一

「おばば、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のおばば。」

<ruby><rb>朱雀綾小路</rb><rt>すざくあやのこうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>で、じみな紺の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>に<ruby><rb>揉烏帽子</rb><rt>もみえぼし</rt></ruby>をかけた、<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>ばかりの、醜い、片目の侍が、<ruby><rb>平骨</rb><rt>ひらぼね</rt></ruby>の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――

むし暑く<ruby><rb>夏霞</rb><rt>なつがすみ</rt></ruby>のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い<ruby><rb>葉柳</rb><rt>はやなぎ</rt></ruby>が一本、このごろはやる<ruby><rb>疫病</rb><rt>えやみ</rt></ruby>にでもかかったかと思う姿で、<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った<ruby><rb>牛車</rb><rt>ぎっしゃ</rt></ruby>のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎった腹を上へ向けて、もう<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。

「おばば。」

「……」

老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>じみた<ruby><rb>檜皮色</rb><rt>ひわだいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>に、黄ばんだ髪の毛をたらして、<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>の切れた<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>をひきずりながら、長い<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をついた、目の丸い、口の大きな、どこか<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>の顔を思わせる、卑しげな女である。

「おや、太郎さんか。」

日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。

「何か用でもおありか。」

「いや、別に用じゃない。」

片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。

「ただ、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>がこのごろは、どこにいるかと思ってな。」

「用のあるは、いつも娘ばかりさね。<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>を生んだおかげには。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。

「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」

「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>、刻限は<ruby><rb>亥</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>上刻</rb><rt>じょうこく</rt></ruby>――みんな昔から、きまっているとおりさ。」

老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、

「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」

これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた<ruby><rb>黄紙</rb><rt>きがみ</rt></ruby>の扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。

「じゃ<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>はまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」

「なに、やっぱり<ruby><rb>販婦</rb><rt>ひさぎめ</rt></ruby>か何かになって、行ったらしいよ。」

「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」

「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」

老婆は、鼻の先で笑いながら、<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を上げて、道ばたの<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を突っついた。いつのまにかたかっていた<ruby><rb>青蝿</rb><rt>あおばえ</rt></ruby>が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。

「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」

「わかっているわな。」

相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。

「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと<ruby><rb>刃物三昧</rb><rt>はものざんまい</rt></ruby>だわね。」

「そりゃもう一年<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の事だ。」

「何年<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>でも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」

こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。

「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>だ、手くばりはもうついたのか。」

太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが<ruby><rb>翛然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と、暗くなった。その中に、ただ、<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>だけが、前よりもいっそう腹の<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>を、ぎらつかせているのが見える。

「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」

「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>は？」

「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、あのからだだから、<ruby><rb>朱雀門</rb><rt>すざくもん</rt></ruby>に待っていて、もらう事にしようよ。」

「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」

太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばも、腰をそらせて、ひとしきり<ruby><rb>東鴉</rb><rt>あずまがらす</rt></ruby>のような笑い声を立てた。

「あの<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>をね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は次郎さんに、<ruby><rb>執心</rb><rt>しゅうしん</rt></ruby>だったが、まさかあの人でもなかろうよ。」

「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」

「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>をするのも、わたし一人という始末さ。<ruby><rb>真木島</rb><rt>まきのしま</rt></ruby>の十郎、<ruby><rb>関山</rb><rt>せきやま</rt></ruby>の<ruby><rb>平六</rb><rt>へいろく</rt></ruby>、<ruby><rb>高市</rb><rt>たけち</rt></ruby>の<ruby><rb>多襄丸</rb><rt>たじょうまる</rt></ruby>と、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれ<ruby><rb>未</rb><rt>ひつじ</rt></ruby>になる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」

<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>は、こういうことばと共に動いた。

「が、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は？」

この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。

「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいなかったがね。」

片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、

「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」

「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、口達者に答えながら、<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をひいて、歩きだした。<ruby><rb>綾小路</rb><rt>あやのこうじ</rt></ruby>を東へ、<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>のような<ruby><rb>帷子姿</rb><rt>かたびらすがた</rt></ruby>が、<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>にほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。――それを見送った侍は、汗のにじんだ額に、険しい色を動かしながら、もう一度、柳の根につばを吐くと、それからおもむろに、くびすをめぐらした。

二人の別れたあとには、例の<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>にたかった<ruby><rb>青蝿</rb><rt>あおばえ</rt></ruby>が、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つかと思うと、止まっている。……

二

猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――

通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ<ruby><rb>台盤所</rb><rt>だいばんどころ</rt></ruby>の<ruby><rb>婢女</rb><rt>みずし</rt></ruby>をしていたころの事を思えば、――いや、思いがけない身分ちがいの男に、いどまれて、とうとう<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>を生んだころの事を思えば、今の都は、名ばかりで、そのころのおもかげはほとんどない。昔は、<ruby><rb>牛車</rb><rt>ぎっしゃ</rt></ruby>の行きかいのしげかった道も、今はいたずらにあざみの花が、さびしく日だまりに、咲いているばかり、倒れかかった<ruby><rb>板垣</rb><rt>いたがき</rt></ruby>の中には、<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじゅく</rt></ruby>が青い実をつけて、人を恐れない<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の群れは、昼も水のない池につどっている。そうして、自分もいつか、髪が<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>みしわがよって、ついには腰のまがるような、老いの身になってしまった。都も昔の都でなければ、自分も昔の自分でない。

その上、<ruby><rb>貌</rb><rt>かたち</rt></ruby>も変われば、心も変わった。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当たりまえの事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。言わば京の<ruby><rb>大路小路</rb><rt>おおじこうじ</rt></ruby>に、雑草がはえたように、自分の心も、もうすさんだ事を、苦にしないほど、すさんでしまった。が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。……

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばの心の中には、こういう考えが、<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>とながら、浮かんで来た。そのさびしい心もちに、つまされたのであろう、丸い目がやさしくなって、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>のような顔の肉が、いつのまにか、ゆるんで来る。――と、また急に、老婆は、生き生きと、しわだらけの顔をにやつかせて、<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>のはこびを、前よりも急がせ始めた。

それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを（これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。）隔てる、くずれかかった<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>があって、その中に、盛りをすぎた<ruby><rb>合歓</rb><rt>ねむ</rt></ruby>の木が二三本、こけの色の日に焼けた<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>の上に、ほほけた、赤い花をたらしている。それを<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>に、枯れ竹の柱を四すみへ立てて、古むしろの壁を下げた、怪しげな小屋が一つ、しょんぼりとかけてある。――場所と言い、様子と言い、中には、こじきでも住んでいるらしい。

別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に<ruby><rb>黒鞘</rb><rt>くろざや</rt></ruby>の<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を横たえたのが、どういうわけか、しさいらしく、小屋の中をのぞいている。そのういういしい<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>のあたりから、まだ子供らしさのぬけない<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>のやつれが、一目で老婆に、そのたれという事を知らせてくれた。

「何をしているのだえ。次郎さん。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、そのそばへ歩みよると、<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。

相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。

小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十<ruby><rb>格好</rb><rt>がっこう</rt></ruby>の小柄な女が、石を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にして、横になっている。それも、<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>をおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の<ruby><rb>汗衫</rb><rt>かざみ</rt></ruby>一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、<ruby><rb>血膿</rb><rt>ちうみ</rt></ruby>にまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、<ruby><rb>天日</rb><rt>てんぴ</rt></ruby>のさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐った<ruby><rb>杏</rb><rt>あんず</rt></ruby>のような、どす黒い<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>があって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。

枕もとには、縁の欠けた<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>がたった一つ（底に飯粒がへばりついているところを見ると、元は<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>でも入れたものであろう。）捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つ<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つ、<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>だらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、<ruby><rb>合歓</rb><rt>ねむ</rt></ruby>を一枝立てたのは、おおかた<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>へ添える<ruby><rb>色紙</rb><rt>しきし</rt></ruby>の、<ruby><rb>心葉</rb><rt>こころば</rt></ruby>をまねたものであろう。

それを見ると、気丈な<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、突然さっきの<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を思い浮かべた。

「なんだえ。これは。<ruby><rb>疫病</rb><rt>えやみ</rt></ruby>にかかっている人じゃないか。」

「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」

次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。

「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」

「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>を見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」

老婆は、<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>にあごをのせて、もう一度しみじみ、女のからだを見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、<ruby><rb>水気</rb><rt>すいき</rt></ruby>を持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡が<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>つ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえ<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>の感に、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を打たれるような心もちがした。

「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」

「どうだかね。」

「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」

老婆は、こう言うと、<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。

「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」

「それじゃ、死んでいるのさ。」

次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。

「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」

「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」

老婆は、<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>の上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。

「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」

「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」

すると、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。

「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」

「そう言えば、そうさ。」

次郎は、ちょいと<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>をかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、

「どこへ<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くのだい、おばばは。」と問いかけた。

「<ruby><rb>真木島</rb><rt>まきのしま</rt></ruby>の十郎と、<ruby><rb>高市</rb><rt>たけち</rt></ruby>の<ruby><rb>多襄丸</rb><rt>たじょうまる</rt></ruby>と、――ああ、そうだ。<ruby><rb>関山</rb><rt>せきやま</rt></ruby>の<ruby><rb>平六</rb><rt>へいろく</rt></ruby>へは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」

こう言ううちに、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>にすがって、もう二足三足歩いている。

「ああ、行ってもいい。」

次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。

「あんなものを見たんで、すっかり<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>がわるくなってしまったよ。」

老婆は、<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に顔をしかめながら、

「――ええと、平六の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の門を左へ切れると、<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」

