一

天保二年九月の或午前である。<ruby><rb>神田同朋町</rb><rt>かんだどうぼうちやう</rt></ruby>の<ruby><rb>銭湯</rb><rt>せんたう</rt></ruby>松の湯では、朝から<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>客が多かつた。<ruby><rb>式亭三馬</rb><rt>しきていさんば</rt></ruby>が何年か前に出版した滑稽本の中で、「<ruby><rb>神祇</rb><rt>じんぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>釈教</rb><rt>しやくけう</rt></ruby>、恋、無常、みないりごみの<ruby><rb>浮世風呂</rb><rt>うきよぶろ</rt></ruby>」と云つた光景は、今もその頃と変りはない。風呂の中で<ruby><rb>歌祭文</rb><rt>うたざいもん</rt></ruby>を唄つてゐる<ruby><rb>嚊</rb><rt>かかあ</rt></ruby>たばね、上り場で手拭をしぼつてゐるちよん<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby><ruby><rb>本多</rb><rt>ほんだ</rt></ruby>、<ruby><rb>文身</rb><rt>ほりもの</rt></ruby>の背中を流させてゐる<ruby><rb>丸額</rb><rt>まるびたひ</rt></ruby>の<ruby><rb>大銀杏</rb><rt>おほいてふ</rt></ruby>、さつきから顔ばかり洗つてゐる<ruby><rb>由兵衛奴</rb><rt>よしべゑやつこ</rt></ruby>、<ruby><rb>水槽</rb><rt>みづぶね</rt></ruby>の前に腰を据ゑて、しきりに水をかぶつてゐる<ruby><rb>坊主頭</rb><rt>ばうずあたま</rt></ruby>、竹の手桶と焼物の金魚とで、余念なく遊んでゐる<ruby><rb>虻蜂蜻蛉</rb><rt>あぶはちとんぼ</rt></ruby>、――狭い流しにはさう云ふ種々雑多な人間がいづれも濡れた体を<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかに光らせながら、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、<ruby><rb>糢糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>として動いてゐる。その又騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使ふ音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす<ruby><rb>拍子木</rb><rt>ひやうしぎ</rt></ruby>の音がする。だから<ruby><rb>柘榴口</rb><rt>ざくろぐち</rt></ruby>の内外は、すべてがまるで戦場のやうに騒々しい。そこへ<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくぐつて、<ruby><rb>商人</rb><rt>あきうど</rt></ruby>が来る。物貰ひが来る。客の出入りは勿論あつた。その混雑の中に――

つつましく隅へ寄つて、その混雑の中に、静に<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を落してゐる、六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはゐるものの骨組みのしつかりした、<ruby><rb>寧</rb><rt>むしろ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかつい</span>と云ふ体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残つてゐる。これは顔でも同じ事で、<ruby><rb>下顎骨</rb><rt>したあごぼね</rt></ruby>の張つた頬のあたりや、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>大きい口の周囲に、<ruby><rb>旺盛</rb><rt>わうせい</rt></ruby>な動物的精力が、恐ろしい<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きを見せてゐる事は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>壮年の昔と変りがない。

老人は丁寧に上半身の垢を落してしまふと、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め<ruby><rb>桶</rb><rt>をけ</rt></ruby>の湯も浴びずに、今度は下半身を洗ひはじめた。が、黒い垢すりの<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かひき</rt></ruby>が何度となく上をこすつても、<ruby><rb>脂気</rb><rt>あぶらけ</rt></ruby>の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢と云ふ程の垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであらう。老人は<ruby><rb>片々</rb><rt>かたかた</rt></ruby>の足を洗つたばかりで、急に力がぬけたやうに手拭の手を止めてしまつた。さうして、濁つた止め桶の湯に、鮮かに映つてゐる窓の外の空へ眼を落した。そこには又赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に透いた枝を綴つてゐる。

老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て彼を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>したそれのやうに、<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>はしい何物をも蔵してゐない。云はばこの桶の中の空のやうに、静ながら慕はしい、安らかな<ruby><rb>寂滅</rb><rt>じやくめつ</rt></ruby>の意識であつた。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠る事が出来たならば――無心の子供のやうに夢もなく眠る事が出来たならば、どんなに<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばしい事であらう。自分は生活に疲れてゐるばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れてゐる。……

老人は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として、眼を挙げた。あたりではやはり<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎやか</rt></ruby>な談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いてゐる。柘榴口の中の歌祭文にも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めりやす</span>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よしこの</span>の声が加はつた。ここには勿論、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>もない。

「いや、先生、こりやとんだ所で御眼にかかりますな。どうも<ruby><rb>曲亭</rb><rt>きよくてい</rt></ruby>先生が朝湯にお出でにならうなんぞとは手前夢にも思ひませんでした。」

老人は、突然かう呼びかける声に驚ろかされた。見ると彼の傍には、血色のいい、<ruby><rb>中背</rb><rt>ちゆうぜい</rt></ruby>の<ruby><rb>細銀杏</rb><rt>ほそいてふ</rt></ruby>が、止め桶を前に控へながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑つてゐる。これは風呂から出て、丁度上り湯を使はうとした所らしい。

「<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>御機嫌で結構だね。」

<ruby><rb>馬琴</rb><rt>ばきん</rt></ruby><ruby><rb>滝沢瑣吉</rb><rt>たきざはさきち</rt></ruby>は、微笑しながら、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>皮肉にかう答へた。

二

「どう致しまして、一向結構ぢやございません。結構と云や、先生、<ruby><rb>八犬伝</rb><rt>はつけんでん</rt></ruby>は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>出でて、<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>奇なり、結構なお出来でございますな。」

細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張上げて弁じ出した。

「<ruby><rb>船虫</rb><rt>ふなむし</rt></ruby>が<ruby><rb>瞽婦</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>に身をやつして、<ruby><rb>小文吾</rb><rt>こぶんご</rt></ruby>を殺さうとする。それが一旦つかまつて<ruby><rb>拷問</rb><rt>がうもん</rt></ruby>された揚句に、<ruby><rb>荘介</rb><rt>さうすけ</rt></ruby>に助けられる。あの段どりが実に何とも申されません。さうしてそれが又、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖ぢやございますが、この<ruby><rb>近江屋</rb><rt>あふみや</rt></ruby><ruby><rb>平吉</rb><rt>へいきち</rt></ruby>も、小間物屋こそ致して居りますが、<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>にかけちや一かど<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>のつもりでございます。その手前でさへ、先生の八犬伝には、何とも<ruby><rb>批</rb><rt>ひ</rt></ruby>の打ちやうがございません。いや全く恐れ入りました。」

馬琴は黙つて又、足を洗ひ出した。彼は勿論彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持つてゐる。しかしその好意の為に、相手の人物に対する評価が、変化するなどと云ふ事は少しもない。これは聡明な彼にとつて、当然すぎる程当然な事である、が、不思議な事には逆にその評価が彼の好意に影響すると云ふ事も亦殆どない。だから彼は場合によつて、<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>と好意とを、<ruby><rb>完</rb><rt>まつた</rt></ruby>く同一人に対して同時に感ずる事が出来た。この近江屋平吉の如きは、正にさう云ふ愛読者の一人である。

