一

<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の隅に据えた<ruby><rb>姿見</rb><rt>すがたみ</rt></ruby>には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>特有の旅館の二階が、一部分はっきり<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい<ruby><rb>何畳</rb><rt>なんじょう</rt></ruby>かの<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>、最後にこちらへ<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を見せた、<ruby><rb>西洋髪</rb><rt>せいようがみ</rt></ruby>の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、<ruby><rb>縫物</rb><rt>ぬいもの</rt></ruby>か何かしているらしい。

もっとも後は向いたと云う条、<ruby><rb>地味</rb><rt>じみ</rt></ruby>な<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の羽織の肩には、<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れかかった<ruby><rb>前髪</rb><rt>まえがみ</rt></ruby>のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>いたのも見える。やや長めな<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。

この姿見のある部屋には、隣室の赤児の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。

「あなた。」

そう云う<ruby><rb>何分</rb><rt>なんぷん</rt></ruby>かが過ぎ去った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、女は仕事を続けながら、突然、しかし<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なさそうに、こう誰かへ声をかけた。

誰か、――部屋の中には女のほかにも、<ruby><rb>丹前</rb><rt>たんぜん</rt></ruby>を<ruby><rb>羽織</rb><rt>はお</rt></ruby>った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、<ruby><rb>長々</rb><rt>ながなが</rt></ruby>と<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。

「あなた。」

女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」

男は幾分うるさそうに、<ruby><rb>丸々</rb><rt>まるまる</rt></ruby>と肥った、<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>の短い、活動家らしい頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げた。

「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって？」

「部屋を変える？　だってここへはやっと<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、引っ越して来たばかりじゃないか？」

男の顔はけげんそうだった。

「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>いているでしょう？」

男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げた<ruby><rb>窓側</rb><rt>まどがわ</rt></ruby>の壁には、色の変った畳の上に<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい<ruby><rb>天竺葵</rb><rt>ジェラニアム</rt></ruby>が、薄い<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>に、<ruby><rb>麦藁帽</rb><rt>むぎわらぼう</rt></ruby>をかぶった<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の車夫が、所在なさそうにうろついている。………

「だがお前はあの部屋にいるのは、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>だ嫌だと云っていたじゃないか？」

「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>になったんですもの。」

女は針の手をやめると、もの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>そうに顔を挙げて見せた。<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>を見ても、何か苦労を<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、<ruby><rb>米噛</rb><rt>こめか</rt></ruby>みにも<ruby><rb>静脈</rb><rt>じょうみゃく</rt></ruby>が浮き出している。

「ね、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう。……いけなくて？」

「しかし前の部屋よりは、広くもあるし<ruby><rb>居心</rb><rt>いごころ</rt></ruby>も<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>な事があるのかい？」

「何って事はないんですけれど。……」

女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。

「いけなくって、どうしても？」

今度は男が新聞の上へ<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙を吹きかけたぎり、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いとも悪いとも答えなかった。

部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>、休みのない雨の音がしている。

「<ruby><rb>春雨</rb><rt>はるさめ</rt></ruby>やか、――」

男はしばらくたった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、ごろりと<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>きに<ruby><rb>寝転</rb><rt>ねころ</rt></ruby>ぶと、独り言のようにこう云った。

「<ruby><rb>蕪湖</rb><rt>ウウフウ</rt></ruby>住みをするようになったら、<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>でも一つ始めるかな。」

女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。

「<ruby><rb>蕪湖</rb><rt>ウウフウ</rt></ruby>もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は<ruby><rb>雍家花園</rb><rt>ようかかえん</rt></ruby>とか云ってね、――」　

男は突然口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。いつか<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。

「おい。」

泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れ途切れに続き出した。

「おい。<ruby><rb>敏子</rb><rt>としこ</rt></ruby>。」

半ば体を起した男は、畳に<ruby><rb>片肘</rb><rt>かたひじ</rt></ruby><ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>せたまま、<ruby><rb>当惑</rb><rt>とうわく</rt></ruby>らしい眼つきを見せた。

「お前は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>と約束したじゃないか？　もう<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」

男はちょいと<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を挙げた。

「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい？　たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へは行きたくないとか、――」

「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」

敏子は涙を落し落し、意外なほど<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい打消し方をした。

「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」

敏子は<ruby><rb>伏眼</rb><rt>ふしめ</rt></ruby>になったなり、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて来る涙を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えようとするのか、じっと薄い<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>を噛んだ。見れば蒼白い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>の底にも、眼に見えない<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のような、切迫した何物かが燃え立っている。<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>える肩、濡れた<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。