「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」

「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」

「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」

「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」

「それは、あの事があるからさ。」

「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」

「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」

二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている<ruby><rb>蓬原</rb><rt>よもぎはら</rt></ruby>、そのところどころに続いている<ruby><rb>古築土</rb><rt>ふるついじ</rt></ruby>、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に<ruby><rb>足駄</rb><rt>あしだ</rt></ruby>をはいている、いざりのこじきに<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きちがった。――

「だが、次郎さん、お気をつけよ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。

「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」

が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。

「そりゃわたしも、気をつけている。」

「気をつけていてもさ。」

老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。

「気をつけていてもだわね。」

「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」

「そう言えば、<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょう<ruby><rb>未</rb><rt>ひつじ</rt></ruby>の<ruby><rb>下刻</rb><rt>げこく</rt></ruby>に、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、<ruby><rb>一悶着</rb><rt>ひともんちゃく</rt></ruby>だろう。」

次郎は、老婆の<ruby><rb>娓々</rb><rt>びび</rt></ruby>として説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。

「さっき、向こうの<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>で、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに<ruby><rb>刃物三昧</rb><rt>はものざんまい</rt></ruby>だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、<ruby><rb>一徹人</rb><rt>いってつじん</rt></ruby>だから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>が犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」

こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……

「<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>にならなければいいが。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばは、<ruby><rb>蛙股</rb><rt>かえるまた</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。

かれこれその時分の事である。<ruby><rb>楚</rb><rt>すわえ</rt></ruby>の先に<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、その<ruby><rb>蛇</rb><rt>ながむし</rt></ruby>を女の顔の上へほうり上げた。青く<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>の浮いた腹がぺたり、女の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。

今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。

三

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、<ruby><rb>朱雀</rb><rt>すざく</rt></ruby>の<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>を北へ、進まない歩みをはこんだ。――

日中の往来は、人通りもきわめて少ない。<ruby><rb>栗毛</rb><rt>くりげ</rt></ruby>の馬に<ruby><rb>平文</rb><rt>ひらもん</rt></ruby>の<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>を置いてまたがった武士が一人、<ruby><rb>鎧櫃</rb><rt>よろいびつ</rt></ruby>を荷なった<ruby><rb>調度掛</rb><rt>ちょうどが</rt></ruby>けを従えながら、<ruby><rb>綾藺笠</rb><rt>あやいがさ</rt></ruby>に日をよけて、<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>と通ったあとには、ただ、せわしない<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>が、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、<ruby><rb>板葺</rb><rt>いたぶき</rt></ruby>、<ruby><rb>檜皮葺</rb><rt>ひわだぶき</rt></ruby>の屋根の向こうに、むらがっているひでり<ruby><rb>雲</rb><rt>ぐも</rt></ruby>も、さっきから、凝然と、金銀銅鉄を<ruby><rb>熔</rb><rt>と</rt></ruby>かしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その<ruby><rb>板蔀</rb><rt>いたじとみ</rt></ruby>や<ruby><rb>蒲簾</rb><rt>かますだれ</rt></ruby>の後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばの言ったように、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>を次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあの次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい<ruby><rb>量見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした男の数は、この炎天にひるがえる<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>よりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

すると<ruby><rb>四条坊門</rb><rt>しじょうぼうもん</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>を、南へやる<ruby><rb>赤糸毛</rb><rt>あかいとげ</rt></ruby>の<ruby><rb>女車</rb><rt>おんなぐるま</rt></ruby>が、静かに太郎の行く手を通りすぎる。車の中の人は見えないが、<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>の<ruby><rb>裾濃</rb><rt>すそご</rt></ruby>に染めた、すずしの<ruby><rb>下簾</rb><rt>したすだれ</rt></ruby>が、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。それにつき添った牛飼いの<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>と<ruby><rb>雑色</rb><rt>ぞうしき</rt></ruby>とは、うさんらしく太郎のほうへ目をやったが、牛だけは、<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>をたれて、漆のように黒い背を<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にうねらしながら、わき見もせずに、のっそりと歩いてゆく。しかしとりとめのない考えに沈んでいる太郎には、車の金具の、まばゆく日に光ったのが、わずかに目にはいっただけである。

彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――

（おれが右の<ruby><rb>獄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>の<ruby><rb>放免</rb><rt>ほうめん</rt></ruby>をしていた時の事を思えば、今では、遠い昔のような、心もちがする。あの時のおれと今のおれとを比べれば、おれ自身にさえ、同じ人間のような気はしない。あのころのおれは、三宝を敬う事も忘れなければ、王法にしたがう事も怠らなかった。それが、今では、盗みもする。時によっては、火つけもする。人を殺した事も、二度や三度ではない。ああ、昔のおれは――仲間の放免といっしょになって、いつもの<ruby><rb>七半</rb><rt>しちはん</rt></ruby>を打ちながら、笑い興じていた、あの昔のおれは、今のおれの目から見ると、どのくらいしあわせだったかわからない。

考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>になった。――あの女が、盗みの<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>で、<ruby><rb>検非違使</rb><rt>けびいし</rt></ruby>の手から、右の<ruby><rb>獄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>へ送られる。おれがそれと、ふとした事から、<ruby><rb>牢格子</rb><rt>ろうごうし</rt></ruby>を隔てて、話し合うような仲になる。それから、その話が、だんだんたび重なって、いつか互いに身の上の事まで、打ち明け始める。とうとう、しまいには、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばや同類の盗人が、<ruby><rb>牢</rb><rt>ろう</rt></ruby>を破ってあの女を救い出すのを、見ないふりをして、通してやった。

その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、おれの<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く時刻を見はからって、あの<ruby><rb>半蔀</rb><rt>はじとみ</rt></ruby>の間から、<ruby><rb>雀色時</rb><rt>すずめいろどき</rt></ruby>の往来をのぞいている。そうしておれの姿が見えると、<ruby><rb>鼠鳴</rb><rt>ねずみな</rt></ruby>きをして、はいれと言う。家の中には、<ruby><rb>下衆女</rb><rt>げすおんな</rt></ruby>の<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>のほかに、たれもいない。やがて、<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>をおろす。結び燈台へ火をつける。そうして、あの何畳かの畳の上に、<ruby><rb>折敷</rb><rt>おしき</rt></ruby>や<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>を、所狭く置きならべて、二人ぎりの<ruby><rb>小酒盛</rb><rt>こざかもり</rt></ruby>をする。そのあげくが、笑ったり、泣いたり、けんかをしたり、仲直りをしたり――言わば、世間並みの恋人どうしが、するような事をして、いつでも夜を明かした。

日の暮れに来て、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>のひき明け方に帰る。――あれが、それでも<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>は続いたろう。そのうちに、おれには沙金が猪熊のばばのつれ子である事、今では二十何人かの盗人の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>になって、時々<ruby><rb>洛中</rb><rt>らくちゅう</rt></ruby>をさわがせている事、そうしてまた、日ごろは容色を売って、<ruby><rb>傀儡</rb><rt>くぐつ</rt></ruby>同様な暮らしをしている事――そういう事が、だんだんわかって来た。が、それは、かえってあの女に、双紙の中の人間めいた、不思議な円光をかけるばかりで、少しも卑しいなどという気は起こさせない。無論、あの女は、時々おれに、いっそ仲間へはいれと言う。が、おれはいつも、承知しない。すると、あの女は、おれの事を<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>だと言って、ばかにする。おれはよくそれで、腹を立てた。………）

「はい、はい」と馬をしかる声がする。太郎は、あわてて、道をよけた。

米俵を二俵ずつ、左右へ積んだ馬をひいて、<ruby><rb>汗衫</rb><rt>かざみ</rt></ruby>一つの<ruby><rb>下衆</rb><rt>げす</rt></ruby>が、三条坊門の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>を曲がりながら、汗もふかずに、炎天の<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>を南へ下って来る。その馬の影が、黒く地面に焼きついた上を、<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>が一羽、ひらり羽根を光らせて、すじかいに、<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>へ舞い上がった。と思うと、それがまた<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>を投げるように、落として来て、太郎の鼻の先を一文字に、向こうの<ruby><rb>板庇</rb><rt>いたびさし</rt></ruby>の下へはいる。

太郎は、歩きながら、思い出したように、はたはたと、<ruby><rb>黄紙</rb><rt>きがみ</rt></ruby>の扇を使った。――

（そういう月日が、続くともなく続くうちに、おれは、偶然あの女と養父との関係に、気がついた。もっともおれ一人が、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>を自由にする男でないという事も、知っていなかったわけではない。沙金自身さえ、関係した<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>の名や法師の名を、何度も自慢らしくおれに話した事がある。が、おれはこう思った。あの女の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>は、おおぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女の<ruby><rb>操</rb><rt>みさお</rt></ruby>は、からだにはない。――おれは、こう信じて、おれの<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>をおさえていた。もちろんこれも、あの女から、知らず知らずおれが教わった、考え方にすぎないかもしれない。が、ともかくもそう思うと、おれの苦しい心はいくぶんか<ruby><rb>楽</rb><rt>らく</rt></ruby>になった。しかし、あの女と養父との関係は、それとちがう。

おれは、それを感づいた時に、なんとも言えず、不快だった。そういう事をする親子なら、殺して飽きたらない。それを黙って見る実の母の、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばもまた、畜生より、無残なやつだ。こう思ったおれは、あの酔いどれのおやじの顔を見るたびに、何度<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>へ手をかけたか、わからない。が、沙金はそのたびに、おれの前で、ことさら、手ひどく養父をばかにした。そうしてその見え透いた手くだがまた、不思議におれの心を鈍らせた。「わたしはおとうさんがいやでいやでしかたがないんです」と言われれば、養父をにくむ気にはなっても、沙金をにくむ気には、どうしてもなれない。そこで、おれと養父とは、きょうがきょうまで、互いににらみ合いながら、何事もなくすぎて来た。もしあのおじじにもう少し、勇気があったなら、――いや、おれにもう少し、勇気があったなら、おれたちはとうの昔、どちらか死んでいた事であろう。……）