「何しろあれだけのものをお書きになるんぢや、並大抵なお骨折ぢやございますまい。先づ当今では、先生がさしづめ日本の<ruby><rb>羅貫中</rb><rt>らくわんちゆう</rt></ruby>と云ふ所でございますな――いや、これはとんだ失礼を申上げました。」

平吉は又大きな声をあげて笑つた。その声に驚かされたのであらう。<ruby><rb>側</rb><rt>かたはら</rt></ruby>で湯を浴びてゐた小柄な、色の黒い、<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の小銀杏が、振返つて平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>を吐いた。

「貴公は不相変<ruby><rb>発句</rb><rt>ほつく</rt></ruby>にお<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>りかね。」

馬琴は巧に話頭を転換した。がこれは何も眇の表情を気にした訳ではない。彼の視力は幸福な事に（？）もうそれがはつきりとは見えない程、衰弱してゐたのである。

「これはお尋ねに預つて恐縮至極でございますな。手前のはほんの<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>の横好きで今日も<ruby><rb>運座</rb><rt>うんざ</rt></ruby>、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしやしやり出ますが、どう云ふものか、句の方は一向<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>を出してくれません。時に先生は、如何でございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」

「いや私は、どうもああ云ふものにかけると、とんと無器用でね。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も一時はやつた事もあるが。」

「そりや<ruby><rb>御冗談</rb><rt>ごじようだん</rt></ruby>で。」

「いや、完く<ruby><rb>性</rb><rt>しやう</rt></ruby>に合はないとみえて、未だにとんと眼くらの垣覗きさ。」

馬琴は、「性に合はない」と云ふ<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>に、殊に力を入れてかう云つた。彼は歌や発句が作れないとは思つてゐない。だから勿論その方面の理解にも、乏しくないと云ふ自信がある。が、彼はさう云ふ種類の芸術には、昔から一種の軽蔑を持つてゐた。何故かと云ふと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむ為には、余りに形式が小さすぎる。だから<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に巧に<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>みこなしてあつても、一句一首の中に表現されたものは、抒情なり叙景なり、僅に彼の作品の何行かを<ruby><rb>充</rb><rt>みた</rt></ruby>す丈の資格しかない。さう云ふ芸術は、彼にとつて、第二流の芸術である。

三

彼が「性に合はない」と云ふ<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>に力を入れた<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>には、かう云ふ軽蔑が潜んでゐた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然さう云ふ意味が通じなかつたものらしい。

「ははあ、やつぱりさう云ふものでございますかな。手前などの量見では、先生のやうな大家なら、何でも自由にお作りになれるだらうと存じて居りましたが――いや、天二物を与へずとは、よく申したものでございます。」

平吉はしぼつた手拭で、皮膚が赤くなる程、ごしごし体をこすりながら、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>遠慮するやうな調子で、かう云つた。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をその<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby><ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby><ruby><rb>通</rb><rt>どほ</rt></ruby>り受取られたと云ふ事が、先づ何よりも不満である。その上平吉の遠慮するやうな調子が<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>又気に入らない。そこで彼は手拭と垢すりとを流しへ<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出すと半ば身を起しながら、苦い顔をして、こんな<ruby><rb>気焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>をあげた。

「尤も、当節の歌よみや宗匠位には行くつもりだがね。」

しかし、かう云ふと共に、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥づかしく感ぜられた。自分はさつき平吉が、最上級の語を使つて八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかつたとは思つてゐない。さうして見れば、今その反対に、自分が歌や発句を作る事の出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思ふのは、<ruby><rb>明</rb><rt>あきらか</rt></ruby>に矛盾である。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>にかう云ふ自省を動かした彼は、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も内心の赤面を隠さうとするやうに、慌しく止め桶の湯を肩から浴びた。

「でございませう。さうなくつちや、とてもああ云ふ傑作は、お出来になりますまい。して見ますと、先生は歌も発句もお作りになると、かう睨んだ手前の眼光は、やつぱり大したものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」

平吉は又大きな声を立てて、笑つた。さつきの<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>はもう側にゐない。<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>も馬琴の浴びた湯に、流されてしまつた。が、馬琴がさつきにも増して恐縮したのは勿論の事である。

「いや、うつかり話しこんでしまつた。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」

妙に間の悪くなつた彼は、かう云ふ挨拶と共に、自分に対する一種の腹立しさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に立上つた。が、平吉は彼の気焔によつて<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなつたやうに、感じたらしい。

「では先生その中に一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしうございますか。お忘れになつちやいけませんぜ。ぢや手前も、これで失礼致しませう。お<ruby><rb>忙</rb><rt>せは</rt></ruby>しうもございませうが、お通りすがりの節は、ちと御立ち寄りを。手前も亦、お邪魔に上ります。」

平吉は追ひかけるやうに、かう云つた。さうして、もう一度手拭を洗ひ出しながら、<ruby><rb>柘榴口</rb><rt>ざくろぐち</rt></ruby>の方へ歩いて行く馬琴の後姿を見送つて、これから家へ帰つた時に、曲亭先生に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>つたと云ふ事を、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考へた。

四

柘榴口の中は、夕方のやうにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめてゐる。眼の悪い馬琴は、その中にゐる人々の間を、あぶなさうに押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、やつとそこへ皺だらけな体を浸した。

湯加減は少し熱い位である。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をして、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に風呂の中を見廻はした。うす暗い中に浮んでゐる頭の数は、七つ八つもあらうか。それが皆話しをしたり、唄をうたつたりしてゐるまはりには、人間の脂を<ruby><rb>溶</rb><rt>とか</rt></ruby>した、<ruby><rb>滑</rb><rt>なめらか</rt></ruby>な湯の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>が、柘榴口からさす濁つた光に反射して、退屈さうにたぶたぶと動いてゐる。そこへ胸の悪い「銭湯の匂」がむんと人の鼻を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

馬琴の空想には、昔から<ruby><rb>羅曼的</rb><rt>ロマンテイク</rt></ruby>な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描かうとする小説の場景の一つを、思ひ浮べるともなく思ひ浮べた。そこには重い<ruby><rb>舟日覆</rb><rt>ふなひおひ</rt></ruby>がある。日覆の外の海は、日の暮と共に風が出たらしい。<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>をうつ浪の音が、まるで油を揺るやうに、重苦しく聞えて来る。その音と共に、日覆をはためかすのは大方<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>かうもり</rt></ruby>の羽音であらう。<ruby><rb>舟子</rb><rt>かこ</rt></ruby>の一人は、それを気にするやうに、そつと舷から外を覗いて見た。霧の下りた海の上には、赤い三日月が<ruby><rb>陰々</rb><rt>いんいん</rt></ruby>と空に懸つてゐる。すると……

彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>の批評をしてゐるのが、ふと彼の耳へはいつたからである。しかも、それは声と云ひ、<ruby><rb>話様</rb><rt>はなしやう</rt></ruby>と云ひ、殊更彼に聞かせようとして、しやべり立ててゐるらしい。馬琴は一旦風呂を出ようとしたが、やめて、ぢつとその批評を聞き澄ました。

「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありや焼直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく<ruby><rb>水滸伝</rb><rt>すゐこでん</rt></ruby>の引写しぢやげえせんか。が、そりやまあ大目に見ても、いい筋がありやす。何しろ先が<ruby><rb>唐</rb><rt>から</rt></ruby>の物でげせう。そこで、まづそれを読んだと云ふ丈でも、一手柄さ。所がそこへ又づぶ<ruby><rb>京伝</rb><rt>きやうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>二番煎</rb><rt>にばんせん</rt></ruby>じと来ちや、呆れ返つて腹も立ちやせん。」

