読もうとした。実際またそう思って読んで行けば、疑わしい個所もないではなかった。けれども<ruby><rb>再応</rb><rt>さいおう</rt></ruby>考えて見ると、それも皆彼女の<ruby><rb>邪推</rb><rt>じゃすい</rt></ruby>らしかった。広子は今もとりとめのない<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じながら、もう一度何か<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な篤介の姿を思い浮べた。すると急に篤介の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>――篤介の体の発散する匂は<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>し<ruby><rb>草</rb><rt>くさ</rt></ruby>に似ているような気がし出した。彼女の経験に誤りがなければ、干し草の匂のする男性はたいてい浅ましい動物的の本能に富んでいるらしかった。広子はそう云う篤介と一しょに純粋な妹を考えるのは考えるのに堪えない心もちがした。

広子の<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>はそれからそれへと、とめどなしに流れつづけた。彼女は汽車の<ruby><rb>窓側</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>にきちりと<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を重ねたまま、時どき窓の外へ目を移した。汽車は<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>の<ruby><rb>国境</rb><rt>くにざかい</rt></ruby>に近い<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>山峡</rb><rt>やまかい</rt></ruby>を走っていた。山峡には<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>や杉林の間に白じろと桜の咲いているのも見えた。「この<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>は余ほど寒いと見える。」――広子はいつか<ruby><rb>嵐山</rb><rt>あらしやま</rt></ruby>の桜も散り出したことなどを思い出していた。

二

<ruby><rb>広子</rb><rt>ひろこ</rt></ruby>は東京へ帰った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、何かと用ばかり多かったために二三日の間は妹とも話をする機会を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えなかった。それをやっと捉えたのは母かたの祖父の金婚式から帰って来た<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>の十時ごろだった。妹の<ruby><rb>居間</rb><rt>いま</rt></ruby>には例の通り壁と云う壁に<ruby><rb>油画</rb><rt>あぶらえ</rt></ruby>がかかり、畳に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えた<ruby><rb>円卓</rb><rt>えんたく</rt></ruby>の上にも黄色い笠をかけた電燈が二年前の光りを放っていた。広子は<ruby><rb>寝間着</rb><rt>ねまき</rt></ruby>に着換えた上へ、羽織だけ<ruby><rb>紋</rb><rt>もん</rt></ruby>のあるのをひっかけたまま、円卓の前の<ruby><rb>安楽椅子</rb><rt>あんらくいす</rt></ruby>へ坐った。

「ただ今お茶をさし上げます。」

<ruby><rb>辰子</rb><rt>たつこ</rt></ruby>は姉の向うに坐ると、わざと<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にこんなことを言った。

「いえ、もうどうぞ。――ほんとうにお茶なんぞ<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らないことよ。」

「じゃ紅茶でも入れましょうか？」

「紅茶も沢山。――それよりもあの話を聞かせて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>。」

広子は妹の顔を見ながら、出来るだけ気軽にこう言った。と言うのは彼女の感情を、――かなり複雑な陰影を帯びた好奇心だの非難だのあるいはまた同情だのを<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かされないためもあれば、被告じみた妹の心もちを<ruby><rb>楽</rb><rt>らく</rt></ruby>にしてやりたいためもあったのだった。しかし辰子は思いのほか、困ったらしいけはいも見せなかった。いや、その時の彼女のそぶりに少しでも変化があったとすれば、それは浅黒い顔のどこかにほとんど目にも止らぬくらい、<ruby><rb>緊張</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>した色が動いただけだった。

「ええ、ぜひわたしも姉さんに聞いて頂きたいの。」

広子は内心プロロオグの簡単にすんだことに満足した。けれども辰子はそう言ったぎり、しばらく口を<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>かなかった。広子は妹の沈黙を話し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>いためと解釈した。しかし妹を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>すことはちょっと<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>な心もちがした。同時にまたそう云う妹の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を享楽したい心もちもした。かたがた広子は安楽椅子の背に<ruby><rb>西洋髪</rb><rt>せいようがみ</rt></ruby>の頭を<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>せたまま、全然当面の問題とは縁のない詠嘆の言葉を落した。

