一　レエン・コオト

僕は或知り人の結婚<ruby><rb>披露式</rb><rt>ひろうしき</rt></ruby>につらなる為に<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼は<ruby><rb>棗</rb><rt>なつめ</rt></ruby>のやうにまるまると肥つた、短い<ruby><rb>顋髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の持ち主だつた。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。

「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るつて云ふんですが。」

「昼間でもね。」

僕は冬の西日の当つた向うの松山を眺めながら、<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>い加減に調子を合せてゐた。

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も天気の善い日には出ないさうです。一番多いのは雨のふる日だつて云ふんですが。」

「雨のふる日に濡れに来るんぢやないか？」

「<ruby><rb>御常談</rb><rt>ごじやうだん</rt></ruby>で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だつて云ふんです。」

自動車はラツパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになつた。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはひつて行つた。すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだつた。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めてゐた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思ひ出した。が、ちよつと苦笑したぎり、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>次の列車を待つ為に停車場前のカツフエへはひることにした。

それはカツフエと云ふ名を与へるのも考へものに近いカツフエだつた。僕は隅のテエブルに坐り、ココアを一杯註文した。テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子に引いたものだつた。しかしもう隅々には薄汚いカンヴアスを<ruby><rb>露</rb><rt>あらは</rt></ruby>してゐた。僕は<ruby><rb>膠</rb><rt>にかは</rt></ruby>臭いココアを飲みながら、人げのないカツフエの中を見まはした。<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>じみたカツフエの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのと云ふ紙札が何枚も貼つてあつた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">地玉子</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">オムレツ</span>」

僕はかう云ふ紙札に東海道線に近い<ruby><rb>田舎</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>を感じた。それは麦畠やキヤベツ畠の間に電気機関車の通る田舎だつた。……

次の上り列車に乗つたのはもう日暮に近い頃だつた。僕はいつも二等に乗つてゐた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。

汽車の中は<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>こみ合つてゐた。しかも僕の前後にゐるのは大磯かどこかへ遠足に行つたらしい小学校の女生徒ばかりだつた。僕は巻煙草に火をつけながら、かう云ふ女生徒の群れを眺めてゐた。彼等はいづれも快活だつた。のみならず殆どしやべり続けだつた。

「写真屋さん、ラヴ・シインつて何？」

やはり遠足について来たらしい、僕の前にゐた「写真屋さん」は何とかお茶を濁してゐた。しかし十四五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問ひかけてゐた。僕はふと彼女の鼻に蓄膿症のあることを感じ、何か<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほゑ</rt></ruby>まずにはゐられなかつた。それから又僕の隣りにゐた十二三の女生徒の一人は若い女教師の膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすつてゐた。しかも誰かと話す合ひ間に時々かう女教師に話しかけてゐた。

「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらつしやるわね。」

彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云ふ感じを与へた。<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>を皮ごと噛じつてゐたり、キヤラメルの紙を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いてゐることを除けば。……しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」と声をかけた。彼女だけは彼等よりもませてゐるだけに<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて僕には女生徒らしかつた。僕は巻煙草を<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。

いつか電燈をともした汽車はやつと或郊外の停車場へ着いた。僕は風の寒いプラツトフオオムへ下り、一度橋を渡つた上、省線電車の来るのを待つことにした。すると偶然顔を合せたのは或会社にゐるＴ君だつた。僕等は電車を待つてゐる間に不景気のことなどを話し合つた。Ｔ君は勿論僕などよりもかう云ふ問題に通じてゐた。が、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい彼の指には余り不景気には縁のない<ruby><rb>土耳古石</rb><rt>トルコいし</rt></ruby>の指環も<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まつてゐた。

「大したものを嵌めてゐるね」

「これか？　これはハルピンへ商売に行つてゐた友だちの指環を買はされたんだよ。そいつも今は往生してゐる。コオペラテイヴと取引きが出来なくなつたものだから。」

僕等の乗つた省線電車は幸ひにも汽車ほどこんでゐなかつた。僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話してゐた。Ｔ君はついこの春に<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>にある勤め先から東京へ帰つたばかりだつた。従つて僕等の間には巴里の話も出勝ちだつた。カイヨオ夫人の話、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>料理の話、御外遊中の或殿下の話、……

「<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>は存外困つてはゐないよ。唯元来仏蘭西人と云ふやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」

「だつてフランは暴落するしさ。」

「それは新聞を読んでゐればね。しかし向うにゐて見給へ。新聞紙上の日本なるものはのべつに大地震や大洪水があるから。」

するとレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。僕はちよつと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をＴ君に話したい心もちを感じた。が、Ｔ君はその前に杖の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。

「あすこに女が一人ゐるだらう？　鼠色の毛糸のシヨオルをした、……」

「あの西洋髪に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>つた女か？」

「うん、風呂敷包みを抱へてゐる女さ。あいつはこの夏は軽井沢にゐたよ。ちよつと洒落れた洋装などをしてね。」

しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしてゐるのに違ひなかつた。僕はＴ君と話しながら、そつと彼女を眺めてゐた。彼女はどこか眉の間に気違ひらしい感じのする顔をしてゐた。しかもその又風呂敷包みの中から<ruby><rb>豹</rb><rt>へう</rt></ruby>に似た海綿をはみ出させてゐた。

「軽井沢にゐた時には若い<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>人と踊つたりしてゐたつけ。モダアン……何と云ふやつかね。」

レエン・コオトを着た男は僕のＴ君と別れる時にはいつかそこにゐなくなつてゐた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行つた。往来の両側に立つてゐるのは大抵大きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを？――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やし、半ば僕の視野を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚（？）の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

ホテルの玄関へはひつた時には歯車ももう消え失せてゐた。が、頭痛はまだ残つてゐた。僕は外套や帽子を預ける<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>に部屋を一つとつて貰ふことにした。それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。

結婚披露式の<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>はとうに始まつてゐたらしかつた。僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフオオクを動かし出した。正面の新郎や新婦をはじめ、白い<ruby><rb>凹字</rb><rt>あふじ</rt></ruby>形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いづれも陽気だつた。が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。僕はこの心もちを<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い<ruby><rb>頬髯</rb><rt>ほほひげ</rt></ruby>を伸ばした老人だつた。のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。