馬琴はかすむ眼で、この悪口を云つてゐる男の方を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見た。湯気に<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>られて、はつきりと見えないが、どうもさつき側にゐた<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の小銀杏ででもあるらしい。さうとすればこの男は、さつき平吉が八犬伝を褒めたのに<ruby><rb>業</rb><rt>ごふ</rt></ruby>を煮やして、わざと馬琴に当りちらしてゐるのであらう。

「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ<ruby><rb>寺子屋</rb><rt>てらこや</rt></ruby>の師匠でも云ひさうな、<ruby><rb>四書五経</rb><rt>ししよごきやう</rt></ruby>の講釈だけでげせう。だから又当世の事は、とんと御存じなしさ。それが証拠にや、昔の事でなけりや、書いたと云ふためしはとんとげえせん。お<ruby><rb>染</rb><rt>そめ</rt></ruby><ruby><rb>久松</rb><rt>ひさまつ</rt></ruby>がお染久松ぢや書けねえもんだから、そら<ruby><rb>松染情史秋七草</rb><rt>しやうせんじやうしあきのななくさ</rt></ruby>さ。こんな事は、馬琴<ruby><rb>大人</rb><rt>たいじん</rt></ruby>の口真似をすれば、そのためしさはに多かりでげす。」

憎悪の感情は、どつちか優越の意識を持つてゐる以上、起したくも起されない。馬琴も相手の云ひぐさが癪にさはりながら、妙にその相手が憎めなかつた。その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいと云ふ欲望がある。それが実行に移されなかつたのは、恐らく年齢が歯止めをかけたせゐであらう。

「そこへ行くと、<ruby><rb>一九</rb><rt>いつく</rt></ruby>や<ruby><rb>三馬</rb><rt>さんば</rt></ruby>は大したものでげす。あの手合ひの書くものには天然自然の人間が出てゐやす。決して小手先の器用や<ruby><rb>生噛</rb><rt>なまかじ</rt></ruby>りの学問で、<ruby><rb>捏</rb><rt>でつ</rt></ruby>ちあげたものぢやげえせん。そこが大きに<ruby><rb>蓑笠軒隠者</rb><rt>さりふけんいんじや</rt></ruby>なんぞとは、ちがふ所さ。」

馬琴の経験によると、自分の読本の悪評を聞くと云ふ事は、単に不快であるばかりでなく、危険も亦少くない。と云ふのは、その悪評を是認する為に、勇気が<ruby><rb>沮喪</rb><rt>そさう</rt></ruby>すると云ふ意味ではなく、それを否認する為に、その後の創作的動機に、反動的なものが加はると云ふ意味である。さうしてさう云ふ不純な動機から出発する結果、<ruby><rb>屡</rb><rt>しばしば</rt></ruby>畸形な芸術を創造する<ruby><rb>惧</rb><rt>おそれ</rt></ruby>があると云ふ意味である。時好に投ずることのみを目的としてゐる作者は別として、少しでも<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>のある作者なら、この危険には存外陥り易い。だから馬琴は、この年まで自分の読本に対する悪評は、成る可く読まないやうに心がけて来た。が、さう思ひながらも亦、一方には、その悪評を読んで見たいと云ふ誘惑がないでもない。今、この風呂で、この小銀杏の悪口を聞くやうになつたのも、<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>はその誘惑に陥つたからである。

かう気のついた彼は、すぐに<ruby><rb>便々</rb><rt>べんべん</rt></ruby>とまだ湯に浸つてゐる自分の愚を責めた。さうして、<ruby><rb>癇高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い小銀杏の声を聞き流しながら、柘榴口を外へ勢ひよく<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで出た。外には、湯気の間に窓の青空が見え、その青空には暖く日を浴びた柿が見える。馬琴は<ruby><rb>水槽</rb><rt>みづぶね</rt></ruby>の前へ来て、心静に上り湯を使つた。

「兎に角、馬琴は食はせ物でげす。日本の羅貫中もよく出来やした。」

しかし風呂の中ではさつきの男が、まだ馬琴がゐるとでも思ふのか、依然として猛烈なフイリツピクスを発しつづけてゐる。事によると、これはその<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>に<ruby><rb>災</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>されて、彼の柘榴口を跨いで出る姿が、見えなかつたからかも知れない。

五

しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでゐた。眇の毒舌は、少くともこれだけの範囲で、確に予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、一々彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。さうして、それが、如何なる点から考へて見ても、一顧の価のない愚論だと云ふ事実を、即座に証明する事が出来た。が、それにも関らず、一度乱された彼の気分は、容易に元通り、落着きさうもない。

彼は不快な眼を挙げて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでゐる。だから「<ruby><rb>諸国銘葉</rb><rt>しよこくめいえふ</rt></ruby>」の柿色の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>、「<ruby><rb>本黄楊</rb><rt>ほんつげ</rt></ruby>」の黄いろい櫛形の<ruby><rb>招牌</rb><rt>かんばん</rt></ruby>、「<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>」の<ruby><rb>掛行燈</rb><rt>かけあんどう</rt></ruby>、「<ruby><rb>卜筮</rb><rt>ぼくぜい</rt></ruby>」の<ruby><rb>算木</rb><rt>さんぎ</rt></ruby>の旗、――さう云ふものが、無意味な一列を作つて、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>雑然と彼の眼底を通りすぎた。

「どうして<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は、己の軽蔑してゐる悪評に、かう<ruby><rb>煩</rb><rt>わづらは</rt></ruby>されるのだらう。」

馬琴は又、考へつづけた。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を不快にするのは、第一にあの<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>が己に悪意を持つてゐると云ふ事実だ。人に悪意を持たれると云ふ事は、その理由の<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>に関らず、それ<ruby><rb>丈</rb><rt>だけ</rt></ruby>で己には不快なのだから、仕方がない。」

彼は、かう思つて、自分の気の弱いのを恥ぢた。実際彼の如く<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ばうじやくぶじん</rt></ruby>な態度に出る人間が少かつたやうに、彼の如く他人の悪意に対して、敏感な人間も亦少かつたのである。さうして、この行為の上では全く反対に思はれる二つの結果が、実は同じ原因――同じ神経作用から来てゐると云ふ事実にも、勿論彼はとうから気がついてゐた。

「しかし、己を不快にするものは、まだ<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にもある。それは己があの眇と、対抗するやうな位置に置かれたと云ふ事だ。己は昔からさう云ふ位置に身を置く事を好まない。勝負事をやらないのも、その為だ。」

ここまで分析して来た彼の頭は、更に一歩を進めると同時に、思ひもよらない変化を、気分の上に起させた。それは<ruby><rb>緊</rb><rt>かた</rt></ruby>くむすんでゐた彼の唇が、この時急に<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだのを見ても、知れる事であらう。

「最後に、さう云ふ位置へ己を置いた相手が、あの眇だと云ふ事実も、確に己を不快にしてゐる。もしあれがもう少し高等な相手だつたら、己はこの不快を<ruby><rb>反撥</rb><rt>はんぱつ</rt></ruby>する丈の、反抗心を起してゐたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口する筈だ。」

馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがら</rt></ruby>かな<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>の声が、日の光と共に、雨の如く落ちて来る。彼は今まで沈んでゐた気分が次第に軽くなつて来る事を意識した。

「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせる位だ。いくら鳶が鳴いたからと云つて、天日の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだらう。さうしてその時は、日本が古今に<ruby><rb>比倫</rb><rt>ひりん</rt></ruby>のない大伝奇を持つ時だ。」

彼は<ruby><rb>恢復</rb><rt>くわいふく</rt></ruby>した自信を<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>はりながら、細い小路を静に家の方へ曲つて行つた。

六

内へ帰つて見ると、うす暗い玄関の<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬ</rt></ruby>ぎの上に、見慣れたばら緒の<ruby><rb>雪駄</rb><rt>せつた</rt></ruby>が一足のつてゐる。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののつぺりした顔が、眼に浮んだ。さうして又、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思ひ起した。

「今日も朝の中はつぶされるな。」

かう思ひながら、彼が式台へ上ると、慌しく出迎へた下女の<ruby><rb>杉</rb><rt>すぎ</rt></ruby>が、手をついた儘、下から彼の顔を見上げるやうにして、

「<ruby><rb>和泉屋</rb><rt>いづみや</rt></ruby>さんが、御居間でお帰りをお待ちでございます。」と云つた。

彼は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。

「お<ruby><rb>百</rb><rt>ひやく</rt></ruby>は。」

「<ruby><rb>御仏参</rb><rt>ごぶつさん</rt></ruby>にお出でになりました。」

「お<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>も一しよか。」

「はい。坊ちやんと御一しよに。」

「<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は。」

「山本様へいらつしやいました。」

家内は皆、留守である。彼はちよいと、失望に似た感じを味つた。さうして仕方なく、玄関の隣にある書斎の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けた。

開けて見ると、そこには、色の白い、顔のてらてら光つてゐる、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へながら、端然と座敷のまん中に控へてゐる。彼の書斎には<ruby><rb>石刷</rb><rt>いしずり</rt></ruby>を貼つた<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>と床にかけた<ruby><rb>紅楓</rb><rt>こうふう</rt></ruby><ruby><rb>黄菊</rb><rt>くわうぎく</rt></ruby>の<ruby><rb>双幅</rb><rt>さうふく</rt></ruby>との外に、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、唯古びた桐の色を、一面に寂しく並べてゐる。障子の紙も貼つてから、一冬はもう越えたのであらう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照された<ruby><rb>破芭蕉</rb><rt>やればせう</rt></ruby>の大きな影が、<ruby><rb>婆娑</rb><rt>ばさ</rt></ruby>として斜に映つてゐる。それだけにこの客のぞろりとした服装が、一層又周囲と釣り合はない。

「いや、先生、ようこそお帰り。」

客は、襖があくと共に、<ruby><rb>滑</rb><rt>なめらか</rt></ruby>な調子でかう云ひながら、<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い<ruby><rb>金瓶梅</rb><rt>きんぺいばい</rt></ruby>の版元を引受けてゐた、和泉屋<ruby><rb>市兵衛</rb><rt>いちべゑ</rt></ruby>と云ふ本屋である。

「大分にお待ちなすつたらう。めづらしく今朝は、朝湯に行つたのでね。」

馬琴は、本能的にちよいと顔をしかめながら、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの通り、礼儀正しく座についた。

「へへえ、朝湯に。成程。」

市兵衛は、大に感服したやうな声を出した。<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる<ruby><rb>瑣末</rb><rt>さまつ</rt></ruby>な事件にも、この男の如く容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したやうな顔をする人間は、稀である。馬琴は<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に一服吸ひつけながら、何時もの通り、早速話を用談の方へ持つていつた。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。

「そこで今日は何か御用かね。」

「へえ、なに又一つ原稿を頂戴に上りましたんで。」

市兵衛は<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を一つ指の先でくるりとまはして見せながら、女のやうに<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい声を出した。この男は不思議な性格を持つてゐる。と云ふのは、外面の行為と内面の心意とが、大抵な場合は一致しない。しない所か、何時でも正反対になつて現れる。だから、彼は<ruby><rb>大</rb><rt>おほい</rt></ruby>に強硬な意志を持つてゐると、必ずそれに反比例する、如何にも柔しい声を出した。

馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。

「原稿と云つたつて、それは無理だ。」

「へへえ、何か<ruby><rb>御差支</rb><rt>おさしつかへ</rt></ruby>でもございますので。」

「差支へる所ぢやない。今年は<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>を大分引受けたので、とても<ruby><rb>合巻</rb><rt>がふくわん</rt></ruby>の方へは手が出せさうもない。」

「成程それは御多忙で。」

と云つたかと思ふと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のやうに、今までの話はすつかり忘れたと云ふ顔をして、突然<ruby><rb>鼠小僧</rb><rt>ねずみこぞう</rt></ruby><ruby><rb>次郎太夫</rb><rt>じろだいふ</rt></ruby>の話をしやべり出した。

七

鼠小僧次郎太夫は、今年五月の上旬に召捕られて、八月の中旬に獄門になつた、評判の高い大賊である。それが大名屋敷へばかり忍び込んで、盗んだ金は窮民へ施したと云ふ所から、当時は義賊と云ふ妙な名前が、一般にこの盗人の代名詞になつて、どこでも盛に持て<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>されてゐた。

「何しろ先生、盗みにはいつた御大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分だと云ふのだから驚きます。盗人ぢやございますが、中々唯の人間に出来る事ぢやございません。」

馬琴は思はず好奇心を動かした。市兵衛がかう云ふ話をする<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>には、何時も作者に材料を与へてやると云ふ<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れがひそんでゐる。その己惚れは勿論、よく馬琴の<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>にさはつた。が、癇にさはりながらも、やつぱり好奇心には動かされる。芸術家としての天分を多量に持つてゐた彼は、殊にこの点では、誘惑に陥り易かつたからであらう。

「ふむ、それは成程えらいものだね。私もいろいろ<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>には聞いてゐたが、まさかそれ程とは思はずにゐた。」

「つまりまづ賊中の豪なるものでございませうな。何でも以前は<ruby><rb>荒尾</rb><rt>あらを</rt></ruby><ruby><rb>但馬守</rb><rt>たじまのかみ</rt></ruby>様の<ruby><rb>御供押</rb><rt>おともお</rt></ruby>しか何かを勤めた事があるさうで、お屋敷方の案内に<ruby><rb>明</rb><rt>あかる</rt></ruby>いのは、そのせゐださうでございます。引廻しを見たものの話を聞きますと、でつぷりした、<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいけう</rt></ruby>のある男ださうで、その時は紺の<ruby><rb>越後縮</rb><rt>ゑちごちぢみ</rt></ruby>の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>に、下へは<ruby><rb>白練</rb><rt>しろねり</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとへ</rt></ruby>を着てゐたと申しますが、とんと先生のお書きになるものの中へでも出て来さうぢやございませんか。」

馬琴は生返事をしながら、又一服吸ひつけた。が、市兵衛は元より、生返事位に驚くやうな男ではない。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございませう。そこで金瓶梅の方へ、この次郎太夫を持ちこんで、御執筆を願ふやうな訳には参りますまいか。それはもう手前も、お忙しいのは重々承知致して居ります。が、そこをどうか<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げて、一つ御承諾を。」

