　武者小路さんの「後に来る者に」の中に動かされない強みと云う事の書いてあったのを覚えて居ます。
　動かされないと云う事を今の私は或る意味で非常にのぞんで居る事です。
　私の狭い智や愛、まだ年の工合で、時々は自分の恐れを感じるほど物事に動かされます。
　一冊本を読めば大抵の時は何かもうすっかり心の底まで感激して仕舞う様な事が有って、その度びに自分を情なく思ったり――勿論情なく思いきりでへこたれはしませんけれ共――まあまあと思って見たりします。
　世の中の出来事のすべてに対して左様です。
　私の心の驚いたり感じさせられたりする事は、善悪の区別もなく、美醜の見境えもないので、私の毎日は何と云う動かされどうしな事でしょう。
　或る時は身の置き所のない程自分が小さく見すぼらしいものになったり、そうかと思えば非常に拡がった自分になって、世界中のどんな人にでも謙譲な美くしい自分を現わして行ける心持になったりして居ます。
　そして、其那ときには、落着いた心で自分をながめ人を知り、一歩一歩を焦立たず悲しみにおびやかされず進んで行ける様になった二十四五の人が此上なく羨しくなって来るのです。
　ほんとうに、もう少し動かされなくなったらどんなに好いだろうと思います。
　けれ共有難い事には、此の一二年同じ動くにしても、或る一点の支点だけは不動に確立して居る事を信じられる様になったのは嬉しい。
　只それ丈で、どんなに動かされても堪えられ幾分ずつなりとも育てられては行きますけれどまだまだ私の心は若すぎると思わずには居られません。
　まるで赤坊と同じです。
　赤坊が風車を廻されて驚き、舌出し三番の舌を見て泣き出すと同じ等な驚きをし泣き方をして居ます。
　ほんとうに動かされたくない。
　けれ共又そうかと云って、世の中のどんな事でも平気になって仕舞って、ニヤニヤ嘲笑いながら苦しんで居る者、育とうとして悩んで居る者を見下す自分を想像する事は尚たまりません。
　そんななら寧ろどんなにでも動かされて苦しむ方がどれ程好いか分らない。
「根のしっかりした草が風に吹かれる」様でありたいものです。
　私は決してまるで動かない木偶の様な人間になる位なら死んだ方が増しだと云う程に感じて居るけれ共又、仕切りなしに動かされて居る事は何だか不安でもあるのです。
　動くにしても私は深さに動かされ度い。
　足元が定まらない様に前後左右にフラフラとよろけて居る様な事を感じる事のあるのは真に情ない感じがしないでは居られません。
　どうぞして、深みに動く人間になり度いものです。