一

支那の<ruby><rb>上海</rb><rt>シヤンハイ</rt></ruby>の或町です。昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>人の婆さんが一人、商人らしい一人の<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>人と何か<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に話し合つてゐました。

「実は今度もお婆さんに、<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>ひを頼みに来たのだがね、――」

亜米利加人はさう言ひながら、新しい<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>へ火をつけました。

「占ひですか？　占ひは当分見ないことにしましたよ。」

婆さんは<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るやうに、じろりと相手の顔を見ました。

「この頃は折角見て上げても、御礼さへ<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>にしない人が、多くなつて来ましたからね。」

「そりや勿論御礼をするよ。」

亜米利加人は惜しげもなく、三百<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。

「差当りこれだけ取つて置くさ。もしお婆さんの占ひが当れば、その時は別に御礼をするから、――」

婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>がよくなりました。

「こんなに沢山頂いては、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて御気の毒ですね。――さうして一体又あなたは、何を占つてくれろとおつしやるんです？」

「私が見て貰ひたいのは、――」

亜米利加人は煙草を<ruby><rb>啣</rb><rt>くは</rt></ruby>へたなり、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>かうくわつ</rt></ruby>さうな微笑を浮べました。

「一体日米戦争はいつあるかといふことなんだ。それさへちやんとわかつてゐれば、我々商人は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちの内に、大金儲けが出来るからね。」

「ぢや<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>いらつしやい。それまでに占つて置いて上げますから。」

「さうか。ぢや間違ひのないやうに、――」

印度人の婆さんは、得意さうに胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせました。

「私の占ひは五十年来、一度も<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>れたことはないのですよ。何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね。」

亜米利加人が帰つてしまふと、婆さんは次の間の戸口へ行つて、

「<ruby><rb>恵蓮</rb><rt>ゑれん</rt></ruby>。恵蓮。」と呼び立てました。

その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで<ruby><rb>蝋</rb><rt>らふ</rt></ruby>のやうな色をしてゐました。

「何を<ruby><rb>愚図愚図</rb><rt>ぐづぐづ</rt></ruby>してゐるんだえ？　ほんたうにお前位、づうづうしい女はありやしないよ。きつと又台所で居眠りか何かしてゐたんだらう？」

恵蓮はいくら叱られても、ぢつと<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いた<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>黙つてゐました。

「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだからね、そのつもりでゐるんだよ。」

女の子はまつ黒な婆さんの顔へ、悲しさうな眼を挙げました。

「今夜ですか？」

「今夜の十二時。好いかえ？　忘れちやいけないよ。」

印度人の婆さんは、<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>すやうに指を挙げました。

「又お前がこの間のやうに、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺さうと思へば、<ruby><rb>雛</rb><rt>ひよ</rt></ruby>つ<ruby><rb>仔</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を絞めるより――」

かう言ひかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか<ruby><rb>窓側</rb><rt>まどぎは</rt></ruby>に行つて、丁度明いてゐた<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>から、寂しい往来を眺めてゐるのです。

「何を見てゐるんだえ？」

恵蓮は<ruby><rb>愈</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>色を失つて、もう一度婆さんの顔を見上げました。

「よし、よし、さう私を<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にするんなら、まだお前は痛い目に会ひ足りないんだらう。」

婆さんは眼を怒らせながら、そこにあつた<ruby><rb>箒</rb><rt>はうき</rt></ruby>をふり上げました。

丁度その途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。

二

その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかつた、年の若い一人の日本人があります。それがどう思つたのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられたやうに、ぼんやり立ちすくんでしまひました。

そこへ又通りかかつたのは、年をとつた支那人の人力車夫です。

「おい。おい。あの二階に誰が住んでゐるか、お前は知つてゐないかね？」

日本人はその人力車夫へ、いきなりかう問ひかけました。支那人は<ruby><rb>楫棒</rb><rt>かぢぼう</rt></ruby>を握つた儘、高い二階を見上げましたが、「あすこですか？　あすこには、何とかいふ印度人の婆さんが住んでゐます。」と、気味悪さうに返事をすると、<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>行きさうにするのです。

「まあ、待つてくれ。さうしてその婆さんは、何を商売にしてゐるんだ？」

「<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>ひ<ruby><rb>者</rb><rt>しや</rt></ruby>です。が、この近所の<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>ぢや、何でも魔法さへ使ふさうです。まあ、命が大事だつたら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いやうですよ。」