「<ruby><rb>麒麟</rb><rt>きりん</rt></ruby>はつまり<ruby><rb>一角獣</rb><rt>いつかくじう</rt></ruby>ですね。それから<ruby><rb>鳳凰</rb><rt>ほうわう</rt></ruby>もフエニツクスと云ふ鳥の、……」

この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、<ruby><rb>堯舜</rb><rt>げうしゆん</rt></ruby>を架空の人物にしたのは勿論、「<ruby><rb>春秋</rb><rt>しゆんじう</rt></ruby>」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>り離した。

「もし堯舜もゐなかつたとすれば、<ruby><rb>孔子</rb><rt>こうし</rt></ruby>は<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はない。」

僕は勿論黙つてしまつた。それから又皿の上の肉へナイフやフオオクを加へようとした。すると小さい<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>が一匹静かに肉の縁に<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いてゐた。蛆は僕の頭の中に Worm と云ふ英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のやうに或伝説的動物を意味してゐる言葉にも違ひなかつた。僕はナイフやフオオクを置き、いつか僕の杯にシヤンパアニユのつがれるのを眺めてゐた。

やつと晩餐のすんだ後、僕は前にとつて置いた僕の部屋へこもる為に人気のない廊下を歩いて行つた。廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与へるものだつた。しかし幸ひにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでゐた。

僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持つて来てあつた。僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>りこんだ。それから鏡台の前へ行き、ぢつと鏡に僕の顔を映した。鏡に映つた僕の顔は皮膚の下の骨組みを<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>はしてゐた。蛆はかう云ふ僕の記憶に<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちはつきり浮かび出した。

僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云ふことなしに歩いて行つた。するとロツビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに映つてゐた。それは何か僕の心に平和な感じを与へるものだつた。僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考へてゐた。が、そこにも五分とは坐つてゐる<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>に行かなかつた。レエン・コオトは今度も亦僕の横にあつた長椅子の背中に如何にもだらりと脱ぎかけてあつた。

「しかも今は寒中だと云ふのに。」

僕はこんなことを考へながら、もう一度廊下を引き返して行つた。廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかつた。しかし彼等の話し声はちよつと僕の耳をかすめて行つた。それは何とか言はれたのに答へた All right と云ふ英語だつた。「オオル・ライト」？――僕はいつかこの対話の意味を正確に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まうとあせつてゐた。「オオル・ライト」？「オオル・ライト」？　何が一体オオル・ライトなのであらう？

僕の部屋は勿論ひつそりしてゐた。が、戸をあけてはひることは妙に僕には無気味だつた。僕はちよつとためらつた後、思ひ切つて部屋の中へはひつて行つた。それから鏡を見ないやうにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>の皮に近い、青いマロツク皮の安楽椅子だつた。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたつても動かなかつた。のみならずやつと動いたと思ふと、同じ言葉ばかり書きつづけてゐた。All right……All right…… All right, sir……All right……

そこへ突然鳴り出したのはベツドの<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>にある電話だつた。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやつて返事をした。

「どなた？」

「あたしです。あたし……」

相手は僕の姉の娘だつた。

「何だい？　どうかしたのかい？」

「ええ、あの大へんなことが起つたんです。ですから、……大へんなことが起つたもんですから、今叔母さんにも電話をかけたんです。」

「大へんなこと？」

「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ。」

電話はそれぎり切れてしまつた。僕はもとのやうに受話器をかけ、反射的にべルの<ruby><rb>鈕</rb><rt>ボタン</rt></ruby>を押した。しかし僕の手の震へてゐることは僕自身はつきり意識してゐた。給仕は容易にやつて来なかつた。僕は<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した、やつと運命の僕に教へた「オオル・ライト」と云ふ言葉を了解しながら。

僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に<ruby><rb>轢死</rb><rt>れきし</rt></ruby>してゐた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひつかけてゐた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけてゐる。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。どこかに鳥でも飼つてあるのかも知れない。

二　復讐

僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ました。が、ベツドをおりようとすると、スリツパアは不思議にも片つぽしかなかつた。それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与へる現象だつた。のみならずサンダアルを片つぽだけはいた<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシヤ</rt></ruby>神話の中の王子を思ひ出させる現象だつた。僕はベルを押して給仕を呼び、スリツパアの片つぽを探して貰ふことにした。給仕は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けげん</span>な顔をしながら、狭い部屋の中を探しまはつた。

「ここにありました。このバスの部屋の中に。」

「どうして又そんな所に行つてゐたのだらう？」

「さあ、鼠かも知れません。」

僕は給仕の退いた後、牛乳を入れない<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>を飲み、前の小説を仕上げにかかつた。<ruby><rb>凝灰岩</rb><rt>ぎようくわいがん</rt></ruby>を四角に組んだ窓は雪のある庭に向つてゐた。僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。雪は<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を持つた<ruby><rb>沈丁花</rb><rt>ぢんちやうげ</rt></ruby>の下に都会の<ruby><rb>煤煙</rb><rt>ばいえん</rt></ruby>によごれてゐた。それは何か僕の心に<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>ましさを与へる眺めだつた。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考へてゐた。妻のことを、子供たちのことを、<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんづく</rt></ruby>姉の夫のことを。……

姉の夫は自殺する前に放火の嫌疑を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>つてゐた。それも亦実際仕かたはなかつた。彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入してゐた。しかも偽証罪を犯した為に執行猶予中の体になつてゐた。けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見たことだつた。僕は或は汽車の中から山を焼いてゐる火を見たり、或は又自動車の中から（その時は妻子とも一しよだつた。）<ruby><rb>常磐橋</rb><rt>ときはばし</rt></ruby><ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の火事を見たりしてゐた。それは彼の家の焼けない前にもおのづから僕に火事のある予感を与へない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。

「今年は家が火事になるかも知れないぜ。」

「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になつたら大変ですね。保険は<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>についてゐないし、……」