鼠小僧はここに至つて、忽ち又元の原稿の催促へ舞戻つた。が、この慣用手段に慣れてゐる馬琴は依然として承知しない。のみならず、彼は前よりも一層機嫌が悪くなつた。これは一時でも市兵衛の計に乗つて、幾分の好奇心を動かしたのが、彼自身<ruby><rb>莫迦莫迦</rb><rt>ばかばか</rt></ruby>しくなつたからである。彼はまづさうに煙草を吸ひながら、とうとうこんな理窟を云ひ出した。

「第一私が無理に書いたつて、どうせ碌なものは出来やしない。それぢや売れ行きに関るのは云ふまでもない事なのだから、貴公の方だつてつまらなからう。して見ると、これは私の無理を通させる方が、結局両方の為になるだらうと思ふが。」

「でございませうが、そこを一つ御奮発願ひたいので。如何なものでございませう。」

市兵衛は、かう云ひながら、視線で彼の顔を「撫で廻した。」（これは馬琴が和泉屋の或眼つきを形容した<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>である。）さうして、煙草の煙をとぎれとぎれに鼻から出した。

「とても、書けないね。書きたくも、暇がないんだから、仕方がない。」

「それは手前、困却致しますな。」

と言つたが、今度は突然、当時の作者仲間の事を話し出した。やつぱり細い銀の煙管を、うすい唇の間に<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へながら。

八

「又<ruby><rb>種彦</rb><rt>たねひこ</rt></ruby>の何か新版物が、出るさうでございますな。いづれ優美第一の、哀れつぽいものでございませう。あの<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>の書くものは、種彦でなくては書けないと云ふ所があるやうで。」

市兵衛は、どう云ふ気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞く度に、自分も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>蔭では「馬琴が」と云はれる事だらうと思つた。この軽薄な、作者を自家の職人だと心得てゐる男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある？――癇の<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶつた時々には、かう思つて腹を立てた事も、稀ではない。今日も彼は種彦と云ふ名を耳にすると、苦い顔を<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>苦くせずにはゐられなかつた。が、市兵衛には、少しもそんな事は気にならないらしい。

「それから手前どもでも、<ruby><rb>春水</rb><rt>しゆんすゐ</rt></ruby>を出さうかと存じて居ります。先生はお嫌ひでございますが、やはり俗物にはあの辺が向きますやうでございますな。」

「ははあ、左様かね。」

馬琴の記憶には、何時か見かけた事のある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者ぢやない。お客様のお望みに従つて、<ruby><rb>艶物</rb><rt>つやもの</rt></ruby>を書いてお目にかける手間取りだ。」――かう春水が称してゐると云ふ噂は、馬琴も<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に聞いてゐた所である。だから、勿論彼はこの作者らしくない作者を、心の底から軽蔑してゐた。が、それにも関らず、今市兵衛が呼びすてにするのを聞くと、依然として不快の情を禁ずる事が出来ない。

「兎も角あれで、艶つぽい事にかけては、達者なものでございますからな。それに名代の健筆で。」

かう云ひながら、市兵衛はちよいと馬琴の顔を見て、それから又すぐに口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へてゐる銀の煙管へ眼をやつた。その咄嗟の表情には、恐る可く下等な何者かがある。少くとも、馬琴はさう感じた。

「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分位なら、紙からはなれないさうでございます。時に先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」

馬琴は不快を感じると共に、脅されるやうな心もちになつた。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されると云ふ事は、自尊心の<ruby><rb>旺盛</rb><rt>わうせい</rt></ruby>な彼にとつて、勿論好ましい事ではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするやうに思はれて、寂しくなつた事もよくあつた。が、一方又それが自分の芸術的良心を計る物差しとして、尊みたいと思つた事も度々ある。唯、それを俗人の<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>にまかせるのは、彼がどんな心もちでゐようとも、断じて許さうとは思はない。そこで彼は、眼を床の<ruby><rb>紅楓</rb><rt>こうふう</rt></ruby><ruby><rb>黄菊</rb><rt>くわうぎく</rt></ruby>の方へやりながら、吐き出すやうにかう云つた。

「時と場合でね。早い時もあれば、又遅い時もある。」

「ははあ、時と場合でね。成程。」

市兵衛は三度感服した。が、これが感服それ自身に<ruby><rb>了</rb><rt>をは</rt></ruby>る感服でない事は、云ふまでもない。彼はこの後で、すぐに又、切りこんだ。

「でございますが、度々申し上げた原稿の方は、一つ御承諾下さいませんでせうか。春水なんぞも、……」

「私と<ruby><rb>為永</rb><rt>ためなが</rt></ruby>さんとは違ふ。」

馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐しい勢で左へまがつた。

「まあ私は御免を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>らう。――杉、杉、和泉屋さんのお<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>を直して置いたか。」

九

和泉屋市兵衛を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>ひ帰すと、馬琴は独り縁側の柱へよりかかつて、狭い庭の景色を眺めながら、まだをさまらない腹の虫を、無理にをさめようとして、骨を折つた。

日の光を一ぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばせう</rt></ruby>や、坊主になりかかつた<ruby><rb>梧桐</rb><rt>あをぎり</rt></ruby>が、<ruby><rb>槇</rb><rt>まき</rt></ruby>や竹の緑と一しよになつて、暖かく何坪かの秋を領してゐる。こつちの<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>てうづばち</rt></ruby>の側にある<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>は、もう花が<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>になつたが、向うの袖垣の外に植ゑた<ruby><rb>木犀</rb><rt>もくせい</rt></ruby>は、まだその甘い匂が衰へない。そこへ例の<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>の声が<ruby><rb>遙</rb><rt>はるか</rt></ruby>な青空の向うから、時々笛を吹くやうに落ちて来た。

彼は、この自然と対照させて、今更のやうに世間の下等さを思出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに<ruby><rb>煩</rb><rt>わづら</rt></ruby>はされて、自分も亦下等な言動を余儀なくさせられる所にある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>ひ払つた。逐ひ払ふと云ふ事は、勿論高等な事でも何でもない。が、自分は相手の下等さによつて、自分も亦その下等な事を、しなくてはならない所まで押しつめられたのである。さうして、した。したと云ふ意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑くしたと云ふのに外ならない。つまり自分は、それ丈堕落させられた訳である。

ここまで考へた時に、彼はそれと同じやうな出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼の所へ弟子入りをしたいと云つて手紙をよこした、<ruby><rb>相州</rb><rt>さうしう</rt></ruby><ruby><rb>朽木</rb><rt>くちき</rt></ruby><ruby><rb>上新田</rb><rt>かみしんでん</rt></ruby>とかの<ruby><rb>長島政兵衛</rb><rt>ながしままさべゑ</rt></ruby>と云ふ男である。この男はその手紙によると、二十一の年に<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>になつて以来、廿四の今日まで文筆を以て天下に知られたいと云ふ決心で、<ruby><rb>専</rb><rt>もつぱ</rt></ruby>ら<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>の著作に精を出した。八犬伝や<ruby><rb>巡島記</rb><rt>じゆんたうき</rt></ruby>の愛読者である事は云ふまでもない。就いてはかう云ふ<ruby><rb>田舎</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>にゐては、何かと修業の<ruby><rb>妨</rb><rt>さまたげ</rt></ruby>になる。だから、あなたの所へ、食客に置いて貰ふ訳には行くまいか。それから又、自分は六冊物の読本の原稿を持つてゐる。これもあなたの<ruby><rb>筆削</rb><rt>ひつさく</rt></ruby>を受けて、然るべき本屋から出版したい。――大体こんな事を書いてよこした。向うの要求は、勿論皆馬琴にとつて、余りに虫のいい事ばかりである。が、耳の遠いと云ふ事が、眼の悪いのを苦にしてゐる彼にとつて、幾分の同情を繋ぐ<ruby><rb>楔子</rb><rt>くさび</rt></ruby>になつたのであらう。折角だが御依頼通りになり兼ねると云ふ彼の返事は、<ruby><rb>寧</rb><rt>むしろ</rt></ruby>彼としては、<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちよう</rt></ruby>を極めてゐた。すると、折返して来た手紙には、始から仕舞まで猛烈な非難の文句の外に、何一つ書いてない。