「ですけれども、――この部屋は<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なんですもの。」

「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか？　<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」

男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>がれているのに気がついた。その眼には涙の<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>った底に、ほとんど敵意にも<ruby><rb>紛</rb><rt>まが</rt></ruby>い兼ねない、悲しそうな光が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いている。何故この部屋が嫌になったか？　――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が<ruby><rb>無言</rb><rt>むごん</rt></ruby>の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。

しかし言葉が<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れたのは、ほんの数秒の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>である。男の顔には見る見る内に、了解の色が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って来た。

「あれか？」

男は感動を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うように、妙に<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>のない声を出した。

「あれは己も気になっていたんだ。」

敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。

窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた<ruby><rb>赤児</rb><rt>あかご</rt></ruby>が泣き続けている。………

二

二階の<ruby><rb>出窓</rb><rt>でまど</rt></ruby>には<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の<ruby><rb>赤煉瓦</rb><rt>あかれんが</rt></ruby>にかすかな<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>のように見える。<ruby><rb>巌乗</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な<ruby><rb>槲</rb><rt>かし</rt></ruby>の<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>が、ちょうど<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>を<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな<ruby><rb>靴足袋</rb><rt>くつたび</rt></ruby>を編んでいる。

女は<ruby><rb>敏子</rb><rt>としこ</rt></ruby>よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きになった、血色の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>ぶ<ruby><rb>毛</rb><rt>げ</rt></ruby>にも反射している。

午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、<ruby><rb>泊</rb><rt>とま</rt></ruby>り客は<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>外出してしまう。下宿している<ruby><rb>勤</rb><rt>つと</rt></ruby>め<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby>たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々<ruby><rb>上草履</rb><rt>うわぞうり</rt></ruby>を響かせる、女中の足音だけが残っている。

この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十<ruby><rb>格好</rb><rt>がっこう</rt></ruby>の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、<ruby><rb>影画</rb><rt>かげえ</rt></ruby>のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。

「お<ruby><rb>清</rb><rt>きよ</rt></ruby>さん。」

女中はちょいと<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>してから、出窓の方へ歩み寄った。

「まあ、<ruby><rb>御精</rb><rt>ごせい</rt></ruby>が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました？」

「うちの若様？　若様は今お休み中。」

女は<ruby><rb>編針</rb><rt>あみばり</rt></ruby>を休めたまま、子供のように微笑した。

「時にね、お清さん。」

「何でございます？　<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>そうに。」

女中も出窓の日の光に、<ruby><rb>前掛</rb><rt>まえかけ</rt></ruby>だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。

「御隣の<ruby><rb>野村</rb><rt>のむら</rt></ruby>さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは？」

「ええ、野村敏子さん。」

「敏子さん？　じゃ<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの？」

「いいえ、まだ五六日は<ruby><rb>御滞在</rb><rt>ごたいざい</rt></ruby>でございましょう。それから何でも<ruby><rb>蕪湖</rb><rt>ウウフウ</rt></ruby>とかへ、――」

「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、<ruby><rb>昨晩</rb><rt>さくばん</rt></ruby>急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」

「そう。」

女は何か考えるように、<ruby><rb>丸々</rb><rt>まるまる</rt></ruby>した顔を傾けて見せた。

「あの方でしょう？　ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは？」

「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」

「じゃ病院で御なくなりなすったの？　道理で何にも知らなかった。」

女は<ruby><rb>前髪</rb><rt>まえがみ</rt></ruby>を割った<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>そうな眼つきになった。

「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」

「まあ、随分でございますね。」

女中は思わず笑い出した。

「そんな<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>な事をおっしゃると、<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>から電話がかかって来ても、<ruby><rb>内証</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で旦那様へ取次ぎますよ。」

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの？」

女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。

午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>の花瓶に<ruby><rb>素枯</rb><rt>すが</rt></ruby>れた花は、この<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に女中が取り捨ててしまう。二階三階の<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の手すりも、この間に<ruby><rb>下男</rb><rt>ボオイ</rt></ruby>が磨くらしい。そう云う沈黙が<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がった中に、ただ往来のざわめきだけが、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>戸を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。

その内にふと女の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>から、毛糸の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>が転げ落ちた。球はとんと<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>むが早いか、一筋の赤を引きずりながら、ころころ<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。