僕等はそんなことを話し合つたりした。しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かさうとした。が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかつた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上に転がつたまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交つた、複雑な性格の持ち主だつた。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加へさへすれば、僕の一生のカリカテユアだつた。殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無気味にし出した。僕は一時間とたたないうちにベツドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛りつけた。

「くたばつてしまへ！」

すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走つて行つた。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまはつた。が、白いタツブのかげにも鼠らしいものは見えなかつた。僕は急に無気味になり、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててスリツパアを靴に換へると、人気のない廊下を歩いて行つた。

廊下はけふも<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>牢獄のやうに憂欝だつた。僕は頭を垂れたまま、階段を上つたり下りたりしてゐるうちにいつかコツク部屋へはひつてゐた。コツク部屋は存外明るかつた。が、片側に並んだ<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>は幾つも炎を動かしてゐた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶつたコツクたちの冷やかに僕を見てゐるのを感じた。同時に又僕の<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちた地獄を感じた。「神よ、我を罰し給へ。怒り給ふこと<ruby><rb>勿</rb><rt>なか</rt></ruby>れ。恐らくは我滅びん。」――かう云ふ祈祷もこの瞬間にはおのづから僕の唇にのぼらない訣には行かなかつた。

僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映つた雪解けの道をせつせと姉の家へ歩いて行つた。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を<ruby><rb>黒</rb><rt>くろず</rt></ruby>ませてゐた。のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のやうに前や後ろを具へてゐた。それも亦僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になつた魂を思ひ出し、ビルデイングばかり並んでゐる電車線路の向うを歩くことにした。しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかつた。

「ちよつと通りがかりに失礼ですが、……」

それは<ruby><rb>金鈕</rb><rt>きんボタン</rt></ruby>の制服を着た二十二三の青年だつた。僕は黙つてこの青年を見つめ、彼の鼻の左の<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>に<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>のあることを発見した。彼は帽を脱いだまま、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ怯づかう僕に話しかけた。

「Ａさんではいらつしやいませんか？」

「さうです。」

「どうもそんな気がしたものですから、……」

「何か御用ですか？」

「いえ、唯お目にかかりたかつただけです。僕も先生の愛読者の……」

僕はもうその時にはちよつと帽をとつたぎり、彼を後ろに歩き出してゐた。先生、Ａ先生、――それは僕にはこの頃では最も不快な言葉だつた。僕はあらゆる罪悪を犯してゐることを信じてゐた。しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけてゐた。僕はそこに僕を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>る何ものかを感じずにはゐられなかつた。何ものかを？――しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはゐられなかつた。僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にかう云ふ言葉を発表してゐた。――「僕は芸術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神経だけである。」……

姉は三人の子供たちと一しよに露地の奥のバラツクに避難してゐた。褐色の紙を貼つたバラツクの中は外よりも寒いくらゐだつた。僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合つた。体の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい姉の夫は人一倍痩せ細つた僕を本能的に軽蔑してゐた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言してゐた。僕はいつも冷やかにかう云ふ彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかつた。しかし姉と話してゐるうちにだんだん彼も僕のやうに地獄に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちてゐたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云ふことだつた。が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金のことばかり話しつづけた。

「何しろかう云ふ際だしするから、何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も売つてしまはうと思ふの。」

「それはさうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだらう。」

「ええ、それから画などもあるし。」

「<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>にＮさん（姉の夫）の肖像画も売るか？　しかしあれは……」

僕はバラツクの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うくわつ</rt></ruby>に常談も言はれないのを感じた。<ruby><rb>轢死</rb><rt>れきし</rt></ruby>した彼は汽車の為に顔もすつかり肉塊になり、僅かに唯<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>だけ残つてゐたとか云ふことだつた。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違ひなかつた。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしてゐた。僕は光線の加減かと思ひ、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるやうにした。

「何をしてゐるの？」

「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまはりだけ、……」

姉はちよつと振り返りながら、何も気づかないやうに返事をした。

「髭だけ妙に薄いやうでせう。」

僕の見たものは錯覚ではなかつた。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は<ruby><rb>午飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。

「まあ、<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いでせう。」

「又あしたでも、……けふは青山まで出かけるのだから。」

「ああ、あすこ？　まだ体の具合は悪いの？」

「やつぱり薬ばかり<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んでゐる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴエロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」

三十分ばかりたつた後、僕は或ビルデイングへはひり、<ruby><rb>昇降機</rb><rt>リフト</rt></ruby>に乗つて三階へのぼつた。それから或レストオランの硝子戸を押してはひらうとした。が、硝子戸は動かなかつた。のみならずそこには「定休日」と書いた<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>塗りの札も下つてゐた。僕は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>やバナナを盛つたのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。すると会社員らしい男が二人何か快活にしやべりながら、このビルデイングへはひる為に僕の肩をこすつて行つた。彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」と言つたらしかつた。

僕は往来に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだなり、タクシイの通るのを待ち合せてゐた。タクシイは容易に通らなかつた。のみならずたまに通つたのは必ず黄いろい車だつた。（この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としてゐた。）そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、兎に角青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。

「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」

タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だつた。僕は二度も僕の目に浮かんだダンテの地獄を<ruby><rb>詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひながら、ぢつと運転手の背中を眺めてゐた。そのうちに又あらゆるものの<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いづれも皆かう云ふ僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかつた。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放つたりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかつた。

緑いろのタクシイはやつと神宮前へ走りかかつた。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だつた。しかしそれもけふだけはなぜか僕にはわからなかつた。僕は電車の線路に沿ひ、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。

僕はやつとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲つて行つた。するといつか道を間違へ、青山斎場の前へ出てしまつた。それは<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>十年前にあつた夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さへ通つたことのない建物だつた。十年前の僕も幸福ではなかつた。しかし少くとも平和だつた。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「<ruby><rb>漱石</rb><rt>そうせき</rt></ruby>山房」の芭蕉を思ひ出しながら、何か僕の一生も一段落のついたことを感じない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものかを感じない訣にも行かなかつた。

或精神病院の門を出た後、僕は又自動車に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何か給仕と喧嘩をしてゐた。給仕と？――いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛りだつた。僕はこのホテルへはひることに何か不吉な心もちを感じ、さつさともとの道を引き返して行つた。