自分はあなたの八犬伝と云ひ、巡島記と云ひ、あんな長たらしい、拙劣な<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>を根気よく読んであげたが、あなたは私のたつた六冊物の読本に眼を通すのさへ<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>まれた。以てあなたの人格の下等さがわかるではないか。――手紙はかう云ふ文句ではじまつて、先輩として後輩を食客に置かないのは、<ruby><rb>鄙吝</rb><rt>ひりん</rt></ruby>の為す所だと云ふ攻撃で、僅に局を結んでゐる。馬琴は腹が立つたから、すぐに返事を書いた。さうしてその中に、自分の読本が貴公のやうな軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だと云ふ文句を入れた。その後<ruby><rb>杳</rb><rt>えう</rt></ruby>として消息を聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起してゐるだらうか。さうしてそれが<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か日本中の人間に読まれる事を、夢想してゐるだらうか。…………

馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情無さと、彼自身に対する情無さとを同時に感ぜざるを得なかつた。さうしてそれは又彼を、云ひやうのない寂しさに導いた。が、日は無心に<ruby><rb>木犀</rb><rt>もくせい</rt></ruby>の匂を融かしてゐる。芭蕉や梧桐も、ひつそりとして葉を動かさない。<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>の声さへ以前の通り<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがらか</rt></ruby>である。この自然とあの人間と――十分の後、下女の杉が昼飯の支度の出来た事を知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見てゐるやうに、ぼんやり縁側の柱に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りつづけてゐた。

十

独りで寂しい昼飯をすませた彼は、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く書斎へひきとると、何となく落着がない、不快な心もちを<ruby><rb>鎮</rb><rt>しづ</rt></ruby>める為に、久しぶりで<ruby><rb>水滸伝</rb><rt>すゐこでん</rt></ruby>を開いて見た。偶然開いた所は<ruby><rb>豹子</rb><rt>へうし</rt></ruby><ruby><rb>頭林冲</rb><rt>とうりんちゆう</rt></ruby>が、風雪の夜に<ruby><rb>山神廟</rb><rt>さんじんべう</rt></ruby>で、<ruby><rb>草秣場</rb><rt>まぐさば</rt></ruby>の焼けるのを望見する<ruby><rb>件</rb><rt>くだり</rt></ruby>である。彼はその戯曲的な場景に、何時もの感興を催す事が出来た。が、それが或所まで続くと<ruby><rb>反</rb><rt>かへつ</rt></ruby>て妙に不安になつた。

<ruby><rb>仏参</rb><rt>ぶつさん</rt></ruby>に行つた家族のものは、まだ帰つて来ない。内の中は<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>としてゐる。彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸つた。さうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持つてゐる、或疑問を<ruby><rb>髣髴</rb><rt>はうふつ</rt></ruby>した。

それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、何時も<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>する疑問である。彼は昔から「<ruby><rb>先王</rb><rt>せんわう</rt></ruby>の道」を疑はなかつた。彼の小説は彼自身公言した如く、正に「先王の道」の芸術的表現である。だから、そこに矛盾はない。が、その「先王の道」が芸術に与へる価値と、彼の心情が芸術に与へようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。従つて彼の中にある、道徳家が前者を肯定すると共に、彼の中にある芸術家は当然又後者を肯定した。勿論此矛盾を切抜ける安価な妥協的思想もない事はない。実際彼は公衆に向つて此煮切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な態度を隠さうとした事もある。

しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は<ruby><rb>戯作</rb><rt>げさく</rt></ruby>の価値を否定して「<ruby><rb>勧懲</rb><rt>くわんちよう</rt></ruby>の具」と称しながら、常に彼の中に<ruby><rb>磅礴</rb><rt>ばうはく</rt></ruby>する芸術的感興に遭遇すると、忽ち不安を感じ出した。――水滸伝の一節が、<ruby><rb>偶</rb><rt>たまたま</rt></ruby>彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があつたのである。

この点に於て、思想的に臆病だつた馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強ひて思量を、留守にしてゐる家族の方へ押し流さうとした。が、彼の前には水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく久しぶりで、<ruby><rb>崋山</rb><rt>くわざん</rt></ruby><ruby><rb>渡辺登</rb><rt>わたなべのぼる</rt></ruby>が尋ねて来た。袴羽織に紫の風呂敷包を小脇にしてゐる所では、これは大方借りてゐた書物でも返しに来たのであらう。

馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎へに出た。

「今日は拝借した書物を御返却<ruby><rb>旁</rb><rt>かたがた</rt></ruby>、御目にかけたいものがあつて、参上しました。」

崋山は書斎に通ると、果してかう云つた。見れば風呂敷包みの外にも紙に巻いた<ruby><rb>絵絹</rb><rt>ゑぎぬ</rt></ruby>らしいものを持つてゐる。

「御暇なら一つ御覧を願ひませうかな。」

「おお、早速、拝見しませう。」

崋山は或興奮に似た感情を隠すやうに、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>わざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見せた。絵は<ruby><rb>蕭索</rb><rt>せうさく</rt></ruby>とした裸の樹を、<ruby><rb>遠近</rb><rt>をちこち</rt></ruby>と<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に描いて、その中に<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>を<ruby><rb>拊</rb><rt>う</rt></ruby>つて談笑する二人の男を立たせてゐる。林間に散つてゐる黄葉と、<ruby><rb>林梢</rb><rt>りんせう</rt></ruby>に<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>つてゐる<ruby><rb>乱鴉</rb><rt>らんあ</rt></ruby>と、――画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いてゐない所はない。

馬琴の眼は、この淡彩の<ruby><rb>寒山拾得</rb><rt>かんざんじつとく</rt></ruby>に落ちると、次第にやさしい<ruby><rb>潤</rb><rt>うるほ</rt></ruby>ひを帯びて輝き出した。

「何時もながら、結構な御出来ですな。私は<ruby><rb>王摩詰</rb><rt>わうまきつ</rt></ruby>を思ひ出します。<ruby><rb>食随鳴磬巣烏下</rb><rt>しよくはめいけいにしたがひさううくだり</rt></ruby>、<ruby><rb>行踏空林落葉声</rb><rt>ゆいてくうりんをふめばらくえふこゑあり</rt></ruby>と云ふ所でせう。」

十一

「これは昨日<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き上げたのですが、私には気に入つたから、御老人さへよければ差上げようと思つて持つて来ました。」

