第三刷序文
　岩波文庫に収めた北越雪譜は不図も読書子の称賛を得て、昨年三月には第二刷を発行し、茲にまた第三刷を発行するに至つたのは校訂子の欣喜に堪へないところである。第二刷のときも、註解に若干の増補を為したが、今回は本書の完璧を期する為めに、書中の挿画全部を天保の初版によつてやり直した、雪譜初版刊行の年月に就ては、判然としない点がある、岩波文庫版の解説には、初篇の一を天保六年としたのは、京山の序文の年号をとつたのであり、初篇の三の発行の年月を天保七年としたのは奥附によつたものである、勿論初篇の一が天保六年に出版されたと云ふ確証はないが、とも角も天保六年か七年の頃に世に出たものと思ふ、これは偏に識者の高教を待つ。
昭和十二年八月十五日岡田武松　識
北越雪譜叙
世之農商而嗜文雅者、或不知所以文雅為文雅、徒企羨韻士墨客之風標、沈酣文酒、流連花月、而置生計於不問、以傾産業者、間亦有之、是豈嗜文雅罪哉、其人特自取之耳矣、鈴木牧之翁者北越塩沢之老農也、性嗜文雅、而能尚節倹抑驕惰、不絶誦読於経営之中、而務鉛槧於会計之余、以交遠近之墨客、嘗以堪忍之二字銘自守、以故其名久布遠邑、而生業亦因以致豊饒矣、嗚呼若翁者不徇文雅之名而能務其実者、非耶、余於翁得一面識於江戸、而後特以書訂交者有年于此、今茲乙未、遠寄示其所著北越雪譜者六巻、併嘱以校訂、時方盛夏炎威如燬、乃就北囱下試繙而閲之、則越雪恍如耳聞騒屑之声、目見紛霏之影、使人頓忘甑中之苦、読到積畳埋屋行旅不通人以窮乏柴米或不給、則𠘐然寒顫肌膚為之粟生矣、余因以謂、紈袴軽薄子弟、当微雪俄下紛々舞空之際、彫鞍宝勒飛玉塵於郊坰或氈帽棕鞋蹈瓊瑤於街衢或画舸載妓或高楼呼酒直以為勝遊楽事、曾不知飢寒為何物、若令其人読此書、依以想其種々凍餒之苦状乎、然則安知不有能省悟非宴安之公共、而戚々焉生戒懼之心者哉、寧梓而行之其有裨益世教盖非鮮小也、間者稍得秋涼、聊削其駁雑、校訂方畢者三巻、書賈文渓堂見而喜之謀梓行之、余寄簡以告翁、々曰䨮中閉戸漫筆、豈敢欲梓耶、於是乎、不復俟請之於翁挙以付之、翁之嗜文雅而能務其実、此必笑頷之而已、翁之稿本国字之間漢字者、嘗不添音訓之仮名、余今尽添之以便童蒙、云爾天保六年乙未秋園菊開日
江戸　　　京山人百樹并書　　
　此書の稿本図は別冊とし、或は其説に大図を描して添たるもあり、皆牧之翁が自筆の草画也。此挙梓行の為にせざれば図に洪繊重復あり、今梓に臨て其図の過半を省き、目を新にするものを存して巻中に夾刺するは単冊に尽し難を以て也。剘は是刪定の意に係る所也。余嘗て原図を閲するに、雪中の諸状混錯を走墨に失して通暁し難きもの靴中の瘡痒これを何如せん、唯翁が草図に傚ひて真に描せる而已。或原図の梓に入るものは則これを加ふ、或は説有て図無きもの其説に拠て其図を作りしもあり。盖余未だ越地を踏ず、越雪の真景に於て茫然たり、故に雪図に於て違漏あるも知るべからず、其誤を編者に駆ること勿れ。
京山男少年
乙未秋　　　京水百鶴　　

北越雪譜初編　巻之上
越後塩沢　　鈴木牧之　　編撰
江戸　　　　京山人百樹　刪定
○　地気雪と成る弁
　凡天より形を為して下す物○雨○雪○霰○霙○雹なり。露は地気の粒珠する所、霜は地気の凝結する所、冷気の強弱によりて其形を異にするのみ。地気天に上騰形を為て雨○雪○霰○霙○雹となれども、温気をうくれば水となる。水は地の全体なれば元の地に皈なり。地中深ければかならず温気あり、地温なるを得て気を吐、天に向て上騰事人の気息のごとく、昼夜片時も絶る事なし。天も又気を吐て地に下す、是天地の呼吸なり。人の呼と吸とのごとし。天地呼吸して万物を生育也。天地の呼吸常を失ふ時は暑寒時に応ぜず、大風大雨其余さま〲の天変あるは天地の病る也。天に九ツの段あり、これを九天といふ。九段の内最地に近き所を太陰天といふ。地を去る事高さ四十八万二千五百里といふ太陰天と地との間に三ツの際あり、天に近を熱際といひ、中を冷際といひ、地に近を温際といふ。地気は冷際を限りとして熱際に至らず、冷温の二段は地を去る事甚だ遠からず。富士山は温際を越て冷際にちかきゆゑ、絶頂は温気通ぜざるゆゑ艸木を生ぜず。夏も寒く雷鳴暴雨を温際の下に見る。雷と夕立はをんさいのからくり也雲は地中の温気より生ずる物ゆゑに其起る形は湯気のごとし、水を沸て湯気の起と同じ事也。雲温なる気を以て天に升り、かの冷際にいたれば温なる気消て雨となる、湯気の冷て露となるが如し。冷際にいたらざれば雲散じて雨をなさずさて雨露の粒珠は天地の気中に在るを以て也。艸木の実の円をうしなはざるも気中に生ずるゆゑ也。雲冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒甚しき時は雨氷の粒となりて降り下る。天寒の強と弱とによりて粒珠の大小を為す、是を霰とし霙とす。雹は夏ありその弁こゝにりやくす地の寒強き時は地気形をなさずして天に升る微温湯気のごとし。天の曇は是也。地気上騰こと多ければ天灰色をなして雪ならんとす。曇たる雲冷際に到り先雨となる。此時冷際の寒気雨を氷すべき力たらざるゆゑ花粉を為して下す、是雪也。地寒のよわきとつよきとによりて氷の厚と薄との如し。天に温冷熱の三際あるは、人の肌は温に肉は冷か臓腑は熱すると同じ道理也。気中万物の生育悉く天地の気格に随ふゆゑ也。是余が発明にあらず諸書に散見したる古人の説也。
○　雪の形
　凡物を視るに眼力の限りありて其外を視るべからず。されば人の肉眼を以雪をみれば一片の鵞毛のごとくなれども、数十百片の雪花を併合て一片の鵞毛を為也。是を験微鏡に照し視れば、天造の細工したる雪の形状奇々妙々なる事下に図するが如し。其形の斉からざるは、かの冷際に於て雪となる時冷際の気運ひとしからざるゆゑ、雪の形気に応じて同じからざる也。しかれども肉眼のおよばざる至微物ゆゑ、昨日の雪も今日の雪も一望の白糢糊を為のみ。下の図は天保三年許鹿君＊１の高撰雪花図説に在る所、雪花五十五品の内を謄写にす。雪六出を為。　御説に曰「凡物方体は四角なるをいふ必八を以て一を囲み円体は丸をいふ六を以て一を囲む定理中の定数誣べからず」云々。雪を六の花といふ事　御説を以しるべし。愚按に円は天の正象、方は地の実位也。天地の気中に活動する万物悉く方円の形を失はず、その一を以いふべし、人の体方にして方ならず、円くして円からず。是天地方円の間に生育ゆゑに、天地の象をはなれざる事子の親に似るに相同じ。雪の六出する所以は、物の員長数は陰半数は陽也。人の体男は陽なるゆゑ九出し●頭●両耳●鼻●両手●両足●男根女は十出す。男根なく両乳あり九は半の陽十は長の陰也。しかれども陰陽和合して人を為ゆゑ、男に無用の両乳ありて女の陰にかたどり、女に不要の陰舌ありて男にかたどる。気中に活動万物此理に漏る事なし。雪は活物にあらざれども変ずる所に活動の気あるゆゑに、六出したる形の陰中或は陽に象る円形を具したるもあり。水は極陰の物なれども一滴おとす時はかならず円形をなす。落るところに活く萌あるゆゑに陰にして陽の円をうしなはざる也。天地気中の機関定理定格ある事奇々妙々愚筆に尽しがたし。
○　雪の深浅
　左伝に隠公八年平地尺に盈を大雪と為と見えたるは其国暖地なれば也。唐の韓愈が雪を豊年の嘉瑞といひしも暖国の論也。されど唐土にも寒国は八月雪降事五雑組に見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地に銀世界をなし、雪の飄々翩々たるを観て花に諭へ玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画に写し詞につらねて称翫するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば何の楽き事かあらん。雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。
○　雪意
　我国の雪意は暖国に均しからず。およそ九月の半より霜を置て寒気次第に烈く、九月の末に至ば殺風肌を侵入て冬枯の諸木葉を落し、天色霎として日の光を看ざる事連日是雪の意也。天気朦朧たる事数日にして遠近の高山に白を点じて雪を観せしむ。これを里言に嶽廻といふ。又海ある所は海鳴り、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴りといふ。これを見これを聞て、雪の遠からざるをしる。年の寒暖につれて時日はさだかならねど、たけまはり・どうなりは秋の彼岸前後にあり、毎年かくのごとし。
○　雪の用意
　前にいへるがごとく、雪降んとするを量り、雪に損ぜられぬ為に屋上に修造を加へ、梁柱廂家の前の屋翼を里言にらうかといふ、すなはち廊架なり其外すべて居室に係る所力弱はこれを補ふ。雪に潰れざる為也。庭樹は大小に随ひ枝の曲べきはまげて縛束、椙丸太又は竹を添へ杖となして枝を強からしむ。雪折をいとへば也。冬草の類は菰筵を以覆ひ包む。井戸は小屋を懸、厠は雪中其物を荷しむべき備をなす。雪中には一点の野菜もなければ家内の人数にしたがひて、雪中の食料を貯ふ。あたゝかなるやうに土中にうづめ又はわらにつゝみ桶に入れてこほらざらしむ其外雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし。
○　初雪
　暖国の人の雪を賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞し、雪見の船に哥妓を携へ、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼は雪を居続の媒となし、酒亭は雪を来客の嘉瑞となす。雪の為に種々の遊楽をなす事枚挙がたし。雪を賞するの甚しきは繁花のしからしむる所也。雪国の人これを見、これを聞て羨ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比れば、楽と苦と雲泥のちがひ也。そも〱越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰とし、地は東南に足ず、ゆゑに東南を陽とす。越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山連りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑は雪深し。是阴阳の前後したるに似たり。我住魚沼郡は東南の阴地にして○巻機山○苗場山○八海山○牛が嶽○金城山○駒が嶽○兎が嶽○浅艸山等の高山其余他国に聞えざる山々波濤のごとく東南に連り、大小の河々も縦横をなし、陰気充満して雲深き山間の村落なれば雪の深をしるべし。冬は日南の方を周ゆゑ北国はます〱寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也我国初雪を視る事遅と速とは、其年の気運寒暖につれて均からずといへども、およそ初雪は九月の末十月の首にあり。我国の雪は鵞毛をなさず、降時はかならず粉砕をなす、風又これを助く。故に一昼夜に積所六七尺より一丈に至る時もあり、往古より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし。されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中に在る事かと雪を悲は辺郷の寒国に生たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花の暖地に生たる天幸を羨ざらんや。
○　雪の堆量
　余が隣宿六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄にあそびし頃聞しに、千隈川の辺の雅人、初雪より天保五年をいふ十二月廿五日までの間、雪の下る毎に用意したる所の雪を尺をもつて量りしに＊２、雪の高さ十八丈ありしといへりとぞ。此話雪国の人すら信じがたくおもへども、つら〱思量に、十月の初雪より十二月廿五日までおよその日数八十日の間に五尺づゝの雪ならば、廿四丈にいたるべし。随て下ば随て掃ふ処は積で見る事なし。又地にあれば減もする也。かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷雪の深事はかりしるべからず。天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話誣ふべからず。
○　雪竿
　高田御城大手先の広場に、木を方に削り尺を記して建給ふ、是を雪竿といふ。長一丈也。雪の深浅公税に係るを以てなるべし。高田の俳友楓石子よりの書翰に天保五年の仲冬雪竿を見れば当地の雪此節一丈に余れりといひ来れり。雪竿といへば越後の事として俳句にも見えたれど、此国に於て高田の外无用の雪竿を建る処昔はしらず今はなし。風雅をもつて我国に遊ぶ人、雪中を避て三夏の頃此地を踏ゆゑ、越路の雪をしらず。然るに越路の雪を言の葉に作意ゆゑたがふ事ありて、我国の心には笑ふべきが多し。
○　雪を掃ふ
　雪を掃ふは落花をはらふに対して風雅の一ツとし、和漢の吟咏あまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは風雅の状にあらず。初雪の積りたるをそのまゝにおけば、再び下る雪を添へて一丈にあまる事もあれば、一度降ば一度掃ふ雪浅ければのちふるをまつ是を里言に雪掘といふ。土を掘がごとくするゆゑに斯いふ也。掘ざれば家の用路を塞ぎ人家を埋て人の出べき処もなく、力強家も幾万斤の雪の重量に推砕んをおそるゝゆゑ、家として雪を掘ざるはなし。掘るには木にて作りたる鋤を用ふ、里言にこすきといふ、則木鋤也。椈といふ木をもつて作る、木質軽強して折る事なく且軽し、形は鋤に似て刃広し。雪中第一の用具なれば、山中の人これを作りて里に売、家毎に貯ざるはなし。雪を掘る状態は図にあらはしたるが如し。掘たる雪は空地の、人に妨なき処へ山のごとく積上る、これを里言に掘揚といふ。大家は家夫を尽して力たらざれば掘夫を傭ひ、幾十人の力を併て一時に掘尽す。事を急に為すは掘る内にも大雪下れば立地に堆く人力におよばざるゆゑ也。掘る処図には人数を略してゑがけり右は大家の事をいふ、小家の貧しきは掘夫をやとふべきも費あれば男女をいはず一家雪をほる。吾里にかぎらず雪ふかき処は皆然なり。此雪いくばくの力をつひやし、いくばくの銭を費し、終日ほりたる跡へその夜大雪降り夜明て見れば元のごとし。かゝる時は主人はさら也、下人も頭を低て歎息をつくのみ也。大抵雪ふるごとに掘ゆゑに、里言に一番掘二番掘といふ。
○　沫雪
　春の雪は消やすきをもつて沫雪といふ。和漢の春雪消やすきを詩哥の作為とす、是暖国の事也、寒国の雪は冬を沫雪ともいふべし。いかんとなれば冬の雪はいかほどつもりても凝凍ことなく、脆弱なる事淤泥のごとし。故に冬の雪中は橇・縋を穿て途を行。里言には雪を漕といふ。水を渉る状に似たるゆゑにや、又深田を行すがたあり。初春にいたれば雪悉く凍りて雪途は石を布たるごとくなれば往来冬よりは易し。すべらざるために下駄の歯にくぎをうちて用ふ暖国の沫雪とは気運の前後かくのごとし。
○　雪道
　冬の雪は脆なるゆゑ人の蹈固たる跡をゆくはやすけれど、往来の旅人一宿の夜大雪降ばふみかためたる一条の雪道雪に埋り途をうしなふゆゑ、郊原にいたりては方位をわかちがたし。此時は里人幾十人を傭ひ、橇縋にて道を蹈開せ跡に随て行也。此費幾緡の銭を費すゆゑ貧しき旅人は人の道をひらかすを待て空く時を移もあり。健足の飛脚といへども雪途を行は一日二三里に過ず。橇にて足自在ならず、雪膝を越すゆゑ也。これ冬の雪中一ツの艱難なり。春は雪凍て銕石のごとくなれば、雪車又雪舟の字をも用ふを以て重を乗す。里人は雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車を用ふ。春の雪中重を負しむる事牛馬に勝る。雪車の制作別に記す、形大小種々あり大なるを修羅といふ雪国の便利第一の用具也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし、ゆゑに里人雪舟途と唱ふ。
○　雪蟄
　凡雪九月末より降はじめて雪中に春を迎、正二の月は雪尚深し。三四の月に至りて次第に解、五月にいたりて雪全く消て夏道となる。年の寒暖によりて遅速あり四五月にいたれば春の花ども一時にひらく。されば雪中に在る事凡八ヶ月、一年の間雪を看ざる事僅に四ヶ月なれども、全く雪中に蟄るは半年也。こゝを以て家居の造りはさら也、万事雪を禦ぐを専とし、財を費力を尽す事紙筆に記しがたし。農家はことさら夏の初より秋の末までに五穀をも収るゆゑ、雪中に稲を刈事あり。其忙き事の千辛万苦、暖国の農業に比すれば百倍也。さればとて雪国に生る者は幼稚より雪中に成長するゆゑ、蓼中の虫辛をしらざるがごとく雪を雪ともおもはざるは、暖地の安居を味ざるゆゑ也。女はさら也、男も十人に七人は是也。しかれども住ば都とて、繁花の江戸に奉公する事年ありて後雪国の故郷に皈る者、これも又十人にして七人也。胡場北風に嘶き、越鳥南枝に巣くふ、故郷の忘がたきは世界の人情也。さて雪中は廊下に江戸にいふ店下雪垂をかやにてあみたるすだれをいふ下し、雪吹をふせぐため也窗も又これを用ふ。雪ふらざる時は巻て明をとる。雪下事盛なる時は、積る雪家を埋て雪と屋上と均く平になり、明のとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火を照して家の内は夜昼をわかたず。漸雪の止たる時、雪を掘て僅に小窗をひらき明をひく時は、光明赫奕たる仏の国に生たるこゝち也。此外雪籠りの艱難さま〲あれど、くだ〱しければしるさず。鳥獣は雪中食无をしりて雪浅き国へ去るもあれど一定ならず。雪中に籠り居て朝夕をなすものは人と熊と也。
○　胎内潜
　宿場と唱る所は家の前に庇を長くのばして架る、大小の人家すべてかくのごとし。雪中はさら也、平日も往来とす。これによりて雪中の街は用なきが如くなれば、人家の雪をこゝに積。次第に重て両側の家の間に雪の堤を築たるが如し。こゝに於て所々に雪の洞をひらき、庇より庇に通ふ、これを里言に胎内潜といふ、又間夫ともいふ。間夫とは金掘の方言なるを借て用ふる也。間夫の本義は妻妾の奸淫するをいふ宿外の家の続ざる処は庇なければ、高低をなしたるかの雪の堤を往来とす。人の足立がたき処あれば一条の道を開き、春にいたり雪堆き所は壇層を作りて通路の便とす。形匣階のごとし。所の者はこれを登下するに脚に慣て一歩もあやまつ事なし。他国の旅人などは怖る〱移歩かへつて落る者あり、おつれば雪中に身を埋む。視る人はこれを笑ひ、落たるものはこれを怒る。かゝる難所を作りて他国の旅客を労はしむる事求たる所為にあらず。此雪を取除とするには人力と銭財とを費すゆゑ、寸導は壇を作りて途を開く也。そも〱初雪より歳を越て雪消るまでの事を繁細に記さば小冊には尽しがたし、ゆゑに省てしるさゞる事甚多し。
○　雪中の洪水
　大小の川に近き村里、初雪の後洪水の災に苦む事あり。洪水を此国の俚言に水揚といふ。余一年関といふ隣駅の親族油屋が家に止宿せし時、頃は十月のはじめにて雪八九尺つもりたるをりなりしが、夜半にいたりて近隣の諸人叫び呼はりつゝ立騒ぐ声に睡を驚し、こは何事やらんと胷もをどりて臥たる一間をはせいでければ、家の主両手に物を提、水あがり也とく〱裏の掘揚へ立退給へ、といひすてゝ持たる物を二階へ運びゆく。勝手の方へ立いで見れば家内の男女狂気のごとく駈まはりて、家財を水に流さじと手当しだいに取退る。水は低に随て潮のごとくおしきたり、已に席を浸し庭に漲る。次第に積たる雪所として雪ならざるはなく、雪光暗夜を照して水の流るありさま、おそろしさいはんかたなし。余は人に助けられて高所に逃登り遙に駅中を眺ば、提灯炬を燈しつれ大勢の男ども手々に木鋤をかたげ、雪を越水を渉て声をあげてこゝに来る。これは水揚せざる所の者どもこゝに馳あつまりて、川筋を開き水を落さんとする也。闇夜にてすがたは見えねど、女童の泣叫ぶ声或は遠く或は近く、聞もあはれのありさま也。燃残りたる炬一ツをたよりに人も馬も首たけ水に浸り、漲るながれをわたりゆくは馬を助んとする也。帯もせざる女片手に小児を背負、提灯を提て高処へ逃のぼるは、近ければそこらあらはに見ゆ、命とつりがへなればなにをも恥しとはおもふべからず。可笑事可憐なる事可怖き事種々さま〲筆に尽しがたし。やう〱東雲の頃に至りて、水も落たりとて諸人安堵のおもひをなしぬ。
○そも〱我郷雪中の洪水、大かたは初冬と仲春とにあり。此関といふ駅は左右人家の前に一道づゝの流あり、末は魚野川へ落る、三伏の旱にも乾く事なき清流水也。ゆゑに家毎に此流を以て井水の代りとし、しかも桶にても汲べき流なれば、平日の便利井戸よりもはるかに勝り。しかるに初雪の後十月のころまでにこの二条の小流雪の為に降埋られ、流水は雪の下にあり、故に家毎に汲べき程に雪を穿て水用を弁ず。この穿たる所も一夜の雪に埋らるゝことあれば再うがつ事屡なり。人家にちかき流さへかくのごとくなれば、この二条の流の水源も雪に埋れ、水用を失ふのみならず水あがりの懼あるゆゑ、所の人力を併て流のかゝり口の雪を穿事なり。されども人毎に業用にさゝへて時を失ふか、又は一夜の大雪にかの水源を塞ぐ時は、水溢て低所を尋て流る。駅中は人の往来の為に雪を蹈へして低ゆゑ、流水漲り来り猶も溢て人家に入り、水難に逢ふ事前にいへるがごとし。幾百人の力を尽して水道をひらかざれば、家財を流し或は溺死におよぶもあり。
○又仲春の頃の洪水は大かたは春の彼岸前後也。雪いまだ消ず、山々はさら也田圃も渺々たる曠平の雪面なれば、枝川は雪に埋れ水は雪の下を流れ、大河といへども冬の初より岸の水まづ氷りて氷の上に雪をつもらせ、つもる雪もおなじく氷りて岩のごとく、岸の氷りたる端次第に雪ふりつもり、のちには両岸の雪相合して陸地とおなじ雪の地となる。さて春を迎へて寒気次第に和らぎ、その年の暖気につれて雪も降止たる二月の頃、水気は地気よりも寒暖を知る事はやきものゆゑ、かの水面に積りたる雪下より解て凍りたる雪の力も水にちかきは弱くなり、流は雪に塞れて狭くなりたるゆゑ水勢ます〱烈しく、陽気を得て雪の軟なる下を潜り、堤のきるゝがごとく、譬にいふ寝耳に水の災難にあふ事、雪中の洪水寒国の艱難、暖地の人憐給へかし。右は其一をいふのみ。雪中の洪水地勢によりて種々各々なり。詳には弁じがたし。
○　熊捕
　越後の西北は大洋に対して高山なし。東南は連山巍々として越中上信奥羽の五か国に跨り、重岳高嶺肩を並べて数十里をなすゆゑ大小の獣甚多し。此獣雪を避て他国へ去るもありさらざるもあり、動ずして雪中に穴居するは熊のみ也。熊胆は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴し。其重価を得んと欲して春暖を得て雪の降止たるころ、出羽あたりの猟師ども五七人心を合せ、三四疋の猛犬を牽き米と塩と鍋を貯へ、水と薪は山中在るに随て用をなし、山より山を越、昼は猟して獣を食とし、夜は樹根岩窟を寝所となし、生木を焼て寒を凌且明となし、着たまゝにて寝臥をなす。頭より足にいたるまで身に着る物悉く獣の皮をもつてこれを作る。遠く視れば猿にして顔は人也。金革を衽にすとはかゝる人をやいふべき。此者らが志所は我国の熊にあり。さて我山中に入り場所よきを見立、木の枝藤蔓を以て仮に小屋を作りこれを居所となし、おの〱犬を牽四方に別て熊を窺ふ。熊の穴居たる所を認ば目幟をのこして小屋にかへり、一連の力を併てこれを捕る。その道具は柄の長さ四尺斗りの手槍、或は山刀を薙刀のごとくに作りたるもの、銕炮山刀斧の類也。刃鈍る時は貯へたる砥をもつて自研ぐ。此道具も獣の皮を以て鞘となす。此者ら春にもかぎらず冬より山に入るをりもあり。
　そも〱熊は和獣の王、猛くして義を知る。菓木の皮虫のるゐを食として同類の獣を喰ず、田圃を荒ず、稀に荒すは食の尽たる時也。詩経には男子の祥とし、或は六雄将軍の名を得たるも義獣なればなるべし。夏は食をもとむるの外山蟻を掌中に擦着、冬の蔵蟄にはこれを䑜て飢を凌ぐ。牝牡同く穴に蟄らず、牝の子あるは子とおなじくこもる。其蔵蟄する所は大木の雪頽に倒れて朽たる洞なだれの事下にしるす又は岩間土穴、かれが心に随て居る処さだめがたし。雪中の熊は右のごとく他食を求ざるゆゑ、その胆の良功ある事夏の胆に比れば百倍也。我国にては、●飴胆●琥珀胆●黒胆と唱へ色をもつてこれをいふ。琥珀を上品とし、黒胆を下品とす。偽物は黒胆に多し。
●さて熊を捕に種々の術あり。かれが居所の地理にしたがつて捕得やすき術をほどこす。熊は秋の土用より穴に入り、春の土用に穴より出るといふ。又一説に、穴に入りてより穴を出るまで一睡にねむるといふ、人の視ざるところなれば信じがたし。
　沫雪の条にいへるごとく、冬の雪は軟にして足場あしきゆゑ、熊を捕は雪の凍たる春の土用まへ、かれが穴よりいでんとする頃を程よき時節とする也。岩壁の裾又は大樹の根などに蔵蟄たるを捕には圧といふ術を用ふ、天井釣ともいふ。その制作は木の枝藤の蔓にて穴に倚掛て棚を作り、たなの端は地に付て杭を以てこれを縛り、たなの横木に柱ありて棚の上に大石を積ならべ、横木より縄を下し縄に輪を結びて穴に臨す、これを蹴綱といふ。此蹴綱に転機あり、全く作りをはりてのち、穴にのぞんで玉蜀烟艸の茎のるゐ熊の悪む物を焚、しきりに扇て烟を穴に入るれば熊烟りに噎て大に怒り、穴を飛出る時かならずかの蹴綱に触れば転機にて棚落て熊大石の下に死す。手を下さずして熊を捕の上術也。是は熊の居所による也。これらは樵夫も折によりてはする事也。
　又熊捕の場数を蹈たる剛勇の者は一連の猟師を熊の居る穴の前に待せ、己一人ひろゝ簑を頭より被りひろゝは山にある艸の名也、みのに作れば稿よりかろし、猟師常にこれを用ふ穴にそろ〱と這入り、熊に簑の毛を触れば熊はみのゝ毛を嫌ふものゆゑ除て前にすゝむ。又後よりみの毛を障す、熊又まへにすゝむ。又さはり又すゝんで熊終には穴の口にいたる。これを視て待かまへたる猟師ども手練の槍尖にかけて突留る。一槍失ときは熊の一掻に一命を失ふ。その危を蹈で熊を捕は僅の黄金の為也。金慾の人を過事色慾よりも甚し。されば黄金は道を以て得べし、不道をもつて得べからず。
　又上に覆ふ所ありてその下には雪のつもらざるを知り土穴を掘て蟄るもあり。然れどもこゝにも雪三五尺は吹積也。熊の穴ある所の雪にはかならず細孔ありて管のごとし。これ熊の気息にて雪の解たる孔也。猟師これを見れば雪を掘て穴をあらはし、木の枝柴のるゐを穴に挿入れば熊これを掻とりて穴に入るゝ、かくする事しば〱なれば穴逼りて熊穴の口にいづる時槍にかくる。突たりと見れば数疋の猛犬いちどに飛かゝりて囓つく。犬は人を力とし、人は犬を力として殺もあり。此術は椌木にこもりたるにもする事也。
○　白熊
　熊の黒は雪の白がごとく天然の常なれども、天公機を転じて白熊を出せり。
○天保三年辰の春、我が住魚沼郡の内浦佐宿の在大倉村の樵夫八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊を虜り、世に珍とて飼おきしに香具師江戸にいふ見世もの師の古風なるものこれを買もとめ、市場又は祭礼すべて人の群る所へいでゝ看物にせしが、ある所にて余も見つるに大さ狗のごとく状は全く熊にして、白毛雪を欺きしかも光沢ありて天鵞織のごとく眼と爪は紅也。よく人に馴てはなはだ愛べきもの也。こゝかしこに持あるきしがその終をしらず。白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは　皇国の祥象なれば、天機白熊をいだししも　昇平万歳の吉瑞成べし。
山家の人の話に熊を殺こと二三疋、或ひは年歴たる熊一疋を殺も、其山かならず荒る事あり、山家の人これを熊荒といふ。このゆゑに山村の農夫は需て熊を捕事なしといへり。熊に灵ありし事古書にも見えたり。
○　熊人を助
　人熊の穴に墜て熊に助られしといふ話諸書に散見すれども、其実地をふみたる人の語りしは珍ければこゝに記す。
○余若かりし時、妻有の庄に魚沼郡の内に在用ありて両三日逗留せし事ありき。頃は夏なりしゆゑ客舎の庭の木かげに筵をしきて納涼居しに、主人は酒を好む人にて酒肴をこゝに開き、余は酒をば嗜ざるゆゑ茶を喫て居たりしに、一老夫こゝに来り主人を視て拱手て礼をなし後園へ行んとせしを、主呼とめ老夫を指ていふやう、此叟父は壮年時熊に助られたる人也、危き命をたすかり今年八十二まで健に長生するは可賀老人也、識面になり給へといふ。老夫莞爾として再去んとす。余よびとゞめ、熊に助られしとは珍説也語りて聞せ給へといひしに、主人余が前に在し茶盌をとりてまづ一盃喫とて酒を満盌とつぎければ、老夫筵の端に坐し酒を視て笑をふくみ続て三盌を喫し舌鼓して大に喜び、さらば話説申さん、我廿歳二月のはじめ薪をとらんとて雪車を引て山に入りしに、村にちかき所は皆伐つくしてたま〱あるも足場あしきゆゑ、山一重踰て見るに、薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在に伐とり、雪車哥うたひながら徐々束、雪車に積て縛つけ山刀をさしいれ、低に随て今来りたる方へ乗下りたるに、一束の柴雪車より転び落、谷を埋たる雪の裂隙にはさまり凍りし雪陽気を得て裂る事常也たるゆゑ、捨て皈んも惜ければその所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするにすこしも動ず、落たる勢に撞いれたるならん、さらば重かたより引上んと匍匐して双手を延し一声かけて上んとしたる時、足に蹈力なきゆゑおのれがちからに己が躰を転倒、雪の裂隙より遙の谷底へ墜けるが、雪の上を濘落たるゆゑ幸に疵はうけず、しばしは夢のやう也しがやう〱に心付、上を見れば雪の屏風を建たるがごとく今にも雪頽やせんとなだれのおそろしき事下にしるす生たる心地はなく、暗はくらし、せめては明方にいでんと雪に埋たる狭谷間をつたひ、やう〱にして空を見る所にいたりしに、谷底の雪中寒烈しく手足も亀手一歩もはこびがたく、かくては凍死べしと心を励し猶途もあるかと百歩ばかり行たりけん、滝ある所にいたり四方を見るに、谷間の途極にて甕に落たる鼠のごとくいかんともせんすべなく惘然として胷せまり、いかゞせんといふ思案さヘ出ざりき。さて是より熊の話也、今一盃たまはるべしとて自酌てしきりに喫、腰より烟艸帒をいだして烟を吹などするゆゑ、其次はいかにとたづねければ、老父曰、さて傍を見れば潜べきほどの岩窟あり、中には雪もなきゆゑはひりて見るにすこし温也。此時こゝろづきて腰をさぐりみるに握飯の弁当もいつかおとしたり、かくては飢死すべし、さりながら雪を喰ても五日や十日は命あるべし、その内には雪車哥の声さへ聞れば村の者也、大声あげて叫らば助くれべし、それにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしと、しきりに念仏唱へ、大神宮をいのり日もくれかゝりしゆゑ、こゝを寝所にせばやと闇地を探り〱這入りて見るに次第に温也。猶も探りし手先に障しは正しく熊也。愕然して胷も裂るやう也しが逃に道なく、とても命の期なり死も生も神仏にまかすべしと覚悟をきはめ、いかに熊どの我は薪とりに来り谷へ落たるもの也、皈には道がなく生て居には喰物がなし、とても死べき命也、擘て殺ばころし給へ、もし情あらば助たまへと怖々熊を撫ければ、熊は起なほりたるやうにてありしが、しばしありてすゝみいで我を尻にておしやるゆゑ、熊の居たる跡へ坐しにそのあたゝかなる事巨燵にあたるごとく全身あたゝまりて寒をわすれしゆゑ、熊にさま〲礼をのべ猶もたすけ玉へと種々悲しき事をいひしに、熊手をあげて我が口へ柔におしあてる事たび〱也しゆゑ、蟻の事をおもひだし舐てみれば甘くてすこし苦し。しきりになめたれば心爽になり咽も潤ひしに、熊は鼻息を鳴して寝やう也。さては我を助るならんと心大におちつき、のちは熊と脊をならべて臥しが宿の事をのみおもひて眠気もつかず、おもひ〱てのちはいつか寝入たり。かくて熊の身動をしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆゑ夜の明たるをしり、穴をはひいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべき藤づるにてもあるかとあちこち見れどもなし、熊も穴をいでゝ滝壺にいたり水をのみし時はじめて熊を見れば、犬を七ツもよせたるほどの大熊也。又もとの窟へはいりしゆゑ我は窟の口に居て雪車哥のこゑやすらんと耳を澄して聞居たりしが、滝の音のみにて鳥の音もきかず、その日もむなしく暮て又穴に一夜をあかし、熊の掌に飢をしのぎ、幾日たちても哥はきかず、その心細き事いはんかたなし。されど熊は次第に馴可愛なりしと語るうち、主人は微酔にて老夫にむかひ、其熊は牝熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ、又酒をのませ盃の献酬にしばらく話消けるゆゑ強て下回をたづねければ、老夫曰、人の心は物にふれてかはるもの也、はじめ熊に逢し時はもはや死地事と覚悟をばきはめ命も惜くなかりしが、熊に助られてのちは次第に命がをしくなり、助る人はなくとも雪さへ消なば木根岩角に縋てなりと宿へかへらんと、雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへ忘て虚々くらししが、熊は飼犬のやうになりてはじめて人間の貴事を知り、谷間ゆゑ雪のきゆるも里よりは遅くたゞ日のたつをのみうれしくありしに、一日窟の口の日のあたる所に虱を捫て居たりし時、熊窟よりいで袖を咥て引しゆゑ、いかにするかと引れゆきしにはじめ濘落たるほとりにいたり、熊前にすゝみて自在に雪を掻掘一道の途をひらく、何方までもとしたがひゆけば又途をひらき〱て人の足跡ある所にいたり、熊四方を顧て走り去て行方しれず。さては我を導たる也と熊の去し方を遥拝かず〱礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭ぞとお伊勢さま善光寺さまを遥拝うれしくて足の蹈所もしらず、火点頃宿へかへりしに、此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり。両親はじめ驚愕せられ幽灵ならんとて立さわぐ。そのはづ也。月代は簑のやうにのび面は狐のやうに痩たり、幽灵とて立さわぎしものちは笑となりて、両親はさら也人々もよろこび、薪とりにいでし四十九日目の待夜也とていとなみたる仏㕝も俄にめでたき酒宴となりしと仔細に語りしは、九右エ門といひし小間居の農夫也き。其夜燈下に筆をとりて語りしまゝを記しおきしが、今はむかしとなりけり。
○　雪中の虫
　唐土蜀の峨眉山には夏も積雪あり。其雪の中に雪蛆といふ虫ある事山海経に見えたり。唐土の書此節空からず、越後の雪中にも雪蛆あり、此虫早春の頃より雪中に生じ雪消終ば虫も消終る、始終の死生を雪と同うす。字書を按に、蛆は腐中の蠅とあれば所謂蛆蠅也。䖧は蠆の類、人を螫とあれば蜂の類也、雪中の虫は蛆の字に从ふべし、しかれば雪蛆は雪中の蛆蠅也。木火土金水の五行中皆虫を生ず、木の虫土の虫水の虫は常に見る所めづらしからず。蠅は灰より生ず、灰は火の燼末也、しかれば蠅は火の虫也。蠅を殺して形あるもの灰中におけば蘇也。又虱は人の熱より生ず、熱は火也、火より生たる虫ゆゑに蠅も虱も共に暖なるをこのむ。金中の虫は肉眼におよばざる冥塵のごとき虫ゆゑに人これをしらず。およそ銅銕の腐はじめは虫を生ず、虫の生じたる所色を変ず。しば〱これを拭ば虫をころすゆゑ其所腐ず。錆は腐の始、錆の中かならず虫あり、肉眼におよばざるゆゑ人しらざる也。蘭人の説也金中猶虫あり、雪中虫無んや。しかれども常をなさゞれば奇とし妙として唐土の書にも記せり。我越後の雪蛆はちひさき事蚊の如し。此虫は二種あり、一ツは翼ありて飛行、一ツははねあれども蔵て蚑行。共に足六ツあり、色は蠅に似て淡く一は黒し其居る所は市中原野蚊におなじ。しかれども人を螫むしにはあらず、顕微鏡にて視たる所をこゝに図して物産家の説を俟つ。
○　雪吹
　雪吹は樹などに積りたる雪の風に散乱するをいふ。其状優美ものゆゑ花のちるを是に比して花雪吹といひて古哥にもあまた見えたり。是東南寸雪の国の事也、北方丈雪の国我が越後の雪深ところの雪吹は雪中の暴風雪を巻騰飇也。雪中第一の難義これがために死する人年々也。その一ツを挙てこゝに記し、寸雪の雪吹のやさしきを観人の為に丈雪の雪吹の愕眙を示す。
　余が住塩沢に遠からざる村の農夫男一人あり、篤実にして善親に仕ふ。廿二歳の冬、二里あまり隔たる村より十九歳の娵をむかへしに、容姿憎からず生質柔従にて、糸織の伎にも怜利ければ舅姑も可愛がり、夫婦の中も睦く家内可祝春をむかへ、其年九月のはじめ安産してしかも男子なりければ、掌中に珠を得たる心地にて家内悦びいさみ、産婦も健に肥立乳汁も一子に余るほどなれば小児も肥太り可賀名をつけて千歳を寿けり。此一家の者すべて篤実なれば耕織を勤行、小農夫なれども貧からず、善男をもち良娵をむかへ好孫をまうけたりとて一村の人々常に羨けり。かゝる善人の家に天災を下ししは如何ぞや。
○かくて産後日を歴てのち、連日の雪も降止天気穏なる日、娵夫にむかひ、今日は親里へ行んとおもふ、いかにやせんといふ。舅旁にありて、そはよき事也男も行べし、実母へも孫を見せてよろこばせ夫婦して自慢せよといふ。娵はうちゑみつゝ姑にかくといへば、姑は俄に土産など取そろへる間に娵髪をゆひなどして嗜の衣類を着し、綿入の木綿帽子も寒国の習とて見にくからず、児を懐にいだき入んとするに姑旁よりよく乳を呑せていだきいれよ、途にてはねんねがのみにくからんと一言の詞にも孫を愛する情ぞしられける。夫は蓑笠稿脚衣すんべを穿晴天にも簑を着は雪中農夫の常也土産物を軽荷に担ひ、両親に暇乞をなし夫婦袂をつらね喜躍て立出けり。正是親子が一世の別れ、後の悲歎とはなりけり。
○さるほどに夫は先に立妻は後にしたがひゆく。をつとつまにいふ、今日は頃日の日和也、よくこそおもひたちたれ。今日夫婦孫をつれて来るべしとは親たちはしられ玉ふまじ。孫の顔を見玉はゞさぞかしよろこび給ふらん。さればに候、父翁はいつぞや来られしが母人はいまだ赤子を見給はざるゆゑことさらの喜悦ならん。遅ならば一宿てもよからんか、郎も宿給へ。不可也二人とまりなば両親案給はん、われは皈べしなど、はなしの間児の啼に乳房くゝませつゝうちつれて道をいそぎ美佐嶋といふ原中に到し時、天色倏急に変り黒雲空に覆ひければ是雪中の常也夫空を見て大に驚怖、こは雪吹ならんいかゞはせんと踉蹡うち、暴風雪を吹散事巨濤の岩を越るがごとく、飇雪を巻騰て白竜峯に登がごとし。朗々なりしも掌をかへすがごとく天怒地狂、寒風は肌を貫の鎗、凍雪は身を射の箭也。夫は簑笠を吹とられ、妻は帽子を吹ちぎられ、髪も吹みだされ、咄嗟といふ間に眼口襟袖はさら也、裾へも雪を吹いれ、全身凍呼吸迫り半身は已に雪に埋められしが、命のかぎりなれば夫婦声をあげほうい〱と哭叫ども、往来の人もなく人家にも遠ければ助る人なく、手足凍て枯木のごとく暴風に吹僵れ、夫婦頭を並て雪中に倒れ死けり。此雪吹其日の暮に止、次日は晴天なりければ近村の者四五人此所を通りかゝりしに、かの死骸は雪吹に埋られて見えざれども赤子の啼声を雪の中にきゝければ、人々大に怪みおそれて逃んとするも在しが、剛気の者雪を掘てみるに、まづ女の髪の毛雪中に顕たり。扨は昨日の雪吹倒れならん里言にいふ所とて皆あつまりて雪を掘、死骸を見るに夫婦手を引あひて死居たり。児は母の懐にあり、母の袖児の頭を覆ひたれば児は身に雪をば触ざるゆゑにや凍死ず、両親の死骸の中にて又声をあげてなきけり。雪中の死骸なれば生るがごとく、見知たる者ありて夫婦なることをしり、我児をいたはりて袖をおほひ夫婦手をはなさずして死たる心のうちおもひやられて、さすがの若者らも泪をおとし、児は懐にいれ死骸は簑につゝみ夫の家に荷ひゆきけり。かの両親は夫婦娵の家に一宿とのみおもひをりしに、死骸を見て一言の詞もなく、二人が死骸にとりつき顔にかほをおしあて大声をあげて哭けるは、見るも憐のありさま也。一人の男懐より児をいだして姑にわたしければ、悲と喜と両行の涙をおとしけるとぞ。
　雪吹の人を殺す事大方右に類す。暖地の人花の散に比て美賞する雪吹と其異こと、潮干に遊びて楽と洪濤に溺て苦との如し。雪国の難義暖地の人おもひはかるべし。連日の晴天も一時に変じて雪吹となるは雪中の常也。其力樹を抜屋を折。人家これが為に苦む事枚挙がたし。雪吹に逢たる時は雪を掘身を其内に埋れば雪暫時につもり、雪中はかへつて温なる気味ありて且気息を漏し死をまぬがるゝ事あり。雪中を歩する人陰嚢を綿にてつゝむ事をす、しかせざれば陰嚢まづ凍て精気尽る也。又凍死たるを湯火をもつて温れば助る事あれども武火熱湯を用ふべからず。命たすかりたるのち春暖にいたれば腫病となり良医も治しがたし。凍死たるはまづ塩を熬て布に包しば〱臍をあたゝめ稿火の弱をもつて次第に温べし、助りたるのち病を発せず。人肌にて温むはもつともよし手足の凍たるも強き湯火にてあたゝむれば、陽気いたれば灼傷のごとく腫、つひに腐て指をおとす、百薬功なし。これ我が見たる所を記して人に示す。人の凍死するも手足の亀手も陰毒の血脉を塞ぐの也。俄に湯火の熱を以て温れば人精の気血をたすけ、陰毒一旦に解るといへども全く去ず、陰は陽に勝ざるを以て陽気至ば陰毒肉に暈て腐也。寒中雨雪に歩行て冷たる人急に湯火を用ふべからず。己が人熱の温ならしむるをまつて用ふべし、長生の一術なり。
○　雪中の火
　世に越後の七不思議と称する其一ツ蒲原郡妙法寺村の農家炉中の隅石臼の孔より出る火、人皆奇也として口碑につたへ諸書に散見す。此火寛文年中始て出しと旧記に見えたれば、三百余年の今において絶る事なきは奇中の奇也。天奇を出す事一ならず、おなじ国の魚沼郡に又一ツの奇火を出せり。天公の機状かの妙法寺村の火とおなじ事也。彼は人の知る所、是は他国の人のしらざる所なればこゝに記て話柄とす＊３。
　越後の国魚沼郡五日町といふ駅に近き西の方に低き山あり、山の裾に小溝在、天明年中二月の頃、そのほとりに童どもあつまりてさま〲の戯をなして遊倦、木の枝をあつめ火を焚てあたりをりしに、其所よりすこしはなれて別に火燄々と燃あがりければ、児曹大におそれ皆々四方に逃散けり。その中に一人の童家にかへり事の仔細を親に語けるに、此親心ある者にてその所にいたり火の形状を見るに、いまだ消ざる雪中に手を入るべきほどの孔をなし孔より三四寸の上に火燃る。熟覧おもへらく、これ正しく妙法寺村の火のるゐなるべしと火口に石を入れてこれを消し家にかへりて人に語ず、雪きえてのち再その所にいたりて見るに火のもえたるはかの小溝の岸也。火燧をもて発燭に火を点じ試に池中に投いれしに、池中火を出せし事庭燎のごとし。水上に火燃るは妙法寺村の火よりも奇也として駅中の人々来りてこれを視る。そのゝち銭に才人かの池のほとりに混屋をつくり、筧を以て水をとるがごとくして地中の火を引き湯槽の竈に燃し、又燈火にも代る。池中の水を湯に燂し価を以て浴せしむ。此湯硫黄の気ありて能疥癬の類を治し、一時流行して人群をなせり。
○按に、地中に水脉と火脉とあり、地は大陰なるゆゑ水脉は九分火脉は一分なり。かるがゆゑに火脉は甚稀也。地中の火脉凝結ところかならず気息を出す事人の気息のごとく、肉眼には見えず。火脉の気息に人間日用の陽火を加ればもえて焔をなす、これを陰火といひ寒火といふ。寒火を引に筧の筒の焦ざるは、火脉の気いまだ陽火をうけて火とならざる気息ばかりなるゆゑ也。陽火をうくれば筒の口より一二寸の上に火をなす、こゝを以て火脉の気息の燃るを知るべし。妙法寺村の火も是也。是余が発明にあらず、古書に拠て考得たる所也。
○　破目山＊４