頭を上げると、太郎はいつか二条を折れて、<ruby><rb>耳敏川</rb><rt>みみとがわ</rt></ruby>にまたがっている、小さい橋にかかっていた。水のかれた川は、細いながらも、<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>き<ruby><rb>太刀</rb><rt>だち</rt></ruby>のように、日を反射して、絶えてはつづく<ruby><rb>葉柳</rb><rt>はやなぎ</rt></ruby>と家々との間に、かすかなせせらぎの音を立てている。その川のはるか下に、黒いものが二つ三つ、<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の鳥かと思うように、流れの光を乱しているのは、おおかた町の子供たちが、水でも浴びているのであろう。

太郎の心には、一瞬の間、幼かった昔の記憶が、――弟といっしょに、五条の橋の下で、<ruby><rb>鮠</rb><rt>はえ</rt></ruby>を<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>った昔の記憶が、この炎天に通う微風のように、かなしく、なつかしく、返って来た。が、彼も弟も、今は昔の彼らではない。

太郎は、橋を渡りながら、うすいあばたのある顔に、また険しい色をひらめかせた。――

（すると、突然ある日、そのころ<ruby><rb>筑後</rb><rt>ちくご</rt></ruby>の<ruby><rb>前司</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>小舎人</rb><rt>ことねり</rt></ruby>になっていた弟が、盗人の疑いをかけられて、左の<ruby><rb>獄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>へ入れられたという知らせが来た。<ruby><rb>放免</rb><rt>ほうめん</rt></ruby>をしているおれには、獄中の苦しさが、たれよりもよく、わかっている。おれは、まだ筋骨のかたまらない弟の身の上を、自分の事のように、心配した。そこで、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>に相談すると、あの女はさもわけがなさそうに、「<ruby><rb>牢</rb><rt>ろう</rt></ruby>を破ればいいじゃないの」と言う。かたわらにいた<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばも、しきりにそれをすすめてくれる。おれは、とうとう覚悟をきめて、沙金といっしょに、五六人の盗人を語り集めた。そうして、その夜のうちに、<ruby><rb>獄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>をさわがして、難なく弟を救い出した。その時、受けた傷の跡は、今でもおれの胸に残っている。が、それよりも忘れられないのは、おれがその時始めて、<ruby><rb>放免</rb><rt>ほうめん</rt></ruby>の一人を切り殺した事であった。あの男の鋭い叫び声と、それから、あの血のにおいとは、いまだにおれの記憶を離れない。こう言う今でも、おれはそれを、この蒸し暑い空気の中に、感じるような心もちがする。

その翌日から、おれと弟とは、猪熊の沙金の家で、人目を忍ぶ身になった。一度罪を犯したからは、正直に暮らすのも、あぶない世渡りをしてゆくのも、<ruby><rb>検非違使</rb><rt>けびいし</rt></ruby>の目には、変わりがない。どうせ死ぬくらいなら、一日も長く生きていよう。そう思ったおれは、とうとう沙金の言うなりになって、弟といっしょに盗人の仲間入りをした。それからのおれは、火もつける。人も殺す。悪事という悪事で、なに一つしなかったものはない。もちろん、それも始めは、いやいやした。が、してみると、意外に<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>がない。おれはいつのまにか、悪事を働くのが、人間の自然かもしれないと思いだした。……）

太郎は、半ば無意識に<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>をまがった。辻には、石でまわりを積んだ一囲いの<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>があって、その上に<ruby><rb>石塔婆</rb><rt>せきとうば</rt></ruby>が二本、並んで、午後の日にかっと、照りつけられている。その根元にはまた、何匹かのとかげが、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>のように黒いからだを、気味悪くへばりつかせていたが、太郎の足音に驚いたのであろう、彼の影の落ちるよりも早く、一度にざわめきながら、四方へ散った。が、太郎は、それに目をやるけしきもない。――

「おれは、悪事をつむに従って、ますます<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>に<ruby><rb>愛着</rb><rt>あいじゃく</rt></ruby>を感じて来た。人を殺すのも、盗みをするのも、みんなあの女ゆえである。――現に<ruby><rb>牢</rb><rt>ろう</rt></ruby>を破ったのさえ、次郎を助けようと思うほかに、一人の弟を見殺しにすると、沙金にわらわれるのを、おそれたからであった。――そう思うと、なおさらおれは、何に換えても、あの女を失いたくない。

その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けて助けてやった、あの次郎に奪われようとしている。奪われようとしているのか、あるいは、もう奪われているのか、それさえも、はっきりはわからない。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の心を疑わなかったおれは、あの女がほかの男をひっぱりこむのも、よくない仕事の方便として、許していた。それから、養父との関係も、あのおじじが親の威光で、何も知らないうちに、誘惑したと思えば、目をつぶって、すごせない事はない。が、次郎との仲は、別である。

おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の<ruby><rb>痘瘡</rb><rt>もがさ</rt></ruby>が、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>をそのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、（これも、おれのうぬぼれだろうか。）それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、おれに変わりなく持っている。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の見せる<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びを、返さずにいられよう。――

こう思えば、次郎と<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>とが、近づくようになるのは、無理もない。が、無理がないだけ、それだけ、おれには苦痛である。弟は、沙金をおれから奪おうとする。――それも、沙金の全部を、おれから奪おうとする。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわりに、次郎と言う名の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>ができる。――おれは、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>には用捨しない。<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>も、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……）

太郎は、<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>のにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の小路のあたり、とある<ruby><rb>網代</rb><rt>あじろ</rt></ruby>の<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の下に<ruby><rb>腐爛</rb><rt>ふらん</rt></ruby>した子供の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>が二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい<ruby><rb>天日</rb><rt>てんぴ</rt></ruby>に、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた<ruby><rb>青蝿</rb><rt>あおばえ</rt></ruby>が、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早い<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>がついた。――

太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――

「ことに、このごろは、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>と向かって、<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。

沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……）

そう思ううちに、彼は、もう<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは？

太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>の声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>なら、捨ててはおけない。

彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。

四

猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>した朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>にさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が<ruby><rb>青蓮花</rb><rt>あおれんげ</rt></ruby>を踏みながら、左手の<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>を高くあげて、胸のあたりに<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>をつけたまま、<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>の昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。

日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>ませて、その中にとびかう<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の羽を、さながら<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>か何かのように、光らせている。大きな<ruby><rb>日傘</rb><rt>ひがさ</rt></ruby>をさして、白い<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>を着た男が一人、青竹の<ruby><rb>文挾</rb><rt>ふばさみ</rt></ruby>にはさんだ<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>の上へ、影を落とす犬もない。

次郎は、腰にさした扇をぬいて、その<ruby><rb>黒柿</rb><rt>くろがき</rt></ruby>の骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――

なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>のように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>とが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながら<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>ごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。

しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>だと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。

自分は、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>に恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。

この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>とほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が<ruby><rb>肌身</rb><rt>はだみ</rt></ruby>を<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>す事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>をする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………

次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん<ruby><rb>高</rb><rt>だか</rt></ruby>い女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。

が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を南へ歩いて来た二人の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>が、彼の前を通りかかった。

男は、<ruby><rb>樺桜</rb><rt>かばざくら</rt></ruby>の<ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>に<ruby><rb>梨打</rb><rt>なしうち</rt></ruby>の<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>をかけて、打ち出しの<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を<ruby><rb>濶達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>に<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>いた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のある<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>市女笠</rb><rt>いちめがさ</rt></ruby>に<ruby><rb>被衣</rb><rt>かずき</rt></ruby>をかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>である。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。

「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」

「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、<ruby><rb>大船</rb><rt>おおぶね</rt></ruby>に乗った気でいるがいい」

「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」

男は赤ひげの少しある口を、<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>まで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を突っついた。

「おれのほうも、これで命がけさ。」

「うまく言っているわ。」

二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばと別れた<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>まで行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けないのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、<ruby><rb>被衣</rb><rt>かずき</rt></ruby>の中からのぞいている、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の大きな黒い目を迎えた。

「今のやつを見た？」

沙金は、<ruby><rb>被衣</rb><rt>かずき</rt></ruby>を開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。

「見なくってさ。」

「あれはね。――まあここへかけましょう。」

二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。

「あれは、<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の所の侍なの。」

沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、<ruby><rb>市女笠</rb><rt>いちめがさ</rt></ruby>をぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方に<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>のような<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>さがある、<ruby><rb>中肉</rb><rt>ちゅうにく</rt></ruby>の、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかな<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>と、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>ばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>の羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。

「そうして、お前さんの<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>なんだろう。」

沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。

「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」

「何がさ。」

「何がって、<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。<ruby><rb>陸奥出</rb><rt>みちのくで</rt></ruby>の<ruby><rb>三才駒</rb><rt>さんさいごま</rt></ruby>だっていうから、まんざらでもないわね。」

「そうだ。兄きなら、なんでもお前の<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>次第だから。」

「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」

「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」

「それは、どうだかわかりゃしない。」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、またかん<ruby><rb>高</rb><rt>だか</rt></ruby>い声で、笑った。

「おこったの？　じゃ、来ないって言いましょうか。」

「<ruby><rb>内心女夜叉</rb><rt>ないしんにょやしゃ</rt></ruby>さね。お前は。」

次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。

「そりゃ、<ruby><rb>女夜叉</rb><rt>にょやしゃ</rt></ruby>かもしれないわ。ただ、こんな<ruby><rb>女夜叉</rb><rt>にょやしゃ</rt></ruby>にほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」

沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。

「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」

「いい事？」

「ええ」

女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。

「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」

「何を？」

「今夜、みんなで<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の屋敷へ、行くという事を。」

次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。

「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。

「わたしこう言ったの。わたしの寝る<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>は、あの<ruby><rb>大路面</rb><rt>おおじめん</rt></ruby>の<ruby><rb>檜垣</rb><rt>ひがき</rt></ruby>のすぐそばなんですが、ゆうべその<ruby><rb>檜垣</rb><rt>ひがき</rt></ruby>の外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったところなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」

「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」

次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の目をうかがった。

「よけいじゃないわ。」

沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、

「あなたのためにしたの。」

「どうして？」

こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――

「まだわからない？　そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」

次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。

「兄きを殺す！」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。

「殺しちゃ悪い？」

「悪いよりも――兄きを<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>にかけて――」

「じゃあなた殺せて？」

次郎は、沙金の目が、<ruby><rb>野猫</rb><rt>のねこ</rt></ruby>のように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>させようとするのを感じた。

「しかし、それは<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>だ。」

「卑怯でも、しかたがなくはない？」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。

「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」

こう言いながら、次郎は、しまったと思った。<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な女はもちろん、この機会を見のがさない。

「一人やるのならいいの？　なぜ？」

次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の前を、右左に歩き出した。

「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」

沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。

「おばばはどうする？」

「死んだら、死んだ時の事だわ。」

次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>と愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。

「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」

このことばの中には、<ruby><rb>蝎</rb><rt>さそり</rt></ruby>のように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を感じた。

「しかし、兄きは――」

「わたしは、親も捨てているのじゃない？」

こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。

「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」

その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の手をとらえた。

彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。

五

白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――

見ると、広くもない<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中には、<ruby><rb>廚</rb><rt>くりや</rt></ruby>へ通う<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>が一枚、斜めに<ruby><rb>網代屏風</rb><rt>あじろびょうぶ</rt></ruby>の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った、十六七の<ruby><rb>下衆女</rb><rt>げすおんな</rt></ruby>が一人、これも<ruby><rb>酒肥</rb><rt>さかぶと</rt></ruby>りに<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいし</rt></ruby>を、空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけるほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へはいった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――

太郎は、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を脱ぐ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ももどかしそうに、あわただしく<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいし</rt></ruby>をもぎはなしながら、怒気を帯びて、<ruby><rb>一喝</rb><rt>いっかつ</rt></ruby>した。

「何をする？」

太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。

「おぬしこそ、何をする。」

「おれか。おれならこうするわ。」

太郎は、<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいし</rt></ruby>を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>蹴倒</rb><rt>けたお</rt></ruby>した。不意の救いに驚いたのであろう、<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>はあわてて、一二<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby><ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いのいたが、老人の<ruby><rb>後</rb><rt>しりえ</rt></ruby>へ倒れたのを見ると、<ruby><rb>神仏</rb><rt>かみほとけ</rt></ruby>をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>を、太郎が再び<ruby><rb>一蹴</rb><rt>いっしゅう</rt></ruby>して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………

「助けてくれ。人殺しじゃ。」

老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、<ruby><rb>網代屏風</rb><rt>あじろびょうぶ</rt></ruby>をふみ倒して、<ruby><rb>廚</rb><rt>くりや</rt></ruby>のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく<ruby><rb>猿臂</rb><rt>えんび</rt></ruby>をのべて、浅黄の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>襟上</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。

「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」

「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」

太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、<ruby><rb>葛巻</rb><rt>つづらま</rt></ruby>きの太刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へのばさせた。

「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。

「おぬしは、なんで<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>を、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」

「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」

「うるさい。言うか、言わぬか。」

「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」

太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。

「言うか、言わぬか。」

「言う。」と、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>めが、どうしても飲みおらぬ。されば、ついわしも手荒な事をした。それだけじゃ。いや、まだある。薬をこしらえおったのは、おばばじゃ。わしの知った事ではない。」

「薬？　では、<ruby><rb>堕胎薬</rb><rt>おろしぐすり</rt></ruby>だな。いくら阿呆でも、いやがる者をつかまえて、非道な事をするおやじだ。」

「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。<ruby><rb>極道</rb><rt>ごくどう</rt></ruby>。」

「たれがおぬしを殺すと言った？」

「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ手をかけているのじゃ。」

老人は、汗にぬれたはげ頭を<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けて、上目に太郎を見上げながら、口角に<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>をためて、こう叫んだ。太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、<ruby><rb>一閃</rb><rt>いっせん</rt></ruby>する。彼は思わず、ひざに力を入れながら、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を握りしめて、老人の<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>のあたりをじっと見た。わずかに残った<ruby><rb>胡麻塩</rb><rt>ごましお</rt></ruby>の毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋の<ruby><rb>腱</rb><rt>けん</rt></ruby>が、赤い<ruby><rb>鳥肌</rb><rt>とりはだ</rt></ruby>の皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、その<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を見た時に、不思議な<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんびん</rt></ruby>を感じだした。

「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>を<ruby><rb>小盾</rb><rt>こだて</rt></ruby>にとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>らしい顔を見ると、太郎は、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。

「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」

「殺せば、親殺しじゃて。」

彼の様子に安心した、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、そろそろ<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>の後ろから、にじり出ながら、太郎のすわったのと、すじかいに敷いた畳の上へ、自分も落ちつかない<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>をすえた。

「おぬしを殺して、なんで親殺しになる？」

太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>の木が、葉の裏表に日を受けて、明暗さまざまな緑の色を、ひっそりと風のないこずえにあつめている。

「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、わしの義理の子じゃ。されば、つながるおぬしも、子ではないか。」

「じゃ、その子を<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>にしているおぬしは、なんだ。畜生かな、それともまた、人間かな。」

老人は、さっきの争いに破れた、<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を気にしながら、うなるような声で言った。

「畜生でも、親殺しはすまいて。」

太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。

「相変わらず、達者な口だて。」

「何が達者な口じゃ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、急に鋭く、太郎の顔をにらめたが、やがてまた、鼻で笑いながら、

「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」

「きくまでもないわ。」

「できまいな」

「おお、できない。」

「それが手前勝手じゃ。よいか。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>はおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>もするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金を<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>にするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」

老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。

「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、<ruby><rb>左兵衛府</rb><rt>さひょうえふ</rt></ruby>の<ruby><rb>下人</rb><rt>げにん</rt></ruby>をしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを<ruby><rb>懸想</rb><rt>けそう</rt></ruby>していた。」

太郎は、こういう場合、この酒飲みの、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>と懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。

「そのうちに、わしはおばばに<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>がある事を知ったがな。」

「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」

「<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>があったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」

猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。

「そのうちに、おばばがその<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>の子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばの<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>が、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、<ruby><rb>疫病</rb><rt>えやみ</rt></ruby>で死んだの、<ruby><rb>筑紫</rb><rt>つくし</rt></ruby>へ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、<ruby><rb>奈良坂</rb><rt>ならざか</rt></ruby>のしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、<ruby><rb>賭博</rb><rt>ばくち</rt></ruby>も打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>を盗めば綾につけ、<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>を盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」

今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。

「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>を見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばを<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>にしよう――こう思い切って、持ったのが、この<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>痩世帯</rb><rt>やせじょたい</rt></ruby>じゃ。………」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。

「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>一人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今ここで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろかろう。」

涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた<ruby><rb>悪態</rb><rt>あくたい</rt></ruby>をつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。

「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、<ruby><rb>卑怯者</rb><rt>ひきょうもの</rt></ruby>じゃな。ははあ、さっき、わしが<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>に薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>をはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」

こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた<ruby><rb>遣戸</rb><rt>やりど</rt></ruby>の向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさく</rt></ruby>を、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの<ruby><rb>雑言</rb><rt>ぞうごん</rt></ruby>に堪えかねて、立ち上がりながら、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊の<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>をはきかけた。

「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」

「畜生呼ばわりは、おいてくれ。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、おぬしばかりの<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>かよ。次郎殿の<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>でもないか。されば、弟の<ruby><rb>妻</rb><rt>め</rt></ruby>をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」

太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>って去ろうとする――すると、その後ろから、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>はまた、指をふりふり、<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>を浴びせかけた。

「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」

老人は、こう<ruby><rb>唾罵</rb><rt>だば</rt></ruby>を飛ばしながら、おいおい、<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>が軽々と流れている。――

「どこへ行こう。」

外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。

「ままよ。<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>へ行って、日の暮れるのでも待とう。」

彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>には、好んで、<ruby><rb>男装束</rb><rt>おとこしょうぞく</rt></ruby>に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、<ruby><rb>皮子</rb><rt>かわご</rt></ruby>へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を南へ、大またに歩きだした。

それから、三条を西へ折れて、<ruby><rb>耳敏川</rb><rt>みみとがわ</rt></ruby>の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>へ出た時の事である。太郎は、<ruby><rb>一町</rb><rt>いっちょう</rt></ruby>を隔てて、この大路を北へ、<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>の下を、話しながら通りかかる、二人の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>の姿を見た。

朽ち葉色の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>とうす紫の<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>とが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>から小路へ通りすぎる。めまぐるしい<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の中に、男の<ruby><rb>黒鞘</rb><rt>くろざや</rt></ruby>の<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>が、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。

太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。

「どうせみんな畜生だ。」

六

ふけやすい夏の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は、早くも<ruby><rb>亥</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>上刻</rb><rt>じょうこく</rt></ruby>に迫って来た。――