崋山は、<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の痕の青い<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を撫でながら、満足さうにかう云つた。

「勿論気に入つたと云つても、今まで描いたものの中ではと云ふ位な所ですが――とても思ふ通りには、何時になつても、描けはしません。」

「それは有難い。何時も頂戴ばかりしてゐて恐縮ですが。」

馬琴は、絵を眺めながら、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くやうに礼を云つた。未完成の儘になつてゐる彼の仕事の事が、この時彼の心の底に、何故かふと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵の事を考へつづけてゐるらしい。

「古人の絵を見る度に、私は何時もどうしてかう描けるだらうと思ひますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりに成り切つて、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きてゐる。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供程にも出来て居ません。」

「古人は<ruby><rb>後生</rb><rt>こうせい</rt></ruby>恐るべしと云ひましたがな。」

馬琴は崋山が自分の絵の事ばかり考へてゐるのを、<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましいやうな心もちで眺めながら、何時になくこんな<ruby><rb>諧謔</rb><rt>かいぎやく</rt></ruby>を弄した。

「それは後生も恐ろしい。だから私どもは唯、古人と後生との間に<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>まつて、身動きもならずに、押され押され進むのです。尤もこれは私どもばかりではありますまい。古人もさうだつたし、後生もさうでせう。」

「如何にも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまづ一足でも進む工夫が、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>らしいやうですな。」

「さやう、それが何よりも肝腎です。」

主人と客とは、彼等自身の<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>に動かされて、暫くの間口をとざした。さうして二人とも、秋の日の静な物音に耳をすませた。

「八犬伝は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あひかはらず</rt></ruby>、<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>がお行きですか。」

やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。

「いや、一向捗どらんで仕方がありません。これも古人には及ばないやうです。」

「御老人がそんな事を云つては、困りますな。」

「困るのなら、私の方が誰よりも困つてゐます。併しどうしても、之で行ける所迄行くより外はない。さう思つて、私は此頃八犬伝と討死の覚悟をしました。」

かう云つて、馬琴は自ら恥づるもののやうに、苦笑した。

「たかが<ruby><rb>戯作</rb><rt>げさく</rt></ruby>だと思つても、さうは行かない事が多いのでね。」

「それは私の絵でも同じ事です。どうせやり出したからには、私も行ける所までは行き切りたいと思つてゐます。」

「御互に討死ですかな。」

二人は声を立てて、笑つた。が、その笑ひ声の中には、二人だけにしかわからない或寂しさが流れてゐる。と同時に又、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。

「しかし絵の方は羨ましいやうですな。公儀の<ruby><rb>御咎</rb><rt>おとが</rt></ruby>めを受けるなどと云ふ事がないのは何よりも結構です。」

今度は馬琴が、話頭を一転した。

十二

「それはないが――御老人の書かれるものも、さう云ふ心配はありますまい。」

「いや、大にありますよ。」

馬琴は<ruby><rb>改名主</rb><rt>あらためなぬし</rt></ruby>の図書検閲が、<ruby><rb>陋</rb><rt>ろう</rt></ruby>を極めてゐる例として、自作の小説の一節が役人が<ruby><rb>賄賂</rb><rt>わいろ</rt></ruby>をとる箇条のあつた為に、改作を命ぜられた事実を挙げた。さうして、それにこんな批評をつけ加へた。

「改名主など云ふものは、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め<ruby><rb>立</rb><rt>だ</rt></ruby>てをすればする程、尻尾の出るのが面白いぢやありませんか。自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂の事を書かれると、嫌がつて改作させる。又自分たちが<ruby><rb>猥雑</rb><rt>わいざつ</rt></ruby>な心もちに<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>はれ易いものだから、<ruby><rb>男女</rb><rt>なんによ</rt></ruby>の情さへ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ<ruby><rb>誨淫</rb><rt>くわいいん</rt></ruby>の書にしてしまふ。それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でゐるから、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>痛い次第です。云はばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出してゐるやうなものでせう。自分で自分の下等なのに腹を立ててゐるのですからな。」

崋山は馬琴の比喩が余り熱心なので、思はず失笑しながら、

「それは大きにさう云ふ所もありませう。しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になる訳ではありますまい。改名主などが何と云はうとも、立派な著述なら、必ずそれだけの事はある筈です。」

「それにしても、ちと横暴すぎる事が多いのでね。さうさう一度などは獄屋へ衣食を送る<ruby><rb>件</rb><rt>くだり</rt></ruby>を書いたので、やはり五六行削られた事がありました。」

馬琴自身もかう云ひながら、崋山と一しよに、くすくす笑ひ出した。

「しかしこの後五十年か百年経つたら、改名主の方はゐなくなつて、八犬伝だけが残る事になりませう。」

「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外何時までもゐさうな気がしますよ。」

「さうですかな。私にはさうも思はれませんが。」

「いや、改名主はゐなくなつても、改名主のやうな人間は、何時の世にも絶えた事はありません。<ruby><rb>焚書坑儒</rb><rt>ふんしよかうじゆ</rt></ruby>が昔だけあつたと思ふと、大きに違ひます。」

「御老人は、この頃心細い事ばかり云はれますな。」

「私が心細いのではない。改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」

「では、<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>働かれたら好いでせう。」

「兎に角、それより外はないやうですな。」

「そこで又、御同様に討死ですか。」

今度は二人とも笑はなかつた。笑はなかつたばかりではない。馬琴はちよいと顔を堅くして、崋山を見た。それ程崋山のこの冗談のやうな<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>には、妙な鋭さがあつたのである。

「しかしまづ若い者は、生きのこる分別をする事です。討死は何時でも出来ますからな。」

程を経て、馬琴がかう云つた。崋山の政治上の意見を知つてゐる彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであらう。が、崋山は微笑したぎり、それには答へようともしなかつた。

十三

崋山が帰つた後で、馬琴はまだ残つてゐる興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、何時ものやうに机へ向つた。先を書きつづける前に、昨日書いた所を一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆつくり読み返した。

すると、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か書いてある事が、自分の心もちとぴつたり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでゐて、それが全体の調和を至る所で破つてゐる。彼は最初それを、彼の癇が<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶつてゐるからだと解釈した。

「今の己の心もちが悪いのだ。書いてある事は、どうにか書き切れる所まで、書き切つてゐる筈だから。」

さう思つて、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂つてゐる事は前と一向変りはない。彼は老人とは思はれない程、心の中で狼狽し出した。

「このもう一つ前はどうだらう。」

彼はその前に書いた所へ眼を通した。すると、これも<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>徒</rb><rt>いたづ</rt></ruby>らに粗雑な文句ばかりが、<ruby><rb>糅然</rb><rt>じうぜん</rt></ruby>としてちらかつてゐる。彼は更にその前を読んだ。さうして又その前の前を読んだ。

しかし読むに従つて拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何等の映像をも与へない叙景があつた。何等の感激をも含まない詠歎があつた。さうして又、何等の理路を辿らない論弁があつた。彼が数日を費して書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く無用の<ruby><rb>饒舌</rb><rt>ぜうぜつ</rt></ruby>としか思はれない。彼は急に、心を刺されるやうな苦痛を感じた。