僕の銀座通りへ出た時には<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>日の暮も近づいてゐた。僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂欝にならずにはゐられなかつた。殊に往来の人々の罪などと云ふものを知らないやうに軽快に歩いてゐるのは不快だつた。僕は薄明るい外光に電燈の光のまじつた中をどこまでも北へ歩いて行つた。そのうちに僕の目を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へたのは雑誌などを積み上げた本屋だつた。僕はこの本屋の店へはひり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。それから「<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシヤ</rt></ruby>神話」と云ふ一冊の本へ目を通すことにした。黄いろい表紙をした「希臘神話」は子供の為に書かれたものらしかつた。けれども偶然僕の読んだ一行は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち僕を打ちのめした。

「一番偉いツオイスの神でも<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしう</rt></ruby>の神にはかなひません。……」

僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行つた。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つてゐる復讐の神を感じながら。……

三　夜

僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁づつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだつた。のみならず黄いろい表紙をしてゐた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた。（それは或<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>人の集めた精神病者の画集だつた。）僕はいつか憂欝の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂のやうにいろいろの本を開いて行つた。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠してゐた。どの本も？――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴアリイ」を手にとつた時さへ、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひつきやう</rt></ruby>僕自身も中産階級のムツシウ・ボヴアリイに外ならないのを感じた。……

日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、<ruby><rb>驕慢</rb><rt>けうまん</rt></ruby>、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。が、伝統的精神もやはり近代的精神のやうにやはり僕を不幸にするのは<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>僕にはたまらなかつた。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用ひた「<ruby><rb>寿陵余子</rb><rt>じゆりようよし</rt></ruby>」と云ふ言葉を思ひ出した。それは<ruby><rb>邯鄲</rb><rt>かんたん</rt></ruby>の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまひ、<ruby><rb>蛇行匍匐</rb><rt>だかうほふく</rt></ruby>して帰郷したと云ふ「<ruby><rb>韓非子</rb><rt>かんぴし</rt></ruby>」中の青年だつた。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違ひなかつた。しかしまだ地獄へ堕ちなかつた僕もこのペン・ネエムを用ひてゐたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払ふやうにし、丁度僕の向うにあつたポスタアの展覧室へはひつて行つた。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ヂヨオヂらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺してゐた。しかもその騎士は<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の下に僕の敵の一人に近い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しかめ</span><ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を半ば<ruby><rb>露</rb><rt>あらは</rt></ruby>してゐた。僕は又「韓非子」の中の<ruby><rb>屠竜</rb><rt>とりゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>技</rb><rt>ぎ</rt></ruby>の話を思ひ出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下つて行つた。

僕はもう夜になつた日本橋通りを歩きながら、屠竜と云ふ言葉を考へつづけた。それは又僕の持つてゐる<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>の銘にも違ひなかつた。この硯を僕に贈つたのは或若い事業家だつた。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまつた。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらゐこの地球の小さいかと云ふことを、――従つてどのくらゐ僕自身の小さいかと云ふことを考へようとした。しかし昼間は晴れてゐた空もいつかもうすつかり曇つてゐた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持つてゐるのを感じ、電車線路の向うにある或カツフエへ避難することにした。

それは「避難」に違ひなかつた。僕はこのカツフエの<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやつと楽々と腰をおろした。そこには幸ひ僕の外に二三人の客のあるだけだつた。僕は一杯のココアを<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り、ふだんのやうに巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行つた。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だつた。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だつた時、彼の地理のノオト・ブツクの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」と記してゐた。それは或は僕等の言ふやうに偶然だつたかも知れなかつた。しかしナポレオン自身にさへ恐怖を呼び起したのは確かだつた。……

僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考へ出した。するとまづ記憶に浮かんだのは「<ruby><rb>侏儒</rb><rt>しゆじゆ</rt></ruby>の言葉」の中のアフオリズムだつた。（殊に「人生は地獄よりも地獄的である」と云ふ言葉だつた。）それから「地獄変」の主人公、――良秀と云ふ画師の運命だつた。それから……僕は巻煙草をふかしながら、かう云ふ記憶から逃れる為にこのカツフエの中を眺めまはした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだつた。しかしこのカツフエは短時間の間にすつかり<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を改めてゐた。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんづく</rt></ruby>僕を不快にしたのはマホガニイまがひの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保つてゐないことだつた。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>このカツフエを出ようとした。

「もし、もし、二十銭頂きますが、……」

僕の投げ出したのは銅貨だつた。

僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いてゐるうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思ひ出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない。唯僕を中心にした家族の為に借りた家だつた。僕は<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>十年前にもかう云ふ家に暮らしてゐた。しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……

前のホテルに帰つたのはもう彼是十時だつた。ずつと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失ひ、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画してゐた長篇のことを考へ出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だつた。僕は火の粉の舞ひ上るのを見ながら、ふと宮城の前にある或銅像を思ひ出した。この銅像は<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かつちう</rt></ruby>を着、忠義の心そのもののやうに高だかと馬の上に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>つてゐた。しかし彼の敵だつたのは、――

「譃！」

僕は又遠い過去から<ruby><rb>目近</rb><rt>まぢか</rt></ruby>い現代へすべり落ちた。そこへ幸ひにも来合せたのは或先輩の彫刻家だつた。彼は不相変<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>の服を着、短い<ruby><rb>山羊髯</rb><rt>やぎひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせてゐた。僕は椅子から立ち上り、彼のさし出した手を握つた。（それは僕の習慣ではない、パリやベルリンに半生を送つた彼の習慣に従つたのだつた。）が、彼の手は不思議にも<ruby><rb>爬虫類</rb><rt>はちうるゐ</rt></ruby>の皮膚のやうに湿つてゐた。

「君はここに泊つてゐるのですか？」

「ええ、……」

「仕事をしに？」

「ええ、仕事もしてゐるのです。」

彼はぢつと僕の顔を見つめた。僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。

「どうです、僕の部屋へ話しに来ては？」

僕は挑戦的に話しかけた。（この勇気に乏しい癖に忽ち挑戦的態度をとるのは僕の悪癖の一つだつた。）すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は？」と尋ね返した。

