一　ある人々

わたしはこの世の中にある人々のあることを知っている。それらの人々は何ごとも直覚するとともに解剖してしまう。つまり一本の<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花はそれらの人々には美しいとともにひっきょう植物学の教科書中の<ruby><rb>薔薇科</rb><rt>しょうびか</rt></ruby>の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折っている時でも。……

ただ直覚する人々はそれらの人々よりも幸福である。<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>と呼ばれる美徳の一つはそれらの人々（直覚するとともに解剖する）には与えられない。それらの人々はそれらの人々の一生を恐ろしい遊戯のうちに用い尽くすのである。あらゆる幸福はそれらの人々には解剖するために滅少し、同時にまたあらゆる苦痛も解剖するために増加するであろう。「生まれざりしならば」という言葉は<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>にそれらの人々に当たっている。

二　わたしたち

わたしたちは必ずしもわたしたちではない。わたしたちの祖先はことごとくわたしたちのうちに息づいている。わたしたちのうちにいるわたしたちの祖先に従わなければ、わたしたちは不幸に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>らなければならぬ。「過去の<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>」という言葉はこういう不幸を<ruby><rb>比喩</rb><rt>ひゆ</rt></ruby>的に説明するために用いられたのであろう。「わたしたち自身を発見する」のはすなわちわたしたちのうちにいるわたしたちの祖先を発見することである。同時にまたわたしたちを支配する天上の神々を発見することである。

三　<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>と<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>と

わたしたちに最も恐ろしい事実はわたしたちのついにわたしたちを<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えられないということである。あらゆる楽天主義的な目隠しをとってしまえば、<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>はいつになっても<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>になることはできない。ある詩人の書いた一行の詩はいつも彼の詩の全部である。

四　空中の花束

科学はあらゆるものを説明している。未来もまたあらゆるものを説明するであろう。しかしわたしたちの重んずるのはただ科学そのものであり、あるいは芸術そのものである。――すなわちわたしたちの精神的飛躍の空中に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた花束ばかりである。L'home est rien と言わないにもせよ、わたしたちは「人として」は格別大差のあるものではない。「人として」のボオドレエルはあらゆる精神病院に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち満ちている。ただ「悪の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>」や「小さい散文詩」は一度も彼らの手に成ったことはない。

五　2＋2＝4

2＋2＝4ということは真実である。しかし事実上<ruby><rb>＋</rb><rt>プラス</rt></ruby>の間に無数の因子のあることを認めなければならぬ。すなわちあらゆる問題はこの＋のうちに含まれている。

六　天国

もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。この天国はもちろん<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>の中に<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花の咲いた天国であろう。そこにはまた「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかりたくさん歩いている。もっとも犬になることも悪いことではない。

七　<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>

わたしたちはあらゆる<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">した</span>ことをしないように。わたしの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">言う</span>ことをするように」である。

八　又ある人びと

わたしはまたある人々を知っている。それらの人々は何ごとにも容易に<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>くことを知らない。一人の<ruby><rb>女人</rb><rt>にょにん</rt></ruby>や一つの<ruby><rb>想念</rb><rt>イデエ</rt></ruby>や一本の<ruby><rb>石竹</rb><rt>せきちく</rt></ruby>や一きれのパンをいやが上にも得ようとしている。したがってそれらの人びとほどぜいたくに暮らしているものはない。同時にまたそれらの人びとほどみじめに暮らしているものはない。それらの人々はいつの間にかいろいろのものの奴隷になっている。したがって他人には天国を与えても、――あるいは天国に至る<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を与えても、天国はついにそれらの人々自身のものになることはできない。「<ruby><rb>多欲喪身</rb><rt>たよくそうしん</rt></ruby>」という言葉はそれらの人々に与えられるであろう。<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>の羽根の扇や人乳を飲んだ<ruby><rb>豚</rb><rt>ぶた</rt></ruby>の<ruby><rb>仔</rb><rt>こ</rt></ruby>の料理さえそれらの人びとにはそれだけでは決して満足を与えないのである。それらの人々は必然に悲しみや苦しみさえ求めずにはいられない。（求めずとも与えられる当然の悲しみや苦しみのほかにも）そこにそれらの人々を他の人々から<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>り離す一すじの<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>は掘られている。それらの人々は<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>ではない。が、阿呆以上の阿呆である。それらの人々を救うものはただそれらの人々以外の人々に変わることであろう。したがってとうてい救われる道はない。

九　声

大勢の人々の叫んでいる中に一人の話している声は決して聞こえないと思われるであろう。が、事実上必ず聞こえるのである。わたしたちの心の中に一すじの炎の残っている限りは。――もっとも時々彼の声は<ruby><rb>後代</rb><rt>こうだい</rt></ruby>のマイクロフォンを待つかもしれない。

十　言葉

わたしたちはわたしたちの気もちを容易に他人に伝えることはできない。それはただ伝えられる他人しだいによるのである。「<ruby><rb>拈華微笑</rb><rt>ねんげみしょう</rt></ruby>」の昔はもちろん、百数十行に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>る新聞記事さえ他人の気もちと応じない時にはとうてい<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>のできるものではない。「彼」の言葉を理解するものはいつも「第二の彼」であろう。しかしその「彼」もまた必ず植物のように生長している。したがってある時代の彼の言葉は第二のある時代の「彼」以外に理解することはできないであろう。いや、ある時代の彼自身さえ他の時代の彼自身には他人のように見えるかもしれない。が、幸いにも「第二の彼」は「彼」の言葉を理解したと信じている。

（昭和二年七月）

〔遺稿〕