月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている<ruby><rb>京</rb><rt>きょう</rt></ruby>の町は、加茂川の<ruby><rb>水面</rb><rt>みのも</rt></ruby>がかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の<ruby><rb>辻々</rb><rt>つじつじ</rt></ruby>にも、今はようやく<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>が絶えて、<ruby><rb>内裏</rb><rt>だいり</rt></ruby>といい、すすき原といい、<ruby><rb>町家</rb><rt>まちや</rt></ruby>といい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、<ruby><rb>右京左京</rb><rt>うきょうさきょう</rt></ruby>の区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた<ruby><rb>大寺</rb><rt>だいじ</rt></ruby>の内陣で、<ruby><rb>金泥</rb><rt>きんでい</rt></ruby>も<ruby><rb>緑青</rb><rt>ろくしょう</rt></ruby>も<ruby><rb>所</rb><rt>ところ</rt></ruby><ruby><rb>斑</rb><rt>はだら</rt></ruby>な、<ruby><rb>孔雀明王</rb><rt>くじゃくみょおう</rt></ruby>の画像を前に、<ruby><rb>常燈明</rb><rt>じょうとうみょう</rt></ruby>の光をたのむ<ruby><rb>参籠</rb><rt>さんろう</rt></ruby>の人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を<ruby><rb>芥火</rb><rt>あくたび</rt></ruby>の影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす<ruby><rb>朱雀門</rb><rt>すざくもん</rt></ruby>の<ruby><rb>古狐</rb><rt>ふるぎつね</rt></ruby>が、<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>の上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は<ruby><rb>千本</rb><rt>せんぼん</rt></ruby>、南の<ruby><rb>鳥羽</rb><rt>とば</rt></ruby>街道の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>を尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、<ruby><rb>夜色</rb><rt>やしょく</rt></ruby>の底に埋もれながら、<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>よもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。

その時、王城の北、<ruby><rb>朱雀大路</rb><rt>すざくおおじ</rt></ruby>のはずれにある、<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>の羽音のように、互いに呼びつ答えつして、あるいは一人、あるいは三人、あるいは五人、あるいは八人、怪しげないでたちをしたものの姿が、次第にどこからか、つどって来た。おぼつかない星明かりに透かして見れば、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をはくもの、矢を負うもの、<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を執るもの、<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を持つもの、皆それぞれ、<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>に身を固めて、<ruby><rb>脛布</rb><rt>はばき</rt></ruby><ruby><rb>藁沓</rb><rt>わろうず</rt></ruby>の装いもかいがいしく、門の前に渡した石橋へ、むらむらと集まって、列を作る――と、まっさきには、太郎がいた。それにつづいて、さっきの争いも忘れたように、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>が、物々しく<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>の先を、きらりと<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>にひらめかせる。続いて、次郎、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばば、少し離れて、<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>もいる。それにかこまれて、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は一人、黒い<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>に<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をはいて、<ruby><rb>胡簶</rb><rt>やなぐい</rt></ruby>を背に<ruby><rb>弓杖</rb><rt>ゆんづえ</rt></ruby>をつきながら、一同を見渡して、あでやかな口を開いた。――

「いいかい。今夜の仕事は、いつもより手ごわい相手なんだからね。みなそのつもりで、いておくれ。さしずめ十五六人は、太郎さんといっしょに、裏から、あとはわたしといっしょに、表からはいってもらおう。中でも目ぼしいのは、裏の<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>にいる<ruby><rb>陸奥出</rb><rt>みちのくで</rt></ruby>の馬だがね。これは、太郎さん、あなたに頼んでおくわ。よくって。」

太郎は、黙って星を見ていたが、これを聞くと、くちびるをゆがめながら、うなずいた。

「それから断わっておくが、女子供を質になんぞとっては、いけないよ。あとの始末がめんどうだからね。じゃ、<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>がそろったら、そろそろ出かけよう。」

こう言って、沙金は弓をあげて、一同をさしまねいたが、しょんぼり、指をかんで立っている、阿濃を顧みると、またやさしくことばを添えた。

「じゃ、お前はここで、待っていておくれ。<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>か<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>で、皆帰ってくるからね。」

阿濃は、子供のように、うっとり沙金の顔を見て、静かに<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>した。

「されば、<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>こう。ぬかるまいぞ、<ruby><rb>多襄丸</rb><rt>たじょうまる</rt></ruby>。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>をたばさみながら、隣にいる仲間をふり返った。<ruby><rb>蘇芳染</rb><rt>すおうぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>を着た相手は、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>のつばを鳴らして、「ふふん」と言ったまま、答えない。そのかわりに、<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>をかついだ、青ひげのさわやかな男が、横あいから、口を出した。

「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」

これと共に、二十三人の盗人どもは、ひとしく忍び笑いをもらしながら、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>を中に、雨雲のむらがるごとく、一団の殺気をこめて、<ruby><rb>朱雀大路</rb><rt>すざくおおじ</rt></ruby>へ押し出すと、みぞをあふれた<ruby><rb>泥水</rb><rt>どろみず</rt></ruby>が、くぼ地くぼ地へ引かれるようにやみにまぎれて、どこへ行ったか、たちまちのうちに、見えなくなった。……

あとには、ただ、いつか月しろのした、うす明るい空にそむいて、<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の高い<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>が、<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と大路を見おろしているばかり、またしてもほととぎすの、声がおちこちに断続して、今まで七丈五級の大石段に、たたずんでいた<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>の姿も、どこへ行ったか、見えなくなった。――が、まもなく、門上の楼に、おぼつかない<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともって、窓が一つ、かたりとあくと、その窓から、遠い月の出をながめている、小さな女の顔が出た。阿濃は、こうして、次第に明るくなってゆく京の町を、目の下に見おろしながら、胎児の動くのを感じるごとに、ひとりうれしそうに、ほほえんでいるのである。

七

次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をふるいながら、<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を南へ二三町、下るともなく下って来た。今は<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の安否を気づかっている余裕もない。侍は衆をたのんで、すきまもなく切りかける。犬も毛の逆立った背をそびやかして、前後をきらわず、飛びかかった。おりからの月の光に、往来は、ほのかながら、打つ太刀をたがわせないほどに、明るくなっている。――次郎は、その中で、人と犬とに四方を囲まれながら、必死になって、切りむすんだ。

相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸した、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしまう。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬の<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を、防がなければならない事さえある。それでもさすがにいつか傷をうけたのであろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>から流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでた<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を一文字にひそめながら、あたかも<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>に使われる人のように、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>も落ち、<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>も破れたまま、縦横に<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を交えているのである。

それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横に<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>いだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手は<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をしたたか切られて、やにわに<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭が<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>のように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分のいる所が、ほかならない<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の門前だという事に気がついた。――

これから<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ばかり以前の事である。<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の屋敷を、表から襲った<ruby><rb>偸盗</rb><rt>ちゅうとう</rt></ruby>の一群は、中門の右左、車宿りの<ruby><rb>内外</rb><rt>うちそと</rt></ruby>から、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ<ruby><rb>真木島</rb><rt>まきのしま</rt></ruby>の十郎が、<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>を<ruby><rb>箆深</rb><rt>のぶか</rt></ruby>く射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたく<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に二三人、あるいは顔を破り、あるいは<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を傷つけて、あわただしく後ろを見せた。<ruby><rb>射手</rb><rt>いて</rt></ruby>の<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>は、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しい<ruby><rb>鏑</rb><rt>かぶら</rt></ruby>の音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>でさえ、ついには黒い<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を斜めに、流れ矢に射通された。

「お<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>にけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、<ruby><rb>鏃</rb><rt>やじり</rt></ruby>があるぞ。」

<ruby><rb>交野</rb><rt>かたの</rt></ruby>の<ruby><rb>平六</rb><rt>へいろく</rt></ruby>が、<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>をたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また<ruby><rb>矢叫</rb><rt>やたけ</rt></ruby>びの声が上がり始める。<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>を感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、<ruby><rb>弓杖</rb><rt>ゆんづえ</rt></ruby>をついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。

「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」

<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>を縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>にして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれた<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>のように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、

「おぬしは、お<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>に付き添うていればよい。十郎の始末は、<ruby><rb>小盗人</rb><rt>こぬすびと</rt></ruby>でたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。

次郎は、このことばに皮肉な<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>を感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく<ruby><rb>一声</rb><rt>いっせい</rt></ruby>の<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>を合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>の鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらに<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>をふりかざした平六を先に立てて、太刀や<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>が林のように、きらめきながら並んだ中から、人とも<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>ともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然として殺到する。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>も、今は弓にたかうすびょうの矢をつがえて、まだ微笑を絶たない顔に、一脈の殺気を浮かべながら、すばやく道ばたの<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>のこわれを<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>にとって、身がまえた。――

やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にまた、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗と<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>とにまみれながら、二三か所薄手を負うた様子で、血に染まったままかけつけた。肩にかついだ太刀の刃のこぼれでは、このほうの戦いも、やはり存外手痛かったらしい。

「あっちは皆ひき上げますぜ。」

その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。

「なにしろ<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の太郎さんが、門の中で、やつらに囲まれてしまったという騒ぎでしてな。」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>と次郎とは、うす暗い<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>の影の中で、思わず目と目を見合わせた。

「囲まれて、どうしたえ。」

「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>大丈夫だろうと思いますがな。」

次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、<ruby><rb>小盗人</rb><rt>こぬすびと</rt></ruby>はもちろんそんな事は、気にとめない。

「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」

沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、

「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。

次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>をめぐらす様子がない。（実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。）口笛の音は、蒸し暑い夜の空気を破って、むなしく<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>の向こうに消えた。そうしてそのあとには、人の叫ぶ声と、犬のほえる声と、それから<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の打ち合う音とが、はるかな空の星を動かして、いっそう騒然と、立ちのぼった。

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を動かした。

「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」

そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むらむらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に<ruby><rb>弓返</rb><rt>ゆがえ</rt></ruby>りの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、<ruby><rb>斑々</rb><rt>はんぱん</rt></ruby>として砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、<ruby><rb>鏘然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>とした響きと共に、またたく<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた<ruby><rb>樺桜</rb><rt>かばざくら</rt></ruby>の<ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>とを、相手の男に認めたのである。