「何だか昔に返ったような気がするわね、この椅子にこうやって坐っていると。」

広子は彼女自身の言葉に少女じみた感動を催しながら、うっとり部屋の中を眺めまわした。なるほど椅子も、電燈も、円卓も、壁の油画も昔の記憶の通りだった。が、何かその間に不思議な変化が起っていた。何か？――広子はたちまちこの変化を油画の上に発見した。机の上の<ruby><rb>玉葱</rb><rt>たまねぎ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>をした少女の顔だの、<ruby><rb>芋畠</rb><rt>いもばたけ</rt></ruby>の向うの監獄だのはいつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にかどこかへ消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せていた。あるいは消え失せてしまわないまでも、二年前には見られなかった、柔かい明るさを呼吸していた。殊に広子は<ruby><rb>正面</rb><rt>しょうめん</rt></ruby>にある一枚の油画に珍らしさを感じた。それはどこかの庭を<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いた六号ばかりの<ruby><rb>小品</rb><rt>しょうひん</rt></ruby>だった。<ruby><rb>白茶</rb><rt>しらちゃ</rt></ruby>けた<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>に<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>われた木々と<ruby><rb>木末</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に咲いた藤の花と木々の間に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいた池と、――画面にはそのほかに何もなかった。しかしそこにはどの<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>よりもしっとりした明るさが<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っていた。

「あなたの画、あそこにあるのも？」

辰子は<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろを振り向かずに、姉の<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した画を推察した。

「あの画？　あれは<ruby><rb>大村</rb><rt>おおむら</rt></ruby>の。」

大村は篤介の<ruby><rb>苗字</rb><rt>みょうじ</rt></ruby>だった。広子は「大村の」に微笑を感じた。が、一瞬間<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましさに似た何ものかを感じたのも事実だった。しかし辰子は<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>に羽織の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をいじりいじり、落ち着いた声に話しつづけた。

「<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の庭を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いたのですって。――大村の家は旧家なんですって。」

「今は何をしているの？」

「県会議員か<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>かでしょう。銀行や会社も持っているようよ。」

「あの人は次男か三男かなの？」

「長男――って云うのかしら？　一人きりしかいないんですって。」

広子はいつか彼等の話が当面の問題へはいり出した、――と言うよりもむしろその一部を解決していたのに気がついた。今度の事件を聞かされて以来、彼女の気がかりになっていたのはやはり篤介の<ruby><rb>身分</rb><rt>みぶん</rt></ruby>だった。殊に貧しげな彼の身なりはこの世俗的な問題に一層の重みを加えていた。それを今彼等の問答は<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に片づけてしまったのだった。ふとその事実に気のついた広子は急に<ruby><rb>常談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>を言う<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎを感じた。

「じゃ<ruby><rb>立派</rb><rt>りっぱ</rt></ruby>な若旦那様なのね。」

「ええ、ただそりゃボエエムなの。<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>も妙なところにいるのよ。<ruby><rb>羅紗屋</rb><rt>らしゃや</rt></ruby>の<ruby><rb>倉庫</rb><rt>そうこ</rt></ruby>の二階を借りているの。」

辰子はほとんど<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>そうにちらりと姉へ微笑を送った。広子はこの微笑の中に突然<ruby><rb>一人前</rb><rt>いちにんまえ</rt></ruby>の女を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。もっともこれは東京駅へ出迎えた妹を見た時から、時々意識へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ることだった。けれどもまだ今のように、はっきり焦点の合ったことはなかった。広子はその意識と共にたちまち篤介との関係にも多少の疑惑を抱き出した。

「あなたもそこへ行ったことがあるの？」

「ええ、たびたび行ったことがあるわ。」

広子の<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>は結婚前のある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の記憶を呼び起した。母はその<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby><ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>にはいりながら、彼女に日どりのきまったことを話した。それから<ruby><rb>常談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>とも<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>ともつかずに体の<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>を尋ねたりした。<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>その夜の母のように淡白な態度に出られなかった彼女は、今もただじっと妹の顔を見守るよりほかに仕かたはなかった。しかし辰子は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>落ち着いた微笑を浮べながら、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに黄色い電燈の笠へ目をやっているばかりだった。

「そんなことをしてもかまわないの？」

「大村が？」

「いいえ、あなたがよ。誤解でもされたら、迷惑じゃなくって？」

「どうせ誤解はされ通しよ。何しろ研究所の連中と来たら、そりゃ口がうるさいんですもの。」

広子はちょっと<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じた。のみならず取り澄ました妹の態度も芝居ではないかと言う<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>さえ生じた。すると辰子は<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいた羽織の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を投げるようにするなり、突然こう言う<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>を発した。

「<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>さんは許して下さるでしょうか？」

広子はもう一度<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じた。それは<ruby><rb>恬然</rb><rt>てんぜん</rt></ruby>と切りこんで来る妹に対する苛立たしさでもあれば、だんだん<ruby><rb>受太刀</rb><rt>うけだち</rt></ruby>になって来る彼女自身に対する苛立たしさでもあった。彼女は篤介の油画へ浮かない目を遊ばせたまま「そうねえ」と<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>え切らない返事をした。

