春、二三日のこと
　春だつた――といふだけのことである。そんな日を特に選んで誌したといふわけではない。日誌を誌す要に迫られて、いきなり、その日のことを書き誌したものに過ぎない。だが、日が経つて、再びそんな稿を翻して見ると、無意識なる、凡々たる日録のうちにも、何か、再び廻り合せぬかの如き心の媚惑と、「物質の鉄則から釈放されたる宇宙」に向つての止め度もなき霊の推進器の飽くなき回転の響きを耳にする思ひがする、たゞ、それが春であつたがために――あゝ、わたしは、今日！　一体、これは何時の年の春だつたかしら？（July 1930）
　　　　　―――――――――
　机に頬杖をして、ぼんやりしてゐると眼の前の腰窓がそつと開いて、冬子の顔が現れた。
「兄さんを知らない？」
「寝てゐるよ。」
　私は左手の襖を指さした。
「兄さん！」
　冬子の疳高い声が隣りの部屋に聞えた。
　――縁側に立つてゐるのらしい。
「兄さん！」
「…………」
「用があるのよ。――もう直ぐにお午だつてえば！　――嘘つき！　不眠症だなんて――」
「…………」
　暫くたつて、襖をあけてＤが私に訊ねた。
「冬子はもう帰つたか知ら？」
「用があると云つてゐたらしかつたぜ。」
　Ｄは双眼鏡を手にして、窓枠に昇つて海辺を見渡した。
「居る〱、あんなところに――」
　私も見ると冬子は、無帽の洋服を着た青年と砂地に腰を降して並んでゐる。
「Ｙだらう、あれは？」
「うむ！」
　とＤは頬笑んだ。
　頭から毛布をかむつてＤと私は縁側に日向ぼつこをしながら、互ひに分別あり気な会話をとり交した。
「Ｓちやん、何うしたら好いだらうね、若し冬子がＹと結婚する気だつたら？」
「冬ちやんが君にそういふ許しを乞ふのか？」
「……逃げてゐると云つては気の毒だけれど、俺だつて、実際、返事の仕様もないんでね、俺が若し反対すれば彼奴は直ぐにでも白々しくなれるといふ風な質だからね。」
「それで君は反対したいのか？」
「馬鹿！　俺にそれ程の積極性があれば何の苦労もないんだよ。」
「…………」
　私は息詰つて、あかくなつた。そして、鏡を見入るやうに手の平を瞶めた。
　私が、海辺の書斎へ行かないで昼寝をしてゐると、Ｄが来て散歩に誘つた。
「仕事は何うなの？」
「また途中で嫌になつてしまつてね。」
　私が町中を歩くのを嫌がると、Ｄは、電車に乗つて吾家へ行かうとすゝめた。私は、通りがゝりの書店で金を借りて自動車で行くことにした。麗かな日和であつた。私は、もう屹度菜の花が咲いてゐるに違ひない畑の間を、Ｄの村へ行く一直線の街道を、疾走する快を想つたのである。
「俺はもう一週間も帰らなかつたよ。」
「何処に居たのさ？」
「君の、むかうの部屋に寝たり……」
「ずつと！」
「東京にも行つてゐたが……」――「君の洋服を着て行つたぜ、少し窮屈だつたが。――どうも冬子が苦手だ。」
「Ｙは此頃君の家に泊つてゐるのか？」
「泊つてゐるかも知れない。」
　――Ｄは続けた。――。
「……でも悪い心配はないんだがね、冬子のことだから。
　――Ｙは仲々卒直な芸術家肌の男らしいね。いつか俺に向つて、いきなり自分はもう学校が嫌になつたから君の家に置いて呉れないか、生家とは此頃一切音信不通だなんて云つてゐたが――」
「あいつは仲々愉快だよ。そして、云ふことに微妙な甘味を持つてゐるね。あいつには相当乱暴に振舞はれても何だか俺は悪い気はしないんだがね、恋愛沙汰となると少々妬けるな。」
　と私は息を荒くした。そして斯んなことを云つた。
「俺は女の友達なんて云ふものを持つたことはないが、そして女の批評眼を持たないが、冬ちやんは尊敬に価する美人だと思つてゐるよ。Ｙが学校が嫌になつたなど云ふのも無理はないよ、他に理由なんてあるものか、Ｙの奴は冬ちやんに惚れたのに違ひない。」
「厭なことを云ふなあ！」
「Ｙならあきらめる。」
　と私は呟いた。
「ほんとうか？」
　とＤは、熱い手で私の手を握つた。
「さうなれば、Ｙが学校へ行く位の間のことなら一切俺が引きうけたつて何とかなるだらうと思ふんだ。」
「それは好い。」
　と私はうなつた。
　街道を行き尽して、鎮守の森を迂回しながらＤの村へ差しかゝらうとする馬頭観音の前で冬子とＹに出遇つた。私とＤは思はず気拙い思ひに打たれて愚鈍な眼を視合せた。
「あら、兄さんが！」
「とう〱つかまつた。」
　とＹが云ひ放つた。
　二人は自動車に馳け寄らうとした。Ｄは、私の耳に口をよせて「何だか俺は彼等に面と向つて口を利けさうもない。君、一処に逃げて呉れないか？」と訴へた。
「あの二人につかまらないうちに引返して呉れ。」
　と私は運転手に告げた。――だが、車が廻り切れないうちに、冬子が先に乗り込んで、でも関はず走り出さうとするとＹは座席の外に飛び乗つてゐた。
「兄さんは、あたし達の結婚に就いてＳちやんに相談してゐるんだつて？　それで、Ｓちやんの返事が仲々決らないので、あたし達から逃げ廻つてゐるんですつて！　Ｓちやんも、Ｓちやんぢやないの――随分馬鹿気てゐるわね。……何といふ邪推深い人達なんでせう！」
「僕は、弱つたなあ！　〱！」
　Ｙは、哄笑をまぢへてそればかりを繰り返してゐた。
　私とＤは共に、喰ひ過ぎた人のやうに後ろにそつて幌の天井を眺めてゐた、一言もなく――。
「…………」
「変な人達だわね！　あたし、あきれてしまつたわ――」
　町はづれの私の書斎のある家の前で車が止らうとした時、私が云つた。
「うちに入つたつて仕様がないから、このまゝ、もつと走つて貰はうぢやないか。熱海の方へ行く道は、今日あたり、斯んな天気ぢや定めし眺めが佳いだらうと思ふが――。Ｙ君は未だ彼方を知らないと云つてゐたぢやないか？」
　そこから私の妻も加はつた。
　………………
　俺達は少々、何うかしてゐるのかしら？　陽気の加減で――。
　とＤが、そつと私の耳に口を寄せてさゝやいた。
　私には、それがまた難問題だつた。
　自動車は、波を遥かの脚下に見降しながら、巧みに曲り曲りして素晴しい崖道を走つてゐた。――私は、妻の肩に腕をのせて、車がしげしげと曲る毎に、冬子の、白い顔に陽がフラツシユするさまを、うつとりと眺めてゐた。そして、冬子が同棲をしないうちに嫌つて戻つて来た、勲章を持つてゐるといふ彼女の、先の、私の見知らない婚約者のことなどを空に描いたりした。