彼は<ruby><rb>直下</rb><rt>じきげ</rt></ruby>に、<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>はこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪の<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>にこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の下を、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか<ruby><rb>藁沓</rb><rt>わろうず</rt></ruby>でふみにじった。

彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が<ruby><rb>肋</rb><rt>あばら</rt></ruby>の骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の<ruby><rb>藁沓</rb><rt>わろうず</rt></ruby>に、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の<ruby><rb>復讐心</rb><rt>ふくしゅうしん</rt></ruby>に、快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男の<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>は、危うく<ruby><rb>鋒</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を裂いて、うつむけに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がくり</span>と倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、<ruby><rb>颯然</rb><rt>さつぜん</rt></ruby>と風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと<ruby><rb>箆深</rb><rt>のぶか</rt></ruby>く立ったからである。

それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおう<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>の羽音のように、<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>にせかれた<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>の中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。

が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの<ruby><rb>逸物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>で、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭の<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>蹴返</rb><rt>けかえ</rt></ruby>すと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭の<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>が、すんでに<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を持った手を、かもうとした。とまた、三頭とも<ruby><rb>巴</rb><rt>ともえ</rt></ruby>のように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の<ruby><rb>執拗</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>い働きに悩まされた。

しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を<ruby><rb>蹴上</rb><rt>けあ</rt></ruby>げながら真一文字に追いすがった。

が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって<ruby><rb>虎口</rb><rt>ここう</rt></ruby>にはいるような事ができたのである。――次郎は<ruby><rb>立本寺</rb><rt>りゅうほんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>んだ<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に<ruby><rb>狺々</rb><rt>ぎんぎん</rt></ruby>の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずま</rt></ruby>きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>な野犬の群れが、ここに捨ててあった<ruby><rb>疫病</rb><rt>えやみ</rt></ruby>の女を、<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>のうちから餌食にして、互いに<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。

犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の上をおどり越えると、尾のない<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を回しながら、急に、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をかもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうちに、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに多い野犬の群れが、あるいは<ruby><rb>芒原</rb><rt>すすきはら</rt></ruby>の向こうから、あるいは<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――

次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の事を、一度に<ruby><rb>石火</rb><rt>せっか</rt></ruby>のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>に、鋭い<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>の立ったのを感じた。

するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに<ruby><rb>戞々</rb><rt>かつかつ</rt></ruby>たる<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>の音が、風のように空へあがり始めた。……

―――――――――――――――――

しかしその間も<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>だけは、安らかな微笑を浮かべながら、<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、<ruby><rb>中空</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その<ruby><rb>白々</rb><rt>しらじら</rt></ruby>とした<ruby><rb>水光</rb><rt>すずびか</rt></ruby>りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。

ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>のにおいを蔵していた京の町も、わずかの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、つめたい光の<ruby><rb>鍍金</rb><rt>めっき</rt></ruby>をかけられて、今では、<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の国の人が見るという<ruby><rb>蜃気楼</rb><rt>かいやぐら</rt></ruby>のように、塔の九輪や<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに<ruby><rb>凌霄花</rb><rt>のうぜんかずら</rt></ruby>のにおいがした。門の左右を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>める<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>のところどころから、<ruby><rb>簇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>の上や、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣をかけた<ruby><rb>楹</rb><rt>たるき</rt></ruby>の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……

窓によりかかった<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は<ruby><rb>双親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>のような、大きな<ruby><rb>丹塗</rb><rt>にぬ</rt></ruby>りの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>で、裸のまま、地蔵堂の<ruby><rb>梁</rb><rt>うつばり</rt></ruby>へつり上げられた。それがふと<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>された。猪熊の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>でさえ、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。

<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>である。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますようにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この<ruby><rb>凌霄花</rb><rt>のうぜんかずら</rt></ruby>のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。

そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。

君をおきて

あだし心を

われ持たばや

なよや、末の松山

波も越えなむや

波も越えなむ

うろ覚えに覚えた歌の声は、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>はよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。

しかし、その子が、実際次郎の<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>かどうか、それは、たれも知っているものがない。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ<ruby><rb>執拗</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く黙ってしまう。そういう時は、必ず<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>な彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。――阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。（涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。）そこでは、いっさいの悪が、眼底を払って、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……

なよや、末の松山

波も越えなむや

波も越えなむ

歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の声が、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を誘うごとく、かすかにもれ始めた。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い<ruby><rb>疼痛</rb><rt>とうつう</rt></ruby>を感じ出したのである。

―――――――――――――――――

相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、<ruby><rb>中門</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>を打って出た侍たちに、やはり手痛い<ruby><rb>逆撃</rb><rt>さかう</rt></ruby>ちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた<ruby><rb>先手</rb><rt>せんて</rt></ruby>の何人かも、算を乱しながら、<ruby><rb>背</rb><rt>そびら</rt></ruby>を見せる――中でも、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>な<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。<ruby><rb>酒肥</rb><rt>さかぶと</rt></ruby>りした体格と言い、物々しく<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>をひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、<ruby><rb>鋒</rb><rt>きっさき</rt></ruby>をそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。

「はやるまいぞ。わしはこの殿の<ruby><rb>家人</rb><rt>けにん</rt></ruby>じゃ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。

「うそをつけ。――おのれにたばかれるような<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>と思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」

侍たちは、口々にののしりながら、早くも<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>のような色になった。

「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」

彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい<ruby><rb>太刀音</rb><rt>たちおと</rt></ruby>と叫喚の声とが、<ruby><rb>一塊</rb><rt>ひとかたまり</rt></ruby>になった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、<ruby><rb>上下</rb><rt>じょうげ</rt></ruby>の齒をむき出しながら、すばやく<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>をかまえて、<ruby><rb>威丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>にののしった。

「うそをついたがどうしたのじゃ。<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>。<ruby><rb>外道</rb><rt>げどう</rt></ruby>。畜生。さあ来い。」

こう言うことばと共に、<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>の先からは、火花が飛んだ。中でも<ruby><rb>屈竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ<ruby><rb>十合</rb><rt>じゅうごう</rt></ruby>と<ruby><rb>刃</rb><rt>は</rt></ruby>を合わせないうちに、見る見る、<ruby><rb>鉾先</rb><rt>ほこさき</rt></ruby>がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を、みごとに半ばから、切り折った。と、また<ruby><rb>一太刀</rb><rt>ひとたち</rt></ruby>、今度は、右の肩先から胸へかけて、<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>がけに浴びせかける。<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>尻居</rb><rt>しりい</rt></ruby>に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて<ruby><rb>高這</rb><rt>たかば</rt></ruby>いに<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。

「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」

赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をふりかざした。その時もし、どこからか<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>のようなものが、走って来て、<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに<ruby><rb>小刀</rb><rt>さすが</rt></ruby>をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。

それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び<ruby><rb>小刀</rb><rt>さすが</rt></ruby>がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>に似た、猪熊のばばの顔が見えた。

老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の<ruby><rb>髻</rb><rt>もとどり</rt></ruby>をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、<ruby><rb>干</rb><rt>ひ</rt></ruby>からびたくちびるを、二三度無理に動かして、

「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、老女の救いを<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>のそこここに、<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>をふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。

「おじいさん。」

老婆は、血の交じった<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として沈んで行った。

その時である。太郎は、そこを<ruby><rb>栗毛</rb><rt>くりげ</rt></ruby>の裸馬にまたがって、血にまみれた<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を、口にくわえながら、両の手に<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>が目をつけた、<ruby><rb>陸奥出</rb><rt>みちのくで</rt></ruby>の<ruby><rb>三才駒</rb><rt>さんさいごま</rt></ruby>であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、<ruby><rb>死人</rb><rt>しびと</rt></ruby>を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす<ruby><rb>白</rb><rt>じろ</rt></ruby>い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>をめぐらして、<ruby><rb>後</rb><rt>しりえ</rt></ruby>にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。

それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、<ruby><rb>葛巻</rb><rt>つづらま</rt></ruby>きの<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>の戸を<ruby><rb>蹴破</rb><rt>けやぶ</rt></ruby>って、この馬の<ruby><rb>覊綱</rb><rt>はづな</rt></ruby>を切るより早く、背に飛びのる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>も惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>はちぎれ、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>はむなしく<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をとどめて、ずたずたに裂かれた<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>も、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀と<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>との林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>として、馬を駆った。

彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、侍たちの<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実である事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそのために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>を恥じた。そうして口にくわえた太刀を、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>にとって、おもむろに血をぬぐった。

そのぬぐった太刀を、ちょうど<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>におさめた時である。おりから<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>を曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>を背負って、おぼろげながら黒く見える。と思う<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、馬は、高くいななきながら、長い<ruby><rb>鬣</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>をさっと振るうと、四つの<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>に砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。

「次郎か。」

太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめて、弟を見た。次郎も片手に<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をかざしながら、<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>をそらせて、兄を見た。そうして<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に二人とも、相手の<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へ<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>った。あとには、ただ、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>としたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……

太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>、ただ、<ruby><rb>半時</rb><rt>はんとき</rt></ruby>、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。

「走れ、なぜ走らない？」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>は遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った。馬は、尾と<ruby><rb>鬣</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>とを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、<ruby><rb>急湍</rb><rt>きゅうたん</rt></ruby>のように後ろへ流れた。

するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>かの、選択をしいられたわけではない。<ruby><rb>直下</rb><rt>じきげ</rt></ruby>にこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を、ぐいと引いた。見る見る、馬の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>が、向きを変える。と、また雪のような<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>が、<ruby><rb>栗毛</rb><rt>くりげ</rt></ruby>の口にあふれて、<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに<ruby><rb>汗馬</rb><rt>かんば</rt></ruby>を<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>らせていたのである。