「姉さんから話していただけない？」

辰子はやや甘えるように広子の視線を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えようとした。

「わたしから話すったって、――わたしもあなたたちのことは知らないじゃないの？」

「だから聞いて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>って言っているのよ。それをちっとも姉さんは聞く気になってくれないんですもの。」

広子はこの話のはじまった時、辰子のしばらく沈黙したのを話し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>いためと解釈した。が、今になって見ると、その沈黙は話し悪いよりも、むしろ話したさをこらえながら、姉の<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めるのを待っていたのだった。広子は勿論<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろめたい気がした。

しかしまた<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に妹の言葉を利用することも忘れなかった。

「あら、あなたこそ話さないんじゃないの？――じゃすっかり聞かせて頂戴。その上でわたしも考えて見るから。」

「そう？　じゃとにかく話して見るわ。その代りひやかしたり何かしちゃ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>よ。」

辰子はまともに姉の顔を見たまま、彼女の恋愛問題を話し出した。広子は<ruby><rb>小首</rb><rt>こくび</rt></ruby>を傾けながら、時々返事をする代りに静かな<ruby><rb>点頭</rb><rt>てんとう</rt></ruby>を送っていた。が、内心はこの間も絶えず二つの問題を解決しようとあせっていた。その一つは彼等の恋愛の何のために生じたかと言うことであり、もう一つは彼等の関係のどのくらい進んでいるかと言うことだった。しかし正直な妹の話もほとんど第一の問題には何の解決も与えなかった。辰子はただ篤介と毎日顔を合せているうちにいつか彼と<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>になり、いつかまた彼を愛したのだった。のみならず第二の問題もやはり判然とはわからなかった。辰子は他人の身の上のように彼の求婚した時のことを話した。しかもそれは<ruby><rb>抒情詩</rb><rt>じょじょうし</rt></ruby>よりもむしろ喜劇に近いものだった。――

「大村は電話で求婚したの。<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいでしょう？　<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でも<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>に失敗して、畳の上にころがっていたら、急にそんな気になったんですって。だっていきなりどうだって言ったって、返事に困ってしまうじゃないの？　おまけにその時は電話室の外へ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>さんも<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しものに来ているんでしょう？　わたし、仕かたがなかったから、ただウイ、ウイって言って置いたの。……」

それから？――それから先も妹の話は軽快に事件を追って行った。彼等は一しょに展覧会を見たり、植物園へ写生に行ったり、ある<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>のピアニストを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたりしていた。が、彼等の関係は辰子の言葉を信用すれば、友だち以上に出ないものだった。広子はそれでも油断せずに妹の顔色を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったり、話の裏を考えたり、一二度は<ruby><rb>鎌</rb><rt>かま</rt></ruby>さえかけて見たりした。しかし辰子は電燈の光に落ち着いた<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を<ruby><rb>澄</rb><rt>す</rt></ruby>ませたまま、少しも<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>した色を見せないのだった。

「まあ、ざっとこう言う<ruby><rb>始末</rb><rt>しまつ</rt></ruby>なの。――ああ、それから姉さんにわたしから手紙を上げたことね、あのことは大村にも話して置いたの。」

広子は妹の話し終った時、勿論<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>いもの足らなさを感じた。けれども<ruby><rb>一通</rb><rt>ひととお</rt></ruby>り打ち明けられて見ると、これ以上第二の問題には深入り出来ないのに違いなかった。彼女はそのためにやむを得ず第一の問題に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。

「だってあなたはあの人は<ruby><rb>大嫌</rb><rt>だいきら</rt></ruby>いだって言っていたじゃないの？」

広子はいつか声の中にはいった<ruby><rb>挑戦</rb><rt>ちょうせん</rt></ruby>の調子を意識していた。が、辰子はこの問にさえ<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>を見せたばかりだった。

「大村もわたしは大嫌いだったんですって。ジン・コクテルくらいは飲みそうな気がしたんですって。」

「そんなものを飲む人がいるの？」

「そりゃいるわ。男のように<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて花を引く人もいるんですもの。」

「それがあなたがたの新時代？」

「かも知れないと思っているの。……」

辰子は姉の予想したよりも<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に返事をした。と思うとたちまち<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>と一しょにもう一度<ruby><rb>話頭</rb><rt>わとう</rt></ruby>を引き戻した。

「それよりもわたしの問題だわね、姉さんから話していただけない？」

「そりゃ話して上げないこともないわ。上げないこともないけれども、――」

広子はあらゆる姉のように忠告の言葉を加えようとした。すると辰子はそれよりも先にこう話を<ruby><rb>截断</rb><rt>せつだん</rt></ruby>した。