支那人の車夫が行つてしまつてから、日本人は腕を組んで、何か考へてゐるやうでしたが、やがて決心でもついたのか、さつさとその家の中へはひつて行きました。すると突然聞えて来たのは、婆さんの<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る声に交つた、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、<ruby><rb>一股</rb><rt>ひとまた</rt></ruby>に二三段づつ、薄暗い梯子を馳け上りました。さうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。

戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはひつて見ると、そこには印度人の婆さんがたつた一人立つてゐるばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。

「何か御用ですか？」

婆さんはさも疑はしさうに、じろじろ相手の顔を見ました。

「お前さんは占ひ者だらう？」

日本人は腕を組んだ儘、婆さんの顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み返しました。

「さうです。」

「ぢや私の用なぞは、聞かなくてもわかつてゐるぢやないか？　私も一つお前さんの占ひを見て貰ひにやつて来たんだ。」

「何を見て上げるんですえ？」

婆さんは<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>疑はしさうに、日本人の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>つてゐました。

「私の主人の御嬢さんが、去年の春<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>知れずになつた。それを一つ見て貰ひたいんだが、――」

日本人は一句一句、力を入れて言ふのです。

「私の主人は<ruby><rb>香港</rb><rt>ホンコン</rt></ruby>の日本領事だ。御嬢さんの名は<ruby><rb>妙子</rb><rt>たへこ</rt></ruby>さんとおつしやる。私は遠藤といふ書生だが――どうだね？　その御嬢さんはどこにいらつしやる。」

遠藤はかう言ひながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。

「この近所にいらつしやりはしないか？　香港の警察署の調べた所ぢや、御嬢さんを<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>つたのは印度人らしいといふことだつたが、――隠し立てをすると為にならんぞ。」

しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>が見えません。見えない所か唇には、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて人を<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしたやうな微笑さへ浮べてゐるのです。

「お前さんは何を言ふんだえ？　私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありやしないよ。」

「嘘をつけ。今その窓から外を見てゐたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ。」

遠藤は片手にピストルを握つた儘、片手に次の間の戸口を指さしました。

「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにゐる支那人をつれて来い。」

「あれは私の貰ひ子だよ。」

婆さんはやはり<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るやうに、にやにや独り笑つてゐるのです。

「貰ひ子か貰ひ子でないか、一目見りやわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行つて見る。」

遠藤が次の間へ踏みこまうとすると、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に印度人の婆さんは、その戸口に立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がりました。

「ここは私の家だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはひられてたまるものか。」

「<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け。退かないと<ruby><rb>射殺</rb><rt>うちころ</rt></ruby>すぞ。」

遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひやうし</rt></ruby>に婆さんが、<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の啼くやうな声を立てたかと思ふと、まるで電気に打たれたやうに、ピストルは手から落ちてしまひました。これには勇み立つた遠藤も、さすがに<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をひしがれたのでせう、ちよいとの間は不思議さうに、あたりを見廻してゐましたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち又勇気をとり直すと、

「魔法使め。」と罵りながら、虎のやうに婆さんへ飛びかかりました。

が、婆さんもさるものです。ひらりと身を<ruby><rb>躱</rb><rt>かは</rt></ruby>すが早いか、そこにあつた箒をとつて、又掴みかからうとする遠藤の顔へ、床の上の<ruby><rb>五味</rb><rt>ごみ</rt></ruby>を掃きかけました。すると、その五味が皆火花になつて、眼といはず、口といはず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。

遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじかぜ</rt></ruby>に追はれながら、<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げるやうに外へ逃げ出しました。

三

その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>を<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさうに見つめてゐました。

「折角御嬢さんの<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察へ訴へようか？　いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、<ruby><rb>香港</rb><rt>ホンコン</rt></ruby>でもう<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>り<ruby><rb>懲</rb><rt>ご</rt></ruby>りしてゐる。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といつてあの魔法使には、ピストルさへ役に立たないし、――」

遠藤がそんなことを考へてゐると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。

「おや、紙切れが落ちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙ぢやないか？」

かう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾ひ上げながらそつと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違ひない、消えさうな鉛筆の跡があります。