「どうも<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うございました。」

女は<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>を離れながら、恥しそうに<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすな隣室の夫人である。

「いいえ。」

毛糸の球は細い指から、<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>よりも白い<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り指へ移った。

「ここは暖かでございますね。」

敏子は出窓へ歩み出ると、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうにやや眼を細めた。

「ええ、こうやって居りましても、<ruby><rb>居睡</rb><rt>いねむ</rt></ruby>りが出るくらいでございますわ。」

二人の母は<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、幸福そうに微笑し合った。

「まあ、御可愛い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあた</span>ですこと。」

敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らせた。

「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」

「私なぞはいくら暇でも、<ruby><rb>怠</rb><rt>なま</rt></ruby>けてばかり居りますわ。」

女は<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。

「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね？　いつ御生れになりましたの？」

敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>われてしまった結果であろうか？　それともまた<ruby><rb>手傷</rb><rt>てきず</rt></ruby>を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の<ruby><rb>快</rb><rt>かい</rt></ruby>を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか？

「この御正月でございました。」

女はこう答えてから、ちょいとためらう<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。

「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」

敏子は<ruby><rb>沾</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。

「ええ、<ruby><rb>肺炎</rb><rt>はいえん</rt></ruby>になりましたものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」

「それも<ruby><rb>御出</rb><rt>おいで</rt></ruby>て<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>にねえ。何と申し上げて<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>いかわかりませんわ。」

女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。

「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう？」

「一時は<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」

二人の母は<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。

「こちらは悪い<ruby><rb>風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りますの。」

女は考え深そうに、<ruby><rb>途切</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れていた話を続け出した。

「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」

「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」

「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」

女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。

「ちょいと御免下さいまし。」

しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた<ruby><rb>上草履</rb><rt>うわぞうり</rt></ruby>を鳴らせながら、泣き立てる<ruby><rb>赤児</rb><rt>あかご</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>の<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>れた赤児を！

「私が窓を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」

「どうも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り様。」

女はまだ<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れなそうに、そっと赤児を胸に取った。

「まあ、御可愛い。」

敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。

「おお、おお、よく<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っていらっしゃる。」

やや<ruby><rb>上気</rb><rt>じょうき</rt></ruby>した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>の下から、――張り切った母の乳房の下から、<ruby><rb>汪然</rb><rt>おうぜん</rt></ruby>と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

三

<ruby><rb>雍家花園</rb><rt>ようかかえん</rt></ruby>の<ruby><rb>槐</rb><rt>えんじゅ</rt></ruby>や柳は、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎの微風に<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いている。いや、草や土ばかりではない。その<ruby><rb>槐</rb><rt>えんじゅ</rt></ruby>に張り渡した、この庭には<ruby><rb>似合</rb><rt>にあ</rt></ruby>わない、水色のハムモックにもふり<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いている。ハムモックの中に<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けになった、夏のズボンに<ruby><rb>胴衣</rb><rt>チョッキ</rt></ruby>しかつけない、<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りの男にもふり撒いている。

男は葉巻に火をつけたまま、<ruby><rb>槐</rb><rt>えんじゅ</rt></ruby>の枝に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は<ruby><rb>文鳥</rb><rt>ぶんちょう</rt></ruby>か何からしい。これも明暗の<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>の中に、<ruby><rb>止</rb><rt>とま</rt></ruby>り<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした？」とか云う事もある。

あたりは庭木の<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎの中に、かすかな草の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>を<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>らせている。一度ずっと遠い空に汽船の<ruby><rb>笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>の響いたぎり、今はもう<ruby><rb>人音</rb><rt>ひとおと</rt></ruby>も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。<ruby><rb>赤濁</rb><rt>あかにご</rt></ruby>りに濁った<ruby><rb>長江</rb><rt>ちょうこう</rt></ruby>の水に、<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い<ruby><rb>水脈</rb><rt>みお</rt></ruby>を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える<ruby><rb>波止場</rb><rt>はとば</rt></ruby>には、裸も同様な<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>が一人、<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>の皮を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>じっている。そこにはまた<ruby><rb>仔豚</rb><rt>こぶた</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>も、<ruby><rb>長々</rb><rt>ながなが</rt></ruby>と横たわった親豚の腹に、<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>きた男は、そんな空想に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。