　魚沼郡清水村の奥に山あり、高さ一里あまり、周囲も一里あまり也。山中すべて大小の破隙あるを以て山の名とす。山半は老樹条をつらね半より上は岩石畳々として其形竜躍虎怒がごとく奇々怪々言べからず。麓の左右に渓川あり合して滝をなす、絶景又言べからず。旱の時此滝壺に雩すればかならず験あり。一年四月の半雪の消たる頃清水村の農夫ら二十人あまり集り、熊を狩んとて此山にのぼり、かの破隙の窟をなしたる所かならず熊の住処ならんと、例の番椒烟草の茎を薪に交、窟にのぞんで焚たてしに熊はさらに出ず、窟の深ゆゑに烟の奥に至らざるならんと次日は薪を増し山も焼よと焚けるに、熊はいでずして一山の破隙こゝかしこより烟をいだして雲の起が如くなりければ、奇異のおもひをなし熊を狩ずして空しく立かへりしと清水村の農夫が語りぬ。おもふに此山半より上は岩を骨として肉の土薄く地脉気を通じて破隙をなすにや、天地妙々の奇工思量べからず。
○　雪頽
　山より雪の崩頽を里言になだれといふ、又なでともいふ。按になだれは撫下る也、るをれといふは活用ことばなり、山にもいふ也。こゝには雪頽の字を借て用ふ。字書に頽は暴風ともあればよく叶へるにや。さて雪頽は雪吹に双て雪国の難義とす。高山の雪は里よりも深く、凍るも又里よりは甚し。我国東南の山々里にちかきも雪一丈四五尺なるは浅しとす。此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月のころにいたれば陽気地中より蒸て解んとする時地気と天気との為に破て響をなす。一片破て片々破る、其ひゞき大木を折がごとし。これ雪頽んとするの萌也。山の地勢と日の照すとによりてなだるゝ処となだれざる処あり、なだるゝはかならず二月にあり。里人はその時をしり、処をしり、萌を知るゆゑに、なだれのために撃死するもの稀也。しかれども天の気候不意にして一定ならざれば、雪頽の下に身を粉に砕もあり。雪頽の形勢いかんとなれば、なだれんとする雪の凍、その大なるは十間以上小なるも九尺五尺にあまる、大小数百千悉く方をなして削りたてたるごとくかならず方をなす事下に弁ずなるもの幾千丈の山の上より一度に崩頽る、その響百千の雷をなし大木を折大石を倒す。此時はかならず暴風力をそへて粉に砕たる沙礫のごとき雪を飛せ、白日も暗夜の如くその慄しき事筆帋に尽しがたし。此雪頽に命を捨しし人、命を拾し人、我が見聞したるを次の巻に記して暖国の人の話柄とす。
或人問曰、雪の形六出なるは前に弁ありて詳也。雪頽は雪の塊ならん、砕たる形雪の六出なる本形をうしなひて方形はいかん。答て曰、地気天に変格して雪となるゆゑ天の円と地の方なるとを併合て六出をなす。六出は円形の裏也。雪天陽を離て降下り地に皈ば天陽の円き象うせて地陰の方なる本形に象る、ゆゑに雪頽は千も万も圭角也。このなだれ解るはじめは角々円くなる、これ陽火の日にてらさるゝゆゑ天の円による也。陰中に陽を包み、陽中に陰を抱は天地定理中の定格也。老子経第四十二章に曰、万物負陰而抱陽沖気以為和といへり。此理を以てする時はお内義さまいつもお内義さまでは陰中に陽を抱ずして天理に叶ず、をり〱は夫に代りて理屈をいはざれば家内治ず、さればとて理屈に過牝鳥旦をつくれば、これも又家内の陰陽前後して天理に違ふゆゑ家の亡るもと也。万物の天理誣べからざる事かくのごとしといひければ、問客唯々として去りぬ。雪頽悉く方形のみにもあらざれども十にして七八は方形をうしなはず、故に此説を下せり。雪頽の図多く方形に从ふものは、其七八をとりて模様を為すのみ。
北越雪譜初編巻之上　終
北越雪譜初編　巻之中
越後塩沢　　鈴木牧之　　編撰
江戸　　　　京山人百樹　刪定
○　雪頽人に災す
　我住魚沼郡の内にて雪頽の為に非命の死をなしたる事、其村の人のはなしをこゝに記す。しかれども人の不祥なれば人名を詳にせず。
○こゝに何村といふ所に家内の上下十人あまりの農人あり、主人は五十歳ばかり妻は四十にたらず、世息は二十あまり娘は十八と十五也。いづれも孝子の聞ありけり。一年二月のはじめ主人は朝より用ある所へ出行しが、其日も已に申の頃なれど皈りきたらず。さのみ間をとるべき用にもあらざりければ、家内不審におもひ忰家僕をつれて其家にいたり父が事をたづねしに、こゝへはきたらずといふ。しからばこゝならんかしこならんなど家僕とはかりて尋求しかど更に音問をきかず、日もはや暮なんとすれば空しく家に皈りしか〱のよし母に語りければ、こは心得ぬ事也とて心あたりの処こゝかしこへ人を走らせて尋させけるにその在家さらにしれず。其夜四更の頃にいたれども主人は皈らず。此事近隣に聞えて人々集り種々に評議して居たるをりしも一老夫来りていふやう、あるじの見え給はぬとや、我心あたりの事あるゆゑしらせ申さんとて来れりといふ。すはこゝろあたりときゝて主人の妻大によろこび、子どもらもとも〲に言葉をそろへてまづ礼をのべ、その仔細をたづねければ、老夫いふやう、それがし今朝西山の嶺半にさしかゝらんとせし時、こゝのあるじに行逢、何方へとたづねければ稲倉村へ行とて行過給ひぬ。我は宿へ皈り足にて遙に行過たる頃例の雪頽の音をきゝて、これかならずかの山ならんと嶺を无事に通りしをよろこびしにつけ、こゝのあるじはふもとを无難に行過給ひしや、万一なだれに逢はし給はざりしかと案じつゝ宿へかへりぬ。今に皈り給はぬはもしやなだれにといひて眉を皺めければ、親子は心あたりときゝてたのみし事も案にたがひて、顔見あはせ泪さしぐむばかり也。老夫はこれを見てそこ〱に立かへりぬ。集居たる若人どもこれをきゝて、さらばなだれの処にいたりてたづねみん炬こしらへよなど立騒ぎければ、ひとりの老人がいふ、いな〱まづまち候へ、遠くたづねに行し者もいまだかへらず、今にもその人とおなじくあるじの皈りたまはんもはかりがたし、雪頽にうたれ給ふやうなる不覚人にはあらざるを、かの老奴めがいらざることをいひて親子たちの心を苦たりといふに、親子はこれに励されて心慰酒肴をいだして人々にすゝむ。これを見て皆打ゑみつゝ炉辺に座列て酒酌かはし、やゝ時うつりて遠く走たる者ども立かへりしに、行方は猶しれざりけり。
○かくて夜も明ければ、村の者どもはさら也聞しほどの人々此家に群り来り、此上はとて手に〱木鋤を持家内の人々も後にしたがひてかの老夫がいひつるなだれの処に至りけり。さて雪頽を見るにさのみにはあらぬすこしのなだれなれば、道を塞たる事二十間余り雪の土手をなせり。よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇立たるなかに、かの老人よし〱所為こそあれとて、若き者どもをつれ近き村にいたりて雞をかりあつめ、雪頽の上にはなち餌をあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の雞羽たゝきして時ならぬに為晨ければ余のにはとりもこゝにあつまりて声をあはせけり。こは水中の死骸をもとむる術なるを雪に用ひしは応変の才也しと、のち〱までも人々いひあへり。老人衆にむかひ、あるじはかならず此下に在るべし、いざ掘れほらんとて大勢一度に立かゝりて雪頽を砕きなどして掘けるほどに、大なる穴をなして六七尺もほり入れしが目に見ゆるものさらになし。猶ちからを尽してほりけるに真白なる雪のなかに血を染たる雪にほりあて、すはやとて猶ほり入れしに片腕ちぎれて首なき死骸をほりいだし、やがて腕はいでたれども首はいでず。こはいかにとて広く穴にしたるなかをあちこちほりもとめてやう〱首もいでたり、雪中にありしゆゑ面生るがごとく也。さいぜんよりこゝにありつる妻子らこれを見るより妻は夫が首を抱へ、子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭けり、人々もこのあはれさを見て袖をぬらさぬはなかりけり。かくてもあられねば妻は着たる羽織に夫の首をつゝみてかゝへ、世息は布子を脱て父の死骸に腕をそへて泪ながらにつゝみ脊負んとする時、さいぜん走りたる者ども戸板むしろなど担げる用意をなしきたり、妻がもちたる首をもなきからにそへてかたげければ、人々前後につきそひ、つま子らは哭々あとにつきて皈りけるとぞ。此ものがたりは牧之が若かりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。これのみならずなだれに命をうしなひし人猶多かり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。其怖さいはんかたなし。かの死骸の頭と腕の断離たるは、なだれにうたれて磨断れたる也。
○　寺の雪頽
　なだれは敢て山にもかぎらず、形状峯をなしたる処は時としてなだるゝ事あり。文化のはじめ思川村天昌寺の住職執中和尚は牧之が伯父也。仲冬のすゑ此人居間の二階にて書案によりて物を書てをられしが、窓の庇に下りたる垂氷の五六尺なるが明りに障りて机のほとり暗きゆゑ、家の檐にいで家僕が雪をほらんとてうちおきたる木鋤をとり、かのつらゝを打をらんとて一打うちけるに、此ひゞきにやありけん里言につらゝをかなこほりといふ、たるひとは古言にもいふ本堂に積たる雪の片屋根磊々となだれおち、土蔵のほとりに清水がゝりの池ありしに、和尚なだれに押落され池に入るべきを、なだれの勢ひに身は手鞠のごとく池をもはねこえて掘揚たる雪に半身を埋められ、あとさけびたるこゑに庫裏の雪をほりゐたるしもべら馳きたり、持たる木鋤にて和尚を掘いだしければ、和尚大に笑ひ身うちを見るに聊も疵うけず、耳に掛たる眼鏡さへつゝがなく不思議の命をたすかり給ひぬ。此時七十余の老僧也しが、前にいへる何村の人の不幸に比れば万死に一生をえられたる天幸といひつべし。齢も八十余まで无病にして文政のすゑに遷化せられき。平日余に示していはれしは、我雪頽に撞れしとき筆を採りて居たりしは、尊き仏経なりしゆゑたゞにやはとて一字毎に念仏申て書居れり、しかるに雪頽に死すべかりしを不思議に命助かりしは一字念仏の功徳にてやありけん。されば人は常に神仏を信心して悪事災難を免れん事をいのるべし。神仏を信ずる心の中より悪心はいでぬもの也。悪心の无が災難をのがるゝ第一也とをしへられき。今も猶耳に残れり。人智を尽してのちはからざる大難にあふは因果のしからしむる処ならんか。人にははかりしりがたし。人家の雪頽にも家を潰せし事人の死たるなどあまた見聞したれども、さのみはとてしるさず。
○　玉山翁が雪の図
　さきのとし玉山翁が梓行せられし軍物語の画本の中に、越後の雪中にたゝかひしといふ図あり。文には深雪とありて、しかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵どもが挙止を見るに雪は浅く見ゆ。越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや、しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也、したがふて画者も誤れる也、雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也越後雪中の真景には甚しくたがへり。しかしながら画には虚もまじへざればそのさまあしきもあるべけれど、あまりにたがひたれば玉山の玉に瑾あらんも惜ければ、かねて書通の交りにまかせて牧之が拙き筆にて雪の真景種々写し、猶常に見ざる真景もがなと春の半わざ〱三国嶺にちかき法師嶺のふもとに在る温泉に旅りそのあたりの雪を見つるに、高き峯よりおろしたるなだれなどは、五七間ほどなる四角或は三角なる雪の長さは二三十間もあらんとおもふが谷によこたはりたる上に、なほ幾つとなく大小かさなりたるなど、雪国にうまれたる目にさへその奇観ことばには尽しがたし。これらの真景をも其座にうつしとりたるを添て贈りしに、玉山翁が返書に、北越の雪我が机上にふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらの図をなほ多くあつめ文を添させ私筆にて例の絵本となし候はゞ、其書雪の霏々たるがごとく諸国に降さん事我が筆下に在りといはれたる書翰、今猶牧之が書笈にをさめあり。此書ならずして黄なる泉に玉山を沈しは惜べし〱。
○　越後縮ちゞみの文字普通の俗用にしたがふ又しゞみと訓べきをもちゞみと俗にならふ
　縮は越後の名産にして普く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれど、さにあらず、我住魚沼郡一郡にかぎれる産物也。他所に出るもあれど僅にして、其品魚沼には比しがたし。そも〱縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布とのみいへり。布は紵にて織る物の総名なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言ものこれり。東鑑を案るに、建久三壬子の年勅使皈洛の時、鎌倉殿より餞別の事をいへる条に越布千端とあり。猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索ず。後のものには室町殿の営中の事どもを記録せられたる伊勢家の書には越後布といふ事あまた見えたり。さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。愚案に、むかしの越後布は布の上品なる物なりしを、後々次第に工を添て糸に縷をつよくかけて汗を凌ぐ為に縐せ織たるならん。ゆゑに縐布といひたるを、はぶきてちゞみとのみいひつらん歟。かくて年歴るほどに猶工になりて、地を美くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。我が稚かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦をおる機作にもをさ〱劣ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞も飛白も甚上手になりて種々の奇工をいだせり。機織婦人たちの怜悧なりたる故ぞかし。
○　縮の種類
　魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりて出す品にさだめあり。こは自らむかしより其品にのみ熟練して他の品に移らざるゆゑ也。其所その品を産す事左のごとし。
▲白縮は堀の内町在の村々これを堀の内組といふ又浦佐組小出嶋組の村々　▲模様るゐ或は飛白いはゆる藍錆といふは塩沢組の村々　▲藍綅は六日町組の村々　▲紅桔梗縞のるゐは小千谷組の村々　▲浅黄繊のるゐは十日町組の村々也。又紺の弁慶縞は高柳郷にかぎれり。右いづれも魚沼一郡の村々也。此余ちゞみを出す所二三ヶ村あれど、専らにせざればしばらく舎てしるさず。縮は右村里の婦女らが雪中に籠り居る間の手業也。およそは来年売べきちゞみをことしの十月より糸をうみはじめて次の年二月なかばに晒しをはる。白縮はうち見たる所はおりやすきやうなれば、たゞ人は文あるものほどにはおもはざれども、手練はよく見ゆるもの也。村々の婦女たちがちゞみに丹精を尽す事なか〱小冊には尽しがたし。其あらましを下に記せり。
○　紵
　縮に用ふる紵は、奥刕会津出羽最上の産を用ふ。白縮はもつはら会津を用ふ。なかんづく影紵といふもの極品也、また米沢の撰紵と称するも上品也。越後の紵商人かの国々にいたりて紵をもとめて国に売る、紵を此国にてもそといふは古言也。麻を古言にそといひしは綜麻のるゐ也。麻も紵も字義はおなじく布に織べき料の糸をいふ也。紵を苧に作るは俗也と字書に見えたり。
○　紵績
　余一年江戸に旅宿せし頃、或人いふやう、縮に用ふる紵を績にはその処の婦人誘ひあはせて一家にあつまり、その家にて用ふる紵を績たて此人々たがひにその家をめぐりて績と聞しがいかにといひき。いかなる人ぞかゝる空言をばいひふらしけん。さりながら魚沼一郡も広き事ゆゑ、右やうにする処もあるやらん。たとひありとも、こは下品のちゞみに用ふる紵の事ならん。下品の縮の事は姑舎て論ぜず。中品以上に用ふるを績にはうむ所の座をさだめおき、体を正しくなし呼吸につれて手を動せて為作をなす。定座に居らず、仮に居て其為作をなせば、おのづから心鎮ずして糸に太細いできて用にたちがたし。常並の人の紵を績には唾液を用ふれども、ちゞみの紵績には茶碗やうの物に水をたくはひてこれをもちふ。事毎に盥ひ座を清めてこれをなすなり。
○　縷綸
　糸に作るにも座を定め体を囲位る事績におなじ。縷綸その道具その手術その次第の順、その名に呼物許多種々あり、繁細の事を詳にせんはくだ〱しければ言ず。そも〱うみはじむるよりおりをはるまでの手作すべて雪中に在、上品に用ふる処の毛よりも細き糸を綴兆舒疾してあつかふ事、雪中に籠り居る天然の湿気を得ざれば為し難し。湿気を失へば糸折る事あり。をれしところ力よわり断る事あり、是故に上品の糸をあつかふ所は強き火気を近付ず、時により織るに後て二月の半にいたり、暖気を得て雪中の湿気薄き時は大なる鉢やうの物に雪を盛て機の前に置、その湿気をかりて織る事もあり。これらの事に付て熟思に、絹を織には蚕の糸ゆゑ阳熱を好、布を織には麻の糸ゆゑ阴冷を好む。さて絹は寒に用ひて温ならしめ、布は暑に用て冷かならしむ。是は天然に阴阳の気運に属する所ならんか。件の如く雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に曬す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし。蓋し薄雪の地に布の名産あるよしは糸の作りによる事也。越後縮に比べて知るべし。
○　織婦
　凡織物を専業とする所にては、織人を抱へおきて織するを利とす。縮においては別に无き一国の名産なれども、織婦を抱へおきておらする家なし。これいかんとなれば縮を一端になすまでに人の手を労する事かぞへ尽しがたし。なか〱手間に賃銭を当て算量事にはあらず、雪中に籠居婦女等が手を空くせざるのみの活業也。縮の糸四十緌を一升といふ。上々のちゞみは経糸二十升より二十三升にも至る。但し筬には二すぢづゝ通すゆゑ、一升の糸は八十緌也。布幅四方に緯糸もこれに随ふて併ざれば地をなさず。よこ糸は猶多からんか、たしかにはさとさずされば僅に一尺あまりを織るにも九百二十度手を動す。こゝを以て一端を二丈七尺としても二万四千四百八十四度＊５手をはたらかせざれば端をなさず、是は其凡をいふのみ。ちゞみはくぢらざし三丈を定尺とす績はじむるより織おろし曬しあげて端になすまでの苦心労繁おもひはかるべし。ちゞみのみにはかぎらず織物はすべて然ならんが、目前に我が視ところなればいふ也。かゝる縮を僅の価にて自在に着用するは俗にいふ安いもの也。縮をおる処のものは娶をえらぶにも縮の伎を第一とし、容儀は次とす。このゆゑに親たるものは娘の幼より此伎を手習するを第一とす。十二三歳より太布をおりならはす、およそ十五六より二十四五歳までの女気力盛なる頃にあらざれば上品の縮は機工を好せず、老に臨では綺面に光沢なくして品質くだりて見ゆ。貴重の尊用はさら也、極品の誂物は其品に能熟したる上手をえらび、何方の誰々と指にをらるゝゆゑ、そのかずに入らばやとて各々伎を励む事也。かゝる辛苦は僅の価の為に他人にする辛苦也。唐の秦韜玉が村女の詩に、最恨むは年々金線を圧て他人の為に嫁の衣装を作るといひしは宜なる哉々々。
○　織婦の発狂
　ひとゝせある村の娘、はじめて上々のちゞみをあつらへられしゆゑ大によろこび、金匁を論ぜず、ことさらに手際をみせて名をとらばやとて、績はじめより人の手をからず、丹精の日数を歴て見事に織おろしたるを、さらしやより母が持きたりしときゝて、娘ははやく見たく物をしかけたるをもうちおきてひらき見れば、いかにしてか匁ほどなる煤いろの暈あるをみて、母さまいかにせんかなしやとて縮を顔にあてゝ哭倒れけるが、これより発狂となり、さま〲の浪言をのゝしりて家内を狂ひはしるを見て、両親娘が丹精したる心の内をおもひやりて哭になきけり。見る人々もあはれがりてみな袖をぬらしけるとぞ。友人なにがしがものがたりせり。
○　御機屋
　貴重尊用の縮をおるには、家の辺りにつもりし雪をもその心して掘すて、住居の内にてなるたけ烟の入らぬ明りもよき一間をよく〱清め、あたらしき筵をしきならべ四方に注連をひきわたし、その中央に機を建る、是を御機屋と唱へて神の在がごとく畏尊ひ、織人の外他人を入れず、織女は別火を食し、御機にかゝる時は衣服をあらため、塩垢離をとり、盥漱ぎこと〲く身を清む、日毎にかくのごとし。紅潮をいむ事は勿論也。他の娘らなど今日は誰どのゝ御機屋を拝にまゐるなどやうにいふ也。至極上手の女にあらざれば此おはたやを建る事なければ、他の婦女らがこれを羨事、比諭ば階下にありて昇殿の位をうらやむがごとし。
○　御機屋の霊威
　神は敬ふによりて威をますとは宜なる哉。かりそめの物も守りとして敬ひ信ずれば霊ある事空しからず、人のはきすてたる草鞋だに衆人の信ぜしによりて、のち〱は草鞋天王とて祭りし事、五雑組に見えたり。ましてや神々しきを敬ば霊威ある冥々の天道は人の知を以てはかりしるべからず。こゝに或村の娘、例の御はたやにありて心を澄し、おはたをおりて居たりしに、傍の窓をほと〱と音なふものあり、心にそれとおぼへあれば立よりてひらき見るに、はたして心を通す男也。をりふし人目の関もなかりしかば、心うれしくおはたやをいでゝ家の後にいたり、窓のもとに立たる男を将て木小屋に入ぬ。やがて娘の母皈り来りおはたやに娘のをらぬを見ていぶかり、しきりにその名をよびければ、かの木小屋にきゝつけて遽驚き男は逃去り、娘は心顛倒して身を穢たるも打忘れおはたやにかけ入り、そのまゝ御機によりて織んとしけるに、倏急仰向に倒れ落、血を吐て絶入けり。母此状態を見て大におどろきはしりよりて助け起し、まづ御はたやよりいだしさま〲にいたはりしが、気息あるのみにて死したるがごとし。父は同村のなにがしが家に在しをよびかへし、医をまねきて薬など与へしがそのしるしもなく、両親はさら也、あたりよりはせよりしものどもゝ娘の側に在てなみださしぐみつゝ手を束て死を俟のみ也。しかるにひとりの男来り、さも恥らふさまにて人の後に座し欲言としていはず、頭を低て泪をおとしけり、人々これをみれば同村の某が次男也けり。此男やがて膝をすゝめ娘の母に対ひ声をひそめていふやう、今はなにをかつゝみ申さん、我は娘御と二世の約束をしたるもの也。さきのほど人なきを見てむすめごを誘ひいだししに、おん身のかへり給ひしこゑにおそれわれは逃さりしが、むすめごがかゝる災ありしと聞てつら〱思ふに、穢したる身をわすれて畏きおん機にかゝり給ひたる御罰ならん。これもと我なしたる罪なれば、人はしらずとも余処目に見んはそらおそろしく、命をかけて契りたることばにもたがへりとおもふから、むすめごの命に代りて神に御罰を詫候はん。さるにても此まゝにてむすめごが死給はゞ我が命をめされ候へ、こゝにをられ候人々こそよき証人なれといひつゝ、赤裸になりて髪をもさばき井のもとにはしり寄したゝかに水を浴、雪の上に蹲居てなにやらん唱へていのりけり。時しも寒気肌を貫くをりふしなれば、凍も死すべきありさま也。ふたおやはさら也人々もはじめてそれと知り、実にもとてみな〱おなじく水を浴ていのりけり。神明かの男が実心を憐み、人々のいのりをも納受まし〱けん、かの娘目の覚たるがごとくおきあがり母をよびければ、衆奇異のおもひをなし、むすめの側にあつまりていかに〱といふ。娘はかゝるやうを見てこはなに事ぞといふ。母はうれしくしか〱のよしいひければ、むすめは御機によりしとは覚えしがのちはしらずといふ。母はあまりのうれしさにかの男にもあはせんとせしに、いつか立さりけん見えずなりぬ。かくて娘四五日はなやみしがやがて常並の身になりけり。歳も十七なればかねて聟をと思ひをりたるをりからなれば、かのしのび男が実心に愛て早速媒の橋をわたし、姻礼もめでたくとゝのひて程なく男子をまうけけり。其家今猶栄ゆ。神の御罰が夫婦の縁となりしも奇遇といふべし。こは我が幼かりし時の事也き、筆のついでに記して御機屋の霊威ある事をわかふどにしらしむ。あなかしこ。畏べし、慎むべし。
○　縮を曬す
　曬屋とてこれをのみ業とす、又おりたる家にてさらすもあれど稀なり。さらしやはその家の辺又程よき所を見立、そこに仮小屋を造り物をも置、また休息の処とす。晒人は男女ともうちまじり身を清める事織女の如くす。さらすは正月より二月中の為業也。此頃はいまだ田も圃も平一面の雪の上なれば、たはたの上をさらし場とするもあり、日の内にさらし場を踏へしたる処あれば、手頃の板に柄をつけたる物にて雪の上を平かにならしおく也。かくせざれば夜の間に凍つきてふみへしたる処そのまゝ岩のごとくになるゆゑ也。晒場には一点の塵もあらせざれば、白砂の塩浜のごとし。さて白ちゞみはおりおろしたるまゝをさらす、余のちゞみは糸につくりたるを拐にかけてさらす。その拐とは細き丸竹を三四尺ほどの弓になしてその弦に糸をかけ、拐ながら竿にかけわたしてさらす也。白ちゞみは平地の雪の上にもさらし、又高さ三尺あまり長さは布ほどになし、横幅は勝手にまかせ土手のやうに雪にてつくり、その上にちゞみをのばしならべてさらすもあり、かくせざれば狗など蹈越てちゞみをけがすゆゑ也。こゝに拐をならべてさらしもする也。みなその場所の便利にしたがふゆゑ一定ならず。さて晒しやうは縮にもあれ糸にもあれ、一夜灰汁に浸しおき、明の朝幾度も水に洗ひ絞りあげてまへのごとくさらす也。　貴重尊用の縮をさらすはこれらとはおなじくせず、別にさらし場をもうけ、よろづに心を用ひてさらす事御機をおるに同じ。我国にては地中の水気雪のために発動ざるにや、雪中には雨まれ也、春はことさら也。それゆゑ件のごとく日にさらす晴のつゞく事あり。さて灰汁にひたしてはさらす事、毎日おなじ事をなして幾日を歴て白々をなしたるのちさらしをはる。やがてさらしをはらんとする白ちゞみをさらすをりから、朝日のあか〱と昇て玉屑平上に列たる水晶白布に紅映したる景色、ものにたとへがたし。かゝる光景は雪にまれなる暖国の風雅人に見せたくぞおもはるゝ。凡ちゞみを晒には種々の所為あれども、こゝには其大略をしるすのみ。
○　縮の市
　市場とてちゞみの市あるは、まへにいへる堀の内十日町小千谷塩沢の四ヶ所也。初市を里言にすだれあきといふ。雪がこひの簾の明をいふ也、四月のはじめに有。堀の内よりはじむ、次に小千谷、次に十日町、次に塩沢、いづれも三日づゝ間を置てあり。年によりて一定ならず右四ヶ所の外には市場なし。十日町には三都呉服問屋の定宿ありて縮をこゝに買。市日には遠近の村々より男女をいはず所持のちゞみに名所を記したる紙簽をつけて市場に持より、その品を買人に見せて売買の直段定れば鑑符をわたし、その日市はてゝ金に換ふ。およそ半年あまり縮の事に辛苦したるは此初市の為なれば、縮売はさら也、こゝに群るもの人の濤をうたせ、足々を踏れ、肩々を磨る。万の品々もこゝに店をかまへ物を売る。遠く来りたるものは宿をもとむるもあれば、家毎に人つどひ、香具師の看物薬売の弁舌、人の足をとゞめて錐を立べき所もあらぬやう也。此初市の日は繁花の地の喿饒にもをさ〱劣ず。右にいふ四度の市をはりてのちも在々より毎日問屋へ来りてちゞみをうる、又ちゞみ仲買のもの在々にいたりてもかふ也、六月十五日迄を夏ちゞみといひ十七日より翌年の初市までを冬ちゞみといふ縮の精疎の位を一番二番といふ。価の高下およそは定あれども、その年々によりてすこしづゝのたがひあり。市の日にその相場年の気運につれて自然さだまる。相場よければ三ばんのちゞみ二ばんにのぼり、二ばんは一ばんに位す。前にもいへるごとくちゞみは手間賃を論ぜざるものゆゑ、誰がおりたるちゞみは初市に何程に売たり、よほど手があがりたりなどいはるゝを誉とし、或はその伎によりて娶にもらはんといはるゝ娘もあれば、利を次にして名を争ふ。このゆゑに市にちゞみを持ゆくは兵士の戦場にむかふがごとし。さてちゞみの相場は大やうは穀相場におなじうして事は前後す。年凶すれば穀は上り縮は下る。年豊なれば縮は上り穀は下る。豊凶の万物に係る事此一を以て知るべし。されば万民豊年をいのらざらめや。
○　ほふら
　我塩沢の方言にほふらといふは雪頽に似て非なるもの也、十二月の前後にあるもの也。高山の雪深く積りて凍たる上へ猶雪ふかく降り重り、時の気運によりていまだこほらで沫々しきが、山の頂の大木につもりたる雪、風などの為に一塊り枝よりおちしが山の聳に随ひて転び下り、まろびながら雪を丸て次第に大をなし、幾万斤の重きをなしたるもの幾丈の大石を転し走がごとく、これが為にあわ〱しき雪おしせかれて雪の洪波をなして大木を根こぎになし、大石をもおしおとし人家をもおし潰す事しば〱あり。此時はかならず暴風雪を吹きちらし、凍雲空に布て白昼も立地に暗夜となる事雪頽におなじ。なだれは前にもいへるごとく、すこしはそのしるしもあればそれとしるめれど、此ほふらはおとづれもなくて落下るゆゑ、不意をうたれて逃んとすれば軟なる雪深くて走りがたく、十人にして一人助るは稀也。幾十丈の雪人力を以て掘ることならざれば、三四月にいたり雪消てのち死骸を見る事あり。ほふらを処によりて、○をほて○わや○あわ○ははたりともいふ。山家にてはなだれほふらを避んため其災なき地理をはかりて家を作る。ほふらに村などつぶれたる奇談としごろ聞たるがあまたあれど、うるさければしるさず。
○　雪中花水祝ひ
　魚沼郡の内宇賀地の郷堀の内の鎮守宇賀地の神社は本社八幡宮也、上古より立せ給ふとぞ。縁起文多ければこゝに省く。霊験あらたなる事は普く世にしる処なり。神主宮氏の家に貞和文明の頃の記録今に存せり。当主は文雅を好、吟詠にも富り、雅名を正樹といふ。余も同好を以て交を修む。幣下と唱る社家も諸方にあまたある大社也。此神の氏子、堀の内にて娶をむかへ又は壻をとりたるにも、神勅とて壻に水を賜る、これを花水祝ひといふ。毎年正月十五日の神㕝也。新婚ありつる家毎に神使を給はるゆゑ、門おほき時は早朝よりして黄昏にいたる時もあり。友人嘿斎翁曰、堀の内の人、宮治兵衛花水祝ひといふ事は淡路宮瑞井の井中に多遅花の落たる祥ありし事の日本紀に見えたるに濫觴して、花水の号こゝに起立にやといはれき。されば新婚の壻に神水を灌事当社の神秘とぞ。さて当日新婚ありつる家に、神使たるべき人は百姓の内旧家門地の輩神使を務べき家定めあり、その中にて服忌はさら也、寡なる者、家内に病人あるもの、縁類に不祥ありしもの、皆除ていさゝかも家内に故障なく平安無事なる者を撰び、神㕝の前の朝神主沐浴斎戒し斎服をつけて本社に昇り、えらびたる人々の名をしるして御鬮にあげ、神慮に任て神使とす。神使に当りたる人潔斎して役を勤む。是を大夫といふ。嘿斎翁曰、これすなはち浄行神人也といへり、大夫とは俚言の称也さて当日正月十五日神使本社を出るその行装は、先挾箱二本道具台笠立傘弓二張薙刀神使侍烏帽子素襖、次に太刀持長柄持傘さしかくる供侍二人草履取跡鎗一本、これらの品々神庫にあるものを用ふ次に氏子の人々大勢麻上下にて随ふ。かゝる行装にて新婚の家にいたるゆゑ、その以前雪中の道を作り、雪にて山みちのやうなる所は雪を石壇のやうにつくり、或は雪にて桟じきめく処を作りて見物のたよりとす。これらにもあまたの人夫を費す事也。さてその家にては家内をよく〱清め、わきて其日正殿の間ととなふる一間は塩垢離にきよめこゝを神使の席とし、綵筵を布ならべ上座に毛氈をしき、上段の間に表り刀掛をおく。次の間には親族はさら也、したしき人々より祝義のおくり物をならべおく。嶋台などに賀咏をそへたるなどおのがさま〲也。門には幕をうち、よきほどの処をしぼりあげてこゝに沓脱の壇をおき、玄関式台に准ふ。家内のものいづれも衣服をあらため神使をまつ、神使いたるときけば、親あるものは親子麻上下にて地上に出て神使をむかふ。神使のざうりとりさきにはせきたりて跋扈かり、大声にて正一位三社宮使者と大呼。神使を見て亭主地上に平伏し、神使を引てかの正殿に座さしむ、行列は家の左右にありて隊をなす。さて神使へ烟盆茶吸物膳部をいだし、数献をすゝむ。あらためて壻に盃を与ふ、三方かはらけ肴をはさむ、献酬七献をかぎる、盃ごとに祝義の小謡をうたふ。事終りて神使去る。他に新姻ありし家あれば又到る式前のごとし。此神使はかの花水を賜ふ事を神より氏子へ告給ふの使也。神使社頭へ皈る時里正の家に立より酒肴のまうけあり神使社内へ皈りしを見て踊りの行列を繰いだす。一番に傘矛錦のみづひきをかけ施し端に鈴をつけ、又裁工の物さま〲なるをさげる、傘矛の上には諫鼓を飾る。これを持もの二人紫ちりめんにて頬をつゝみてむすびたれ、おなじ紅絞などを片襷襅にかくる。嘿斎曰、すべて祭礼に用ふる傘矛といへる物は古へ羽葆葢の字を訓り、所謂繖にしてきぬかさとよむ神輿鳳輦を覆ひ奉るべき錦蓋也といへり。猶説ありしが長ければ省く。さて二ばんに仮面をあてゝ鈿女に扮たる者一人、箒のさきに紙に女阴をゑがきたるをつけてかたぐ。次にこれも仮面にて猿田彦に扮たるもの一人、麻にて作りたる幌帽やうの物を冠り、手杵のさきを赤くなして男根に表示たるをかたぐ。三ばんに法服を美々しくかざりたる山伏螺をふく。四ばんに小児の警固おもひ〱身をかざりて随ふ。次に大人の警固麻上下杖を持て非常をいましむ。五ばんに踊の者大勢花やかなる浴衣に正月なれど人勢に熱喿てゆかた也色ある細帯をなし群行、里言にこれをごうりんしやうといふ、こは降臨象なるべし。皇孫日向の高千穂の峯に天降り給ひしに象るの心ならんと嘿翁いへり。猶説ありしがはぶく。さて壻の方にては此をどり場をもわがいへのまへにまうけおき、あたらしき筵をしき、あたらしき手桶二ツに水をくみいれ、松葉と昆布とを水引にてむすびつけ、むしろの上におき銚子盃をそへおく。水取とて壻に水をあぶする者二人、副取といふもの二人、おの〱たすきひきゆひりゝしげにいでたつ。むこはゆかた細帯にてをどりのきたるをまつ。をどり家にちかづけば行列ひらきて、踊人かのむしろのめぐりにむらがりてうたひつゝをどる。その唱哥に　〽めでた〱の若松さまは枝も栄ゆる葉も茂る　〽さんやめでたい花水さんやせなにあびせんわがせなに」をりかへし〱しやうがをかえてうたひをどる。事慣たる踊のけいご、かの水とりらもその程を見て壻に三献を祝はせ、かの手桶の水を二人して左右より壻の頭へ滝のごとくあぶせかくる。これを見て衆人抃躍てめでたし〱と賀ふ。むこはそのまゝわがいへにはせ入り、をどりは猶家にもおし入りてをどりうたふ事七八遍にしてどろ〱と立さり、再びはじめのごとく列をなして他の壻の家にいたる。事はてゝもをどりは宿役の家さてはよしみあるものゝいへにも入りてをどりありく也。田舎はものを視る事まれなれば、此日は遠近の老若男女これを見んとて蟻のごとくあつまり、おしこりたちて熱喿する事筆下に尽しがたし。
○按るに、壻に水を灌ぐ事は、男の阳火に女の阴の水をあぶせて子をあらしむるの咒事にて、妻の火を留るといふ祝事也。此事室町殿の頃武家の俗習よりおこりて、農商もこれに傚ひてやゝ行はれし事物に見えたり。貝原先生の歳時記には松永弾正が婚事より起るといへり江戸にては宝永の頃までも世上一同正月十五日の事とし、祝義のやうになりて大に流行しゆゑ、壻に恨ある者事を水祝ひによせてさま〲の狼籍をなす人もまゝありて、人の死亡にもおよびし事しば〱なりしゆゑ、正徳の頃国禁ありて事絶たり。くわしくはむかし〱物語といふものに見えたり。国初以来の事を記たる写本、元禄中をさかりにへたる人の老ての作なり件の花水祝ひは神秘と有ば別にゆゑよしもあるべし。あなかしこ。雪のついでにその大略を記して好古家の談柄に具するのみ。
○　菱山の奇事
　越後の頸城郡松の山は一庄の総名にて、許多の村落を併合たる大庄也。いづれも山間の村落にして一村の内といへども平地なし。たゞ松代といふ所のみ平地にて、農家軒を連ぬ。外百番の謡に見えし松山鏡といふも此地也。そのうたひにある鏡が池の古跡もこゝにあり、今は池にもあらぬやうに埋れたれど、その跡とてのこれり。按るに、松山かゞみのうたひは鏡破の絵巻といふものを原として作れるならん、此ゑまきにも右の松の山の事見えたり。さて松の山の庄内に菱山といふあり、山の形三角なるゆゑの名なるべし。山にちかき処に須川村川によりて名づく菖蒲村といふあり。此ひし山、毎年二月に入り夜中にかぎりて雪頽あり、其ひゞき一二里に聞ゆ。伝ていふ、白髪白衣の老翁幣をもちてなだれに乗り下るといふ。また此なだれ須川村の方へ二十町余の処真直に突下す年は豊作也、菖蒲村の方へ斜にくだす年は凶作也。其験少も違ふ事なし。年の豊凶雪頽に係る事此山にのみ限るも一奇事といふべし。
　因にいふ、余が旧友寺泊に住丸山氏の医家祖父は博学の聞えありし人なりき。余二十年前丸山氏の家に遊笻をとゞめし時、祖父が宝暦の頃の著述也とて、越後名寄といふ書を見せられしに、三百巻自筆の写本也。名寄とはあれど越後の風土記なり。一国の神社仏閣名所旧跡山川地理人物国産薬品の類までも、部を分図をいだして通暁しやすくしたる精撰也。此書に右菱山の説も粗見えたれど、さのみはとて引ず。菱山の事をいふにつきて此書の事をおもひいだせしが、かゝる精撰大成の書も空しく秘笈にありて世にしられざるが惜ければこゝにいへり。
○　秋山の古風
　信濃と越後の国境に秋山といふ処あり、大秋山村といふを根元として十五ヶ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央に中津川といふありて、すゑは魚沼郡妻有の庄をながれて千曲川に入る川也川の東西に十五ヶ村あり。東の方に在る村は●印は越後にぞくす▲印は信濃にぞくす　●清水川原村人家二軒あり、しかれども村の名によぶ　●三倉村人家三軒　●中の平村二軒　●大赤沢村九軒　●天酒村二軒　▲小赤沢村二十八軒　▲上の原十三軒　▲和山五軒　西にある村　●下結東村　●逆巻村四軒　●上結東村二十九軒　●前倉村九軒　▲大秋山村人家八軒ありて此地根元の村にて相伝の武器など持しものもありしが、天明卯年の凶年に代なしてかてにかえ、猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり　▲屋敷村十九軒　▲湯本温泉あり　此地東には苗場山天に聳えて連岳これにつゞき、西に赤倉の高嶺雲を凌て衆山これに双ぶ。清水川原は越後の入り口、湯本は信濃に越るの嶮路あるのみ。一夫是を守れば万卒も越え難き山間幽僻の地也。里俗の伝へに此地は大むかし平家の人の隠たる所といふ。牧之謂らく、鎮守府将軍平の惟茂四代の后胤奥山太郎の孫城の鬼九郎資国が嫡男城の太郎資長の代まで越後高田の辺鳥坂山に城を構へ一国に威を震ひしが、謀叛の聞えありて鎌倉の討手佐々木三郎兵衛入道西念としば〱戦ひて終に落城せり。此時貴族の落人などの此秋山に隠れしならんか。里俗の伝へに平氏といへるもよしあるに似たり。此秋山には古の風俗おのづから残れりと聞しゆゑ一度は尋ばやとおもひ居りしに、此地をよくしりたる案内者を得たりしゆゑ、偶然おもひたち案内が教にまかせ、米味噌醤油鰹節茶蝋燭までをも用意して従者にもたせて立いでしは文政十一年九月八日の事なりき。その日は秋山に近き見玉村の不動院に一宿、次の日桃源を尋ぬる心地して秋山にたずね入りぬ。さて入り口に清水川原といふあり、こゝにいたらんとする道の傍に、丸木の柱を建、注連を引わたし、中央に高札あり、いかなる事ぞと立よりみれば、小童のかきたるやうのいろは文字にて「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」としるせり。案内曰、秋山の人は疱瘡をおそるゝ事死をおそるゝが如し。いかんとなれば、もしはうそうするものあれば我子といへども家に居らせず、山に仮小屋を作りて入れおき、喰物をはこびやしなふのみ。すこし銭あるものは里より山伏をたのみて祈らすもあり、されば九人にして十人は死する也。此ゆゑに秋山の人他所へゆきてはうそうありとしれば、何事の用をも捨て逃かへる也。されば此地にては疱瘡する者甚だ稀也、十年に一人あるかなしか也と語り。さて清水川原の村にいたりしに家二軒あり。家居の作りさま他所にかはれり、その事は下にいふべししばしこゝにやすらひて立出しに、これよりまづ猿飛橋を見玉へとて案内は前へ立てゆく。此秋山の道はすべて所の人のかよふべきためにのみひらきたる道にて、牛馬はさらにつかはざる所なれば、ことさらに道狭く小笹など深くしてやう〱道をもとむる所しば〱なり。かくてかの中津川の岸にいたれり。岸の対ひ逆巻村にいたる所に橋あり、猿飛橋といふ橋のさまを見るに、よしや猿にても翼あらざれば飛べくもあらず、両岸は絶壁にて屏風をたてたるが如くなれども、岸より一丈あまり下に両岸よりさしむかひたる岩の鼻あり、これをたよりとして橋を架したる也。橋ある所へ下らん為に梯をまうけてあり、橋は直なる丸木を二本ならべにし、細木を藤蔓にてあみつけたるなり。渡りは二十間あまり、橋の広さは三尺にたらず、欄杆はもとより作らず、橋を渡りて対ひの岸に藤綱を岸の大木にくゝし下げてあり。之に縋りて岸にのぼるたよりとす。たゞ見るさへ危ければ、芭蕉が蝶も居直る笠の上といひし木曾の桟にもをさ〱劣ず。此橋を渡るにやといふに、案内がいな〱今日は此岸につきて東の村〱を見玉ひて小赤倉村にいたり玉はゞ程よき道なるべし、小赤倉には知る人もあれば宿をもとむべしといふ。橋をわたらずときゝて心おちつき、岩にこしかけて墨斗とりいだし橋を写しなどして四辺を見わたせば、行雁峯を越て雲に字をならべ、走猿梢をつたひて水に画を写す。奇樹崖に横たはりて竜の眠るが如く、怪岩途を塞ぎて虎の臥すに似たり。山林は遠く染て錦を布き、礀水は深く激して藍を流せり。金壁双び緑山連りたるさま画にもおよばざる光景也。目かれせねばしばしやすらひたるに、農夫二人きたりおの〱褁を脊負てかの橋をわたらんとす。岸にたちてこれをみれば、かの梯を石壇のごとくふみくだり、橋をゆく事平地のごとく、その半にいたれば橋揺々として危き事いはんかたなく、見るにさへ身の毛いよだつばかり也。わたりはてゝかの藤綱にすがりて岸にのぼりしさま猿のごとし、はからず人のわたるを見て目を新にせり。さてこゝを去て例の細道をたどり、高にのぼり低に下り、よほどの途をへてやうやく三倉村にいたれり、こゝには人家三軒あり、今朝見玉村より用意したる弁当をひらかばやとあるいへに入りしに、老女ようちなつた＊６といひつゝ木の盤の上に長き草をおきて木櫛のやうなるものにて掻て解分るさま也。いかなるものにて何にするぞと問へば、山にあるいらといふ草也、これを糸にしてあみ衣を作るといへり。あみ衣といふ名のめづらしければ強てたづねければ、老女はわらひてこたへず。案内がかたはらよりあみ衣とは婆々どのゝ着たるあれ也といふ、それを見れば㠿布のやうなるを袖なし羽織のやうにしたる物也。茶を乞ひければ老女果してまづ疱瘡の事を問ふ。案内がいふ、我々は塩沢より秋山を見にきたりしもの也、しほさはには去年此かたはうそうはなしといふ。老女いはく、うらが内のものは今年は井戸蛙のやうにさつかゞんで里へは一度も出なんだといひつゝくみ出したる茶をみれば、煤を煮だしたるやうなれば、別に白湯をもとめて喰しをはり、つら〱此住居を見るに、礎もすえず掘立たる柱に貫をば藤蔓にて縛りつけ、菅をあみかけて壁とし小き窓あり、戸口は大木の皮の一枚なるをひらめて横木をわたし、藤蔓にてくゝしとめ閾もなくて扉とす。茅葺のいかにも矮屋也。たゞかりそめに作りたる草屋なれど、里地より雪はふかゝらんとおもへば力は強く作りたるなるべし、家内を見れば稿筵のちぎれたるをしきならべ稲麦のできぬ所ゆゑわらにとぼしく、いづれのいへもふるきむしろ也納戸も戸棚もなし、たゞ菅縄にてつくりたる棚あるのみ也。囲炉裏は五尺あまり、深さは灰まで二尺もあるべし、薪多き所にて大火を焼くゆゑ也。家にかちたるものは木鉢の大なるが三ツ四ツあり、所にて作るゆゑ也。薬鑵土瓶雷盆などいづれの家にもなし、秋山の人家すべてこれにおなじ。今日秋山に入りこゝにいたりて家を五ツ見しが、粟稗を刈こむころなれば家に居る男を見ず。さてやすらひしうち、杤の実をひろひて山よりかへりしといふ娘を見るに、髪は油気もなくまろめつかねたるを紵にて結ひ、ふるびたる手拭ひにて頭巻をなし、木綿袷の垢づきたるが常なみより一尺もみじかきに、巾二寸ばかりのもめん帯をうしろにむすべり。女のはちまきするとおびの巾のせばきは古画にもあまた見えたる古風也、きるものゝみじかきもいやしきものゝ古風也秋山の女みなかくの如し。老女に土地の風俗などたづねしが心かよはざればさらにわからず、物をとらせてやがて立さりけり。