僕等は親友のやうに肩を並べ、静かに話してゐる外国人たちの中を僕の部屋へ帰つて行つた。彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。それからいろいろのことを話し出した。いろいろのことを？――しかし大抵は女の話だつた。僕は罪を犯した為に地獄に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちた一人に違ひなかつた。が、それだけに悪徳の話は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>僕を憂欝にした。僕は一時的清教徒になり、それ等の女を嘲り出した。

「Ｓ子さんの唇を見給へ。あれは何人もの接吻の為に、……」

僕はふと口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけてゐた。

「何人もの接吻の為に？」

「そんな人のやうに思ひますがね。」

彼は微笑して<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いてゐた。僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意してゐるのを感じた。けれどもやはり僕等の話は女のことを離れなかつた。僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥ぢ、<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>憂欝にならずにはゐられなかつた。

やつと彼の帰つた後、僕はベツドの上に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がつたまま、「暗夜行路」を読みはじめた。主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だつた。僕はこの主人公に比べると、どのくらゐ僕の阿呆だつたかを感じ、いつか涙を流してゐた。同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与へてゐた。が、それも長いことではなかつた。僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまはりながら、次第に数を<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やして行つた。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴエロナアルを<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み、兎に角ぐつすりと眠ることにした。

けれども僕は夢の中に或プウルを眺めてゐた。そこには又男女の子供たちが何人も泳いだりもぐつたりしてゐた。僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行つた。すると誰か後ろから「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちよつとふり返り、プウルの前に立つた妻を見つけた。同時に又烈しい後悔を感じた。

「おとうさん、タオルは？」

「タオルは入らない。子供たちに気をつけるのだよ。」

僕は又歩みをつづけ出した。が、僕の歩いてゐるのはいつかプラツトフオオムに変つてゐた。それは田舎の停車場だつたと見え、長い生け垣のあるプラツトフオオムだつた。そこには又Ｈと云ふ大学生や年をとつた女も<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでゐた。彼等は僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。

「大火事でしたわね。」

「僕もやつと逃げて来たの。」

僕はこの年をとつた女に何か見覚えのあるやうに感じた。のみならず彼女と話してゐることに或愉快な興奮を感じた。そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラツトフオオムへ横づけになつた。僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行つた。すると或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になつてゐた。それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違ひなかつた。……

僕は目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ますが早いか、思はずベツドを飛び下りてゐた。僕の部屋は不相変電燈の光に明るかつた。が、どこかに翼の音や鼠のきしる音も聞えてゐた。僕は戸をあけて廊下へ出、前の炉の前へ急いで行つた。それから椅子に腰をおろしたまま、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない炎を眺め出した。そこへ白い服を着た給仕が一人<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>を加へに歩み寄つた。

「何時？」

「三時半ぐらゐでございます。」

しかし向うのロツビイの隅には<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>人らしい女が一人何か本を読みつづけてゐた。彼女の着てゐるのは遠目に見ても緑いろのドレツスに違ひなかつた。僕は何か救はれたのを感じ、ぢつと夜のあけるのを待つことにした。長年の病苦に悩み抜いた<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、静かに死を待つてゐる老人のやうに。……

四　まだ？

僕はこのホテルの部屋にやつと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。尤も僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだつた。が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。

冬の日の当つたアスフアルトの上には紙屑が幾つもころがつてゐた。それ等の紙屑は光の加減か、いづれも薔薇の花にそつくりだつた。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはひつて行つた。そこも亦ふだんよりも小綺麗だつた。唯<ruby><rb>目金</rb><rt>めがね</rt></ruby>をかけた小娘が一人何か店員と話してゐたのは僕には気がかりにならないこともなかつた。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思ひ出し、「アナトオル・フランスの対話集」や「メリメエの書簡集」を買ふことにした。

僕は二冊の本を抱へ、或カツフエへはひつて行つた。それから一番奥のテエブルの前に<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>の来るのを待つことにした。僕の向うには親子らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等は恋人同志のやうに顔を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等を見てゐるうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与へてゐることを意識してゐるのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフオリズムを<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせてゐた。それ等のアフオリズムは僕の気もちをいつか鉄のやうに<ruby><rb>巌畳</rb><rt>がんでふ</rt></ruby>にし出した。（この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだつた。）僕は一杯の珈琲を飲み了つた後、「何でも来い」と云ふ気になり、さつさとこのカツフエを後ろにして行つた。

僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗いて行つた。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴエンの肖像画を掲げてゐた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だつた。僕はこのベエトオヴエンを滑稽に感ぜずにはゐられなかつた。……

そのうちにふと出合つたのは高等学校以来の旧友だつた。この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱へ、片目だけまつ赤に血を流してゐた。

「どうした、君の目は？」

「これか？　これは唯の結膜炎さ。」

僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のやうに結膜炎を起すのを思ひ出した。が何とも言はなかつた。彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。それから話をつづけたまま、或カツフエへ僕をつれて行つた。

「久しぶりだなあ。<ruby><rb>朱舜水</rb><rt>しゆしゆんすゐ</rt></ruby>の建碑式以来だらう。」

彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにかう僕に話しかけた。

「さうだあのシユシユン……」

僕はなぜか朱舜水と云ふ言葉を正確に発音出来なかつた。それは日本語だつただけにちよつと僕を不安にした。しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行つた。Ｋと云ふ小説家のことを、彼の買つたブル・ドツグのことを、リウイサイトと云ふ<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>のことを。……

「君はちつとも書かないやうだね。『<ruby><rb>点鬼簿</rb><rt>てんきぼ</rt></ruby>』と云ふのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい？」

「うん、僕の自叙伝だ。」

「あれはちよつと病的だつたぜ。この頃は体は<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いのかい？」

「<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>薬ばかり<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んでゐる始末だ。」

「僕もこの頃は不眠症だがね。」

「僕も？――どうして君は『僕も』と言ふのだ？」

「だつて君も不眠症だつて言ふぢやないか？　不眠症は危険だぜ。……」

彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべてゐた。僕は返事をする前に「不眠症」のシヤウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。