「これは始めから、書き直すより外はない。」

彼は心の中でかう叫びながら、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさうに原稿を向うへつきやると、<ruby><rb>片肘</rb><rt>かたひぢ</rt></ruby>ついてごろりと横になつた。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、<ruby><rb>弓張月</rb><rt>ゆみはりづき</rt></ruby>を書き、<ruby><rb>南柯夢</rb><rt>なんかのゆめ</rt></ruby>を書き、さうして今は八犬伝を書いた。この上にある<ruby><rb>端渓</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>、<ruby><rb>蹲螭</rb><rt>そんち</rt></ruby>の文鎮、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>の形をした銅の水差し、獅子と<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>とを浮かせた<ruby><rb>青磁</rb><rt>せいじ</rt></ruby>の<ruby><rb>硯屏</rb><rt>けんびやう</rt></ruby>、それから蘭を刻んだ<ruby><rb>孟宗</rb><rt>もうそう</rt></ruby>の根竹の筆立て――さう云ふ一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでゐる。それらの物を見るにつけても、彼は<ruby><rb>自</rb><rt>おのづか</rt></ruby>ら今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるやうな――彼自身の実力が根本的に怪しいやうな、<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>はしい不安を禁じる事が出来ない。

「自分はさつきまで、<ruby><rb>本朝</rb><rt>ほんてう</rt></ruby>に比倫を絶した大作を書くつもりでゐた。が、それもやはり事によると、人並に<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れの一つだつたかも知れない。」

かう云ふ不安は、彼の上に、何よりも堪へ難い、落莫たる孤独の情を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>した。彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>である事を忘れるものではない。が、それ丈に又、同時代の<ruby><rb>屑々</rb><rt>せつせつ</rt></ruby>たる作者輩に対しては、<ruby><rb>傲慢</rb><rt>がうまん</rt></ruby>であると共に<ruby><rb>飽迄</rb><rt>あくまで</rt></ruby>も不遜である。その彼が、結局自分も彼等と同じ能力の所有者だつたと云ふ事を、さうして更に<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ふ可き<ruby><rb>遼東</rb><rt>れうとう</rt></ruby>の<ruby><rb>豕</rb><rt>し</rt></ruby>だつたと云ふ事は、どうして安々と認められよう。しかも彼の強大な「<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>」は「悟り」と「諦め」とに避難するには余りに情熱に溢れてゐる。

彼は机の前に身を横へた儘、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静に絶望の威力と戦ひつづけた。もしこの時、彼の後の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が、けたたましく<ruby><rb>開放</rb><rt>あけはな</rt></ruby>されなかつたら、さうして「お<ruby><rb>祖父</rb><rt>ぢい</rt></ruby>様唯今。」と云ふ声と共に、柔かい小さな手が、彼の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へ抱きつかなかつたら、彼は恐らくこの<ruby><rb>憂欝</rb><rt>いううつ</rt></ruby>な気分の中に、何時までも<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されてゐた事であらう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持つてゐる大胆と率直とを以て、いきなり馬琴の膝の上へ勢よくとび上つた。

「お祖父様唯今。」

「おお、よく早く帰つて来たな。」

この<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>と共に、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のやうな<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びが輝いた。

十四

茶の間の方では、<ruby><rb>癇高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い妻のお<ruby><rb>百</rb><rt>ひやく</rt></ruby>の声や内気らしい嫁のお<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>の声が<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎやか</rt></ruby>に聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折から<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>宗伯</rb><rt>そうはく</rt></ruby>も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。

「あのね、お祖父様にね。」

<ruby><rb>栗梅</rb><rt>くりうめ</rt></ruby>の小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へようとする努力と、笑ひたいのを<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>へようとする努力とで、<ruby><rb>靨</rb><rt>ゑくぼ</rt></ruby>が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、<ruby><rb>自</rb><rt>おのづか</rt></ruby>ら微笑を誘ふやうな気がした。

「よく<ruby><rb>毎日</rb><rt>まいんち</rt></ruby>。」

「うん、よく毎日？」

「御勉強なさい。」

馬琴はとうとう噴き出した。が、笑の中ですぐ又<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>をつぎながら、

「それから？」

「それから――ええと――<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしやく</rt></ruby>を起しちやいけませんつて。」

「おやおや、それつきりかい。」

「まだあるの。」

太郎はかう云つて、<ruby><rb>糸鬢奴</rb><rt>いとびんやつこ</rt></ruby>の頭を<ruby><rb>仰向</rb><rt>あふむ</rt></ruby>けながら自分も亦笑ひ出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑つてゐるのを見ると、これが大きくなつて、世間の人間のやうな憐れむべき顔にならうとは、どうしても思はれない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんな事を考へた。さうしてそれが、更に又彼の心を<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>つた。

「まだ何かあるかい？」

「まだね。いろんな事があるの。」

「どんな事が。」

「ええと――お<ruby><rb>祖父</rb><rt>ぢい</rt></ruby>様はね。今にもつとえらくなりますからね。」

「えらくなりますから？」

「ですからね。よくね。辛抱おしなさいつて。」

「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。

「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」

「誰がそんな事を云つたのだい。」

「それはね。」

太郎は<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>さうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。

「だあれだ？」

「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」

「違ふ。」

断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げながら、<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を少し前へ出すやうにして、

「あのね。」

「うん。」

「浅草の観音様がさう云つたの。」

かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。

馬琴の心に、厳粛な何物かが<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、この孫の口から、かう云ふ<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞いたのが、不思議なのである。

「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」

六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いた。

十五

その夜の事である。

馬琴は薄暗い<ruby><rb>円行燈</rb><rt>まるあんどう</rt></ruby>の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こほろぎ</rt></ruby>の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。

始め筆を<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……

「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」

馬琴はややもすれば走りさうな筆を<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>めながら、何度もかう自分に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。

彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は<ruby><rb>自</rb><rt>おのづか</rt></ruby>ら勢を生じて、一気に紙の上を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>りはじめる。彼は<ruby><rb>神人</rb><rt>しんじん</rt></ruby>と<ruby><rb>相搏</rb><rt>あひう</rt></ruby>つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。

頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、<ruby><rb>滾々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として何処からか溢れて来る。彼はその<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、<ruby><rb>緊</rb><rt>かた</rt></ruby>く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。

「根かぎり書きつづけろ。今<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」

しかし光の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に似た流は、少しもその速力を<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、<ruby><rb>澎湃</rb><rt>はうはい</rt></ruby>として彼を襲つて来る。彼は<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に全くその<ruby><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>つた。

この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして<ruby><rb>毀誉</rb><rt>きよ</rt></ruby>に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして<ruby><rb>戯作三昧</rb><rt>げさくざんまい</rt></ruby>の心境が味到されよう。どうして戯作者の<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその<ruby><rb>残滓</rb><rt>ざんし</rt></ruby>を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……

＊　　　　　　＊　　　　　　＊

その間も茶の間の行燈のまはりでは、<ruby><rb>姑</rb><rt>しうと</rt></ruby>のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には<ruby><rb>尫弱</rb><rt>わうじやく</rt></ruby>らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。

「お<ruby><rb>父様</rb><rt>とつさん</rt></ruby>はまだ寝ないかねえ。」

やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしく<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」

お路は眼を針から離さずに、返事をした。

「困り者だよ。<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なお金にもならないのにさ。」

お百はかう云つて、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答へない。お路も黙つて針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしてゐる。

（大正六年十一月）