「とにかく大村を知らないじゃね。――じゃ姉さん、二三日<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に大村に会っちゃ下さらない？　大村も喜んでお目にかかると思うの。」

広子はこの話頭の変化に思わず大村の油画を眺めた。藤の花は<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>ばんだ木々の間になぜか前よりもほのぼのとしていた。彼女は一瞬間心の中に昔の「<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>」を<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>しながら、<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>に「そうねえ」を<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り返した。が、辰子は「そうねえ」くらいに満足する<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見せなかった。

「じゃ会って下さるわね。大村の下宿へ行って下さる？」

「だって下宿へも<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>かれないじゃないの？」

「じゃここへ来て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いましょうか？　それも<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>だか<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいわね。」

「あの人は前にも来たことはあるの？」

「いいえ、まだ一度もないの。それだから何だか可笑しいのよ。じゃあと、――じゃこうして下さらない？　大村は<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby><ruby><rb>表慶館</rb><rt>ひょうけいかん</rt></ruby>へ画を見に<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない？」

「そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>もあるし。……」

広子はうっかりこう言った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、たちまち<ruby><rb>軽率</rb><rt>けいそつ</rt></ruby>を後悔した。けれども辰子はその時にはもう<ruby><rb>別人</rb><rt>べつじん</rt></ruby>かと思うくらい、顔中に喜びを<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせていた。

「そうお？　じゃそうして<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。」

広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>を挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、――姉の<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いた広子の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>へ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の<ruby><rb>幼稚園</rb><rt>ようちえん</rt></ruby>へ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ<ruby><rb>羞</rb><rt>はずか</rt></ruby>しさを感じた。このショックは勿論<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>のように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ば微笑した目にわざと妹を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めるほかはなかった。

「いやよ。何をするの？」

「だってほんとうに嬉しいんですもの。」

辰子は<ruby><rb>円卓</rb><rt>えんたく</rt></ruby>の上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>かせていた。

「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でもして下さるのに違いないって。――実は<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>も大村と<ruby><rb>一日</rb><rt>いちんち</rt></ruby>姉さんの話をしたの。それでね、……」

「それで？」

辰子はちょっと目の中に<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>らしい<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きを宿した。

「それでもうおしまいだわ。」

三

<ruby><rb>広子</rb><rt>ひろこ</rt></ruby>は化粧道具や何かを入れた<ruby><rb>銀細具</rb><rt>ぎんざいく</rt></ruby>のバッグを下げたまま、<ruby><rb>何年</rb><rt>なんねん</rt></ruby>にもほとんど来たことのない<ruby><rb>表慶館</rb><rt>ひょうけいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>を歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着きの底に多少の<ruby><rb>遊戯心</rb><rt>ゆうぎしん</rt></ruby>を意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいは<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>めたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつか<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>り出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある<ruby><rb>螺旋状</rb><rt>らせんじょう</rt></ruby>の階段を登って行った。

螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に<ruby><rb>青貝</rb><rt>あおがい</rt></ruby>を<ruby><rb>鏤</rb><rt>ちりば</rt></ruby>めた古代の<ruby><rb>楽器</rb><rt>がっき</rt></ruby>や古代の<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>を発見した。が、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の<ruby><rb>篤介</rb><rt>あつすけ</rt></ruby>の姿は<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>この部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>に彼女の<ruby><rb>髪形</rb><rt>かみかたち</rt></ruby>を映して見た<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、やはり格別急ぎもせずに<ruby><rb>隣</rb><rt>となり</rt></ruby>の第二室へ足を向けた。

第二室は<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>から明りを取った、横よりも<ruby><rb>竪</rb><rt>たて</rt></ruby>の長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>越しに<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めているのは<ruby><rb>藤原</rb><rt>ふじわら</rt></ruby>とか<ruby><rb>鎌倉</rb><rt>かまくら</rt></ruby>とか言うらしい、もの<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びた仏画ばかりだった。篤介は<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>も制服の上に<ruby><rb>狐色</rb><rt>きつねいろ</rt></ruby>になったクレヴァア・ネットをひっかけ、この<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>に似た部屋の中をぶらぶら<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>歩いていた。広子は彼の姿を見た時、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の「猿」を感じた。同時にまた気安い<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>を感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>は確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち<ruby><rb>足早</rb><rt>あしばや</rt></ruby>に歩いて行った。

「<ruby><rb>大村</rb><rt>おおむら</rt></ruby>さんでいらっしゃいますわね？　わたしは――<ruby><rb>御存知</rb><rt>ごぞんじ</rt></ruby>でございましょう？」