○かくて中の平村九軒天酒村二軒大赤沢村九軒を歴たる道みな嶮き山行して此日申の下刻やう〱小赤沢にいたりぬ。こゝには人家廿八軒ありて、秋山の中二ヶ所の大村也。上結東は廿九軒有此村に市右エ門とて村中第一の大家あり、幸ひ案内者の知る人なれば宿をもとめたち入りて見るに、四間に六間ほどの住居也、主人夫婦は老人にて、長男は廿七八、次に娘三人あり。奥の方に四畳ばかりの一間ありて、へだてには稿筵をたれてあり。たれむしろをする事堂上にもありて古画にもあまた見えたる古風なり勝手の方には日用の器あまたとりちらしたるなかに、こゝにも木鉢三ツ四ツあり、囲炉裏はれいの大きく深きの也。さて用意したる米味噌をとりいだし、今朝清水河原村にてもとめたる舞茸にこゝの芋などとりそへて、案内が料理すとて雷盆をといへば、末の娘が棚のすみよりとりいだしたるを見れば、常にはつかはずと見ゆるすゝけたるなり。のちにきけば此秋山にすりばちのあるは此家と此本家のみとぞ。此地にて近年豆を作りはじめて味噌をもつくれども、麹を入る事をせず、ほだて汁にするゆゑすりばちはもたざるとぞ。さて此家にも別に竈はなくみな炉にてものを煮る也。やがて夜もくれければ姫小松を細く割たるを燈とす、光り一室をてらして蝋燭にもまされり。案内が調じたるものそろはぬ碗にもり、山折敷にすゑていだせり。あるじがもてなしとて、芋と蕪菜を味噌汁にしたるなかにいぶかしきものあり、案内がさし心えていふやう、そは秋山の名物の豆腐也といふ。豆を挽事はせしが糟を灑ざるゆゑ味なし。喰をはりて後あるじがいふ、茶の間の旦那秋山のことばに人を敬して茶の間の旦那といふ、茶の間をももちし人といふ事にやどつふりに入らずといふ、此ことばさとしがたくて案内に問へば、居風呂に入り玉へといふ事也。すゑふろをどつふり又は居り湯ともいふ秋山にすゑふろ桶をもちしは此家と此本家とばかり也とぞ、此地の人たま〱は冬もかゝりゆをつかふ、そとよりかへりても足をあらふ事をせず、かのむしろのうへなれば斯すらんといへり。ふろに入りしにつねにかはる事なし、道のつかれもわすれてうれしく元の炉の横座に皈りしゐろりはよこを上座とするは田舎のならひなりに、こゝには銅鑵もありしとて、用意の茶を従者が煮たるを喫、貯たる菓子をかの三人の娘にもとらせければ、三人炉に腰かけて箕居、足を灰のなかへふみ入れ珍がりてくわしを喰ふ。炉には柱にもなるべき木を惜気もなく焼たつる火影に照すを見れば、末のむすめは色黒く肥太りて醜し。をり〱裾をまくりあげて虫をひらふは見ぐるしけれど恥らふさまもせず。二人の姉は色白くして玉を双べたる美人也、菓子を喰ながら顔見あはして打ゑみたる面ざし、愛形はこぼるゝやう也。かゝる一双の玉を秋山の田夫が妻にせんは可憐、琴を薪として鼈を煮るが如し。主人は里地の事をもよく知りて話も分る翁ゆゑ所の風俗をたづねしに、そのもの語りたるあらましをこゝに記す。
○此地近年公税を聞にいたれども、米麦を生ぜざるゆゑ僅の貢をなす鐁役といふにいたりて、信濃と越後との他の村名主の支配をうけ、旦那寺をも定めたれど、冬は雪二丈余もつもりて人のゆきゝもたゆるゆゑ、此時人死すれば寺に送る事ならざれば、此村に山田を氏とする助三郎といふものゝ家にむかしより持伝へたる黒駒太子と称する画軸＊７あり、これを借りて死人の上を二三べんかざし、これを引導として私に葬る。寺をさだめざるいぜんはむかしよりこれにてすませたり。秋山は山田と福原の氏のみ也、右の助三郎は山田の総本家也、太子の画像といふは太子のやうに見ゆるがくろき馬にのりて雲の中にあるきぬ地のよしいへり、牧之助三郎が家にいたりかの一軸を見んとこひしが、正月七月のほかをがませずとてゆるさゞりき。
○此地の人、上食は粟に稗小豆をも交て喰ふ。下食は粟糠に稗乾菜などまじえて喰ふ、又杤の実を食とす。
○婚姻は秋山十五ヶ村をかぎりとして他所にもとめず。婦人他所にて男をもてば親族不通して再び面会せざるを、むかしよりの習せとす。
○秋山中に寺院はさら也、庵室もなし。八幡の小社一ツあり。寺なきゆゑみな無筆也。たま〱心あるもの里より手本を得ていろはもじをおぼえたる人をば物識とて尊敬す。
○山中ゆゑ蚊なし、蚊屋を見たるものまれ也。
○深山幽僻の地なれば蚕はもとより木綿をも生ぜざるゆゑ、衣類に乏しき事おしてしるべし。
○山にいらといふ草あり、その皮を製して麻に替て用を為す。
○翁がかくかたりし時牧之いらの形状をくはしくきかざりしが、后に案るにいらとは蕁麻の事なるべし、蕁麻は本草に見えたる草の名也。麻の字に熟したれば麻に替ても用ふべきものなるべし。されど毒草なるよし見えたり。又山韭といふも同書に見ゆ、これも麻のかはりにもすべきもの也。にらをいらといふにや。草の形状を聞ざりしゆゑさだめがたし。
○秋山の人はすべて冬も着るまゝにて臥す、嘗て夜具といふものなし。冬は終夜炉中に大火をたき、その傍に眠る。甚寒にいたれば他所より稿をもとめて作りおきたる褁に入りて眠る。妻あるものはかますをひろく作りて夫婦一ツかますに寐る。
○秋山に夜具を持たる家は此翁の家とほかに一軒あるのみ。それもかのいらにて織たるにいらのくずを入れ、布子のすこし大なるにて宿り客のためにするのみ也とぞ。牧之こゝに一宿しし時此夜具に臥したるが、かのいとくずもすそにおちてあはせの所がおほく身にそゆべきものにはあらず。
○稿にとぼしきゆゑ鞋をはかず、男女徒跣にて山にもはたらく也。
○人病あれば米の粥を喰せて薬とす。重きは山伏をむかへていのらす。病をいのらする事源氏にも見えたる古風也。
○鏡を持たる女秋山中に五人ありとぞ。松山かゞみの故事おもひあたれり。
○此地の人すべて篤実温厚にして人と争ふことなく、色慾に薄く博奕をしらず、酒屋なければ酒のむ人なし。むかしよりわら一すぢにてもぬすみしたる人なしといへり。実に肉食の仙境也。
○かくて次の日やぶつの橋＊８といふをわたりて湯本に宿り、温泉に浴し、次の日西の村々を見て上結東村に宿り、猿飛橋をわたり、その日見玉村にやどりて家にかへれり。さま〲記すべき事あれども文多ければのせず。秋山記行二巻を編して家に蔵む。
○杤の本字は橡なり実の食方翁に聞しをこゝに記して凶年の心得とす。杤の実は八月熟して落るをひろひ、煮てのち乾し、手に揉てあらき篩にかけて渋皮をさり、簀に布をしきて粉にしたるをおき、よくならし水をうちてしめらせ、しきたる布につゝみ水にひたしおく事四五日にしてとりいだし、絞りて水をさりて乾しあぐる、その白き事雪のごとし。是を粟稗などにまぜ、又は杤ばかりも食とす、又餅にもする也。もちにする杤は別種なりとぞ楢の実も喰ふ、そのしかたは杤に似たりとぞ。
○此秋山にるゐしたる山村他国にもあるよしを聞たれば、珍しからねどしたしく見たるゆゑこゝに記せり。
○秋山の産物、木鉢まげ物るゐ山をしきすげ縄板るゐ也。秋山に良材多しといへども、村中をながるゝ中津川屈曲深き所浅き所ありて筏をくだしがたく、又は牛馬をつかはざれば良材を出しがたく、財をうる事難ければ天然の貧地也。
○　狐火
　酉陽雑俎に、狐髑髏を戴き北斗を拝し尾を撃て火を出すといへり。かの国はともあれ我がまさしく見しはしからず、そは下にいふべし。狐は寒をおそるゝ物ゆゑ、我里にては冬は見る事稀也、春にいたり雪のふりやみたるころ、つもりたる雪中食にうゑて夜中人家にちかづき、物を竊み喰ふ事甚悪むべし。人これを知るゆゑ、かれに盗じとて人智を以てかまへおけども、すこしの間に奪ひ喰ふ、其妖術奇々怪々いふべからず、時としてかれが来とこざるは鼠のごとし。狐の妖魅をなす事和漢めづらしからず、いふもさらなれどいふ也。我雪中にはあかりをとらんため、二階の窓のもとにて書案に倚る。或時故人鵬斎先生より菓子一折を贈れり、その夜寝んとする時狐の事をおもひ、かの菓子折を紵縄にて強と縛し天井へ高く釣りおき、かくてはかれが術も施しがたからんと自傲りしに、さて朝に見ればくゝしたる縄は依然としてもとのごとく、菓子折は消失たるがごとし。猶憎むべきは、くわしをりは人の置たるやうに書案の上にあり、ひらき見ればおほひたる紙もそのまゝにて、くわしはみなくらひ尽せり、その妖をなしし事不思議也。或時は猫の声をなして猫を呼いだして淫し且喰ふ。老狐は婦女を妖して淫するもあり、淫せられし女はかならず髪をみだし其処に臥して熟睡せるがごとし、その由をたづぬれども一人も仔細をかたりし女なし、皆前後をしらずといふ、しらざるにはあるまじけれども、事を恥ていはざるならん。さて狐善く氷を聴と言事、酉陽雑俎に見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪の湖水は狐渉しを視て人渉りはじむ、和漢相同じ。狐の火を為す説はさま〲あれどみな信がたし。我が目前に視しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙に火のうつるを怪しみその隙間より覗きみれば、狐雪の掘揚の上に在りて口より火をいだす、よくみれば呼息の燃る也。その態口よりすこし上にもゆる事、まへにいへる寒火のごとし。おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり、かれが肚中の気に応ずるならん、かれが気息常に火をなさゞるは勿論也。石亭が雲根志に狐の玉のひかる事を云しが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉といふ物の光ると常に見る狐火とは別なるべし。
○　狐を捕る
　友人曰、我が親しき者隣村へ夜話に往たる皈るさ、途の傍に茶鐺ありしが、頃しも夏の事也しゆゑ、農業の人の置忘れたるならん、さるにても腹悪きものは拾ひ隠さん、持皈りて主を尋ばやと鐺を手にさげて二町ばかりあゆみしにしきりに重くなり、鐺の内に声ありて我をいづくへ連れ行ぞといふに胆を消し鐺をすてゝ逃さりしに、狐前にはしり草の中へはしり入りしといへり。こはかれが一時の戯れなるべし、かゝる妖魅の術はありながら人に欺れて捕へらるゝは如何。余答ていふ、銕炮を以てするは論なし、香餌を以てするは、かれ人の欺くを知れども慾を捨て慎む事あたはず、それとは知りながらこれを喰ひて反て人をあざむかんとして捕へらるゝならんか。これ邪智ふかきゆゑ也。豈狐のみならんや、人も又是に似たり。邪智あるものは悪㕝とはしりながらかく為ば人はしるまじと己が邪智をたのみ、終には身を亡すにいたる。淫慾も財慾も慾はいづれも身を亡すの香餌也。至善人は路に千金を視、室に美人と対すれども心妄に動ざるは、止ることを知りて定る事あるゆゑ也。かゝる人は胸に明なる鏡ありて、善悪を照し視てよきあしきを知りて其独を慎む、之を明徳の鏡といふ。此鏡は天道さまより誰にも〱与へおかるれども磨ざればてらさずと、われ若かりし時ある経学者の教に聞しと、狐の話につけ大学の蹄にかけて風諫せしは、問ひし人弱年にてしかも身もちのくずれかゝりし者なればなりき。こゝには无用の長舌なれど、おもひいだししにまかせてしるせり。さて我が里にて狐を捕る術さま〲あるなかに、手を懐にして捕る術あり。その術いかんとなれば、春陽の頃はつもりし雪も昼の内は軟なるゆゑ、夜な〱狐の徘徊する所へ麦など舂杵を雪中へさし入て二ツも三ツもきねだけの穴を作りおけば、夜に入りて此穴も凍りて岩の穴のやうになるなり。さてかれが好く油滓などをちらしおき、かの穴にも入れおく、さて夜ふけ人静りたるころ狐こゝにきたり、ちらしおきたるを喰ひ尽し、猶たらざればかならずかの穴にあるをくらはんとし、身をしゞめ倒になりて穴に入り、いれおきたるものをくらひつくし、出んとするに尾のすこしいづる程に作りまうけたる穴なれば、再びいづる事叶はず。雪は深夜にしたがひてます〱こほり、かれがちからには穴をやぶる事もならず、いでん〱として終には性を労らす。捕へんとはかりしもの、これを見て水をくみきたりてあなに入るゝ、こほりたる雪の穴なればはやくは水も漏ず、狐は尾を振はして水にくるしむ。人は辺りにありてかれ将に死せんとする時かならず屁をひるを避る。狐尾を揺さゞるを見て溺死たるを知り、尾を採り大根を抜がごとくして狐を得る。穴二ツも三ツも作りおくゆゑ、をりよき時は二疋も三疋も狐を引抜事あり、之は凍りて岩のやうなる雪の穴なればなり。土の穴はかれが得ものなれば自在をなして逃さるべし。されば雪国にかぎる事なれば雪のついでにしるせり。
○　鴈の代見立
　我国雪盛なる時は、鳥などの食すべきもの一点もなきゆゑ、冬は山野の鳥は稀也。春にいたり雪降りやみし頃諸鳥を見る。二月にいたりても野山一面の雪の中に、清水ながれは水気温なるゆゑ雪のすこし消る処もあり、これ水鳥の下る処也。雁これを見ればまづ二三羽こゝにをりて己まづ求食、さて糞をのこして喰ある処の目とす、俚言にこれを雁の代見立といふ。雁のかくするは友鳥を集ひきたりて、かれにも求食せんとて也。朋友に信ある事人も恥べき事也、しかるを心なき徒かの糞をたづねありき、代見立の糞あればかならず種々の術を尽して雁のくるをまちて捕ふ。雁もたび〱とられてこれをしるにや、人にしらせじとて糞に土をかけてかくしおく也。代見立あしくさまで食なかりし処へは、ふんに土をかけずふたゝび来らず、その智ある事人におなじ。人またこれらをも知りてゆるさず、糞に土をかけたるを見れば其辺りの矢頃よき処へ、人の入るべき程に椀をふせたるやうなるものを雪にて作り、後に入り口をつけ内は洞になし、雁のをるべき方に穴をつくりてそのきたるをまつ。雁は不時にはきたらず、くべき時あり、しもにいふべし雁を見ればかの穴より銕炮の銃口をいだしてうつ也、かくするを里言にゆきんだうといふ、雪ン堂也。これにもかぎらずさま〲の術あり雁の居る処を替ふるは夕暮夜半暁也、人此時をまちて種々の工を尽して捕ふ。我国雪の為にさま〲の難義はあらまし前にいへるごとくなれども、雪の重宝なる事もあり、第一は大小雪舟の便利、縮の製作○雪ン堂○田舎芝居の舞台桟敷花道みな雪にて作る。○辻売の居る処売物の台架もみな雪にて作る、是を里言にさつやといふ。○獣狩、追鳥。○積雪家を埋め却て寒威を禦ぐ。○夏も山間の雪を以て魚鳥の肉を擁包おけば敗餒ず。○雪水江河の源を養ふなど、此外詳にいはゞ猶あるべし。是をおもへば天地の万物捨べきものはあるべからず、たゞ捨べきは人悪のみ。
○　天の網
　およそ人悪をなして天罰に漏ざる事、魚の網にもれざるがごとくなるゆゑ、これをたとへて天の網といふめり。新潟より三里上りて赤塚村といふあり、山のところ〲に凹をなしたるあり、こゝに杙をたてゝ細糸の網をはりて鳥をとる、これを里言に赤塚の天の網といふ。此村に潟あるゆゑ、水鳥潟を慕ひてきたり、山の凹を飛きたり、かならず天の網にかゝる。大抵は𪃈といふ鴨に似たる鳥也、美味なるゆゑ赤塚の冬至鳥とて遠く称美す。𪃈𪇊といふべきを省けるならん、あぢかもとは古哥にもあまたよめり。
○　雁の総立
　およそ陸鳥は夜中盲となり、水鳥は夜中眼明也。ことに雁は夜中物を見る事はなはだ明也。他国はしらず我国の雁はおほくは昼は眠り、夜は飛行く。眠る時は人に遠き処にて集り眠る、此時は首をあげて四方を見てゐる雁二羽あり、人これを番鳥といふ。求食にもしか也。飛に列をなすは雁行とて兵書にもいへり、人のしる処也。されど居るにも位列をなして漫ならず。求食時は衆あさり、遊ぶ時はみなあそぶ。雁中に一雁ありて所為衆これに随ふ、大将と士卒とのごとし。人のきたるか又はあやしきを見れば、かのばん鳥羽たゝきをなす、余のとりこれをきゝ、いかに求食ともねぶるとも此羽たゝきをきゝあやまらず、幾羽も乱て飛あがり、さて列をなして去る。里言にこれを雁の総立といふ。雁の備ある事軍陣の如し、余の鳥になき事也、他国の雁もしかならん。田舎人には珍しからねど都会の人の話柄にいへり。
○　渋海川ざい渉り
　しぶみ川、源は信越の境よりいで、越後の内三十四里を流れて千曲川に伴ひ此海に入る。此川越後の○頸城○魚沼○三嶋○古志の四郡を流るゝゆゑ、四府見の文字ならんかとおもひしに僻事也。古書に渋海又新浮海とも見えたり。此川屈り曲り、広狭言ひ尽すべからず。冬は一面に氷り閉てその上に雪つもりたる所平地のごとし。されど急流岩に激して水勢絶急ところは雪もつもる事あたはず、浪を見る処もあり。渡口などは斧にて氷を砕きてわたせども、終には氷厚くなりて力およびがたく、船は陸に在りて人々氷の上を渉る。これを里言にざいわたりといふ。我国の俚言にすべて物の凍るを、○ざい○しみる○いてなどいふ。いては古言也此川の氷り正月のすゑか二月のはじめにいたれば、陽気を得て自然と裂て流る。大なるは七八間、種々の形をなし大小ひとしからず、川の広き所と狭き処とにしたがふ。旦に裂はじめて夕べにながれをはる。かならず一日あるひは一昼夜をかぎりとして三十四里の氷みなくだけながれて北海にいづる、そのひゞき千雷のごとく、山も震ふばかり也。此日川にちかき村々は慎み居て外にいづる事なし。たゞ他所の者は渋海川の氷見とて、花見のやうに酒肴をたづさへ岸に彩筵毛氈などしきてこれを見る。大小幾万の氷片水晶の盤石のごときが、藍のやうなる浪に漂ひながるゝは目ざましき荘観なり。氷を観て楽とする事暖国にはさらにあるべからず。此川にさかべつたうといふ奇談あり、次の巻にいふべし。
北越雪譜初編巻之中　終
北越雪譜初編　巻之下
越後塩沢　　　鈴木牧之　　編撰
江戸　　　　　京山人百樹　刪定
○　渋海川さかべつたう
　我国の俚言に蝶をべつたうといふ、渋海川のほとりにてはさかべつたうといふ。蝶は諸の虫の羽化する所也、大なるを蝶といひ、小なるを蛾といふ。本艸其種類はなはだ多し。草花も蝶に化する事本草にも見えたり。蝶の和訓をかはひらこといふは新撰字鏡にも見えたれど、さかべつたうといふ名義は未考ず。さて前にいへる渋海川にて春の彼岸の頃、幾百万の白蝶水面より二三尺をはなれて羽もすれあふばかり群たるが、高さは一丈あまり、両岸を限りとして川下より川上の方へ飛行、その形状花のふゞきと見んはおろか也。幾里ともなき流れに霞をひきたるがごとく、朝より夕べまで悉く川上へつゞきたるがそのかぎりをしらず、川水も見えざるほど也。さて日も暮なんとするにいたれば、みな水面におちいりて流れくだる、そのさま白布をながすがごとし。其蝶の形は燈蛾ほどにて白蝶也。我国に大小の川々幾流もあるなかに、此渋海川にのみかぎりて毎年たがはず此事あるも奇とすべし。しかるに天明の洪水以来此事絶てなし。
○本草を按るに、石蚕一名を沙虱といふもの山川の石上に附て繭をなし、春夏羽化して小蛾となり、水上に飛ぶといへり。件のさかべつたうは渋海川の石蚕なるべし。其種を洪水に流し尽したるゆゑ、たえたるなるべし。他国にも石蚕を生ずる川あらば此蝶あらんもしるべからず。余此蝶を見ざりしゆゑ、近隣の老婦若きころ渋海川の辺りより嫁せし人ありしゆゑ尋ね問ひしに、その老婦の語りしまゝをこゝに記せり。
○　鮭の字の考
　新撰字鏡といふ字書は、本朝の僧昌住といひし人、今より九百四十年あまりのむかし寛平昌泰の年間作りたる文字の吟味をしたる書也。むかしより世の学匠たち伝へ写して重宝せられき。しかるを近き頃、村田春海大人右の書を京都にて購得てのち、享和三年の春創て板本となし、世の重宝となりてより后の学者の机上に置は、実に春海大人の賜なりけり。右の字鏡ありて后二十余年を歴て、源の順朝臣の作りたる和名類聚抄ありき、是も字書也。元和の年間那波道円先生創て板本とせられたり。後の板もありさて和名抄ありて后五百年ちかくをへて文安年中下学集といふ字書ありき、これも元和三年創て板本となりたり。下学集より五十三年の后明応五年林宗二堺の町人節用集を作り、文亀のころの活字本あり。これいろは引節用集の権輿也。其后百八十年を歴て元禄十一年に槙嶋照武駒谷山人が作りたる江戸の人書言字考、一名合類節用集といふ板本あり、宗二が節用集を大成したる物にていろは引也。平他字類抄のるゐ、下に引用せざるものはこゝにあげず本朝の字書のるゐ大抵は件のごとし。されば今俗用する節用集は新撰字鏡和名抄を先祖の父母として、后のは皆其子孫也。是は鮏の字の事を言んとて童蒙の為に先いふ也けり。
○新撰字鏡魚の部に鮭佐介とあり、和名抄には本字は鮏俗に鮭の字を用ふるは非也といへり。されば鮭の字を用ひしも古し。同書に崔禹錫が食経を引て「鮏其子苺に似て赤く光り春生れて年の内に死す故にまた年魚と名く」と見えたり。新撰字鏡に鮭の字を出しゝは鮏と鮭と字の相似たるを以て伝写の誤りを伝へしもしるべからず。鮭は河豚の事なるをや。下学集にも鮭干鮭と並べ出せり。宗二が文亀本の節用集にも塩引干鮭とならべいだせり。これらも鮏と鮭と伝写のあやまりにや。駒谷山人が書言字考には○鱖○石桂魚○水豚○鮭と出して、注に和名抄を引て本字は鮏といへり。大典和尚の学語編には鱖の字を出されたり、鱖はあさぢと訓也。唐の字書には鱖は大口細鱗とあれば鮏にるゐせるならん。字彙には鮏は鯹の本字にて魚臭といふ字也といへり。按るに、鮏の鮮鱗はことさらに魚臭きものゆゑにやあらん。鮭は鯸鮐の一名ともいへば鮏にはいよ〱遠し。とまれかくまれ鮏の字を知りて俗用には鮭の字を用ふべし。件の如く鮭の字も古く用ひたれば、おほかたの和文章にも鮭の字を用ふべし、鮏の字は普くは通じ難し。こゝには姑く鮏に从ふ。
○　鮏の食用
　腥にて喰するは○魚軒○鱠○鮓也。○烹る○炙その料理によりて猶あるべし。醃にしたるを塩引また干鮏といひしも古き事、まへに引たる書に見えたるがごとし。延喜式にのせたる内子鮏は今いふ子籠り鮏の事なるべし。又同書に脊腸をみなわたと訓り。丹後信濃越中越後より貢とする㕝も見えたれば、古代は鮏を供御にも奉りたるなるべし。都へ遠きよりみつぎたれば塩引ならん。頭骨の澄徹ところを氷頭とて鱠に雅也。子を鮞といふ、これを醃にしたるも美味也。子あるまゝを塩引にしたるを子籠りといふ、古へのすはよりといひしも是ならんか。本草に鮏味はひ甘く微温毒なし、主治中を温め気を壮にす、多く喰へば痰を発すといへり。我国にて塩引にしたるを大晦日の節には用ひざる家なし。又病人にも喰す。他国にて腫物にいむは、これになれざるゆゑにやあらん。
○　鮏を出す所
　鮏は今五畿内西国には出す所を聞ず。東北の大河の海に通ずるには鮏あり、松前蝦夷地最多し。塩引として諸国へ通商は此地に限る。次には我が越後に多し。又信濃越中出羽陸奥也、常陸にもありときゝつ。これらの国の鮏はその所の食にあつるに足るのみ、通商するにたらず。江戸は利根川にありといへども稀なるゆゑ、初鮏は初鰹の価に比すとぞ。我国にては毎年七月二十七日、所々にある諏訪の祭りの次の日より鮏の漁をはじめ、十二月寒のあけるを漁の終りとす。古志の長岡魚沼の川口あたりにて漁したる一番の初鮏を漁師長岡へたてまつれば、例として鮏一頭に一頭を一尺といふ米七俵の価を賜ふ。第五ばんまでなり、たてまつるさけには寸尺の定めあり、俵のかず下る鮏の大なるは三尺四五寸、小なるも二尺四五寸也。猶小なるもあるべし男魚女魚の名あり、めなは子あるゆゑ、をなよりは価貴し。五番まで奉りて后を売る、初鮏の貴き事おしてしるべし。これを賞する事、江戸の初鰹魚にをさ〱おとらず。初鮏は光り銀のごとくにして微青みあり、肉の色紅をぬりたるが如し。仲冬の頃にいたれば身に斑の錆いで、肉も紅ゐ薄し。味もやゝ劣れり。此国にて川口長岡のあたりを流るゝ川にて捕りたるを上品とす、味ひ他に比すれば十倍也。僅に其地を去れば味ひ美ならず、その味ひ美なるものは北海より長江を泝りて困苦したるの度にあたれるゆゑならん。魚急浪に困苦ば味ひかならず甘美もの也。北海の魚の味ひ厚と南海の魚の味ひ淡の差ひあるがごとし。
○　鮏の始終
　我国の鮏は初秋より北海を出て千曲川と阿加川の両大河に泝る、これ其子を産んとて也。女魚に男魚随てのぼる。泝る事およそ五十余里、河に在事およそ五か月あまり也。その間に八、九、十、十一、十二月人に捕る。とられざるは海へ皈る故に大小あり。子を産つける所はかれが心にありて一定ならずといへども、千曲と魚野の両河の合する川口といふより沙に小石のまじるゆゑ、これよりをおのれが産所とし、流れの絶急からぬ清き流水の所に産也。うまんとて鮏の搶て群るを漁師のことばに掘につくざれにつくともいふ。沙をほるにさま〲のかたちをなすゆゑ、ざれことのざれならん女魚男魚ともに尾をもて水中の沙を掘る。その広さ一尺あまり、深さ七八寸、長さ一丈あまり、数日にしてこれを作る。つくりをはれば女魚そのなかへ鮞を一粒づゝ産む。うむを見て男魚己が白䱊を弾着、直に女魚男魚掘のけたる沙石を左右より尾鰭にてすくひかけて鮞を埋む。一粒も流さるゝ事をせず。さて此一掘に産をはれば又それに並て掘りては産、うみてはほり、幾条もならべほりて終には八九尺四方の沙中へ行義よく腹の子をのこらず産をはる。或は所を替ても産とぞ。沙に小礫の交りたる所にあらざれば産ずと漁師がいへり。その所為人の智にをさ〱おとらず。産終るまでの困苦のために尾鰭を損ひ身痩労れ、ながれにしたがひてくだり深淵ある所にいたればこゝに沈み居て労を養ひ、もとのごとく肥太りて再び流に泝る。掘につきたる時は漁師もこれをとらず、たま〱捕るものあれども強てはせぬ事也。女魚さへとらざれば男魚は其所をさらず。鮏の河に泝るは子を産んとて也。その女魚に男魚随てのぼるは子の為に女魚を助くるならん、これも又人の心にことならず。さて奇なる事は、河の広き場にてかれ鮞を産おきたる所洪水などにて瀬かはりて河原となりしが幾とせたちても産たる子腐ず、ふたゝび瀬となればその子生化して鮏となる。一年我が住む所の在にて魚野川のほとりに住む人、井を掘しに鮞の腥なるをほりいだせし事ありしと、友人がかたりき。鮞の生化するを漁師のことばにはやけるともみよけるともいふ。早化・身ヨ化るならんか鮞水にある事十四五日にして魚となる。形ち糸の如く、たけ一二寸、腹裂て腸をなさず、ゆゑに佐介の名ありといひ伝ふ。春にいたれば長じて三寸あまりになる、これをばかならず捕らぬ事とす。此子鮏雪消の水に随ひて海に入る。海に入りてのち裂たる腹合して腸をなすと漁父がいへり。前にもいへる如く鮏の漁は寒中を限りとす、寒あけて捕れば祟をなすといひつたふ。我が若かりし時水村の一農夫、寒あけて后獺のとりたる鮏を奪ひ、これを喰ひて熱になやみ、三日にして死たる事あり、さればたゝりあるといふ口碑の説も誣べからず。又かれが産おきたるはらゝごをとればその家断絶すといひつたふ。鮏の大なるは三尺四五寸にあまるもあり、之は年々網を脱れて長じたるならん。我が若年のころは鮏あまたとれたるゆゑその価もいやしかりしが、近年は捕うる事少きゆゑ価もおのづからむかしに倍せり。年々工を新にして漁するゆゑ捕減したるならん。女魚の大なるには鮞一升もあり、小なるは三四合にすぎず。江戸に多くもてあつかふ塩引と唱するは鰺鮏とて、越後の鮏とは一品別種なる物なりと、或物産家のいへり。河に生れて海に成長すれども、むかしより海にて網に入たる事なし。其始終をおもふに、鮏は鱗族の奇魚といふべし。
　牧之常におもへらく、寒気の頃捕たる鮞と男魚の白䱊とをまじへ、鮏居る川の沙石に包み、瓶やうのものにうつし入れ、鮏なき国の海に通ずる山川の清流に、かの瓶にうつしたるはらゝごを沙石のまゝさけのうみつけたる如くになしおき、此川にて鮏いでくとも三年捕る事を国禁あらば鮏を生ぜんもしるべからず。生ぜば国益ともならんかし。江戸の白魚はむかしそのたねをうつし玉ひしとぞきゝつるためしもあれば也。
○　打切り並につゞ
　北海新潟の海門におつる大河は阿加川と千曲川と也。あか川の事はこゝにいはず、千曲川一名を信濃川ともいふ、隈の字をも用ふ千曲川の水源は信濃越後飛騨の大小の川々あまた流れ併て此大河をなす也。越後は妻有上田の二庄をながれて魚野川の急流をなし、魚沼郡藪上の庄川口駅の端ににいたりて信濃を流るゝ川と合して、古志郡蒲原郡の中央をながれて海に入る。信濃の流は濁り越後は清し。信水は犀川の濁水あるゆゑ也。鮏初秋より海を出て此流に泝る。蒲原郡の流は底深く河広ゆゑ大網を用ひて鮏を捕る。かの川口駅より上、上田妻有のあたりにては打切といふ事をなして鮏を捕る。その仕方は夏の末より事をはじめて、岸根より川中へ丸木の杭を建つらね横木をそえ、これに透間なく竹簀をわたして墻のごとくになし、川の石をよせかけて力となす。長さは百間二百間にいたる。周囲形は川の便利にしたがふ。船の通路はこれを除きて障りをなさず、又通船の路印を建て夜の為とす。さてこれにつゞといふ物を簀下へならべ、鮏の入るべきやうにくゝしおく也。くひありてつゞのすゑをもくゝしおく此つゞの作りやうは竹を簀にあみて末をば縛し、鮏の入るべき口の方には竹の尖を作りかけて腮をなし、地につく方はひらめ上は丸くし、胴には彭張あり、長さは五尺ばかり也。鮏入らんとすれば口広がるやうにいかにも巧に作りたるもの也。これをつゞといふは筒といふべきを濁り訛れるならん。田舎言葉には古言のまゝをいひつたへてむかしをしのぶもあれど、言の清濁をとりちがへて物の名などのかはれるも多し。阿加川を所にてはあが川といふさて此打切を作るは幾ばくの費ある事ゆゑ、漁師ども語らひあひてする事也。打切したる岸には仮に小屋をつくりて、漁師ども昼夜こゝにありて夜も寐ずして鮏のかゝるを待也。七月より此業をなしはじめて十二月寒明まで、一連のものかはる〱此小屋にありて鮏をとる。此打切は川口を一番として水上へ十五番まであり。こゝはいづくの持とて川にその境目ありてはなはだ厳重也。
○さて鮏は川下より流に泝て打切にいたり、船のかよふべき所は流れ打切にせかれて小滝をなすゆゑ滝にのぼるをいとふにや、大かたは打切のよどみにいたりかの垣にせまり、潜るべき所やあるとこゝかしこをたづね、つゞをかけたる所にいたり、くゞりいでんとしてこゝに入れば底あるゆゑ、いでんとするに口に尖りの腮ありて出る事あたはず。
○さて小屋にあるものはかゝりつらんとおもふほどをはかり、はなかますといふ舟をのりいだし大木を二ツにわりてこれをくりぬきて舟にしたるもの也　○瀬の浅き所は舟を用ひず雪下る寒夜にも銭の為にそのさむさをもいとはず、赤裸になりて水に飛入りつゞをはづし、鮏あればつゞのまゝ舟に入れさけをいだす。大鮏は三尺あまりもあるものゝ鮁狂ふゆゑ魚楑といふものにて頭を一打うてば立地死す。こゝに奇なる事は、此魚楑といふもの馬の爪をきりたる楑にあらざれば死せず。私につくりたるつちにてはいくつ打ても升ず。又かれが頭に打べき所もありと漁夫がいへり。鮏ある所にてはいづくにても此なつちを用ふ、みな馬の爪きるつち也とぞすけご助賈なるべしとて鮏の仲買するもの、此小屋にきたりてさけをかふてうる也。
○　掻網
　かきあみとは攩網なり、鮏を攩ひ捕るをいふ。その攩ひ網の作りやうは又ある木の枝を曲げあはせて飯櫃なりに作りこれに網の帒をつけ、長き柄ありてすくふたよりとす。岸の阻たる所は鮏岸につきてのぼるものゆゑ、岸に身を置ばかりの架をかきて、こゝに居て腰に魚楑をさし鮏を掻探りてすくひとるなり。岸の絶壁なる所は木の根に藤縄をくゝして架を鉤り、こゝに居て掻網をするも稀にあり。幾尋ともなき深淵の上にこのたなをつりて身を置、一条の縄に命をつなぎとめてその業をなす事、怖しともおもはざるは此事になれたるゆゑなるべし。
○　漁夫の溺死
　或村に不祥の事ゆゑつまびらかにいはず夫婦して母一人をやしなひ、五ツと三ツになる男女の子を持たる農人ありけり。年毎に鮏の時にいたればその漁をなして生業の助とせり。此所はすべて岸阻たるゆゑ村のものおの〱岸にかの架を作りて掻網をなす。しかるに絶壁の所は架を作るものもなければ鮏もよくあつまるゆゑ、かの男こゝに架をつりおろし、一すぢの縄を命の綱として鮏をとりけり。さて十月の頃にいたり雪降る日には鮏も多く獲易きものゆゑ、一日降る雪をも厭ず蓑笠に身をかため、朝より架にありてさけをとり、畚にとりためたる時は畚にも縄をつけおけば、おのれまづ架を鉤たる綱に縋りて絶壁を登り、さてふごを引あぐる也。つなにすがりて登り下りするもこれに慣ては猿のごとし。物喰ふ時ものぼる也。此日も暮て雪荒になりければ、雪荒にはかならず鮏えやすきがゆゑにふたゝびかの架にゆかんといふを、雪荒なればとて母も妻もとゞめたるをきかず、炬を用意して架にありてかきあみをせしに、はたしてさけあまたえしゆゑ鵜飼の謡曲にうたふごとく罪も報も后の世も忘れはてゝ、おもしろくやゝ時をぞうつしける。
○かくてその妻は母も臥し子どもゝ寐かしたれば、この雪あれに夫はさこそ凍え玉ふらめ、行むかへてつれ皈らんと、蓑にみの帽子をかふり、松明をてらし、ほかに二本を用意して腰にさし、かしこにいたり松明をあげてさしのぞき、遙下にある夫にこゑかけ、いかにさむからん初夜もいつかすぎつらん、もはややめて皈り玉へ、飯もあたゝかにして酒ももとめ置たり、いざかへり玉ヘ、たいまつもなかるべし、橇も入るやうになりしぞ、それも持来れりといふも、西おとしの雪荒にてよくもきこえず。猶こゑをあげていへば夫これをきゝつけ、よろこべよ鮏はあまたとりたるぞ、あすはうちよりてうまき酒をのむべし、今すこし捕てかへらん、そちはさきへかへれといふ。しからば松明はこゝにおかんとて、燈したるまゝ架をつりとめて綱をくゝしたる樹のまたにさしはさみて、別の松明に火をうつして立かへりぬ。これぞ夫婦が一世の別れなりける。
○さるほどに妻は家にかへり炉に火を焼たて、あたゝかなるものくはせんとさま〲にしつらへ待居たりしに、時うつれども皈りきたらず。まちわびてふたゝびかの所にいたりしに、かのはさみたるたいまつも見えず、持たるたいまつをかざして下を見るに、ひかりもよくはとゞかで夫のすがた見えわかたず、こゑのかぎりよべどもこたへず。さては架にはをらぬにや、さるにてもいぶかしと心をとゞめて松明をふりてらし、登りし跡の雪にあるやとあたりを見れば、さいぜん木のまたにさしはさみおきたる炬もえおちてあり、これに心つきて持たるたいまつにて猶たしかに見れば、架をくゝしたる命のつな焼残りてあり。これを見るよりむねせまり、たいまつこゝにやけおちて綱をやきゝり、架おちて夫は深淵に沈たるにうたがひなし、いかに泳をしり給ふとも闇夜の早瀬におちて手足凍え助り玉ふべき便はあらじ。こはいかにせん〱姑にいひわけなしと泪を雫にふらせて哭けるが、我もともにと松明を川へ投入れ身を投んとしつるが、又おもへらく、わがなきあとは老たる母さまと稚き子どもらを養ふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。死ぬるにも死なれざる身には成けるかな、ゆるし玉へわがつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげて哭になきけり。かくてもあられねばなく〱焼残りたる綱をしるしにもち、暗き夜にたいまつもなく雪荒に吹れつゝ泪もこほるばかりにてなく〱立かへりしが、夫が死骸さへ見えざりしと、其所に近き辺りの友人が此頃の事とてさきのとし物がたりせり。
○　総滝
　総滝とは新潟の湊より四十余里の川上、千隈川のほとり割野村にちかき所の流にあり。信濃の丹波島より新潟までを流るゝ間に流の滝をなすはこゝのみなり。その総滝とは川はゞはおよそ百間ちかくもあるべきに、大なる岩石竜の臥たるごとく水中にあるゆゑに、おとしくる水これに激して滝をなす也。鮏こゝにいたりて激浪にのぼりかねて猶予ゆゑ、漁師ども仮に柴橋を架わたし、岸にちかき岩の上の雪をほりすてこゝに居てかの掻網をなす。されど命の惜きにやおの〱己が腰に縄をつけこれを岩の尖りなどに縛しおく。こゝに往来するには岩に足のかゝるべき所をわづかに作り、岩にとりつきて登り下りをなす。若一あしを過つ時は身を粉に砕きて滝におちいるめり、その危き事いはん方なし。余前年江戸に在し時右の事を先の山東翁にかたりしに、翁曰世路の灘は総滝よりも危からん、世は足もとを見て渡るべきにやとて笑へり。格言なりと耳にとゞまりしが、今偶然おもひいだしたるゆゑしるせり。
○　鮏漁の類術
　○当川三角なるあみにてとるをいふ○追ひ川水中に杭をたてあみをはり、さほにて水をうちさけをおひこむ○四ツ手網他国におなじ○金鍵水中のさけをかぎにかけてとる、そのしゆれん奇々妙々なり○流し網さしあみともいふ、あみの長さ二百けんあまりなり、かんばらこほりにてする事なり○簎突水中のさけを見すましやすにてつきとる、一ツものがす事なし、そのしゆれんこれもまたはなはだ妙なり○このほかあまたありといへども、詳に解んは駁雑ければその網をもらせり。
○　鮏の洲走り
　さけのすばしりは雪前に河原などにある事也。かれあみにせめられ人にも追はれなどして、水を飛離れて河原にのぼり、網ある所をこえて水にとび入りてあみを退るゝ也。此時は大鮏さきにすゝみて水をはなるれば、よりゐたる小鮏など后に随ひてのぼり、河原をはしる事四五間にすぎざれども、箭のごとくして人の足もおよびがたし。さきにすゝむ大鮏、もし物にさはりて横に倒るゝ時は、あとにしたがひたる鮏もおなじくたふれてふたゝびおきず、人の捕るを俟がごとし。はからずして手も濡さず二三頭のさけをうる事あり。かれ足無して地をはしり、倒れてふたゝび起ざるなど、魚族中比ふべきものなきは奇魚といふべし。
○　垂氷
　前年牧之江戸に旅宿の頃、文墨の諸名家に謁して書画を乞ひし時、前の山東庵には交情厚くなりてしば〱訪ひしに、京山翁当時はいまだ若年なりしが、ある時雪の話につけて京山翁いへらく、今年正月友人らと梅見にゆきしかへるさ青楼にのぼり、その暁雨ふりいだししが、とみにやみけるゆゑ青楼を出て日本堤にさしかゝりしに、堤の下に柳二三株あり、この柳にかゝりたる雨、垂氷となりて一二寸づゝ枝毎にひしとさがりたるが、青柳の糸に白玉をつらぬきたる如く、これに旭のかゞやきたるはえもいはれざる好景なりしゆゑ、堤の茶店にしばしやすらひてながめつゝ、はからず詩を作りし事ありき。これ余寒の暁に雨のみじかくやみたる気運の機工を得てかゝる奇景を見たるなりとて、珍しがりてかたられしが、暖地にてはめづらしくもあるべけれど、我国の垂氷に比ふれば水虎の一屁也と心にをかしとおもひし事ありき＊９。
○そも〱我国の垂氷をいはんに、他は姑く舎てまづ我が家の氷柱をいはん。表間口九間の屋根の簷に初春の頃の氷柱幾条もならびさがりたる、その長短はひとしからねども、長きは六七尺もさがりたるが根の太さは二尺めぐりにひらみたるもあり、水晶をもて𥴩子をつくりたるやう也。されど我国の人は稚きより目なれたる事なればめづらしからず、垂氷を吟詠に入るものなし。右のつらゝ明りにさはるゆゑ朝毎に木鋤にてみな打おとさす。又家峯の谷になりたる所を俚言にだぎといふ、だぎは春解するやねの雪のしたゝりみなこゝにつたふゆゑ、つらゝは簷よりも大也、下にさはりなき所は二丈もさがる事あり。次第にふとりて大になるも物にさはらぬ所はすておきしを、いつか打砕く時は大力の男杭などにてしたゝかに打て、やう〱をれおちてくだけたる四五尺なるを、童らが打よりて手遊の雪舟にのせて引きありき遊ぶもあり。これらは我家の氷柱にて珍らしからず、宮寺のつらゝは猶大なり、又山中のつらゝは里地に比しがたし。
〇　笈掛岩の垂氷
　我が住む塩沢の巽三里余に清水村といふあり、此村持の山に笈掛岩といふ在、高さ十丈あまり横二十五間あり。下に谷川あり、登り川といふのみなもとなりその形ち屏風をひらきてたてまはしたるがごとし。岩の頂き反り伏して川に覆ひたる下は四五十人坐して狭からぬほどにて、やねあるがごとし。我が上越後には名をよぶ奇岩おほき中にこれもその一ツ也。此笈掛岩の氷柱こそ我が国の人すら目をおどろかすなれ。そのつらゝあまた垂れ下りたるなかには、長きは十丈ばかり太さは二た抱もあるべし。垂たる形状は蝋燭のながれたるやうなれど、里地のつらゝとたがひて屈曲種々のかたちをなして水晶にて工に作りなしたるがごとく、玲瓏として透徹るが暾の暉たるはものに比ふべきなしと、此清水村の里正阿部翁のものがたりにてきゝぬ。右のつらゝさへ我をはじめつらゝはめづらしからねば強て見にゆく人なし。此清水村の阿部翁はむかし世に聞えたる阿部右衛門の尉が子孫也、世々清水越の関守たり。こゝに長尾伊賀守の城跡あり。
○　滝の氷柱
　我が上越後は山岳つらなれば滝多し。滝ある所に夏木の大樹ありて、春にいたり枝につもりし雪まづとけて葉をいださぬ木の森をなしたるに、滝の水烟枝に潤ひしが津となり氷柱となりて玉簾をかけ周したるやうなるは、これも又たぐふべきものなし。さてまたその滝にもしたゝる水氷柱となり、玉簾の内に滝をおとすありさま四辺は乱瓊細玉の雪中也、かの玉を出といふ崑山もかくやとおもはる。かゝる奇景も猟師樵夫のほか見る人稀也。これを暖国の人にみせなばいかにめづらしとかおもふらん。牧之柏崎より妻有の庄へ山越したる時目前に見たる所也。
○　雪中の寒行者
　我が家に江戸に二たとせ居たる僕あり。かれがかたりしに、江戸に寒念仏とて寒行をする道心者あり、寒三十日を限りて毎夜鈴が森千住にいたり刑死の回向をなす。そのすがたは股引草鞋にてあたゝかに着てつとむるなり。又寒中裸参りといふあり、家作にかゝはるすべての職人の若人らがする事なり。そのすがたは常より長く作りたる挑灯に日参などの文字をふとくしるしたるを持、裸にて錞をふりつゝとくはしりておもひ〱にこゝろざす所の神仏へまゐる也。まゐらんとする時はかならず水を浴ぶ。寒中の夜は幾人も西東へはせありくとかたれり。我国の寒行は、事はこれに似てその行ははなはだ異也、我国の寒中は所として雪ならざるはなく、寒気のはげしき事はまへにいへるがごとし。その雪をふみて毎夜寒念仏又は寒大神まゐりとて、寒中一七日或ひは三七日、心々に日をかぎりておのれが志す神仏へまうづ。おほくは農人の若人ら商家のめしつかひもあり、ひるは業をなして夜中にまうづる也。昼のいとなみのあひ〱日に三度づゝ水をあぶ、猶あぶるは心々也。禁じて身を拭ふ事をせずぬれたるまゝにて衣服を着す。坐するには米稿の穂の方をくゝしたるを扇のやうにひらきてこれに坐す、此わらは七五三のこゝろとぞかりにも常のごとくには居らず。このゆゑに此束ねたる稿は帯にはさみてはなたず。また行の中は无言にて一言もいはず、又母のほか妻たりとも女の手より物をとらず、精進潔斎は勿論也。他の人もかれが腰にはさみたるわらを見て行者なる事をしり、むごんなれば言語をかけず人々つゝしむ事也。これはもし行者にことばをかけ、行者あやまつてことばをいだせば行破れたるゆゑ、はじめより行をしなほすゆゑ也。又无言の行はせざるもあり。さて夜に入れば千垢離をとり、百度目に一遍づゝかしらより水をあぶるゆゑ十遍水を浴。身をのごはずきるものをあらため雪ふらずとも簑笠也、あるひはいかなる雪荒にもいとふ事なく鉦うちならしつゝゆく。これにはかならず同行のものある故、そのかどにいたりてかねをならせば同行も家にありてかねをうちあいさつとして出きたる。家に入らざるものは、この行者女にゆきあへば身のけがれとして川に入り、又は井戸をこふて水をあぶる事まへのごとくして身をきよめ、さてまゐるなり。このゆゑに行者の鉦の音をきけば女はすべて門へはいでず、道にあへば遠くにかねのおとをきゝてかくるゝ也。行の内人の死したるをきけば、たとひ二里三里ある所にても、つねにしる人しらぬ人を論ぜず、志願の所にまうでたる皈るさなど、其家にいたりねんごろに回向す。これをも行の一ツとす。さるゆゑに不幸ありて日のたゝぬいへにては、行者のきたるをまちてものくはせんなど、いかにも清くして待也。寒念仏寒大神まゐりの苦行あらまし件のごとくなれば、他国はしらず、江戸の寒念仏裸まゐりに比ふればはなはだ異也。かゝる苦行をなすゆゑにや、その利益の灼然事を次にしるしつ。苦行して祈ればいづれの神仏も感応ある事を童蒙に示す。
○　寒行の威徳