「遠藤サン。コノ<ruby><rb>家</rb><rt>ウチ</rt></ruby>ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』トイフ<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>ノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ツテヰル間中、死ンダヤウニナツテヰルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダサウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナツテシマフノデスガ、今夜ハサウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカツタ真似ヲシマス。サウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ツテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ<ruby><rb>怖</rb><rt>コハ</rt></ruby>イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキツト私ヲ返スダラウト思ヒマス。ドウカ<ruby><rb>明日</rb><rt>アシタ</rt></ruby>ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヤウナラ。」

遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。

「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」

遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでせう。今まで明るかつた二階の窓は、急にまつ暗になつてしまひました。と同時に不思議な<ruby><rb>香</rb><rt>かう</rt></ruby>の<ruby><rb>匂</rb><rt>にほひ</rt></ruby>が、町の敷石にも<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みる程、どこからか静に漂つて来ました。

四

その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゆもん</rt></ruby>を唱へてゐました。書物は<ruby><rb>香炉</rb><rt>かうろ</rt></ruby>の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせてゐるのです。

婆さんの前には心配さうな<ruby><rb>恵蓮</rb><rt>ゑれん</rt></ruby>が、――いや、支那服を着せられた<ruby><rb>妙子</rb><rt>たへこ</rt></ruby>が、ぢつと椅子に坐つてゐました。さつき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはひつたであらうか？　あの時往来にゐた人影は、確に遠藤さんだと思つたが、もしや人違ひではなかつたであらうか？――さう思ふと妙子は、ゐても立つてもゐられないやうな気がして来ます。しかし今うつかりそんな<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりが、婆さんの眼にでも止まつたが最後、この恐しい魔法使ひの家から、逃げ出さうといふ計略は、すぐに見破られてしまふでせう。ですから妙子は一生懸命に、震へる両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移つたやうに、見せかける時の近づくのを今か今かと待つてゐました。

婆さんは呪文を唱へてしまふと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。或時は前へ立つた儘、両手を左右に挙げて見たり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするやうに、そつと妙子の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたひ</rt></ruby>の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見てゐたとすれば、それはきつと大きな<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>かうもり</rt></ruby>か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまはつてでもゐるやうに見えたでせう。

その内に妙子はいつものやうに、だんだん<ruby><rb>睡気</rb><rt>ねむけ</rt></ruby>がきざして来ました。が、ここで睡つてしまつては、折角の計略にかけることも、出来なくなつてしまふ道理です。さうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違ひありません。

「日本の神々様、どうか私が睡らないやうに、御守りなすつて下さいまし。その代り私はもう一度、たとひ一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>せるやうに、御力を御貸し下さいまし。」

妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおひおひと、強くなつて来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>でも鳴らすやうな、<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れない音楽の声が、かすかに伝はり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きつと聞える声なのです。

もうかうなつてはいくら我慢しても、睡らずにゐることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさへ、気味の悪い夢が薄れるやうに、見る見る消え失せてしまふのです。

「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし。」

やがてあの魔法使ひが、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上にひれ伏した儘、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しはが</rt></ruby>れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないやうに、いつかもうぐつすり寝入つてゐました。

五

妙子は勿論婆さんも、この魔法を使ふ所は、誰の眼にも触れないと、思つてゐたのに違ひありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてゐる男があつたのです。それは一体誰でせうか？――言ふまでもなく、書生の遠藤です。

遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は<ruby><rb>往来</rb><rt>わうらい</rt></ruby>に立つたなり、夜明けを待たうかとも思ひました。が、お嬢さんの身の上を思ふと、どうしてもぢつとしてはゐられません。そこでとうとう盗人のやうに、そつと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さつきから<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>をしてゐたのです。

しかし透き見をすると言つても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い<ruby><rb>香炉</rb><rt>かうろ</rt></ruby>の火の光を浴びた、死人のやうな妙子の顔が、やつと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははひりません。しかし<ruby><rb>嗄</rb><rt>しはが</rt></ruby>れた婆さんの声は、手にとるやうにはつきり聞えました。

「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし。」

婆さんがかう言つたと思ふと、息もしないやうに坐つてゐた妙子は、やはり眼をつぶつた儘、突然口を利き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のやうな少女とは思はれない、荒々しい男の声なのです。