篤介はただ「ええ」と答えた。彼女はこの「ええ」の中にはっきり彼の<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>を感じた。のみならずこの一瞬間に彼の<ruby><rb>段鼻</rb><rt>だんばな</rt></ruby>だの、<ruby><rb>金歯</rb><rt>きんば</rt></ruby>だの、左の<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げの<ruby><rb>剃刀傷</rb><rt>かみそりきず</rt></ruby>だの、ズボンの<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事実を発見した。しかし彼女の顔色は何も気づかぬように<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え<ruby><rb>冴</rb><rt>ざ</rt></ruby>えしていた。

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は勝手なことをお願い申しまして、さぞ御迷惑でございましょう。そんな失礼なことをとは思ったんでございますが、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でもと妹が申すもんでございますから。……」

広子はこう話しかけたまま、静かにあたりを眺めまわした。リノリウムの<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>には<ruby><rb>何脚</rb><rt>なんきゃく</rt></ruby>かのベンチも背中合せに並んでいた。けれどもそこに腰をかけるのは<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>人目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>に立ち兼ねなかった。人目は？――彼等の前後には<ruby><rb>観覧人</rb><rt>かんらんにん</rt></ruby>が三四人、今も<ruby><rb>普賢</rb><rt>ふげん</rt></ruby>や<ruby><rb>文珠</rb><rt>もんじゅ</rt></ruby>の前にそっと立ち止まったり歩いたりしていた。

「いろいろ伺いたいこともあるんでございますけれども、――じゃぶらぶら歩きながら、お話しすることに致しましょうか？」

「ええ、どうでも。」

広子はしばらく無言のまま、ゆっくり<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を運んで行った。この沈黙は確かに篤介には精神的<ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>に<ruby><rb>等</rb><rt>ひと</rt></ruby>しいらしかった。彼は何か言おうとするようにちょっと一度<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いをした。が、咳払いは天井の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>にたちまち大きい反響を生じた。彼はその反響に恐れたのか、やはり何も言わずに歩きつづけた。広子はこう言う彼の苦痛に多少の<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんびん</rt></ruby>を感じていた。けれどもまた<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>の<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>もなしに多少の享楽をも感じていた。もっとも<ruby><rb>守衛</rb><rt>しゅえい</rt></ruby>や観覧人に時々<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を与えられるのは勿論彼女にも不快だった。しかし彼等も年齢の上から、――と言うよりもさらに服装の上から決して二人の関係を誤解しないには違いなかった。彼女はその気安さの上から不安らしい篤介を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>していた。彼はあるいは彼女には敵であるかも知れなかった。が、敵であるにもしろ、<ruby><rb>世慣</rb><rt>よな</rt></ruby>れぬ妹と五十歩百歩の敵であることは確かだった。……

「伺いたいと申しますのは大したことではないんでございますけれどもね、――」

彼女は第二室を出ようとした時、ことさら彼へ目をやらずにやっと<ruby><rb>本文</rb><rt>ほんもん</rt></ruby>へはいり出した。

「あれにも母親が<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>ございますし、あなたもまた、――あなたは御両親ともおありなんでございますか？」

「いいえ、<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>だけです。」

「お<ruby><rb>父様</rb><rt>とうさま</rt></ruby>だけ。御兄弟は確かございませんでしたね？」

「ええ、僕だけです。」

彼等は第二室を通り越した。第二室の外は<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>天井の下に左右へ<ruby><rb>露台</rb><rt>ろだい</rt></ruby>を開いた部屋だった。部屋も勿論円形をしていた。そのまた円形は<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>ほどの幅をぐるりと周囲へ余したまま、白い大理石の<ruby><rb>欄干越</rb><rt>らんかんご</rt></ruby>しにずっと下の玄関を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かれるように出来上っていた。彼等は自然と大理石の欄干の外をまわりながら、篤介の家族や親戚や交友のことを話し合った。彼女は微笑を含んだまま、かなり尋ね<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い<ruby><rb>局所</rb><rt>きょくしょ</rt></ruby>にも<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>に話を進めて行った。しかしその割に彼女や<ruby><rb>辰子</rb><rt>たつこ</rt></ruby>の家庭の事情などには沈黙していた。それは必ずしも最初から相手を<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>ちゃんと<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>った上の<ruby><rb>打算</rb><rt>ださん</rt></ruby>ではないのに違いなかった。けれどもまた坊ちゃんと見縊らなければ、彼女ももっとこちらの<ruby><rb>内輪</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>わせていたことは確かだった。

「じゃ余りお友だちはおありにならないんでございますね？」（未完）

（大正十四年四月）