　近来の事なりき、我が住塩沢より十町あまり西南にあたりて田中村といふあり、此村に右の寒行をする者ありけり。ある日米俵を脊負ひて五六町へだてたる中村といふへゆく、その道は三国海道なれば人あしも繁し。すべて雪道は人の踏かためたる跡のみをゆきゝするゆゑ、いかなる広き所も道は一条にて其外をふめば腰をこえて雪にふみ入る也。それゆゑに重荷など持たるは、たとへ武家たりとも一足踏退てふみのくべきあとはあり道を譲るが雪国の習ひ也。かの田中の者一人の武士にゆきあひ重荷ながらもこなたより一足ふみのきたるに、武士は声をあらゝげ脇よれといふ。今ひと足ふみのかば重荷ゆゑことさら雪におち入らんとおもふゆゑ、いかにせんとためらひしを、無礼ものめと肩をつきたるゆゑ俵を脊負ていかでたまるべき、雪の中へよこさまに転び倒れしに、武士も又人に投られし如く倒れければ、田中の者は早く起て后も見ずしていそぎゆきけり。かゝるあとへおなじ田中の者こゝに来り、武士の雪中に倒れて起もあがらざるを不審立よりて、なにぞ病玉ふかといへば、武士はかなきこゑしておこしくれよといふ。その㒵色はつねならねど病人とも見えず、いざとて手を採て引起さんとするに手をのばさず、抱えおこさんとすれどもおきず、猶力のかぎりおこさんとすれども重き事大石の如くにて身を動ず、こは不思議と驚怖るを見て、武士しか〲の事ありしが五体すくみて動く事ならずといふ。田中のものこの武士が米俵を脊負ひしものといひしをきゝて、心におぼえあればさてはと心づき、これかならず行者の罰ならんと行者たるあらましをかたりきかせ、われもかれがゆきたる中村へゆくもの也、かの行者をこゝへつれきたらん、わび玉へ、こゝよりは程ちかしまち玉へとてはせゆき、やがて行者をつれきたりければ、武士は手をすりてゆるしたまへ〱といふ。行者はいかりたる色もなく、なにともいはず衣服を脱てかたへの水楊にかけ、赤裸になりて水を浴み寒まゐりする方をふしをがみ、武士の手をとりて引起しければなにのくもなくおきあがり、いかにも恥たるさまにて礼をのべて立さりけるとぞ。常に我が家に来る田中のものがかたれり。
○　雪中の幽霊
　我が隣駅関といふ宿につゞきて関山といふ村あり、此村より魚野川を渡るべき橋あり。流れ急なれば僅の出水にも橋をながすゆゑ、仮に造りたる橋なれど川広ければはしもみじかからず。雪の頃は所のもの橋の雪を掘て途を作れども、一夜の内に三尺も五尺もつもる事もあるゆゑに、日毎にもほらざれば橋幅の狭きに雪のつもりたる上をわたるなれば、渡り慣たるものすら過て川におち入り溺死するものも間あり。
○さて此関山村のかたほとりに、独り草庵を結びて住む源教といふ念仏の道心坊ありけり。年は六十あまり、たゞ念仏三昧の法師にて、无学なれどもその行は碩僧にもをさ〱劣ず。かゝる僧なれば年毎に寒念仏の行をつとめ、无言はせざるゆゑ夜毎に念仏して鉦打ならし、ものにまゐりしかへるさ二夜に一度はかの橋に立て年頃おぼれしゝたる者の回向をなししに、今夜は満願とてかの橋にもいたり殊更につとめて回向をなし鉦うちならして念仏しけるに、皎々たる月遽然に曇りて朦朧たり。こはいぶかしとおもひしに、水中より青き火閃々ともえあがりければ、こは亡者の陰火ならんと目を閉てかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二間ばかり隔て、年齢三十あまりと見ゆる女白く青ざめたる㒵に黒髪をみだしかけ、今水よりいでたりとおもふばかり濡たる袖をかきあはせて立り。常人ならば吁といひて逃べきに、さはなくてその方に身を対てつら〱見るに、斯闇くなりしにかゝるものゝあり〱と見ゆるもたゞ人ならじと猶よく見れば、体は透徹やうにてうしろにあるものも幽に見ゆ。腰より下はありともなしともおぼろげ也。これこそ幽霊ならめとしきりに念仏しければ、移歩ともなくまへにすゝみきたり、細微たる声していふやう、わらはゝ古志郡何村村名はもらすの菊と申もの也、夫も子も冥途にさきだて独り跡にのこり、かそけき烟りさへ立かねたれば、これよりちかき五十嵐村に由縁の者あるゆゑ助けを乞んとてこの橋をわたりかゝり、あやまちて水に入り溺死たるもの也、今夜は四十九日の待夜なれど、世にすてられしかなしさは誰ありて一掬の水だに手向る人なし。さるをおん僧しば〱こゝにきたりて回向ありつる功徳によりてありがたき仏果をばえたれども、頭の黒髪が障りとなりて閻浮に迷ふあさましさよ。此上のねがひには此くろかみを剃こぼして玉はれかし、あな悲哉とて、㒵に袖をあてゝさめ〲と泣けり。源教いふやう、そはいとやすき事也、されどこゝには剃べき物ももたざれば、あすの夜わがすむ関山の庵へきたり候へ、望をはたし申さんといひければ、さもうれしげにうなづくと見えしが烟りのごとく消うせ、月は皎々として雪を照り。
○さるほどに源教いほりにかへりて、朝日人をたのみて旧来親しき同じ村の紺屋七兵衛をまねき、昨夜かう〱の事ありしとお菊が幽霊の㕝をこまかに語り、お菊が亡魂今夜かならずきたるべし、かゝる事は仏に疎き人らにもかたりきかせて教化の便ともなすべくおもへども、たしかに見とゞけたりといふ証人なければ人々空言とおもふらん、和殿は正直の聞えある人なれば幽霊の証人にたのみ申也、これも人の為也といふ。七兵衛も此法師とおなじとしごろにて、しかも念仏の信者なれば打うなづき、御坊のたのみとあればいかで固辞申さん、火ともすころに来べし、何方にもあれ隠れゐて見とゞけ申さん。さればよ仏壇の下こそよきかくれ所なれ、かまへて人にかたり玉ふな、かたりたらば幽霊を見んとて村の若人らが来べきぞ。心えたるはとて立皈りぬ。
○斯てその黄昏にいたり、源教は常より心して仏に供養し、そこら清らになし経を誦し居たり。七兵衛はやきたりぬ。誦しをはりて七兵衛に物などくはせ、さて日もくれければ仏壇の下の戸棚にかくれをらせ、覗くべき節孔もあり、さて仏のともし火も家のもわざと幽になし、仏のまへに新薦をしきて幽霊を居らする所とし、入り口の戸をもすこしあけおき、研たてたる剃刀二てうを用意し今や〱と幽霊を待居たり。此夜はしかも雪になりて、すこしあけおきたる戸口よりもふりこむ風にあかしもきえんとするゆゑ、戸をさし炉のはたにありて戸棚の七兵衛にいふやう、蒲団はしきおきたり、そこにありて眠り玉ふな。いかでさることせん、幽霊を見んとおもへば心に念仏するのみ也。御坊こそくせをいだしてふねこぎ玉ふらめ、吁、音たかししづかにいへ、幽霊を見るともかまへて音をたて玉ふな、といひつゝ手作とて人にもらひたる烟草のあらく刻たるもやゝ吸あきて、呻に念仏を噛まぜ頷ひ撫まはししが髭をぬきて居たり。雪は雪簾にあたりてさら〱と音のふのみ、四隣なければ寂として声なくやゝ時もうつりけり。
○さて幽霊は影も見えず、源教は炉に温りて睡眠をもよほし、居眠りしつゝ終に倒れんとして目をひらきしに、お菊が幽霊何時か来りて仏に対ひ、まうけたる新薦の上に坐り頭を低てゐたり。さすがの源教も戦慄せしが、心をしづめてよくこそきたりつれといふに、幽霊はさらにことばをいださず、すがたは昨夜見たるにたがはず。源教手をそゝぎ盥に水をくみとり剃刀をもちて立より見れば、打みだしたる髪つゆのたるばかりぬれてあり。されど雪ふるなかをきたりしといふしるしもなし。心におもふやう、これが髪の毛をのこしとゞめて后のしるしとせばやなど心して剃刀をはこばせけるに、そりおとす髪の毛糸をつけて引がごとくかれが懐に入る。女なれば髪の毛を惜むならんと毛を指にからみて剃りしに、自然ふところに入りて手にとゞまらず。とかくして剃りをはり、わづかすこしの毛はやうやくとりとゞめつ。幽霊は白く痩たる掌を合せ、仏を拝みつゝすがた次第に薄くなると見えしがきえうせけり。
○　関山村の毛塚
　かくて紺屋七兵衛かくれゐたる戸棚よりはひいで、さても怖しきものを見つる事かな、いかに法師なればとてよくぞ剃刀をあて玉ひたる、たゞ見るさへおそろしかりき、独りかへらんも気味わろし今夜はこゝに宿らん。いかにもやどり玉へ、待し人の皈りたればもはや用なし、これ見玉へ、后の証しにせばやとてこればかりの髪の毛をやう〱のこしおきたり、幽霊も心ありてのこしつらんとて見せければ、七兵衛はさしのぞきて手にもとらず。法師は紙につゝみて仏壇におき、夕間にのみ玉ひし酒ものこりあり、肴はなくとものみ玉へとていさゝかのものとりいだして、二人ながら炉のはたに胡坐かきて酒のみながら七兵衛がいふやう、幽霊といふもの話にはきゝつるが見しははじめて也、袖振合すも他生の縁とこそいふなれ、いたづらに見すぐさんも本意なし、今夜こそ仏法のありがたさも身にしみつれば、あすは此いほりにて百万遍をなしてお菊が仏果のいとなみにせん。源教、そはよき功徳ならん、古志郡のお菊がいうれいを見とゞけたりと人々にかたり玉へ、愚僧もわどのを証人として幽霊をかたりて教化のたよりにせん。すでにむかしもかゝる事ありしと砂石集に見えし事など、人にきゝたるをおぼろげにおぼえて一ツ二ツかたりきかせなどして、夜もふけゝれば一ツの夜具をふたりしてかづきうちふしけり。
○さてあけの日、七兵衛源教を伴ひて家に皈り、四隣の人をあつめてお菊が幽霊の事をかたりければ、源教懐よりかの髪の毛をとりいだして見すれば人々奇異のおもひをなしぬ。さて七兵衛百万遍の事をいひしに、あつまりし者ども、それこそよき善行なれ、こよひもよほし玉へ、茶の子はこなたよりもちゆかん、御坊は茶の用意をし玉へ、数珠は庵にはなかりき、これもおてらのを借てもちゆかん、猶人々をもさそひあはせてゆかんといふ。七兵衛が妻もかたはらにありしが、夫にむかひ、とてもの事に餅をつきたまへとすゝむ。いかにもよからんとて俄にそのもよほしをなしけり。
○かくてその夜源教が草庵に人々あつまり、おしこりあひて念仏しければ、なか〱ににぎはしき仏事也けり。此事こゝかしこに伝へ聞えて話柄としけるが、こゝろざしあるものゝいふやう、源教がもちしかの髪の毛を瘞め石塔を建て供養せば、お菊が幽魂黄泉地のかげにもよろこびなんといひ出ししに、おなし心の人あまたありてその事とゝのひ、終に石塔を建んとする時にいたりて、源教いふやう、かゝる㕝の導師たらんは我がおよぶ所にあらず、是最上山関興寺の上人を招請あれかしといふ。人々さらばとてかしこにいたり、事のよしをつげてお菊が戒名をもとめ、お菊が溺死たる橋の傍に髪の毛を埋め石塔を建る事すべて人を葬るが如くし、みなあつまりてねんごろに仏事を営みしに、かの紺屋七兵衛は此㕝より発心して後に出家しけるとぞ。こはひとむかしまへの事也ける、関山の毛塚とて今に残れり。
○　雪中鹿を追ふ
　他国の人、越後はすべて大雪の国とおもふめれどさにあらず。まへにもいへる如く海浜に近き所は雪浅し。雪ふかきは魚沼・頸城・古志の三郡、或は苅羽・三嶋の二郡、所によりて深浅あり蒲原は大郡にて雪薄き所なれども東南は奥羽に隣りて高嶺つらなるゆゑ、地勢によりては雪深き所あり。雪深き所は雪中牛馬を駆ず、いかんとなれば人は雪に便利のはきものを用ふれども牛馬にはこれをほどこす事あたはず、もし雪中にこれを追ば首のあたりまで雪にうづまらん、さればつかふ事ならざる也。およそ十月より歳を越えて四月のはじめまでは、むなしくやしなひおくのみ也。これ暖国にはなき難儀の一ツ也。さて獣はまへにもいへるごとく、初雪を見て山つたひに雪浅き国へ去る、しかれども行后れて雪になやむもあればこれを狩る事あり。熊の事は上巻にいへり野猪は猛きゆゑ雪ふかくとも得やすからず、鹿・羚羊などは弱きものゆゑ雪には得やすし。鹿はことさら高脛なるゆゑ雪にはしる事人よりおそきに似たり。鹿は深山をこのまず、おほかたは端山に居るもの也。すべて物に慣ればその妙あり、山猟に慣たる者は雪の足跡を見てその獣をしり、またこれは今朝のあしあと、こは今ゆきしあとゝその時をもしる也。三国嶺より北へつゞく二居の人たふげあるところ也の鹿おひしたるをきゝしに、いざ鹿おひにゆかんとてかたらひあはせ、おの〱雪を漕ぐべきふかき雪をゆくを里ことばにこぐといふほどに、身をかため山刀をさし、銕炮手鎗又棒など持て山に入り、かの足跡をたづねあとに随へばかならず鹿を見る。かれ人を見て逃んとすれども人のはしるにおよばず、鹿は深田をゆくがごとく終には追ひつめられてころさる。あるひは剛勇の人などは角をとりてねぢふせ、山刀にて剌殺もありとぞ。これらは暖国にはなき事ならめ。
○　泊り山の大猫
　我が隣駅関にちかき飯士山に続く東に、阿弥陀峯とて樵する山あり。村々持分ンの定あり二月にいたり雪の降止たる頃、農夫ら此山に樵せんとて語らひあはせ、連日の食物を用意しかの山に入り、所を見立て仮に小屋を作り、こゝを寐所となし、毎日こゝかしこの木を心のまゝに伐とりて薪につくり、小屋のほとりにあまた積おき、心に足るほどにいたればそのまゝに積おきて家に皈る。これを泊り山といふ。山にとまりゐて㕝をなすゆゑ也さて夏秋にいたれば積おきたる薪も乾ゆゑ、牛馬を駆ひて薪を家に運びて用にあつる也。雪ふかき所は雪中には山に入りて樵する事あたはざるゆゑの所為にて、我国雪の為に苦心するの一ツ也。右にいふあみだぼうには水なく、谷川あれども山よりは数丈の下をながる、翼なければ汲ことあたはず。こゝに年歴たる藤蔓の大木にまとひたるが谷川へ垂下りたるあり、泊り山して水汲もの樽を脊にくゝし負ひ、此ふぢづるをたよりとして谷川へくだり、水をくみてたるの口をつめて脊おひ、ふたゝびふぢづるに縋りてのぼる、雲桟をのぼるさま也。とまり山をするもの、このふぢづるなければ水をくむ事ならず、よしや縄を用ふとも此藤の強にはおよぶまじ。このゆゑに泊り山するものら、此蔓を宝のごとく尊ぶとぞ。ひとゝせ泊り山したるものゝかたりしは、ことし二月とまり山しゝ時、連のもの七人こゝかしこにありて木を伐りて居たりしに、山々に響くほどの大声して猫の鳴しゆゑ、人々おそれおのゝきみな小屋にあつまり、手に〱斧をかまへ耳をすましてきけば、その声ちかくにありときけば又遠くに鳴、とほしときけばちかし。あまたの猫かとおもへば、其声は正しく一ツの猫也。されどすがたはさらに見せず、なきやみてのち七人のものおそる〱ちかくなきつる所にいたりて見るに、凍たる雪に踏入れたる猫の足跡あり、大さつねの丸盆ほどありしとかたりき。天地の造物かゝるものなしともいふべからず。我が友信州の人のかたりしは、同じ所の人千曲川へ夏の夜釣に行しに、人の三人もをるべきほどのをりよき岩水より半いでたるあり、よき釣場なりとてこれにのぼりてつりをたれてゐたりしに、しばしありてその岩に手鞠ほどに光るもの二ツ双びていできたり、こはいかにとおもふうちに、月の雲間をいでたるによくみれば岩にはあらで大なる蝦蟇にぞありける。ひかりしものは目なりけり。此人いきたる心地もなく何もうちすてゝ逃げさりしとかたりぬ。
○　山言語
　右の泊り山するは此地にかぎらず外にもする所あり。小出嶋といふあたり、上越後山根の在々にてもするなり。すべて深山にありて事をなすには山ことばといふありてこれをつかふ。忘れて里のことばをつかふ時はかならず山神の祟りありといひつたふ。他国はしらず、その山言語とは、○米を草の実○味噌をつぶら○塩をかへなめ○焼飯をざわう○雑水をぞろ○天気の好をたかゞいゝ○風をそよ○雨も雪もそよがもふといふ。○蓑をやち○笠をてつか○人の死をまがつた又はへねた○男根をさつたち○女陰を熊の穴。此余あまたあり、さのみはとてしるさず。女陰を熊の穴といふをもておもふに、これらのことばは商家の符調といふものにおなじかるべし。かゝることばを山にてつかはざれば山神の祟りたまふといふは信がたけれど、神の㕝は人慮をもてかろ〱しく誣べからざる物をや。
○　童の雪遊び
　我があたりはしば〱いへるごとく、およそ十月より翌年の三月すゑまでは歳を越て半年は雪也。此なかに生れ、此なかに成長するゆゑ、わらべの雪遊びをなす事さま〲ありて、暖国にはなき事多し。その中に暖国の人にはおもひもよらざるあそびあり、まづ雪を高く掘揚おきたる上などを童ども打よりて手あそびの木鋤にて平らになしてふみつけ、わらべも雪中にはわらくつをはくこと雪国のつねなりさて雪をあつめて土塀を作るやうによほどの囲をつくりなし、その間ひにも雪にて壁めく所をつくり、こゝに入り口をひらきて隣の家とし、すべての囲にも入り口をひらく。此内に宮めかす所を作り、まへに階をまうけ宮の内に神の御体とも見ゆるやうにつくりすゑ、これを天神さまと称しゑびす大こくなどもつくる筵などしきつめ物を煮べき所をも作る。すべてみな雪にて作りたつる也。雪をくぼめ、ぬかをしきて火をたくに、きゆる事なしこれを雪ン堂又城ともいふ。児曹右の雪ン堂の内にあつまり物など煮て神にもさゝげ、みなよりてうちくふ。又間にへだてを作りたるはとなりの家に准へ、さま〲の事をなしてたはむれ遊ぶ。あそび倦ば斯作りたるを打こぼつをもあそびとし、又他の童のこれにちかくおなじさまに作りたるを城をおとすなどいひてうちくるふもあり、そのまゝにおくもあり。おのれ牧之も童のころはかゝるあそびの大将をもせしが、むなしく犬馬の齢を歴て今は夢のやう也けり。
○　雪に坐頭を降す
　まへにもいへるごとく雪のうちに春をむかふるゆゑ、歳越の日などはいづれの家にてもことさらに雪を掘て窻のあかりをとり、ほりたる雪も年越の事しげきにまぎれて取除をはらず、掘揚の屋上にひとしき雪道歩行にたよりあしき所もあり。ひとゝせ歳越の夜、余が点をしたる俳諧の巻を懐にし、俳友兎角子を伴ひ、その巻の催主のもとへいたりて巻を主に遣しければ、よろこびて、今夜はめでたき夜なり、ゆる〱語り玉へとて、主人の妻娶娘も打まじりてもてなしけり。さてさま〲の雑談のなかにあるじのつま牧之に、歳こしの夜は鬼の来るとて江戸には厄払ひといふものありて鬼を追ふ事をおもしろくいひたてゝ物乞ひすときゝしが、むかしもさる事ありしや、鬼の来るといふ空言も古きつたへにやと問ふ。余こたへて、そはあるじが持玉ふ年浪草に吾山があらましはしるせり、かの書を見玉へといひしに、兎角子は酒にも酔たれば戯言ていふやう、鬼のくるといふ事いかでそらごとならん、女などのあつまりをる所は鬼の好む所也。鬼のくればこそとしこしの豆まきを鬼やらひとはいふなれ、俳諧の季よせにも見えたりといふ。母のかたはらにゐたる十三になる娘がいふ、わぬしその鬼を見し事ありしや。見たりとも〱鬼にもさま〲あり、青鬼赤鬼は常の事也、㒵の白くてやさしきを白鬼といひ、黒くて肥太りたるを黒鬼といふ。おのれ江戸に在し時、厄払が鬼をかいつかみて西の海へさらりと投たるを見たる事あり、その鬼は黒かりし。江戸の歳越にさへ夜は鬼のありくなれば、こゝらのとしこしには鬼はいくらもありくべし。あかり窓よりのぞきやすらんとたはむれにおどせば、よめもむすめも空言のたまふなと口にはいへど、母の左右によりつきておそるゝさま也けり。かゝるをりしも人々の座りゐたる后の方にたかきあかり窓ありしが、きびしき音ありてまどをやぶり、掘あげの雪がら〱と崩れおちたる中に人の降りくだりければ、女はみな吁といひてうつぶして愕然迷ひ、男はみな立あがりておどろきけり。下部らもこのおとにみなはせよりて、崩れおちたる雪にまみれたる人を見れば、此家へも常にきたる福一といふ按摩とりの小座頭也けり。幸ひに疵もうけずあたま撫まはし腰をさする、こは福一なりとてみなわらへばおのれもわらふ。下部らはおちたる雪をとりのけ窓をもかりにつくろひなどす。あるじの妻はらたてゝ、いかに福一、兎角どのゝ鬼のはなししてをられしに鬼かとおもひて皆きもをひやせり、めでたきとしの夜に盲が窓よりふりこみしはいまはしき事なり、とく〱いでゆけとてしたゝかにしかりければ、あるじ、さなしかり給ひぞ、福一いかにして窓よりおちいりしぞ、いためし所はなきかといふ。福一うちゑみつゝ、いためし所は候はず、今夜のおめでたを申さんとてこそやどはいでたれ、なにやつのしわざにや、掘あげの道きのふとはちがひてあしもとあしくしおきたれば、あやまちて転たるが窓をもおしやぶりておち入たる也、わろさにてしたるには候はずゆるし玉へといふ。娵も娘も口をそろへ、鬼にやとていみじくおびえたり、憎き盲めと腹立ていふ。あるじのつまいかりをやめず、しかもことしの吉方にあたる窓をやぶり目のなきものゝ入りしは、かへす〱いまはしき事也、とく〱かへれとのゝしりければ、兎角かたはらより、福一まづかへりて又こよ、そのうちにわびしておくべしといへど、福一かしらをたれものを按ずるさまなりしが、やがて兎角にむかひ、哥一首よみ候かきて玉はれといふ。此福一はとしわかけれど俳諧もざれ哥をもよむものなれば、あるじ、こはおもしろしとて兎角がかきたるをよませてきけば、そのうたに
吉方から福一といふこめくらが入りてしりもちつくはめでたし
このうたにて人々めでたし〱ときやうじ、手など抃ていさみよろこび、ふたゝび盃をめぐらしけり。あるじもんつきの羽織を娶にとりいださせて、哥のろくとて福一にとらせければ、膝にのせてなでさぐり、あやまちの高名しつとてゑみはうけてよろこびつゝ、めでたく歳越にきそはじめせんとて、羽おりきてなでさぐり、かたちをつくりて猶よろこびけり。之が吉瑞と成けん、此年此家の娶初産に男子をまうけ、やまひもなくておひたち、三ツのとし疱瘡もかろくして今年七ツになりぬ。福一はかゝる伶俐ものなりしゆゑ、今江戸にありて宦にもすゝみしと聞ぬ。目でたき事どもなりけり。
少年
画者　　　京水百鶴
北越雪譜初編巻之下　終　全三巻大尾
北越雪譜二編叙
北越雪譜六巻越後塩沢鈴木牧之老人雪窗囲炉寒燈隠几随筆、其事出実脚徒非構空架虚之談、然翁固不必期於梓行矣、嚮者郵筒懇乞校正、為之芟刈蕪蔓摭擷菁英先輯三巻以為初編、告翁使書肆文渓堂刊布之、然後越雪之奇千彙万状供臥遊資錦室婦妾市窓妻婢得詳知越䨮、解士通人或云格致之一助、爰以雪譜之名頗踴躍、於是乎書肆頻乞嗣撰、盖以知其残稿在也、余謂不踏越地不可説越事、仍丁酉之夏携児京水越遊数十日有紀行作、再採数修刪補翁之残稿以為二編稿定将置序言焉、頃者暁春連日放晴紅酣緑戦花神旺壮遊心勃興、欲詣賽成田山威怒王祠以療錐毛之痾矣、夫成田山香火之盛世之所知也、凡自江戸到成田者抵小網衖橋岸買搭船水路直往行徳、都人皆以為捷径、盖行徳一市会也、不必成田香火者搭船常歯列于橋岸待行客、是以俗呼茲岸云行徳河岸呼茲船云行徳船、余亦臨此搭船、其所供載者多是庸卑雑沓猥褻衆口喋嘈、余傍在一僧一士一商、僧年歯六十許従一童僧、士可二十四五誇觜軽俊殆似学究、商半老懜憧市様、相倶接膝、余箝黙不敢出一語、瓦屋漸尽両岸茅葺桜花浮雪嫰柳吐烟村落春景百逞如画頗水行之会心也、船既過半途庸卑多就眠嘈々自罷寥々可悦、壮士出墨斗持懐楮覔句、果是書生也、老僧以靉靆鏡披書、士閣筆曰尊者所執是何書、僧曰北越雪譜、士曰僕甞読之兎園冊子何足以閲、僧曰貧道一錫留于北親知越雪故特購之供以読矣、今閲京山人序彼少識字乎、士曰否々不然、夫京山者文場之奴隷芸苑之㒜儓也、近年随落乎稗史院本之泥中汚塗姓名遂不能脱其窠窟、雖然彼自為李漁金人瑞之流亜文客争許之乎、僧咍然笑而不応、余佯睡聞之、商已烟曰鄙人書賈也能識刊行之趣、凡上梓之書不論編輯之荒誕与詞章之奇雋只以多鬻為大著述奉其作者為揺銭樹翁、雖感服韻士新書苦其不売唾而不顧、是書肆之通義曹耦之常態也、北越雪譜初編之梓一挙販七百余部刷板装本至不暇給故二編刻発兌当有近矣、士不然其言調舌不止鼓觜頻敲、僧手釈巻曰、論説姑置足下識京山乎否、士曰不識、僧曰我十年前与彼会於一精舎僅得一面識、不為無因縁、言畢遽然拍余背曰、京山老人醒眠長兄忘我歟、余愕然不得応、時船着行徳之岸舟中之人皆上岸、不得絮叨吐欵于茲矣、此夕綴其言於逆旅燈下以為序云
天保十一年庚子潔月京山人百樹并書　
北越雪譜二編凡例
　此書全部六巻、牧之老人が眠を駆の漫筆、梓を俟ざるの稿本なり。故に走墨乱写し、図も亦艸画なり。老人余に示して校訂を乞ふ。因て其駁雑を刪り、校訂清書し、図は豚児京水に画しめしもの三巻、書賈の請に応じ老人に告て梓を許し以世に布しに、発販一挙して七百余部を鬻り。是に依て書肆後編を乞ふ。然ども余が机上它の編筆に忙く屡稿を脱るの期約を失ひしゆゑ、近日務て老人が稿本の残冊を訂し、以其乞に授く。
　牧之老人は越後の聞人なり。甞貞介朴実を以聞え、屡県監の褒賞を拝して氏の国称を許る。生計の余暇風雅を以四方に交る。余が亡兄醒斎京伝の別号翁も鴻書の友なりしゆゑ、余も亦是に嗣ぐ。老人余に越遊を奨しこと年々なり。余固山水に耽の癖あり、ゆゑに遊心勃々たれども事に紛て果さず。丁酉の晩夏遂に豚児京水を従て啓行す。始には越後の諸勝を尽さんと思ひしが、越地に入し後、年稍侵して穀価貴踊し人心穏ならず、ゆゑに越地を践こと僅に十が一なり。しかれども旅中に於て耳目を新にせし事を挙て此書に増修す。百樹曰といふもの是也。
　前編に載たる三国嶺の図は、牧之老人が草画に傚て京山私儲満山に松樹を画り。余越遊の時三国嶺を踰しに此嶺はさらなり、前後の連岳すべて松を見ず。此地にかぎらず越後は松の少き国なり。三国嶺を知る人は松を画しを笑ふべし。是老人が本編の誤には非ず、京水が蛇足なり。
　山川村庄はさらなり、凡物の名の訓かた清濁によりて越後の里言にたがひたるもあるべし。然ども里言は多く俗訛なり、今姑俗に从もあり。本編には音訓の仮名を下さず、かなづけは余が所為なり。謬を本編に駆こと勿れ。
　余也固浅学にして多く書を不読、寒家にして書に不富、少く蔵せしも屡祝融に奪れて、架上蕭然たり。依之増修の説に於て此事は彼書に見しと覚しも、其書を蔵せざれば急就の用に弁ぜず、韈癬するが多し。且浅学なれば引漏したるも最多かるべし。
　本編雪の外它の事を載たるは雪譜の名を空うするに似たれども、姑記して好事の話柄に具す。増修の説も亦然り。
　雪の奇状奇事其大概は初編に出せり。猶軼事有を以此二編に記す。已に初編に載たるも事の異なるは不舎して之を録す。盖刊本は流伝の広きものゆゑ、初編を読ざる者の為にするの意あり。前後を読人其層見重出を詰こと勿れ。
　釋の字釈に作の外、澤を沢、驛を駅に作は俗なり、しかれども巻中驛澤の字多し。姑俗に从うて駅沢に作り、以梓繁を省く。余の省字は皆古法に从ふ。
　巻中の画、老人が稿本の艸画を真にし、或は京水が越地に写し真景、或里人の話を聞て図に作りたるもあり、其地に照して誤を責ることなかれ。
　老人編を嗣の意あり、ゆゑに初編二編といふ。前編後編といはず。
天保十一年庚子仲春
京山人百樹識
北越雪譜二編　巻一
越後塩沢　　　鈴木牧之　　編撰
江戸　　　　　京山人百樹　増修
○　越後の城下
　越後の国往古は出羽越中に距りし事国史に見ゆ。今は七郡を以て一国とす。東に岩船郡古くは石に作る海による蒲原郡新潟の湊此郡に属す西に魚沼郡海に遠し北に三嶋郡海による刈羽郡海に近し南に頸城郡海に近き処もあり古志郡海に遠し以上七郡也。城下は岩船郡に村上内藤侯五万九千石ヨ蒲原郡に柴田溝口侯五万石黒川柳沢侯一万石陣営三日市柳沢弾正侯一万石陣営三嶋郡に与板井伊侯二万石刈羽郡に椎谷堀侯一万石陣営古志郡に長岡牧野侯七万四千石ヨ頸城郡に高田榊原侯十五万石糸魚川松平日向侯一万石陣営以上城下の外頗豊饒を為す処、魚沼郡に小千谷、古志郡に三条、三嶋郡に寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる㕝論を俟ず。此余の豊境は姑略す。此地皆十月より雪降る、その深と浅とは地勢による。猶末に論ぜり。
○　古哥ある旧蹟
　蒲原郡の伊弥彦山弥一作夜伊弥彦社を当国第一の古跡とす。祭るところの御神は饒速日命の御子天香語山命なり。　元明天皇の和銅二年の垂跡とす。社領五百石此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海浜八十里の中ほどに独立して山脉いづれの山へもつゞかず。右に国上山、左に角田山を提攜して一国の諸山是に対して拱揖するが如く、いづれの山よりも見えて実に越後の鎮ともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ命もこゝに垂跡まし〱たれ。此御神の縁起或は灵験神宝の類記すべき㕝あまたあれども姑こゝに省。
○さて此山をよみたる古哥に万葉「いや日子のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふるよみ人しらず」又家持に「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつぬつきながら」▲長浜　頸城郡に在り。三嶋郡とする説もあり家持の哥に「ゆきかへる雁のつばさを休むてふこれや名におふ浦の長浜」▲名立　同郡西浜にあり、今は宿の名によぶ。　順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都をばさすらへ出し今宵しもうき身名立の月を見る哉」▲直江津　今の高田の海浜をいふ。　同御製に「なけば聞きけば都のこひしきに此里すぎよ山ほとゝぎす」▲越の湖　蒲原郡に潟とよぶ処多し。里言に湖を潟といふ。その大なるを福嶋潟といふ、四方三里計。此潟に遠からずして五月雨山あり。貫之の哥に「潮のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり」又俊成卿に「恨てもなにゝかはせんあはでのみ越の湖みるめなければ」又為兼卿「年をへてつもりし越の湖は五月雨山の森の雫か」▲柿崎頸城郡にある駅也　親鸞聖人の詠玉ひしとて口碑に伝へし哥に「柿崎にしぶ〱宿をもとめしに主の心じゆくしなりけり」按ずるに、聖人御名を善信と申て三十五歳の時讒口に係りて越後に謫さる、時に承元元年二月なり。後五年を経て勅免ありしかども、法を弘ん為とて越後にいまししこと五年なり、故に聖人の旧跡越地に残れり。弘法廿五年御歳六十の時洛に皈玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長二年十一月廿八日遷化寿九十歳。件の柿崎の哥も弘法行脚の時の作なるべし。
　此外▲有明の浦▲岩手の浦▲勢波の渡▲井栗の森▲越の松原いづれも古哥あれども、他国にもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を去㕝天保十一子なり五百四十一年前、永仁六年戌のとし藤原為兼卿佐渡へ左遷の時、三嶋郡寺泊の駅に順風を待玉ひし間、初君といふ遊女をめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこし路の浦の白浪も立かへるならひありとこそきけ」此哥吉瑞となりてや、五年たちてのち嘉元元年為兼卿皈洛ありて、九年の後正和元年玉葉集を撰の時、初君が件の哥を入れられ玉へり、是を越後第一の逸事とす。初君が古跡今寺泊に在り、里俗初君屋敷といふ。貞享元年釈門万元記といふ初君が哥の碑ありしが、断破しを享和年間里入重修して今に存せり。
○　雪の元日
　凡日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔も今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住魚沼郡なり。次に古志郡、次に頸城郡なり。其余の四郡は雪のつもる㕝三郡に比すれば浅し。是を以論ずれば、我住魚沼郡は日本第一に雪の深降所なり。我その魚沼郡の塩沢に生れ、毎年十月の頃より翌年の三四月のころまで雪を視事已に六十余年、近日此雪譜を作るも雪に籠居のすさみなり。
○さて我塩沢は江戸を去こと僅に五十五里なり、直道を量ばなほ近かるべし。雪なき時ならば健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の㕝はしらず、市中は千門万戸千歳の松をかざり、直なる　御代の竹をたて、太平の七五三を引たるに、新年の賀客麻上下の肩をつらねて往来するに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追ひの三味線にめでたき哥をうたひ、娘の児のやり羽子、男の児の帋鳶、見るもの聞ものめでたきなかに、初日影花やかにさし昇たる、実に新玉の春とこそいふべけれ。其元日も此雪国の元日も同元日なれども、大都会の繁花と辺鄙の雪中と光景の替りたる事雲泥のちがひなり。
○そも〱我里の元日は野も山も田圃も里も平一面の雪に埋り、春を知るべき庭前の梅柳の類も、去年雪の降ざる秋の末に雪を厭て丸太など立て縄縛に遇たるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不見、翁が句に　春も稍景色とゝのふ月と梅、と吟ぜしは大都会の正月十五日なり。また「山里は万歳遅し梅の花」とは辺鄙の三月なるべし。門松は雪の中へ建、七五三かざりは雪の軒に引わたす。礼者は木屐をはき、従者は藁靴なり。雪径に階級ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全く消る夏のはじめにいたらざれば、草履をはく事ならず。されば元日の初日影も惟雪の銀世界を照すのみ。一ツとして春の景色を不見。古哥に「花をのみ待らん人に山里の雪間の草の春を見せばや」とは雪浅き都の事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生涯を終る。これをおもへば繁栄豊腴の大都会に住て年々歳々梅柳媆色の春を楽む事実に天幸の人といふべし。
○　雪の正月
　初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛をなすは稀なり、大かたは白砂を降すが如し。冬の雪はさらに凝凍ことなく、春にいたればこほること鉄石のごとし。冬の雪のこほらざるは湿気なく乾たる沙のごとくなるゆゑなり。是暖国の雪に異処なり。しかれどもこほりてかたくなるは雪解とするのはじめなり。春にいたりても年によりては雪の降こと冬にかはらざれども、積こと五六尺に過ず。天地に阳気有を以なるべし。されば春の雪は解るもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上の雪を掘ことあり。掘とは椈の木にて作りたる木鋤にて土を掘ごとくして取捨るを里言に雪を掘といふ、已に初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重に屋を潰ゆゑなり。されば旧冬の家毎に掘除たる雪と春降積たる雪と道路に山をなすこと下にあらはす図を見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高ゆゑ、春を迎る時にいたればこゝろよく日光を引んために、明をとる処の窗に遮る雪を他処へ取除るなり。然るに時としては一夜の間に三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗、心も朦々として雑煮を祝ふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国の人に見せたくぞおもはるゝ。
○　玉栗
　江戸の児曹が春の遊は、女児は繍毬羽子擢、男児は紙鴟を揚ざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩行に苦しく路上に遊をなす事少し。こゝに玉栗といふ児戯あり。春にもかぎらず雪中のあそび也始は雪を円成て雞卵の大さに握りかため其上へ〱と雪を幾度もかけて足にて踏堅、あるひは柱にあてゝ圧堅、これを肥といふ。さて手毬の大さになりたる時他の童が作りたる玉栗を庇下などに置しめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、強き玉栗弱き玉栗を砕くをもつて勝負を争ふ。此戯所によりて、○コンボウ○コマ○地独楽○雪玉里のなまりに雪をいきといふ○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝合などいふなり。此玉栗を作るに雪に少し塩を入るれば堅なること石の如し、ゆゑに小児互に塩を入るを禁ずるなり。こゝを以てみる時は、塩は物を堅むる物なり。物を堅実にするゆゑ塩蔵にすれば肉類も不腐、朝夕嗽に塩の湯水を以すれば歯をかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児戯なれど、塩の物を堅する証とするにたれり。故にこゝに記せり。又童のあそびに雪ン堂といふ㕝あり、初編にいだせり。
○羽子擢　我里俗はねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし
　江戸に正月せし人の話に、市中にて見上るばかり松竹を飾たるもとに、美く粧ひたる娘たち彩たる羽子板を持て並び立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢は辺鄙とはいひながら、かゝる艶姿にあらず。正月は奴婢どもゝ少しは許て遊をなさしむるゆゑ、羽子を擢んとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角力場のごとくになし、羽子は溲疏を一寸ほど筒切になし、これに鸐雉の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比れば甚大なり。これを擢に雪を掘木鋤を用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空にあがる㕝甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童はまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯をなすなり。一ツの羽子を並びたちてつくゆゑに、あやまちて取落したるものは始に定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭より雪をあぶする。その雪襟懐に入りて冷に耐ざるを大勢が笑ふ、窗よりこれを視るも雪中の一興なり。京伝翁が骨董集に上編ノ下下学集を引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は詳ならずといはれたり。又下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。
○　雪吹に焼飯を売
　雪国にて悚懼物は、冬の○雪吹○ホウラ、春の雪頽なり。此奇状奇事已に初編にもいへり、されど一奇談を聞たるゆゑこゝにしるして暖国の話柄とす。
○そも〱金銭の貴こと、魯氏が神銭論に尽したれば今さらいふべくもあらず。年の凶作はもとより事に臨で餓にいたる時小判を甜て腹は彭張ず、餓たる時の小判一枚は飯一碗の光をなさず。五十余年前の饑饉の時、或所にて餓死したる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。
○こゝに我が魚沼郡藪上の庄の村より農夫一人柏崎の駅にいたる、此路程五里計なり。途中にて一人の苧纑商人に遇ひ、路伴になりて往けり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴たれば、両人肩をならべて心朗にはなしながら已に塚の山といふ小嶺にさしかゝりし時、雪国の恒として晴天俄に凍雲を布、暴風四方の雪を吹散して白日を覆ひ、咫尺を弁ぜず。袖襟へ雪を吹入れて全身凍て息もつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦に巻揚る、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意にあるものゆゑ、晴天といへども冬の他行には必蓑笠を用ること我国の常なり。二人は橇に雪を漕つゝ雪にあゆむを里言にこぐといふ互に声をかけて助あひ辛じて嶺を逾けるに、商人農夫にいふやう、今日の晴天に柏崎までは何ともおもはざりしゆゑ弁当をもたず、今空腹におよんで寒に堪ず、かくては貴殿に伴て雪を漕ことならず、さいぜんの話におみさまの懐に弁当ありときゝぬ、夫を我に与へたまふまじきや、惟には貰ふまじ、こゝに銭六百あり、死か活かの際にいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売玉へといふ。農夫は貧乏の者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯二ツを出して六百の銭に替けり。商人は懐にありて温のさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽を潤して精心健になり前にすゝんで雪をこぎけり。
○かくていそぐほどに雪吹ます〱甚しく、橇を穿ゆゑ道遅く日も已に暮なんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫は肚減て労れ、商人は焼飯に腹満足をすゝめて往。農夫は屡後るゆゑ終には棄て独先の村にいたり、しるべの家に入りて炉辺に身を温て酒を酌、始て蘇生たるおもひをなしけり。
○さてしばらくありてほうい〱と呼声遠く聞るを家内の者きゝつけ、ふゞきにほうい〱とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす雪吹倒れぞ、それ助けよとて、近隣の人をもよび集め手毎に木鋤を持て木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也走行しが、やゝありて大勢のもの一人の死骸を家の土間へ舁入れしを、かの商人も立寄見れば、最前焼飯を売たる農夫なりしとぞ。この苧纑商人、或時余が俳友の家に逗留の話に件の事を語り出し、彼時我六百の銭を惜み焼飯を買ずんば、雪吹の中に餓死せんことかの農夫が如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友が語れり。
○　雪中の戯場
　五穀豊熟して年の貢も心易く捧げ、諸民鼓腹の春に遇し時、氏神の祭などに遭しを幸に地芝居を興行する㕝あり。役者は皆其処の素人あるひは近村近駅よりも来るなり。師匠は田舎芝居の役者を傭ふ。始に寺などへ群居て狂言をさだめてのち、それ〱の役を定む。此群居の議論紛々として一度にて果したる㕝なし。事定りてのち寺に於て稽古をはじむ、技熟してのち初日をさだめ、衣裳髢のるゐは是を借を一ツの業とするものありて物の不足なし。此芝居二三月の頃する事あり、此時はいまだ雪の消ざる銀世界なり。されば芝居を造る処、此役者等が家はさらなり、親類縁者朋友よりも人を出し、あるひは人を傭ひ芝居小屋場の地所の雪を平らかに踏かため、舞台花道楽屋桟敷のるゐすべて皆雪をあつめてその形につかね、なりよく造ること下の図を見て知るべし。此雪にて造りたる物、天又人工をたすけて一夜の間に凍て鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの崩る気づかひなし。弥生の頃は雪もやゝ稀なれば、春色の空を見て家毎に雪囲を取除るころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪垂とて茅にて幅八九尺広さ二間ばかりにつくりたる簾を借あつめてすべての日覆となす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに冰つきて釘付にしたるよりも堅し。暖国に比れば論の外なり。物を売茶屋をも作る、いづれの処も平一面の雪なれば、物を煮処は雪を窪め糠をちらして火を焼ば、雪の解ざる事妙なり。
○さて戯場の造作成就しても春の雪ふりつゞきて連日晴を見ず、興行の初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗留の客多く毎日空をながめて晴を待わび、客のもてなしもしつくして殆倦果、終には役者仲間いひあはせ、川の冰を砕て水を浴千垢離して晴を祈るもをかし。