「気違ひの息子には当り前だ。」

僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行つた。アスフアルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のやうにも見えないことはなかつた。すると向うから断髪にした女が一人通りかかつた。彼女は遠目には美しかつた。けれども目の前へ来たのを見ると、<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>のある上に醜い顔をしてゐた。のみならず妊娠してゐるらしかつた。僕は思はず顔をそむけ、広い横町を曲つて行つた。が、暫らく歩いてゐるうちに<ruby><rb>痔</rb><rt>ぢ</rt></ruby>の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に<ruby><rb>瘉</rb><rt>いや</rt></ruby>すことの出来ない痛みだつた。

「坐浴、――ベエトオヴエンもやはり坐浴をしてゐた。……」

坐浴に使ふ<ruby><rb>硫黄</rb><rt>いわう</rt></ruby>の匂ひは忽ち僕の鼻を襲ひ出した。しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかつた。僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思ひ出しながら、努めてしつかりと歩いて行つた。

一時間ばかりたつた後、僕は僕の部屋にとぢこもつたまま、窓の前の机に向かひ、新らしい小説にとりかかつてゐた。ペンは僕にも不思議だつたくらゐ、ずんずん原稿用紙の上を走つて行つた。しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑へられたやうにとまつてしまつた。僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまはつた。僕の誇大妄想はかう云ふ時に最も著しかつた。僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云ふ気になつてゐた。

けれども僕は四五分の後、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な言葉を繰り返して伝へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に気になつてならなかつた。

「モオル――Mole……」

モオルは<ruby><rb>鼹鼠</rb><rt>もぐらもち</rt></ruby>と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云ふ<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の為に起るか？――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを思ひ出した。第二の僕、――<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>人の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いはゆる</rt></ruby> Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の映画俳優になつたＫ君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。（僕は突然Ｋ君の夫人に「<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだつて</rt></ruby>はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。）それからもう故人になつた或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。

四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせてゐた。僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブツクや未完成の戯曲を思ひ出した。それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。

五　赤光

日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際<ruby><rb>鼹鼠</rb><rt>もぐらもち</rt></ruby>のやうに窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せつせと前の小説をつづけて行つた。それから仕事に疲れると、テエヌの<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいづれも不幸だつた。エリザベス朝の巨人たちさへ、――一代の学者だつたベン・ジヨンソンさへ彼の足の親指の上に<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ロオマ</rt></ruby>とカルセエヂとの軍勢の戦ひを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥つてゐた。僕はかう云ふ彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはゐられなかつた。

或東かぜの強い夜、（それは僕には善い<ruby><rb>徴</rb><rt>しるし</rt></ruby>だつた。）僕は地下室を抜けて往来へ出、或老人を尋ねることにした。彼は或聖書会社の屋根裏にたつた一人小使ひをしながら、祈祷や読書に<ruby><rb>精進</rb><rt>しやうじん</rt></ruby>してゐた。僕等は火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合つた。なぜ僕の母は発狂したか？　なぜ僕の父の事業は失敗したか？　なぜ又僕は罰せられたか？――それ等の秘密を知つてゐる彼は妙に<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。のみならず時々短い言葉に人生のカリカテユアを描いたりした。僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。しかし彼と話してゐるうちに彼も亦親和力の為に動かされてゐることを発見した。――

「その植木屋の娘と云ふのは器量も善いし、気立ても善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです。」

「いくつ？」

「ことしで十八です。」

それは彼には父らしい愛であるかも知れなかつた。しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはゐられなかつた。のみならず彼の勧めた<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現してゐた。（僕は<ruby><rb>木目</rb><rt>もくめ</rt></ruby>や<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>茶碗の<ruby><rb>亀裂</rb><rt>ひび</rt></ruby>に度たび神話的動物を発見してゐた。）一角獣は<ruby><rb>麒麟</rb><rt>きりん</rt></ruby>に違ひなかつた。僕は或敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思ひ出し、この十字架のかかつた屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>ですか、この頃は？」

「<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>神経ばかり<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>してね。」

「それは薬では駄目ですよ。信者になる気はありませんか？」

「<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し僕でもなれるものなら……」

「何もむづかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>を信じ、基督の行つた奇蹟を信じさへすれば……」

「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「ではなぜ神を信じないのです？　若し影を信じるならば、光も信じずにはゐられないでせう？」

「しかし光のない<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>もあるでせう。」

「光のない暗とは？」

僕は黙るより外はなかつた。彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が、暗のある以上は光もあると信じてゐた。僕等の論理の異るのは唯かう云ふ一点だけだつた。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違ひなかつた。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云ふものは今でも度たび起つてゐるのですよ。」

「それは悪魔の行ふ奇蹟は。……」

「どうして又悪魔などと云ふのです？」

僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が彼から妻子に伝はり、僕も亦母のやうに精神病院にはひることを恐れない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>にも行かなかつた。

「あすこにあるのは？」

この<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神らしい表情を示した。

「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか？」

僕は勿論十年前にも四五冊のドストエフスキイに親しんでゐた。が、偶然（？）彼の言つた『罪と罰』と云ふ言葉に感動し、この本を貸して貰つた上、前のホテルへ帰ることにした。電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だつた。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に知り人に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ふことは到底堪へられないのに違ひなかつた。僕は努めて暗い往来を選び、盗人のやうに歩いて行つた。

しかし僕は<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだつた。僕は或バアを見つけ、その戸を押してはひらうとした。けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がつて酒を飲んでゐた。のみならず彼等のまん中には耳隠しに<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>つた女が一人熱心にマンドリンを弾きつづけてゐた。僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはひらずに引き返した。するといつか僕の影の左右に揺れてゐるのを発見した。しかも僕を照らしてゐるのは無気味にも赤い光だつた。僕は往来に立ちどまつた。けれども僕の影は前のやうに絶えず左右に動いてゐた。僕は<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ怯づふり返り、やつとこのバアの軒に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>つた色硝子のランタアンを発見した。ランタアンは烈しい風の為に<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに空中に動いてゐた。……