「あなた。」

男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>の旅館にいた時より、やや血色の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>敏子</rb><rt>としこ</rt></ruby>である。髪にも、夏帯にも、<ruby><rb>中形</rb><rt>ちゅうがた</rt></ruby>の<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>にも、やはり明暗の斑点を浴びた、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をした。それからさも<ruby><rb>大儀</rb><rt>たいぎ</rt></ruby>そうに、ハムモックの上へ体を起した。

「郵便よ、あなた。」

敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に<ruby><rb>湯帷子</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の胸から、桃色の<ruby><rb>封筒</rb><rt>ふうとう</rt></ruby>にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。

「今日は私にも来ているのよ。」

男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に手紙を読み始めた。敏子もそこへ<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。

<ruby><rb>雍家花園</rb><rt>ようかかえん</rt></ruby>の<ruby><rb>槐</rb><rt>えんじゅ</rt></ruby>や柳は、午過ぎの微風に<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。<ruby><rb>文鳥</rb><rt>ぶんちょう</rt></ruby>はほとんど<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>らない。何か<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>にそれも飛び去ってしまった。………

こう云うしばらくの沈黙の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。

「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」

「お隣？」

男はちょいと聞き耳を立てた。

「お隣とはどこだい？」

「お隣よ。ほら、あの<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>の××館の、――」

「ああ、あの子供か？　そりゃ気の毒だな。」

「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」

「何だい、病気は？」

「やっぱり<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」

敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。

「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう？　注射を致すやら、<ruby><rb>酸素吸入</rb><rt>さんそきゅうにゅう</rt></ruby>を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら？　泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、<ruby><rb>重々</rb><rt>じゅうじゅう</rt></ruby>御察し下され<ruby><rb>度</rb><rt>たく</rt></ruby>、……」

「気の毒だな。」

男はもう一度ハムモックに、ゆらりと<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、<ruby><rb>未</rb><rt>いまだ</rt></ruby>に<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の赤児が一人、小さい<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。

「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや<ruby><rb>御許様</rb><rt>おんもとさま</rt></ruby>に<ruby><rb>御眼</rb><rt>おんめ</rt></ruby>にかかりし事など思い<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」

敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめた。が、一瞬の無言の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>鳥籠</rb><rt>とりかご</rt></ruby>の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な両手を拍った。

「ああ、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い事を思いついた！　あの文鳥を放してやれば好いわ。」

「放してやる？　あのお前の大事の鳥をか？」

「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお<ruby><rb>追善</rb><rt>ついぜん</rt></ruby>ですもの。ほら、<ruby><rb>放鳥</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら？　とどかなかったら、あなた取って<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>。」

<ruby><rb>槐</rb><rt>えんじゅ</rt></ruby>の根もとに走り寄った敏子は、<ruby><rb>空気草履</rb><rt>くうきぞうり</rt></ruby>を<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい<ruby><rb>翼</rb><rt>つばさ</rt></ruby>をばたばたやる。その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>にまた<ruby><rb>餌壺</rb><rt>えつぼ</rt></ruby>の<ruby><rb>黍</rb><rt>きび</rt></ruby>も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせた<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>、<ruby><rb>膨</rb><rt>ふくら</rt></ruby>んだ胸、<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。

「取れないかしら？――取れないわ。」

敏子は足を<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>てたまま、くるりと夫の方へ向いた。

「取って頂戴よ。よう。」

「取れるものか？ 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>には限らないじゃないか？」

「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって？　ハムモックを解いてしまうわよ。――」

敏子は男を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むようにした。が、眼にも唇にも、<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か<ruby><rb>酷薄</rb><rt>こくはく</rt></ruby>なものさえ感じた。日の光に煙った<ruby><rb>草木</rb><rt>くさき</rt></ruby>の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な事をするなよ。――」

男は葉巻を投げ捨てながら、<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>のように妻を叱った。

「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか？　あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」

すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねた子供のように、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。

「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いなければまた心配するし、――」

男はふと口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。

「あなた。」

息苦しい沈黙の続いた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>けていた。

「何だい？」

「私は、――私は悪いんでしょうか！　あの赤さんのなくなったのが、――」

敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。

「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか？　悪いんでしょうか？　あなた。」

敏子の声には今までにない、<ruby><rb>荒々</rb><rt>あらあら</rt></ruby>しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や<ruby><rb>胴衣</rb><rt>チョッキ</rt></ruby>に今は一ぱいにさし始めた、<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い日の光を<ruby><rb>鍍金</rb><rt>めっき</rt></ruby>しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がったように。

（大正十年八月）