百樹曰、余丁酉の夏北越に遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞て京水と倶に至りしに、寺の門の傍に杭を建て横に長き行燈あり、是に題して曰、当院屋根普請勧化の為本堂に於て晴天七日の間芝居興行せしむるものなり、名題は仮名手本忠臣蔵役人替名とありて役者の名多くは変名なり。寺の門内には仮店ありて物を売り、人群をなす。芝居には仮に戸板を集て囲たる入り口あり、こゝに守る者ありて一人前何程と価を取、これ屋根普請の勧化なり。本堂の上り段に舞台を作り掛、左に花道あり、左右の桟敷は竹牀簀薦張なり。土間には薦を布、筵をならぶ。旅の芝居大概はかくの如しと市川白猿が話にもきゝぬ。桟敷のこゝかしこに欲然やうな毛氈をかけ、うしろに彩色画の屏風をたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿帽子したるは辺鄙に古風を失ざる也。観人群をなして大入なれば、猿の如き童ども樹にのぼりてみるもあり。小娘が笊を提て冰々とよびて土間の中を売る。笊のなかへ木の青葉をしき雪の冰の塊をうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削氷の条にいふべし。
○さて口上いひ出て寺へ寄進の物、あるひは役者へ贈物、餅酒のるゐ一々人の名を挙、品を呼て披露し、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕開。おかるに扮しは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯子なるよし、頗る美なり。由良の助に扮しは余が旅中文雅を以識人なり、年若なればかゝる戯をもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似たり。技も又観に足り。寺岡平右ヱ門になりしは余が客舎にきたる篦頭なり、これも常にかはりて関三十郎に似て音声もまた天然と関三の如し。余京水と相顧て感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉けるが、尾張屋は関三の家号なる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕にてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便所は寺の後にあり、空腹ならば弁当を買玉へ、取次申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人散ば演場の蕭然を厭ふゆゑなるべし。いづくにか出所あらんと尋しに、此寺の四方垣をめぐらして出べきの隙なし。折ふし童が外より垣をやぶりて入りたるその穴より両人くゞりいでしは、これも又可笑一ツにてぞありし。
○　家内の氷柱
　旧冬より降積たる雪家の棟よりも高く、春になりても家内薄暗きゆゑ、高窓を埋たる雪を掘のけて明をとること前にもいへるが如し。此屋上の雪は冬のうちしば〱掘のくる度々に、木鋤にてはからず屋上を損ずる㕝あり。我国の屋上おほかたは板葺なり、屋根板は他国に比れば厚く広し。葺たる上に算木といふ物を作り添石を置て鎮とし風を防の便とす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早春の雪ふりつもりて凍ゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍深なれば雪も日あたりは解あるひは焼火の所雪早く解るにいたりて、かの屋根の損じたる処木羽の下たをくゞりなどして雪水漏ゆゑ、夜中俄に畳をとりのけ桶鉢のるゐあるかぎりをならべて漏をうくる。もる処を修治とするに雪全くきえざるゆゑ手をくだす㕝ならず、漏は次第にこほりて座敷の内にいくすぢも大なる氷柱を見る時あり。是暖国の人に見せたくぞおもはる。
百樹曰、余越遊して大家の造りやうを見るに、楹の太こと江戸の土蔵のごとし。天井高く欄間大なり、これ雪の時明をとるためなり。戸障子骨太くして手丈夫なるゆゑ、閾鴨柄も広く厚し。すべて大材を用る事目を駭せり、これ皆雪に潰ざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下を越後に雁木又は庇といふ、雁木の下広くして小荷駄をも率べきほどなり、これは雪中にこの庇下を往来の為なり。余越後より江戸へ皈る時高田の城下を通しが、こゝは北越第一の市会なり。商工軒をならべ百物備ざることなし。両側一里余庇下つゞきたるその中を往こと、甚意快なりき。文墨の雅人も多しときゝしが、旅中年の凶するに遭、皈家を急しゆゑ剌を入れざりしは今に遺憾とす。
○　雪中歩行の用具
　雪中歩行の具初編に其図を出ししが製作を記さず、ふたゝびその詳なるを示す。
○藁ひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、
○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。
○是はうちわらにて作りあむ。常の￼のまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。
○他国には革にて作りたるを見る。泥行には便なるべし。我国の雪中には途に泥ある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪●牛のつめなど、さま〲名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。
○ハツハキといふは里俗のとなへなり、すなはち裹脚なり。わらのぬきこあるひは蒲にても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。
○シナ皮とて深山にある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸あてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。
○シブガラミはあみはじめの方を踵へあて、左右のわらを足頭へからみて作るなり。里俗わら屑のやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛りいふなり。
○かんじきは古訓なり、里俗かじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形図の如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反してクマイブといふ蔓又はカヅラといふつるをも用ふ。山漆の肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。
○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣を追ふ也。右の外、男女の雪帽子雪下駄、其余種々雪中歩用の具あれども、薄雪の国に用ふる物に似たるはこゝに省く。
百樹曰、余北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕に命じて雪を漕形状を見せらる、京水傍にありて此図を写り。穿物は、○橇○縋なり。戯に穿てみしが一歩も進ことあたはず、家僕があゆむは馬を御するがごとし。
○　輴
　輴字彙禹王水を治し時載たる物四ツあり、水には舟、陸には車、泥には輴、山には欙。書経註しかれば此輴といふもの唐土の上古よりありしぞかし。彼は泥行の用なれば雪中に用ふるとは製作異なるべし。輴の字、○毳○蕝○橇○秧馬、諸書に散見す。或は○雪車○雪舟の字を用ふるは俗用なり。
　そも〱此輴といふ物、雪国第一の用具。人力を助事船と車に同く、且に作る事最易きは図を見て知るべし。堀川百首兼昌の哥に、「初深雪降にけらしなあらち山越の旅人輴にのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふの古をしるべし。前にもしば〱いへるごとく、我国の雪冬は凍ざるゆゑ、冬に輴をつかへば雪におちいりて擿ことならじ。輴は春の雪鉄石のごとく凍たる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里俗輴道になりしといふ。
　俳諧の季寄に雪車を冬とするは誤れり。さればとて雪中の物なれば春の季には似気なし。古哥にも多くは冬によめり、実にはたがふとも冬として可なり。
　輴は作り易物ゆゑ、おほかたは農商家毎に是を貯ふ。されば載るものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。只大なるを里俗に修羅といふ、大石大木をのするなり。
　山々の喬木も春二月のころは雪に埋りたるが梢の雪は稍消て遠目にも見ゆる也。此時薪を伐に易ければ農人等おの〱輴を拖て山に入る、或はそりをば麓に置もあり。常には見上る高枝も埋りたる雪を天然の足場として心の儘に伐とり、大かたは六把を一人まへとするなり。さて下に三把を並べ、中には二把、上には一把、これを縄にて強く縛し麓に臨で蹉跌に、凍たる雪の上なれば幾百丈の高も一瞬の間にふもとにいたるを輴にのせて引かへる。或はまた山に九曲あるには、件のごとくに縛したる薪の輴に乗り、片足をあそばせて是にて楫をとり、船を走すがごとくして難所を除て数百丈の麓にくだる、一ツも過ことなし。其術学ずして自然に得る処奇々妙々なり。
　輴を引て薪を伐こといひあはせて行ときは、二三人の食を草にて編たる袋にいれて輴にくゝしおくことあり。山烏よくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて食を喰尽す。樵夫はこれをしらず、今日の生業はこれにてたれり、いざや焼飯にせんとて打より見れば一粒ものこさず、烏どもは樹上にありて啼。人はむなしく烏を睨て詈り、空肚をかゝへて輴哥もいでず、輴をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。
　そりをひくにはかならずうたうたふ、是を輴哥とてすなはち樵哥なり。唱哥の節も古雅なるものなり。親あるひは夫山に入り輴を引てかへるに、遠く輴哥をきゝて親夫のかへるをしり、輴に遇処までむかへにいで、親夫をば輴に積たる薪に跨せて、妻や娘がこれをひきつゝ、これらも又輴哥をうたうてかへるなど、質朴の古風今目前に存せり。是繁花をしらざる幽僻の地なるゆゑなり。
　春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑もあるかなきかにくれゆく。されど二月の空はさすがにあをみわたりて、朗々なる窓のもとに書読をりしも遙に輴哥の聞るはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人情ぞかし。
百樹曰、我が幼年の頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく声、あるひは白酒々の声も春めきて心も朗なりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には江鰶の鮨鯛のすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹々に白妙の垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師走の竹ヤ〱はすゝはらふ竹うりなり聞に忙。物皆季に応じて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡笳の悲も又然らん。件のは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音、冬の水鵲をや。本編輴哥をきゝ春めきてうれしとは真境実事文客の至情なり、我是に感じてこゝに数言を置く。輴哥の春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。
　糞をのする輴哥あり、これをのするほどに小く作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺々として田圃も是下に在りて持分の境もさらにわかちがたし。しかるにかの糞のそりを引てこゝに来り、雪のほかに一点の目標もなきに雪を掘こと井を掘が如くにして糞を入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農奴等もする事なり。茫々たる雪上何を目的にしてかくはするぞと問ひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所為は賤けれども芸術の極意もこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初学の人芸に進の一端を示す。
　輴の大なるを里言に修羅といふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大持といふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻を拖し事ありき。かゝる時は修羅を二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋伐りてそのまゝ山中におき、輴を用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも拖をもつて雪の堅をしるべし。田圃も平一面の雪なればひくべき所へ直道にひきゆくゆゑ甚弁なり。修羅に大綱をつけ左右に枝綱いくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ幟を二本持つ、信心の老若男女童等までも蟻の如くあつまりてこれをひく。木やり音頭取五七人花やかなる色木綿の衣類に彩帋の麾採て材木の上にありて木やりをうたふ。その哥の一ツにハア〽うさぎ〱児兎ハアヽ〽わが耳はなぜながいハアヽ〽母の胎内にいた時に笹の葉をのまれてハアア〽それで耳がながい〽大持がうかんだハアア〽花の都へめりだしたいく百人同音に〽いゝとう〱〽そのこゑさまさずやつてくれ〽いゝとう〱〱。
　児曹らが手遊の輴もあり。氷柱の六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖国にはあるまじく聞もせざる事なるべし。猶輴に種々の話あれどもさのみはとてもらせり。
○　春寒の力
　春にいたれば寒気地中より氷結あがる。その力礎をあげて椽を反し、あるひは踏石をも持あぐる。冬はいかほど寒ずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は凍て輴をもつかふなれ。屋根の雪を掘のけてつみ上げおくを、里言に掘揚といふ。前にもいへり往来の路にも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱梯のごとく階を作りて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏の歯に釘をならべ打て蹉跌ざる為とす。唐土にては是を欙とて山にのぼるにすべらざる履とす、欙和訓カンジキとあり。
○　シガ＊10
　冬春にかぎらず雪の気物にふれて霜のおきたるやうになる、是を里言にシガといふ。戸障子の隙よりも雪の気入りて坐敷にシガをなす時あり、此シガ朝噋の温気をうくる処のは解ておつる。春の頃野山の樹木の下枝は雪にうづもれたるも稍は雪の消たるに、シガのつきたるは玉もて作りたる枝のやうにて見事なるものなり。川辺などはたらく者には髪の毛にもシガのつく事あり、此シガ我が塩沢にはまれなり。おなじ郡の中小出嶋あたりには多し、大河に近きゆゑ水気の霜となるゆゑにやあらん。
○　初夏の雪
　我国の雪里地は三月のころにいたれば次第々々に消、朝々は凍こと鉄石の如くなれども、日中は上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも留るほどに昨日今日と雪の丈け低くなり、もはや雪も降まじと雪囲もこゝかしこ取のけ、家のほとり庭などの雪をも掘すつるに、雪凍りて堅きゆゑ雪を大鋸にて大鋸○里言に大切といふひきわりてすつる。その四角なる雪を脊負ひあるひは担持にするなど暖国の雪とは大に異り、雪に枝を折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭樹なども、解ほどけばさすがに梅は雪の中に莟をふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以来暗かりし坐敷もやう〱明くなりて、盲人の眼のひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田圃の雪も斑にきえて、去年秋の彼岸に蒔たる野菜のるゐ雪の下に萌いで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉水を掘いだせば、去年初雪より以来二百日あまり黒闇の水のなかにありし金魚緋鯉なんどうれしげに浮泳も言やれ〱うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日蔭の雪は依然として山をなせり、況や山林幽谷の雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。
○　削氷
百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児京水を従て北越に遊し時、三国嶺を踰しは六月十五日なりしに、谷の底に鶯をきゝて、
足もとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこしの山ぶみ
拙作なれども実境なれば記す。此嶺うちこし四里山径隆崛して数武も平坦の路を践ず浅貝といふ駅に宿り猶○二居嶺二リ半を越て三俣といふ山駅に宿し、芝原嶺を下り湯沢に抵んとする途にて遙に一楹の茶店を見る。庇のもとに床ありて浅き箱やうのものに白く方なる物を置たるは、遠目にこれ石花菜を売ならん、口には上らずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗もしとゞに足もつかれたれば茶店あるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱に水をいれその中に小き踏石ほどの雪の氷をおきけり。売茶翁に問ば、これは山蔭の谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞ひければ翁菜刀を把、盎のなかへさら〱と音して削りいれ、豆の粉をかけていだせり。氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑をしのびつゝ、是は価をとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛に用意したる沙糖をかけたる削氷に、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍しき事いはんかたなし。
そも〱このけづり氷といふ物を珍味とする事古書に散見せしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日途より和哥所に参る、家隆朝臣唐櫃二合を取寄らる、○破子○瓜○土器○酒等あり、又寒氷あり自刀を取り氷を削る、興に入る事甚し』本書は漢文也件の元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴て、古人の如く削氷を越後の山村に賞味したる事珍とすべし奇とすべし。実に好古の肝を清くす。
○按にひといふは冰の本訓、こほりと訓は寒凝の義なりと士清翁が和訓栞にいへり。氷室といふ事、俳諧の季寄といふものなどにもみえたれば普人の知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。　御国は仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式に山城国葛城郡に氷室五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭に貢献するを、諸臣にも頒賜事年毎の例なるよしなり。前に引し明月記の寒氷は朝庭よりの古例の賜にはあるべからず、いかんとなれば削氷を賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消ずやあるべき。明月記は千写百摹の書なれば七は六の誤としても氷室を出し六月の氷朝を待べからず。盖貢献の後氷室守が私に出すもしるべからず。
○さて氷室とは厚氷を山蔭などの極陰の地中に蔵置、屋を作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守是なり。其氷室は水の氷ををさめおくやうに諸書の注釈にも見えしが、水の氷れるは不潔なり、不潔をもつて貢献にはなすべからず。且水の冰は地中に在りても消易ものなり、是他なし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感じ易ゆゑなり。我越後に削氷を視て思に、かの谷間に在といひしは天然の氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷りむろなるべし。極陰の地に竅を作り、屋を造り掛、別に清浄の地に垣をめぐらして、人に踏せず、鳥獣にも穢させず、而雪を待、雪ふれば此地の雪をかの竅に撞こめ埋め、人是を守り、六月朔日是を開、最清浄なる所を貢献せしならん歟。是己が臆断を以て理に就て古の氷室を解するなり。
○氷室の古哥枚挙べからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に拾遺愚艸「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に千載集「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残りたる雪に見たてたる一首の意、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献じ玉ふも雪の氷なり。これにても古の氷室は雪の氷なるをおもふべし。
○さてかの茶店にて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢の牧之老人が家に在しに、日毎に氷々とよびて売来る、山家の老婆などなり。掌ほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得がたきは珍らしく、得易はめづらしからざるは人情の恒なり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽ざる物は孝心なる我子の顔と、蔵置黄金の光なるべし。
○　雪の多少
　越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。国堺はいづれも連山波濤をなすゆゑ雪多し。東北は鼠が関岩船郡の内出羽のさかひ西は市振頸城郡の内越中の堺に至の道八十里が間都て北の海浜なり。海気によりて雪一丈にいたらず年によりて多少あり又消も早し。頸城郡の高田は海を去事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中町のながさ一リにあまる雪に埋りて闇夜のごとく、昼夜をわかたざる事十余日、市中燈の油尽て諸人難義せしに、御領主より家毎に油を賜ひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり人気欝悶して病をなすにいたれるもありけり。
百樹曰、余牧之老人が此書の稿本に就て増修の説を添、上梓の為に傭書へ授る一本を作るをりしも、老人が寄たる書中に、
「当年は雪遅く冬至に成候ても駅中の雪一尺にたらず、此日次にては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日十一月なり黄昏より降いだし、廿五六七八九日まで五日の間昼夜につもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅中家毎の雪掘にて混雑いたし、簷外急玉山を築戸外へもいでがたく悃り申候。今日も又大雪吹に相成、家内暗く蝋燭にて此状をしたゝめ申候。何程可降哉難計一同心痛いたし居申候」下略是当年天保十亥とし十一月廿九日出の尺翰なり。此文をもつても越後の雪を知るべし。
○余越後の夏に遇しに、五穀蔬果の生育少しも雪を畏たる色なし。山景野色も雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五雑組に天部百草雪を畏ずして霜を畏る。盖雪は雲に生じて陽位也、霜は露に生じて陰位也といへり。越後の夏を視て謝肇淛が此説に伏せり。
○　浦佐の堂押
　我住塩沢より下越後の方へ二宿越て六日町五日町浦佐といふ宿あり。こゝに普光寺といふ真言宗あり、寺中に七間四面の毘沙門堂あり。伝ていふ、此堂大同二年の造営なりとぞ。修復の度毎に棟札あり、今猶歴然と存す。毘沙門の御丈三尺五六寸、往古椿沢といふ村に椿の大樹ありしを伐て尊像を作りしとぞ。作名は伝らずときゝぬ。像材椿なるをもつて此地椿を薪とすればかならず祟あり、ゆゑに椿を植ず。又尊灵鳥を捕を忌玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に群をなして人を怖ず、此地の人鳥を捕かあるひは喰ば立所に神罰あり。たとひ遠郷へ聟娵にゆきて年を歴ても鳥を喰すれば必凶応あり、灵験の煕々たる事此一を以て知るべし。されば遠郷近邑信仰の人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限りて堂押といふ事あり、敢祭式の礼格とするにはあらねど、むかしより有来たる神事なり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此浦佐に一宿し、此堂押に遇人もあれば近村はいふもさらなり。＊11
○さて押に来りし男女まづ普光寺に入りて衣服を脱了、身に持たる物もみだりに置棄、婦人は浴衣に細帯まれにははだかもあり、男は皆裸なり。燈火を点ずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸の男女推入りて、錐をたつるの地なし。余も若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼り立けり。押といふは誰ともなくサンヨウ〱と大音に呼はる声の下に、堂内に充満たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ〱と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶に元結おのづからきれて髪を乱す㕝甚奇なり。七間四面の堂の内に裸なる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息正月三日の寒気ゆゑ烟のごとく霧のごとく照せる神燈もこれが為に暗く、人の気息屋根うらに露となり雨のごとくに降、人気破風よりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀には小児を背中にむすびつけて押も有ども、この小児啼ことなきも常とするの不思議なり。況此堂押にいさゝかも怪瑕をうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ばかりなるもあれど、闇処に噪雑して一人もみだりがましき事をせず、これおの〱毘沙門天の神罰を怖るゆゑなり。裸なる所以は人気にて堂内の熱すること燃がごとくなるゆゑ也。願望によりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌を射がごときをも厭ず、柱のごとき氷柱を裸身に脊負て堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱こと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥盤に入りて水を浴び又押に入るもあり。一ト押おしては息をやすむ、七押七踊にて止を定とす。踊といふも桶の中に芋を洗ふがごとし。ゆゑに人みな満身に汗をながす。第七をどり目にいたりて普光寺の山長耕夫の長をいふ手に簓を持、人の手輦に乗て人のなかへおし入り大音にいふ。「毘沙門さまの御前に黒雲が降たモウ」　衆人「なんだとてさがつたモウ」山男「米がふるとてさがつたモウ」とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺ば凶作なりとて外へ〱とすりならす。又志願の者兼て普光寺へ達しおきて、小桶に神酒を入れ盃を添て献ず。山男挑燈をもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸ありとて人の濤をなして取んとす。神酒は神に供ずる状して人に散し、盃は人の中へ擲る、これを得たる人は宮を造りて祭る、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争ひ奪ふにかならず破る、その骨一本たりとも田の水口へさしおけば、この水のかゝる田は熟実虫のつく事なし。神灵のあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事をはれば人々離散して普光寺に入り、初棄置たる衣類懐中物を視るに鼻帋一枚だに失る事なし、掠れば即座に神罰あるゆゑなり。
○さて堂内人散じて後、かの山長堂内に苧幹をちらしおく㕝例なり。翌朝山長神酒供物を備ふ、後さまに進て捧ぐ、正面にすゝむを神の忌給ふと也。昨夜ちらしおきたる苧幹寸断に折てあり、是人散てのち諸神こゝに集りて踊玉ふゆゑ、をがらを踏をり玉ふなりといひつたふ。神事はすべて児戯に似たること多し、しかれども凡慮を以て量識べからず。此堂押に類せし事他国にもあるべし、姑記して類を示す。
北越雪譜二編巻之一　終
北越雪譜二編　巻二
北越　　　鈴木牧之　　編選
江戸　　　京山人百樹　増修
○　雪頽に熊を得
　酉陽雑俎に云、熊胆春は首に在り、夏は腹に在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余試に猟師にこれを問しに、熊の胆は常に腹にありて四時同じといへり。盖漢土の熊は酉陽雑俎の説のごとくにや。凡猟師山に入りて第一に欲る処の物は熊なり。一熊を得ればその皮とその胆と大小にもしたがへども、大かたは金五両以上にいたるゆゑに猟師の欲るなり。しかれども熊は猛く、且智ありて得るに易からず。雪中の熊は皮も胆も常に倍す、ゆゑに雪に穴居するを尋ね捜し、猟師ども力を戮せてこれを捕るに種々の術ある事初編に記せり。たま〱一熊を得るとも其儕に価を分ゆゑ利得薄し、さればとて雪中の熊は一人の力にては得事難しとぞ。
○茲に吾が住近在に后谷村といふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫、老たる双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守、隣家の者過て火を出したちまち軒にうつりければ、弥左ヱ門が妻二人の小児をつれて逃去り、命一ツを助りたるのみ、家財はのこらず目前の烟となりぬ。弥左ヱ門は村に火災ありときゝて走皈りしに、今朝出し家は灰となりてたゞ妻子の无㕝をよろこぶのみ。此夫婦心正直にして親にも孝心なる者ゆゑ、人これを憐みまづしばらく我が家に居るべしなど奨る富農もありけるが、われ〱は奴僕の業をなしても恩に報ゆべきが、双親皈り来りて膝を双て人の家に在らんは心も安からじとて諾ず。竊に田地を分て質入なしその金にて仮に家を作り、親も皈りて住けり。草を刈鎌をさへ買求るほどなりければ、火の為に貧くなりしに家を焼たる隣家へ対ひて一言の恨をいはず、交り親むこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年の二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入て薪を取りしかへるさ、谷に落たる雪頽の雪の中にきは〱しく黒き物有、遙にこれを視て、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛じて谷に下り、是を視れば稀有の大熊雪頽に打殺れたるなりけり。此雪頽といふ事初編にもくはしく記たるごとく、山に積りたる雪二丈にもあまるが、春の陽気下より蒸て自然に砕け落る事大磐石を転しおとすが如し。これに遇ば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦び、皮も胆もとらんとおもひしが、日も西に傾たれば明日きたらんとて人の見つけざるやうに山刀にて熊を雪に埋めかくし、心に目しるしをして家にかへり親にもかたりてよろこばせ、次のあした皮を剥べき用意をなしてかしこにいたりしに胆は常に倍して大なりしゆゑ、弁当の面桶に入れて持かへりしを人ありて皮を金一両胆を九両に買けり。弥ざゑもんはからず十両の金を得て質入れせし田地をもうけもどし、これより屡幸ありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄けり。弥左ヱ門が雪頽に熊を得たるは金一釜を掘得たる孝子にも比すべく、年頃の孝心を天のあはれみ玉ひしならんと人々賞しけりと友人谷鴬翁がかたりき。
○　雪頽の難
　吾が住塩沢は下組六十八ヶ村の郷元なれば、郷元を与り知る家には古来の記録も残れり。其旧記の中に元文五年庚申今より百年まへ正月廿三日暁、湯沢宿の枝村掘切村の后の山より雪頽不意に押落し、其响百雷の如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両家なだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即死、妻と嗣息は半死半生、浅右ヱ門は父子即死、妻は梁の下に圧れて死にいたらず。此時　御領主より彦右ヱ門息へ米五俵、浅右ヱ門妻へ米五俵賜し事を記しあり。此魚沼郡は大郡にて　会津侯御預りの地なり。元文の昔も今も　御領内の人民を怜玉ふ事仰ぐべく尊むべし。そのありがたさを吾が后へも示さんとて筆の序にしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪頽を避て地を計るゆゑその難まれなれども、山道を往来する時なだれにうたれ死するもの間ある事なり。初編にもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪頽は春にあり。他国の人越後に来りて山下を往来せばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石塔今も所々にあり、おそるべし〱。
○　雪中の葬式
　吾が国に雪吹といへるは、猛風不意に起りて高山平原の雪を吹散し、その風四方にふきめぐらして寒雪百万の箭を飛すが如く、寸隙の間をも許さずふきいるゆゑ、ましてや往来の人は通身雪に射れて少時に半身雪に埋れて凍死する㕝、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天にも俄におこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来もこれが為にとまること毎年なり。此時に臨で死亡せしもの、雪あれのやむを待も程のあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを犯て棺を出す事あり。施主はいかやうにもしのぶべきが他人の悃苦事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状といふべし。我江戸に逗留せしころ、旅宿のちかきあたりに死亡ありて葬式の日大嵐なるに、宿の主もこれに往とて雨具きびしくなしながら、今日の仏はいかなる因果ものぞや、かゝる嵐に値て人に難義をかくるほどなればとても極楽へはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹に比ぶればいと安しとおもへり。
○　竜燈
　筑紫のしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その然るさまは春暉が西遊記＊12にしらぬ火を視たりとて、詳にしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜燈のたぐひなるべし。我国蒲原郡に鎧潟とて里言に湖を潟と云東西一里半、南北ヘ一里の湖水あり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火燃るを、里人は鎧潟の万燈とて群り観る人多し。余が友人これをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖水を北海へおとし新田となりしゆゑ、湖中の万燈も今は人家の億燈となれり。又我国の八海山は巓に八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂に八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜燈あり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある㕝諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも出、山よりもくだる。毎年其日其刻限、定りある事甚奇異なり。竜神より神仏へ供と云が普通の説なれど、こゝに珎き竜燈の談あり、少しく竜燈を解べき説なれば姑くしるして好事家の茶話に供す。
　我国頸城郡米山の麓に医王山米山寺は和同年中の創草なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁ず。此米山の腰を米山嶺とて越後北海の駅路なり、此辺古跡多し。余先年其古跡を尋んとて下越後にあそびし時、新道村の長飯塚知義の話に、一年夏の頃雩の為に村の者どもを从へ米山へのぼりしに、薬師へ参詣の人山こもりするために御鉢といふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに是日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜燈のあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手鞠の如く、小なるは雞卵の如し。大小ともに此御鉢といふあたりをさらずして、飛行する㕝あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて遊ぶが如し。其光りは螢火の色に似たり。つよくも光り、よはくもひかるあり。舞ひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を閉、人々ひそまりて覗ゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜燈二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、形ち鳥のやうに見えて光りは咽の下より放つやうなり。猶近くよらばかたちもたしかに視とゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山中に一宿の心得なれば心用の為に筒をも持せしに、手たれの上手しかも若ものなりしが光りを的にうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。罰あたりめと叱りたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知義語られき。
○　芭蕉翁が遺墨
　およそ越後の雪をよみたる哥あまたあれども、越雪を目前してよみたるはまれなり。西行が山家集、頓阿が草菴集にも越後の雪の哥なし、此韻僧たちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣に「降雪に谷の俤うづもれて稍ぞ冬の山路なりける」これらは実に越後の雪の真景なれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗にいふ哥人は居ながら名所をしるなり。　伊達政宗卿の御哥に「さゝずとも誰かは越ん関の戸も降うづめたる雪の夕暮」又「なか〱につゞらをりなる道絶て雪に隣のちかき山里」此君は御名たかき哥仙にておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑にもつたふ。雪の実境をよみ玉ひしはしろしめす御国も深雪なればなり。芭蕉翁が奥に行脚のかへるさ越後に入り、新潟にて「海に降る雨や恋しきうき身宿」寺泊にて「荒海や佐渡に横たふ天の川」これ夏秋の遊杖にて越後の雪を見ざる事必せり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客あまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷へ逃皈るゆゑ、越雪の詩哥もなく紀行もなし。稀には他国の人越後に雪中するも文雅なきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙山人、北越奇談を出板せしが六巻絵入かな本文化八年板一辞半言も雪の事をしるさず。今文運盛にして新板湧がごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記したる書なし。ゆゑに吾が不学をも忘れて越雪の奇状奇蹟を記して後来に示し、且越地に係りし事は姑く載て好事の話柄とす。