僕の次にはひつたのは或地下室のレストオランだつた。僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。

「ウイスキイを？　Black and White ばかりでございますが、……」

僕は<ruby><rb>曹達</rb><rt>ソオダ</rt></ruby>水の中にウイスキイを入れ、黙つて一口づつ飲みはじめた。僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話してゐた。のみならず仏蘭西語を使つてゐた。僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。それは実際電波のやうに僕の体にこたへるものだつた。彼等は確かに僕の名を知り、僕の<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>をしてゐるらしかつた。

「Bien……très mauvais……pourquoi ?……」

「Pourquoi ?……le diable est mort \!……」

「Oui, oui……d'enfer……」

僕は銀貨を一枚投げ出し、（それは僕の持つてゐる最後の一枚の銀貨だつた。）この地下室の外へのがれることにした。夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。僕はラスコルニコフを思ひ出し、何ごとも<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>したい欲望を感じた。が、それは僕自身の外にも、――いや、僕の家族の外にも悲劇を生じるのに違ひなかつた。のみならずこの欲望さへ真実かどうかは疑はしかつた。若し僕の神経さへ常人のやうに丈夫になれば、――けれども僕はその為にはどこかへ行かなければならなかつた。マドリツドへ、リオへ、サマルカンドへ、……

そのうちに或店の軒に吊つた、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだつた。僕はこの商標に人工の翼を<ruby><rb>手</rb><rt>た</rt></ruby>よりにした古代の<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシヤ</rt></ruby>人を思ひ出した。彼は空中に舞ひ上つた揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死してゐた。マドリツドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はかう云ふ僕の夢を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>はない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。同時に又復讐の神に追はれたオレステスを考へない訣にも行かなかつた。

僕は運河に沿ひながら、暗い往来を歩いて行つた。そのうちに或郊外にある養父母の家を思ひ出した。養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮らしてゐるのに違ひなかつた。恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのづから僕を束縛してしまふ或力を恐れずにはゐられなかつた。運河は波立つた水の上に<ruby><rb>達磨船</rb><rt>だるまぶね</rt></ruby>を一艘横づけにしてゐた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしてゐた。そこにも何人かの男女の家族は生活してゐるのに違ひなかつた。やはり愛し合ふ為に憎み合ひながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔ひを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。

僕は又机に向ひ、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与へてゐた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になつてゐたことを知ると、<ruby><rb>俄</rb><rt>には</rt></ruby>かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼も亦やはり僕等のやうに<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中を歩いてゐる一人だつた。暗の中を？――「暗夜行路」はかう云ふ僕には恐しい本に変りはじめた。僕は憂欝を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>つてゐた。……

一時間ばかりたつた後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それ等の一つはライプツイツヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云ふ小論文を書けと云ふものだつた。なぜ彼等は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">特に</span>僕にかう云ふ小論文を書かせるのであらう？　のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のやうに黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」と云ふ肉筆のＰ・Ｓを加へてゐた。僕はかう云ふ一行に Black and White と云ふウイスキイの名を思ひ出し、ずたずたにこの手紙を破つてしまつた。それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい<ruby><rb>書簡箋</rb><rt>しよかんせん</rt></ruby>に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だつた。しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云ふ言葉は僕を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせずには<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かなかつた。三番目に封を切つた手紙は僕の<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>から来たものだつた。僕はやつと一息つき、家事上の問題などを読んで行つた。けれどもそれさへ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。

「歌集『<ruby><rb>赤光</rb><rt>しやくくわう</rt></ruby>』の再版を送りますから……」

赤光！　僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。廊下には誰も人かげはなかつた。僕は片手に壁を抑へ、やつとロツビイへ歩いて行つた。それから椅子に腰をおろし、兎に角巻煙草に火を移すことにした。巻煙草はなぜかエエア・シツプだつた。（僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタアばかり吸ふことにしてゐた。）人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。僕は向うにゐる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。しかし給仕を信用すれば、スタアだけは<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>品切れだつた。

「エエア・シツプならばございますが、……」

僕は頭を振つたまま、広いロツビイを眺めまはした。僕の向うには外国人が四五人テエブルを囲んで話してゐた。しかも彼等の中の一人、――赤いワン・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見てゐるらしかつた。

「Mrs\. Townshead……」

何か僕の目に見えないものはかう僕に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて行つた。ミセス・タウンズヘツドなどと云ふ名は勿論僕の知らないものだつた。たとひ向うにゐる女の名にしても、――僕は又椅子から立ち上り、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。

僕は僕の部屋へ帰ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだつた。が、そこへはひることは僕には死ぬことに変らなかつた。僕はさんざんためらつた後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた<ruby><rb>頁</rb><rt>ペエジ</rt></ruby>は「カラマゾフ兄弟」の一節だつた。僕は本を間違へたのかと思ひ、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違ひなかつた。僕はこの製本屋の<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>ぢ違へに、――その又綴ぢ違へた頁を開いたことに運命の指の動いてゐるのを感じ、やむを得ずそこを読んで行つた。けれども一頁も読まないうちに全身が震へるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴアンを描いた一節だつた。イヴアンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にゐる僕自身を。……

かう云ふ僕を救ふものは唯眠りのあるだけだつた。しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなつてゐた。僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪へなかつた。が、絶望的な勇気を生じ、<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオヒイ</rt></ruby>を持つて来て貰つた上、死にもの狂ひにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上つて行つた。僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしてゐた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いてゐた。けれども疲労は<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに僕の頭を曇らせはじめた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上へ仰向けになつた。それから四五十分間は眠つたらしかつた。しかし又誰か僕の耳にかう云ふ言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>まして立ち上つた。

「Le diable est mort」

凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかつてゐた。僕は丁度戸の前に佇み、誰もゐない部屋の中を眺めまはした。すると向うの窓硝子は<ruby><rb>斑</rb><rt>まだ</rt></ruby>らに外気に曇つた上に小さい風景を現してゐた。それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違ひなかつた。僕は<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ怯づ窓の前へ近づき、この風景を造つてゐるものは実は庭の枯芝や池だつたことを発見した。けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起してゐた。

僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、兎に角金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。