「いや、おれはお前の願ひなぞは聞かない。お前はおれの言ひつけに<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて、いつも悪事ばかり働いて来た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思つてゐる。いや、その上に悪事の罰を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>してやらうと思つてゐる。」

婆さんは<ruby><rb>呆気</rb><rt>あつけ</rt></ruby>にとられたのでせう。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは何とも答へずに、<ruby><rb>喘</rb><rt>あへ</rt></ruby>ぐやうな声ばかり立ててゐました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。

「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかつたら、明日とも言はず今夜の内に、早速この女の子を返すが好い。」

遠藤は鍵穴に眼を当てた儘、婆さんの答を待つてゐました。すると婆さんは驚きでもするかと思ひの外、憎々しい笑ひ声を洩らしながら、急に妙子の前へ突つ立ちました。

「人を<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思つてゐるのだえ。私はまだお前に<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>される程、<ruby><rb>耄碌</rb><rt>まうろく</rt></ruby>はしてゐない<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人ぢやあるまいし、アグニの神がそんなことを御言ひつけになつてたまるものか。」

婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶつた妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。

「さあ、正直に白状おし。お前は<ruby><rb>勿体</rb><rt>もつたい</rt></ruby>なくもアグニの神の、<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>を使つてゐるのだらう。」

さつきから<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>つてゐても、妙子が実際睡つてゐることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が<ruby><rb>露顕</rb><rt>ろけん</rt></ruby>したかと思はず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず<ruby><rb>目蓋</rb><rt>まぶた</rt></ruby>一つ動かさず、<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>ふやうに答へるのです。

「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。おれは唯お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言ひつけに背くか――」

婆さんはちよいとためらつたやうです。が、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち勇気をとり直すと、片手にナイフを振りながら、片手に妙子の頭髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。

「この<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思ひに命をとつてやるぞ。」

婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に身を起すと、錠のかかつた入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けるばかりです。

六

その内に部屋の中からは、誰かのわつと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたやうです。遠藤は殆ど気違ひのやうに、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。

板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えてゐるばかり、人気のないやうにしんとしてゐます。

遠藤はその光を便りに、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づ<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>づあたりを見廻しました。

するとすぐに眼にはひつたのは、やはりぢつと椅子にかけた、死人のやうな妙子です。それが<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か遠藤には、頭に<ruby><rb>毫光</rb><rt>ごくわう</rt></ruby>でもかかつてゐるやうに、厳かな感じを起させました。

「御嬢さん、御嬢さん。」

遠藤は椅子の側へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶつたなり、何とも口を開きません。

「御嬢さん。しつかりおしなさい。遠藤です。」

妙子はやつと夢がさめたやうに、かすかな眼を開きました。

「遠藤さん？」

「さうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げませう。」

妙子はまだ<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>のやうに、弱々しい声を出しました。

「計略は駄目だつたわ。つい私が眠つてしまつたものだから、――<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>して頂戴よ。」

「計略が<ruby><rb>露顕</rb><rt>ろけん</rt></ruby>したのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の<ruby><rb>憑</rb><rt>かか</rt></ruby>つた真似をやり<ruby><rb>了</rb><rt>おほ</rt></ruby>せたぢやありませんか？――そんなことはどうでも好いことです。さあ、早く御逃げなさい。」

遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱き起しました。

「あら、嘘。私は眠つてしまつたのですもの。どんなことを言つたか、知りはしないわ。」

妙子は遠藤の胸に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れながら、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くやうにかう言ひました。

「計略は駄目だつたわ。とても私は逃げられなくてよ。」

「そんなことがあるものですか。私と一しよにいらつしやい。今度しくじつたら大変です。」

「だつてお婆さんがゐるでせう？」

「お婆さん。」

遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさつきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ<ruby><rb>仰向</rb><rt>あふむ</rt></ruby>きに倒れてゐるのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てた儘、血だまりの中に死んでゐました。

「お婆さんはどうして？」

「死んでゐます。」

妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。

「私、ちつとも知らなかつたわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまつたの？」

遠藤は婆さんの<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やつと遠藤にもわかつたのは、この瞬間だつたのです。

「私が殺したのぢやありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です。」

遠藤は妙子を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>へた儘、おごそかにかう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きました。

（大正九年十二月）