「次郎。」

近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、<ruby><rb>白燃鉄</rb><rt>はくねんてつ</rt></ruby>を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。

次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。

「早く乗れ。次郎。」

太郎は、群がる犬の中に、<ruby><rb>隕石</rb><rt>いんせき</rt></ruby>のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>するような声で、こう言った。もとより<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に<ruby><rb>猿臂</rb><rt>えんび</rt></ruby>をのばし、弟の<ruby><rb>襟上</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>が、<ruby><rb>鬣</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。

と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて<ruby><rb>鞍壺</rb><rt>くらつぼ</rt></ruby>へ飛びあがった。とがった<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか<ruby><rb>栗毛</rb><rt>くりげ</rt></ruby>の腹を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の<ruby><rb>脛布</rb><rt>はばき</rt></ruby>を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。

が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――

「にいさん。」

馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を紺の<ruby><rb>水干</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。

<ruby><rb>半時</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ののち、人通りのない<ruby><rb>朱雀</rb><rt>すざく</rt></ruby>の<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>を、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>の響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。

八

<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は、まだ明けない。下から見ると、つめたく露を置いた<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>や、<ruby><rb>丹塗</rb><rt>にぬ</rt></ruby>りのはげた欄干に、傾きかかった月の光が、いざよいながら、残っている。が、その門の下は、斜めにつき出した高い<ruby><rb>檐</rb><rt>のき</rt></ruby>に、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく<ruby><rb>藪蚊</rb><rt>やぶか</rt></ruby>に刺されながら、<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>えたようによどんでいる。<ruby><rb>藤判官</rb><rt>とうほうがん</rt></ruby>の屋敷から、引き揚げてきた<ruby><rb>偸盗</rb><rt>ちゅうとう</rt></ruby>の一群は、そのやみの中にかすかな<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火をめぐりながら、三々五々、あるいは立ちあるいは伏し、あるいは丸柱の根がたにうずくまって、さっきから、それぞれけがの手当てに<ruby><rb>忙</rb><rt>いそがわ</rt></ruby>しい。

中でも、いちばん<ruby><rb>重手</rb><rt>おもで</rt></ruby>を負ったのは、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>である。彼は、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>の古い<ruby><rb>袿</rb><rt>うちぎ</rt></ruby>を敷いた上に、あおむけに横たわって、半ば目をつぶりながら、時々ものにおびえるように、しわがれた声で、うめいている。<ruby><rb>一時</rb><rt>ひととき</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>した心には、それさえ時々はわからない。目の前には、さまざまな幻が、<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の彼をあざけるように、ひっきりなく<ruby><rb>徂来</rb><rt>そらい</rt></ruby>すると、その幻と、現在門の下で起こっている出来事とが、彼にとっては、いつか全く同一な世界になってしまう。彼は、時と所とを分かたない、<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>の底に、その醜い一生を、正確に、しかも理性を超越したある順序で、まざまざと再び、生活した。

「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」

彼は、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>から生まれて、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を<ruby><rb>汗衫</rb><rt>かざみ</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>で包んだ、<ruby><rb>交野</rb><rt>かたの</rt></ruby>の平六が顔を出して、

「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた<ruby><rb>蓮</rb><rt>はちす</rt></ruby>の上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」

言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、<ruby><rb>真木島</rb><rt>まきのしま</rt></ruby>の十郎の<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>のけがの手当をしている、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>のほうをふり返って、声をかけた。

「お<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>、おじじはちとむずかしいようじゃ。苦しめるだけ、<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>じゃて。わしがとどめを刺してやろうかと思うがな。」

沙金は、あでやかな声で、笑った。

「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」

「なるほどな、それもそうじゃ。」

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、この問答を聞くと、ある予期と恐怖とに襲われて、からだじゅうが一時に凍るような心もちがした。そうして、また大きな声でうなった。平六と同じような理由で、敵には<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>な彼も、今までに何度、<ruby><rb>致死期</rb><rt>ちしご</rt></ruby>の仲間の者をその<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>の先で、とどめを刺したかわからない。それも多くは、人を殺すという、ただそれだけの興味から、あるいは自分の勇気を人にも自分にも示そうとする、ただそれだけの目的から、進んでこの無残なしわざをあえてした。それが今は――

と、たれか、彼の苦しみも知らないように、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の陰で一人、鼻歌をうたう者がある。

いたち笛ふき

<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>かなず

いなごまろは拍子うつ

きりぎりす

ぴしゃりと、蚊をたたく音が、それに次いで聞こえる。中には「ほう、やれ」と拍子をとったものもあった。二三人が、肩をゆすったけはいで、息のつまったような笑い声を立てる。――<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>をわなわなふるわせながら、まだ生きているという事実を確かめたいために、重い<ruby><rb>眶</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を開いて、じっとともし火の光を見た。<ruby><rb>灯</rb><rt>ともし</rt></ruby>は、その炎のまわりに無数の輪をかけながら、<ruby><rb>執拗</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>い夜に攻められて、心細い光を放っている。と、小さな<ruby><rb>黄金虫</rb><rt>こがねむし</rt></ruby>が一匹ぶうんと音を立てて、飛んで来て、その光の輪にはいったかと思うとたちまち羽根を焼かれて、下へ落ちた。青臭いにおいが、ひとしきり鼻を打つ。

あの虫のように、自分もほどなく死ななければならない。死ねば、どうせ<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>と<ruby><rb>蝿</rb><rt>はえ</rt></ruby>とに、血も肉も食いつくされるからだである。ああこの自分が死ぬ。それを、仲間のものは、歌をうたったり笑ったりしながら、何事もないように騒いでいる。そう思うと、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、名状しがたい怒りと苦痛とに、骨髄をかまれるような心もちがした。そうして、それとともに、なんだか<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>のようにとめどなく回っている物が、火花を飛ばしながら目の前へおりて来るような心もちがした。

「畜生。人でなし。太郎。やい。<ruby><rb>極道</rb><rt>ごくどう</rt></ruby>。」

まわらない舌の先から、おのずからこういうことばが、とぎれとぎれに落ちて来る。――<ruby><rb>真木島</rb><rt>まきのしま</rt></ruby>の十郎は、<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>の傷が痛まないように、そっとねがえりをうちながら、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>のかわいたような声で、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>にささやいた。

「太郎さんは、よくよく憎まれたものさな。」

<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>は、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめながら、ちょいと<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>のほうを見て、うなずいた。すると鼻歌をうたったのと同じ声で、

「太郎さんはどうした。」とたずねたものがある。

「まず助かるまいな。」

「死んだのを見たと言うたのは、たれじゃ。」

「わしは、五六人を相手に切り合うているのを見た。」

「やれやれ、<ruby><rb>頓生菩提</rb><rt>とんしょうぼだい</rt></ruby>、頓生菩提。」

「次郎さんも、見えないぞ。」

「これも事によると、同じくじゃ。」

太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もなく死んでしまう。――こんな取りとめのない考えが、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中に鳴いている<ruby><rb>藪蚊</rb><rt>やぶか</rt></ruby>のように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。猪熊の爺は、形のない、気味の悪い「死」が、しんぼうづよく、<ruby><rb>丹塗</rb><rt>にぬ</rt></ruby>りの柱の向こうに、じっと自分の息をうかがっているのを感じた。残酷に、しかもまた落ち着いて、自分の苦痛をながめているのを感じた。そうして、それが少しずつ居ざりながら、消えてゆく月の光のように、次第にまくらもとへすりよって来るのを感じた。なんにしても、自分は死にたくない。――

夜はたれとか<ruby><rb>寝</rb><rt>いね</rt></ruby>む

<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の<ruby><rb>介</rb><rt>すけ</rt></ruby>と<ruby><rb>寝</rb><rt>いね</rt></ruby>む

<ruby><rb>寝</rb><rt>いね</rt></ruby>たる<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>もよし

男山の峰のもみじ葉

さぞ名はたつや

また、鼻歌の声が、油しめ<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>の音のような<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の声と一つになった。とたれか、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>の<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>もとで、つばをはきながら、こう言ったものがある。

「<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>のあほうが見えぬの。」

「なるほど、そうじゃ。」

「おおかた、この上に寝ておろう。」

「や、上で<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>が鳴くぞ。」

みな、一時にひっそりとなった。その中を、絶え絶えにつづく<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>のうなり声と一つになって、かすかに猫の声が聞こえて来る。と流れ風が、始めてなま暖かく、柱の間を吹いて、うす甘い<ruby><rb>凌霄花</rb><rt>のうぜんかずら</rt></ruby>のにおいが、どこからかそっと一同の鼻を襲った。

「猫も化けるそうな。」

「<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>の相手には、猫の化けた、老いぼれが相当じゃよ。」

すると、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>が、<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音をさせて、たしなめるように、こう言った。

「猫じゃないよ。ちょっとたれか行って、見て来ておくれ。」

声に応じて、<ruby><rb>交野</rb><rt>かたの</rt></ruby>の平六が、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を、柱にぶっつけながら、立ち上がった。楼上に通う<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>は、二十いくつの段をきざんで、その柱の向こうにかかっている。――一同は、理由のない不安に襲われて、しばらくはたれも口をとざしてしまった。その間をただ、凌霄花のにおいのする風が、またしてもかすかに、通りぬけると、たちまち楼上で平六の、何か、わめく声がした。そうして、ほどなく急いで梯子をおりて来る足音が、あわただしく、重苦しい<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>をかき乱した。――ただ事ではない。