　さて元禄の頃高田の御城下に細井昌庵といひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧を善して号を凍雲といへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲をたづねて「薬欄にいづれの花を草枕」と発句しければ、凍雲とりあへず「萩のすだれを巻あぐる月」此時のはせをが肉筆二枚ありて一枚は書損と覚しく淡墨をもつて一抹の痕あり、二枚ともに昌庵主の家につたへしを、后に本書は同所の親族三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損のは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の　邦君風雅をこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主より奉りければ、吉兵ヱヘ常信の三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに　御蔵となりぬと友人葵亭翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡加茂明神の修験宮本院名は義方吐醋と号し、又無方斎と別号す、隠居して葵亭といふ。和漢の博識北越の聞人なり。芭蕉が件の句ものに見えざればしるせり。
百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にして仕絆を辞し、京にいでゝ季吟翁の門に入り、書を北向雲竹に学ぶ。はじめ宗房といへり、季吟翁の句集のものにも宗房とあり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣といへり、桃青は后の名なり。芭蕉とは草庵に芭蕉を植しゆゑ人よりよびたる名の后には自号によべり。翁の作に芭蕉を移辞といふ文あり、その終りの辞に「たま〱花さくも花やかならず茎太けれども斧にあたらず、かの山中不材の類木にたぐへてその性よし。僧懐素は是に筆を走らし張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり。予その二ツをとらず。たゞ此蔭に遊びて風雨に破れ易きを愛す「はせを野分して盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰に対ひたる今或侯の庭中に在り、古池の趾今に存せりとぞ。余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆刻を乞ども考証未足ゆゑに刻をゆるさず翁身を世外に置て四方に雲水し、江戸に趾をとゞめず。終には元禄七年甲戊十月十二日「旅に病て夢は枯埜をかけ廻る」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱に客死せり。是挙世の知る処なり。翁が臨終の事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記に目前視るが如くに記せり。此記を視るに翁いさゝか菌毒にあたりて痢となり、九月晦日より病に臥、僅に十二日にして下泉せり。此時病床の下にありし門人○木節翁に薬をあたへたる医なり○去来○惟然○正秀○之道○支考○呑舟○丈草○乙州○伽香以上十人なり。其角は此時和泉の淡の輪といふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終に遇り、奇遇といふべし。以上終焉記を摘要す其角が終焉記の文中に此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽し京大坂大津膳所の連衆被官従者までも此翁の情を慕へるにこそ招ざるに馳来る者三百余人なり。浄衣その外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫たてゝ着せまゐらす』又曰『二千余人の門葉辺遠ひとつに合信する因と縁との不可思議いかにとも勘破しがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲をいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵に十哲とよぶ門人あり。至善の大道と遊芸の小技と尊卑の雲泥は論におよばざれども、孔子七十にして魯国の城北泗上に葬て心喪を服する弟子三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬る時招ざるに来る者三百余人、是以人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖芭蕉の盆石が孔夫子の泰山に似たるをいふなり。芭蕉曾駔儈の風軽薄の習少しもなかりしは吟咏文章にてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕する事今に於も不可思議の奇人なり。されば一句一章といへども人これを句碑に作りて不朽に伝ふる事今猶句碑のあらざる国なし。吟海の幸祥詞林の福禎文藻に於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄の一句の墨痕も百四十余年の后にいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議といふべし。蜀山先生嘗謂予曰、凡文墨をもつて世に遊ぶ者画は論せず、死後にいたり一字一百銭に当らるゝ身とならば文雅幸福足べしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当らるゝ事嗟乎難かな。
○さてまた芭蕉が行状小伝は諸書に散見して普く人の知る所なり、しかれども翁の容㒵は挙世知る人あるべからず。されば爰に一証を得たるゆゑ、此雪譜に記載して后来に示すは、かゝる瑣談も世に埋冤せん事のをしければ、いざ然ばとて雪に転す筆の老婆心なり。
○こゝに二代目市川団十郎初代段十郎のち団に改むの俳号を嗣で才牛といふ。后に柏筵とあらたむ。元文元年なり此柏筵は、○正徳○享保○元文○寛保を盛に歴たる名人なり。妻をおさいといひ、俳名を翠仙といふ、夫婦ともに俳諧を能し文雅を好り。此柏筵が日記のやうに書残したる老の楽といふ随筆あり。二百四五十帋の自筆なり嘗梱外へ出さゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書なれば懇望してかの家より借りたる時余も亡兄とともに読しことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁にて、人参をきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言いひたるを記したる文に「我れ幼年の頃はじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着て、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤を往し事今に忘ず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗る聞えたり中略今日小川破笠老まゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常に茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪よ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし小川破笠俗称平助壮年の頃放蕩にて嵐雪と倶に俗称服部彦兵ヱ其角が堀江町の居に食客たりし事、件の老の楽又破笠が自記にも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観子、夢中庵等の号あり。絵を一蝶に学び、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆とあり。描金を善して人の粕をなめず、別に一趣の奇工を為す。破笠細工とて今に賞せらる。吉原の七月創て機燈を作りて今に其余波を残り、伝詳なれどもさのみはとてもらせり。
○　化石渓
　東游記に越前国大野領の山中に化石渓あり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓に浸しおけばかならず石に化す、器物はさらなり紙一束藁にてむすびたるが石に化たるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚沼郡小出の在羽川といふ渓水へ蚕の腐たるを流しが一夜にして石に化したりと友人葵亭翁がかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の為に名高けれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲根志変化の部に前編人あり語云、越後国大飯郡に寒水滝といふあり、此処深山幽谷にして沍寒の地なり。此滝坪へ万物を投こめおくに百日を過ずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の実その外生類までも石に化たるを得るとぞ。予去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全躰鐘乳なり、木の葉など石中にふくむ則石なり。雲林石譜にいふ鐘乳の転化して石になるならん云云。牧之案るに、越後に大飯郡なし又寒水滝の名もきかず。人あり語るとあれば伝聞の誤なるべし。盖北越奇談に会津に隣る駒が岳の深谷に入ること三里にして化石渓と名付る処あり、虫羽草木といへども渓に入りて一年を歴ればみな化して石となる。其川甚苦寒にして夏も渉べからざるが如し。又蘇門岳の北下田郷の深谷にも化石渓あり云々。雲根志の説はこれらの所を聞誤たるならん。
○　亀の化石
　吾が同郡岡の町の旧家村山藤左ヱ門は余が壻の兄なり。此家に先代より秘蔵する亀の化石あり、伝ていふ、近き山間の土中より掘得といふ、実に化石の奇品なり、茲に図を挙て弄石家の鑒を俟。
百樹曰、件の図を視るに常にある亀とは形状少しく異なるやうなり。依て案るに、本草に所謂秦亀一名筮亀あるひは山亀といひ、俗に石亀といふ物にやあらん。秦亀は山中に居るものなり、ゆゑに呼で山亀といふ。春夏は渓水に遊び秋冬は山に蔵る、極て長寿する亀は是なりとぞ。又筮亀と一名するは周易に亀を焼て占ひしも此亀なりとぞ。件の亀の化石、本草家の鑒定を得て秦亀ならば一層の珎を増べし。山にて掘得たりとあれば秦亀にちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は小きものにてあるひはまた体全も稀なり。図の化石は体全く且大なり、珎とすべし。
○余先年俗にいふ大和めぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧友の画家春琴子に就て諸名家をたづねし時、鴻儒の聞高き頼先生名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎へも訪ひ、坐談化石の事におよび、先生余に蟹の化石一枚を恵。その色枯ずして生が如く、堅硬ことは石なり。潜確類書又本草三才図会等にいへる石蟹泥沙と倶に化して石になりたるなるべし。盆養する石菖の下におくに水中に動が如し。亀の徒者に其図を出す、是も今は名家の形見となりぬ。
○　夜光玉
　雲根志灵異の部に曰、予が隣家に壮勇の者あり儀兵衛といふ。或時田上谷といふ山中に行て夜更て皈るに、むかうなる山の澗底より青く光り虹の如く昇てすゑは天に接る。此男勇漢なれば无二无三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根元をさぐりみるに、たゞ何の異る事もなき石なり。ひろひとりて背に負ひ皈るに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の労をたすかり、暁の頃我が家に着ぬ。件の石を軒の外に直し置、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま〲にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲賀郡石原潮音寺和尚のものがたりに、近里の農人畑を掘居しに拳ほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流星の如し。友のいふ、是は灵石なり、人の持ものにあらず、家にあらば必災あるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて斧をもつて打砕しを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌朝近里の人きゝつたへて集り来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑后国上妻郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。以上一条全文是等は他国の事なり、我が越后にも夜光の玉のありし事あり。新発田より蒲原郡東北加治といふ所と中条といふ所の間路の傍田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの円石を鎮してこれを礼る。此石その先農夫屋の后の竹林を掃除して竹の根など掘るとてかの石一ツを掘得たり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農夫これをもつて藁をうつ盤となす、其夜妻庭に出しに燦然として光る物あり、妻妖怪なりとして驚叫。家主壮夫三五人を伴ひ来りて光る物を打に石なり、皆もつて怪とし石を竹林に捨つ、その石夜毎に光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥土を塗て光をかくす、今猶苔むしてあり。好事の人この石を乞へども村人祟あらん㕝を惧てゆるさずとぞ。又駒が岳の麓大湯村と橡尾村の間を流るゝ渓川を佐奈志川といふ、ひとゝせ渇水せし頃水中に一点の光あり、螢の水にあるが如し。数日処を移さず、一日暴風に水増て光りし物所を失ふ、后四五町川下に光りある物螢火の如し。此地山中なれば村夫等昏愚にして夜光の玉なる事をしらず、敢てたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪水に夜光の玉ふたゝびながれて所在を失ひしとぞ。以上北越奇談の説偖茲に夜光珠の実事あり。我文政二年卯の春下越後を歴遊せしをり、三嶋郡に入り伊弥彦明神を拝、旧知識なれば高橋光則翁を尋しに、翁大によろこびて一宿を許しぬ。此翁和哥を善し且好古の癖ありて卓達の人なり、雅談湧が如く、おもはず笻をとゞめし事四五日なりし。一夕翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の三島郡の内なりほとり大鳥川といふ渓川に夜な〱光りものありとて人怖て近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛冶の兄弟あり、ひとりの母を養ふ、家最貧し。此兄弟剛気なるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖怪ならば退治して村のものどもが肝をひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川面をみるに、月暗くしてたゞ水の音をきくのみ。両人炬をふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また怪しむべきをみず、さては人のいふは空言ならん、いざとて皈らんとしけるに、水上俄に光明を放つ、すはやとて両人衣服を脱すて水に飛入り泳ぎよりて光る物を探りみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取得て家に皈り、まづ灶の下に置しに光り一室を照せり。しか〲のよし母にかたりければ、不思議の宝を得たりとて親子よろこび近隣よりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙壁随珠ともおもはずうち過けり。かくて后弟別家する時家の物二ツに分ちて弟に与んと母のいひしに、弟は家財を望ず光る石を持去んといふ。兄がいはく、光る石を拾ひ得しは我が企なり、汝は我が力を助しのみなり、光る石は親の譲にあらず、兄が物なり。家財を分ならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、与ふまじ〱。弟いな〱あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を拾んとの企にはあらず、妖物を退治せんとて川へいたり、おん身よりは我先に川へ飛いり光りものを探りあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや〱此兄がものなり、弟がのなりと口論やまず、終にはつかみあひうちあひしを、母やう〱におししづめ、しからば光る石を二ツに破りて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛冶する鑕の上にのせ䤶をもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕破内に白玉を孕しがそれも砕け、水ありて四方へ飛散けり。其夜水のかゝりし処光り暉く事螢の群たるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消失けりとぞ。いかに頑愚の手にありしとはいひながら、稀世の宝玉鄙人の一槌をうけて亡びたるは、玉も人も倶に不幸といふべしと語られき。牧之案に、橘春暉が著たる北囱瑣談後編の二蔵石家の事をいふ条に曰、江州山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好事家侯国の逸人、蔵石に名の高き人近年夥し、余も諸家の奇石を見しに皆一家の蔵る処三千五千種にいたる、五日十日の日を尽してやう〱眼をふる㕝を得るにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎奇の物は无ものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、過し年北国より人ありて拳の大さの夜光の玉あり、よく一室を照す、よき価あらば売んといひしかば、即座に其人に托して曰、其玉求たし、暗夜にその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても読えられなば金百両にもとむべし、又書状よむほどならば三百金、いよ〱一室をてらさば吾が身上のこらずの力を尽して求むべし、媒して玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便もなくてやみぬ、空言にてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵石の世に流行たる頃加嶋屋が話をそのまゝに春暉が后にしるしたるなるべし。さて又余がかの鍛冶屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛冶が玉を砕きたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。然りとすれば、蔵石の流行たる頃なれば、かのかじまやが話に北国の人一室をてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮商人などがかぢやの玉の㕝をきゝつたへて商ひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ答へざりしにやあらん。卞和が玉も楚王を得たればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の話五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟乎惜むべし〱。
百樹曰、五雑組物の部に鍛冶屋がはなしに類せる㕝あり。明の万暦の初閩中連江といふ所の人蛤を剖て玉を得たれども不識これを烹る、珠釜の中に在て跳躍して定ず、火光天に燭、里人火事ならんと驚き来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを聞て釜の蓋を啓て視れば已に玉は半枯たり。其珠径一寸許、此真に夜光明月の珠なり。俗子に厄せられたる事悲夫と記せり。又曰、五雑組おなじつゞき魏の恵王が径寸の珠前後車を照こと十二乗の物はむかしの事、今天府にも夜光珠はなしと明人謝肇淛が五雑組にいへり。○神異記○洞冥記にも夜光珠の㕝見えたれども孟浪に属す。古今注にはすぐれて大なる鯨の眼は夜光珠を為といへり。卞和が玉も剖之中果有玉といへば、石中に玉を孕たる事鍛冶の砕たる玉卞和が玉に類せり。趙の恵王が夜光の玉を、秦の照王が城十五を以て易んといひしは、加嶋屋が北国の明玉を身上尽して買んと約せしに類せり。さて又癸辛雑譏続集巻下に、機婦糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘蛛きたりてその水をのむに身に光りをはなつ、かの婦人これを見て大にあやしみ、雞籠を罩てかの蜘蛛をとらへしに腹に夜光珠在、大さ弾丸の如しとしるせり。此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし又増一阿含経第卅三。等法品第卅九に転輪聖王の徳にそなはりたる一尺六寸の夜光摩尼宝は彼国十二由旬を照すとあり、文多ければあげず。盖一由旬は異国の四十里なり、十二由旬は日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇異といふべし。転輪王此玉を得て試に高き幢の頭に挙著けるに、人民等玉の光りともしらず夜の明たりとおもひ、おの〱家業をはじめけりと記せり。此事碩学の聞高き了阿上人の話にきゝてかの経を借得て読しが、これぞ夜光の玉の親玉なるべき。
○　餅花
　餅花や夜は鼠がよし野山一にねずみが目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗の時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳諧の季には冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを大正月といひ、十五日より廿日までを小正月といふ、是我里俗の習せなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる餅花を作り、大神宮歳徳の神夷おの〱餅花一枝づゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川楊の枝をとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕玉といふ。稲穂又は紙にて作りたる金銭、縮あきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家にては木をけづりて鍬鋤のたぐひ農具を小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ〱が家業にあづかるものゝひなかたを掛る、これその業の福をいのるの祝事なり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業なり。祝ひとて男女ともうちまじりて声よく田植哥をうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季寄にもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿論なり。ちかごろ江戸には季によらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。
○　斎の神勧進
　我が塩沢近辺の風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童ども斎の神勧進といふ事をなす。少し富家の童これをなすには𣖾木を上下より削り掛て鍔の形を作る、これを斗棒といふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕に一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭ばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿をきせ、紙にて作りたる衣服に紅にて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭とす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎の神勧進々々とよばゝりありく。敢物の欲にもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩おの〱する事なり。これに与ふるものは切餅あるひは銭も与ふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余も党をなし、茜木綿の頭巾にあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒を一本さし、かの二神を柳こりに入れて首にかけ〽さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ〱とおやれ〱　と門々をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁り酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進す、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進のことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵でも聟でもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ〱」かくして勧進の銭をあつめて斎の神を祭る入用とするなり。さいの神のまつり下にしるす又去年むこよめをむかへたる家の門に、未明よりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲き、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事とすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習他国にもあまたあるべし。
○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎京伝翁が骨董集を読て本拠ある事を発明せり。骨董集上編下、粥の木の条に、○粥杖○祝木○ほいたけ棒といふ物、前にいひし斗棒に同じ。京伝翁の説に、粥の木とは正月十五日粥を烹たる薪を杖とし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕の草紙○狭衣○弁内侍の日記その外くさ〱の書を引て、上代の宮裏近古の市中粥杖の事を挙て、考証甚詳なり。今我が郡にいふ斗棒は則いにしへの粥杖の遺風なる事を発明せり、我国にも祝木あるひは御祝棒といふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書にてしらるゝなり。その引書の中にも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此書は今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞つたへて書たるものなれば、今我国にて小童のたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境にもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふに「但街道郷村の児童年十五八九已上に及ぶ者、各柳の枝を取り皮を去り木刀に彫成なし、皮を以復外刀上に纏ひ用火焼黒め皮を去り以黒白の花を分つ、名づけて荷花蘭蜜といふ。再荊棘の条を取香花神前に挿供。次に集る各童手に木刀を執途に隊閙、凡有婚无子の婦木刀を将て遍身打之口に荷花蘭蜜と舎ふ。かならず此婦当年孕男を生」我国にて児童等が人の門を斗棒にてたゝき、娵をだせ聟をだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習の遺事なるべし。
百樹案に、件の風土記に再び荊棘の条を取り香花神前に挿といひしは、餅花を神棚へ供ずる事を聞て粥杖の事と混錯して記したるなるべし。然りとすれば餅花も古き祝事なり。
○　斎の神の祭
　吾が国正月十五日に斎の神のまつりといふは所謂左義長なり。唐土に爆竹といふ唐人除夜の詩に、竹爆千門の响燈燃万戸明なりの句あれば、爆竹は大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、　清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始を此火に焼て天に奉るの義とす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃し玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間にもこれを学びて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて燃す、これ左義長とて昔よりする事なり。これを斎の神祭りといふも古き事なり。爆竹左義長の故事俳諧の季寄年浪草に諸書を引てくはしくいへり。
○吾が郡中にて小千谷といふ所は人家千戸にあまる饒地なり、それゆゑに斎の神の斎あるひは幸ともまつりも盛大なり。これをまつるにその町々におの〱毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに周したる高さ六七尺の円き壇を雪にて作り、これに二処の上り階を作る、これも雪にてする、里俗呼で城といふ。さて壇の中央に杉のなま木をたてゝ柱とし、正月かざりたるものなにくれとなくこの柱にむすびつけ又は積あげて、七五三をもつて上よりむすびめぐらして蓑のごとくになし、かやをまじへ入れてかたちをつくる此頂に大根注連といふものゝ左右に開たる扇をつけて飛鳥の状を作りつける。壇の上には席をまうけて神酒をそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて拝をなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四隅より移す、油滓など火のうつり易きやうになしおくゆゑ煓々熾々と然あがる、此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり是則爆竹左義長なり。他国にてもする事なり。或人の話に、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災をはゞかるために禁下てやみたりとぞ。
○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳て火をうつらせ焼を祝事とす、おんべは御幣の訛言なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束のやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千あつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇る。棹の末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事なり。これを作りてまづおのれ〱が門へ建おく事五月の幟のあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨るを祝ひとし慰とす。観る人群をなすは勿論、事をはりてはこゝかしこにて喜酒の宴をひらく。これみな　国君盛徳の余沢なり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷を盛大とす。
百樹曰、余京水をしたがへて越後に遊びし時、此小千谷の人岩淵氏牧之老人の親族なりの家に笻をとゞめたる事十四日、八月なりあるじの嗣子廿四五許、号を岩居といふ、書をよくす。余に遇せしこと甚篤。小千谷は北越の一市会、商家鱗次として百物備ざることなし。海を去る事僅に七里ゆゑに魚類に乏しからず。余塩沢にありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏しく、江戸者の口に魚肉の上らざりし事四十余日、小千谷にいたりてはじめて生鯛を喰せしに美味なりし事いふべからず。又鮏の時節にて、小千谷の前川は海に朝するの大河なれば今捕しをすぐに庖丁す。味はひ江戸にまされり。一日鮏をてんぷらといふ物にしていだせり。余岩居にむかひ、これは此地にては名を何とよぶぞと問ひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名義暁しがたく、古老にたづねたれどもしる人さらになし、先生の説をきかんといふ。余答てまづ食終てテンプラの来由を語べしといひつゝ鮏のてんぷらを飽までに喰せり。
○　てんぷらの説　　○　煉羊羹の起原
岩居に語て曰、今をさる事五十余年前天明の初年大阪にて家僕四五人もつかふほどの次男年廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一衖対ひの裏屋に住しに、一日事の序によりて余が家に来りしより常に出入して家僕のやうに使などさせけるに、花柳に身を果したるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁ずるゆゑ、をしき人に銭がなしとて亡兄もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄京伝いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄に調じさせしに、いかにも美味なり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞ひければ、亡兄しばらくしあんして筆をとり天麩羅とかきてみせければ、利助不審の㒵をなし天麩羅とはいかなる所謂にかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下は今天竺浪人なり、ぶらりと江戸へきたりて売創る物ゆゑに天ふらなり、是に麩羅といふ字を下したるは麩は小麦の粉にてつくる、羅はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ㕝なりと戯言云れければ、利助も洒落たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店をいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余がをさなき時天麩羅と大書して与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染わたり、此小千谷までもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒の大先生もしるべからず。てんぷらの講釈するは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居も手をうちて笑ひけり。
○先年此てんぷらの話を友人静廬翁に語りしに翁は和漢の博達時鳴の聞人なり翁曰、事物紺珠明人黄一正作廿四巻夷食の部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書を借りえてよみしに、○塔不剌とありて注に○葱○椒○油○醤を熬、後より鴨或は雞○鵞をいれ、慢火にて養熟とあり。蟹をあぶらげにするも見えたり。
○さて天麩羅の播布に類せる事あり、因に記す。○橘菴漫筆に享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓を料理して弘めける。是京師浪花に食卓料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆となりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂町の貴徳斎ほど久しくつゞきたるはなし」岩居がてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳来り、桜屋といふ菓子や余が酒をこのまざるを聞て家製なりとて煉羊羹を恵ぬ、味ひ江戸に同じ。余越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆し、岩居に謂曰、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味ひまされり。吾がをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢のねりやうかんあるは実に大平の徳化なりといひしに、蓉岳も書画をよくし文事もありて好事ものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産なり、ねりやうかんを近来のものといふ由来を示し玉へといふ。余かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字を式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚ひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ𥴩子造にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは　貴重の御菓子を調進する家の菓子杜氏なるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製の菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹と名づけてうりけるに羊羹本字は羊肝なる事芸苑日鈔にいへり喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空しくかへる事度々なり、これ余が目前したる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷にもあれば此国に市会をなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳わらつて小倉羹もあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気なき弁なれど本文小千谷のはなしにおもひいだしたれば人の話柄に記せり。なほ近古食類の起原さま〲あれど余が食物沿革考に上古より挙てしるしたればこゝにはもらせり。
○　雪中の狼
　初編にもしるしたるごとく、我国の獣冬にいたれば山を踰て雪浅国へさる、これ雪ふかくして食にとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲へかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食にたらず、をりふしは夜中人家にちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村の事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居するは熊のみなり。熊は手に山蟻をすりつけ、これをなめて穴居の食とするよしいひつたふ。
○こゝに我郡中の山村に不祥のことなれば地名人名をはぶくまづしき農夫ありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質篤実にしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道なり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒をもてといふ、実にもとて鉄炮をもちゆきけり。これは農業のかたはら猟をもなすゆゑに国許の筒なり。かくてはからず時をうつし日も暮かゝる皈りみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭に狼物を喰ふを見つけ、矢頃にねらひより火蓋をきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足なり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家をきづかひ狼はそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血のくれなゐをそめけり。みるよります〱おどろきはせいりければ狼二疋逃さりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足はくひとられてしゝゐたり。妻は囱のもとに喰伏られあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にありてかばね半ば喰れたり。妻はすこしいきありて夫をみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼がといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫はゆめともうつゝともわきまへず鉄炮もちて立あがりしが、さるにても娘はとてなきごゑによびければ、床の下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家は住居もこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫は時の間に六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙にころされ、歯がみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〱にきゝつけきたり此体をみておどろきさけびければ、おひ〱あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、囱をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈に火をたきてゐたりしゆゑすぐに床の下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおとがなくこゑをきゝて念仏申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺一ツに妻と童ををさめ、母の棺と二ツ野辺おくりをなしけるに涙そゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒をもてといひしゆゑ、母の片足を雪の山蔭にくらひゐたる狼をうちおとして母の敵はとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜かりけん。これよりのち此農夫家を棄、娘をつれて順礼にいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。