六　飛行機

僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひつかけてゐた。僕はこの暗合を無気味に思ひ、努めて彼を見ないやうに窓の外へ目をやることにした。すると低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道に葬式が一列通るのを見つけた。白張りの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちやうちん</rt></ruby>や<ruby><rb>竜燈</rb><rt>りゆうとう</rt></ruby>はその中に加はつてはゐないらしかつた。が、金銀の造花の蓮は静かに<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>の前後に<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>いで行つた。……

やつと僕の家へ帰つた後、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日は<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>平和に暮らした。僕の二階は松林の上にかすかに海を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせてゐた。僕はこの二階の机に向かひ、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。鳥は鳩や<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の外に雀も縁側へ舞ひこんだりした。それも亦僕には愉快だつた。「<ruby><rb>喜雀堂</rb><rt>きじやくだう</rt></ruby>に入る。」――僕はペンを持つたまま、その度にこんな言葉を思ひ出した。

或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買ひに出かけて行つた。するとその店に並んでゐるのはセピア色のインクばかりだつた。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としてゐた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行つた。そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かせて通りかかつた。彼はここに住んでゐる被害妄想狂の<ruby><rb>瑞典</rb><rt>スウエデン</rt></ruby>人だつた。しかも彼の名はストリントベルグだつた。僕は彼とすれ違ふ時、肉体的に何かこたへるのを感じた。

この往来は<ruby><rb>僅</rb><rt>わづ</rt></ruby>かに二三町だつた。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通つて行つた。僕は横町を曲りながら、ブラツク・アンド・ホワイトのウイスキイを思ひ出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だつたのを思ひ出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考へられなかつた。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いてゐるやうに感じ、ちよつと往来に立ち止まつた。道ばたには針金の柵の中にかすかに虹の色を帯びた<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の鉢が一つ捨ててあつた。この鉢は又底のまはりに翼らしい模様を浮き上らせてゐた。そこへ松の梢から雀が何羽も舞ひ下つて来た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言ひ合はせたやうに一度に空中へ逃げのぼつて行つた。……

僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホオン種の鶏が何羽も静かに歩いてゐた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になつてゐた。僕は誰にもわからない疑問を解かうとあせりながら、兎に角外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。

「静かですね、ここへ来ると。」

「それはまだ東京よりもね。」

「ここでもうるさいことはあるのですか？」

「だつてここも世の中ですもの。」

妻の母はかう言つて笑つてゐた。実際この避暑地も亦「世の中」であるのに違ひなかつた。僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらゐここにも罪悪や悲劇の行はれてゐるかを知り<ruby><rb>悉</rb><rt>つく</rt></ruby>してゐた。<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪はうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかつた。

「この町には気違ひが一人ゐますね。」

「Ｈちやんでせう。あれは気違ひぢやないのですよ。莫迦になつてしまつたのですよ。」

「早発性<ruby><rb>痴呆</rb><rt>ちはう</rt></ruby>と云ふやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くつてたまりません。あいつはこの間もどう云ふ量見か、<ruby><rb>馬頭観世音</rb><rt>ばとうくわんぜおん</rt></ruby>の前にお<ruby><rb>時宜</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしてゐました。」

「気味が悪くなるなんて、……もつと強くならなければ駄目ですよ。」

「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」

<ruby><rb>無精髭</rb><rt>ぶしやうひげ</rt></ruby>を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直つたまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加はり出した。

「強い中に弱いところもあるから。……」

「おやおや、それは困りましたね。」

僕はかう言つた妻の母を見、苦笑しない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には行かなかつた。すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうつとりと話しつづけた。（この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののやうに見えるのだつた。）

「妙に人間離れをしてゐるかと思へば、人間的欲望もずゐぶん烈しいし、……」

「善人かと思へば、悪人でもあるしさ。」

「いや、善悪と云ふよりも何かもつと反対なものが、……」

「ぢや大人の中に子供もあるのだらう。」

「さうでもない。僕にははつきりと言へないけれど、……電気の両極に似てゐるのかな。何しろ反対なものを一しよに持つてゐる。」

そこへ僕等を驚かしたのは烈しい飛行機の響きだつた。僕は思はず空を見上げ、松の梢に触れないばかりに舞ひ上つた飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗つた、珍らしい単葉の飛行機だつた。鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまはつた。殊に犬は吠え立てながら、尾を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いて縁の下へはひつてしまつた。

「あの飛行機は落ちはしないか？」

「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云ふ病気を知つてゐる？」

僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」と云ふ代りに頭を振つた。

「ああ云ふ飛行機に乗つてゐる人は高空の空気ばかり吸つてゐるものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪へられないやうになつてしまふのだつて。……」

妻の母の家を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、ぢりぢり憂欝になつて行つた。なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通つたのであらう？　なぜ又あのホテルは巻煙草のエエア・シツプばかり売つてゐたのであらう？　僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気のない道を<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>つて歩いて行つた。

海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突つ立つてゐた。僕はこのブランコ台を眺め、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち絞首台を思ひ出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまつてゐた。鴉は皆僕を見ても、飛び立つ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>さへ示さなかつた。のみならずまん中にとまつてゐた鴉は大きい<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

僕は芝の枯れた砂土手に沿ひ、別荘の多い小みちを曲ることにした。この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立つてゐる筈だつた。（僕の親友はこの家のことを「春のゐる家」と称してゐた。）が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タツブが一つあるだけだつた。火事――僕はすぐにかう考へ、そちらを見ないやうに歩いて行つた。すると自転車に乗つた男が一人まつすぐに向うから近づき出した。彼は<ruby><rb>焦茶</rb><rt>こげちや</rt></ruby>いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にぢつと目を据ゑたまま、ハンドルの上へ身をかがめてゐた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはひることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐つた<ruby><rb>鼹鼠</rb><rt>もぐらもち</rt></ruby>の死骸が一つ腹を上にして転がつてゐた。

何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>り出した。僕は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい<ruby><rb>切子</rb><rt>きりこ</rt></ruby>硝子を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……

三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の<ruby><rb>眶</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の裏に銀色の羽根を<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

そこへ誰か梯子段を<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。

「どうした？」

「いえ、どうもしないのです。……」

妻はやつと顔を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げ、無理に微笑して話しつづけた。

「どうもした<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だつた。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか？

（昭和二年、遺稿）