「どうじゃ。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>めが、子を産みおったわ。」

平六は、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>をおりると、<ruby><rb>古被衣</rb><rt>ふるかずき</rt></ruby>にくるんだ、丸々としたものを、勢いよくともし火の下へ出して見せた。女の<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いのする、うすよごれた布の中には、生まれたばかりの赤ん坊が、人間というよりは、むしろ皮をむいた<ruby><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>のように、大きな頭を重そうに動かしながら、醜い顔をしかめて、泣き立てている。うすい<ruby><rb>産毛</rb><rt>うぶげ</rt></ruby>といい、細い手の指と言い、何一つ、<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>と好奇心とを、同時にそそらないものはない。――平六は、左右を見まわしながら、抱いている赤子を、ふり動かして、得意らしく、しゃべり立てた。

「上へ上がって見ると、阿濃め、窓の下へつっ伏したなり、死んだようになって、うなっていると、<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>とはいえ、女の部じゃ。<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>かと思うて、そばへ行くと、いや驚くまい事か。さかなの<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>をぶちまけたようなものが、うす暗い中で、泣いているわ。手をやると、それがぴくりと動いた。毛のないところを見れば、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>でもあるまい。じゃてひっつかんで、月明かりにかざして見ると、このとおり生まれたばかりの赤子じゃ。見い。蚊に食われたと見えて、胸も腹も赤まだらになっているわ。阿濃も、これからはおふくろじゃよ。」

<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火を前に立った、平六のまわりを囲んで、十五六人の盗人は、立つものは立ち、伏すものは伏して、いずれも皆、首をのばしながら、別人のように、やさしい微笑を含んで、この命が宿ったばかりの、赤い、醜い肉塊を見守った。赤ん坊は、しばらくも、じっとしていない。手を動かす。足を動かす。しまいには、頭を後ろへそらせて、ひとしきりまた、けたたましく泣き立てた。と、齒のない口の中が見える。

「やあ舌がある。」

前に鼻歌をうたった男が、<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声で、こう言った。それにつれて、一同が、傷も忘れたように、どっと笑う。――その笑い声のあとを追いかけるように、この時、突然、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>が、どこにそれだけの力が残っていたかと思うような声で、険しく一同の後ろから、声をかけた。

「その子を見せてくれ。よ。その子を。見せないか。やい、<ruby><rb>極道</rb><rt>ごくどう</rt></ruby>。」

平六は、足で彼の頭をこづいた。そうして、おどかすような調子で、こう言った。

「見たければ、見るさ。極道とは、おぬしの事じゃ。」

猪熊の爺は、濁った目を大きく見開いて、平六が身をかがめながら、無造作につきつけた赤ん坊を、食いつきそうな様子をして、じっと見た。見ているうちに、顔の色が、次第に<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>のごとく青ざめて、しわだらけの<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>に、涙が玉になりながら、たまって来る。と思うと、ふるえるくちびるのほとりには、不思議な微笑の波が漂って、今までにない無邪気な表情が、いつか顔じゅうの筋肉を柔らげた。しかも、<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>な彼が、そうなったまま、口をきかない。一同は、「死」がついに、この老人を捕えたのを知った。しかし彼の微笑の意味はたれも知っているものがない。

<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、寝たまま、おもむろに手をのべて、そっと赤ん坊の指に触れた。と、赤ん坊は、針にでも刺されたように、たちまちいたいたしい泣き声を上げる。平六は、彼をしかろうとして、そうしてまた、やめた。老人の顔が――血のけを失った、この<ruby><rb>酒肥</rb><rt>さかぶと</rt></ruby>りの老人の顔が、その時ばかりは、平生とちがった、犯しがたいいかめしさに、かがやいているような気がしたからである。その前には、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>でさえ、あたかも何物かを待ち受けるように、息を凝らしながら、養父の顔を、――そうしてまた<ruby><rb>情人</rb><rt>おとこ</rt></ruby>の顔を、目もはなさず見つめている。が、彼はまだ、口を開かない。ただ、彼の顔には、秘密な喜びが、おりから吹きだした明け近い風のように、静かに、ここちよく、あふれて来る。彼は、この時、暗い夜の向こうに、――人間の目のとどかない、遠くの空に、さびしく、冷ややかに明けてゆく、不滅な、<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>を見たのである。

「この子は――この子は、わしの子じゃ。」

彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>が、かたわらからそっとささえた。十余人の盗人たちは、このことばを聞かないように、いずれも<ruby><rb>唾</rb><rt>つ</rt></ruby>をのんで、身動きもしない。と、沙金が顔を上げて、赤子を抱いたまま、立っている<ruby><rb>交野</rb><rt>かたの</rt></ruby>の平六の顔を見て、うなずいた。

「<ruby><rb>啖</rb><rt>たん</rt></ruby>がつまる音じゃ。」

平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>におびえて泣く赤子の声の中に、かすかな<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>をつづけながら、消えかかる<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火のように、静かに息をひきとったのである。……

「<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>も、とうとう死んだの。」

「さればさ。<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>を手ごめにした<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>も、これで知れたと言うものじゃ。」

「<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>は、あの<ruby><rb>藪中</rb><rt>やぶなか</rt></ruby>へ埋めずばなるまい。」

「<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>にするのも、気の毒じゃな。」

盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、かすかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。

「阿濃は？」と沙金が言った。

「わしが、あり合わせの<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>をかけて、寝かせて来た。あのからだじゃて、大事はあるまい。」

平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。

そのうちに、盗人が二人三人、<ruby><rb>猪熊</rb><rt>いのくま</rt></ruby>の<ruby><rb>爺</rb><rt>おじ</rt></ruby>の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の月のうすい光に、<ruby><rb>蕭条</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>とした<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>が、かすかにこずえをそよめかせて、<ruby><rb>凌霄花</rb><rt>のうぜんかずら</rt></ruby>のにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。

「<ruby><rb>生死事大</rb><rt>しょうじじだい</rt></ruby>。」

「無常迅速。」

「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」

「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」

猪熊の爺の死骸は、<ruby><rb>斑々</rb><rt>はんぱん</rt></ruby>たる<ruby><rb>血痕</rb><rt>けっこん</rt></ruby>に染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深く<ruby><rb>舁</rb><rt>か</rt></ruby>かれて行った。

九

翌日、猪熊のある家で、むごたらしく殺された女の死骸が発見された。年の若い、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った、うつくしい女で、傷の様子では、よほどはげしく抵抗したものらしい。証拠ともなるべきものは、その<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>が口にくわえていた、朽ち葉色の水干の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>ばかりである。

また、不思議な事には、その家の<ruby><rb>婢女</rb><rt>みずし</rt></ruby>をしていた<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>という女は、同じ所にいながら、薄手一つ負わなかった。この女が、<ruby><rb>検非違使庁</rb><rt>けびいしちょう</rt></ruby>で、調べられたところによると、だいたいこんな事があったらしい。だいたいと言うのは、阿濃が天性白痴に近いところから、それ以上要領を<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>る事が、むずかしかったからである。――

その夜、阿濃は、夜ふけて、ふと目をさますと、太郎次郎という兄弟のものと、<ruby><rb>沙金</rb><rt>しゃきん</rt></ruby>とが、何か<ruby><rb>声高</rb><rt>こわだか</rt></ruby>に争っている。どうしたのかと思っているうちに、次郎が、いきなり<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>をぬいて、沙金を切った。沙金は助けを呼びながら、逃げようとすると、今度は太郎が、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を加えたらしい。それからしばらくは、ただ、二人のののしる声と、沙金の苦しむ声とがつづいたが、やがて女の息がとまると、兄弟は、急にいだきあって、長い間黙って、泣いていた。阿濃は、これを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>のすきまから、のぞいていたが、主人を救わなかったのは、全く抱いて寝ている子供に、けがをさすまいと思ったからである。――

「その上、その次郎さんと申しますのが、この子の親なのでございます。」

<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、急に顔を赤らめて、こう言った。

「それから、太郎さんと次郎さんとは、わたしの所へ来て、たっしゃでいろよと申しました。この子を見せましたら、次郎さんは、笑いながら、頭をなでてくれましたが、それでもまだ目には涙がいっぱいたまっておりましたっけ。わたしはもっとそうしていたかったのでござりますが、二人とも、たいへんに急いで、すぐに外へ出ますと、おおかた<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>の木にでもつないでおいたのでございましょう、馬へとびのって、どこかへ行ってしまいました。馬は二匹ではございません。わたしが、この子を抱いて、窓から見ておりますと、一匹に二人で乗って行くのが、月がございましたから、よく見えました。そのあとで、わたしは、主人の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>はそのままにして、そっとまた床へはいりました。主人がよく人を殺すのを見ましたから、その死骸もわたしには、こわくもなんともなかったのでございます。」

<ruby><rb>検非違使</rb><rt>けびいし</rt></ruby>には、やっとこれだけの事がわかった。そうして、阿濃は、罪の無いのが明らかになったので、さっそく自由の身にされた。

それから、十年余りのち、尼になって、子供を養育していた阿濃は、<ruby><rb>丹後守何某</rb><rt>たんごのかみなにがし</rt></ruby>の随身に、<ruby><rb>驍勇</rb><rt>きょうゆう</rt></ruby>の名の高い男の通るのを見て、あれが太郎だと人に教えた事がある。なるほどその男も、うす<ruby><rb>痘瘡</rb><rt>いも</rt></ruby>で、しかも片目つぶれていた。

「次郎さんなら、わたしすぐにも駆けて行って、会うのだけれど、あの人はこわいから……」

<ruby><rb>阿濃</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>は、娘のような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しな</span>をして、こう言った。が、それがほんとうに太郎かどうか、それはたれにも、わからない。ただ、その男にも弟があって、やはり同じ主人に仕えるという事だけ、そののちかすかに風聞された。

（大正六年四月二十日）