百樹曰、日本の狼は幻化事をきかず、唐土の狼はばけること老狐にことならず。宋人李昉等が太平広記畜獣の部に四百四十二巻狼美人に幻化して少年と通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃さり、又は人の父を喰殺してその父にばけて年を歴たるに、一日その子山に入りて桑を採るに、狼きたりて人の如く立其裾を銜たるゆゑ斧にて狼の額を斫、狼にげ去りしゆゑ家にかへりしに、父の額に傷の痕あるを視て狼なることをさとり、これを殺すに果して老狼なり。親をころしたるゆゑ自県にいたりて事の由をつげたる事など○広異記○宣室志を引てしるせり。悍悪の事に狼の字をいふもの○残忍なるを豺狼の心といひ○声のおそろしきを狼声といひ○毒の甚しきを狼毒といひ○事の猥を狼々○反相ある人を狼顧○義无を中山狼○恣に食を狼飡○病烈を狼疾といひ○狼藉○狼戻○狼狽など、皆彼に譬て是をいふなり。文海披沙されば獣中最可悪は狼なり。余竊に以為、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為に狼毒をうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧可悪。篤実を外面とし、奸慾を内心とするを狼者といひ、娵を悍戻を狼老婆といふ。巧に狼心をかくすとも識者の心眼は明鏡なり。おほかみ〱惧ざらんや恥ざらんや。
北越雪譜中巻　終
北越雪譜二編　巻三
越後塩沢　　　鈴木牧之　　編選
江戸　　　　　京山人百樹　増修
○　鳥追櫓
　農家市中正月の行事に鳥追といふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま〲なる事は諸書に散見せり。江戸の鳥追といふは非人の婦女音曲するを女太夫とて木綿の衣服をうつくしく着なし、顔を粧ひ、編笠をかむり、三弦に胡弓などをあはせ、賀唱をおもしろくうたひ、門々に立て銭を乞ふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の小正月とは正月十五日以下をいふはじめ鳥追櫓とて去年より取除おきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに応じて末を広く雪にて櫓を築立、これに登るべき階をも雪にて作り、頂を平坦になし松竹を四隅に立、しめを張わたす広さは心にまかす内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小童等こゝにありて物を喰ひなどして遊び、鳥追哥をうたふ。その一ツに「あのとりや、どこからおつてきた、しなぬのくにからおつてきた。なにをもつておつてきた、しばをぬくべておつてきた、しばのとりもかばのとりも、たちやがれほい〱引」おらがうらのさなへだのとりは、おつても〱すゞめすはどりたちやがれほい〱引」あるひはかの掘揚雪をすてゝ山をなす所の上に雪を以て四方なる堂を作りたて、雪にて物をおくべき棚をもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん抔此雪の棚におき、物を煮焼し、濁酒などのみ、小童大勢雪の堂にいきんだうと云遊び、同音に鳥追哥をうたひ、終日こゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖国にはなき正月あそびなり。此鳥追櫓宿内にいくつとなく作り党をなしてあそぶ。
○　雪霜
　前にもしば〱いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚沼・古志・頸城の三郡を大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気は江戸にさまでかはる㕝なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組にいへる霜は露のむすぶ所にして陰なり、雪は雲のなす所にして陽なりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の儲に蒔たる野菜のるゐも雪の下に萌いでゝ、その用をなす㕝おそきとはやきのたがひはあれども暖国にかはる㕝なし。その遅きとは三月にはじめて梅の花を見、五月の瓜・茄子を初物とす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。
○　地獄谷の火
　此書の前編上の巻雪中の火といふ条に、六日町の魚沼郡西の山手に地中より火の燃る事をしるせしが、地獄谷の火の㕝をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ我越後に名高く七不思議にかぞへいふ蒲原郡如法寺村百姓荘右エ門七兵衛孫六が家にも地火ありが家にある地中より燃る火は、普く人の知る所なれども、其火よりも盛大なるは魚沼郡のうち、かの小千谷の在地獄谷の火なり。唐土に是を火井といふ。近来此地獄谷に家を作り、地火を以て湯を燂し、客を待て浴さしむ、夏秋のはじめまでは遊客多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或家にて井を掘しに、其夜医師来りて井を掘し㕝を聞、家に皈る時挑灯を井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より俄に火をいだし火勢さかんに燃あがりければ近隣のものども火事なりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を罵り恨みければ、主人も此火をおそれて埋けるとぞ。此地火一に陰火といふ。かの如法寺村の陰火も微風の気いづるに発燭の火をかざせば風気手に応じて燃る、陽火を得ざれば燃ず。寛文のむかし荘右エ門が如法寺村庭にて韛をつかひたる時より燃はじめしとぞ。前にいふ井中の火も医者が挑灯を井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。
●さて又頸城郡の海辺に能生宿といふは北陸道の官路なり、此宿より山手に入る㕝二里ばかりに間瀬口といふ村あり、こゝの農家に地火をいだす㕝如法寺村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に乏しき所にては、旱のをりは山に就て井を横に掘て水を得る㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴の闇きをてらすために炬を用ひけるに、陽火を得て陰火忽ち然あがり、人是が為に焼死しけるとぞ。是等の㕝どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火脉の地多く、いまだ陽火を得ずして発せざるも多かるべし。
百樹曰、余小千谷にありし時岩居余に地獄谷の火を見せんとて、社友五人を伴ひ用意の酒食を奚奴二人に荷しめ、余与京水と同行十人小千谷をはなれて西の方●新保村●薮川新田などいふ村々を歴て一宮といふ村にいたる、山間の篆畦曲節て茲に抵る行程一里半可なり。是日はことに快晴して村落の秋景百逞目を奪ふ。さて平山一ツを踰て坡あり、則地獄谷へいたるの径なり。坡の上より目を下せば一ツの茅屋あり、是本文にいへる混堂なり。人々坡の半にいたりし時、茅屋の楼上に四五人の美婦あらはれ、おの〱檻によりて、遙にこの人々を指もあり、あるひは笑ひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四面皆山にて老樹欝然として翳塞の中に個美人を見ること愕然し、是狸にあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩居友だちと相顧、手を拍て笑ふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒楼に居る酌採の哥妓どもなり、岩居朋友と計りて竊に此に招おきて余に興させん為とぞ。渠は狐にあらずして岩居に魅されたるなり。已に地獄谷にくだり皆楼にのぼれり。岩居は余と京水とを伴ひてかの火を視せしむ。
●そも〱茲谷は山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十歩六尺を歩といふをひらきて平坦の地となし、地火を借りて浴室となし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地獄とよばるゝこと、花はさぞかし薀憤かるべし。
●さてその火を視るに、一ツの浅き井を作りたるその井中より火の燃る事常の湯屋の火よりも盛なり。上に釜あり一間四方の湯槽あり、細き筧ありて后の山の清水を引き湯槽におとす。湯は槽の四方に溢れおつ、こゝをもつて此湯温からず熱からず、天工の地火尽る時なければ人作の湯も尽る期なし、見るにも清潔なる事いふべからず。此混堂に続きて厨処あり、灶にも穴ありて地火を引て物を烹薪に同じ。次に中の間あり、床の下より竹筩を出し、口には一寸ばかり銅を鉗て火を出さしむ。上より自在をさげ、此火に酒の燗をなしあるひは茶を煎、夜は燈火とす。さて熟此火を視るに、筩をはなるゝこと一寸ばかりの上に燃る、扇にあふげば陽火のごとくに消る。筩の口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発燭の火を翳せば忽然としてもゆることはじめの如し。主の翁が曰、この火夜は昼よりも燥烈く、人の顔青くみゆるといへり。翁が妻水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混堂のうしろに僅の山田ある所にいたり、田の水の中に少し湧ところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋燭のもゆるが如し。老婆がいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと〲く火をもやすゆゑ獣きたらずといへり。余が江戸の目には視る所こと〲く奇妙なり。唐土には此火を火井とて、博物志或は瑯瑘代酔に見えたる雲台山の火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大なるは此谷の火に勝らず。唐土と日本とをおつからめて火井の最第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇観なり。唐土に火井の在る所北の蜀地に属す、日の本の火井も北の越後に在り、自然の地勢によるやらん。
●さて一人の哥妓梯上にいでゝしきりに岩居を呼ぶ、よばれて楼にのぼれり。余は京水とゝもに此湯に浴す、楼上には早く三弦をひゞかせり。浴しをはりて楼にのぼれば、既に杯盤狼藉たり。嬋娟哥妓袖をつらね、素手弄糸朱唇謡曲迦陵頻伽の声、外面如𦬇の色興を添れば、地獄谷遽然極楽世界となれり。此妓どもを養ふ主人もこゝに来り居て、従る料理人に具したる魚菜を調味させてさらに宴を開く。是主人俗中に雅を挾で恒に文人を推慕ゆゑに、是日もこゝに来りて余に面識するを岩居に約せしとぞ。此人䶕なるゆゑ自ら双坡楼と家号す、その滑稽此一をもつて知るべし。飄逸洒落にしてよく人に愛せらる、家の前後に坡ありとぞ、双坡の字下し得て妙なり。双坡楼扇をいだして余に句を乞ふ、妓も持たる扇を出す。京水画をなし、余即興を書す。これを見て岩居をはじめおの〱壁に句を題し、更に風雅の興をもなしけり。
●かくてやゝ日も傾きければ帰路を促しけるに、哥妓どもは草鞋にて来りしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを争ふてはきいづる、みな酔興なれば噪閙して途を行く。細流ある所にいたれば紅唇粉面の哥妓紅裩を褰て渉る、花姿柳腰の美人等わらじをはいて水をわたるなど余が江戸の目には最珍らしく興あり。酔客ぢんくをうたへば酔妓歩々躍る。古縄を蛇とし駭せば、おどされたる妓愕して片足泥田へふみいれしを衆人辴然す。此途は凡て農業の通路なれば憇ふべき茶店もなく、半途に至りて古き社に入りてやすらふ。一妓社の后に入りて立かへり石の水盤の涸たる水を僅に掬、手を洗ひしは私に去りしならん。そのまゝ樹下に立せ玉ふ石地蔵𦬇の前に並びたちながら、懐中より鏡を出して鉛粉のところはげたるをつくろひ、唇紅などさして粧をなす、これらの粧具をかりに石仏の頭に置く。外面女𦬇内心如夜叉のいましめもあれば、𦬇はなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。日も已に下晡なればおの〱あしをすゝめて小千谷へかへりき。此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。
○　越後の人物
　板額女は加治明神山の城主長太郎祐森が室、古志郡の産なり。又三歳の小児も知れる酒顛童子は蒲原郡沙子塚村の産、今猶屋敷跡あり。始は雲上山国上寺の行法印の弟子なり。玄翁和尚は伊夜彦山の麓箭矧村の産なり。近世にいたりて徳僧高儒和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名せるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九紋竜は高田今町の産、関戸は次第浜の産也。常人にて力士の聞えありしは頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又鎧潟に近き横戸村の長徳寺、谷根村の行光寺も怪力のきこえたかし。此人々はいづれも独して鐘を軽く掛はづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、近くは三嶋郡村田村の百合女百姓伊兵衛がむすめ新発田荒川村門左エ門百姓丑之介がせがれ塚原の豆腐売春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚村百姓新六、いづれも孝子の名一国に高かりき。今存在するもありとかや。
百樹曰、余越後にいたらば板額あるひは酒顛童子の旧跡をもたづね、新潟をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊にのこる　順徳帝の鳳跡、義経、夢囱国師、法然上人、日蓮上人、為兼卿、遊女初君等の古跡もたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運順を失ひ、年稍倹して穀の価日々に躍、人気穏ならず。心帰家にありて風雅をうしなひ、古跡をも空しく過り、惟平々たる旅人となりて、きゝおよびたる文雅の人をも剌問ざりしは今に遺憾なり。嗟乎年の倹せしをいかんせん。
○　無縫塔
　蒲原郡村松より東一里来迎村に寺あり、永谷寺といふ曹洞宗なり。此寺の近くに川あり、早出川といふ。寺より八町ばかり下に観音堂あり、その下を流るゝ所を東光が淵といふ。永谷寺へ入院の住職あれば此淵へ血脉を投げ入るゝ事先例なり。さて此永谷寺の住職遷化の前年、此淵より墓の石になるべき円き自然石を一ツ岸に出す、是を無縫塔と名づけつたふ。此石出ればその翌年には必ず住職病死する事むかしより今にいたりて一度も違ひたる事なし。此墓石大小によりて住職の心に応ぜず淵へかへせば、その夜淵逆浪して住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡僧こゝに住職し此石を見て死を惧れ出奔せしに翌年他国にありて病死せしとぞ。おもふに此淵に灵ありて天然の死を示すなるべし。友人北洋主人蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす件の寺を覧たる話に、本堂間口十間、右に庫裏、左に八間に五間の禅堂あり、本堂にいたる阪の左りに鐘楼あり、禅堂のうしろに蓮池あり。上に坂あり、登りて住職の墓所あり。かの淵より出したる円石を人作の石の台の脚あるにのせて墓とす。中央なるを開山とし、左右に次第して廿三基あり。大なるは径り一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に応ずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの淵に灵ありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人何某住玉ひしに、その内室色情の妬にて夫をうらみ、東光が淵に身を沈め、冤魂悪竜となりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉をかの淵にしづめて化度し玉ひしゆゑ悪竜得脱なし、その礼とてかの墓石を淵にいだして死期を示す。是以今にいたりても入院の時は淵に血脉を沈むと寺説につたふとぞ。
○さてまた我が隣国信濃にも無縫塔の事あり。近江の石亭が雲根志にいはく前編灵異之部信濃国高井郡渋湯村横井温泉寺の前に星河とて幅三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷化の前年に、此河中へ何方よりともなく、高さ二尺ばかりなる自然石の方にしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、実に彫刻せるごとくにて天然の物なり。此石出ると土民ども温泉寺へしらせる事なり、きはめて翌年住僧遷化なり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも違はず並びあり。或年の住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法華千部読経の願あり、今一年にして満り、何とぞ命を今一年延し玉へと念じて、かの塔を川中の淵に投こみたり。何事もなく一年すぎて千部読経のすみし月に件の石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷化なりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく淵へなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無帽塔と名づく。以上一条の全文越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似たる一奇怪といふべし。
○百樹曰、牧之老人が此草稿を視て無縫塔の縫の字義通じがたく誤字にやとて郵示して問ひければ、無縫塔と書伝たるよしいひこしぬ。雲根志には無帽塔とあり、無帽の字も又通じがたし。おそらくは無望塔にやあらん。住僧の心には死がいやさに無望塔なるべし。こゝに無稽の一笑を記して博識の確拠を竢つ。
○　北高和尚
　魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺、村松にあり村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚は、　霜台君の謙信の事親藉にて、高徳の聞えは今も口碑にのこれり。　景勝君も此寺に物学び玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書宝物等も多し、その中に火車落の袈裟といふあり、香染の麻と見ゆるに血の痕のこれり。是を火車落とて宝物とする由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家に死亡のものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹もやまざりければ、三四日は晴をまちて葬式をのばしけるに晴ざりければ、強ていとなみをなし、旦那寺なれば北高和尚をむかへて棺をいだし、親族はさら也人々蓑笠に雪をしのぎて送りゆく。その雪途もやゝ半にいたりし時猛風俄におこり、黒雲空に布満て闇夜のごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺の上に覆かゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有の大猫牙をならし鼻をふき棺を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨、こけつまろびつ逃まどふ。北高和尚はすこしも惧るゝいろなく口に咒文を唱大声一喝し、鉄如意を挙て飛つく大猫の頭をうち玉ひしに、かしらや破れけん血ほどはしりて衣をけがし、妖怪は立地に逃去りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣とて今につたふ。
百樹曰、余越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴れて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主にも対話なし、かの火車おとしの袈裟といふ物その外の宝物古文書の類をも一覧せり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書したる竪額は　順徳院の震筆なりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江山城守の制札あり、放火私伐を禁ずるの文なり。庭中池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死の古墳在りしを、先年牧之老人施主として新に墓碑を建たり。不朽の善行といふべし。本文に火車といふは所謂夜叉なるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。
○　年賀の哥
　余六十一還暦の時年賀の書画を集む。吾国はさらなり、諸国の文人三都の名家妓女俳優来舶清人の一絶をも得たり。みな牧之に贈といふ㕝をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖となして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗につゞきたる坐しきの障子をひらき、年賀の帖を披き並べおきたる所へ友人来り、年賀の作意書画の評などかたりゐたるをりしも、順礼の夫婦軒下に我が里言には廊下といふ立けり。吾が家常に草鞋をつくらせおきてかゝる者に施すゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云やう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食のやうなるすがたには似気なきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺すゞりばこいだしければ、
三途川わたしは先へ百年も君がむかひをとゞめ申さん　　　五放舎
としるしたるふでのはこびも拙からず。年賀にはひとふしかはりたる趣向といひ、順礼に五放舎と戯れたる名もおもしろく、友人と倶におどろき感じ、宿を施行せん、ゆる〱ものがたりせんなど、友人もさま〲にすゝめたれど、杖をとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。
○　逃入村の不思議
　小千谷より一里あまりの山手に逃入村といふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚小塚とよびて大小二ツの古墳双びあり。所の伝へに大なるを時平の塚とし、小なるを時平の夫人の塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在べき由縁なきことは論におよばざる俗説なり。しかれども爰に一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流されなどして此地に終りたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習をすれば天満宮の祟ありとて一村の人皆無筆なり。他郷に身を寄て手習すれば祟なし。しかれども村にかへれば日を追て字を忘れ、終には無筆となる。このゆゑに文字の用ある時は他の村の者にたのみて書用を弁ず。又此村の子どもなど江戸土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳なりと古くいひつたふるも何か由縁ある事なるべし。菅家の筑紫にて薨じ玉ひたるは延喜三年二月廿五日なり、今を去る事百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり九百十五年前なり。今にいたりても神灵の明々たる事おそるべし尊むべし。
　さて又これにるゐする事あり、南𧮾が東遊記を見るに、南𧮾東遊して津軽に居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居ると旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城は人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへりと。南𧮾子此事に遇たりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官正氏在京の時讒にあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂今に消滅せざる事人知を以論ずべからず。百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考西遊記前編景清が塚は日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつる。此所に景清が娘の墳もあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人を忌む、盲人他処より入れば必祟あり、景清後に盲人になりしゆゑ、母の灵盲人を嫌ふと所の人のいへりと記せり。これらの㕝逃入村の不思議に類せり。しかれども件の二ツは社ありて丹後の人を忌、墓ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑに天満宮の神灵此地を忌玉ふならん。こゝをもつて考ふるに、かの古墳はいよ〱時平が血脉の人なるべし。
百樹曰、余越遊して小千谷に在りし時、所の人逃入村の事を語りて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨の者強てゆくべきにもあらねば、話をきゝしのみにてゆかざりき。さて　天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此　御神を讒言したる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓狂言にも作りなし、婦女子も普く知る所なれど、童稚女子はその実跡をしれるが稀なり。さればかゝるはかなき冊子に此　御神の事を記すはいともかしこけれど、逃入村の因によりてこゝに書載す。
○謹で案るに、菅原の本姓は土師なりしが、土師の古人といひしが、　光仁帝の御時、大和国菅原といふ所に住たるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真、字は三、童名を阿呼と申たてまつる。阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく　仁明帝に仕へ玉ひたる文章博士参議是善卿の第三の御子、承和十二年に生れ玉へり。七歳の時紅梅を御覧じて「梅の花紅脂のいろにぞ似たる哉阿古が顔にもぬるべかりけり」十一の春斉衡二年父君より月下梅といふ詩の題を玉ひたる時即坐に「月輝如晴、雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房馨」御祖父清公御父是善卿の学業を受嗣玉ひて文芸はさらなり、武事にも疎からずまし〱けり。
○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生に挙られ、下野の権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏身まかり玉ひ、　陽成天皇の元慶四年八月晦日御父是善卿も身まかり玉へり。御年六十九此時　菅神は御年四十一なり。
○寛平四年御年四十八類聚国史二百巻を撰み玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿が朗詠集に入れられたる菅家の詩に「送春不用動舟車唯別残鴬与落花若使韶光知我意今𫕟旅宿在詩家」此御作は　延喜帝いまだ東宮たりし時令旨ありて一時の間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。
○さて御若年より数階を歴給ひて後、寛平九年御年五十三権大納言右□将を兼らる。此時時平大納言に任ぜられ左□将を兼、　菅神と並び立て執政たり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日　宇多帝御位を太子敦仁親王へ譲り玉ひ朱雀院へ入らせ玉ひ、亭子院と申奉り、御法体ありては　寛平法皇とぞ申奉る。　敦仁親王を　醍醐天皇とも後よりは延喜帝とも申奉る。御年十三年号を昌泰と改元す。同二年時平公左□臣、　菅神右□臣相倶に　帝を補佐し奉らる、時に時平公二十七、　菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳年齢双璧をなさず、故に心齟齬して相和せず。是　菅神の讒毒を得玉ふの張本なり。
○そも〱時平公は大職冠九代の孫照宣公の嫡男にて、代々□臣の家柄なり。しかのみならず延喜帝の皇后の兄なり。このゆゑに若年にして□臣の貴重に職ししなり。此人の乱行の一ツを言ば、叔父たる大納言国経卿は年老、叔母たる北の方は年若く業平の孫女にて絶世の美人なり。時平是に恋々す、夫人もまた夫の老たるを嫌ふの心あり。時平或日国経の許に宴し、酔興にまぎらして夫人を貰はんといひしを、国経も酔たれば戯言とおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥たるを見て叔母を車にいだき入れて立かへり、此腹に生れたるを中納言敦忠といふ、時平の不道此一を以て其余を知るべし。かゝる不道の人なれば、　寛平法皇の帝の御父御心には時平の任を除き　菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝亭子院へ朝覲のをりから御内心を示し玉ひしに　帝もこれにしたがひ玉ひ、其日　菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ありしに　菅神固辞したまひしに許し玉はざりけり。同月七日従二位にすゝみ玉へり此密事いかにしてか時平公の聞にふれしかば、事に先じて　帝に讒するやうは、君の御弟斉世親王は道真の女を室適して寵遇厚し。是以君を廃して親王を立、国柄を一人の手に握んとの密謀あり　法皇も是に応じ玉ふの風説ありと言を巧に讒しけり。時に　延喜帝御年十七なり。　皇后は時平公の妹なれば内外より讒毒を流して若帝の御心を動し奉りたるなり。
○さて時平が毒奏はやく中りて、同月廿五日左降の宣旨下りて右□臣の職を削り、従二位はもとのごとく太宰権帥とし文官筑紫へ左遷に定め玉へり。　寛平法皇此事を聞しめして大におどろかせ給ひ、御車にもめし玉はず俄に御沓をすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯と申せとおほせありしかども左右の諸陣警固して事を通ぜず、是も時平が讒に一味する菅根の朝臣がはからひとかや。　法皇は草坐玉ひ終日庭上に御し晩にいたりてむなしく本院へ還□玉へり。
○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流れ玉ふ、是も時平が毒舌によれり。姫たちは都にとゞまり幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風吹ば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘ぞ」此梅つくしへ飛たる事は挙世の知る処なり。又桜を「桜花主を忘れぬものならば吹こん風にことつてはせよ」
○斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨の浦に日を移しつくしへ抵りたまへり。やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。
○筑紫太宰府にて「離家三四月　落涙百千行　万事皆如夢　時々仰彼蒼」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝かくるゝ人もなければやきてしぬれ衣ひるよしもなき」ぬれぎぬとは無実のつみにかゝるをいふなり
○つくしにいたり玉ひては不出門行といふ詩を作り玉ひて、寸歩も門外へいで玉はず。是朝廷を尊恐、御身の謫官たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼纔看瓦色　観音寺只聴鐘声」
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ十二巻左遷より後のを菅家後草とて一巻今も世につたふ。後草に九月十三夜の題にて「去年今夜侍清涼　秋思詩篇独断膓　恩賜御衣今在此　捧持毎日拝余香」此御作に注あり、その趣は、○去年とは昌泰三年なり延喜元年の一年まへ其年の九月十三夜、　清涼殿に侍候ありし時、秋思といふ題を玉はりしに、詩の意にことよせて諫たてまつりしに、其いさめを容玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所にもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香を拝すと、　帝をしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠を作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実の流罪に所して露ばかりも帝を恨み玉はざりしを知るべし。朝廷を怨み給ひて魔道に入り、雷公になり玉ひたりといふ妄説は次に弁ずべし。
○高辻の御庭の桜枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
○さて太宰府に謫居し給ふ事三年にして延喜三年正月の頃より　御心例ならず、二月廿五日太宰府に薨じ玉へり、御年五十九。御墓は府にちかき四ツ辻といふ所に定め、　御棺をいだしけるに途中にとゞまりてうごかず、則その所に葬り奉る、今の　神庿是なり。
○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始て　菅神の神殿を建らる。味酒の安行といふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流をゆるされ玉ひ、おの〱故の位にかへされ玉ふ。
○神去玉ひしのち水旱風雷の天変しば〱ありて人の心安からず。是ぞ　菅公の祟りなるらんなど風説しけるとかや。
○菅神薨去より七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨ず、歳三十九。又一男八条の大将保忠、その弟中納言敦忠および時平の女、延喜帝の女御なり孫の東宮までも相つゞきて薨ぜらる。又時平の讒毒に荷担したる菅根の朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも　菅神の祟なりと世に流布せしは　菅公の冤謫を世の人哀戚きたるゆゑとかや。
○延長元年三月保明太子薨去。時平の孫、まへに東宮といひし是也。
○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復し玉ふ。神さり給ひしより二十年。
○一条院の御時正暦四年五月廿一日　菅神に正一位左□臣を贈らる。菅神百年御忌にあたる。
○同年閏十月十九日大政□臣を贈らる。しかれば此　御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年屡神灵の赫々たる徴ありしによりて、　天満宮、或　自在天神の贈称あり。
○そも〱　醍醐天皇は在位卅二年百廿代の御皇統の中にも殊に御徳達たりしゆゑ、延喜の聖代と称し、御在位の久かりしゆゑ　延喜帝とも申奉る。　御若冠の時とは申ながら、賢者の聞えある重臣の　菅公を時平大臣が一時の讒口を信じ玉ひて其実否をも糺し玉はず、卒尓に菅公を左遷ありしは　御一代の失徳とやいふべき。しかるを　菅神の恨み玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、　菅神はうらみ玉はずとも賢徳忠臣の冤謫を天のいきどほりて水旱風雷の異変、讒者奸人の死亡ありしならん。俗子は是を　菅神の怨灵とするは是又　菅神の賢行に瑾つけるなり。しかれども竊に謂く、賢者は旧悪をおもはずといふも事にこそよれ、冤謫懆愁のあまり讒言の首唱たる時平大臣を肚中に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村を神の忌玉ふも其徴とするの一ツなるべし。
○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕て藤原清貫大納言平稀世右中弁其外侍候の人々雷火に即死す、　延喜帝常寧殿に渡御ありて雷火を避たまふ。是をも　菅神の祟とするはいよ〱非説なりと、安斎先生伊勢平蔵の菅像弁にもいへり。
○太宰府より一里西に天拝山あり。　菅神この山にのぼりて朝廷を怨む告文を天に捧て祈り、雷神となり玉ひしといふは、賢徳の御心をしらざる俗子の妄説を今に伝へたるなり。和漢三才図会にも実しやかに記したるは、不出門行の御作に心を深めざるにやあらん。
○法性坊尊意叡山に在し時　菅神の幽灵来り我冤謫の夙懟を償とす、願くは師の道力をもつて拒ことなかれ。尊意曰、卒土は皆王民なり、我もし　皇の詔をうけ玉はらば避るに所なし。菅神怍色あり、適柘榴を薦、　菅神哺を吐て焔をなし玉ひしといふ故事は、元亨釈書の妄説に起る。此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖なりと、安斎先生もいへり。
○白太夫といふは伊勢渡会の神職　菅神文墨に於格外の懇友なり、ゆゑに北野に祀りて今も社あり。此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。
○北野の御社の始は天慶五年六月九日より勅命によりて建創。其起りは西の京七条に住たる文子といふ女に神託ありしによりてなり。北野縁起につまびらかなり。
○世に渡唐の天神といひて唐服に梅花一枝を持玉ふを画く。故事は、仏鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に　菅神の灵唐土へ渡り玉ひて経山寺の無準禅師に聖一国師の師なり法を受玉ひて日本へ帰り玉ひたりと、件の石に彫つけありしと古書に見えたるを拠として、渡唐の　神影を画き伝へたるなり。此事固妄説なりと安斎先生の菅像弁にいへり。菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。
○菅神左遷の実跡を載たるは、○日本紀略抄録に巻序を失意せり○扶桑略記巻卅三〇日本史百卅三の列伝五十九〇菅家御伝記神統菅原陳経朝臣御作正史によられたれば証とすべし其余虚実混合したる古今の書籍枚挙すべからず。
○本朝文粋に挙たる大江匡衡の文に「天満自在天神或は塩梅於天下輔導一人帝の御こと或日月於天上照臨万民就中文道之大祖風月之本主也」云云。大江家は　菅原家と倶に　朝廷に累世する儒臣なり。しかるに　菅神を崇称たる事件の文の如し。是以凡文道に関者此　御神を崇ざらんや、信ぜざらんや。
○およそ　菅神を祀る社にはおほかたは雷除の護府といふ物あり。此　御神雷の浮名をうけ玉ひたるゆゑ、　神灵雷を忌玉ふゆゑに此まもりかならず験あるべし。
○さて如件条説するは、本編にいへる逃入村の　神灵の事に因て実跡の書どもを摘要して御神の略伝を児曹に示すなり。固不学のすさみなれば要跡の漏たるも説の誤謬たるもあるべし。あなかしこ謹で附記す。
○再按るに、孔子の聖なるもその灵は生る時よりも照然として、その墓十里荊棘を生ぜず、鳥も巣をむすばず。関羽の賢なるも死しては神となりて祈に応ず。是則生は形を以て運り、死ては神を以て運ゆゑなりとかや。文海披沙の説菅神も此論に近し。逃入村の事を以ても千年にちかき神灵の赫々たること仰ぐべし敬ふべし。盖冥々には年月を置ずときけば百年も猶一日の如くなるべし。菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。
○　田代の七ツ釜
