　父の代に大久保百人町に越して来てから、私が、最近、西荻窪に自分の家を建てるまで、凡そ二十七八年間、私自身は殆ど年に一回平均居所を変へてゐる。
　九州の連隊にはひつたり、本郷で下宿をしたり、西洋へ行つたりしたことは別として、父が死ぬまで住んでゐた中野新井の家を人手に渡し、下沼袋に母の隠居所を求めて、そこで最初の文筆生活にはひつてからこの方、私は、所謂中央線の沿線を「住みなれた土地」にしてしまつた。
　以下おぼろげに記憶を辿つて、私の足跡をしるしてみよう。
野方町下沼袋
牛込区若松町（はじめて教師の職を得て）
神奈川県辻堂（病気の宣告を受け）
房州館山（旅先で倒れ）
杉並町阿佐ヶ谷（病癒えて）
同天沼
荏原郡松沢（新婚旅行の意味で）
杉並町阿佐ヶ谷
伊豆船原（家財道具を処理して全家ホテル住ひ）
信州千ヶ滝
杉並町阿佐ヶ谷
同天沼
群馬県北軽井沢（家財道具を纏めて田園生活の決心）
中野町栄町通（家を建てるつもりで一旦土地まで借りたが）
杉並区高井戸大宮前（松庵に土地をきめ普請の監督かたがた仮住居）
同松庵南町（さて自分の家ができ今度は何時引越せるか！）
　かやうにして、私の引越は有名になつたのであるが、どうも、不思議に何処に行つてみても、中央線の古巣が恋しくなるとみえ、しばらくすると、別に用もないのに舞ひ戻つて来る。一度は方面を変へてと、例へば四谷、本郷、青山など、貸家探しをして歩いたこともあるが、とんと思はしい条件の家がなく、それも考へてみると、住居の標準が全然違つてゐることがわかり、すると、勝手を知つた阿佐ヶ谷附近ならといふことになつてしまふのである。
　私は、家を借りる時は、どうせ何時でも引越せるのだと甚だ簡単にきめてしまふ習慣がある。はいつてみて、椽側に雨戸のないことに気づき、客が茶の間を通つて便所に行かねばならぬことを不都合に思ふ始末だ。そこで、家主の不親切借家住ひの味気なさを嘆じはじめる。
　今度は、椽側の雨戸に気を配り、客間と便所との通路を研究してから引越しをする。近所に洗濯屋があつて、朝晩シヤボンの焦げる臭ひ（？）をかゞされ、次は、畑の真ん中へ引越さうと決心する。
　その希望を実現させた。実に清々しい。季節の色は鮮かに遷り変つて、雑木林の上に富士の頂がのぞいてゐる。そして、何も云ふことはないのであるが、五月の半ばに蚊帳がなければ寝られぬ次第だ。子供を入れるつもりでゐた幼稚園を、よくよくのぞいてみるとそれは、薄ら冷い感化院だつた。
　町内から寄附を集めに来た。非常時の思想善導熱に浮かされて、有志が神社の改築を思ひ立つたのである。
　新開地の文化は、移住者の間を潜つて、歴史的逆転をなしつゝある。
　誰かゞ、何かを云ひ出さないものか！