　魚沼郡の官駅十日町の南七里計、妻在庄の山中此へんすべて上つまりといふに田代といふ村あり。村を去事七八町に七ツ釜といふ所あり、里俗滝つぼを釜といふ滝七段あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子の口不動滝などいふも七ツ釜の内にて、妙景奇状筆をもつて云べからず。第七番目の釜の地景を爰に図するをみて其大概をしるべし。此所の絶壁を竪御号横御号といふ、里俗伊勢より御師の持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁の石かの箱の状に似たるをもつて斯いふなり。その似たりといふは此ぜつへきの石どもの落てあるを視れば、厚さ六七寸計にして平みあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工の作りなしたるが如し。此石数百万を竪に積重ねて、此数十丈の絶壁をなす也。頂は山につゞきて老樹欝然たり、是右の方の竪御がうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積かさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀よくつみあげたるごとく寸分の斜なし、天然の奇工奇々妙々不可思議なり。此石の落たるを此田代村の者さま〲の物に用ふ、片石にても他所に用ふれば祟ありし事度々なりとぞ。余文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景を尋て目撃したるを記す。天の茫々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑くその類を示す。
○百樹曰、余仕に在し時同藩の文学関先生の話に、　君侯封内の丹波笹山山に天然に磨の状したる石をつみあげて柱のやうなるを並て絶壁をなし、満山此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨の状の石を産する所ありと春暉が随筆にて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。
○又尾張の名古屋の人吉田重房が著したる筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の温泉に抵る途中を記したる条に曰、○猶舟にのりて行。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山地名など追続てあり。此石山の川岸に臨れる所に奇しき石あり、其形ち磨磐の如く、上下平にして周は三角四角五角八角等にして、石工の切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡もありて洞のごとし。天下の広きには珍奇なる事おほきものなりけり云云。是も奇石の一類なれば筆の次にしるしつ。
北越雪譜二編巻之三　終
北越雪譜二編　巻之四
越後　　　鈴木牧之　　編選
江戸　　　京山人百樹　増修
○　異獣
　魚沼郡堀内より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼すぐる頃竹助といふ剛夫をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途も梢々半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰かけ焼飯をくひゐたるに、谷間の根笹をおしわけて来る者あり、ちかくよりたるを見れば猿に似て猿にもあらず。頭の毛長く脊にたれたるが半はしろし、丈は常並の人よりたかく、顔は猿に似て赤からず、眼大にして光りあり。竹助は心剛なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提、よらば斬んと身がまへけるに、此ものはさる気色もなく、竹助が石の上におきたる焼飯に指しくれよと乞ふさまなり。竹助こゝろえて投与へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる〲とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり〱は此異獣を見たるものもありしとぞ。
○前にいふ池谷村の者の話に、我れ十四五の時村うちの娘に機の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱のもとに機を織てゐたるに、囱の外に立たるをみれば猿のやうにて顔赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独りなればことさらに惧れおどろき、逃んとすれど機にかゝりたれば腰にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃に指して欲きさまなり、娘此異獣の事をかねて聞たるゆゑ、飯を握りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり〱来りて飯を乞ふゆゑ、後には馴ておそろしともおもはずくはせけり。
○さて此娘、　尊用なりとて急のちゞみをおりかけしに、折ふし月水になりて　御機屋に入る事ならず。御機屋の事初編に委しく記せり手を停め居れば日限に後る、娘はさらなり、双親も此事を患ひ歎きけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議とおもひながら身をきよめて御機を織果、その父問屋へ持去り、往着しとおもふ頃娘時ならず俄に紅潮になりしゆゑ、さては我が歎しを聞てかのもの我を助しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連ある時は形を見せずとぞ。又高田の藩士材用にて樵夫をしたがへ、黒姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火にあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪、裸身、通身灰色にて、毛の脱たるに似たり、腰より下に枯草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴しと高田の人のかたりき。按るに和漢三才図会寓類の部に、飛騨美濃あるひは西国の深山にも如件異獣ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。
○　火浣布
　宝暦年中平賀鳩渓源内火浣布を創製し、火浣布考を著し、和漢の古書を引、本朝未曾有の奇工に誇れり。没してのち其術つたはらず、好事家の憾事とす。しかるに我国甞火浣布を作るの石を産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して爪をもつても犯すべきほどの軟なる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿を出す。此石を得て試みしに、石中に在る石綿といふものは、木綿わたを細く紬たるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是を紡績するに秘術ありて火浣布を造るなり、其秘術を得ば小女子も火浣布を織るべし。
○さて我駅中に稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績する事に千思万慮を費し、竟に自その術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村大沢村の医師黒田玄鶴も同じく火浣布を織る術を得たり。各々秘してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工を得たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説をきゝしに力をつくせば一丈以上なるをも織うべし、しかれども其機工容易ならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過ずと火浣布考にいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙火浣墨の二種を造れり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火にやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気さむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災の供には憑がたし、いかんとなれば、火に遇ば倶に火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶に砕けて形をうしなふ、たゞ灰とならざるのみなり。翫具には用うる所さま〲あるべし。源内死して奇術絶たりしに件の両人いでゝ火浣布の機術再世にいでしに、嗚呼可惜、此両人も術をつたへずして没したれば火浣布ふたゝび世に絶たり。かの源内は江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ其聞え高く、この両人は越後の辟境に火浣布をおりしゆゑ其名低し、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供す。
○　弘智法印
　弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野山にありて蜜教を学び、後生国に皈り大浦の蓮花寺に住し、行脚して越後に来り、三嶋郡野積村里言のぞみ海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫をとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂せり。辞世とて口碑につたふる哥に「岩坂の主を誰ぞと人問ば墨絵に書し松風の音」遺言なりとて死骸を不埋、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸生るが如し。是を越後廿四奇の一に数ふ。此事雑書に散見すれども図をのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余先年下越後にあそびし時目撃したる所なり。見る所たゞ面部のみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観る事をゆるさず、閉眼皺ありて眠りたるが如し。頭巾法衣はむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡なり。
百樹曰、唐土にも弘智に似たる事あり。唐の世の僧義存没してのち尸を函中に置、毎月其徒これをいだし爪髪の長たるを剪薙常とす。百余年を経ても廃せざりしが、後国のみだれたるに因てこれを火葬せしとぞ。又宋人彭乗が作墨客揮犀に鄂州の僧无夢も尸を不埋、爪髪の長たる義存に同じかりしが、婦人の手に摸られしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組に記して枯骸の確論あれども、釈氏を詰るに似たる説なればこゝに贅せず。○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。
○　土中の舟
　蒲原郡五泉の在一里ばかりに下新田といふ村あり。或年此村の者ども㕝ありて阿加川の岸を掘しに、土中より長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全体少しも腐ず、形今の船に異るのみならず、金具を用うべき処みな鯨の髭を用ひて寸鉄をもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを弁ずる者なく、おそらくは異国の船ならんといへりとぞ。余下越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質漢産ともおもはれき。上古漂流の夷船にやあらん。
○　白烏
　前にもいへる如く雪譜と題するものに他事をいふは哥にいふ落題なれど、雪はまた末にいふべし、姑くおもひいだすにまかす。
○天保三年辰四月、我が住塩沢の中町に鍵屋某が家のほとりに喬木あり。此樹に烏巣をむすび、雛梢々頭をいだすころ、巣のうちに白き頭の鳥を見る。主人怪しみ人をして是を捕へしめしに、全身は烏にして白く、觜眼足は赤き烏の雛なり、人々奇として集り観る。主人俄に籠を作らせ心を尽して養ひ、やゝ長じて鳴音も烏に異ならず、我が近隣なれば朝夕これを観たり。奇鳥なれば乞ふ人も多く、江戸へ出して観物にせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の鼬狐など餌に乏く人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所為にや、籠はやぶれて白烏は羽ばかり椽の下にありしときゝし。初編に白熊の事を載たるゆゑ、白烏もまたこゝに記しぬ。
○　両頭の蛇
　文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の在、余川村の農人太左エ門の軒端に、両頭の蛇いでたるを捕ふ。長さ一尺にたらず、その頭二ツ並びて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、餌もいれおきしに、二三日すぎていつ逃ゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。
○　浮嶋
　小千谷より西一里に芳谷村といふあり、こゝに郡殿の池とて四方二三町斗の池ありて浮嶋十三あり。晴天風なき時日出れば十三の小嶋おの〱離散して池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中にあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇異あれども文多ければしるさず。羽州の浮嶋はものにも記して人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。
○　石打明神
　小千谷の内農人某の地面に小社あり石打明神といふ。昔より祀る処也、その縁起は聞もらせり。贅肉あるもの此神をいのり、小石をもつていぼを撫、社の椽の下の𥴩子の内へ投いれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の円めたるごとく円石となるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円石満みちたり。
○百樹曰、余も小千谷に遊びし時、此石を視て話柄に一ツ持帰んとせしに、所の人のいふやう、此神是石を惜み玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら〱視たるに数万の石人の磨なしたる玉のごとし。凡神妙は肉知を以て測べからず。
○　美人
百樹曰、小千谷の因にいふ、余小千谷の岩居が家に旅宿せし時天保七年八月或日筆を採に倦、山水の秋景を観ばやとて独歩いで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡にのぼり、用意したる書をかく。毛氈を老樹の下にしき烟くゆらせつゝ眺望ば、引舟は浪に遡りてうごかざるが如く、下る舟は流に順ふて飛に似たり。行雁字をならべ帰樵画をひらく。群木は少しく霜を染て紅々、連山は僅に雪を載て白々。寒国の秋景江戸の眼を新になし、おもはず一絶を得などしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの〱柴籠をせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余は山水に目を奪はれたるに「火をかしなされ」とて烟管さしよせたる顔を見れば、蓬髪素面にて天質の艶色花ともいふべく玉にも比すべし。百結の鶉衣此趙璧を羅む。余愕然し山水を棄て此娘を視るに一揖して去り、樹の下の草に坐してあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟。双無塩独の西施と語るは蒹葭玉樹によるが如く、皓歯燦爛としてわらふは白芙蓉の水をいでゝ微風に揺がごとし。嗟乎惜べし、かゝる美人も是辺鄙に生れ、昏庸頑夫の妻となり、巧妻常に拙夫に伴れて眠り、荊棘と倶に腐らん事憐に堪たり。若江戸にいださば朱門に解語の花を開、あるひは又青楼に揺泉樹の栄をなし、此隣国出羽に生れたる小野の小町が如く美人の名をもなすべきに、此美人を此僻地に出すは天公事を解さゞるに似たりと独歎息しつゝ言んとししに、娘は去来とてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送て顧、越後には美人多しと人の口実にいふもうべなり、是無他なし、水によるゆゑなり。されば織物の清白なる越後の白縮に勝れるはなし、ことさら此辺は白縮を産する所なり、以て其水の至清なるをしるべし。江河潔清なれば女に佳麗多しと謝肇淛がいひしも理なりとおもひつゝ旅宿に帰り、云々の事にて美人を視たりと岩居に語りければ、岩居いふやう、渠は人の知る美女なり、先生を他国の人と眼解欺てたばこの火を借たるならん、可憎々々「否々にくむべからず、吾たばこの火を借て美人にえん烟縁をむすびし」と戯言ければ、岩居手を拍て大に笑ひ、先生誤り、かれは屠者の娘なりと聞て再び愕然たり。糞壌妖花を出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。
○再按に、小野の小町は羽州の郡司小野の良実の女なり、楊貴妃は蜀州の司戸元玉が女なり、和漢倶に北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人ありといひしも、北は陰位なれば女に美麗を出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生れ、初代の薄雲は信州に産して、ともに北廓に名をなせり。されば越後に件の美人を見しも北国なればなるべし。
○　蛾眉山下橋柱
　文政八年乙酉十二月、苅羽郡越後椎谷の漁人椎谷は堀侯の御封内なりある日椎谷の海上に漁して一木の流れ漂ふを見て薪にせばやとて拾ひ取て家にかへり、水を乾さんとて庇に立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視に、蛾眉山下￼といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人には薪を与へて乞ひうけけるとぞ。さて余が旧友観励上人は椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺強学の聞えあり、甞て好事の癖あるを以てかの橋柱の文字を双鈎刊刻して同好におくり且橋柱に題する吟詠をこひ、是も又梓にして世に布んとせられしが、故ありていまだ不果。かの橋柱は後に御領主の御蔵となりしとぞ。椎谷は余が同国なれども幾里を隔たれば其真物を不見、今に遺憾とす。姑伝写の図を以てこゝに載つ。○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。
百樹曰、了阿上人が和哥の友相場氏は　椎谷侯の殿人ときゝて、上人の紹介をもつて相場氏に対面して件の橋柱の事を尋ねしに、余に謂しは、橋柱にはあらず標準なりとて、俗に書翰帒といふ物に作りたるを出して其図を示さる。余が友の画人千春子が真物を傍におきて縮図なし、蛾眉山下￼といふ五字は相場氏みづから心を深めてうつされしとぞ。下に図するこれなり彫たる人の頭を左りに顧せ、その下に五字を彫つけしは、是より左り蛾眉山下橋なりと人にをしゆる標準なりとかたられき。是にて義理渙然たり。今俗に指をゑがきてそのしたにをしゆる所を記したるを間みる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。
○さて此標準を得たる実事をきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈しく礒へ物をうちよする、椎谷はたきものにとぼしき所ゆゑ貧民拾ひ取りて薪となす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例の如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱のごとく浪に漂ふをみれば人の頭とみゆる物にて甚兇悪なり。貧民等惧れてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟に礒にうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者なく、是は何ものならんとさま〲評し居たるをりしも、こゝに近き西禅院の童僧通りかゝり、唐詩選にておぼえたる蛾眉山の文字を読、これは唐土の物なりときゝて貧民拾ひて持かへり、さすがに唐土の物ときゝて薪にもせざりしに、此事閧伝して竟に主君の蔵となりしと語られき。
縮図左のごとし。丈一丈余、周二尺五寸余。木質弁名べからず。
○按るに、蛾眉山は唐土の北に在る峻岳にて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂の峯双立て八字をなすゆゑ、蛾眉山といふなり。此山の標準、日本の北海へながれきたりたる其水路を詳究せんとて「唐土歴代州郡沿革地図」に拠て清国の道程図中を撿するに、蛾眉山は清朝の都を距こと日本道四百里許の北に在り、此山に遠からずして一条の大河東に流。蛾眉山の麓の河々皆此大河に入る。此大河瀘州を流れ三峡のふもとを過ぎ、江漢に至り荊州に入り、○洞庭湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。さて件の標準洪水にてや水に入りけん、○洞庭○赤壁○潯陽○楊子の海の如き四大江を蕩漾周流して朽沈ず。滔々たる水路五百余里を流れて東海に入り、巨濤に千倒し風波に万顛すれども断折砕粉せず、直身挺然として我国の洋中に漂ひ、北海の地方に近より、椎谷の貧民に拾れて始て水を辞れ、既に一燼の薪となるべきを、幸に字を識者に遇ひて死灰をのがれ、韻客の為に題詠の美言をうけたるのみならず、竟には　椎谷侯の愛を奉じて身を宝庫に安んじ、万古不朽の洪福を保つ㕝奇妙不思議の天幸なれば、実に稀世の珍物なり。
按ずるに、蛾蛾同韻五何反なれば相通じて往々書見す。橋を￼に作る頗る異体なり。依て明人黄元立が〔字考正誤、清人顧炎武が亭林遺書中に在る〔金石文字記あるひは〔碑文摘奇藤花亭十種之一あるひは楊霖竹菴が〔古今釈疑中の字体の部など通巻一遍捜索したれども￼の字なし。蛾眉山のある蜀の地は都を去る事遠き僻境なり。推量するに、田舎の標準なれば学者の書しにもあるべからず、俗子の筆なるべし。されば我今の俗竹を￼と亻に誤の類か、猶博識の説を俟つ。
○　苗場山
　苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼なり。峻岳の巓に苗田ある事甚奇なり。余其奇跡を尋んとおもふ事年ありしに、文化八年七月偶おもひたちて友人四人●嘯斎●擷斎●扇舎●物九斎従僕等に食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣といふ駅に宿り、次日暁を侵して此山の神職にいたり、おの〱祓をなし案内者を傭ふ。案内は白衣に幣を捧げて先にすゝむ。清津川を渉りやがて麓にいたれり。巉道を踏嶮路に登るに、掬樹森列して日を遮り、山篠生ひ茂りて径を塞ぐ。枯たる老樹折れて路に横りたるを踰るは臥竜を踏がごとし。一条の渓河を渉り猶登る事半里許、右に折れてすゝみ左りに曲りてのぼる。奇木怪石千態万状筆を以ていひがたし。已に半途にいたれば鳥の声をもきかず、殆東西を弁じがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山篠をおしわけ幣をさゝげてみちを示す。藤蔓笠にまとひ、樷竹身を隠し、石高くして径狭く、一歩も平坦のみちをふまず。やう〱午すぐる頃山の半にいたり、僅の平地を得て用意したる臥座を木蔭にしきて食をなし、暫く憇てまたのぼり〱て神楽岡といふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが稍は雪霜にや枯されけん、低き森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花圃といふ所、山桜盛にひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植やしなひしに似たり。名をしらざる異草もあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき〱て桟齴なる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草とし、一歩に一声を発しつゝ気を張り汗をながし、千辛万苦しのぼりつくして馬の背といふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅に二三尺、一脚をあやまつ時は身を粉砕になすべし。おの〱忙怕あゆみて竟に絶頂にいたりつきぬ。
○偖同行十二人、まづ草に坐して憇ふ時、已に下晡なり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険道なれば、一日に往来することあたはず、絶頂に小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝、山さゝ、枯草など取りあつめ、ふぢかつらにて匍匐入るばかりに作りたるは、野非人のをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〱笑ふ。僕どもは枯枝をひろひ石をあつめて仮に灶をなし、もたせたる食物を調ぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹れば、上戸は酒の燗をいそぐもをかし。さて眺望ば越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す。千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛をのこせり。こゝに眼を拭て扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置が如し。人々手を拍、奇なりと呼び妙なりと称讃す。千勝万景応接するに遑あらず。雲脚下に起るかとみれば、忽晴て日光眼を射る、身は天外に在が如し。是絶頂は周一里といふ。莽々たる平蕪高低の所を不見、山の名によぶ苗場といふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植たるやうに苗に似たる草生ひたり、苗代を半とりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙蛗螽もありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水枯ずとぞ。二里の巓に此奇跡を観ること甚不思議の灵山なり。案内者いはく、御花圃よりまへにいひたる所別に径ありて竜岩窟といふ所あり、窟の内に一条の清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐口二ツ掛りありて神を祀る。むかしより如斯といひつたふ。このみち今は草木に塞れてもとめがたしといへり。絶頂にも石に刻して苗場大権現とあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈をさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌。六日の月皎々とてらして空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこゝちしつ。人々詩を賦し哥をよみ、俳句の吟興もありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈しく、用意の綿入にもしのぎかねて終夜焼火にあたりて夢もむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来迎を拝たまへと案内がいふにまかせ、拝所にいたり日の昇を拝し、したくとゝのへて山をくだれり。別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。
○百樹曰、余越遊したる時、牧之老人に此山の地勢を委しくきゝ真景の図をも視たるに、巓の平坦なる苗場の奇異、竜岩窟の古跡など水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂を平坦になし、馬の背の天険をたのみてこゝに住居し耕作をもしたるが、亡びてのち其灵魂こゝにとゞまりて苗場の奇異をもなすにやと思へり。国史を捜究せば其徴する端をも得べくや、博達の説を聞ん。
○　三四月の雪
　我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは雨降る事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の半にいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積雪しだい〱に消るなり。されども家居などは乾に北東の間あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里地よりもきゆる㕝おそけれども、春陽の天然につれて雪解に水増て川々に水難の患ある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の住あたりの雪は自然にきゆるをまたずして家毎に雪を取捨るに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは鋸にて雪を挽割てすてもし、又は日向の所へ材木のごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆそも〱去年冬のはじめより雪のふらざる日も空曇りて快く晴たるそらを見るは稀にて、雪に家居を降埋められ手もとさへいとくらし。是に生れ是に慣て、年々の㕝なれども雪にこもりをるはおのづから朦然として心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪囲を取除れば、日光明々としてはじめて人間世界へいでたるこゝちぞせらる。一年夏の頃、江戸より来りたる行脚の俳人を停おきしに、謂やう、此国の所々にいたり見るに富家の庭には手をつくしたるもあれど、垣はいづれも粗略にて仮初に作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。答ていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし崩るゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬足もたゝず耕作もせざれば、馬は空く厩にあそばせおく事凡百日あまり也。我国に牛のみつかふ所もあり雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに嘶き路にいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて厩をひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴縄ばかりの躶馬に跨り雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの飼やうによりて痩ると肥るありて、やせたるは馬主の貧さもしるゝものなり。馬のみにあらず、童どもゝ雪のはじめより外遊する事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう〱冬履稿沓をすてゝ草履せつたになり、凧などにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世外の花を視るなり。
○　鶴恩に報ゆ
　天保七年丙申の春、我が郡中小千谷の縮商人芳沢屋東五郎俳号を二松といふもの、商ひの為西国にいたり或城下に逗留の間、旅宿の主がはなしに、此近在の農人おのれが田地のうちに病鶴ありて死にいたらんとするを見つけ、貯たる人参にて鶴の病を養しに、日あらず病癒て飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農人が家の庭ちかく舞くだり、稲二茎を落し一声づゝ鳴て飛さりけり。主人拾ひとりて見るにその丈六尺にあまり、穂も是につれて長く、穂の一枝に稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病鶴恩に報んため異国より咥えきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領主に奉りけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ主にたまはり、よくやしなへとおほせによりて苗のころにいたり心をつくして植つけけるに、鶴があたへしにかはらずよく生ひいでければ、国の守へも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも尋きけば、鶴を助けたる人は東五郎が縮を売たる家なれば、すぐさまその家にいたり猶委く聞て、さて国の土産にせん、穀を一二粒賜はれかしと乞ければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに生ひなんとて、もみ五六十粒与へたるを国へ持かへりて事の来由を申て　邦君に奉りしを、　御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ　御褒賞など在しと小千谷の人その頃物がたれり。おもふに余がごとき賤農もかゝるめでたき　御代に生れたればこそ安居してかゝる筆も採なれ。されば千年の昌平をいのりて鶴の話に筆をとゞめつ。猶雪の奇談他事の珎説こゝに漏したるも最多ければ、生産の暇ふたゝび編を嗣べし。
通巻画図京水　　岩瀬百鶴　筆　
北越雪譜二編　四巻大尾
註解
＊１　「許鹿君」古河の城主土井大炊頭利位の号、利位は下総古河藩第十世の藩主である。寛政六年（一七八九）土井利徳の男として生れた。文政五年に養父利厚の職を襲ぎ大炊頭に任ぜられた。同八年に社寺奉行となり、同十二年に病の為め職を免ぜられた。天保二年に再任し、同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中を免ぜられ雁間席を命ぜられた。嘉永元年（一八四八）卒去した。利位はその臣鷹見忠常と共に雪華を詳細に検鏡し、天保三年には雪華図説を、天保十一年には続雪華図説を著はし、手版として刊行した。
＊２　「用意したる所の雪を尺をもつて量りしに」の雪と尺との間の『を』字は誤まつて挿入したものと思ふ。即ち「用意したる所の雪尺をもつて量りしに」とあるべきかと思はれる。
＊３　「妙法寺の火」妙法寺村は如法寺村のことである。本書二五九頁に「蒲原郡如法寺村」とある。同村では天然のメタン瓦斯が地中より吹き出すところがあつて、之を竹管で室内に導き、炉の一隅に置いてある石臼の孔から吹き出さし、夫れに点火して炭火の代用とする。石臼の孔には細い竹管を挿み、夫れから瓦斯が出る様にしたものである。越後では如法寺村に限らず諸所に同様の天然瓦斯の出るところがあり、また之を利用してゐる。
＊４　「破目山」は「ワリメキ」と云ふのが正しい。
＊５　「二万四千四百八十四度」は二万四千八百四十度の誤算。
＊６　「ようちなつた」は「よう来なすつた」と云ふこと、「能くお出でなさつた」の意。
＊７　「黒駒太子と称する画軸」は聖徳太子が黒馬に跨がり、雲に乗つて昇天するのを、曾我の馬子等が見上げてゐる図の画幅。
＊８　「やぶつの橋」は矢櫃橋のこと。
＊９　京山翁の雨の氷りて垂氷となつた談は、気象学上から判断すれば、「雨氷」と云ふ現象であると思ふ。雨氷は過冷却をした雨滴が降り、氷点以下に冷えてる樹枝や地物に当つて氷り着いたものに外ならない。垂氷と現象は似てゐるが成因は全く異なつてゐる、漢籍には「雨淞」とある。仏語の verglas、英語の glazed frost に当る。
＊10　「シガ」は気象学で云ふ「霧氷」のことである。多くの場合過冷却せる霧なぞがこれも寒冷な樹枝や地物に吹き附けて氷り着いたものである。「シガ」は遼東あたりでは「樹掛」と云ふから、夫れから転じたものと思ふ。仏語の givre、英語の silver thaw に当る。
＊11　「佐浦詣堂押図」とあるは「浦佐詣堂押図」の誤記。
＊12　「春暉の西遊記」とある春暉は橘春暉のことである。本名は宮川春暉。南谿はその号。宝暦四年生る。伊勢の人、同国久居の藤堂氏に仕へた。南谿は医を業としたが、修業と行遊との為め諸国を遊歴し、寛政七年より同十二年に亙る間、東遊記及西遊記を著述した。又文政八年に北窓瑣談を著した。文化三年歿す。享年五十三であつた。京都黒谷の光明寺に葬むつた。
この註解を書くに当り、理学博士朝比奈貞一君が「天気と気候」の昭和十一年刊に連載せられた「北越雪譜を読みて」と題する名篇に負ふところが多い。記して感謝の意を表はす。
（岡田武松）
解説
鈴木牧之翁略伝　　本書の著作者鈴木牧之翁は、明和七年正月七日に、越後の国の塩沢に生れた、塩沢は今日の新潟県南魚沼郡塩沢町である、幼時は弥太郎と云つたが、大きくなつてから、儀三治と改めた、翁の父は、質屋と縮布の仲買を営んでゐた、さうして渡世の傍に、俳諧に遊び、周月庵牧水と号してゐた、翁の牧之と云ふ号は、父の牧水の一字を採つたのである、牧之翁は幼時から英敏であつた、大運寺の快運法師に師事して経書を学び、詩は徳昌寺の虎斑禅師に就て学んだ、翁はまた幼時より画を狩野梅笑に学んで、凡んど画師に近いまでの腕前になつてゐた、北越雪譜の挿画の如きは、原図は大部分翁自ら画いたものである、壮年の頃から、既に風流韻事を解し、諸芸百般に通じてゐたから、交遊は甚だ広かつた、殊に当時の一流の文士であつた馬琴、真顔、六樹園、蜀山人、京伝、京山、一九、三馬、玉山なぞと親交あり、漢学者の鵬斎なぞとも交を訂し、画家では文晁、北斎なぞとも懇意であつた、その外に、名優団十郎、名妓花扇とも往復をしてゐた、元来北越の田舎に多く在住し、商用にて時折上京し、寸𭧴を割いては是等の名流を訪れたのである、然し交通の不便な時代にさう頻繁に上京は出来なかつたから、多くは書簡の往復での交りが多かつた、翁はその往復の書簡を丁寧に蒐集して「筆かゞみ」と名づけて珍蔵して居られた。
　翁も代々の家業であつた質屋を渡世とし、且つ縮の仲買をしてゐたが、文雅の士であつたにも関はらず商法には非常に熱心で勤倹力行大に家道を興こされた、平生東照公や楽翁公の為人を景慕し、専ら堪忍を旨として居られた、平生は粗衣粗食に甘じ、寸𭧴を惜み大小となく雅俗の用事を果された、壮年の頃から禁酒をされて、永眠されるまで酒杯を手にされなかつた、翁はまた頗る器用な質であつて、書画の表装から家具の繕ひまで皆な自分でやり、敢て専門の職を煩はすことは凡んどなかつた、現に翁の生家には翁が自画の軸物を自ら表装されたものが残つてゐる、夫を見ると全く経師職の手に成つたとしか思へない様に巧に出来てゐる、翁はまた無駄なことをするのが大嫌ひであつた、紙片と雖も棄てず、詩歌俳句の類の稿案には之を用ゐた、さうかと云つて翁は無暗に財蓄一方の人ではなかつた、私財を公共の事業に投ずることが、屡〻あつたので、官から度々その篤行を賞せられた。
　翁の著作は少くないが、天保六年に北越雪譜の初編を刊行し、天保十一年に二編を刊行した、文政年間には庚申帳と秋山紀行を著述し、文政四年には秋月庵発句集を、文政十三年には広大寺踊を、天保四年には夜職草を著述した、特に庚申帳は、庚申の宵待ちに集まつた人々の談話を記るしたもので、当時の風俗習慣等があり〱と描かれてあるのだが、今日では巻秩が逸散して、完全に保存されてゐないのは甚だ惜しい。
　牧之翁は、知命の頃に、耳疾を患ひ、殆んど聾となり、螺貝を耳に当て、聴声器としてゐた、翁の戯号の螺耳はこれから来てゐる、耳の悪るいと云ふ外には老年になつて中風の気があり、天保七年の夏中風再発して、湯治なぞ種々治療につとめられたが、遂に天保十三年五月十五日に病の為めに、永眠された、享年七十三である、郷里の長恩寺に葬られてゐる、法号は金誉志剛性温居士と云ふ、本書の口絵は、井口喜夫氏作の翁の木像の写真である、この木像は現に長恩寺に安置してある、翁の後は勘右衛門、文太郎、常平の三氏を経て現戸主雄太郎氏に至つてゐる。
北越雪譜の著作　　北越雪譜は、初編上中下三冊、二編春夏秋冬四冊都合七冊から成つてゐる、翁は三編以下も編述するつもりであつたことは、二編に載つてゐる京山の序文からも窺はれるが、翁は遂にその志を果さずして逝かれたのだ、雪譜の初編の上巻は天保六年の刊行で、下巻は七年九月の発兌である、発行の書肆は江戸文渓堂であつた、翁は稿本の刪作を山東京山に依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだと云ふ、又雪譜の二編の春の巻は天保十一年に刊行し、冬の巻は天保十三年に発行した、板元は初編のときと同様である、明治の初年に多少の刪補を加へたものが東京市麻布区飯倉五丁目の山口屋書店より出版になつてゐる、本文庫に収むるものは天保の初版に拠れるものである、只巻中俗字を用ゐてあるを少しく正し、二之巻とあつたり巻之二とあつたりするのを一つに統一した、その他は全く原著の忠実なる翻刻である、尤も巻中にある句読点は皆な新たに附けたものである。
　北越雪譜の著作とその出版に就ては、大正十年七・八月に北越新報紙上に二十五回に亙り連載せられたる春城学人市島謙吉先生の随筆「京山と牧之」に詳細に出てゐるから、茲には述べる必要がない、昭和二年早稲田大学出版部から出た随筆春城六種には、この北越新報に掲げられたものが大に点刪せられて「北越雪譜の出版さるゝまで」といふ題で載つてゐる。
　此解説は畏友泉末雄氏の手記を資料として書き下したものである、同氏は老生の依頼によつて親しく牧之翁の生家を訪れ土地の博識家に示教を請ひ、就中鈴木家の現主雄太郎氏、塩沢町役場助役田村伝三郎氏、塩沢町誌編纂委員原沢米吉氏等の高説を総合し、南魚沼郡誌、北越名流遺芳等の書物を参考とせられたところが非常に多い、牧之翁の遠孫である鈴木卯三郎氏は種々の参考文献を貸与せられ、岩波書店編輯部の長谷川覚氏は本書の句点を附けるのにお骨折り下され、又参考資料をお集め下だすつた、茲に由来を記るして是等諸君士に厚く感謝の意を表はす。
昭和十年十一月二十九日夜
岡田武松
しるす